評伝 『秀(ひい)でた遺伝子』  -佐久間象山と宮本家の人々- 《下巻》 

『 秀(ひい)でた遺伝子 』 《下巻》       梅原 逞 著
=評伝・佐久間象山と宮本家の人々= 

二十七、 蟄居を解かれた象山
二十八、 久坂玄瑞、象山の暗殺を命じる
二十九、 佐久間恪二郎の行方
三十、   鳥羽、伏見の戦いから戊辰戦争へ
三十一、 奥羽列藩同盟の崩壊と、パリに居た渋沢栄一
三十二、 宮本壬子郎の見た北越戦争
三十三、 壬子郎、十八歳の死
三十四、 仲に語った慎助の願い 
三十五、 宮本仲と正岡子規
三十六、 仲の義弟、叔とペストと漱石と    
       「あとがき」
 

二十七、蟄居を解かれた象山

 江戸の小挽町に『和漢洋兵学砲術指南』の看板を掲げた象山の私塾、所謂五月塾に入門した吉田松陰が、異国へ密航を図った際に贈った象山の漢詩の一文が見つかった事で、蟄居謹慎の処分を言い渡されて八年余り後の事である。その永い蟄居謹慎の暮らしを解かれたのは、文久二年(一八六二)の十二月末の事であった。
だが蟄居が解かれたものの象山は、自ら創った漢詩を松蔭に贈った事に何一つも悔いる事も怨む事も無かった。寧ろ若ければ自分も松蔭と同じ様に密航を企て、行動していただろうと思ったからである。

 とは言え、北信濃の松代に閉じ込められていた八年余りの歳月を振り返ると、象山の心中は酷く揺れ動いていた。時代は激流の様に目まぐるしく流れ、混沌とした世情の動きを遠目で、ただじっと傍観しているしか方法が無かったからである。しかもこの国の未来を思い描く時、北信濃の片隅からそれを見ているだけで、何ひとつとして関わる事が出来ないもどかしさや口惜しさが、何時も象山の心の中に沸き起こっていたのだ。
それだけに蟄居謹慎の命を受けていたこの八年余り、象山は門人や友人などへと手紙を書き送り、世情の動きを知る事に必死で時間を費やしていたのである。

 思い返せば蟄居を申し渡された嘉永七年(一八五四)九月、家族と共に江戸を離れ、松代へと罪人篭で送られた二ヵ月後の十一月四日の朝であった。小さな地震の揺れを感じたが、駿河沖の遠州灘では大きな地震が発生した事を後から知った。後に安政東海地震と呼ばれるのだが、更に翌日の五日に今度は紀州と四国の間辺りで、後に安政南海地震と呼ばれる大地震が発生した。この二つの地震で駿河を中心に、江戸から名古屋辺りまでの海岸沿いは特に大きな被害を受けた様である。地震そのものの災害以外に、津波までもが人々の暮らしを襲ったからである。
偶々伊豆の下田湾に停泊していた露西亜の軍艦ディアナ号は、この時時に起きた津波によって湾内の岩場に乗り上げて座礁した。しかも五日に発生した紀伊水道沖での安政南海地震では、土佐藩の調べでも藩内の倒壊家屋は約三千戸、焼失家屋、津波よる流出も三千戸程と多いものの、死者は三百七十人程で、大坂や阿波、更に紀伊半島全域にまで被害は及んでいる。更に翌々日の七日に今度は、瀬戸内の豊予海峡で地震が発生したのだ。

 降って湧いた様な天変地異の禍が次々と重なり、慌てて幕府は年号をそれまでの嘉永から安政へと替えた。しかし翌年の安政二年(一八五五)の三月には飛騨で、五ヵ月後の八月には三陸の陸前でも、立て続けに強い地震が発生した。更に翌月の九月二十八日に又も遠州灘沖で地震が起き、十月二日には江戸の真下で安政江戸地震と呼ばれる大きな地震が発生したのである。しかもこの地震で徳川斉昭の腹心とも呼ばれ、水戸学の大家としても知られる藤田東湖が、住いの家屋が倒壊して下敷きとなって歿している。

 佐久間象山が蟄居を命じら松代に移された後で、時と合わせるかのように全国で発生し始めた一連の地震災害は、幕府内部でも開国への対応から、老中達の権力への奪い合いが軋み始めていた時である。水野忠邦の進めた天保の改革が頓挫した後に替わって老中首座となったのは、家慶、家定と二代に続く将軍の下で、幕政を統括した備後国福山藩主の阿部正弘である。
阿部は弘化三年(一八四六)に浦賀に来航した亜米利加東インド艦隊の司令官ジェームス・ビドルの、通商を求める要求にも鎖国を理由に拒絶している。更に嘉永七年(一八五四)一月にペリーが再来航した事で、日米和親条約を締結する事になった。この時期は亜米利加に限らず露西亜や英吉利などの外国船が、この国の近海に出没しはじめ、それらを無視する訳には行かない情勢が生まれていたからである。
彼等の持つ軍船や兵器は、幕府の持つ大砲から遥かに改良され、海に近い江戸城はいとも簡単に、その軍艦の備える大砲の射程の範囲となっていたからである。もし江戸城が砲撃されてしまえば幕府は諸藩だけではなく民からも、その権威は大きく失墜して面目が失われる事は明らかであったからだ。
 
 だが安政二年(一八五五)攘夷派の徳川斉昭によって、開国派と呼ばれた松平乗全や松平忠優などを老中から罷免した事で、後に井伊直弼ら開国派の怒りを買う事になる。更に阿部正弘は十月、開国派の堀田正睦を老中首座に起用するなどして、幕閣内での孤立を恐れる余り自らが老中次座首座となったのである。しかし安政四年(一八五七)六月、老中在任中の心労がたたったのか、病によって突然に死去したのだ。
この頃に幕閣内では外国との交渉に、天皇の勅許なしで進めて良いものかとした疑念が広がり、幕府は急ぎ老中首座の堀田正睦を京に向かわせたのである。しかし孝明天皇からは条約勅許を貰う事が出来ず、一方で諸外国からの条約交渉の求めに、鎖国を解いて交易を決断したのは大老職に就いた井伊直弼であった。
 
 南紀派として知られる老中の彦根藩主井伊直弼は、将軍職の世継ぎ問題に未だ幼い紀州藩の家茂を擁立すると、安政五年四月二十三日には大老職を得て、何一つとして前に進まない政に、強権を持って次々と条約の締結を行なう発動していた。
中でも安政五年(一八五八)六月に十二日、井伊直弼は諸藩の大名に総登城を命じ、日米友好通商条約の締結を伝えた。更に翌日には一橋派の筆頭老中である上総佐倉藩藩主の堀田正睦や、松平忠固などの老中を閣外に締め出すと、間部詮勝などの開国派と称される人事に入れ替えたのである。

 しかも日米修好通商条約を天皇の勅許を得ずに独断で決定した事から、それに反対する大名や公卿、更に勤皇の志士と呼ばれる者達に対して、安政五年に粛清の対象として一斉に捕縛し処刑したのである。後に安政の大獄と呼ばれるこの出来事が動機となったのか、象山が蟄居を許される二年前の安政七年(一八六〇)三月に、江戸城桜田門外にて井伊直弼が暗殺された事から一段落するものの、この国の混乱は益々深まる事になる。
更に三年前には象山の蟄居理由となった門人の吉田松蔭が、伝馬町で斬首された事を知った事であった。それは横浜村が開港されて、四ヵ月後の事である。象山が悔やむのはただ一つ、外国を見たいと願う松蔭の強い好奇心を、少しの間でも抑えられなかった事であった。
生きていれば、あの時に密航を留めていれば、松蔭は間違いなく新しいこの国の重要な役割を担っていただろうと思えたのだ。

 この同じ年に義兄である勝麟太郎からの手紙には、四年足らずではあるにしても、幕府の財政難によって長崎海軍伝習所が閉鎖される事や、日本から使節を亜米利加国に送るとした話などが伝えられたのである。こうした勝麟太郎から届く手紙や、高杉晋作などの訪問を受けた象山は蟄居中にも拘らず、この国の置かれた状況を見失うことは無かったと言えるだろう。
象山は蟄居が解けて明けた正月、藩主幸教(ゆきのり)に年頭の挨拶をした後で、まずは蟄居中に考えていた藩政改革の上申を行なっている。
そして二月も末の事である。未だ山には雪が残る、越後との国境の渋温泉へと象山は向かった。国境の松代藩の領内を見廻る為、沓野や湯田中そして佐野村など、蟄居を余儀なくされた八年余りの時を、取り戻すかの様に三村御利用掛の勤めに戻ったのだ。会う事すらも許されなかった村役などと顔を合わせ、久しぶりに積りつもった話を聞く為でもあった。

 湯田中の渋温泉では、三村利用掛の御役目時代から定宿としていた「ひしや寅蔵」の宿に腰を落ち着けると、八年にも及ぶ蟄居暮らしの垢を、硫黄臭の強い渋温泉の湯で落した。そしてその時に書いた漢詩の一幅が、今でも渋温泉の旅館「ひしや寅蔵」宅に残されている。
「棲前繋馬酌東風 何惜嚢銭随手空 不道十年復相伴 瓊盃春宴夕陽中 癸亥春日与 友人出遊憩中 野酒肆」
北信濃の地方誌で十二万部を発行する「週刊長野」の記者は、この一篇の漢詩をアーカイブの中で、この様に訳している。
「料理屋の前に馬をつなぎ、春風に酌めば、財布は空っぽになっても惜しくは無い。はからずも、久しぶりに飲み友達と再会した。玉のように美しい盃で酒を飲むと、春が深まり、辺りは夕日の中にある」
漢詩の中の癸亥春とは文久三年(一八六三)の春の事である。蟄居を解かれた象山は翌年の春に、この渋温泉で久しく飲み友達と会い、再会を喜び酒を酌み交わしたのである。そして突然に十九歳の若い石黒忠悳が、象山の泣き顔を見たいと松代を訪れたのは、恐らくこの翌月の事であったと思える。

 同じ年の十月十日に象山は正室である順子を江戸の母親を見舞う様にと、九年ぶりの里帰りを許したのだが、これが順子との今生の別れとなった。この頃の象山は時代が大きく動いている時に、松代に居ては全てが蚊帳の外だと思えた様である。既に水戸の徳川慶喜は会津藩主の松平容保と共に、一千の兵を連れて江戸を発ち、京に向かったと知らされていた。それに京の都は何時、戦が始まってもおかしくない状況にある事を、既に耳にしていたからでもあった。
象山は藩主幸教に対し、再三の出府を求めた。しかし松蔭の密航事件の二の舞を恐れたのか、藩からの許しを得られる事はなかった。藩にしても既に都の状況は刀が物を言う程に、緊迫していると認識していたのだ。

 この頃の京には長州や薩摩、更には土佐や肥後など脱藩した多くの刺客が入り込み、自らの対立する考えを持つ者や、邪魔をする藩の者達を葬る為に集まっていた。しかも刺客と呼ばれた薩摩藩の中村半次郎や田中新兵衛、肥後の河上彦斎、土佐の岡田以蔵、更には土佐勤皇党とよばれる一団が、下士の者達百人程を率いて入洛していた事を象山には知る由も無かった。否、確証は無いものの、或いは薄々象山は感じ取っていたのかも知れない、象山は江戸に戻った順子に対して、護身用のピストルを取り寄せて貰う様に、兄の海舟に頼んでいたからで、自らの間係者から京の情報は多少とも集めていた様に思える。
一方で京に送り込まれた刺客達は、嘗て安政の大獄で大老井伊直弼の手先となり、攘夷論者を捕縛した岡っ引きから、捕縛に手を貸した町奉行所の同心達など、次々に血祭りに上げていた。更には井伊直弼の配下であった長野主膳などの公武合体派や開国派は、ことごとく狙われ容赦ない殺され方で消されていたのである。

 京に上った将軍家茂の警護を担う京都所司代を支える為、幕府は新たに京都守護職をこの時に設けた。更には会津藩や福井藩からの出兵を求め、後に会津藩は浪人達の集団である新選組を雇い入れる事となる。一方の朝廷はこの時期、この国の行く末を全て握っていたと言ってもいいだろう。何故なら開国を進める幕府も、そして攘夷を唱える者達もが朝廷の威光を、我が物にする為に京に集って来たからである。
だがこの時に孝明天皇は、一度も異人に会った事が無いにも拘わらず、まるで赤鬼にそっくりだと聞いた話を真に受け、益々異国や異人嫌いとなっていた。当然ながら孝明天皇の意向を知った朝廷は、その理由を明らかにすることもなく幕府の開国には反対であった。しかし朝廷が開国する反対の理由を、単に異国が嫌いだからとも言えず、その論拠をも明らかに出来ず、単に重大な決定を幕府の意見だけで決めて良いものか、とする疑問を幕府に問いかけただけである。

 朝廷の開国に反対する意見に対し、幕府は外国との交易を決断する権限は、既に幕府の手にある事を朝廷に伝えたのである。しかし朝廷はそれに応えず、攘夷は何時になるのかと繰り返し幕府に詰め寄るだけとなり、両者の話は一向に前に進まずにいたのだ。
幕府と朝廷との間で交された、この堂々巡りの議論に堪り兼ねた福井藩の藩主松平慶永は、遂に嫌気も限界に来のか自藩の福井越前に戻る事を決断した。しかもそれを聞いた土佐藩主の山内容堂や仙台藩の伊達宗城、そして薩摩藩の島津久光も帰藩を決めたのである。元冶元年の四月二十日の事である。

 将軍家茂の代理となった徳川慶喜は、天皇から執拗に攘夷の日を求められていた。その執拗さにヘキヘキしたのか、或いは嫌気がさとしたのか、切羽詰った慶喜は攘夷の日を五月十日に行うと奉答すると、すぐさま諸藩にもそれは伝えられる事となったのだ。
しかも慶喜のその発言は、そこに何らかの根拠があっての事ではなかった。幕府として諸外国に開国の意思を示し、次々に和親条約を結んだ後で今度は真逆の攘夷を行うなど、まさに幕府自らの信用を大きく失墜する事でもあった。それ故に慶喜は攘夷を行うとした五月十日を前にした八日、さっさと京を後にすると、江戸へと戻ってしまったのである。

文久三年(元冶元年)
二月  十三日、将軍家茂、京都へ陸路出発
三月 四日、将軍家茂、二百二十九年ぶりの入洛。
四月  十一日、天皇岩清水八幡宮に行幸も、将軍家茂代理の慶喜は出かけず。
   二十日、将軍家茂の代理の慶喜は五月十日を攘夷実行の期限とする旨朝廷に奉答。
    二十二日、京に居た諸大名に、攘夷の日を五月十日と公示する。
五月  八日、慶喜、江戸に戻る為、京を出立する。
   九日、老中格小笠原長行、生麦事件賠償英貨十万ポンドを無断で英国代理公使に支払う。賠償金は当時の二十七万両に相当(約百六十億円)
   十日、攘夷の日、何も動かず。長州藩のみが馬関海峡で外国商船を砲撃、行動を起こすが他藩は傍観。

 朝廷からの執拗な催促によって、慶喜が思わず攘夷は五月十日と奉答したものの、その五月十日が来ても諸藩を含め、幕府は一切それらしき行動を起こす事は無かった。公武一和論(朝廷と幕府が一体となり外国の脅威に備え、この国を建て直すとする考え)を持つ者達は後に一和派とも呼ばれるが、その為には今一度、広く攘夷を示して国の政を立て直さなければならない、と将軍の後見人である慶喜は直前になって決めたのである。
ところが慶喜は幼い将軍家茂を京に残したまま、八日には京を出立して十三日に江戸に戻ると、今度は突然に将軍の後見人をも辞すると宣言した。まさに辞めれば後は一切関係ないという、勝手気ままで気分的な慶喜の政治が露呈したのである。

 倒幕を目指していた尊王攘夷を叫ぶ急進派は、この時から明確に幕府を倒す倒幕では無く、討ち取る意味の討幕を明確に打ち出す事になった。今は亡き吉田松陰の門下に学んだ高杉晋作や桂小五郎、伊藤俊輔などの若者達で、この機会を待ち焦がれていたと言えるだろう。
その一方で諸藩の方と言えば、幕府が開国を目指し諸外国との条約を次々と結びながら、今度はまったく正反対の方針を打ち出した事で、朝夕暮改の幕府と言われた何時もの方針に、あきれた諸藩の大名達は遠目で事の成り行きを見守っていたのだ。
しかし幕府が朝廷に対して伝えた攘夷を、何を思ったのか長州藩だけは十日過ぎに行動に移した。下関の馬関海峡を通る亜米利加などの商船に向け砲撃すると云う、慶喜が宣言した攘夷を忠実に実行したのである。長州藩が幕府の言葉を信じたのではなく、幕府が更に混沌とした迷路の中へ彷徨って行く事に、長州藩の高杉晋作等は単に手を貸しただけであった。

 高杉晋作はこの砲撃を決行する三年前の安政七年(一八六〇)九月、蟄居中の象山を訪ね松代に出向いて来た事がある。しかもその翌々年の文久二年(一八六二)の五月に、高杉晋作は藩命によって幕府の使節随行員として中国の上海を訪れ、実際の植民地を自分の目で見て来ていたのである。
だが長州藩側から行なった馬関海峡を通過する亜米利加商船などへの砲撃は、そのままでは終わらなかった。翌年の文久四年(一八六四)八月、亜米利加など四カ国の軍艦が下関沖に来ると、今度は長州藩へと大砲を打ち込んだのである。更に仏蘭西の軍艦は下関の砲台を砲撃し、しかも仏蘭西兵が長州へと上陸すると刃を交え交戦したのである。この時に高杉晋作は初めて、外国の使う武器の技術力の高さや国力の違いを思い知る事になった。

 とは言え後に行われた講話会議において、交渉を任された晋作は赤間関(現下関)の北にあった彦島の租借を求めた連合国に、ガンとして首を縦に振らなかった。自国の国土を植民地に取られることが、どれほど苦痛を伴うものか、上海に出向いた時に、それを見聞して戻って来たからであった。
一方で高杉晋作はこの時の外国との戦いで、初めて武士ではない民の人々に激を伝え、町民や農民からの兵を集めた。この奇兵隊と称する兵士は、力士や百姓、更には寺の僧侶までもがそこに参加したのである。そしてその敗戦のツケは当然の事だが、攘夷を宣言した幕府が、亜米利加国など外国へ賠償金を分割にして支払う事となった。幕府自らが諸藩に対し攘夷を勧めたからである。

 後に幕府も又、この戦争の賠償金を支払う事が出来なくなり、時代が明治となり新政府がその肩代わりをする事になるのは、徳川幕府が崩壊した後の事である。尤もその金額は三百万ドルと云われ、当時の蒸気船なら百隻も買える程の金額であった。後に亜米利加大統領は賠償金を取り過ぎたとして一部返還する事となるのだが、それが後の横浜港の整備に使われる事となった話は、広く知られた出来事である。

五月 十三日、江戸に戻ってきた慶喜、将軍の後見人を辞すると宣言。
      十八日、幕府、英仏守備兵の横浜駐屯を許可。
 二十三日、長州藩、幕府の攘夷宣言を根拠に仏蘭西の軍艦を下関で砲撃。
 二十六日、長州藩、阿蘭陀の軍艦を下関で砲撃。
六月   一日、長州藩、米国軍艦と下関で交戦し敗北。
     五日、仏蘭西軍艦二隻、下関砲台と交戦陸戦隊を揚陸し長州守備兵を掃討。
 二十二日、英国艦隊七隻、生麦事件の賠償を求め、横浜を発して鹿児島に向う。
七月   二日、薩摩藩砲台と英国艦隊交戦。
  四日、英国艦隊、引き上げるが鹿児島は火災となる。
八月 十九日、過激派と目される公家三条実実ら七人は長州兵に守られ長州に向う。七卿落ちと呼ばれた。
九月  二日、仏蘭西陸軍士官、井戸が谷で襲撃を受け殺される。
十月   四日、川路聖謨、外国奉行を辞任する。
  五日、薩摩は幕府とは別に、藩生麦事件の賠償六万三百両(二万五千ポンド)を英吉利に支払う。幕府の金は底を突く(江戸の諸物価は高騰)
十二月二十八日、将軍家茂、京に向け海路品川を発つ。

文久二年(一八六二)八月二十一日に、薩摩藩藩主島津忠義の父、島津久光の行列の前を横切った英吉利人を、薩摩藩藩士が斬捨て殺したとする、所謂生麦事件が発生した。後にこの賠償金を幕府とは別に、薩摩藩が英吉利に六万両を支払う事となった。その支払う期日の前日となる文久三年十月四日、それまで幕府の外国奉行を任されていた川路聖謨は、老疾を理由に職を辞する事を決めた。だが老中の中では後に続く後任を誰にすべきかを迷い、老中の誰もが川路に後任者を推挙する様に求め、その者の名前を待っていたのである。

その時に川路の口から出た後任者の名前は、「松代藩の佐久間象山殿を推薦いたす」とした返答だったのである。老中の誰もが「ふざけた事を言いおって」と思ったに違いない。しかし川路は至ってまじめであった。それから五年後の慶応四年(一八六八)三月十五日、江戸城の開城が決まった事を病床で知った川路は、既に切腹の出来ない衰弱した身体を起こし、自らの屋敷内でピストル自殺を図った。
それは幕府内で黙々と仕えて来た、最後の徳川武士の死に様でもあったと言える。この川路聖謨から外国奉行に推挙された事が、幕閣の中にどの様な影響を与えたのかは不明である。しかし突然に松代藩の一家臣でもある象山に対し、将軍の前で意見を述べる様にと白羽の矢が当てられたのは、川路聖謨が象山を推挙した翌年のことであった。

象山に対して幕府から上洛する様に、とする呼び出しを受けたのは、八年余りに及ぶ蟄居生活から解き放たれ、正室の順子を江戸に送り出して五か月程が過ぎた、元冶元年(一八六四)三月七日の事である。幕府が一年余り前の暮に象山の蟄居を解いたのには、当然ながら幕府の方にも理由があった。将軍家茂が上落する準備の為に、既に慶喜が朝廷の求めで上洛しており、幕府と朝廷はこの時、抜き差しのなら無い事態を迎えていたからである。
将軍を選ぶにも御三家の思惑が絡み、将軍の未だ幼い事から大老職に就いた者は、嫌が上にも敵対する勢力から足を掬われるのである。それが為に四年前には井伊直弼は浪士達に襲われて斬首され、幕府が開国を認めたものの、武士の世界では国論が大きく二つに割れてしまったのである。

 このまま攘夷派を放置すれば、勝手に異国に対して喧嘩を売る始末である。しかもその後始末は幕府が多額の金を支払う訳で、支払わなければ戦争の口実を与える事は明らかであった。それは間違いなく、この国が戦に負ける事を意味する事であり、清国が英吉利へ香港を差し出した様に、この国の領地を異国に差し出す事が予想されるのである。 
この時の幕府は和親条約を結んだ諸外国と、朝廷との板ばさみに遭い、開国したものの外交は殆ど行き詰まっていたと言える。それだけに松代藩真田家の家臣でもある一介の蘭学者、佐久間象山を幕府が京に呼び出すなど、まさに前代見聞の出来事でもあったのだ。

幕府が得たこれまでの外国の知識や情報は、僅かに阿蘭陀国を窓口にするだけの世界であった。しかもそれは幕府にのみ蓄えられてはいたが、幕府以外の者に対してはさほど伝えられてはいなかった。
「民が勤勉であれば、愚かでいても良い」とする考えは、「生かさぬ様に殺さぬ様に」から始まる、家康の時代から受け継がれた幕府の権力を維持する思想である。鎖国が徹底された頃から、国を操る基本の考えであった。
それが為には何事も、やってみなければ分らないとした、極めて無責任な精神論の域を出なかったのである。しかも死んでしまえば、腹を切れば何事も解決すると思い込むのは、死んでゆく武士達の勝手な都合であった。その勝手な武士の覚悟だけが、此の国の中で一人歩きを許していたのだ。

攘夷を叫ぶ者達の中にも「嘗ての形に戻されよ」と云う者もいれば、「一度この国を閉じて不平等の条約を撤廃し、再度和親条約を結び直せ」と言う者、更に開国派の中にも「幕府は一大名となり、朝廷と共に政治を行え」と言う公武合体から、幕府の責任まで問う声も出て来る始末であった。
しかも最も大きな問題は、幕府が自身の身の振り方を何も決められない、という事態を招いてしまった事である。更に言えば朝廷も幕府も夫々が、先の見通しの無いまま時代の流れに身を任せていたのである。その幕府が佐久間象山に対し、京の二条城で将軍の徳川家茂に謁見させ、意見を申し述べる機会を与える、と言うのである。朝廷を納得させられないまでも、一石を投じるであろうとする幕府の期待でもあった。

既に老中筆頭の阿部正弘から伝え聞くには、国難に際して公武合体を行い、外様大名であれその家臣であれ、有能な者は幕府と朝廷とが作る政権に加えるべき、との意思を示しているというのである。象山はこの時、「幕府はやっと自分の話に耳を傾けざるを得なくなった」と思ったのだ。
象山から見れば、幕府は自らの方針を長期的に持つ事もなく、旧態依然とした秩序と体制を維持する事に汲々としているに過ぎない様に思えていた。しかも将軍が若くして入れ替わる度ごとに、幕閣達はその将軍を意のままに動かし、自らの野心を遂げる事に腐心している様に思えるのである。

徳川御三家と呼ばれた水戸も紀州も尾張も、既に幕府を支える程の人材を無くしていた。井伊直弼を大老に置いて暗殺された後も、幕府を切り回す程の人物を置く事が出来ない事は、既に諸藩には知れ渡っていた事でもあった。しかも相変わらず将軍を始めとした幕閣に身を置く老中の誰もが、長く続いた天下泰平の下で、自らの血族の利益や面子を優先させ、天下国家の政ごとを操っていることは紛れも無い事実であった。将軍をいさめる程の者は寧ろ周囲からは排除され、流れの無い澱んだ池の様に幕府は濁り始め、臭気をも発する様になっていたのである。
その最たるものは将軍に子供を産ませる大奥の威光であり、武家社会の屋台骨となる主君を頂点とした世襲の制度であった。武士の子は武士、旗本の子は旗本と云う、戦が無くなった時代に於いても、有能な人材を必要としない仕組みを維持し続けた結果であった。この無能でも武家の社会が維持できるとした考えが、突然に現れた外国の異質な文化に対応出来ずに、政治の停滞と混乱と引き起こしていたのである。それが為に老中の中でも目立つ事を言わずに、つつがなく周囲の者達の顔色を窺い、腹の中を見透かされぬ様に問題を先送りする事が、自らの立場の安泰なのである。

それは反面、この国に育った誰もが未来に少なからず持ち続けている、皮膚や髪の色の様なものなのかも知れない。何も起き無い事が何よりも大切であり、忘れたい事や厭な事は水に流し、時には無かった事に、見なかった事にする事さえ受け入れる。変化の無い事が平和であり、安泰である事こそが目的であるからである。
それが為なら多少の誇りや自由を踏みにじられ様が、目を閉じて我慢するのが、この国に生きる者の心得だと教え込まれて来たのである。時代がどれ程変わろうとも、地盤を代々引き継ぎ政治屋の利権を離れない

象山が幕府からの求めに応え、「都路」と名付けた木曽馬で松代を発ったのは、元冶元年(一八六四)三月十七日の事である。しかも栗毛の馬の背には、やっと手に入れた西洋の鞍を付けての出立であった。同行は十六歳になった息子の恪二郎と、供の者は門人や用役、賄方や供頭、それに銃手を含めて十四名の者達である。
京の宿となる六角通東洞院西へ入町の旅籠、越前屋に一行が着いたのは二十九日の事で、早速に象山は老中の酒井雅樂頭らの他、所司代に対して到着の挨拶に廻り、藩からの呈状を差し出した。所司代の役人からは四日に二条城の御城中の口にまかり越す様にとの達しを受け、その日に二条城に赴くと、すぐさまお目付け役から辞令が交付されたのである。

その御役目と称し交付された辞令には、海陸備向掛手附雇を命じるとあり、その扶持二十人手当金として十五両を賜ることになった。だが自らが学び蓄えた知識を将軍の前で披露する、その代価として賜った十五両の額は、余りにも小額であろうと象山は不満を覚えた。見方を変えれば知識や経験に価値を見出せない者達が、この幕府を辛うじて支えているのだ。幕府も左程は遠くない時期には、恐らく終焉を迎えるのだろうと象山には思えたのである。
何故なら知識も見識も無い者達が永い歳月を、疑問を持つ事も無く又持たされる事も無く、武士や民の上に立ち続くけて来たのだ。これまで築いてきたこの国の仕組みが崩れ行く中で、今の幕府は何一つ身動きも取れない様に見えるからである。

それでも最近は僅かばかりの幕臣の子供達を、遅ればせながら異国へと送り出していると象山も耳にしていた。本来なら幕府自らが諸藩も含めた選りすぐりの、しかも若くて有能な人材を西洋に派遣し、この国の未来を思い描く事から始めなければならない筈であった。彼等を西洋に送り出し世界の趨勢を学ばせれば、無用な混乱など起き無かった筈だと象山には思えるのだ。それから後に攘夷か開国かを決めれば・・、だが既に今となっては後の祭りであった。所詮は有能な徒を集めるなど、彼等には出来ない相談でもあった。身分やお家の安泰を第一に腐心してきた者達に、有能な者の意味など理解出来る訳が無いからである。

四月十日に象山は、山階宮と呼ばれていた常陸大守晃親王から、天文や地理の関する意見を聞かれた後で、今度は兵法に用いる質問にも答えた。そして求められるままに、洋式馭馬(ぎょば)をも披露したのである。この時に山階宮が、余りにも熱心に話を聞いて貰えた事に感激した象山は、連れて来た馬の名前を「王庭」と、改めて名前を付け直した程であった。
だが馬に西洋の鞍を着け、都路の通りを往く象山の姿を見た京の人々は、風体やそのいでたちから象山を異人と呼ぶ程になっていった。ひどく周囲の目を集めるほどに、飛び抜けて異質の容姿を持っていたからである。
十二日に肩書きを禁裏守衛総督とした徳川慶喜に拝謁し、時務の諮問に対する象山の考えている政策を申上げた。そして論じ足りない点については、十四日に改めて上書し補足する事を申し述べている。更にこの日に象山は、亡き星厳の妻である紅蘭の勧めで、鴨川東岸丸山町橋向こうに転居する事にした。この象山が京に滞在してから暗殺されるまでの、京の情勢と象山の動きを追いかけて見たい。様々な思惑を秘めた勢力がこの地に集り、極めて激しい動きが都を中心にして、それも密かに巻き起こっていたのである。

