20170304-実話・満州国に生まれて


 これからお話しすることは、六十年も前のことなので、私の記憶が怪しいかも知れません。また、ところどころ母から聞いた話や、私が調べて知ったことで内容を補っていることを、あらかじめお断りします。


 日本は、まだ江戸時代の一八四〇年。中国はイギリスにアヘン戦争を起こされ、一八四二年その戦争に敗れる。そして、多額の賠償金を払わされ、国土の一部を譲渡する。それを、皮きりにアメリカやフランスにも不平等条約を結ばされる。
 一八九五年、日清戦争に勝った我が国も、中国侵略に乗り出す。しかし、列強諸国によってはばまれた日本は、ロシアと決定的な対立をして一九〇四年、日露戦争が始まった。
 激しい戦闘の末、多大な犠牲者を出して、日露戦争にどうにか勝った我が国は、さらに中国侵略を深めていった。一九〇五年のことだった。

 ちょうどその年、父、清二が生まれた。父は、小さいころから力自慢で、福島県二本松市の相撲大会などで頭角を現した。小規模な地主だった両親も、父の後押しをして、賞品の米や味噌をありがたく頂いた。
 そして、十七歳を迎えたころ、相撲部屋にスカウトされて意気揚々と上京する。だが、はじめのころは技がなくて、力の弱い者にも簡単に負けた。しかし、父はくさることなく技を身に付け、しだいに勝ち星を上げて行く。
 そして、二十二歳になりもう少しで十両になろうとしたとき、部屋のお嬢さまとの縁談が持ち上がった。密かにお嬢さまに好意を抱いていた父は、大いに喜んだ。

 だが、この時、田舎から手紙が来る。内容は、兄の病気が思わしくないので、帰って来て家をついで欲しいと言うものだった。親方には引き止められたが、家の存続の危機に父は家をつぐことを選択した。お嬢さまにお別れを言って、相撲部屋を後にした。
 父は荒れた田畑を懸命に再生していった。もともと農業に向いていたのだろう。農作物は豊かに実り明治維新以来の収穫をほこった。
 だが、五年がたつころ、父の兄が病気を克服し、父は所在を失う。もう、二十七歳になっていて相撲の道へ戻るには身体が着いてこず、かといって農業のほかになにも手に職を持ってはおらず、また商売をやるすべも知らなかった。
 途方に暮れていると、一九三二年、新聞に大きく書かれていた。大陸『満州国』に開拓に行く有志を募集! と。これは、日本が一九二九年にはじまった世界恐慌で苦しんでた中、中国に活路を見出すために軍部がくわだてた暴挙である。無知な父がそれに飛びついたのは仕方ないことだったのかも知れない。そして、親や兄も止めることはなかった。
 父は、軍事訓練と農業研修などを受けると、満州国へと旅立った。

 父は、満州国開拓団の部隊に着くと、すぐに激しい敵襲を受けたと言う。約半数の隊員が命を落としたり、開拓を断念してしまう。そんな中で、父はあきらめずに敵と戦い、開拓を押し進めた。そして、福島県の親戚の紹介で母と結婚する。
 私は、母は勇気があると思う。当時は当たり前のことだったかも知れないが、私だったら一度も会ったことがない男性とは、とても結婚できない。
 そして、まさか自分が嫁ぐところが、激しく抵抗運動を受けているとは知らなかっただろう。言うなれば、詐欺に合ったようなものである。本当のところ、どう思っていたか一度も聞かずじまいだったことが悔やまれる。

 ここで、『部屋のお嬢さんとの縁談が持ち上がった』と言う下りだが、父が教えてくれた話だったので、疑わしい。けれど、父は晩年になって私と東京に遊びに行った折には、聞いたことのある四股名(しこな)の元力士と会って来ると言っていたので、あながち嘘だったとは思えないのだが。


 私は、満州国に生まれた。名前を徳子と書いてトクコと言う。一九三七年九月九日、三江省樺川県弥栄村(さんこうしょう・かせんけん・いやさかむら)(現在の中国黒竜江省北東部)と言うところで農家をしていた父清二と母キヨとの間に、四つ違いの兄、誠太郎の妹として生を受けた。
 満州国とは、日本人が満州民族およびモンゴル民族の土地を奪って、旧清国の最後の皇帝アイシンカグラ・フギを傀儡政権に立てて、一九三二年から一九四五年までのおよそ十三年間存在していた国である。
 日本のおよそ倍の面積に対して、人口は一九四二年の段階で四千四百万人。その構成は、日本人はわずか五パーセントの二百二十万人で、残りの九十五パーセントは、満州人、蒙古人、漢人などであった。
 また、日本人と言ってもあのころは韓国人を入れた数なので、それを除くとたった二パーセント強の百万人。さらにそのうちの開拓移民団はその半部以下の三十万人だったので、潜在的に危うい状態だった。
 それでも、百万人というのは現代の仙台市の人口と同程度で、それが短期間に日本から中国に動いたのだからすごいとしか言えない。

