せんせい
せんせいが、きえた。
きえた、というより、けされた。
せんせいは、おそらくだれかを、傷つけたのだ。
『にんげんに危害をくわえたら、クビ』
そういう約束を、校長せんせいとしているとウワサになっていたし、実際にそうだった。
わたしは学校のなかで、せんせいといちばん親しい存在だった、と自負できる。
せんせいは、わかってくれるひとだった。
わたしが、わたし、であることをゆるしてくれる、唯一のひとだった。
女子のスカートをはいても、それがふつうのことであるように接してくれる、唯一のおとなだった。
「もしぼくがいなくなっても、きみは、きみのままでいてくださいね」
せんせいはときどき、わたしの手をにぎり、おまじないをかけるようにそう言った。
やめてよ、せんせい、いなくなるだなんて。
わたしは怒った。
せんせいは、ほほえむばかりだった。
せんせいがいつもいる、生物準備室は、いきもののにおいと、いきものが死んだにおいがまじったにおいがして、空気はひんやりしていた。
わたしはこの生物準備室がすこしニガテだったけれど、でも、せんせいといっしょにいるために、休み時間や放課後は入り浸った。
せんせいの手伝いをして、せんせいとせんせいが淹れたコーヒーをのみながら、おしゃべりをした。
「ときどき、わからなくなるときが、ある。朝起きたとき、夢と現実の境目が、あいまいであるときの、あの感覚がね、授業をしているときや、部活動をみているとき、職員会議をやっているとき、それから、きみと過ごすこの時間にも、ふいにおそってくるんだ」
その感覚が心地よく、けれども、おそろしい。
さびしそうな顔で、せんせいが話してくれたことが、あった。
わたしは、せんせいに傷つけられても、ぜんぜん、へいきです。
せんせいは、だまっていた。
その日の放課後の空は、やけに赤かった。
いびつに赤かった。
せんせいがにんげんを傷つけたとき、にんげんからあふれた赤い血が、こんな色のを空をつくったりするのかも、なんて想った。
いつもはブラックでも、ふしぎとごくごくのめてしまうせんせいのコーヒーに、その日は妙な苦味を感じた。
せんせいのことが、好きだった。
だれよりもおおきな手が、好きだった。
だれよりもふとい脚が、好きだった。
せんせいは、にんげんよりもにんげんらしい、せんせいだった。
せんせいのうでのなかは、お布団のなかのように、温かかった。
せんせいにのしかかられたときの、あの、圧迫感が、たまらなかった。
せんせいのからだはどこもかしこも、甘かった。
せんせいはわたしを、わたしは、わたしでいいのだ、と思わせてくれた。
せんせいはわたしを、おんな、として扱ってくれた。
せんせいはわたしを、雌雄関係なく、ひとりのにんげん、としてもみてくれていた。
せんせいはまるで聖人であり、しかし、その実体はにんげんではなく、にんげんを傷つける可能性のある、クマであった。
せんせいはおうちの事情で学校を辞めて、故郷に帰ったのだと、朝の集会で校長せんせいが話された。
でも、学校のはんぶんくらいの生徒は、せんせいがにんげんを傷つけてクビになったのだと思っていたし、ほぼまちがいなくそうであろうという確信が、わたしにはあった。
家族は幼い頃に死んだ、帰る故郷がないと、せんせいがおしえてくれたからだった。
わたしは校長せんせいのことばなんかより、当然、せんせいのことばを信じている。
せんせいとは結局、コイビトのまねごとしかできなかった。
せんせいは、わたしをたいせつにしてくれたのだ。
わたしが高校生だから。
こころとからだが、ともなっていないから。
せんせいがクマで、わたしがにんげんだから。
(せんせいに傷つけられたひとが、うらやましい)
わたしは思った。
たいせつにしてくれるのはうれしかったけれど、それとおなじくらい、ひどくしてくれてもよかった。
せんせいの、ほんとうの姿をわたしは、みたかった。
つくろっていない、うまれたままのせんせいを、わたしにさらけだしてほしかった。
わたしはせんせいがいなくなった次の日から、女子のスカートをはいて登校するようになった。
どうしてスカートをはいているんだ、男子は指定のズボンをはきなさいと、担任に注意されたけれど、生徒手帳には学校指定の制服を着用すること以外、男子が女子のスカートをはいてはいけないとは書かれていません、と反論して、わたしはスカートをはきつづけた。
そもそもわたしは、ズボンではなく、スカートをはくべきひとなのだ。
「きみは、きみのままでいてくださいね」
わたしはせんせいのおまじないを、こころのなかで何度も、何度も唱えた。
せんせいのいなくなった生物準備室は、いきもののにおいがしない、ただの準備室に成り果ててしまったけれど、わたしはときどき、足を運ぶ。
せんせいの顔を、声を、からだを思い出しながら、わたしはせんせいとすごした生物準備室で、目を閉じた。
せめて、夢で逢えたら。
せんせい