月が見ている

 私がこうして手紙をしたため様と思ったのは、突発的な衝動に駆られたのでも、また、激情を煽られたのでもありません。自分にかけられた呪いを解きたいがためです。他人からすれば突飛な事、なのかもしれません。ですが、私にとってはこれは大変な問題なのです。
 世の中に純然たる出会いがあるとするならば、私はある種、奇跡的な出会いを成し遂げたように思います。奇跡的。そう、正しく、常識で起こるとは考えられないような不思議な出来事に私は出会ったのです。
 その出会いの前の私は、どうしようもない人間でした。
 就活をするも、悉く失敗。実家暮らしのため、家に帰る度に迎えてくれる親の目線も、段々ときつくなっていったように思います。何よりも、夕食の時間。これが一番嫌いでした。
 親の作ってくれた夕食を食べながら、会話にもならないような話をぽつりぽつりと交わす。やはり親の子だからでしょうか。箸を運ぶ手つき、茶碗を持つ手。口を開きかけては、そこに食べ物を持っていく。そんな一挙手一投足に、錯綜する思いが見え隠れしているのを感じました。失敗失敗失敗。自分は、多分世界に必要とされていないのだと思い至りました。社会という大きな歯車のどこにも属さないガラクタ。ただ、朽ちていくのだけを待つゴミ。どうにも、自分はこの世界に向いていないように思いました。
 ずっと、ずっと。そんな日々が続いて、ある日、旧友がスーツ姿で街を歩いているのを見かけた瞬間、私は、もうこの世界から消えようと決心しました。
 もしも、この世界の人間全員が私のことを知らなくて、空気のように生きることができたなら、私はもう少しだけこの世界に縋っていたでしょう。
 限界でした。何もかも。
 ある、月明りの綺麗な夜でした。雲一つなく、満月がぽっかりと浮いている、とても綺麗な夜でした。
 死ぬのに、これほど完璧な夜はない。
 そう思いました。
 家からほど近い砂浜に、私は着の身着のまま来ていました。青白く輝く砂浜。群青色に広がる海と空。優しく傍を駆けていく潮風。
 空と海に境目はなく、そこには果てしない宇宙が広がっていました。自分が立っているこの砂浜は、まるで世界の端でした。目の前には、月明りによって海面に生じた島があり、白く揺ら揺らと漂うそれは、私の方へ橋を渡すかのようでした。宇宙に浮かぶ白い島。月明りが生み出すその幻想は、私を酔わせ、ずるずると海に誘いました。
 一歩、また一歩と足を踏み出します。履いていた靴は何処かへと消え去り、それでもなお、足に触る砂の感触を楽しみながら歩み寄りました。
 死に方なんてどうでも良かったのです。ただ、目の前に広がる海、それが私をどこまでも連れて行ってくれるような気がしたのです。
 足が、湿った砂の固い感触を捉え、そうしてその感覚に慣れた頃に、冷たい液体が私の足を掴みました。瞬間、その冷たさが稲妻のように体中を走り、ある種自己陶酔の感覚に陥っていた私の頭は、一瞬の冷静を取り戻しました。
 ふと、海岸沿いを見てみると、少し離れた岩場に人影が見えました。その人影は、乱雑に転がる大きな岩々の頂点で、私をじいっと見つめていました。
 白いシャツに黒いズボンと、学生を思わせる格好でした。ですが時刻は深夜です。こんな海岸に学生がいるはずないだろう。私はそう思い、その怪しい人物に近づきました。突然の人影に気が動転したからでしょうか、私は直前までの私の行動のことも忘れていました。
 ちらりと海を見やっても、先ほどまでの光景はただの目の錯覚で、月明りが照らす海を横目に、私は岩場まで歩きました。
 私の身長の倍はある岩の上に座っているのは、男のように見えました。いつの間にかその目は海岸の方を向いています。声をかけようかと逡巡していた末、口を開いたのは私ではありませんでした。
「こんな夜中に、あんな場所で何をしていたの?」
 男性とも、女性ともとれる中性的な声でした。その背格好も、私を混乱させるに余りあるものでした。
 夜露に濡れる烏の羽のような漆黒の髪が潮風に揺れ、透き通る白い肌は夜空に映えました。長いまつ毛がその下にある澄んだ瞳を包み、整った鼻筋と、微かにほほ笑む口元、彼、あるいは彼女は、神秘的な雰囲気を携えていました。
「あなたこそ」
 思わず口から出た言葉に、その人は笑いました。
「深くは聞かないよ」
 私に向けられたその瞳は、全てを見透かすかのように輝いていました。彼に見つめられると、何故だか自分が丸裸にされているようで、私はその気恥ずかしさから思わず目をそらしました。
 沈黙を、波の音が静かに包み込みました。
 目の前に広がる闇は、やはり綺麗でした。先ほどまでの強烈な死への欲求は何処かへと消え失せ、そこにあるのは海面と空と、星と月。学生時代によく見ていた景色でした。
