揺れる真相と息子たち

揺れる真相と息子たち

揺れる真相と息子たち
ペリエ しゅわしゅわ

第1話  堕落した青年

第2話  疑惑を持った少年

第3話 間違われた探偵

第4話 困惑する依頼者

第5話 引退を考えるママ

第6話  運のいい新聞記者

第7話  置き去りにされたボクサー

第8話  飛び回るインタビュアー

第9話 揺れる世界

第10話 本当の息子たち

第11話 繋がる血(1)(2)


登場人物

木崎 学 ・・・ 元市場調査会社勤務 無職
木崎 洋子 ・・・ 木崎の母 スナックのママ

河野(こうの) 高志 ・・・ 中学生
河野 こずえ ・  高志の母

今村 修平 ・・・ 弁護士
真鍋 誠 ・・・ フリーライター
レイコちゃん ・ パチンコ店のワゴンガール

遠藤 智明 ・・・ 大物政治家
遠藤 千鶴 ・・・ 智明の妻

山本 健二 ・・・ ボランティア団体『神戸ソウティエム』の元リーダー


第1話 堕落した青年

 木崎学は手持ちのパチンコ玉でレイコちゃんにコーヒーを注文していた。75玉でコーヒー一杯。
 レイコちゃんはやたら体格のいい美人で、兵庫県最大の繁華街、ここ神戸は三宮のパチンコチェーン「フィーバー177」のワゴンガールをしている。パチンコ台が177台設置されていて「フィーバー177」という店名だが、実際にフィーバーしているのはせいぜい10台もあればいいほうだろうか。
「俺は、濃いめのコーヒーが好きなんやねんけどなぁ」と木崎はパチンコ店の喧騒の中、少し酸味のあるコーヒーを一口含んで、そう呟いた。わざわざそんな小言を言うほどに悪い味でもないと思ったのが、つまりそんなことでも言いたい気分だったのだ。
「うちのコーヒーマシーンは濃さの調整がでけへんっていつも言ってるじゃないですかぁー」とレイコちゃんはいつもへばりつくようなしゃべり方をする。
 見た目は大学3年生くらいなのだが、実は人妻。年齢不詳。土木系のイカツイのとノリで結婚したと言っていたが、よくよく聞いてみると、ノリと言っていたのは実は子供ができたからだったのだと、まぁありきたりな結婚の理由が話をしているうちに分かった。木崎はものは言い様だなと思った。
「木崎さん、またご飯連れてってよー」とレイコちゃんは177台のパチンコ台の出す爆音の中でもよく通るように高い声を出して木崎に甘える。
「きみの旦那さんにボコされるリスクは背負いたないねんよ。分かってよ、レイコちゃん」と木崎はぬるりとかわす。この手の誘いには最近では慣れっこだった。
 レイコちゃんは、平日のほとんどを「フィーバー177」で過ごす木崎のことを大金持ちの御曹司かなにかだと勘違いしているらしかった。実のところ、木崎が彼女をそそのかすためにそのような勘違いを巧妙に植え付けたとも言えないではないのだが、そろそろそれが嘘だと気付いてもいい頃だろうと木崎は思っている。が、なかなかにレイコちゃんも鈍いようだ。
パチンコ屋の常客と言えば、寝間着姿同然のジジババかペンキと泥にまみれた土建の仕事あがりのおっさんか、もしくはサボりのサラリーマンくらいで、朝一から木崎のようにウィンドウペン柄のVネックニットの上に黒のライダースジャケットといういでたちでバチッと決めてくる客は珍しい。俺はたかがパチンコとはいえ外出である以上は一定のおしゃれをしなければ気が済まない。そういうディシプリンが最終的な人間の価値を決めるのだと信じている。
 木崎がレイコちゃんと知り合うこととなった日、彼は珍しく、初当たりの軽さと連チャンのおかげでトータル5万発を超えてドル箱を積み上げてウハウハしていた。気をよくした彼は昼飯にうな重とビールを平らげ、午後からもさらに上機嫌にパチンコを打っていた。木崎が大当たり中の打ち方である右打ちでゆうゆうとパチンコ台から球をはかせていると、ワゴンガールのレイコちゃんが妙に気さくに話しかけてきたのだ。それまではゾンビのような顔をした他の客たちが恨めしそうに彼の顔とドル箱を交互に眺めては溜息を吐くか、舌打ちをして行くかだけだったので、彼の横にひざまずくレイコちゃんのその美人の笑顔が、不意に現れた女神に見えたのを覚えている。
「めっちゃ出てますね」
「たまにはこういう日もなくちゃね!」
「このお店でこんなに積んでる人を見るの久しぶりですよぉ。コーヒーでもいかがですか?」
なかなかのセールストークじゃないか。木崎はディープローストした酸味の少ないコーヒーを好むので、そういった質が期待できないパチンコ店でコーヒーを注文しようなどとは今まで思ったことがなかった。しかしその日、木崎はレイコちゃんからコーヒーを合計3杯も注文することになった。しまいには彼はレイコちゃんに「意外とここのコーヒーも飲めるやん」と素直に感想を述べるまでに至っていた。
「私にはようわかんないんですけど、コーヒーの入れ替えも頻繁にしなくちゃいけないし、豆も季節によって色々と変えてるみたいだし、一応ちゃんとしたものなんだと思いますよぉ」と言ってレイコちゃんはまたひざまずいて、木崎の台の横にコーヒーを置いていく。
「フィーバー177」で飲むコーヒーが思ったほど悪いものじゃないことを覚えた木崎は帰り際に、レイコちゃんのところに寄って、「君のコーヒーが僕に勝ちを呼び込んだんだ」というようなことを言って彼女に電話番号を渡した。ほどなく、彼女から木崎に電話が入った。そうして彼らの個人的な関係が始まったのだ。
 繰り返しになるが、レイコちゃんは顔だけを見れば美人で、目はパッチリしているし、眉毛もちゃんとあるし、黒髪清純派アイドル風なのだ。しかし、肩から下はどういったわけか女子格闘家のようなしっかりした体格をしている。決して太っているわけではない、背が高いわけでもない、骨格がいいのだ。
 木崎は細身の女性が好みだ。だから、のちのち俺がレイコちゃんを自宅で抱いたときには大きな違和感があったのを覚えている。理想の抱き心地とは程遠かったのだ。やはり女と言うものは華奢で、か弱く守るべき存在であってほしい。そう思ったところでプー太郎の木崎に何が守れるのだという話であるのだが、今のところ彼はそのあたりのことは棚に上げている。
 いつものように夕方ごろに当たりもないので、木崎はパチンコを終えて、11月のしっかりと寒くなり始めた神戸の街に出た。いつものバーに繰り出す。
JR三宮駅より東側の比較的ひと気の少ないエリアにあるパチンコホール「フィーバー177」からわざわざ西の阪急の方角へと出向く。まだそれほど人の出てきていない阪急三宮前のアーケード街越え、トアロードから小道に入った飲み屋街のビルの二階に木崎の行きつけのバー「1985」はある
マスターは多くを語らない静かな男だ。1985年に開業したということで、店は俺と同い年だということになる。何度か店舗の移動などはあったらしいが、いまでも順調に営業を続けている。割と広めでウッディ―な素材が多く使われている店内はそこそこに洒落ている。カウンター席が十席ほどと、その背後にテーブルが二つ、さらに奥にボックス席が三つある。
 マスターは50代半ばか若く見える60代前半と言った感じで、黒染めしているのか、まったくハゲていない髪は黒く、それがまた彼をより若く見せている。中肉中背で特徴のない男だが、それがまたいい。
「いらっしゃいませ」とマスターがコップを拭きながら木崎に目線を送り、軽く会釈をする。
「とりあえず、いつものちょうだい」とそれらしいことを木崎が言う。ずっと言ってみたかったセリフだ。仕事を辞めてプー太郎になりバーに通うルーティンができたことで、なんとなく映画やドラマで見て憧れていた念願のセリフを自分のものにすることができたのだ。
ほどなく、ヒューガルテンとピスタチオが出てくる。夕方6時前のバーに客はまだ誰もいないので彼はいつものようにカウンターの一番奥の席に座って、そのビールをちびちびと始める。スマホで地域のニュースなどを見てみるが、神戸の大震災からの再発展に大きく寄与した大物政治家が死去したことや、王子公園のパンダの体調不良が心配されることや、神戸出身のタレントの結婚などが伝えられるだけで、彼の生活に影響を及ぼすと思われるようなニュースはなかった。だいたいいつもそうだ。俺に必要と思われるようなニュースなどスマホやテレビで見たためしがない。すべてのニュースもパチンコと同じで暇つぶしの道具でしかないのだ。
「マスター今日のフードメニューはなにがありますか?」
「メニューに載せていないものになりますと、今日は牡蠣を使ったものができます。カキフライなどいかがでしょう?」
木崎はどれだけ怠惰な生活を送ってもやはり太ることだけはしたくないと考えていた。だから、その日は朝にランニングをしていないこともあり、フライを食べるかどうか少し悩んだ。
「牡蠣雑炊なんかは作れたりするのかな?」
「味の保証は致しませんが、今の時間なら可能ですよ」
「マスターを信じるわ」
 ビールを飲みながら、ピスタチオの殻をあけながら、明日はなにをしようかと考える。
 レイコちゃんは明日のシフトが入っていないらしく「昼間、暇だから遊ぼうよ」とお誘いのメールをくれていた。しかし木崎はそれをやんわりと断っていた。レイコちゃんと体の相性がそもそも合わないし、彼女との逢瀬が不倫に当たることにも気をはらわないといけない。そういうことが面倒だったのだ。そういうわけで、俺は特にやることもないが、レイコちゃんを抱く気にもなれないし、読みたい本が手元にあるわけでもなかったので、明日もまたパチンコを打ちに行くのだろうと、ほとんど腹を決めてしまっていた。木崎の日々の行動はこうやって「1985」でビールを飲みながら決まっていく。

 パチンコを打ちに行くか家で読書をするかの毎日で、それで儲けているわけでもなく、時間をつぶすだけの今の生活に何の価値があるのだろうか。
ある日などはこんなことをパチンコで10万円近く負けながら考えていた。
 はたして、ただ働くということに使命感を感じるのは正しいことなのだろうか?
 世界中の人が一生懸命働きまくって、排気ガスが出まくって、人類みな死亡というシナリオがあるとすれば、その働き方は間違いなく、間違っていたということになる。ひどい頭痛を患ってから俺は自分がどうしてもそういう仕組みの中にいるように思えて仕方がなかった。
木崎学は30歳にして多くのものを失った。正確に言えば、自ら手放したのだ。
 彼は新卒で入社した市場調査や分析をする会社で27歳という社内歴代ナンバーワンの若さで係長職に昇進した。彼はそのことを当時は誇りに思っていた。その裏には、会社にいる時間はフルに仕事のために費やす、という彼のこだわりがあった。そして、それは完全なまでに徹底されていた。
働いていた時の木崎は、まず家で朝飯を大量に食った。そのほとんどがコンビニやスーパーの惣菜の類だが、およそ2食分は食べる。そうして会社で昼飯を食うことを省いた。彼と取引があったシンガポールや中国の会社とは1時間の時差があった。だから彼は昼飯を食わないことで、取引先との時間をより合わせられるように自分をオープンにしていたのだ。そして、晩飯はデスクに常備しているプロテインバーと決めていた。晩飯にすら時間をさこうとはしなかったのだ。
 多くの社員は夜7時や8時になると、帰ろうか、ご飯でも食べて終電まで働こうか、とそわそわしだし、時には同僚達が連れだって夕食に出て行くということもあった。しかし、木崎はそれに付き合わなかった。彼は夜も時間のロスが無きよう働き続けた。しかもそれだけではなく、彼は時間を気にしないで、余裕で終電を逃して、始発の時間まで働くことも多かった。彼は朝5時の始発に乗って家に帰り、シャワーを浴びて、6時から3時間寝て、9時に起きた。準備をして朝食を大量に食い10時には出社する。それが彼の基本的なライフスタイルとなっていた。もともとショートスリーパーだった彼にはそれが可能だったし、そんなやり方で彼は社内でもトップクラスの成果を出していた。取引先からの評判も得ていたし、彼自身もそんな生活とそれによって得られていたものに満足していた。
そして土日にはトレーニングにいそしんだ。10キロを超えるランニングと、1時間を超える筋トレを彼は自らに課していた。木崎は太っている人間を嫌悪している。自らを律することができないやつにいい仕事ができるわけがないと信じていたのだ。だから、彼自身もトレーニングによってそれなり以上のシェイプを必ず保つようにしていた。
 働いていた時の彼には、そのような哲学に基づいた徹底された生活があったのだ。
 その根底には、片親で自分をここまで育ててくれた母親、洋子に対する報いの気持ちもあったのかもしれない。自分の父親は自分の生まれる前に、洋子が自分を妊娠している時に蒸発してしまったのだと聞いていた。彼の母親はそんなこともありながら、息子の学を産み、自分のスナックを切り盛りしながら、彼を育て上げたのだ。洋子は、学を中学生の時から学習塾に通わせて、みごと国立大学に入学までさせたのだ。おそらくそういった木崎の家庭環境がそのストイックさの陰にあるのだろうと思われる。実際、木崎はどんなやつかは知らないが、嫁と息子を捨ててしまうような父親をひどいやつだと思っていたし、自分は決してそんな人間になるまいという強い意志をもって成長したのだ。
そしてある日、木崎は急激な頭痛に襲われる。
 職場で働いていると目の前に光の輪のようなものが広がり、それが徐々に拡大していくのが見えたのだ。不審に思った彼がすぐに眼科に行くと、それが閃輝暗点というものであることを知る。それは偏頭痛が起こる前の前兆現象であり、事実、木崎が診察を受けている頃にはすでにひどい頭痛で歩くのもやっとの状態になっていた。それで、その日はそのままタクシーで家に帰り、その後、彼は3日3晩寝込むこととなる。少し頭痛がマシになって脳神経外科に行くと、血管や神経に問題がないので心療内科に行けと言えわれた。目の前に閃輝暗点があらわれてから3件目の病院となる心療内科に行くと過労だと診断された。木崎は30歳になり、それまでのストイックな哲学に基づいた生活に体と心がついてこなくなってしまったことを知る。
そして週が明けて仕事に戻った木崎はすぐに仕事を辞めたいと上司に告げた。すべての仕事を一気に関係各所に引き継ぎ、彼はその次の週には会社から姿を消した。
 ていのいい言葉を探そうとするならば、燃え尽き症候群などと言えるのかもしれない。けれど、彼はそのような言葉をむしろ陳腐なものだと考えた。なぜならそれは、彼にとって価値観の大転換であったのだからだ。
 俺は三日三晩、頭痛で寝込んでいる間に、欲について考えたのだ。ひとには3つの欲がある。食欲、性欲、睡眠欲。そう考えてみると、俺は働いていた時にそのすべてをおざなりにしていたのだと気付いた。必要な量は食べたが特に豪勢なものは食べなかったし、女を抱くこともほとんどなく、3時間しか眠らなかった。頭痛を患ってから俺はそれがいったい何のためだったのだろうかと考えるに至った。
 金、地位、名誉。
 しかし、そんなものは先にあげた3大欲求を満たすためのツールでしかないように思える。であれば、結局、俺はなんのためにぶっ倒れるまで働いていたのだろうか?
 そして、木崎はある結論にたどり着いた。
 俺は、食欲、性欲、睡眠欲に正直に生きようと。
 食いたい物を食いたいときに食い、月に2度風俗に通い、寝たいときに眠ろう、と。
今の木崎は、そういうことでサラリーマン時代に蓄えた合計一千百五十万円の貯金と金融資産をただただ切り崩して、悠々自適の生活を送っている。次の仕事を探すような気配は微塵もない。金が尽きるまで遊ぼうと彼は考えている。それで、どうしてパチンコに通うようになったかと言えば、特にやることがないからだった。ある日ふらりと立ち寄って、いい時間つぶしになるし、考え事もできるし、と思っているうちに、平日のほとんどがパチンコ通いという堕落した生活にはまっていた。
 しかしながら彼は一方で仕事と言うものについての考察を深めていた。仕事には、なにか使命感のようなものが必要なのではないか、と。
自分がこれをしなければという使命感、自分はこれをしたいんだという欲求でもいいが、そのような強い感情の伴う仕事を人はするべきだと彼は考えた。少なくとも、自分がこれからする仕事はそういった種類のものにしようと決めていた。
例えば、先代から続いてきたお店を守ろうという使命感で働く店主がいて、世界の平和を守るという使命感のために戦うヒーローがいる。
 木崎は自分にはそういった使命感を感じることがなかったから、燃え尽きてしまったのではないだろうかと考えた。
使命感。はたしてこの世の中に俺のような人間を頼ってくれる人間などいるのだろうか?
家族をもつ男は自分の家族を守ろうという使命感で働いていると聞く。俺も若いうちに結婚でもしておけばよかったのだろうが、特定の女性と関係を持つということがほとんどないまま30歳を迎えて、果てはニートになってしまった。結婚など今となっては程遠い話だ。
木崎は使命感みたいなものが、自分の元に降ってくることはあるのだろうかと思い悩んだ。思い悩みながら、当座のところ時間をなんとなくつぶすためにパチンコを打っている。
 しかし、貯金を切り崩す生活の中でいつかそう遠くない未来、2年後くらいにはすべての貯金を使い果たした時に、いったい自分はどうするのだろうと不安を覚えることもある。パチンコとバーを往復するような生活の中で使命感にかられる仕事に出会うことなどあり得ないように思える。だから、いろいろと高尚なことを考えているようだが、なんとなく俺みたいなのがこのままそこらのホームレスにでもなってしまうのだろうなと想像すると寒気がした。最悪の場合、母親のやっているスナックで雇ってもらうことだってできるかもしれないという打算もあるが、水商売にそんな使命感を抱くことは微塵もない。
 だらだらと引き延ばす薄く味気のないコーヒーのような面白みのない人生ならば、やりたいようにやって桜のように華麗にパッとちってやろうじゃないかと俺は思う。しかし、咲き方がわからない。それで俺はまた目の前のパチンコの演出に集中して自分をごまかすのだ。

「1985」のマスターが作ってくれた牡蠣雑炊は絶品だった。内容自体はとてもシンプルで卵とねぎのかかった雑炊の上にふっくらと膨れた牡蠣が5粒、小鍋の中に並べられている。牡蠣が雑炊に沈み込んでいるのではなくて、雑炊の上にのっているのだ。もちろん茹でてあるものだ。木崎が牡蠣を一口ほおばって、その半熟と表現していいような茹で具合に感動した。ちょうどいい具合に膨らんだ牡蠣のぼってりとした食感とともに磯のうまみが口いっぱいに広がる。米と卵の方は控えめな味で、口に広がった牡蠣の香りとちょうどマッチするようにできていた。それは味よりも、卵のふわりとした食感と少し硬めに粒のたった米が、咀嚼する際に牡蠣のうまみをもう一度口の中に広げるのを助けているという感じだった。
「これは冬の定番メニューにするべきやね」と、木崎はマスターに言った。
「これは私が食べるためのもので基本的にはお客様には提供するつもりはなかったのですが」と、とても控えめな返事が返ってくる。
「料理の詳しいことは分からないんですけど、牡蠣の茹で具合、出汁、卵、米の固さ、どれをとってもパーフェクトですよ。ちょっとした定食屋には出せない味だわ」
「それでは冬のメニューに検討させていただきましょうかね。用意があればいつでもおつくりしますので、またご注文ください」とマスターはいつものように愛想よくそう言った。俺にとって、食欲を満たしながら静かに酒を飲むには「1985」は抜群の基地となっている。
食欲を満たせた木崎は、最後にジャックダニエルズをダブルで飲んで店を出た。神戸の山から吹き下ろす風が無職の木崎に冷たく尽き刺さったが、彼は満腹とアルコールの鎧でそれらからあっさりと身を守った。
 そして、彼は性欲を満たしに店のお迎えで福原へと向かった。そこで予約をしておいた細身の風俗嬢を抱いた。2週間に一回の贅沢だ。
福原で性欲を満たした彼は、電車で春日野道の商店街の入り口にあるにある自宅へと戻ると、0時前には眠ってしまう。そうして、食欲、性欲、睡眠欲のすべてを彼なりに満たす木崎の一日が終わっていく。
 
