窃盗

窃盗

気紛れから起こした小さな犯罪から始まる物語

踏みすぎたアクセルに、エンジンはすぐさま猛獣のような咆吼で答える。

踏みすぎたアクセルに、エンジンはすぐさま猛獣のような咆吼で答える。サイドブレーキを降ろすと、車は蹴飛ばされるように飛び出した。加速のGで体がシートに張り付けられる。後輪が縁石に乗り上げたのか、ガリガリと言う嫌な音がする。若い男が追ってくるのがサイドミラーに見えた。走り去る車を捕らえようとでも言うのか、手を伸ばし、何か叫んでいる。しかし、車に勝てるわけがない。男の姿はすぐに小さくなり、闇の中に見えなくなった。タカシはほっとしてアクセルを緩めた。
「こんなにうまくいくとは」
メーターの光にタカシの興奮冷めやらぬ顔が浮かぶ。わずか3分前の出来事がずいぶん昔のことに感じられた。
深夜のコンビニ。タカシは店外の端にある喫煙所で、ちびたタバコをくわえていた。頭上の電撃殺虫器から時折ジュッという音とともに、小さな煙が上がる。すぐに次の虫がやってきて、輪を描きながら飛び込む機会を狙っている。虫たちには、死を賭して飛び込むことに迷いはないのだろうか。この青白い光のどこにそのような魅力があるのだろう。愚かと笑うべきか、勇気を賞賛すべきか、タカシは殺虫器に向かって輪を狭めつつある虫を見ながらぼんやりと考えていた。
「まだ間に合うよ、引き返せるよ」
タカシは虫に向かって呟いた。輪が少し大きくなった気がした。虫が、青白い光に身を任せるように吸い込まれたのと同時に、腹の底まで響くエンジン音が、タカシの意識を現実へと引き戻す。黒いスポーツカーが駐車場に入ってくるところだった。街灯に照らされた車体は、生きているかのようななまめかしさを身にまとっている。部品の塊にすぎない物体から強烈で狂おしいほどの生気が立ち上っていた。バックで駐車しようする車にタカシはくるっと背を向けた。思えばこのとき既に決めていたのだろう。
「エンジンを切るな、そのまま店内に行け」
本気でそう念じてはいたものの、実際にそうなった時には目を疑った。運転手の後ろ姿が自動扉の向こうに消えるのを待ち、何気ない足取りで車へ近づく。素早く乗り込み車内をざっと見渡す。良いニュースとそうでないニュースがあった。車にはタカシの他誰も乗っていない、これは良いニュースだ。そうでない方は、車が今時マニュアル車だったことだ。マニュアル車など教習場以来運転していない。しかしここで止めるわけにはいかない。もう賽は袋から飛び出してしまっているんだ。慎重に発進するつもりが、車の持ち主がこちらへ走ってくるのを見て頭の中が真っ白になった。どこをどう操作したのかまったく憶えていない。無我夢中でアクセルを踏みつけ、ハンドルにしがみついた。無事に走り出せたのが不思議なくらいだ。タカシは心地よいエンジン音を聞きながら、安全圏に達した安堵感に包まれる。車はすこぶる快適であった。本革のシートに重量感のある太いステアリング。マフラーが奏でる図太い排気音も、堅いサスペンションからの突き上げるような不快な振動すらタカシを恍惚とさせた。先ほどまでのパニック振りが嘘だったかのように手足はスムーズに動く。左足でクラッチを切り、変速し、アクセルを少しふかしながらクラッチを戻す。10年振りのマニュアル操作は思いの外スムーズで、叫び声にも似た甲高い排気音が夜空へと吸い込まれていく。
「人間一度体に覚え込ませたことは何年経っても憶えているんだなぁ」
妙なことに感心すると、周りを見渡す余裕も出てきた。深夜と言うこともあり車はまばらだ。今日はついている。タカシは本気でそう思った。パチンコで全財産をすって、店を出ると自転車が盗まれていた。弱り目に祟り目とはこのことかと己の不ヅキを呪った。だが、捨てる神あれば拾う神あり。俺にもちょっとは運が向いてきたのかもしれないぞ。そんなことを考えている時、車内が異常に寒いことに気が付いた。今は11月なのだから寒いのは当たり前なのだが、それにしても寒すぎる。首を回してみたが窓は閉まっている。まさかと思いながら空調を見ると、16度に設定されていた。しかも冷房だ。タカシは身震いしながら暖房にすべく空調のダイヤルを変更する。
「なんでこの時期に冷房なんて……」