 そんなことはわかるはずもない幼い私は、満州国のど真ん中をオカッパ頭で元気に駆けまわっていた。私がもの心ついたのは、三歳になったころだったので一九四〇年の夏が終わったころ。気がつくと、四つ離れた兄、誠太郎の後を必死で追いかけていた。
「おい、徳子。俺の後に着いて来るなよ」
 そうは言ってもこちらは必死である。もしも、兄とはぐれたら周りには、漢人やら満州人やらがたくさんいたから、怖くて仕方がない。
 家は、一階建てだが、壁は分厚い木の板を土で固めた土壁でてきていて、屋根は固いコウリャン(モロコシ)ぶきの屋根だったので安心だった。それでも私はたったひとりで家にいることが不安で仕方なかった。
「待ってー、兄貴ー!」
 私は、なぜか兄の誠太郎のことを、『兄貴』と呼んでいた。父と母はそうは言っていなかったので、なぜそう呼んでいたのか、兄が亡くなって二十数年たつ今となっては、確かめようがない。
 だが、これだけは言える。兄は幼いころから身体が大きくて、なにごとにも率先して挑戦すると言う度胸があった。それは、高い所から飛び降りることだったり、大人に混じって切っ先の鋭いカマを使って農作業をしたり、ニワトリの首をしめあげてさばいたり、トウモロコシからドンと言う装置を使ってポップコーンを作ったりと、とにかく兄は度胸があった。
 だから、私は『兄貴』そう言って、常に兄の後を追った。

 だが、そんな兄にも苦手なものがあった。それは、父の礼儀作法のうるささだった。食事中に兄がボロボロこぼしながら食べていると、
「なんだ、その食べ方は!」
 そう言うなり父の鉄拳がさく裂して、兄は吹き飛ぶのだ。このように、とにかく父は礼儀作法にひどく厳しかった。母の話では、相撲部屋のお嬢さまの影響だと言うが、この話はあまり話したがらなかったので、一度きりしか聞いていない。

 一方の私は、中国人を怖がっていたが、なぜか中国人の女友達ができた。それはきっと、兄がなにか注目されることをしたからだろうと思う。
 その中国人とは満州族で、先の中国を支配していた清国から、満州族の故郷へ逃れて来た人たちだった。私たちは、仲良くなって身振り手振りで意思を伝えて遊んでいたが、ある日家に招かれた。
 友達のおかあさんは、私にお茶とお菓子を出して歓迎してくれた。そのお菓子とは小さい形に整えられていて、一口食べてみるとその美味しいことと言ったら、それはもう私も満州族に生まれたかったと思うほどだ。後に甘点心(かんてんしん)と言うのだと知るが、形は中華料理の点心のようで、具は上品にあまいお菓子でできていたものが多かった。中でも私は、白ゴマをまぶして薄皮につつまれた団子が大好きである。
 それをペロリと平らげてから、足の甲を小さく折りたたむ纏足(てんそく)用のクツを見せてもらったり、志那服(日本名チャイナドレス、満州族の間では旗袍(ちーぱお)と言うらしい)を見せてもらったり、頭の上で輪を作る髪飾りを見せてもらったりと、とにかく皆上品で美しかった。
 しかし、私はなにも見せるものはなくて困っていたら、私のスカートやブラウスに興味を示したので、それじゃと言うことでお互いに脱いで着せ替えっこをした。私たちはニコニコして、その姿を友達のおかあさんたちに見せたが困った顔をしていた。今にして思えば、私の前で怒ることもできずにいたのだろう。だが、そんなことは気づかずに、私たちはしょっちゅうそんな遊びをした。
 その子の名前を思い出そうとしたのだが、ついに思い出せなかった。なにせ、もう六十年も前のことだから。でも、会いたいとは思わない。あとに述べるのだが、彼女も他の人と同じように、日本が敗戦したと知ると、態度をひるがえしてしまうと思ったからだ。


 それより少し前の一九四〇年六月。私たちの弥栄村に昭和天皇陛下の弟帝、高松宮宜仁親王(たかまつのみや・のぶひと・しんのう)が視察に来られたそうだ。
 父は、このとき親王と言葉を交わして、馬賊(ばぞく)との戦いの働きと、大規模農業の成功を、労(ねぎら)われたと聞く。もしかして、同じ一九〇五年生まれであるので、親近感がわいたのかも知れないが、それはあくまでも想像の域をでない。
 また、このころ周囲には、父が元力士であると言っていたのかわからない。それでも、一八〇センチ近くある身長と、分厚い胸周りは、只者ならざる者であると気付くであろう。その立派な体格で父が謁見の任に選ばれたのかも知れない。
 父は後々まで、この時の話をうれしそうに語った。