 翌日、木崎は自室のベッドから起き上がり、コーヒーを沸かしながら頬の髭を剃り、コーヒーを飲みながらランニングウエアに着替えると、朝のランニングをこなした。約1時間、10キロのランニングを終えてシャワーを浴びると10時。ちょうど「フィーバー177」の開店時間となる。
木崎はいつものように「フィーバー177」のけたたましい騒音と、まぶしい光と、目に染みるタバコの煙の中にいた。彼は2万円をつぎ込んで、なんとか1万発、約3万円の鉛玉の回収に成功していた。木崎は隣で20連ちゃんをかましてドル箱を積み上げまくっている作業着のにいちゃんへの多少のうらめしさもありつつ、自分の成績を重視して満足していた。少なくとも今日は勝っているのだ。その日、彼はパチンコを打ちながら、生きることと死ぬことの違いについて哲学していた。それで何か悟りを開けるような答えが出るわけもなく、午後も遅くなりパチンコを打ちやめた木崎は、玉を現金に換金するために景品をもって、景品交換所へと這い出した。
そこで、木崎学は意外なものを目にする。
 それは学ランを着た中学生くらいであろうかという少年の姿だった。その少年の眼光は鋭く、駐輪場の奥に隠されるように配置されている奥まった景品交換所をキッと睨んでいた。その目線の先には黒ぶち眼鏡をかけた小太りのサラリーマン風の男がいた。何やら不穏な空気がするが、とりあえず木崎も隣で換金を済ませた。隣のサラリーマン風はスロットの景品の換金を終えるとまたホールへと自動ドアをくぐっていった。
 その時だ。眼光鋭い少年が、ずいとその歩みを進めて、ホールへの自動ドアをくぐろうとしたのだ。木崎はとっさに少年の腕をつかんだ。
「坊やが入っていいようなところじゃないで」
「分かってます」と少年は言いつつ、パチンコ店へ入るために木崎の腕を払おうとする。
 木崎は捕まえていたひょろりとした、しかしなかなかに筋肉の引き締まった少年の腕から手を放さなかった。顔を見るとジャニーズ系と言っていいような可愛い顔をしている。
「なにやってんの?」
「関係ないです」と少年は期先につかまれた腕をふりほどこうとするが、大人の力に勝てないでいた。
「正しいな。俺には関係ない。けど気になるねんな。中学生がこんなパチンコ屋に何の用やねん? あの小太り眼鏡に興味があるんけ?」
 少年は黙った。図星だと木崎は踏んだ。
「じゃあ、ちょっと付き合えよ」と木崎はぐっとつかんでいた少年の腕を引いて、駐輪場から外へ連れ出そうとした。少年はグッと体をこらえようとしたが、木崎の力にあっけなく引っ張られてしまった。木崎の180㎝の身長に対して少年はまだ160cmほどしかないのだ。
「どこへ連れて行こうっていう気ですか?」と少年は少しおびえた表情をしつつも、いつでも応戦するぞという強い目つきをしている。
「まぁさ、とりあえず、わけありなんやろ? コーヒーでも飲もうや。あの小太り眼鏡が気になるんやったら俺が調べてやってもいいで。事情によってはやけどな」
 少年は俺に対して警戒の色を崩さなかったが、しばらく考えて、それ以外にいい方法はないと腹をくくったようで、それからは俺の後ろを文句も言わずについてくるようになった。カフェに着くまでの間、俺たちは何もしゃべらなかった。俺はなんだか面白そうなものを見つけたようなウキウキした気持ちと、もしヤバい話だったらすぐに知らんふりせねばならないなという逃げの心とを持ち合わせて、しかし鼻歌を歌い余裕を装いながらJR三宮駅へと向かって歩いた。木崎の後ろを歩く、学ラン姿の少年はまるで彼の子分のようであった。俺は少年をとりあえずターミナルホテルの喫茶店に連れていくことにした。
 JRの改札では学生やサラリーマンたちの帰宅ラッシュが始まっているようだった。

第2話 疑惑を持った少年

 河野高志は中学での特別学習の課題に街の清掃活動を選んだ。選択肢には、戦争の歴史を学ぶ授業、スーパーマーケットでの職業体験、街の清掃活動のボランティアの三つがあった。高志は戦争に興味はなかったし、母親がスーパーで働いているからそれを選ぶのは気恥ずかしかった。それで消去法で清掃ボランティアを選ぶことにしたのだ。彼はボランティアなんて暇な人間か金持ちがやるものだとバカにしていたが、それ以外に選ぶものもなかった。
特別学習にはその日の午後の授業時間がまるまるさかれた。高志の班の作業は、自分達の住む町である六甲から六甲道周辺の商店街や大きな道路沿いの 清掃活動なので、学校から清掃道具とゴミ袋をもって街へと繰り出すこととなった。
高志は友人らとトングとゴミ袋をもって商店街を清掃した。タバコの吸いカス、お菓子の包装、カラスがごみ置き場を食い散らした後など、よくよく見ると町はごみであふれかえっていた。それらを2時間かけて北から南へと下りながらローラー作戦で清掃していく。僕は街の汚さに辟易としたし、街をこんな風にする住人にがっかりした。
 清掃活動ボランティアが終わって教室に戻り、みなが体操服から制服に着替えなおすと、活動の振り返りの授業が始まった。それぞれが今日の感想を述べた。
「町がきれいになるのはいいことだ」
「普段からゴミ拾いを率先してやるべきだ」
 みながなんとなくそれらしい発言をしていた。なかには「ボランティアをする部活があってもいいのではないか」と言い出すものまでいることに僕は本当にうんざりした。しかし、これには意外に多くの生徒が賛同し、ボランティアって災害支援や介護、清掃などいろいろな分野があるのだからもっと体験してみたいというような声が上がった。とくに災害支援については、阪神大震災(それは彼らが生まれる前の話なのだが)や東日本大震災のときの震災ボランティアのイメージが強くあるらしく、ぜひ次回の特別学習の研究テーマに入れてほしいというような話になった。
 しかし、高志には震災ボランティアに行くような学生たちは、あれはファッションでやっているのだとバカにする気持ちしか沸いてこなかった。もし本気で震災支援をしたいのなら自衛隊にでも消防隊にでも入って本格的にやればいいじゃないか、と彼は思った。高志はボランティアなどというのは素人のファッションとその場の需要がマッチした時に起きる小さなイベントであり、それは決して悪いことではないのだが、なんだかむず痒いものだと感じていた。
 高志の通う中学は中高一貫の学校なので中学3年の彼らには基本的には高校受験はない。だから、このような特別学習に充てる時間の余裕があるのだ。そして、この特別授業は生徒たち自らのディスカッションでやることが決まっていく方式がとられていた。
そうこうしていると1時間の振り返りの授業も終わり、ホームルームを経て放課後となった。みんながそうするように高志も部活へと向かった。

 高志は部活ではボクシングをやっている。片親で自分を育ててくれている母親を守ろうという意図がその深層心理にあるのかもしれない。
高志はその日は顧問がいなかったため、いつも部活で使っている商店街の中にあるボクシングジムへ行き、縄跳びとシャドーに時間を多くかけ、軽くサンドバックを打って、早めに上がった。軽く1時間半。ほかの部員は顧問がいないからと言うことでジムには来ていなかった。
 彼の通う学校には中等部にだけボクシング部がある。しかし、それはほとんど自由参加のエクササイズジムと変わらないような代物だった。何かの大会を目指すようなこともほとんどなければ、部活への出席を強要されるようなこともない。なので、ジムに顧問が顔を出していないということなどしょっちゅうなのだ。そんな中でも高志は自分を強くしようと部員の中では一番の出席率でトレーニングに励んでいた。
夕方のジムには仕事帰りのそれこそエクササイズが目的のOL風のお客さんが少しずつ入り始めており、ジムの副会長さんがその相手をしていた。僕は、本当は副会長とミット打ちをしたかったのだが、顧問のいない日にそれをすることは禁止されている。
 少し消化不良のまま、いつもより早い帰宅となったので、僕は学校のある六甲の山を下り、自分たちが今日形だけの清掃をした六甲道のバスターミナルにある本屋によった。ボクシング座椎谷漫画の新刊のチェックをしようと思ったのだ。すると、本屋の向かいにあるカフェに見覚えのある姿を見つけた。母である。スーパーで働いている時間であるはずの自分の母親が、小太りで黒ぶち眼鏡にスーツ姿の男性となにやら話している。僕はなぜか自分の心臓がどきどきとするのを感じた。なにか知らなければならないことが起きているという感じがしたのだ。なんとかその様子を覗くと、母親とその男性の会話が何やら深刻そうに見えた。姿を隠しつつ、その現場を見守った。話声の聞こえる距離までは近づけない。何十分か経ったのであろうか、しばらくするとその小太りが先に席を立ち会計を済ませて出て行った。高志の母親はその数分後に店を出た。
 いったいこの会合はなんなのであろうか?

 高志が自宅のマンションに帰宅すると母、こずえが夕食を作っていた。いつもの風景だ。
「おかえりなさい」
「ただいま」とだけ答え、高志は自室にカバンを片付けに行き、ジムで使ったウエアを洗濯機に放り込んだ。
「今日はなにかあった?」
 この質問はむしろ僕が母にしたいものだった。高志は顧問がいなかったから、思ったほどの練習ができなかったことを伝えた。
「中高一貫と言っても、それを蹴って受験する子や就職する子もちょっとはいるみたいだから先生も大変なんじゃないの」と母親のこずえは、いつものように自然に会話をしている。
 高志はこの流れで、ちょっとさっき喫茶店で見かけたんだけど、と聞けばいいものを聞けなかった。それは自分が片親であるせいかもしれないと彼は思った。こういう時に何か遠慮してしまう。自分の母親がほかの家の母親より頑張って自分を育ててくれているのだから、母親を疑うようなことはしたくないと思ったのだ。
「そういえば特別学習はどうだったの?」とこずえがキッチンからまた高志に声をかける。
「街の清掃ボランティアをやったよ。街ってあんなに汚いんやね」
「そうねぇ。お母さんもスーパーの前しか掃除しないけど、それでも結構ゴミが落ちているものね。それにしても、高志がボランティアねぇ」とこずえはうれしそうにつぶやいた。
 夕食はブリ大根だった。いつものように僕はそれを一気に平らげてご飯をおかわりした。2杯目は漬物や佃煮で食べる。体を大きくして強くなりたいのだ。だから僕はいつも胸が気持ち悪くなるくらいたくさん食べるようにしている。
食事を終えてシャワーを浴びて自室に戻った高志はその日の母親と小太り眼鏡との会合についていくつかの仮説を立ててみた。
交際の線は薄いだろうと考えた。あの小太り黒縁と母親が交際しているとはとても思えなかった。あまりにもセンスが悪すぎる。もしそうだったとしたら、そんなに気持ちの萎えることはないだろう。とは言え、母は独身なので可能性がないわけではない。
次の仮説は、やはり父親の線だった。
 高志の母、こずえは高志を妊娠した時には、その父親にすでに捨てられてしまっていた、ということを親戚から聞いたことがあった。そんな話はもう二度と聞きたくないし、母にも話させたくはないので、僕はずっとそのことを聞かないようにしていた。だから、父親については何も知らない。しかし、もしかすると、何かのきっかけで僕のいなくなった父親が今になって姿を現したのかもしれない。けれど、あの小太り親父が自分の父親だと思うと、それもやはり萎える。会話の雰囲気からすると、それもないことではないように思えた。今になって、息子に会いたがる父親とそれを止める母親。想像できなくはない。
 最後の仮説は、とてもぼんやりしたものだが、母がなにかのトラブルに巻き込まれているかもしれないというものだった。例えば職場でのセクハラやストーカーの類。こずえはまだ42歳だし、見た目よりずいぶん若く見えるし、ほかの母親たちに比べるとずいぶん美人だ。そのようなトラブルがあっても不思議はない。そうであればあの小太り眼鏡がその相談役だったのかもしれない。これもどうにも確証に欠ける仮説だった。
結局、いくつかの仮設にはいきつくものの真相はわからない。僕はいっそのことその真相を自分で突き止めてみようと考えた。それはそれほど難しいことではないように思えた。学校帰りにあのショッピングモールを通るようにすれば、またあの会合もしくはあの小太り眼鏡に遭遇できるような気がしたからだ。そうすれば、今度ももっとうまいこと近づいて、立ち聞きするなり、小太り眼鏡を尾行するなりして、真相に近づけると思った。高志はそのように探りを入れるのを、おもしろそうな試みだと思った。

そして、その日は一週間後に訪れた。
 その日は母親が遅番だったので、小遣いをもらって、自分で外食をするなり、惣菜を買って食べる日だった。それで、友人と学校帰りに三宮まで出て、ラーメンを食べて帰ろうという話になった。夕食には早いので三宮のセンター街をぶらぶらしていると、あの小太り眼鏡を発見したのである。見間違えるはずがない。特徴のあるまん丸い太り方をして、淵の分厚い黒メガネをかけたあいつは、母親と話していた小太り眼鏡に間違いない。
高志は友人にちょっと用事を思い出したと言って、彼らから離れて標的を尾行することにした。なんだか探偵のようでワクワクしていた。小太り眼鏡は仕事中のはずなのに、特にあてもなくふらふらしているように見えた。センター街を抜けて、JRの方に向かう。JR駅の北東側の何もないようなほうへと足を進めていく。そして、動きがあったのは小太り眼鏡がコンビニで飲み物とたばこを買った後だった。しかし残念なことに、その小太り眼鏡は、すぐに近くのパチンコ店「フィーバー177」に入って行ってしまったのだ。
 これでは、追跡ができない。パチンコ店は18禁だ。制服を着ている僕が入れるはずはない。店の周りをぐるっと回ると店には出入り口が表と裏の二か所あることが分かった。しかし、景品交換所と書いてあるところに近い出口は駐輪所の側にあるので、そこでボクシング雑誌を読みながら見張りを続けることにした。何度か警備員だかアルバイトだかが不審そうな目を僕に向けてきたが、目を合わせないで駐車場の端で雑誌を読んでいるふりを続けた。
1時間ほどが経過した。もし反対側の出口から標的が退店していれば、とっくにこの張り込みは意味をなさないことになる。不安になったが、まだ時間も17時過ぎと浅かったので粘ることにした。しかししだいに何も起きないこの張り込みに高志も飽き始めてきた。もしあの小太り眼鏡が出てきたら、尾行なんて面倒なことをせずに、いっそのこと真正面から自分の母親とどういう関係なのかと問いただそうとさえ思った。そんなことを自分にできるのだろうか? 考えるだけで汗が出てきたが、そうしなくては気が済まないくらいの時間をこの薄汚いパチンコ屋の駐輪場での張り込みに費やしている。
張り込みを続けるが、やはり一向に小太り眼鏡は姿を現さない。18時も近づいてきて、高志も我慢が限界になってきた。パチンコ店からは続々と客が出てきて、高志を睨みつける。彼は自分が何をしたって言うんだと思うが、出てくる客の方はその日の負けた恨みを誰にでもいいからぶつけたい気分なのだ。そんな目にあっていると高志は、もうあんな小太り眼鏡なんて、どうでもいいんじゃないかとさえ思えてきた。そんなふうに彼がしびれを切らして、あたりもとっくに暗くなってしまった時に、事は動いた。あの小太り眼鏡が高志の張り込みをしていた出口から出てきたのである。
 高志は一気に緊張を感じた。小太り眼鏡は、なにやら箱のようなものを持って出てきて景品交換所と書いてある窓の前に立った。やつがこちらに出てきたら、声をかけるんだ、と思うと高志の胸はさらにドキドキと緊張してきた。最悪でも無視されて終わりに決まっているんだ、と自分を落ち着かせながら男がこちらにやってくるのを待った。
 すると、なんと男はまたパチンコ店の店内に戻ろうと踵を返したのである。とっさに高志は駐車場の入り口からさらに歩みを進めて、出入り口付近まで小走りで向かった。小太り眼鏡がもう自動ドアをくぐろうとしている。それを追う高志。自動ドアの前まで来たときに、高志は腕に強い力を感じた。やばい、警備員に捕まった、と思ったら、黒のライダースライダースジャケットを着たよく分からない体格のいい顎髭を生やした男が、自分の腕をつかんでいるではないか。
「坊やが入っていいようなところじゃないで」と男は諭すように僕に言う。そんなことは分かっている。
ここは逃げるしかないと考えたが、男の腕をつかむ力が強くて逃げられない。
「なにやってんの?」
 男が質問を投げかけてきた。別に何でもないと答えるが男はしつこく質問を続けてくるし、腕を話してもくれない。いったいこいつは何者なんだろうか、あの小太り眼鏡と関係があるのだろうかと思った時に、男は「あの小太りに興味があるのか?」と聞いてきた。やはり関係者なのかもしれないと思った。だとすれば、このライダースジャケットの男から情報が引き出せるかもしれない。緊張でパンパンの頭で高志はそう考えた。
とりあえずついて来い、とライダースジャケットが言うので高志は言われるがままに駅の方へとついていくことになった。これはかなり危険なにおいがしたが、高志は捜査には危険がつきものだと思ったし、少なくとも何かの手掛かりが得られるかもしれないというかすかな期待にすがりついた。

第3話 間違われた探偵

「アメリカーノをショット追加で」と手慣れた感じで木崎がコーヒーを注文して、高志に注文を促す。高志はブレンドコーヒーを頼んだ。
「ショット追加って何ですか?」と高志が質問する。
「エスプレッソショットをコーヒーに追加することや。それで、コーヒーがぐっと濃くなるわけや。お前も試すか?」
 高志は首を振った。
 ターミナルホテル一階のカフェはガラス張りでとてもオープンだ。この雰囲気であれば、少年も警戒心を抱かないだろうと木崎は考えたのだ。
「ところで少年はあんなところで何をやっててん? あっ、俺の名前は木崎な。木崎学」
「あの、河野(こうの)と言います。ちょっと気になることがあって」と話し始めた高志に、木崎は「河野なに?」と下の名前を言うように促した。
「高志です」と彼はすぐに答えた。
 交渉においては、どんなに小さなことでも、まず自分の指示に相手を応じさせることは重要なステップであると木崎は何かの本か会社の研修で学んだことがある。
「気になることって、あの小太り眼鏡か?」
「知り合いじゃないんですか?」
「知るわけないやん」
 木崎の言葉を聞いて高志は落胆の色を隠しもしなかった。
「なんや、あのおっさん、そんなに大物なわけ?」
「そういうことじゃないんです。もっと個人的なことです」
 木崎はコーヒーをすすった。よく焙煎された、酸味の少ない苦みとコクの強い、彼好みのコーヒーだった。木崎は少年の学ランを見て、それが数駅離れたところにある進学校の制服だと分かった。
「個人的なこと?」
「そうです」
「俺には言えないような?」
「場合によります」
 木崎は少年の煮え切らない態度に苛立ちを感じ始めていたが、何かを話したそうであると感じてもいた。
「言える範囲で聞かせてくれよ。何か手伝えるかもしれない」
「なんでそんなことしてくれるんですか?」
「探偵の性ってやつかな」と木崎がおどけてそんなことを言って見せた。
 その時、急にグラグラグラと地面が揺れた。コーヒーカップからコーヒーがこぼれない程度ではあるが、その場にいた全員がこれは地震だと確信できる揺れであった。震度2か3はあるだろうか。
「最近、地震なんて珍しいな」
「そうですね」と高志が答える。
「じゃあ、俺が、お前の個人的なことに足を突っ込まない範囲で、あの小太りについて調べてやろうか?」
 高志はぽかんとした顔で木崎のことを見ている。そして確認のために質問した。
「木崎さんは本当に探偵さんなんですか?」
 木崎は爆笑した。それで、少し鼻水さえ飛び出した。これはいい。高志は俺が探偵であると本当に信じはじめているようだった。
「そう、私立探偵、木崎学さ」
 高志の目は輝いている。やはり信じてしまったらしい。こりゃおもしろいと木崎は思った。
「でも、調査費用なんて僕、払えないし」と高志は怖気づく。コーヒーをまったく飲んでいない。
「とりあえず、コーヒーを飲め」と木崎が促す。
「どうだ、うまいだろ」と木崎は聞くが、「うん」としか返事がない。コーヒーのうまさに感動する余裕もないのだろうか。
「代金はいい。子供から金をむしり取るような貧乏探偵じゃないんでね。あんな無防備なおっさんの出どころを調べるくらい俺からしたら何のことはないで」と探偵に間違われた木崎は調子に乗って言う。
「じゃあ、できればあの人と僕の母親の関係も知りたいんです」と高志の語気が強くなる。
「そりゃあちょっと厄介な話やね。それがお前の言う個人的なことなのか? お前の母親とやつは、その、なんていうんだ、定期的に会ってたりするんか?」
「いえ、一度六甲道のカフェに一緒にいるのを見ただけなんです」
「浮気か?」
「違うと思う。けど、わからない。でも僕には父はいないから」
「片親か?」
「はい」
「俺もだ、奇遇だな」
 木崎には高志がずっとぽかんとした顔をしているように見えた。世間話と言うものをしたことがないのだろうか。
「お前の両親は離婚したのか?」なんとなく片親同士と言うこともあって気軽に木崎は聞いた。
「いえ、僕の生まれる前に、いなくなるだか、死んだかしたらしいです」
「へぇ、俺んとこも似たようなもんやわ。うちの父親は俺が小さいころに蒸発しちまったらしいねんよ。今はどうしてるのかも知らへんねん」
 高志は相変わらずぽかんとした顔で話を聞いている。木崎は中学生には無駄なおしゃべりは通じないということを覚えた。
「いいだろう、お前の母親との関係もできる範囲で調べてやるよ。片親同士のよしみやな。けど無償でやるんだ。あまり期待せんどきや」
そう言い放って、木崎は自分のコーヒーをぐっと飲み干すと、千円札を二枚テーブルに置いて、「ゆっくりしていきな」と高志に告げて席を立った。高志はあっけにとられた顔をして、店から駆け出す木崎を見つめていた。
 木崎はJRの駅の中を人にぶつかりながらダッシュで抜けて、「フィーバー177」に戻った。相変わらずのパチンコ店の喧騒の中を良い台を探すようなふりをして小太り眼鏡を探した。しかし、小太り眼鏡はもうホールにはいないようだった。あいにく、今日はレイコちゃんがシフトに入っていなかったので、それ以上は確認のしようもなかった。
 木崎はひとまず通常営業に戻って、捜査は明日からにしようと決めて、いつものように「1985」にビールを飲みに向かった。
そして、食欲を満たし、帰りにエロDVDを借りて家で性欲を発散し、それから眠りをむさぼった。いつものルーティンをこなしつつも、木崎は少年からの依頼に、なにかいつにない活力を感じていた。