ぬるい風が出始めた送風口に手を当てながら思い出す。そういえば追っかけてきた奴、汗だくだったな。怒号を上げながら届くはずのない手を必死に伸ばしてきていた。新車で買ったのなら優に300万円を超える車が目の前から走り去ったのだ。怒るのも無理はない。信号待ちの停車中、あとどのくらい乗り回していられるだろうかと考えた。ガソリンはほぼ満タンだが、問題は時間だ。タカシが車を強奪してから30分くらい。車の持ち主が警察に電話し、盗難車の手配をかけるには十分な時間だ。どんなに逃げ回っても夜明けまでだろうか、運が良ければ残り数時間ドライブを楽しむことができる。その後は窃盗で逮捕されるだろう。それは覚悟の上だ。タカシは片側2車線の幹線道路へと車を進める。スピードが上がった。
「どうせたいした罪じゃないさ」
タカシはうそぶいた。この車を運転できるのなら安い代償だ。歩行者や周囲のドライバーが、皆注目しているではないか。彼らの羨望と嫉妬の入り交じった視線は心地良いものだった。久しく味わったことのない優越感が体にしみこむ。タカシは笑みを浮かべながら隣に停車した白い車にちらりと目をやる。外国製の高級車か、タカシには一生無縁の代物だ。よく見ると運転席側のフェンダーが傷だらけだ。交差点の街灯がより一層、傷跡のなまなましさを浮き上がらせている。タカシが眉をひそめていると運転席の男と目が合った。嫌な予感がした。男が車から降りた。これ見よがしの白いスーツが男の乱暴な雰囲気によく似合っていた。
信号はまだ青にならない。男はふらついた足取りながらタカシの車の横に立ち、助手席の窓にドンと両手をついた。見境なくケンカをふっかけてくる酔っ払いかと思った。男はギョロリとした目でタカシを見据え、驚くほどの大声で怒鳴った。
「やっとみつけたぞこのヤロー」
男の標的が他ならぬ自分なのだとこの時になって初めて気付いた。お気楽に状況をただ見ているだけだった自分の馬鹿さ加減を呪いたくなる。今更車を盗んだことを謝っても、穏便に済ませそうな相手ではない。それだけを見取ると、タカシはいきなり車を発進させた。まだこちらは赤信号だ、横からヘッドライトが突っ込んでくる。鳴り響くクラクション。間一髪ですり抜けた。男の車は行く手を阻まれて追ってこられないはずだ。何度もバックミラーを確認しながら、タカシは首をかしげる。今の男は、車の持ち主とは別人ではないかと思えてならなかった。コンビニで見たのはあのようなやくざ風の男ではなく。ひょろっとした優男だった。それに車を盗まれた人間が、車で追いかけてくると言うのは不自然な話だ。奴は車の持ち主の友人で、連絡を受けて探していたのではないか、それが一番自然でありえそうな話だと思った。優男とやくざ風の男がどういう関係で結びついているのか不思議ではあったが、もとよりタカシに分かるはずもない。どうやら夜明けまでと考えていた時間は、もっと短くなりそうだ。この近辺に居ることを知られてしまった。警察に連絡が行くのも時間の問題だ。捕まるのは構わないが、どうせ捕まるのなら、最後に高速道路を走りたいと思った。この車の性能を極限まで味わいたかった。走行しながら、カーナビで高速道路の入口を探す。突然のクラクションにタカシは顔を上げた。左車線の車が併走しながら幅寄せしてくる。さっき見た白い外車だ。もう追い付いてきたのか。接触寸前の幅寄せにタカシの車は次第にガードレールへと追い詰められていく。無理矢理にでもこちらを停車させるつもりなのか。正面をみてはっとした。すぐ先で右車線が消え2車線から1車線になっている。前方のアスファルトには合流のマークがライトに浮かび上がるように照らされている。このままだとガードレールに衝突してしまう。夢中でハンドルを左に切った。ガチャンと言う音と衝撃が伝わる。併走車は少しスピードを落としたが、再び襲いかかるように近づいてきた。タカシはさらにハンドルを左に切った。馬力勝負ならこちらの方が上だ。重いものを引きずる嫌な音が寒空に響いた。白い外車が歩道に乗り上げ、歩行者が逃げ惑う。どーんという音がして、逃げ遅れた人間が自転車とともに宙に舞った。スローモーションの再生フィルムようだった。
「大変だ」
すぐに車を停車させ負傷者の救護をしなくては。そう思ったが体がいうことを聞かない。背筋に力が入らない。手の震えも止まらない。50mほど走行して、なんとか砂利の空き地へ車を乗り入れた。タカシはサイドブレーキを引いて、荒い息をついた。事故現場には被害者以外にも人は居た。きっと誰かが救急車を呼んでくれるはずだ。振り返って事故現場を見やる。声は聞こえないが、人が集まって大変な騒ぎになっているようだ。白い外車が現場から逃走するのが見えた。
「なんて奴だ」