元冶元年(一八六四)
  四月  十二日、象山、徳川慶喜に拝謁。紅蘭の勧めで鴨川丸山町橋向こうに転居
     二十二日、象山、再び慶喜に謁見する。
            会津藩の監督下で、壬生浪士組が将軍家茂の警護に付く。この時新撰組は既に、揃いの羽織を身に付けていた。
     二十三日、象山、山階宮に謁見し世界地図を供覧した後、開港に関する意見を上陳する。
     二十六日、象山の許に福井藩士中根靱負が来訪し、時務を談じた。
     二十七日、この日も同じ福井藩士の村田巳三郎を引き連れた中根が、象山宅を来訪。対外問題を論じた。
  五月   一日、象山、二条城にて徳川将軍家茂に謁見する。
    松代藩前島家の前島源蔵宛に手紙を書く。

 此の夜、象山は松代の門人である前島源蔵に、将軍家茂に謁見するまでの経緯の手紙を書き送っている。一筆啓上と書き始めた後に、「・・老中酒井雅楽守のお指図により、明日、五月朔日の五ツ半、二条城へ参上する様、松平和泉守殿のお書付きでお伝えなされた通り、今朝の例刻に熨斗目麻裃を着用して登城したところ、二条城黒書院の御入側で、御目見をお申し付け頂き、有難く仕合せに存知・・・」と感想を伝えている。

  五月  三日、 象山、弾正伊朝彦親王(中川宮)に召され、時務を諮せられる。
            慶喜、京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬が残り、一会桑(一ツ橋・会津・桑名)政権が今後の政冶を進めて行く事になる。
            薩摩兵が鹿児島に帰り、会津藩兵千人が守る中、攘夷の志士が又も京に入り込む。
      十六日、象山は木屋町三条に再度転居した。丸太町の借家は諸藩や旗本の者達の来訪か多く、間数が手狭で有った事からの理由である。ところが木屋
 町三条の方は、二階からは鴨川の流れが見えて眺望が良く、雨に煙る風景を気に入った象山は、そこを煙雨楼と命名し落ち着く事にした。
六月  五日、新撰組の近藤勇ら、京都三条の池田屋にて志士を襲う(池田屋事件)、主に長州藩士を新選組が急襲した。これは新選組の土方歳三が尊王攘
夷の長州藩士を捕らえ、自白させた事から発生するもので、祇園祭の前日に京に火を放ち、慶喜、容保などを捕らえ、天皇を長州に連れ去るとし             た長州藩士の計画が発覚したからである。
九日、 池田屋事件が報じられた長州藩では、十五日に卒兵上京の決定が下される。
十日、 象山、山階宮に謁見し、時事意見を言上する。
      十一日、 象山、会津藩士広沢安任を訪ね、午後に大目付永井尚志を訪ねる。
      十四日、 象山、馬にて鞍馬山口に至り、出石衛士、杉原三郎兵絵と会う。
      十五日、 象山宅に小林来訪。
      十七日、 象山、会津藩士の山本覚馬を訪ねる。
      十八日、 象山、山階宮に参殿
              (この頃、長州藩士、井上聞多、伊藤俊輔等は滞英中に邦國の危機を知り、横浜に帰着。軍艦で二人は長州に送り届けられる)
     二十一日、 象山、中川宮に参殿。
     二十七日、 不穏な長州藩兵の動向を探るも小林が象山宅を来訪、藩主幸教の大津止宿を聞く。象山は直ちに大津に馬で駆けつけ、幸教に入京の危険を
説くが聞き入れられず、彦根藩士に断じても埒が明かず、翌朝むなしく京に戻る。
     二十八日、 松代藩藩主の幸教、幕府より京都御所及び遡平門警護を求められ、この日に入京する。
     二十九日、 仙台藩医の羽生致矯が象山宅を来訪し、二人の談義は主上遷座(天皇の座を他に移す)事まで及んだ。
  七月   一日、 象山、関白二条斎慶に謁見して時事の意見を言上する。夕刻、小林が来訪。
        二日、 山本覚馬が象山宅に来訪も一橋殿(慶喜)の急事を告げたので、馬で参じるも留守、無事であった。
        四日、 象山、仏光院で藩主教幸に謁見。
        六日、 象山、再び関白殿下へ参上。
        七日、 象山の許に羽生が来る。
        九日、 象山宅へ広沢が再来。
        十日、 加賀藩に召抱えられた蘭語の師でもある黒川良安と会う為、京の建仁寺に向った。
  十一日、 象山、木屋町通にて暗殺される、


二十八、久坂玄瑞、象山の暗殺を命じる。

 昔から天下分け目の戦いと言われる天王山とは、摂津国(現、大阪府)と山城国(現、京都府)の国境に跨る小高い山の名前から引用されている。かつて天正十年(一五八二)に本能寺で織田信長を討ち取った明智光秀の軍と、信長の部下であった羽柴秀吉が戦った事で、その名前が付けられた場所でもある。
元冶元年(一八六四)の七月初旬、長州藩を始めとした諸国の浪士達が、この天王山の麓に集まっていた。総裁には元久留米藩士で尊王攘夷派の真木和泉守を中心に、久坂玄瑞らの長州松下村塾出の者達がその脇を固めていた。しかもそこに集って来たのは土佐や肥後、更には遠く宇都宮から来た広田精一など、諸藩を脱藩した攘夷論者達である。
京に近い伏見には長州の支藩でもある徳山の領主福原越後の率いる浪士達が集り、長州藩の家老でもあった国司信濃は、嵐山の近くにある嵯峨の天竜寺に浪士達と共に集っていた。それも夜には夫々に駐屯している場所で焚火を燃やし、京より追われた七卿の帰洛と長州藩主毛利親子の官位を復し、尚且つ朝敵とされ冤罪を赦される様にと請願行動と装っていた。
だが表向きと正反対の戦を一方では想定しつつ、鉄砲、弾薬などの戦支度を整え京に入っていたのだ。それ故に京に住む人々は戦が何時起きてもおかしくない、と思える程に人々の心は張り詰め、噂話は真実の様に口から口へと京の町に広がっていった。中でも「聖天子を彦根に御遷される様だ」と言う風説は、京のあちらこちらで人々の口に上っていたのである。

「おい、聞いたか、天子様が彦根に遷されると言う話をよ」
長谷川鉄之助に声を掛けたのは、同じ元長州藩士の大楽源太郎であった。三十も半ばの齢の割には落ち着きが無い男で、その性格からか嘗ては水戸藩に出かけ、井伊直弼の暗殺計画に加もわったことのある、いわば攘夷論の急先鋒であった。
「おぅ、聞いたぞ、幕府は我等に天子様を奪われる前に、彦根へ御遷しする事を考えて居る様だぞ。しかもよ、その話を持ち出したのが、松代藩から京に呼ばれた、佐久間象山だと言う話よ」
長谷川は既に象山が語った噂話を、小耳に挟んでいた様である。
「しかしその話が本当だとするなら赦せんな、断じて赦せん。象山を斬るべきだと思うが、お主はどう思う」
大楽は長谷川に意見を聞いたのではない、寧ろ同意を求めたのである。
「いかにも、俺も許せん。仲間を募って速やかに事に当たろうと思うが、当然、お主も参加するだろうな」
「当然だ。我等の邪魔をする者を生かして於いては、成就すべき望みも絶たれると言うものよ」
だが二人のこの話も翌日には、他の浪士から天王山に居た桂小五郎(木戸孝允)の耳に届く事となった。その桂に呼ばれた二人は、この様に諭されたのである。
「話は僕も聞いているよ。だが、その説が真に象山の口から出た話なのか、或いは幕府がそれを実行しようとしているのか、確かめもせずに行動を起こすのは、大儀名分を付けようが無いではないか。まずはその話が確かなものか、事実を確かめてから行動に移す事だとは思うが、違うかね」

三十一歳になる桂から、冷静で理の通った話をされると、長谷川と大楽は従わざるを得ない気持ちになるのが常である。何時もの事だが無謀とも思える行動でも、桂は頭から否定せずに筋と云う根拠を与えて呉れる。それだけに長州藩の中でも、周囲からは一目置かれた論客でもあった。しかも江戸では三大道場と言われた練兵館に入門し、一年で免許皆伝を与えられ塾頭を勤める神道無念流の使い手である。ひと月前に土佐や長州の攘夷派が集った所を新選組が急襲した、あの池田屋事件では危うく難を逃れていて、桂小五郎はこの二年後に木戸孝充に名前を変えることになる。
「如何にも、お話は逐一ご尤もで御座います故、先ずは真に彦根に遷される話が象山の口から出たものかどうか、早速に調べた上で事に当たることにします」
大楽と長谷川は噂の真偽を調べた上で、もしそれが事実であるのなら桂からも、象山の暗殺を認める同意を得たと理解した。

早速二人は象山の住まいを探し出すと、敢えて自らを会津藩士と名乗り面会を申し込んだ。それは七月十日の事で、象山との面会は驚くほど簡単に許されたのである。
「先生が彦根に《聖天子をお移しになるべし》と申されている事を耳にしているが、何ゆえにその様なお考えをされているのか、その是非をお尋ねしたい。無論、賛成とか反対とかの意見を申すわけではなく、理があれば広くそのお考えを広めたいので、その一点だけをお伺いしたいとまかり越しました」
と、この様な用向きを伝えたのである。そして象山は二人からの質問に対し、この様に答えた。
「無論だが、ワシがその説を申したと言うのは真意である。何故なら京は今や兵火の巷になろうかとする時、一天萬乗の君をそこに御置き申すことは出来ぬではなかろうか。ましてや京の街中に火を放つなどと云う計画があるとも聞く。このまま天子様を都に御置き申す事は、吾々臣下の者として相済まぬ事であろう。一日も早く彦根に遷し奉るは当然の事と考えるがのう」
と、何時もの様に自らの説を、象山は憚ることもなく堂々と唱えたのである。

 二人は目の前で当人でもある象山の話を聞き、「やはり間違いない」と確信した。そしてこの話を天王山に持ち帰った長谷川と大楽は、早速に桂へと伝える事にしたのだ。だがこの時に桂は不在の為、象山と面会した時の話や経過を、二人は久坂玄瑞へと伝えたのである。
「桂さんが申すには、天子様を彦根に遷すとした案は、象山の口から幕府に求められている事を、確かめてから事に当たれと申された。そこで我等は早速、象山当人と面会の上で本人の口から今日、確かめて参りました次第。かくなる上は、象山を斬りたいと思っておるのですが」
桂の許可も得ていると言わんばかりに、大楽と長谷川は象山暗殺を久坂に話したのである。
「そうか、二人の話は良く分った。しかしお前達には別の、それも大事な用事を頼もうと考えていた所なのだが。まぁそう言う事なので、象山の事は他の壮士にやらせる事にしたい。それにお前達はなぁ、その様な事まで考えなくても宜しい。これから戦術やその方法は、全てはこっちに任せて貰わんとなぁ」
目の前の大楽と長谷川に向って、久坂は強い口調で釘を刺した。そしてその直後に二人の目の前で、近くの者に声を掛けたのである。
「おぃ、誰か、平戸の松浦虎太郎と肥後の河上斎彦の二人を呼んで呉れぬか。仕事が出来たからと伝えて、ここに呼んで来て貰いたいのだが」
久坂は象山の暗殺を、松浦と河上の二人を中心に任せようと思った。嘗ては象山の蟄居が解けるとした話を耳にし、松蔭先生の師でもある象山を、長州藩への招聘に動いた事があった事を想い出した。だが今度は暗殺の対象が、その象山本人となったのだ。久坂はこの時、腹の中で象山が余計な動きをするからだと、自らを納得させるように呟いた。

 久坂が象山に長州藩へ来て貰おうと考え、その意向を尋ねる為に山縣半蔵や福原乙之進などと松代に向かったのは、二年前の文久二年の十二月の事である。しかしこの時に嘗て論じていた攘夷を象山は捨て去り、公武合体や開国を唱える象山の口から、招聘を見事に断られたことで未練はなかった。例え松蔭先生が師として選び、学んだ師であったとしても、攘夷を信奉してここまで来た者達には、象山の考えは受け入れ難い程の理を含んでいたからだ。
確かに象山の言葉や行動の中心はその理だが、自分達を突き動かす中心にあるのは、これまで支えてきた攘夷の教えであると久坂は思っていた。それを捨て去る事は、これまで学んで来た時間や努力を、一切無駄にする事になると思ったのだ。

 既に象山の暗殺は桂もそれを認めて居ると言うし、大儀名分も整っていた。攘夷を掲げる者にとって公武合体を唱える象山は、害はあっても益は無いと久坂は考えたのである。蘭学者象山の暗殺には、剣の腕からも河上彦斎が適任だと思えたが、後は二三人程で固めれば良いと考えた様である。そして因幡藩から脱藩した前田伊左衛門と、南次郎の二人を加えさせる事にして、後は彼らが考えるだろうと暗殺を命じたのである。
この翌日であった。松代藩の藩士で蘭学者の佐久間象山は、京の三条木屋町で五十三歳の生涯に幕が下ろされ、突然に幕末の歴史から姿を消してしまう事になったのである。
 
 象山の遺骸を京の西山妙心寺に葬った門下生の北澤正誠は、朝廷と遡平御門の警護の為に松代藩藩主真田幸教の供の一人として、幕府からの求めで京に上ってきていた藩士である。その北澤の書いた「滞京日録」七月十一日の項には、この様に書いている。
『(略)此日先生一書ヲ懐ロニシ山階宮ニ抵ル・偶参内セラレシ拝謁ヲ得ズ。遂ニ蜷川賢之助ヲ本覚寺ノ下陣ニ訪フテ帰リ、木屋町ニ抵リ殆シト其寓ニ近ツク。時既ニ黄昏。前ニ車アリテ横ハル。先生従容トシテ騎シテ行ク。一士背ヨリ踊リ出デ其左足ヲ斫(き)ル。先生囘顧シ刀ヲ抜テ其頭ヲ打ツ。兇徒数人俄ニ馬前ヲ擁ス。先生奮然鞭ヲ挙ゲ馳駆シテ寓居ヲ過ギ、医師高階某ノ門前ニ抵ル。兇徒数十人後先挟ミ撃ツ。先生遂ニ馬ヨリ落チ害セラルト云フ。
余変ヲ聞テ馳セ至レバ、男恪ニ郎及ニ三門生惘然為ス所ヲ知ラザリキ。偶々会津廣澤富次郎来リ訪フニ会シ、小松左右輔迎接ス。(略)』

 この北澤正誠の日記に書かれた兇徒の数が数十名とは、如何にも伝聞を集めた様な、松代藩に対する言い訳の様な数である。事件の背景や首謀者の意図が明らかになったのは、事件の夜に三条大橋の袂に貼り付けた斬奸状に、この様な事が書かれていたからである。

 此の者元来西洋学を唱ひ、交易開港の説を主張し、樞機之方へ立ち入り、御國是を誤候大罪難捨置候処、剰へ奸賊会津彦根二藩に興同し、中川宮と事を謀り、恐多くも九重御動座彦根城へ奉移候儀を企、昨今頻に其機会を窺候、大逆無道不可容天地國賊に付き、即今日於三条木屋町加天誅畢。但斬首可懸梟木之処、白晝不能其儀もの也。
 元冶元年七月十一日               皇國忠義士

 訳せばこの様になる。
「この者、元より西洋学を唱え、開国の説を主張し、枢機の方へも立ち入るなど、国の方針を誤らせる大罪は捨て置く事出来ず。奸賊会津や彦根と共謀し、中川宮と謀るなどして、恐れ多くも天子様を彦根城へ奉る事を企て、その機会を窺うなど大逆無道の国賊である。それ故に今日、三条木屋町にて天誅を加えた。昼間の為に晒し首に出来ずなり」

 象山の検視報告書には、この様な事が書かれている。
「七月十一日、八ツ時頃に乗馬にて被罷、帰り夕七ツ半過ぎ(午後五時頃)に、仮住まいとして借りた煙雨亭のある木屋町まで被参候処、左右より侍等が不意に討ちかかり、その傷は額に四寸程の刀傷二ケ所、同二寸五分、左手の又一寸、同脇腹二寸、同上の方一寸五分、右の手二寸五分、右親指一寸、右すね三寸深さ一寸、右の股二寸五分、右の腕二箇所深さ一寸五分、二の腕より肩へそぎ取り六寸、右の頬目より耳まで、・・・」合わせて十三か所の痛手を蒙っていたのである。まさにそれは滅多斬りの様相であった。

 松代に象山暗殺の報が届いた十三日、藩の重鎮達は降って沸いた様な突然の事件に、急遽その善後策としての会議を聞いている。その中で最も多く議論されたのは、朝廷と幕府に対する対策であった。しかも象山は眞田家の家臣でありながら、幕府に呼ばれて向った先で暗殺されてしまったのである。迂闊な対応を示せば松代藩の責任すら問われ兼ねないと、藩の重鎮達は考えた様である。
象山が自らの警護を手薄にしていた事も、自負心の強い象山自らが招いた、寧ろその結果ではなかったかとした意見も出て来た。しかもこの頃の松代藩内は、開国派、或いは公武合体派の勢力は少なくなっていた事もあった。
それでなくとも普段から重鎮と呼ばれる家老等に対して、不遜な言動を浴びせる象山に、擁護する様な意見を耳にする事は無かった。重鎮達は最も体裁の良い表向きの理由を挙げ、暗殺された三日後の七月十四日に佐久間家の改易を決めたのである。

 この松代藩の処置に対して門人である花岡復斎は、後に広い意味で言えば、先生を殺したのは松代藩であるとも述べている。何故に警護の者達を周囲に付けなかったのか、これは幕府に呼ばれた象山が西洋学者だった故に、殆どが小者達だけで京に行かせた事が、後に最悪の結果を招いてしまったのだと語っている。
藩士でも武士でもない花岡復斎は、単に象山の門人の一人として京に同行したのだが、自分が武士の様な顔をして京へのお供をして行ったのは訳があった。士籍を松代藩に置く者は、藩からの命がなければ何一つとして、自らの判断で動く事も出来ないからである。八年余りの後で蟄居の解かれた象山の門人達は、その多くが松代藩の藩士達であった。しかし藩命が無い以上、それが幕府に求められたとはいえ、京に向かう事は出来なかったのである。
 
 一方江戸の勝家で象山の帰りを待っていた順子は、思ってもいなかったこの突然の訃報に驚き、そして悲嘆の挙句に自刃をしようとした。これは周囲の者に取り押さえられて、時間と共に落ち着きを取り戻したのだが、勝家の者達が順子の様子の変化を見て、注意して居た為に防ぐ事かで来たのである。しかし追いかける様に佐久間家の改易の沙汰が、勝家に松代藩から届いたのは暗殺から六日日後の事である。改易とは武士としての身分も屋敷も全て取り上げられる、所謂藩士としての解雇であった。
 
 象山が京で暗殺された一報は、当然の事だが松代に住む慎助の許にも届いた。 その話を慎助が聞いた時、まるで雷鳴に打たれるとは、この様な事を言うのだろうと言う程の衝撃が、慎助の体の中を突き抜けて行ったのである。
生まれて始めて怒りと云うものが、心の奥底から沸々と湧き上がるのを、慎助は抑える事が出来ない程に感じていた。この国に最も必要であろうと思える大きな視野を持った人物が、その人物の価値すらも理解出来ない者に殺されるなど、何と理不尽で愚かな事をする者が居るのか、慎助には怒りをも越えた空しさを覚えたのである。
凡そ意見とは、異なる考えによって磨かれなければ、光り輝くことはありえない。異なる考えを嫌うそれは、自らの考えに確たる論拠を持ち得ていない事を示している。だから単に好むか好まないだけの、即ち考えとは言わず嗜好と云う好き嫌いでしかない。好き嫌いも又意見だとする考えに百歩譲るとしても、それは単に頑なな信仰と呼ぶ他はない。信仰には意見は必要としない。単に信じるか信じないかの選択であるからだ。

 それ故に何時の時代にも自分と異なる考えを嫌い、自らを振り返る事の出来ない者がいる事は確かではある。しかし人の成長とは子供が大人になる事に似て、自らの考えや意見を押し通すだけでは、生きて行けない事を誰もが経験し、徐々にそれを身に付けて行く事でもある。親や上司などの目上の者や経験のある者から注意を受け、或いは先人から学び自らの考えを比較し、生じた疑問を検証して成長してゆくものなのである。新しい時代が直ぐそこに来ていると思いながら、慎助はそれを見ずに歿した象山の無念さを想い、師とも仰いだ友を偲んで涙を落としたのだ。

 思えば象山先生と言う人は、過ちを恐れる事の無い人であった。寧ろ過ちを当然の事として受け止め、進んでその過ちの中から成長の糧を探し求めた人であった。誰もが他人の目を伺い、自らの生き方や行動の規範をそこに求めてしまうが、実は言い訳の理由をそこに求めているのが、凡夫の我々だと慎助には思える。
何時も世界を見つめていた象山先生の視野の広さは、この国の誰よりも秀でていた。その為の努力は又惜しむことなく、誰よりも追い求めていた方だ、と慎助には思えるのだ。

  七月二十三日、長州藩征伐の勅命下る。
  八月   五日~  英米仏蘭四カ国の連合艦隊下関砲台を砲撃交戦する。
      十四日、長州藩降伏。
  九月二十二日、幕府は下関事件の賠償金三百万ドル支払う約束、(百八十三万両、約千〇九〇億円)、下関又は瀬戸内海に開港を迫り約定する。六回に別けての支払い、(三回目を支払い以降は明治政府が支払う事となる)
    二十六日、松代藩、京都御所などの警護を免ぜられる。
十月二十二日、英陸軍士官二名、鎌倉八幡宮前で襲撃殺される。
十一月 十一日、長州藩主服罪し、蛤門事件の責任者に自刃を命じる。
慶応元年(一八六五)
  一月  一日、幕府、長州藩主の服罪により征討軍を解く。
十一月  七日、幕府長州藩再征伐の為に諸藩に出兵を命じる。
慶応二年(一八六六)
 一月二十一日、坂本龍馬の斡旋にて、薩長連合成る。
  七月 二十日、将軍家茂、大阪城で死去。
  九月   一日、幕府は将軍の喪を理由に、征長軍の休兵を布告。
十二月   五日、徳川慶喜、征夷大将軍に任ぜられる。
十二月二十五日、孝明天皇崩御
慶応三年(一八六七) 
  一月   一日、睦仁天皇即位、明治天皇となる。


二十九、佐久間恪二郎の行方

象山が京で暗殺された時に、その場所には十六歳になった息子の恪二郎がいた事は既に書いた。事件の起きた元冶元年(一八六四)七月十一日のその日、象山は恪二郎と従者一名それに馬丁を伴い、山階宮邸へと出かけた帰りに災難に遭遇したのである。この時に恪二郎は刀を抜く余裕すらもないまま、しかも刀を抜いた時には既に刺客達に囲まれてしまった。父の象山が斬り殺された様子など見る事も出来ず、事が起きて刀を振り回している間に事は済んでしまったと言っていいだろう。襲われるなどと云う考えの無い者からすれば、恐らくは恪二郎に取って暗殺など、理解を超えた出来事だった筈である。

この象山が暗殺された六日後の十七日、松代藩から恪二郎に届いた書状には、この様な内容の一文が入っていた。
                      亡佐久間修理
「佐久間修理比度被切害候始末重々不応思召候ニ付、御知行并屋敷地共被召上之・・・」

と、佐久間家の改易を命じる内容であった。しかも藩からは改易の沙汰が下りたものの、恪二郎は何をどの様にして良いのか皆目分らぬまま、まさに途方に暮れていたのである。
この事件の後に義母の順子から恪二郎に届いた手紙には、佐久間家が再興する道は、息子のお前が父親である象山の仇を討つ以外に無いと、その無念さを強く滲ませた内容であった。順子にも悔やまれる思いがあった。象山が京に向かう前に、ピストルを買い求めて送って呉れる様にと、既に手紙を貰っていた事を多忙な兄に伝えられなかったのである。
後から藩主の幸教と共に京に来ていた門人の北澤正誠が、葬儀などの手筈を整えてくれたものの、既に松代に帰る事も出来ない事態となっていた事を、この時になって恪二郎はようやく理解出来たのである。

江戸の実家である勝家に戻っていた正室の順子に宛てて、恪二郎と同様の改易の書状が松代藩から届いた。順子は慌てて松代に一人残された、妾のお蝶宛に自分が住んでいる江戸の勝家に向う様、手紙を認めると共に江戸での住いを手配したのである。
そしてお蝶もまた象山が殺され悲しみの最中、追討ちをかけた様に今度は改易の御沙汰が藩から伝えられたのである。しかしお蝶はこの時、象山の門人でもある長野村の医師金子成三や、佐久間家の親戚となる八田家などに身を寄せ、門人達と相談した上で佐久間家の再興を待つ事になった。
一方の恪二郎の叔父となる勝海舟も、象山の訃報を聞いて絶句した。暗殺されたその翌日の日記には、この様な言葉が書かれている。

『昨三条木屋町にて浪士佐久間修理を暗殺す。嗚呼、先生は蓋世之英雄、其説正大高明、能世人之及ふ所にあらず、此後吾又誰にか談せむ、為国家痛墳胸間に満ち、策略皆画餅』
そして知らせを受けた翌々日の十三日には、この出来事に心を痛めると、残された恪二郎の留守宅に手紙を送っている。勝は神戸の海軍伝習所にいた為、恪二郎を神戸に引き取り自ら世話をしたいと考えていたのである。

『佐久間先生去る十一日、三条通にて夕七ツ半時、何者ともしれ不申候数人出候て、左右より切りかけ馬上にて相支候所深手にて落馬、従僕追々候へ共無其甲斐、旅籠迄引取同夜死なれ申候。誠に気の毒の事と存候。自分にも早速見舞度候へども、当地御用多にて心まかせ不申一人早速遣し置き候。恪二郎殿之所如何成候成哉。屋敷にて引取候哉。此地へ参られ候て、よろしくは参られ候様申置候。また江戸に引取られ候はゝ留守宅へ参られ居候てもよろ敷と申遣置候。昨今のことにてそれらもいまだ知れ申間敷、段々世の中むずかしく成、江戸に居候もあやうくかえって此地の方よろしくと存候。萬事心附お順事よくよく心附先生の恥にならぬ様と御申置可給候。いづ方に居候てもわざわいは無致方、恪二郎殿もさぞこまり入られ可申とくれぐれも気の毒ゆゑ、いか様にも世話致し候間、当地へ参候様申遣候。
  七月十三日 
  留守宅え
 帰りの程も未だ分り不申候へども、来月にはこの地の若年寄は帰府ゆゑ 其節まではとどめられ候事と存候。此地は先ずおだやか故風説もおどろき無之様と存候』
 
 この手紙を持参すれば、自分が留守の際であっても誰でもが意味を理解し、しかるべき手配が出来る様にとした海舟の配慮であった。そしてこの翌日の十四日、海舟は日記にこう書いている。
『昨夜、佐久間江新宮馬之助を遣わす、恪二郎此地江引へき義可然、且万事註意肝要と申遣す』
海舟がこの日記を書いた五日後の七月十八日、京の都には二千余もの長州藩兵が到着した。表向きは藩主の赦免を求めての上落であったが、戦仕度を整えていたのである。こうして既に先に京に来ていた久坂玄瑞はこれに合流するも、薩摩と会津藩の兵に追い立てられる様に、翌日の七月十九日に負け戦へと突入して行く事になる。所謂、蛤御門の変と呼ばれた事件で、久坂はこの戦を自らの死に場所としたのである。

京に居て恪二郎の身を心配してくれたのは、嘗て象山の開いた五月塾の門人でもあった会津藩士の山本覚馬であった。覚馬は犯人を捜して貰えるとすれば新選組に紹介してやるが、そちらに入隊すればどうか、と恪二郎に伝えた。新選組を京で雇い入れているのは会津藩と云う、その仕組みが既に出来ていたからである。
初めて父の象山と共に来た京の町で、独り放り出されたのも同然の恪二郎は、父親の仇を捜し出し、その仇討ちをする事が困難である事を知り、絶望的な気持ちになった事は想像するに難くない。
まして象山の息子と云うだけの立場で、自分を心配して呉れるのは、十年も前に五月塾の門人でもあった山本覚馬位なものであった。それだけに新選組ならば多くの仲間が、父の仇を探して呉れるであろうと思えたのも確かであった。

新選組は将軍上洛の際に直接的な警護では無いにしても、京の治安を預かる為に主に江戸で集められた浪人達である。そこには象山の考えていた開国や公武合体などの、一貫した思想や信念を持ち合わせていた者達ではない。寧ろ手柄を立てて幕臣の何れかの藩に雇い入れられれば暮らし向きも落ち着き、以降の立身出世を望めるとした程度の者達であった。こうして頼るべき者も居なかった恪二郎は、山本覚馬と共に近藤勇に面会すると、食客としての立場で新撰組に加わる事にしたのである。

正式に新選組に加わったのは父の象山が暗殺され、松代藩から佐久間家改易の報を聞いた凡そ三ヶ月後の事である。恪二郎のその後の事については暗殺された象山同様、意図的に面白おかしく悪意を持って書く者が多い。しかも十六歳の食客となった恪二郎の事を記す、新選組関係の記録には殆ど記述が無いと言っていい。恪二郎は松代藩から縁を切られると、佐久間家の改易に伴い、新たな名前となる三浦啓之助を名乗る事にした。三浦は象山の正室である順子の実家の苗字で、名前の啓之助は父親の幼名をそのまま引き継いだのだ。

勝海舟は同じ年の五月に幕府の軍艦奉行に昇進した直後で、神戸の海軍伝習所で多忙な日を送っていた。処が象山暗殺の報に続いて、その息子の恪二郎が新選組の近藤勇の食客として入隊し、仇を捜し歩いている話を聞き急ぎ京の新選組を訪ねたのである。
この時に海舟は、新選組の局長となる近藤勇に百両の金を包み、恪二郎の身の上を案じて差し出した。この金を差し出したその真意とは、恪二郎の後ろには自分が居る事を暗黙の内に伝える為でもあった。
ところが恪二郎が局長である近藤勇の側近として、随分と偉そうにしていたとか、周囲の調和を乱し乱暴狼藉を働いていた、などの見たような話や根拠の無い興味本位の記述の他に、新撰組のご法度に脱走は死罪切腹と決められた厳しい掟があったとか、脱走後は随分とびくびくしていたなどの話しを、面白おかしく語る輩か居る。

