*星空文庫

牛男

根木珠 作

牛男
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1

 〈牛〉の背中は生まれつき、奇妙に曲がっていた。
 曲がった背中が痛むので、歩き回るのは大変だった。少し歩いただけで疲れてしまう。それ以上に、人々の視線が恐ろしかった。街の明るい雰囲気や人々の視線が、ここはお前のような醜い者のいる場所ではないと言っているように感じる。群衆のなかに身を置くことは常に苦痛だった。
 目的の店を見つけ、入る。
「いらっしゃい」
 店主の声に、〈牛〉は軽く会釈をする。赤い口紅はあるかと小声で尋ねた。すると店主は、少々お待ちをと言い店の奥に引っ込んだ。
 しばらくすると、店主が赤い口紅を持って出てきた。代金を支払う。店を出る。帰路につく。
 居間の扉をそっと開けると、主人はソファに持たれ、茶を飲んでいた。
「ただいま戻りました」
「ごくろう。それをここへ」
「はい」
 〈牛〉は買ってきた口紅を主人のそばにあるテーブルに置くと引きさがり、掃除を再開した。
 その夜、屋敷に来客があった。長い黒髪の、肌の白い、唇の赤い女だった。
 翌日、〈牛〉は荷車を押して歩いていた。主人に使いを頼まれていたのだ。暗い森へ入る。道が悪く、荷車が揺れた。すると
 ごとり
 と音がした。
 荷車に詰めた、女の死体がたてた音だった。

2

 道行く人々は〈牛〉を見ると、一様に不快そうな顔をした。子どもは石つぶてを投げた。女は〈牛〉のほうを見ようともしなかった。

 路地裏の一画が〈牛〉の居場所だった。一日中座り続けたので足が痛くなった。〈牛〉は、少し歩くことにした。
 なるべく人気(ひとけ)のないところを選んで、曲がった背中をよりいっそう丸めて歩いていると、小径(こみち)があらわれた。〈牛〉はその道を入る。草木が生い茂り、土の匂いが〈牛〉の鼻をくすぐった。ふと脇へ目をやると、そこだけぽっかりと、日の光がよくあたっている場所があった。〈牛〉が、導かれるようにして足を向けると、そこにはひとりの少女がいた。少女は花を摘んでいる。摘んだ花を繋げて輪にしていた。少女は〈牛〉に気がつくと、にこりと微笑んだ。〈牛〉は狼狽えた。人々は自分のことを気味悪がったが、少女には少しもそのような様子がなかった。こちらへどうぞと少女は言う。〈牛〉は、恐る恐る少女のそばに近づくと腰をおろした。そして少女と同じように、花を摘んだ。日だまりのなかでそうしていると、とても穏やかな気分になった。
 どこからか、声が聞こえる。人を呼んでいるようだ。はっとして少女は立ち上がり、服の裾についた草の葉を払うと、声のするほうに駆けて行った。あの呼ぶ声は少女の母親だったのだと、〈牛〉はしばらくしてから気がついた。
 〈牛〉は、少女がつくった花の輪を拾い、路地裏に戻った。
 翌日、〈牛〉が道端で毛布にくるまっていると、子どもたちのはしゃぐ声がした。毛布から顔を出すと、そばに置いていた花の輪は壊され、あたりには花びらが散らばっていた。

3

 寒い日のこと。突然、見知らぬ若者五、六人に襲われた。路地裏に座っていたところを囲まれ、耳を引っ張られ、頭を殴られ、腹を蹴られた。〈牛〉は痛さのあまり声も出なかった。意識が朦朧とするなかで、若者たちの笑い声が聞こえた。

