薫り満つ花

薫り満つ花

一

 草履(ぞうり)の音を響かせ(なが)ら、吉崎清広(よしざききよひろ)は細い(みち)を辿っていた。
 片手に杖を、もう片方の手には紙袋をぶら下げている。(あしおと)が一定の間隔(かんかく)ではなく不規則なのは、吉崎の左足が不自由な所為(せい)であった。だが生活に困る程ではない。事実こうして近所の散策(さんさく)には出られる程度であるし、気が乗れば遠出も出来ない事はない。その位の障害であった。
 風はほんの少し肌寒い。先頃(さきごろ)まで真っ青だった空は、秋の気配が濃くなるにつれ色味を薄くし始めている。天空に立ち上る様に集まっていた雲が離散し、薄衣(うすぎぬ)の様に広がり始める季節になったからだろう。
 左右を民家とブロック塀に囲まれた路地には、夏の日差しで成長を()げた木々の葉がはみ出している。それが風に揺れる度、ちらちらと陽光が路地に降りていた。
 だらだらと続く径の先は所々細くなり広くなり、(ある)いは枝分かれしている。この辺りの路地が蛇の様に(うね)りそして入り組んでいるのは、先の大戦で(ほとん)どの建物が焼失してしまった所為(せい)であった。戦後の混乱の最中(さなか)良くぞ此処(ここ)まで立ち直ったと目を見張る程ではあるのだが、如何(いかん)せん区画整理が杜撰(ずさん)だったと見えて、彼方此方(あちこち)好き勝手に家々が建ち、そうしてこの迷宮の様な町が出来上がってしまったのだ。
 吉崎自身はもう何十年とこの町に住んで居るし、復興当初から現在までを過ごした場所でもあるから慣れたものだが、初めてこの地を(おとず)れた人々にとっては、大変不案内(ぶあんない)な町であると思う。
 そんな径の途中で吉崎は一度足を止め、杖を握り直した。
 ()()()()()()――別段疲れている訳ではない。目指す自宅は()其処(そこ)である。それでも何とはなしに息を吐き、先を見据(みす)えた。それから片手にぶら下げた紙袋を一瞬眺め、同時に感じた空腹に杖を前へ突き下ろそうとした――その動きが不自然に()まったのは、鼻先を(くすぐ)った甘い香りの所為であった。咄嗟(とっさ)に辺りを見回したが、その思い出深い香りの元は路傍(ろぼう)には見当たらない。塀に隠れてしまっているのか、或いはもっと遠くから香るのだろうか。(しか)し毎日通るこの径でこの香りに気付かない事はあるまい。
 だとするなら、最近植えられたのだろうか――其処まで考えて、苦い笑みを()(つぶ)した。

 ――()()()()()()()()()か。

 決して色褪(いろあ)せる事の無い記憶の断片を(なぞ)る様に、吉崎の目が(わず)かに細まる。
 何時(いつ)の間にか黒髪よりも白髪(しらが)の方が多くなった。顔に浮かんだ(しわ)の一つ一つに、平穏(へいおん)とは言えぬ数多(あまた)の過去が刻まれている。震災を経験し、大戦で地獄を見た。この世の終わりを幾度(いくど)となく経験した(はず)なのに、吉崎の胸のずっと奥に仕舞(しま)われている〝それ〟は、今も尚鮮明(せんめい)に記憶されている。

 花の(あか)く輝いていた事、芳醇(ほうじゅん)な甘い香りに包まれていた事――それから何より〝あれ〟が(ひど)婀娜(あだ)めいて(つや)やかであった事。唇の、(なめ)らかな素肌の官能的であった事。
 ()()()()()()()()()()()()()()――。
 それらが全て、吉崎の胸の奥に(かた)く閉じ込められていた。

()()!」
 その声で初めて、己が何時の間にか(まぶた)を落としていた事に気が付いた。(にじ)んだ視界の焦点(しょうてん)徐々(じょじょ)に引き(しぼ)ると、開襟襯衣(かいきんシャツ)に灰色のズボンを()いた若人(わこうど)の姿が浮かび上がる。此方(こちら)の注意を引こうとしているのか、片手に持った鳥打帽(ハンチングぼう)を大きく振っていた。
「此方においででしたか。今日は何方(どちら)かへお出掛けでも?」
 曲がり角から小走りで近付いたかと思えば、口を開く間も(あた)えずあっと()う間に紙袋を取り上げられてしまう。
「……嶋君、()()は止めてくれとお願いした筈だが?」
 されるが(まま)になり乍ら、吉崎は困った若者だと云わんばかりの表情を浮かべる。
「ああ、済みません。つい、癖で」
 そう云って舌を突き出したこの若者は、自宅近くにある下宿所に住む、嶋修平(しましゅうへい)と云う学生であった。眉目秀麗(びもくしゅうれい)とは当にこの青年の為に在る言葉なのでは無いかと思う程、整った顔立ちをしている。身長は吉崎より頭ひとつ出る位のもので、そう大して高いと云える程では無かった。
 その彼が引っ越して来た際に偶々(たまたま)出会ったのが縁となって、こうして時折吉崎の元を(たず)ねては、甲斐甲斐(かいがい)しく世話を焼いていくのが恒例(こうれい)になっている。本人(いわ)く、田舎の祖父に(あま)り孝行出来ていない罪滅ぼしだという話なのだが、何処(どこ)までが本当の話であるのか、吉崎はほんの少しだけ(いぶか)しんでもいる。
 それは以前、嶋の担任が吉崎の元を(おとず)れた事に(たん)を発する。担任は吉崎に、嶋が自主休講を繰り返している事、そしてその理由として、吉崎の面倒を見る為だと話していると云うのである。休講理由を問い詰める教師陣に悪怯(わるび)れる風もなく、嶋は、社会福祉の何が悪い、先達(せんだつ)に教えを()う事も学業の一環(いっかん)だと()ったのだ。これに教師陣が訝しむのも(もっと)もで、もしや悪い人間に(だま)されているのではと心配した(すえ)来訪(らいほう)だと、そう話していた。
 これに顔を赤くしたのは吉崎である。直ぐ様嶋を呼び付け、この様に恥を(さら)した事はない、己の怠惰(たいだ)の理由に老人を使う(など)言語道断とその場で(しか)り付けた。更に、今後同じ事を繰り返せば二度と家の敷居(しきい)(また)がせないと約束させたのである。
 そう云う事が有ったから、嶋の云う事を如何(どう)にも鵜呑(うの)みに出来ないで居た。
 然し吉崎は、そのような事があっても嶋を邪険(じゃけん)には(あつか)えないでいる。それは生涯(しょうがい)独り身を決めた人生に家族が居たならと、淡い夢を抱いてしまう所為だった。
「今日は学校は如何(どう)したんだ。平日の昼日中に学生が彷徨(うろつ)く等、(とて)も感心する所業(しょぎょう)ではないと思うがね」
「本日は正真正銘(しょうしんしょうめい)休校であります!」
 吉崎の(わず)かに(とげ)を含む言葉もどこ吹く風、嶋は甘い顔貌(がんぼう)を引き締めると、陸軍さ乍らの敬礼をして(おど)けて見せる。それに苦笑を浮かべた吉崎は、止めていた歩みをまた進め始めた。
          ※
「それで? 勉学は(はげ)んでいるのかね」
 自宅の居間に戻った吉崎は嶋に補助され乍ら、何時もの安楽椅子(ロッキングチェア)へ腰を下ろす。椅子の前面は室内ではなく庭へ向いているから、必然的に客人(きゃくじん)である嶋に背を向ける事になるのだが、当の嶋はそれに対して何か云った事はない。気を(つか)っているのか将又(はたまた)そういった事に頓着(とんちゃく)しないのか、(いず)れにしろ何も云わないのだから気にしていないのだろうと思う。
「ええ。()()――()()()()と、お約束しましたから」
 先生――と言い掛け吉崎に()め付けられた嶋は、それを取り(つくろ)う様にやたらと明瞭(めいりょう)な発音で名前を呼んだ。
 嶋が吉崎を〝先生〟と呼ぶ理由は、単純に吉崎の方がずっと長寿であるからであった。嶋曰く、先生とは先を生きる人と書くのだから、自分より目上の人間は全て先生――教えを乞うべき対象なのだそうだ。だが吉崎自身は、誰に(ほこ)れる生き方はしていない。(むし)ろ恥ずべき人間であり、だから矢張(やは)り、そう呼ばれるのは都合が悪いのであった。
「今、お茶をお持ちしますね。これ、櫻花堂(おうかどう)のお饅頭(まんじゅう)ですか? それともお団子ですかね?」
 吉崎の表情から()が悪いと(さっ)したのだろうか――(ある)いはそんな吉崎の逡巡(しゅんじゅん)を感じ取ったのかもしれない――嶋は紙袋へ話題を移しながら台所へ引っ込んだ。

 静かになった事で(ようや)く一息()けた吉崎は、吸い込んだ空気に僅かにあの香りが混じっている事に気付く。
 ほんのりと(ただよ)う、甘美(かんび)な香り――。
 それにゆっくりと瞼を落とした後、

「……嶋君、君は……金木犀(きんもくせい)は好きかね?」
 息を吐き出すように(かす)かに、そっと記憶を手繰(たぐ)り始めた――。

 田宮吉二(たみやきちじ)――これが吉崎の()()()()である――は、関東の(はし)()山間部(さんかんぶ)に育った。村人の数は三十にも満たず、山と川、それから後は田畑しかない様な、小さな、そして(ひど)辺鄙(へんぴ)な集落であった。
 周りを山に囲われた場所にあり、この集落へ来るには(みち)が一つしか無い。そんな立地にあった所為(せい)で、江戸と呼ばれていた土地が〝東京〟と呼ばれる様になり、平民に苗字(みょうじ)が与えられ明治という年号が大正に変わっても、村の生活は何一つ変わる事は無かった。若い者は畑を(たがや)し収穫された作物を隣町へ売りに行く。(とし)老いた者は家や村の雑事(ざつじ)(にな)う。そうして暮らしていた。
 (ただ)一つ変わった事と()えば、新聞の発達によって集落の外で起きている出来事が以前より容易(ようい)に手に入るようになった事だった。とは云え、こんな僻地(へきち)にまで毎日新聞を届けてくれる人も居ない。必然、街へ下りた時に購入する事になるから、数日から遅い時で一週間程前の情報になる。
 それでも若い人達の目には真新(まあたら)しい事ばかりで、農作業の合間に新聞を回し読みしては都会の様々な事柄に目を輝かせるのが楽しみとなっていた。