 まだ学生だったころの私は、色々なことに不安で、でもその不安の正体が掴めなくて、ただひっそりと私の中で生まれた焦燥感が、少しずつ少しずつ肥大化していたように思います。鬱屈したそれらは私の精神を犯し、そうして成長した今の私は歪になっていました。
 そもそも、今まで生きてこれたということ自体が奇跡のようなものでした。
 自分の中で生まれる正体不明の何かが膨れ上がる度に、私はこの海に来ていました。深夜の、誰もいないはずだったこの海に。
「辛いの?」
 言葉を投げかけられ、過去へ思いを馳せていた私は、ふいに現実に戻されました。
「別に、そんなことは……」
「ここに来る人たちはいつも、暗い顔をしてここに来る。誘われるように海に入っていく。それを見るのは堪らなく辛い」
 青年が物憂げに呟きました。
「……」
 私は答えあぐね、話を逸らそうと口を開きました。
「あなたは、何をしているの?」
 青年は意味ありげにほほ笑みましたが、明確な答えは返ってきませんでした。
「何も。ただ、この海を眺めているだけ」
 如何わし気に青年を見つめている私に気付いたのか、青年は続けました。
「こんな時間帯のこの海は、星空とそれを映す海の境目が混ざり合って、さながら宇宙のように輝いている。こんなにも綺麗な海を見ないのは勿体ないだろう?」
 青年の言葉は、先ほどの自分が目の前の海に感じたものと同じでした。私が、その時青年に感じたのは、明確な親近感。それは、孤独だった私の心の隙間に優しく入り込むようで、その感情が私を満たしていました。
「本当に、とても綺麗」
 岩の向こうに広がる海。昼間の雄大さとは一線を画す風景でした。
「上がってきなよ」
 私は、まるで白昼夢の中にいるかのように、微睡んだ思考の中で、青年の言葉に従いました。
 多分、心の中ではこの状況を楽しんでいたんだと思います。日常より逸脱したこの現状を。さながらこれは、演劇のワンシーンでした。たった二人だけの登場人物。誰もいない砂浜の観客席と、足場の悪い岩場のステージ。それらを照らす、月明り。
 舞台が、整っているように思えました。
 岩を登り、青年に近づくと、彼は隣を開けました。どうぞ、と手招きをしており、私は促されるまま、隣に腰かけました。
 幾分月は傾き、潮のかおりが鼻を掠めます。どうにも自分は、このかおりが好きなようでした。
 昼の明るい日差しに照らされた浪間とは違う顔。海岸沿いに沿って立ち並ぶ家々は、闇に囲まれてはいるものの所々に灯がつき、それはまるで漁り火のようで、目の前に広がる暗い海と後ろに広がる街並みは表裏一体の景色でした。
「昔にも、君のように深夜にこの海を見ている男がいてね。彼は結局、海から戻らなかったけれど。最後に彼は言ったんだ『海に帰る。ただそれだけだ。生命が生まれたのが海からなら、終わる命をここに返すのが道理だ』とね」
「そんなの、言い訳だわ」
 私がそういうと、青年は頷きました。
「うん。でも、理由が何であったとしても、彼の帰る場所はここだったんだろう。僕はそれを見送った。暗い海に溶けていくように消える彼を」
「助けようとはしなかったの?」
 そう言うと、彼は首を振りました。
「僕にそれを止める権利はない。ただ、問いかけるだけ。それが僕のここでの役割なんだと思う」
「役割?」
「人にはそれぞれ、役割がある。生まれたときからね。ただ、生きて死ぬ役割の人間。誰かを救う役割を持つ人間。役を当てはめられた人間が複雑に絡み合ってるのがこの世界なんだ。一見、無意味に見える人生でも、人間は誰かに影響を与えずにいられない」
「役割……。私にもあるのかしら」
 それは私の本心でした。日常の私は、それこそ何の役割もない人間だと感じていました。
 面接を受けるも、手ごたえがあったのかどうかも分からず、それでも、結果に対して半ば期待してしまうせいか、必要以上に傷ついて。
 自分には、役割なんて無いのだとあきらめていました。
「必ず君にもあるんだよ。それを自覚できる人間はほとんどいないけれどね。多分、自覚出来ずに一生を終える人間がほとんどだ。でも、そんな人でも、役割はある。どうする? 君は、あの海の向こう側へ行くのかい?」
「……」
 私は、彼の問いかけに応えることが出来ませんでした。じっと見つめてくる彼の黒い瞳は、深海のようでした。
「……私には…………まだ帰る場所がある、と思う」
 しどろもどろに言う私に、彼はほほ笑みかけました。
 多分、青年は察したのでしょう。
「そうかい。だったら、今日はその場所に帰った方が良いね」
 私は、彼と別れ、家路につきました。月明りが煌々と照らす帰路を。