4

 〈牛〉は屋台の裏で残飯を漁っていた。すると猫が来て、獲物を掠めとっていった。

5

 ある朝、〈牛〉が目覚めると、顔のすぐ横に幼い少年がいた。驚いて起き上がると、少年は、ぬっと手を出した。その手には何かが握られていて、〈牛〉に渡そうとしている。〈牛〉は受けとる。匂いを嗅いで、どうやら食べ物らしいとわかる。少年はにこりともしない。食べ物を〈牛〉に手渡すとすぐに立ち去った。
 次の日もまた次の日も、その少年は〈牛〉のもとへ来た。毎日、同じぼろを着ていた。
 少年は〈牛〉を、〈友だち〉と呼んだ。この路地裏に来て初めて〈牛〉は、友だちができた。少年はゆっくり話し始めた。家族のこと、家が貧しいこと、祖母が優しいこと、祖母が語って聞かせてくれるお話なども話してくれたのだった。その物語に〈牛〉は心を奪われ、時の経つのも忘れた。
 ある日、少年は本を持ってきた。
「このご本、読んでいいよ」
 少年が、〈牛〉に本を渡そうとする。
「ご、めん……なさい、おれは、字が……読めない……」
「そうなんだ。じゃあ読んであげる」
 そう言うと少年は、本を朗読し始めた。
 それは一枚の木の葉が、生きて、死ぬまでのお話だった。
 〈牛〉は何も言わず、ただ黙って聞いていた。
 朗読が終わると少年は、〈牛〉の方を見た。
「どうしたの、そんな悲しそうな顔をして」
 〈牛〉は、指摘されてもまだ、自分がどうしてそんな顔をしているのかわからなかった。わからないので説明をすることができず、狼狽えていた。
 あ、と少年が声をあげる。
「ぼくもう帰らないと。お母さんに怒られちゃう」
 じゃあね、と手を振って、少年は帰っていった。
 少年はたびたび、〈牛〉のもとを訪れた。

6

 暑い日が続いていた。〈牛〉は川へ行き、水を浴びた。ついでにぼろぼろになった服も洗い、木の枝に干し、しばらくぼうっとしていた。服が乾いたか確認する。生乾きだが着る。いつもの路地裏に戻る。

7

 いつしか少年は来なくなった。
 〈牛〉は、食べ物をくれる人間がいなくなったため、自力で探さざるを得なくなった。久しぶりに残飯を漁ると以前より惨めな気分になった。路地裏には〈牛〉と同じように、地べたに寝転んでいる人たちがいる。すきっ歯の酔っぱらいを捕まえると〈牛〉は、食い物をくれ、と言った。彼は「せむしにやるもんなんかねえよ」と言うと〈牛〉にツバを吐きかけた。〈牛〉は激昂した。おとなしい〈牛〉には、人に対して怒るなど初めてのことだった。酔っぱらいの胸ぐらをつかむと思い切り顔を殴った。彼は驚愕した顔で〈牛〉を見た。「いてえ。なにしゃあがんだ」と叫ぶが〈牛〉は気にせず殴り続ける。酔っぱらいが言葉を発することもできない状態になって、やっと〈牛〉は落ち着いてきて、いつもの毛布に戻った。酔っぱらいは何本か歯が抜け、すきっ歯がさらにひどくなった。

8

 路地裏でぼうっとしていると、小奇麗な格好をした紳士が歩いてきた。この辺では見かけないな、と〈牛〉は思った。その紳士は、ゆっくりと路地裏の様子を観察していた。〈牛〉のそばまで来ると、まじまじと見て、ううむと唸った。〈牛〉はまたか、と思った。背中の曲がり具合が人々の嫌悪を誘う。自分を見た人間はみな異様なものを見たといった顔をする。数分の間そうしていた紳士は、しゃがんで〈牛〉と目線をあわせた。
 うちに来なさい。
 そう、紳士が言ったように〈牛〉には聞こえた。我が耳を疑った。聞き返す。紳士はもう一度、はっきりと、うちに来なさい、と言った。

9

 見知らぬ紳士に拾われた〈牛〉はその後、紳士の住む屋敷で働くことになった。仕事は簡単な掃除などである。佝僂(くる)ではつらかろうと紳士は言った。いえ、このくらいは、と〈牛〉は答える。この屋敷は広く、掃除をするだけでも、たしかに体は痛む。けれども、このような場所で、ただ、何もせずにいるというのは、落ち着かないことだった。〈牛〉は少しずつ、紳士の優しさに(ほだ)されていった。
 日課になった掃除をしているときだった。
 その紳士は女性を部屋に招じ入れると扉を閉めた。その女性は数日経っても屋敷から出てこなかった。〈牛〉は来客があると必ず出迎え、見送りをするのであるが、この女性を見送りしていないために不思議に思った。
「ご主人様」
 〈牛〉は紳士を呼んでいた。
「先日のお客様が、お忘れ物をしたようなのですが」
 手には口紅があった。
「……ああ。渡しておこう」
 紳士はそう言って口紅を受けとり、自室へ戻った。
 紳士には、とりたてて変わった様子はなかった。だが、ほんの気まぐれで、〈牛〉は紳士の部屋の戸にある小窓を覗いた。
 そこで見たものが、〈牛〉の人生を大きく変えた。

