あの人もいつもの場所で

         1

 最近、よくここへ来る。特に理由はない。あるとすれば、それは私の心の問題だ。
 この公園は、私の住むアパートから徒歩五分くらいの場所にある。公園といっても、遊具はなく、ただの空き地にいくつかのベンチが並んでいるだけ。殺風景な所だが、なぜか来てしまうのだ。
 いつものように、私は空いているベンチに座った。
 何気なく右手に目を向ける。やはり居た。遠くのいつものベンチに、初老の男性が座っている。いつもいるがホームレスではなさそうだ。いつも違う服装だし、ワイシャツにジャケットという紳士的な格好をしている。
 初老の男性はいつもそこで煙草を吸っている。挨拶も、目も合わせたことがない。
 私はその人を無視して、ベンチに更に深く腰掛けた。
 ここへ来る理由は特にない、と言いながらも、ちゃんと理由はあるのだ。物思いに耽りたいくらい、気分が沈んでいるのだ。
 一時は婚約まで考えた彼女と最近上手く行っていない。理由は些細なことだ――こんな言い方をしたらまた怒られる――彼女曰く、私が会社の同僚と仲良くし過ぎているらしい。相手は女性だ。
 この前も、同僚数人で行ったバーベキューで機嫌を損ねてしまった。
 彼女は男だけの集まりだと思い込んでいたらしいが、後で女も居たと知って怒りだしてしまった。私自身、言わなかったことには責任を感じている。だが、そんな細かい事まで報告する義務があるのだろうか。
 会社で会ってしまうのだから、男であれ女であれ会話するのは当然だし、無視する理由もないし、仕事の話もあるし、仲良くしておかないと面倒くさいし、上司に誘われれば飲みにも行くし、同僚だけでも行く機会はある。
 大学卒業後、就職せずに進学した彼女には、社会の〝当たり前〟が分からないのだろう。
 だが、大学時代、彼女が男友達と話していても、サークルの仲間で飲み行っても、文句一つ言ったことがない。そんな細かい事まで気にする男だと思われたくなかったし、束縛も性に合わない。好き同士であれば、お互い自由でいいと思っていた。
 なのに、だ。
 私は空に向かって大きく息を吐いた。
 ここに座って見上げると、なぜだか空が大きく見える。自分が本当にちっぽけな存在になってしまう。感傷に浸りたいときは、もってこいの場所ということだ。
 さり気なく右を見る。初老の男性が何本目かの煙草を吸っている。その姿はどこか悲しそうで、彼も感傷に浸っているように見える。よく見ると、あの年の男性にしてはかなり痩せているようだ。
 再び、私は空を見上げた。静かに目を閉じる。こうすると、風や虫の声が聞こえてくる。ここに居るのは自分一人だけだ・・・と感じる。
 ここへ来るとき、携帯電話は置いてきている。誰にもこの時間は邪魔されたくない。

 何分・・・何時間経っただろう。私は半分うつらうつらしながらベンチに座っていた。腕時計を見ると、ここへ来て三時間も経っていた。かなり長い時間ここに居たようだ。まぁ、ここへ来たときは、いつもこんな感じだ。
 立ち上がりしなにまた右を見る。やはり、そこにはあの男性が座っている。もう煙草は吸っていない。ただ座っている。ここからは表情までは分からない。
 私は、持ってきていた財布の中身を確認し、銀行に預けてある金額を思い浮かべた。
 来週は彼女の誕生日だ。少しプレゼントを奮発して、仲直りしよう。
 私は頭を掻いた。
 こんなやり方で仲直りしてしまおうとする自分に腹が立った。でも「別れよう」と思わないだけ、自分にはまだ救いがある。それだけ、彼女のことが好きだということだから・・・。

          2

俺はどっかりとベンチに座った。
 遊具も何もなく、ベンチだけが無駄に並んでいる公園だが、静かでいい場所だと思っている。一人を除いて、誰も来ない。犬の散歩さえ見かけたことがない。
 この公園に唯一居る白髪のおっさんはいつ来ても同じベンチに座って煙草を吸っている。挨拶したり会釈することもない。それが暗黙の了解となっている。それに俺が大抵座るベンチはそこそこ離れている。近くに座るのも嫌だし、自然とそういう流れになる。
 ベンチだらけの公園だが、水道はあったりする。俺はさっき濡らしたタオルを口に当てた。
殴られたその場所は大きく腫れていたし、口の中は切れていた。
 最近「タイマンだ」とか言って喧嘩する高校生も少ないのではないだろうか。だが今回、俺は喧嘩を売られたから買っただけの話だ。久しぶりの喧嘩だったが、まぁ、上手くやれた方だと思う。
 喧嘩の発端は、相手の勘違いからだ。どうやら俺は、今回の相手が惚れている女と仲良くし過ぎてしまったらしい。どっちが女を自分の物にするか、タイマンで決めよう、ということだ。明らかに言いがかりだったが、確かに女の方は可愛らしい容姿をしている。付き合いたいか、と聞かれればそうでもないが「タイマンだ」とか言っているバカに取られるのは我慢できなかったので、ブチのめしてやった、という訳だ。
 勝ったからといって、告白する訳でもない。無駄なことをして疲れた体をこうして休めに来た。
 白髪のおっさんはまた新たな煙草に火を付けた。
 俺も中三の時に数本吸ったことがあるが、あの煙たさと舌に残る変な苦さというか、チクチクする感じが嫌で早々に辞めてしまった。
 あのおっさんも、あんな所でこっそり吸っているところを見ると、おそらく奥さんには辞めている事にしているか、嫌がられてこんなところまで来て吸っているかのどちらかだろう。
 さっさと止めちまえばいいのに、煙草なんて。と思うが、俺ら若者が携帯電話やスマホを手放せないのと同じ理由なんだろうな。
 座り直すと、体の節々が痛かった。
 ヤベ、マジでしばらく帰れないかも・・・。面倒くさい。喧嘩なんて、するんじゃなかった。
 でも、なんで俺は興味もない女の為に、あんなに必死だったんだろう。
 ・・・そんな事、薄々分かっている。
 おそらく、自分でも気付かないうちに好きになってたんだろうな。
 どんなに拳を鍛えても、恋心には勝てないな・・・。
 今日の俺はいつになく詩的だ。
 空が無駄に大きいこの空間が、俺の心を清めてくれているんだろう。何か、いい気分だ。
 俺はポケットからスマホを取り出した。緑に白字のお馴染みの無料通信アプリを起動させる。彼女のアイコンはすぐに見つかった。最近同じクラスの女友達と行ったテーマパークでの写真だ。お土産のクッキーは美味しかったな。
 トークの画面にして、指が動かなくなる。
 俺、何緊張しているんだろう。さっきの喧嘩の時ですら、こんなに緊張しなかったのに。
 まぁ、ゆっくり考えよう。時間はたっぷりある。綺麗な青空が見守ってくれているしな。