群衆の中の何人かが、こちらを指をさしている。タカシは逃げるように車に飛び乗る。とにかく遠くへ、現場から少しでも離れたかった。走行中、周囲のドライバーが傷ついた車体に目を走らせ、タカシを非難しているように感じた。無意識に大通りを避け、明かりのない方へと車を走らせていたようだ。狭い生活道路をいくつか曲がり、住宅街の空き地にたどり着いた。体が重い。時計を見て驚いた。事故から1時間余りも走り続けていたことになる。
タカシは車を降りた。車は助手席側の前方から後方まで傷がついている。併走車同士の接触なので力が分散されたのだろうか、思ったほど酷くはない。これなら不必要な注目を集めることはなさそうだ。
これからどうすればいいのだろう。自首という言葉が頭に浮かんだ。車を盗んでから2時間くらいか。自首するなら早ければ早いほど印象は良いだろう。心配なのは先ほどの事故の責任だ。ぶつけ合う2台の車を目撃した者は多数いたに違いない。しかし先に幅寄せしてきたのはあの外車のドライバーで、こちらは衝突するのを防ごうとしただけだ。むしろ目撃者がいるのならそのことを証言してくれるだろう。ドライバーがタカシに怒鳴った時の様子を思い出す。上気した顔に少しろれつの回らない声、きっと飲酒運転だ、だから逃げた。それならこちらの責任は大幅に減刑されることになるだろう。よし自首しよう。ぱんぱんに膨らんだ思考に、決意の穴を開けて不安を流し去った。しかし少し軽くなった心は、残留物のような意識ですぐにいっぱいになる。
「このまま車を捨てて逃げてしまおうか」
ひらめきにも似た考えは、罪悪感を糧とし繁殖する。車内にはタカシの指紋がべったりとついている。しかし、指紋さえ消去できれば逃げ切ることができる。考えるまでもない、そうすべきなのだ。
「もう2時間か、まだ2時間か」
とにかくタカシの今までの人生で、もっともエキサイティングな時間だったのは間違いない。この先、怠惰な日常に戻ってからも記憶が色あせることはないだろう、そうタカシは思った。突然、携帯電話の着信音が深夜の静寂を切り裂いた。寝静まった住宅街で響き渡る着信音を消したい、それだけの気持ちで電話に出る。
「こちらは上川警察署ですが、丸山タカシさんの携帯電話ですか?」
はきはきとした男性の声がスピーカーから流れる。
警察!?
どうして、なぜ。疑問がいくつも体に突き刺さり、タカシは腰が砕けたようにその場にへたり込んでしまった。
「もしもし、聞こえていますか、丸山タカシさんですか」
「は、はいそうです」
タカシは、なんとか声を絞り出した。かすれている。
「本人ですね?」
「はい」
タカシは観念した。電話の主はタカシの生年月日、現住所を確認してくる。逃げ出すどころではない。警察はすでにタカシの携帯電話の番号も把握していたのだ。いったいどうして。信じられなかった。
「実は、先ほど事故がありまして、被害者の乗っていたと思われる自転車の防犯登録から所有者があなただと判明しましてね」
「え、自転車?」
「はい、被害者は病院に運ばれましたが亡くなりました。身元を証明する物を身につけていないため登録された番号に連絡させて頂きました」
パチンコ屋で盗まれた俺の自転車。
「で、その被害者のことをご存じでしたら教えて欲しいのです。30歳くらいの標準体型の男性なのですが、誰かに貸したと言うことはないですか?」
「いえ、僕の自転車、今日盗まれたんです」
「盗まれた?」
「はい、パチンコ屋で」
警官はひとしきり質問した後、近いうちに話を聞きに行くかもしれないと伝え、最後に深夜の電話を詫びた。電話を切ったタカシの脳裏に、白い外車が吹き飛ばした自転車の男性が浮かぶ。あの事故の男性だろうか。タカシの自転車を盗んだ男が、タカシが弾き飛ばした車に跳ねられて死んだ。そんな偶然があるのだろうか。携帯電話を手にしたまま呆然と立ち尽くすタカシの目の前に赤色灯を焚いたパトカーが現れた、もう驚いたりはしなかった。次々と起こる予想外の出来事にタカシの神経は麻痺してしまっているようだ。目の前にパトカーが停車するのを非現実のように感じていた。
「ここで何をされているんですか」
パトカーから降りた警官が尋ねる。思いの外優しい口調だった。そうか、不審尋問だと気付いた。深夜の住宅街で空き地に佇む男と車。怪しいと思われても仕方がない。
「ドライブに疲れて休憩していたんです」
