歪んだ鉄槌

歪んだ鉄槌
読むのにかかる時間:九十分くらい


 気がつくと真っ暗闇だった。いや、目を覚ましたのかもわからない。だって真っ暗闇で何も見えないんだ。それとも目が見えなくなってしまったのだろうか?今、気付いた事だがおでこの辺りまで水がつかっている。だから息もできない。この水、もの凄く冷たい。氷よりも冷たい。そして体を動かそうとしているがまるで動かない。小指ひとつ動かせやしない。ほんの少し、左側に体重をのせ首を傾けるとすぐ壁に頭をぶつけた。どうやら自分は小さな空間の中にいるらしい。頭がボーっとしてきた。そりゃそうだ、息ができないんだから。意識が遠のいていくのがわかる。
──なんなんだ一体、これは?夢なのか?


年の瀬、世間は年越しの準備に入ろうとする頃警察に二つの捜索願が提出され受理された。一つは市内に一人暮らしをしている派遣社員の吉川鳴海ともう一つはこのあたりを取り仕切ってる暴力団、八木興業の組長の一人息子、八木洋志の捜索願である。この二つの捜索願の話はすぐに署内に広まり、小岩の耳にも入った。
「大崎先輩、珍しいですね。この二つの捜索願、なんせそのうちの一つは……」
「あ?うるせーな、今週末の有馬記念の事で頭がいっぱいなんだよ、オレは」
「有馬記念?」
「競馬だよ、ケ・イ・バ。このレースの結果次第でナオちゃんに会いにいけるかどうかの瀬戸際なんだよ」
「いつものキャバ嬢ですか。プライベートな事だからなにも言いませんけどホドホドにしたほうがいいですよ、まったく。競馬に負けてももうお金は貸しませんからね。それより貸したお金早く返してくださいよ。もう積もり積もって五万ですよ?だいたいキャバ嬢にそんなにいれあげてどうするんですか、先輩だって営業スマイルだってわかってるんでしょう?警察官がキャバクラに行くのもどうかと思いますよ、自分は」
「……十分口出ししてるじゃねーか」
 しかし口では気にしていない素振りをしているが大崎も不自然に思っているに違いない、と言うのも捜索願と言うものはどこでもだいたい相場が決まっていて、未成年の家出か高齢者の行方不明がほとんどなのだ。それにOLはともかく指定暴力団八木興業の組長の息子だ。暴力団が警察を頼ってくるなんて……ないとは言えないにしても小岩がこの署に配属されて初めての事だった。
「おーい、大崎に小岩。こっちに来てくれ」
最近ではめっきり髪の薄くなった六十代前半の課長、島の坊がぼくたちを呼んだ。
「課長、どうしました?」
「今朝の捜索願の事は署内の噂になっているからもう知っているかもしれん。この署も忙しくてお前たちしかいないんだ。担当してくれ」
「ぼくたちですか?殺人事件が専門の捜査一課が人探しするなんて聞いた事ないですよ」
「上がとにかく早く処理しろというもんでな、カタチだけでもいいんだ。とにかく行方不明になった経緯を調べて報告書に書いてワシに提出してくれ。年内には頼むぞ」
「あのう、八木組にも行くんでしょうか?おれたちマル暴じゃないんですけど。ちょっと怖かったりして」
「当たり前だ!警察がヤクザにビビってどうするんだ!早く行け」


 三十半ばの小岩と四十過ぎの大崎はコンビを組んでまだ三ヶ月、まだ相棒というにはほど遠かった。まじめにやっているのに検挙率はいつも捜査一課で最低の小岩と大雑把で素行不良の大崎。二人は捜査一課の事務員刑事と言われている。この二人に大きな仕事などまわってこない。ほとんど毎日、捜査一課の事務作業で一日を終える。大崎はその事に気がついているが小岩は自分が捜査一課のお荷物だということなどまったく気がついていない。むしろ正義の味方である警察官の仕事に誇りさえ持っている。大崎は小岩が事務作業をする姿を目にする度に言わぬが花、知らぬが仏という言葉を実感する。
 二人は署を出て、小岩の運転で行方不明になったOL、吉川鳴海の実家へと向かう。
「大崎先輩、どう思います?」
「有馬記念?そりゃーやっぱ一番人気のササキラクバオーだろうよ」
「ちがいますよ!この二つの捜索願ですよ。ぼくはこの二人の失踪はつながりがあるんじゃないかと思うんですが。たとえばこの二人が駆け落ちしたとか」
「OLと暴力団組長の息子の駆け落ち?そんなことあるかなあ」
「うーん、でも家も結構近いんですよね。じゃあ先輩はどう思ってるんですか?」
「オレもナオちゃんと駆け落ちしたい」
「……そろそろ殴りますよ」
 二人の車は吉川鳴海の実家についた。ピンポンを押すとしばらくして吉川鳴海の母親、父親、そして妹がでてきた。
二人は家へ上がるよう促され、リビングに案内された。玄関からリビングまで何の変哲もない普通の家だ。
「こちらへおかけください。すぐにお茶を入れますね」
吉川鳴海の母親がお茶を入れてテーブルにそっと置いた。
「捜索願には二週間前から連絡がとれなくなった、とありますが間違いないですか?」
「ええ、間違いありません」
「それにしても二週間とはだいぶ日がたってから警察に相談に来られたんですね。まあ未成年というわけではないですからわからなくもないですが……」
「実はいままでにもこういう事はあったんです。友だちの家に行ったりしてマンションに帰ってこなかったり連絡がとれなかったり、ということは。ただし長くても一週間くらいでした。一週間、なんの音沙汰もないので不安に思えてきましてね。でも鳴海の事だからひょっこり連絡が入るかもしれない、すこし待ってみようと思っていました。ただ鳴海の勤める派遣会社に連絡したら無断欠勤が続いているとのことでした。それで鳴海のマンションの部屋にも行ってみたんですけど、新聞はポストに溜まり放題だしさすがにおかしいと思ったわけです」
「その時部屋の中には入らなかったのですか?」
「ええ、お恥ずかしい話ですが私どもは鳴海のマンションの鍵を持っていないのです。管理会社に連絡しても警察でなければスペアキーを借すことはできないと言われてしまって。過保護に育てすぎた反動か鳴海は中学の時から荒れだしましてね。高校卒業時にこの家を出て行きました。この一人暮らしも家出同然で出て行ったようなものなのです」
「なるほど。ちなみに一番最後に連絡をとったのはいつです?」
「それは私が……」
鳴海の妹だ、おとなしそうな女の子という感じだ。
「今から二週間前の金曜日に連絡をとりました。なんかクラブに行くって言ってました。」
「クラブってお姉さんたちがお酒いれてくれるところ?」大崎が口をはさむ。
「?……いえ、そういうところでなくてDJが音楽をかけたりするところだと思います」
「あ、そうだよね……女の人がキャバクラなんていくわけないか」
妹はスマホを取り出し姉との最後のLINEを見せてくれた。
「ほら、この連絡が最後です」
「なるほど。お姉さんはクラブへはよく行ったりしてたんですか?」
「ええ、それほど頻繁ではなかったようですけど。ちょくちょくは行ってたみたいです」
「そのクラブはどこのクラブかわかりますか?あと、そのクラブは一人で行ってたかどうかわかりますか?」
「どこのクラブかはわかりません。一人で行く事の方が多かったようです。なにをするにも基本は一人行動の人でしたから」
「わかりました。ところで鳴海さんの写真を一枚お借りしてもよろしいですか?できれば就活のようなかしこまったものではなくて普段の鳴海さんの写真がいいのですが」
「それならこちらに」
母が鳴海の写真を差し出す。そこには無表情でピースをしている吉川鳴海が写っていた。髪は金髪、カラコンを入れメイクも濃いめの女性だ。目の前にいる地味目な鳴海の母親と妹にこんな派手な家族がいたとは信じられない。
「妹さんとは……なんというかタイプが少し違いますね」
「ええ、だけど突然いなくなると親としてはやはり心配でね、うちのやつなんかここ数日食事も喉を通らないんです。帰りたくないなら帰らなくていい。だけど無事である連絡だけは欲しいのです。どうかお願いします、刑事さん」
 二人は形式的な質問を終えると吉川家を出た。吉川家の三人は深々と頭を下げ、二人を見送った。あまり連絡をとっていなかったとはいえ血のつながった家族だ、藁もつかみたい気分だろう。
 二人の乗った車は八木組へ寄る前に吉川鳴海のマンションへ向かう。鳴海の部屋は三〇二号室、エレベーターで三階へ。エレベーターの扉が開くと三〇二号室の番号札を見なくても一目でわかった。郵便受けには新聞がきゅうきゅうにつめこまれてあふれているからだ。入りきらなくなった新聞はドアの前に積み上げられている。誰の目にもこの部屋の住人に何かがあったというのが丸わかりだ。
「この部屋が吉川鳴海の部屋ですね、ワンルームマンションのようです。やっぱり吉川のお父さんが言ってたように新聞がすごいたまってますね。この新聞は……毎朝新聞ですね。うちと同じだ。先輩、鍵開けて中まで入ってみますか?」
「いや、まだ事件と決まったわけじゃないからな。勝手に入っちゃまずいだろ。必要ならば吉川鳴海の父親同伴じゃなきゃ。それに今日はこのあとに八木さんち行かなきゃいけねーしな……やだなあ」
三〇二号室の前で二人が話していると二階から帽子をかぶり眼鏡をかけマスクをした一人の青年が駆け上がってくる。その青年は二人を横切り三〇八号室のインターホンを押した。
「こんにちはー。毎朝新聞の集金です、いらっしゃいますかー?」
三〇八号室からは誰も出てこない。今のご時世、高齢者のいる家庭でなければこんなお昼前に家に誰かいるなんてほとんどないだろう。男はブツブツ言いながら四階へあがろうとしている。
「あの、君。ちょっといいかな?」
「はい」
「ぼくたちこういう者なんだけど、ちょっといいかな?」
警察手帳を見せる小岩。大崎は今日も手帳を忘れたらしい。ただだまってうつむいている。
「一体なんの御用でしょうか」
「実はそこの三〇二号室に住んでいる人なんだけど、新聞あんなにたまってるよね。何か知らない?」
「うーん……二週間前の土曜の朝の配達の時にこの部屋に入っていく女の人を見ました」
「本当?正確な時間は?」
「本当です。時間は……このあたりだと営業所でてすぐだから午前四時くらいですね」
もしこの話が本当なら、最後に鳴海を目撃したのは今のところこの新聞配達員だということになる。
「わかった、こちらの名刺を渡しておくよ。何かまた気づいた事があれば連絡してほしい。こちらからも何か聞く事になるかもしれない、よければ君の名前と連絡先を教えてもらっていいかな?」
男は北根だと名乗った。大崎はペンと紙を渡し、北根に電話番号を書いてもらった。電話番号を書き終わった北根は集金のために四階へとあがっていった。