 翌日「フィーバー177」でパチンコを打ちながらレイコちゃんが来るのを待った。小太り眼鏡はさすがに朝からパチンコ屋に出てくるということはなかった。11時になりレイコちゃんがやってくると、早速、小太り眼鏡について聞いてみた。
レイコちゃんは少し考えるような様子だったが、思い当る節があるようだった。
「たぶんだけど、夕方くらいにスロットコーナーに来る人じゃないかなぁ。毎日じゃないわね。平日に1,2回って感じかな。ねぇ、何かトラブル?」
「そういうわけじゃないねんけど、ちょっと尋ねたいことがあってね」
「へぇ、なんだか木崎さん、探偵さんみたい」とレイコちゃんが浮かれる。
 しかし、レイコちゃんの観察は全くの的外れだった。木崎は一週間「フィーバー177」に張り込んだ。しかし、小太り眼鏡がやってくる様子など一向になかった。張り込んだ、とは言え、もともと毎日パチンコ屋にいる生活自体は普段と変わりはない。けれど、今の木崎にはパチンコを打つと言うだけではなく、小太り眼鏡の素性捜査という任務がある。だからいつもは夕方頃には店を出るのに、最近ではレイコちゃんのシフトが終わる19時をさらに過ぎまで店にいて小太り眼鏡を待った。彼にとってそれはいつものルーティンを狂わすストレスのかかる作業となった。
張り込みのせいで「1985」に行く時間が遅くなって、さらにそのせいでほかの客にいつものカウンターの奥の席を取られてしまっていることがあるのも気に障った。
 はやく出てこい小太り眼鏡。
 20時を過ぎて来店した「1985」の客入りは上々でカウンター席もひと席ずつあけて、カップルらしき連中がすでに何組も座っていた。しかたなく木崎はカウンターの向かいのテーブル席に腰を落ち着け「いつもの」と「オムカレー」を注文した。
 オムカレーはここの大人気定番メニューだ。テレビで紹介されたこともあるらしい。ここの「オムカレー」は実は「カレーオム」なのである。どういうことかと言うと、ピラフのご飯の上に薄口のカレーがかかったものの、さらにその上にオムレツが乗っているのである。だから中から順番的に正確に言えば「ピラフ、カレー、オム」なのである。一番上に載った半熟のオムレツをナイフで切るとキレイに卵がカレー全体にかかる仕組みになっている。本当はもっと早い時間に来て、マスターの実験メニューを食べるのが自分の特権であり、自分の食欲を満たすべき術であると思っている木崎だったが、客入りと時間を考慮すると、そのようなリクエストはできそうになかった。出てきたオムカレーはそれでも評判通りとてもうまく、食欲を満たすのに文句のない代物だった。食欲、性欲、睡眠欲と、夜の時間を欲に充てて木崎の夜は更けていった。

 高志の依頼を受けてからすでに1週間以上が経っていた。俺は「1985」でいつもの夕方の早い時間からいつもの席を確保してのみ始められないことにもイライラを募らせ始めていた。高志はとっくに俺のことなど忘れているか、期待を失ってしまっているに違いない。別にあの少年の母親と小太り眼鏡がどういった関係であろうと自分には関係ない。いつものパチンコ屋でパチンコを打っているだけでは全然進展のない捜査に俺ははっきり言って俺はもう飽きている。捜査終了だ。
 そうして彼が捜査のことを忘れようと張り込みの時間までパチンコを粘ることを辞めて17時ごろに景品交換所に向かうと、駐輪場にあの少年の姿を発見した。木崎はわざとそれに気づかないふりをして景品を交換して帰ろうとした。これで、もうこの件にかかわるのは終わりだ。素人が手出しすることでもないし、そもそも俺には何の関係もなかったことだと。
 その時である。
「やめてくれよ!」と少年が叫ぶ声が聞こえた。
木崎はとっさに少年に駆け寄った。すると少年がパチンコ屋の店員によって拘束されていたのだ。
「なにやってんねん?」と何でもない様子で木崎が少年に聞いた。
 すると、少年の代わりに何となく見知ったパチンコ屋の店員が答えた。
「この少年が毎日毎日、この駐輪場にいるのでとっ捕まえて警察につきだすところだったんですよ」
「僕は何もしてない」と少年がつぶやく。
「あーお前、バカだなぁ。わざわざこんなところで俺のこと待たんでも携帯に電話でもして来いや。そしたら前みたいに飯おごってやるやんけ」と木崎が一芝居打って見せた。
 パチンコ屋の店員は依然怪訝な顔で木崎と少年を見やっている。
「いや、こいつ俺のいとこで、いつも俺がパチンコに勝つと、たかってきよるんですよ」と木崎が嘘をついて、少年の腕をひいて、店員から少年を引きはがした。
「そういうことなら今回は目をつむりますけど、次見かけたら本当に警察を呼びますからね」とその店員は解せぬ表情のまま妃たちを解放してくれた。
 木崎は少年の腕をひいて人気のない路地へと導いた。
「なにしてんねん!」
「僕も捜査をしてたんです」と少年はじっと木崎を見つめて言う。
「お前、1週間あれからずっとはりこんどったんか?」
「毎日ではないけど」
「まったくあきれれたやつだな」
「木崎さんの捜査の方はどうなんですか?」
 木崎は聞かれて気まずい気分がした。ちょうどこちら側では勝手に捜査を打ち切ろうとしていたところだったのだ。
「そりゃ、お前こっちにもいろいろあるやんけ」と木崎が濁す。
「役立たず」
 吐き捨てるようにそれだけ言い放って少年は駅の方へとかけて行ってしまった。
 木崎は何ともしようがない気分に襲われて、むしゃくしゃした。安請け合いで引き受けた捜査をうまくいかないからと言って勝手に辞めようと思っていた自分に辟易とした。少年は補導されかけてまで捜査を頑張っているのだ。少年はそれほど真剣なのだ。少年に変な期待を持たせて悪いことをしたような気になってしまった。
二つに一つ。
もう一切この件に関わらないか、本気で捜査に打ち込むか。今のプー太郎の俺のことを頼ってくれる奴なんてあの少年しかいないわけだし、自分にできることなんて少ないかもしれないけれど、もう一度あの小太り眼鏡を追ってみようと思う。少しくらいはあの少年の気概に報いてやろうじゃないか。

 それから木崎は18時以降になると、三宮近辺のパチンコ屋を手当たり次第に歩き回ることにした。三ノ宮駅の北東側からセンター街のパチンコ屋まで10件近くのパチンコ屋を毎日4時間近くかけて行ったり来たりした。しかし、1週間それを続けても小太り眼鏡の姿は一向に見えない。人探しというものがこれほどに難しいものとは、俺は全く甘く見ていた。それでも自分を頼ってくれているかもしれない少年のために「1985」で食欲を満たすことを後回しにして木崎は捜査をつづけた。

 ある日などは、あまりに店内での木崎の様子が怪しく見えたようで、客にいちゃもんをつけられたりもした。
「にぃちゃん、なに人の顔じろじろ見てんねん。文句でもあるんかい?」とその泥だらけのつなぎ姿を着たにぃいちゃんは立ち上がって俺のことをにらんできた。おそらく当たりが出ていないのだろう。
「いえいえ、イイ台を探してるだけで」
「嘘つけや! 人の顔ばっかじろじろ見てからに気持ち悪い。どっかいけ!」
 なんで俺がこんな悪態をつかれなければならないのだと思ったが、致し方ない。神戸中のお店の中からスロットを打っているかもしれないあの小太り眼鏡を見つけなければならないのだ、すこしは木崎の行動が怪しく見えることもあったのだろう。それでも木崎はめげずに捜査をつづけた。他にやることがないというのも一つの理由だが、やはりあの少年に報いたいという気持ちが強かった。

その日は夕刻ごろに木崎がマイホールであるフィーバー「1985」を小太り眼鏡を探すために出ようとしたところをレイコちゃんに呼び止められた。
「ねぇ、木崎さん、まだあの小太り眼鏡を追いかけているの? もう2週間くらいたたへん? そういえば、センター街の『ラビットスロット』はのぞいてみてる? あそこは箱は小さいけど出るって評判がいいし、もしかしたら」とレイコちゃんがたれ込み情報を入れてくれるが、どうも信用ならない。『ラビットスロット』は老舗の個人経営の店舗でセンター肺の外れの雑居ビルの二階にある。けれど、よく考えると木崎は自分が基本的には大型店にしか足を運んでいないことに気付き、捜査ルートに『ラビットスロット』やその他の個人経営の小さなスロット店も加えることにした。そうなると巡回店舗数はゆうに10を超える。
 しかし、それがドンピシャだった。数日後『ラビットスロット』にあの小太り眼鏡の姿を発見したのだ。時刻は午後21時。木崎の空腹も限界に差し掛かったころである。
 小太り眼鏡はスロットを回しているがまったくメダルは出ていない様子である。この感じだと、そのうちに帰宅するか仕事場に戻るだろうと期待したら、案の定、男は席を立った。ここからが本格的な尾行の開始である。
 小太り眼鏡は『ラビットスロット』から新神戸方面に歩みを進めた。一定の距離を開けて木崎は後を付けた。見晴らしの良い道なので、楽にあとをつけることができた。このあたりは中高級マンションが多いエリアなので自宅に帰るのだろうかと思われたが、男はその途中にある商業ビルに入っていった。急なことだったので木崎は慌てたが、そのビルの最上階に歯医者が入っているのを見て、潜入することに決めた。
小太り眼鏡はエレベーターを待っている。木崎もその隣でエレベーターを待った。9階建てのビルで様々なオフィスや病院などが入っている。エレベーターが来たので、小太り眼鏡と一緒に乗り込む。木崎は何食わぬ顔を作ろうとしたが、どうしても変に硬い顔になってしまった。しかし、小太り眼鏡には尾行を気づかれていないようだった。小太り眼鏡が7階を押すのを見て、木崎は最上階である歯科クリニックの階、9を押した。エレベーターが7階の今村法律事務所にたどり着き小太り眼鏡は降りて行った。木崎はエレベーターに残り、用のないすでに閉じてしまっている9階の歯科クリニックで折り返して、その足で意気揚々と「1985」に向かった。
 捜査がうまくいったので、その日のヒューガルデンがうまかった。小太り眼鏡は今村法律事務所の人間であるということが分かった。これでひとまず、小太り眼鏡の素性を調べるという仕事は完了だ。そういえば、彼の帰宅を尾行して家族を持っているかどうかなども調べてみればよかったと後になって思ったが、同じエレベーターに乗り込んだ時に、実はかなり興奮していたのでそんな余裕はなかった。どうあれ依頼からかなり時間もたっているので、まずは依頼人への報告を優先しようと考えた。俺はもはや少年からの信頼を全く失ってしまっているから、ここで多少は名誉挽回といきたいところだった。
 高志の母親がカフェで弁護士と話をしていたということはどういうことなのだろう。ありうる仮説を高志から聞き出してみるのがいいように思えた。それが関係性を探るのにも手っ取り早いように感じた。
 マスターはステーキとガーリックライスを作ってくれた。3杯目のビールを飲み干して、彼はジャックダニエルズに移っていた。久々にタバコを吸いたい気分になったので、マスターからマルボロを買いそれをゆっくりと吸った。木崎はやはりタバコは火をつけるよりも、少し湿らせてその匂いを嗅ぐ方がよっぽどいい香りがすると思った。一本目はなんとなく煙を眺めながら吸い、2本目はコップについた水滴を含ませてその匂いを嗅いで楽しんだ。
そして、木崎はパチンコで勝った日よりも、今日の方が自分の気分がいいことにふと気付いた。

 学校の門の前にいつもの黒のライダースジャケットを着て立っている木崎を見つけて高志はびっくりしている様子だった。友人に何かつげて、高志は木崎の元へ来た。
「どうしてここが分かったんですか?」
「そんなものは制服でわかるだろ、あほが」
「そっか。それで何かわかったんですか?」
 高志は期待と不安を入り混じらせて、木崎の話を待っているようだった。
「とりあえず、どこか話の出来るところに行こうや」
二人は六甲道駅にあるコーヒーチェーン店に坂を下って向かった。神戸の坂は本当に急で、雪の積もった日などには転んでけがをする人が後を絶たない。女子大生などははなから山の上にある大学に徒歩で向かうことを諦め、知らない者同士でも同じ大学であればタクシーを取るくらいなのだ。そんな坂を下りながら、やはり高志はまた子分のように木崎の少し後ろを歩いた。

第4話 困惑する依頼者

 学校が終わるこの時間のコーヒーチェーン店は学生客でいっぱいだった。高志が店の中をぐるりと見まわすが、同じ中学の生徒はいない様子であった。大学生らしき客がわーきゃーと騒ぎ合っているのが目立つ。
木崎が「あの小太り眼鏡は今村修平と言う弁護士だ」と言って、口先を尖らせて紙カップからショット追加のアメリカーノコーヒーをすすった。
「弁護士?」と高志は驚いた声を出す。
「そう。今村法律事務所のオーナー弁護士だ」
 木崎は今村法律事務所についてホームページでいくつかのことをすでに調べていた。それであの小太り眼鏡こそが今村法律事務所のオーナー弁護士の今村であることは分かっていた。
「それでその弁護士と僕の母との関係は?」と高志は先を急いだ。
「しらん」と木崎探偵は悪びれずに言い放って、またコーヒーをすする。
木崎の方でもやはりそこまで調べをつけてやってきた方がカッコよかったよなと思っていたけれど、そんなそぶりも見せずにこう切り返した。
「それを調べるために、今度は俺から君にいくつか質問をさせてもらいたいねん。少年、君が持っている仮説について聞かせてくれへんか? あの男が弁護士だということも踏まえて考えてみてほしいねんけど」
「仮説ですか」
「そう、仮説だ」
 木崎は市場調査の会社で口酸っぱく言われていたことがあった。それは、調査において良い仮説を立てることが正解にたどり着く最大の近道であるということだ。仮説は多ければ多いほどいい。木崎はそれと同じことを試そうとしていた。多くの仮説を高志から引き出すことで、より迅速に、正しい捜査結果を得ようという試みだ。
「弁護士だなんて見当もつきません」と高志は言いながらも、いくつかの仮説を頭の中で並べていた。それはすでに何度も頭の中で反芻してきたものだった。だから、弁護士と言うキーワードとつなげる作業にはまだ至っていないものの、小太り眼鏡と母親の関係に関する仮説についてということであれば、すらすらと述べることができた。
「まず、考えられるとしたら、父親に関することです」
「やっぱり父親か?」
「いえ、それははっきりとはわからないんです。僕は父親の顔をしらない」と高志はうつむいた。
「いきなりいなくなったはずの父親が出て来て、なにかのトラブルがあって弁護士の世話になっているという線はありえるな」と木崎が言う。
 高志はこの仮説をあげておきながら、実はそれが有力なものだとは思っていなかった。なんとなく自分の父親はもう死んでしまっていると自分でも決めつけているところがあったからだ。
「僕が物心ついてから一度も父親から連絡があったなんて話は聞いたことがないので、今になってそんなことがあるとも思えないんですが」と自信なげに高志は付け加える。
「世の中、いつ何があるか分からんよ」と木崎は可能性としてそういった。
「まぁそうですね」と高志は気のない返事をした。
「例えばだ、もし、君の父親がなにかの罪を犯して服役していたとすれば、急にここに来て登場してきて君の母親に厄介をかけているとしても不思議ではない。どうだ?」
「わからないです、聞いたこともないです。父については、最初からいないものと思っていたので」
 俺は高志少年に同情した。自分も高志と同じ境遇で、生まれた時には片親だった。父親は母親が俺を妊娠した時に蒸発してしまったと聞いているが、それも本当の話か分からない。責任を放置していなくなった人間に対して、人は多くのことを語りたがらないらしい。けれど、残されたものは、特に何も知らないまま残されたものには、消えていなくなってしまったものへの気持ちの持って行き場がないのだ。
高志はもし今頃になって自分の目の前に父親が現れたとしたら、どうやって接することができるだろうかと考えていた。すると、木崎がまた質問を続けた。
「父親についてなにか分かっていることは本当になにもないのか?」と木崎はなるべく真剣な表情で、高志にとってナイーブであろうところをほりにかかった。自分も片親なのでそのあたりのことを、この年ごろの少年があまり話したがらないだろうことは百も承知していた。
「日本中を飛び回ってる人だったというようなことを母が少し言っていた気もしますが、あまり覚えていないんです」と高志は遠い記憶を思い出そうとしていた。
「あと事故か何かで死んだというようなことを親戚の人が言っていたような気がするんです」と高志は自信無げにつぶやいた。
 木崎はつくづく高志に同情した。木崎は自分の親戚が「あんたの父親は死んでいるのも同然だよ、あんなろくでなし」と酔っぱらった時に言っているのを聞いたことがあったが、同じようなものだろうと想像していた。
「俺の父親は」と木崎が語りだした。
「大酒飲みで、母親がキャバレーで働いている時の常客だったらしい。それで、うちの母親とできちゃったらしいねんけど、俺の母親が俺を妊娠する頃にはどこかへドロンしてたんだそうなんだよ。ろくでもないやつだと思わへんか」
「ええ」と急に意見を聞かれて高志は戸惑った。
 俺はなんとなく自分の父親の話で、高志を慰めようというつもりだったのだが、あまりうまくはいかなかったらしい。
「自分の子供がいるのに、消えちまうやつってのはどんなやつらなんだろうな」と自分の父親と高志の父親について俺はぼんやりと考えた。
「僕は父親について、どんな人かだったかとかあまり聞いたことがないんです」と高志が打ち明ける。
「たしかに、俺も、そういう話を母親とするようになったのは、大学に入ってからかもしれないな。なんとなく、自分も大人になってそういう話を聞く覚悟ができるようになったんかもしれん。そういう意味では、お前は今、その父親の姿に迫ろうとしてるんかもしれへんぞ」
「かまいません。もとから、いないものだと思っているので、プラスもマイナスもないんです」と高志は言って、しかし、やはり自分の父親について知ることが少し怖いことのようにも思えた。
木崎が話を変えた。
「ほかにはどんな仮説がある?」
「母親が何かトラブルに巻き込まれているというのはありえることかもしれません。あの男が弁護士だとなれば、それこそ母が職場でセクハラを受けているとか、そう言ったこともありえるのかもしれないと思ったんです」
「おもしろくはないが、それもありそうな線だな。お前の母親は美人なのか?」
「年齢にしては悪くないと思います」と少し気恥しそうに高志が答えた。
 木崎は何かを考えるような顔をしたがすぐにまた高志の目を見つめて質問を続けた。
「例えばの話なんやけど、やっぱり君の母親とあの小太り眼鏡が付き合っているという可能性はないのんか?」
「それはないと思います。カフェで二人を見た時にも、なにか真面目な話をしているように見えました。その弁護士さんはプライベートと言うよりも仕事で母親に会っているという印象を受けました」
「なぁ、少年。母親とあの小太り眼鏡の関係は調べる価値があるんかね?」と木崎は改めて高志に尋ねた。
「どういうことですか?」と高志は不審げな表情で聞き返す。
「つまりや、父親の件であれ、セクハラの件であれ、君の母親で解決できることのように思えるねんよ。俺が分からんのは、というか、気になってきたんは、なんでお前が、というか、俺らが、こうやってこそこそと君の母親と小太り眼鏡について調べてんねやろうかというそもそもの話や。いっそのこと、直接お前が母親に聞いたっていいんちゃうか?」
 高志は痛いところを突かれてしまったと思った。しかし、少しためらい気味ではあるが、正直に思っていることを答えた。
「僕にはできないんです。母が僕に言っていないということは、僕が母に聞くのも違うような気がするんです」
パッとしない返事に木崎は首を傾げた。
「わかった、わからんけど、わかったよ。けれど、そういえばセクハラの線は意外と薄いのかもしれへんねやったわ」とスマホを見ながら木崎は思い出したようにそう高志に告げる。
改めて小太り眼鏡こと今村弁護士についてスマホで調べた結果を思い返してみると、今村はいわゆるそれなりの弁護士で、会社や金持ちの顧問弁護士をするようなタイプであって、街のいざこざを処理するようなタイプの弁護士ではなさそうであることがホームページの取り扱い案件の例を見て確認できていたのだ。
「でも、母がパートしている会社が関わっていたりしたら、そういう大きな弁護事務所にお願いすることもあるんじゃないでしょうか?」と高志は頭を回転させる。
「一理あるな。冴えてるやんけ、少年。よし、セクハラの線はキープしておこう」
「あの、調査を続けていただくことはできるんでしょうか?」と高志は思い出したようにコーヒーに口をつけて、おそるおそるそう確認した。
木崎は今や、高志の切羽詰まった感じが身につまされる思いがしていた。母親を守りたいけれど、父親の話には踏み込めない。さぞ、もどかしいことだろう。俺、自身、自分の父親の話は、大人になるまでほとんど母親とはしてこなかった。つまり俺は高志にとても同情していたわけだ。
「分かった、けどもう少し時間をくれ。あの弁護士と君の母親を結ぶ線を見つけなきゃならん」
「はい」と言う高志の表情は曇っている。なんだかわからない良くないことが起こりそうな事態に対する不安の表情だ。
「ほかに何か俺が知っておくべき情報は?」
「知っているかもしれませんが、母が働いているスーパーはこの駅の近くのモールにある『六甲マート』です」
「わかった、それは役立つ情報だ。ほかには?」
「母親の写真はいりますか?」
「あると助かる」
 ふたりは携帯のアドレを交換した。高志は、木崎に母親と自分が映っている画像を送った。中学の入学式の時に取った写真だった。木崎はそれを見て、高志の母親が美人と言っていい部類だと再確認し、セクハラやストーカーの線も意外と強いのではないかと改めて思った。
 そのあとは、二人ですでに出そろったカードの再確認作業をして、コーヒー店の前で別れた。アドレスを交換したので、高志は自分からも木崎に連絡できるようになったことに少し安心感を覚えた。コーヒー店から出てくる二人は、親子にも見えず、友人にも見えず、やはり親分と子分と言うのが一番似合った。
去り際に高志少年が木崎に詫びを入れた。
「あの、この前はすいませんでした。役立たずなんて言ってしまって」
 高志はうつむいている。
「まぁ、気にすんな。こんだけ時間がかかって分かったことがこれだけってのは、確かに探偵にしちゃ役立たずだもんな」と言って木崎は豪快に笑った。笑いながら、あの時は本当に捜査w放り出すつもりだったことを思い出して、むずがゆい思いがした。

