シャワートイレとぼく

うちにはシャワートイレが無い。
生まれてこの方ずっと存在しないし、なんなら自宅から程近い祖父母の家にもなかった。出先や友人宅で見かけることはあったが、使い方がわからないし、質問するのも気恥ずかしかったので、誰にも訊けないまま大きくなった。成長するにつれて仕組みはなんとなく理解したが、自分で試す勇気は起きなかった。僕はそういう人間である。
ところで、十代も後半になる頃には、じぶんも思春期の青年らしく、性に関してはそれなりの知識を有していたが、その中には「肛門のあたりには性感帯が存在し、その性感帯を刺激しての行為には根強い人気がある」というものも一応あった。ただ、試すのも何となく怖かったし、方法としてはそれなりにアブノーマルだという認識も併せて持っていたから、こちらも自分で実践することは一切なかった。僕はやはりそういう人間である。

さて、高校2年か3年の、秋口の放課後だったと思う。いつものように空腹を持て余し、ふらっとラーメン屋に立ち寄って大盛りを平らげたら、急に下腹部が疼きだした。元来胃腸が弱いから、さして慌てるようなこともなく、いや実際には慌てていて、「慌てていない」という描写は「肛門括約筋が限界を迎えようとしている」事実でなく「突然腹痛に襲われても表情は平然としている」様を表すものなのだが、ひとまず最寄りのトイレに入る。
個室に入って鍵をかけ、下半身の着衣を脱ぎ、不要になった燃料タンクの1段目を切り離したときだった。空いていた右隣の個室に誰かが駆け込んできたのだ。カチャカチャとベルトを外すのが聞こえ、間もなく爆発音が響く。臀部ごと破裂しているのではないか、と心配になる勢いであったが、あまりの緊迫感と臭いのために、僕は息を殺して見守るしかなかった。見てはいないが。
そのうち爆発音は止んだが、別の音が聞こえてきた。これはどうやらシャワートイレの予備動作の音だ。使い方を知らなかった自分も、長い時間をかけて少しずつ仕入れた情報から、シャワートイレのボタンを押すと何かの予備動作が行われ、その後勢いよく水が発射されることくらいは知っていた。知っていたけれど、まさか予備動作の後の水音と共に喘ぎ声を聞くことになるとは思わなかったのだ。
そうなのだ。隣の人物、ここが男子トイレである事と声が低く掠れたそれである事を勘案するとまあ壮年男性だろうが、その壮年男性は、やけにしつこく水で尻を清め、そうしている最中にも悩ましげな声を上げ続けている。彼はどうも、シャワートイレを使って快感を得ているようなのである。
その時ようやく、頭の中で「シャワートイレは肛門に流水を当てる」と「肛門の周辺には性感帯がある」、これら二つの情報が、脳内でがっちり結びついた。そうして生まれた「シャワートイレを用いて性的な快感を得る人間がいる」という恐ろしい怪物は、震える小鹿の如き僕へ猛然と襲いかかった。
僕はすっかり怯えてしまい、文字通り尻を捲って逃げ出した。念のため言っておくが、ちゃんと拭いた。
以後、僕はすっかりシャワートイレ恐怖症ともいうべき状態に陥り、シャワートイレの駆動音を聞くだけで頭痛腹痛眩暈貧血悪心振戦その他諸々に苛まれるようになってしまった。