10

 主人に、女を殺す性癖があるのを知ってからというもの、〈牛〉はいつもその後の処理を請け負うこととなっていた。主人が「無理をするな」と言うのももっともで、死体は重かった。それを毛布でくるみ荷車に乗せ、運んで森に埋める、という作業は〈牛〉の曲がった背中にかなりの負荷をかけた。それでも〈牛〉は死体を埋め続けた。
 森に着き、穴を掘る。女の死体に、真っ赤な紅を塗ってやる。土を被せ、紅を穴の傍に置く。この一連の作業を〈牛〉は、埋葬の儀式として行っていた。

11

 男性客が訪ねてきていた。主人の友人らしい。しばらく談笑をしていた。ではそろそろ帰りますという声を聴いて〈牛〉は見送りに玄関へ向かった。
「ああ、すみませんが」
 男性は〈牛〉を呼んだ。
「大通りへはどう行ったらいいのですかね」
 〈牛〉が身振りで教えようとすると、男性は、
「すまんが、案内してくれんかね」
 と言った。〈牛〉は、かしこまりました、と言うと、男性を案内すべく外へ出た。歩いていると男性が話し始めた。
「いやあ、申し訳ない。土地勘がなくてね」
「いえ……。お気になさらず……」
「ところであのご主人なんですがね」
「はい」
「近ごろ、変わった様子はないですか」
 男性は〈牛〉の目を、まっすぐに見た。
「……いえ」
 少しの間があり、〈牛〉は、とくにありません、と答えた。
「そうですか……。いえ、妙な噂を聞いたものですから。ほら、女性の行方不明が多いじゃないですか最近」
「そのこととご主人様が、何か」
 〈牛〉は男性の顔を見る。
「ああいえ。ほんの噂ですから。お気を悪くされたなら申し訳ありません」
 男性は帽子をとり、軽くお辞儀をする。〈牛〉は、いえ、と言い、男性の射るような目から、目線を外した。
「あ……大通りは、この先です……」
「おや、話しているとあっという間ですね。どうもありがとう」
 男性は会釈をすると、大通りへ向かった。〈牛〉は男性のうしろ姿を見ていた。と、
「ああ、そうそう、言い忘れていましたが」
 男性は振り返った。
「あの赤い口紅……」
 〈牛〉は一瞬、体がこわばる。
「なぜわざわざ、現場に残すんですかねえ? 足がつくようなものを。あ、いえ、こちらの話です」
 すみませんね、では。男性はにっこりと〈牛〉に笑いかけ、去っていった。その姿が見えなくなってもしばらくの間、〈牛〉はその場に立っていた。

12

 







 

13

 屋敷に戻ると、主人が〈牛〉を呼んだ。
「どうだ最近、体のほうは」
 主人はソファにもたれ、茶をすすっている。
「はい、だいぶいいです……おかげさまで……」
「うん」
 窓の外を、主人は見ていた。
「牛、おまえの〈仕事〉のことだが」
 死体の処理のことだ。
「はい」
「時間帯と、道順を変えたらどうかね」
 主人は〈牛〉のほうを向き、物腰柔らかく提案をする。やはり、と〈牛〉は思った。やはり主人も、あの男性から何か言われたのだ。
 はい、と返事をすると軽く会釈をし、居間を出る。
 扉を閉めて、〈牛〉はふっと息をついた。

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 また例の客が来ている、と〈牛〉は気づいた。
 一階の居間から話し声が聞こえてきたからだ。
 他愛ない世間話のようだが、男性はしかし、何かを探っているようだった。
 男性が暇(いとま)を告げると〈牛〉は見送るべく玄関へ向かう。
「ああ、悪いのですが」
 男性は〈牛〉を見て、
「まだ道を覚えていませんでね。ここへ来るときも人に尋ねながら来たものですから」
 そこまでお見送りいたしましょう、と〈牛〉が言う。男性はにこにこしながら、いつもすまんね、と言う。主人の顔には笑顔が浮かんでいる。だがその笑みの向こうに、猜疑と警戒があるのを〈牛〉は見た。

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 朝、目が覚めると体が痛く、起き上がるのが辛かった。昨夜の疲れが出ているのだ。それでも少し、気分転換をしたい、と〈牛〉は思った。散歩をしよう。外套を着込み長靴を履く。外へ出る。よく晴れた、風の冷たい朝だった。思い切り空気を吸い込むと、魂が浄化されるような気がした。空を見る。鳥が飛んでいた。

 散策するのにちょうどよい小径があった。いつか見たような懐かしさを感じた。〈牛〉はその小径に入る。歩いていると、少女がいた。年頃の娘らしくおさげを結い、美しい服を着ていた。〈牛〉は逡巡した。立ち止まって娘を眺めていると、その娘が〈牛〉を見た。〈牛〉は身構えた。叫ぶか逃げるかするだろう、と思ったからだ。だがその娘は、〈牛〉に、ふっと笑いかけてくるのだった。驚いて口もきけないでいる〈牛〉に、娘は関心がないのか、またくるりと向きを変え、小径の向こうを眺めた。〈牛〉はつられてそちらを見る。は、とした。この娘はひょっとしたら、かつて出会った少女かもしれない。確かめる術はないが、しかしきっとそうだと〈牛〉は思った。娘は座り、そこにあったはずの花、今はない花を、摘むような素振りをした。悲しそうだと〈牛〉は思った。それからその距離を保ちつつも〈牛〉は座り、草をむしった。娘はしばらくぼうっとしていた。おもむろに立ち上がると幽霊のように歩いた。心ここにあらずというふうで、〈牛〉は心配になった。

16

「僕はね、彼とは長い付き合いなんですよ」
 少し歩き、屋敷から数十メートル離れたころ、男性が口を開いた。
「そうなんですか……」
 〈牛〉は男性を見ずに返事をした。
「そう。彼は昔から穏やかな性格でね。優しすぎるきらいがある」
 わかります。〈牛〉は心の中で賛意を示す。
「見ているとね、はらはらするんだ」
 騙されやすいし。男性は、遠くを見ながらそう話す。
 〈牛〉は黙って聞いている。
「彼には思い詰めるところもあって。思慮深いといえば聞こえはいいんだがね」
「そうでしたか」
「まあ、そんな彼だから、君が慕うのもわかるよ」
「はあ」
「……話は変わるんだけれど、口紅の件ね」
「……」
「あれはさ、誰かがあえて置いていったことは間違いないんだ。だが、なぜ置いて行ったか……。僕はね、罪を被る気だと思うんだ」
 〈牛〉は静かに聞いている。
「つまり、死体を埋めて口紅を置いていった人間が、女性たちを殺害した人間とは別にいて、なおかつその人間の罪を被ろうとしている。そこまで甲斐甲斐しく働く理由は何か」
 男性は〈牛〉を見つめる。〈牛〉は前方を見ている。
「ただ慕っているというだけで、果たして、ここまでのことができるだろうか。いや、できるかもしれないが……、僕が思うに、この口紅を置いていった人間はおそらく」
 そこまで一息に喋ると男性は一呼吸の間を開け、再び口を開く。
「自らの破滅を、望んでいるんじゃないかな」

17

 いつものように、赤い口紅を買って来るようにと主人に頼まれた〈牛〉は、店に向かっていた。店主には、赤い口紅を買う客、として憶えられている。なにも言わなくても口紅が出てきた。買い物を済ませ屋敷に戻る。すでに客が来ているようだった。〈牛〉は主人と客に茶を淹れ、居間へ運んだ。そのときふと、客の女が視界に入った。〈牛〉は、あっと息を呑んだ。散策したときに見かけた娘だった。いつか出会った少女かもしれないその娘は、これから殺されようとしている。その運命を知るはずもない娘はしかし、運命を悟り受け容れたかのような表情で、ソファに座り主人と語らっているのだった。なぜそう見えたのか、〈牛〉にもよくわからなかった。
 すぐに、というわけではない。
 女を招き、その夜すぐ殺すわけではない。多くの場合、数日間は屋敷で過ごす。主人は一見すると穏やかな紳士なので警戒されない。実際に主人の性格は慈悲深く、貧しい人たちへの慈善活動なども行っているようだった。

18

「かわいそうね」
 記憶。
 慈善活動をしているらしい中年の女が、〈牛〉に話しかけてきた。そして見たこともない食べ物と、数枚の紙幣を、〈牛〉に渡した。
「これは神からのお恵みです」
 〈牛〉は何も言わず、女の顔を見上げた。そのまま〈牛〉が黙っていると、女は不機嫌になった。
「……ああ、教養がないのね」
 女はそう言うと、隣の女に、教育を受けられない彼らがかわいそうだ、彼らの人権が侵害されている、という旨の話をしていた。隣にいた女も神妙な顔でそれを聞いていた。
 記憶はそこで途切れている

19

 主人はあの女たちとは違う、と〈牛〉は思った。
 自分にもあの少女にも、そういったほどこしを上から目線で行うことも、それによって己を善人だと思い込むこともなかった。今日、招いた娘に対して抱いているそれも、主人の思いやりなのだと〈牛〉は考えている。
 失踪しても捜索する身内のいない者。親のいない娘。天涯孤独の少女。旦那を亡くし生きる気力を失った女。そういう者ばかりを招じ入れている。女たちもまた、主人のそういう行いを知っていて運命を受け容れているかのようだった。
 二人が茶を飲んだ食器をテーブルからさげて洗い、〈牛〉は自室に戻りベッドに横になった。体を横たえると背中も少し楽になった。そうして体を休めていると、眠くなってきた。そして〈牛〉は浅い眠りに落ちた。

20

 〈牛〉は先日の男性との会話を思い出して、苛立っていた。嫌な感じだ。
 しかし、と思う。
 彼の最後の言葉……自らの破滅を望んでいる、というのは、否定することができない。〈牛〉にとって自分の人生は大事ではない。仮に、主人のために死ねと言われれば喜んでそうするだろう。自分には、主人に尽くすよりほかに、生きていく理由など、この世にしがみつく意味など、まったくないのだから。

21

 主人が病気をした。
 なんでもない、ただの風邪だ、と主人から聞かされているが、〈牛〉でなくとも風邪でないとわかるほど症状は重く、日に日に悪化しているのだった。
「ご主人様……具合いが悪いのでしたら私が……」
 主人が自分で茶を淹れていた。〈牛〉は休みだった。
「問題ない。いいから休んでいなさい」
 そう言うと主人は、働き者の〈牛〉を無理やり休ませるのだった。

 翌日、屋敷のそうじをしていると、
「牛」
 呼ぶ声がして〈牛〉は振り向いた。
「頼みたいことがある。あとで来なさい」
 一段落すると、〈牛〉は主人のいる居間に入る。
「失礼いたします」
「うむ」
 主人はソファにゆったり腰掛けていた。
 〈牛〉は床に転がっているものを見た。
「これは……」
 〈牛〉が主人に問う。
「それを、あとで処分しておいてほしい」
 〈牛〉はそれを見たことがあった。何度となく見た、はずだった。だが、すぐにはそれとわからなかった。
 床に転がっていたのは、いつも口紅を買っている店の、店主だった。
 〈牛〉は店主の顔を、よく見たことはなかったため、すぐにはわからなかった。不思議そうな〈牛〉を見て、主人が、これはあの店の者だと説明した。店主が死体になって初めてじっくりと顔を見ることができた。苦悶の表情はなかった。眠っているかのようで、今にも寝息が聞こえてきそうだった。主人が男を殺すのは珍しいことだった。〈牛〉は何年も従事してきたが、殺すのはいつも女だった。これは、と〈牛〉は思った。口紅はもう不要だということだろうか。容態がいつ急変してもいいように、準備をしているのかもしれない。
「牛」
「はい」
 主人は、〈牛〉の目をじっと見た。
「今まで、いろいろと、すまなかった。ありがとう」
 〈牛〉は、主人がもう長くないことを悟った。

22

 早朝、〈牛〉は目が覚めるとすぐに店主の死体を荷車に積み、森へと向かった。
 主人がもうすぐ死ぬ。このことについて自分は、どう受け止めればいいのだろう。〈牛〉は考えていた。自分は今、落ち込んでいるのだろうか。戸惑っているのだろうか。これからどう生きていこうか。主人がいなければ自分は何をして生きていけばいいのか。何年もの間、屋敷で働くことで、主人に仕えることで自分は、この世にやっと留まっていられたというのに。誰かに必要とされることで、自分自身を赦せていたのに。
 どん、という音がして、〈牛〉は我に返った。何の音だろう。〈牛〉は後ろや下、まわりを見る。何もないことを確認し、荷車のもとへ戻る。視界の端で、何かが、ふっと動いた。〈牛〉は驚いた。誰か、あるいは何かがいる。それでも、仕事を遂行せねばならない。森に向かい、死体を埋めて来なければ……。
 黒い影があるようだが、あまりそちらを見ないよう、まっすぐ前を見て、徐々に、前に進んでいった。早朝の森には霧が出ており、視界が悪かった。
 人間の息づかいのような物音を、〈牛〉は聞いた。何かがここにいる。その気配を発している存在が、
「牛さん」
 と突然、〈牛〉を呼んだ。〈牛〉は驚き、ゆっくり、横を見る。そして、あっ、と小さく悲鳴をあげた。
 いつか花を摘んでいた少女が、そこにいた。
 自分は何を見ているのだろう。〈牛〉は戸惑った。これは一体、何だ。
「牛さん……、ねえ牛さん。あの人にそう呼ばれているんでしょう」
 〈牛〉はこくりと頷く。驚きと戸惑いで、声が出ない。
「あのね、牛さん……わたしね、お父さんとお母さんのことが大嫌いだったの」
 そうなんだ、と〈牛〉は頷く。
「だって、わたしがお花を摘んで帰っても、お母さんは、そんな汚いものを拾い集めてどうするんだ、って、わたしを叱ったわ」
 〈牛〉は黙っている。
「お父さんは、お酒ばかり飲んでいて、相手をしてくれなかった」
 少女は遠くを見ていた。
「それに、ふたりはこう言ったのよ。『おまえは少し、足りない』って。だからお勉強ができないんだって」
 少しの間。
「でも、あのおじさまは違ったわ」
 主人のことだ、と〈牛〉は思った。
「おじさまは、お花を見て美しいと言ったし、わたしのことを素直ないい子だって褒めてくれた」
 そうだね、と〈牛〉は呟く。
 だから、
「だから、わたしは」
 君は、
「おじさまに殺されたいと思ったのよ」
 再び、どん、という音がした。
 荷車にある、もうひとつの小さな死体がたてた音だった。

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 主人の死後、〈牛〉は主人の知り合いのもとで働くこととなった。主人は生前、〈牛〉の身の振り方を考えていたのだった。そのため〈牛〉は、再び路地裏の生活に戻ることはなかった。牢屋で数年間過ごし、主人に代わり罪を償った。その後、主人の知り合いを訪ねた。男性は親切だった。多くの召使いを抱えていた。彼らは男性のことを〈旦那様〉と呼び慕っていた。食事や掃除、洗濯など、すべての作業は分担して行われていた。そのなかで〈牛〉は、中継ぎのような位置にいた。〈旦那様〉と直接やりとりをする役割を担った。食事を運ぶ。客からのことづてを伝える。郵便物を受け取り、渡す。そのような細々としたことが〈牛〉の仕事だった。〈牛〉は充実した日々を過ごしていた。
 ある日、〈旦那様〉の様子がおかしいと〈牛〉は感じた。
「おまえ……何を企んでいる……」
 〈牛〉には、何故そんなことを言われるのか見当もつかない。普段は穏やかでにこやかな〈旦那様〉が、今は眉間に皺を寄せ、いかにも神経質そうな顔でこちらを見ている。〈牛〉は戸惑いながらも笑顔で、どうなさったんですか、具合が悪いのですか、と尋ねるが、わしは気など振れておらん、と言う。
 翌日、〈旦那様〉の食器をさげたあとのこと。
「食事はどうした」
 え、と〈牛〉は驚く。
「さきほど召し上がったばかりでは……」
 言い終わるか終わらないかというところで〈旦那様〉は〈牛〉に飛びかかった。胸ぐらを掴まれた〈牛〉は、やっとのことで、
「お、おやめください」
 と絞り出すように声を出した。
 騒ぎを聞きつけた召使いたちが集まり、〈旦那様〉を捕まえた。
 〈旦那様〉はそれ以来、常に疑心暗鬼の心持ちで暮らすようになった。〈牛〉を疑い、そして攻撃するようになった。医師は、これは病気なのだと使用人たちに説明した。〈牛〉は、たしかに以前の〈旦那様〉とは性格がまるで変わってしまったと感じていた。もっと穏やかで心優しく、慈愛に満ちていた。〈牛〉は、これが病気のせいだと知ってから、より一層、甲斐甲斐しく仕えるようになった。これは本来の〈旦那様〉ではない、ご病気なのだ。自分がしっかり身の回りのことをお手伝いしなければ。

24

 久しぶりに休暇がとれた〈牛〉は、屋敷の外に出て散策していた。近くに川がある。その上流へ向かって歩いていた。陽射しは暖かく、草原には花が咲き、小鳥がさえずっていた。
 上流が近づくにつれ道が険しくなってきた。上流のほうでは大きな岩が転がっていたのはおり、大変歩きにくかった。

 苔むした岩で足を滑らせ、〈牛〉は落ちて死んだ。



『牛男』

『牛男』 根木珠 作

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-02-20
CC BY

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