 一夜の夢。一連の出来事を、私はそう思いました。
 幻想。神秘。そんな言葉で飾られるほどに、その夜の話は私の脳裏に焼き付いていたのです。
 ただ、夢は、夢。
 未来を確約されたであろう友人たちの報告と、家族との静かでありながらも賑やかな雰囲気を醸し出す食卓は、変わることはありませんでした。
 居心地が悪かった。自分に居場所はないのではないか。そんな疑念さえ、抱かざるをえなかったのです。
「そういえば、あんた昔は熱心に続けてたものあったわね。確か、演劇だったかしら」
 食卓で母が言いました。だいたい、この夕食で交わされる会話の内容は、私の子供の時の話に限られていました。現在に注目することも、じっと未来に目を据えることも、私たちは避けていたのかもしれません。過去に縋るその光景は、甚だ滑稽にも思えました。
「ええ」
 こういった会話の場合、私は目の前に出されている食事に目線を落とし、ただ黙々と食べるという行為に没頭します。
「あんたが高校の時に演劇部に入ったきっかけが、確か、昔一緒に見たシェイクスピアの演劇だったわよね。たまたま貰ったチケットで行った」
「そうだったかしら」
とぼけましたが、母は楽しそうに続けました。
「あの頃は、楽しかったわ」
 それ以上、母は口を開きませんでした。ふと、顔を上げ、視界に入った母の目は、どこか遠くを見つめていました。その見つめる先が過去なのか未来なのか、私には知る由もありません。
 ここでもう一人、食卓にいる人物について話さなければなりません。この食卓において、数少ない会話に口を挟むことすらせず、ただ沈黙をする父親のことです。
 父は寡黙でした。時々、仕事から帰ってくるのが早いときは、夕食を共にするのです。何かしらの義務なのか、私を責め立てるためなのか、その真意は分かりません。ただ、父が時々こちらを見る目は、哀れみのような、諦めのような、どちらともつかない輝きを持っていました。
 その寡黙な姿は、無骨で頑固な印象がありました。ですが、昔の父は今よりも違った印象でした。私の記憶が正しければ、優しい微笑みを持つ静かな父親の姿だったように思います。
「……」
 私はとうとう耐えきれなくなり、さっさと夕食を平らげると、自室に引き籠りました。
 何もかもに自信を失くしている私には、ベッドの隅が私の最後の領域で、何物にも侵されない安住の地だったのです。
 ああ、そうだ、あの浜辺に行こう。
 自室に閉じこもっていると嫌な考えばかりが頭を過ります。私はそれらを振り払い、親が寝静まっているであろう深夜に、家を抜け出ました。
 浜辺に行けば、青年に会える。夢でも、幻想でも何でもいい。青年に会いに行こう。何故だかわかりませんが、あそこに行けば青年に会うことができる、そんな確信が私にはありました。
 ひっそりとした住宅街を抜け、私は海に沿って敷かれた道路に出ました。車のヘッドライトすら見えない無人の空間で、月が優しく微笑んでいます。昨日よりも若干欠けた月が私を見下ろしてました。
 ふらふらと浜辺に出て、周囲を見回しました。
 青年はやはり、転がっている岩の上で、静かに海を見ていました。
 胸の鼓動が高鳴ると同時に、駆けだしたい衝動に駆られましたが、私はそれらをどうにか抑え、昨晩と同じように、しずしずと砂浜を歩きました。
「やあ、また来たんだね」
 彼は振り返らずに言いました。
「ええ。多分、あなたがいると思って」
「僕はいつでもここにいるよ。僕を必要とする人間がいるのなら」
 彼は可笑しそうに肩を震わせます。私はその隣に腰かけました。
 たった一度、それも昨晩に会ったばかりだというのに、その一連の行動は旧知の仲であるかのような当然さでした。
 彼は静かに揺れる浪間を眺め、口を開きました。
「あした、あした、そして、あしたと、しみったれた足取りで日々が進み、行き着く先は運命に知るされた最後の時だ――」
「――振り返ってみれば、きのうというきのうは、すべて、愚か者たちをちりにまみれた死へと導くむなしい明かり……」
 私が青年の言葉を紡ぐと、彼は少し驚いた顔でこちらを見つめました。