「田宮さんなら、如何(どう)する?」
 その日も台所(だいどこ)()り広げられる都談義(みやこだんぎ)を聞き(なが)ら白瓜を割っていた田宮は、急に話の矛先(ほこさき)が己に向いた事に一瞬、戸惑(とまど)った。
「如何ッて……何が?」
「だから、欧羅巴(ヨーロッパ)(いくさ)の話だよ。でけえ戦争になってるそうじゃねェか。我が大日本帝国軍も()って出て、権威(けんい)を示す絶好の機会(チャンス)だと思うが」
(いや)、ここは少し様子を(うかが)った方が()いと思うがね」
「否々――」
 幼馴染の六郎がそう口火(くちび)を切れば、同じ様にして新聞を(にら)み付けていた新吉(しんきち)が腕を組み(うな)る。台所には田宮を含め五人程の男が作業をしているが、如何やら好戦派と日和見(ひよりみ)派は半々の様であった。
「俺には解らないよ……。そう云った事は如何にも苦手でネ」
 だから田宮は、何方(どちら)に付く気もないと肩を(すく)めて見せる。
「そうヨ。(きち)さんは虫も殺さないようなお人だもの。大義だとか名誉だとか、そんな大層(たいそう)な事考えちゃないワ」
 作物の入った(かご)を小さな身体に目一杯(めいっぱい)抱えて土間(どま)へ入って来たお(たえ)も、それに同意する。籠の脇から顔を出し、お妙はその溌剌(はつらつ)とした顔を(ゆる)めた。
「そう明瞭(はっきり)言い切られるのも、男として名折れな気もするけど……」
「何を(おっしゃ)い。吉さんはそれが良いところじゃないのサ。そりゃァ立身出世(りっしんしゅっせ)の為に働くお人は立派かもしれないヨ? でも(あたし)ッからすれば、何処(どこ)へ行っちまうか知れないお人より、確乎(しっか)り地に足を付けてくれてる人の方が、ずっと安心出来るもの」
 そう云って、お妙は籠を上がり(かまち)へ下ろした。
「そりゃお妙にとっちゃ大義に生きるのは浮足立(うきあしだ)った夢なのかもしれねぇけどヨ、男なら一度は浪漫(ロマン)に生きてみてぇと、そう思うもンよ」
「アラ、それじゃァ(ろく)さんは、男のその浪漫とやらの為に可愛い赤子が泣いても構わないッて、そう云うつもり? たった一人の愛しい(ひと)が夜な夜な泣くのも(いと)わないッて云うのネ? おッ()さんだってそうヨ。大義や名分の為にお腹を痛めて産んだ訳じゃないワ。それでも六さんは、それが男の生きる道だって、そう云うの?」
 そうお妙に(にじ)り寄られると、先程までの勢いは何処(どこ)へやら、六郎はううん、と(うな)って黙ってしまった。
「アハハ。お妙に口で勝とうなんて、この村の男では無理があるッてもんサ」
「その通り。何処ぞの学者様でも呼んで来なきゃ」
 炊事場(すいじば)で野菜を洗っていた女達にそう(はや)し立てられ、その通りだと男達も破顔(はがん)する。
 この村の女は皆快活(かいかつ)な物の云い方をするが、このお妙は抜きん出ている。(いや)な事は厭と、駄目な事は駄目と臆面(おくめん)も無くぴしゃりと云って退()けるのである。
 〝おきゃん〟という言葉が可愛らしく聞こえる程の女であった。
(しか)し、情勢(じょうせい)はそれを許してはくれんかも知れんぜ?」
 (なご)んだ場を一瞬で引き締めたのは、六郎の隣で真剣に新聞を見ていた安二郎(やすじろう)という男だった。この村で唯一諦観(ていかん)している男の浅黒い顔貌(がんぼう)は引き締まり、何処か強張(こわば)っても居た。
如何(どう)云う事だい?」
「これが世界大戦になるかも知れんと云う事サ。今は欧羅巴だけに(とど)まっている様に見えるが、日本は英吉利(イギリス)と同盟を結んでいるだろう? 何時(いつ)参戦の要請(ようせい)が来るとも知れん。否、もう来ているだろうな……。露西亜(ロシア)や他の列強(れっきょう)が如何動くか……」
「おいおい、もうそんな事に()ってるッてのかい?」
「冗談じゃねェや。俺は厭だゼ。国の為におっ()ぬなンて御免だね」
「ちょいと。そんな怖い話、もう(しま)いにして頂戴(ちょうだい)な」
 やにわに盛り上がりを見せたその場に真っ先に()を上げたのは、矢張(やは)りお妙であった。焦土(しょうど)と化した故郷(ふるさと)を思い浮かべたのか、友を失う恐怖を感じたのかは解らないが、何時もならツンとしている表情が、(にわか)に曇っている。根が優しい娘である事は村の誰しもが知っていた。
「さァさ、そろそろお開きに――」
 その空気を察した新吉がもう仕事に戻ろう、と声を掛けようとした時だった。

 ()()()()()()()()()――。
 都合(つごう)三度、遠くから鈴の音が鳴り響いた。
 ()()()()()()()()()
 少しの間を置いて、もう三度。
 それを聞いた田宮は緩慢(ゆっくり)と立ち上がり、腰に下げていた手拭(てぬぐ)いで手を拭いた。
「吉――」
「お妙ちゃん」
 呼び止めようとしたお妙の言葉は、安二郎によって押し留められる。その語尾には、無理を云っちゃいけないと(にじ)んでいた。お妙はそれでも何か云いた気であったが田宮を眺め、それから安二郎へ視線を向けて押し黙った。
「済まないが(みな)、後の事は頼んだよ」
 田宮は皆の視線が己の脊背(せきはい)に集中するのを感じ乍ら、土間を後にした。

 明治の昔――否、そのずっと昔から変わらない事がもう一つ有る。
 その起源が何時まで(さかのぼ)るのか、如何(どう)云った事情で作られた物であるのか田宮は知らない。(ただ)そう云った風習があり、己が御役目(おだいり)と呼ばれる立場である事だけが幼少時から繰り返し伝えられていた。

 この村には――()()()()()()が在った。

 山を(わず)か登った場所にひっそりと、(やしろ)とも、古い家屋とも云えるような住居が建っているのである。その四方(しほう)は木々に囲まれているから、里に下りて山を見上げても容易(ようい)には見えない。其処(そこ)へ続く(みち)と云う径はなく、山に登って迷えば、(ある)いは着くかもしれない様な場所であった。
 ――彼処(あそこ)へ立ち入れば、二度と戻れぬ。
 この地に産まれた子は皆、恐ろしい話と共にこう云い含められて育つ。好奇心が勝つ年頃になれば、危険な場所なのだと教えられる。()み荒らせば、母は死ぬかも知れぬと云われるようになる。お前が死ぬかも知れぬと云われる。どうか立ち入らないでおくれと泣かれるのである。

 ――(けが)れがある。
 そう云われる。
 ――厄災(やくさい)が降る。
 そう伝えられるのである。

 その径の中程で、田宮は足を止めた。
 辺りに視線を配り、そして耳を澄ませる。木々の()れる音、獣の気配、虫の鳴き声――それ以外の異物が無いか確かめる為であった。
 この森へ足を踏み入れる時、田宮は殊更(ことさら)慎重になる。(まれ)に云い付けを守らず着いて来る子が有るのだ。勿論子供が一人で歩ける程容易(たやす)い径ではない。(さと)られる事がないよう、行く径帰る径は変えるよう云われているし、それも獣道と呼ばれる様な険しい径である。大の大人である田宮でさえ一筋縄では行かない道程(どうてい)であった。
 それでも好奇心というのは厄介(やっかい)な物で、切り傷を作ろうと里に戻れぬ様になろうと構わぬ程の忍耐を発揮(はっき)する事がある。
 だから田宮は、必ず足を止め様子を(うかが)うのである。
 着いて来る子があれば云い含めて里へ返すのも、役目の一つであった。着いて来て善い事等何も無い。(むし)ろ後悔する事を重々(じゅうじゅう)理解していたからだった。
 そうして振り返り立ち止まって、或いは進み分け()って径無き径を程なく歩いて(ようや)く、〝それ〟が見えて来る。

 真っ黒い(やしろ)――。

 自然を切り裂く()()()
 (あきら)かに()()である。
 それは一見して異様であった。建物が墨一色である所為(せい)でもある。密集した木々の所為で影に(まぎ)れているのにも(かかわ)らず、処々(ところどころ)木漏れ日に薄く浮かび上がっている所為でもある。(しか)し何より、その家屋の様なものに注連縄(しめなわ)()れ下がっている事が、一番であろうと思う。
 鳥居もなく、賽銭箱(さいせんばこ)もない。
 他に()()()()()()()()()()()()()()()にも(かかわ)らず、注連縄だけが白く垂れているのである。それが一際(ひときわ)異様さを放っていた。