 馬賊と言えば、あのころ、私たちが住んでいた土地のほとんどは、満州族たちから相場の二割程度のお金と引き換えに強引に取り上げたものだが、彼らは馬賊と言われる抗日団体を組織して、私たち日本人を襲った。だが、馬賊は徐々に抵抗を弱め、私の生まれたころには被害はほとんどなくなった。それでも、日本人に対する反感は、後々まで残ったであろう。
 母は、私たちをよくこう言ってしかった。
「夜中に口笛を吹くんじゃない。馬賊が来るよ」

 そうして奪った土地は開拓団に分配され、父の所有した面積はおよそ二十ヘクタール(一ヘクタールは、百メートル×百メートル)。そこでは、主に大豆、コウリャン、アワなどを作っていた。
 大豆は、三十度以下の比較的涼しい気候を好み、降雨量が適度にあるところに生息する。これは主食にはならないが、枝豆、納豆、豆腐、味噌、醤油など、様々な製品に使われるので高値で売れる作物だった。しかし、この作物は連作が生育不良などの障害を引き起こすので、二年くらいはなにか他の作物を作らなくてはいけないと言う難点があった。
 そこで大豆の間に作られたのが、中国名コウリャン、日本名モロコシ、アフリカ名ソルガムと言うイネ科の作物。これは、温暖で降雨量が少ない所に適し、元々アフリカのサバンナなどが原産地で、茎は固く三メートルにもなって前述のように屋根などにも使われていた。食べ方は、日本や中国では粥(かゆ)のようして食べていたが、アフリカなどでは粉にひいた後に練ってペースト状にして食されているようだ。私はと言うと、やはり粥にして食べていたが、米よりもちょっと固いが癖のない味で、今の時代の健康食と考えると中々おつな味である。
 アワもイネ科の作物で、温暖で降雨量の少ない所に適している。そして、二~三か月で育つことから中国では昔から米よりもアワを主食としていた。食べ方は、コウリャンと同じく粥などであったが、味はあまり美味しいものではなかった。
 それらの脱穀などで出る農業廃棄物で、ブタやニワトリを飼っていた。だから、ゴミは出さないし、いつも食卓には卵や肉を切らしたことがなかった。きっと、このころの私は丸々と太っていたに違いない。

 中国人には申し訳ないと思うが、今でも時々夢に見る。広大な土地に豊かに実る作物を。


 私が好奇心旺盛な七歳だったころの一九四四年。その事件は、大陸に冬が迫りくる底冷えのする日に起こった。開拓団のひとりが、三メートルにもおよぶ巨大なトラに襲われたのだ。それは痛々しい遺体で、トラは捕獲した死体を木の上に隠してゆうゆうと食べたと言う。
 まず、柔らかいお腹を食い破り、内臓をペロリと食べた。次に、よく筋肉の付いた足と腕を骨までしゃぶりつくすように食べた。そして、頭をガリガリと食い破り柔らかい脳みそをひと飲みしたのである。残ったのは、骨だけだったと言う。

 それを聞きつけた兄は、密かにトラ退治をもくろんでいた。兄は決してひとりでトラ退治に行かないように父からきつく言われていたが、そんなことは聞く耳を持っていない。父が村の集会に行った日に、兄はゲートルを足に巻いて、肩には大きなライフルをかついで、勇ましくトラ退治に出発した。その後ろを、私はひそかに着いて行った。
 収穫を終えた畑はさえぎる物がなくて、トラがいないことはすぐにわかった。兄は、それからヤブの中に分け入って、ライフルの銃床(じゅうしょう)でイバラを蹴散らし進んで行った。
 息を切らして着いてくと、突然、兄は立ち止る。見ると、目の前が開け、大きな木の上にトラがいた。兄はその場に立ち止まり、そーっと身をひそめる。私は怖くなって兄のオーバーをつかんで震えた。ビックリした兄は、すぐに困り果てた顔をする。
「おい、なんで着いて来た?」
 兄は、声をひそめて、そう言った。
「だって……」
 それは、好奇心からだっただろう。それに、兄の後を付いて行けば安全だってことが、それまでの様々な経験から、知っていた。だから、私はどこまでも兄に着いて行ったのだ。
 だが、兄にとっては、この緊迫した場面で妹の心配をしなければならないことに、激しく動揺しただろう。失敗は自分の命だけでなく、妹の命まで奪うことになるのだ。それでも、こうなったらもうやるしかない。そう兄は決心したに違いない。
 今にして考えると、いらぬ責任を負わせてしまって申し訳ないことをしたと思う。