「知っているとは驚きだ」
「昔、演劇が好きで。その時のことを思い出したわ。確か、シェイクスピアのマクベス」
 青年は目を細めました。
「ウィリアム・シェイクスピア。やはり彼は天才だよ。彼は登場人物に時々こうした言葉を喋らせることで、観客達に問いかけている。死を目前にした人間たちの本性を。そして、死に対する真理を」
 食卓とは違った心地よい静けさの中、私は青年の声に耳を傾けました。
「昨日の夜君を見たとき、ふと、それを思い出したんだ。あの時、あの瞬間。君は生を捨て、死を受け入れようとしていた。どんな理由であれ、死に向かい合うというのは中々出来るようなものじゃない」
「私はただ、死にたかっただけよ」
「生という本能に目を背けることができるのは、ある意味すごいことなんだよ。あの場所で海へと進む人間は、少なからず葛藤する。生に期待をしてしまう。そうして死ぬことをやめることが多い。諦め、と言うのかな。とにかく、大抵の人間は死を決心しても、実行に移す瞬間には、たじろいでしまう。それは生物の本能であり、当然のことだ。現状がどんなに悲惨であれ、自ら命を捨てようとするのはその本能に背くことになるのだからね」
 だから驚いたんだよ、と青年は続けました。
「自ら進んで、一片の躊躇なく歩いていたのだから」
 私は、あの直前までの白昼夢のような感覚を思い出しました。今では、あの光景は幻だったのではないだろうかとさえ思います。
「でも私はここにいるわ。あの時、立ち止まって、そしてあなたを見つけた」
 青年の言葉にそう返すと、彼は頷きました。
「そうだね。でも、それはまだ、君にしかできない役割が終わってないからじゃないかな」
「またその話?」
「僕はいつまでも言い続けるよ。人には人の役割がある。得意な事、他人よりも優れていると思える自分の特技。なんでもいい。自分を受け入れられるようなものが、君の中にもあるはずだ」
 彼の瞳、彼の笑顔、私を包んでくれる雰囲気すべてが、とても優しく感じました。自分に対して、これほどまでに優しくしてくれる人間なんていなかったし、彼の言葉一つ一つで、自分がなんだか救われるような気がしたのです。その優しさに甘えることを浅ましいと思われるかもしれませんが、しらず私は、自分のかつての夢を喋っていました。
「……ある時までは、劇団にはいることを目指していたの。演劇に興味があった。昔、親と見に行った劇が好きでたまらなくて。自分もいつか、舞台の上に立つことを夢見てた」
「過去形なんだね」
「誰もが立てる舞台じゃない。そもそも、私には才能がなかった。でもそれを自覚するには、遅すぎたの。多分私は、酔っていたのよ。自分の可能性に。自分の……ありもしない才能に。酔って現実から目を背けなければ、やってられなかった。結局、私は家に籠っていることしかできない」
 私の独白を、青年は黙って促しました。
「それでね、私は考えた。ああ、この世界に、自分の場所なんてないんだなって。気付けば、私はここにいた。ここはね、家族と一緒に遊んだ砂浜なの。やっぱり私の記憶の片隅には、親との楽しい思い出が残っていたからかもしれないわね」
 潮風が優しく頬を撫でます。心に貯めこんでいた気持ちを吐き出し、それは風に乗ってどこか遠くへと運びました。
「死ぬつもりだった。でも、生き残ってしまった。こうして、みっともなく生きている」
 普段あまり喋ることのない自分が、ここまで饒舌に話すことが出来たのは、ひとえに青年のおかげでした。
 この夜の雰囲気と、青年の妖しげな魅力。そもそも、青年は本当に人間だったのでしょうか。
 私の言葉を聞き、青年の深海のような輝きの瞳が、私を捉えました。
「それで、君はどうするつもりだい? 生き延びてしまった君は」
 試すような青年の言葉に、私は正直に話しました。
「何も……。今はただ、こうしてあなたと喋っているぐらいが、私の生きがい」
「僕はいつでもここにいるよ。必要としてくれる者がいる限り」
 そうして、その日は青年と別れました。
 家を出る前よりも気持ちは軽く、前を向いて生きるのも悪くない。そう思えた夜でした。

