砂のゆりかご
波の音だと思ったそれは、砂の音だった。
気づいたときには、砂浜にいた。
砂の上に、横たわっていた。
はだかだった。
赤い月が、みえた。
ベッドの上に、いたはずだった。
血をのむひとと、していたのだったか。
血をのむひとは、血をのみたいはずなのに、がまんしているひとであった。
「のみたければ、のめば」
そう言いながら右うでをさしだしてみたが、首を横に振るばかりだった。
もしかしたら、うでからのむものではないのかもしれない。
「どこから血をのむの?」
ぼくの問いかけに、血をのむひとは、はずかしそうに答えた。
「首に、ストローをさします」
つまり、蚊、みたいな感じだ。
そういう感じです。
血をのむひとがうなずいた。
ちゅるる、と吸うんだ。
そんな感じです。
ぼくと、血をのむひとの関係は、ビミョウだった。
コイビト、とはちがう気がした。
だってキスを、したことがないから。
けれどもセックスは、何度もしているから。
「それっていわゆる、性行仲間というやつですね」
血をのむひとが、まじめくさった顔で言った。
数学教師が遊び心を交えてつくった、やたら難解な応用問題に本気で取り組んでいるやつのような、表情だった。テスト用紙の裏なんかにある、あの、解けても解けなくても点数に反映されないやつ。
「それって、ちょっとちがうよ」
いや、ちがくはないのだけれど。
仲間、というと複数のひとが参加している感じだけれど、実際に性行をしているのは、ぼくと、血をのむひとである。
ぼくと、血をのむひとの性行には、ぼくと、血をのむひとしか参加していない。
「ならば、恋仲でしょうか」
だからそれも、なんだかちがうんだよ。
ぼくは言った。
血をのむためのストローってやつを、みせてほしいと思っていた。
しかし血をのむひとは、血をのむのをがまんしているので、ストローを持ち歩いていないのだった。
コイビトになるための手順を、まるでふんでいない。
手順、とは。
まず、相手を好きになること。
そこからですか?
好きじゃないと、意味がないよ。
でも私は、あなたが好きです。
ぼくだって、あなたのことが好きだ。
ならば、それは恋仲という関係に該当するのでは、ないのでしょうか。
好きなんだけれど、ちがうんだよ、なにかが、ちがうんだよ。
血をのむためのストローって、あの、赤や、青や、緑のラインがはいっているやつ、だろうか。
それとも、無地の白か。
はたまた太めの、黒か。
もしくは、血の色がありありとわかる、透明か。
どれもありえそうだし、どれもありえなそうだった。
血をのむひとと話していると、ときどき、なにを話していたのだか、フクザツにねじれ、たわみ、糸のようにからまって、からまったところを、糸切りばさみで、ちょきん、と切って、会話が途切れるということが、いくどかあった。
けれども、ぼくは、血をのむひととのそんなひとときも、わるくはないと思っていた。
好きだけれど、好きではない。
よくいうところの、好きの種類が異なる(ライクか、ラブか、というやつ)とも、ちがうような気がする。
気がするだけ。
「ぼくの血を、のみたいと思わないの」
「思うけれど、思ってはいけないので、思いません」
ベッドをぬけだし、紅茶を淹れながら血をのむひとは、言った。
血を、のまれてみたい。
ぼくは思った。
血をのむためのストローとやらを、さしこまれてみたい。
痛いのかもしれないけれど、でも、蚊のそれは、さされたところがかゆくなるまで、さされたことに気づかないほどなのだから、まるで痛くないのかもしれない。
ぼくは、じぶんの首すじにストローをさしこまれて、血液を、からだのなかからちゅるると吸い上げられるところを想像して、興奮した。
もう一回、と思ったけれど、紅茶を淹れおえた血をのむひとは、すでに下着を身につけ、ワイシャツを羽織っていた。
ぼくは、四肢をベッドに縫いつけられたようで、からだを起こすことができなかった。
かなしばりに、あっているみたい。
辛うじて動く首をまわし、血をのむひとのことをみていた。
あの、うすくて白っぽいくちびるにストローをくわえ、血をのむのか。
いったい、いままで、どのようなにんげんの血を、のんできたのだろうか。
比率は。
男が多かったのか。
女が多かったのか。
おとなか、それとも、こどもか。
そんなことをかんがえているあいだに、ぼくは、いつのまにか砂浜にいたのだった。
そばにいたはずの血をのむひとは、いなかったし、砂浜のはずだけれど、海はみえなかった。
海はみえなかったけれど、潮のにおいは、していた。
波の音だと思っていたそれは、風に吹きつけられて舞い上がる砂の音だったけれど、でもかすかに、水がはねる音も、きこえていた。
はだか、であったが、だれもいないから大丈夫、と思った。
だれもいない、なんて確証はなかったけれど、漠然とそう思った。
砂の上は、心地よかった。
素肌に砂がはりつく不快さは、なかった。
かわいた砂であったし、ぼくの肌も、水分を失っている感じだった。
そういえば血をのむひととの性行のあと、ぼくはなにものんでいなかった。
赤い月の、赤い色が、トマトジュースにみえてきた。
血をのまなくなってしまった、血をのむひとに、トマトジュースをのませてあげたくなった。
けれども、もう、血をのむひとに、逢えないような気がする。
気がするだけ、と思いたいのだけれど、でも、気がするだけではないような、気がする。
ゆれるはずのない、砂のゆりかごが、ゆれる。
ねむりは、近い。
砂のゆりかご