 そして(それ)は、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()静かに鎮座(ちんざ)していた。

 ――忌々(いまいま)しい。
 田宮はこの異物を見上げる度、そう思う。
 ――憎々しい。
 胸元からぐうっと反吐(へど)が込み上げる気さえする。

 田宮がこの異物を好きになれないのは、変哲(へんてつ)な形をしているからでも、昔咄(むかしばなし)に出てくる様な(おぞ)ましさが有るからでも無い。
 唯、此処(ここ)に住まう人の悲哀(ひあい)を思うからであった。
 痛ましいと思う。救いがないと思う。
 それでも田宮には、その運命に(あらが)う術等有りはし無かった。
 だからせめてもの抵抗にと、戸を(くぐ)る前に、有りったけの憎しみを込めて異物を睨み付けるのであった。
          ※
「お呼びでしょうか」
 座敷(ざしき)に続く広間の中央で、田宮は深く(こうべ)を垂れた。
「田宮か。良く来てくれました」
 明取(あかりとり)から()す陽光以外、他に(あか)りと云う灯りは無い。その薄暗がりの奥から、清涼(せいりょう)さを(ともな)った声が届いた。
 今一度身を低くした田宮は、耳の(はし)で畳の()れる音、それから障子(しょうじ)が閉められた音を聞いた。
 ()()()()()()()()のだと、それで理解した。
「頭を上げてください。もうお目付けは居りません」
 静静(しずしず)とした衣擦(きぬず)れの音がして、田宮は上体(じょうたい)緩慢(ゆっくり)と持ち上げる。
 まず視界に映るのは、赤く染められた注連縄である。(しめ)の子と、それから何か文言(もんごん)の書かれた呪符(じゅふ)(おぼ)わしき紙が()み込まれている。それが二本、まるでそれ以上の侵入(しんにゅう)(こば)むかの様に座敷入り口で交差していた。そしてその交わりの頂点に、矢張り何事か呪文の様なものが書かれた札が貼り付けられている。
 それが何らかの()()である事は、誰しも容易(ようい)に想像出来るだろう。
 田宮はその奥へ視線を絞った。
 真っ白い(ころも)のその先端に、それより更に白く美しい顔がある。まるで日本人形の様だと思う。楚楚(そそ)としていて下卑(げび)た所がひとつも無い。赤く小さな唇、筆で通した様に真っ直ぐ伸びる小振りな鼻筋、その上に切れ長の双眸(そうぼう)が宿る。日本人の持つ品の良さを全て集めた様な女が、其処(そこ)孤座(すわ)っていた。

 ()()闇と()()縄、其処に浮かぶ()()女――。

 此処(ここ)(おとず)れる度、何処(どこ)か次元の違う場所、夢の中にでも居るような気になった。三色しか無い世界にでも迷い込んだ気になるのだ。視線を落とし、己の手を見る。煮染(にし)めた様に浅黒い。畳を見た。焼け(すす)けた葦草(いぐさ)の色がある。
 それを確認して(ようや)く、自分が現実(うつつ)に居るのだと認識出来た。
如何(どう)したんです。キョロキョロと」
「……ああ、いえ……」
 空気を(わず)かに震わせるだけの笑い声に、田宮は視線を戻した。
「村の様子は如何ですか? 田畑は(うるお)っていますか」
 女との会話は、(おおよ)他愛(たあい)の無い時節(じせつ)(はなし)から始まる。村人の様子や季節の移り変わり、何がどれだけ収穫出来たか、そう()った小さな出来事について語るのである。
 そして女は、何時(いつ)もそれを黙って聞いている。視線は田宮に向けられているが、その視界には移ろいゆく情景が広がっているのだろう。黒い瞳が朦朧(ぼんやり)(にじ)んでいるのが解る。

 ()()()()()()()()()()()()

 おぎゃあと産声(うぶごえ)を上げた時からずっと、此処に(とら)われているのである。この屋敷には立派とも云える大きな庭が在るが、其処へすら降り立った事は無かった。
 だから女に()るのは、丸窓から見える切り取られた風景だけであった。女が思い描く四季折々の村の景観(けいかん)は、決して想像から逸脱(いつだつ)する事はない。体感でも体験でもなく、田宮達が新聞から東京を想像しているのと何ら変わりはしないのだ。
 田宮達の日常が、女にとっては想像なのである。
 それでも女は、田宮の話をそれはそれは嬉しそうに聞くのであった。
「……お妙さんが(うらや)ましい……」
 ぽそりと、女が(つぶや)いた。
 ドクリ、胸が(うな)るのが解った。
「いいえ、お妙さんだけじゃありませんね……。(ひさ)さんも鈴さんも、皆みんな、羨ましい……」
 それはまるで吹いたか如何(どう)か解らぬ程か弱い風のように、(かす)かな願望であった。
 田宮はゴクリと喉を鳴らし、女を見遣(みや)る。何時の間にか顔は横へ向けられていた。出る事の叶わぬ窓外(そうがい)を想っている事は、女心の解らぬ田宮でも充分理解出来た。
 (てのひら)には(わず)かに汗が(にじ)んでいる。答えに(きゅう)しているのだ。
 女は此処を出る事を禁じられている。それどころか、入り口に張り(めぐ)らされた結界の外へ出る事すら禁じられていた。
 田宮はそれに同情する。
 連れ出して()りたいと思うのだ。野山を()け、沢を辿(たど)り、金色(こんじき)に輝く田畑を見せて遣りたいと思う。
 だが田宮には、その()()が無い。
 女には、無理を()いるだけの()()が無い。
 だから田宮は、女が細く(あわ)い願望を口にする度、如何答えて善いものやら困惑(こんわく)するのだった。
 今から行こうとも言えぬ。何時か出られるとも言えぬ。
 余計な希望は女を苦しめるだけだと解っているからこそ、矢張(やは)り田宮には()ぐ二の句が無かった。
「そんな顔しないで下さいな」
「……済みません……」
「謝らないで下さい。余計哀しくなります」
 酷く美しい顔立ちの女は、そう云うと物悲しげに笑った。

 一通りの拝謁(はいえつ)が終わった後、黒い社を今一度振り返り、矢張り忌々しげに(にら)み付ける。
 こんな物が在るからいかんのだ。
 こんな()()が在るからおかしな事になるのだと、そう思う。
 いっそ付け火でもして燃やしてしまおうか。
 これが無くなりさえすれば、(ある)いは――。
 其処まで考えて、そうなれば己は村を捨てる事になるだろうと思い至る。幼少時代から親しくして来た友人達を、お妙を――育ててくれた養父母を哀しませる事になる。もし自分がそれをしたら――養父母は村を追い立てられてしまうかもしれぬ。禁忌(きんき)を犯した自分の責めを、あの二人が()う事になるだろう。二人ももう若くはない。何処(どこ)ぞ知らぬ土地で一からやり直す元気もないだろう。
「……くそッ!」
 胸に()まるばかりの(いきどお)りを吐き出す様に、田宮は足を思い切り()り上げた。吹き飛んだ小石が、何処かの木に当たった音がした。
 それを契機(きっかけ)にする様に、田宮は(それ)に背を向け下山した。

 村に戻ると、もう陽が沈みかけていた。家々から夕餉(ゆうげ)支度(したく)と思われる煙が幾筋(いくすじ)も立ち上っている。
 田宮はその(まま)真っすぐ井戸へ向かい、三度、手と足を洗い流す。それから一度だけ頭から水を(かぶ)った。手足を洗うのは何時もの事であったが、(たぎ)るように煮える頭を冷やしたかったのだ。
 夏場の()し蒸しとした()り付くような空気に井戸の水はほんの少しの清涼感(せいりょうかん)を与える。それで少しだけ、ほんの(わず)かだけ、すっきりした様な気になった。
 コツ、コツ――。
 胸に()め込んでいた空気を吐き出した田宮の足元で、何か小さな音がした。視線を落としてみるが音のする様な物は無い。
 何だ、不思議な事が()るものだと思った矢先、またコツリと音がして、小石が転がったのが見えた。
 その石の先へ目を向ける。
 木々の影、何とも不自然な間隙(かんげき)から知った顔が(のぞ)いていた。
「何を――」
 子供でもあるまいに――掛けようとした声は、此方(こちら)を見ている相手の動作で制される。それからその人が手をこまねいて、田宮を呼んでいるのが見えた。
 キョロキョロと辺りを(うかが)っている様子から、他人に聞かれては不味(まず)い話なのだろうと察する。
「何だい一体」
「シーッ! 声が大きい。一寸(ちょっと)こっちへ来い。お前に(はなし)がある」
「この(まま)か?」
 田宮は今し方頭から水を被ったのだ。夏場と()えども身体が冷える。そう云うと、田宮を呼んだ(ぬし)は腰に下げていた手拭いを投げる様にして手渡し、その儘腕を(つか)み強引に奥へと進んだ。
何処(どこ)へ連れ込もうと云うンだ」
()いから付いて来い」
 そんな悶着(もんちゃく)をし(なが)ら連れて行かれたのは、村の林の中にある小屋であった。小屋は冬場にしか使わぬ場所で、つまり薪材(まきざい)や保存食を保管しておく場所である。
「こんな所で何をしよう――」
 一体全体何があるのだと()れた田宮は、中に居る数名の顔を見て言葉を切った。
「来たか、吉さん」
 そう云ったのは安二郎であった。
「すまんな」
 強引だった事を(わび)たのは六郎だ。
 小屋の真ん中に置かれた行燈(あんどん)を囲むように、三郎や(しげ)の顔も見える。どの顔も、昼間(いくさ)に対して好戦一方だった顔ぶれであった。
「何だい。昼間に落ち着かず、まだ戦の話をするのか? 先も云ったが、俺は――」
(いや)、そうではないンだ」
 田宮の言葉を切ったのは安二郎だった。
 ほんの少しの間に、張り詰めた空気を感じる。行燈を囲んだ三人は、誰が口火(くちび)を切るか相談でもする様に互いの顔を見合わせては(うつむ)き、また視線を田宮へ向ける。それだけで何か言い(にく)い話なのだろうと理解出来た。