 しかし、やはり世界はそう優しいものではなく、届けられる通知は不採用の三文字。夕食の親は私を責めることをせず、静かでした。それでも、前の自分とは違いました。
 必要とされることは重要ではない。役割に、何かの役に徹することこそが重要なのだ。そう考えるだけで救われた気がしたのです。
 たった二日前よりも、少しだけ世界が輝いているように感じました。それは小さな輝きでしたが、私に希望を持たせるには十分な輝きでした。
 こんな私を、単純だと揶揄するかもしれません。人によっては、バカだなんだと後ろ指をさされることでしょう。ですがそれを受け入れるぐらいには、心に余裕ができていました。
 その夜も、私は海に赴きました。青年に会うために。感謝の気持ちを伝えるために。
 彼はやはり、そこにいました。
「また、来たんだね」
「私が、あなたを必要としたからでしょう」
 彼はいつものように笑い、隣に来るように促しました。
 そんな関係が、何日も続きました。
 他愛もないことを喋りました。その日あった出来事を喋りました。何の変哲もない日常の話を、一向に好転しない現状でも変えようと努力していることを。生きがいを、生きる理由を、青年から見出していたのかもしれません。事実、私を未だこの世に留めている理由はそれだけしかありませんでした。
 そしてそういう生活は、私を少しづつ変えていったのです。
「あんた、何かあったの?」
 私の変化に気付いたのは母親でした。
 父親不在の食卓で、私よりも先に食べ終えた母が不思議そうに尋ねました。
「いいえ、何も」
 私があの青年のことを話さなかったのには、特に理由はありません。強いて言うならば、誰かに話してしまうと青年の存在が消えてしまうような感覚があったからです。
「何となく安心したわ。前のあんた、少しおかしかったもの」
「そうだったかしら」
「ええ。面接や通知が来た後もそうだけれど、そういう時のあんたの無表情が怖かったわ。何を考えてるのかも分からないし」
 頬杖をついてこちらを眺める母と目があいました。
 久しぶりに母親の瞳を見た気がしました。いつもは俯いて食事に集中するだけでしたから。
 母の目は、皺が増えていましたが、瞳は老いてなお綺麗でした。それすらも気づけないほどに、私自身が周りを見ていなかったということでしょう。
「そうだったかしら。でも、もう大丈夫。多分、大丈夫よ」
 母はため息交じりにそっぽを向きましたが、ふと私に向き直った途端、声をあげました。
「久しぶりに見たわ」
「?」
「あんたの笑顔」
 その時初めて、自分が笑っていることに気付きました。外ではいざ知らず、家での私は寡黙に過ごし、喋ることも笑うことも、極力控えていました。自立することもできずに家にいる自分がとても恥ずかしく、また、親と話すとそんな自分を否定されてしまうのではないか、そういった恐怖ゆえに波風を立てさせないように息を潜めて過ごすのが常でした。
 今にして思えば、私に何も言わなかったのは親の優しさだったのかもしれません。
「別に、頑張らなくていいのよ。あんた、何のために仕事探してるの? 家のため? 親のため?」
「……分からないわ」
「何を糧にして努力しているのかも分からずに頑張ったって、徒労に終わるだけでしょう。何かしたいことがあるなら、それに一生懸命になっても良いのよ?」
 目の前の食事を食べ終わり、母の言葉に少し私は考えました。
 何をしたいのだろうか。今一度振り返って、一番初めに出てきたのは、シェイクスピアのマクベスでした。舞台の上でスポットライトを浴びる登場人物達。厳かに、しかし劇的にめくるめく物語。
 一度は夢見た舞台でした。
 やりたいこと、私にとってそれは、演劇に他なりません。その時私は、一度は挫折したその道を歩みたい、そう思っていました。
「別に、今ここで答えを出せとは言わないわ。もしも、わたしに協力できることがあるなら、その時は言ってね」
 沈黙する私に母はそう言いました。その時私は、気づいてしまいました。
 母も、母なりに悩んでいたのではないでしょうか。私にどう声をかけるべきか、どういった言葉を投げかけるべきか。悩んでいた末の私の笑顔に、きっと決心が固まったのでしょう。今までの思い出を振り返る寡黙な会話も、今にして思えば、そうした過去から私をどうするべきか探るようにしていたのかもしれません。
 私は、心底自分の愚かさを呪いました。近くで一番、私自身を見ていた親から逃げていた私を。
 親のぎこちない動作から、親は私を責めているのだと勝手に勘違いをしていました。そんなぎこちない動作も、考えてみれば簡単なことです。胸中で渦巻く娘に対する不安を、どう言葉にするべきか。答えの出ない問答を、親は頭の中で繰り返していたのでしょう。
 私は沈黙を破りました。
「……演劇を、したい。劇団に入りたい」
 私の言葉に一瞬呆気にとられたものの、すぐさま柔和な笑みを浮かべました。
「それが、あなたのやりたいことなら、すればいいわ。制限したりしない。好きにやりなさい」
 ただし、と母は続けました。
「ここにいる間は衣食住は保証するけれど、お金は自分で稼ぎなさいな」
「バイトで何とかするよ」
「ま、何も目指さず、ただなぁなぁで仕事をするよりは良いんじゃない? ただ、将来のことも考えなさいよ。どうするべきか。やりたいことをやるだけじゃあどうにもならないことの方が多いんだから」
 そうして釘を刺す母に私は応えました。
「分かってる。もう、大丈夫だから」
「そう、何をしようとしてるのか知らないけれど頑張りなさい」
「うん」
 その日私は、青年と出会ってから初めてあの砂浜に行きませんでした。

