さかなたちの、いうことには

 さかなと、およいでいる。
 気づいたら、およいでいた。
 さかなも、いた。
 ぼくは確かに、水にはいった。
 入水した。
 学校のプールに、はいった。
 二月だった。
 
 いつも、ひとりだった。
 ぼくではない。
 となりのクラスの、とある女の子だ。
 女の子は、教室でいつも、ひとりだった。
 休み時間も、ひとりだった。
 トイレに行くときも、移動教室のときも、ひとりだった。
 昼休みも、ひとりだった。
 部活に来るときも、ひとりだった。
 ぼくと、女の子は、おなじ美術部だった。
 ひとりで黙々と絵を描いて、ひとりでさっさと帰っていった。
 女の子は、ひとりだったけれど、ひとりであることを望んでいるような、女の子だったから、だれも、なにも言わなかった。
 孤独、というより、孤高、という感じだった。
 他人をよせつけない雰囲気を、女の子は放っていた。
 女の子の絵は、よくわからない絵だった。
 なにを描いているのか、なにを描きたいのか、わからなかったけれど、黒と、赤の油絵具の消費量は、部内でダントツだった。
 校内展示の際、女の子の絵をみたクラスメイトが、
「血でも吐いたみたい」
と言ったのが、印象的だった。
 
 二月、だった。
 学校のプールは当然、夏以降つかわれておらず、たまっているのは雨水だった。
 水は、みどり色をしていた。
 落ち葉や、枯れ枝や、お菓子のゴミや、白いビニール袋なんかが、浮いていた。
 例のとある女の子がプールに入るのを、みた。
 女の子は吸いこまれるように、みどり色のプールのなかに入っていった。
 ぼくは、あ、と思った。
 あ、と思った瞬間、からだは動いていた。
 ぼちゃん
 という音が、自分がプールに飛びこんだ音だと、はじめはわからなかった。
 つめたい、という感覚は、なかった。
 きたない、とか、死ぬかも、ということも、かんがえていなかった。
 そもそも、なにもかんがえていなかった、と思われる。
 なにもかんがえずに、二月のプールに、飛びこんでいた。
 金曜日の、放課後だった。
 
「美術部の、」
という声がした。
 ぼくはさかなと、およいでいた。
 さかなは、なまえのわからないさかなばかりだった。
 水族館でみたことがあるような、ないような。
 スーパーの鮮魚売り場でみたことがあるような、ないような。
 さかなやさんでみたことがあるような、ないような。
 図鑑でみたことがあるような、ないような。
 あじ、みたいのがいれば、サメ、みたいのもいた。
 ぼくはそんな、なまえもわからないさかなたちと、およいでいた。
 およぎたくもないのに、およいでいた。
「美術部の、」
と声をかけてきたのは、あの女の子だった。
 女の子は、水のなかで立っていた。
 はじめて声を、きいたような気がする。
 想像していたよりも、かわいい声をしている。
「なにをしているの」
 たずねられたので、ぼくはこたえた。
 キミが入るのをみて、気づいたらプールのなかに飛びこんでいた。
 水のなかは、みどり色ではなかった。
 透明だった。
 さかなは、うようよいた。
 にんげんは、ぼくと女の子だけだった。
 プールのなかのはずなのに、壁、らしきものはみえなかった。
 底、らしきものも、みえなかった。
 足はつかなかったけれど、およいでいなくても、水のなかで立っていられることがわかって、ぼくはさかなとおよぐのを、やめた。
 となりをおよいでいた、なまえのわからない、ぴかぴか銀色に光る、へびのようにからだの長いさかなが、ぼくをおいて、およいでいった。
 およいでいないと、死んでしまうさかななのかな、と思った。
 女の子は、肩まである黒い髪をかきあげ、耳にかけた。
 水のなか、にいるはずだが、水のなか、にいる感じは、まったくしなかった。
 呼吸ができた。
 からだを、自由に動かせた。
 陸にいるときと、なんら変わらない感じだった。
 ふつうに、しゃべることができた。

「そうなの。じゃあ、あんたも、わたしのなかまだ」

「なかま?」

「だれにもいえないヒミツをかかえている、なかま」
 
 女の子は言った。
 女の子のまわりには、小さくて可愛らしいさかなが、ちょろちょろおよぎまわっていた。
 熱帯魚みたいだと思った。
 そもそも、ここは淡水なのか、海水なのか、ぼくはためしに舌をだしてみたけれど、味はしなかった。
 舌が、水にふれた感じも、なかった。
 呼吸もできるのだから、もしかしたらぼくたちは、空気の膜のようなものに包まれているのかもしれない、なんてかんがえた。
 だから、呼吸ができる。
 声を発することができる。

「だれにもいえない、ヒミツ」

 ぼくは、女の子のことばをくりかえした。
 女の子は、こくん、とうなずいた。
 水のなか、というのは静かなものだと思っていたけれど、案外と騒々しかった。
 さかなたちは、おしゃべりだった。

『あたらしい、にんげんよ』
『だれにもいえないヒミツをかかえた、にんげんだ』
『これでなんにんめの、にんげんかな』
『さあ、かぞえるのも、あきちゃった』
『にんげんって、ヒミツがおおいね』
『にんげんは、ヒミツがすきなのよ』
『にんげんのせかいには、にんげんのせかいのルールがあるからね』
『そのルールをまもれないひとが、ここにくる?』
『ルールをまもれないひとではないよ、にんげんのせかいにある、にんげんのことわりからはずれたひとが、ここにくるんだ』
『はみだしものってやつ?』
『かわりものってやつ?』
『にんげんのせかいでいきづらくなったひとが、ここにやってくる』
『そういうこと』
『みちびかれて、やってくる』
『そういうこと』
 
 ヒミツ。
 肺のうらあたりが、ひやっとした。
 さっきの、となりをおよいでいた、なまえのわからない、ぴかぴか銀色に光る、へびのようにからだの長いさかなに、もどってきてほしいと思った。
 ぼくのこころのうちを見透かそうとしている、女の子の、するどい視線から、逃れたかった。
 ひそひそ、ひそひそ、おしゃべりをしているさかなたちが、こわかった。

(みないでほしい)
(しゃべらないでほしい)
(さぐらないでほしい)
(あかそうとしないでほしい)
(ぜんぶ、ぼくがわるいから、わかっているから、もう、なにもいわないでほしい)

 ぼくは、その場にうずくまった。
 沈まないのが、ふしぎだった。
 いっそ、沈んでくれた方がいいと思った。
 沈んでくれ、と願った。
 プール、なのか、なんなのか、よくわからない水のなかで、このまま、さかなのえさでも、プランクトンでも、泡でも、なんでもいいから、にんげんではないなにかになってしまえたらと、祈った。

「わたし、おとうさんが好きなのね」

 とつぜん、女の子がそう切り出した。

「おとうさんのことが、好きなのね」
 
 二回言った。
 おとうさんが好きって、そんなの、ふつうの家族ならば当たり前のことなのでは。
 だから、
(なにを言っているんだろう、彼女は)
と思って、顔を伏せたまま、彼女が、話の続きを始めるのを、待った。

「おとうさんが好きって、当たり前のことじゃん、と思ったでしょう」
 
 うん。
 顔を伏せたまま、ぼくは言った。

「好きって、そういう好きじゃないよ」

「え」

「おとうさんにはしちゃいけない方の好き、だよ」

「え」
としか、ぼくはことばが出なかった。
 おそるおそる、顔を上げた。
 女の子は、ぼくを見下ろし、笑ってた。
 泣きそうな顔で、笑ってた。
 小さくて可愛らしいさかなたちが、女の子の肩まである黒い髪を、くちでつついて、ひっぱって、髪のなかにかくれて、あそんでいた。
 
「わたしのおとうさん、ほんもののおとうさんだけど、好きなんだよね」
「キンシンソウカン、ってやつ」
「やばいなって思ったよ。好きになっちゃいけないって、わたし必死になっておとうさんのこと、無視してるの」
「思ってもいない酷いこと言って、遠ざけてる。いろんな男の子と付き合って、おとうさんへの好きを、忘れようとしてる」
「なかったことにしようとしてる」
「おとうさんは、おとうさんだって、おとうさんだから、好きになっちゃいけないって、いつも唱えてる」
「でもさ、好きなものは、好きなんだよね」
「好きなものは好きなんだから、しょうがないよね」
「だから、おとうさんを好きなままで死のうと思って、プールに飛びこんだ」
「そしたら、なんかしらないけど、生きてるの」
「くるしくないの、息、してるの、しゃべってるの、目、みえてるの」
「生きてる」
「…いきてる?」
「たぶんだけど、これ、生きてるよね?」
「生きてるって思ってるだけで、じつは死んでる?」
「もしかして、ここ、天国ってやつ?」
 