数年間シャワートイレを避け、操作パネルから目を背けてぷるぷる震えて過ごしていたが、二十歳になった歳のある夜、突然恐怖症を克服しようと決心した。夜も更け、自宅の居間に僕はいて、そこそこ酔っており、ちょうどテレビの画面にはバラエティ番組の一場面が映し出されていた。お笑い芸人が数人でもって、「一度の排泄でシャワートイレをどのくらい使うか」という話を繰り広げているところだ。その時僕が、液晶の向こうの阿呆な雑談を眺めながら何の先触れもなく「シャワートイレを克服しよう」と思ったのは、意思決定を司る脳局在がアルコールで融けていたからに違いない。
しかし、落ち着いて整理すれば簡単なことだった。シャワートイレを使って性的な快感を得る人間の方が少ないことは恐らく間違いない。例のお笑い芸人たちも、番組中では一切言及しなかったし、シャワートイレで喘ぐ人物に出逢ったのも例の一度きりだ。当たり前ではあるが、本来の目的に沿って使用する人間の方が圧倒的に多いのである。それに結局、シャワートイレを正規の目的以外には使わない人種を便宜上マジョリティと表記し、シャワートイレを目的外利用し快感を得る人種を便宜上マイノリティとするが、自分がマジョリティとマイノリティのどちらに属するのかは、実際試してみないと判断がつかない。十中八九マジョリティだとは思っているが、調べてみたらマイノリティだった、などというのはシャワートイレ以外でもよくある話である。万が一マイノリティだとしても
この多様化し続ける社会の中ではそうした特殊なフェティシズムですら一つの個性のあり方に過ぎず、だとしたら事実を受け入れて、上手に付き合っていけばよいだけの話ではないか。
ところが出鼻を挫かれた。酔っ払って忘れていたが、前述の通り、我が家にはシャワートイレが無い。歩いて数分の距離にある祖父母宅にも無く、日付がそろそろ変わろうかというこの時間にわざわざ近所の友人の家に押しかけてシャワートイレ使わせろなどと頼むのはさすがに狂人じみている。絶交を言い渡された後、ご近所中に善からぬ噂を流布されても文句は言えない。何よりそもそも大便を済ませたのはつい先頃で、最早便意のひとかけらも残ってはいなかった。地団駄を踏んでもこればかりは致し方なく、その日は泣く泣く諦めた。
好機は間もなくやってきた。あれから数日ののち、友人と飲みに行った帰りだったか、出先で便意を催したのだ。しめた、と思った。最寄りの公衆トイレは確かシャワートイレを搭載していたはずだ。はやる気持ちを抑え、空いた個室に身を滑り込ませる。ズボンを下ろし、下腹部に力を込めるとすぐにそれは始まり、そして過ぎ去った。
僕は大いなる虚脱感を覚えつつ操作パネルを見た。左から2番目、宙に浮かぶ尻目掛けて噴流の吹き上げるピクトグラムが描かれ、下には控えめなサイズの文字で「おしり」と添え書きのあるこのボタンこそ、シャワートイレの起動スイッチに他ならぬ。
拳を形作った右手、その震える人差し指をぴんと立てる。伸ばした先端に意識を集中させた今、この指は感覚神経の塊じみて、個室内を緩く動く大気の流れだけでなく、内包された血管の収縮すらを伝えてくる。そうしている間も下半身は裸のままであり、視界にむき出しの太股や自分自身が入り込む度に自分は一体何をやっているのかと弱気になるが、もう後には引けない。深く吸った息をぐっと腹の底に貯め、意を決して、遂にボタンを押した。パネルを保護するビニールの被膜に指が触れた瞬間、接点から発し腕を抜けた刺激は今、幾千の微細な稲妻となって脊髄へ達し、脳へ至り、尻の向こう側では何らかの機関が高らかに鬨の声を上げ、汚濁に塗れたサーモンピンクの堕落の門へいよいよ裁きの洪水が殺到した。
まあ、流水が肛門に当たった刹那の感覚というのは表現が難しい。というか正直覚えていない。ただ、「クスクス」とか「ニヤリ」だとか、そんなオノマトペすら生ぬるいくらいの、強いて文字に起こすなら「ゲラゲラ」という感じの笑いが込み上げてきたのを思い出す。何がそんなに面白かったのか、シャワートイレ恐怖症を克服した今となっては、さっぱり思い出す事ができない。とにかく「おしり」と「止」を交互に押して、ひたすら僕は笑っていた。底冷えのする、3月の夜だった。

シャワートイレとぼく

シャワートイレとぼく

シャワートイレとの付き合い方の変遷を辿った作文です。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-28

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