 劇的に変わらないまでも、変化した生活。
 私は、活動している劇団を探し、運よく劇団員を募集しているところを見つけ、そこに入ることが出来ました。入ったばかりでも、私には確かに役割があり、何よりも、舞台に立てるということがこれ以上ない至福でした。
 舞台と、登場人物、物語に、役割。
 演劇は人生の縮図でした。青年が言っていたように、そこには確固とした役割がありました。
 初めて、生きていることを実感できました。台詞なんて二言三言ほどしかありませんでしたが、それでも、暗い劇場で、ライトを浴びながら役に徹することは私に確かな実感を与えるには余りあるものでした。
 演技ではなく、心の底から笑うことが出来ました。泣くことが出来ました。感情を表すことが、どれほど楽しいものなのか、理解することが出来ました。
 私にとって苦痛だった夕飯の時間も、今となっては団欒の場となっていました。父には、仕事を探すことを辞め、劇団に入ることを伝えました。すると父親は、困ったかのような、嬉しいかのような、そんなどっちつかずの笑みを浮かべ、それでも私に「そうか。そうか」と私の言葉を噛み締めていました。
 後に聞けば、父も母のように私への接し方を考えあぐねていたようでした。私の将来に若干の不安を持ちながらも、父は私の選択を了承してくれました。
 気が付けば、最後に砂浜に行ってから、ひと月が経っていました。あの青年のことを、考えない日はありませんでした。しかし、バイトと演劇の生活は思っていた以上に忙しく、家に帰れば疲労から泥のように眠る生活が続いていました。
 ようやく休みが取れるという日を前に、私は夜の砂浜に行くことを決心しました。
 その日も、最初に訪れた時のように、満月が空にぽっかりと浮いていました。家を抜け出し、閑静な住宅地を抜け、海岸に沿って敷かれた車道を横切ります。砂浜は青白く輝いていました。
 靴を脱ぎ、砂浜に足を踏み入れました。砂は私の足を優しく押し上げ、その感触に浸りながら、ふわりふわりと歩みました。
 ただ、その時の私は、予感めいたものがありました。それは不安ではありません。強いて言葉にするのなら、物語の結末を知ろうとしているかのような、それでいてもう答えを知ってるかのような、なんとも言い難い予感でした。そして、その予感は砂浜を半ばまで歩くころには、確信へと変わっていました。