 高志が家に帰ると、母親が夕食を作っていた。いつもの風景だ。けれど、高志はなにか後ろめたいような感情を覚えた。母親に隠れてこそこそと調べているせいと言うのもあるが、今の状況を直接母親に聞いて、その助けになれない自分への歯がゆさが強かった。かと言って、母が話したくないようなことを無理やり引き出すという気にも、やはりなれなかった。
「今日はジムへはいかなかったの?」
「うん、勉強してた」と高志は嘘をついた。なんでもない嘘なのにさらなる後ろめたさが付きまとう。早く真相を突き止めたいという気持ちが強くなる。では、やはり直接母親に聞けばいいものをと思うが、また怖気づく。この繰り返しだ。
「明日、母さん夜遅くなるから自分で何か食べてね」
「なにかあんの?」
「仕事が終わった後に、会議みたいのがあって何時に終わるか分かんないのよ」
高志はピンと来た。
今の頭の中ではすべてのことがあの今村とかいう小太り眼鏡と繋がってしまう。明日、自分の母親が小太り眼鏡に会うかもしれないと、すぐに木崎さんにメールを打った。メールを打ちながら僕はふと不思議に思った。間違いなく自分の母親の周りで今村弁護士という謎の人物を交えて何かが起こっているはずなのに、自分の母親はというと、普段と何ら変わった様子をまったく見せていない。母親とはそういうものなのだろうかとも思った。へたをすると自分や木崎が思うようななにか父親にかかわるようなことや事件が起きたわけではないのかもしれないと思わせるほどの自然さが母親にはあった。やはり母親の周りでなにかが起きているなんて言うのは僕の幻想かもしれないと思うと木崎さんに申し訳ない気がした。

 翌日、学校では、特別授業のボランティアの振り返りから出てきたアイデアを進める授業が行われた。その中でも、自分たちが神戸に住むということもあって、災害ボランティアについて研究したいという声が強くなった。今でも東日本大震災関連のボランティアは、いくつか募集があるというようなことを熱心なクラスメイト達が持ち寄ってクラスに発表していた。被災地に送る物資を集めるボランティアやそれらの荷造りなどだ。がれきの処理や人命救助などのはでなボランティアは、もう今や募集されてはいないのが現状だった。何人かの生徒はそれにがっかりしている様子だった。
僕はやっぱり、ボランティアなんて自己満足のナルシストがやることなんやないかという偏見を拭い去ることができないでいた。そしてそのうちクラス会議そっちのけで、自分も母親を尾行しようかどうかと真剣に考えていた。いち早く真相が知りたいと思ったからだ。どうにかそれを木崎に頼もうかと思うが、邪魔になると、断られるのがオチだろうとすぐに気付く。とにかく今は木崎探偵を信じて待つしかないのだろうと高志は腹をくくった。
クラスでは多数決により、阪神大震災と東日本大震災の時にどのようなボランティア活動が行われたかを研究して発表する授業が行われることが決定した。

 授業が終わり高志は今、縄跳びとシャドーを終えて、パンチボールを打ちながら、ミット打ちの順番を待っている。パンチを打っていれば色々な邪念を吹き飛ばすことができる。これは成績が悪かった時も友人とケンカした時も同じだ。
高志はボクシングを中学から始めた。小学生までは野球をやっていたが、入った中学にボクシング部があると聞いて、すぐに興味が沸いたのだ。高志は強くなりたいと思っている。身長が低いのがコンプレックスなので毎日牛乳を飲むが、あまり効果はなさそうだった。そのことでも父親を恨む。きっと父親はチビに違いない。
 木崎は高志の思う理想の大人とは少し違うが、彼の思う強い大人の部類には入っている。一人で生きているし、背が高く、肩幅も広く筋肉質に見えた。いつもいかついライダースジャケットを羽織っているし、なにより私立探偵だなんて見るのは初めてだったし、カッコいい肩書きだと思った。なぜ無償で捜査してくれているのか分からないが、もしかするとそれが彼のスタイルなのかもしれない。でも、もしかするとこの捜査が終わって、母親に捜査費用の請求がいくのかもしれないと思うと少しぞっとしたが、そのような狡猾なイメージを高志は木崎に対して抱いてはいなかった。パーマのかかった長い髪と顎髭が不肖な印象を醸し出すが、高志には木崎がなぜか善人のように見えた。それに、今のところ無償でいろいろと調べてくれているのだ、疑うのは失礼だと思った。
 ミット打ちの順番が回ってきて、顧問に呼ばれ、副会長とのミット打ちが始まった。距離感を合わせながら、少しずつリズムを刻む。リズムに乗ってきたところで副会長がジャブを入れてくるのをかわす。3分を2ラウンドして終了した。実戦形式のスパーリングトレーニングがあるかと思ったが、その日はジムのお客さんが多くなってきたので、なしになった。時間はまだ18時前だったので、僕は学校の外周をランニングしてトレーニングを終えることにした。走りながら、木崎探偵が何を突き止めてくれているのだろうかと気が気でなかった。
11月も末のこの時間はすでに暗くなってきているので街灯を頼りに走らなければならない。高志は走りながら汗と一緒にもやもやした気持ちもが流れていくのを感じた。

第5話 引退を考えるママ

 木崎洋子は「スナック洋子」のオーナー―ママであり、木崎学の母である。神戸三宮東門街通りの一角の雑居ビルに入っている「スナック洋子」は30年続く老舗のスナックということで街では少しは名が知れている。とはいえ、店自体はどこにでもあるスナックとそれほど変わらない。売りと言えば、週末にジャズバンドを呼んで生演奏をやっているということくらいだろう。平日は、普通のスナックで、お客さんがカラオケをしていることもあれば、ただ静かに飲んでいることもある。洋子のオープンな人柄からかいろいろな客層が入り混じって出入りしているのだ。
 洋子は他の店員が来る前に店にやってきて、開店の準備をしていた。カウンターがL字型に8席、4~6人掛けのテーブル席が3つ、そして小さなステージが一つと言うこじんまりとした店の掃除を丁寧にこなしていると、バイトのみっちゃんがかわいらしいお団子頭でやってきた。みっちゃんは女子大生で幼稚園の先生を目指している。もともとは誰かが連れてきたお客さんだったのだが、今では店の人気のバイトさんである。みっちゃんの担当はドリンクとお客さんの話し相手だ。
「洋子さん、今日、村上さんたちが来てくれるって!」とみっちゃんが常連の来客を教えてくれる。村上さんは週末にジャズバンドが入る時にはほとんど必ずやってきてくれる常客だ。いつも違う仲間を店に連れて来ては客にしてくれるので、店としてはありがたい限りだった。
「ねぇ、みっちゃんはなんで幼稚園の先生になりたいの?」と洋子はテーブルをアルコール消毒して拭きながら、なんとなく世間話を振った。
「私子供が好きなんですよ。もともと私3人姉妹の長女で、妹たちの世話をしてきたからなんとなく、そういうの好きなんです」
「あら、みっちゃんって長女なの?」
「そうですよぉ、見えないですか?」
「なんとなく人懐こいから上におねぇさんかおにぃさんでもいるのかと思ってたわ」と洋子は素直に思っていたことを述べる。
「それ、よく言われます」とみっちゃんが笑う。
 するとそこへ、もう一人のバイトの綾子ちゃんが到着した。
「すいません、遅くなりました」と長い髪が頬に張り付いたのを払いながら頭を下げる。
「何言ってんの、開店までまだ5分はあるわよ」と洋子が笑う。それに、17時の開店から1時間はまだお客が入ることは少ない。
「はい、でもみっちゃんももう来てるし」
 言われたみっちゃんの方は、特に洋子を手伝う訳でもなく、冷蔵庫の中身をなんとなくチェックしていた。
「そうだ、綾子ちゃん。今日は日野さんとこのバンドが来てくれるから、井上さんたちも来ると思うのね」とここまで洋子が言うと、綾子が「マルボロの赤いやつですね!」と察し良く続けた。
「そう、タバコを用意しとかなくちゃ。切れちゃってるのよね。だから、今からいくつかおつかいをお願いできる?」
「洋子さん、オレンジジュースも買っといたほうがいいと思います」としゃがんで冷蔵庫を見ていたみっちゃんが洋子に声をかける。
 洋子はよっこらしょという感じで、テーブルを拭いていた腰を上げて、カウンターテーブルのメモ帳を取って、買い物リストを作って、それを綾子ちゃんに渡した。洋子も今年で58歳だ。仕事柄、年齢を感じさせないように、働いているが、膝が年齢を重ねるにつれて痛み出すようになっていた。
「30分くらいでもどりますね」とリストを持った綾子ちゃんがきびきびと支度をして、買い出しに向かった。
綾子ちゃんはフリーターで基本的には毎日スナック洋子を手伝ってくれている。もともとはキャバクラで働いていたらしいが周りと合わずにやめて、人の勧めでこのスナックで働くようになったのだ。とても仕事ができるので洋子はとても頼りにしていた。
 18時を過ぎると、徐々にお客さんが入り始めてきた。5千円で焼酎とウイスキーは飲み放題。ライブのチャージが2千円。それでも常連客がしっかりとついてくれているので、なんとかぎりぎりやっていけているという具合だ。
 お客さんたちが少しずつ入ってくる中、ハンチング帽をかぶった日野とそのバンドメンバーがやってきた。軽くあいさつを済ませると、ギターでバンドマスターの日野がステージのセッティングを始める。ステージは19時半からだが、洋子はこの18時半からステージが始まるまでのお客さんが入りつつ、バンドがステージのセッティングをしつつという風景が好きだった。まるで文化祭が始まる前のワクワクするような準備の時間。店のオーナーだからしっかりしないといけないのにと思いながらも、洋子は子供のようにウキウキした気分になっている。
 ステージが始まると日野さんのMCに客が注目し、店が静まった。タバコの煙が天井のライトにくゆっている。みっちゃんがせっせとお客さんのグラスの空き具合を見ては、お酌をする。綾子ちゃんはキッチンでおつまみの準備をしてくれている。日野さんのMCでお客さんが笑い、その笑い声の中で曲が始まる。誰もが聞いたことのあるスタンダードなジャズのナンバーを何曲か。そして、ミュージカルの楽曲もジャズアレンジで何曲か。
客たちは思い思いにジャズの演奏を楽しみ、お酒を楽しんでいる。日野さんのMCはそのしっとりとした演奏とは違って、とてもユーモアがあって、まるで漫談家のようだった。
「ジャズというのは自由な音楽なんです。一定の約束事の中にいれば、あとはなにをしてもいい。もはやその決まりごとの外へ出て行ってしまっても面白がられる、そんな音楽だと思っていただいて構わないと思います。そんなジャズを私も30年近くやっておりますが、なぜでしょう、私の妻だけは私のことを自由にしてくれないようです。オール・ザ・シングス・ユー・アー」
 心地よいバスドラムの音から曲が始まる。

 洋子はこの店を自分の城のように思っている。何があってもここを守ろうと思って、経営がきつい時もなんとか踏ん張った。そして、常連さんたちの支えもあって今のアットホームな環境が出来上がった。けれど、洋子はこの店を手放そうと考えていた。そのことを考えると、仕事中なのに、洋子の瞳はしっとりとうるんでしまう。誰かに譲ることも考えたが、すべて売り払って、自分はパートのおばさんにでもなろうと、そう考えていた。
バンドの3回目の最後の演奏が終わる23時頃には、お客さんも回転して、深夜組のお客さんになっていた。ここからは日野とバンドメンバーたちもただのお客さんになる。残った客はほかに2組だけだったので、洋子は早めに上がるみっちゃんに、帰り際に店の看板を下げるようにお願いした。ここからはよりアットホームな時間の始まりだ。洋子もウイスキーを飲み始める。
 そして、洋子が店を閉じようと思うという話を常連さんたちに打ち明ける。皆が口々にやめないでほしい、続けてほしい、と懇願してくれた。そのせいで、洋子はしばらく号泣してしまった。洋子はこんなおばさんが涙なんて流してみっともないと思ったが、涙はとめどなかった。こういう時に、綾子ちゃんはとても役立つ。すぐにハンカチを洋子に渡して、気を取り直すようにお客さんたちのグラスにお酌をする。そうしているうちに洋子も落ち着きを取り戻す。
「私ももう若くないからね」と洋子は気丈に言う。
「そんなことないよ、まだまだ若いよ、ねぇ」と日野が明るい声で言ってくれる。皆が口々に賛同してくれる。
「僕だってジャズを辞めてタクシーの運転手さんにでもなろうと思ったこともあるけど、好きなことだから続けてるんだよなぁ。でも、自分の腕がなまってきていることも分かっているからその辺の葛藤があるのも事実なんだよなぁ」と日野が酔っぱらった時にそうなるように、独り言のように話し始める。日野なりに洋子への理解を示そうとするようだった。
「でも、それは結局、洋子さんが決めることだからねぇ」と半分諦め気味に、しかしやはり寂しそうに日野はまたつぶやいた。綾子ちゃんが日野のウイスキーグラスに氷とウイスキーをつぎ足す。甘い香りがふわっと舞った。
しばらくはまだ店を続けるから大丈夫だという洋子の言葉に皆も一応は安心したらしく、閉店時間の2時になるころには皆が陽気な酔っ払いとなって店を後にした。日野とバンドのメンバーの何人かはまだ飲み足りないようで、島田さんのお店に行くらしかった。洋子も誘われたが、やんわりと断った。
店を閉めて掃除をしていると綾子ちゃんが洋子に質問をした。
「こんなこと聞くのあれなんですけど、なんでお店やめちゃうんですか?」
「この店を守らなきゃって使命感が私の中で弱くなっちゃったのね。そのうちにちゃんと説明できると思うんだけど、分かってもらえると助かるな」
 綾子ちゃんは分からないなりに、軽くうなずいてそれ以上は質問をしなかった。綾子ちゃんも洋子に店をやめてほしくないと強く思っていた。洋子もそれを感じていた。
けれど洋子は、あの人から譲り受けたこのお店をちゃんとここまで守ってきたんだからもういいじゃない、と自分を許してあげたい気持ちに心が揺れていた。

 翌日の昼前に洋子は息子の学に電話を掛けた。
「もしもし学。ちょっと話があるんやけど」
「なに?」と電話の向こうから、洋子は眠たげな声を聞いた。
「あんたまだ仕事見つけてへんの?」
「だから言ってるやん。貯金はまだなんとかあるんやからしばらくは心配せんでええって」
「せやけど、そんな生活してたら、ちゃんとした生活に戻れへんようになるで」
「分かってるって。でも、今はなんとなくこうそういう気分じゃないねん。俺もいろいろ考えてるから心配せんでええって」
 これは木崎が会社を辞めてから、洋子との間でもう何度となく交わされてきたやり取りである。洋子も学が会社を辞めた時は、働きづめだった息子にも休みが必要だと思っていたが、それが3カ月を過ぎたあたりから不安を感じるようになってきた。自分の息子が廃人になるようなことを母として許してはおけないのだ。
「で、話ってなんなん?」と面倒くさそうに木崎が言う。
「店、閉めようと思うねん」と洋子が言うと、しばらく受話器の向こうで沈黙の時間が流れた。
「なんでやねん。あんなに大事にしてた店やのに、急になんやねんな?」
「急になんやねんって、お母さんもいろいろ考えてるんやで」
「それにしても。だって……」と木崎は言葉を詰まらせる。
「まぁ、そのうち閉める方向で考えてるってだけで、まだ売り先も何も決めてないからとりあえず報告だけね」
「それで母さんはそのあとどないするん?」
「パートでもなんでも、あんたと違ってちゃんと働いて生きて行くつもりですよ」と洋子は皮肉をこめて言った。
「うん、とりあえず分かったよ」とひとまず木崎は了承し、ふとこんな質問を母親に投げかけてみた。
「ねぇ、おやじってどんなひとだったの?」
「なんで?」と洋子は間髪入れずに驚いた声で言う。あまりもの驚きように木崎も驚かされた。
「いや、なんとなく」
「なんとなくってあんた気持ちの悪い」
「いや、別にええねん。関係ない話やったわ。ほな、まぁまた店閉める段取りとかホンマに決まったら一応、俺にも教えてや」と言って木崎の方から一方的に電話を切ってしまった。
 
 その日、木崎はパチンコ屋に顔を出さなかった。高志から母親が動くかもしれないというメールを受け取っていたので、その日はすべてを捜査にあてるつもりでいた。
 遅い昼食を中華料理屋で取っていた木崎は自分の母親との電話のことを考えていた。さすがに母親の様子がいつもと違うことに気付かされた。何かきっかけがあったのだろうか。男でもできたのか、膝の痛みが限界に来たのか、それとも何か自分の知らないようなことがあるのか、気になることではあるが、母親がそう決めたのなら自分が口出しできることでもないと木崎は考えていた。どこの家も母親の考えていることってのは分からないもんだなと思う。けれど、あれだけ、大事にしていた店を手放すのだから、それ相応の理由があるに違いない。それこそ、俺だって母尾彩に探偵をつけて調べさせたいくらいだ。いやいや、それこそ、自分から母親にちゃんと聞けばいいじゃないかと思い再び携帯電話を見るが、やはりなんとなく今はそれを母に聞くタイミングではないような気がした。自分のしていることが高志と同じだなと思い、木崎はふっと笑った。
いいだろう、高志少年、お前の方の謎は俺が解き明かしてやろうじゃないか。俺はどういうわけかまた不思議な活力を感じていた。
 餃子2皿とから揚げを焼酎の水割りで平らげて、さっそく高志から受け取ったメールを再確認した。
 高志の母、こずえがなにやら夕方以降に動くかもしれない。それは本当にただのスーパーマーケットでの会議なのかもしれないし、嘘なのかもしれない。もし本当に高志の母こずえと今村弁護士の会合が行われるのだとしたら、上手いこといけば話の内容を立ち聞きすることで一気に真相に迫れるかもしれない。空振りだったとしても一日を消費するだけだ。そうなれば、今度は今村弁護士の方に当たってみればいいだけの話だ。
木崎は中華料理屋の勘定を支払い、今日の張り込み先である、高志の母親が働く「六甲マート」へと向かった。
  