          3

 わたしは朝早くから作ったお弁当を手にいつもの公園にやって来た。
 休みの日のお昼は自分でお弁当を作り、ここにあるベンチで座って食べる事にしている。就職しても実家暮らしのあたしの食生活は母親のお蔭で安定している。職場に持っていくお弁当も母が作ってくれる。でも、あたしも二十代後半になって、真剣な男性とのお付き合いを意識し始めた。その為の花嫁修業(?)の一環として、休日は自分でお弁当を作ってみる。
 母は、普段から自分で作ればいいのに、なんて言ってくるが、平日はギリギリまで寝ていたいじゃないか。その代り、休日も早起きして規則正しい生活をしているのだ――と、自信満々に述べているが、本日の起床時間は午前十時。午前中に起きることが、わたしの中では早起きとなっている――
 相変わらず、殺風景な公園だ。だから、気に入っているのだけれど・・・。いつもの場所にいつものオジサンが座って煙草吸っているだけ。他はベンチのみ。
 「こんにちは」とオジサンに声をかける。いつも通り、柔らかな笑みが帰ってくる。いくつかある公園の入り口のうち、オジサンはわたしのいえに近い側入り口付近にいつも座っている。だから、いつも前を横切ることになる。初めは挨拶だけにしていたが、最近はお弁当を食べてもらったりして、感想を聞いている。
 でも、オジサンはいつも頷くだけで、滅多に声を出さない。咄嗟に声を出すことが出来ないらしい。たまに声を聞くことが、ガラガラしている。
 今日は初挑戦でミニハンバーグを二個作っていた。オジサンにお箸を渡して食べてもらった。
 オジサンは頷いて、親指を立てた。
 お礼を言って、わたしは離れたベンチに座って、残りを食べた。
 お弁当の具材を一つ食べてもらって感想を聞く、それ以外は話し掛けないのが、わたしの中での暗黙のルールだった。なぜなら、オジサンが一人で居たそうなオーラを出しているからだった。それに、あの声では話はあまり続かない。奥さんに隠れてなのか煙草を吸いに来ている邪魔もしたくないし。
 今日のメニューはさっき食べてもらったミニハンバーグに加えて、アスパラガスのチーズ炒め、玉子焼き、ポテトサラダ、ハムで巻いたキュウリ、ウィンナー、海苔巻おむすびだ。
 うん、見た目もなかなかいいぞ。
 もっとレパートリーが増えてきたら、二段弁当になんかしちゃって一段を御飯だけにして、ふりかけか何かでハートを作ったり・・・。それを、会社の憧れの先輩に「食べてくださいっ」て渡しちゃったり・・・!
 妄想は膨らむが、現実はそう甘くない。会社の先輩ゲームの話しかしないし、同僚の男子はパッとしないし、会社での運命の出会いを期待していたのがバカみたい。にもかかわらず、こうして花嫁修業はしている。そう、いつかどこかで、王子様がわたしを見つけてくれるかもしれないから・・・・。
 尊敬に値するポジティブシンキングだ。わたしは。
 「男を捕まえたかったら、まず胃袋を掴め」といつか誰かに教えてもらったことがある。王子様がわたしを見つけてくれたら、まず、その胃袋を・・・・いや、待て待て。何だかわたし、野蛮な女になってきている。落ち着こう。
 ミニハンバーグを口に運ぶ。うん、いい感じ。
 自分向けのお弁当を作っていて気を付けていることは、味見をしないことだ。下手をすると朝御飯とお昼のお弁当が同じメニューになりかねない。それは、嫌。でも、一つ不満なのは、自分で作った場合、お弁当箱を開けた時の感動がないこと。だって中身知ってるんだもん。やっぱり、お弁当は自分にではなく、人に作ってあげてこそ、その存在価値を高めることが出来るんだな。
 お弁当を食べ終えて一息つく。自然と空が目に入る。
 ここの空は大きくて、綺麗だ。突拍子もないが、泣きたくなってきた。わたしは、結婚なんて出来るんだろうか。誰かに好きになってもらえるんだろうか・・・その資格があるのだろうか。
 今まで、男性とお付き合い出来たのは、長くても二ヶ月。最終的には全部フラれている。こんなわたしが結婚だなんて・・・。
 オジサンはいつもの様に、静かに煙草を吸っている。今、何を考え、何を思っているのだろう。やっぱり、あの年になっても悩みってあるのかな。
 人生はまだまだ長い。がむしゃらに頑張るしかないんだ。
 ポジティブシンキングだ。わたし。

          4

 あぁ、疲れた。
 どすっという音を立ててベンチに座る。季節はもうすぐ夏真っ盛りだ。そろそろこの公園も過ごしにくくなってしまう。にもかかわらず、こうして来ている自分に呆れる。
 うちは吹奏楽部でホルンを吹いている。カタツムリ形の鞄を傍らに置いているのはその為だ。
 コンクール出場を控えたうちらの部活は練習に余念がない。唯一の救いは、運動部と違って冷房の効く室内で練習が出来るということだ。そうでなければ死んでいる。
暑いのは大っ嫌いだ。
でも、今年のコンクールは頑張りたいんだ。お世話になった三年生の最後のコンクールだ。いい形で終わってもらいたい。それに、うちにホルンの魅力と楽しさを教えてくれた恩人でもあるんだ。うちら二年生が一年生を引っ張って、これからの部活を盛り立てていくためにも、ここで意気消沈してられない。
 気持ちが熱くなるにつれて、気温も高くなって行く。早く冷房の効いた家に帰りたい。だけど・・・どうしてもこの公園には来てしまうんだ。なんでだろう。別段面白味のない公園がなぜか好きだった。いつもと変わらない、一人を除いて誰もいない殺風景な公園。
 唯一居るのが、煙草を吸っている、おじいさんだ。
 げっそりと痩せていて、調子が良いようには見えない。煙草なんか吸わなきゃいいのに。毎回思って、無視することにしている。うちには関係ないことだし。それにこっちは今、それどころじゃない。
 この公園にやって来たのは、いつもみたいに休憩する為だけの理由じゃない。うちのパートの一年生が部活を辞めたいと言ってきたのだ。今年のホルンパートは一年生を含めて五人しかいない。振り分けは、三年と二年が一人、一年が三人だ。必然的に一年生のうち二人はコンクールメンバーとなる。辞めたい、と言ってきたのはコンクールメンバーの一人の方の一年生だった。
 どうしてパートリーダーの先輩じゃなくて、うちに相談してきたんだろう・・・正直、面倒くさい。
 「どうにかしてよ」と空に向かって呟いてみる。
 夕暮れ時の空はオレンジだけじゃなくて、紫や黄色を含んで、美しい色をしている。特にこの公園から見える空は格別に美しい。暑さなんか忘れて、その中に引き込まれていくようだ。
 すると、お腹が鳴った。空を見上げるのは、現実飛行をしたいからだと思う。空に限らず、高いところから遠くを見たり、ぼーっとありもしない所を見つめることは、自分が知りもしない世界を想像して、現実から思考を逸らそうとしているんだ。
 けど、ここの空を見上げると、家を思い浮かべてしまうのはどうしてだろう。今も、お母さんが用意してくれているであろう夕飯のことを想像してしまった。後輩から部活辞めたいという話を聞かされた直後だというのに。
 その子曰く、練習が厳し過ぎて、夏休みだというのに友達と遊べない、勉強も出来ない、という理由だった。
 うちの学校のホルンパートは代々人数が少ない。だからうちも一年生の時からコンクールに出場していた。当時の自分も同じことを考えていたと思う。それでも、今もこうして部活を続けているのは、先輩のお蔭だ。何かを言われたわけではない。ただただ先輩が音楽と向き合う姿を見せつけられただけ。その真剣さと笑顔に心を奪われてしまったんだ。
 今のうちは、その時の先輩の立場にある。でも、どうしたらいいんだろう。ただ練習を一生懸命やっても、気持ちが届くとは限らない。それに今回、コンクールに出れない三人目の一年生は、オーディションで落ちた時に泣いて悔しがった子だ。なんだか、挟み撃ちにあっている気分だ・・・。説得の仕方によっては、二人を傷つけてしまう。そもそも〝説得〟という言葉が正しいのかすら分からない。
 遠くで、今まで比較的静かだったのに、蝉が鳴き出した。気温が上昇した気がする。
 公園の空はいつの間にか濃い青になり、星がチラつき始めた。お母さんが心配している。でも、今ここを離れたら、もう答えは見つからない気がする。どうする。どうする。
 何かに集中しているといろんな事が気になってくる。今まで気にしたことがなかった煙草の臭いまで。