 そう捲し立てた女の子に、一匹のさかなが、こう言った。
 
『いきているとおもうなら、いきているし、しんでいるとおもうなら、しんでいるよ』
 
 うようよおよいでいるさかなのなかの、どのさかなが言ったのかは、判然としなかった。

「このままここにいられるならば、どっちでもいいや」
「それより、あんたも、話してよ」
「あるんでしょ、だれにもいえないヒミツ」

「…ぼくは、」
 
 ぼくは、うずくまったまま、ふたたび顔を伏せた。
 目をつむると、ぼくの、だれにもいえないヒミツの内容が、ぼくの意思に反して、ぽと、ぽと、と、くちのなかから、こぼれ落ちてきた。
 
「ぼくは、」
「ぼくは親友を、学校に来れなくした」
「きずつけた、酷いことを、言った」
「親友が、ぼくのことを、好きだと言ったんだ」
「好きは、友だちのそれではない意味の、好きだった」
「ぼくは男で、親友も、男だった」
「でも、親友は、ぼくのことを好きだと言った」
「キスとか、したいのかときいたら、そうだと言った」
「親友の表情から、それが冗談ではないことは、ばしばし伝わってきた」
「だから、」
「ぼくは、親友にこう吐き捨てた」
「ふざけんな、キモいんだよホモやろう、って」
「…いいわけになってしまうけれど、ぼくはそのとき、冷静さを欠いていた」
「親友だったやつが、ぼくを、そういう目でみていたという事実を、その場では平然と、うけとめることができなかった」
「こどもだろう?」
「ほんと、こどもだ」
「高校生になったら、もうほとんどおとなだと思ってたけど、実際になってみるとこどもは結局、こどもだ」
「親友は、キモくてごめん、と言って、ぼくをおいて帰った」
「さっきのキミみたいな、泣きそうな顔して、笑ってた」
「次の日から、親友は学校に来なくなった」
「もう、一週間になるよ」
「メールをしてみたけれど、返信はなかった」
「家には行けていない、こわくて」
「もし、このまま来なかったらどうしようって、さいきん、かんがえてる」
「ぼくの一言が、親友の人生を台無しにしたらと思うと、ねむれなかった」
「ぼくは、なんであんな酷いことを言ったのだろうって、」
「後悔している」
「あやまりたいと思う」
「でも、こわいんだ」
「こわいよ」
「ぼくは彼のこと、好きなんだ」
「友だちとして、好きなんだ」
「でも、彼はちがうんだ」
「どうしたらいいかわからなくて、こわいんだ」
 
 ぼくは、泣いていた。
 水のなか、だけれど、涙が頬を流れてゆくのが、わかった。
 ぼくのまわりでさかなたちが、ささやいた。
 
『なんぎね、にんげんって』
『ほんとうね、にんげんって、めんどうくさいいきものだわ』
『でも、ぼくらも、おすどうしではたまごがうめない』
『はんしょくこういを、コイだのアイだのとこんどうしているから、めんどうなんじゃないの』
『こうびはこうび、レンアイはレンアイって、わりきればいいってこと?』
『なんだかぼくらが、じょうちょのないいきものみたいで、いやだな』
『どうりにしばられていきるにんげんより、じゆうですばらしいじゃないの』
『それも、いちりある』
 
 よくしゃべる、さかなね。
 女の子が言った。
 ぼくはうなずいて、立ち上がった。

(いきているとおもうなら、いきている)
(しんでいるとおもうなら、しんでいる)
 
 さっきの、さかなが言ったことばを、こころのなかで、つぶやいてみた。
 ぼくは、いま、
 いきていると、おもう。
 でも、しんでいるとおもえば、きっと、
 しぬのだと、おもう。
 そういうせかい、ここは、

「ねえ、キミは、どうするの」
 
 ぼくは、きいた。
 女の子は、びっくりしていた。
 
「どうするのって、決まってるでしょ。わたしは、おとうさんのそばにいたら、いけないの」

 いけないのよぉ、と、女の子は、泣いた。
 もう、笑っていなかった。
 小さくて可愛らしいさかなたちが、女の子の顔のまわりを、ひらひらとおよいでいた。
 なぐさめているみたいだ、と思った。
 ぼくはいま、とてもあの、さっきまでとなりをおよいでいた、なまえのわからない、ぴかぴか銀色に光る、へびのようにからだの長いさかなに、逢いたい。

さかなたちの、いうことには

さかなたちの、いうことには

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-26

CC BY-NC-ND
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