第6話 運のいい新聞記者

「六甲マート」は何の変哲もないスーパーマーケットだった。客層も商店街の中とあって、昼のこの時間帯は主婦やお年寄りが中心だ。木崎は、高志の母こずえの張り込みを開始した。こずえと今村の会合があるとすれば夕方以降のパートが終わる時間以降のはずであるが、張り込みは昼から始めることにした。どのみち一日中することのない木崎は、なにかこずえの周辺で異変があるかもしれないとその様子を観察しようと考えたのだ。
 しかし、それは空振りに終わった。ただただ平凡なスーパーマーケットの風景を観察する時間ばかり続いた。木崎がこずえの勤務姿を観察していた感じではセクハラの類を受けている様子もなく、レジや仕出しなどさまざまな業務をきびきびとこなしているようであった。そうなるとあの弁護士がこずえと接触しているのは、高志の父親の関係の話なのだろうか。
 木崎は勤務中のこずえを張ることを一時通団して。コーヒー屋でこずえのシフトが終わるまでの時間、本でも読むことにした。本の中の探偵はタフで狡猾だった。それにくらべると、木崎は自分がなんとも平和でぼんやりとした探偵であるなと思った。
 夕方6時を過ぎてスーパーから姿が見えなくなったこずえが、木崎が事前に調べていたスーパーの裏の段ボール箱がたくさん積み重なった陰にある通用口から出てきた。
ビンゴだ!
やはりこずえは、今日はスーパーマーケットの会議などではないのだ。このラッキーに木崎の胸は高鳴った。けれど、かならずしも今村弁護士との接見とも限らない。ただ友人とちょっとお茶をするだけなのかもしれない。でも、そうであれば、高志に嘘をつく必要はないだろう。
 彼女の足は六甲道駅へと向いていた。そしてそのままJRに乗って彼女が下りた先は三宮だった。これは今村の事務所へ行くのではないかと木崎は思った。しかし、それでは二人の関係を再確認するだけで、それ以上に探る手立てがなくなってしまう。事務所の中での会話までは盗み聞きできないだろう。できることならば、高志が見たように、どこかのカフェで会合を持ってほしいものだと期待していると、これもまたドンピシャだった。木崎は自分に運が向いてきているのを感じた。それはパチンコで連チャンをたたきだしているときなどよりよっぽど興奮するものだった。
こずえの足はJRから交差点を西に渡り阪急方面へ、そして今度は山側に進み、「グリーンカフェ」へとたどり着いた。「グリーンカフェ」は北野坂の山側にあるはやりのカフェだ。
 木崎がまず彼女が店に入るのを見送った。もし中に今村弁護士がいれば近くの席を陣取って盗み聞きの開始だ。それで、事の真相をすべて明るみにすることができる。案外探偵なんて簡単じゃないかと木崎は思いつつ、しかし、そうもうまくも行くものだろうかとも思いながら、道路を渡った。観葉植物で覆われた店内に今村弁護士とこずえの姿が見えた。木崎はつくづく自分の運に感謝した。
 その時である、木崎は自分の腕がぐっと後ろに捩じられるのを感じた。あまりの急なことに驚き、痛さを感じることも、振り返ることもできなかった。なにかやばいことが起きたことは分かる。しだいに腕の痛みを感じてくる。振り向こうにも腕が固められて振り向けない。しかも、腕を抜こうともがけばもがくほどに痛みは強くなった。これってドラマとかで刑事とかがやるあれじゃないかと、俺は恐怖におののいた。
「ちょっと兄ちゃん付きおうてーな」とわざと、ドスを聞かせた若者の声が聞こえた。雰囲気から察すると、その隣にももう一人誰かがいるようだった。木崎は仕方なく、腕をひねられたまま、彼らに促されるままにひと気のない路地裏へと連れていかれた。
「なにをこそこそと探偵ごっこしてはるんですか?」と腕を封じていない方が言う。やはり相手は二人だった。木崎から二人目の姿は見えないが、その高い声からするとチビに違いないと思った。それか、かなり若いのかのどちらかだろう。木崎が答えないでいると腕を押さえつけている(たぶん)大きい方が彼の腕を強くひねって、その顔を路地裏のビルの壁に激しく押し当てた。俺はその衝撃にうめき声をあげた。
「どこの新聞記者さんでっか?」と(たぶん)チビが質問してくる。彼らは俺のことをなにと間違えているのだろうかと木崎の頭はフル回転する。
「なぁ、にいちゃんよ」とこんどは(たぶん)でかい方が木崎の足元すくうようにキックを入れる。木崎はそのまま不恰好に地面に突っ伏し、倒れる時に捩じられた右ひじが限界を超えて曲がるのを感じた。痛い。
倒れて痛みに呻いている俺を覗き込んでいるのは、明らかにチンピラ風の男2人だった。チビはやはりチビだったg、でかい方はその低い声からするとそれほど大きくはなかった。けれど体格は格闘技をしているのだろうと思われるほどしっかりしている。自分がかなう相手ではないと木崎は悟った。
「いったいなんなんですか?」と木崎はようやく口を開いた。
「それはこっちが聞いてんねん」とキラキラした金色のアルファベットで何か書いてある黒のスウェットの上下を着たチビが高い声で言う。やばい状況にあることを木崎は重々に承知しているのだが、どうにも状況が滑稽に思えた。
「俺はコーヒーを飲もうと……」と木崎が言いかけたところで、横腹にチビのキックが入った。木崎の息が一瞬止まったが、ダメージはそれほどではない。ちゃんと加減をしてくれているようだった。
「そんなこと聞いてへんねん。何をこそこそやっとんねんって聞いてねん」とさらにチビが続ける。でかい方はうつぶせに倒れる木崎の腕を、慎重にねじ上げている。
「俺はストーカーとかそういうのじゃないんですよ」と木崎はあきらめて、こずえを尾行していたことをほのめかすように告白した。またキックが横腹に入った。
「なにをとぼけたこと言うとーんねん。お前のやっとーことなんて全部お見通しやねん。どこの記者さんか知らんけど、これ以上、この件に足ツッコまんどいたほうが身のためやで」
 そう言ってチンピラたちがニヤニヤと木崎を見下ろしている。木崎はチンピラたちの言っていることの意味が分からなかったので、なにも言うべきことが見つからなかった。こいつらは何かを勘違いしているのか、それともこずえと今村弁護士の関係はそれほどにやばいものなのだろうか。
「また足ツッコんでんの見たら、その時はわかっとーやろうな?」とチビが木崎を踏みつける。
俺はお気に入りのライダースジャケットが汚れることにひどい苛立ちを覚えるが、今、反抗するのは絶対に良い手段ではないと思い、なんとか無抵抗を貫いた。
「わかった」と木崎が倒れた状態で、不恰好に視線を上げて二人のチンピラに向けてつぶやく。
「なら良いんだ。この件をバラして幸せになるやつなんていなんだ。お前も分かるだろ。街を愛そうぜ」と決め台詞のようなことをチビが言った。木崎には全く意味が分からない。
「行こうぜ、ヤス」と先からずっと木崎の腕をねじ上げていたでかい方が言った。人が来たようだった。そうして、チンピラどもは駆け足で路地から去っていった。
 木崎が口に溜まった唾を吐き出す。血は出ていないようだった。顔を殴られたり蹴られたりしなくてよかったと、ほっとした。寝ころんだまま木崎は腕の痛みを思い出した。先ほどまでは、緊張と混乱で痛みをほとんど忘れていたが、壁に背をもたせかけて、落ち着いてくると、じわじわと腕と腹に痛みが感じられた。
夕刻、もう日が落ちた三宮、人々がぎりぎり街に繰り出す前の時間、木崎は路地裏のコンクリートの上でウジ虫のようにうねうねとその痛みに耐えている。こういうとき本の中の探偵たちなら気のきいたセリフの一つでもチンピラどもに飛ばしていたのだろう。例えば「お前たちがいなければこの街はもっときれいになるのにな」などだろうか。しかし、そんなセリフを吐いたところで、それの及ぼす結果はさらなるキックの応酬だろうと思うと、まさかそんなこと言えっこないなと思う。そもそも襲われた俺の頭にそんな気の利いたセリフを吐く余裕など微塵もなかった。
そこにまた新たな足音がやってきた。木崎はそれが新たなる追手ではないことを祈った。
「大丈夫か?」と先よりだいぶ年を取った声が聞こえた。見ると50歳手前くらいであろうかという髪をオールバックにしたさっきのでかい方よりもさらに長身の男が手を差し伸べてくれている。180㎝ある木崎よりもさらにでかい。木崎は痛くない方の左腕で、差し出されたその男の腕にすがってやっと腰を上げて立ち上がり壁にもたれた。
「あんたはどこの記者さんだい?」とオールバックが質問してくる。
「なんでみんな俺のことを記者だっていうんですか?」
「違うのかい?」
「違います」
「まさか」
「その、まさかなんです」
「どういうわけかしらないけれど、お前がいなかったら俺が締め上げられてたかもしれないんだ。だから礼を言うよ」とオールバックが笑顔を見せた。
目じりのしわがいたずらっぽく笑うが、ごつごつとした手や茶色のトレンチコートを着た風貌から、こいつはなにやらただものではないという雰囲気を木崎は感じ取った。もしかして本物の探偵か? それとも警察か?
「事情を聞かせてもらおう。歩けるか?」
 はい、と答え、木崎はオールバックの後ろに着いて歩いた。木崎の頭から高志やこずえのことなど今やさっぱりと消えていた。
ふたりはJRと阪急の間の交差点にあるステラビルのバー「Esprit」に入った。この時間だとまだ客入りはほとんどない。もともと落ち着いたバーだが、それがさらに落ち着いて見える。一番奥の影になっているような席に向かい合って座ったが、木崎は思いなおして、すぐにトイレに行きライダースジャケットの汚れをトイレットペーパーで拭き取り、軽く水で顔を洗った。席に戻るとオールバックはちゃんとまだいた。ふたりともビールを注文した。木崎は右手の痛みを我慢して、乾杯した。
「真鍋だ。一応、神姫デイリーの記者という肩書を名乗っているが、社員ではなくてフリーでライターをやっている」
そう言ってオールバックは木崎に名刺を差し出した。木崎の前に本物の新聞記者が現れたのだ。真鍋はうまそうに眼をつむってビールを飲んだ。彼は二口でそれを飲み干して、すぐに2杯目を注文した。木崎は腕が痛むので、ちょろちょろとしか飲めなかった。そして、木崎が自己紹介を促されたので、しかたなく本当のことを言った。嘘の自己紹介など持ち合わせてはいないのだ。
「プー太郎の木崎学と言います」
「はぁ?」
「はい?」
「プー太郎?」
「そうです」
 真鍋は、これは傑作とばかりに大笑いしながらビールを飲んだ。
「てことはなんだ、お前は本当にこの件に関係なくて、とばっちりでチンピタどもにどやされたってわけか。こりゃ傑作だな」
 真鍋はとても楽しそうだった。
「いったいあいつらはなにものなんですか?」
 木崎にはわからないことだらけだった。
 真鍋は2杯目のビールが来るとミックスナッツとサンドイッチを注文した。木崎にも注文を促したが、彼は首を振った。何かを食いたいような気分ではなかったのだ。
「知りたいか?」
「まぁ、はい。一応」
「復讐でもする気か?」と真鍋が不敵な笑みを浮かべる。
 木崎はこの真鍋のことを信用していいものかと考えた。けれど、名刺はちゃんと新聞社のロゴがある本物のように見えたのでひとまず信用することにした。
「まさか復讐だなんて。でも自分がなに巻き込まれているのかは知っておきたいです」
「あいつらは、おそらく遠藤智明議員の手先だな」
「遠藤って、あの最近、亡くなった大物政治家の?」
「そう、神戸の震災復興の立役者であり、神戸いや関西一の資産家でもあった遠藤智明」
「それとあんなチンピンに関係があるんですか?」
「もちろん直のつながりじゃないだろうさ。間に何層かレイヤーがあっての話だろうが、ああいう連中をよこすくらい遠藤家なら簡単にできることだろうな」
「それがなんで僕みたいなプー太郎のことを懲らしめる必要があってたんですか? 世の中からプー太郎を一掃しようとでもしてるんですか?」
 真鍋はまた笑った。よく笑う男だと木崎は思った。
「それは、お前が今村弁護士のまわりをちょろちょろしてたからだ」
「あの弁護士がどうしたって言うんですか?」
「遠藤議員が亡くなって、その顧問弁護士の今村が日本中を駆けずり回っている。どう意味か分かるか?」
「見当もつきません」
 真鍋はあきれた様子で木崎を鼻で笑い、サンドイッチに齧り付いた。
「遺産相続だよ。知らないかもしれないが、噂では遠藤はそこら中に隠し子を作っていたらしい。正妻の千鶴との子供は3人だが、それ以外にも各地方に隠し子が何人かいるとかいないとか。大物政治家でありながら、夜はそうとうなやんちゃもしていたらしい。それで、その隠し子たちへの遺産相続でごたついているというのが一般的なの見方だ」
 木崎の中で点と点がつながった気がした。
 高志は遠藤議員の隠し子で、その母、こずえは今村弁護士から遺産相続についての話を受けている。これで、ばっちりと説明がつく。木崎は首をだらりと後ろに垂らし天井のオレンジのライトを眺めながらほくそ笑んだ。腕を捩じられ、腹を蹴られた甲斐があったじゃないか。少なくとも高志に面白い真実を伝えられそうだった。
「どうした?」と真鍋が眉をひそめて木崎を睨む。
「いや、なんでも」と木崎はしらばくれようとした。
「なにもないわけがない、話せ」とすぐに真鍋の口調がきつくなった。高圧的と言うほどではないが、絶対に聞き出そうとする意図の見える口調だった。
 木崎は自分の知っていることを話すべきなのだろうかどうかと考えたが、黙っていることもできそうだったので、助けてくれた恩もあるしと思い、話すことにした。
「知り合いの少年が自分の母親と今村弁護士の密会を見て浮気か何かと勘違いしたらしいんです。それで、僕がたまたまその調査というか、どういう関係なのかを調べるような探偵ごっこをやっているというところなんです」
「その少年の母親と言うのが、さっきあのカフェで今村が落ち合っていた女か?」
「はい、そうです」
「遠藤議員の隠し子の母親ってことか?」
「たぶんそうでしょう。でも、そんなことがあったなんて」と木崎は少し得意げになって話している自分に気付いた。
「けど、それはあまりに短絡的じゃないか。点と点を直線で結ぶってのは3流記者のやることだ。真実にたどりつくにはいくつもの補助線が必要なんだ」
「どういうことですか?」
「俺が知っている限り、遠藤の隠し子たちは彼から認知を
されていないようなんだ。だから相続権も基本的にはないはずだ。遠藤陣営はそういうこともあってか、隠し子の母親を名乗り出るやつらとまともにとりあっちゃいないらしい。事実、その中にはたかりのような奴らもいるらしい。しかし、お前の話だと、そのこずえと今村は何度かあっているという話だよな?」
 木崎はまた話に置いて行かれそうになる。
「はい、こずえの息子が一度面会の様子を見ています」
「となると、もしかすると、その少年は認知されているのかもしれないな。わざわざ何度も面会を持っている例は今のところ見たことがない。もしそうであれば、これはスクープだ」
 真鍋は生き生きとした表情でそう語り、なにかささっとメモ帳にメモを取っている。木崎は自分がこのことを話してよかったものか不安になった。
「しかしな、遠藤陣営もなかなかにしぶといからな。どの隠し子の件も認知していないのをいいことに、巧妙にその存在と遠藤とのつながりを隠しきっているんだ。これはイメージ戦略のためだろう。遠藤が死んでなお遠藤陣営は彼のイメージを守ろうとしているようだ」
「つまり亡くなった遠藤議員に、何人もの隠し子がいたかもしれなくて、遠藤陣営はそんなことでいまさら遠藤議員に汚名をそそぎたくないので、スキャンダルの種を摘んでいると。そういうことなんですね?」
「俺はそうだと踏んでいるし、すでに俺は何人か金を受け取って、そういったことを黙っている女性を知っている。たいがいが地方のキャバレーやスナックで働く女だな」
木崎は高志が本当に遠藤の隠し子なのだろうかと考えてみたが、なんの手がかりもない。けれど、高志の母親のこずえが遠藤家にゆすりをかけているとはどうしても思えなかった。昼間にスーパーでせっせと働いている姿を見たせいであろうか。
「木崎さん、この話はオフレコだぜ。俺がここぞってとこで全部まとめて記事にするんだ。変なところで吹聴されたら困るんだ。わかるよな?」
「分かりました。僕にはそんなこと話す相手すらいませんし。でもそういえば、なんでそんなこと僕に話してくれたんですか?」
「いい質問だ!」と真鍋はにやりと不気味に目じりにしわを寄せてほほ笑んだ。木崎のビールグラスにはまだ半分以上ビールが残っているというのに、右腕はジンジンと痛む。
 真鍋は満面の笑みで、木崎にこう言った。
「お前に頼みたい仕事があるんだ、探偵さん。ちょうど人手がほしいところだったんだ。悪い仕事ではない。しかし、その少年の一件からは少しの間、手を引いてもらう必要があるかもしれない」
 真鍋はサンドイッチをすでに平らげ、ミックスナッツも一皿平らげ、4杯目のビールに差し掛かっていた。窓の外には交差点の賑わいが見えた。

第7話 置き去りにされたボクサー
 
 部活の練習を終えた高志は、いつものライダースジャケットに身を包んだ木崎がジムの入り口のベンチでコーヒーを飲んでいるのを見つけた。
「晩飯を食いに行くぞ」と木崎が有無を言わせない口調で高志に告てくる。
「母さんに言わなきゃいけない」と高志は急なことに焦りを見せたが、木崎がやってきたということは捜査に進展があったはずだと、自分の中に興奮するものがあることに気付く。すぐに母親に連絡を取って、了承を得た。
 高志が何もわからないまま木崎について歩いていると、木崎がタクシーをすぐに止めた。高志はいったいどこに連れていかれるのだろうかと少し不安に思ったが、質問はしなかった。なぜかそうするべきではないように思われたからだ。
 到着したのは木崎の行きつけのバー「1985」である。木崎は込み入ったことを話さなければいけなかったので、自分のホームである場所を選んだのだ。タクシー代は多少の出費だが、高志と一緒に電車に乗るのもなんだか面倒だし、滑稽に思えた。
「ここバーですよね? 僕15ですよ」と高志が入口で少しおどおどする。
「ここのマスターはそんな細かいことは気にせえへん。それにまだ時間が浅いから客も少ないし安心せえ」
 高志は言われるがまま木崎に続いてバーに入った。彼にとってバーに入るというには初めての経験であった。高志がバーカウンターの壁一面に並べてある酒の瓶を眺めていると木崎は一番奥のカウンター席に座り、「早く来い」と高志を呼んだ。
 マスターは木崎に軽く会釈をし、少年を軽く見やり、またすぐに何かの仕込みの作業に戻っていった。
「こういうとこに来るのは初めてなんけ?」
「はい。母さんはお酒を飲まないので」
「そうか。ここは飯もうまいんだ。何か食いたい物はあるか?」
「おなかがすいているので、何でも大丈夫です」と高志が部活の用意を床に置いてスツールに腰を落ち着ける。
 木崎が本日のメニューを見て、鯛があることに気付き、マスターになにか鯛を使って食事を作ってくれと頼んだ。
「鯛のアクアパッツァなどどうでしょう。しめにはリゾットをいただけますから、お酒のあてにも、おなかを満たすのにも向いているかと思いますが」
「それにしよう」
 木崎がマスターに注文するのはやはりいつもメニューに載っていないものである。木崎はメニューに合わせて、スペイン産の白ワインをボトルで注文した。マスターはグラスを二つ用意してくれた。木崎が二つのグラスにワインを注いで、自分の分をぐいっと飲んで、高志にも促した。
「ほら、お前も一口やれよ」
 高志が一口ワインを口に含む。
「うまい。こんなにうまいワインは初めてです。苦くないし、口で少しだけはじける」
「そうだ、それだけ分かれば十分だ」と木崎が満足げな表情を浮かべる。
 高志は早く捜査の進展が知りたかった。なのに、いきなり連れ込まれた大人の世界に飲み込まれて、そのことをすっかり忘れていた。
ふたりはしばらく差しさわりのない会話をした。それは主に高志から木崎へのクエスチョン形式だった。
「探偵さんは毎晩飲んでるんですか?」
 その質問を聞いてマスターがにやりとしたのを木崎は見逃さなかった。探偵のところに引っかかったのか、毎晩のところに引っかかったのかまでは見通せなかったが。
「基本的にはね」
「体に悪いんじゃないの?」
「俺の体はアルコールに強いらしい、ほとんど二日酔いというものをすることがないんや」
「探偵って仕事で、その、食べていけるんですか?」
「まさか。私立探偵は趣味みたいなもんや。もともとはちゃんとサラリーマンしてたよ」
「そうなんですか」
「意外か?」
「いえ、別にそういう訳では」と言いながら、長めの髪にゆったりとしたパーマ、顎鬚、ライダースジャケットといういでたちの木崎を見て、高志はそのサラリーマン姿を想像することができなかった。
「探偵のほかには今、何かしているんですか?」
「読書とパチンコくらいだね」
「えっ」と高志は驚きを隠せなかった。趣味で探偵をしていて、あとは読書とパチンコ?
「あの、木崎さんってなにものなんですか?」
「お前が仕事を依頼した私立探偵だろ」と何でもないように木崎は言いのける。
 そこに鯛のアクアパッツァが運ばれてきた。姿のままの鯛に、トマト、カブ、赤玉ねぎ、クレソンが一緒に煮込まれており、その上からイタリアンパセリが乗っている。スープをひと飲みして、その鯛と野菜の絶妙な味わいのバランスに感動する。さらにグザイを一口、口に放り込むと、トマトの酸味とイタリアンパセリのフレッシュさが鯛の甘みをグンと引き立てていた。クレソンの辛味もよかった。  
ふたりで無言で鯛を平らげて、リゾットができるのを待った。木崎はすでにひとりでワインボトルを半分以上空けている。高志は口を湿らす程度にしか飲んでいない。
「なぁ、高志少年、捜査はここで打ち切りになるんや」
「えっ、なんで?」と彼に困惑の色が見える。
「依頼人が変わってんや。そいつはちゃんと金の払えるやつやから」
「そんな」と高志が木崎を見つめて落胆する。
「今日の飯くらいはおごってやるさ、気にすんな。それにすでにいろいろと分かったことがあるから、それも教えてやる」
 高志は、大人はいつもこうだ、と思った。自分の都合や利害ですぐに立場を変える。こんな適当な大人を信じるんじゃなかったと思う。けれど、分かったことというのはなんなんだろうか?
「まぁふくれるな」と木崎が高志をなだめる。
「お前、遠藤という政治家は知っているか?」
「名前くらいは」と高志が答える。
「遠藤議員は、神戸いや関西でもかなりの権力を持った政治家で資産家でもあったんやけど、先日亡くなった。知ってるな」
「はい」
「それでや、覚悟して聞けよ」
「はい」と答えながら高志はもったいぶるなよ、と思った。
「亡くなった遠藤議員には隠し子が何人かいたらしいんや。ほんでそのひとりがお前やっちゅーことらしいねん」
「遠藤とか言う政治家が僕の父親?」
「まだ確証はないねんねんけど、おおかたそれで間違いないと思うな。お前の母親と話をしていたあの小太り眼鏡は遠藤議員の顧問弁護士や。そいで、 最近亡くなった遠藤議員には隠し子が複数いた。それがどういうことか分かるか?」
「わからないです」
 高志は分からないし、信じられなかった。
「つまりや、その顧問弁護士の小太り眼鏡は遺産やなんやの話をお前の母親としおてるちゅーことや。やから、へたしたらお前んとこには偉い額の遺産が入ってくるかもしれへんねん」
「信じられないです」と高志がつぶやく。
「まぁ、おれもなかなか信じられへんねんけど、それを俺と同じように追っている新聞記者さんもいるくらいやったから、信じてええ話やと思うで」
「僕の父親はずっと昔に亡くなったって聞いてます」
「お前の母親が機転を利かせていたのか、そう言うように遠藤と契約でもしていたのかもしれへん」
 高志にはなんだか感覚的にその話が飲み込めなかった。自分の父親が大物政治家であるだろうということも、多額の遺産が入ってくるだろうということも真実ではないような気がしてしまう。
「なにか、確証をつかめそうではないんですか?」
「確証も何も、そのうち分かるやんけ。たぶんもうすぐ、母親がお前に教えてくれるんちゃうか?」
「そうかもしれないですけど」と高志はそれを認めつつも、自分から母親に事の真相を聞けていない自分に引け目を感じた。
「それでや、俺もちょっと忙しくなるから、捜査もこれまでっちゅーことにしたいんや」
「木崎探偵はもう捜査してくれないんですか?」と高志がすがるように聞く。
「そういうことだ」と木崎は高志の目も見ずにワインをグラスに注ぎながら言う。
 高志はもちろん木崎に捜査を続けてほしかった。けれど、捜査料を払っているわけでもないので、引き留めようもなかった。
「忙しくなるって別の仕事ですか?」
「そうだ」と言い、木崎がワインをあおる。
「そうですか」とつぶやきながら、高志は裏切られた気分になった。こんなよくわからない私立探偵なんかを信用するんじゃなかった。事の真相どころかよくわからないことが増えたばっかりじゃないか。高志は自分が大物議員の隠し子であるなどとは到底思えなかった。
「これまで捜査ありがとうございました」
 高志はスツールから降りて、部活の道具を肩に背負って店を出ようとする。
「おい、どうした? リゾットは食わないのか?」と木崎が高志を呼び止める。
 しかし、高志少年はそのまま振り返りもせずに、店を出て行ってしまった。木崎は訳が分からないという風にワインをぐっと飲んだ。そこに、マスターが2人分のリゾットを運んできた。これもまた上手そうだった。
 高志は店を出て、グッと街の寒さが増しているのを感じると同時に、自分の体がアルコールで少し熱くなっているのを感じた。僕は今、少し興奮している。木崎さんから告げられたにわかには信じがたい捜査結果への混乱。ここまで来て捜査を打ち切られたことの悔しさ。そういったことで心がざわめくのを感じた。いきなり店を出てしまい、木崎に失礼なことをしたと思ったが、じっとしていられなくなったのだ。そうだ、すぐにでも、家に帰って母親に真相を問いただそう。