「……軍に、志願しようと思う」
 それを見兼(みか)ねたのか、(いま)だ田宮の隣に立った(まま)だった六郎がぼそりと、しかし明瞭(めいりょう)に発した。その言葉は、床に(よど)むのではないかと思う程、重かった。
「……何を――」
 突然の告白に、田宮は両の()を目一杯見開き友の横顔を見た。
「本気だゼ」
 そう()いだのは茂で、冗談や酔狂(すいきょう)で云って居るのでは無いと瞳が物語っている。
「戦の向きが如何(どう)なってるかなんて知ったこっちゃねェ。命を落とすかも知れない事も重々承知(じゅうじゅうしょうち)だ」
「だったら――」
「だけどヨ、この儘こんなクソみてェな田舎で作物作って死ぬのは、俺は御免だ」
 三郎の声は(かた)強張(こわば)っている。
 俺もだ――六郎が続いた。他の皆も大きく(うなず)いていた。
 如何してそんな事を今云うのだと思ってから、ずっと考えていたのだろうとそう思い至った。此処(ここ)に居並んだ旧友(きゅうゆう)達は、もうずっと以前から思い詰めていたのだ。
 ――多分、新聞に戦争の話題が記載された時からずっと。

「……考え直す気は、無いのかい?」
 それでも、友が安安(やすやす)と死ぬかもしれぬ場所へ(おもむ)くのは(いや)だった。もう二度と会えなくなるかも知れないのだ。否、その可能性の方がずっと高い。だからまだ余地(よち)が有るのなら考え直して欲しいと願った。
「無い」
 だがその希望は(はかな)く消えた。安二郎の声色には一分(いちぶ)(すき)も無かったからだ。
「……お妙が……哀しむゼ?」
「承知の上だ」
 六郎が云う。矢張(やは)り答えは(くつがえ)らない。岩より硬い意志を持って決起(けっき)したのだと、それで解った。
「お前も来ないか。士官(しかん)に取り立てられればこの貧乏暮らしからも抜け出せるぞ。(くさ)った様な人生から足を洗えるンだ。我が日本国の為に」
 三郎がじり、と身体を前傾(ぜんけい)させる。
 田宮は全員の顔を緩慢(ゆっくり)と見渡した。三郎の顔は紅潮(こうちょう)している。安二郎は何も言わず腕を組み(まぶた)を落としていた。茂は凝乎(じっ)此方(こちら)を窺っている。
 六郎だけが、(わず)かに心配そうな視線を向けていた。
「……俺は……」
 子供の頃から御役目(おだいり)を強制されて来た。望んだ訳では無い。そもそも田宮はこの村の生まれでは無いのだ。養父が何処からか連れて来た子で、だから血の繋がった親や兄弟もこの村には存在していない。

 田宮は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。

 昔からそうなのだと教えられた。御役目の重責(じゅうせき)を我が子に背負(せお)わせたがる親は居ない。だから代々、捨て子や拾い子を貰って来てはその立場に収める。
 あの(まま)ではお前は死んでいたのだと云われて来た。
 それをここまで育ててやったんだと云われ続けて来た。
 うん、と云うしかない環境を、ずっと()いられて来たのだ。

 ――()()()()()()()()()()
 自由に生きて善いのだと、今云われたのだ。

「…………俺は――」
 白く美しい女の顔が思い浮かんだ。
 貴方達が(うらや)ましい――そう()らした女の顔が――あの物憂(ものう)げな、(さび)しさも(くや)しさも全てを隠したあの顔が思い浮かんだ。
 ――〝あれ〟を捨てられるのか、俺は。
 たった独り、あの()まわしい(やしろ)に閉じ込められたきりの女を、本当に(ひと)りきりにしてしまう事が、それが自分に出来るのだろうか。

 泣くだろう。
 羨ましがるだろう。
 ――恨む、だろう。
 憎むかもしれない。

 せめての(なぐさ)みが(おのれ)を裏切ったと知った時、女は如何(どう)想うだろうか。
 田宮は(こぶし)を強く握った。
 ――捨てる事等、出来ない。出来はしないのだ。
「……俺は…………行かない……」
 それが、答えであった。

 どのくらいの時が過ぎたのか、行燈がジジ、と音を立てる以外物音のしない時が流れた。
「……解った」
 口を開いたのは安二郎で、まるで気にするなと慰めでもする様に笑みを浮かべている。
「お前には悪いが、俺らの考えは変わらん。明朝(みょうちょう)、暗い内に出立(しゅったつ)する。母に泣かれるのも困るからな。理由を聞かれるかも知れんが、何も答えなくて善い。知らぬ(ぞん)ぜぬを(つらぬ)いてくれ。(いず)れ落ち着いたら、此方(こちら)から手紙でも書く」
「……本当に――」
「ああ。もう、辛抱(しんぼう)するのも疲れたンだ」
 安二郎は、何処か困った様な笑みを刻んだ。

 そう云って、本当に安二郎達は旅立ってしまった。
 落ち着いたら手紙を書くと云ってはいたが、矢張り無言で出て行くのは気が引けた様で、各々(おのおの)が置き手紙らしき物を置いて出て行った様であった。
 日が明けてからの村の騒ぎはまるで天変地異でも起きたかの様な騒ぎであったが、誰かが云い(ふく)めたのか、(ある)いは何がしかの理由を付けて無理矢理に納得したのかは知らないが、親以外の人間の様子は三日もすれば落ち着いた様であった。

 ――お国の為なのだ。
 誰かが云った。
 ――立派な事じゃないか。
 そう、慰めた。

 死に()くと決まった訳ではない。運良くひょっこりと戻る事もあるだろう。否、あいつらの事だ、きっとそうに違いないと――結局のところ、そんな慰みで事は落ち着いたのであった。

 田宮は、あの(やしろ)の広間で何時もの様に(こうべ)を垂れていた。
 相も変わらず衣擦(きぬずれ)れの音がし、障子の閉まる音が聞こえる。
「頭を上げて下さい」
 あんな出来事があったにも(かかわ)らず、矢張(やは)り女の声は(すず)やかであった。
「……安二郎達が、出奔(しゅっぽん)致しました」
 顔を上げるや(いな)や、そう()げた。
「まあ」
 女は白い顔で大きく驚いた。
「陸軍に入隊し、これからは国の為に務める様です」
「……そう、ですか」
 女は(かな)しげな表情を刻み、そして何故か言葉を(にご)らせた。
「……何か、お心苦しいところでも……」
 田宮のその言葉に、女は口許(くちもと)だけに(かす)かな笑みを浮かべる。
「いえ……。羨ましいと……そう思ったものですから……」
「……羨ましい……?」

 ――()()()()()()()()()なのにか。

「この村を出たのでしょう? この村の情景だけではなく、沢山(たくさん)の事を()るのでしょう? 私の知らぬ事も、沢山、あるのでしょうね……。それが……羨ましいのです……」
 そう云い(なが)ら、女は矢張り窓外(そうがい)を見詰めた。
「……此処(ここ)から出られたら――。夢に、見るのです。毎晩、毎晩……。野原を駆け(めぐ)る夢を。沢を渡る様を。それから、田宮……貴方と笑い合う夢を……」
 ずくり、胸が(うず)いた。

 ――()()()()()()()()()()()
 安二郎の言葉が(よみがえ)る。

「……もし、もし私が……此処から連れ出して欲しいと願ったら――」
 (せん)ない事ですね――女はそう云って、もう一度笑う。
「この結界の外へ出る事も叶わない。忌々(いまいま)しいと、憎々しいと、何度呪ったでしょう。何故私がこの様な()き目に()わなければならないのか、何故私だけが陽の光も浴びれぬのか、如何(どう)して、如何して――」
「お(ひな)様、如何かそれ以上は――」
 田宮の制止に女は顔を向ける。
()という意味を、知っていますか? (いや)しい、下品という意味なのですよ。この村の厄災(やくさい)全てをこの身に受ける私は、卑俗(ひぞく)なのです。下卑(げび)た存在なのです。だからこの様な場所に閉じ込められて、結界の外に出る事も叶わない!」
 女は珍しく激昂(げっこう)した。はらはらと、陶器(とうき)の様に(なめ)らかな頬に涙が伝っている。
「誰が望みましたか! 如何して私が、私だけが()み嫌われるのですッ! 私がこの村の災厄をこの身に刻んでいるからですか! 望んだ事も無いのにッ!」
 女の慟哭(どうこく)何処(どこ)に吸収される事もなく、室内に落ちて(しず)んだ。
 田宮は(ただ)それを聞いている。吐き出して楽になるのならそれが()いとそう思ったからであったが、それ以上に、声を発すれば願いを叶えてしまいそうだったからだ。
 ――今()ぐに此処(ここ)を出よう。
 そう云ってしまいそうだったからだ。
 田宮は己の意志を堅く持つ様に、両の手を確乎(しっか)りと握り締める。

 女は――お鄙様と呼ばれるこの女は、村の形代(かたしろ)であった。村に災いが起こらぬ様旧暦の三月になると儀式が行われる。女を()()にし、災いを(はら)うのだ。そして結界の内に閉じ込め、女に移した災いが外に()れぬ様見守るのである。
 だから女は忌み嫌われていた。だからこの場所に立ち入ってはならぬのだ。
 (けが)れが移るから。災いが吹き()まっているから――。
 そして田宮は、村で唯一お鄙様と会える人間であった。それは田宮が女を慰める役目を持っていたからであり、女と次代(じだい)の形代を()す為の人間だからである。子が女であればまた他所から御役目を拾い、男であれば捨てた。女の形代が誕生するまで何度も交わるのである。
 御役目(おだいり)とは、そう云った立場の人間であった。
 だが女と交わると云う事は(すなわ)ち女の穢れを受け取ると云う事である。結界の内に入り女の(からだ)這入(はい)ると云う事は、そう云う事であった。だから村の子であってはならなかった。

 ()()()()()()()()()()()()のだ。

「……母は……強い人でした……。この様な役目にあって、笑顔を絶やした事は無かった……。村の人々が(すこ)やかに過ごせるのであれば容易(たやす)い事だと、何時も云っていました……。でも私には耐えられない……ッ。毎日毎日村の人々を呪っているのです! 田宮ッ! 貴方でさえもッ!」
 ドン、と強く畳を(たた)く音が響く。女はその(まま)蹌踉(よろ)めき、立ち上がると云うより()う様にして前へ進み出た。
「お鄙様――」
 田宮は反射的に前へ出る。
 女と田宮は、注連縄(しめなわ)を挟んでいても呼気(こき)が届く程(そば)まで近付いている。