 吉川鳴海のマンションを出て八木興業の組長の家へと車を走らせる。とはいっても八木の家は吉川鳴海のマンションから五分たらず、あっという間に到着した。八木の家はここらの地域では群を抜いて大きいお屋敷だ。そして異彩をはなっている。
「はあ、やだなあ……」
大崎がため息まじりにつぶやく。二人は車からおりて八木家に目をやると玄関口には真っ赤なジャージを着たスキンヘッドの男が手を後ろで組んで立っている。いかにもヤクザの組長の自宅、という感じだった。
「ねえ、悪いけど先行ってくんない?」大崎が小岩にぽそりと言った。
かゆくもないのに頭をかきながらこの男こんなのでよく刑事やってるな、と小岩は思った。
 八木家の玄関口には真っ赤なジャージを着たスキンヘッドの男が手を後ろで組んで立っている。いかにもヤクザの組長の自宅、という感じだった。
「警察ですが」小岩が言った。
「お待ちしておりました!組長はこちらです!」ジャージの男は十メートル先の人間に話しているかのような大きい声で受け答えし、深々と頭を下げて中へと案内してくれた。
 門の中へ入るとかなり広い日本庭園だ。シシオドシがある家なんて初めて見たと大崎が蚊が飛ぶような小さな声でつぶやいている。立派な松の木が何本も並んでいるし小さな川が流れる先には池に鯉が何匹も泳いでいる、玄関に入ると虎の剥製がこちらに向かって口を開けている。靴を脱いであがり案内している男についていった。静かな庭園を三人の足音と案内役の男の大きなネックレスのこすれる音がたまに聞こえる。大きなふすまのある部屋を通り過ぎ、四つ目のふすまの部屋の前で案内の男は大きな声を出した。
「組長!警察の方をお連れいたしました!!」
ふすまを開けると洋風で十畳くらいの大きさの部屋に六十代の着物の男、五十代過ぎと四十代半ばのスーツの男が二人座っていた。三人はすっと立ち上がり会釈をした。一番若い四十代くらいのスーツの男が頭を下げながら「お待ちしておりました、本日は来ていただいて申し訳ありません。こちらが組長の八木、その隣が若頭の加賀、私が若頭補佐の大隅です」
と案内の男の三分の一くらいの音量で、つまり普通の人が話すより少し小さめの声で言って軽く会釈した。組長と若頭と若頭補佐、つまり組のトップとナンバー二、ナンバー三という事になる。小岩と大崎はうながされるまま席についた。ひと呼吸おいて着物の男、八木組長が話し始める。
「実はうちの倅と連絡がつかなくなってしもうて……心配しとるんですわ」
加賀が横から口を挟む。
「私どもも、人探しは慣れたものなんですが今回ばっかりはどうも警察さんのお力なくては見つけられそうもないんです。たとえばクレジットカードの使用歴やスーパーやコンビニの防犯カメラの確認なんかは私どもではできませんので」
「なるほど、それでなにか心当たりなどはありますか?」
八木組長が口を開く。
「いや、ありませんな。ただ……」
加賀が横から口を挟む。
「組長、その話は」
「お前は黙ってろ」
「はい」
「実は数年前から隣町の岸田組がうちのシマを狙っておりましてな。まさかとは思うが倅に何かしたのでは、とも思っております」
「岸田組ですか」小岩が答える。八木興業は不動産と飲食店、岸田組は金融関係が強い。組員の数こそ少ないがここ最近勢力を伸ばしてきているとマル暴の刑事から聞いた事がある。
「ああ、でもこちらの線は薄いかもしれません。もし岸田組がなにかしたのならさすがに私たちの耳にも入るはずです」加賀が言った。
「おまえは黙ってろと言っただろうが!」加賀に対して組長が怒鳴る。
「すいません」加賀が組長に頭を下げる。
若頭補佐の大隅は微動だにせず、大崎をにらんでいる。大崎は気付かない振りをしている。
「捜索願には一週間前から姿を見なくなった、とありますが間違いありませんか?」
「ええ、間違いありません。一週間前の金曜日にわしらの経営するクラブ『ジャスティス』で一仕事して店を出てから見たものはいません。うちの若いのに探させてるんやが、だれも見たものはおらんのです。車はいつも置いている駐車場にあるみたいなんですが、どうもタイヤがパンクしているそうなんです。その上、車のキーは倅しか持っとらんし開けれないのです」
「クラブ……ですか」小岩が大崎と顔を合わせる。もしかしたら吉川鳴海との接点が見つかるかもしれないと二人は感じた。
「念のためお聞きしておきますがこちらの女性に見覚えはありませんか?名前を吉川鳴海と言います。実は八木洋志さんとこちらの女性の失踪時期が非常に近く、もしかしたら何か関係があるのかもしれないと思いまして」
三人は吉川鳴海の写真を見て首をかしげ答えた。
「いや、まったく心当たりありませんな」
「そうですか。いや、気になさらないでください。あと八木洋志さんの写真を一枚いただけますか?」
二人は八木洋志の写真を受け取った。
「それではこれで」
「どうぞ、よろしくお願いします」
組長、若頭、若頭補佐がそろって頭をさげた。部屋を出てふすまを閉めると大崎が小岩にこそっと呟いた。
「お前すげーな、怖くないのかよ」
「なにが怖いんですか僕たちは警察なんですよ」
「もちろんそうだけどさあ」
「ところで、どうなんでしょうね?競馬のことじゃないですよ、吉川鳴海と八木洋志です」
「まだわからんがクラブで接点があったかもしれないな。一週間という時間差はあるが二人ともクラブを最後に姿を消している」


 クラブ『ジャスティス』は中華街のすぐ側にあるビルの二階だ。階段を昇り、扉を開けて中へ入るとまだ開店前だった。大きなフロアの向こうのほうにバーカウンターが見え、男が開店の準備をしている。店内は音楽も流れておらずしん……としている。聞こえるのはバーテンダーが拭き終わったグラスを棚に並べる時にグラスとグラスがぶつかるキン、という音ぐらいだ。奥の壇上にターンテーブルが二台とヘッドフォンがふたつ、畳半畳ほどのミキサーが置いてある。
「警察だけど、ちょっと話いいですか?」
バーテンダーの男はグラスを拭く手を止め、顔をあげた。
「い、いいですよ。でもゆっくり、ゆっくりしゃべってね。日本語まだ勉強中。中国から来てぼくまだ日本語勉強中」
「ああ、わかりました。ところでこの男の人ですけど」
小岩が写真をとりだしてシャオに見せる。
「ああ、坊ちゃんですね。知ってます」
男はシャオと名乗った。中国から日本に来て二年ということらしい。ある時このクラブの関係者に拾われ『ジャスティス』でバーテンダーをしている。シャオが言うには八木洋志はこのクラブでDJをしているのは金曜日の夜八時から九時までの一時間だけらしい。一番客が入る曜日と時間だ。クラブDJというのは一人で音楽を流し続けるのではなく、一人一時間から二時間を数人で受け持つようだ。ただDJのギャラというものは多少名が売れていても雀の涙ほど、新人などはボランティアで、DJのほとんどは他に仕事を持っているらしい。ミュージシャンとして大成したいという夢を追いかける者、楽しくDJをする者、いろいろいるようだ。
「この八木洋志さんを最後に見たのはいつですか?」
「一週間前の金曜日です。DJが終わって、その日は店が終わるまでいて帰りました」
「この写真の女性に見覚えは?」
「ああ、この人知ってます。このクラブにちょくちょく来てました、お客さんです。最後に見たのは二週間前ですよ。二週間前、坊ちゃんと飲んでました。それ以降は見てないですよ」
小岩と大崎は顔を見合わせた。やはりこのクラブ『ジャスティス』で二人の接点があった。吉川鳴海と八木洋志は顔見知りだ。
「では話を八木さんに戻します。いなくなったのは一週間前という事ですがいなくなる前、なにか変わった事はありましたか?」
「うーん……あっ!ありました!あの日、八木というDJはどの人か聞いてきた男の人がいました」
「どんな男ですか?」
「眼鏡をかけた男の人でしたね。服装はここへ来るお客サンとはだいぶちがってジーンズにジャンパーみたいな感じでした」
「それでその男は八木さんを待っていたんですか?」
「いえ、坊ちゃんのDJが始まると出て行きました」
「ちなみにその日、八木洋志さんがこの店を出たのは何時ですか?」
「え、えーと……あの日は二時くらいだったと思います」
「なるほど。また何かお聞きする事があるかもしれません」
 小岩と大崎は店を出て八木洋志の車を確認しに行った。クラブ『ジャスティス』から歩いてすぐのパーキングに八木の車は乗り捨ててあった。ベンツの黒いバン、すべての窓に真っ黒のスモークフィルムが貼られている。駐車されている他の車とは違いひと際目立つ。車を確認すると右後輪のタイヤがパンクしており、車体が少し傾いている。
「八木組長の言った通り、タイヤがパンクしていますね。ということは終電も過ぎてますし八木洋志は歩いて行方不明になったんでしょうか?」
「たしかにわからんな、タクシーに乗ってふらりと旅にでも出たのかな」
「それなら家に連絡のひとつくらい入れるでしょう。もしかして拉致されたとか……」
「拉致で思い浮かぶのは八木組長が言ってた岸田組か。だが組長の息子をさらってどうする?抗争でも起これば人数の少ない岸田組なんてあっという間に八木興業につぶされてしまうよ」
「わかりませんね、どういうことなんでしょう。念のためこのあたりを走っているタクシー会社に八木らしき人物を乗せたかどうか確認しておきます。とりあえず署に帰りますか。もう日も暮れて真っ暗です」
「オレはここに残るよ、クラブがどんなところか見て帰る」
「タクシー会社に確認の電話はぼくが一人でするんですか?報告書もぼくが?勘弁してくださいよ」
「ばーか、これも捜査の一環。じゃあ小岩、お前も残る?」
「誰が報告書を書くんですか、署に帰りますよ」
小岩は小言を言いながら署に戻っていった。


 午後七時、クラブ『ジャスティス』が営業を開始した。照明が落ち、ミラーボールがまわり幻想的な雰囲気だ。ブルー、レッド、イエロー、グリーンのカラーライトがこのフロアを次々へと彩っていく。巨大なスピーカーから大音量で音楽が流れ出した。耳を塞ぎたくなるような爆音だ。重低音がブンブン鳴り、部屋が振動で揺れている。大崎はカウンターに歩み寄りシャオにウイスキーを注文した。
「ウイスキー、ロックで」
「えっ?なんですか?」
「ウイスキー!ロックで!!」
「ああ、ウイスキーね。わかりました」
シャオはグラスに大きなアイスボールを入れ、ウイスキーを注いでいく。注ぎ終わるとライムをぎゅっとしぼり長いマドラーでぐるりと一回かき混ぜてこちらに差し出した。
「はい、オンザロック。お待たせしました」
「ありがとう、ところであっちの人が飲んでるカクテルみたいのは?」
「あ、あれは始めてのお客さんに限りサービスしてるんです」
「オレ、今日がここ来るの初めてなんですけどオレにももらえます?」
「……わかりました、少々お待ちください」
シャオは奥に入ってしばらくするとオレンジ色のカクテルを差し出した。
「こちらになります」
「どうもありがとう」
 ウイスキーに口をつけ、DJがプレイするのを見ていた。年は二十歳そこそこの男が手でヘッドホンを耳に当てながらパソコンに向き合っている。昔のようにターンテーブルでプレイするわけではなさそうだ。曲は最近流行のEDM、鳴り始めたときはうるさいと思ったが耳も慣れてきたのかだんだんと心地よくなってくる。足でリズムをとりながらウイスキーを飲み干した。お客さんもちらほらはいりだしたようだ。やはり若者が多いが四十代くらいのスーツの男性もいる。一時間がたち、二人目のDJが現れ曲を流す。懐かしい曲だ、デリック・メイのstirng of life。大崎が学生時代に腐る程聞いていたオールドスクールテクノの定番曲だ。DJをよく見ると大崎と年はさほど変わらなさそうだった、このDJも夢を追い続けているのだろうか。そんな事を考えながらカクテルを飲み干した。急に気分がよくなってきた。頭が冴え、視界はクリアになり空でも飛べそうな感覚だ。リズムに合わせて体を揺らす。二人目のDJから三人目のDJに代わり、このDJはどんな音楽を流すのかと思っていたらスピーカーから聞こえてきたのはHIPHOPだった。ラップのないインストゥルメントHIPHOP。ゆったりとしたジャズテイストのピアノサウンドに図太いスネアドラムが裏拍を打つ。なるほど、これは若者だけじゃなく大人も来るはずだと感じていた。踊りたい人は踊ればいいし、飲みたい人は飲めばいい。ふと気がつけばシャオが大崎の袖を引っ張っている。
「刑事サン、あの子、写真の子の友達だよ。よく一緒にいたよ」
シャオが指をさす方を見ると吉川鳴海の友達らしく派手なメイクの女がいた。
「あのー警察ですが」
「えっ?なに?」
「警察ですが!」
ここで話は聞けないと思い女の袖を引っぱり店の外へ出た。
「なんなのよ、もう」
「警察です、吉川鳴海さんのお友達ですか?」
「えっ警察!?鳴海……知ってるけど。でもここで会うくらいの仲。メアドくらいは交換したけど」
「最近吉川さんに捜索願が警察の方に出されましてね、何か知りませんか?」
「捜索願?被害届じゃなくて?」
「どういうことです?」
「本当になにも知らないの?」
「はい」
「鳴海、ここのDJの男に乱暴されたって」
「それは本当ですか!?」
「ええ。あたしが喋ったって言わないでよ。巻き込まれたらいやだから。二週間前の金曜日、このクラブで二人で飲んでたんだよね。でも先に私は夜十時くらいに帰ったわ。私が帰ったあと、DJの一人が寄ってきてカクテルをごちそうしてくれたんだって。でもだんだんと意識が遠くなって……気がついたら服は破れてて道路に倒れてたんだって。その翌日の土曜にメールが来たよ、ほら」
女はスマホを取り出しメールを開けみせてくれた。そのメールの末尾には家族に知られたくない、生きているのがつらい、死にたいと締めくくられていた。
「もしかしてそのDJとはこの写真の男では?」
「そうそう、たぶんこいつだと思う。噂だけど、今までもそういうことやってたみたいよ。でも……」
女があたりを見回して、小声で話した。
「今までもこういう事やってたんだけど、あいつの親、暴力団の組長らしいじゃん。それで、その組員かなんかが被害届出しても取り下げるよう圧力かけてくるんだって。それ以前に被害届も証拠がないとかで警察もなかなか受理しないらしいじゃん、あんたたち警察もひどいよ」
この女の話が本当なら、八木は相当の悪人だということになる。
「あなたのお名前は?」
「ちょっと!今喋った事絶対内緒にしてくれるんでしょうね?約束しなきゃ名前も連絡先も教えない」
「約束します、絶対警察の人間にしか話しません。それで、あなたのお名前は?」
「新田裕子」
 吉川鳴海と八木洋志の接点が見つかった。この吉川鳴海から送られてきたというメールを信じるなら駆け落ちの線は消えた。そして脳裏によぎるのは……。やはり吉川鳴海の部屋に入らなければいけない、大崎は強く感じた。