 覚悟を決めたように、兄は腹ばいになってライフルをかまえ、目をこらしトラに標準を合わせた。静かに長い息を繰り返し、息をピタリと止めた。
 次の瞬間、引き金は引かれ撃鉄が落ちて、らせん状の銃口から銃弾が弾き出される。そして、トラの頭に到達すると、銃弾は頭がい骨に穴を開け、脳みそをメチャクチャに破壊する、……はずだった。だが、トラは一度目を閉じただけで、倒れはしなかった。
 続けて二発目を腹部に、そして再び頭部に命中させるが、トラはびくともしない。きっと、分厚い皮膚と頭がい骨が銃弾をはねのけているのだ。そう思っている間に、トラは静かにこちらに向かってくる。
 私は、怖くて動けなかった。そう、この時点で腰を抜かして、涙をポロポロこぼし、オシッコをもらしていた。
 私の命は今消えるのだ。それも、あの村人の遺体と同じように、首に食いつかれて息の根を止められ、その後じっくりと内臓を食われるのだ。私は、父と母に別れを言った。
 その瞬間、突然兄が大声を出して泣き出した。ああ、兄もあきらめて泣き出したのかと、私は兄の手を握って運命を共にしようと決めた。おーい、おいおい。おーい、おいおい。
 それを聞いたトラは勝ちを確信したのか、口を大きく開けて一声、「ガオー!」と吠えた。
 その時、兄はいち早くライフルをかまえ、開いたトラの口に一発の銃弾を放った。
「ズドーン!」
 その銃声のあとに、トラは足元からくずれ落ち、静かに倒れた。その姿を見守っていた私たちは、お互いの顔を見つめ合って、抱き合った。私は、兄の胸で頭をなでられて、涙をボロボロこぼし、鼻水を垂らして、大声でおいおい泣いたのである。
 本当に、この時のことは、今でも思い出すたびに、背筋が凍る。二度と経験したくはない思い出である。

 次の日、兄は父をともなって、荷馬車でトラの遺体を回収しに行った。しかし、トラの臭いをかぐと馬が腰を抜かして回収できずに、結局村人十人ばかりの人の手を借りねばならなかった。その十人は皆、率先してただで手伝ってくれたのだが、それは人食いトラを退治してくれた感謝の気持ちからだろう。
 その後、村の人たちにトラのバーべーキューを振る舞ったのだが、腸は誰も食べる者がいなかったのは、当然のことであろう。

 兄は、この時十一歳になったばかりだったが、父はこれ以降一人前の男として扱った。


 一九四五年、日本本土の戦局は厳しいものになったようだが、私たちの暮らしはいたって平穏だった。だが、日本への食料の輸出が義務付けられて、その厳しさは伝わっていた。
 そして、一九四五年五月、ついに父たち開拓団の男たち全員にも召集がかかった。私たちは涙でお別れをした。その時の父の言葉が、なにかあったら俺の実家に行きなさい。きっと、よくしてくれるからだった。
 父は、この時敗戦すると思っていたのだろう。あの豊かな国アメリカと戦争を始めてしまったのだから。そして、まもなく日本は全面降伏する。一九四五年八月十五日のことだった。
 それまで愛想のよかった中国人たちが、急に態度をひるがえして言うことを聞かないどころか、誰かが石をぶつけられたと聞いた。そして、彼らは日本人は出て行けと言って私たちの家に迫って来て、いつ押し入ってもおかしくない状態だった。兄がライフルで武装していたから、どうにか襲われることはなかったが、異国で敗戦するということが、いかに恐ろしいものかを、この時はじめて知った。
 このままでは、命の保証もままならないと感じた私たちは、集団で防衛するために、一か所に集まった。

 父は、終戦になっても帰って来ることはなかった。きっと、ソビエト軍の捕虜となったのだろうと聞かされ、母はその場に泣き崩れた。うわさに聞く極寒の地シベリアに抑留されたと思ったのだろう。実際そうだったが。
 父は、いつでも側にいて、私たちを守ってくれるものだと、思っていた。その父が、突然いなくなったのだ。私はこの時ほど、心細いと思ったことはなかった。全身が震えて、涙が止まらなかった。
 けれど、そんな時にも兄、誠太郎はひるまなかった。父は必ず生きて帰ってくると言って私たちを勇気づけ、日本に帰ることをいち早く決断した。異国で産まれて、まだ見ぬ祖国、日本を目指そうと。とても頼もしくて、安心したのを覚えてる。
 だが、日本政府はなかなか引揚船を出してはくれなかった。その間、ソ連軍が満州国に押し入って、とても危なくて外を歩くことはできなかったし、私たち日本人は中国人のば声と、暴力におびえる毎日だった。
 そして、なによりも食料が足りなかった。畑の作物は、とても危なくて刈り取る事はできなかったし、当然春になっても作付けはできない。このままでは、全員飢え死にしてしまうとあせっていた。

 そんな中で、兄は中国人にまぎれて日用品を売ったり、荷役を手伝ったりして、お金を稼いだ。そして、私たちに食料を運んでくれた。
 兄は、流ちょうな中国語を話せたからできたことだろう。いかに、言葉が大事かと言うことを知った。
 そうやってどうにか生き延びていた中、一九四六年三月に突然ソ連軍が撤退し、五月には日本政府がようやく引揚船を出してくれた。
 母と兄と私と幼い弟は全員で、着る物をあるだけ重ね着して、母は襲われないように髪をバッサリと切って男物の上着を着込んで、各自リュックサックにできるだけの食料をつめて、逃避行の準備をした。