「……()()()()()()()……」
 その囁きは、頭を打ち付ける程の衝撃を()って(もたら)された。

「何を――」
「生きるのが辛いのです……ッ。災いを抱えるのが辛いのですッ。この儘ずっと此処に囚われている事がッ! 如何(どう)か……如何かッ!」
 殺してください――女はそう云って、田宮の手を握った。季節はまだ夏の盛りだと云うのに、その白魚の(ごと)く細い指先は、

 氷の様に――冷たかった。

「危ない!」
 その怒声にも似た声に顔を引き上げると、お妙の青白い顔にぶつかった。
「何してるのサ! 指まで漬物にする気かいッ?」
 そう云われ手元を見遣(みや)れば、包丁の刃は指先ギリギリのところで止まっている。
「……ああ、済まない」
 (すん)での所で難を逃れたのだと気付いた田宮は、ふうと息を吐き出しながら(ひたい)の汗を(ぬぐ)った。
「疲れてるみたいだネ? 大丈夫かい?」
 (かご)を何時もの様に上がり(かまち)に下ろしたお妙は、神妙(しんみょう)そうな顔をして田宮を覗き込んだ。
「何か心配事でもあるンじゃないだろうね?」
「違うよ。此処(ここ)の所仕事が増えただろ? 安二郎や六郎の分まで働いているから、それでだよ」
 田宮は胸の内まで覗かれない様、大袈裟(おおげさ)に笑い(なが)ら顔の前で片手を振る。
「……そうかい? なら……いいンだけどサ……」
 それでも何か云いたげなお妙の頬を、片手でぎゅっと(つま)んでみた。
「何すンのサ!」
 お妙は驚いて田宮の手を叩く様にしてから顔を引っ込める。思った通りの反応で、田宮は思わず声を上げて笑った。
「ハハハ。その顔の方がずっと善いゼ? 何たって、ちゃきっ子お妙だからな」
「何ヨ、それは」
「ちゃきちゃきのちゃきっ子お妙ちゃんって事ヨ」
 変な言葉――(わず)かに不満気にし乍らも、お妙の表情が(ゆる)んだ事に田宮は内心で安堵(あんど)した。

 此処の所田宮の心は如何(どう)にも浮ついて、落ち着くという事が無い。それはあの日の事――殺してくれと望まれた日の事――が心の大半を埋めてしまっていたからであった。
 あの日、如何答えるべきであったのか。その答えが出ないのだ。そんな事は出来ないと否定するべきであったのか、(ある)いは望む様にしてやるべきだったのか、田宮には明確な答えが持てない。唯霏霏(もやもや)とした気持ちだけが、胸の奥に(わだかま)っていた。
 そして田宮は、あの時掻き抱いて()れば()かったのだと後悔もしていた。役目等如何でも善いと、お前は独りでは無いのだと知らしめて遣れば善かったのだと、そう後悔している。
 惚れているのだ。
 御役目だとか生まれだとかそう云った全てを取り除いて、心から女を愛していた。だから辛かった。女が流す涙を止めて遣りたいとそう思う。だがそれは、女の願いを叶えてやる事に繋がる。この手で愛しい人を殺す事になる。
 それが辛かった。友は皆戦地へ(おもむ)いた。この上尚、愛しい人を亡くす事が惜しかった。それでは己が独りになってしまう。
 この世に独りきり、生きる勇気はまだ無い。
 ――情けない。
 そうも思う。
 ――いっそ二人で逃げようか。
 そうも思った。
 それならば殺さずに済む。(けが)れ等有って無い偶像(ぐうぞう)なのだ。恐ろしくも何とも無い。二人手を取り合って、この村を出奔(しゅっぽん)してしまえば善い。そして行方を(くら)ませて――。

「吉さん?」
 其処(そこ)まで考えて、掛けられた声に思考を止めた。
「何だか怖いお顔……」
「……ああ、済まない。これからやる事を考えていたンだ」
 その答えは合っているし、間違ってもいた。

「おおーい! おおーい!」
 刹那(せつな)、外から聞こえた声にお妙が何事かと戸を開ける。
「た、大変だ! 大変だよッ!」
 外で大騒ぎしていたのは一昨日から隣町へ作物を売りに出ていた若者だった。
如何(どう)したのサ! そんな大声で」
 声を上げていた男は息も切れ切れ、今にも死にそうな顔をお妙へ向けた。何か云う事が有るのか、片手に握り締めた手紙の様な物を何度も見せつけている。田宮は出居(でい)から下り、お妙の後ろから外を覗いた。
「や、安二郎がッ!」
「安二郎が何だって?」
 声に(みちび)かれたのかこの(さわ)ぎに気付いたのか、安二郎の母親が家から飛び出して来た。
「せ、戦死! 戦死したって!」
「何だってッ!」
 安二郎の母親は悲鳴に近い声を上げ、男が持って来た手紙を(うば)い取る様にして引っ手繰(たく)るとそれをまじまじと眺め――そして、その場に(くず)れ落ちた。
 その手元から、安二郎が大切にしていた万年筆が(こぼ)れ落ちた。

 ()()()()()()()は、不思議なものだった。
 空の棺桶(かんおけ)には処々(ところどころ)焼け(こげ)げてひしゃげた万年筆が一つだけ入っている。それ以外の物は何ひとつ無い。腕も、足も、安二郎が生きていたと思わせる肉身(もの)は何も無かった。
 それでも葬儀は(おごそ)かに、粛々(しゅくしゅく)と進められる。
 安二郎の家族は誰も参列しなかった。手紙一つで死んだと云われたところで納得等出来るものではないし、人間違いだという事も()る。安二郎の母は、屹度(きっと)人違いだ、今に帰って来るに違いない。その時申し訳が立たないからと譫言(うわごと)のように(つぶや)くだけになってしまった。
 村の人々も同じ様なものだった。母の様に明白(あからさま)でないだけで、皆が誰一人として死んだ等と思っても居ない。遺体が無いのだ。肉片も無い。実感が()かずとも無理は無いだろうと思う。
 それでも、形だけの葬儀は行われた。

 しゃん、しゃん、しゃん。
 その最中(さなか)、山の奥から鈴の音がした。
 それを聞いた途端(とたん)、自室で寝込んでいた(はず)の安二郎の母親が飛び出し、草履(ぞうり)()かずに外へ()け出した。皆驚いて止める暇も無かった。
煩瑣(うるさ)いンだヨ! この疫病神(やくびょうがみ)ッ! お前みたいなもンが居るからッ! 安二郎がこんな目に()ったンだッ! この役立たずめッ! 死ねッ! 死に(さら)せッ!」
「ヨネさん!」
 村人が狂った様に(あば)れるヨネの身体をひしと抱いた。田宮はその様子を痛ましく見る。母は振り返り、田宮を(にら)み付けた。
「……お前だって……お前だって同じ様なもンサ……ッ。お(ひな)様をお(なぐさ)めする? 御役目(おやくめ)だからと黙っちゃいたが、お前がこの村に不幸を呼んでるンじゃないのかい! お前らみたいなもン、さっさとくたばっちまえば善いのサッ! 安二郎の代わりに死ねば善かったのはッ! お前()の方だよ!」
 ヨネはそう怒鳴りつけると土を投げ付けた。田宮はそれを()けもせず、唯黙ってされるが(まま)になった。気持ちが解るからであった。掛ける言葉も無いからであった。そうされるより他に、仕様が無いからであった。
「ヨネさんッ! それは云っちゃなんねェよ! (いく)らなんでも――」
 制止してくれたのは幼馴染(おさななじみ)の新吉であった。新吉も同じ様に辛い(はず)だったが、それよりも重責を背負(せお)う田宮を想ってくれたのだろう。頬には涙が(にじ)んでいた。
「お前達に何が解るッてンだい! 妾はッ……妾はッ――」
 そう云ったきり、ヨネは地面に倒れ込みおいおいと泣いた。もう誰も止めはしなかった。掛ける言葉も無い。痛ましすぎるのだ。

「吉……お前の親友の葬儀だと云う事は充分解ってる……。だが――」
 どれ程の(とき)が経ったのか、田宮の養父が呟く様にそう(さと)した。
「……解ってます……。……安二郎のご家族には、呉呉(くれぐれ)も宜しく伝えてください……」
「……解った……」
 田宮は養父の顔を見た後、叫び出したくなる程痛切な母親の背中を眺め、その場を後にした。
          ※
 (はら)の底に溜まった鬱憤(うっぷん)をその(まま)に、田宮は広間の障子(しょうじ)を乱暴に開けると、(たたみ)が汚れるのも構わず注連縄(しめなわ)(そば)まで(にじ)り寄った。
「何事です! 無礼ですぞ!」
 先に反応したのは目付役の老婆であった。田宮はそれを一瞥(いちべつ)し、
「貴方は黙って出て行って下さい。立場は俺の方が上なんだ」
 (なまり)より重い声色で(おど)した。
如何(どう)したのです」
「如何したも何もありません。何故今なのですか」
 村に起きた出来事を(つゆ)とも知らぬ女に云う事では無いと重々理解している。それでも今夜は、今夜だけは亡き友を静かに(とむら)いたかった。鈴さえ鳴らなければ、安二郎の母親もあんな風に取り乱す事は無かったのだ。その(いきどお)りが、言葉に強く現れる。
「……何か、あったのですか」
「お鄙様」
「下がりなさい」
 田宮の剣幕(けんまく)()されたのか、(ある)いは異常を察したのか、女は目付役に強く言い渡した。それでやっと、二人きりになった。

「安二郎が……安二郎が、戦死しました」
「……何と――ッ」
「その弔いをしている最中だった。安二郎の母は、俺に死ねと云いました。貴女にもです。厄災(やくさい)を呼んでいるのは俺たちだと、そう云った。反論出来なかった。出来ますか? 俺たちが居る事が、この村の災いになっている」
「……そう、でしょうね……」
 女は視線を落とし、(ゆる)(まぶた)を閉ざした。元より(いと)われるのは覚悟の上だった。好かれる事等生涯(しょうがい)有り得ない。だから女は()(しの)ぶかの様に唇を引き結ぶ。
仕来(しきた)りだと、我慢して来ました。それが俺の生きる道だと辛抱(しんぼう)した。俺が逃げれば責め苦を()うのは養父母だと耐え忍んで来た。でも違う。こんな仕来りが()る事自体間違っているンです。村の皆は貴女に(わざわ)いを押し付けた気になっている。だけど実際こうした事は起きるンだ。如何(どう)しようも無く不幸が(おとず)れる事は有る。その時皆が納得出来なくなってしまう。災いを(はら)った(はず)なのに、如何してこんな事が起きるンだと、行きどころが無くなってしまう」
「では、それでは――」
 女の声は細く揺れていた。薄く開いた唇から()れた呼気(こき)が震える。
「だから……()()()()()()()()()()……。こんな馬鹿気た因習(いんしゅう)(しま)いにして、不幸は誰しにも起こるのだと納得出来る様にしなければならない」

 ――嗚呼(ああ)、云ってしまった。
 田宮の頭に(わず)かに残っていた理性が、そう告げた。

「……如何する、のです……」
 女の瞳は狼狽(ろうばい)している。此処(ここ)から出たいと心底望んだ筈なのに、殺して欲しいとまで願った筈なのに、それが実際目の前に現れると如何して()いのか見当も付かないのだ。
「……逃げましょう。()()()
 その声は田宮が思った以上に、(かた)く強いものだった。
「でも――」
「一人切りになる時間はありますか」
 女には常に目付役が付いている。その目を(くら)ませない事には、如何(どう)したって逃げ(おお)せるものではない。田宮がそう問うと、
「……(かわや)に立つ時は、何時(いつ)も一人です」
 答え(にく)そうに、女が(ささや)いた。
「宜しい。では二週間後の今日、丑三(うしみつ)つ時に厠へ立って下さい。身支度(みじたく)は整えなくても構いません。夜は冷えるかもしれませんが、俺が何か羽織(はお)る物を用意しましょう」
「はい」
「それから、気取(けど)られる事が無い様に、何時もしている事は必ず行って下さい。不安なら、鈴を鳴らして下さい。俺が来ますから」
「……解りました。でも――」
「何です?」
 女の表情は少しだけ曇っている。不安なのだろうか。
「…………善い、のですね……」
 そう云うと、女は真っ直ぐ田宮を見詰(みつ)める。

 田宮は(うなず)く代わりに、女の手を確乎(しっか)りと握った。

 結局、田宮は決意した。(いや)、それは半ば自暴自棄(じぼうじき)な選択で、冷静に判断した事では無く、一時の情動(じょうどう)に突き動かされただけの決意ではあった。
 それでも田宮は決心した。
 村を出奔(しゅっぽん)する。
 何処(どこ)へでも、何処でも構わない。()に角この村から、この村の旧弊的(きゅうていてき)因習(いんしゅう)から一刻も早く逃れたかった。仮令(たとえ)それが若気の至り(ゆえ)の馬鹿な選択であってもだ。
 この先、不幸になるか幸せになるか等最初(はな)から考えては居なかった。
 破れかぶれとは(まさ)にこの事であろうと、自分でも思う。
 それでも逃げ出したかったのだ。

 安二郎は――安二郎は後悔しなかっただろうか。

 出立の準備を進め(なが)ら、ほんの(わず)か弱気が顔を出す。
 田宮は大きく(くび)を振った。
 しなかったに決まっている。望んで入隊し、望んで出兵したのだ。二度と日本国を(おが)めなくなろうとも、故郷(ふるさと)の土を踏む事が叶わずとも、それでも志願したのだ。
 ――後悔等、する(はず)も無い。
 田宮は薄く目を閉じると、己の強気を全て振り絞る様にして身支度(みじたく)を進めた。
          ※
 その日お妙が田宮の家を(おとず)れたのは、もう()が落ちて随分(ずいぶん)経った頃だった。
如何(どう)したンだ。こんな時間に」
 田宮は村の(すみ)に建てられた(さび)れた小屋に独りで住んでいる。その元を訪れるのは大抵悪友のみで、理由も家で飲むと家族が煩瑣(うるさ)いだとか、要は隠れ家の様に扱われていたから、女子衆(おなご)の、それも独りきりの来訪(らいほう)幾分(いくぶん)驚いた。
「御免ヨ。ちょいと、用事が有ってサ……」
 お妙の顔は何処か青褪(あおざ)めている様に見えた。
「用事なら、昼間畑仕事のついででも善かったろう」
「……他の人に聞かれたくない(はなし)なのサ」
 そう云い(なが)ら、お妙は戸を後ろ手で閉めると、上がり(かまち)に腰を下ろした。
「何だ、その、聞かれたくない咄ッてのは」
 田宮は若干(じゃっかん)居住まいを正し、お妙の方へ(からだ)を向ける。
「……(いや)サ……」
 そう云ったっきり、お妙は黙り込み(うつむ)いてしまった。
 これは愈々(いよいよ)尋常ならざる出来事だと、田宮は心底心配する。
「おいおい、一体如何したッてンだ。明瞭(はっきり)キッパリ、何時でも竹を割った様な性格のお前が珍しいじゃないか」
茶化(ちゃか)さないでヨ……」
 そう云ったきりまた黙り込んでしまう。

 却説(さて)如何(どう)水を向けたものか――。
 この(まま)ではこんな時間がずうっと続くかもしれないと、田宮は思わず腕組みをした、その時だった。

「吉さん、(あたし)に隠し事してるンじゃないかい?」
「何を、急に」
 田宮は図星を突かれた所為(せい)で飲んでしまいそうになる息を、(すん)でで止めた。
「解るのサ。六さんや安さんの時だって、ほんとを云えば妾は解ってたのサ。何か大事な決意をしてるッて……。誰にも云っちゃ無いけど、きっと(すご)肝心(かんじん)な事を決めてるッて」
 お妙の表情は、ずっと真剣であった。
「話してくれッて云うんじゃないんだヨ? そりゃ、吉さんの事は全部知って居たいけれど、妾にだって話してない事はウンとあるもの。おッ母さんにだって話しちゃいない事も、あるンだもの……」
 そう云うと、お妙はまた視線を下げる。
「……そうかい……」
 何故だか田宮は、胸の奥がツンと痛んだ気がした。
「……吉さんが、何を決めたのか……妾には解らないけれど……だけど……だけどねッ……妾は……ッ」
 パタ、パタと、太腿(ふともも)の上に置かれた両の手に(しずく)(こぼ)れた。
「……おいおい、泣いてるのか?」
 無粋(ぶすい)な質問だと云ってから思った。女子衆が何かを()()ねて涙しているのだ。もっと他に掛ける言葉が在るだろうと、田宮は思わず自分の下唇を()んだ。
「泣いちゃいないわヨッ」
 お妙はそう強がって、頬をぐいと乱暴に(ぬぐ)う。それでも次から次へと涙は(あふ)れ続けている。
 ――困った。
 如何(どう)すれば善いだろう――田宮は無い知恵を絞る。変梃(へんてこ)な顔でもすれば泣き止むだろうか。否々、そんな子供(だま)しで事が収まるとは思えない。()に角、落ち着かせる事が先決だろう。
「そ、そうだ。葛湯(くずゆ)。葛湯でも飲むか? 少しは落ち着く――」
「馬鹿ネ。もう子供じゃないワ……そんなンで泣き止んだりしないわヨ」
 それは本気だったのだが、如何やら冗談だと取られた様で、お妙は泣きながら小さく笑った。
 そうして深く息を吸い込んだ後、
「吉さんがどんな決意をしたか、妾には解らない。けどね、これだけは覚えておいて……吉さんがどんな決意をして、どんな事をしようとも……」
 お妙の小さな手が田宮の手に重なった。

()()()()()()()()()()()()……」

 有難(ありがと)うと、云い掛けた。済まないと――云い掛けた。
 だがそれを云ってしまえば、何事か決意した事を気取(けど)られてしまう。何も有ってはならないのだ。今は唯、普段と同じ日常を、これからもずうっと続けるのだと皆に思わせておかねばならない。明日も明後日も、それから先も、昔から続く生活を続けていくのだと――。
 だから田宮は、何を云ってるンだ――と、そう返した。
          ※
 出立(しゅったつ)の日まではあっと云う間であった。
 遠出をする準備に加え何時もの農作業もあったから、田宮はその刻限(こくげん)になるまで時刻に追われ続けた。
 忘れ物は無いだろうか。皆に心配を掛けるかもしれない。一筆残しておこう。養父母に責めが(およ)ばぬ様、己が全て悪いのだと(しる)しておくべきだろうか。明日になったら、皆は如何(どう)するだろう。騒ぎにはなるだろう。自分達を、否、お鄙様を探すやもしれぬ。それは防がなければ――考える事、用意すべき事は山積みであった。
 田畑を耕し作物を収穫し、陽が暮れて夕餉(ゆうげ)の時刻になる。
 西日が村の畑を金色(こんじき)に染め上げる。

 ――嗚呼(ああ)、綺麗だ。
 田宮はこの村に来て初めて、その美しさに気付いた。

 もうこの地の土は踏めまい。
 あの山に入る事も今宵(こよい)で終わる。
 何もかもが、今晩で終わるのだ。

 一九一九年九月の半ば、田宮が二十二歳の頃だった――。

 ホウ、ホウ、ホウ――何処かで(ふくろう)が鳴いていた。風が木々を揺らすざわめきが辺りに響いている。
 時刻はもう夜中に差し掛かっていた。月の明かりしか夜を照らす物は何も無かった。だが今夜の月は満月に近かったから、闇の中を進むのもそう難しい事では無い。田宮は風の音に(まぎ)(なが)ら、(やしろ)の庭にある茂みに辿(たど)り着いた。
 何処からか金木犀(きんもくせい)の甘い香りがしている。
 田宮は茂みの影で身を低くし、凝乎(じっ)と息を(ひそ)めた。普段の様に呼吸をすれば誰かに聞こえるのではないかとそう思ったからだった。必然、呼吸は深くなり、そして間隔は長くなっていく。
 約束の刻限まではもうそんなに間は無いだろう。
 ――この(まま)で息が続くだろうか。
 徐々に酸素の欠乏を覚え始めた、その時であった。