 目をさますと激しい倦怠感に襲われていた。二日酔いなのだろうか、体が重い。たかだかウイスキー一杯とカクテルでこんなにも吐き気がするなんて。大崎は我慢できずトイレへ行って吐いた。そしてなんとかシャワーを浴び身支度をして署へ向かった。
 署に出勤すると小岩がすでにデスクについている。昨日クラブで会った新田裕子から聞いた話を小岩に話した。そして小岩も大崎に報告した。
「あのあたりでタクシーを運営してる各会社に連絡とっておきました。終電を過ぎたらもうさほど客はいないようで、午前二時頃八木宅へ向かったタクシーはおろか、八木らしき若い男を乗せたタクシーはいなかったようです」
「そうか。ますますわからんな」
「ただ、さっき交通課の人に聞いたらあの金曜日の翌日、クラブ『ジャスティス』近くのパチンコ屋で車の盗難があったようです。八木の車とは似ても似つかないファミリーカーですけど。もしかして八木はその車を盗んでどこかへ消えたんでしょうか?」
「パンクしていたから車を盗んだってことか?それならタクシーを捕まえるだろうよ」
「たしかにそうですね。車の盗難が必ずしも八木と関係してるかもわかりませんからね。しかし盗難にあったのは八木失踪の当日ですからねえ」
小岩は首を傾げ考えている。
「とにかく吉川鳴海のマンションに行ってみるぞ。彼女、もしかしたら乱暴されたショックで自殺しているかもしれない。そうでないことを祈るが……吉川鳴海の父親に連絡してくれ。オレたちだけで確認したいが、勝手に入る事もできないしな」
「わかりました」
小岩はデスクにある電話の受話器をとり、吉川鳴海の父親に連絡をとった。
「今日はお休みみたいで一日あいているそうです。今から行ってみますか」
「そうだな、行こう」
小岩と大崎はコートを羽織り、警察署を出て吉川鳴海のマンションに向かった。


 小岩と大崎、吉川鳴海の父親は彼女のマンションで待ち合わせた。吉川鳴海の父親が来ると三人は管理人室に向かい管理人に警察手帳を見せ、吉川鳴海の捜索願が出ていると言って鍵を借りた。すると六十過ぎくらいの管理人が不思議な事を言った。
「またですか?」
「またとはどういう意味です?」
「こないだも捜索願が出ていると言って警察の方がいらして鍵を借りて三〇二号室の鍵を借りていったのですが」
「そんなバカな、どういう人でしたか?」
「ええと、たしか年は二〇代後半くらいの男性でした」
「その男は警察手帳は見せましたか?」
「いいえ、しかし事前に警察から電話がありましたので間違いないと思いました」
「そうですか。とりあえずちょっと三〇二号室の鍵をお借りしますね。話はまた後で」
管理人室を出て三人は三〇二号室に向かい部屋の鍵を開けて中に入った。電気がつけっぱなしになっている。吉川鳴海の父親がつぶやいた。
「なんか……においませんか?」
この独特のにおいは、まさか……。リビングに続くドアはひと一人がギリギリ通れるくらいに開いていた。そしてドアのすぐ先につま先が少し見えている。大崎は急いでほんの少し開いているドアを通り抜け中に入ると吉川鳴海がドアノブに電気コードをかけ座り込むような状態で首を吊って死んでいた。
「お父さん!来ないで!」
大崎が叫んだが時既に遅く吉川鳴海の父親は中に入ってきて娘の姿を目にした。吉川鳴海の父親は、ああ……と小さな声を出して崩れ落ちた。吉川鳴海の体は薄いサツマイモ色に変色し、唇の端から顎の先にかけて唾液が乾いた後が残っている。彼女のおしりのあたりの床は失禁した尿が乾いた跡が残っている。遅れて部屋に入ってきた小岩が吉川鳴海の遺体を見てそっと呟いた。
「左袖のボタンがとれてる……」
 その後、すぐに署に連絡し鑑識が到着。課長の島の坊も来た。小さなワンルームは警察の人間でいっぱいになった。吉川鳴海の父親は部屋から離し、パトカーで待機してもらった。鑑識がありとあらゆるところを写真におさめ、指紋をとったりしている。鑑識が部屋を調べる間は鑑識以外の人間は部屋に入れないので小岩と大崎は管理人室に戻り警察を名乗った不審な男について聞く。
「鍵、ありがとうございました。大変な事になりました、しばらくは警察の人間が出入りする事になると思います」
「それでこの間来た男は警察ではなかったのですか?」
「はい、おそらく。しかしなぜ警察だと思ったのです?警察手帳も見せなかったのでしょう?」
「それはその男が来る前この電話に着信があって警察署と表示されたからです。そして電話に出ると三〇二号室の鍵を借りたいというのです。私もまだここの管理人を勤めて半年ほどで、前任の管理人が登録していったのだと思いました」
「ちょっと失礼」
電話の履歴を調べると警察署と表示される履歴はなかった。他に残っている履歴はほとんどが管理会社からの着信だった。
「あれ、おかしいですね。この電話は滅多に鳴らないし履歴の一番古いのは一ヶ月前やから残ってるはずなんですけど……」
「もしかしたら消されたのかもしれませんね。その警察官をかたった男に。その男はこの件に関与している可能性もあります。念のためお聞きしますがこの男ではなかったですか?」
小岩は八木洋志の写真を管理人に見せた。
「いいえ、違います。こういう感じの人ではありませんでした」
管理人は首を横に振った。
 鑑識の捜査が終わり、吉川鳴海の部屋へ入る小岩、大崎、課長の島の坊、そして刑事たち。吉川鳴海の遺体を見て課長の島の坊が捜査員たちに言った。
「これは自殺で決まりだな、間違いない」
たしかにこの状況なら自殺と考えてほぼ間違いないだろう、警察官が百人いたらほとんどの警察官がそう言うはずだ。しかし、不審な男がこの部屋のスペアキーを借りている。
「遺体の解剖はしないですって?」
「ああ、そうだ。部屋の鍵はかかっていたしこれはどう見ても自殺だ。部屋には荒らされた形跡もないし、ホトケさんが抵抗した様子もない。きれいなもんだ。それに吉川鳴海の首元を見てみろ、うっすらだが生体反応もあるじゃないか。アザができているだろ。おまけにホトケさん、死にたいって友達にメールしてたそうじゃないか。自殺で決まりだよ」
「しかしメールしていたとはいえ遺書はありませんよ。それに不審な男がこの部屋のスペアキーを管理人室から借りてたみたいです」
「遺書を残さないで自殺する人間なんてたくさんいるだろう?それに不審な男と言ってもきっと空き巣目的かなにかに決まってる。部屋に入ったはいいがこの状況を見て逃げ出した事だろう。もし仮にその不審な男が吉川鳴海を殺したとしてもこの状況を作り出すのは不可能だ。争った形跡もない。睡眠薬を飲ませて眠らせたというのなら別だが、突然鍵を開けて入ってきた男が茶を沸かし睡眠薬を入れて、それを吉川鳴海に差し出したとでも言うのか?そんなもの誰が飲むんだ。それにお前も解剖にいくらの予算が割り当てられているか知らないわけじゃないだろう。死体が出たからといって右から左へと解剖にまわせるか」
小岩と大崎は何も言わず島の坊の指示に従った。だが大崎は鑑識にマンションの管理人室も調べてほしいと依頼した。そして吉川鳴海の部屋と管理人室からここについている指紋と一致するものがあるか調べてほしいと電話番号の書かれた一枚のメモを渡した。


 数日後、鑑識から捜査一課に連絡があった。ひとつ不自然な点があり吉川鳴海のスマホからは吉川鳴海本人の指紋が検出されなかった事だ。検出された指紋は吉川鳴海ではないただ一人。吉川鳴海のスマホについた指紋は管理人室の電話機からも検出された。その指紋は大崎が鑑識に渡した電話番号が書かれた一枚のメモ。それは大崎が電話番号を書かせた時についた指紋、新聞配達員の北根のものだった。
「大崎さん!さすがですね!なぜ北根が絡んでるとわかったんです?任意で提出されたものじゃないから証拠能力はないとはいえ、北根につながりました!」
「あの北根って男、おれたちが吉川鳴海の部屋に行った時集金に来てただろう。その時毎朝新聞をとっている吉川鳴海の部屋に集金に行かなかったのは変だなと思ったんだ。こいつはもしかしたら吉川鳴海がどういう状態なのか知っているのではないか、ってね」
「なるほど!見直し……いや、感心しました!」
「まあ刑事のカンってやつだな、お前も常日頃から鋭い目線で物事を見るようにしろよ。そして関係者にはできるだけ指紋をとっておく、これが大切だ」
「勉強になります」
「あいつは吉川鳴海の部屋に入ったんだ。一体何のために?課長が解剖はしないと言ってもせめて北根の話を聞いてからでも遅くはないんじゃないか。吉川鳴海の遺体は?」
「もう遺族に返したようです。葬式は今日だとか」
「おいっ!急ぐぞ!火葬されてしまう前に!少し待ってもらうだけでいいんだ!」
 二人は吉川鳴海の葬式へと向かった。だが葬式は終わり遺体はすでに斎場へと運ばれたという。二人は大急ぎで斎場へと向かった。斎場へ着くと斎場の煙突からは煙が出ている。二人が斎場の中へかけこむと吉川鳴海の火葬はもう終わっていた。親族たちが遺骨を集めている。一人の人間の死、それは何よりも重い。吉川鳴海の遺族は自分の家族が暴行され、間接的に殺されたようなものだ。
「刑事さん、どうかしましたか?」吉川鳴海の父親が言った
「いえ……」
「娘に乱暴したやつは見つかりましたか?」
「已然行方不明です」
「警察はいったいなにをのんびりやってるんだ!娘に乱暴して逃げてるに決まっている!早く見つけて罰を受けさせてやってください!!」
吉川鳴海の父親が声を荒げて言った。
 斎場から引き上げる車の中、肩を落とした大崎が小岩に言った。
「北根がどんな人物なのか洗うぞ。吉川鳴海を殺したかどうかはわからないが部屋の中に入ってるのだからな。もしかしたら八木洋志ともなにかつながりがあるんじゃないか?八木洋志が失踪する日、クラブ『ジャスティス』でバーテンダーに尋ねてきたのは北根なんじゃないのか?そうなると」
「はい、たしかに八木失踪となにか関係があるのかもしれない。必ずつながりがあるとは言えないけど、北根は何か知っているかもしれない。いや、ここまで来るとぼくは八木と北根が共謀し吉川鳴海を乱暴、そして何らかの理由で北根が八木を殺したのでは?と思うのですが……」
「そういう可能性もあるな。あの弱そうな北根だって、睡眠薬か毒物でもあればどんな大男だって殺せるからな」
 二人は北根について調べた。北根は幼い頃、両親が離婚し母親に引き取られた。ほどなくして母は再婚したのだがその二人の間に新しい子が生まれると血のつながりのない父親の態度は一変し、ことあるごとに北根に折檻をした。北根は毎日のように虐待を受け、ある時異変に気付いた近所の通報により保護された。保護された時、北根の服をまくってみると首から下にはたくさんのアザがあったらしい。北根は施設に引き取られ、そこで育った。この施設の施設長は北根についてこう語った。
「北根くんね、あの子はだれよりも頭のいい子でした。ただここへ来てから友達という友達はいませんでした。なんというか、ちょっと難しい子でね。無口であまり他の子たちと話しているのを見たのもかなり少ないんです。私も友達のいない北根君を心配しておりました。そして高校三年生になるとあの二ツ橋大学を受験したんです。たしか法学部だったかな。結果は一発合格、私たちもそりゃあ驚いたものです。この施設の子は高校を出るとだいたいが就職ですからね。あんな有名大学に塾にも行かずに受かるなんて。……ですが両親は学費の支払いを拒否、正しくはお父さんが拒否したんですな。お母さんはパートに出るくらいなもので学費なんてとても出せないと。それで奨学金を借りて大学へ行きました。高校を出るとここも出て行かなければならない規則ですから学費と生活費が必要になりますからね。新聞配達のバイトも始めてなんとかやっていたようです。だがある時その新聞の配達中に事故を起こしてお年寄りにケガをさせてしまったんです。その事故も自転車で信号無視して横断歩道を渡ろうとしたお年寄りが悪いにも関わらずバイクに乗っていた北根君が業務上過失ということで賠償金を払わなくてはいけなくなった。この大きい乗り物に乗っている方がほぼ負けるという法律はちょっとおかしい気もしますが……いや、警察さんに言う事じゃないですね。失礼。だが北根君はあの事故以降、ずいぶんと警察に恨みをもっているようです。自分の人生が狂ってしまったのは半分は警察のせいだと。事故の賠償のためにまた別のところから借金もしたみたいなんです。だが大金を借りたはいいものの返す当てがない。結局一年たらずで大学を中退しバイト先だった新聞配達の寮で住み込みで働いて借金を返し続け今に至るわけです。不憫な子です、本当に」
 二人は施設長から話を聞き終わるとできるだけ最近の北根の顔写真を借りた。その写真を手に吉川鳴海のマンションの管理人に確認した。マンションの管理人は写真を見て警察官をかたった男は北根で間違いないと管理人は証言した。その足でクラブ『ジャスティス』にも行き、バーテンダーのシャオにも尋ねた。シャオは八木洋志が失踪する日に尋ねてきた男は北根だと証言した。
 小岩と大崎はこの北根が吉川鳴海と八木洋志の二人に何らかの関わりを持っているのは間違いないと確信し、二人は北根の寮へと向かった。


「任意ならお断り」
北根はチェーンが施錠されたままドアを少し開け、二人に言った。
「なに?なにかやましいことでもあるのか?」小岩が低めの声で言った。
「さあね、でもどうしてもっていうなら令状持って来なよ。証拠が揃ってるなら一日二日で出るだろう?」
「令状が発行されると逮捕することになるぞ、まだ任意同行の段階だ。オレたちはまず話を聞きたいんだよ。吉川鳴海さんが亡くなっているのをお前、知っていただろう?それに八木洋志が失踪する日、クラブ『ジャスティス』にも行ったな?その辺の話を聞きたいんだよ」
何も言わずに北根は勢いよくドアを閉めた。バン!という音が社員寮の廊下に響き渡る。小岩は北根!署まで同行して話を聞かせろ!と大きめの声でドアを叩いたが返事はなかった。大崎が小岩に言う。
「仕方ない、逮捕状請求するか。どうせ遅かれ早かれこうなるんだ。警察官の名をかたった容疑で逮捕してそこから色々聞き出そう。今は官名詐称の容疑でしか令状はおりないだろう。それにしても北根のやつ、会ったときはおどおどした印象だったのに今日は人が変わったように強気だった。中退とはいえ法律の大学にも行っていた。手強いかもしれない」
 すぐさま二人は吉川鳴海のマンションの管理人の証言を元に裁判所に北根の逮捕状を請求。逮捕状はその日のうちに発行された。再度、北根の住む寮へ。
「北根、警察官の名をかたった官名詐称の容疑で逮捕する」
「とりあえず逮捕して色々聞くつもりなんでしょう?あんたたちの常套手段だね。裁判所に行ってる間準備しておきましたよ。長くなりそうなんでね。仕事の都合とか着替えの準備とかね。年越しは留置所で過ごす事になりそうだな。まあ、いい経験かもしれないね。それじゃあ行きましょうか」
 北根は逮捕され、署に連行された。取り調べ室に入ると北根は鉄格子のついた窓を背に座らされ一息つくと小岩と大崎に話し始めた。

一〇
 あの日、ぼくが朝刊の配達に出て吉川鳴海のマンションに着いて、バイクを止めて新聞を持って入ろうとすると彼女がふらふらと歩いて帰ってきた。だが服ははだけ、目はうつろだった。ぼくは彼女になにかよからぬ事が起きたのだとすぐにわかった。いや、どんな鈍感な人間があの時の彼女を見れば思うはずだ、乱暴されたのだと。自分は彼女がその後、どういう行動に出るのか非常に興味があった。警察に届けるのか?それとも泣き寝入りするのか?ぼくはこの一件がどういう顛末になるのか知りたいという衝動を押さえきれなくなった。
 その日の夕刊配達の時に吉川鳴海の部屋のポストに今使っていないスマホを仕込んだんだ。スマホに録音アプリを入れ、音を感知して録音開始するようにしてポストの内側に両面テープで貼付けた。一軒家ならともかくワンルームマンションだ、ポストからでもなんとか録音できるだろうと思った。そしてスマホは朝刊配達時に回収する。回収したスマホの録音データを聞いてみると、ゴソゴソという雑音のみが聞こえた。吉川鳴海は布団から出ず寝込んでいたようだった。そして泣きわめく声も聞こえた。かすかに、苦しい、もう死にたいという声も聞き取れたよ。そして録音データの最後には彼女のえづくような声と咳の音が入っていた。そこで録音はOFFになっていた。次の朝刊配達のときにスマホを回収すると同時にポストを開けて中を覗いてみた。すると朝の四時なのに電気はつけっぱなしだった。ぼくは彼女がなにをしたのか察した、そして自分の推察は正しいのか確かめなければ、と思った。
 夕刊配達の時、吉川鳴海のマンションの管理人は必ずマンションの各階廊下の掃除をしている。この間は管理人室は開けっ放しさ。習慣化された業務とは怖いものだよ、ねえ刑事さん。ぼくはその間に管理人室に忍び込んだ、吉川鳴海の部屋三〇二号室のスペアキーを拝借しようと思ったんだね。しかしキーボックスには鍵がかかっていた。当然さ、ここが開けっぱなのはいけない。そこでぼくは管理人室の固定電話に自分のケータイ番号を登録し、自分からの着信には警察と表示させるようにした。夕刊を配り終わった後、この管理人室に電話をかけた。吉川鳴海さんに捜索願が出ている、今から行くから鍵を貸してほしいと言い、一度帰宅してスーツに着替え眼鏡をとり、帽子脱いでマンションに戻った。管理人は不審に思ってる様子はなかったと思うよ。ぼくが新聞を配達をしている時は眼鏡に帽子、マスクもしているかえらな。その上配達の時に顔を会わす事なんてないからな。警察手帳なんて、聞かれたら忘れたと言えばいい。よく忘れる警察官がいるからな。そっちの刑事さんもちゃんと携帯しておかないとだめだよ。もしどうしても警察手帳を見せろといわれたら引き下がるつもりだった。
 鍵を借り、中を確認したらすぐに返すと言って部屋に入った。いや、入ろうと思った。というのもドアは重く、なかなか開けられなかった。思い切り押し開けて中に入ると吉川鳴海はドアノブに電気コードを巻いて首を吊っていた。体が紫色に変色していた。口元から唾液が垂れ、彼女のおしりのあたりの床は失禁した尿で濡れていた。 ぼくは怒りに震えたよ。この人をこんな目にあわせた奴に制裁を加えなければならないと思った。いや、勘違いしないでくれよ。刑事さん。ぼくはストーカーでもないし吉川さんに好意を持っていたというわけじゃないんだ。ただただ正義のために、鉄槌を下す必要があると思った。だが誰が彼女に乱暴したのか?彼女のスマホを調べてみると裕子という女友達にメールしていた。「あの日の後、DJをしていた八木という男にカクテルをおごってもらい、飲んだらぼうっとしてきて、その後気がつくと服はぼろぼろになって道路で倒れていた」みたいな内容だったね。メールの最後には家族に知られたくない、だけど悔しい、生きてるのがつらい、死にたいとあった。もしこのメールを元に警察に持っていってもおそらく警察は動かない。だってこういう犯罪は親告罪だから。自殺した人間が被害届なんて出せないもんな、やったもの勝ちさ。それにもし警察が動いて八木を捕まえ裁判にかけたとしても懲役は四年程度だろう。おかしいよね、日本の刑法ってのは。人の人生を狂わせておいてたったの四年の懲役だなんて。それに模範囚を演じればもっと早く出てくる。ぼくは昔から思っていたんだ。どうしてどこの国も身体拘束刑をメインに罪の重さを考えるのかってね。体で償わせるのは死刑だけ。その昔、紀元前のメソポタミアという文明があった地域にはハンムラビ法典という法があった。知っているだろう?「目には目を、歯には歯を」ってやつさ。とても合理的だと思わないか?ぼくは八木に、自分自身の体で償わせる事にしようと思った。スマホをもとの場所に戻し「仇はとってやるからな」と、もう聞く事のできない彼女に言って部屋を出た。
 八木について知っている事と言えばクラブ『ジャスティス』で金曜にDJをしているということだけ。ぼくは夕刊の配達が終わると『ジャスティス』に行き、そこの従業員に八木というDJの出番はいつか聞いたよ。バーテンダーが八木だと言った男はいつもぼくが新聞の配達をしている八木邸のお坊ちゃんだった。家も知っているし車も知っている。ぼくはクラブを出てやつの車に「すべて知っているぞ」と電話番号を書いて窓に挟んでおいた。そして車のタイヤをパンクさせた。車で来られると面倒だからね、車の処理が。八木からの連絡を待っていると夜中の二時くらいに電話があったよ。こちらは非通知を拒否しているから八木の電話番号もはっきりと知る事ができた。そして八木は「いますぐ会えるか」と言ってきた。そこで八木が『ジャスティス』から徒歩で歩いてこれる公園へ呼び出した。公園へ着くと八木はもう来ていた。ぼくは缶コーヒーを二本買って一本を八木に手渡し、八木に背を向け話始めた。なんで背中を向けたかって?奴が女の子にするように飲み物に何かいれるだろうと思ったからさ。「お前、吉川鳴海に乱暴しただろう?」やつは「お前の望みはなんだ?金か?」と言ってきた。お前の望みはなんだ?金か?だと……まさにドラマの悪役が口にしそうなセリフさ。うんざりだったね。「彼女、自殺したよ。警察に自首しろよ」というと八木は「いやだね、おれはなにもしていない。それより車をパンクさせたのはお前か?おれをだれだか知ってるのか?ただじゃすまないぞ」と言ってコーヒーに口をつけた。しらじらしい嘘、反省の色など微塵もないうえにたかがパンクですごんでくる。やはりこいつは殺すしかないと思った。ぼくは先ほど知った八木の電話番号に非通知でかけた。八木は向こうを向いてもしもし、と話している。その瞬間に八木とぼくの缶コーヒーを入れ替えたんだ。飲み終えると案の定、あっという間に八木は意識を失ったよ。
 あいつを抱きかかえぼくのアパートに戻った。ぼくのアパートはすぐそこなのに一時間以上かかったよ。誰かに見られたかもしれないがあんな真夜中だ、きっと酔いつぶれた友達を送っているように見えただろう。部屋に着くとぼくは八木の持っている者をすべて取り出した。スマホ、財布、車のキーに白い粉の入った小さな容器。この容器の中身はきっと睡眠薬だろうね。自分自身が口にして眠らされるなんて思ってもいなかったろう。そして服を全部脱がせ猿ぐつわをして体を縄でしばった。つま先までしっかりね。そして水のはいってない浴槽に入れた。そして料理はここからさ、文字通り料理はここから。ぼくは一番大きい鍋に水をたっぷり入れ、消石灰と重曹を入れコンロに火をつけた。消石灰というのは学校のグラウンドに粉を落としてラインをひいたりするだろう、あの粉がまさに消石灰だね。水酸化カルシウムである消石灰と炭酸ナトリウムである重曹を七:一〇で混ぜ合わせ熱を加えると劇薬水酸化ナトリウムの完成だ。別名苛性ソーダってやつだ。化学式はNaOH。この強アルカリ性の液体はタンパク質を分解する。つまり人体を溶かす、どろどろにね。ぼくは鍋が沸騰すると浴槽へ、沸騰すると浴槽へ運んだ。苛性ソーダが浴槽に一杯になるとわざと五センチだけ息のできる空間を作っておいて浴槽に蓋をした。そして蓋の上に部屋のありとあらゆる重しを置いた。
 すると八木は目をさましたようだった。うんうん唸っていたよ。八木が真っ暗闇の中で唸っている間、ぼくは奴のスマホを調べた。奴が今まで乱暴してきた女の写メやらなんやら沢山出てきたよ。人間のクズ、悪人、もしくは魔物。やはり今自分がしている事は正義なのだ、そう思ったね。そんな事をしているうちにもう出勤時間がそこまで来ていた。仕方なくぼくは家を出て朝刊の配達に行ったよ。新聞を待っている人がたくさんいるからね。そして帰ってきて風呂場をのぞくとやけに静かだった。重しをはずして蓋を開けて思わず、なんてことだ!って大きな声を出してしまったよ。もう八木は死んでいた。もちろん体が溶けて死んだんじゃない、さすがにそんなに早くは溶けやしない。たぶん窒息死だね。息のできる空間が狭すぎたんだ。せめて一〇センチないとダメだね。勉強になったよ。そして奴の所持品は八木の車に戻り、車内にスマホ、財布、車のキーを入れて鍵をロックしてドアを閉めたよ。とくにスマホは返しておきたかった。奴の悪行の証拠となる写メがたくさん入っているからね。それから一週間ほどして、そう、刑事さんたちと吉川さんの部屋の前で会った日だね、そのころには八木はどろどろに溶けていて、浴槽の栓を抜いて流したんだ。
 
 小岩も大崎も唖然として聞き入っていた。二人ともその犯行の残虐さに息をするのも忘れていた。だが北根の話には信憑性があった。八木洋志の件はともかくとして吉川鳴海の件は矛盾するところはひとつもないうえに関係者しか知り得ない事実を知っている。小岩が北根に聞いた。
「なぜ八木洋志の件まで話すんだ?」
「正義のためさ、正義の証明のため。話さなければ誰も八木の存在、そして八木のしてきた悪行が闇に葬り去られる」
「正義だって?」
「そうさ、正義のためさ。もしぼくがここで八木洋志の事を話さなければこの悪人を裁いたという真実を知る人間は一人もいない」
「それはお前がやるべきことじゃない、裁判所がやることだ」
「警察も裁判所も無力さ。この八木の件に関してはね。ぼくが八木に正義の鉄槌を振り下ろしてやったんだよ。あいつに制裁を与えられるのは警察や裁判所では無理なんだ、神様か悪魔でもなきゃね」
「うるさい!だいたい人殺しが正義なんて語るんじゃない!お前は神にでもなったつもりなのか!?」小岩がおおきな声を出した。
「ぼくが神様なわけないだろう。悪魔の方だよ、だがこの悪魔は正義の鉄槌を振るうんだ。ただ賽銭だけもらう役立たずな神様よりずっといいだろう?神様になったつもりの裁判官よりずっといいだろう?それに教えてくれよ、正義っていったいなんなんだ?あんな悪人を野放しにしておいて、あんたちの正義っていったいなんなんだよ?」
取り調べ室に数秒の沈黙。
「おれたちの正義は六法全書だ」大崎がぽそりと言った。
「いや、それは少し違うんじゃない?正しくは六法全書の中の刑事訴訟法だね。六法なら民法も商法も含まれるぜ」
「そうだ、刑事訴訟法だ。それがオレたちの正義だ」
「欲望のままに女に乱暴する人間を放っておくのがあんたたちの言う正義なのかい?性犯罪は親告罪だからって、被害届が出なきゃ無罪放免か?八木はいろんな女に手を出していたんだろう?でも八木のバックにおびえて泣き寝入りか、被害届を出したところで組のやつらが取り下げるように言ってくる。このまま放っておいたら人生に影を落とす女の子が増えるだけさ。あんな人間は死んだ方がいいのさ、今までの罪も償わせるためにね」
「ちょっと待て、たしかに八木が女性に乱暴していたのは今に始まった事じゃないという噂は聞いている。だが被害届を取り下げるために八木興業の人間が圧力をかけていたのを、なぜお前が知っているんだ?」
饒舌だった北根が一瞬黙り、視線を下に落とした。
「聞いたんだ、八木本人に」
「さっき猿ぐつわをしたって言ってたじゃないか」
「猿ぐつわをする前だ。あいつが自分で缶コーヒーに入れた睡眠薬を飲んで意識が朦朧としてるあいつを背負ってアパートまで運ぶ間に聞いたんだ。今までも女に乱暴してきたのかって。それより刑事さん、不思議だと思わないか?これまでたくさんの女の子に乱暴してきた八木がただの一度も逮捕されていないってのは。いくらバックがついてると言ってもさ」
「一体なにが言いたいんだ?」
「いや、別に。それより八木洋志の殺人は起訴できるのかい?死体はもうないんだぜ。死体がないのに有罪にできた判例なんて、知らないよ」
大岩は悪い予感を感じていた。この北根という男、頭がとても切れる。死体が見つからなければ殺人罪で起訴などできない。自白だけで有罪にはできないのだ。だからこそこの男はペラペラと犯行の自供をしているのだ。法の事を知り尽くし、そして信じきっている。ほんのわずかでも自分が有罪になるのかもしれないという不安があればいくら法に詳しくてもこんなに淡々と殺人の告白などできない。
「うるさい!必ず八木を殺した証拠を見つけ起訴し、刑務所に入れてやる!」
沈黙を破り小岩は興奮して叫ぶように言った。その興奮した小岩とは対照的に落ち着き、笑みを浮かべて北根は言った。
「もし奴が歯に金属の詰め物なんかしていたら溶けずに残ってるかもしれないよ。下水道のどこかにあるかもね。八木の着ていた服は捨てたよ。でももう処分されているだろうなあ。まあ頑張って探してみてよ。ところで刑事さん、なにがきっかけでぼくまでたどりついたんだい?てっきり、ぼくのところまでたどり着けないとばかり思っていたけど」
北根の質問を受けて大崎が言った。
「お前、オレたちと初めて会った日の集金の時、吉川鳴海の部屋を通り過ぎていったろう。そこでおかしいと思ったんだ。毎朝新聞をとってる吉川鳴海の部屋の呼び鈴を鳴らすのが普通だろう。それでお前は吉川鳴海が死んでいるのを知っているのではないかと思ったんだ」
「なるほど、着眼点はいいね。ただ吉川鳴海はクレジットカード払いだったんだ。だからインターホンを鳴らす必要なんてなかったのさ。ちゃんと裏をとらないと冤罪を生むよ。刑事さん」
「……」

一一
 結局、北根は検察へと身柄送致された。容疑は警察のふりをした官名詐称罪、吉川鳴海宅への住居侵入罪、八木洋志の車をパンクさせた器物損壊罪、そして八木への殺人罪。しかし検察官の取り調べに、官名詐称と住居侵入は認めたものの、車をパンクさせた器物損壊と八木洋志殺しの犯行を全面的に否認。八木については失踪する日にクラブで知り合い、連絡先を交換しその夜に電話で少し話しただけ。もちろん八木の車をパンクさせたのも自分ではない。車のパンクの事など自分は知らないと言い張った。ではなぜ警察で殺人の告白などしたのか?という検事の問いにあまりの圧力的な取り調べに嘘の自白をしてしまったのだと語った。なぜ日本の警察の取り調べは録画されないのか、と何度も言っていたらしい。特に小岩という刑事には必ず証拠を見つけお前を刑務所に入れてやると恫喝された、とも言った。北根は官名詐称と住居侵入の容疑で逮捕されたのに、この発言は不適切だった。小岩はたしかにそのような発言はしていたし認めざるを得ず、署長から注意を受けた。
 結局北根は期間いっぱいの二十日間検察に勾留され、その間に年は明けた。警察は北根の部屋を捜索、目撃者探しに奔走した。八木洋志の車も押収され、徹底的に調べられた。車のダッシュボードの中には北根の供述通り、八木の財布、スマホ、睡眠薬の入った小さな容器が見つかった。スマホは電池が切れていたが充電し、調べてみると北根の言った通り何人もの女性の写メが残っていた。ただ、吉川鳴海の写メだけはなかった。しかし八木の車の後部座席の足下から吉川鳴海の着ていた服の左袖のボタンが見つかり、この車の中に吉川鳴海が乗っていたのは間違いないようだった。吉川鳴海はもう死んでしまっているため本当のところはわからないがこの車内で八木が吉川鳴海を乱暴した犯行現場だろうと多くの捜査官は推察した。
 北根の部屋からは供述通り大量の重曹と消石灰が見つかりはしたが、八木洋志の指紋、髪の毛、血液反応はまったく出なかった。つまり八木洋志が北根の部屋にいたという証拠はなに一つなかった。そして目撃者も一人も見つからず北根の勾留期間は過ぎ、検察が犯罪を立証できそうなのは警察官の名をかたった官名詐称罪と吉川鳴海宅への住居侵入罪だけだった。だが住居侵入罪についても北根はなにも盗らず、何も壊さず部屋に入っただけ。こうなるとこの二つの罪は微罪程度。八木殺しは死体がない上目撃者も一人としていない、八木の車のタイヤをパンクさせた器物損壊についても証拠なし、嫌疑不十分として不起訴となった。官名詐称罪と住居侵入罪については軽犯罪として略式起訴となり、北根は裁判すら開かれず少額の罰金刑のみで釈放となった。
「六法全書が正義というのなら、いや、六法全書の中の刑法も正義というのなら、これも正義の判断ってことだよね。刑事さん」
 北根は警察署を後にした。そしてマスコミはこの事件を大きく報じた。その理由は殺害されたであろう八木洋志は暴力団の組長の息子であったことと、北根が行った異常な殺害方法からだ。マスコミは間接的に北根をほとんど猟奇殺人鬼のように書き立てた。それはもう、ほとんど北根が異常殺人鬼であるかのように。あまりにも黒に近いグレー、人を溶かして殺した異常な容疑者、そして警察の捜査能力の低さに対する批判、北根を犯人だと言い切らないギリギリの範囲で好き勝手に報道した。北根の詳しすぎる供述により日本中のほとんどの人間が北根が犯人だと信じて疑わなかった。 そして北根は釈放された後、新聞の配達員を解雇された。解雇通知を受ける際、北根は「不当解雇だな、裁判でも起こしてやろうか」とつぶやいたらしい。だが金に余裕のない北根に裁判など起こせるはずもなく、ただただ職を失い寮も出ることとなった。

一二
 八木組長宅。若頭の加賀、若頭補佐の大隅、舎弟数人が部屋に集められている。
「わしはもう我慢できん、なぜ北根とかいう男は刑務所へ行かんのだ!息子が浮かばれないじゃないか!なぜ法で裁けんのだ!」
「警察がいかに無能かということでしょう、しかしまだ坊ちゃんが生きているという可能性もないとは……」加賀が遠慮気味にぼそりとこたえる。
「こんなに長い間連絡もないんだ!それに財布やケータイを置いてどこかへ行くか!?北根とかいうやつが言った通りに決まっている!あいつをつれてこい!息子の墓前で土下座させてやる!もし反省の色が見えないなら、殺してしまえ!」
「わかりました、北根の住んでいるところは大隅がもう突き止めてあります。明日にでもここに連れてきます」
(うちの組のメンツにも関わる事だ、おそらく北根を殺す事になるだろう)
組長以外のほとんどがそう感じていた。集会が終わると加賀は部屋を出て電話をかけた。
「もしもし、加賀だが。明日北根をやることになるかもしれない、なにかあったらよろしくたのむ」
加賀が電話を終え外に目をやると初雪がちらちらと降りはじめ、ししおどしのコーンという音だけが響いていた。

一三
翌日昼頃、警察署捜査一課のパソコン宛に一通のメールが届いた。

『八木興業のやつらに殺される。今ドアの向こうまで奴らが来ている 北根』

すぐに課長の島の坊は暇そうにしている小岩と大崎を呼びつけた。
「今すぐ北根のところへ行くぞ!北根の住所はわかってるのか!?」
「聞いてはいますけど」
「さっさと用意しろ!わしも行く!」
「えっ、課長も行くんですか?なんで?」
「ひと一人の命が危険にさらされてるんだ!それにもしこれから北根が八木を殺した証拠や目撃者が出たらどうする!?はやく車をまわせ!」
 課長の島の坊は小岩と大崎を連れて北根のアパートへと向かった。北根のアパートにつくと三人は急いで車を降り、部屋に向かう。北根の部屋の前まで来ると島の坊が部屋を開けようとする、が鍵は閉まっている。島の坊はぼけっと突っ立ている大崎に部屋の鍵を借りてくるよう指示し、鍵を取りに行かせた。そしてドンドンとドアを叩き、北根いるのか!開けろ!と叫んでいる。大崎はすぐに鍵を借りて戻ってきた。鍵を開け、島の坊が「北根!入るぞ!」と言ってドアを開けた。

ON

 課長の島の坊と小岩、大崎がアパートの扉を開け部屋へ入る。小岩が部屋を見て叫んだ。
「ベランダの窓が開いてます!靴もありません!」
島の坊が慌てて指示を出した。
「おい、おれたちが来たから誰か逃げたんじゃないのか!?小岩、大崎、外見てこい、今すぐにだ!」
「見てこいって言ったってどこに見に行ったら……」
「その辺だよ、このバカ!早く行けったら!」
小岩と大崎は急いでアパートの外へ飛び出していった。
「バカどもが」
一人になった島の坊がそう呟いて部屋を捜索し始める。捜索といってもたやすい、まだ部屋にはエアコンも机もなにもない。布団のみが敷かれているだけだ。冷蔵庫もエアコンもテレビも買いそろえてないようだ。食事をして、眠る、ただそれだけのための部屋。他にあるものといえばベランダに何も植えられていない土だけのプランターが物干竿から吊るされている。ラディッシュの写真が土にささっている、家庭菜園だろうか。吊るされたプランターから床に目をやると『警察へ』と宛名の書かれた封筒が床にセロハンテープでしっかりと貼りつけられていた。島の坊はテープを剥がし封筒を開け、中の手紙を取り出し見てみる。

『警察から釈放されてからいつも視線を感じる。
いつもカタギでないような人間の見張りがいる。
八木興業のやつらに違いない。
八木洋志の報復だ。
もし自分が突然いなくなる事があれば八木興業の人間がからんでいるはずだ。
必ず八木興業を捜索してほしい』

島の坊はこの手紙を読み終えると封筒にいれてジャケットの胸ポケットにしまいこんだ。そしてベランダに出てしっかりと窓を閉め、電話をかけた。
「もしもし、私です。島の坊です。今いいですか?加賀さん。心配してはった例の件……北根の部屋、来てみたら書き置きがありまして。中には八木興業の名前書いてありましたけど、預かってますんで心配はいりません。自分しか目にしてないんで安心してください。この書き置きは今夜中に燃やしておきますわ。この書き置きさえなかったら北根が行方不明になっても安心やと思います。ちゃんと死体が見つからんようにしといてくださいよ。あ、わかってると思いますがこの電話切ったらいつものように着信履歴消しといてください」
電話を切ると島の坊は手早く発信履歴を消去した。ほどなくして小岩と大崎が息を切らして帰ってきた。島の坊が二人に言った。
「部屋には誰もいないし何もない。これ以上ここにいても無駄だ。帰るぞ」
「でもぼくたち部屋の中まで見てないですけど」
「いいんだ、いいんだ。机すらない部屋なんだ。どこを探すって言うんだ。ほら、いくぞ」
三人は部屋から出て行った。

OFF 撮影時間:二四分一一秒

一四
 翌日、大崎が出勤すると警察署は騒然としていた。何人もの、いや三十数人はいるだろうマスコミが警察署の入り口を取り囲んでいる。
「な、なんだこりゃ」大崎がつい口にした。
マスコミをかきわけ署内に入ろうとする。
「もしかして警察関係の方ですか!?今回のこの不祥事についてどうお考えですか!?」
「いったいこの動画は誰が撮影したんですか!?」
「今回の件についてなにか一言!!」
無視して警察署内に入り、捜査一課の部屋の扉を開けた。捜査一課でもてんやわんやのようだ。電話もひっきりなしに鳴っている。大崎が電話をとろうとすると刑事の一人が指でバッテンを作って出るなと伝えている。
「一体なにがあったんだ?」大崎が小岩に尋ねる。
「先輩、まだ知らないんですか?ものすごいことになってますよ。テレビのニュース番組すべてこの話題で持ち切りです」
「知らない、全然。オレあんまりテレビ見ない」
「昨日ぼくと先輩と課長で北根の部屋に行ったじゃないですか。あの時ムービーで撮影されてたみたいなんですよ」
「ウソだろ?だれもいなかったぜ」
「それが……さっきうちの刑事がこの騒動を受けて北根のアパートへ行ったんですがね、ベランダにプランターがあって土の中にスマホを仕込んでたみたいなんですよ。スマホを段ボールに入れて土をかぶせ、カメラとマイクの部分だけ露出するよう段ボールとプランターの一部に小さな穴が開けられていたそうです。ぼくたちは北根が逃走したのだと思って課長の指示通り外へ走っていきましたけど、ベランダの窓が開いていたのは逃走したからでなくて動画の撮影のためだったんですね。いや、きっとあの北根の事だ、内通者の島の坊課長のみをあの場にあぶり出すのも計算にいれてたのかもしれない。残った人間が内通者ですからね。書き置きを警察と八木興業の内通者に発見させるためにです。スマホはカメラの撮影範囲内で動くものがあれば感知し撮影が開始されたようです。北根のスマホはすでに解約されてましたがWiFiでネットにつなげてあり、そしてその動画はライブ配信され世界中の人が見れる状態になってしまったわけです」
「たしかにベランダにプランターがあったかもしれない。気にもとめなかったけど」口を開け聞き入る大崎。
「それで課長が北根の書き置きを隠蔽し、八木興業の人間に電話をかけていたんです。警察内部で反社会勢力の八木興業との内通者が露呈してしまって大騒ぎですよ。投稿された動画はすぐ削除要請を出しましたけどミラーがどんどん作成されて完全に消去するのは不可能ですね、もう消す事は不可能だと思います。動画の再生数もものすごいことになってます。課長は懲戒免職処分でしょう。もし課長が他の内通者も吐けば芋づる式に……」
その時、捜査一課の扉を勢いよく開いて一人の男が叫んだ。
「おい、課長がゲロッたぞ。副署長も八木興業の内通者だってよ!」
ざわつく捜査一課。おどろきを隠せない人間が多数だったがうなずいている人もいた。たしかに副署長はコソコソと電話をかけたりしている事が少なからずあった。勤務が終わっても自宅とは逆方向へ車を走らせているのを目撃した刑事もいる。
大騒ぎしている刑事たちを眺めながら大崎がつぶやく。
「それで、北根は一体どうなったんだ?奴はいったいどこにいるんだろう?」
「おそらくもう消されてるんじゃないでしょうか、そうでなければ島の坊課長が北根の書き置きを隠蔽する必要がありませんし。さすがに消されたと考えるのが自然です」

──不思議だと思わないか?これまでたくさんの女の子に乱暴してきた八木がただの一度も逮捕されていないってのは。いくらバックがついてると言ってもさ──

 大崎は北根の言葉を思い出していた。北根は知っていたんだ、警察内部に八木興業との内通者がいることを。北根が取り調べの時にこの事を話さなかったのは取調室でどんなにわめこうが証拠がなければ明るみにできないことを北根自身が一番よくわかっていたからだ。それで言い逃れしようのない証拠、つまり映像に残した。おそらく北根は睡眠薬で意識が朦朧としている八木から誰が内通者なのかも聞いていたのだ。あの窓が開けられていた意味、部屋に何の家具も揃えなかった理由を理解したとき大崎の背筋に冷たいなにかが走った。
 翌日、警察はマスコミ関係者を集めて緊急の記者会見を開いた。警察庁長官をはじめとするお偉いさんたちが難しい顔を浮かべながらテレビに映っている。午後七時きっちりになると学校の先生が入ってきたかのように一斉に立ち上がり、頭を下げる。頭をあげるタイミングまでばっちり同じだ。そして長官がマイクに向かって発言した。
「誠に遺憾であります」
大崎はこの放映を仕事帰りの定食屋で見ていた。大崎が生姜焼き定食を頼み、テレビを見ながら待っていると隣のテーブルでちいさな子どもが親子丼を食べる手を止め母親に話しかける。
「まことにイカンだってー、この人たちわるいことしたんだね。イカンイカン」
「あのね、たしかに悪い事したみたいだけど遺憾てのはそういう意味じゃないのよ」
「えー?じゃあどういういみー?」
「さあ、ママもよく知らないわ」

一五
 ほどなくして北根の遺体は八木興業の組長宅を少し北へ行ったところの山中で発見された。なぜこんなにも早く発見されたのかと言うと北根の新聞配達の出勤時間の午前三時と午後一時に毎日繰り返しアラームが鳴るようスマホに設定されていたからだ。そのアラーム音を聞いた通りすがりの人間が北根の刺殺体を発見した。北根の遺体はメッタ刺しにされ、左脇腹には短刀が刺さったままだった。短刀はあばら骨で刃が止まらないよう横向けに刺されていた。これだけで強い恨みを持った者の犯行、そして素人の犯行ではないと警察は判断した。なによりその短刀からは若頭の加賀の指紋が検出された。しかし加賀は犯行を否認した。たしかに北根を連れてこいと組長に命じられ、夜に北根のアパートまで行った。だがあの日北根はいなかったし帰って来なかったと加賀は証言した。この件に関わった八木興業の組員も事情聴取されたが舎弟たちはアパートへ行って二時間ほど待ったが北根はいなかったと示し合わせたように証言した。もちろん八木組長も犯行の指示を否定、連れて来いと命じはしたが殺せなどとは言ってないと強く主張した。
 しかし息子を殺された報復という強い動機と短刀に残った加賀の指紋、北根のアパートのすぐ側で加賀の車を見たという目撃証言から組織ぐるみでの殺人事件として逮捕するには十分だった。
 警察は暴力団とのつながりが露呈し失墜した世間の信用を取り戻すためにもあっという間に検察に送致した。そしてそれだけのことするに十分な証拠、動機とアリバイがあった。警察上層部からの圧力もあり捜査一課の刑事たちは大急ぎで刑事訴訟法というマニュアル通りに事を進めた。
 マスコミの報道はまた火に油を注いだように再び大きく加熱した。八木洋志の不起訴の件からも北根叩きが日本中で起こったが、八木洋志の悪行とそのもみ消しや警察と暴力団のつながりなどが明らかになるにつれ、北根を擁護する声もあがりはじめた。ネットでは賛同する声がほとんどだ、日本のバットマンなどと北根をまつりあげる人もいる。北根がした事は正義か?悪か?そして法とはどうあるべきなのか、多くのネットユーザーたちが議論した。
 
一六
 数週間が過ぎた。この一件もやっと落ち着きを見せ始めてきている。警察からは懲戒免職者が二人、署長の異動、警察の上層部では長官を始めとするお偉いさんたちの
半年間の二五%の減給と二週間の自宅謹慎という処分が下った。世間では処分が軽すぎる、との声がかなりあがっていたがお偉いさんたちはこの一件のせいで定年後の再就職先、つまり天下り先も消滅するはずだ。エリート街道をひた走ってきた彼らにとっては減給処分なんかより何倍も重い罰だ。
 八木興業では組長と若頭、そして北根殺害に関わった組員たちの起訴が確定した。組もこの騒動で求心力を失い、経営する店舗の三分の一が閉鎖されることになった。八木組長、若頭の加賀は破門。そして八木興業は看板を下ろし、新組長に内定した若頭補佐の大隅の看板が掲げられる事になった。結局のところ北根は八木洋志を葬り去り警察の内通者を暴き出したうえ天下りも封じ、そして一つの暴力団組織に大きな打撃を与えたのだった。
 捜査一課で小岩は北根の事件が書かれた新聞記事を読み終えると新聞を閉じ、大崎に話しかける。
「まさか一人の人間がこんな大騒動を引き起こすなんて夢にも思いませんでした」
「ああ、たしかに」
「しかし北根はなんで逃げなかったんでしょうね、よくよく考えればこの街から逃亡してしまえば殺される事なんてなかったのに。八木興業から逃げられないと悟っていたんでしょうか?」
「もし逃げられないと悟っていたなら、八木興業や警察組織に一矢報いてやろうと考えたのかもしれないな。あれほど正義や法に固執した人間をオレは見た事がない。しかし、だとしたら自殺に近いのかもしれない。八木洋志の事を話さなければ八木興業に狙われる事もなかったんだからな」
「それじゃあ北根は自らの命を賭けて、あいつの言う正義の『鉄槌』を振り下ろしたわけですか。八木に対して、ぼくたち警察組織に対しても」
「そうかもしれない。ところでマスコミは北根のした事に対して賛否両論だが、お前はどう思う?」
「やめてくださいよ、ぼくたちは警察官なんですよ。殺人犯を擁護できるわけないじゃないですか。それにぼくたちは善悪の判断を下すのが仕事じゃない、法を犯した人間を捕まえるのがぼくたちの仕事です」
「あいつは不起訴処分だ、警官の詐称と住居侵入をしたから犯罪者ではあるが殺人犯ではない。どんなに疑わしくても法的にはあいつは人を殺してなんかいないんだよ。オレは今回の一件で……」
 そう言いかけて大崎は口を閉ざした。そしてなにかやるせないものを感じていた。八木洋志がしてきた悪、それに対して機能しなかった法。いまも心を痛めている女性がいるに違いない。一体何のための警察なのだ。法のもとでしか動けない、警察。はたして法を政治家たちが決めるというのは最善の方法なのだろうか?法が国民のためにあるのであれば、国民が決める権利がなぜないのだろう?国民たちの意見を聞きながら国はよくなっていくのではないか?そしてこのやるせない思いの根源にあるものは、自分は子どもの頃憧れていた正義の味方になれていないと確信したことだ。
 大崎は近くを通りがかった同僚の刑事にタバコを一本もらい一年ぶりに火をつけた。

一七
クラブ『ジャスティス』。今夜も踊り狂っている男女もいれば、女を口説くのに熱をあげている男もいる。
「シャオちゃんかわいー」
「お嬢サン、これぼくからのサービス。このカクテル飲むともっともっと楽しくなれるよ」
「ありがとうシャオちゃん」
入り口に目をやるとスキンヘッドの男がシャオを手招きしている。
「あ、お客さんだ。ちょっとごめんなさい、飲んで待っててね」
カウンターをはなれジャスティスの外へ出て、近くに止めてある車に乗り込むスキンヘッドの男とシャオ。後部座席には大隅が待っている。窓を開けて半分くらい吸った煙草をポイッと外に捨ててすぐに窓を閉めスキンヘッドの男に言った。
「お前は少し席をはずせ、外で待ってろ」
「へい」
運転席に座っていたスキンヘッドの男はドアを開け、外に出て手を組んで待っている。
「久しぶりだなシャオ、今日は店は忙しいか?」
「まあまあお客さん入ってます」
「そうか。ところで北根の件は突然で悪かったな。これは礼だ」
大隅は胸ポケットからパンパンに膨らんだ封筒を取り出しシャオに渡した。
「緊急なのによくやってくれた」
「いえ、ぼくはこういう裏の仕事のために雇われてますんで。それに緊急といっても簡単な殺しじゃないですか。ええと、初雪の日だったかな?電話くれたの。次の日加賀達が来る前に拉致して殺すだけ。簡単簡単。それより加賀の短刀なんてよく手に入れられましたね、一番緊張したのはあの加賀の短刀を受け取る時でしたよ、大隅サンと会ってるのを見られたらすべてご破算ですからね」
「あんなもん、幹部連中なら数本持っているからな。一本や二本、手に入れるくらい簡単だ。しかしあの北根という男、自分の身の危険を感じながらもあんな動画を撮影するなんて本当に驚いた。坊ちゃんの殺し方も、まったく証拠が残らないやり方だ。おれたちも死体の処理にはいつも困っていたんだ。それをたった一人で、しかも不起訴に持ち込みやがった……。あいつが警察に坊ちゃんの事を吐かなきゃ、坊ちゃんは表向きは今も行方不明のままだ。なんというか、殺すには惜しい奴だったよ。カタギの人間にこんな奴がいるなんてな。まあ、お前の手際の良さもなかなかのもんだがな」
「苦労したのは死体を捨てる場所でした。数日で発見されてあまり目立たない場所、これ結構難しいですよ」
「ああ、こっちも八木組長が突然北根を連れてこいとか言い出したからな。ゆっくり考えてる暇なんてなかった。それにしてもお前をオレの下に置いてよかった。もう……二年か。お前も日本語がうまくなったな。ほとぼりがさめたら幹部のポストにつかせてやる」
「ありがとうございます。幹部のポスト、とっても楽しみにしてます。それで大隅サンが正式に組長として就任するのはいつ頃ですか?」
「来月の頭だ。これからはオレの時代だな」
「もうすぐですね。おめでとうございます」
「おう、まもなく八木興業改め大隅興業だ。今回の事で痛手を負ったがすぐに盛り返してやる。……ああ、それとこれは『ジャスティス』の来月分のヤクだ。きっちりさばけよ」
「はい。今も新規の女の子、一人落とせそうですよ。大隅サンも悪い人ですねえ」
「ハハハ。人殺しのお前に言われたくねえな」
大隅の乗った車を頭を下げて見送るシャオ。頭をあげ、車が見えなくなるのを確認してスマホを取り出し電話をかける。
「あー、もしもし。俺です、夜分遅くにすみません。お久しぶりですね。それで、たった今本人から確認したんですが大隅が組長に就任するのは来月頭だそうです。八木組長の息子ですか?ここまで連絡がないとなるとさすがにもう死んでるでしょう。北根とか言う新聞配達員が殺したんですよ。そしてその北根を八木興業の人間が報復した、マスコミが言ってる通りですよ。勝手に潰し合ってくれてうちにとっては願ってもない展開になりました。……いいえ、自分はまったく関与してませんのでご安心を。今回の騒動で組もだいぶ弱ってます。ヤクの密売で摘発させるだけでも十分とどめになります。大隅興業にとどめをさしてここらのシマを手に入れるのも今がチャンスです。いつ頃警察にタレ込みます?大隅が組長に就任したらすぐですか。わかりました、自分はまもなく姿を消します。ヤクは受け取り次第すぐにカクテルに混ぜるので冷蔵庫内の作り置きのパックを調べればすぐわかりますよ。ところで……大隅興業を潰したらこの潜入も終わりですよね?当初はただのヤクの摘発だけのつもりが、こんな大騒動になってしまったけど。そしてこの潜入がうまくいったら幹部のポストを用意して八木興業のシマをくれるって約束も、お忘れじゃないですよね?いいかげん中国人のモノマネも疲れましたよ、岸田組長」

~あの日の夜、クラブ『ジャスティス』~
「おい、この女……揺すっても起きないぞ!」
そう叫んだのは吉川鳴海を引っ掛けようと一緒に飲んでいた八木洋志だ。シャオは吉川鳴海の手首に指を当て、答える。
「まだ脈はあるみたいだけど……かなり弱い。坊ちゃん、どのくらい飲ませたんです?」
「この女も調子に乗ってて、自分が覚えてるだけでも四、五杯は飲んでた。もしかしたらもっとかもしれない。まだ睡眠薬は入れていないのに呼んでもまったく反応はないんだ」
「ぼくも坊ちゃんがDJしている間にも何杯も頼まれました……もちろんヤク入りのカクテルです」
「なんてこった、俺は俺で入れた。きっと薬物の過剰摂取だ」
「とりあえず車にのせましょう。二人で運ぶと目立つから坊ちゃん一人で車まで運んでください、ぼくはすぐに向かいます」
「ああ、わかった」
「いつもと同じ感じで運んでいってください」
八木は他のDJや従業員たちに悟られないよう吉川鳴海を車の後部座席に乗せ、二人は運転席と助手席に乗り込んだ。
「どうしよう、さすがに死なせたらまずい。ヤクの事もパパに知られたらまずい」
「組長サンはクスリは禁止していますからね、どうしますか?病院へ行ったら助かるかも……いやこの状態だともう無理かもしれない。それに助かってもヤクの事がばれてしまう……」
八木は唸りながら考え、突飛な事を言い出した。
「そうだ、山に埋めてしまおう」
シャオはあきれ、ため息をついた。
「最後にここに来たのがこの『ジャスティス』だってことはすぐにばれますよ。坊ちゃんが担いでいったのを見たと誰かが言ったら警察は徹底的に坊ちゃんをマークします。それにいつか山で変死体となって見つかれば解剖にまわされる可能性だってある。あっという間にヤクの事もばれます。おびえて毎日を過ごしますか?」
「……じゃあどうすりゃいいんだ。こんなこと初めてだ」
「ぼくにいい考えがあります」
吉川鳴海のカバンからマンションの鍵と免許証を取り出してシャオが言った。
「名前は吉川鳴海、住所はこの近くですね。坊ちゃんの家からも近い」
シャオの考えというのいうのはこの女をマンションに戻し、電気コードで首を吊って自殺したように見せかけようというものだった。これならば死体の解剖もされないかもしれないし、ヤクの事もばれないというものだった。八木はしばらくの間考え、口を開いた。
「そんなにうまくいくかな」
「わかりません、でもその方がまだマシだと思います。自分で死んだ事にすればよいのです、うちとはなんの関係もなし。もしヤクを飲ませすぎて死んだとわかれば警察はヤクの出所を突き止めようとする、そうなればヤクをまわしてる若頭補佐の大隅だって坊ちゃんになにをしてくるかわかりませんよ。加賀サンだってヤクの事は知らないんでしょう?いくら警察にお友達がいる加賀サンだってヤクがからんでる上に人が死んだとなればさすがにもみ消せない」
「そんな……」
「要は解剖さえされなきゃいいんです、解剖さえ……」
シャオがチラリと八木の目を見る。
「解剖……。この女の住所だと警察署は……死体が出たとなると来るのは捜査一課……課長が解剖に反対すれば……パパに知られずになんとかなるかもしれない」
八木の車は吉川鳴海のマンションへ向かった。
マンションにつくと車を降りる前にシャオは八木に言った。髪の毛が落ちないよう帽子をかぶり、指紋がつかないように手袋をするように。そして靴跡が残らないよう靴を脱ぐよう指示をした。シャオは車から降り、吉川鳴海を担ぐ際、隙を見て吉川鳴海の左袖のボタンをちぎり取って後部座席の足下に放り投げた。
「坊ちゃん、運ぶの手伝ってください」
二人は吉川鳴海を部屋に担いで吉川鳴海の部屋の鍵を開け中に入る。部屋の中に入るとテーブルの上に毎朝新聞が置いてあるのがシャオの目に入った。
「どうした?」八木がシャオに小さな声で聞いた。
「……いえ、なんでもありません」
二人は吉川鳴海の首に電気コードを巻き付け、ドアノブにかけ吊るした。ドアノブに吉川鳴海を吊るすと彼女の手がぴくりと動いた。
「ひっ」
驚いた八木が声を出した。だがシャオは落ち着いて言った。まだ息があってよかった、これでより偽装工作がうまくいくはずだと。死んでから吊るすと生体反応がでないがまだ息があるなら首に巻き付いた電気コードのアザが首に残りより自殺に見せかけられる。そしてシャオは吉川鳴海のスマホを取り出し胸ポケットに入れた。
「この女のスマホ、持って帰るのか?どうするつもりだ?」
「明日、遺書めいたものをこの人の友達に送っておきます。つまり明日以降自殺したことにします。死にます、じゃ警察に連絡されるかもしれないけど死にたい、なら大丈夫でしょう。家族に知られたくないと書いておくのでメールを見ても友達はきっと黙っていますよ。チャチな工作だけど、やらないよりはいいと思いますよ」
「なるほど」
「問題は鍵です。鍵を閉めていけば部屋に鍵はない、逆に部屋に鍵を置いていけば鍵を閉められない」
八木はハッと気がついた。鍵の事などまったく考えてもいなかったようだ。
「おれは鍵は開けっ放しでも置いていった方がいいと思う。やはり鍵が部屋にないのはおかしい」
シャオはさっき視界に飛び込んできた毎朝新聞にもう一度目をやり、すこしの間考えて言った。
「ぼくに考えがあります。鍵は任せておいてください。それでは戻りましょう
二人は車に戻り、そしてシャオは八木の目をジッと見つめ、さとすように話した。
「坊ちゃん、言わなくてもわかってると思いますが今日の事は誰にも言わず普通に生活していてください。ぼくは鍵とスマホを戻して自殺に見せかける、坊ちゃんは解剖されないよう根回ししておいてください。それでは来週また『ジャスティス』で」
八木を見送った後、シャオはスマホを取り出し電話をかける。
「もしもし、北根さん?久しぶり。俺だよ、北根さんが金を借りにきた時の岸田金融の従業員だった……。あんたうちの会社で借りた借金、すべてチャラにしてやろうか?チマチマ新聞配ってたって一生利息を払い続ける人生だ。闇金に手を出すなんてもうこりごりでしょう?骨の髄までしゃぶられる。ぼくの言う通りにすれば借金チャラどころか謝礼も出るよ、大金がね。もしかしたら警察が来るかもしれないが……最悪でも微罪程度だ。それにあんた、警察を恨んでいたよなあ?警察に恥をかかせるいいチャンスだ。それで仕事というのは、鍵とスマホを渡すからある部屋に返してきてほしい。来週も似たような事を頼む事になると思う。そしてもしも警察が来たらこう話すんだ……」