 高志が家に帰ると、母親はリビングでテレビを見ていた。
「早くシャワー浴びてきなさい。練習着は洗濯機に入れちゃっていいからね」と声がかかる。
 夕食は鶏肉の照り焼きとほうれんそうのお浸しだった。外で食べてくると告げたはずなのに、高志の分がラップをしておいてあった。
「ねぇ、母さん」と高志はリビングに向かう足で問いかけた。
「なに?」
「父さんの話なんだけど?」と言いながら、高志は自分が緊張するのを感じる。
「なにかあったの?」と緊張する高志に対して、母こずえの対応はとても穏やかでゆったりとしていた。なぜか高志だけ追い詰められたような気分になっている。
「いや別に。でもどんな人だったんだろうなって」と高志はなんとかぼんやりではあるが母親に尋ねることができた。ずっと聞けなかったことだ。
「どんな人って正義感の強い人だったわよ。あなたが生まれてすぐにいなくなっちゃったから、それで正義感が強いって言っても説得力はないかもしれないけどね」と母親は思い出すように笑う。
 なんで、笑うんだ? と高志は思った。やはり何かがおかしいような気がして仕方がない。
「いなくなったってどういう意味なの?」と高志が聞くと、こずえの顔も真剣になった。
「あのね。そうね、ごめんね。ごめんなさい。いなくなったとか、失踪したとかって、言っていたけれど、あなたもたぶん気付いているように、あなたのお父さんはもうすでに亡くなっているの」
 高志は自分の鼓動を強く感じた。深く呼吸をする。少し自分が震えていることに気付く。
「でも、そんな話やめましょうよ。母さんも悲しくなっちゃうわ」と言って母親がキッチンへ行き「ご飯食べる?」と高志に聞く?
「うん」と高志が答えてしまうと、そのまま父親の話は終わりになった。
はぐらかされてしまった高志は、シャワーを浴びて、改めて食事をして、リビングでテレビを眺めていた。どうでもいいクイズをどうでもいい芸能人たちが答えているように見えた。
 自分の父親は、本当に遠藤議員なのだろうか。もしそうなら、なぜ母親はあんな話し方をしたのだろう。何かが引っかかるそんな感じ。
そうだ、と高志はその引っ掛かりに思い当たる。母こずえの口ぶりからすると、自分の父親はもうずっと前に死んでしまった人のように聞こえたのだ。つい先月亡くなった人間の話をしているようにはどうしても思えない。木崎探偵の調査は本当に正しかったのだろうかと疑念が浮かぶ。けれど、正面から母親に確認をしようとしてもうまくはぐらかされてしまった。自分の母親が父親の話題を嫌うことが改めて確認できた。そして、自分もやはり母親とその話題について触れるのは楽しくなかった。木崎探偵の言うとおりに遠藤議員の遺産の話が進むのを待てば、真実は分かってくるものなのだろうか。
 高志はソファーに寝転びながら、何発かパンチを放った。的のないパンチはむなしく空を切った。 

 学校では、ボランティア活動の話がさらに進んでいた。特別授業において、阪神大震災で活躍したボランティアたちの話を研究する会が行われた。各班でテーマを設定して、震災の時にどんな活動が行われたのかを発表する会であった。
高志の班は仕出しのボランティアの話をまとめた。これは高志の母こずえが大学生の時に、実際に阪神大震災にあって、避難しながらも、自ら仕出しのボランティアを行った話を聞いて参考にした。各地から送られてくる救援物資をもとに、なるべく温まるメニューで食材を無駄にしないものをスピーディーに作って各避難場所に運ぶ作業はピーク時には一日中かかる作業だったそうだが、それでも、一日2食を配給するのがやっとだったそうだ。高志達からすると東日本大震災の方がニュースなどでリアルタイムに見ているから身近だったが、自分たちのいる神戸の街でも同じようなことがあったのかと思うと不思議な気分がした。
 そして、別の班の発表の中に高志を驚かす名前が出てきた。それは故・遠藤議員だ。彼はそれまでは一国会議員であったが、阪神大震災の際に自らその出身地である神戸の被災地を回り写真を撮り、その写真を使って国会で支援を募るための大演説を打ったことがきっかけで有名になったらしい。遠藤により報告された、そのリアルタイムの被災地のビジュアルを目にした人たちから多くの支援が集まったらしい。それに、遠藤は個人的に金銭面でも被災地への支援を多く申し出ていたらしい。まさに、政治的にも個人的にも震災支援に一躍勝った人物であるということらしかった。
 高志はこの人物が本当に自分の父親なのだろうか? と不思議な気分になった。しかし、語られるエピソードを聞いているうちにそれも悪くないなと思えてきた。
 次回の特別授業では実際のボランティア団体、国際災害ボランティア団体「神戸ソウティエム」の方々の話を聞く授業が行われると聞いてクラスが盛り上がった。高志も最初は自分のクラスの特別授業がボランティアの方向に行くのがあまり面白いと思っていなかったが、自分の母親や、もしかすると父親かもしれない人物が絡んでくる話になってきたので、とても興味を持つようになっていた。

 クラスを終え、ジムに顔を出した高志は呼吸を意識しながら、縄跳びを飛んでいる。徐々にスピードを上げて、リズムに集中する。呼吸が乱れてきたことに気付くと同時に足が縄に引っかかった。今日は集中力が全然持たない。クラスで遠藤議員の話を聞いて、より自分の父親の話の真相が気になってきてしまったのだ。
 その日はひさびさにスパーリングをさせてもらった。大学時代にアマチュアで関西ベスト3になったことがある副会長のパンチはとてつもなく重かった。どうしても防戦一方になる。顧問からが「前に出ろ、下がるな」とげきを飛ばしてくる。好きなこと言いやがってとイラッとするが、その怒りが力になって、一歩踏み込んで右からパンチをたたき込むことに成功する。副会長はこともなげにガードしながら「今のはいいパンチだ」と言ってのける。続けて左左を狙おうとすると、そのすきに右のほほをほぼノーガードで打たれてしまった。これにはさすがにふらっとしてしまう。副会長はファイティングポーズで高志を待っている。ジャブでリズムをつけながら、また副会長の懐を探る。軽いパンチをいくつかこちらに入れてくることで、副会長がわざと隙を作ってくれていることに気付くが、タイミングが合わずカウンターを入れることができずにいる。そうしていると3分間が終わった。
「今日はぜんぜん集中力があれへんなぁ。ちっともパンチ打ててへんやないけ」と副会長が無精ひげをなでながら高志に言う。
「もう一本お願いします」と高志は言うが、副会長は「今日はもっぺん縄跳びでも飛んで来い」と無慈悲に言い放つ。調子の悪い時には本来2,3本挑戦できるはずのスパーリングが飛ばされてしまうのだ。
高志はとても悔しかった。

第8話 飛び回るインタビュアー

 木崎が真鍋からもらった仕事はインタビューの仕事だった。真鍋は遠藤のことをただの隠し子スキャンダルの記事にするのではなくて、しっかりとその生前の功績をたたえ、その人となりも余すところなく描いたうえで記事にしたいと思ったのだ。そこで、木崎が、遠藤の本当の人となりを知るために、彼に世話になった人々の話を生の声で綴るためのインタビューをまかされたのだ。真鍋は引き続き隠し子と遺産相続の件を探るということだった。
木崎のすべきことはとてもシンプルで、すでにリストになっている人たちのところへ行って、彼らと遠藤議員のエピソードについて、なるべく深く聞いて回るということだった。
 木崎はなぜ真鍋が自分をそんな仕事に抜擢したのだろうと不思議には思ったが、乗りかかった舟なので引き受けることにした。それに、木崎はもともと調査会社でインタビューもしていた経験があるのでずぶの素人という訳でもなかった。それで自信があったのもあるし、まとまった金が入るのも仕事を受けた理由である。つまり、遠藤周辺の聞き込み調査をすることは、木崎にとって朝からパチンコ屋へ行くよりも面白そうに思えたわけだ。

 まずは新幹線で東京に入った。そこには遠藤議員の弟子と言っていい議員たちがいるとのことで、アポ済みの面会がセットされていた。その議員たちとは彼らの事務所で会った。都内の少し駅から離れた質素なビルの中に彼らの事務所はあった。土地勘のない木崎はスマホを頼りにやっとのことで事務所にたどり着いた。すると、面会室もまるで田舎の学校のそれのように質素で何もなかった。東京の議員と言ってもこんなもんなんだなと思った。心なしか出てきた珈琲も薄いように感じる。もしかすると、それほど切り詰めて政治活動をしているのかもしれないと思うと、日ごろ考えもなく政治家を忌み嫌っていたことを恥ずかしく思う。
 木崎のインタビューに応じた政治家は、滝田と泉谷というどちらも遠藤と同じ巨大政党の党員であった。滝田はどちらかと言えば切れ者の官僚と言った感じの印象を受ける切れ長の目にフレームレスの眼鏡をかけた痩身の男で、泉谷はそれとは逆にそこらへんの中華料理屋の店長が無理やりスーツを着せられたような感があるまるいおじさんだった。
 話を聞くうちに、彼らが心底、遠藤議員に憧れているということが伝わってきた。
「遠藤議員が亡くなったことは、日本が一つの大きな人的財産を失ったと言っても過言ではないことなのです」とまぁるい顔をした泉谷が沈痛な面持ちで話せば、フレームレスの滝田は「けれど遠藤さんの遺志を継いだ我々、中堅・若手の議員たちがその意思をしっかりと受け継いでいくことが大事なのです」と弁を打つ。
 木崎はまるで選挙演説を聞かされている気分になった。そして、そんな話じゃなくてもっと生の声を引き出さなくてはと自分の仕事の目的をしっかりと思い出した。
 神戸市東灘区選出の議員であった遠藤智明が有名になったのは彼が1995年、彼が40歳で阪神大震災が起きの時だったらしい。遠藤議員は自身の家は幸い被害が少なかったらしく、それで、自由に身動きのとれた彼は最初の数日間に震災の現場に赴き、次々にその悲惨な現場を写真に収めて行ったそうだ。
 当時は交通網もすべて遮断されてしまっていたために、行動手段は徒歩しかなかったらしく、それでも遠藤は崩れ落ちた高速道路や燃えて亡くなった商店街を歩き回ったそうだ。避難場所では、自分が政治家として復興に尽力することを誓って被災者を励まし、神戸市の東の端、東灘区から、2日間かけて被害のひどい地域を回って帰ってきたそうだ。
 決死の被災地視察を終えた遠藤は、自分の秘書やスタッフを現場での被災地支援のために残して、今度は単身で東京に向かい、議会でかの有名な演説を行った。それは、震災の悲惨な現場の生の写真と現地で聞いた生の声からなるとてもインパクトのあるプレゼンテーションで、議会にいた多くの政治家の心を打ち、それがゆえに多くの自治体からのサポートを得るに至った。
 滝田や泉谷も、その時に議員秘書などをしていて、遠藤の演説を聞いたらしい。それで彼らもこんな風に地元のために自分の足を使って、また政治家としての影響力も駆使して、自分のできる限りに困った人々を救う、そんな政治家になりたいと夢に思ったらしい。
さらに木崎が話を聞いていくと、遠藤はその巨大な権力や資産力にも関わらず、とてもきさくで接しやすい人物だったそうだ。滝田や泉谷も一緒にキャバクラやスナックに何度も連れて行ってもらったと懐かしそうに話した。遠藤はそういった酒の場で若手議員たちの夢の話を聞くのが好きだったらしい。そして、すごいことに遠藤はいくら飲んでも、彼ら若手議員がそのような酒の場で気が大きなって話した夢の話を彼らの顔と名前を紐づけて覚えてくれていたそうだ。そういった遠藤の人当たりの良さと面倒見の良さが彼のカリスマ性をさらに高めていたらしい。木崎にも、遠藤の60歳と言う早すぎる死が、彼ら中堅・若手議員たちにとっていかに耐えがたいものだったことが十分に伝わってきた。
これはいい記事が書けると思い内心ウキウキしていたが、それと同時にとても頭の下がる思いがした。遠藤という行動力とカリスマ性とを持った政治家にも頭が下がったし、それを目標に政治活動に邁進するする彼ら中堅議員たちにも頭が下がった。自分が朝からパチンコをしているなどと言ったら、彼らはどう思うのだろうと考えるとヒヤッとした。

 そして、アポなしのインタビューが銀座のキャバクラにて行われた。そこは「メゾンドミナコ」というキャバクラで、意外にもそこはそれほどの高級店と言った風ではなかった。夜に真鍋からもらったリストに従い「メゾンドミナコ」に向かった木崎は、とりあえずボーイに促されるままに席について、自分についてくれた女の子、ミナちゃんとおっぱいの大きさは遺伝が大事なのか、それとも成長期に食べる食べ物が大事なのかを議論しながらウイスキーを数杯飲んだ。そして、女の子が変わり、ミナちゃんよりも少しは場数を踏んできたように見える妖艶な女性が木崎の席に来たので、彼は切り出した。
「生前の遠藤議員について知ってはるような女性はいるんかな?」
「私でよければ」とその女性は澄ました笑顔で答えた。彼女はユリと言った。まるでハーフのようなくっきりとした顔立ちをしていた。メイクのせいなのだろうか。
「遠藤さんのお弟子さん?」とユリが聞くので、木崎はそうであるというようにあいまいに返事をした。
「遠藤さんのファンは多いわね」と言ってユリは笑いながら、木崎にお酌をした。
「遠藤議員はよくここに来られてた?」
「ええ、週に何回も来るときもあったわ。あのクラスの政治家ならもっとお似合いのクラブもあるのにどういうことか、うちをご贔屓になされていたみたいよ」
「どういう遊び方をしていたんだろう? 興味があるな」と木崎はインタビューだとなるべく気付かれないように聞いてみた。
「そうねぇ」とユリは指先で自分の唇をなでた。なかなかにセクシーに見えた。
「若い子をたくさん連れて来ていましたね。若手議員さんとか秘書さんなのかな。顔ぶれもよく変わるから、手広く世話をしていたみたいね。それでいて本人はお酒が弱いから、彼がウーロン杯を頼んだら、私たちは隠れてウーロン茶に焼酎を2,3滴入れたものを出すというのがうちのルールだったの。可愛いと思わない。死んじゃったからもういいのかもしれないけど、でも一応これは内緒よ」
 いいエピソードを拾えたと思った。若手議員たちはみんな遠藤のことを大酒飲みだと思っていたようだが、実のところ、遠藤は酒など飲んでいなかったのだ。彼はキャバクラに若手を連れてきて話を聞くことも真剣に仕事だと考えていたようだ。遠藤のことをつくづくカッコいいやつだと思った。それに比べて俺は・・・。
 今度は角度を変えた質問をしてみた。
「女性関係のうわさはとかはなかったん?」
「ないわけないじゃない。あんな素敵な人、みんなほっとかないわ。これも内緒なんだけど、うちのママの美奈子さんも実は遠藤さんに惚れていたらしいわよ。そうだ、そういえば、彼がよく行くクラブのママとは昔から良い関係だったらしいわよ」
「何て名前のお店かな? 俺も遠藤さんを追っかけてそこに飲みに行って見たくなったなぁ」と木崎はミーハーなふりをして見せる。
「大きくはないけれど、老舗のクラブで『クラブ明石』って言うところよ。明石って神戸の地名よね?」正確には兵庫県の地名だが、その辺の細かいところを木崎は指摘しなかった。
木崎が「じゃあ俺も遠藤さんと同じコースをたどってみようかな」と言うとユリは手際よくその手配をしてくれた。
「明石さんところに行くのね? じゃあ連絡入れといてあげるわ、あそこ席数が少ないから、イケメンさんがいくって言ったら、ちゃんと席を取っててくれるはずよ」
気の利いた対応だ。木崎は彼女のコースーターの下に、自分の携帯番号を書いた紙を隠し置いて、会計を済ませて店を出た。
『クラブ明石』は銀座の8丁目、ほとんど新橋に近いところにあった。雑居ビルの2階にあるその店はカウンターが8席ほどでその奥にワインレッドの4人掛けのソファー席が二つ置いてあるだけの店だった。木崎が店に入った時にはカウンターに少し席が開いているだけで、とてもにぎわっていた。
木崎はウイスキーを頼んだ。正面でママが自らウイスキーを作ってくれた。初顔の客にはそうするようにしているのだろうか。
「珍しいお客さんね。さっきミナコさんからお電話をいただいた人?」
「そうです」と木崎は答えた。ママは宝塚女優のような優美な立ち姿をしており、50歳は超えて見えるが本当はもっと上なのかもしれなかった。
「遠藤議員のことについて聞いて回ってるんだって?」
 木崎は不意を突かれた。まさか、ユリからそこまで伝わっているとは思わなかった。内緒だ、内緒だと言いつつインタビューだと分かっていたということは、彼女はまだすべて秘密を話したというわけではないらしい。けれど、インタビューをしているとバレてしまっているのならそれはそれで話は早い。
「そうなんです。遠藤議員が亡くなって悲しんでいる人が大勢おられます。僕は個人的な趣味で彼の生前の姿を追っているのです」
「個人的な趣味ねぇ。記者さんが良く使う言葉よ」
「僕は」といいかけた木崎をママが制した。
「うちはお客さんを仕事で選別したりは致しませんのでご安心ください。それでどんな話が聞きたいんですか? お客様のプライバシーにかかわらない範囲でならお話いたしますよ」
「生前の彼がどんな人物だったか。そして、奥様以外に懇意にされていた女性はいたのかどうかです」
「面白いことを聞くお客さんね。前者にはこたえられるけど、後者は私のプライバシーも侵害することになるからお答えできないわ」
 木崎はなんと優美な答えだろうかと思った。それで、ママと遠藤の関係を深く掘り下げることはやめようと思った。真鍋にはなんとでもうまく報告すればいいだろう。
「遠藤さんにはね、いつも戦う相手がいたの。有名なのは阪神大震災よね。彼は街を助けるために戦った。そして、景気回復のために戦い、東日本大震災からの復興のために戦い、若者の未来のために戦って」
ママの表情は誇らしげだった。
「このお店にも若手の議員さんたちを連れてきたりしていたのですか?」
「いいえ。あの人はいつも一人だったわよ。若手はみんなもっと大きな居酒屋さんやミナコさんのとこで帰して、遠藤さんは家に返るふりしていつも一人でうちにやってきてたのよ」
「ひとりで? お酒は飲まれていましたか?」
「ええ。浴びるように飲んでいたわよ。店に来るときはいつもほとんど素面なんだけど、酔うと夢ばっかり語る人でね。ブランデーを好んで飲んで、一日に半分近く開ける日もあったわ。彼が酔って寝てしまったときなんかには、よく秘書の吉田さんが迎えに来たり、奥さんの千鶴さんが迎えに来たりしていたわね。つい最近のことのはずなのに、あの人が亡くなっちゃったと思うと遠い昔みたいに思えちゃうから不思議ね」
「そうやったんですね」とつぶやいながら木崎は、遠藤の新たな一面に触れて、また彼に対する尊敬の気持ちを強くした。
「あれ? あなた関西の人?」
「そうです。神戸です」
「あら、私は明石の出身なの。それで、ここがクラブ明石。でも、なんとなくあなたがここに座っている佇まいが生前の遠藤さんに似ている雰囲気を感じたのは、神戸つながりかしら」と言って優美にママは笑った。お世辞とは言え、木崎は気分が良くなった。木崎は今日の仕事はこのくらいにして、後はおいしいお酒を飲むことにした。『メゾン・ドミナコ』のユリから連絡が来ることはなかった。

 翌日に、木崎が訪れたのは仙台だった。東北一の大都会らしく、街は思ったよりも近代的で、中心街の街並みが神戸に似ているようにも思えた。
木崎はリストにあった仙台の青年会の会長に会いに行った。木崎が待ち合わせの喫茶店でコーヒーを飲んでいると、50歳半ばかと思われるその男がやってきた。
「もう青年と呼ぶには程遠い年齢でお恥ずかしいのですが」と朗らかに禿げ頭をさすりながら男は自己紹介をした。普段は工務店で働いているらしく、仕事の合間を縫ってわざわざインタビューの時間を作ってくれたとのことだったので、木崎は手短に済ませなければと、すぐに本題に入った。
「亡くなった遠藤議員とはどのように出会われたのですか?」
「あの方は、まさに救世主でしたよ」とその男はまるで宗教の教祖を語るように話し出した。
 青年会の会長は生まれも育ちも仙台で、仙台から一度も出たことがなかったらしく、震災があるまで遠藤の名前すら知らなかったらしい。けれど、震災が起きた翌日には遠藤の名義で連絡が入り、その翌日には国際災害ボランティア団体「神戸ソウティエム」が遠藤の支援のもと派遣されたそうだ。震災の混乱にあった被災地でのベースキャンプの立ち上げやボランティア組織の取りまとめなど、初期段階での要となる支援を受けたと青年会の会長は語った。
「遠藤さんが見えられたのは、震災から一カ月ほどしてからでしたかね。突然、青年会の臨時の事務所に顔を出されたんですよ。ジーパンにパーカーを着た60歳前後のただのおじさんにしか最初は見えなかったんで、何者かと思いましたよ。でもそれが、遠藤議員でした。『神戸ソウティエム』の代表の方に紹介していただいて、やっと分かったんです。遠藤さんは、すぐに自分も何か手伝えることはないかと言って、自ら率先して避難場所でのごみの運搬作業などを手伝ってくださいました」
「遠藤議員、自らもそのような作業を?」
「そうです。彼は何度も来るのが遅くなってしまったと謝っていました。けれど、私どもはそれまでに彼から多大な支援を受けていましたので、本当はちゃんともてなしたかったのですが、彼はそれを受け入れませんでした。すべてが、綺麗になったら、街が元に、人が元に戻ったら、一緒に飲みましょうと言ってくれました」と青年会の会長は悔しそうな顔をして語った。
遠藤議員は自分が阪神大震災で学んだ経験を活かして、東日本大震災の被害を最小限にするために、持てる限りの彼の資源を使ったようだった。青年会の会長の語りにはややドラマがかったものがあったものの、人的にも、金銭的にも、政治的にも遠藤は彼ら青年会にとって最大の支援者であったようだった。
 木崎には気づいたことがあった。それは遠藤議員がとても人に愛されていたということだ。木崎がインタビューしてきた人たち全てが、遠藤のことを尊敬していたし、愛しているように見えた。それは遠藤が真に人を助けたいという思いで政治家をやっていたからだろう。遠藤は、もともと木崎が勝手に抱いていた汚い政治家のイメージとは全くに異なるものであった。木崎は恥じるとともに、信念をもって政治活動に邁進した遠藤のことを尊敬し、うらやましくも思った。

 神戸に戻った木崎は、事前に連絡を入れていた国際災害ボランティア団体「神戸ソウティエム」の事務所へと向かった。事務所は元町のさらに西のはずれの雑居ビルの中にあった。そこには、数人のスタッフがいて、代表だというひょろりとしたインテリ風の佐々木と言う男が木崎に対応してくれた。
 木崎が遠藤について尋ねると、佐々木代表は残念そうにこう言った。
「実は僕、遠藤さんにお会いしたことがないんですよ。東日本大震災の時にリーダーを務めていた人間は、いまはシンガポール事務所の立ち上げに向かっていまして、不在なんです。僕はその時はいち構成員でしたので遠藤さんにお会いするということはなかったんです」
「そうですか、ではこの組織と遠藤さんの関係についてお伺いできますか?」
 国際災害ボランティア団体「神戸ソウティエム」はもともと大学のサークルだったそうだ。立ち上げ人は山本健二と言う大学生で、阪神大震災を機に遠藤の支援を受けるようになり、阪神大震災での活躍も認められ組織が巨大化していった。今や非営利団体としてその組織を確立しており、シンガポールにも事務所を置こうとしているらしかった。
「その山本健二さんという方は今?」
「彼はチベットで亡くなりました」
「チベット?」
「はい、チベットです。2000年にそこで大きな地震がありました。当時のリーダーだった山本は何人かのメンバーと被災地支援に向かったんです」
「そこで亡くなられた?」
「ええ、事故だったようです。がけ崩れにあったようで、遺体も流されてしまって見つからないままだったと聞いています」
「そうでしたか、すいません」
「いえいえ。でも、山本さんと遠藤さんの関係がなければこの組織はあり得なかったんですよ。そんな二人がもうこの世にいないだなんて本当に悲しいことです」と『神戸ソウティエム』の佐々木代表は悲しそうに語った。

 木崎は三宮に戻り、春日野道の自宅に帰る前に、神戸サウナで体を癒し、阪急のガード下の立ち飲み屋でビールを飲んだ。そうして一服していると、どうやってそれを嗅ぎ付けたのか真鍋がやってきた。
 木崎は新聞記者というものはこんなにも鼻が効くものなのかと驚いた。
「収穫はどうだった?」
「遠藤はとても立派な人物だったようですね。想像をゆうに超える偉大な人物です。どんなスキャンダルが来ても、彼はそれに負けない功績を残したと、僕でも胸を張って言えますね」
 それから、木崎はかいつまんでインタビューの概要を真鍋に伝えた。東京の中堅議員、滝田、泉谷。銀座のキャバレーのおねぇさんユリ。『クラブ明石』のママ。仙台の青年会の会長。「神戸ソウティエム」の佐々木代表。
「素晴らしいインタビュー結果だ。あとはそれをしっかり記事にまとめてくれたらオッケーだ」と真鍋はニヤニヤして言う。
「ただスキャンダルだけをあぶりだすんじゃあ芸がないからね。裏だけじゃなく、表もしっかり書いて分厚い記事にしようじゃないか」
 木崎には真鍋の真っ黒なオールバックが輝いて見えた。
「さて、木崎君、この件で最後のインタビューをセッティングした」と言い真鍋は注文したビールをぐいっと飲んでつづけた。
「最後のインタビューですか?」
「そうだ。インタビューの相手は遠藤智明の妻、遠藤千鶴だ」 

第9話 揺れる世界

 山本健二は激しい揺れで目を覚ました。自分の住む安アパートがそのまま崩れるんじゃないだろうかという揺れだった。時刻は朝6時前。健二はそんな状況にあって、まだ自分は夢の中にいるのではないかとのんきな気分でいた。
しかし、2派目の揺れで、棚の上の本がバタバタと床に落ち、食器棚がガシャンという大きな音を立てて倒れる音を聞き健二はそれが現実であると気づかずにはいられなくなった。
 地震だ。しかも、これは半端じゃない規模の地震だと健二は続く揺れの中で思った。床に散らばった本や食器の破片などを慎重に避けながら、手を壁について、健二はようやく机の上の財布をポケットに入れ、クローゼットから上着を取り出す。
 また大きな揺れが来る。健二がとっさに身を伏せる。いつまでこの揺れは続くのだろうか。さすがにこれは避難するべきだと思い、まだ暗い中、健二は外に出た。そして、異様な光景を目撃する。家やマンションから人々が逃げ惑う姿だった。健二はそれを見て逆に少し冷静な気分になれた。人々は近くの小学校に向かっているらしかった。家族連れが何組か手を引きあって、小学校へと向かう。その間もまだ揺れは続いていた。
健二もその流れに乗って近くの小学校へと着いた。学校の人間だと思われる人が体育館の入り口の前で人々を先導していた。健二もそれに従いひとまず体育館へと身を収めた。
 健二はのちに、このことを大きく後悔することになる。なぜ若くて自由に動くことのできる自分が真っ先に避難場所に身を収めてしまったのだろうかと。健二はもしできることなら、あの時に戻って、逃げ惑う人を救うべきだったと思った。彼はのちに避難に遅れて多くの命が奪われたということを知った。
 当時大学4回生だった健二は、就職活動も終わり、だらだらとしたモラトリアムを満喫していた。それでも自分がなんとなく就職活動に有利だろうと思って2回生の時に作ったボランティアサークル『神戸ソウティエム』の仲間で公募のボランティアに顔を出すことは続けていた。彼が顔を出すボランティアは大概が介護か養護学校の手伝いの類であった。人が好きな彼はそういったボランティアが好きだった。だから、4回生になりその代表権を後輩に譲っても活動自体は続けていた。それで、彼は人のためになっていると自負していたし、そのことは就職活動で実際とても有利に働いた。けれど、彼は今、この緊急事態において、誰のことも助けぬまま我先にと避難してきてしまったことを後悔していた。
 夜が明けて、避難の流れもひと段落すると、健二は体育館の中に同じサークルの同期や後輩を何人か見つけた。そして、彼らを集めて「今こそ、『神戸ソウティエム』が人々を助ける時じゃないだろうか?」と提案した。
すると、メンバーの一人が「とは言ったって俺たちがこんな状態じゃなにもできないぜ」と反論する。
「なんだっていいんだよ! 俺たちに出来ることだってなんか絶対にあるはずやろ」と健二は珍しく強い語気で言い返した。それで、今支援活動に加わるべきかどうかで議論になったが、結局は任意でそこにいた半数、5人ほどのメンバーがまずは活動を開始することとなった。後のメンバーは自分の家族のそばにいたいということだった。十分に理解できる考えだった。
 健二はまず学校の関係者になにか手伝えることはないかと聞きに行った。すると今は地域の消防団の人が現場を指揮していると聞いたので、担当者を探した。学校中を探し回ってやっとその消防団のおじさんを見つけたのだが、健二が言われたのは「とにかく今はなるべくみんなでここに避難していることしかしようがないんやわ」というどうしようもない言葉だけだった。
「まだ、避難できていない人を探しにいったりしないんですか?」と健二が食い下がる。
「それで、また揺れがあって自分たちが被害にあったら元もこもないだろ」と諭すように消防団のおじさんが言う。
「でも、何かしたいんです!」と健二は心からそう思った。
 その時、健二の肩を一人の男がポンポンとたたいた。その体格のいい男性は健二にこう言った。
「僕と一緒に街を救おう!」
 その言葉は鋭く健二に突き刺さった。街を救う。そうだ、俺は街を救いたいんだ、彼は強くそう思った。
「僕も街を救いたいです」と健二が熱いまなざしを男に送る。
「素晴らしい熱意だ」と楽しむように男が言う。
「なにをしたらいいでしょう?」
「まずは、それを考えるところから始めよう。今は指示を待っているような状況じゃないらしい」と男は言い体育館の中で泣いている子供たちを見やった。
「なにか毛布や暖かくなるものを探してきた方がいいかもしれない」と健二が呟く。
「そうだね。それは素晴らしいアイデアだ。どこかから調達できないだろうか?」
「学校の中にあるとすれば」と健二が考える。
「保健室か」と男が答える。
 他のメンバーは健二と男の息の合った、熱のこもったやりとりをただただ見守ることしかできない。
「じゃあ僕が保健室に行って布団を取ってきます」
「私も行くよ、人手が必要だろう。どこかに学校の責任者がいればいいんだが」
 そうやってふたりが先頭となり、サークルのメンバーとさらにその他の勇士も集まって、とにかく集められるだけの布団と毛布を近くから集めるということが彼らの最初の活動となった。そんな作業が昼過ぎまで続いて、ひと段落すると、健二は改めて、男に自己紹介をした。
「大学4回生の山本健二と言います。一応、ボランティアサークルをやってます」
 すると男は自信に満ち溢れた笑顔で自己紹介をした。
「私は遠藤智明。一応、政治家をやっている」
「政治家?」
「そうだよ。知らないということは、君は私には投票してくれていないのかもしれないな」と言い、遠藤は豪快に笑う。そこには皮肉の色は全く込められていないようで、ただただ愉快そうであった。健二はなんとなく「すいません」とつぶやいた。
「いいんだよ。私より優秀な議員さんはたくさんいるからね。でも、こういう時こそ、私たちが街を助けなきゃならない。君は手伝ってくれるかい?」
「はい、もちろん」
「いい目をしている。僕の事務所で働いてほしいくらいだ」
 そうして、遠藤と健二は出会った。出会った時からふたりは戦友になった。遠藤は政治家として自分はこの惨劇を日本中に伝えてもっと大きな支援を募らなければならないと、その足をさらに被害の大きな被災地へと向けた。健二もそれに同行した。ふたりは燃える商店街や、崩れ落ちた高速道路を目の当たりに衝撃を受けながら、それをカメラに収めて行った。そして、各被災地で、避難する人たちに現在の支援活動の進行状況を伝えることで人々を安心させようとつとめた。交通網はすべてストップしていて、移動手段が徒歩しかなかったので、ふたりは神戸を一周するのに丸二日かけた。
神戸を一周し終えると、遠藤はカメラをもって「この惨劇を全国に伝えて、より多くの支援を得られるようにしよう」と健二と被災者たちに約束して、東京へと向かった。
 健二は現場に残り、引き続き被災者を支える活動をつづけた。行方不明の人の名簿作成、がれきの中にいるかもしれない人の救出作業、支援物資の配給。どれだけ働いても人手が足りなかった。
 そして、数日後、健二は遠藤が国会で演説をふるっているのを目にする。遠藤は約束を守ったのだ。震災支援のために臨時で行われた国会で彼は自身のとったカメラの写真や被災地で聞いた生の声をもとに、どのような支援が必要かを説明し、今すぐに皆に行動を起こしてほしいと頭を下げた。その効果は絶大であった。遠藤の演説をきっかけに、被災地には様々な地域から多くのボランティアがやってくることとなった。健二はその放送を見て、初めてあの遠藤と言う男が本当に国会議員だったんだなと実感した。

 健二は阪神大震災の災害支援のために内定していた東京の食品メーカーの仕事を蹴った。そして、それから自身の所属していたボランティア団体『神戸ソウティエム』を母体として、災害ボランティアを続けた。最初の数年は神戸の震災支援を中心としていたが、その後も鳥取西部地震や十勝地震など、自身のノウハウを生かして震災支援を中心にボランティア活動を続けた。すると次第に組織も大学のサークルの規模を超え、遠藤の支援もあり非営利団体として認定されるに至った。
 一度だけ、健二は遠藤とお酒を飲む機会があった。それは神戸の東門街にある小さなスナックだった。
「遠藤さんのおかげで自分のしたいような支援活動をするための母体ができてきました」と健二がビールをごくごくと飲みながら遠藤に熱く語りかける。
「私は後方支援をしているだけだよ。すべて、君の頑張りと人望のたまものだよ」と遠藤はグラスに入ったウイスキーを軽く口に含んだ。
「あの時はこんなことになるなんて思ってもいませんでした」
「君に初めて会った時のことをすごく覚えているよ。寝巻のような格好にぼさぼさの頭をしたひょろっちいのが、何かしたいんです! って避難していた体育館で大声を出していたんだから、びっくりしたよ」
「そんな大声なんて出していませんよ」
「出してたさ」
「けど、どうして僕に声をかけてくださったんですか?」
「熱意を感じたからさ。私だってあの時はいまと違って、おやじの地盤を継いだだけのいち地方議員だったから、君と同じような気持ちだったんだと思うよ。なにかしたんだ! ってね。言い方は悪いけれど、あの震災は私たちにとっていいきっかけになったんだと思うんだ。すべきこと、戦うべき相手が目の前あらわれたって感じでね」
「たしかに、そんな感じだったのかもしれません」
「でもね、今、私が『神戸ソウティエム』の支援をさせてもらっているのは、君が自分で戦う相手を見つけられる人間だと分かったからだよ。本当に応援したいと思っている。できることなら、私だって現場で支援に参加したいくらいなんだ」
「遠藤さんには政治という現場があるじゃないですか。遠藤さんは遠藤さんの敵と戦ってください」
 満足げに遠藤は頷き、ウイスキーを飲み干して、ママにおかわりを頼んだ。ママが「今日はまた珍しくよく飲むわね」と遠藤をちゃかした。
「明日からチベットに行きます」と健二が切り出した。
「ああ、秘書からきいてびっくりしたよ」
「鳥取、北海道と来て、次はチベットです」と健二がそれに答える。
「本当に君はじっとしていられない人間なんだね。組織の代表なんだから、もっとドンと構えることも必要だと思うんだがね」と少し皮肉っぽく遠藤が言う。
「分かっているんですけど、現場が僕の原点であって、いや、僕には現場しかないのかもしれないです」
「私が政治家をしているように」
「そうだと思います」
「止めはしないけれど、本当に無事で帰ってきてくれよ。せっかく『神戸ソウティエム』も組織として固まってきたんだから、代表に何かあったら困るからね」
「心配しないでください遠藤さん。僕は不死身ですから」と健二がおどける。
 それが2人の最後の会話となった。山本健二はチベットの震災支援の途中でがけ崩れに会い亡き人となった。
 遠藤はそれでも、その後も『神戸ソウティエム』の支援を続けた。幸い健二が亡き後も遺志を引き継いだ多くの若者が組織を育てた。そして、『神戸ソウティエム』は国内でも最大級のボランティア組織に成長し、遠藤も政治家としてその名を知らない人はほとんどいないような大物へと成長していった。
 そして、東日本大震災が起きた。
『神戸ソウティエム』はそのノウハウをフル活用して、現場で指揮を執り、支援の先頭に立った。遠藤はまた『神戸ソウティエム』への支援を強化し、暇を見つけては自分も被災地への支援活動に一政治家としてではなく、健二の遺志を受け継いだ、一活動家としても現場に足を運んで支援活動に参加したのだった。 
第10話 本当の息子たち

 高志がまるで睡眠薬のような退屈な授業を終えて、学校を出ると、そこには前にもなんどか見たようにライダースジャケットでバシッと決めた木崎が待っていた。
 高志は思わず、木崎に駆け寄った。
「捜査は終了したんじゃないんですか?」
「最終対決ってところだ」と木崎はもったいぶるような口調で言う。木崎は状況を楽しんでいるのだ。
「対決?」高志にはそれの意味することがよくわからなかった。
 木崎は手短に事の経緯を説明した。
「俺は真鍋と言う新聞記者に雇われて、遠藤の生前の姿を取材する仕事をしてたんや。真鍋さんはすでにことの真相に迫っていて、それで、遠藤の妻、千鶴との会合を彼がセッティングしてくれたってわけや」
「遠藤の妻?」と首をかしげる高志の胸は大きく高鳴っていた。
「そうだ、お前の父親の正妻にあたる女性だな」
「はぁ」と言いつつ、高志はまだ事態を飲み込み切れていなかった。真相に迫ることを諦めかけていたところに、あまりに急な展開がやってきて面食らっていた。
「その遠藤の妻、千鶴との会合に、お前とお前の母親の同席も認めてもらえた。今週の日曜日、13時に芦屋にある遠藤議員の実家に向かう。俺たちは12時半にJR芦屋駅に集合や。いいな。母親をちゃんと説得してくれ」
「うちの母親も?」
「そうだ」
「お前の母親はすでに今村弁護士と接触しているのだから、驚くこともないやろう。誰が何をどこまで知ってるのかようわからんが、この会合ですべて明らかになるはずや」と木崎は得意げに言い放つ。
 高志は、遠藤の、たぶん自分の父親であるだろう人間の家に行くということがどういうことなのか理解できなかった。母はなんというのだろうか。自分の母は正妻ではなかったわけで、遠藤の妻、千鶴とは今はどのような関係なんだろうかと心配にもなった。遺産の話は、決着はついたのだろうか。分からないことが多すぎて、考えても仕方ないという気さえしてくる。
「すべてのカードが出そろったんや。みんなで本当の話を聞こうじゃないか」と高志の肩をポンッとたたいて、木崎はさっそうと坂をおりて行ってしまった。
 家に帰ると高志はすぐに母親に会合のことを話した。遠藤家に日曜日に招待されたと。こずえは少し面食らった様子だったが、すぐに何かを覚悟したような態度で、そのことを了承した。

 高志とこずえはいつもとは違った静けさの中、日曜日の朝を迎えた。冬の空は低く、それでも青く澄んで、空気はきりりと冷たかった。二人は連れ立って家を出た。彼らが芦屋駅に着くと、そこにはすでに木崎と話に聞いていたライターさんが待っていた。
木崎、真鍋、高志、こずえは軽くあいさつを交わしてタクシーで遠藤家へと向かった。遠藤家は芦屋駅をさらに北へ上がった閑静な住宅街にはあった。
一行が到着すると、秘書の吉田がスーツを来て待ち構えていた。遠藤家の大きな門をくぐると、その敷地には池を中心に配した大きな庭園があり、それを石畳に沿って越えていくと母屋とあと何件かの建物と倉庫が見える。一行は母屋へと通された。広い和風の玄関を抜けて、秘書の吉田に導かれるまま大きな和室へと通された。
「こちらで奥様がお待ちです」と言って秘書の吉田がふすまを開けると、巻貝のように頭をまとめて和服を着た千鶴が立ち上がって笑顔で一行を出迎えた。
「ようこそおいでくださいました。このような日が来るとは思いもしませんでした」と深々と頭を下げる。
 進められるまま真鍋、木崎、高志、こずえの順で座布団に座った。ヒノキの立派なテーブルの向こう側に座る千鶴が丁半ばくちのディーラーのように見える。
 秘書の吉田が人数分のお茶とお茶菓子を持ってきた。こずえが吉田を手伝いお茶とお茶菓子がそれぞれの前に配された。
「まぁ、ご遠慮なさらず、ご自宅と同じようにくつろいでください」と千鶴が皆に声をかける。
「それでは」と真鍋が会を仕切るように話を始めた。
「今日は故・遠藤議員に関するインタビューに応じていただいてありがとうございます。記事は先日、合意させていただいた内容でまとめさせていただくと約束させていただきます」
「はい」と千鶴の目は真鍋をしっかりと見据えている。
「それでは、千鶴さん例のものを」と真鍋は千鶴に促した。
「はい」と千鶴は目線をこずえと高志に順番に送ってつづけた。
「こずえさん、おひさしぶりね」とやわらかな表情で千鶴が言う。
「このたびはご愁傷さまでした」とこずえが頭を下げる。
「あの人も自分のしたいことを存分にされたのですから、少し早かったとは思いますが、思い残すことはないと思います。ところで、こずえさんはお元気?」
「はい、なんとかこの子と二人でやっております」とこずえがちらりと高志に目線を送る。
「この子が高志君なのね。どことなく健二さんに似ているところがあるように見えるわね。目元なんてそっくりじゃない?」
「ええ、成長するにつれてどんどんあの人に似てきます」
木崎と高志は同時にこずえに向かって驚きの目線をやった。あのひと?
たまらず木崎が割って入った。
「あの人というのは?」
「あら、ご存じなかったのね」と千鶴は少し驚いたような表情を浮かべた。
「健二さんはある時期、遠藤の下で働いてくれていた人です。遠藤が政治活動を成功させるための実働部隊だったと言っても過言ではありません。健二さんが『神戸ソウティエム』を大きくしてから、それはまた違った関係にはなりましたが」
 木崎も高志も話について行けていなかった。すると、こずえが千鶴に応えて話を始めた。
「はい、遠藤様、千鶴様には大変お世話になりました。震災の時に助けていただいたのも、健二さんとの仲を取り持っていただいたのもお二人でした」
「ええ、あの時はみんなが必死でしたね。健二さんがいなかったら、遠藤もあのような機動力を発揮できなかったことでしょう」
 依然、話から取り残されてしまっている木崎がさらに質問する。
「健二さん、っていうのはいったいどなたなのでしょうか?」
 高志が、待ってました! と言うような目で質問する木崎を見やり、答えを求められた千鶴とこずえへとを交互に見やる。
 こずえは、高志を見て言った。
「健二さんはあなたのお父さんよ。ずっとちゃんと話せなくてごめんなさいね」
 ここで木崎と高志は自分たちが持っていた仮説がすべて崩れ去ったと分かった。高志は遠藤議員の隠し子ではなかったのだ。
こずえは二人の気も知らずに続けた。
「帰ったらまたゆっくり話してあげるけどね、健二さんは遠藤先生の元で阪神大震災の時に被災地への救援物資を届けたり、現場の状況を遠藤先生の事務所に伝えたりするお仕事をしていたの。その時に私は彼と出会って付き合うようになったの」
 高志は話を理解しようと努めるが、うまくいかない。
「健二さんは日本の各地で地震が起こるたびに鳥取や北海道って飛び回ってたの。それで、私の妊娠が分かった時に、結婚しようって言ってたんだけど、チベットで大きな地震があって」と、そこまでこずえが話したところで、千鶴が割って入った。
「立派な青年でした。遠藤もとても評価していました。本当は政治家として育てたかったようです。けれど、健二さんは現場を重視されていたようでしたね。あんな事故さえなければ」と千鶴は悔しそうに目線を落とした。
すると真鍋が2人の女性に変わって説明を続けた。
「山本健二さんはチベットの震災支援に向かって、その二日後がけ崩れにあって亡くなっていますね」
「そうです。あの人らしいことです」と言いこずえは大きく息を吸って、吐いた。
「あの夜は、遠藤もそうとう悲しんでいました。あんなに泣いている彼を見たのはあれが初めてだったように思います」と千鶴は懐かしそうにそう言いながら、立派な箱を取り出した。
「これが遺書にありました、遠藤から健二さんの息子さんへの贈り物です。今村弁護士から聞いていると思いますが、手続きも済みまして、正式にこれを高志君に譲れることになりましたので、お持ちください」
 こずえがその立派な箱を受け取り、高志に渡す。部屋にいる全員が高志に注目する。高志が箱をテーブルの上で開けた。中には数百万はするだろうと思われるローレックスの時計が入っていた。
「お前これ!」と木崎はつい声に出してしまう。
「こんなものもらっていいんですか?」と高志が千鶴に遠慮がちに言う。
「ええ。あなたは遠藤を支えた健二さんの息子さんなんですから。本当は健二さんに渡したかったらしいのだけれど、彼はあちらこちらに飛び回っていて渡すタイミングがなかったらしいの。この時計は遠藤が神戸の大震災での貢献を認められた時に記念で購入したものです。けれど、その功績の大部分は健二さんの支えによるものでしたから、あの人も健二さんに持っていてもらいたかったということなの」と千鶴はとても優しく、しかし力強い声で話す。
 高志は、深く息をついた。礼を言わなければと思った。
「ありがとうございます。僕は何も知らなかった」つい口から出てしまった言葉だった。
「お母さんを責めてはいけませんよ。それに健二さんも。ふたりとも立派にあなたを守ろうとしたのです。こずえさんが健二さんのことをあなたに伝えていなかったのも、言うべきタイミングを待っていたのだと思いますよ。母子を置いて、ちゃんと結婚もせずに、地震の現場にすっ飛んでいくような父親と言うのは、必ずしも子供に伝えやすいことではありませんからね」と千鶴が高志をまっすぐに見て言う。
「僕は」と高志がまた何か言いかけて、言い淀んだ。
「奥様、ありがとうございます。私は何が正しいのか分からないままずっとここまで来ました。ちゃんと自分から高志に本当のことを話してやるべきでした」と言うこずえは瞳を潤ませている。
「高志君、あなたはもう大人よね」と千鶴がやさしく言う。
「はい」と高志は少し気圧される。
「じゃあ、こずえさんからちゃんと健二さんの話を聞きなさいね。きっと尊敬できる父親だと分かるから」
「はい」と高志は答え、きっとそうなんだろうと思った。
「健二さんの残した写真や文章がいくつかあるから、家に帰ったら一緒に見ようね」とこずえは涙をこらえながら高志に言った。
 高志は家族をほって震災の現場に行った父に嫌悪感は抱かなかった。むしろ誇らしい気持ちさえあった。母のこずえに対しても嫌な感情は抱かなかった。むしろ、そんな母親の気持ちに気付かなかった自分を恥ずかしいと思った。千鶴の言うように高志は大人になっているのだ。
「さて、学さん」と千鶴が木崎に声をかけた。
学さん!?
 木崎は仰天した。千鶴が自分のことを知っている? 
「洋子さんはお元気?」
「はい、あいかわらずですが。母をご存じなんですか?」
「ええ、恋敵にはなりますが」と言って千鶴は、ふふふと笑った。
スナックで働いている自分の母親とこの政治家の妻である千鶴が恋敵だった? 木崎はますます話が分からなくなった。
「とても残念なことに、洋子さんはあなたの出産に際して、遠藤の認知を断ったの」
 千鶴は木崎の目をまっすぐに見つめている。
「ですから、学さん、残念ですが、あなたには正式な相続権はありません。なんとか、遺産の一部でもと思ったのですが、法律上それはただの贈与になってしまうようです」
 木崎は慌てて質問した。
「話が全く分からないのですが」
 すると、真鍋が得意げに説明を始める。
「木崎君、何を隠そう君は遠藤智明の隠し子なのだよ。しかも、いろいろな噂はあったんだが、君が唯一ひとりの隠し子だったようだ」
「俺が遠藤の隠し子?」と木崎はぽかんとした顔で言う。
「そうらしいわね」と千鶴が言う。
「待ってくれよ。俺の父親は、母親が俺を妊娠した時にはすでに蒸発してしまっていたって聞いています」
「洋子さんらしいわね。当時彼女はキャバレーで働いていて、遠藤はそこの常連だったの。付き合いや息抜きくらいならとは思っていたけれど、洋子さんとは深い中だったようでした。遠藤にとって、隠し子の存在は政治家生命に関わることでしたから、遠藤と洋子さんの間でいくつかの約束があったようです。私もそのことを見て見ぬふりをしました」
 驚きの中にいる木崎が真鍋を見やると、彼が口の片方をあげてにやりとした表情を浮かべた。
 木崎はいったい真鍋がいつから、どこまで知っていたのだろうと思った。
「真鍋さん、遠藤に隠し子がいたことは触れてもいいけれど、木崎さんのことは記事にしない。遠藤のことは震災復興に命をささげた政治家としてちゃんと記事にするということで間違いありませんね?」
「ええ、前にお約束させていただいた通りです」
「わかりました」と千鶴は厳しい目で真鍋を見やる。完全には真鍋を信用していない様子だった。
「それでは、これにてインタビューは終了と言うことで」と真鍋が会を閉じようとする。
 千鶴とこずえが軽く頭を下げた。木崎と高志はお互いに驚きの中見つめ合っていた。
「僕と木崎くんは先に帰らせていただきますね。千鶴さんとこずえさんは募る話もあるでしょうし」と真鍋はさっと席を立って、木崎を促した。木崎の 頭はまだ混乱の中にいた。そのせいで促されるままに立ち上がってしまう。
「それでは」と真鍋は言い、木崎とともに玄関で見送られるままに遠藤家を後にした。

 芦屋の山手から降りる道すがら、木崎はほとんど喧嘩腰で真鍋に質問をした。
「いったいあんたはどこまで知ってたんだ!」
「逆に木崎探偵、君がどこまで知らなかったんだ、という話だよ」と真鍋は悪びれずに言う。
「俺が遠藤の隠し子だと?」
「この話はすべてそこから始まっているんだ」
「この話?」
「そうだ。俺が書く記事も千鶴さんとの取引もね。木崎君、君が遠藤から認知を受けていなかったせいで、君のことを突き止めるのにはとても苦労したんだ。けれどあんたの母親の口は軽かった」
木崎はなんだかバカにされているような気がして、真鍋をぶん殴ってやろうかと思った。しかし、まだ聞かなくてはいかないことがたくさんあった。
「そういえば、あのチンピラは誰がよこしたんだ?」
「あれは多分秘書の吉田さんじゃないかな。僕が千鶴さんとの取引をする前だから、俺のことを口封じしようとしたんじゃないだろうか。まぁ、その結果、君が見事に身代わりになってくれたんだんだけどね」と言い真鍋が、はっはっはっ、と快活に笑った。
「高志と俺が出会ったのは偶然だったのか?」と木崎は立て続けに質問を続ける。
「あれは運命的だったよ。俺はそのシーンの写真を撮っているんだけれど、それが記事に使えないのが本当に残念なんだ。けれど、それなりの見返りがあったから問題はないさ」
「つまり、真鍋さん。あんたはずっと俺のことをつけてたんですか?」
「そうだ。遠藤の隠し子なわけだから、そのうち今村弁護士が君に接近するのだろうと思ってはっていた。その前に今村弁護士がお前の母親との話を済ませていたのを確認していたから、間違いないと思ったんだ。けれど、まさか君が遠藤の認知を受けていなかったとは思いもしなかった」
「千鶴さんとの取引と言うのは?」
「お前、つまり遠藤の隠し子のことを記事にしないかわりに多少の見返りをね」と真鍋がニヤつく。
「それから、木崎君、君もパチンコばっかり打ってないでちゃんと働けよ。あのワゴンガールも心配していたよ」と真鍋はまだニヤニヤしている。
「あんたは本当に新聞記者なのか?」
「いい質問だ。木崎探偵。これはなかなかにいい質問だ」
「どういう意味ですか?」
「改めて自己紹介しよう、ジャガーエンタープライズ探偵社の真鍋誠と申します。以後、お見知りおきを」と真鍋が名刺を差し出す。彼は大手探偵社の探偵だったのだ。
「じゃあ、記事がどうこうと言うのは?」
「副業みたいなもんよ」と真鍋はあっさりと言う。
「やくざなやつだ」
「そういう言葉はこの土地で使うべきではないぜ。俺は俺の依頼人に従って働いたまでさ。記事の話や千鶴さんとの取引は副産物さ」
「依頼人?」
「おっと木崎君、それは探偵の守秘義務ってやつで言えないことになっている。あと、最後に言っておくが、気軽に自分のことを探偵だなんて名乗るのはよせ。本物の探偵が言うんだから間違いないぜ」
 木崎は混乱と怒りでいっぱいになっていた。
「そうだ、木崎君、最後にもう一ついいことを教えてやろう。君の母親の店。あれはもともと遠藤の所有物だったんだ。それがどういうわけか君が生まれたすぐ後に所有権が君の母親に変わっていた。どういう意味か分かるな?」
「あの店が遠藤からうちの母親への手切れ金だったということか?」
「まぁ、言い方は悪いがそういうことだな。今となってはそれが形見だというになるな」
 木崎は何も知らなかった自分にあきれ果てていた。
「それで、他にもまだ僕が知らなくて真鍋探偵が知っていることってあるんですか?」
「あのパチンコ屋のワゴンガールの子がそろそろ離婚するってことくらいだな」
「どうでもいい」
「美人じゃないか。図体はでかいけれど、美人だ」
 真鍋はにやにやとしている。
木崎はうつむいて頭を振った。

第11話 繋がる血(1)

 高志とこずえは遠藤家からの帰り道に色々な話をした。神戸での震災の話や父親の健二の話だ。
「『神戸ソウティエム』ってボランティア団体を聞いたことない?」とこずえが高志に聞いた。
「来週、その団体が学校に来て授業をしてくれるよ」
「健二さんはそこの代表だったのよ」
「えっ? あんな大きい組織の代表だったの?」と高志が驚く。
「ううん、もともとあの団体は小さなサークルだったの。私が避難していた体育館で出会った時にはたったの5人しかいなかったのよ」
「そうなんだ」
「私が炊き出しの担当をしていたら、何か手伝えることはありませんかって、健二さんがやってきたの。それで、一緒に炊き出しの料理の配給方法について考えたり、これから来る支援物資を基にメニューを考えたり。震災の中ですごく大変な状況だったけれど、私は健二さんに出会えて、彼の人を助けたいという熱心な気持ちに触れて、それで付き合うようになったの」
「そうなんだ」とつぶやき、高志は母が懐かしそうな顔をするのを見つめた。
「それで健二さんに誘われて、母さん、大学生のとkに彼と一緒に就職先を蹴って、一緒にボランティア団体の正式な組織立ち上げにたずさわったのよ」
 楽しそうに話す母親を見て、高志はうれしい気持ちになった。
「母さんがそんなボランティア団体の立ち上げだなんて想像もつかないや」
「いまではしがないパートのおばさんだものね」とこずえが笑う。
「それでね、私たちのボランティア団体『神戸ソウティエム』も遠藤先生の支援もあってどんどんと大きくなっていったの」
「知らなかった」
「ごめんね」とこずえが謝る。
「いいんだ、もう。でもなんで、二人は結婚しなかったの?」
「私があなたを妊娠してるのが分かって結婚しようと言っている時に、チベットで大きな地震があったの。それで彼は、組織の支援の範囲をアジアにまで広げたいと言って、まずは自分がいかなくてはと、チベットに行くことにしたの。必ず戻ってくると言って約束してくれたんだけどね」
「そういうことだったんだね。知らなかった」
「ごめんね」とまたこずえが謝った。
「謝ることじゃないよ。俺、もっと父さんのことについて知りたって思うよ。きっとカッコいい人だったんだと思う」
 こずえはその言葉を聞いて息子のことを頼もしく思った。千鶴の言うように、高志は大人になっているのだ。
「来週『神戸ソウティエム』の授業もあるし、もっと自分の父親のことについて勉強するよ」
「ありがとう」とこずえは涙に息を詰まらせた。

 高志は、珍しく積極的に特別授業に参加していた。
『神戸ソウティエム』の代表の佐々木が現在の活動について多くの写真を用いながら説明していた。東日本大震災で親を亡くした子供たちを支援する活動や疎開した人たちの復帰を支援する活動などが紹介された。
 高志は熱心に話を聞き、多くの質問をした。その様子をクラスの生徒は半ば面白がって見ていた。なぜなら、高志は普段からそんなに積極的に授業に参加するタイプではないからだ。だから、それが何かの冗談なのではないかと思うものさえいた。そんな中、立て続けに質問する高志が、また代表の佐々木に質問した。
「僕も『神戸ソウティエム』の一員になることはできますか?」
 高志の声は震えていた。
「もちろん歓迎です。ボランティアは誰にでも、どんな小さなことからもできます。ぜひ参加してください」と代表の佐々木は笑顔でそれに応じた。クラス中がさらに驚きの表情でそのやり取りを見ていた。
高志はみんなに注目されているのが分かったが、涙を隠さなかった。熱い涙だった。不思議な嬉しさが体の真ん中からこんこんと湧き出てくる、そんな感じがした。

繋がる血(2)

 木崎はもはやあきれ果てて疲れ果てていた。パチンコ台の前に座って無心になりたい、そんな衝動に久々かられた。真鍋とは半ばけんか別れのように、軽く「じゃぁ、またどこかで」などと挨拶をして別れ、山手幹線まで出てきたので、タクシーを拾った。
「三宮の『フィーバー177』までお願いします」
 芦屋から三宮へ向かうタクシーの中で木崎は考えた。自分が政治家の隠し子だったなんて。なんで、母親はそれを隠していたのだろう、そういう契約だったのだろうか。そういえば、あのスナックはそれで譲渡されたものらしいと真鍋が言っていたな。
 木崎は、はっと思い出した。そういえば、以前、母親の洋子が電話をしてきて、店を閉めようと思うと言っていたじゃないか。あれは、遠藤が亡くなったからかもしれないと思った。遠藤から譲り受けた店を洋子は守っていたのかもしれないと思った。自分を捨てた男からもらった店を必死の思いで守り続けた母親のことを少し不憫に思った。真鍋への怒りとともに遠藤に対しての怒りもこみあげてきた。インタビューで聞いていた人柄からすれば、洋子のことをそのように無碍に扱うようには思えなかったが、さすがに自分の子供を認知もせずに、スナック一件で話をチャラにするなんて、虫が良すぎりと、木崎はさらに怒りを膨らませた。
「すいません、やっぱり東門街のあたりで下してください」と木崎は行先を変更した。

 東門街の路地の中にある雑居ビルに入る『スナック洋子』の重い扉を開くと、木崎の母、洋子が背中を丸めてテーブルを拭いていた。
「あら、珍しいお客さん」と振り返って洋子が驚く。
「父さんのことについて、聞いてきた」
「そういえば、今日だったかしらね。真鍋さんが言っていた日は」と洋子は平然と言う。
「なんで言ってくれなかったんだよ」
「言っちゃダメだったんだもの。しょーがないじゃない」
「そりゃそうなんだろうけど、俺は息子なんだぞ」
「そうね。でも、なんかタイミングもなかったじゃない?」と洋子は悪びれるそぶりもない。
「あの人ずっとお店にお金を入れてくれていて、それが実質あなたの養育費になっていたんだから、あなたもちゃんと感謝しないといけないわよ」
「えっ、認知してもらえなかったんじゃないの?」と木崎が驚く。
「そりゃそうよ、政治家先生に隠し子なんていたら大変じゃない。だから、このお店を通じて、いろいろな方法で養育費になるお金を入れてくれていたの」
「なんだよ、それ」
「なんだよって、それがあの人の父親としてのけじめなんじゃないの? こんなお店、何十年も続くわけないじゃない。あの人がお客さんをよこしたりいろいろしてくれなきゃとっくに潰れてるわよ」
「そりゃそうか」と木崎は納得する。
「で、店、しめちゃうんでしょ?」
「そうね、あの人もなくなったことだし、良い区切りかなって。経営的には悪くないのよ、常連さんもついてくれてるし。だから常連さんたちには悪いなって思うんだけど、母さんもつかれちゃったからね」
 母の顔がさみしそうに見えたからなのか、ただ自分が混乱の中にいるせいからなのか、木崎は急にこう宣言した。
「じゃあ、俺がやるよ」
「あんたがなにを?」
「この店の経営さ」
「できるわけないじゃない。あんたみたいな素人が」と洋子がそれを一蹴する。
「分かってるやん。でも、この場所を守りたいってなんかそう思えてきたよ」
「なにそれ?」
「母さんが守ってきた場所だから、母さんが疲れたんなら俺がやるよ。もちろん母さんにも教えてもらわなくちゃいけないことも、手伝ってもらわないといけないことも多いだろうけどさ」
「あんた本気なの?」
「うん、なんかわからんけど、俺がやらなあかんなって気がすんねん」
「バカね」
「何とでもいったらええよ」
 木崎は不思議な使命感を感じていた。何も知らないで置き去りにされていた自分がやっといるべき場所に追いついてきた、そんな感じ。自分や父や母にまつわる多くのことを理解した今、彼は遠藤が、つまり自分の父親が、洋子に託し、それで洋子と自分を守ってきたこの店を、今度は自分が守っていきたいと思った。
そうこうしていると、バイトの綾子ちゃんとみっちゃんが連れ立ってやってきた。
「あれ、学さん、珍しい! お手伝いですか?」とみっちゃんが明るく声をかける。
 洋子が大きく息を吸って、あやこちゃんとみっちゃんとゆっくりと見やり宣言した。
「この店を学に譲ります!」
 わぁー、と綾子ちゃんとみっちゃんが歓声をあげる。
「ってことは、お店つづけるんですね?」と綾子ちゃんが確認する。
「そうよ。このダメ息子がちゃんとやっていける限りお店は存続します。私はオーナーママからただのママになります。どう?」
「素敵!」とみっちゃんが満面の笑みを浮かべて喜ぶ。
 そんな光景を見て木崎はやっと自分のやるべきことを見つけたような気がした。使命感が体の真ん中からふつふつと湧いてくる、そんな感がした。


  
揺れ真相と息子たち

各話テーマ曲

第1話 堕落した青年
「俺の歌」 マキタスポーツ

第2話 疑惑を持った高志
「FANTASY」 LAMA

第3話 間違われた探偵
[LEGA-LHIGH」 林ゆうき

第4話 困惑する依頼者
「Neon Sign Stomp」 EGO-RAPPIN′

第5話 引退を考えるママ
「キミの話」 スキマスイッチ

第6話 運のいい新聞記者
「Get Down」 野猿

第7話 置き去りにされたボクサー
「The Remedy (I won′t worry) 」 Jason Mraz

第8話 飛び回るインタビュアー
「ラディカル・ホリデイ」 SAKEROCK

第9話 揺れる世界
「リクライム」 ROOKiEZ is PUNKD′

第10話 本当の息子たち
「How to go」 School Food Punishment

第11話 繋がる血
「サニーサイドメロディー」 EGO-RAPPIN′

揺れる真相と息子たち

揺れる真相と息子たち

毎日パチンコに明け暮れていた木崎学は景品交換所である男を追う少年と出会う。ほんの遊びのつもりでその捜査を手伝うことした木崎だが、その捜査によって意外な真実にたどり着くことになる。なんちゃって探偵小説。

  • 小説
  • 中編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-22

Copyrighted
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