          5

 また僕の時間潰しが始まる。
 僕の両親は共働きだ。家に帰っても誰もいないことは分かっている。低学年の頃は、無理してでもお母さんは一時帰宅をして、僕を出迎え、忙しなく夕飯の準備の事などを伝え、十分もしないうちにまた仕事に行く。高学年になった頃から紙切れ一枚に夕飯の事を書いたものが置かれるだけになった。
 家には毎日四時過ぎに着くが、別に友達と遊ぶ約束もなければ、したいゲームもない。だから僕はわざと家とは反対方向に歩いて行って、無駄な時間を無駄に過ごすことにした。
 でも、最近でもこの時間に楽しさを見つけた。知らない場所を足が向くままに歩き続けることは苦痛ではない。他人の家の表札を見ていくだけでも、いろいろな名前があって面白い。まだ読めないものもあるけど・・・。後一週間もしないうちに夏休みになるが、僕はこの散歩を続けるのではないだろうか。
 今日も知らない道を歩いている。毎日歩いていると、知っている道がどんどん増えている。すると、自然と迷うことも少なくなる。
 そうして、ある公園を発見した。遊具も何もない、ベンチだけが並んでいる、言わば〝空き地〟だ。
 日差しを遮るものもなく、この時期には最悪の環境だ。
 ベンチに腰掛けてみると、慌てて立ち上がってしまうほどの熱さだった。フライパンに乗せられた食べ物の気分ってこんな感じだろうか。
 ベンチに座れずブラブラしていると、そんなアツアツのベンチに座るおじいさんを見つけた。しかも、この時期にワイシャツにジャケットという出で立ちだ。熱くないのだろうか。
 こちらの心配は余所に、おじいさんは煙草を吸っていた。しばらく見つめていたら目が合った。煙をすーっと掃き出し、こちらを見据えてきた。
 おじいさんは「ど」と言った後に大きく咳払いをして、ガラガラ声で「どうしたんですか」と聞いてきた。
 僕は何を言っていいのか分からず黙っていた。おじいさんは何も言わずに煙草を吸い続けている。その視線は既に僕の方を向いていなかった。
 公園を一回りして、取り敢えず敷地の外へ出た。こうも日光を遮るものがないと、さすがに暑い。ランドセルに熱の逃げ場所を奪われた背中には滝のように汗が流れている。
 しばらくまた歩き続け、日がようやく傾いた頃に再び公園を訪れた。
 おじいさんは、同じ場所に座っていた。もう煙草は吸っていない。手にはクシャクシャにされた箱が握られている。
 近付いていくと、おじいさんと目が合った。今度は何も聞かれなかった。目と目がばっちりと合っている。不思議と威圧感も、恐怖も感じなかった。直感で、このおじいさんは優しい人だと思った。
 名前も知らない土地で買ったジュースの缶をおじいさんに手渡した。さっき買ったところだからまだ冷たいはずだ。
 差し出されたジュースの缶を見て驚いた顔をしたが、おじいさんは優しく微笑んで頷いた。そして目の前でジュースを飲んだ。

          6

 九月になり、朝と夕方はかなり涼しくなったと思う。それでも昼間はまだまだ蒸し暑い。外は涼しいのに、家の部屋の中は暑い。冷房を付けるのもバカバカしいので、外に出ることにした。
 部屋着のまま外へ出ると、充分すぎるくらい涼しかった。この辺りは午後八時になると人通りはかなり少なく、静かになる。時々会社帰りのサラリーマンとすれ違う程度だ。
 大学に通っている自分は、今は夏休み真っ盛り。先週はバイト三昧だったので今週は比較的暇だった。今日も夕方近くまで眠っていた。
 それにしても、夜風が涼しい。家でゴロゴロしているってもの考えようだ。そろそろ散歩にいい季節かもしれない。おっと危ない。こんな事ばっかり言ってたら、年下の彼女に「老化現象だ」と笑われる。
 年下と言っても、二つしか変わらない。いや、この時代その二つが大きいのかもしれない・・・・。
 あまり深く考えるのは止めよう。今は無心で散歩をしてみようではないか。
 多分、二駅分くらい歩いた。時計は九時半を指している。周りには誰もいない。虫の鳴き声がするだけ。気温はまだまだ夏らしさを残しているが、音はすっかり秋だ。
 虫の声が大きいと思ったら、近くに公園があった。幼少期に戻ってブランコでもしてみようと思ったが、そこは遊具一つない、ベンチばかり並ぶ公園だった。
 薄いルームパンツで腰を下ろすと、ひんやりとした。
 見上げると、広大な黒い海が広がっていた。何気なく辺りを見回してみると、赤い光を放つ蛍が飛んでいた。そんな蛍いたかな・・・と考えていると、そこには人が座っているのだと気付いた。危ない、もう少しで恥をかくところだった。
 どうやら、赤い光は煙草の火のようだ。
 暗くてどんな人かは見えないが、こんな時間に、こんなところで。多分、家族に煙たがられてこんな所まで追いやられてしまったんだろう。僕も昔は煙草を吸っていたが、今の彼女に嫌がられて辞めてしまった。
 ベンチに座って、しばらく虫の声を聞いていた。なかなかいい感じだ。またここへ来てもいいかもしれない。
 誰かが座っているところが急に明るくなったのが横目で分かった。多分、二本目に火を付けたのだろう。ライターの明かりだ。
 ここにいたらまた吸いたくなってしまうかもしれない。脳裏に怒った彼女の顔が浮かぶ。
 ・・・・それが可愛いんだけど。
 僕はサッと立ち上がり、公園を立ち去った。
 煙草に未練でもあるのか、僕は改めて振り返った。遠くから見るその煙草の光は、短命の蛍の瞬きにそっくりだった。

          7

ぼくは震える手を必死に抑えた。思い出したくなくても、あの感覚は完全に手に残っている。
・・・・ぼくは、人を殺した。
 どうして、あんな事をしてしまったのだろうか。ほんの出来心。魔が差したんだ。
 ぼくは、中学校で孤立している。友達はいないし、いつも本ばかり読んでいた。最近はそれを勝手に破る人がいるから、学校に本を持っていけなくなった。髪はパサパサ。チョークの粉で汚れた黒板消しで頭を殴られるから。先生にもよく怒られる。教科書を毎日のように忘れるから。でも、本当は忘れてなんかいない。いつの間にか全部破られていたんだ。
 これが、テレビでよく取り上げられる〝いじめ〟なのだろうか。
 ぼくは、いじめられているのか。
 クラスで目立つ存在の奴が、よく話し掛けてくる。友達でもないし、興味もないから無視してる。でも、周りのみんなは大笑いしてる。何が面白いのか分からないけど。
 担任の先生に「お前、困っていることはないか」と聞かれた。髪がパサパサになったことや、せっかく買った本が台無しになって困っている、と言ったら、先生は呆れ顔でため息をついた。「いじめは、いじめられる方にも責任があるんだ。お前がそんな態度だと・・・・」
 何だかよく分からない話を長々と聞かされた。お蔭で帰るのが遅くなった。
 少なくとも、先生はぼくがいじめられていると認識しているようだ。でも、どうでもいいことだ。髪の毛と本については腹が立つけど、別にそれ以外は何ともない。周りが勝手に盛り上がっているだけだ。奴らはいつも群れでしかやって来ないし。要するに腰抜けなんだろう。
 そのことを本人に教えてやった。そうしたら、あいつ顔を真っ赤にして何か叫んでた。ぼくは奴に羞恥心に触れてしまったようだ。帰り道、後ろから奴が声をかけてきた。「お前のせいだ」と訳の分からないことで言いがかりを付けてきた。ぼくは事実を言っただけだし、何でそんなにおこられなきゃいけないんだ。奴はどんどん起こり出して、ぼくの制服はクチャクシャになってしまった。本当に、面倒くさい。髪の毛と本の次は、服まで台無しにするつもりなのか、お前。
 一度、突き飛ばしてやった。思ったより簡単に吹き飛んだ。奴は、またギャァギャァと叫んだ。
「何するんだ。こんなことしてただで済むと思うなよ」
 この世で一番の腰抜けが口にする言葉じゃないの、それ。
 尻餅をついている奴に近付いて、胸ぐらを掴んでやると、奴は顔を真っ青にした。何だか滑稽で面白い。また突き飛ばすと、奴は本当にガキみたいに四つん這いになってぼくから逃げて行った。面白いから、追い掛けた。たまにバタバタッとわざと足を踏み鳴らすと、奴は「ヒィ!」とか情けない声を出すんだ。本当に笑ってしまう。
 足を捕まえて引きずり回した。奴はギャァギャァ叫ぶ。
 人をからかうのってこんなに面白いんだ。知らなかったな。
 試しに首を絞めてみた。少しずつ、少しずつ、手に力を力を込めていく。奴の怯えきった顔と言ったら、言葉に出来ないくらい面白かった。首を絞めているから、腹を抱えて笑い転げられないのが残念で仕方がない。
 しばらくそんな事をして遊んでいたら、奴が何も言わなくなってしまった。ピクリとも動かない。奴が叫ばないと面白くないのに。何やってるんだよ。
 思いっきり蹴っ飛ばしてやった。やっぱり動かない。
 ・・・・ぼくは、人を殺した。
 今まで、ぼくは何をされても平気だった。中学生がやることなんてちっぽけで、ダサくて、しょうもない事ばかりなのに。どうして、奴は死んでしまったんだ。
 バカじゃないのか。からかわれて死ぬなんて。ダッサい死に方だな。
 けど、この手には首を絞めたときの感覚がはっきり残ってるんだ。殺した瞬間・・・奴の目から光が消えた瞬間もぼくははっきりと見たんだ・・・・。
 人を殺す瞬間を、ちゃんと楽しんだんだ。
 手の震えが止まらない。ぼくはこれからどうなるんだ。警察に見つかって、刑務所に入れられてしまうのか。どうして奴じゃない。ぼくは、奴にやられてたことをやり返したんだ。なのに、どうしてぼくは刑務所なんだ。どうして。どうしてなんだ。訳が分からない。最後の最後まで、奴は無駄なことばかりしてくれる。
 気が付くと、全く見たことない場所に来ていた。辺りは真っ暗で、本当にどこにいるか分からない。分かるのは、自分はベンチに座っていることぐらいだろうか・・・。いや、近くで街灯が点いていて、周りが見えるぞ。叢だ。ここは、公園だ。
 ぼくは、公園にいるんだ。でも、どこの公園? ぼくは、どこに来てしまったのだろうか。警察はすぐ近くまで近付いているのではないだろうか。
 どこからか、人が長く、深く息を吐き出す音が聞こえた。
 慌てて辺りを見回す。その拍子にベンチから落ちて尻餅をついてしまった。
 少し離れた所に、赤い光が見えた。
 それは、ぼくを迎えに来た使者だと思った。光はまだ小さい。逃げる時間はある。けど、足が動かない。早く逃げないと。あの光に捕まってしまう。早く逃げなきゃ。一刻も早く、ここを立ち去りたい・・・・。