~その一週間後の金曜日、『ジャスティス』営業終了後、車の中~
「悪いな、来てもらって。おれの車、パンクしてたんだ。暗くてよく分からなかったがイタズラされたかな」
「それは大変でしたね、坊ちゃん。今日に限ってぼくが車で来ててよかった」
「この車……買い替えた?前は黒のセダンだったよな、こんなどこにでもあるようなファミリーカーになんで変えたんだ?車内もめちゃくちゃ狭いな、身動き一つとれやしない。それにこの車検証、名前がお前じゃないな。どうしたんだ?この車?」
「ちょっと自分の車は修理に出してましてね、この車は人から借りてるんですよ」
「代車ってことか?」
「いえ、代車を借りるとお金がいるって言われたんで」
「お前さては保険に入ってないな?まあどうでもいいけどよ。そんな事は。ところであの後どうなった?」
「今のところは何も動きはないようです。いつ吉川鳴海の捜索願が出されてもおかしくありませんが鍵とスマホは返しておきました。こちらはご安心を。坊ちゃんの方はどうです?」
「手は打ったよ。捜査一課の課長に解剖をしないように電話しておいたよ、なんとかうまくいけばいいが」
「加賀サンのお友達って捜査一課の課長ですか。この件を知っているのは捜査一課の課長だけですか?」
「もしかしたら、いや、おそらく副署長の耳にも入ってると思う」
「その二人はどうして協力してくれるんです?」
「昔聞いた話だが、副署長がまだいち刑事だったころうちの組員の一人をヤクの密売で逮捕したんだ、だがうちはヤクは昔から禁止されているだろう?その組員はヤクなど持っていなかったんだ。当時の副署長はうちの組が薬物を禁止しているのを知らなかった。いや、ヤクを禁止しているなんて表向きの取り決めだと思ったのかもしれない。だが誤認逮捕だなんて警察官にとっては絶対にあってはならないことだ。引くに引けなくなった副署長はうちの組員の車の中のダッシュボードの奥の方からヤクが出たといって証拠をでっちあげた。副署長は証拠をねつ造したんだ。その時副署長の相棒だったのが島の坊、今の捜査一課の課長だな。でもそんな事がばれたら懲戒免職ものだろう、そこで加賀がそっと吹きかけたんだ、うちに情報を流してくれたら騒がないでいてやるってね。だが一度でも協力するともう泥沼、操り人形みたいなものさ。副署長も課長も早く定年を迎えたいだろうな。そういえばお前、加賀に警察の内通者がいるってよく知ってたな。幹部クラスしか知らないと思ってたが」
「まあぼくも八木興業でお世話になって二年になりますから。噂くらいは聞いた事ありますよ」
シャオは缶コーヒーを八木に手渡す。
「それにしても悪いな、こんなことになって」
八木がそう言ってぐいっと缶コーヒーを飲んだその瞬間、シャオは八木の首元にナイフを突き立てた。飛び散る鮮血、返り血を浴びるシャオ。小さな声で動物のようにうめく八木。
「痛いですか?八木サン……なんてね。もどかしいだろう?叫びたいのに叫べない、言いたい事があるのに言えないって言うのはさ。だがオレには言いたい事は山ほどある。あんた八年前、俺の姉ちゃんを乱暴しただろう?何人もやってるから覚えていないか?結局あのあと姉は覚悟を決めて被害届けを出した、すごく勇気がいった事だろうよ。だが警察から帰ると加賀とその舎弟たちで脅しをかけてきたよな。被害届を取り下げろってさ。どうしてこんなに早く被害届を出したのを八木興業の人間が知る事ができたのか?考えればすぐわかったよ。警察もお前たちの組に協力してるってな。恐れ入ったよ、本当に。あの後姉はどうなったと思う?未だに家から出られず、外へ行くのは心療内科に行くときだけさ。一人の人間の人生をめちゃくちゃにしやがって。人生ってのはな、命よりも重いんだ。オレはお前も、お前の組も、警察も絶対に許さない」
シャオが話終えて八木を見ると八木はもう動かなくなっていた。八木の服から財布、車のキーを取り出し自分のポケットに入れた。そして八木のズボンのおしりのポケットからスマホも抜き取り、写メのデータを確認した。シャオは自分の体が怒りで満たされていくのを感じた。シャオは首元に突き立てたナイフを抜き取ると八木の顔を思い切り殴った。何度も何度も──。
 そして車を走らせ港に向かった。港に着くと返り血のついた上着を脱いで顔についた血を拭ぐって後部座席にポイと投げ捨てた。ワイシャツ姿になったシャオは車の外に出てアクセルに大きな石を置いて手早くドアを閉め、車から離れた。車はどんどんスピードをあげ勢いよく海に転落し、空気泡をぶくぶくと吐き出しながらゆっくりと沈んでいく。車のブレーキランプはだいぶ沈んだところでチカチカと点滅して消えた。もう真っ暗でほとんど何も見えない。シャオはワイシャツの左胸のポケットからタバコを取り出し火をつけふうっと煙を吐いた。その煙が消えてゆくのを見ているとポツポツと小雨が降り出してきた。雨が体を少しずつ濡らしてゆく。
 夜の海は静かで、暗く不気味ささえ感じる。果てしなく続く真っ黒な海は空との境界線さえ見えない。この真っ黒な海の中には魔物がいて、その魔物が星も月も空も全部飲み込んでしまったのだ。この魔物はどんな光をも飲み込んで真っ暗闇にしてしまう。しかもその魔物は一匹や二匹ではなく、きっとうじゃうじゃとたくさんいるのだ。シャオは大きく暗い海に対峙し、まだ火のついているタバコをそんな海に向かって力一杯投げつけた。何の音も立てずタバコの火は真っ暗闇の海に飲み込まれて消えた。

~今~
クラブ『ジャスティス』も営業時間を終え、店内はついさっきまでの熱気を失いしん……としている。薄暗いカウンターで裕子が氷をカラカラと言わせながらウイスキーを飲んでいる。
「裕子サン。お店、閉めますよ」
「はーい。あ、最後のシメにあのカクテルのませてよ、この店特製のあれ」
「あれは絶対にダメです!」
シャオが真剣な顔で少し大きな声をあげた。
「な、なによ……」
「裕子サン、いいですか?あのカクテルだけはダメです。これからも絶対に頼まないと約束してください」
シャオが裕子が飲んでいるウイスキーのグラスを取って流しに置いた。
「ケーチ。なんなのよ一体」
裕子は頬をふくらませている。シャオは微笑みをつくって言った。
「裕子サンのそういうふてくされた顔、かわいいですね」
「ばーか、その手にはのらないよ。口説くつもりなら正々堂々と来な」
シャオはクスッと笑った。対照的に今度は裕子は真剣な顔になって言う。
「ところで八木って新聞配達員に殺されたってことになってるみたいだけど、不起訴だったじゃん?実際のところどうなんだろうね。あいつ今生きてるのかな?死んでたら地獄にいるだろうけどね」
「じゃあきっと今頃地獄にいますね」
「そういや昔八木に言いよられた時、あんた助けてくれたよね。なんで私に限って助けてくれたの?」
「実は裕子サンは姉に少し似てるんです、雰囲気が」
「ふうん、かわいいお姉さんがいるんだね」
「それって笑うところですよね?」
「ひっぱたいちゃうよ、シャオ君。お姉さん見てみたいな、自分に似てる人って見てみたい」
「まあ……遠いところで……幸せに暮らしてます。またこっちまで来れたら会ってやってください」
シャオは裕子に気付かれないように潤みかけた目をサッと指で拭う。
「あんたの故郷だったら中国か、まあ会う日はこないかな。日本に来たら教えてよね」
「ところで裕子サン、部屋に盗聴器なんてついてないでしょうね?最近はスマホで盗聴したり盗撮したりする人もいるみたいですよ。撮影する人がいなくても動きや音を感知して自動でONにしたりできるみたいです。今の時代ネットにだって簡単にアップできる。気をつけてくださいね」
「はあ?こないだの警察の汚職事件のこと?ここから結構近いところだけどあの新聞配達員は死んだんだしそんな事する人そうそういないと思うけどなあ。なんで突然、盗聴器だとか盗撮だとか言うわけ?」
「いや、別に……裕子サンはなにも知らなくていいんです。なんにも……」
二人は店を後にし大通りまで出て新田裕子の乗るタクシーをつかまえ、乗せて見送ってやった。裕子がタクシーのバックミラーに目をやるとシャオはいつまでも手を振っている。
「なんだあ?あいつ、今生の別れってわけでもないだろうに」
「いい彼氏さんじゃないですか。まだ手を振ってる」タクシーの運転手が言った。
「彼氏、ね。そういうのじゃないけどいいヤツだよ。あいつは」
 新田裕子を乗せたタクシーは街灯きらめく不夜城の方向へと走り去っていった。タクシーが見えなくなるとシャオは暗い道へと引き返し、消えていった。
真っ暗闇に飲み込まれるように──


                        



 二〇一七年三月 いわさきなおと

歪んだ鉄槌

歪んだ鉄槌

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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