オレンジの君

幼い頃、近所にミカンちゃんという子が越して来た。変わった名前だったし、変わった子だった。
「わたし、ミカン!」
と、春に引越しの挨拶でうちに訪れた際、彼女は大きな声でそういった。彼女が、急に果物ごっこでも始めたのかと思って
「じゃあ、わたしはイチゴ!」
と言ってしまったものだから、私と彼女の間に誤解が生まれて、それからはお互いのことをミカンちゃん、イチゴちゃんと呼ぶようになった。
ミカンちゃんとは様々な事をして遊んだ。外で泥だらけになって遊んだり、かくれんぼをしたりした。それと彼女は音楽を習っていたらしく、ピアノが上手だった。私はその頃、リコーダーやら鍵盤ハーモニカやらを家で一日中吹き散らして、親や姉、終いには近所からまでも苦情が来たくらいであった。それを境に、家で楽器を吹いたり、弾いたりすることは無くなった。かわりにミカンちゃんが、うちに楽器があるから弾いていいよと言ってくれた。
だから私たちは、天気が悪い日は楽器などで遊び、天気の良い日は外に出て遊んだ。
やがて夏休みになった。天気が悪い日は無く、プールに行ったり、虫を捕まえたりと、外で遊んでばかりだった。
しかし、雨が降ったことが夏休み中、1日だけあった。
それは、私たちが神社の裏の縁の下で、蟻地獄を探していた時だった。夕立がきたと思って、
「どこかで、あまやどりしよう!」
とミカンちゃんに言った時、彼女に
「少し待とうよ」
と引き止められた。このジメジメした生ぬるい空気にはそぐわない、サッパリとした爽やかな声色だった。私は、はいともいいえとも言えず、黙って目を閉じた。雷の音や、風で擦れる木や草の音、そしてサーッという雨の音がそれらを包んでいた。そんな音を聞いているうちに雨は去っていった。
目を開けるとミカンちゃんがいつもの明るげな表情とは違う顔で立っていた。
「イチゴちゃんと見たいものがあるんだ」
と真面目な顔をして彼女が言うので、私はまた、黙って彼女についていった。
案内された場所は、公園の近くの丘だった。
私はようやく口を開いて
「みたいものってなに?」
と尋ねた。
「じゃあ10分、目を瞑って待っていよう」
と言うので私は目を瞑った。
何だか今日は目を瞑ってばかりだ、と薄眼を開けて、ちらと彼女を見た。
彼女は目を開けていた。そして真っ直ぐに前を見ていた。そこで私はまた何も言えずに、目を閉じた。
しばらくして
「目を開けていいよ」
とミカンちゃんの声がした。
私は目を開けた。
一面オレンジだった。夕焼けだ。
ミカンちゃんは私よりも少し前に立っていた。
「すごいね!ミカンちゃんのいろだね!オレンジいろだよ」
と私が言うと、ミカンちゃんは振り向いて、夕焼けよりも明るい笑顔を見せた。そして彼女はそのままそのオレンジの色に溶けていった。
「ミカンちゃん?」
夕焼けはだんだんと赤色を帯びて、私もその色に溶けてゆき、意識が途切れた。
次に私が目を覚ましたのは、自分の部屋のベッドの上だった。母と父が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。体が熱い。私は、本当に自分が赤色になってしまったんじゃないかと思い、飛び起きて自分の手の色を確認した。でもどうやら違ったようだった。
「あなた、丘で倒れていたのよ、熱があるの、一体どうしたの?」
と母が私に尋ねた。どうやら雨に当たったせいで風邪をひいたらしい。
私は母の質問に答えられなかった。
かわりに呟いた
「ミカンちゃんは」
という私の言葉は、部屋の眩しい電気に吸い込まれていった。父がその言葉を訊き返す前に、
「なんでもない」
と私がと言うと、母は
「もう寝なさい」
と、電気を消した。吸い込まれていった「ミカンちゃんは」の言葉は黒闇に閉ざされてしまい、所在が分からなくなった。
熱が引いてから、彼女の家に行ったらもう別の人が住んでいて、2日前に越して行ったことを知った。そして私はあの夏の日以降、彼女に会うこともなかった。

オレンジの君

オレンジの君

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-14

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