「……田宮……。田宮は居ますか?」
 細い、絹糸より細い声がした。
此処(ここ)に」
 田宮は茂みから半分身体を出し、己の存在を見せ付ける。女はそれを見て、明瞭(はっきり)安堵(あんど)の表情を浮かべた。
草履(ぞうり)を」
 裸足(はだし)で降りて来た女の足に草履を()かせてやる。それから白い襦袢(じゅばん)が闇夜に光らぬ様、用意していた着物を肩へ掛けてやった。
(しばら)くはこれで辛抱して下さい。(いず)れ落ち着いたら、きちんと着替えさせますから」
 そう云うと、女は強張(こわば)った顔の儘(うなず)いた。

 風が吹いた――。
 木々が鳴る。
 その音に紛れ、田宮は女の手を取り社の庭を出た。
 風が止めば足を止め、吹けば夜道を()ける。女を振り返り、まだ大丈夫だと思えばまた駆けた。

 そうして、少し(ひら)けた野原の様な場所まで辿(たど)り着いた。
 空を見上げれば、木々の葉に縁取られた夜空が見える。星々が二人の行く末を案じるかの様に瞬きを繰り返していた。
「大丈夫ですか?」
「……は、はい……ッ」
 女の息は上がっている。答える事すら辛そうであった。それもそうだろうと思う。日がな一日中あの場所に閉じ込められているだけで、身体を動かすという事すらした事が無いのだ。
「少し休みましょう。これから沢を(くだ)ります。隣町まではまだ先がありますから、今の内に身支度(みじたく)を整えましょう」
 そう云うや否や、田宮は背負っていた荷包みを下ろし、結び目を解いた。其処には帯や簡単な携帯食等が包まれている。身を隠す為の(かさ)も用意した。関所(せきしょ)()うの昔に廃止されてはいるが、出来るだけ身を隠して置きたかった。
「ええ……」
 ゼイゼイと鳴る女の胸に気付き、田宮は竹筒を取り出して水を飲ませてやる。それから小さな切り株を見付けると、其処(そこ)端座(すわ)らせてやった。
「……これが、森……なのですね……」
 一息()けた事で辺りを見回す余裕が生まれたのだろう。女は(しき)りと視線を動かし、物珍しそうに周囲を観察している。
「獣は……居る、のでしょうか。書物には、人を襲うものが居ると書いてありました」
 ホウ――梟が鳴いた。
「あれは?」
「梟ですよ。大丈夫。彼らは人は襲いませんし、この辺りには熊も狼も出ません」
 随分来たとは云え、人里が近いのだ。おいそれと出()うものではない。
「そう、なのですか……」
 安心するとばかり思っていた田宮の心は、女の残念そうな顔に裏切られた。それで、本心では見たかったのかもしれないと思い至る。
「何れ見れます。狸も狐も、他の土地には居るでしょうから」
「そう、ですね」
 田宮の考えは当たっていた様で、女は口許(くちもと)に笑みを浮かべるともう一度水を口に含んだ。その微笑みが何処か寂しそうであった事に田宮は気付かなかった。
「田宮」
「……吉と、呼んでください」
 竹筒を受け取り乍ら、田宮はそう云った。もう御役目(おやくめ)(にん)は解かれたも同然なのである。今更他人行儀にする必要もないだろう。だから、名前で呼んで欲しかった。
 女はそれに一瞬驚いた顔をして、
「……吉、さん……。この香りは、何の香りですか?」
 それから――はにかみ乍らそう云った。
「……ああ、これは金木犀ですよ。秋の初めに咲く、橙色の小さな花です」
「それなら絵を見た事があります」
「お鄙――」
(きよ)と、呼んでください。母が名付けてくれた大切な名です」
「清、さんは……清さんは……嗚呼(ああ)、何だか照れますね」
 野暮(やぼ)ったい事は云いっこ無しだと自分で云っておき乍ら、それでも名を呼ぶ度、胸の辺りが(くすぐ)ったい様な心持ちになる。冗談めかした云い方で誤魔化(ごまか)してはみたものの、矢張(やは)り照れ臭さは(まぎ)れる事が無く、田宮は参ったと自分の頬を掻いた。
「清は、何です?」
 それを笑った(まま)見ていた清は、そう問うた。
「ああ、物を善く知っているな、と思って」
「書物の中の事だけですけれど……。でも、実際に()るのだと今日知りました」
 心底幸せそうな顔をする。それを見ているだけで、田宮の心も温かくなった。
「あれ、あれは彼岸花ですよ。夏の終わりに咲く花です」
「彼岸に咲く花――死人(しびと)花とも云われていると、書いてありました」
「あの木は(けやき)です。あっちは(ひのき)
「家屋に使われる木ですね?」
 田宮が指を差せば清が知識を披露する。体験と耳学問(じがくもん)が交わる不思議な時間だった。時間を忘れ、逃げている事も忘れ、田宮と清は互いの知識を披露し合った。田宮でさえ知らぬ事を清は知っていたし、その逆もあった。
 生きて来て一番、幸せな(とき)だった。

 ホウ――その終わりを告げる様に、梟が鳴く。それに釣られた様にして、遠くで蛙が二匹鳴いた。

「……却説(さて)、そろそろ行きましょう。この(まま)では夜が明けてしまう」
 そう云って田宮が立ち上がる。
 月はもう随分傾いて来ていた。明るくなれば動き(やす)くはなる。だがそれは追手も同じだろう。一筆残したとは云え清を連れ戻す為村人が山狩りをするかもしれぬ状況では、暗い内に出来るだけ距離を(かせ)いでおきたかったのだ。
 (しか)し清は、夜空を見上げるだけで立ち上がろうとしなかった。
「清さん。もう行かなければ」
 田宮がそう腕を取ろうとした時だった。

 はらり――清の眼から、涙が(こぼ)れたのである。

「……美しい……夜です……」
 瞳に一杯の涙を溜め乍ら、清は震える声でそう云った。
「如何したのです。足でも痛めましたか?」
「いいえ、いいえ……。そうでは無いのです……」
 云い乍ら、清の双眸(そうぼう)からははらりはらりと涙が(あふ)れ出る。それはふっくらとした柔らかな頬を伝い、ぱたりぱたりと(こぼ)れ落ちていった。
 何故泣いているのか見当も付かなかった。感動しているのだろうかとも思ったが、表情がそれを否定している。
 一緒に逃げようと――清は言葉を震わせた。
「……一緒に逃げようと、云ってくれました……。一人で逃げる事も出来た筈なのに……」
「何を――」
「あんなに恨んだのに……。あんなに憎んだのに……ッ。貴方が村へ戻る度、どれ程憎らしく想ったか……。貴方も此処(ここ)に囚われれば善いと、そう何度も、何度も何度も呪ったのに……」
 それでも貴方は優しかった――清はそう云うと、小さく嗚咽(おえつ)()らす。
「何故ですッ。如何(どう)して私を憎んではくれないのですッ。お前が居るから俺は村から出られぬのだと、如何して恨んではくれないのですッ」
 それが辛い――と、清は漏らした。
 その哀しみに呼応(こおう)する様に、木々がザザとざわめいた。
「……貴方に優しくされる度、自分が(けが)れてゆくのが解るのです……。私の心は(みにく)(ゆが)んでしまった……ッ。貴方と接する度、それに気付かされる!」
 刹那(せつな)、清は田宮に抱き着いて来た。か細く震える()は寒さの所為(せい)ではないだろう。女特有の華奢(きゃしゃ)体躯(たいく)が胸の中に収まった。
 田宮は両の眼を見開き、何処でもなく唯虚空(こくう)凝眸(ぎょうぼう)する。
 鼓動が耳元で煩瑣(うるさ)く鳴った。
「……今の私は……もう、昔の清では無いのです……。悪意も何も知らなかった、純朴(じゅんぼく)な乙女では無い……。母は云いました……。生涯清らかで居られる様に……この御役目にあって、決して汚れる事無く清白(せいはく)で居られる様に……貴女に清と名付けたと……」
 でも、もう()()()()()()()()()()()――清はそう云い、田宮の唇を甘く吸うた。
「……ずっと、()()()()()()()()()()()……」
 田宮の視線は清に在るが何も見えては居なかった。今起こっている全ての出来事が夢の中の事の様でいて、それでいて頭だけが爛々(らんらん)()えている。
「……だけど……駄目なのです……。もう、(しま)いにしなければ……ッ」
 清の流した涙が、田宮の頬を伝う。
「私が居れば……貴方が穢れる……。貴方が居れば……私の心は醜くなってしまう……ッ」
「……そんな事は――」
 漸く出た声は(かす)れていた。喉元が強く締め付けられている所為だった。
「……耐えられない……ッ。この(まま)逃げて、それで如何(どう)なります! 運良く(とが)められる事が無かったとして、それで如何なりますッ。貴方は私に縛られた儘、私は貴方を恨んだ儘ッ! こんなに愛おしい人を……一生恨み続ける等……ッ」
 私には、出来ない――清はそう云って、田宮に強く抱き着いた。
 田宮はやっとその躰をひしと抱き留める。
 ずっと苦しめていたのだと漸く気付いた。田宮の存在が清を追い詰め苦しめて来た。清廉潔白(せいれんけっぱく)で居る事が清の苦悩だったのだ。柔順(じゅうじゅん)だった事こそが清を追い詰めていたのだ。

 何と云う、何と云う不幸であろうか。
 ()()()()()()()()()()()()()であったと、誰が思おうか。

 田宮は細い躰を抱き締めて涙した。
 清も同じ様に泣いている。
 死人を(いざな)う赤い花に囲まれて、二人は己の恋が終わる瞬間を想った。一緒にはなれぬ、共に生きる事が出来ぬ絶望が、二人の胸中(きょうちゅう)を締め付けた。
 だから殺して欲しいと願ったのだ。一緒になれぬのならせめてもの救いとして、愛しい人に殺して欲しかった。
 その気持ちが田宮をまた苦しめた。
「……殺して……ッ」
 田宮の力強い腕に掻き抱かれ乍ら、清は涙を止める事無く囁いた。
「殺してください……。貴方の手でッ!」
 清の叫びが森を伝いほんの少しだけ木々の葉を揺らす。

 暫時(ざんじ)、風が()いだ。
 その静かな夜には、幾望(きぼう)(ひかり)と金木犀の芳醇(ほうじゅん)な香りが満ちていた――。

 ヒヒ、ヒヒヒヒヒ――と、季節の移り変わりに乗り遅れた(ひぐらし)の鳴く声がして、吉崎はゆっくりと長い邂逅(かいこう)から戻った。
 窓から見える景色は、夕暮れと云うより夕闇に近くなってしまっている。
 長い語りの所為(せい)で張り付く様な喉の違和感を覚えた吉崎が(からだ)(わず)かに(ひね)ると、目の前に湯のみが差し出された。その湯のみの向こうに在る嶋の表情は、何処となく堅く強張っている様に思えた。
如何(どう)ぞ。()れたてです」
 その言葉に(たが)う事なく、湯のみからは幾筋(いくすじ)かの湯気(ゆげ)が立ち、少しだけ濃い色をした緑茶が並々と注がれていた。
 それを一口飲んで吉崎は椅子に深く背を(あず)ける。
 ふうと、漏らすでも無く吐息が漏れた。
「……美しい夜だった。秋を告げる甘い薫りと夏の終わりを(いろど)る紅い花……。夏と秋、季節の変わり目と、彼岸(ひがん)此岸(しがん)、生と死――それが一緒くたに入り混じった、夢とも(うつつ)とも云える様な不思議な夜だった……」
 その独り言にも似た邂逅を、嶋は唯凝乎(じっ)と聞いていた。
「……私はね、嶋君……」

 ()()()()()()()――吉崎はそう明瞭(はっきり)と云った。

「清を、この(まま)では生きては居られぬと漏らした清を、この手で殺したんだ……。そうするしか無かった様にも思えるし、そうしたかった様にも思える……」
 吉崎は湯のみへ視線を落とし、まるで清の素肌でも撫でる様にその縁を指で(なぞ)った。
          ※
「……吉……さんッ……」
 田宮の節榑(ふしくれ)立ったがさつな指が、清の細い(くび)に食い込んだ。清はまるで夜伽(よとぎ)の時男に甘える女の様に、田宮の腕に(しな)やかな指先を絡ませる。
「…………ッ――清……ッ」
 田宮は泣いていた。
 泣き(なが)ら指先に精一杯の力を込める。
 ぎり、ぎりり――。
 細い頸がどんどん幅を(せば)めてゆく。
 白かった筈の顔が赤紫色に()れていった。
 ぎりり、ぎり――。
 か、と喉から音が()れた。

 それきり清は――()()()()()()()

 瞼の落とされた目尻から、涙が一筋はらりと落ちる。
 幸せそうな表情をしていた。それは恍惚(こうこつ)の表情に似ていた。
 田宮は清が絶命するその瞬間を確かに見ていた。

 小さく愛らしい唇が(くう)を飲む様を。
 切れ長の凛とした瞳が虚空(こくう)凝眸(ぎょうぼう)する様を。
 滑らかな素肌が夜光に照らされ、輝く様を。

 〝それは酷く官能的(かんのうてき)一刻(ひととき)〟であった。

 それから田宮は、清の(からだ)を堅く抱いた。
 抱いて抱いて――掻き抱いて泣いた。
 声を上げ()()()()咆哮()いた。

 一陣(いちじん)の風が吹き(すさ)び、田宮の哀しさを(さら)ってゆく。それでも悲嘆(ひたん)は次から次へと喉から漏れた。慚愧(ざんぎ)()えなかったのだ。口惜(くちお)しさや寂寥感(せきりょうかん)は絶えず、痛嘆(つうたん)は終わるところを知らぬ様に(あふ)れ出た。
 田宮は声が枯れ、(かす)れた(うめ)きしか出なくなるまで泣いた。

 ガサリ――。
 茂みがざわついた音がして、田宮は俊敏に顔を向ける。
「……吉さん……ッ!」
 其処から侵入(はい)出て来たのはお妙であった。お妙は何事かと田宮へ駆け寄り、
 そして全てを把握(はあく)した。
「逃げて!」
「何をッ。この儘清を捨て置けと云うのか!」
 田宮は激昂(げっこう)した。この()(およ)んで尚、死体に(むち)打つ様な事は出来ないと否定する。
此処(ここ)(あたし)が何とかする! 清、清さんの気持ちを無碍(むげ)にはさせない! ちゃんと(とむら)って貰える様、妾が村の皆を説得するから! この儘じゃ、あんたも死ンじまうじゃないかッ!」
「死んだって構わない!」
 元よりそのつもりだった。自分独りで生きて行く勇気は無いのだ。清と共に死ぬ、田宮はそう決めていた。その頬をお妙が思い切り引っ(ぱた)く。
「馬鹿云わないで頂戴(ちょうだい)! そんなのッ。そんなのあんまりヨ!」
 それから二重(ふたえ)の大きな眼からポロポロと涙を(こぼ)れさせたが、それを矢張(やは)り乱暴に(ぬぐ)う。
「泣いてる暇なんか有りゃしないワッ。目付がもう清さんが居なくなったのに気付いたのサ。村の人達は山狩りをするッて! お願い、逃げて頂戴ッ! 安さんも、清さんも! 吉さんまで失いたくないの!」
 だから逃げて――お妙は繰り返しそう云った。
「生きてれば(いず)れどっかで会えるもの……ッ。いいえ、必ず見つけ出してみせるワ。もし――もしその時、生きている事を後悔して居たら……あの時如何(どう)して死なせてくれなかったと思っていたなら……そしたらその時は、屹度(きっと)妾が殺してあげる……」
「如何して――」
 其処(そこ)までしてくれるのだという言葉は、お妙に乱暴に押された背中で()き消えた。
 お妙は田宮から確乎(しっか)りと清の(むくろ)を受け取ると、田宮を追い払う様に石を投げ付けた。
 それで、田宮はその儘山を駆け下りた。
          ※
「――それから如何なったのか、私は知らない……。その後直ぐに関東大震災に見舞われてね。聞いた所では、あの村は土砂(どしゃ)の下に埋まってしまったらしい。今はもう、地図にすら村の名前は残っていないんだ……」
 其処まで云って、吉崎は湯のみに口を付ける。それから小さく息を漏らした。
「私は矢張り、()()()()()()んだ……」
「如何して、そう思うんですか?」
 嶋の問い掛けに、吉崎は音も無く笑う。
()()()()()()んだよ」
 関東大震災発生時、吉崎は深川(ふかがわ)区(現在の江東(こうとう)区)の辺りに居住(きょじゅう)していた。
「あの辺りも酷い被害だったんだ。建物なんてものは消し飛んでしまったかの様でね……だけど、私は生き()びてしまった……。何度も死のうと思ったんだ。事故でも何でも善かった。唯、自分で死ぬ勇気だけは如何しても持てなくてね……。だから情けないかな、何かに巻き込まれでもして死にたかったんだ」
 だが運命は、吉崎の寿命を延ばすばかりであった。
「そうこうしている内に、世界大戦が始まった。私は()ぐ様軍に志願してね。そう、先の大戦で志願した六郎には、その時再開した」
 六郎は年老いてはいたが、若い頃と何ら変わらぬあどけなさで吉崎を迎えてくれた。村を捨てる様にして出て来た事、震災で村が無くなった事、それから戸籍が焼けた所為(せい)で名前が変わった事等を話して、昔咄(むかしばなし)に花を咲かせた。

 一九四〇年――吉崎が四十四歳の頃であった。

「それから満州(まんしゅう)へ出兵になった。これで死ねるとそう思ったのを覚えているよ……」
 (しか)し――吉崎はそう云って苦い笑みを零す。
「殺してはくれなかった……。左足に被弾(ひだん)した時はやっと死ねるのだと思ったのだけどね……皮肉なもので、大動脈は外れてしまっていた。敵の歩兵をあんなに恨んだ事は無い。もう少しまともに当ててくれていたなら――」

()()()()()()()と……そう()()()()()?」

 突然の質問に、吉崎は嶋を見遣(みや)る。嶋は何時もちゃらけている表情を引き締め、凝乎(じっ)と吉崎を見詰(みつ)めていた。
「……もう、(いそ)がずとも善くなってしまったよ」
 吉崎は(よわい)六十を超えている。自ら望まずともお迎えはもう()ぐ其処まで来ているだろう。だからそう答えると、嶋は何処か安心した様な笑みを零した。

「僕の祖母の名前は、嶋妙(しまたえ)と云います。広崎村(ひろさきむら)出身で、昔は()()と呼ばれていた。震災の難を逃れて、今は千葉に住んでいます」
「……お妙……ッ」
 吉崎は目一杯両の眼を見開く。驚きの余り声が(かす)れている。
 嶋はそんな表情を眺め、何処か満足そうに微笑んだ。

 ――生きてれば(いず)れどっかで会えるもの。いいえ、()()()()()()()()()()()ワ。もし――もしその時、生きている事を後悔して居たら……あの時如何(どう)して死なせてくれなかったと思っていたなら……そしたらその時は、屹度(きっと)妾が殺してあげる……。

「では……ッ。では()()……ッ――」

 庭の縁を彩る赤い花が風に(そよ)ぐ。
 金木犀の清香(せいこう)(ほの)かに薫った。
(了)

薫り満つ花

表紙画像 : いもこは妹 様 http://www.pixiv.net/member.php?id=11163077
この場をお借りし、御礼申し上げます。

薫り満つ花

金木犀の甘い香りと、紅く咲き誇る彼岸花。 夏の終わりと秋の始まり、此岸と彼岸、生と死の交わる夜――。 「殺してください――」 女はそう云った。

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更新日
登録日
2017-03-24

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