 ごろごろと無造作に転がされた岩場、その上に、彼の姿は見当たりませんでした。

 直前の確信は、私にもう一つの予感を与えました。
「嗚呼、多分、もう二度と、あの青年に会う事は出来ないだろう」
 それでも私は、岩場に上り、青年いた場所に赴きました。青年が座っていた場所に座り、青年が見ていたように目の前に広がる景色を見ました。
 傍を駆ける風は優しく髪をかき上げ、頬に伝う熱いものすらどこかへ運び去ってしまうようでした。
 海は暖かく私を受け入れてくれましたが、なぜだかその時、私はそんな海を前に、とてつもない孤独感に襲われました。
 星も、月も、海も、街も、砂浜も、どこか遠くに存在しているようで、宇宙に一人だけ放り出されたかのような心細さが、私の頭にとりついて離れません。
 私は咄嗟に目をつぶり、頭を抱え、呼吸さえも置き去りにして、自分の中へ閉じこもりました。
 誰も助けてくれない暗闇の中、誰かの声が響きました。

「君に、もう僕は必要ないじゃないか。大丈夫、きっと独りでも大丈夫」

 青年の声が傍から聞こえ、私は咄嗟に辺りを見回しました。しかし、青年の姿は、さらには人間の影さえ、どこにもありません。
 落胆するのと同時に、私は微笑んでいました。
 今にして思えば、あの青年の不思議な存在感は、どこか人間でないような気がしました。儚いながらも、青年の姿には何処か神々しさすら垣間見え、妖艶で幻想的な姿は、あまりにも人間離れしていました。
 最後に、会いに来てくれたんだろう。私はそう合点しました。ただ、それでも、私は浅ましい人間でした。
 もう一度だけ、もう一度だけでいいから、会って話がしたい。そう願わずにはいられませんでした。まだ、名前すら聞いていない。そうだ、また会ったら名前を聞こう。自己紹介をしよう。今までは私が一方的にしゃべるだけだったから、次は青年の話も聞いてみたい。淡く、また愚かしい願望が、泡沫のように浮かんでは消えました。もう、二度と会えないことは理解できているのに、それでも、あきらめずにはいられない私がいました。
 月が微笑む夜の下、私はただ漠然と、海を眺めていました。

 今でも、私は出来るだけ、夜の砂浜を散歩しています。いつかあの青年と会うことができないか、期待しながら。
 馬鹿げていることは分かっています。人に話せば、一笑に付されることも理解しています。
 私にとって、会いたいという漠然とした思いは、呪いでした。この思いは、これからも私の半身として蝕んでいくんじゃないかという予感さえしています。
 この手紙を、私はボトルに詰め込んで海へ放ちます。あの真っ黒な宇宙へ、どこまでもどこまでも漂うように。そうしていつか、青年に届くように、願いながら。

月が見ている

如何だったでしょうか。如何だったでしょうか。

夜の海を見たことありますか? あの吸い込まれそうなほどの景色。夜色に染まった海。ともすると別世界の入り口のような神秘があるように感じます。満月の夜ともなると、その雰囲気は格別です。

前回の投稿から年を跨いでました。お久しぶりです。今年もぼちぼち投稿しますので,どうぞよしなに。

月が見ている

「私にとって、この思いは呪いでした」 夜、海に臨んだ砂浜で女性が出会ったのは、神秘的な雰囲気に包まれた青年だった。 拙筆ですが、どうぞよしなに。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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