*星空文庫

水跡

萌芽つゆり 作

 若宮流は大覚寺に来ていた。月の名所として知られ、多くの天皇や貴族が中秋の名月を愛でたと伝えられているが、唐門前の枝垂れ桜や多宝塔周辺などのソメイヨシノも美しく、春を満喫できる人気のスポットである。だが今日はあいにくの雨模様で、訪れる人はほとんどいなかった。
 雨を吸い込んでぬかるんだ地面の感触が足裏から伝わってくる。ぱしゃん、と気付かずに水たまりを踏んでしまい、靴が派手に濡れてしまった。湿った靴や靴下はどうにも不愉快で、流は顔をしかめた。
 ここの住職から「最近寺に幽霊が出るのでどうにかしてほしい」と話があったのは数日前。
 なんでも、雨の日になるときまって名古曽滝跡にあらわれるのだという。薄気味悪いという噂話に尾ひれがつき、観光客の数は減るわ、坊主たちでさえ仕事に身が入らなくなっているから早々に何とかしてほしい――というもので。
 流は胸ポケットに入れていた警察手帳を改めて見る。
 捜査ゼロ課。秘密裏に設立されている、対オカルト組織。
 ほとんど巻き込まれるような形だったあの時とは違い、今回は正式な依頼である。だが、自分を引っ張ってくれた先輩であるトウカは別の任務に就いているため不在、上司は「それくらい一人でできよう」と丸投げ状態。これで不安に思わないはずがない。
 流は大きなため息をついた。
 その時だ。
 目の前に着物姿の女が立っていた。否、人がそこにいると表現するにはあまりにも存在感がなさすぎる。
 女は悲しげな表情で、ずっと滝跡を眺めている。しかしざぁざぁ降りではないとはいえ傘を差さないでいるには厳しいように思えるが――数歩近づいてみて、流は察した。
 この女は、ヒトではない。
 滝跡に出る幽霊とは彼女のことか。流は意を決して、傘を差しだしながら声をかけた。
「あの……、風邪ひきますよ」
 女が恐る恐るといったように振り返る。
 綺麗な女だった。白い肌に、黒い髪と双眸。きっと男であれ女であれ、見惚れてしまうに違いないような美貌。流は人間離れした(そもそもヒトではないから当然なのだが)美しい容姿を持つモノを知っているが、彼女とはまた違ったベクトルで美しかった。
 女はしばらく流をじっと見つめていたが、やがて静かに唇を開いた。
「……あなた様は、わたくしのことが視えるのですか?」
「えぇ……まぁ」流は視線をわずかに外しながら言った。妙に動悸が激しい。変な男の性(さが)が恨めしかった。「あの、もしお困りごとがあるなら――」
「お願いです!」流の言葉を聞かずに女は詰め寄ってそう言った。「この滝殿に水を――水をもう一度流してもらえませんか!?」


「私は、この滝殿に棲んでいた水の精です」と女は言った。
「ここは嵯峨上皇の離宮。そこに流れる水は清らかで美しく、上皇もとても喜んでおられました。ですが私の力が弱まってしまい……だんだんと水が枯れ果ててしまったのです」
 女は目を伏せ、そしてちらりと滝殿跡を見やった。瞳から流れた一滴の涙は、降り続ける雨と交わって地面に落ちる。
「わたくしはもう長くありません。せめて最期に……上皇が愛したあの場所を取り戻したくて……」
 流は話を聞きながら考え込んでいた。そんなに古典が得意なわけではなかったが、百人一首で詠まれていたはずだ。だが、滝殿自体が何かの資料に載っていたわけでもなく、それがあったことしか後世には伝わっていない。それをどうしろというのか。
 流の曇った表情を見てか、女が言う。
「無理は承知です。できないのであれば、仕方ありません」
 そういって無理やり作った笑みを浮かべる女に、気づけば流は声をかけていた。
「何とかしてみせます。だから……心配しないでください」

『水跡』

『水跡』 萌芽つゆり 作

百人一首アンソロジーさくやこのはな(http://sakuyakonohana.nomaki.jp)参加/〇五五 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ(大納言公任)

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-03-31
Copyrighted

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