          8

 毎朝のランニングを始めて、今日で一ヵ月。
 今までいろいろと趣味を持つべくやって来たが、一週間続けばいい方だった。でも今回は上手く行ったみたいだ。小一時間家の近所をぐるぐる回るだけだが、どうしてなのか楽しくなってきた。近々、もっと遠くへ行ってみるのもいいかもしれない。自分にはまだまだ体力があることも分かった。
 三十八年務めた会社を定年退職し、家でごろごろする日々が続いていた。体重も十キロ近く増え、お腹の出が目立つようになった。完全に運動不足だった。それを解消する為に、今まであまりやって来なかったゴルフやテニスを始めようとしたが、続かず。囲碁や将棋もやろうとしたが、続かず。山歩きの会に嫁と参加してみたが、二回の参加で終わってしまった。
 今回のランニングは、どういう訳かこんなに続いている。朝日を浴びることや、朝の涼しい風に当たるのが何と言っても気持ちがいい。お蔭で体型は退職前と変わらなくなっている。夏の暑さも和らいだ九月の下旬から初めたので、気候も運動し甲斐のある陽気となってきた。
 私はスポーツドリンクを片手に公園へ入った。ここで毎回休憩をして帰ることにしている。運動後のスポーツドリンクはなぜ、こんなに美味しいのだろうか。
 視線の端に、人影が写った。あの人もこの一ヵ月、ずっとこの公園で見かける。それも、こんな朝早く。同じくランニング帰りではなさそうだ。ワイシャツにジャケットという小奇麗な格好をしている。年は、私と同じくらいだろうか。  
その人は煙草を吸っていた。私も若かったころは結構吸っていたが、年と共に数は減り、最終的には何の苦も無く辞めることが出来た。
 彼も会社を退職して、暇を弄んでいる一人だろうか。家では吸わないでくれと嫁に追い出されたか。それにしても、こんなに朝早くからこんな所で。余程煙草が好きなのか。あまりお勧めはしないな。
 よし、今日はもう一周行くことにしようかな。
 いつもよりしっかり目にストレッチをやっておく。一ヵ月も続いたんだから、これからは距離を延ばすことを目標にやって行こう。
 そうすると帰るのが遅くなるな。一度家に戻って一応伝えておくか。いや、今帰ってもまだ寝ているだろう。嫁が起きだす頃に帰ればいい。
 と思いながら走っていたら、あろうことか道に迷ってランニングどころではなくなってしまった。右へ行けども左へ行けども、見たことがない道ばかり。日は高く上り、嫁もとっくに起きている時間だ。目が覚めて、私が居ないことに気付いたら慌てるに違いない。
 どうしよう。当てもなく歩き回るよりは、誰かに道を聞いた方がいいのかもしれない。しかし、こういう時どうしてさっさと聞くことが出来ないのだろう。店で何かを探す時もそうだ。女は店員にすぐ声を掛けるが、男はなかなかそうしない。見栄でも張りたいのだろうか。ここは住宅街。インターフォンを押せばきっと誰かは出てくる。それに職場へ向かうサラリーマンとも何度もすれ違っている。でも、どういう訳か道を尋ねることが出来ない。この年になって情けない。自分が道に迷ったことが恥ずかしいのだ・・・・。
 すると、目の前から見たことのある老人が歩いてきた。痩せていて、猫背で、調子がいいようには見えないその男性は、さっき休憩していた公園で煙草を吸っていた人だ。向こうから歩いてくるということは、その先に公園があるということだ。公園が見つかれば、問題はない。
 男性とのすれ違いざま、改めて様子を伺う。頬は痩せこけ、両足をすり足の様にして歩いている。あんな状態で煙草を吸ってるなんて。
 長生きは出来ないだろうな、と思った。

          9

 自転車の籠は買い物袋で一杯。加えて左右のハンドルにも一つずつぶら下がっている。こんな所を警察に見つかったら注意されそう。実際、ハンドルが取られて運転しにくい。非常に危ない。
 別にここまで買い込まなくても良かったのに・・・。最近買い物に行けてなかった衝動が爆発したらしい。大学とバイトが忙しいという理由で冷蔵庫が空っぽだなんて悔しいじゃないか。
 でも、もう腕も足も限界だ。自転車を押して家までの最難関である坂を上っていた。
 さぁ、今日はどんな料理を作ろう。買い物をしたのはいいが、ただただスーパーの特売日で安くなっていたから買っただけで、具体的にメニューが決まっていたわけではなかった。
 考えもまとまらないうちに家に着いてしまった。二往復してようやく全ての買い物袋を玄関に運んだ。さぁ、これを台所まで運ぶぞ。
 あたしのうちは二世帯住宅。住んでいるのは、あたし一人。
 十年前は五人家族で生活していた。父親と母親、父方の祖父母。十年前に祖父が、五年前に祖母が亡くなった。そして三年前には、父親が女と一緒に出て行った。あたしは祖母の介護疲れを癒すための逃避行だと思った。母親もそう思っていたらしく、何でもないようにこの家で生活を続けた。でも、あたしは知ってた。母は夜一人で泣いていることがあった。あたしの前ではいつも明るかったけど。
 そんな母も遂におかしくなったのか、半年前に突然姿を消した。あたしは大学に行っていたから何も分からない。帰ってきたら玄関に買い物袋が置かれたまま、鍵も掛けずに家は、もぬけの殻。もちろん最初は何かの事件かと思ってすぐに警察に連絡した。すぐにお巡りさんが来て、話を聞きに来た。そうしているうちに、リビングに置かれたメモを発見した。
『しばらく留守にします。ごめんなさい』
 それだけが書かれたメモだった。ちゃんと家の中を見てから警察に連絡すればよかった。少し恥ずかしい。お巡りさんは少し呆れ顔で帰って行った。自分でも不思議なくらい、それ以上お巡りさんに何も言わなかった。メモがあったとしても、良く言えばただの家出、悪く言えば行方不明じゃないか。母の意思に反しても探してもらえばよかったのに。あたしはそうしなかった。変に現実的で、母親も疲れていたんだろう、アルバイトを掛け持ちしたりしたら生活にも不便しないだろう、と考えたり。大学にもちゃんと行って、上手く両立させる自信があった。料理は母親に教えてもらった。と言っても、横でただ見ていただけであたしは何もしたことがない。強いて言えば、味見担当だった。母は料理中、何かコツみたいなことをボソボソ言いながら手を動かしていた。あたしはそれを何となく聞いていて、気が付けば覚えてしまっていたんだ。料理方法と母親の味はよく分かっている。居なくなってからは、寂しさからかそれを再現しようと必死になっていた。
 そうして今日までやって来たが、正直言ってきつかった。でも、あたしは必死にやった。母親が帰ってくるまで頑張ろうとした。どこからそんなやる気が出てくるのか分からないけれど。
 ある日のバイトの夜勤帰り、近所の公園のベンチに座る父親を見つけた。カッコつけて空を見上げたりしている。前よりも少し痩せたようだ。案の定、女に財布を空っぽにされ、挙句捨てられたのだろう。
 何してるの、と冷たく声をかけた。
 「家に帰っても誰も居なくて、鍵がないから入れなかった」
 父親はそのように答えた。あたしは、カラオケで今朝まで働いていたし、母親は心の療養中で留守であることを伝えた。母親が出て行ったことについては少し驚いた表情を見せたが、ただ一言「そうか」と言っただけだった。
 大学に行くまで、まだ少し時間がある。朝ごはんを家で食べるか、と聞いた。
 父は力なく「あぁ」と言った。そして「ここの空は奇麗だな」と言った。今更何を言ってるんだ。この公園は祖父と祖母に連れられてよく来た。遊具はなく、ベンチしかないつまらない公園だ。当時の父親は仕事だと言って大抵家にいなかった。日曜日でもだ。
 父親の態度がわざと同情を誘うものに見えて、あたしは気分が悪かった。
 ふと、横に視線を移すと、ベンチに座る陰があった。煙草を吸っている、痩せた老人だ。服装もパジャマにカーディガン。朝からだらしなく、不健康だな、と思った。
 父親が「すまなかったな」と空を見上げたまま言った。苦労を掛けてすまなかったと。苦労を掛けていると思うなら早く帰ってくれば良かったのに。そもそも、駆け落ちみたいなことしなきゃいいのに。
 今更、何を言っても仕方がない。みんな、それぞれに苦労していたんだ。それが分かってたから、母もあの家で待ち続けていたんだ。意気消沈して帰ってくるであろう、自分の旦那の帰り場所を守っていたんだ。
 なんて、バカな夫婦。最終的な結果がこれか。その二人の娘であるあたしも、きっとバカなんだろう。
 父親は空を見ていた視線を落とし、立ち上がった。
 「母さんを探してくる。それまでは帰らん・・・帰れない」
 立ち去る父親の背中は、あたしよりも小さいように見えた。
 外に出てみて、改めて自分の嫁がどんな存在だったかを思い知ったのだろう。あたしが一人で生活するようになって・・・家事全般と仕事・・・父親と母親が毎日やっていることを同時に体験したことによって、両親という存在がどれだけ大きかったか、を思い知ったように。