明治時代以降に多くの小説や映画の類が歴史を脚色し、それを観た者が話しに尾ひれを付け加えたことにも因るのだろう。だが事実は新選組の中に除隊が存在した例は幾つもあった。慶応元年に父親の象山が暗殺され、恪二郎が新撰組に入隊した同じ頃に、やはり入隊した藤沢武城は隊の勘定方に配属された。だが「文芸のみにて武事の用をなさずと、倦して退去す」(新選組始末記)として除隊が認められ、同じ四月に入隊した司馬良作などは、慶応三年三月、「洋行を志すところありて、修行する暇を乞いて退去す」(同新選組始末記)と、洋行、つまり西洋に出かける事が除隊の理由となっている。

攘夷を本来の目的としていた朝廷とは反対の、開国を目論む幕府の命で将軍を警護していた新選組は、除隊あるいは脱隊の理由に洋行をも認めていたのである。しかもこの司馬良作は維新後に斯波有造と名前を代え、明治十一年の天皇巡幸の際に、何と「大書記官斯波有造、ここに奉迎す」と岐阜県職員となっている。つまり放逐とか追放などの名目で、実質的な除隊が行われていた事は確かなのである。
勿論、『新選組始末記』は作家の子母澤寛氏の小説ではあるが、子母澤寛氏はこの小説を書く為、新選組屯所として使われた八木家の八木為三郎氏や、新撰組最後の生き残りとされた稗田利八氏から、直接に取材を行って得た一級の資料に基づいて書いている。少なくとも根拠の無い巷の風聞よりは、間違いなく事実に近いことは確かであるだろう。

啓之助が新選組に入隊した其の翌年、父親の仇が肥後細川藩の河上彦斎等である事を突き止めるのだが、その事実を証明出来る術を持たなかった。何れもそうした情報を集めて来て呉れたのは、河上と同じ肥後国の出である新選組の隊士で、諸士取調役を兼ねる監察の芦屋昇から耳にした話である。それに河上彦斎は強硬な攘夷論者であり、刺客としても知られた居合いが得意な肥後藩士でもある。
しかも父の象山を殺した理由は神聖な天皇の居る京の街を、洋式の鞍を付けた馬に跨って闊歩していた、と云う極めて単純な理由だった、と言う様な話まで耳にしたのである。

更にこの時に当の河上彦斎は京の皇居警護の任に当たっていると聞き、剣の腕も劣り、尚且つ藩から改易を命じられた啓之助に出来る事は、藩の許しもなく仇打ちをして家名を元に戻すという事が、何故か最善の方法だとも思えなくなっていた。嘗ては象山の門人であった小林虎三郎からは、恪二郎の仇討ちの話を聞いたのか、心配をしてくれて手紙を貰った事があった。その手紙には、この様な事が書かれていた。
「其の志は嘉すべき(よい)ことである。然しながら先生は私怨の為に殺されたのではない。其の基づく所は国家的観念にして、只、意見を異にしたからである。それを今日、仇敵として附け狙うという事は宜しくないと思う」と反対したのである。更に勝海舟からも仇討ちなどなすべき時勢では無い、寧ろ学門修行に精進する事がよかろう、と忠告された事もあったのだ。
この頃の恪二郎(三浦啓之助)と周辺の出来事に限って、没年まで具体的に時系列で書き記しておくことにする。

元冶元年(一八六四 )
  七月  十四日、 知行並びに屋敷地共に召し上げ、佐久間家断絶が決定される。
  九月   五日、 恪二郎が姿を消す。海舟は門人の新宮馬之助を京に向かわせ、探す様に求めている。
   十月 八日、 松代藩藩士、北澤正誠は佐久間家復興の思いを胸に、海舟を訪問。恪二郎は三浦啓之に変名し、新選組に入隊する。又、新選組隊長の側近として客分扱いを受ける。
慶応元年(一八六五)  これ以降、慶応二年三月まで恪二郎の記録なく、勝海舟の日記などからも恪二郎の名前が無い事から、新選組に居たのと思われる。
慶応二年(一八六六) 
正月      松代藩藩士の北澤正誠が、佐久間家再興の願書草稿を記す。
   三月   六日、佐久間家苗跡建て下さる様、恪二郎呼び戻しのお達し。(監察日記)
三浦啓之助、新撰組を脱隊。松代の親戚筋に迎えられる。
七月   五日、勝海舟から近藤勇・土方歳三江五百疋、山本覚馬江五百疋、佐久間恪二郎世話いたし呉候為、挨拶として遣わす。(海舟日記)
七月二十七日、恪二郎、親類、依田又兵衛方御預け(監察日記)    
八月二十七日、恪二郎、依田又兵衛方から長谷川直太郎方へ御預け(監察日記)
   九月二十二日、恪二郎、長谷川家から菅家へ御預け(監察日記)
   十月   七日、恪二郎、菅家から白井家へ御預け(監察日記)
  十一月   四日、恪二郎、白井家から八田家へ御預け(監察日記)
  十一月二十七日、恪二郎、八田家から長谷川家へ御預け(監察日記)
  十二月  二十日、恪二郎、長谷川家から北山安世家へ御預け(監察日記)
慶応三年(一八六七)
   二月   六日、恪二郎、北山安世家より出奔、(監察日記)
   
 慶応二年の三月半ばである。新撰組の屯所となる西本願寺に居た恪二郎の所に、一通の手紙が松代藩から届いた。藩へ戻る様にとする、御呼び戻しのお達しであった。この頃、佐久間家再興に力を尽くしていたのは、松代藩士の北澤正誠など象山の門人達である。
それらの人々は恪二郎を象山の血筋を引く唯一人の者として、佐久間家復興の足がかりにと考えていたのだが、松代藩内の政治的な重鎮達の対立は未だ続いていた。ましてや恪二郎の方でも、父が暗殺されて三日後に早々と御家改易を決められた事に対し、極めて藩に対する不信感を強くしていたのである。

それでも親戚筋の者達から強く求められ、新選組を辞した恪二郎が松代に戻ると、それからの一年近くを、まるでたらい回しの様に親類縁者の下で、ひと月毎に預かり先を替えられる身となるのである。この間に藩からは恪二郎の監察日記を記す事が、親戚縁者に求められた。この時の恪二郎は十八歳であった。
こうして慶応二年の三月から翌年の慶応三年二月まで、恪二郎は佐久間家の親戚に、それもひと月ずつの持ち回りで預けられていた。だが格二郎の忍耐も限度を越えたのか、八軒目となる親戚筋の北山安世家から出奔すると、その行方をくらましたのである。松代の佐久間家姻戚にあたる、北山安世家を二月に出奔した格二郎が、そのまま西に向った事は、その後の動向からほぼ間違いない。

しかし恪二郎は京の新選組に戻る事も会津藩の山本覚馬の処に顔を出す事も無く、義父でもある勝海舟の意見に従い、その行方は松代の誰もが知ることは無かった。しかも恪二郎が新選組を離れ、藩からの呼戻しに従い松代に戻った慶応二年から三年頃、京では大きく時代が動いていた。幕府が大坂城で将軍家茂が歿した事を公表したのは、慶応二年八月二十日の事である。しかし実際に家茂が亡くなったのは、このひと月前の七月二十日で、将軍家茂の後見となっていた徳川慶喜は、その間に長州藩を征伐する事としたのだ。

 一方の長州藩は未だに恭順派が藩の中枢を占めており、幕府の動向に絶えず神経を研ぎ澄ませていた。それは未だに幕府が長州征伐を打ち出したまま、今度は休戦を打ち出すなどの事態を迎えた事に起因する。しかも一向に薩摩藩が長州討伐に向わない事も、慶喜には頭痛の種でもあった。
それも後から知れば当然の事で、半年前の一月に土佐藩の坂本龍馬の仲介で、すでに薩摩と長州が手を結んだ薩長同盟が成立していたのである。こうして主戦派である長州や薩摩、或いは土佐などの勢力が、徐々に討幕の目的を掲げて台頭し始めた時であった。恪二郎の目は既に故郷の松代藩や新選組の枠を超えて、勝の意見に従って朝廷の人々と交わり、薩摩藩士等との往来を持つ様になっていたのである。

 この事態が大きく変わったのは、長州征伐の勅許を慶喜が天皇から得た事であった。慶喜が第二次長州征伐に向うため、八月十二日に京を発つ事を決めた事である。既に先陣として長州に向った九州諸藩の兵は、小倉城を拠点にしていたものの、高杉晋作の率いる奇兵隊に苦戦を強いられていた。幕府側の九州諸藩の兵が持つ弓や槍、さらに旧式な火器は、長州藩の新式火器を前に殆ど役に立たないシロモノであった。
この時、既に長州藩は薩摩藩から新式銃を手に入れ、薩摩藩は長州藩から米を手にしていたのである。しかも坂本龍馬も奇兵隊の兵士として戦い、その模様を手紙に記している。
そして八月十六日に慶喜は、突然に長州出兵を中止した。京では大雨が続き、出発が延び延びになっていた事もある。この同じ日に勝海舟を呼んだ慶喜は、長州藩との講和を命じる事にしたのだ。急遽亡くなった家茂の喪に服する為と称し、長州征伐を中止する事にしたのである。

 こうした状況の中で十一月二十七日には孝明天皇から将軍になる様にと、慶喜に正式な内意が伝えられた。それまで将軍職へは乗り気でなかった慶喜も、この時は素直に天皇からの要請を受けたのである。そして十二月五日に将軍宣下が行なわれ、慶喜は正式に十五代将軍となった。
 ところがその将軍宣下から二十日後の十二月二十五日、今度は孝明天皇が突然に崩御されたのである。その死は病死とも毒殺とも言われているが、いずれにしてもこの頃から、岩倉具視や小松帯刀、更に西郷隆盛や大久保一蔵らが、新たな政府を作る為に密かに密議を重ねて始めていたのだ。

 処で『維新史料綱要』七巻、二五九頁、慶応三年九月是月の項に、この様な一文が記載されている。
『松代藩士佐久間恪次郎、故佐久間修理男、書ヲ摂政二条斉敬ニ呈シ、兵庫開港ノ延期、萩藩主毛利敬親父子ノ官位復舊ヲ請フ』(大槻文彦慶応卯辰實記)
この維新史料綱要を書いた大槻文彦とは、これが書かれた慶応三年に二十歳になったばかりの青年であった。後年は儒学者となるも、父の大槻磐渓は戊辰戦争の時の、奥羽列藩同盟の起草者として知られている。又文彦は鳥羽伏見の戦いで仙台藩の密偵として京で動いていた事から見ても、十九歳の格二郎とは年齢も近く、ひと時は京で行動を共にしていたと見るべきであろう。

 この長州藩士達の願いとも読み取れる一文が、果たして恪二郎自身が書き認めた物か、その真偽の程は不明である。しかしさほど重要とも思えない意見の進言を格二郎が認めたとするなら、慶応三年九月前の出来事を振り返って見る必要がある。
それにここに書かれた摂政二条斎敬とは、公卿の二条家の当主で、日本史上最後の関白と言われた人物である。それ故に推測に過ぎないのだが、文面の内容から見て毛利敬親親子の官位復活の求めは、長州藩との係わりから、この一文を書いた様にも思える。この時、既に格二郎は会津藩や新撰組と縁を切り、公卿の二条斎敬に関連のある長州藩、或いは土佐藩や鹿児島藩の、面識のある人物に接触していたと見るべきであろう。そして恐らく叔父となる勝海舟と連絡を取り、その後の生き方を決めて行ったと思えるのだ。

 何故なら、この慶応二年から明冶二年までの期間、勝海舟の日記から恪二郎の名前が消えているからである。恐らくは長崎や神戸の海軍操練所には、長州や土佐、更には薩摩藩などからも、藩に選ばれた若者達が集っていた。特に神戸にあった海軍操練所が、反幕府的である事を理由に閉鎖され、江戸に戻った海舟はこの年の五月には再び軍艦奉行に戻されると、八月の十六日には大坂で慶喜と面会している。更に慶喜からこの時、長州藩との講和を任せられる事になる。
それ故に勝海舟が西郷隆盛や桐野利秋の居る鹿児島藩に恪二郎を向わせ、その動向を知っていたからに他ならないと推測出来る。しかもこの慶応二年七月五日には、新撰組の近藤勇と土方歳三にそれぞれ五百疋、山本覚馬にも五百疋の恪二郎の世話の礼として贈っているのである(海舟日記)

 慶応三年の事である。京から大坂や東海地方にかけ、「ええじゃないか」と呼ばれる踊りとも、一種の信仰とも取れる掛け声が庶民の中で流行り始めていた。讃岐の阿波踊りを模した様な手足を動かし、踊りと共にその掛け声は「・・・・ええじゃないか」の、言葉の頭には時勢の不満を種となる出来事を入れて、掛け声にあわせて踊り騒いで街を練り歩くのである。
まるで物の怪にでも取り付かれたかのように、それは自然発生的に広がっていった。世の中を動かす政治の仕組みが大きく変わる最中の事で、民衆が新たな時代を歓迎するのか或いは諦めを決めたのか、僅かな期間ではあるものの狂信的なそれは、まるでつむじ風の様に通り過ぎて行った。

 ところで前年の十二月には孝明天皇が崩御し、巷にはある噂話が流れ始めていた。痘瘡(天然痘)に罹った孝明天皇が崩御する直前、病は快方に向うと言う医師団の言葉とは反対に、全快を祝う宴を催す事が発表されて四日後、突然亡くなってしまったからである。
未だ若い十四歳の明治天皇が、満十四歳で践祚の儀を行い、皇位についたのは慶応三年一月九日である。一月十一日には徳川慶喜の異母弟となる昭武が、後に日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一らを率いて、フランスからヨーロッパへの視察に向った年でもあった。
この渋沢栄一の話は又後ほど書く事にするが、六月に坂本竜馬が新たな国家の構想を、新政府綱領として書き終え、藩主を隠居した土佐藩の山内容堂に幕府に対し建白する様に求めたのだ。
そして四ヶ月後の十月三日、山内容堂は大政奉還を幕府に建言するのである。更に幕府はこれを受けた十日後の十三日に、二条城にて大政奉還の諮問を諸藩に諮った。この出来事が結果として、十二月の王政復古の大号令に向う事になったのである。

 話は五年程前に遡るが、象山が松代で蟄居を解かれる直前の文久二年、土佐藩藩主山内容堂の使いとして、象山の招聘に松代に来たのは、中岡慎太郎、原四郎、衣斐小平の三人である。そしてこの時、強く印象に残った中岡の事を象山は、「土佐藩の中岡は頗る頑固な人で、これを辞したら殆ど刺し違へぬばかりに論議した」と述べている。
しかし五年後となる慶応三年の十一月半ば、京の四条にある近江屋に坂本龍馬を尋ねた中岡慎太郎は、何者かによって襲撃され、龍馬と共々に瀬死となった。格二郎とは十歳違いの三十歳の慎太郎と坂本龍馬は、この時に三十一歳を迎え、しかも象山と同じ様に暗殺されたのである。

 恪二郎が京から向った先は薩摩であった。桐野利秋に従い薩摩藩の海軍に編入されると、八月に薩摩藩の軍艦で鹿児島を出航、越後の松ケ崎に上陸し、越後の村上から庄内へと進軍。北越戦争に参加していたのである。更に十二月二十三日に鹿児島に戻ると、明冶三年二月に松代藩から恪二郎宛てに、家名再興の通知が届いた。この斡旋は西郷南州(隆盛)によるもので、海舟の力添えがあったとみるべきであろう。
こうして恪二郎は薩摩藩と共に、京の伏見から始まった戊辰戦争に参戦した後、松代藩への新政府の打診によって佐久間家は御家再興となるのである。この時に松代藩から届いた御達しには、この様な言葉が書かれていた。

 『亡父修理先生於京地被殺害家断絶に及び候処、祖先より数代奉仕之内には武芸出精之者も有之、其上修理文武厚心懸、殊に西洋砲術伝習未だ世間に稀なる時に當り、独り奮って原書に就き研究し、門弟共へ親切に致教授候より、種々御用立候者共有之に至る。其功労不少々、依之出格の御寛典を以て家名相建、元高之内七拾石、其適宣五拾弐俵壱斗弐升五合差遣、給人申付候事』
だが家名再興の知らせが佐久間家に届いても、恪二郎が松代に戻る事は二度と無かった。松代藩が佐久間家に遣わした家禄は、親戚である松代の長谷川家に預かって貰っていただけである。何時までも世襲の時代が続くとも思えない事や、知識こそが最も大切だと海舟に諭された恪二郎は、その後に慶応義塾へと学ぶ事になる。

慶応四年(明冶元年)(一八六八)
    一月    三日、  鳥羽伏見の戦いが始まる。恪二郎は新政府軍に参戦
    三月  十五日、  江戸城総攻撃が決定されるも無血開城となる。旧幕府軍を相手にした戊辰戦争へ移り、
戦場は東北から北陸へと移る。慎助の息子である壬子郎と丑五郎も、新政府軍の松代藩兵として北越戦争に参戦。
明冶二年(一八六九)
    十月  十八日、  松代藩主真田幸教、没す(享年三十五歳) 幸民が藩主を引き継ぐ。
  十二月  一日、  佐久間恪二郎、薩州家に世話二相成居と云。(海舟日記)
   三日、  佐久間恪二郎・薩人両人、入塾之事頼ミ申聞る。
          五日、  恪二郎、同人身分之事、田中清之進江聞合頼手紙認遣ス(海舟日記)
         八日、  有馬藤太、恪二郎身分之事二付、田中氏之返答申聞ける、薩摩家より真田江よろしく談呉可申旨也(海舟日記) 
明冶 三年(一八七〇) 
     二月二十三日、 松代藩より特別の寛典を以って、格二郎に元高の中七十石(籾五十二一斗二合)遣わされ、給人扱い。家名再興となる。
明冶 四年(一八七一) 
八月      恪二郎、慶応義塾に入る。この年に名を恪(いそし)の一字に改める。
明冶 六年(一八七三)  恪、司法省判事補に任ぜられる。静枝と結婚する。
明冶 八年(一八七五)  恪、伊予松山裁判所判事に着任。一男を出生。
明冶 十年(一八七七)  恪、二月二十六日 伊予松山にて歿す。
明冶十二年(一八七九)   恪の長男、四歳で歿する。

 京で暗殺された佐久間象山が生前、息子の格二郎の為にと積み立てていた、無尽の話は余り知られていない。無尽とは鎌倉幕府が定めた『鎌倉中挙銭、近年号無尽銭』にも記されており、元は米穀を対象にした出挙(すいこ)制に由来している。つまり当初は米の種子を農民に貸し出し、収穫期に利子を付けて返す事から始まった仕組みである。やがて時代は貨幣経済への変化と共に、銭を対象として仕組みが中世社会に広まり始めた。
後に上方では憑子(ひょうし)、或いは頼母子講(たのもしこう)と呼ばれる様になる。仕組みの基本は無尽を形作る集団を講と呼び、参加する者は決められた日に決められた掛金を持って集り、そこで集められた掛金を抽選、或いは入札等によって特定の参加者が手に入れ、これが一定期間を繰り返され、一巡する事によって無尽は完結する事となる。

 一度も掛けた掛金を取り戻せない者が居る反面、幾度も講に集った金を自らの懐にする者までいる訳で、受け取った金額が公平かではなく、受け取る機会が参加した者に均等であったかどうかである。しかし、こうした宝くじ的な無尽は妬みや恨みを生み出し、事件を生む事から仕組みは様々に変化していった様である。
江戸時代も後期には、営業化した無尽と呼ばれる仕組も始まっている。これは講を始めるに際して、世話役が役所に届け出る事から始まるもので、現代の定期積み立ての様な仕組みであった。山村に広がった無尽も明冶三十四年(一九〇一)には、営業無尽として都会へと広がり、会社組織の共栄貯金合資会社が設立されている。

 更に大正四年には健全な無尽を育成する為に「無尽業法」が制定され、免許制として資金運営を監督下に置く「無尽会社」を出現させ、やがては相互銀行として発展してゆくのである。
信州柏原宿で終焉を迎えた俳人の小林一茶も、無尽には亡くなる前に六口程入って居たと言う程、信濃は無尽が広まっていた様である。それに現在の地方銀行である長野銀行も、元はこうした無尽会社から出発している。
その無尽に関する象山の覚えが残っているので、ここにその内容を書いて置く事にする。しかし象山が加わっていた無尽は、営業無尽と呼ばれるものだった様で、満期に二百両受け取る為に十年の期間、予め利息を事前に引いて月々積み立てる、いわば定額定期預金の様なものである。尤も、この受け取り金額は、多いものでは五百両などの高額もあり、藩の重役達が加わったものもあった。

 覚え
 金二百両也
右、末年発起無尽掛金之内慥受取申候。為役証如此、以上
二月十一日               佐久間象山
力石村 塚田五左衛門殿
(この力石村とは現代の長野県千曲市戸倉上山田温泉の南にあり、今でも力石の地名が残っている)

 象山が歿してから実に八年後の明冶五年、恪二郎の元に前記とは別の無尽の世話人から、突然の知らせが届いた。この頃に明治政府は新たな新貨条例を発令し、両から円へと呼び名が移行されていた。
受取人が息子の恪二郎に指定された象山の生前に入っていた無尽とは、元金を十年間世話役に預け、受け取る満期の時には二百円なる無人であった。つまり予め複利計算で年利五分の利息を掛金から差し引き、利息を含めた元金を満期に受け取る事が出来る、謂わば、定期預金の様なものである。そして既に満期が過ぎており、恪二郎への連絡が届かなかったのは、佐久間家の改易から新選組への入隊、更には薩摩藩と共に戊辰戦争への参加など、受取人である恪二郎の所在が不明であった事からである。

 この知らせを読んだ恪二郎は何を想い、何に感謝したのだろうか。その時に知らせを聞いた恪二郎は、無尽会の世話人である山口屋甚右衛門に対し、この様な手紙を書き送っている。

 『頼入候一札之事於蝶事任望此度出宅為致候得共我等出生以前~一方世話罷成候條(すじ)深く所、感候其上亡親父歿後脱走致候砌(みぎり)より多年辛苦貞操を不誤候段更に一層感謝致候事に候依之亡父興發致置義会の金子弐百円満會之節無残差遺度存候之間世話人之義に付き其元へ宜く頼入候事
 五月十三日                   佐久間恪二郎
 山口屋甚右衛門殿』
 
 簡単に手紙の意味を訳せば、こんな意味になるだろう。
「頼みたい事がある。自分は生まれる以前から、義母のお蝶には父と共に随分と世話になっている。特に父の象山に対してお蝶は、生涯ただ一筋に尽くして操を守り通して来た。父の象山が没し、自分が新選組を脱して以降、長く苦労を掛けてしまったが、感謝してこそ父も浮かばれるというものだろう。それ故にこの二百円は世話人の方で、お蝶の許に送り届けて欲しい。宜しく頼みたい」
産みの母であったお菊に捨てられ、同じ象山の妾であるお蝶に育てられた恪二郎は、お蝶に深い感謝の念を持ち続けていた様である。この時の二百円の価値とは、凡そ米が百俵程買い求められる程のものであった。それに無尽会の金は、象山が恪二郎の為にと発起して掛け続けて来たものである。しかし恪二郎はこの金を全てお蝶に与え届ける様にと、その頼みごとを世話人の山口屋の主人に託したのである。
お蝶は結婚する事も無く、その生涯を通して象山を弔い続け明治三十七年五月二十三日 東京市芝區濱松町二丁目二番地に於いて病死した。享年七十三歳であった。

 その後の恪二郎はと言えば、明冶六年の二十五歳になった時に静枝と結婚し、慶応義塾を退学すると、司法省に出仕して四級判事となった。しかしこの時に警察官との間で感情的な揉め事を起こし、先に手を出した事から罰金刑を受けたのである。将来の事を心配したのは元松代藩士で、象山の門人だった司法大亟兼大検事の渡辺驥(すすむ)であった。恪二郎はその推薦状を持って四国の松山へと向かい、更に裁判所判事として伊予に移ったのは明冶八年である。その後、静枝との間に一男を儲けたのだが、恪二郎は二年後の明冶十年二月二十六日に松山で歿した。その死は食中毒であったと伝えられている。更にその二年後、残された恪二郎の息子も僅か四歳で他界し、象山の血筋はそこで途絶えたのである。


 物語はこれまで、江戸時代の末期に生きた佐久間象山の生涯と、象山暗殺以降に息子である恪二郎の事を、明治と呼ばれる時代の初め頃まで、その足跡を追い求めてきた。ここからは少しだけ話を戻し、松代に住む宮本家十代目の慎助を始めとした、その子供達の事を書いておきたい。そして少しばかり話しが重複事にもなるが、そのあたりは何卒お許し頂きたい。
宮本家十代目の慎助が歿した明治十一年(一八七八)の三十年程前、信濃国の善光寺では善光寺地震と呼ばれた大惨事が発生した。この出来事は既に本文の十五、「北斎の頼みと善光寺地震」にも書いたので話を省くことにする。
善光寺地震が起きたこの同じ年の十月、二十六歳になった慎助は妻を娶った。丸山清と云う聡明な娘で、年号が嘉永と改められた翌年の嘉永元年(一八四八)に、慎助と清との間に始めての娘「かめ」が出産した。

 更にこの翌年に宮本家では念願の男子が生まれたのだが、名前を付ける事も叶わず、生まれて直ぐ夭折してしまったのだ。しかし次の年には次女となる紀伊が生まれ、翌々年には待望の男子となる壬子郎が、翌年にはやはり男子の丑五郎が、そしてそれから三年後の安政三年(一八五六)に四男の乙六郎仲が産まれた。
まさに子沢山となったのだが、翌々年には三女となる廉が生まれ、慎助が御宛行納籾五十俵上白米二人半御扶持を申し受けたのは、安政五年(一八五八)三月二十五日である。そしてこの年の十二月十八日に松代藩から一代給人格を賜ったのは、慎助三十七歳の時である。
慎助が妻「清」を娶って十一年程が過ぎた安政五年(一八五八)のこの時まで、妻との間には四人の男子と三人の女の子の、合せて七人の子を儲けた事になる。尤も二番目に産まれた男子は、産まれて直ぐに夭折してしまったが、それでも他の子供達は健やかに育っていた。
しかもこの頃の宮本家は、藩からの扶持米以外に城下の西側にある清野村八丁沖や、御幣川村の隣となる東福寺村狐塚などに、先祖から預かっていた畑地の土地を有しており、小作人を使って米や野菜など現物を得ていた事から、極めて堅実な暮らし向きをしていたと言えるだろう。

 四男の仲が産まれ、それから二年後に生まれた三女となる「廉」が、三歳となった文久元年(一八六一)の四月、慎助の母で亡父市兵衛の妻である「貞」が病で歿した。一年近くも病で寝込んではいた末の、六十も半ばを過ぎての病死であった。夫の市兵衛が四十二歳の時に歿して二十七年後の事となるから、天寿を全うしたとも言えるだろう。
その二ヵ月後の六月十日、夭折で亡くした長男の一人を除き、慎助との間に儲けた六人の幼い子供達を残して、今度は妻の「清」が突然に歿したのだ。義母である「貞」の看病疲れと子供達を育てる苦労からなのか、義母である「貞」の死を看取った後の、それは余りにも突然の亡くなり方であった。この時の慎助の許に残されたのは三歳の「廉」、五歳の「仲」、八歳の「丑五郎」、九歳の「壬子郎」、次女で十一歳の「紀伊」、そして長女の「かめ」は十三歳で、併せて六人の子供達であった。
慎助は御幣川村の分家にあたる親戚筋や、亡くなった清の母方であたる丸山家にも、残された子供達の面倒を見て貰う為、人手を出して貰う話しを伝えたのである。この為、親戚筋からの手伝いを出して貰うなどの他に、まかないの下女を雇い入れるなど、慎助に取ってこの年は大変な年となった。更に大きな問題は慎助の後添えを求める事であった。しかも幼い子供を六人も抱え、四十を前にした慎助の後添え探しは、宮本家にとって最も急を要する大問題でもある。しかも宮本家の混乱の最中に、ふた月後の八月には、象山の母親「まん」が八十七歳で歿したのだ。象山の蟄居が許される、それは一年前の事であった。

 慎助の母や妻が、立て続けに亡くなって二ヵ月後、今度は象山先生の母親である「まん」が亡くなり、祝い事の憚られる時であった。宮本家に後添えとして入籍したのは「西澤たか」である。「たか」は天保八年(一八三七)正月五日に生まれ、慎助の許に入籍を済ませた八月には二十四歳であった。
だが先妻が残した六人の幼い子供のいる宮本家に嫁ぐ事になった「たか」の事は、この評伝を書き上げる平成三十年の十二月まで、その素性は筆者にとって闇の中であったのだ。冊子『松代』二十号に故北村典子氏が書いた、(『佐久間象山』の著者宮本仲と「宮本家文書」について)、とする一文の中に掲載されていた「宮本家系図」の、たか・西岳院 (西沢姓)の文字だけであったからだ。

 現代では考えられない事であったが故に、六人もの先妻の遺した幼い子供達の母親になる為、宮本家に嫁いで来た女の事を、何としても明らかにしたい想いが筆者を突き動かした。しかも宮本家を語る上で、慎助と共に最も重要な女性でもあると思えたのだ。
一体何処で生まれ、誰の娘でいたのか、知らないでは済まされない。ただ判明している事は「たか」が、慎助の後妻である事と共に、後に東京帝国大学医学部の教授になった宮本叔氏の母親でもあった事だ。
筆者は平成三十年の夏に叔氏の眠る東京池袋の雑司が谷墓地を訪ね、管理事務所の係りの方から墓に眠る叔氏の身内の方に、筆者の目的を書いた手紙を預け連絡を頂く様にお願いしたのである。

 この時に叔先生の孫となる真氏から届いた返事は、祖母の名前はそれまで全く知らなかったとの回答を戴き、慌てて真氏宛に筆者が書き上げた「秀でた遺伝子」をバインダーで綴じ終え、松代二十号の記事と共に郵送したのである。暫くして真氏から早速調べてみます、との返事を戴き、半年後にその回答のメールで受け取り、「たか」の氏素性などを知る事が出来たのだ。その時の真氏から届いたメールを要約して転記する。

 平成三十年八月、小生からの手紙を叔先生の八人の子供達家族に転送し、更に併せて星空文庫の著書『秀でた遺伝子』と、『松代二十号』の冊子の一文 (『佐久間象山』の著者宮本仲と「宮本家文書」について)を紹介した。
九月、長野市役所の戸籍課に西澤たかの問い合わせメールを送り、後日戸籍課の方からの回答を得た。
十月、叔との続柄を証明する為、真氏自身の謄本を杉並及び千代田区役所で入手。
十一月、長野市役所にて謄本を入手するアドバイスを受け、松代真田宝物館を訪ねた。その結果、長野市役所からの回答は、次の通りとなる。