自分でも驚くほどすらすらと言葉が出てきた。警官は、しばしタカシの顔を見てから、そうですか、運転には気をつけてくださいねとだけ言ってパトカーに戻っていく。免許証の提示も求めてこなかった。タカシに声をかけたことで義務は果たしたとでも言いたそうな、おざなりな態度だった。無精な警官で助かった。タカシはすぐに車に乗りエンジンを掛けた。助手席側の傷を見られなかったのは幸いだった。もたもたしていたらやぶ蛇になりかねない。この場からすぐに走り去り、どこでもいいから車を乗り捨ててしまおう。その時、運転席の窓ガラスがこんこんと叩かれる。顔を向けると、先ほどの警官だ。タカシは、心臓がビクつくのを感じながら窓を開けた。
「尾灯のランプがついてませんよ。このまま運転すると整備不良になりますよ」
警官の言葉に冷や汗が伝った。タカシの様子を不審に思ったのか、警官は車検証と免許証を拝見と言った。口調は優しいままだが、目は探るようにタカシの表情をとらえている。その目に気押されたタカシはグローブボックスを開け車検証と思われる冊子を渡し、財布から免許証を取り出した。両者を見比べた警官が次に何を質問するか予想がついた。
「車検証の所有者と名前が違うようだけど何故ですか」
「友人に借りたんです」
答えに窮したタカシはとっさにウソをつく。
「エンジンを切って車から降りてください」
警官は免許証と車検証を手にパトカーに戻っていく。無線で車のナンバーを照会されれば一巻の終わりだ。逃げるなら今しかない。しかし免許証を取られたままではそれもかなわない。タカシは素直に車から降り、パトカーのヘッドライトの光の中に身をさらした。結局逃げ切ることはできなかった。もう少し違う結末を予想していた。派手なカーチェイスの末に、とまでとはいかないが、少なくとも整備不良で捕まるような間の抜けたものではなかった。中途半端で、情けない自分らしいと思った。5分経ち、10分経った。ヘッドライトの向こうでは、警官がまだ無線で話している。今ならまだ自首扱いになるのではないか。
すみませんでした、車を盗みました。そう言うだけでこの焦燥感から解放される。それが今タカシができうる最善の行動だと思ったが、足は地面に張り付いたように動かなかった。意を決して動こうとした時、無線を終えた警官がこちらを見た。間に合わなかった。
警官は笑みを浮かべながら免許証と車検証を手渡してくる。
「お時間を取らせて申し訳ない。今、所有者と連絡がついて、確かにあなたに貸しているそうです」
「えっ?」
「すみませんね。こちらも仕事なもので」
警官の取り繕うような笑顔にタカシは言葉を飲み込む。なぜだ。なぜ所有者はそんな嘘をつくんだ。タカシの無言を不満とでも取ったのか、警官はとりなすように話し続ける。
「本当はランプ切れは見過ごせないんだけど、予備のランプとか積んでいないのかな、あれ? なんだこれ」
愛想笑いを貼り付けたまま尾灯を指さしていた警官の表情が変わった。警官の言葉にタカシも尾灯付近をのぞき込む。警官は尾灯ではなくトランクの辺りを指さしている。あの白い外車とぶつかった時であろうか、トランク付近がへこんでいる。隙間から液体が垂れている。ヘッドライトの光に照らされた砂利に黒いシミがまたたく間に広がっていく。生臭い匂いが付近に拡がった。
「トランクになにが入っているんですか」
警官がタカシの顔を見る。もう笑ってはいない。タカシはわずかに糸を引きながらたれる一滴から目が離せない。
「開けなさい」
警官の声が大きくなる。パトカーからもう1人降りてきた。不意にコンビニから追いかけてきたあの若い男の表情が脳裏によみがえった。必死に伸ばした手、彼は怒っていたのではない。そうだ、彼は泣いていた。驚きでも怒りでもなく顔をくしゃくしゃにして泣いていた。怒号ではなく悲鳴だった。まるで懇願するように。
 「あぁ、そうだったんだ」
なぜ車内が冷蔵庫のように冷たかったのか。
警察に盗難を届けられなかったのか。
運転を誤り白い外車にぶつけてしまっても逃げるしかなかったのか。
全てのピースが収まるべき所へ収まり、告げるべきことを告げていた。俺が車を盗んだとき、彼はさぞかし焦ったことだろう。その時の彼の心中を察したタカシは力なく笑った。
「トランクを開けなさい」
警官の声が更に大きくなる。タカシは気付いていなかった。今、自分の顔が、手を伸ばした若い男そっくりの泣き顔になっていることを。
「もう一度だけ言う。トランクを開けなさい」
警官の張り裂けんばかりの声が寒空にこだまする。街灯には虫たちが群がっていた。

窃盗

窃盗

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted