ひとしずく

夏の夜に溶け込んで

目を覚ますと、まだ辺りは暗かった。秒針の音が妙に大きく聞こえる。
窓を開けたまま眠っていたおかげか、暑苦しさはない。露草が風で揺れる。
鈴虫が静かに、しかし空気を小さく揺るがすように音を奏でているこの時間が、私は好きであった。
何もないようで、何かがある空間に浸る。
無音のようで、音はあって、
真っ暗のようで、ぼんやり輪廓は見えていて、
何も存在していないようで、実は私という人間が、ここに存在していて。
この不思議な感覚に侵されていく時が、異常な程に心地が良かった。
浮力に身をまかせるかのようにゆっくりと体を起こし、窓の外に目を向けた。
ぽつぽつと灯る街灯、時折走り抜ける車、何よりも大きく広がる群青の中に見える、無数の星。
全てが涼しげに見える。明暗の境目が分からない。そんな夜だった。

こんな時には決まって、自分というものについて考えてみてしまう。
不自由ない暮らしをさせてもらい、高校、大学共になんとなく過ごして卒業。就職も難なくできてしまっていて、今に至る。
学生時代、道を踏み外したこともあった。親に迷惑をかけることも何度だってあった。
今でも友人を傷つけてしまうことはある。恋人を泣かせたことも。

そんなこともあったな、と今だから口にできる。

私がここまで来るのに、それはそれは長い道のりであった。楽しい時間は早く過ぎるという。私の人生はなんともないものであったのか、はたまた苦しんだことの方が多かっただけなのか。

誠実に生きよう。そう決めたのもつい4年ほど
前のことであった。その言葉に軸などない。だから今も、誠実でいるかどうかは、わからないままである。
三十路にもなってみれば達観するものだと思っていたのに、いざなってみても、自分自身のことさえ分からない有様だ。
人を傷つけるという事実が、いかに自分を傷つけるのか。
このことを考え始めたのも最近の話である。

外の景色が揺らめき始めた。頬に温もりが伝わり、温もりが冷たさに変わる一瞬で、世界は揺るぎないものになった。
いつもこうだ。涙はいつも、私を前には進ませてくれない。

横で動く音がしたので、顔をそちらに向けた。今となっては輪廓が明確になり、私の目は妻の姿を映した。
彼女が私の涙に気づいていることも、なんとなくわかった。
「まだ起きるには早いでしょう。」
そう言って彼女は再び目を閉じた。露が落ちる音が、パタ、と鳴る。
言の葉少なく2人の世界も閉じた。
私はまた、窓の外を見た。まさに夜が明ける時であった。
この光が、世界をひっくり返したかのように変化させる光こそが、私の汚れた過去を、傷を、眩しさで見えなくする。
後悔が薄れていく。
そして濡れた頬は次第に乾いていき、私は、今日という日のスタートラインに立つのである。
そっと彼女の手を握る。この温もりが冷え切っていくまでの数十年、私は彼女の存在を、そして私という存在を、命を重ねながら確かめていくのだろう。

秒針の音が小さく感じる。鈴虫が揺らしていた空間は揺るぎを止めて、落ちた露は潤いを求めて空へ消えていく。
今私が動いた音だけが、何よりも大きく聞こえるのだった。

ひとしずく

ありがとうございました。
夜って普段は考えないようなことも考えてしまいますよね
夏の夜は特に不思議な世界観で
なんでもないようなことでぐるぐるしてしまったり
私はよくあります
みなさんはどうですか?

ひとしずく

夏の夜のおはなし

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-20

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