「西澤たか」
 生年月日 天保八年(一八三七)正月五日
 出身 長野県 埴科郡西條村 西澤貞取の長女?(埴科郡西條(にしじょう)村とは、慎助の住む有楽〔うら〕町の南側が西條である)
 宮本家入籍 文久元年(一八六一)八月二十一日 
長野県 埴科郡松代町千弐百二十六番地に入籍 (二十四歳)
  没年月日 明治三十七年(一九〇四)九月十九日 (享年六十七歳)
  西澤たかの父   西澤八十馬貞取 (御番士) 元冶元年 
    たかの祖父  西澤軍冶美政 (御蔵奉行  天保元年 代官 天保五年)
西澤家は松代藩内でもかなり高い地位にあった家系だが、詳細は不明。

 との返事を筆者は真氏から頂いたのである。筆者の突然の問い合わせによって、真氏には大変なご足労をおかけしてしまった。しかしそれまで空白だった宮本家に嫁いだ「たか」の存在は、当事の宮本家にとっても、そこから続く遺伝子の中にも、大きな意味を持つものである事は間違いの無いであったろう。過去に、もしもは禁句だが、それでも敢えてもしも「たか」が慎助の後妻とならなければ、叔先生は生まれる事も無く、孫の真氏も存在する事は無かったからである。

 二十四歳の「たか」が突然に、六人もの幼い子供達の母になる覚悟で、慎助の後添えとなった翌年の文久二年(一八六二)、「たか」は初めて口惜しい現実と向かい合う事となった。先妻の末娘で四歳を迎えた「廉」が、突然に幼くして夭折したのである。この時、十四歳の長女「かめ」を頭に、十二歳の次女「紀伊」、そして長男の壬子郎は十歳である。更に次男の丑五郎が九歳、乙六郎と呼ばれた三男の仲は、この時に未だ六歳であった。
二年後の文久四年、「たか」は慎助との間に、初めて男子を産み落とした。ところが名前を付ける間もなく、慎助の五男となる子は夭折してしまったのだ。しかもその翌年の年号が元冶から慶応と替わった二年の春、今度は長女の「政」を産んだのだが、これも生まれて五ヵ月後の八月に、初めて産まれた子と同様に夭折してしまった。
次々と産まれたばかりの我が児の死を悲しみの淵で見送り、苦労と空しさのなかで「たか」の支えは、何故か先妻が残してくれた幼い五人の子供達であった様に思える。

 その「たか」にも哀しい事だけでは無く、慶びに満たされる様な嬉しいこともあった。「たか」が後添えとして宮本家に入って四年後、先妻が残した十八歳となる娘「かめ」を、同じ松代藩士の小野家に嫁がせる事に立ち会った事である。僅か四年程の娘と義母の関係ではあったが、亡くなった先妻の産み落とした「かめ」を育て、嫁がせた「たか」の気持が一体どれ程のものか、そこには様々な想いが去来していた筈だ。
任された自らの使命を一つ果たした事で、初めて母親としてのよろこびに満たされたと思えるのだ。しかもこの頃まで生まれた女達の多くは、親から貰った名前以外に、生まれた年や亡くなった年など、後の世に記録が残される事は稀であった。「西澤たか」と云う慎助の後妻となった女性が、何時何処で誰の娘として生まれ育ったのか、「たか」も断片的な記録が残されているに過ぎない。
前記に述べた様に「たか」の祖父が、天保元年に松代藩の御蔵奉行であり、天保五年には代官職になっている事で、親の名前から出身地を探し当てる事が出来訳で、明治になって戸籍に書き加えられたのである。

 それ故に先妻の子供達六人の中に飛び込んだ「たか」の、覚悟と心の広さを思う時、この一人の「たか」と言う女性の存在は、それまで秀でた遺伝子を引き継いで来た宮本家の中で、新たな宮本家の人々の中に加えられた、優れた遺伝子の一つでは無かったかと思えるのだ。
何故なら翌年の慶応三年(一八六七)一月、慎助は「たか」との間に十番目の子となる男子の叔を得た。後に東京大学医学部の教授となるなど、秀でた遺伝子を開花させる事になる。更にこの同じ年に、慎助の次女である「紀伊」が他家に嫁いだ。尤も嫁いだ翌年に体調が優れないとする便りが届いた後で、新たな年号が明治となった二年に十八歳で他界したのである。
 
 ところで慎助の子供達の中で、初めて産まれた長女「かめ」の事を、ここで新たになった資料から明らかにしておきたい。それは『松代』二十号の(『佐久間象山』の著者宮本仲と「宮本家文書」について)、とする故・北村典子氏が書いた宮本家のやはり系図から始まっている。(『松代』二十号はネットにて検索が可能であるので、参照して戴きたい)

 この『松代』三十七頁に掲載された宮本家の系図の中で、慎助の長女の「かめ・亀」の名前の下の記述に、(一八四八~?)とした、「かめ」の没年が?で示されていた事であった。筆者も当然ながら長女である「かめ」の没年を調べたが、「かめ」と呼ばれた女性の存在は忽然と消えてしまったのである。そこで亡くなった者として考え、宮本家の人々の物語を書き進めてしまったのだ。ところが書き上げて投稿した「秀でた遺伝子」は、まさに偶然にも「かめ」の子孫にあたる小林啓二氏の目にとまったのである。
それは星空文庫に初めて投稿して後の、僅か数ヶ月後の事であった。突然に小林氏からメールが届き、「秀でた遺伝子」の中の「かめ」は名前を邦と変えて結婚し、しかもご自身の曾祖母である事が筆者に伝えられたのである。小林氏も自らの祖先を追い求め、偶々宮本家の菩提寺である松代の大林寺に出向いた折、筆者が取材に現れた事を住職から知らされ、驚いて筆者宛にメールを送られたのである。

 この小野家に嫁いだ「かめ」の足跡を紹介して戴いたのは、曾孫となる小林啓二氏で東京大学理学部の名誉教授となり、退官後には祖先の足跡を追い求め、「小野家の系譜」をこの時に偶然にも纏められている最中であった。小林啓二氏の著書「小野家の系譜」から引用させて頂ければ、慎助の長女となる「かめ」は、同じ松代藩士の小野熊男俊盛の許に嫁ぎ、宮本家も目出度く新たな親戚を得る事となった。嫁ぎ先である小野家の祖先である、小野庄次郎重勝の位牌の裏には、天正十年(一五八二)に武田ニ仕へ天正十年天目山ニ於テ討死、とした記載が残っており、天正十四年に歿した小野兵部之丞や小野長門守などの位牌や、真田家の家臣の事を書いてある古文書からも、天正十四年極月十五日兄弟共ニ下野彦間城ニ於テ討死とある。

 この事から小野家の先祖としてほぼ間違いなのは、天文五年(一五三六)に歿した小野越前守照義で、照義は足利晴氏(一五〇八-一五六〇)に仕え、更に佐野家の配下となって八千五百石を領していたと言われている。宮本家の初代九兵衛正武の没年が(慶長元年)一五九六年とされているから、どちらの一族も確かな祖先の存在を確かめられるのは、伏見の大地震が起きる少し前の、秀吉が天下を治めていた天正年間前後の頃の事である。
ところで「かめ」の嫁ぎ先の夫となる小野熊男の父喜平太は、この年から御役替りとなり、足軽奉行を勤め始めている。それまでは御警衛方の番士ではあった熊男も、翌年には勘定方の中でも払方御金奉行としての御役目を賜る事となり、手当ては御役料として玄米ニ人を賜る事となった。そしてこの「かめ」は小野家に嫁ぐと直ぐ、新たなに名前を「邦」と変えたのである。


三十、鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争

 慶応二年(一八六六)七月二十日、それまで大阪城に留まっていた十四代将軍家茂が、病によって薨去した。この時から十五代将軍として、後に最後の将軍と呼ばれる慶喜が将軍職に就く事になる。しかし十二月二十五日に今度は、孝明天皇が突然に崩御した。宝算三十六歳であった。十二月の中旬に突然発熱したものの、医者は痘瘡(天然痘)とした病名を上げた。 
しかも二十日過ぎには快方に向かうと診断され、快気祝いの日程を決めた矢先の崩御であった。この孝明天皇の崩御の発表は二十九日だが、実際に亡くなられたのは二十五日のことである。

 孝明天皇は普段から、筆を僅かに舐めて文を認める癖があったと言われている。その墨汁の水に僅かながらヒ素を使ったのでは、と言う天皇の暗殺説が浮上するのだが、当然の様に話が表に出る事は無かった。亡くなってから暫く後で、そうした噂話が広がったのも慶喜が将軍の地位に就き、開国に向かう幕府に反対する公家達が、一斉に朝廷から追い出されてからである。
『内幕を知る一日本人によって、帝は殺されたのである。保守的な天皇を持ってしては、何も期待できず』と、駐日英国公使で外交官のアーネスト・サトウは、自らの日記にも書いている。

 その一方、とりわけ外国人が天皇の存在を人々に主張し始めたのは、既に誰もが幕府に対する期待を寄せていなかった証でもあった。年が明けた一月九日、十四歳となった睦人親王が皇位に就いた、明治天皇の誕生である。この明冶天皇が皇位に就いた四日前の慶応三年一月五日、前に書いた慎助の十番目の子となる叔七郎叔(はじめ)が生まれた。文久三年に慎助が後添えの「たか」と再婚したものの、授かった男女二人が次々と夭折して諦めかけていた後である。元気な産声を上げて生まれれば、経験からも長く生きる筈であった。
振り返れば慎助と先妻との間にも二人の子が夭折し、後妻となる「たか」との間に夭折した子も二人であった。再婚して慎助の妻となった「たか」は、先妻が残した五人の子供達を育てながら、「叙七郎・叔」を産んだのである。しかし喜んでばかりでは居られない時代を迎えていた。武士の家に男子が生まれるとは、時には率先して戦場に行く事を求められる。戦国の時代ではないとは言え、それが現実となって来る様に慎助には思えた。何故なら象山が京で暗殺されて以降、国論は尊王攘夷か開国かと二分されてしまったからである。更に幕府の中でも意見が統一されている様にも見えず、しかもその幕府の権勢は益々弱まっている様にも思えたからだ。

 二百五十年も前の領主達が領地を広げる為に争っていた時代とは違い、天下を治める者が束ねてきたこの国は、今は外敵の侵略に対する不安からなのだろうが、見事に大きく二つに分かれたと慎助には思える。そして昔からの決まり事の様に、武士達は刀を振り回して物事を決めて行くのだ。
どこで始まる戦も同じなのだが、その戦の始まりを決めるのは何時も領主であり、将軍であり天皇であった。その一方で戦によって殺し殺されるのは、これも何時もの事なのだが、理由も知らされずに戦場へと赴く武士や足軽など、名もない者達でもあるのだ。
既にこの年、長男の壬子郎は十五歳となり、次男の丑五郎は十四歳となった。宮本家として出征を求められれば、この内の一人を或いは二人を、戦場に送り出す事になるだろう。親の慎助も心の中では、常に覚悟をしなければならない事であった。

 翌年の慶応四年(一八六八)、後に明治元年と年号が変る一月三日である。京の南にある鳥羽の小枝橋付近で薩摩藩の率いた兵士が放った、一発の砲弾の音が戦を開始する合図の様に鳴り響いた。京を護る薩摩藩の兵に対し、京都所司代に向かおうとしていた幕府軍は、道を塞ぐ薩摩藩に対し「道を開けろ」「いや御免蒙る」としたやり取りが交され、遂には強引に京に向かった幕府軍に、薩摩藩の大砲が火を噴いたのである。それが薩摩兵に取っては戦を開始する合図で、兵達の鉄砲が周囲に鳴り響いたのである。
この日の夜に京に来ていた薩摩藩の西郷隆盛は、伏見まで出向くと戦況を視察していた。そして大久保利通に、この様な内容の手紙を書き送っている。 

 『戦の左右を承知の所、たまり兼ね、伏見まで罷り越し申し候。初戦の大捷誠に皇運開立の基と大慶とのことに御座候。・・・追討将軍の義、いかがにて御座候や。明日は錦旗を押し立て、東寺に本陣を御居えくだされ候えば、一倍官軍の勢いを増し候ことに御座候』
それにしても、この国の戦は将棋と同じで、玉を取った側の勝利である。そしてこの戦いの玉とは天皇である。この戦で幕府が見誤った大きな誤算は、異人嫌いの孝明天皇が一年前の十二月に崩御した事であった。あれほど攘夷を口にしていた天皇が消えたものの、幕府の慶喜は政権を朝廷に返上し、大政奉還が行なわれたのである。慶喜にしてみれば国の政(まつり)事を、朝廷が幕府に代わって出来るとは考えても居なかった様で、朝廷が外様の藩主達と手を取り合うなど考えられず、いわばタカをくくっていたといえるだろう。

 戦の始まった翌々日、幕府からの求めで京に寄せ集められた旗本などの諸藩の兵達は、錦の御旗を持った敵を目にすると、その場から慌てて逃げ出したのである。しかも戦は未だ始まったばかりであった。更に京に集められた新選組も、慌てて逃げ出すそれは同じであった。新選組もその当初は仕える主人を失った、いわば浪人達の寄り集まりであった。それが朝廷を守る為に、と云う大儀が後から付けられ、会津藩の命で京に参じたものが、いつの間にか錦の御旗を持つ兵に対して、あろうことか刀を振り上げていたのである。
こうして自らが行っている事の重大さを、幕府軍の兵士達は初めて認識する事となった。天皇家に弓を引く事は古来より逆賊として、その一族は汚名を付けられ生きて行かねばならない。その様に教え込まれ、信じて生きて来たのが武士でもあったのだ。そしてそれは兵士と主従の関係を持つ、何処の藩主も同じであった。
それに両軍共に何時でも戦う条件が整っていたのは、その前夜に兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦に対し、幕府の軍艦二隻が砲撃をおこなっていたからである。これらの事がきっかけになり、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へ、幕府と新政府軍の戦いは移って行ったのである。

 錦の御旗を見た幕府軍の兵達が一目散に逃げ出し、それから二日が過ぎた六日の深夜である。今度は将軍慶喜も又大阪城を抜け出すと、翌日の早朝には幕府の軍艦開陽丸に乗り込み、大坂湾を離れて密かに江戸へと向った。薩摩藩と戦っていた心算が、何時の間にか天皇を相手に戦っていたと知ったのである。このまま大坂城に止まったところで、天皇から賜ったと言う錦の御旗に、鉄砲や大砲を向けた事実は消える事もなかった。それに徳川家が未来永劫に亘って逆賊と呼ばれることを、受け入れざるを得なかったからである。
軍艦開陽丸には徳川慶喜や松平容保等を載せ、其の他の軍艦「富士丸」や「順動丸」には、大坂城に置かれた幕府の軍資金となる拾八万両、更にそれを守る新選組の隊士達を載せ、品川に着いたのは十一日の早朝である。
慶喜と同じ船には老中首座の板倉勝静、老中酒井忠惇、幕臣の戸川伊豆守、山口駿河守などがいた。しかし誰もが言葉を交わす事も無く、夫々の者達が頭の中で幕府の、或いは己自身のこれからを考えていたのである。

 一方の京にいた新政府は、軍事総裁に嘉彰親王(仁和寺宮)を征夷大将軍として、四日の朝には錦旗と節刀を携え、出馬する様にとの朝令が下りた。更に七日に新政府軍は、徳川慶喜の討伐令を発したのは言うまでも無い。そして二日後の九日に新政府軍は、幕府軍が守る大坂城を砲撃し、左程の抵抗も無く城は炎上したのである。
更に翌日の十日に新政府軍は、慶喜、容保、定敬など朝敵となった幕閣二十七名の官位を剥奪し、京の藩邸を没収した。併せて諸外国に対して、武器の提供を禁止する旨の同意を取り付け、これに応じた諸外国は中立を宣言したのである。

 この鳥羽伏見の戦いは、新政府軍の戦死者六十名余り、東軍と呼ばれた旧幕府軍の戦死者が二百七十九名、慶喜の江戸への敗走と云う形で戦はほぼ終結を見たと言える。しかし当面の戦に結論は出たものの、人は自らが納得しない限り抵抗を示すのが常である。
幕府の将軍である慶喜が、自らの家臣や幕臣から強い信頼を得ていたとするなら、慶喜自らが幕臣達に対して恭順の意志を示せば済む事である。だがこの頃の幕府内には、主君の意志を受け入れない家臣が現れ始め、政権が崩壊直前の様相を示し始めていた。
しかも戻る場所も無い末端の兵士達となると、江戸っ子から言えば、まさに「やけっぱち」と言う類の戦となるものでもある。それは二百六十五年も続いた徳川幕府の仕組みが、あっけない程に脆く崩れて行く権力の終焉を迎えた姿でもあった。

 十五代将軍となる慶喜が江戸の品川に着いた時に、それを迎えた勝海舟の日記には、この書かれている。
『開陽艦、品川に錨を投ず、使ありて払暁、浜(浜離宮)海軍所に出張、(殿様が)御東帰の事。初めて伏見の顛末を聞く。会津候、桑名候ともに御供中にあり、その詳説を問わんとすれども諸官、互いに目を以ってし、敢て、口を開く者なし(そこで老中の)板倉(勝静)閣老に附きて、そのあらましを聞くことを得たり』
 翌日の十二日、三十一歳の慶喜は江戸城に登城すると、早速に和宮を呼んだ。新政府に対して、恭順の意を示す為である。勝手に戦を始めて勝手に恭順の意を示すというこの勝手さは、幕府の将軍に共通した自己中心的な特徴なのかもしれない。

 正室となる和宮は母の橋本経子と、仁孝天皇の間に生まれた皇女である。しかし父である仁孝天皇は和宮が生まれる半年前に崩御しており、和宮の名は異母兄の孝明天皇が与えた名前である。その和宮が朝廷と徳川家の政略結婚の道具として利用されたのは、皇室と幕府の利害が一致した事からで、謂わば、公武の融和を求める者達だけの象徴でもあった。
何故なら既に嘉永四年(一八五一)七月に孝明天皇の命によって、有栖川宮熾仁親王と和宮は既に婚約していたのである。それが一変して孝明天皇は「和宮が有栖川との縁組を進めるとするなら、自分はそれを認めないから尼にでもなるしか道は無いであろう」とした意向を示し、徳川家茂の許に降嫁を示す以外の道を、和宮から閉ざしてしまったのである。

 話の発端は九年前に遡る。京都所司代の近衛忠照と酒井忠義が、会議の席で朝廷と幕府を取り持つ策を議論していた時である。酒井忠義の子飼いの侍であった加納繁三郎から、不意に口に出した「和宮内親王が降嫁されれば、公武一和(朝幕間の関係改善)の為にも宜しいのでは」とした一言であった。
この様な周囲からの圧力によって、和宮は降嫁する道を選ぶ以外の方法は無かったのである。そして万延元年(一八六〇)十月十八日、孝明天皇は和宮の降嫁を勅許した。更に翌年の文久元年四月十九日、和宮は内親王の宣下を受け、諱を親子(ちかこ)と賜るのである。その年の十月二十日には、中仙道を江戸に向かう長い行列があった。総勢その数三万人と言われている。
それから三年後に起きた禁門の変(蛤御門の変)の後始末の為、長州征伐に向けて江戸を立った家茂は、品川から海路を大阪に向かい、着いた大坂城に留まる事となるのである。留まらざるを得なかったのは、薩摩藩が長州への出兵を渋っていた為でもあった。そして慶応二年七月、病によって家茂はその大坂城で没したのである。この時に家茂は僅か二十一歳であった。

 大坂から江戸城に戻った慶喜は、すぐさま和宮を呼び鳥羽から伏見での戦などの顛末を伝えると、恭順の意を示している旨、橋本実梁にその意思を書き送る様に伝えた。
これはその和宮から橋本実梁に書き送った、手紙の内容である。
『この度の一件は、兎にも角にも慶喜これまで、重々不行き届きの事故、慶喜一身は何様(どのよう)にも仰せ付けられ、何卒家名立ち行き候様、幾重にも願いたく、後世まで、当家朝敵の汚名を残し候事、私身に取り候ては、実に残念に存じまいらせ候、何卒私への御憐愍と思しめされ、汚名を雪ぎ、家名相立ち候様、私身命にかえ願い上げまいらせ。ぜひぜひ官軍差し向けられ、御御取りつぶしに相成り候わば、私事も当家滅亡をみつつ、ながらえ居り候も残念に候まま、屹度覚悟いたし候所存に候、なお同役衆へも、宜しく御申し伝え御取り計らいの事、御頼み申し入れまいらせ候、以上、静寛院』

 この時に和宮が書き送った相手の橋本実梁は、かつて婚儀を決められていた相手でもある。しかも倒幕から討幕となった先鋒隊の総督として、本隊よりも一足早く東海道を江戸に向かって進軍していた時であった。既に幕府は前年の慶応三年十月十四日に、慶喜が政権を朝廷に返上すると言う大政奉還を済ませてはいたが、その一方で、それに不満を持つ幕臣達も又、慶喜の決断を覆す為に独自で動いていたのだ。
つまり戦をしても幕府は新政府軍に勝てるとした、戦の勝敗から見た視点で動いていたのである。そこには既に統治能力を失った幕府の中で、重臣たち自らの居場所を必死に探していた様にも思える。そして京ではこの時、薩摩や長州、それに土佐などの諸藩が朝廷から賜った錦の御旗を掲げると、徳川幕府の拠点である江戸へと本隊の兵を進めて始めていたのだ。
 
 松代藩にも京における朝廷の動向や、幕府の顛末などの情報は逐次届けられていた。戦とは言えないまでも、前年には江戸の薩摩屋敷が、千名程の庄内藩士達によって襲撃され、焼き討ちに遭っていた。この時に表向きは藩同士が戦ってはいるが、明らかに古い秩序を維持したい幕府の思惑を持った庄内藩と、天皇を中心にした新政府を作りたいとする薩摩藩の、内戦の様相を示し始めていたとも言える。
幕府軍も前年の十二月三十日に、慶喜は松平容保の強行意見に押し切られる様に、薩摩への討伐命令を下していた。会津藩から三千と桑名藩の千五百、更に新選組や幕府が集めた諸藩の兵を合わせ、一万余りの兵を京に向かわせたのである。この時、京に居た薩摩と長州、土佐や芸州などを合わせた兵力は五千足らずであった。

 とは言え、既に幕府が示した大政奉還を行った後でも、新政府と旧幕府の間には疑心暗鬼の関係が根深く広がっていたのである。旧幕府側では薩摩や長州は、徳川家を追い落とすに違いないと考えていたし、朝廷をも含んだ薩長側にしても、これまで幕府を動かしていた慶喜等は、必ずや新政府に対しての妨害を図るはずだと。
こうして一月三日の夕刻、薩摩藩の大砲の音で始まった鳥羽伏見の戦いも、旧幕府軍のそれも慶喜の極めて浅い現状への認識から、勝敗の行方を読み違うこととなった。一万余りの兵と五千にも満たない兵の数なら勝てると、まるで戦が兵の数で勝敗が決まるものと、慶喜は信じて疑わなかったからである。

 この慶喜の読み違いの原因は、戦国時代昔かの昔から引き継いだ、単なる戦と認識し兵や大砲の数が優劣を決めると考えていた事であろう。確かに近代の戦なら、あながちそれも間違いだとは言い切れない。だが単に勝ち負けを決める戦とは違い、国家の柱として奉って来た天皇や朝廷の意見に反し、弓を引く戦であった事を徳川慶喜が知ったのは、一月五日に淀川の北岸に掲げられた、錦の御旗の報を受け取った時である。
天皇家の象徴である菊の御紋が描かれた、錦の御旗に向って大砲や鉄砲を撃つ者など、この国には居るはずはないのである。将軍であれ徳川の武士であれ、或いは山奥の百姓であれ誰もが代々に亘って天子様こそ、この国を造って来た神にも等しい最も偉く尊い方だと、幼い頃から教えられ育ったからである。

 この時に薩摩藩は文久三年の薩英戦争の敗北から学び、既に鳥羽伏見の戦いの為に英国から新式銃を輸入していた。しかも六千挺の内の四千挺を用意して戦に備えていた。二年前の慶応二年九月には長崎奉行所に対して、一万挺の新式銃の購入を願い出て許可されており、この時には既に六千挺が薩摩藩の手に届いていたのだ。
更に言えば、既に薩摩藩が保有する軍艦は春日、平運、三邦、翔鳳、乾行、豊瑞などの蒸気船で、薩摩藩は幕府に次ぐ海軍力を有していた。討伐令を出しながらも一方で鉄砲から軍艦まで、軍備の購入を許可するなど、幕府は藩を統制する一貫性すら持つ事も出来なくなっていたのだ。いわば最後の最後まで諸藩を外様と譜代に分け、血族と云う極めて薄くなった血筋を当てにして、徳川家はこの国を統治してきたのである。

 鳥羽伏見の戦いの最中、将軍慶喜の一連の行動と敗走を見聞きしていたのは、松代藩の京都御留守居役だった長谷川昭道である。江戸の上屋敷に戻っていた藩主幸民や真田志摩、更には高野真遜に対し勤皇の意を強くすべしと進言している。
それから暫く後、幕府老中の小笠原壱岐守家老の多賀長兵衛や、長岡藩家老の河井継之助などからの佐幕勢力への参加の呼びかけに対して、真田志摩は一切拒絶すると、この様に回答している。
「慶喜、恭順罪を謝せざる可からざるに却って、朝廷を憚らす不軌の暴挙を起こさんとするあらば、我が藩は期して覚悟あり」と。

 江戸を戦火から守りたいと考えていた幕臣の勝海舟と、無駄な血を流したくはないと考えていた西郷隆盛の交渉によって、新政府軍は幕府が江戸城を無血開城させる事に同意した。しかし新政府軍がすぐさま北へと進軍したのは、東北の諸藩が同盟を結ぶ事で、新政府軍に抵抗を企てていたからでもある。
一方の新政府から松代藩に対し、貴藩は幕軍に就くのか、それとも新政府軍に就くのかとする打診が来たのは、慶応四年の一月の末の事である。松代藩は以前から恩田党とよばれる佐幕派と、真田党と呼ばれる尊王派、そしてその中間派と目される重職の者達が藩政を担ってきた。しかし佐幕派とも目された佐久間象山が元冶元年に暗殺され、更に文久二年には同じ恩田党の旗頭だった恩田頼母が歿すると、今度は尊王党の真田志摩が復職した。慶応二年三月に幸民が藩主となると、攘夷開国は一気に勤皇倒幕へと藩論が固まるのである。

 正式に松代藩が新政府軍に回答したのは同じ年の二月四日の事で、大政官からの問い合わせに新政府に就くと答えた事で、同日には早速追討令が発令され、その準備に入る様にとした達示が届いた。

 『今般徳川慶喜以下賊徒等江戸城エ遁レ、益々暴虐ヲ恣(ほしいまま)ニシ、四海鼎沸、万民塗炭ニ堕ントスルニ忍ビ給ハズ、叡断ヲ持テ御親征被仰出候。就イテハ、御人選ヲ以テ被置大総督候間其旨相心得畿内七道大小藩、各軍旅用意可有之候不日軍議御決定可被仰出御旨趣可有候間、御沙汰次第奉馳セ集マル可候、宜諸軍一同勉励可尽忠戦旨被仰出候事
 二月四日        真田信濃守 江
 
 右此ノ度御親征二付其藩東山道出兵被仰付候間、国力相応人数差出、総督ノ指揮受候様、御沙汰候事』

 更に八日に新政府は松代藩に対して、信濃国の触頭の地位に就く様にと知らされた。所謂、信濃国の先導役の事である。それに引き換え松本藩の結論は、未だ幕府軍か新政府軍かも決められず、結論は更に引き延ばされたのである。
松代藩が信濃国で最も早く自らの藩の意思を決定した事で、藩内には討幕に向う兵の募集が、十八歳以上の武士の男子と云う条件で開始された。だが新政府の意向とは別に、年齢を偽ってでも戦に向いたいとする藩士の子弟は多く、宮本家の長男である壬子郎や弟となる丑五郎もそれは同じであった。

 幕府が此処まで自らの権威を失墜し混乱を招いた原因は、象山が語っていた様に国が長く鎖国を続け、外国の交易を拒絶し、積極的に学問や文化を受け入れようとしなかった事である。遥かに進んだ知識と科学技術を持つに至った外国に対し、幕府は顔色には出さないものの圧倒され、特に軍事力の差に怯えている様にも思える。それに未だに腹を切れば何事も責任は取れると考えている様な、未来に責任を持つ事も出来ない武士達が、この国の政治を操っていたからだと慎助にも思えた。
真田家に仕える松代藩の者として、もし救いがあるとすれば藩の中での争いでは無く、今度は古いしがらみを絶つ様に、藩主の真田幸民が国家の未来を見つめてくれたことであろう。
慎助にしても推測の出来る事は、恐らく開国を拒み領民を束ねられたとしても、何れは又外国との争いになるだろうと云う思いであった。それに悪くすれば諸外国は、この日本の国土を諸外国ごとに細かく分割し、統治する事も考えられるのである。しかも幾つもの外国の軍隊を迎え撃つなど、戦う前から誰の目にも負け戦を意味していると見えるからである。

 その根拠となるのは自分たちが戦に使う新式銃さえもが、見知らぬ遠い異国で作られた銃であった。命中率を高める為に、新しい鉄砲の銃身には弾丸が回転して飛ぶ様、内側には何本かの旋条が彫られていた。新式銃は連射式でしかも射程距離は遠い。敵を倒す為の工夫や研究が、一丁の鉄砲にさえ幾つも込められているのである。
戦に勝つ為に性能の良い武器は作られ、日本に売られる銃は既に型式の古くなった物だと聞かされている。それに遥か彼方にまで飛ぶ大砲や、鉄砲の弾さえはじいてしまう鉄で作られた船が、蒸気の力で風の無い海の上を馬の様に速く走るのである。それ等は全てが自らの国を守る為に、優れた技術と知恵とを加えられているのだ。

 しかも彼らの科学技術は武器だけでは無く、ありとあらゆる所で抜きん出ていた。医学や天文学など多くの外国から届く学門は、この国の持つ知識を遥かに越えて確かでもあった。科学や経済、政治そして哲学など、西洋の文明の発達は異なる民族の持つ多様な考えや長い文明の中で、交易を通じて鍛え上げられて行ったに違いないと思えた。
それは又、象山が嘗て読んでいた、阿蘭陀本からも明らかなことである。電信機や連発銃、蒸気船から印刷機、二本から三本の帆柱を持つ外洋向けの竜骨を持つ軍艦などは、大波の中でさえ船の復元力は和船の比ではない。和船は水に浮くのはその殆どが、材料の木が水に浮く浮力で浮いているだけだが、黒船は鉄と云う水に沈む重い材料を、浮き上がらせる浮力によって浮かせているのである。
あの鎖国の中の二百五十年余り、此の国は世界の新しい知識を取り込む事もなく、単に自らの国の中だけで文化を継承し続け、古い学問を幾度も繰り返し記憶していただけであった。その事を慎助は今になって改めて気が付くのである。

「父上、私を戦に行かせて下さい」
「私も朝敵を討ちに行きたいのです。ぜひともお許しを」
兄の壬子郎と丑五郎の二人は、そう言ながら慎助の前に手をついた。今朝から松代藩は新政府軍と共に、朝敵となる幕府軍を追討する為、若い藩士の中から希望者を募っていたからだ。既に二月十三日には、京で有栖川親王が新政府軍の大総督として、東海道、東山道、北陸道、それに海からも、江戸に進軍する事が決定された話が松代にも伝わり、戦になる事は避けられないと慎助は思えた。
「分かった、藩主幸民様の求めだ。だがしかし戦に向う前に、一つだけ約束をして貰いたい。何があろうとも、その命を無駄にしない事だ。それに丑五郎は未だ満で数えれば十五、戦に出陣出来るのは十六歳からではなかったのか」
慎助には二人の兄弟を出陣させる事に、少しの躊躇いがあった。それは人の親としての思いでもある。新政府軍の話では、兵卒の募集は十八歳からであった。しかし松代藩ではそれを十六歳以上として、参戦する事を許したのである。

「確かにその通りですが父上、私は数え齢では十六、兄上は十七歳となります。二人で同じ戦に向うとなれば、互いに助け合う事も出来ます。それに新政府の求めに応えられないとなれば松代藩の恥。強いては宮本家の恥じ、是非ともお許しを」
弟の丑五郎の言葉に慎助は、頷くしか方法は無いように思えた。
「くれぐれも、無理をするなよ。無理をすれば他の者達に迷惑をかけるからな」
父親として慎助は息子たちに向かって、それだけを言うのが精一杯であった。戦場は殺すか殺されるかの場所であると聞く。親の慎助ですら戦場に向かった経験は無い。だが藩士の子供であれば武士であれば、それも宿命だと思う。目の前で二人の兄弟は互いに顔を見合わせ、笑顔で頷いているのを見ると、それ以上の言葉は無駄な様に慎助には思えたのだ。

 信濃国で新政府軍に加わる事を、最初に決定した松代藩に影響を受けたのか、信州の上田・飯山・須坂・飯田・高遠・田野口・小諸・岩田村・高島などの諸藩も新政府軍に就く事を示して、旧幕府軍の討伐に向う事を決めた。
それでも未だに松本藩だけが、何故かその方針が決まらずにいた。そうする内にも二月の十五日には、総勢五万の兵が京などから江戸へと向った知らせが届くと、松本藩に対するその動向は、同じ信濃国の諸藩から注視される様になった。旧幕府軍に就くとなれば、就いた藩は朝敵の烙印が捺され、江戸に向う新政府軍の東山道軍とは、その藩と一戦を交える事になるからである。
それだけではない、或いは信濃国の諸藩と松本藩が、戦を構えることになるかもしれなかったからだ。親戚縁者や友人などが、或いは敵味方として戦うかも知れないのだ。その松本藩も新政府軍に入る事を自ら示したのは、官軍と呼ばれる様になった東山道軍が、中仙道の木曽谷に入る頃であった。

 十二日に旧幕府の軍艦である順動丸が、十五日には新造船の富士山(ふじやま丸)が大坂から品川に到着した。嘗て京の市中を我が物顔で歩いていた新選組は、着いたその品川で新たに甲陽鎮撫隊として再編され、徳川家から三千両、会津藩からは千二百両、そして幕府の医師であった松本良順からも軍資金を受け取り、三月一日に江戸を出立し甲府に向かった。その兵の数は二百人程であった。
この旧新選組を中心とした甲陽鎮撫隊が、甲府城を奪い取り立て篭る動きを示している、という一報は既に新政府軍にも送られた。この知らせにすぐさま対応したのが、東山道を江戸に向っていた土佐藩士の板垣退助や、薩摩藩士の伊地知正冶の率いる東山道軍の迅衛隊であった。更にこの話は新政府軍によっても松代に届いた。松代藩からも急ぎ藩兵を甲府へ送る様にと、新政府軍から要請してきたのである。この為に松代藩は急ごしらえの五百名程の藩兵を、急遽甲府へと差し向けたのだ。
しかもこの兵の中には、慎助の息子である壬子郎と弟の丑五郎の姿があった。

 松代藩兵が甲府城に着いた時は、新政府軍の本体から離れた迅速隊の一部が既に到着した後の事で、三月六日には甲陽鎮撫隊と名乗る元新選組に、新政府軍の迅速隊が大きな打撃を与えていた。柏尾の戦いとも呼ばれ、関東では初めての交戦である。
当然の事だが元新選組の甲陽鎮撫隊は殆どが鉄砲を使えず、一方の新政府軍の迅速隊は、英吉利製の新式鉄砲で戦ったからだ。こうして元新選組の甲陽鎮撫隊を武蔵国方面へと退却させたことで、松代藩兵として出陣した二人は、この戦に巻き込まれることは無かった。

 三月十二日に東海道総督府参謀の江田武次が甲府城に入り、松代藩兵が藩に戻ろうとしていた矢先である。今度は幕府の役人でもある古屋佐久左衛門を頭に、旧幕府陸軍の逃亡兵達で作った衝鋒隊が、会津若松から北信濃の飯山に向ったとの知らせが甲府に届いたのだ。松代藩兵は急ぎ甲府から佐久を経て、追分から北国街道を飯山へと向ったのである。
一方の甲府で負け戦をした元新選組の甲陽鎮撫隊は、大菩薩峠を越えて青梅街道を入間から北関東へと逃げた。そして四月の二十五日に新政府軍は、逃げたその一部を下総の流山で捕えたのである。しかもその者達の中には元新選組の隊長だった近藤勇が、大久保大和とした偽名を使い潜伏していた事が判命した。すぐさま捕らえ板橋の東山道総督府に送られると、そこで吟味の上、即刻斬罪されたのである。それは余りにも呆気ない程の、あの近藤勇の最後であった。


三十一、奥羽列藩同盟の崩壊と、パリにいた渋沢栄一

 慶応元年三月に始まった戊辰戦争の中で、北信濃と越後の国境にある飯山城の攻略から、越後国の長岡藩を相手に戦った北越戦争の話を伝えておきたい。何故ならこの戦争には、松代藩の藩士である宮本慎助の息子たち二人、つまり兄の壬子郎と弟の丑五郎の兄弟が、父親に代わって参戦していたからである。
だがその前に鳥羽・伏見の戦い以降、新政府軍と旧幕府軍の戦いとなる戊辰戦争から、特に越後で行なわれた北越戦争へと向かうまでの概要を、もう少し詳しく伝えて置く事にする。

 江戸へと逃げ帰った将軍の慶喜に対し、追討令が出されたのは一月七日である。新政府軍は京での鳥羽、伏見の戦い以降、江戸に戻った慶喜を捕えるべく、すぐさま東征軍の編成に手を付けた。既にこの時の軍事に対する物事の判断は、天子様が指揮する新政府軍の官軍に参加するのか、それとも旧幕府側に組みして朝敵となるか、そのどちらかの選択肢だけが諸藩に突きつけられたのだ。新政府は既に五日、東海道を江戸に向かう東征軍の一つ、東海道鎮撫総督を橋本実粱に任命し、京から大坂を含む大津から彦根以西は、新政府の支配が及ぶまでとなっていた。

 特に朝廷が諸藩に対し速やかに裁定を下したのは、高松藩、伊予松山藩、小浜藩、鳥羽藩、大垣藩、延岡藩、丹後宮津藩の七藩で、これらの藩主には正月も早々の八日に、九門出入りが禁じられた。九門とは京都御所にある九つの門の事で、要するに朝廷への出入りが禁止されたのである。これはこの七藩が鳥羽伏見の戦いで、旧幕府軍へ参加した事からの裁定であった。
更に翌十日には、徳川慶喜や会津の松平容保、桑名の松平定敬や高松の松平頼聡、備中松山の板倉勝清や若年寄の永井尚志など、藩主や幕府要職者二十名余りの官位を朝廷は停止した。理由は賊徒追従、反逆緒顕然の名目である。更には関係した諸藩の屋敷は召し上げられ、九門出入りの禁止を申し渡された藩主達は、入京をも差し止められたのである。

 しかも他の諸藩は国力に応じた兵を引き連れ、入京する様にとの通達が出され、慶喜らの罪状が固まったのは二月に入ってからである。それ等は一等から五等までの罪に分け、三等以上の罪は追討の対象にし、速やかに開城した場合は城や領地を預かり、平定後に改めて処分を決定するとしたものであった。この三等には伊予松山・備中松山・そして姫路の諸藩で、鳥羽伏見へ参加し東行したか、参加せずとも東行したか、閥閣として慶喜を補佐したのかと云う判断であった。
二月六日に天皇親征の方針が立てられ、東海道、東山道、北陸道の三道から江戸を向けて進軍する事が決められ、更には諸藩の軍艦にての兵員の輸送も併せて決定されたのである。

 総裁には有栖川宮熾仁親王が東征大総督として宛てられ、江戸に向かう三道夫々の鎮撫総督は、その指揮下に入る事になった。九日には具体的な人選が発表され、中山道を往く東山道鎮撫総督には岩倉具定が、副総督には弟の具経が任命され、北陸道鎮撫総督には高倉永祜が、副総督に四条隆平が任命され、北陸道鎮撫隊は速やかに小浜や福井、更には金沢より江戸に向けての準備に入ったのである。
更には奥羽先鋒総督として奥羽二国(会津・仙台)は当然だが、安房から上総・下総から常陸などの大小諸候等を糺合しつつ、東山道や北陸道の総督と連携して江戸城の背後から衝く様に求められた。

 旧幕府軍はこうした間にも、江戸への入り口となる箱根峠や碓井峠の防備を強化していた。この時の旧幕府の老中達は武備恭順、つまり条件次第では戦も受けて立つという方針であった。正月の十六日に幕府老中の小笠原行長は、諸大名の留守居役に対し、動員数や兵員などの兵力を報告する様に求め、しかも小笠原の名前で命令を出している。そこには兵達の数と主人や嫡子などの出張の有無から、鎗剱隊の有無、幾隊何人差出の有無、大砲何門差出し候事、とした内容のものである。将軍である慶喜と幕閣である老中の意見が、全く正反対の動きをしているのである。
この同じ頃に将軍の徳川慶喜は上野寛永寺の大慈院に入り、謝罪と恭順の意を示そうと寛永寺の公現法親王へ、謝罪嘆願の仲介を要請している。しかも三月七日にその上野寛永寺の公現法親王は、駿府まで来ていた大総督の有栖川宮に会い、慶喜から託された謝罪状を差出したのである。しかし逆に甲府に兵を出した事、つまり近藤勇などの新撰組を大坂から船で江戸まで運び、資金を与えて新たに甲陽鎮撫隊を動かした事が咎められ、嘆願不採用と申し渡された。勿論だが和宮からの嘆願状も話しに上る事は無く、慶喜は絶対的な恭順の姿勢を示す以外、生き延びる道は無くなってしまったと言えるのだ。徳川慶喜は既に自らの幕府の内部に対してさえ、その影響すら与える事も出来ない存在となっていたのだ。

 そもそもこの戦いの原因は、錦の御旗を掲げた新政府軍の姿に慌てふためき、大阪城から逃げる様に江戸に戻った慶喜が、恭順するとした話を聞いた旧幕府軍の兵達の混乱であった。同じ一月の十五日には戦になっても勝てる、徹底抗戦すべしとする強硬派の小栗上野介を慶喜は罷免すると、さっさと自ら上野の寛永寺に恭順の姿勢を示すため、閉じこもってしまったことからである。
幕府が作り上げた陸軍諸隊の中にあって、特に下層の歩兵達は心穏やかに過ごす事など出来様筈も無く、この頃には脱走を企て始める者がポツポツと出て来たのだ。二月七日には幕府軍の歩兵頭である古屋佐久衛門や、元見廻組の今井信郎、それに神奈川奉行所支配役の内田庄司等に対し、この脱走兵等を捕らえる様にとの命を幕府は与えた。
この時に江戸を脱出して北へと逃亡した脱走兵は凡そ三百ほどで、古屋等は鬼怒川上流の塩谷郡佐久山(現、栃木県塩谷町)で脱走兵達を説得、その首謀者を取り押さえ晒し首とし、幕府の関東郡代が置かれた羽生陣屋に留め置く事となった。

 脱走兵の処置を決める為に江戸に戻った古屋は、陸軍総裁の勝海舟に面会すると、勝は古屋に対し脱走兵を連れて上州から信州筋の鎮撫を行いつつ、幕府直轄地である中野陣屋へ向かうようにとする命を出した。勝にしてみれば脱走兵の様な物騒な連中には、江戸から少しでも遠くに追いやってしまいたい、何としても江戸城を無血開城しなければならない、とした強い思惑があったからである。
この時に幕府から大砲や軍資金が与えられ、歩兵六百名を連れて行く様にとした沙汰があった。その古屋佐久衛門が羽生陣屋へと戻り、引き連れた脱走兵等と共に信州中野陣屋へと向う矢先、今度は野州粱田宿(現、足利宿)で宿泊中に、官軍の襲撃に遭い凡そ百名の兵士が戦死したのである。
その後、旧幕府陸軍の脱走兵達は、渡良瀬川を越えて日光手前の今市から、田島を抜けて会津若松へと向った。そして三月二十二日に会津藩主の松平容保との面会を許されると、古屋は脱走兵や幕府陸軍の総督として命を受け、ここで衝鋒隊を名乗る事になる。こうして衝報隊は越後の小出から十日町を経て、信濃との国境にある飯山城下に入り立て篭ったのである。目的地幕府領の中野陣屋までは僅かな距離にあったが、先に進めなかったのは既に新政府軍と共に、信濃の諸藩の兵が行く手に立ち塞がっていたからであった。

 越後と信濃の国境にある飯山城は、享保年間から二万石の領地を持つ本多家の城である。戦国の時代には信玄の率いる武田勢の越後への侵入を防ぐため、山深い山間を曲がりくねって流れる筑摩川と、山麓との間の僅かな平地に築かれた城でもある。しかも筑摩川から水を引き込み、周囲に濠を張り巡らした城郭で、そこは信濃と越後を結ぶ飯山街道を通る者を、監視する為の場所でもあった。
城の下を流れる筑摩川の、少し川上にあった安田の渡し(綱切の渡し)口で、信濃国へと入り込もうとした様子を見せていたのは、旧幕府の古屋佐久左衛門を頭にした衝鋒隊である。新政府軍と信濃国の諸藩からなる鉄砲隊が、この飯山城に立て篭もる衝鋒隊に対し、一斉に銃撃を開始したのは四月二十四日の事である。

 発砲したのは甲府から飯山に向った松代藩兵五百と、触頭の松代藩が総括隊長に任命した河原崎左京の率いる信州諸藩の二千の兵、更に東山道軍の新政府軍鎮撫隊も加わっていた。尤もこの時の松代藩兵とは言っても、半分程は普段から訓練された兵ではない。
多くは軍夫と呼ばれる百姓から鉄砲持参の猟師などで、更に長刀に陣羽織をまとった神主や、竹やりから六尺棒を持参した穢多などの四百人余りと、松代藩士等以外には藩士の子弟達などを、多くをかき集めての出兵であった。それに信州諸藩とは言え、多くても一小隊四十名程度の人数で、二小隊程度を出兵させた藩が多く、小さな藩などは二十人前後の藩兵しか、戦に出せない所もあったのである。

 旧幕府軍の衝鋒隊は、元は幕府陸軍直属の歩兵隊である。夫々が新式銃を持つ者達で、暫くは飯山城の近く、安田の渡し口で膠着状態が続いていた。それでも天子の兵として意気揚々とした松代藩兵達は、東山道軍の鉄砲隊を先頭に信濃諸藩の兵と共に、飯山城内へと攻め込んで行ったのである。
衝鋒隊の方は江戸を追い立てられ、帰るあてを奪われた集団でもあった。密かに隊を脱した脱走兵でもあり、宇都宮の先で捕えられ脱走兵として羽生陣屋に留め置かれ、更には鬼怒川を遡り会津若松で会津藩に組み込まれた一団である。しかも今度は只見から越後の小出を抜けて、飯山へと強行軍で来た兵達であった。食料や兵站と言われる弾薬などの補充も滞る程、彼等には守るべき者も帰る先も無い者達となっていたのだ。
その彼等は今、自ら生き残る事ことだけが目的の、しかも戦場に無理やり立たされていた兵達なのである。当然だが戦う意志を捨てた者達には、逃亡こそが生きる術であった。松代藩など新政府軍の兵達は、こうして左程の被害を払う事もなく飯山城から衝鋒隊を追い出し、捕えられていた飯山藩兵を救い出したのである。

 この戦いで打撃を受けた衝鋒隊は、越後の十日町方面へと逃亡する間際、城の近くに建ち並ぶ飯山宿の家々に火を放ち、それが為に宿場は全焼した。その後の信濃九藩の兵達は越後の新井方面に向かう事になり、後は東山道を江戸に向う新政府討伐軍の支隊に任せ、新政府軍の北陸道先鋒隊と合流すべく、越後の高田方面へと向かう事となった。
だが新政府軍の内部では、この時に一つの問題が議論されていた。それは出陣して来た十六歳に満たない幼い者達の、これからの処遇が北国街道の新井宿で検討されたのである。特に新政府軍の中からは、このまま幼い者を越後の戦線に向かわせる事に、疑問の声が出始めたからである。そして当初に松代藩が発令した通り、十六才に満たない者は、ここから国許に帰す事が決定される事となった。
かつて象山の亡き後の松代藩内では、攘夷開国の論議も殆ど行われる事はなかった。しかし戊辰戦争の出兵を求める大号令によって、それまで夫々が横を向いていた藩内の対立は静まり、藩主の幸民が速やかな尊王倒幕の意思を示した事で、一気に出兵へと志願をする者たちが増えたのである。

 それに藩士の子弟となる幼い者達の思いは、大人達の優柔不断さを非難する程に藩を動かした。それが十六歳に満たない者達でも、遊軍としての参加を認めざるを得ない状況を生んだのである。そこで新井宿まで進んだ信濃九藩の兵の中から、集った十六歳未満の者達に新たな任務を与える事が決まった。幼い兵士達は藩に戻り、自藩の城の警護をする様にと、新たな命令を持たせて帰藩させる事となったのだ。壬子郎とは一つ違いの弟の丑五郎も結局は、その中に集められ松代へと戻る事となった。この時の無念さを壬子郎は、四月二十八日付けの手紙で父親の慎助宛に書き送っている。
こうして松代藩の兵達を含め信濃九藩の兵達は、高田で総督府大監の岩村精一郎の指揮下に入り、その後は北陸道鎮撫隊の薩摩や長州の兵達と共に、越後平野での戦闘に向う事となったのである。

 ここで新政府軍と戦った奥羽越列藩同盟が、何故に作られていったのか、その最初の経緯を少しだけ記して置きたい。
慶応四年(一八六八)一月七日に新政府は、徳川家慶喜に対し討伐令を発した。三日後の一月十日には、慶喜をはじめとして会津藩主の松平容保、その弟で桑名藩主の松平定敬などに対し官職を剥奪するなど、朝敵としての追及を明確にした事は既に書いた。更に一月十七日に新政府は、仙台藩、秋田藩、米沢藩に対し、会津藩への追討令を下している。尤もこの朝廷が発した追討令は多少の混乱があった様で、その追討令はこの様な内容が示されていた。

『会津容保今度徳川慶喜ノ反謀ニ興シ錦旗ニ砲発シ大逆無道可被発征伐軍候間其ノ藩一手ヲ以テ本城ヲ襲撃スベキノ趣出順不失武道憤発ノ條神妙之至御満足ニ被思召候依之願之通被仰付候間速ニ可奏追討之功之旨御沙汰事 戊辰正月』
意味はこうであろう。
「会津藩の松平容保はこの度の徳川慶喜の謀反に与して、錦の御旗に発砲し大逆無道の行いであった。それ故に征伐軍を発することにした。貴藩一藩の力にて会津本城を襲撃したいとする出願を受け、武士道を失わない奮発の心がけは誠に神妙の至りで、天皇もご満足の思し召しである。よって貴藩の願い出通りに会津征伐を仰せ付けるから、速やかに追討し功を挙げる様に御沙汰する。戊辰正月」

 だが、この追討令を受け取った仙台藩では、朝廷からの書状の意味が全く飲み込めないでいた。まるで自分たち仙台藩が、自らが先に会津藩討伐を、朝廷へと頼み込んだ様な文面になっていたからである。改めて仙台藩は朝廷に対し、その意を問い合わせる事になるのである。この行き違いの末に、朝廷は新たに訂正した討伐令を仙台藩に発せられる事となるのだが、朝廷の権威は都から遠く離れた奥州では、京や江戸の様に強い影響を与える程の力は、それ程に持っている訳ではなかった。

 確かに会津藩主の松平容保もまた、幕府の中では珍しく勤皇思想を深く学んだ藩主である。それだけに朝廷の膝もとの京で、孝明天皇を護る京都守護職に任じられたことで、自負と共に強い責任を感じていた様である。
しかし藩主として幕府から任された責任に対し、実直すぎるほどの実直さで向き合ったと言うに過ぎない。後に勤皇思想の持ち主でもある容保の居城の会津城が、皮肉にも天皇の御印である錦の御旗を持つ新政府軍から、徹底して砲弾を撃ち込まれたのも、学んだ尊王思想が上辺だけであった事を示していたからだ。
それにこの時は未だ会津藩主の容保は帰藩してもおらず、京に赴いた会津藩の兵士達が江戸に着くのは二十一日の予定であった。それ故に仙台藩も突然に奥州に現れた新政府への対応を決めかね、更に会津藩内でも新政府への対応を決めかねていたのだ。どちらの藩も藩内では恭順か徹底抗戦かと、意見を二分していたからである。

 当事者の一方でもある徳川慶喜は、二月八日には会津藩の松平容保を江戸城への登城禁止処置を行い、新政府への恭順を示す為に関係を断ち切っていた。更に二月十九日に慶喜は、鳥羽伏見の戦いの責任者を一斉に処分し、上野の寛永寺の大慈院に入ると、朝廷に謝罪と恭順の意を示そうとしていた。と、この頃までの慶喜の動きは既に述べた通りである。
しかし慶喜が示した行動の真の目的は、全て徳川家の家名の維持であり、それまで徳川家が持っていた領地を、以降も確保する為でもあった。そして謝罪状を福井藩主の松平春獄に託したのだが、その願望はすぐさま打ち砕かれた。更に様々な人脈を使い謝罪と嘆願の仲介を依頼するのだが、新政府軍の東進は止まる事が無かったのである。
慶喜は追討の対象となっていた会津藩主松平容保と、桑名藩主の松平定敬に対しては、速やかに帰藩する様に命じている。特に武装を持って恭順の意を示すとした容保の決断は意味不明で、反省はしないが謝ると言う程の独自の考えを持っていた様にも思える。
その容保が十六日に江戸を発つと、二十三日には会津若松に戻っている。そして桑名藩の藩主松平定敬の方はと言えば、既に桑名の本藩が新政府に恭順していた為、露西亜の船を借りると、津軽海峡を廻り桑名藩の分領があった越後の柏崎へと向ったのである。

 この様な混沌とした状況の一方で、避けては通れない極めて大きな問題が浮上していた。徳川の譜代藩でもある庄内藩の処分は、新政府軍の中核となった薩摩藩や奥州諸藩にしても、避けては通れない問題となっていた。それは庄内藩が五年前から江戸市中の警備を任され、新徴組とする浪士を配下に置いていたからである。この新徴組こそが前年の暮れに江戸の薩摩藩邸を襲い、焼き討ち事件を起こした中心的な組織であったからだ。
しかも旧幕府は容保を江戸城への登城禁止処分を行った同じ二月八日、庄内藩に対しては寒河江などの、柴橋代官支配地の七万五千石を預け地として渡していた。明らかにそれは、新徴組の扶持分としての目論見を持っていたのである。しかも庄内藩はこの時、既に旧幕府領からの年貢米、二万三千俵を既に酒田湊に送り出していた後である。ここで新政府は庄内藩も又、新政府に対して抵抗する朝敵として、討伐の対象にと加えられたのである。

 新政府軍が奥羽鎮撫総督府を仙台に置いたのは三月である。それが僅か五百名余りの兵ではあるにしても、薩摩や長州、鍋島藩などから差し向けられた兵達で、大坂から軍艦で仙台領の東名浜に着いたばかりであった。そして最初の仕事と言えば、新政府が会津藩を追討する為の拠点作りをする事であった。任されたのは九条道孝奥羽鎮撫総督で、参謀には長州藩士の世良修蔵である。
こうした出来事の中で、元々が戦を求めては居ない奥州諸藩の、特に仙台藩や米沢藩などは、会津の謝罪嘆願を新政府に求めたのである。

 「会津藩は東北諸藩の中でも、極めて特異な藩である」と作家の司馬遼太郎氏は、その著書『歴史を紀行する』(文春文庫)の「会津人の維新の傷あと」の項で、この様に指摘している。
「会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。三百ちかい藩のなかで肥前佐賀藩と共に藩士の教育水準がもっとも高く、武勇の点では佐賀をはるかに抜き、薩摩藩とならんで江戸期を通じての二大強藩とされ、さらに藩士の制度という人間秩序をみがきあげたその光沢の美しさにいたっては、どの藩も会津にはおよばず、この藩の藩士秩序そのものが芸術品とすら思えるほどなのである。秩序が文明であるとすれば、この藩の文明度は幕末においてもっとも高かったといえるであろう。(略)」と語っている。だがあろうことか、その秩序が会津の文明であったが為に、会津藩は最も悲惨な結末を迎える事になったのだ。
この極めて特異な藩のそれを知るには、藩主の松平容保が辿った生い立ちから、境遇や背景を理解すれば大凡は理解出来る。さらには師となる者から学んだ知識などに、強く影響を受けるものでもあるからだ。

 陸奥会津藩初代の藩主は保科正之である。三代将軍家光の異母弟で、言うなれば家康の孫にあたる人である。父は二代将軍の秀忠だが、この秀忠が生涯に亘って只一度、正室の「江」以外の女、つまり乳母の侍女であるお静と、秘かに触れた時に出来たのが正之であった。「江」とは、あの浅井長政とお市の方の間に生まれた三姉妹の末娘で、秀吉の正室でもある茶々、つまり淀君の妹でもある。秀忠の耳にお静の懐妊した事が届くと、慌ててお静を江戸城から追い出し、産まれた男子の名前を正之として、信州高遠藩の保科正光の許へ養子に出した。
時が流れ保科家を継いだ正之は、父秀忠の歿した後に三代将軍の家光に見出される事になる。しかも加増に加増を加え、会津藩二十三万石の所領を得たのである。保科正之が東北の会津に松平の姓を得たのは、これから後の事である。

 正之が領民や家臣達から名君と呼ばれたのは、会津から飢饉を一掃した事であった。正之は儒者の山崎闇斎から儒学を学び、民を救うは儒学や政治の勤めであると気がつき、民の為にと藩の飢饉に備えた蓄えを増やしたからである。後に国学や神道を学び、徳川幕府の中では珍しく勤皇思想へと発展してゆくのである。更に四代将軍家綱の補佐を勤め、亡くなる直前には会津藩の指針ともなる、藩の家訓とも呼ぶべき十五ケ条を著し、家臣達にそれを徹底する様に求めたのだ。
その十五カ条の最初の第一条には、他藩に倣う事をせず幕府に尽くす事を求めている。更にそれを護らない藩主であれば、家臣は藩主の意見を聞かずとも良いとさえ述べているのである。それ程に会津藩は徹底して藩主ではなく、徳川幕府一辺倒の教育を藩士達に叩き込んでいたのだ。

 仙台藩や米沢藩から新政府に謝罪嘆願を求めた当の会津藩は、それでも武備恭順として戦の準備を崩さず、新政府の総督府は四月二日に、先ずは出羽矢島藩や秋田藩にも庄内藩の追討を命じる事となった。一方の仙台藩では閏四月四日に白石で仙台藩と米沢藩が会議を行い、会津藩の降伏問題で容保の城外退去など、嘆願書を書く事で同意した。四月十一日には仙台藩の白石城で仙台・米沢・福島・二本松・三春・一関・湯長谷・棚倉・中村・亀田・矢島・山形・上山・盛岡の十四藩がそれに署名した。翌日に仙台藩主と米沢藩主が、仙台に居た鎮撫総督九条道孝に拝謁し、寛大な処置を請願したのである。だが参謀で長州藩士の世良修蔵は容保を罪人と決めつけると、討伐を主張しつづけて譲ることはなかった。
翌日にこの嘆願が却下された事を知らされた列藩側は、新政府側との戦を行わざるを得ない状況が、益々高まった事を認識して行く事になる。仙台藩は会津藩に向かわせた兵を、急遽引き上げさせたのは閏四月の十九日の事である。

 奥羽への入り口である白河にいた参謀の世良は、新庄にいる鹿児島藩参謀の大山綱良に、現状を伝える手紙を認め送ったのだが、その手紙が福島藩士に奪われ内容を見られたことで、福島藩の怒りを買うこととなった。世良が白河から福島城下の宿泊先に移った所で、突然に福島藩士達に襲われ、阿武隈川の河原で斬首されたのである。
世良が大山に宛てた手紙には、奥羽の諸藩を全て敵とみなさなければ、何れは朝廷の為にはならないとした内容であった。だがこの出来事は逆に新政府軍に対し、奥羽討伐の大儀名分を与える事となったのである。しかも仙台藩が会津から兵を引いた、それは翌日の事でもあった。

 こうして東北諸藩は新たに十一藩が同盟側に加わり、新政府軍と対峙して白河城を奪い、奪われるとした戦へと向かう事になる。その一方では五月三日に奥羽列藩同盟が成立し、後に越後の長岡藩が加わる事で、ここに奥羽越列藩同盟が成立するのである。だが突然に作られたその同盟の中身は、余りにも安易に作られた同盟であった。経済的な目論見を持つ藩もあれば、付き合い程度の軽い気持での参加もあった。特に中小の藩に於いては、その傾向は最も顕著であったと言えるだろう。
それ故に後から列藩側に加わった中には、既に庄内藩の追討に加わった天童藩や上山藩、出羽矢島藩や秋田藩などの小藩も含まれていた。この事から奥羽鎮撫使先導役として求められた事に、新政府軍に加担したものと天童藩の家老吉田大八は責任を問われ、六月十七日には自刃するまでに他藩から追い詰められたのである。享年三十七歳であった。