 私たちはライフルをかまえた兄を先頭に、生還のための行列に加わって、必死の行軍が始まった。年寄の男たちと、男の格好をした女たちと、それに子供たちの、ひどく弱々しい行軍だったろう。
 この時、信じられないが汽車(蒸気機関車にけん引された列車)には乗らずに徒歩で行った。私たちが、もし乗ったら袋叩きに合うのは目に見えていたから。
 そして、韓国を経由しては危ないということで、大連(だいれん)まで行って船に乗るように言われた。チチハルから大連までの距離およそ千キロ。途方もない距離だった。その時は、距離が伏されていたが、もしも知っていたなら、きっと私は歩くことを放棄しただろう。
 脱出経路は、チチハル、ハルピン、長春、奉天、大連の全行程に渡って、行軍は夜行われた。そして、夜明けになったら人に発見されない場所を見つけて、見張りをつけて、昼間眠った。多くは橋の下で眠った。
 朝寝る前には固い干し肉や、コウリャンの粉に水を含ませて少しずつ食べた。それでも、食料が足りなくなったが、農家に行って物々交換をする分けにはいかず、仕方なく兄が命の危険をかえりみず農家から盗んだ。実際、それで帰って来なかった者も多かった。想像してほしい。老人や小さな子供が、捕まってなぶり殺しになる場面を。悲しいことであるが、盗まなくては生きて行けないのだ。
 そんな中、八歳の私は足が痛くなったが、歩くことは止められなかった。止めれば、そこで餓死。運がよければ、心ある中国人にひろわれて、育てられただろう。文化大革命が終わった一九八〇年代になって、戦争孤児のニュースをテレビでよく聞いたが、そう言った者たちは、そんな行軍について行かれなかったのかも知れない。
 私は、そうして月明かりをたよりに、ただ前に前にと歩みをきざんだ。

 途中、暴漢に襲われたり、餓死したり、病気で亡くなったりして、はじめの人数よりも大分少なくなったが、一日約二十キロ、日数およそ二か月かけて千キロを歩き、大連にようやく到着した。大陸のひどく暑い夏なのに、風呂にも入らずに着の身着のままだったので、ひどく臭かっただろう。だが、そんなことを気にする余裕はなく、とにかく食べることと、寝ることに必死だった。
 私たちは、やっと日本に帰れるとほっとしたのだが、引揚船にはすぐに乗れるわけではなかった。それから、数か月間待たされることになる。数十万人の日本人がいっきに押し寄せたので、仕方のないことだったのだろう。旧日本軍の飛行場あとに皆で隠れて順番を待った。その間の食料は自分たちで調達しなくてはいけなかった。
 ここでも、兄は中国人にまぎれて、荷役などの仕事を見つけるなどして、私たちに食料を運んでくれた。私たちは、ただおびえながら兄の帰りを待つことしかできなかった。
 何か月も順番を待つ間に、弟の忠が栄養失調で亡くなった。今して思えば、コウリャンを湯がいて食べなかったのが原因だったかも知れない。そのため、毒素が身体に溜まって命を落としたと思う。
 実際、私たちの身体のあちこちに原因不明の出来物ができた。身体が小さい子供ほどそれは深刻で、ほとんどの幼い者はそれで亡くなったと思っている。この時、私は九歳で、どうにかまぬがれた。
 忠を抱いて泣き続ける母をなだめ、兄は飛行場の格納庫のわきの土を板切れで掘り返して、忠の亡きがらを埋めた。
 私は、痩せてガリガリな手を合わせながら思っていた。明日は我が身だと。その日は、お腹が減っていたのもあるが、中々寝つけなかった。

 今も弟の忠は、中国の大地に眠っている。戦後、私にはそこまで行く勇気はなかったし、どこなのかよく覚えていないので。
 その事を思い出すたび胸が痛む。忠と一番長い時間を過ごしたのは、私だったから。母が、農作業をする間、おんぶをしてあやし、下の世話をした。そして、一番早く覚えた言葉が、おねえたんだった。おしめが取れたら、私が兄のあとを追ったように、今度は忠が私のあとを追った。だから、四六時中一緒にいたし、よくしゃべり、よく遊んだ。そんな忠を亡くしたのだ。
 だが、私はついに泣けなかった。その時は、私も同じように死ぬのだと思っていたから。そんなギリギリの状態だった。


 弟の死のあと、私たちはようやく引揚船の順番が来た。やっと、日本へ帰れるとマットのしいてある客室でほっとしていると、船内にロシア兵が乗り込んで来て、若い女性は皆どこかに連れていかれた。幼い私にも、これがどういうことなのか、おおよその見当はついた。
 放心状態で返って来て、突然泣き崩れる者、正気を失った者、海に身投げをする者を見てあらためて思った。これが、異国で敗戦するということなのだと。幼心に、深くきざまれた教訓だった。私は、恐ろしくて兄にずっとすがりついて怯えていた。