          10

 寒い。町はクリスマスの飾りつけなんかして浮かれている。
 そういう俺も、今年は一人のクリスマスじゃない。彼女作りは何とかクリスマスに間に合わせた。大学のサークルで知り合った女性で、歳は同じ。美人というより、可愛い彼女だ。身長も少し低め。イケメンとは言えない俺には丁度いい感じだ。
 そして、今日は十二月二十四日。
 〝聖なる夜〟なんてオシャレなネーミングが付いているが、いつもと変わらない夜だ。彼女が居なかった頃は町のほのかなライトアップが眩しかったっけ。
 俺の家は実家なので、今日は彼女の家でクリスマスパーティーをする予定だ。俺は五時にバイトを終わらせて、ケーキを買って家に向かう予定だった。それなのに・・・。
 舌打ちをしながら腕時計に目をやる。時刻は八時を回っている。
 今日はいきなり店長が残ってくれと言いだしやがって、帰るのが遅くなってしまった。夕方からのバイトをドタキャンした奴がいたらしい。どうせ彼女とイチャイチャしてるんだ。
 「お前は違うよな」
 俺に彼女が出来たことを知らない店長の視線は鋭かった。
 駅のホームでため息をつくと、息が白くなって飛び出した。雪なんて振ってくれてたら、気分はもっと晴れやかだったのに。
 彼女・・・怒ってるかな。バイトが終わったことは知らせたけど、既読が付かない。やっぱり、怒ってるかな。これで喧嘩なんかしたら、初の喧嘩だ。今日が喧嘩記念日になる。
 付き合ってる・・・なんて簡単に言うけど、正直、自分がそこまで本気になれていないというもの事実なのだ。バイトの延長を知らされたとき、少しは彼女のことが頭を過ぎったが、そこまでのものは感じなかった。告白のきっかけも、ただ今年のクリスマスは一人じゃ嫌だっただけだ。サークルの男仲間と賭けもしていた。
 身勝手な男だな、俺。でも、付き合うってそういうもののような気もする。結婚する訳ではないだろうし。来年はどうなっているか分からないし。男仲間からすれば、俺は女と付き合うための一つのサンプルみたいなものだった。
 ケーキはケーキ屋で「クリスマス用」として売られていたものを買った。さすがに、適当過ぎたかな。
 男仲間との賭けには、付き合う期間も含まれている。一年以上続けなければ飲み代を払わされることになる。それは嫌なので頑張らなければならない。
 そう、彼女と付き合い続ける理由なんて、その程度のことなんだ。
 車内で揺られながら、俺はため息をついた。ここでは白い息がでない。体は火照ってきたが、心は冷め切っている。彼女や友人、自分自身・・・何もかもに対して。心の声は、俺を今の環境に適応させようとする。本当の俺は以前までの自分を保とうと必死だ。どちらが本当の自分なのか。どちらがあるべき自分なのか、分からない。でも、俺の耳は心の声を聞いている。
 なんて退屈な人生なんだろう。色々な柵の中で生きて、何が面白い。と言いつつ、バイトをやり続けていた方が楽だと思ったりもする。慣れてしまえば、マニュアルの中で生きる方が楽で、逆に友人関係のような、自由であるようで自由でない、そんな中途半端な状態が一番嫌になる。彼女なんて形だけのものだ。友達と対等に付き合うための大事な手段だ。彼女がいない奴は負け組と付き合い続けることになる。そんなのは嫌だ。今年はどうにか負け組にならずに済みそうだ。
 彼女の家は最寄りの駅から徒歩約十五分。少し遠い。でもそのお蔭で値段の割には良い部屋だ。そこの部分だけでもかなりいいものを選んだ気がする。
 ・・・・なんか俺、凄く嫌なこと言ってる。
 こんな考え方、本当はしたくない筈なのに、周りの環境がそうさせる。周りの多くの人がある考え方で動いていると、自分もそれに対応しなくちゃ、そこでは生きていけない。彼女に対する考え方も、昔はこうじゃなかった筈だ。恋愛をもっと崇高なものと思っていた筈だった。
 ・・・・どうしたんだ、俺。
 大学に入学して、いろいろ変わってしまった。趣味も、友達も、考え方も・・・。これが、大人になるということなのだろうか。だとしたら、俺は子供のままがいい。何も知らなかった頃に戻りたい。その方が、世の中もっと綺麗に観られて行けるのに。
 彼女のアパートに着いた。いつになく緊張していることに気が付く。ふと、彼女に告白した日のことを思い出す。講義中に二人でこっそり抜け出した。人気のない廊下の端まで連れて行って・・・そう、彼女は泣いたのだ。
 ネットで調べた告白のセリフをそのままパクった俺の言葉で、彼女は泣いたのだ。計算外だったので驚いたが、その時の俺は、これで賭けに勝ったと心の中でガッツポーズをしたのだった。
 今思えば、彼女の心からの喜びが、あの涙を流させたのではないだろうか。今更そんな事を考える俺もどうかしていると思うが。
 震える指先で、インターフォンを押した。返事はない。何度押しても、返事はなかった。何かおかしい気がした。廊下に面している窓からは光が漏れている。試しに、ドアノブに手を伸ばす。鍵は閉まっている。ドアも叩いてみたが、やはり返事はない。
 どこへ行ったのだろう。まさか、俺を迎えに駅にでも着ていたのだろうか。だとすると擦れ違いだ。
 携帯電話を出して彼女に電話を掛ける。着信音が部屋の中から聞こえた。
 なんだよ、面倒くさいなぁ。出て行くなら携帯くらい持って行けよ。
 心の声は彼女を罵ったが、本当の俺は心配で胸が張り裂けんばかりだった。
 ほぼ無意識に俺は走り出していた。探す当てなどない。だって俺は彼女の彼氏だと威張りながらも、彼女のことを全く知ろうとせず、結果何も知らない。
 そういえば、俺は彼女を何と呼んでいたっけ・・・?
 こんなバカな自分に嫌気がさす。
 もう、心の声は聞こえない、彼女を探そう。本気で。
 今日はクリスマス・イブ。告白には持って来いじゃないか。