 同じ頃に江戸に居た北陸道先鋒総督の高倉永祜は、北陸道鎮撫総督兼会津征伐総督に任じられ、船で江戸を発ち越後の高田港に着いたのは五月八日である。新たに薩摩藩の黒田清隆や長州藩の山県有明が参謀に付き、薩摩・長州・加賀・富山・長府諸藩の兵が付けられる事になった。
この高田では北陸道軍の本営が置かれ、衝鋒隊を飯山から追撃してきた信濃諸藩の兵は、この時に尾張兵一千三百の兵等と合流し、北陸道軍五千余りが終結したのである。こうしてその後に柏崎から新潟ヘと向かう討伐隊と、長岡城攻略に向かう隊とに別れ、越後平野にその作戦を展開して行く事になる。

 松代に戻った宮本家の次男丑五郎は、松代城の警護役として任務を与えられ、ひと月後には刀を抜く事も銃を撃つ事もなく、藩命によって解散させられた。そして兄の居ない日々を藩校である文武学校で、兄のその後の事を気にかけながら過ごしていたのである。その戊辰戦争も後には会津若松から東北、更には函館へと戦場は北上して行く事になるのだが、時折聞こえてくる戦の話は江戸から届く瓦版の類からのもので、後は毎月一度、兄の壬子郎から届く便りだけであった。

 遊撃隊の兵士である兄の壬子郎は、信濃七藩の兵として五月に長岡藩領へと攻め入った一人である。戦場では刀よりも鉄砲が主要な武器だが、その鉄砲の弾が切れれば身を守るものは何も無い。壬子郎は剣道の胴着を身に着け、敵の射手が撃つ弾丸が、途切れたその一瞬の隙を突いて、切り込んで行くのが本来の役割であった。
だが戦いの殆どは、刀ではなく鉄砲隊同士の撃ち合いであった。当然だが戦の勝敗を決めるのは、性能の良い銃の数と、それを使う射撃手の腕である。そして補充される弾丸や大砲の砲弾の量で、大方の戦はその多い方、優れた方に結果は出て来る。長刀や弓や槍などは既に無用の長物で、戦の時には武士が刀を抜くなどという時代は、種子島に銃が伝来した時からみれば大きく変わっていたのだ。

 一方でこの頃に奥羽列藩同盟の秋田藩は、同盟を離脱する動きを示していた。その話が仙台藩で幽閉状態にあった鎮撫総督九条道孝の耳に入った後、秋田藩からの求めによって九条道孝は秋田へと赴くことになる。仙台藩では秋田藩からのその申し出を、強く拒絶する立場にはなかったのである。そしてそこでは、まさかの出来事が起きたのである。秋田藩の十二代藩主である佐竹義堯(よしたか)は、藩の方針を新政府軍側に就く事に、既に藩論を密かに統一していたのである。
仙台藩では秋田に着いた鎮撫総督九条道孝を追う様にして、仙台藩士二十名余りを秋田に派遣すると、「九条総督を仙台に戻すべしである。拒めば統制違反であり、我等同盟は秋田を攻撃する」と秋田藩に申し入れたのである。 
しかし七月四日の夜、秋田藩の藩士達は仙台藩士二十二名が投宿していた宿舎を包囲すると、有無を言わさず深夜にこれを襲い闇討ちした。しかもそれら仙台藩士の首を、城下の五丁目橋に晒したのである。これにより列藩同盟は、修復の効かないほどの大きな亀裂を生んで分裂したのだ。

 秋田藩は国学で知られた平田篤胤を生み出した風土があり、勤皇思想は奥羽にあって最も藩内に浸透していた。しかも秋田藩は翌日の五日に列藩同盟の庄内藩に向けて、討伐軍を編成して出発させている。しかもこれを知った新庄藩も同盟軍から秋田藩に寝返り、新政府鎮撫隊に協力の申し出を行っている。
この一報を聞いた庄内藩は、七月十四日に新政府軍に寝返った新庄城に攻め込むと、更には矢島藩や出羽本荘藩を襲い、秋田藩へと攻め込んだのである。まさに昨日の友軍は今日の敵となり、昨日の敵は今日の友軍となって行ったのである。
奥羽列藩同盟の中からも同盟を脱退する藩が出始め、その様相は混沌とし始めて来たのは、信念や目的の結びつきが、俄に作られたものである事を物語っている。
ところで庄内藩に武器弾薬などを潤沢に供給していたのは、日本海側で一、二を争う酒田の豪商、本間家一族の資産であった。本間家は北前船の廻船業で巨万の富を得た一族だが、この時から栄華を極めた本間家も、まるで坂道を駆け下りる様に衰退して行く事になる。何故ならこの時、既に仙台藩を始めとした奥羽同盟の諸藩は、新政府に降伏する事を検討していたのである。同盟崩壊を悟った庄内藩は九月半ばには秋田藩から退却すると、新政府に対して降伏したのは同じ九月の二十三日である。


 旧幕府軍や奥羽列藩同盟と対峙した新政府軍の双方が、江戸から離れた東北方面で戦を交えていた丁度その頃、日本から遥か遠く離れた欧羅巴(ヨーロッパ)の地では、徳川慶喜の家臣となる一人の男が、仏蘭西(フランス)の巴里(パリ)に来ていた。将軍慶喜の名代として慶喜の弟である徳川昭武と共に、この年に行われた巴里万博に出席していたのである。その男は武士としての名前を渋沢篤太夫と言うが、親から貰い受けた名前は栄一と言った。徳川昭武一行の随員として、つまり庶務や会計の担当者として同行したのである。
この時の渋沢栄一は二十七歳、この物語の上巻の文頭に書いた宮本璋(あきら)が、高師の小学校から帝国大学までを同じ学校で学んだと書いた渋沢敬三は、宮本璋とは竹馬の友であり栄一は敬三の祖父となる人物である。

 渋沢栄一は天保十一年(一八四〇)二月に、武蔵国の榛沢郡血洗島(現、埼玉県深谷市)に生まれている。江戸時代の末期は渋沢の姓を名乗る家が付近には十七軒もあり、屋号の様にその場所を苗字の頭に付け、本家筋の東ノ家の渋沢とか西ノ家、中ノ家、前ノ家などと区別していた。古くから渋沢一族が本家や分家など、固まって住んでいた名残の様な姿と言える。
とは言え中ノ家には女の子が二人いただけで、跡取りが産まれる様子は無かった。そこで本家筋である東ノ家の二代目当主は、三男の元助を市郎右衛門と名前を替え、中ノ家の養子にする事にした。妻は姉の方のお栄で、これが栄一の両親である。そして栄一はその中ノ家に誕生した。兄弟は栄一以外に七人生まれたが、五ツ年上の姉のなかと、妹のてい(後に貞子)の二人以外、五人は全て早世したのである。

 家は藍玉や養蚕を兼業する他に、農産物をも手懸ける豪農の家で栄一は育てられた。七歳頃には、後に富岡製糸工場の場長となる従兄弟の尾高惇忠の許に通い、四書五経を始めとして頼山陽が著した国史を学ぶなど、幼い時期に父親の市郎右衛門からは、読書の習慣を付けさせられたと言われている。
特に実家は売り買いを中心の商いをしていた為、幼い頃から十露盤を使う事が多く、十四歳頃には既に藍染の原料となる藍玉の仕入れに、一人で買い付けに行く程の才覚を備えていた。剣術は当時、武蔵国で学ぶ者が多かった神道無念流を学び、十九歳の折には学問を教えてくれた惇忠の妹、千代と結婚している。

 しかし栄一が十七歳の時に味わった一つの経験は、後の人生に大きな(しこり)となって残った。栄一の中ノ屋は岡部藩の御用達である。その年の秋に岡部藩からの御呼び出しがあり、同じ御呼び出しを受けた東ノ家の当主と共に、風邪で寝込んでいた市郎右衛門の名代として、栄一が向う事になったのだ。だが岡部の陣屋で平伏している二人を前に、代官は御用金を求めたのである。
理由はお姫様がお興し入れをする、付いては岡部藩としても物入りが多い。それ故に御用金を申しつけると言うものであった。東ノ家には千両、中ノ家には五百両などの割り当てを読上げたのである。東ノ家の当主宗助は即座に承諾したのだが、栄一は納得が行かなかった。
「手前は父の名代で伺いました。帰宅して後父に申上げ、改めて御返事を申上げ・・」
その栄一の言葉が終らぬ内に、代官は声を荒げてこう言ったのだ。
「たわけ者め、お上の御用を何と心得る、これしきの事を即答出来ずして何が名代だ。不届き者めが」
しかし栄一は、何時までも「手前は名代でございますれば・・」と、押し通したのである。
こうした挙句に代官は根負けしたのか、その場での話は済むことになった。激憤を抱えたまま家に辿りついた栄一は、その全てを市郎右衛門に語った。しかし市郎右衛門は栄一に諦めた顔をしながらこう語ったのである。
「それが泣く子と地頭と云うものだ。御用金は明日にでも納めてくるが良い」

 栄一は後年、自伝とも言える『雨夜譚』(あめよばなし)の中で、こんな風にその時のことを語っている。
 《人はその財産を銘々自身で守るべきは勿論の事、また人の世に交際する上には、智愚賢不肖によりて、尊卑の差別も生ずべきはずである。ゆえに賢者は人に尊敬せられ、不肖者は卑下せらるるは必然のことで、いやしくもやや智能を有する限りは、誰にも会得の出来る極めて睹(み)安い道理である。しかるに今、岡部の領主は、当然の年貢を取りながら返済もせぬ金員を、用金とか何とか名を付けて取り立てて、その上、人を軽蔑嘲弄して、貸したものでも取り返すように、命示するという道理は、そもそもどこから生じたものであろうか、察するに彼の代官は、言語といい動作といい、決して知識のある人とは思われぬ。かような人物が人を軽蔑するというのは、一体すべて官を世世(よよ)するという、徳川政治から左様になったので、もはや弊政の極度に陥ったのである、と思ったについて深く考えて見ると、自分もこの先今日のように百姓をして居ると、彼らのような、いわばまず虫螻蛄(むしけら)同様の、知恵分別もない者に軽蔑せられねば、さてさて残念千万なことである》
この後に栄一の取った行動、つまり高崎城乗っ取りと云う、謂わば現代なら共謀罪にもあたる、幕府転覆の計画を具体化させてゆくことになる。

 後に栄一は江戸に上ると、神田お玉が池の千葉道場へと通い、北辰一刀流で知られた千葉周作の二男で、千葉の小天狗と呼ばれる千葉栄次郎などに師事し、北辰一刀流を学ぶ事となる。しかも丁度この頃に勤王の志士等との交友を深め、この一年前に長州藩士の若者らが決行した、品川の英国公使館を焼き討ち事件に栄一は強く影響を受けたのである。このすぐ後で長州と連携して幕府を倒す、とした倒幕計画を立てるなどした事で、親兄弟などの周囲の者達を慌てさせた事があった。
この一件から父親に勘当された栄一が、勇んで京に上ったのは文久三年(一八六三)八月十八日である。不幸中の幸いと云うべきか丁度この時、長州藩士や過激な公家らが京から一掃された、七卿落ちと呼ばれた事件直後の事であった。

 既に尊王攘夷は大きく変わり、勤皇を掲げていた志士達は守るべき筈の当の朝廷からも、三行半を突きつけられた格好だったのである。そこで栄一は江戸で交友のあった一ツ橋家の用人、平岡円四郎の下に転がり込むと、その平岡の推挙によって一ツ橋家の慶喜に仕える事になった。元治元年の七月のことである。奇しくも丁度この時、長州の毛利勢が禁裏に発砲するという、後に蛤御門の変とした事件が起きたのである。とは言っても栄一の仕事は、一ツ橋家の雑用から兵員の募集など便利に使われていた様である。やがて十露盤をはじける事から食禄二十五石、七人扶持の勘定組頭へと出世する頃、恩義を受けた平岡は栄一が仕官して四ヵ月後に、水戸藩の攘夷を信奉する天狗党の一段に暗殺されていた。
栄一の方も京に来た目的は、元々が攘夷討幕を目指して来ていた。栄一が書いた『雨夜譚』に、その時の思いが書かれている。
《可もなく不可もなくして、ついに亡国の臣となるに相違ない。ついてはここを去るより仕方が無いが、ここを去るにはどうするがよかろうか、とただ色々と屈託して居た・(中略)・・さればとて、いつまでも因循して居れば亡国の臣となることは必然である。モウドウモ仕方がない、いよいよ元の通り浪人になると覚悟を定めたのはその年(慶応二年)の十一月頃でありました》
だがここで栄一を支える歯車は大きく動いた。主君である慶喜が将軍となった慶応二年十二月五日、慶喜の実弟と共に栄一は巴里行きを命じられたのである。栄一はその一行の庶務や会計としての同行で、当然だが栄一は喜んで即答したのである。

 将軍の弟君である徳川昭武は、この時十四歳で欧羅巴に向かう目的は留学であった。随員は随行医として西洋医学の高松凌雲、そして栗本鋤雲は外国奉行から勘定奉行・函館奉行を経て巴里行きに推挙されている。通訳は山内提雲で後に日本赤十字社を創設した佐野常民、上野に植物園や動物園を構想し博物館の言葉を作った田中芳男らで、一行が横浜を出航したのは慶応三年(一八六七)の一月十一日である。

 栄一が欧羅巴に向った時は船でシンガポールからアラビア半島の紅海に入り、スエズから地中海に面したアレキサンドリアまでは汽車であった。この時に栄一は、スエズから乗った汽車の窓から見たスエズ運河の工事と、その意味を知ったのである。 
運河の竣工は未だ数年はかかると聞いてはいたが、その運河建設の意味がどれ程のものか、それを理解出来る者は今の日本にはいないだろうと栄一には思えた。それは単なる個人の利益などの規模ではない。西洋と東洋との距離を半分にも縮める意味は、経済や文化を含めて計り知れない程の世界への貢献なのである。しかも事業を行っていたのは仏蘭西のカンパー(会社)と云う組織であった。この時に初めて栄一は、会社や資本と云う言葉の意味を知ったのである。
しかしこのスエズ運河の建設には、もう一つの背景が埋もれていた事を未だ栄一は知る由も無かった。エジプトは当初、フランス主導でスエズ運河建設の株式会社を設立した。だがイギリスは喜望峰を廻るインド洋航路に大きな影響を与える事から、運河の建設には反対の立場であった。しかし工事を進めて行く中でエジプトの資金調達は難しさを増し、運河建設のために設立した会社の負債は増え続け、国家事業としていたエジプトが株を売り出した時に、イギリスはそれまでの方針を転換すると運河建設会社の株の購入を決定したのだ。
こうしてエジプト国家に大きな影響を与え続けたイキリスは、第二次世界大戦が終結するまで、エジプトを英吉利の保護領にしたのである。大きな国家的事業には外国や大資本家の思惑が入り乱れ、政治と経済が自国の富を吸い上げる資本主義が育ち始めていたのだ。

 資本や株式会社などの仕組みなど、その力が漠然とではあるにしても目にした旅を経験し、フランスのパリに着いた栄一は、同じパリで薩摩藩の五代友厚・新納刑部や後に寺島宗則と名前を変えた松木弘安等が、独自に遣英派遣団を組んで琉球王国として、パリ万博に出展している事を知る事となった。その後に栄一はヨーロッパ諸国を訪問する将軍の実弟に同行し、先進的な産業や軍備を視察すると、その進んだ技術と思想に強い衝撃と感銘を受ける事になる。
更にこの旅に同行し通訳をしながら語学を栄一に教えたのは、鎖国時代に長崎の出島でオランダ商館の医師として勤めた、シーボルトの長男アレクサンダー・シーボルトであった。アレクサンダーは後に明治政府に勤める様になった渋沢と、長い付き合いが続く事になるのだが、それは未だ後の事である。

 ヨーロッパ諸国を視察していた渋沢等一行に、江戸開城の手配を終えた幕府から、ロシアに向かった留学生達の引き上げを行うべく、その援助する様にとした指令を受け取る事となる。この頃の幕府は遅まきながら少人数ではあるにしても、イギリスやフランス、更にオランダやロシアにも留学生を送っていたのである。しかしそれ等の者は何れも幕府重臣など、徳川家の家臣の子弟達であった。
特にロシアに送った幕臣の子弟からなる六名の旅は、初代の駐箱館(函館)ロシア領事であるゴシュケビッチが、強く留学生の派遣を求めたからである。年齢は十三歳から三十歳までの者で、その年齢が若かった事から随分と苦労した様である。彼らは慶応元年七月に箱館を出発すると、香港・シンガポール・バタビア(ジャカルタ)を経てインド洋を渡り、喜望峰に近いサイモンズタウンに着き、ヨーロッパのイングランドにあるプリマスに着いたのは、慶応二年(一八六六)一月二十七日であった。十日程をそこで滞在した後、フランスのシェルブールに着き、ここからは鉄道で三百数十キロ先のパリに着くのである。更にベルギー・ドイツを経て二月十六日に、目的のサンクトペテルブルグに着いた。箱館を出てから半年余りが過ぎた頃である。

 とは言え留学生の中には、ロシアの暮らしに馴染む事が出来ず、一年の滞在で帰国を申し出る者達が出た。最年長の山口作右衛門である。その為、後から遣欧使節団として来ていた小出秀実の一行とともに、サンクトペテルブルグで合流させ、帰国させる事となったのである。 
この時に留学生達を悩ませたのは、幕府が朝廷に大政奉還を申し入れるなど、幕府の存在そのものが曖昧になって来ていた事であった。更に慶応三年十二月に発せられた王政復古の大号令と云う、徳川家から辞官や納地を命じられた事は、幕臣の子弟となる者達の上に不安は重く覆いかぶさり、留学の継続は絶望的なものとなっていたのだ。

 フランスにいた栄一は、ロシアで学ぶ留学生達の話を耳にすると、早速フランスにあるロシア公使館に向かい、幕府からの命令書を伝えて状況を説明すると共に、幕府から送られたその書簡を揃えて提出している。更にはロシア側の手続きが遅れて居た為に、五月十八日には督促状をも出して申し入れを行っている。こうして帰国の許可がロシア政府から下りたのである。
しかし許可されたのは五人の留学生の内の四人で、一人は留学を続ける事に固守していた。栄一はパリに着いたこの留学生の四人を、パリ見物の案内役を買って出るなどの世話を果たし、無事に四人を日本へと送り返したのである。
ロシアに残ることを最後まで希望したその留学生は、名前を市川文吉と云った。出立の時の年齢は十九歳で、父は幕府天文台蕃書和解御用役を勤めており、文吉も又、開成所仏学稽古人世話掛としての御役目を持つ若者である。つまり文吉はロシアへの留学以前、フランス語を学んでいたのである。それだけに留学に旅立つ時の覚悟は他の者とは違い、固い決心の元にロシアに向かったものと推測される。
その文吉には、留学の継続を強く望んでいた理由が他にもあった。ロシアのプチャーチンが日露通商航海条約締結の際、父親の市川兼恭がオランダ語で書かれた書簡などを翻訳しており、プチャーチンとは極めて親しくなっていた事である。どの様な経緯でプチャーチンが市川文吉を訪ねたかは不明だが、プチャーチンは自宅に文吉を住まわせ、その学業の便宜を図ってくれていたのである。

 丁度この頃、嘗てロシアとの交渉窓口でもあった川路聖謨の孫にあたる川路太郎も又、イギリスへ留学の最中にあった。その太郎がプチャーチンと市川文吉の話を耳にすると、是非とも文吉に会って見たいと父親の彰常に手紙を書き送っている。後に市川文吉のロシアでの留学は九年間にも及び、岩倉具視使節団がロシアに向かった明治六年、ロシア皇帝であったアレクサンドル二世から、使節団との通訳を任されるまでになっていたのである。
一方、徳川慶喜の名代で昭武らの一行が、パリ万博からヨーロッパ諸国を訪問したものの、大政奉還によって新政府から帰国を命じられたのは、明治と年号が変わる慶応四年(一八六八)の五月のことで、横浜港に戻ったのは同じ年の十一月三日である。栄一らは横浜に付くとすぐさま、明治政府の役人からの取調べを受けた。出発した時の盛大な見送りが、今度は一変してまるで罪人の様な扱いであった。
しかも帰朝した栄一には、訃報や悲しい出来事の知らせが待っていた。故郷の本家筋にあたる東ノ家の尾高長七郎が発狂死した事が知らされた。高崎城乗っ取りの計画を示し合わせて、直前になり強く反対した栄一の妻千代の兄だった人である。そして同じ日に長七郎の母も急死していた。後を追ってしまったのである。更に栄一をパリに向かわせる随員として、推薦してくれた用人の原市之進も、平岡円四郎と同様に水戸藩士によって暗殺されていた。しかも父方の東ノ家の従兄で一ツ橋家に一緒に仕官した喜作が、五稜郭の戦いで捕えられ、今は獄中の身になっていた事を知ったのである。

 栄一は静岡に謹慎していた慶喜に謁見する直前、駿府に来ていた同じ幕臣の勝海舟にも面会している。帰朝後の昭武の身の振り方や水戸家の家督相続など他、日本を留守にした二年近くの間に、激しく変わった経緯を聞いたのである。そして十二月も半ばに栄一は、ヨーロッパに向かった際の会計報告書を静岡に来ている水戸藩の者に届けると、慶喜の住んでいる宝台院と云う小さな寺を訪ね、ここで慶喜の弟である昭武からの手紙を届けた。更に慶喜から以降は自らの道を行く様にと言われ、臣下の関係をこの時に解かれたのである。

 幕末の、それも最後の時期に遅ればせながら、家臣の子弟を集め留学生や遣欧使節団として、幕府が若者達を外国に送り出していた事は余り知られてはいない。その一方ではこの僅か十年か十五年程も前に、異国を知りたいと心から願い、その押さえはれない熱望によって密航を謀り、挙げ句に捕えられて処刑されて逝った、二人の探求心旺盛な若者達の死があった事を思い起こさずには居られない。若者達は何故にそれほどまでに急いだのか、幕府は何故にもっと早く彼らを外国に送り出さなかったのかと。

 静岡で慶喜に謁見した栄一は、静岡藩から御勘定組頭として出仕を求められている。この時の栄一は、武士などの世界にどれ程の憧れも期待も無かった。ヨーロッパを見てきた者には、更なる新しい時代の到来が予測出来たからである。ただ心にあるのは倒幕を目指した自分を、ヨーロッパに送り出してくれた事への感謝であった。そこでこの時に栄一は静岡藩に対し、逆に殖産興業を県内ではかり、そこから生み出す利益を政府への返納に充てる、その為には商人達から資金を集め商会を設立し、事業に投資する事で利益を得ると説いたのである。こうして静岡に商法会所が出来たのは、明治二年二月のことである。
栄一がパリで銀行や金融などの仕組みを見聞きしたそれを、早速にこの静岡で商法会所を設立することを企て、そして実行したのである。その発想の元はパリの銀行家、フロリヘラルドと出会った事であった。多くの銀行がパリにはあるが、それらの銀行は大衆から金を集め、大規模な営利事業を営んでいた事を初めて知ったからだ。

 ヨーロッパに向かい会計を預かっていた栄一は、日本から持参したニ万両の費用資金を、この時にフロリヘラルドの勧めで、フランス公債を買うと共に、同じフランスの鉄道会社の公債に預けていたのである。それが日本に戻る時には、四万両の利益が生まれていた。しかもヨーロッパでの滞在費用もニ万両ほどを残していた。この出来事が後の栄一に、大きな舞台を用意することになる。 
明治二年七月十五日付けの静岡新聞には、栄一の事を書いた記事が掲載された。しかもそこには、徳川昭武公に随行した会計庶務係りとして、この栄一の仕事ぶりを賛辞した記事であった。
「今、静岡藩には渋沢と云う者がいる。渋沢は徳川昭武公に随行し、先年には仏蘭西に渡航し巴里博に参加し、この程帰朝した。だが仏蘭西滞在中に二万両の予算を使い切ることなく余し、更には渋沢個人の才覚で四万両の利益を得た。しかもこの四万両は静岡藩の生活困窮者に配分し、自分は一銭も私のものにしなかった。まさに忠臣忠節の鑑と言えるのではないか・・」とある。

 この新聞が刊行された暫く後で、記事を目にしたのか新政府の方から大政官府に出頭する様、栄一はその理由の判らない通知を受け取ったのである。今で言う財務省は当事、民部省と名乗り、やっと大蔵省と名前がかわったばかりである。この時の初代大蔵卿は伊達宗城、旧宇和島藩主であった。又大輔(事務次官)は肥前の大隈重信で、補佐役の小輔は伊藤博文であった。
出頭すると栄一に求められたのは、大蔵省の租税正に任命したいと言う内容である。いわば税制の専門官になって貰いたいと言う要請であった。栄一は静岡に商法会所を設立したばかりで、新政府への仕官は断るつもりで大輔にその旨を伝えたのである。

 ところが栄一は大隈重信から逆に強く説得され、遂には新政府の大蔵省へ入省する事になった。聞けば誰一人として、税制の事は余り知らないと言うのである。寧ろだからこそ力を貸して欲しい、一緒に新しい国を創ろうではないかと説得されてしまったのだ。この時から官僚として国立銀行条例の制定など、新国家に向けた仕組みと改革案などに栄一は携わる事となっていったのである。 
そうした最中、嘗て高崎城を奪い取ると息巻き、栄一が計画を練っていた時も、その後に一ツ橋家に仕官した時も一緒だった従兄の渋沢喜作が、目と鼻の先の江戸城内の牢に囚われている事実を、栄一は初めて知ることになった。早速、喜作に差し入れを用意し、手紙を書き送った栄一は、多忙の為に大蔵省を休む事も出来ず面会すら叶わないものの、それでも差し入れと手紙は絶やさなかったのである。
その後、明治四年に戊辰戦争に加わった者達に特赦が行われたとき、栄一は喜作の身元引受人になると、その後の勤め先などの面倒を見た。だいぶ後の事だが、喜作は東京商品取引所の理事長に選任され、嘗ては大久保彦左衛門の屋敷を買い取ると、悠々と隠居生活を楽しんだ。その白金にある屋敷は現在、八芳園と呼ばれている場所である。

 特赦が行われた翌年の明治五年十月、栄一と妻の千代の間に長男の篤二が生まれた。既に姉の歌子と琴子の四人暮らしだったが、実際はそれまで女達三人だけで暮らしていたとも言える。大蔵省に勤めていた栄一は、この翌年の明治六年に予算などの衝突から、大蔵大輔の井上馨らと共に連袂辞職する。まさに多忙な時期を迎えるのである。
それまで栄一は大蔵省で、国立銀行条例を作成していた。尤も国立銀行の国立とは英語を直訳して銀行に冠した名前で、正しくは国の法律に基づく私立の銀行で大株主は三井家である。こうした関係から設立を指導していた国立第一銀行の頭取役に付く事を求められ、新たな国家の裾野づくりに手を付け始めたのである。栄一はこの時、未だ三十三歳であった。
更にその後は様々な企業の立ち上げに関わり、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、東急電鉄、秩父セメント、キリンビールやサッポロビールなど、五百社以上もの企業設立に栄一は手を貸すことになる。

 篤二が生まれてから十三年後の明治十八年二月、三菱財閥の岩崎弥太郎が亡くなった頃、渋沢栄一と岩崎弥太郎がそれまで烈しい争いを続けていた日本の海運界に、一つの終止符が打たることになった。独占主義を目論んだ三菱汽船と、栄一の合本主義に代表される共同運輸が政府の勧告で合併したからである。そしてその十一年後、栄一に孫となる敬三が生まれたのである。この時に渋沢敬三と岩崎弥太郎の孫となる登喜子が、後に結婚する事になるなど誰一人として想像した者はいなかった。

 渋沢栄一が三井・三菱・住友・安田のような財閥を作る事もなく、一身に公益を重んじたのは、ひとつの哲学を持ち続けて来たからである。それは自ら著書『論語と算盤』にもある様に、「富をなす根源を仁義道徳に求め、正しい道理が無い富は完全に永続する事は無い」と述べ、「道徳と離れた欺瞞や不道徳、権謀術的な商才は、真の商才では無い」と述べている。
そして更に、「・・・もしそれが自己の為にはならぬが、道理にも叶い、国家社会をも利益するとするなら、余は断然、自己を捨てて道理のある所に従うつもりである」これが渋沢栄一の哲学であった。

 栄一が息子の篤二を廃嫡して、孫の敬三を跡継ぎとして指名したのは一九一三年(大正二年)の事である。その経緯は竹馬の友であった宮本璋の関係から書いているので、これ以上の話は止めておく。
その渋沢栄一が九十一歳の生涯を閉じたのは、昭和六年十一月十一日の深夜であった。夜が明けると共に飛鳥山にある渋沢邸は、まるで蜂の巣を突っついた様な混乱に襲われた。新聞社や放送関係者が大挙して訪れたからである。午後には宮中より勅使が差し向けられ、皇太后からは百人前の料理が下賜(かし)された。葬儀は亡くなった四日後の十五日に青山葬儀場で行われたが、斎場前には千五百台もの弔問の車が並び、埋葬される谷中の寛永寺までの沿道には、学童を含め四万人を超す人々が参列し、哀悼の意を表したのである。
栄一が歿して二ヶ月余り後に、長女の歌子が後を追う様に亡くなった。栄一の入院から誠心誠意尽くし、不眠不休の看病が負担になったものと思える。だがそれから半年後、今度は廃嫡した篤二が六十一歳の生涯を終えたのである。

 この一方で、栄一の息子である篤二の妾でもあった玉蝶は、渋沢家からの篤二の遺骸の引取りを拒絶していた。何時も周囲の者達には「篤二は可哀相な人だ。お金はあっても、不幸な方だった」と話していたから、その気持ちは当然の様に、長い月日の中で積み重なったものであろう。
敬三は父である篤二の遺骸を、羽織袴の正装で白金に建つ玉蝶の家に貰い受けに出向いた。その時「あなたたち一族が寄ってたかって、この人を駄目にしたんだ」、玉蝶はそう叫ぶように語りながらも、やっと篤二の遺骸を敬三に返したのである。亡くなった父の顔を見ながら敬三は、この時に自分が若い頃に書いた手紙の一文を不意に思い出していた。義兄であり附中時代からの親友、木内良胤に充てたものである。
それは幼い頃から父親の愛情に飢えていた父の篤二と、自分自身をも重ね合わせていたのだ。その木内への手紙に敬三は、こんな事を書いていた。
《・・・僕は今、父の気持ちもいじらしいのだ。けしからんと簡単には云えないのだ。真から父を気の毒に思ふ。父は今人知れず、時々母や祖父や我々に、心底許してくれと云って泣いている事と思ふ。どうして父に対して怒れ様。今僕は父に対して、深い同情の念が湧いてしまって居る。恰(あたか)も永遠に去れる如く去った。どんなにつらかったか、悲しかったか、絶望したか、口惜しかったか、情けなかったか、とても僕には想像すら出来ぬ。母は今、誰のために生きて居るであらう・・・》