 私たちを乗せた船は、悲劇の大連をあとにして、一路佐世保港へ向かった。船の客室は、むせび泣く若い女性の声と、病気の子供や老人たちの咳に苦しむ声だけだった。その中で、兄と私はひたすら寝たふりをした。甲板(かんぱん)にはあがることは、禁じられていたから。
 その中で、若い女性が死んだ。ある日、目覚めることなく静かに逝った。きっと、結核かなにかをわずらっていたのだろう。襟には、血の跡が付いていたから。船内にそのまま置いておくには、どうしても不衛生になるからと言って、泣いて止める母親を残して、亡きがらは海に沈められた。
 それ以降、栄養失調や、結核の人たちが、次々と死んで、海に流されて行く。私たちはその中で、骨と皮だけになりながらも、どうにか生き延びた。

 一九四七年四月を迎えるころ。船は、本来なら一か月で着く所を各地で止められたため、大連から半年近くもかかって、ようやく佐世保に着いた。
 のちの集計によると、開拓移民団三十万人のうち生きて帰って来た者は、たった十万人だけだった。他の者は、途中で襲われたり、シベリア抑留者となって病死したりして、無事帰って来た者は少なかった。私が生きて日本に帰ってきたことは、その三分の一の確率だった。

 はじめて迎える日本の春は、桜はもうだいぶ散っていたが、樹々のざわめきに心が穏やかになった。そして、石をぶつけられていじめられることもないし、命を落とすようなこともないし、ここにいても誰もなにも言わない。それが本当に心地よかった。それが、日本の地に足を降ろして、最初に思ったことだ。
 私たちは、それからすぐに自由に歩けたわけではなかった。まず、検疫(けんえき)を受けなければいけないと言われ、施設の中でDDTという殺虫剤の白い粉を頭からかけられて、害虫駆除をされた。ノミやシラミで全身がたいへんなことになっていたから、仕方のないことだったのだが、今の時代ならばDDTは人体に悪影響を及ぼすかも知れないといって使われないのだが、その時はそんなことは知らなかった。ただ、肺に入らないように、口を手で押さえていたのを覚えている。とても不快だった。
 それがすむと、えんえんと順番を待たされた。だが、その間に食事が出されてよろこんだのも事実である。実に、約二年ぶりのちゃんとした食事だった。白いごはん、みそ汁、焼き魚に、漬け物。涙が出るほど、美味しかった。
 お腹いっぱいになって休んでいると、ようやく検疫の順番がまわってきた。検疫の内容は、伝染病は持っていないか、妊娠はさせれられていないかなどのである。妊娠した女性は、ただちに堕胎手術を受けるのだが、船の航行時間が半年近くかかっていたので、手術中に亡くなる者も多かったと聞く。それでも、青い目の子供産んだら、生きては行けないと、みな覚悟して堕胎手術に挑んだそうだ。
 また、伝染病の検査は、おもにコレラ、チフス、天然痘などで、感染が疑われるとただちに隔離されて、治療を受けたと聞く。中でもコレラは致死率が高く、感染者の二十五パーセントが命を落としている。感染していなかった者でも、これらの予防接種を受ける。そういう私も、痛い注射をなんども打たれたのを覚えている。
 結核はどういった扱いなのか、よくわからない。予防接種はないし、治療薬は高価で数年をようするので、検疫に含まれないのかもしれない。
 数日間にもおよぶ検疫が無事終わると、私たちは旅費も配布されて、よろこんで汽車に乗り込み、父と母の故郷、福島へと向かった。
 途中の風景は覚えていない。ひどく疲れていたのと、栄養失調でフラフラだったので。だから、佐世保から福島までどいう経路で帰ったのかは、思い出そうにもはじめからわかっていない。
 だが、窓の外から時々眺める風景は、大きな都市は空襲で焼けて、まだ復興してはいなかったように思う。


 私たちは、まる一日汽車に揺られて、ようやく福島県二本松市へ到着した。母は、途端に元気になり先頭を歩いて、父の実家までの道中、あれは安達太良山(あだたらやま)ね、これは阿武隈川(あぶくまがわ)ね、などと説明してくれた。そう、ここは高村光太郎の『智恵子抄』の舞台。そうは言っても、この時そんな知識はなく、ただ腹いっぱいに食べたいと言う思いしかなかったので、母は私たちの反応にひどくがっかりしたようだった。
 私たちが帰った所は、父の実家。父の言うとおり、父の両親や兄たちは私たちを歓迎してくれた。着くなり、よく帰って来たねと言って涙を流し、腹いっぱいの食事と、ひさしぶりのフロと、そしてきれいな布団を用意してくれた。私たちは、それを有難くいただいたが、いつまでもお世話になりっぱなしでは申し訳ないと言って、次の日から自分たちの食いぶちを稼いだ。
 この年、農地改革が行われ、それまでの地主としての権利を失って、父の実家は小さい農地を必死で守っていかなければならなかった。だから、両親たちも苦しかったのだ。それなのに、無理をして私たちに、よくしてくれたのだ。その気持ちが有難かった。

 次の日から母は、野良仕事の手伝い、ぬい物などを仕事とした。兄も、野良仕事の手伝いなどをして、私たちにごはんを食べさせてくれた。私は、この時まだ九歳の小学生だったので、近所の子供の子守などをして、小銭を頂いた。
 あのころ、きれいで優しかった従姉のおねえさんは、私に時々おにぎりや、お菓子をこっそりくれた。私も大人になったら、おねえさんのようにやさしく、きれいな女性になりたいと思っていた。だが、残念ながら私の願望は、果たされなかった。私は、それから約十年後、たくましくなって農家に嫁いだから。
 この間、息子が大学に入った折、実に三十数年ぶりで従姉のおねえさんに会いに福島に立ち寄ったのだが、私の感謝の言葉におねえさんは涙した。北海道で、よく頑張ったねと。

 父が、ソ連から帰ったのは私の記憶では、一九四九年の秋、私が十二歳ころだったと思う。まさか本当に生きて帰ってくると思っていなかった私は、父の足元を穴が開くほど見た。そんな私を抱き上げ、涙する父。やはり、人の親なのだとあらためて父を見直した。見る影もなくやせ細って、一回りも二回りも小さくなってしまった父。だが、大黒柱が帰ってきて、私は心底ほっとした。
 母は、忠を失ったことを父にわびた。その時、父は一瞬言葉を失ったが、母の肩を抱いて、すまん、苦労させたな、と言った。私たち四人は抱き合って涙した。私は、この時はじめて忠を思って泣いた。忠が死んでから、実に三年がたっていた。
 それから父は、帰された理由を話したのだが、栄養失調になって帰されたと言った。シベリアに送られて大変だったと思うが、そんなことはなく、手先が器用だったので、主に大工仕事のまねごとをさせられて、そんなには苦労しなかったらしい。これは、あくまで本人の言葉であるが、私たちにつらかったなどと言う人ではなかったので、作り話とも考えられる。
 実際、父の立派な体格は、二度と戻ることはなかった。

 それで、父がこの福島でなんの仕事をするのかと見ていたら、市役所に行ってすぐに北海道行きを決めてきた。父は、手付かずの土地がただで手に入ると言う話を聞いて、即決したらしい。
 確かに、ここにいても十分な食料を口にするのは難しいだろうし、四十を超えて今から住み慣れない町で暮らして行く自信はなかったのだと思う。
 だが、私はそんな寒い所は嫌だったし、なによりも熊が怖かった。それは、母も兄も同じ思いだったに違いないが、言った所で父の決断はゆらぐことはなかった。その日のうちに荷造りを始めた父だった。


 旅立ちの日、父は両親とお兄さんたちに別れを告げると、お気に入りのゲートルを巻いて、さあ、これから北海道へ行くぞと言って、私たちの先頭を勇ましく歩き始めた。私たちは皆、下を向いてリュックをかつぎ、父の後について行った。
 夕方、二本松の駅で汽車に乗って、父母の故郷福島を後にした。辺りはすぐに真っ暗になり、景色を見ることはできなかった。私たちは、その夜汽車の中で、アワのおにぎりを食べた。粒が固くて美味しくはなかったが、とても米を買うお金がなかったので仕方なかった。けれど、家族旅行だと思えば味も変わるものだ。父が帰って来て、母がいて、兄がいて、弟の忠は残念ながらいないが、家族の初めての旅行だ。私は妙にはしゃいで遅くまで起きていたが、いつの間にか眠ってしまった。
 翌日、母にゆり起こされた。窓の外を見ると、どうやら青森駅に着いたようだ。私はあわててリュックを背負ったが、これから連絡船に乗るのだと聞かされ、引揚船の悪夢を思い出して、身体が硬直してしまった。それを感づいた兄が、大丈夫だ、もう人が死ぬことはないからと言う言葉に、ようやく身体に自由が戻って汽車を降りた。
 まだ十月だと言うのに、外は思いのほか寒かった。私は立ち止まりオーバーを着て連絡船に乗った。
 船の中は引揚船と同じように、客室が高さ三十センチほどのおよそ五メートル四方のマットがしいてある床で、その上で私たちは寝転んだ。途中、波がかなり高くて酔ってしまったが、ずっと寝たままだったのでつらくはなかった。父も寝転んで、母から満州国から引揚げる時の話を、うんうん言いながら、時には涙ぐみながら聞いていた。

 北海道に着いてからが本当に長かった。函館から目的地の西春別(にししゅんべつ)という所へついたのは、乗り換えを繰り返したのもあるが、実にまる二日かかってしまった。朝もやけむる中、小さな町をふたつすぎて、そこからナラの森林を十キロばかり歩いた所が、私たちの安住の地。
 父は、着くとまず最初に掘っ立て小屋を建てはじめた。ナタとノコギリとスコップを借りると、作業をすぐに開始した。立木を外側に残して、その間を伐採した木の枝でつなぎ、壁の外側を土で固めて、屋根にも枝を何層も重ねれば、もう立派な家のできあがり。囲炉裏は石で固め、風呂は五右衛門ブロを格安で手に入れてきた。私はこんな家をすぐに建てる父を、あらためて尊敬した。
 翌日から、父の金稼ぎが始まった。ここら一帯は、山火事などで細い木しかないので、木材として売るには小さすぎた。そこで、細いブナの木を切って、炭焼きを始めたのだ。炭焼きガマは近くの粘土を焼いて作った。
 どこでそんな知識を学んだのか聞いてみたが、父いわく、なにごとも試しにやってみれだった。

 まわりの入植者が手こずる中、父はちゃくちゃくと利益を上げていった。まず、炭焼き。そして、大きな家を建て。馬で木の根を掘り起こして開墾。それと並行していろいろな農作物作りをして、ソバが育つことがわかった。私たちは、とても美味しく頂いたが、そのソバもわずかしか採れない短い日照時間。このままでは、利益が頭打ちなのは目に見えていた。
 途方に暮れていると、牛や馬の売買をなりわいとする馬喰(ばくろう)が町にやって来た。行ってみると、肌つやのいいホルスタインという品種のメス子牛が美味しそうに草を食(は)んでいた。父は、一目で気に入ったそうだ。コツコツためた中から大枚をはたいて、家に子牛をつれてきた。その日から、父の勝負が始まった。
 家の一角を牛小屋に改造して、それまで作物を作っていた農地を一部、牧草畑に変えていった。そして、冬の間も草が食べれるように乾燥した草をためる所を作った。子牛はすくすくと成長して、約一年で親牛になり種付けをしたが、首尾よく受精した。そして、約九か月後子牛を生んだ。その子牛のために親牛は乳を出す。それは、約十か月の間続く。同時に、生まれたメスの子牛は成長して、やがて子牛を産んで乳を出す。オスなら、馬喰が高値で買ってくれる。
 こうして、毎日朝と晩、乳をしぼって大きな輸送缶に入れて町へ出荷した。それは、仲買が高値で買ってくれた。結果、酪農が軌道に乗った。牛乳は、毎日のように人々に美味しく飲まれ、米の次によく好まれた。人々の栄養が不足している中、国が牛乳を奨励してくれたのがきいたようだ。それを見ていたまわりの人たちも、皆酪農を始めた。そして、私たちの村の主力産業となった。
 ……と言う話だ。どこまで信じていいかわからないが、とにかく私たちの村ではじめて牛を飼ったのは事実だ。そして、酪農は今も続いている。清二から子の誠太郎へ、そして孫へと。

 そのほか、父は満州国と同じようにニワトリとブタを飼った。だから、私たちはひもじい思いをしたことがなく、元気に成長していった。本当に、父の娘であってよかったと思っている。


 父は、晩年、酪農を子の誠太郎にゆずって、満州時代の仲間のために保険の仕事をしていた。バイクに乗って隣り町にできた弥栄部落をたずね、親身になって保険を世話していたようだ。
 だが、寄る年波には勝てず、多くの孫たちに見送られて一九七七年、七十二歳でこの世を去った。
 二十七歳で異国の地満州国へ渡り戦いながら開拓し、四十歳でその地を追われ、四十四歳までシベリアの過酷な労働に耐え、五十歳にして未開拓の地、北海道で成功した父。私は、父の不屈の開拓精神をほめてあげたい。よくやったと。

 一方の私は、大人になり近くの酪農家に嫁ぎ、四人の子供をさずかった。だが、なにを思ったのか皆大学へやってしまって、誰もあとをつぐ者がいなくて酪農をたたんでしまった。残念ではあるが、子供の生き方を尊重した結果であるので、仕方ないと思っている。
 そして、私は今年で七十一歳になるが、この人生を振り返ってみて不幸だったとは思わない。波乱万丈ではあるが、それなりに充実した人生を送れたと満足している。
 最後に、満州から引揚げる途中で亡くなった忠にわびたい。ひとりでさびしい思いをさせてごめんね。おねえちゃんが、今会いに行くから待っていてねと。


二〇〇七年 徳子ここに記す。

20170304-実話・満州国に生まれて

20170304-実話・満州国に生まれて

45枚。修正20220313。満州で終戦をむかえた母の実話。小学生低学年の女の子が、千キロもの道を歩いて生き延びる。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-25

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