 寒い。家を出てきたのはいいけど、上着を忘れた。
 今住んでいるアパートから程近い公園のベンチで、わたしは夜空を見上げた。曇っているのか、星は出ていない。
 今日は十二月二十四日。クリスマス・イブ。
 出来たばかりの彼氏と二人だけのパーティーをする予定だったのに、彼氏は遅刻。バイトが長引いているらしい。せっかくの料理も冷めてしまった。どうせ、わたしは彼に愛されていない。
 告白された日のことは覚えている。突然、講義中に腕を掴まれて、強引に連れ出された。人気のないところに連れていかれて「付き合って下さい」と言われた。「好き」だとは言われなかった。
 彼が男友達と賭けをして、わたしと付き合おうとしていたことは知っている。付き合うなら、本当に好き同士で付き合いたかった。でも困ったことに、彼は本当にわたしが好きな人だった。本気でないのは知ってたけど、でもやっぱり嬉しくて・・・。悲しさも入り混じって、おかしな涙だ流れた。
 パーティーを計画したのは、わたしだ。もちろん彼は乗り気がなかった。でも、いいんだ。わたしは側に居られて嬉しいから。形だけでも、恋愛らしいことはしたいじゃない。
 今頃、彼は家に着いてる。出来上がった料理の前で一人で待っているのがバカバカしくなって、家を出てきた。最初はただの散歩のつもりだったけど、この公園にいたら、帰りたくなくなってしまった。
 いつ来てもいる煙草を吸ってるおじさんが一人いるだけの静かな公園。遊具も何もない。ベンチだけが並んでいる。物思いに耽るのにはぴったりな場所だ。この公園を見つけたから、その近所のアパートを探した節もある。
 この機会に、彼に別れを告げようかな。やっぱり、しんどくなっちゃった。
 好きだけど・・・本当に好きだけど、だからこそ、こんな関係のままじゃやっていけない。
 もっと違った形で出会えていたら良かったのに。
 自然と涙が流れた。すると、背後から方に何かが被せられた。まさか、彼が探しに来た訳じゃあるまい。振り返ると、さっきまで煙草を吸っていたおじさんが、自分のコートをわたしに掛けてくれていた。近くで見ると、おじさんは痩せ細っていて、少し震えていた。薄いルームウェアだけだから、明らかに上着が必要なのは、わたしよりもおじさんの方だ。
 そう言って上着を返そうとしても、おじさんは首を振るだけ。
 そうして、おじさんはおぼつかない足取りで公園から出て行った。いつもなら無理にでも上着を返しに行って、あの人を家まで送り届ける親切心くらいあるけど、今日はそんな気分になれなかった。
 どうしても、なれなかった。
 震える足に鞭打って、勇気を振り絞らなきゃいけないから・・・。

          11

 珍しく、今日の稽古は休みだった。
 舞台役者なんていう仕事をしている僕にとって休み=日曜日ではない。日曜日=仕事の日、だ。だから、珍しく休みの日は、今日みたいに水曜日だったりする。でも、突然休みにされてもやることがない。結局家に居ても台本を読んだりしてしまうんだ。頭をすっきりさせようと思い、少し走ることにした。舞台役者は体を鍛えることも必要だ。
 走った後にいつも立ち寄る公園がある。遊具も何もないから、子供もいないし、人もめったに来ない。ただ一人、煙草を吸っている爺さんがいるだけだ。発声練習で大声を出しても文句も言われない。安心して声が出せた。
 今日もいつものベンチに爺さんが居た。いつも通り、地味なルームウェアにコート、という格好だ。もしかして、ボケて徘徊している老人なのだろうか。試しに、今度出演する舞台の宣伝でもしてみようかな。
 「すみません」と声を掛けると、穏やかな顔でこちらを向いてくれた。
 「今度僕の出演する舞台があるんです。ご都合よろしければ・・・」
 言いながら公演チラシを渡す。爺さんは声を詰まらせながら「ありがとう」と言った。
 近くで向かい合ってみると、爺さんと呼ぶほど年は取っていないように見えた。ただ年齢にしては痩せすぎているために遠目には年老いて見えていたのだ。その視線や対応の仕方から、声は出しにくいみたいだが、ボケてはなさそうだった。だが、お世辞にも健康そうには見えなかった。
 よろしくお願いします、と言って足早にその場を離れた。どうしてそんな事をしたのか分からない。何故か少し怖くなったのだった。
 少し離れたベンチに腰を下ろした。今日は発声練習はやめておこう。
 あの爺さんはどうしていつもあそこにいるのだろう。いつ来ても同じベンチで煙草を吸っている。
 そういえば、以前にもあの爺さんを舞台に誘ったことがあった。あれはいつの事だったか・・・。そうだ、今年の春頃だ。確か、あの時も同じように煙草を吸っていたが、あそこまで痩せてはいなかったはず。そうだ、ワイシャツにジャケットを着ていて、凄く紳士的な爺さんだった。
 そうだ。あまりの見た目の変化から、同一人物であると認識していなかった。いつからだろう。この秋くらいからかな、あの格好になったのは。
 まぁ、年老いるというのは突然のことだ。うちの父親も、あっという間だった。
 僕は今でこそ稽古があるから舞台に専念しているが、それ以外の日はオーディションを受けながらもアルバイトで生計を立てている。この事で父親とは大いに揉めた。そりゃ、安定した職に就いて欲しいと、親なら思うかもしれないけど、僕はお芝居を続けて行きたかったんだ。けど、今だから有名な俳優との共演も増えたし、規模の大きな舞台に出演しているが、父親が生きていた頃は、小さな小さな規模の演劇ばかりで、やっている方は面白いが、見ている方はよく分からなかっただろうな・・・。
 父親は、反対しているからといって、舞台を見に来ない訳ではなかった。観に来た上で、ちゃんと反対していた。
 自分が〝霧〟という役をした舞台はさすがに見せたくないと思った。もちろん、演出としては面白く、役者としては遣り甲斐のある役だ。しかし、台本を深く理解して観るならともかく、予備知識もない父親のような、ど素人にとっては、訳の分からない役だったと思う。案の定、その日は電話が掛かって来て「あの役はなんだ。毎日あんことしているのか」と怒鳴られた。詳しく説明したかったが、それは役者としてのプライドが許さなかった。そこでちゃんと話が出来ていたら、印象も変わっただろうに・・・。
 今までにない大きな舞台に出演することが決まったとき、父は脳梗塞で倒れ、意識不明の重体だった。母親が僕を気遣って報告しなかったらしい。宣伝チラシを持って病院に行った頃には、緊急入院から一ヵ月も経っていた。
 ベッドに横になっている父は、以前よりも老けて見えた。
 母から、実は父親が僕の公演を毎回心待ちにしていたことを聞かされた。本当は認めてやりたかったが、きっかけがなかったそうだ。もし、自分が認められるいい役を出来たら、快く許してやろうと決めていたらしい。
 よくドラマでありそうな展開だった。まぁ、今まで父が認める役が出来なかった僕の責任だけど。
 今回の舞台は有名な演出家、主演もテレビなどでも活躍している人だ。僕は、その主人公の親友役だった。既に死んでしまっていて登場回数は少ないが、主人公は彼のことをいつも気にかけている。重要な役なんだ。
 これを観てもらえれば、父もきっと認めてくれるだろうに・・・。
 僕はその日から稽古終わりは、どんなに遅くても父の許を訪れ、その日の報告をした。今まで抱いていたプライドをとりあえず、捨ててみることにした。観客に役の印象、舞台の印象を丸投げするのではなく、一緒に理解を深め、最終的に共感してみようと思った。今回、その観客は父一人だけど。
 父が意識を取り戻したのは、公演が終わってしばらくしてからだった。残念ながら、枕元で僕が話したことは、一言も父には届いていなかった。
 母から公演の話を聞いても、父は首を縦に振らなかった。自分の目で観てから、というプライドをまだ捨てていないらしい。
 父は結局、次の公演を観ることもなく死んでしまった。あっけなかった。
 最後まで、面と向かって認めてもらえなかった舞台俳優という仕事を、僕は今も続けている。いや、続けられている。それはとても幸運で幸せなことだった。
 これからも僕は、今まで通り頑張っていくだろう。お客さんや、演出家に怒られそうだけど、たまには天国の父のためだけに、舞台上に立ったりしながら。

          12

 冬の夜風に火照った顔を当てながら、私は夜道を歩いていた。
 今日は所属しているオーケストラの定期公演の日だった。加えて、首席指揮者の退任公演でもあった。いつになく団員も盛り上がっていて、夜遅くまで酒を飲む羽目になった。
 ペットボトルの水を飲んでアルコールを抜いていると公園が目に入った。少し休憩していこうかな。
 遊具も何もなく、ベンチだけが並ぶ公園だった。ここは駅に行くためにいつも通る道だが、こんな公園は見たことがなかった。毎日通る道でも、意識せずに通っていたらこんなものか。
 公園へ入ると、小さな赤い光が目に入った。誰かが煙草を吸っているらしい。
 傍らに楽器ケースを置いて、自分も座った。ズボンからヒンヤリとしたベンチの感触が伝わってくる。二月にもなれば、夜の気温はかなり低い。しかし、酔った体には丁度良かった。
 それにしてもこんな公園があったなんて。見上げると、綺麗な月が出ていた。高い建物がない為、視界が狭くなることもなく、空が広く見えた。昼間に来たらきっと一面に広がる青空が見れることだろう。
 それにしても、自分はいい職業を選んだと思う。演奏家という職業は、もちろんただ演奏すればいいというものではないが、頑張っただけ喜ぶ人が増えるということだ。演奏後の拍手は何度聞いても飽きない。こんな仕事をしていて、世のサラリーマンたちに怒られはしないだろうか。
 今日は指揮者お好みのロシアプログラムだった。演奏会はチャイコフスキーの「1812年」で華やかに始まった。この曲は、常任指揮者就任記念コンサートでも演奏された。もちろん、当時の指揮よりも素晴らしいものになっていた。メインは圧巻の交響曲第五番。その後の拍手も曲に負けんばかりに華やかなものだった。
 演奏中のことを思い出して、思わず笑みがこぼれてしまう。この事を妻によく注意される。妻曰く、音楽のことを考えているときはすぐに分かるらしい。簡単に言うと、にやけているみたいだ。外ではしないように、と毎日のように注意される。
 まぁ、こんな人気のない公園なら大丈夫だろう。
 水を飲みほして、さて、帰ろうとした時、道が分からないことに気が付いた。どの道も、見覚えがなかった。慌てて電柱の住所を確認する。
 見たことも聞いたこともない住所が書かれていた。
 酔いが一気に醒めてしまった。これはまずい。
 とりあえず、来た道であろう道を足早に引き返すことにした。

          13

走り疲れて、公園のベンチに座った。こんなに走ったのは何年振りだろう。五十の老体にはキツイ。
 私の娘が今日、大学に合格した。高二の頃からその大学へ進学すると本人が言いだし、今日まで頑張って来た。そして見事、合格したのだ。
 私は主人と相談して、今日あの話を娘に打ち明けようと約束していた。娘の希望する大学は、通学するには遠すぎる所だった。必然的に一人暮らしをすることになる。嫁入り前の一度目の自立の機会だ。今まで引き延ばしてきたが、この時以外にないと思った。
 そして、つい先程・・・結果発表が郵送されてきて、これからのことを相談しようとした時に、あの話を主人から打ち明けたのだ。
 私たちの娘は、実の娘ではない。本当は、私の妹の娘だった。
 私と主人は、娘より早くに結婚していたが、子供には恵まれていなかった。随分後に妹が「赤ちゃんが出来た」と突然言い出した。会社の同僚とそういう関係になり、子供が出来てしまったらしい。幸いなことに、男性の方は誠実な方で、一生懸命育てると約束してくれた。うちの親・・・特にお父さんを宥めるのに苦労したけど、何とか幸せな家庭を育んできた。
 ある日、妹家族と両親が旅行に行くことになった。私と主人も行きたかったが、お互い抜けられない仕事があったため、そういうことになった。出発した日の深夜、突然電話が鳴った。警察からだった。
 ご家族が事故にあわれました。
 淡々とした言い方だった。説明によると、五人が乗った車とトラックが衝突したらしい。トラックの運転手からは基準値以上のアルコールが検出されたことから、現状ではトラックが五人の車に突っ込んだとみているらしい。奇跡的に、娘の命は助かっていた。その時はたまたま、私の父親が運転していたようで、妹の旦那は後部座席で娘を守るように息絶えていたらしい。
 そうして、私たち家族が妹の娘を自分たちの娘として育てることになった。
 幼い娘は、事故のことを一切覚ええていなかった。初めは、懐いてくれず泣かれることが多かった。しかし小学校に入学する頃には「お母さん」や「お父さん」と呼ばれるようになった。その度に私達は胸が締め付けられる思いで、それは今日まで続いていた。
 この話をした直後、娘は泣き出し、家を飛び出してしまったのだ。私と主人は二手に分かれて後を追い、探し回ったが、まだ見つからない。
 探し始めて、一時間は経過している。私は、今日初めて来る公園のベンチに腰掛け、乱れた息を整えている。
 公園と言っても、遊具も何もなかった。子供の姿もなく、煙草を吸う老人が一人いるだけだ。
 そこに、汗だくの主人が通りかかった。手を振って、こちらに呼ぶ。
 「いないか」
 その問い掛けに私は頷いた。
 「やっぱり、話すべきじゃなかったのかな」
 主人が私の隣に腰を下ろす。
 でも、黙っているこっちも我慢の限界だったのだ。私達は本当の家族になっていた。だからこそ、嘘や隠し事はしたくなかった。大人になった娘を祝福して、実の両親じゃなくても良き理解者として力になりたかったのに。
 「話していて辛かったよ」主人はベンチに凭れ、空を見上げた。「合格して、幸せ一杯の表情がどんどん曇って行ったんだ。お前も見ただろ」
 そうだった。あんなに嬉しそうにしていたのに、話を聞いた瞬間のあの子の顔は、石のように硬くなっていた。
 「もう、家族にはなれないのかな」
 ため息交じりに主人が言った。私は言葉が出なかった。涙が溢れるのをこらえながら、主人の手を握ることしか出来なかった。
 「でも、言うべきだったんだ」
自分に言い聞かせるように主人が言った。そうだ、そう信じるしかないんだ。娘は・・・彼女は大人なんだから。これから一人で暮らしていくんだから。
 「もう一度探そう」
 主人と一緒に立ち上がる。棒になった足に再び鞭を打って走り出した。


 信じられない。わたしの両親は、わたしを騙していた。ずっと嘘をついてたんだ。本当は両親じゃないのに。本当のお父さんとお母さんは、何年も前に死んでた。わたしがお母さんだと思っていた女は、お母さんの姉だった。
 ビックリして家を飛び出してしまった。どうしてそんなことしちゃったんだろう。血は繋がっていなくても、今日まで育ててくれたのに・・・高校にも行かせてくれたし、大学にも・・・。感謝してもしきれない。これからは自立して恩返しをして行かなくちゃならないのに・・・。感情に任せて、飛び出してしまった。大学生になるけど、まだまだ子供なんだな、わたし。
 見たことも、通ったこともないところまで来てしまった。正直、道に迷った。ここはどこなんだろう。とりあえず公園があったから、そこのベンチに座っている。公園だけど、遊具はない。ベンチが並んでいるだけ。少し離れたベンチにおじいさんが座って煙草を吸ってる。
 これからどうしよう。家に帰りたい。帰って、謝りたい。そしてお礼が言いたい。これからも、お父さんとお母さんでいてってお願いしたい。
 勢い余って飛び出してきたから、お財布も携帯電話も置いてきた。連絡はすぐ取れるに越したことはないけど、取れない状況もたまにはいいな、と呑気なことを考える。だって、伝えたいことを強く伝えたいって思えるようになるから。その想いが、どんどん大切なものになっていくから。
 お父さんとお母さん、どうしているだろう。家で待ってるのかな。それとも、探しに飛び出しちゃってるかな。
 どうしようもなく空を見上げた。ここの空って、何だか大きい。大きな愛情に包まれている気分になる。所々に浮かぶ雲は綿菓子みたいで美味しそう・・・。まだ子供だな、わたし。
 視線の端で、人が動く気配があった。煙草を吸っていたおじいちゃんが立ち上がったのだ。ほぼすり足のゆっくりとした足取りで公園から出て行こうとする。
 すると、誰かがわたしの名前を呼んだ。
 お母さんの声だ。お父さんもいる。こっちに走ってくる。堪らずにわたしも走り出す。物凄い勢いで二人の胸に飛び込んだ。
 「ごめんなさい」
 泣きながらそう叫ぶ。それしか出て来なかった。感謝の気持ちとか、もっと伝えたいことがあるのに。いざ対面すると、言葉が出なくなってしまった。
 二人は力一杯わたしを抱きしめてくれた。その胸は暖かくて、力強くて、柔らかかった。
 やっぱり、お父さんとお母さんだ。他の誰にも代わりは出来ない。お父さんと、お母さん。
 これからわたしは、今まで以上にこの二人のことを大切にして行くだろう。でないと罰が当たりそうだ。一生を掛けて二人に恩返しをして行こう。
 でも、わたしはまだ子供だから、まだまだ二人に頼っちゃう。
 これからもよろしく。お父さん、お母さん。

          15

 今日は彼氏と一緒に公園に訪れた。今まで秘密にしていたわたしの隠れ家。
 「隠れ家って、丸見えじゃん」と笑う彼の手を引いてベンチに座った。今日は天気も良くて、春の陽気も相まって、とてもいいシチュエーションだ。
 激動のクリスマス・イブを終え、年が明け、桜が咲いて、大学での新学期が始まっている。
 その間、わたしはあの彼と、ずっと一緒にいた。
 あのイブの日は本気で別れようと思った。自分に鞭打って、勇気を振り絞ろうとした。なのに・・・。帰り道、息が切れた彼とバッタリ出くわして、突然抱きしめられた。半ベソまで掻いて、どこに行ってた、心配した、と怒る彼は普段とは別人だった。
 これも、何かの作戦なのだろう、とわたしは周りに目を配った。きっと彼の男友達がどこからか様子を伺っているはずだった。
 そんなわたしを余所に、彼はわたしから体を放し、まっすぐに目を見つめてきた。わたしは逸らすことが出来なかった。
 ―――好きだ。
 そんな直球な真っ直ぐ過ぎる告白をわたしはドラマの中でしか知らなかった。それしか言わない。もっと前後に御託を並べるもんじゃないの? 信憑性を無理にでも付けようとするんじゃないの?
 でも、彼はそうしなかった。結果、今日まで一緒にいる羽目になった。
 今日は、かなり遅くなったけど、あのおじさんに上着を返しに来たんだ。クリスマスと年末年始は彼の実家に行っていたりしていたせいで、わたしはこの公園に来れていなかった。
 この公園にこないということは、わたしの心は曇ってはいないということ。物思いに耽る必要はないくらい、幸せだったということ。
 「おじさん、いないな」
 彼の言う通り、いつものベンチに、おじさんの姿はなかった。どんな時間に来ても、あそこで煙草を吸っていた筈なのに。
 まぁ、そんな日もあるよね。
 ここの静かさや、空の綺麗さを彼は気に入ったみたいだ。別に辛い事や悩んでいることがなくても、ここに来ればいいんだ。二人で。
 空は常にそこにあって、消えることはない。いつもと同じ。違うのは、それを見つめる人の心。
 わたしは彼の手を強く握った。もう、この手を放すことはないと思う。すぐ横に、照れる彼の顔がある。
 これからも、わたしたちはきっと大丈夫だ。

          〇

 おじいちゃんが死んだ。
 世間から見たら、まだまだ若いおじいちゃんだった。
 病名は、肺がん。気付いた時には、体中にがんが広がっていた。手の施しようが無かったんだって。しばらく入院してたけど、物静かなおじいちゃんが珍しく怒って退院してきた。その後はよく分からないけど〝化学治療〟とかをやって痛みや苦しさを和らげて生活していたみたい。
 おじいちゃんがもうすぐ死んじゃうって話を聞いたのは、あたしが中学三年生になりたての頃だった。これから高校受験に向けて頑張るときだった。それを理由に、教えないでおこうってお母さんは初めは言っていたみたいだけど、お父さんが教えてくれた。あたしも、もう子供じゃないんだからって。ちょっと嬉しかった。おじいちゃんはお父さんの父親でもある。自分の父親が死にそうなのに、それを落ち着いて話すお父さんもカッコよく見えた。強がりなんだろうけど。
 あたしは自他ともに認めるおじいちゃん子だった。中学になってからは会うことも少なくなってたけど、小学校の頃は沢山遊んでもらった。おじいちゃんの家の近くには、公園がある。と言っても、遊具も何もない、ベンチだけが並んでいる公園だ。おじいちゃんと手を繋いで散歩して、近くのコンビニで買ったアイスクリームをそこのベンチに座って食べるのが、あたしのお気に入りだった。
 おじいちゃんは、あたしを〝さん付け〟で呼んだ。それにいつもジャケットにワイシャツを着ていたので、いつかのドラマで見た執事さんみたいだった。
 おじいちゃんは、会うといつもあたしを心配してくれていた。「勉強し過ぎで疲れていませんか」「友達とたまに遊んでいますか」「息抜きも必要ですよ」とか。他の大人は「勉強頑張ってるか」「遊んでばっかりいないか」とか聞いてくるのに。
 あたしなんかに言葉遣いも丁寧なおじいちゃんだった。優しくて、カッコ良かったんだ、あたしのおじいちゃん。
 葬儀の準備を抜け出して、あたしはあの公園にやって来た。相変わらず誰も居なくて静かな所だ。おじいちゃんといつも座ったベンチに座る。なんだか懐かしい。ここの空は、相変わらず広くて、綺麗だ。
 ここに来ると、感傷的になってしまう。さっきまで意外と泣かずに行けるんじゃないかと思っていのに、ここへ来て涙が込み上げてきた。真っ青な空が、海みたいに波打った。
 ここでなら、いくらでも泣いて良い気がした。それになんだか、おじいちゃんがすぐ側に居るみたいだ。
 おじいちゃん、高校受験頑張ったよ。合格証書、真っ先におじいちゃんに見せたかったのに、試験の日に死んじゃうんだもんな。手応えさえ報告させてくれなかったね。
 でも、こんな事言ったら罰が当たるかもしれないけど、いい時におじいちゃんは死んでくれた。試験の前とかだったら、あたし多分受けれなかった。最後の最後まで、あたしのこと、考えてくれたのかな。
 合格発表の日、またここに来るよ。お墓になんか行かない。多分、おじいちゃんはここにいるから。
 おじいちゃんは、若いころから煙草を吸ってた。「今回の病気はそれが原因だ」と、おばあちゃんが言ってた。でも、どうやら退院した後も、こっそり吸ってたみたいだ。お医者さんからは駄目だって言われてたのに。せっかくカッコいいおじいちゃんもちょっと減点。
 多分、ここで吸ってたんじゃないかな。この場所がおじいちゃんは大好きだった。おばあちゃんもきっと黙認していたんだと思う。だって煙草の臭いってすぐ分かるもん。
 おじいちゃんはここへ来て、どんな気持ちで煙草を吸っていたんだろう。あたしには一生分からないだろうな。

 その後、珍しく公園に誰かやって来た。くたびれた様子のサラリーマン風の男性だ。項垂れて少し離れたベンチに座った。
 何か、嫌なことでもあったのかな。でも、せっかくここへ来たんだから、上を向いてよ。下ばかり見ないでさ。ここの空は広いんだよ。それに、ここの空には不思議な力があるんだ。だって・・・。
 そう思いながら、あたしは立ち上がった。
 お葬式が終わったらまたここへ来よう。おじいちゃんの家では、せっせと準備が進められているけど、たぶん、おじいちゃんはあそこにはいない。
 おじいちゃんは飛んでいった。大好きなこの場所の、あの空へ。

あの人もいつもの場所で

あの人もいつもの場所で

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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