 敬三が歿したのは、昭和三十八年十月二十五日である。享年六十七歳であった。敬三が亡くなる数日前に、妻の登喜子が敬三の枕元を訪ねた。約二十年ぶりの事である。登喜子は昭和二十年三月、渋沢家が唯一青森に持っていた、同族の渋沢農場に疎開していた。五月に東京大空襲が行われた二ヶ月前のことである。その同じ年の暮れに三田の屋敷に戻って来たものの、その後は一男二女を置いて働く為に家を出たのである。そして二十二年間、敬三は妻の登喜子と別居していたのだ。
その登喜子も平成六年の一月に他界したが、後年になって当時の事をこう言っていた。「あのまま家に居たら、自分は生きてはゆけなかった」と。


三十六、宮本叔とペストと漱石

 宮本仲の父親でもある慎助と、その慎助の後妻となる西沢たかとの間に生まれた叔(はじめ)は、先妻との間に生まれた仲よりも十一歳程若い腹違いの弟である。その叔の事を書いた冊子が手許にある。入澤達吉(東京帝国大学教授)や、ミヤイリガイで知られた日本住血吸虫の発見者で、九州帝国大学医学部教授の宮入慶之助などが、故人となった宮本叔を追悼する『談叢』と書かれた冊子である。その中で同じ松代出身の宮入慶之助の一文を原文のまま紹介したい。

「私共の幼年の頃には、小学校の外に、まだ句讀(漢文)の先生があり、もよりの子供達が朝又は夜、先生の所に通ふた、松代の竹山町に松本先生といふがあり、叔さんの御宅は、その隣の町、有楽町だから、朝通(かよ)はれた、私は一田圃を距てた遠くからであったが、先生が舊藩の父の上役で、飲友達で、佐久間象山先生の書の門人でもあったので、父の好みにより、お手本を頂いたり、文章軌範の講義を伺うふたりしに、やはり朝通うた。到着順に教えて頂くので朝暗い中につめかけた、先生の門が未だ開いて居ない時もある、叔さんは、大きな本をむき出しに抱へ、門の開くのを待ち、立って居られた姿が、先ず思ひ出される、・・・顔見知り位の頃である。
私は明治十三年の春に東京に出て、叔さんの兄さん、仲さんのお世話で、本郷の菊坂上の独逸学校に入学し、その秋試験を受けて東京大学医科予科の最下級、五の乙に席を得た。その頃、時計台の二階にあった図書室で、私は東京日日新聞に連載の佐久間象山先生の上書を読み、写しなどして帰ろうと思ひ、下りて来た庭前で、やぁと相会うたのが東京にての相見る始めであった、その頃兄さんは大学医科の別科を卒業、下谷の付属病院の樫村内科に勤めて御座った。間もなく外国に留学、お帰って神田佐柄木町に開業なされてから、叔さんと私との深くなる始めであった。
当時、東京在留者は、どこの舊藩の人々も、それぞれ藩内の者共相集り、青年会とか郷友会とか、いふを設け、時々相集り又雑誌を出すという風であった。松代藩の人々も松代青年会を設けていた。私共の頃の会員を、年齢順に数えると、横田秀雄(司法省法律学校、後の大審院長)、その弟、小松謙次郎(大学法科与科、後の逓信大臣)、堀内文治郎(陸軍士官学校、後の陸軍中将)、私、叔さん、丸山熊男(大学法科与科、後の岡山県内務部長)、白川震次郎(陸軍士官学校、日清戦争で戦没)、風間禮助(後の衆議院議員)、小野哲太郎(仲さん、叔さんの姉さんの子息、後に長野市に眼科を開業)の諸君の姿が先ず浮かぶ。・・・(略)。」

 後に宮入慶之助が大学三年の時、大学の寄宿舎で火事に遭い、俺の処に来いと宮本仲に救われ、しばらくして宮本家の隣に叔と同宿する事になる。更にずっと後で文部省の留学生になった折、伯林で叔と又同宿する事になるのだが、叔が駒込病院の院長を勤めても尚、二人の親しい関係は続くのである。

 話を元に戻して続ける事にしたい。
叔が十一歳年上の異母兄である仲の後を追う様に、独逸語の壬申義塾へと通い、東京帝国大学の医学部に入学、明治二十五年十二月に東京帝国大学の医学部を卒業した。更に大学に残り翌年の二月には助手、二十八年八月には東京市立駒込病院の医長となり、三十歳になった明治三十年のこの年に、東京帝国大学医学部の助教授を任命されている。
その助教授になる三年前の明冶二十七年(一八九四年)、香港政庁から日本政府に宛てた緊急要請の打診が届いのは、英吉利の植民地でもある香港でペストが流行り始めたからである。その為に医師を香港へ送って戴きたい、と言うものであった。日本政府も当然の事だが、このペストの日本上陸を阻止する事は、まさに喫緊を要する課題でもあった。
そこで日本政府が香港政庁の要請に対して指名したのは、東京帝大医学部の青山胤通教授ほか二名と、北里柴三郎を頭にした三名の併せて六名の医師団である。いわゆる国立系と私学系の医学者達で、その派遣する人選をしたのは小金井良精であった。

 東京帝国大学医学部の別名青山内科とも呼ばれる第二内科で、叔が助手で医局長を務めた時、当の青山は第二内科の主任教授であった。叔はこの三年後には助教授へと選任される事になるのだが、他に医学生の木下正中が特志助手として志願し、香港へ青山と共に向う事になったのである。一方の北里柴三郎の他に海軍軍医だった石神享と、内務省の技手である岡田義行の三人と、合わせて六名の派遣が決定した。
横浜を六月五日に出発した派遣団は十二日に香港に着くと、翌日には早速拠点をkenned-town病院に決め、ペスト菌の発見と感染患者の病状具合を調べる事にしたのである。既に香港では黒死病と呼ばれるペスト患者は三百人程が隔離され、死の恐怖に怯えていたのである。

 当時はペスト菌も未だ発見されてはおらず、それだけに当然だが特効薬も開発されてはいなかった。ペストの歴史を辿れば、とは言っても伝染病そのものがpestis つまり疫病を意味する言葉に使われていた訳で、紀元前二千年前頃、或いは旧約聖書の時代から存在していたとも言われている。歴史上で最も沢山の人々が亡くなったのは、十四世紀の黒死病と呼ばれたペストで、発生源とされた中国では人口の半分が亡くなり、ヨーロッパでも三分の一が亡くなっている。
こうした事から研究者の間では、どの国のだれがペスト菌の発見者となるのか、ある意味では国家の威信、研究者の名声を賭けた競争でもあったのだ。
一行が香港に着いて二週間が過ぎた頃である。青山は遺体の解剖にあたった最中、ペストに自らも感染してしまうという出来事が起きた。しかも北里柴三郎の助手である石神にも、腋窩リンパ腺腫脹と発熱が現れ、二人は死の淵を彷徨ことになった。この時すでに一人の日本人開業医が、香港で亡くなっていたのである。

 重篤に陥った青山を看病しながら、木下と共にペスト患者の治療と研究を行った叔は、この事がきっかけで後に伝染病の専門家として知られる事となり、東京市立駒込病院(現、都立駒込病院)の医長に就任し、後年は院長に押されたのである。一方の青山胤通と石神は奇跡的に回復した。香港政府はその感謝の意を込めて、香港九龍半島北西の新界地区にある屯門(シンムン)と元朗(ユンロン)を繋ぐ、通りの名前を青山公路とし青山の名前を刻んだ。
叔がこの時、香港から兄の仲に宛てた手紙がある。ペストを当時のヨーロッパでは黒死病とした名前が付けられていたからで、ペスト患者は黒く変色するのだろうか、と誰もが病名から想像していたのである。

 「今回の実検によれば黒死病などと申す名は、何より起り候や解し難く、唯死亡候際に著しきチアノーゼを呈し候者有之のみにて、身体一點(てん)の黒斑を認め候事無之候。案ずるに黒死とは欧州にても矢張り黰然即ち傷別の貌と申意味より其因死たるものと存ぜられ候」と、その感想を書き送っている。
つまり患者の死亡間際にチアノーゼ反応は認められるが、一点の黒斑も認めた事はないと兄の仲に書き送っていたのである。漢字文化から始まった日本人は、漢字が出来た当時の誤った言葉の意味にさえ、今もなお翻弄されていたのである。
この年の八月、北里は香港に来ていたフランス人のイエルサンよりも早い段階で、ペスト菌を発見した事をイギリスの雑誌『ランセット』が報じた。だが北里がこのペスト菌を発見したと言うのは、至って曖昧な検証の結果であった。グラム陽性か陰性か、菌そのものの動きも性格も示さず、検証の曖昧さが発見の遅れを誘ったのである。

 この頃にはペストの研究には多くの国の医学者が開始しており、中でもイエルサンも又ペスト菌発の報告をしている。しかもネズミによって媒介され、蝿が病気を運ぶとした検証結果を示したのだ。この時に北里もドイツにペスト菌とするものを送っていた。(事実真正のペスト菌であったと言う)、だが北里は自ら発見した菌は、フランス人の送ったイエルサンの菌とは、全く別物だろうと主張したのである。当事の光学式の顕微鏡で見ると、細菌は透明に近い物が主である。そこで細菌を染色し見易くする方法が用いられていたのが、デンマークのハンス・グラハムが考案したグラム染色法で、染色して染まらなければ陰性、染まれば陽性とした判別である。そしてペストはグラム陰性菌であるとされて来た。

 つまりエンサンの発見したペスト菌は染色しない陰性と報告されていたのだが、北里の方はグラム染色に関しては言及できないが、後日報告したいと述べ、第三者の公平な決定を待ちたいとも述べた事から、香港にグラム染色液を持参しなかったのでは、とした意見も出るほどであった。
しかも明治三十二年(1899)に日本にペストが上陸し、イエルサンの主張通りペストが陰性であることが確認出来たのである。北里はその年の内に陽性としたペスト菌説を取り下げた。だが未だこの騒動には続きがあった。ペスト菌が日本に上陸する二年前の明治三十年、ドイツの細菌学者ウイルヘルム・コッレは世界中のペスト菌を集め、細かく研究と分析を重ねてきていたのだ。そして北里が香港で集めたペスト菌の中には、グラム陰性の菌が入っていたのである。その後の調べでペスト菌の中にはグラム陽性の菌もある事が確かめられたのである。この事からペスト菌はイエルサンと共に、北里の二人が発見したと後になって認められたのである。

 後年になって遺伝子解析が行なわれる様になった二〇十一年、ペストの遺伝子にも三種類のものがあり、その進化は直線的で一つの系統から進化したもので、最後に中国で発生した菌は現在でも同じものだと明らかにされている。
ペストの流行によって危険な香港に出向き、そこで研究を行った後に発表された青山胤通の大学紀要の論文の文頭には、助手の宮本、学生の木下の援助を感謝するとした記述が残されている。そしてこの医師団が帰朝した時には、「さながら乃木か大山の帰る時の様に、文部省から内務省、大学の関係者など新橋に集まり、停車場が埋まる程の騒ぎである」と当事の新聞は伝えている。

 後の叔の経歴を述べると、この二年後には文部省留学生として兄の仲と同じ様に独逸に向い、ベルリン大学では内科と微菌学を修め、四年後に帰国するとその研究対象を伝染病に絞った。明冶三十九年に日露戦争が終結し、講和締結(ポーツマス条約)の後で、小村寿太郎全権大使に従って清国に向かい、二等隻宝星章を受けている。
この時に全権大使である小村大使との間で、一つの語り草か生まれている。日露戦争の講話会議が、亜米利加東部のポーツマスで開かれて直ぐ後の事である。

 『小村寿太郎(外務大臣)が亜米利加から帰朝されて間もなく、同大使は病体を押して北京に外交談判(満州善後条約)に行く事になっていた。その時に作家であった武者小路実篤の兄で武者小路公共子爵が、小村大使に向って「あなたは病身なのですから、せめてお医者を連れて行って下さい」と云うと、「いや、要りません」と、実に剣もホロロの挨拶である。これには弱った。しかしそんな事で途中倒れられては大変である。(中略)小村さんに黙って、一ト足先に宮本君を乗船させ、船の中に隠して置く策をとった。船が出帆して少し経つと、その病院長がノコノコと出て来て、「ヤァ今日を」とやった。すると小村さんは「アハハハ、あいつ等は陰謀を企てたな、これは一杯食わされた」と言って笑ったそうである』
小村大使は医者の診察を嫌がったそうであったが、宮本先生は無理に診察したと云われた事があった。(幣原喜重郎著、「外交五十年」より抜粋)

 三年後の明冶四十一年(一九〇八)、陸軍軍医の都築甚之助や伝染病研究所の柴山五郎作の二人と共に、叔がバタビア(ジャカルタ)の現地調査を命じられたのは、陸軍主導の臨時脚気病調査会の委員として選出されたからである。この現地調査とは、明冶三十七年頃から脚気の患者が兵士の間で増え続け、翌年の明冶三十八年に刊行している陸軍省編の陸軍衛生史でも、戦地入院二十五万一千人の内、脚気患者は十一万人と四十四%を占めており、一説には日清日露戦争を通じての脚気による死者は、三万人程に上るのではないかと云う史料もあった。

 脚気の原因は当時でも未だ特定されてはおらず、細菌説や栄養説などの諸説があって、これだと言う確たる根拠が示されていなかった。この為に来日中のノーベル生理学賞・医学賞を受けたロベルト・コッホを訪ね、脚気の調査会を発足させた森・青山・北里の三人は、脚気についての相談をしている。しかし欧羅巴では食文化の違いからなのか、脚気は殆ど起きる事も無く、原因やその病の経路は闇の中であった。この時にコッホも詳しくは無いが、と言いつつ「東南アジアで流行しているベリベリ病を研究してみたらどうか」との助言を受け、新しい実験方法をも助言された事で、二ヶ月程の現地調査は行う事となり、その担当に選ばれたからである。しかし結果としてはベリベリ病が脚気と同じ病気だと判明した位で、さしたる成果も無く終えたのである。

 それ程に当時は兵士の中に脚気の患者が多く、その原因が一向に突き止められなかったのである。当時の海軍医務局長の高木が、たんぱく質不足説を発表し、麦飯を入れた兵食改革を六回も行い、脚気の兵士を少なくしたと世に発表しているのだが、その根拠が麦飯を食べさせたことで少なくなったと言う理由だけでは、根本的な原因は不明のままであると、多くの医師や研究者からの反証を受けた。
高木にしてみれば嘗て大航海時代と呼ばれていた頃に、英吉利の海軍では懐血病と呼ばれる病が船員の中で万延していた事があった。特に長期の航海では皮膚や歯ぐきなどから出血が起き、多くの船員が死んでしまう病である。英吉利海軍では果物を入れた酒で実験するなどして、原因がビタミンcと呼ばれる栄養不足から起きる事を発見した例があった。それ故に高木は麦飯で実験してみたのである。その結果、脚気の病は大幅に軽減したものの、その理由は相変わらず藪の中で、周囲は相変わらず冷ややかであった。
この事から高木は実験結果の発表以降、学理的な反証を止めて沈黙してしまったのである。集めた資料ではどの様に説明しても、改善の傾向が認められるだけで、その根拠となる何かが説明つかないのである。

 一方でその原因が不明でも、実際に麦飯は脚気患者を減らしていたのは事実であった。研究者には根拠が必要だろうが、患者の方は病気が回復すれば、後は医者の調べる範疇なのである。しかし軍と医者は患者の回復よりも、原因の追究にしか目を向けなかった。
しかも日露戦争当時の海軍の兵士にみる脚気患者は八十七名程度で、陸軍のそれとは余りにも対照的な事を指摘されると、陸軍からは海軍は脚気患者の入院が多いと指摘されるなど、陸軍と海軍の批判合戦へと話が拗れて行く始末であった。

 しかも原因が食物とする説に向う事も無く、現地調査をした宮本叔と伝染病研究所の柴山五郎作は、東京帝大医科大学長の青山胤通や北里柴三郎と共に伝染病説を支持し、陸軍軍医の都築甚之助のみが栄養欠乏ではないか、とした説に変った程度であった。
とは言え何れもその根拠は薄く、相変わらず極めて確証の無いものだった様である。未だこの時期にはビタミンb1と云う栄養素が発見されておらず、一方で兵士の食事が一日白米六合と決められ、副食として肉と魚が百五十グラム・野菜類百五十グラム・漬物が五十グラム余りと勅令で決められていたのだが、その栄養に関しての注意は余り向けられていなかった事が、そもそも多くの兵士を死に追いやった原因であった。

 脚気はその後の日清、日露戦争が終わってもなお、未だその原因は明らかにされず、突き止められては居なかった。しかもこの脚気が流行った頃の日清戦争時、陸軍の医療に関する最高責任者は石黒忠直であり、この石黒は若い時、あの松代で蟄居が解かれた佐久間象山と会い、珍しく象山を笑わせた青年であった。
そして日露戦争時に於いては森鴎外が、医療の最高責任者であったが、誰一人として脚気で兵士を死に追いやった、その責任を取る軍の関係者は居なかったのである。その結果、脚気による兵士の死亡者数は、実に二万七千人と言われている。病で亡くなった事と鉄砲の弾や爆弾で亡くなった事とでは、当事の軍人は全く異なる認識をしていた様で、病死は不名誉、戦死は名誉とする武士の伝統が色濃く残っていたのである。

 処で少し後の話になるが、叔が陸軍主導の臨時脚気病調査会委員の一人として、名前を連ねていた二十一名の中に、一九一二年から三年間を同じ委員会に名を連ねた医師が居た。叔の甥にあたる璋が後に衝突する柿内三郎である。この時に甥の璋は未だ、高師付属の中学生の頃の事である。
農学者だった鈴木梅太郎が明冶四十三年(一九一〇)に、「白米の食品としての価値、並びに動物の脚気様疾病に関する研究」を報告している。その中で動物実験を行った結果、白米で飼育すると脚気の症状が出て死ぬ事や、糠や麦、更に玄米には脚気を予防し回復させる成分の存在を認めている。米糠にビタミンb1が含まれていた事を、初めて発見したのである。

 そしてビタミンb1が発見されて九年後に宮本叔は歿しているが、亡くなる前にビタミンb1の存在を知り、随分と口惜しい思いをした事だろう。尤も伝染病の専門医である医者の叔に、栄養素の発見が出来なかった事を責める事は出来ないが、医者達の世界では判らない事が判らないと言えない場所であるらしい。上司が右だと思うと言われれば、部下は私は左ではないかと思う、とは言えない世界が存在する様だ。どれ程の学問が進歩しても、学問を扱う側の学者達の殆どは全くその仕組みを変えられない様である。

 正岡子規の主治医でもある仲の、異腹の弟となる宮本叔が夏目漱石と出合ったのは、ビタミンb1が発見されたと同じ年の、明冶四十三年(一九一〇)九月の事で、漱石が転地療養に出掛けた先の伊豆修善寺で大量に吐血し、後に「修善寺の大患」とも呼ばれた出来事の直ぐ後の事である。
その事件が起きる三ヶ月前、漱石はそれまで懇意にしていた長與胃腸病院で検査を受け、胃潰瘍である事を告げられ直ぐに入院する事になった。検査からひと月後の七月、漱石は幾つかの作品を発表したのだが、八月に長與院長から転地療養を勧められ、考えた挙句に伊豆へ行くと云う門下生の松根東洋城が、避暑に向うと言う同じ修善寺温泉へ行く事を決めた。だが胃潰瘍とは言え症状はかなり重い容態で、特に新橋から修善寺まで行くには、東海道線の国府津からは御殿場線に乗り換え、更に下狩野駅(現三島駅)からは大仁まで、伊豆箱根鉄道で向わなければならない。しかも大仁から先の修善寺までは人力での移動であった。

 この年は東海道線の小田原や熱海を経由する丹那トンネルの工事が始まったばかりで、更に大仁から修善寺までは未だ鉄道も出来てはおらず、この区間の鉄道が開通するのは大正十三年(一九二四)八月になってからである。 
漱石が昼前に新橋を出て、伊豆の大仁に着いたのは夜も七時頃であった。ここからは修善寺温泉までは人力を雇う事となるのだが、予約もせずに修善寺に向った為、漱石は全て顔見知りの多い東洋城にまかせっきりの旅であった。しかもこの時はおり悪く台風が接近して、東海地方から関東にかけて大雨の日が続いていた。八月も半ばに入ると漱石は胃液を吐くなどし、しかも十七日には肝臓の様な、黒い塊の血を吐いたのである。

 地元の医者が診に来てくれたが胃潰瘍の再発を疑わせる様な状況に、翌日には朝日新聞社からの指示で長與胃腸病院の医師が雨の中を診察に訪れ、地元医師の診立てと左程の違いも無く、長與院長からの指示で診察に来た医師も、暫くは修善寺に留まる様に言われたのである。
その後の漱石は旅館でも安静にしていたことで、家族や医師たちと日常的な会話も出来る程に回復したのだが、二十四日になって体調が悪い方へと変化し始めた。良くない兆候の、欠伸が出始めたからである。この頃に長與胃腸病院の副院長の杉本医師も診察に来ており、診たても小康状態と云う事で、周囲の者達に多少の安心感を与えたその矢先のことであった。

 その夜、医者達が夕食をとっていた時である。妻の鏡子が泣き叫ぶ様な大声で、大量の血を吐いたと血相を変えて知らせに来たのだ。慌てて杉本副院長が漱石の部屋に飛び込むと、枕元には一杯の吐血が広がっていた。漱石の脈をとった杉本副院長は、看護婦や同じ長與病院の医師に、テキパキとした手当ての指示を出していた。既に脈拍もかすかに感じられる程度で、殆ど呼吸を止めた漱石はぐったりとして、自分の吐いた血の海の中に横たわっていたのだ
直ぐに医師達によってカンフル注射や食塩注射などの他、鎮痛剤としてのモルヒネも注射された。既にこの時、漱石の意識は無くなっていたのである。それでも極めて弱く呼吸をしている事を知った医師は、直ぐに人工呼吸をする為に胸の上に跨ると、必死で心臓のマッサージを始めていたのだ。

 やがて医者達の努力もあって三十分程が過ぎた頃、意識を取り戻した漱石を前にした周囲の者達は、張り詰めた緊張から開放されたのか安堵すると、その場にへたへたと座り込んだのだ。慌てて新聞社へと電報を打ちに向った記者がそこにいたのは、既に漱石が社会的にも著名な作家として、広く知られる存在になった証でもあった。この出来事からひと月程が過ぎた頃、長與医院長の弟で医学部の教授でもあった長與又郎から、手が空いていれば手伝って欲しいと頼まれた宮本叔は、急遽、漱石が療養する修善寺へと応察に向かったのである。
 
 漱石の経験した三十分程の臨死に関し、かく言う筆者も三十分どころか、後で二日間も意識不明だったと聞かされた臨死体験がある。若気の至りとなるその経緯は今更語りたくも無いが、意識が無くなり生死の境を彷徨っていた訳だから、その間が何分だの何時間だのと云う方が可笑しい気がする。
意識が無くなるとは脳の届く刺激を繋げる神経が遮断される事であり、五感で受け止めていた刺激が脳に繋がらない状態で、眠っている事とは全く違う。しかも心臓は動き呼吸も行なわれているものの、それ等は神経を通じて脳からの指令を受けない状態で続いているのである。
医学的に言えば脳が刺激を受け取る事が出来ず、脳への酸素の供給が低下すると感覚が無くなり、脳の働きが停止している時間が長く続けば、やがて死に至る。私の場合は多量の睡眠薬による作用で、恐らくは救急車で病院に運ばれ胃の中を洗浄された後で、マスクを取り付けられ酸素供給を施された事から、死には至らなかったのだと思える。心臓だけはしっかりと動いていたのである。

 一方で心臓が停止すると脳への血流も途絶えるから、これは僅かな時間で死に至る重篤である。当然だが意識不明と判定されたその間は、当事者の頭の中にはまさに「空っぽ状態」で、その間と言う時間は本人には無い。 
後から医者や看護婦に「意識が無かったのはこの位の時間です」と言われて、過去の記憶を頼りに、その間を埋めて行く以外に方法は無い。何故なら意識が回復した時、暫くの間は時計を見ても一体今が何月何日なのか、午前中なのか午後なのか、此処が何処なのかと言う事すら全く分らないからである。

 とまれ筆者の場合、意識が戻り自分の存在に気付いた時、枕元には母や父の顔が不安そうに覗いていた。そして又も深い眠りに入ったのだから、細かい話は今更説明する事に意味はない。立花隆氏が著した『臨死体験』に語られる様な興味のある事例、即ちお花畑の中に居ただとか、光が射していたなど笑える様な体験は私には無い。恐らくキリスト教の信者であれば、絶えず天国の話しを聞かされているのだから、そうした幻覚を見る事は可能であろう。しかし無神論者の私には、体験した臨死の経験は話にもならないほど面白くも無い。全ての感覚を取り上げられた、単なる空(くう)の世界であったからだ。

 ただその空の世界から舞い戻った時に受けた強い衝撃は、視界に映り込むものの鮮明さや爽快さ、そして色彩の鮮やかさであった。思い出されるのは、今で言うパソコンの「リセット」とか「初期化」したと言う以上の、新品同様になった研ぎ澄まされた感覚でもあった。恐らくはドパーミンと呼ばれる脳内の快感を呼び覚ます物質が、自らの脳内細胞に発散される事から起きた興奮作用なのだろう。四十年余りも過ぎた今でも、その時の鮮烈さは記憶の中に鮮やかに残されている。

 その経験からなのだろうが、自分なりに幾らかでも死を理解したからかも知れない。だから死への不安は、この時から殆ど無くなったと言っていい。寧ろ今度は、無意味に生きている事への不安の方が増加したのだ。
死は存在を感じる意識だけでなく、生まれてからの記憶や築いた関係を含めて、残されている者に押し付け、自らが持っていた全てを失う事である。自身を支える肉体も、肉体を構成する細胞も、細胞の中にある遺伝子も、遺伝子に刻まれた祖先からのメッセージも、その全てを失う事である。死は痛くも痒くも無く、完全に無になる事だと身を持って実感したのだ。 
だから残るのは関係した周囲の人々の記憶の中に、自らが残像の様に残され時間と共に薄れて行くだけなのだ。それが死だと知ったのは、私が二十四歳の時の体験である。
それだけに多くの人は修善寺の大患といわれた事件の後で、漱石の作風は変わったと評されるのも私には納得が行くのだ。

 「あと二週間もすれば、東京にも戻れるでしょう。どうしますか」
大量の吐血をしてから、ひと月余りが過ぎた後の事である。個の頃に漱石の側に居た医師は長與胃腸病院の杉本副院長と、週に一度だけ東京から修善寺を訪れ、漱石を診に来ていた宮本叔の二人であった。この時に二人の医師の見立てが同じなら、叔から漱石に東京へ戻る予定を話して良いのでは、と既に了解していた事であった。
「やっと、東京に戻れると言う事ですか」
漱石はそう言うと、嬉しそうに笑った。
「杉本先生とも見立てはほぼ同じですが、だいぶ落ち着いて来ましたし、まぁ何事もなければ、あと二十日からひと月程でと考えています。東京に戻られたら、一度は長與病院で精密検査を受けてもらわねばと思いますがね」
側にいた妻の鏡子も、叔の言葉を聞いて思わず涙ぐんでいた。

 この時の漱石には、七人の子供達がいた。十一歳の長女を頭に、九歳の次女、七歳の三女、五歳の四女、そして三歳の長男と一歳の次男、更に五女となる三ヶ月の赤子である。しかもそれぞれが年子にもならず、三ヶ月の末娘以外、一年ずつの期間をあけて生まれた子供達である。尤も漱石が修善寺に来たのは療養に来ていた訳で、子供達は東京に置いて来ていたから一緒に来ていたら、さぞかし大変な状況になっていた筈であった。

 叔は診察を終えて聴診器を外しながら、快方に向っている漱石に話しかける事にした。
「しかし人生と云うものは、実に面白いものですな。私の兄も同じ内科の医者ですがね、貴方の友人の正岡子規と云う方が吐血した時、その病の往診に出かけて診察をしておりましてね。それ以来ずっと主治医をしておりました。お陰でこの私も子規さんから俳句を学び始めましたよ、しかも鼠禅と云う俳号まで戴きました。その俳号を戴いた理由が実に面白い。私の鼻の下のこの髭がね、鼠の髭に似ているからだと言うのです。子規さんは実に旨い事をいいますなぁ。
それにこれはまぁ全くの偶然なのでしょうが、私も夏目さんと同じ齢でね、誕生日も同じ慶応三年の一月五日に生まれているのですよ。しかも私も後妻の子供です」

 最後の話は言葉に出して言うべき内容ではないが、漱石も確か後妻の子供で、二人の異母姉が居た筈だと叔は思ったからだ。叔も自分は後妻の子供で、めぐり合わせと云うのか、叔は何か不思議な縁を感じたのである。
「ほぅ、それは又奇遇ですなぁ、いや驚きました。正岡の病気を診て戴いたのは、そうですか、先生の兄上だったのですか・・・」
漱石は驚いた様に叔を見た。そしてこの偶然の様な話に、寧ろ戸惑っている様でもあった。
「兄は神田の日本新聞の隣で医院を開業しておりましたからね。社主の陸羯南さんとは親しい間柄だった様ですよ」
だが流石に叔は、この時に子規の最後を看取ったのが兄だった、とは言えなかった。
 
 一方でこの頃、漱石の主治医だった長與院長の具合が、酷く思わしくない状況にあった。東京へ至急戻る様にと指示を受けた杉本副院長は、新たに派遣された医師に交代すると東京へと戻って行った。九月に入ると顔色も幾分良くなった漱石は、吐血する事も無く快方に向っていた。その漱石とは反対に九月の七日、漱石の主治医でもある長與稱吉院長の亡くなった知らせが届いたのである。漱石がそれを知らされたのは少し後の、東京の長與病院に再入院した十月十二日の事であった。そして叔と夏目漱石の関係は、この時で途絶えたのである。

 ここで余談ではあるが、医学の世界でも巷の世界と同じ様に、金や権力或いは師弟や門閥などと云う、しがらみと欲望に固く結びついた話がある。
漱石の主治医であった長與又郎の父は、医学界の重鎮とも言われた長與専斎である。専斎は若い頃に緒方洪庵が開いた適塾で、塾頭を任された福沢諭吉の後を継ぎ、次の塾頭を任された人で漢方医の家に生まれている。
専斎はその後に大村藩の侍医となり、後に長崎で蘭医のポンペなどから西洋医学を学び、上京すると文部省丞となって岩倉遣欧使節に随行。西欧の医学教育を視察し後に文部省医務局長、内務省衛生局長など経た、わが国の医療衛生の先駆者であった。この専斎の長男である稱吉が、明治十七年にドイツ留学の後で、胃腸専門の病院を創ったのが長與胃腸病院である。

 又、稱吉の弟で三男の又郎は昭和九年からの十三年までの四年間、東京帝国大学の十二代の総長として知られている。しかし昭和十五年、つまり又郎が亡くなる前年の総長退任後に、総長時代から接点のあった石井四郎の率いるハルビンの細菌部隊、所謂七三一部隊を訪問していたのだ。しかも長與又郎自身の日記にその時の事が記されている。
「石井大佐の案内で事業一般を見学。水炊きの饗応を受く」この日の日記には、東京帝国大学から細菌部隊に赴任した研究者六名の名前が記載されている。

 特に医学者が金と権力に結びついた時、本来は人間を救う為の医学の研究が、研究の為に人を殺すと云う本末転倒の出来事を起こす。その根底にあるのは、ゆがんだ憎しみを利用して利益に結びつける、国家と云う名前の欲望を膨らませた力である。彼等は敵だから人間ではない、だから殺しても構わないとする、常軌を逸した論理がまかり通るのである。それは殺さなければ殺されるとする、兵士の戦争に対する思考よりも更に身勝手な、自己中心的な論理が嘗ての医学者の中に持ち込まれたのだ。何故ならこの医学者達は決して自らの死と、殺す相手の死を対等には考えていない。寧ろ相手の自由と意志を完全に奪い、抵抗の出来ない中で自らの目的を達成しようとする、サデスティックな残虐性を持っている。

 しかも医学者は自らの研究の為と称し稚拙な正当性を構築しながら、極めて公然と勝手に相手の命を切り刻み奪って行くのである。研究の為とは言え自らの名声を得たいが為の、私利私欲をも含んだ極めて個人的な、権力の影に隠れてしか出来ない歪んだ動機ではないだろうか。
更に云えば自らが行った事を、白日の許に晒される事を嫌うのだから、どこかに犯罪の臭いや後ろめたさを苛まれているのだ。日本人の我々は遠い時代から、まるで臭い物には蓋をする様な、水に流して無かった事にする事が出来ると思い込む国民性を持っている。それ故に幾度も同じ過ちを繰り返す、懲りない資質を持つ民族だとも言える。その例として言えば医学界の体質、つまり師弟と云う絶対的な間係である。そしてこの事件も、その要素が大きく物を言っていたのだ。

 九三一部隊を創設した石井四郎は、茨城県山武郡芝山町で生まれ育ち、千葉中学から金沢四高を経て大正九年(一九二一)に、京都帝国大学の医学部を卒業した。卒業すると陸軍軍医候補生として志願。翌年には陸軍軍医中尉となり、東京第一陸軍病院に軍医として勤務。大正十三年から大正十五年まで、京都帝国大学大学院生として細菌学、衛生学、病理学を研究。その最中の大正十四年には陸軍軍医大尉に昇進している。昭和二年(一九二七)六月には博士号を取得し、京都衛生病院に勤務する。そしてこの年に京都帝国大学総長 荒木寅三郎の娘である清子と結婚した。
その後の石井の足跡は、医学者としての学問や研究よりも軍人として、人間を殺す事に重きを置いた研究が中心になってゆく。昭和六年(一九三一)には陸軍軍医少佐に昇進すると、陸軍軍医学校教官に任命される。そしてこの頃から細菌を戦争に用いる方法を研究して行く事になる。

 大正十四年に「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれ等に類するガス、及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」、つまり同じ年の一九二五年に定められたジュネーブ議定書は、第一次世界大戦の時にドイツによって、初めて近代的な化学兵器が使用された事から、その残酷さと影響の深刻さを憂慮した先進国のフランスが提唱した。ポーランドからは更に生物兵器を対象に加える事が提案されたのである。しかしこの議定書は化学兵器の「使用」のみ制限するもので、開発や生産、更に保有が制限された訳では無かった。

 この議定書は日本、アメリカそれにブラジルなど一九二五年に署名したが、第二次世界大戦前には批准してはおらず、ここに目を付けたのが石井であった。昭和七年(一九三二)四月に石井は、陸軍軍医学校防疫部の地下室に防疫研究室を設立した。しかもこの頃の石井は、かなりの金を稼いでいる。石井式細菌培養缶を開発し、特許を申請し翌年に認められている。更には石井式濾水器、つまり汚水や河川の水を飲料可能な水に変える濾過装置を考案した事で、石井はメーカーと組んで陸軍に使用を申請、しかも大量の濾過器をメーカーに発注し、その利益をメーカーから受け取っていたのである。

 だが問題の本質は賄賂の話では無い。関東軍が捕らえた中国人や満州人などを、この細菌兵器防衛研究所で人体実験が行われていた事実が判明したのである。以前は確たる証拠が無いと言われて来た七三一部隊の人体実験は、作家の森村誠一氏が精力的に取材し、ノンフィクション『悪魔の飽食』と題して発表した。しかも原稿を持ち込んだ出版社は、内容が余りにも残酷な為、広く国民に読まれる事は難しいと推測した様だ。しかも一般のメデアが最初に刊行するには、余りにもリスクが大きすぎたのであろう。どこの出版社も辞退した様である。
しかし原稿の発表の場を最初に与えたのは、日本共産党機関紙の「日刊しんぶん赤旗」であった。そこに掲載された事から、初めて世間に広く知られる様になった事件である。

 特に過去に起きた厭な事は何時までも抱える事をせず、全て水に流す事の出来るのが日本民族の資質である。既に述べてはいるたが、喉元過ぎれば熱さ忘れるとか、人の噂も七十九日とか様々な諺を生み出した様に、痛みや哀しみから目を逸らし自らを癒して来た。しかもこれまでは事実を示す資料は殆ど無く、関係者からの発言は極めて少なかった。それ故に右翼から森村誠一氏に対する妨害は、相当な物であった様である。

 それはともかく昭和七年(一九三二)八月に、石井は細菌兵器防衛研究所をハルビン市背陰河の東方二十キロの場所に建設を開始した。機密を保持する為に二階建ての研究棟を四角に繋ぎ、人体実験に使う捕虜を入れる建物を中央の中庭に作り、外部の目線からそれを隠した。空から見れば日と云う文字の形になるだろうが、横から見れば四方に繋がる建物で、中庭に建つ建物が何かは、伺い知る事は出来ない作りである。
一九三六年に施設は東郷部隊の暗号名が付けられ、以降の石井は東郷とする暗号名を使うのである。この東郷部隊が結成された翌年七月には、盧溝橋事件を皮切りにして日中戦争が勃発した。中国軍の烈しい抵抗で日本軍側にも多くの犠牲者が出て来た。日本軍は中国人らを匪賊と呼び、掃討作戦を行なうのである。国民向けには日本人が犠牲になった事を殊更に大きく伝え、中国人への憎しみを煽る為のプロパガンダは常であった。
とは言え戦争の相手である敵国に対し、同情など一切必要としないのが戦争でもある。あの日本人同士が戦った戊辰戦争でさえ、醜いほどの残虐性を戦争は人間の中から引き出してしまうのだ。

 当事の厚生省が主催する研究会の発行した冊子が、北海道大学から発見されている。内容は染色体を研究する大学教授の、講演した内容が掲載された冊子である。そこには満州の匪賊を生きたまま、研究材料にした事が公に語られていた。日本の世論は匪賊に対する敵意を、日を追う毎に高まらせていたのだ。講演した教授は匪賊が人間を殺すならば、その匪賊を材料にしてみればと思いついたと言う。
「死んだ者は絶対駄目である。染色体の状態が著しく悪くなる。匪賊一人を犠牲にした事は、決して無意義ではありません。これほど立派な材料は、従来断じてないと言う事だけは出来ます」と、大学教授は自らの行為を誇らしげに語っている。

 昭和十六年(一九三九)に石井四郎は陸軍軍医少将に昇進した。ノモンハン事件が起き野戦防疫給水部長として出動し、そこで細菌戦を実践に取り入れた。石井部隊の防疫成果が関東軍に認められた事からの昇進であった。
一般にエリートとは、選び抜かれた優れた者の事だと思うが、医者の全てが選ばれた者だとは言いがたい。中には医者の立場を利用し、個人的な野心や利益に結びつける輩が、後を絶たない現実がある。それに選んだとは言っても、紙の上での成績から選択されただけで、運転免許証も免許の試験が受かれば、選ばれた人になれる。人間として立派かどうか、それは全くの別問題の事なのである。

 平成二十九年八月十三日、NHKスペシャル『七三一部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』がテレビで放送された。旧ソ連に保存されていた事件の関係者の肉声を、二十二時間にも亘って録音したテープが発見されたのである。生きたまま人体実験によって殺されたのは、マルタと呼ばれる捕虜で三千人にのぼると、日本人の関係者はソ連での軍事裁判で告白している。更に京都帝国大学や東京帝国大学・慶応義塾大学など、十の大学や研究機関の医学者達が人体実験を主導していたと、自らの実験を語るそれは肉声であった。しかも彼等は技師と呼ばれ、何れも敗戦で逃げ遅れ、ソ連に捕虜となった七三一部隊に所属していた研究者達である。
同じ研究者の殆どは敗戦と同時に日本へと逃げ延び、自らの過去を都合良く消し去り生きていった様である。もっとも七三一部隊の戦友会が、戦後に纏めた名簿が現存して居る。更には彼等が発表した論文からも、これらの技師の名前を洗い出していたのである。

 その中でも京都帝国大学医学部助教授の田部井 和は、チフス菌を万頭(饅頭)の食べ物に入れて、通称マルタと呼ばれる捕虜に食べさせていた。その数は数千個である。隔離した部屋に捕虜を閉じ込め、ペスト菌を持つ蚤を放して感染させる実験も行っていた。凍傷研究者の京都帝国大学講師の吉村寿人は、極寒の中で縛られたマルタの手足の指を、わざわざ凍傷させて腐らせるなど、夫々が学んだ医学の専門分野で、中国人や満州人の生体を使った様々な実験を行なっていた。マルタの多くはスパイであり、女や子供もその中にいたと言うのである。
愛国心が少しでもある国民ならば、侵略した敵に対してその目論みを妨害し、味方に見聞きした事を告げるのは当然な行為だ。仮に日本国内に侵略して来た外国軍に対して、無関心である国民がいたのなら、それこそ国家としての体をなさない。占領すれば全てが占領した国の、軍隊のものなると考える事こそ、手前勝手な言い分であるだろう。

 しかし彼等医学者の言い訳は、逆スパイの可能性があるとみるや捕らえて隔離し、密かに人体実験に供されたのである。しかもマルタの死体の処理は、全て燃やし骨は砕いて畑に撒いたと、十四歳で隊が所有する飛行機の、整備士として入隊した、当事は少年隊員だった三武氏は述べている。
知られては困るとする自覚が、証拠を残さない様な行動に現れている事から、うしろめたい罪の意識が多少あったのであろう。そしてチフス菌を入れた砲弾が作られ、関東軍は実戦に使用したとも述べているのだ。

 医学者の吉村寿人は関東軍の兵士を凍傷から守る為だと言い、軍からの依頼で人体実験を行なった動機を、直属の教授の命令には、あがなえなかったと回想している。
「軍の方とは既に約束済みの様子であった。先生(田部井教授)は突然に満州の陸軍の技術援助をせよと命令された。折角熱を上げて来た自分の研究を捨てる事は、身を切られる程つらいことであるから、私は即座に断った。ところが先生は今の日本の現状から、これを断るのはもっての外である。もし軍に入らねば破門するから出てゆけ、と言われた」
京都帝国大学総長の娘を嫁に貰った石井の、暗黙の上に張り巡らされた学内の権力を、同じ京都帝国大学の教教授達に使う事になる。

 しかも石井は自らの肉親でもある兄を、軍属として自らの部隊に嘱託として雇い入れ、特別班の班長としての役割を与え、マルタと呼ばれた人体実験に用いる捕虜を管理させていた。更にこの発見されたテープに残された供述などから、七三一部隊と大学との間には細菌研究の報酬として、京都帝国大学の医学部助教授の田部井 和に対し、現在の金額で五百万円程が支払われていたのだ。そしてこの時期に京都帝国大から医学者七名が、石井の七三一部隊に送られているのである。研究者を七三一部隊に送ったのは、石井の母校である京都帝大医学部長の戸田正三である。
その戸田正三は後に昭和二十四年(一九四九)に設立された、国立金沢大学の初代学長になっているのである。ソ連が満州に侵攻し敗戦を迎えてから四年後の事で、戸田は「医学者も国の満州進出に貢献すべきである」として、九三一部隊へと研究者を送り込み、積極的に戦争に自らの医学的研究を持って、人体実験に協力していた人物である。
更に戸田は軍から多額の研究費を受け取っている。防寒服の研究で当事の金で八千円、軍の進出先での衛生状態の研究で七千円など、現在の額で言えば総額二億五千万円の金が、軍から研究費と云う名目で幾つかの研究機関に支払われていたのだ。その金は当然だが、全て我々の父や母が払った国民の税金なのである。

 不快な医学関係者の話はこの位にして、話を元に戻そう。
漱石は後になって修善寺での出来事を振り返り、周囲の多くの人達に迷惑を掛けた事を反省し、「生き延びた自分だけ頭に置かず、命の綱を踏み外した人の有り様も思い浮かべ、幸福な自分と照らし合わせてみなければ、我が有り方も人の気の毒さも分らないだろう」と語っている。
だがこの大患以後の漱石と病との関わりは、随分と頻繁だった様である。大患の翌年となる明冶四十四年(一九一一)の八月には、関西の各地を公演した後で又も胃潰瘍を再発し、大阪の湯川胃腸病院に入院した。更に九月に帰京すると今度は神田錦町の佐藤医院で痔の手術を行い、翌年の春まで通院の日が続く。

 更にその翌年の明冶四十五年、つまり大正元年(一九一二)三月には胃の具合が悪くなり、神経も苛立つ日が増え始めた。そして九月になると痔の再手術で、神田の佐藤病院に再入院する事となる。翌年の大正二年(一九一三)には正月から神経衰弱が再発し、これは六月まで症状が続いた。その途中の三月末には胃潰瘍が再発して、これは五月下旬まで自宅で病臥。大正三年(一九一四)の九月中旬には四度目の胃潰瘍を発病すると、ひと月程を病臥の日々となった。更に翌年の大正四年(一九一五)四十八歳になると、三月下旬には京都で胃腸が悪化して寝込んでしまい、この最中に異母姉のふさの死去を知ったのである。そして更に十二月の末に今度は、リュウマチで腕の痛みに悩む日々が続いて行った。
 
 翌年の大正五年(一九一六)一月には、そのリュウマチ治療の為に湯河原に二月中旬まで転地療養した。ところが四月に嘗て愛媛の尋常中学の教え子であった真鍋嘉一郎が、医者になっていた事を知り診察を受けると、リュウマチではなく糖尿病との診断を受けたのである。この為に七月上旬まで治療を続けるのだが、その間も胃の具合が更に悪くなり、ついに十一月になって胃潰瘍が再発し、症状は急激に悪化しはじめた。この時に又も診察を真鍋嘉一郎に頼むのだが、十一月二十八日と十二月二日に大量の内出血を起こし絶対安静、面会謝絶となり八日には絶望状態となると、翌日の九日に漱石は死去したのである。

 後から漱石が亡くなった事を聞いた叔は、その病の経緯を長與胃腸病院から取り寄せて見た。毎年の様に漱石の病歴は、短くてもひと月程の期間を入院すると言う病気(やまい)ばかりである。しかも聴けば売薬を買って飲み、しかもあちこちで病気を発症し、その度に近くの病院に入院しては又退院すると云う繰り返しであった。
特に主治医の長與院長が亡くなった事は、漱石にとっても病を野放しにしてしまった感があった。患者にとっての主治医とは、初めから最後まで患者の罹った病の歴史(病歴)を知る医者の事であるからだ。四十九歳で亡くなったと聞いて叔はこの時、あぁ自分も四十九歳になっていたのだ、と自らの生き様を思い返したのである。この年の九月は、甥っ子の璋が帝大の医学部に入学出来たと知らせて来た年であった。

 翌々年の大正七年(一九一八)、叔は東京大学医学部の教授に推薦された。五十一歳の時である。かなり長い期間を助教授として過ごしたのだが、そうした肩書きに余り関心は無かった。宮本家の血筋が元々名声を求める様な、その為に向けて努力をする様な家系ではない様である。義兄の仲にしても従兄弟の璋にしても、どこかおっとりして、ガツガツとした所が極めて薄い様に思える。
叔はこの頃、東京大学医学部の教授と共に、伝染病病院として知られた駒込病院の院長を十七年間も兼務していた。腸チフス・赤痢・ジフテリア・流行性脳脊髄膜炎・猩紅熱・パラチフス・発疹チフス・疱瘡・コレラなど、多様な伝染病を迎え撃つ、駒込病院は東京府の最前線の基地でもあった。だが翌年の大正八年十月二十五日に、東京の自宅で叔は急な病で没したのである。その死の翌年の大正九年、叔の号となる遺稿集『鼠禅句集』が編まれている。子規がその髭を見て号を付けたと言う程に、まさにその口髭は鼠の髭に似ている、と周囲の人達からも言われたと言う。
                                   (了)
  
   
 戦国時代から現代に至るまで十数代程続いている宮本家の人々の遺伝子が、特別に秀でていたかどうかなど、当の宮本家の血筋を持つ人々は気にも留める事など無いのだと、取材をするなかで感じたり関係者から伺う事が多かった気がする。
ただ当たり前の様に新たな知識を自らが学び、学びたい者にはそれを丁寧に教える。その事を代々に亘って続けて来た一族である。そして江戸時代の末に佐久間象山と出遭った事から、多くの学問と共に新たな世界の存在を教えられ、知識の必要性をも学び優れた相手には尊敬の想いを育んだ事は確かな事の様だ。
ここで言う尊敬とは、言い換えれば少しでも相手に近づきたいとする、自らの中に強い願望を育てる事でもある。その想いを宮本家の人々はどれ程に持ち続け、
どれ程多くの者達に伝え続けて来た事だろうか。特に慎助や仲などが人生の中で持ち続けた想いには、象山の言葉や信念が未来を指し示していた筈である。
所謂、遺伝子がミーシャによって発見された一八六九年(明治二年)、日本は戊辰戦争から続いた戦いが函館戦争で終結した年で、宮本家の遺伝子を引き継いだ人々は新たな時代に飛び出し、自らが学び教え伝えると言う遺伝子に残されたその記憶が消える事はなかった様だ。

 十代目となる宮本慎助の長女「かめ」の末裔となる小林啓二氏から、突然筆者にメールを頂いた時である。その名前である啓二の啓は、佐久間象山の幼名である啓之助、とするその名前から頂いたと教えて貰った。無論だが小林啓二氏も東京大学の理学部の名誉教授であり、宮本家の人々が持ち続けた遺伝子の特徴を確かにお持ちであった。



                      
 あとがき  

 歴史学者の磯田道史氏が執筆された、『武士の家計簿』を丁度読み終えた頃だったと思う。その文章の中で「江戸時代の封建制の仕組みに風穴を開けたのは、算学を自らの知識として手に入れ、藩の経営に関わった人々であった」とした様な一文が、それまで持っていた疑問に対する、的確な回答を得た様に私には思えた。卑しくも武士が十露盤など、と云う建前が何よりも優先していた武士の世界、本音はひた隠しに隠しておくべき時代だったのである。
一方の税を求められる側にすれば、田畑から生産されるでもあろう収穫量を算出するのに、或いはその収穫量から税が幾ら取り上げられるのか、判らないままででは済まされない。読み書きは勿論だが、算術は百姓に於いても必須の知識であった。特に江戸時代の算学とは十露盤を使っての計算である。それを教える者の存在こそが、教えられる側の暮らし向きを引き上げる重要な役割を果たしていたと言えるだろう。
松代の宝物館で宮本家文書の家系図を拝見させて頂いた時、初代から続く三百七十年にも及ぶ一族の遺伝子は、千曲川沿いにある善光寺平の荒地を開墾し、その地に作った寺子屋で代々に亘って人々に学問を教える、師匠と呼ばれる存在によって磨かれ続けた様だ。絶えず周囲の人々に新たな知識を伝える為、自らも新たな知識を探求する中で、それが暮らしの糧であるにしてもそれだけでは片付けられない、代々探求心を磨き続けた人々の存在を知ったのである。

 しかも彼等は単に頭脳だけが良いと云うだけではなく、幾代にも亘って様々な周囲の人々からの影響を受け、その影響を同様に周囲の人々に及ぼしている事である。それ故にこの秀でた遺伝子を持つに至った経緯を探ると、一つの事実を触れる事が出来る。つまり秀でた遺伝子を育てて来た根底には、夫々に尊敬する師とも言うべき相手を得た事であり、自らを高める意味を持つものだったと云う事でもある。無論だが吉田松陰の様に、師には恵まれなかった人間もいる。とりわけ父親の徹底した一つの考えを鵜呑みにした結果が、そもそも子供の成長を妨げてしまった原因でもあっただろう。
宮本家の人々に関して言えば、特に時代が大きく変わる江戸末期から明治にかけて、見事に乗り切ったのは算学を一族の柱として取り入れて来た結果であった。しかも慎助に影響を与え続けた、佐久間象山との関係でもあるだろう。更に言えば学問で暮らしの糧を得る為に医者へと志を決めた、仲の強い意志でもあった様に思う。
学ぶ事を苦としない、寧ろ知らない事を知りたいと願う好奇心と探求心が、宮本家一族の人々の中に育てられている事を知るのである。それは又、同じ様な多くの著名な人々と出会い、影響を受け或いは相手に与え続けてゆくと言う、秀でた遺伝子が生まれ育てられた背景でもあるだろう。

 宮本家の人々の存在を知る以前に、葛飾北斎の研究をしていた私は、北斎の描いた日新除魔図二百枚余りが、この宮本家から発見され重要文化財に指定されている事に、宮本家と北斎の関係を紐解く事に夢中になった。しかもその最中に北斎の描いた富士越龍には、佐久間象山の賛が入った大幅の墨画があった事を知り、ますますその疑問へとのめり込んだのだ。
こうしてその関係を調べて行く中で、偶々小布施にある穀屋の店先で象山の書を見た事から、北斎と小布施の高井鴻山や穀屋、更に松代の勘定方に勤めていた宮本慎助と、佐久間象山の関係を追う事になったのである。
中でも宮本慎助の息子となる丑五郎の初節句に、高井鴻山と象山が示し合わせ贈ったのは、鴻山が描いた画に象山は賛を添えた一幅である。その賛の意味は後々に、宮本家の家訓となるものであった。この一幅は現在も行方は明らかでは無いが、仲の著書『佐久間象山』にもこの一幅の事は記載されている。こうして見ると象山や鴻山、慎助などが如何に懇意な関係にあったかが理解出来る。
こうして私は北信濃に生きた、宮本家や佐久間象山、小布施の穀屋などの関係を追い求め始めた翌年、出版社の藝華書院より『北斎娘 応為栄女集』が刊行され、聞き及んでいた北斎の富士越龍図に象山の賛が入った大幅の画を、初めて写真で見る事が出来たのである。
  
この時から夫々の関係と共に、私の中に湧いた疑問の数々を解き明かそうと、北信濃と静岡の往復が始まった。それから三年、関係する方々の話や、集めた資料を基に、やっと一つの見解として文章にすることが出来た。
詳しくは宮本家と小野家に続く系図を見て戴ければ、慎助の長女である「かめ」に繋がる小野家・小林家の事や、慎助の後妻となり前妻が残した六人の子供達を育て、尚且つ叔氏を育てあげた西澤たかの身元も、その父や祖父の名も孫となる宮本真氏のお陰で判明した。
未だ不十分ではあるものの、一応の結果を残す事が出来たのは、多くの関係者のお力添えを戴いたお陰であり、心よりお礼を申上げたいと思う。
特にこの書を書き上げるにあたり、宮本家の資料を後々の研究者の為にと整理された資料を閲覧させて頂き、長野県松代の真田宝物館の山中様には、幾度もご便宜を戴き大変お世話になった。膨大な宮本家文書を整理され、研究者に遺して頂いた同館の北村様が、既に他界していたとも知らず宝物館を訪れた私に、ご指導と共に多くの資料を閲覧させて頂いた事に、感謝の気持ちをここに残したいと思う。

 既にその折か四年が過ぎ、宮本家の人々の歴史を纏める事が出来たのだが、わけても前橋の村上徹先生には、先生の書かれた文章の一部を転記させて戴く事が出来た。特に宮本璋教授と教え子の学生だった関係を伺いたく、村上先生のご自宅に御伺いした時は、まさに師であった宮本璋先生を心から尊敬し、東京医科歯科大学で直接に学ばれた村上先生の話から、当然だが璋氏を存じ上げない私には、何故か璋氏ご本人からお話を伺っている様な錯覚さえ覚えた。
しかもご高齢の病み上がりの村上先生は何と、この物語の校正をもお申し出頂き、甘えついでに上巻をお願いしてしまったが、感謝と尊敬の思いを込めて御礼を申上げたい。
何れにしても璋氏が東京医科歯科大学にて御活躍された時代のお話を伺う事が出来たこと、誠に感謝に堪えなかったのは、良くぞ璋氏の事を書き残して戴いた事である。そしてこの物語を書き進める中で、どれ程に村上先生のお人柄に私は畏敬の念を感じた事か、振り返れば心が洗われた思いがする。
恐らく尊敬する方を心に持ち続ける意味とは、憧れと畏敬の念を持つ事から始まることを、無意味に自らの年齢を重ねたこの時、改めて気付いた次第であった。更に人を尊敬する事が出来る者は、他人からも尊敬出来る者になれる事を、初めて理解出来た次第でお恥ずかしい限りである。 
村上先生には何時までもお元気で、益々執筆活動に邁進される様、心よりご活躍をお祈りしたいと思うのだが、声も出ない村上先生は病の床で静養中である。お体の回復を願うばかりである。

又この書を書くにあたって、宮本家十代目宮本慎助の長女「かめ」、後に名前を「邦」として小野家に嫁いだ慎助の血筋を引く、東京大学理学部名誉教授でもある小林啓二氏には、小野家の系譜をお送りいただき心から感謝したい。更に同じ慎助の後妻となる西澤「たか」のご子息で、東京帝国大学医学部教授の宮本叔先生の末裔となる宮本真氏にも、多大なお力添えを戴いた事、再度ここに記して感謝の気持をお伝えしたい。
併せて長野県立歴史館学芸部の青木様には、資料のご案内を戴き感謝致します。小布施の高井鴻山記念の金子館長様には、北斎と小布施、そして高井鴻山のお話を戴き、有難う御座いました。国立民俗学博物館図書室の稲野様には、敬三氏の資料の提供に感謝致します。富士宮市立図書館の皆様には、遠方への図書借り入れから問い合わせの手続きなど、大変お世話になりました。謹んで御礼申上げます。
最後になりますが、ご一読頂きました読者の皆様には拙い文章をお付き合い頂き、誠に有難く思う次第で、感謝の気持ちで一杯です。心より御礼申上げます。
又自ら校正した為、誤字脱字など至らない点が多々あるかとは思いますが、何卒お許し下さい。


2019/6/3 梅原 逞 

評伝 『秀(ひい)でた遺伝子』  -佐久間象山と宮本家の人々- 《下巻》 

評伝「秀でた遺伝子」を書き上げ、稚拙な文章ではあったが、何とか纏められたと思う。しかも宮本家の人々に関わる物夫々多くの人々の物語は、未だ未だ捜せば多くが埋もれたままである。先だって雑司が谷の宮本叔先生の墓にお参りをした後で、先生の子孫にあたる方と連絡を取る事が出来た。慎江戸時代末期に松代藩の勘定方に勤める宮本慎助と、再婚した「西沢たか」の事を何とか知りたいと思ったからだ。
「たか」は先妻を突然に亡くし六人の幼い子供達を抱えた、慎助の後妻として宮本家に嫁いだ女性である。その「たか」と言う女性が一体何処で生まれ、何時亡くなったのか、そしてどの様な人生を送られたのか、父親は誰なのか是非とも知りたいと願ったからだ。しかし叔の孫でもあるその方は、曾祖母となる「たか」の事はご存知ないと言う。
そうなのだ、母や祖母迄あたりなら墓参りにでも行くのだろうが、時代が太平洋戦争を経た今の時代、兄弟などの横の繋がりは希薄になり、墓参りすら遠のいてしまい、亡くなった人の事より生きている者を優先する時代である。しかし戸籍などを調べて、分れば連絡を下さるとの事で、私はそれを待ち続ける事にした。
ところで遺伝子と言う血筋は我々の想像以上に、曖昧さの無い仕組みでもある様だ。
あと百年もすれば宮本家の人々の様な秀でた遺伝子も、或いは高値で取引がされる時代になるのかもしれない。と冗談はさて置き、「たか」の事を調べてくれた叔先生のお孫さんにあたる方は、曾祖母の「たか」を探し出すのにだいぶ苦労された様だ。まずは自らの立場を証明する為、住いのある役所に出向き、更に本籍地のある長野市役所に出かけ、松代の宝物館に出向くなど半年以上の時間を掛け、「たか」の身元を探し出して連絡を頂いたのである。
そうして関係する多くの方々のお力添えを戴き、やっと一つの秀でた遺伝子が350年余りの時代を遡り、秀でた理由を現代の我々に語りかけてくれたのだ。彼等が持ち続け、育て上げた資質とは私に言わせれば、知らない事を知りたいとする強い好奇心と探求心であった様に思う。
多くの尊敬する人々に囲まれ、自らの夢を追い求めた事だった。それがやがて尊敬される事へと繋がり、周囲を包み込んでゆくのである。素晴らしい遺伝子を持つ人々との出会いは、少なくとも自らをも高めてもらえた様にも思える。

評伝 『秀(ひい)でた遺伝子』  -佐久間象山と宮本家の人々- 《下巻》 

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted