評伝 『秀(ひい)でた遺伝子』 -佐久間象山と宮本家の人々- 《中巻》 

『 秀(ひい)でた遺伝子 』  《中巻》    梅原 逞 著
=評伝・佐久間象山と宮本家の人々=


十三、    長女菖蒲(あやめ)の死
十四、    次席家老の用事
十五、    二百枚の墨画『日新除魔図』
十六、    北斎の頼み事と善光寺地震
十七、    犀川の決壊と『富士越龍図』
十八、    『望岳賦』
十九、    五月塾の門人たち
二十、    夜明けの号砲
二十一、   吉田寅次郎の決意
二十二、   密航から蟄居へ
二十三、   地震と津波
二十四、   松代を訪れた高杉晋作
二十五、   桜賦と開国
二十六、   訊ねて来た青年 


十三、菖蒲(あやめ)の死

 蘭方医の黒川良安からは蘭語(オランダ語)の教えを受け、象山の方は良安に対して儒学や朱子学を講義すると言う、所謂、交換授業が始まったのは天保十五年(一八四四)六月の事である。(この年の十二月には、弘化元年と改元され、弘化元年はひと月で弘化二年となる)
だが翌月の七月には象山の都合から、この交換授業が一時中断の憂き目に遭う事となった。郡中横目付としての御役目を象山は突然に藩から命じられ、しかも松代藩領内の視察に出かける事を求められたからである。この藩命の為に象山が江戸を発ち松代へと戻り、更に藩内の領地である北信濃の視察に向かったのは七月も末の事であった。

 従者の者達を連れ松代から筑摩川を下る川舟を使い、象山は越後との国境へと向かったのだ。この時に象山は母親の『まん』から言われた、「何時も使う味噌が、切れてしまった」と言われた言葉を思い出した。味噌は父の代から小布施の穀屋で作る味噌を使っていた。樽で買い求める信州味噌は、象山の幼い頃から口に馴染んだ故郷の味で、特に領内を廻り歩くには必需品でもあった。
小布施村は嘗て幕府の陣屋が置かれていた所で、幕府から藩が預かる所謂預地でもあった。そして穀屋はその小布施村で味噌や醤油などを作り、遠く江戸や上方にまで商の手を広げている店である。しかも店の主人である小山平左衛門は、象山から漢詩の手解きを受けている門人でもあった。穀屋は小布施村の越後に続く脇街道沿いにあり、筑摩川を越後へと下る途中の山王島の船着場からは、歩いて五丁(約五百メートル)程の距離である。象山は思い出した様に、供の者へ舟を山王島の渡し場に着けるよう命じた。せめて故郷に戻っている時は、食べ慣れた穀屋の味噌を食したいと思ったのである。

 ところが味噌を求めに立ち寄った穀屋の店先で、象山は初めて町絵師の葛飾北斎と出会う事となる。(尤もこの二人の出会いは、歴史的な史実として記録に残されている訳では無い。しかし二人がこの時に出遭うことが無ければ、後々つじつまの合わなくなる事が発生するからである。言い方を換えれば、この時に二人が出会っていたとすると、後に起きる出来事が全て腑に落ちる事になる)

 北斎が祇園祭り屋台の天井画を描く為、二度目に小布施村を訪ねたのは天保十五年の事で、のちに改元されて弘化元年(一八四四年)となる四月の事である。この時は門人の為斎や娘の阿栄も一緒の訪問であり、江戸に戻るまでの数ヶ月間、阿栄は店主小山平左衛門が営む穀屋の二階に間借をしていた。半年ほどの逗留ではあるものの、近在の画を学びたいとする者達に画を教えるためである。しかも象山の漢詩の門人でもある小山平左衛門は、小布施村の高井鴻山とも懇意にして居る関係から、穀屋平左衛門は佐久間象山、葛飾北斎、高井鴻山の三人を結びつける、カギとなる人物であった。

 所でこの後に起きる出来事の経緯は又詳しく書く事にするが、一言で言えば北斎の落款が入った大幅の墨画に、象山が賛を書き入れていた画が残されているのである。しかもその墨画の題材は、あたかも象山の著した漢詩『望岳賦』の、最後の一文を画にしたものと理解出来るからである。
葛飾北斎が残した最後の傑作とも言われる、絹本に淡彩を施した『富士越龍図』(ふじこしのりゅうず)と比べ、その画の構図は殆ど同じである。異なるのは象山の賛が入った画は和紙に描かれた墨画である事と、その大きさの違いであった。和紙に描かれ賛が書かれた方は、絹本淡彩の『富士越龍図』の四倍以上、三尺×六尺の大きさ(久保田一洋著・北斎娘応為栄女集・藝華書院 二〇一五・四月刊行を参照)であった。まるでどちらかを拡大したのか、縮小でもしたかの様な画なのである。更に墨画の方は、象山の著した漢詩『望岳賦』の大きさと何故か同じ大きさでもあった。つまりどちらも掛け塾として床の間に用いる物ではなく、襖に貼り付ける為の大きさと見る事が出来る。

 象山から見れば北斎は単に高名な町絵師であり、浮世絵や美人画に関心が無ければ、縁もゆかりも無い相手である。一方の北斎にしても象山の漢詩『望岳賦』を目にすることが無ければ、関心を持つまでもない相手であった筈である。だがこの時に出会ったと考えられる事で、北斎が象山の漢詩『望岳賦』の末文から富嶽の画を連想して墨画を描き、後に象山がそこに賛を入れた一枚の墨画の謎が、徐々に解き明かされる事になる。
二人が遭遇したのは、象山の門人でもあった高井鴻山宅に北斎が滞在し、やっと祭り屋台の天井画を描き終えた時期でなければならない。象山が漢詩『望岳賦』を著し、昌平坂学問所の師でもある佐藤一斎から、当代一と評価された時期と重なるからである。更に言えば北斎との出会いは象山が松代に戻り郡中横目付として、藩の勤めで領内の視察に赴いた七月の末から八月初めの頃であったと推測されるのである。

 更に言えば一年前の冬に、初めて小布施の高井鴻山の許に逗留してから描き始めた二百枚ものこの『日新除魔図』も、後に佐久間象山の門人である宮本慎助宅から発見されるのである。しかも北斎が墨画の『富士越龍図』を、漢詩『望岳賦』と同じ襖一枚の、三尺×六尺大の大きな和紙に描いた理由と重ね合わせれば、浮かんでくるのはこの時以外、二人の接点は無いと言えるからである。
そしてこの大幅『富士越龍図』の描かれた時期は、象山が『望岳賦』を著した後でなければならないのだ。
北斎が『日新除魔図』を描いた少し後の頃であり、象山の賛が入れられている事からして、客からの注文で描いた画ではない事が分かる。何故なら墨画は絹本ではなく継ぎ目の無い、一枚の単なる越前和紙に描いている事から、他に使いようの無いものだからである。恐らくは鴻山の使っていた襖紙を貰い受け、望岳賦の末文を読んで直ぐに、鴻山宅で描いた事が理解出来るのだ。 
つまり北斎は描く前からこの大きさの紙を選び、売るでも無い富嶽を墨で描き、その強い動機こそが象山の漢詩『望岳賦』の横に、並べて観て貰いたいとする思いだけだったに違いない。

 しかも北斎の門人でもある高井鴻山が描く画は、何も妖怪図だけではない。寺社の門に飾る幟旗(のぼりはた)に揮毫(きごう)し奉納していたし、襖紙一杯に漢詩の書を著していることからも、十分に推測出来るのである。それ故、北斎は既に見ず知らずでは無い象山に対し、敢えて慎助を通じて富士越龍図に象山の画賛を求めたのである。後に墨画に書かれた画賛が象山の文字である事は、象山の研究家でもあり、最も象山を知る宮本仲の箱書きが残されている事から間違いないであろう。

 この頃に藩から象山に課せられた郡中横目付の御役目とは、幕府御預地である高井郡十二村や水内郡の四十二村を除く、領内更級郡の百十七村と埴科郡の二十六村、そして水内郡の百二村を見回り、郡内で起きている不正を探り出し、処分を決める監察的な仕事の部署である。
その為に郡内で行っている様々な藩の事業と、地域との関係を知らなければ何とも立ち行かない仕事でもあった。しかも資源の探索から山林の整備、更には災害や病虫害など農作物を見守る事や、新田開発から水利権の争い、果ては土地の調停や街道の補修工事など、横目付としての役目の中身は実に様々でもあったのだ。
中でも利害に関わる者達の争い事の種は、湧き出す様に次から次と生まれて来る。まさに見たくも触れたくも無い、実に下らない事の様に思えたのか、松代に戻ると新たな御役目をと、家老の矢澤監物に頼み込む事になるのである。

 それからひと月後の事である。今度は象山に対し三村御利用掛とした御役目を、新たに藩から申し渡される事になった。だが郡中横目付の御役目はそのまま解任される事も無く、御役目は後任の者が見つかるまでとして、家老から申し渡されたのである。
この象山が新たに就いたお役目の三村御利用掛とは、藩の北に繋がる越後国との国境、現代で言えば志賀高原と呼ばれる佐野村・沓野村・湯田中村の三つの村の事である。それ等の三村の特色を活かし藩の財政に貢献できる様、新たな殖産の方策を立てる事であり、領民の暮らし向きを更に向上させる様にと云う、藩の目論見がそこにあったと言える。
三十三歳となったこの年に象山には、松代藩内の山々を含む土地や自然を生かし、今度はより具体的な結果を求められる様になった。尤もその反面、新たなお役目は交換授業には好都合な話でもあった。十二月から四月の半年近くの日々は、この三村は全て雪の中に埋もれてしまうからである。

 御役目を終えた象山が江戸に戻ったのは、上州おろしの吹く十二月三日の事で、新たな年号が天保から弘化へと替えられた事を知ったのは、江戸に向う途中の高崎宿での事である。今年の五月に江戸城の大奥から、出火した事がその理由だと耳にしたのだ。その象山が江戸に戻ったこの年の暮れに、留守を預かっていたお蝶から、初めて身ごもっている事を知らされる事になった。 
象山にとっても、子をつくったのは初めての事であった。生まれて初めて自分の分身が出来た事の、その嬉しさを実感したのである。不意にもし男子なら是非とも佐久間家の跡継ぎに、との思いが浮かんで来るのだが、その喜びを押さえるかの様に象山は良安との約束通り、蘭学と朱子学を教え阿蘭陀語を教えてもらう交換授業を再開したのである。

 その交換授業が良安の都合で一段落したのは、翌年の弘化二年(一八四五)の二月半ばの事である。今度は良安が加賀藩の求めに応じ、藩医として加賀に赴く事が決まったからである。阿蘭陀語の授業は引き続いて良安の坪井塾から、代わりの人物を出して貰えると話は伝えられたが、象山は良安の知識の豊富さと、その人柄から松代藩で召抱える様にと、手紙で家老などを説得する事にしたのだ。しかし象山の求めも藩からの良い返事は貰えず、結局は徒労に終る事となった。
二月の末に良安は見送る象山に向かって手を上げると、故郷の越中に近い加賀の金沢へ向って江戸を発っていった。良安は象山より六歳程の年下である。しかしこの良安に対して象山は、何時も敬意を払って墨乙斯(メイス)と言う阿蘭陀語の単語を、最後の別れる時まで使い続けていた。この墨乙斯(メイス)と言う意味は、まさに先生と云う意味である。後にこの黒川良安は金沢に種痘所や診療所などを創設し、北陸の医療の祖とも言われ生涯を金沢で終えている。

 その後の象山は坪井信道や信道の弟子でもあった赤澤寛保、そして杉田玄白の孫となる杉田成卿などの許へと通い、更に阿蘭陀語の習得へと没頭していった。尤も象山は阿蘭陀語を学ぶ為に、松代藩藩主の幸貫に頼み込むと、フランス人の司祭でもあるノエル・ショメールが編纂した阿蘭陀語の百科事典を、四十両もの金を出して買い求めて貰い、必死に新しい知識を学び始めていたのである。
当時、幕府も同じ時期に日本に入って来たこの家庭百科辞典を和訳にする為、幕府の天文台蛮書和解御用掛がその任に当たっていた。しかし象山は役人達とは違い、松代藩に役に立ちそうな部分のみを和訳すると、その内容を実際に検証していたのである。例えばそれは電信機であり、種痘であり、大砲であり連発銃であった。

 象山が松代藩藩士の山寺源太夫に書き送った弘化二年三月二十五日の手紙にも、「此の節もチーケルと申(す)書、手に入読み始め申し候。是はチーケルと申(す)人の著す所にて御座候。此の人は独逸ランドの有名の兵家にて、西洋諸国にも聞こえし候人のよし。フランスのボナプハルテ(ナポレオン)騒乱の頃、七年の実験(七年戦争)を以書に著すと申事に候が、成る程精妙を極め申候」と書いている。更に翌日に、黒川了安に送った手紙にも、この様な苦心惨憺の有様を書いている。
「・・但、ヘルドヂーストンには困り果て候。何分微力にては励れ不申候故、赤澤生を一六の日にやとい候て読みもらい候所、やはり六ケ(むずか)しく候。畢竟(ひっけい),辞書無之故と(辞書に載っていないので)申事にて、又折々彼方へ罷越し候手は塾に有之候オールテンフーク(woordenboek,辞書)不残取出し、夫にて暫次日は少々わかり候様相成候。乍去、正午比より罷故し、夜四ツ頃迄掛て三枚位を了し候。折々いづれの辞書にも不見オールド(woord,単語)無御座候ては毎度困り果て候事に御座候。乍去、その了解いたし候所は存外面白く覚え候。ヤールも古く候へば(出版年が古いの意)格別に有之まじくと蔑視し居候所、中々殊の外に精妙の事有之候。・・・」

 象山の、この頃の勉強振りの凄さを物語る話が残っている。佐久間象山や鎌原桐山と共に、松代藩では三山と呼ばれている中の一人に、山寺常山と云う人が居る。象山よりも早く江戸で佐藤一斎に儒学を学んだ儒者である。僅か百六十石の家禄だが、藩主幸貫の信頼が特に厚かった家臣である。その常山に宛てた仙台藩の藩校、養賢堂の学頭だった大槻磐渓の手紙には、「人が一年かかる処を僅か二ヶ月で卒業し、佐久間と云う男は何時眠るのか判らぬ」と、昌平坂学問所での話しを出して、舌を巻いて驚いた事が書かれている。

 加賀へ向う良安を見送った象山は、三月に江戸から松代に戻ると、以前からの念願である一つの目論見を果たしている。弘化二年の三月七日に象山には珍しく、松代の寺に詣でたのである。用向きは自分の名前を「ぞうざん」と呼ぶ人が多い事に、松代の本誓寺へと祈願を行った。勿論だが象山は熱心な信仰は持っては居ない、しかし信仰を持たないからと云って、仏の教えを否定している訳ではいない。敢えて松代の寺町にある本誓寺に三部経と共に、ペンを使用して自らの名前の読み方を書いた、添記の漢文を奉納したのである。
漢文で奉納されている為に、敢えて現代風読み下し文として、信州大学の高橋宏氏が発表した『佐久間象山雅号呼称の決め手、恵明寺山号「ぞうざん」から山名「ぞうざんへ、そして雅号「しょうざん」へ』の研究論文から、以下に象山の思いを掲載させて頂く事にする。

 『なお記しておく。我が家は、大小の雑木や竹が藪竹林となって乱雑に覆い被さって来る様な場所にある。そして、さらさらと云うせせらぎが聞こえて来るが、殆ど象の嘯(うそぶく)のに似ている。私は寝坊ばかりしていて、志す仕事は遅々としてなかなか進まない。もし後世の人々が私の名をお呼びになるのなら、次の事を知って戴かなければならない。すなわち「象」(しょう)は「所」「蔵」の反で決め、「山」は「参」と読むのである』
弘化二年乙巳三月七日 象山草堂 佐久間修理と、この添記の日付がペンで書かれている。つまり象は所蔵の所で、山は参であると云うのである。この「象は所蔵の反」とは反切上字(つまり所sho)の頭子音shと、反切下字(蔵zou)の頭下音外のou を組み合わせて、音shouを表している。象山自身が伝える様に、「しょうざん」と呼んで欲しい為に請願文を認め奉納したのである。しかも驚く事に、後の世に生きる我々に対しての請願なのである。

 交換授業を終えて松代に戻った象山は、改めて三村利用掛のお勤めを再開する事となった。特に交換授業の最中に象山は、松代の領内で殖産に適しているものを江戸で探していた。例えば艾灼(がいしゃく)とは所謂お灸の事で、原料は艾(もぐさ)である。一般にはヨモギの葉を採取して、臼でつき繊維状にしたもので、手間隙をかけて製品にして行く。
特に美濃国の伊吹山の麓では、このヨモギやトウキ・センキュウと呼ばれる薬草が持てはやされていた。中でもヨモギは灸の原料として誰もが知っているが、伊吹山の麓のヨモギは高級品としても知られている。歌川広重と呼ぶ町絵師が天保十年に売り出した錦絵、木曽街道六拾九次之内の画の中で、このヨモギの話を画に描いたのが柏原宿である。
錦絵に描かれた宿場である柏原の亀屋と言う店の前では、人足が単に荷を担いでいると言う、何の変哲も無い宿場の画である。しかしこの店こそ全国に知られた、良質の灸の原料であるヨモギを売る店で、参勤交代の折には西国の大名達が、こぞって買い求めに来る事で知られている。

 亀屋の主人は売り方にも工夫を凝らした商人で、天明二年(一七八二)に家業を継いだ主人の左京は、沢山の艾を背負い、中仙道を江戸へと売り歩き、儲けた金を吉原で散財した。そしてその吉原の女達に頼んだのが「ご~しゅう、いぶきやまのほとりかしわばら、ほんけ亀屋さきょうくすりもぐさ、よ~ろし」という言葉に節を付けて歌わせ、広めたのが始まりとされている。
百人一首の五十一番目に藤原実方朝臣が詠んだ、「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」と詠まれた恋歌にも、「さしもぐさ」として詠まれているほど、艾を灸の原料として使う事が古くから知られている。亀屋はこうして利益を上げると、更に伊吹山の麓に広大なヨモギ畑を作るために、土地を買い求めたと言う話を象山は聞いていたからである。
更に象山は朝鮮人参の殖産をも、松代で出来ないかと考えても居た様である。特に気候や土壌などに様々な問題はあるが、その効能は広く知られていて、価格も高価で引き取って貰える薬草である。こうした思いが象山の頭の中に、幾つも浮かんで来るのである。

 妾のお蝶が象山の初めての子供を身ごもり、女の児を産んだのは弘化二年の五月二十日である。松代から江戸に戻り、初めて我が子を腕に抱いた時の思いは、無骨と巷で言われていた象山も、周囲の者達には満面の喜びを見せていた。
人はこうして代々に亘って血が繋がって行く事を、今更の様に象山も強く感じたのである。そして五月の、それも神田の玉池の畔に生まれた事で、娘の名前を菖蒲(あやめ)と名付けることにした。恐らくは象山の人生の中で、学問を離れての満ち足りた時期は、この時から半年余りの短い期間でしか無かったかと思える。娘の菖蒲が順調に育って行くかに見えたものの、十一月の末には病で熱を出すと、娘の菖蒲は突然に歿してしまったのである。束の間であれ一児の親となった象山の心は、張り裂ける程の辛さと、そして哀しさとに満ちていたに違いない。

 この時の事を宮本仲は、その著書『佐久間象山』の文中で、この様に象山の心中を記している。
「眉目清秀にして其泣き肇もしっかりしてゐたので、先生は頗(すこぶ)る喜んで居られたが、病に罹って其年の十一月三十日歿して了った。遺骸は之を松代御安町蓮乗寺の先塋の傍に葬るという」
その時に娘の菖蒲の死を悼んで、書き残した象山の漢詩がある。
『女菖蒲壙記』
「菖蒲者。松城佐久間啓之長女。而其妾田中氏之所出也。弘化乙巳五月二十日。生於江都玉池之寓舎以其五月生也。因名以菖蒲。菖蒲綾女國讀同。故亦以阿綾呼之。是兒眉目清秀。生未數月。而不苟苟叫啼。荘静温雅之態。完然可悦。見之者莫不奇而愛之。歳十一月。暴得病。三十日歾。嗚呼痛哉。吾之久於江都。所交友多天下之士。故所延之醫。亦天下之選也。而不能拯命矣。江都寺院葬地極狭隘。窆後數歳。動有遭堀擾者。吾深擢之。乃歸藏於松城蓮乗寺内之先塋。以其殤故。惟硃書諸磚今誌其壙如此」

 初めて自らの分身としてこの世に生まれ、そして六ヶ月余りを生きた我が娘の死を悼み、この時に悲痛な想いを漢詩の中に象山は残している。それは亡くなった我が娘の菖蒲へと贈ったもので、一字一句の文字から、或いは書いた詩の意味の中から、我が児、我が娘を失った父親の哀しみが読む者へと切々と伝わってくるのだ。
中でも「嗚呼痛哉」(あぁ痛いなり)の文字は、例え象山の漢詩が読めなく或いは理解出来ないとしても、その一言は読む者の心を震わせ、胸に沁みる一文であるだろう。まさに父親としての張り裂ける程の心の痛みが、その言葉の中に含まれているからである。

 江戸で菖蒲の火葬を執り行い、お蝶を連れて松代に帰った象山は、娘である菖蒲の遺骨を、佐久間家先祖の墓のある蓮乗寺に埋葬した。戒名は梅香妙雲童女と、その墓誌には刻まれている。そしてお蝶をそのまま母の暮らす屋敷に住まわせると、ひと月程を松代で過ごし江戸へと独り戻った。弘化二年の暮れの事である。既に頭の中では象山書院を閉じ、松代に戻る事を考えていたからであった。
江戸に戻ってから直ぐの事である。嘗て暇を出した妾のお菊から、象山の許に手紙が届けられた。お菊の後に妾にした、お蝶との間に出来た児が亡くなった事を、噂話か風の便りで知った様である。そして侘びの言葉と共に、象山の許に戻りたいとした内容の手紙であった。

 行きずりとか馴染みとか、そうした関係から男女の関係へと向かうのは、町人の暮らす世界の話である。武士となれば親戚から上役など、周囲が認めた家の者同士の関係から、婚儀へと話が進むのが常である。その点で武士が町人の妾を持つとは、主人でもある武士の子を産んで貰ってから、考えれば良い相手でもあったのだ。
後で格式のかたちを整え主家に届けて妻にするか、養子として子だけを引き取るか、或いは妾のままに別宅を与えるか、いずれにしても幾らかの金を与え、暮らし向きを守ってやる相手でもあった。それに武士の場合は相手が町人となれば、婚姻が出来ない事は初めからの決まり事でもある。それ故に象山にしても、妾は身の回りの世話と共に跡継ぎの男児を産んで貰う、その為の相手でもあったのである。中でもお菊は象山にとっては、初めて接した女でもあった。

 暮れに江戸に上る時に象山は、江戸で開いた象山書院を一度閉めて松代に戻る事を決めていた。しかも再度お菊を抱え入れる事で、お蝶か或いはお菊かの、どちらかが男子を設ければ佐久間家の存続は安泰すると考えたのである。
象山の父一学は十三年も前に既に亡くなり、母も老い始めていた。兄弟もいない佐久間家は、象山一人の判断で如何様にもなるのである。
翌年の弘化三年の四月にかけて、象山は松代藩からの幾度もの呼び出しにも応じず、何かと理由をつけては松代に戻る事を断っていた。江戸藩邸の若い藩士達に学問を教えながら、一方では洋書探しの日々を過ごしていた。松代の母であるおまんの許に置いて来たお蝶は、菖蒲を死なせてしまった頃には、随分と塞ぎ込む事があった様である。しかし時が過ぎて、お蝶の腹が又膨らんで来ているとの便りを受け取ったのは、桜の花の舞う三月も末の事であった。

 五月に入ると、象山書院の隣にある漢詩塾「玉池吟社」を閉めたい、と言う話を梁川星巌から象山は耳にした。相変わらず阿蘭陀の本を探し、江戸の蘭学者を訪ね歩いていた時である。星厳の口から出た話は、六月には故郷である美濃の大垣へと寄り、再び又京へ戻りたいと言う。そうした何気ない話の中でこの時、この玉池吟社の門人の中に砲術の祖として知られた、高島秋帆の名前があった事を初めて象山は知ったのである。
天保十三年に老中水野忠邦から、高島秋帆が御家断絶を言い渡されたのは、その数年前に起きた蛮社の獄と言われる洋学者の摘発である。象山が伊豆の韮山にある江川太郎左衛門へ、丁度入門した頃の事であった。妙な処で高島秋帆の名前を聞いたが、星厳から江戸を離れる決心に変りの無い事を知ると、象山も又、今が江戸を離れる潮時なのかも知れないと思えた。何れは又江戸に出て新たな塾を作らなければないが、今や儒学や朱子学などで塾生が集まるとは、とても思えない時勢になっている事を感じ取ったからである。
 
 梁川星厳とその妻の紅蘭が、美濃に向かって江戸を発ったのは五月二十日の事である。「十有余年住み馴れし、玉池吟館に別れを告げ、江戸を発して路を中仙道に取る。諸友門人等送りて板橋駅に至れり、更に旗亭にて別杯を挙ぐ」と、その星厳の妻である紅蘭の漢詩に残されている。
とは言え、見送りと言いながら、一方では象山等の門人達は誰もが名残惜しさを心に抱き、星厳と妻の紅蘭とを囲み板橋宿まで歩いて送り出した。この時、紅蘭は別に『乙巳夏将西錦、奉呈象山先生』として、短い漢詩を象山宛てに残している。そして象山も又これに応え、別離の漢詩と言うよりも、まるで引き止めるかのような厚い心情の漢詩を贈っているのである。梁川星厳五十六歳、紅蘭は四十一歳で象山が三十五歳の時であった。
だがこの時から十二年後、星厳は安政の大獄によって捕らえられる直前、コレラによって亡くなり、妻の紅蘭は捕らえられることになるが、翌年の安政六年に釈放される様な事件に遭遇する事になる。

 象山の方は妾としてお菊を再度抱え入れると、星厳や紅蘭を見送った翌月に玉池の象山書院を閉め、松代へと向かった。娘の菖蒲が生まれてから、丁度一年後となる弘化三年(一八四六)閏五月の事である。象山が松代に戻ったこの時、繁殖させる為に豚を江戸から運び込んでいる。更には馬鈴薯も松代に初めて運んで来たのは、痩せた土地でも出来ると言う話を、長崎の者から聞いていたからに他ならない。
だが父の一学と暮らした松代の有楽町(うらまち)の屋敷は、暫く手入れを怠っていた為に酷く荒果て、藩から御使者屋敷を使わせてもらう許しを得て、身重になったお蝶や親戚に身を寄せていた母親と共に、併せて御使者屋敷にとりあえず引き取る事となった。取りあえずと言うのは、妾を藩の屋敷に置くわけにはいかないからである。この時に藩の用事を済ます傍ら、六里程離れた別所温泉へ出かけた事にして、お腹の大きくなったお蝶と、お菊の住いを捜したのである。そして暫くは松代で藩の仕事と学んだ阿蘭陀語を使い、砲術の研究と実用化を目指す事にしたのだ。この時から暫くして、お蝶は筑摩川の川向うの戸倉村に、お菊は松代の西にある生萱村へと、夫々に住まわせたのである。

 松代に戻った象山に対し、藩からは是非とも大砲を鋳造したい、とする相談が持ちかけられたのはこの頃である。しかし今、大砲を鋳造するよりも小砲を造る方が利に合うとして、象山は藩の重役に説いて聞かせなければならなかった。自らの領内が山国か平地かも区別せずに、どこそこの藩では大砲を造っていると話を聞くと、我も我もと話に乗ってしまうのが、戦の世界を知らない者の常である。
移動する為の時間や製造する為に掛かる費用、そして山国の松代領内で使う為の砲とあれば、遠くへ飛ばす事よりも的中する確率や、移動の際の負担を減らす事が出来る小砲の利を語ったのである。雨や雪の日の坂道など、大砲は余りにも小回りの利かない上に、運ぶには重たくて人数と金の掛かる武器だからである。とは言えこうした利を話して聞かせると、大方の者は納得して自らの考えが浅かった事を理解する。得てして信濃国の人々は、好奇心が強く新しい物好きで、素直な人が多いと象山には思えるのである。

 お蝶が松代で二人目のとなる象山の子を産んだのは、この年の七月の中旬の事で、しかも望んでいた男子であった。無事に育つ事が出来れば、佐久間家の跡目を継がせる事も出来る、又もそうした期待の最中の二か月が過ぎた九月五日、産まれた児は育つ事も出来ず短い時間を生き、そして歿した。象山は恭太郎と名付けた長男となる筈の遺骸を、亡くなった姉の菖蒲と同じ蓮乗寺の奥まった場所にある、佐久間家の墓に葬ったのである。
この後の象山は松代の領内で、夢中になって自らの務めに励んでいた。子は出来ても次々と失い、希望は何時の間にか絶望へと代わってしまう。大きな痛みは心を閉ざしてしまう程に、希望や期待を持つことを拒絶してしまうらしい。それに三村利用掛のお役目は、まだ結果の一つも表れてはおらず、寧ろお役目はやっと始まったばかりである。それはまるで哀しみから逃げる様に、自らの勤めに象山は黙々と励んだのである。


十四、次席家老の用事

 松代藩内の領民から御蔵屋敷と呼ばれている御勘定所は、城の東側の外堀から東へと向かって侍屋敷が建ち並ぶ、その手前の端にある大きな屋敷である。尤も現在は千曲川の流れも変わり、高速道路が松代城と千曲川の間を通り抜け、その城さえ僅かな堀と天守の跡を残すだけとなっている。しかし古文書を開いて御勘定所の場所を探してみると、推測ではあるのだが現在の松代中学校辺りにあったものと思われる。
その御蔵屋敷の北側に造られた塀の向こう側は、広い川幅を持つ筑摩川へと続いている。桜の咲く頃になると、雪の残る飯縄山を始めとして、戸隠、黒姫、妙高、斑尾などの山々を一望に望む事が出来る。しかもその頃から御蔵屋敷の北側の雨戸が全て開け放たれ、心地よい風が部屋を吹き抜けてゆくのである。

 屋敷の大きな母屋の中には、幾つもの様々な役向きの部屋があった。御郡方の役所や拝借方役所の他に、紉掛、御金掛,御内借掛、御蔵番などの掛りが置かれ、南側の庭に面した大部屋の周囲は、大凡二十余りもの部屋に仕切られている。そこには帳簿の類が積み重る様に置かれ、役所の執務を行う為に使われる部屋でもあった。
御勘定方のある大部屋には、勘定元締めから支出の監査を行う御勘定吟味役、更に御勘定役や諸役の仕事場でもあり、併せて二十一名の御勘定方の役人達が財方を担う、藩政の重要な部署なのである。しかも建物の隣には幾つもの米蔵等が続き、中には御用紙御蔵と呼ばれる土蔵造りの、古い書類を保管する倉などもあった。こうした様々な蔵に囲まれた場所にある事から、松代では御勘定所の事を御蔵屋敷とも呼ばれていたのである。

 宮本家の十代目にあたる宮本慎助が、この御蔵屋敷の大部屋で黙々と諸掛かりから届いた帳簿に目を通し、台帳へと写し替えていた昼過ぎの事である。 
「宮本殿、御家老の小山田様が御呼びだそうだ。本日のお勤めが済み次第、御屋敷の方へ参る様にと申された。〔此度の江戸藩邸に向かう勘定方の者は誰か〕とお尋ねになるものでな、〔宮本殿でございますが〕と答えたのだが、何事か頼みたいことがある様な口ぶりよ」
御勘定方元締の入(いり)安兵衛は腰をかがめ、しゃがみ込む様にして慎助の後ろから小声で話し掛けて来た。まるで息子にでも言うように、それは親しげな言い方である。
「ご家老様から、この私にでございましょうか? お話は承りましたが、しかし私が如き者へのお頼みとは、また一体どの様な経緯なのでございましょうか」
座り机の前に正座をしたまゝ、慎助は左手で帳簿を広げそこに書かれた数字を目で追い、もう一方の右手で十露盤をはじいては、別の帳簿に筆を運んでいる最中の事である。全く思い当る節など全く無いと怪訝そうに顔を上げ、振り返る様に元締の安兵衛の顔を見上げた。
「さぁて、わしにも頓と見当が付かんのだが・・・、未だ若いそこもとへの頼みではなく、単に江戸に向う者は誰かと云う話しよ。案ずるより産むが易すしだ、まぁ難しい話では無いとは思うがのぅ」

 五十を超えたばかりの安兵衛には、齢が半分程の慎助が息子の様に見えるらしい。かつて同じ御勘定方に勤めていた祖父の友之丞からは、大分世話になったと安兵衛から聞かされていたから、或いは未だに祖父から受けた恩義を、今に持ち続けている様に慎助には思える。
それに宮本家四代目となる九大夫正之の筆頭門人で、和算式とも呼ぶ総角算法を編み出した入弥左衛門は、この安兵衛の祖先にあたる者でもある。元々が入家は松代藩の藩士であり、偶々四代目の宮本九太夫が算学を学んで塾を営んでいた時に、和算を学びに入門したのが安兵衛の祖父となる入弥左衛門であった。
代が幾つも替わり、八代目の友之丞正暎が松代藩の御勘定方に求められ、武士として藩に登用されたのだから、入家とは七代にも及ぶ長い付き合いと云うことになる。だがその祖父でもある友之丞正暎も、既に八年も前には他界していた。

 今の慎助はと言えば、御勘定所見習いから御勘定役に取り立てられ、次は御収納方掛を賜ると、昨年の弘化三年の暮れから江戸屋敷詰を拝命していた。あと半年程の江戸詰を済ませれば、御預掛へと新たなお役目を申し受ける事になっている。それは江戸と松代とを往復すると云う長い勤めから、やっと解き放たれると云う事でもあった。
しかも二日前に慎助は、江戸表から松代へと戻ったばかりで、五日後には又松代を発って江戸に向かう予定である。だが兎も角も御勘定方でのお役目が勤められるのも、この入安兵衛の御蔭でもあったのだ。

 慎助が宮本家の跡目を継いだのは、この時から九年前の十六歳の時である。父の市兵衛は宮本家の当主を継ぐ事も無く、四十二歳となった天保五年に、祖父の友之丞よりも四年も早く病で亡くなっている。家督を継ぐ事も無く父親より早く逝ってしまった反省なのか、父が亡くなった四年後に、そろそろ慎助に家を継がせたい、と祖父の友之丞から言われた事から、若くして宮本家を継ぐことになったのである。
ところが孫となる慎助に宮本家の跡目を譲り渡すと、まるで自分の役割を終えたかの様に、その半年後には自らの生涯を終えてしまった。尤も祖父の友之丞は亡くなる十九年前の文政二年に、初めて藩の勘定役に取り立てられたのだが、その時の祖父は既に六十四歳となっていた。それだけに友之丞は、お役目一筋に黙々と生きた人でもあった。

 信濃国は山深い土地柄が影響している為なのか、寺子屋とよばれる所が多い。文字の読み書きと算術を基本として、武士も農民も誰もが学ぶ事の出来る場所の多い地方である。この宮本家に代々に伝えられた宮城流の和算も、他の流派と同じ様に秘伝とされ、後から生まれた江戸の関流や、出羽国の出身の曾田安明が開いた最上流(さいじょうりゅう)同様に厳しい決り事があった。
それ等のどれもが門外不出の秘伝とも呼ばれ、一門に与えられた特権的な意味を持っている。師から免状を受ける時には、一切他言しない事を神仏に誓い、血判や捺印を捺して証文を交すなど、そこには師法に則った約束事があったからである。
松代藩内も初めは宮本家が寺子屋を営む為に、京の都で学んだ持ち帰った宮城流が広まった。四代目の九大夫正之から免許状を受け取った者の中には、高井郡桜沢村(現、中野市)の百姓だった藤巻弥之助美郷や、その門人でもあった更級郡上氷鉋村(現、長野市川中島村)の百姓、北沢市郎左衛門冶正、更にその北沢の門人である水内郡窪寺村(長野市安茂里)の百姓、山田荊石や赤田常右衛門百久が、そして江戸の中橋広小路で和算を教えていた北沢仙右衛門奉美など、多くは北信濃の寺子屋で広く和算を門人達に教えていたのである。

 九代目となった慎助の亡父である市兵衛も又、若くして松代藩士で和算家の町田正記の門人となり、文化十二年(一八一五)には宮城流の免許皆伝を受けている。松代藩の勘定方に見習いとして出仕したのは文政四年(一八二一)の時で、しかもこの時は無給での役勤めを申し出ている。更には江戸に出て異なる流派の最上流算術免許牒を文政九年(一八二六)に、そして算術相伝之巻を文化十三年(一八三〇)に与えられるまでとなった人である。
この市兵衛が最上流を江戸で学び終えて松代に戻ると、新たな流派の算学を学んで来た話が近在に漏れ広がり、以降は他藩からも最上流の算学を学ぶ為に訪れる人達も多く、近在の商家からも沢山の門人が集まって来た。

 市兵衛の息子で十代目となる慎助は、弘化四年のこの年に二十五歳を迎えていた。御勘定方に勤め始めてから既に九年目に入り。慎助が従兄弟の伊木億右衛門から持ち込まれた縁談に、松代で嫁を貰う事を決めたのは此の頃である。縁談の相手は丸山清(きよ)と言い十九歳の娘で、父親は亡くなる前まで慎助と同じ財方に勤めていた丸山平八と云った。しかし一人居た身内の兄は、今井村で漢方医の道を進み開業しており、跡継ぎが途絶えた事から、武士としての丸山家は断絶したのである。
丸山家の血筋は武田氏滅亡の折に、真田信之に召抱えられた武田家の遺臣とする一族で、以降は真田家譜代の家臣であった。しかし父親の後を継いで御勘定方の役人として務め上げる事よりも、医者として生きる事を望んだ兄の生き様は、妹の清から見ても誇らしげに見えた様である。
その兄のいる今井村は、宮本家の分家一族が住む御幣川村の隣村であった。父親が亡くなった後に医者を営みながらも、清の兄は時折だが、今井村で寺子屋の師匠を手伝っていると言う。清に会って見れば器量も申し分も無い程で、早速に婚儀へと話は進む事になった。家の格式を整える為に清を伊木家に養女に入れ、婚礼はこの秋の終わり頃の日取りの良い日と決ったのである。

 慎助は江戸の松代藩の藩邸に、これまで年に五回程を往復しており、見習いの頃を含めると、松代との江戸との往来は既に二十回を超えている。昨年の暮れからは江戸詰めとなった為に、今年は江戸藩邸の深川にある下屋敷に住む事になり、又数日後には江戸へと出立しなければならなかった。亡くなった父の市兵衛は勘定方見習いから御預所御用掛、更には御預所御勘定役を勤め上げたが、今度は自分も御預所へと掛りも替わる事になるかも知れぬと耳にしていた。嫁を貰う事で少しは落ち着いた人並みの、暮らし向きが出来るのかも知れないと思ったのである。

 江戸に戻ると言う慎助を、自らの屋敷に呼んだ家老の小山田壱岐は、代々に亘り松代藩の次席家老と言う要職に仕える、いわば地方武士の名門である。小山田氏の家系は嘗て甲斐の武田氏とは同列の、戦国領主であったと言う話がある。武田氏領地の境に自らの領地を持ち、他国からの影響を受け易い土地に、古くから住みついた国人領主だったと言う話しである。
戦国時代には名の知れた領主の持つ領地の周囲に接し、隣国との緩衝地帯としての役割を担う、国人領主とよばれる者達か存在していた。特に信濃国は甲斐の武田と越後の上杉に挟まれ、幾つもの国人領主が乱立していた。宮本家が仕えている真田家にしても、当初は西上野と呼ばれる沼田の国人領主であった。同じ様に国人領主と云われる者には、南信濃の木曽郡にいた木曽氏、甲斐は河内領の穴山氏と郡内領のこの小山田氏などである。彼らの一族は、独自に近隣の領主達との繋がりを持ち、時には政治的な手法を以って、自らの領地を維持して来た一族なのである。
小山田氏も他の国人領主と同じ様に、戦国時代から続く家柄ではあったが、武田家が滅亡した後は掘越後守秀治に仕えた。その堀氏の改易後に今度は真田家の信之に仕え、上田から松代に移された真田家と共に、今に続く一族の末裔でもあった。

 その真田家の次席家老である小山田一岐の屋敷は、城の南側にある大手門の濠を渡る太鼓橋近くにある。屋敷に入ると慎助は理由も判らぬままに通された部屋の隅で、かしこまる以外に方法は無かった。今まで口を開いて言葉を交した事も無ければ、顔さえ滅多に見る事も無い相手でもあったからだ。その時に部屋に入ってきたのは、家老の小山田壱岐であった。
壱岐は部屋に入り床の間を背にして上座へ座ると、平伏して待っていた慎助に対し、いきなり親しげに口を開いた。
「宮本慎助とはそちか、確か伊木三郎右衛門殿の御息女を母に持つと聞いているが」
平伏していた慎助は,何か勝手が違った様に頭を下げたままで答えた。
「はぁ、伊木三郎右衛門の長女『さだ』が嫁ぎましたのは、それがし父の市兵衛でございます、伊木三郎右衛門の娘とは、それがしの母にあたります」
慎助の母方である伊木家が松代に国替えになった時、上田藩の初代藩主真田信之に仕えていたのは、近臣の伊木庄次郎尚重である。後に息子の尚正が仕える事になるのだが、藩主の信之が松代に入封した後、万冶元年(一六五八)の十月に亡くなると、家老でもあった鈴木右近忠重は生前の約束として、幕府が禁止していた殉死を行うのである。

 平たく言えば追腹と云われるものであった。更に近臣の小林彦十郎、金井右馬助、伊木彦六(尚正)はこの時に揃って出家したのである。この伊木彦六は僧になった事で、尚正の名を実誉信西と変え、松代の功徳山願行寺にて出家し、寺に庵を建てて主君信之と右近の菩提を弔う事になる。この時の彦六は二十四歳になった時であった。
「左様か、さだ殿のご子息か・・」
家老の壱岐が言う、この伊木三郎右衛門とは、慎助には母方の祖父になる関係であった。伊木家の家格は宮本家とは釣り合わないものの、母の「さだ」が父親の市兵衛を見初めた事で、伊木家と宮本家は親戚関係になったのである。
合点したのか、壱岐は又慎助に話し始めた。
「慎助、構わぬ、楽にして顔を上げよ、思い出したわ、そちの父である市兵衛の事をよ。藩内でも知られた和算家の町田正記の門に入り、宮城流の和算免許を得たと思いきや、今度は江戸に出て最上流の和算免許を得たいと申して、儂を訪ねて来た事があったが、しかし市兵衛を早くして亡くしてしもうたのは、まことに残念な事よ、なぁ」
昔を懐かしむ様に目を細め、納得したのか壱岐は小さく呟いた。
「丁度今年は、その父の十三回忌の年となります。法事は江戸より戻りましてからと考えておりました。しかしお蔭にて母も今年で六十を迎え、未だ元気に過ごしております」

 十三回忌の言葉を口にした途端、慎助は父が生きた時間の長さを思った。四十二歳の短い一生だったからだ。
「それは良い、益々孝行に励む事よ。ところでここに呼んだ用向きの事じゃが、そちが江戸に戻った折に、何としても立ち寄って貰いたい場所あって呼んだ次第じゃ、その用向きとは実はな、屏風を一双ほど引き取って貰い、儂の所に送る様に手配をして貰いたいのじゃ。と申すのも、丁度あれは一年程も前になるのだが、儂は江戸に住む町絵師の葛飾北斎に手紙を書き送り、屛風絵を注文しておる。とは申せ、手紙で催促しても埒があかぬのでな」
「屛風絵でございますか?」
(何と又、お好きな事を)と、慎助は心の中で呟いた。
「屛風絵とは申してものう、何れは遣い物にでも出来ると思って頼んでいた物だ。実は二年程も前の事よ、あれは確か弘化二年の七月頃の話になるが、小布施の高井鴻山の所に北斎が逗留している話を耳にしてな、何でも小布施の東町と申す所の、祭屋台の天井画を描いておると云う事であった。しかも高井鴻山は、北斎の門人だと言うではないか。北斎と云えば嘗ては富嶽などの錦画で、広く世間には知られてはいるが、今はもっぱら肉筆画だと云う話よ。ならば北斎を呼んで描かせ様かと思うてな、小布施から呼び寄せて頼んではみたのだが、祭屋台の天井画を描くのに忙しいと見事に断られてなぁ、手土産だと申して素描の墨画を数枚程置いて帰りおったわ」
二年前の出来事を思い出したのか、壱岐は苦々しそうな言い方をした。
「しかし北斎の娘が一緒に来ていると耳にしてな、しかもこちらも北斎に負けず劣らず腕は確か。阿栄と申したが、そこで逗留先の穀屋に申し伝え、画を一枚所望したのだが、これがその画よ」

 おもむろに桐箱から取り出したのは、三国志から画題を取った武者画と言われる「関羽割臂図」である。落款は應為栄女書とあり、崩しすぎた様な印章を、慎助には全く読む事は出来なかった。
「どうだ、良い画であろうが」
慎助には良いか悪いかの判断は付かない。だが、かなりの迫力のある画だと思った。壱岐は開いた画を巻き戻して桐箱に収め直すと、今度はゆっくりと茶を啜り、そして又話を始めた。
「そこで儂は北斎が江戸に戻った頃を見計らい、再度画を注文する為、翌年の春に注文の手紙を書き送ったと言う訳だ。北斎への注文は六曲屛風絵一双、画題は龍と虎。代金の予算は一双金四十両として、一年の期間で描いて欲しいと申し送ったのだが、北斎からの返事は来ず、断りの返事も寄こさぬ。そこでじゃ、江戸に行く途中で北斎の家に立ち寄り、この話の続きをそちに頼みたいのじゃが、どうだ、頼まれては呉れぬか」
頼むとは言われてしまえば、断れない相手であった。それにどこか厄介な話だと慎助には思える。しかし描くか描かないかの判断は、絵師である北斎の答えを貰わなければ、何とも話は進まない様に思えたのだ。
壱岐の呼び名は采女と云うが、茶人としての号は歳寒院 壱岐の茶好きは藩内でも良く知られている。恐らくは茶室に書画を飾りたくなったのだろう、と慎助には思えた。
「承知致しました。何れに致しましても江戸に出向きました折、まずは北斎の家に立ち寄り、屏風一双の話を伺って参ります」
「ん、頼むぞ、それに北斎の住いについては、藩の用向きを扱っておる飛脚問屋の十八屋を訪ねると良い。日本橋は本銀町二丁目に店を構えておる。それに北斎の馴染みの店とも聞いておる。代金も十八屋の当主文右衛門には、為替にて送り届けて置く故にのう」
「はっ、御用の向は必ず伝え、北斎の返事、或いは屏風絵を受け取って参ります」

 その五日後に慎助は、予定通り松代を発って江戸に向かった。弘化四年の信濃に春が訪れ、やっと桜が咲き始めた三月十日の事である。慎助が北国街道から中山道の追分を経て、江戸の本郷に着いたのは松代を発って五日後の、春の明るい陽が天頂に昇っていた時刻である。深川にある江戸藩邸の下屋敷に向かう前に、日本橋の十八屋に立ち寄り、北斎の住まいに向かいたいと慎助は思っていた。神田川に架かる昌平橋を渡り、日本橋の本町通りに架かる今川橋を渡ると、その右手が本銀町二丁目で十八屋の店は直ぐに分かった。
松代藩御用の看板を掲げる十八屋は、元々が信濃の小布施にある穀屋が本家である。扱う品は店の屋号の通り米や大豆など穀物の売買を中心に、百五十年程を積み重ねて来た商家であった。味噌や醤油など代々に亘って間口を広げて、その本家の十八屋が江戸に出たのは、松代藩の求めに応じた二十年余り前の事で、先代の小山紋左衛門が文政八年(一八二五)に亡くなって以降、息子の文右衛門が松代藩御用の飛脚問屋を受け継いだ時からである。そして弟の平兵衛も従来からある北信濃の産物を中心に、兄の飛脚問屋の隣で商いをしていたのだ。

「御免、松代藩御勘定方の宮本慎助と申す。御主人の文右衛門殿に、火急の用向きでお伺いした」
店の入り口で慎助は、思わず急ぎの用向きだと口を突いて出た言葉に、どこか後ろめたさを感じた。店に入ると一瞬、木の香りが強く鼻を刺した。未だ建てて間もない、と云う程の真新しさである。番頭なのか手代なのか、店の者が「へぇ」と声を出し慌てて店の奥へと入って行くと、直ぐに主人の文右衛門が顔を出した。
「手前が文右衛門でございます、宮本様でございましょうか、ご家老様より早飛脚が届いており仔細は承って御座います。まぁ店先にてはお話もできませんので、まずは奥へとお上がりくださいませ」
歳の頃は四十五前後、江戸の言葉も使い慣れた文右衛門は、慎助を奥の部屋へと案内した。建てたばかりの真新しい店の奥へと通されながら、直ぐに店が真新しい訳を慎助は思い出したのである。それは半年程前に目の前に居るこの文右衛門から、藩の江戸屋敷の勘定方に届いた一通の礼状であった。

 前の年となる弘化三年(一八四六)の丙午の正月十五日、江戸で起きた大火事がこの十八屋をも巻き込んだのである。しかもその前年の年の暮れあたりから、江戸中を妙な噂話が駆け巡っていた。牛蒡(ごぼう)を食べると死ぬと言う、一体何処から出た話なのかも分からない全く意味不明の妙な噂話が、人の口から口へと江戸中に駈け廻っていたのである。
何とも薄気味悪い年が明けた正月の十五日、それも真っ昼間の八ツ時(午後二時過ぎ頃)であった。本郷丸山の御家人屋敷から出た火は、瞬く間に加賀藩上屋敷の隅を焦がして広がってしまった。しかも折からの北西の乾いた寒風に火の手は煽られると、神田から日本橋一体の家々を舐める様に燃えつくし、更には京橋辺りまでも燃え広がった。しかも飛び火した火は八丁堀から大川(墨田川)を越えて佃島、更には深川辺りまでも広がったのである。日本橋本銀町二丁目の十八屋は飛脚問屋の店だけでなく、並んで構えていた弟の平兵衛の店や、隣に建てられた真綿や穀物類を入れた土蔵までもが、明かり取りの窓から火が入って燃えてしまった。後に松代藩から再建の為の二百両を借り受けた事で、藩に差し出した十八屋からの礼状の事を慎助は思い出したのである。

「(略)・・・江戸本銀町二丁目に於いて商売を弟の平兵衛と共に励み、益々繁盛の折に弘化三年正月の本郷から出火した火災により、十八屋の両店とも土蔵を含めて全て焼失し、送られて来た品も全て焼いてしまいました。しかし難渋至極であったおりに、御屋敷様、御会所様の格別のご配慮を頂き、二百両をお情金として十カ年賦で拝借する事が出来ました・・」
そこには文右衛門を筆頭に小山家一族の連名による、松代藩の御会所様宛のもので、その礼状を保管する際に慎助は目を通していたのである。
「宮本さま、お疲れの中をお越しいただき、ありがとうございます。その節は手前どもの店の立て直しにお力添えを頂き、誠に有難うございました。お蔭様でその後は以前どおり、店の方もつつがなく商いをさせて頂いております」
商人らしいく文右衛門は手を付くと、深々と頭を下げて未だ若い慎助に礼を述べた。
「店も立派に建て直された様で、まずは安心致しました。しかし藩からの御情金では足りますまい、立ち入った話では御座いますが工面はどの様に」
慎助に別段深い意味があった訳ではなかった。
「やはり御勘定方のお役人様は何故か不思議に、やり繰り算段の事に関心がございますなあ」
文右衛門はそう云うと、苦笑いをしながら又話を続けた。
「実は小布施にある穀屋の方にも、何かと世話をかけてしまいまして。元々小布施の穀屋は私ども小山家の本家ではございますが、当主である平左衛門の祖父だった久四朗が、本来は小布施の十八屋を継ぐべき跡取りでしてな。しかしまぁ狭い小布施に兄弟親戚が商売仇になってはと、既に亡くなっております弟の紋左衛門に本家の十八屋を継がせて小布施に残り、穀屋の暖簾を守っていると言う訳でしてな。偶々その頃に藩の御重役様より江戸に出てはどうかと、その様なお誘いを頂きました次第で、そこで兄の私が江戸にでて商いを始めさせていただいたと言う訳でして。」

 何となく慎助にも分かる気がした。信濃の松代や隣の須坂、そしてその隣の小布施の村も、それ程に違わない同じような小さな町場だったからである。
「なる程、その様なお話があったとは・・・ところで北斎殿のお住まいはどちらでしたかな。まずは肝心の北斎殿のお住まいの事を伺わなければ」
慎助は思い出した様に、訪れた本題の事を文右衛門に尋ねた。
「いやいや、そうでしたな、話につい夢中になり申し訳ございませんでしたな。北斎殿は今、浅草の田町と申す処にお住いの筈で、場所は浅草寺の裏手を流れる山谷堀沿いとなります。年に一度か二度、多い年は三度四度と住まいを移りますもので。江戸に店を構えました時に、桝一の鴻山殿から北斎殿を紹介されましてな。その時からのお付き合いをさせて戴いております。
ですからお住まいを存じ上げているのは版元か私共くらいでして、何せ私共は北斎殿にとっての金庫番。画の代金をお預かりしたり、長屋住まいの家賃をこちらで支払ったりと、既に十年以上ものお付き合いでしてなぁ、おぅ、そうだ、もう一つ、北斎殿は名を三浦屋八右衛門としております」
「その北斎殿、いや三浦屋八右衛門殿の住いまで行くには、どの程度の時間が掛かりますでしょうか」
何度も江戸に来ている慎助だが、浅草寺の裏手の山谷堀と云われても、直ぐに分かりましたとは答えられない場所である。
「そうですなぁ、凡そ距離にして一里余りでしょうから、半刻程で着くかと思われます。この日本橋から向かうには、小伝馬町から馬喰町を通られまして、その先の蔵前から吾妻橋の西詰を大川(墨田川)端に沿って川上に行かれれば近道。その辺りまで行けば山谷堀とは目と鼻の先、何せ田町の向うは直ぐに吉原と相成りましてなぁ・・」
「北斎殿も又、随分と色香の漂う様な場所にお住まいですなぁ」
冗談半分に慎助の口から出た言葉が、おや、と言う様に文右衛門の笑を誘った。そして文右衛門はそれ以上、慎助の足を止める事はしなかった。
「それでは早速、北斎殿の住まいに向かう事と致します故、これにて失礼仕る。これもお役目ですので、のんびりともしてはいられません」
立ち上がった慎助に対し、文右衛門は追いかける様に声を掛けた。
「お気を付けてお出かけくださいまし、それと金子は御家老様よりお預かり致しておりますれば、一言申し付け頂ければ何時でも」
金の話に慎助は家老の壱岐から、四十両の為替手形を預かっている事を思い出した。屏風絵を手にすることが出来れば、すぐさま金に交換する為であった。

 文右衛門に教えられた通り、滅多に足を運ぶ事も無い大川沿いの道を、慎助は北に向かって歩いた。吉原などには縁のない自分ではあるにしても、どの様な場所なのか興味が無い訳では無い、一度は出かけて見たいものよ、と慎助は独りで自問自答したのである。
山谷堀に架かる三谷橋の手前を左に曲がった堤の道は、吉原に向かう遊客が行き交う日本堤とも言われているらしい。だが未だ時刻は昼日中で、遊客の姿を見る事はない。それは又、吉原に向かう客だと勘違いもされない時刻であった。
教えて貰った北斎の住む長屋の入り口には、おじぎ無用、土産無用と書かれた紙が貼り付けられてあった。その張り紙の下には百姓八右衛門と書いてあり、見るからに安普請の長屋である。
江戸では金を掛けた立派な家を、余り町人が建てる事がないのも、毎年の様に起きる大火事が大きな理由だと聞いた事があった。特に乾いた冬の二月から三月の北風の吹く日などは、おちおちと眠る事も出来ないのが江戸っ子である。「宵越しの金は持たねえ」と言う威勢の良さは、灰になるかも知れないと言う江戸っ子の行く末を、素直に語っているのかも知れないと慎助には思えたのだ。


十五、貰った二百枚の墨画

 「御免、北斎殿はご在宅でしょうか」
突然の慎助の声に、長屋の入り口から怪訝な顔を覗かせたのは、六十にも手が届くと思われる程の女である。
「なにか用でもあるのかねぇ」
慎助は軽く会釈をした後で、口を開いた。
「当方は信濃国松代藩、真田家の家臣で御勘定役の宮本慎助と申す者。我が藩のご家老様が申すには、北斎殿が小布施に逗留された二年前の折、松代にわざわざ小布施からおいでを頂き、お会いした事があると申しておりました。実はその折に北斎殿に屏風画を一双程お願いした処、何でも小布施の祭屋台の天井画が多忙の為とお断りされたとか。しかしどうしてもお頼みしたいと翌年の三月、今度は北斎殿に宛て、注文の手紙をお送りしたと申しておりまして、注文の品は屛風図一双、お題は龍と虎。期限は一年、画料は四十両として手紙に認めてお願いを致したと、しかしながら受ける、受けないとした返事も無く一年が過ぎ、描いて戴けたのなら引き取って参れと、これが私共のご家老から命じられた、御用の向きでございますが」
「はぁ・・、突然にそう言われてもねぇ、だけどおとっつぁんの北斎は、生憎と今は出かけておりましてねぇ。それに手紙で屛風絵を頼んだと言われても、そんな籔から棒の話に、はい、そうですかって直ぐに返事も出来ないしさ・・・話は聞いちゃいないよねぇ、言え、何か行き違いがあるのかも知れないしさぁ・・」
こう言う時の言葉を、江戸者は「薮から棒」と言うらしい。だがこの突然の話に戸惑ったのは、女の方だったのかもしれないと慎助は思った。
「いや、しかし御家老は其の為に、江戸に出向いたら北斎殿にお目にかかり、頼んでいた屏風絵を受け取る様にと申され、私は御指図を受けて参ったのでございますから」

 戸口から顔を覗かせた女は、一年前の事を思い出していた。そして「あっ」と声を上げて顔を曇らせた。
「あたしゃ、阿栄と言ってね、北斎の娘を五十年余りやっているけれどさぁ、その北斎も今年は数えで八十八の米寿を迎えてね、だからこんな五十も半ばの娘がいたっておかしくは無いけれども、でもね、今、思い出した事があったのよ。まぁその前に取り敢えず、座敷へと云う程の部屋はないけれど、中に入って座っておくれでないかね」
戸を開けて部屋の奥から、薄汚れた薄い座布団を持ち出した阿栄は、入り口に立っている慎助に、土間に繋がる一段高い敷居に座る様に促した。そして言われるままに敷居に座った慎助に、又も阿栄は話を続けたのである。
「あの手紙の事だけど、えぇ、確かに戴いた事がありましたねぇ。でもねぇ、おとっつぁんも近頃はめっきりと物忘れが酷くなってさ、直ぐに忘れちまうのよ、困っちまったわねぇ」
阿栄は、いかにも困ったと言う顔をした。
「それはこちらも同じです。当方こそ御家老に何と申して良いのか、困りました」
「ご家老様ってのはさ、あの小山田様の事かしらね」 
突然に阿栄の口から、家老の名前が飛び出したのである。
「如何にも、阿栄殿はご家老をご存知なので・・」
阿栄の口から家老の名前が出た事で、驚いた様に慎助は聞き返した。その時に慎助は、家老の屋敷で壱岐が見せた、三国志の画の事を思い出したのである。北斎の事は頭から離れなかったものの、娘の阿栄の事は、すっかりと忘れていたのだ。尤も目の前の娘と云う言葉からは、阿栄の齢が余りにもかけ離れていた所為でもあった。
「知るも知らないも、私が小布施の穀屋さんに居たときに、ご主人の平左衛門さんから頼まれて、画を一枚描いた事があったわね、題は任せるからと言われてね、確か『関羽割臂図』と云う、三国志の中の関羽の図だったと思うけど」
「えぇ、今、思い出しました。その画は御家老から拝見させて頂きました。それならこの度の事は、御存じではと思いますが・・」
「ところが生憎とね、おとっつぁんが頼まれた屏風画は、一度断ったと言う話は聞いていますよ。それにあたしは穀屋さんの二階で画を教えていたから、ご家老様は会った事もありせんよ。頼まれたのは穀屋さんのご主人の平左衛門さんからでね、ご家老の小山田様から頼まれた、と聞いていた事位かしらね。だけど如何したもんかしら、困ったことになっちまったわねぇ、まったく・・・」

 暫く思いあぐんでいた阿栄は、一つの考えを慎助に話し始めた。
「取り敢えず、こうしておくれでないかねぇ、屏風は描かないと言う訳ではないからさ、時間を今しばらく貰いたいと言う事にしてさ、北斎は旅に出ているとでも言って貰って、三月程後にならないと帰らないからと、そう言われた事にすれば、ね、どうよ」
「しかしそれでは、みどもがご家老に対して、嘘を吐いた事になります」
「嘘じぁあないのよ、この正月なんかさ、干支の羊の画を描いていたと思ったら、何処に行くとも言わずに急にプィと出かけてしまうのよ。私の方だってね、何処に行って何時帰るのかさえ知らない事だってあるのよ。だいたいが年寄はさぁ、年を取ればそれだけ具合が悪くなるってのが、普の年寄と言うものよね。それが何時も糸の切れた凧みたいにさ、どこかに飛んでいって探しようもないのよねぇ」
愚痴とも怒りとも取れる様な阿栄の話に、今度は慎助の方が本当に困った様な顔になって来ていた。
「それでは取り敢えず、もう一度、又日を改めて出直して参ることに・・」

 今度は江戸で二十日程の滞在になる。時間を掛けて考えなければ、子供の使いになりそうだと慎助には思えた。
「まぁ、ちょっとお待ちなさいよ。おとっつぁんが小布施に行った時から、描いていた墨画だけれど、取り敢えずはそれをお持ちなさいな」
何を思ったのか阿栄は、北斎の描いた墨画を持って、慎助に松代に帰る様にと言い出したのである。
「売るでも頼まれたでもなく描いた画ってのはねぇ、一度紙に描いてしまうと後は何の役にも立たないシロモノなのよねぇ、精々役に立つのは、破れ障子や襖の穴を塞ぐのが関の山。一年も毎日の様に描いていると、直ぐ溜まっちまうもんなのよ」
阿栄は立ち上がって押入れの中の柳行李を引きずり出すと、中に仕舞い込んだ墨画の束を慎助の前にドサッと置いた。そして改める事もせず、それを今度は古ぼけた風呂敷に包んだのである。描かれた墨画には、様々な姿をした獅子が描かれているのが見えた。
「確か、小布施に行った時から描き始めた画なんだけどさ、おとっつぁんは毎朝起きだすとね、気持ちを静める為ってさ、一気に一枚だけ描き上げるのよ。日新除魔図と言ってね、毎日気持ちを新たにして、自分の心の中に湧いて来る、魔が差すと云われる邪心を追い出すんだそうよ。だから頼まれた物でも売る為に描いたものでもないの。確かあんたの所の小山田様へお伺いした時にも、手土産代わりに何枚かおとっつぁんが持って行って差し上げた様でさ、だいぶ喜ばれたと言っていたわねぇ」

 目の前の、枚数にして二百枚はありそうな紙の束を、阿栄は風呂敷に包み終えると慎助の前に差し出した。
「でも・・、これをどの様にしろと」
未だ阿栄の考えている事が、慎助には呑み込めないでいた。
「ご家老様の所に、このまま届けても、きっと多すぎて有難味も無くなるしさ、今度はもっと怒られるかも知れないわね、でもさ、とにかくお詫びの印に差し上げるから、あんたが持っていなさいな。それでもしも御家老様のお怒りを受けそうな時にはさ、この墨画を六曲の屏風に、好みの画を貼り付けて差し上げればどうかしらね。それはそれで私には、どこか趣と言う物も出て来ると思うけど。それに頼まれていた画題だって、龍や虎から獅子に変わっただけの事なのだしさ」
阿栄の話しは、随分と大雑把であった。しかし言われて見れば、阿栄の言う方法でしか、とりあえずの帳尻は合せられない様に慎助にも思える。今はそうするより外に、ご家老に納得して貰える様な方法など、無いかも知れないと慎助にも思えた。
「処でひとつ、お尋ねしたい事があるのですが。北斎殿が最初に小布施に行かれたのは、一体どの様な理由があったのでしょうか。門人でもある鴻山殿の故郷が小布施村にあったとは言え、八十を越えていると言われる北斎殿が、長く小布施に御逗留された理由が解せないものでして」
慎助はそれまで持ち続けていた、一番の疑問を訊ねてみた。
「おとっつぁんの北斎が小布施に出かけた、あの頃の事よね。確か小布施に向かう少し前にね、それまで親しくしていた戯作者の柳亭種彦が捕えられてね。伝馬町送りになってからひと月余り過ぎた頃に、その種彦が牢内で亡くなった事からかしらね」

 滝沢馬琴の日記には、種彦が死んだと云われてから二十日も過ぎた八月七日、「柳亭種彦、七月下旬、二十七、八日頃、病死のよし、今日、泉市方にて噂これあり」、泉市とは書簡を商いにしている者で、そこからこの噂話を買っている。つまり、家族からは死亡通知を出す事も出来ず、闇から闇へと葬られたのである。江戸ではこうした噂話でも、売り買いすることが出来たのである。そしてもう一人の捕えられた戯作者だった為永春水の事を、馬琴が記録した『著作堂雑記』には、この様に残されている。
「天保十二年丑十二月、春画本並に人情本と唱へ候中本(人情本)の義に付、版元丁子屋平兵衛他七人、並に中本作者為永春水事越前屋長次郎等を、遠山左衛門尉北町奉行所へ召し出され、御吟味有之、同月二十九日春画本中本の版木凡五車程、右仕入置候製本共に北町奉行へ差出候、翌寅年春正月下旬より右の一件又御吟味有之、二月五日版元等家主へ御預けに相成、作者為永春水事長次郎は、御吟味中手鎖を掛られ、四月に至り版元等御預け御免、六月十一日裁許落着せり、右の板は皆絶版に相成。悉(ことごとく)打砕き手焼捨られ、版元等は過料全各五貫文、他に売得金七両とやら各召し上られ、作者為永春水は改めてとがめ手鎖を掛けられて、右一件落着す・・・・版木五車程といへば、其数多しといへども、春画本等を合せての事なれば、人情本は二三編の版木に過ぎざるべし、「法制論簒」に拠りて、春水に対する申渡書を左に録す」
      神田多町一丁目五郎兵衛店  為永春水事 長次郎

 大八車に五台分もの版木を処分されたと書かれているが、謂わば、その殆どは春画本の版木であった。人情本を咎められたのであれば、それは高々数冊分の版木が処分された筈だ、と馬琴は書いているのである。しかも裁きを行なったのは北町奉行の遠山様。後の世に芝居や映画の中で語られ続けた、名奉行と奉られた桜吹雪の金さんである。
この春水が酒に溺れて亡くなったのは、北斎が小布施に向かった翌年の天保十四年暮れの事で、本人が手鎖の刑を受けた翌々年の事である。全ては天保の改革と称して庶民の暮らし向きを厳しく規制した、中でも出版に関する戯作者や絵師達の、その身の上に起きた出来事であった。

 阿栄は話を続けた。
「同じ絵師仲間の歌川国芳が、天保改革なんてものは御上の一方的な理由だと、それまでの仕組みを壊した御上のやり方に腹を立ててね、『源頼光公館土蜘作妖怪図』って画を描いたのよ。表向きは改革と云いながら、御上のやっている事はその真逆だものねぇ。だから老中に名を連ねるお大名を、源頼光とその取り巻きに模して錦絵に描いた事は、江戸の者なら誰もが知っていた事なのよね。
その画の中に描かれた武者達の着物の家紋を見れば、何処の誰かは判る様に描かれて居て訳よ、思いっきり御上を揶揄した錦画だったわね。そうそう、あんたのところの御殿様、真田幸貫様も確か絵の中では碁を打っていた筈よねぇ。後で当然の様に発禁処分になったけど。この画は店の奥に仕舞い込まれてさ、馴染みの客でないと手に出来ないって、随分と高値で売られたと云う話よ」

 阿栄は一気に、その時の経緯を慎助に語った。まるで積り積もった愚痴を吐き出す様な勢いである。更に阿栄は言葉を続けた。
「まぁそんな御時勢だもの、おとっつぁんもそれなりに、御上を批判する画を描いたのよね。知る人は知っていると云う肉筆画だから、世間には余り知られてはいない様だけれどさ、『拷問図』と云う絵が確かそれよ。今は何処にあるのかさえ知らないわねぇ。
絵の方はね、裸の女が両手両足に手枷足枷をされてね、しかも吊るされた女の背は火で炙られてさ、その背中には塩を擦り込まれているって絵よ。助平心の男には、見たままにしか見えないのだけど、まぁ見る人が見れば、なるほどと意味の判る判じ絵ってやつよ。吊るされて拷問されているのは、本当は私等の町人の方なんだからさ」
「その様な画を、北斎殿は描いたので御座いますか」
慎助は驚きであった。初めて耳にした話だからである。
「確かに気持ちの良い画ではないけどさ、でもね、女が吊るされているのは梁ではなくて、神社の鳥居の貫きと云う部分。そう、あの天保の御改革では悪玉の筆頭だった鳥居耀蔵の鳥居よ。おとっつぁんも流石に江戸には居られないと考えた様ね、信濃の小布施に住む門人の、鴻山の所に向かったのだと思うのよ。善光寺参りと周りには話していたみたいだけどね」
「ほぅ、なるほど、鳥居耀蔵の話は身どもも存じております。確か水野様を裏切った事で処せられ、今でも何処かの四国の方にある藩で蟄居暮らしだとか・・」 

 天保の改革と称するこの事件は、既に四年前には終えていた。水野忠邦が老中首座の職を罷免され、失脚した話が広まると江戸の庶民は我先にと、江戸城馬場先門近くの水野の屋敷へ打ち壊しをする為、その屋敷前に押しかけたと耳にした事があった。
せめて石の一つでも投げつけてやりたい、そうした気持ちも、何故か分かる気がすると慎助は思った。尤も、この騒動を慌てて止めに入ったのも鳥居耀蔵だったと言うのだ。しかも失脚した水野忠邦が、一年も経たずに又老中筆頭に返り咲く様な出来事を聞くと、幕閣の中の関係が随分と、こじれている事に誰もが気がつき始めたのである。
阿栄は思い出した様に、又、突然慎助に語りだした。
「それにさ、おとっつぁんは以前にもね、カピタンの注文で御禁制の画を描いていたからねぇ。まぁ御上には言えない事情と云うものも、少しはこちらにもあったものでさ。それに御上が改革と云うと何時もだけれど、絵師や版元が必ずお咎めを受ける様にできているのよね。私も絵師の片割れだから、それが良く分るのよ」
阿栄は少しだけ笑顔を浮かべた。
「やはり阿栄殿も、北斎殿の血を受け継いでいられるのでしょうね」

 未だ阿栄の描いた画は、家老に見せられた画以外には見たことが無いが、何処にもある様な暮らしに背を向けている娘である以上、北斎の血筋を強く受け継いでいる様にも思えるのだ。今度は慎助が口を開いた。
「それにしても小布施の穀屋は、確か味噌や醤油を扱う店、つい先ほどはその本家筋の十八屋に寄り、こちらまでの道筋を伺って来たところです。その十八屋は松代の真田家が御用の店だったものですので、近い関係に思わず驚いたところです」
「あぁ、そうだったわねぇ、そんな繋がりなどは全く縁も無い事なのでさ、すっかりと忘れていたわ。それにしても小布施に行ったその時にね、穀屋さんの店先で松代藩の学者だと言う、大きな体の御侍さんと鉢合わせしてさ、確か佐久間様と言う方だったと思うけど。穀屋の旦那さんがおとっつぁんに紹介してくれてさ、阿蘭陀の言葉がどうのと難しい話をしていたけど、松代藩には仙人の様な不思議な人がいるものだと思ったのよ」
話の中でいきなり象山の話が入り込んで、慎助は驚いた様に表情を変えた。
「ほぅ左様でしたか、阿栄殿や北斎殿は、象山先生にお会いしたのですか、それは奇遇でした。私の家は象山先生の家とは路地を挟んだ向かいに在りまして、私も象山先生の門人の末席にいる者で、先生は良く存じております」

 話の中で互いの知り合いが出て来ると、人は途端にその距離を縮める様な気持ちになった。慎助は更に言葉を続けた。
「私もこの一年を江戸の藩邸で過ごしており、年に四度程は松代と江戸とを往復しております。今日はお役目の為に未だ江戸に着いたばかりでして、江戸に来るのは或いは、これが最後になるかも知れません。新たなお勤めが申し渡されておりまして。それにこれから藩の屋敷のある、本所深川の下屋敷へと向かわなければなりません。又後日、松代に帰る時に寄らせて貰います。今度は北斎殿にはお会い出来れば宜しいのですが、取り敢えず墨書の画は戴いて参りますので、北斎殿には宜しくお伝え下さい」
「そうしなさいよ、それに松代に戻る時は、是非に寄ってみて下さいな。おとっつぁんも居るかもしれないしねぇ」
済まなさそうな声で阿栄は、もう一度寄って見る様に慎助に声を掛けたのである。
「それでは又伺う事に致します。くれぐれも北斎殿には宜しくお伝え下さい」
とにかく御家老から頼まれた事の、用件だけは伝えられたと慎助は思った。だがそう思う反面、胸の中では未だに面倒なこの問題が、どこか中途半端な気分がくすぶっているのを感じていた。まるで御家老と北斎の間に入り、訳も分からずに悩みが増えた様な気分になったからだ。慎助は晴れない気持ちを持って、深川の下屋敷へと向かったのである。
ところがこの日から七日後には、屏風絵の事などにはかまってもいられない程の大事件が、松代藩の領内で起きるのである。


十六、善光寺地震

 信濃の善光寺と言えば、善男善女が全国から集まる信仰の寺として、古来より広くその名を知られている。中でも善光寺に繋がる街道は、全てどこでも道標か建てられれば善光寺街道と呼ばれていた時代があった。善光寺から最も遠くの場所に善光寺街道の道標が建てられたのは、美作国津山(現、岡山県津山市)である。慶長五年(一六〇〇)に関が原の戦いで勝利した家康から、信州川中島辺りの領地を得たのは森忠政である。ところが三年後の慶長八年に、それまで松代藩藩主の森忠政が美作国に移封した事によって、敢えて善光寺の道標を新たな領地内に置く事にしたのだ。善光寺への信心が極めて篤い、領主であったことを知ることが出来る。
又この善光寺の歴史は極めて古く、信濃国のこの場所に本尊の阿弥陀如来像が置かれたのは、六百四十二年と言われている。日本に仏教が伝来したのが五百三十八年と言われているから、凡そそれから百年後に、この地に祀られたのである。

 それ故に善光寺は仏教伝来以降、幾つもの宗派に分かれる以前に開山した寺だからで、宗派を問わない寺として参詣に多くの善男善女を集めているのである。
明治時代以降になると、御開帳は七年に一度と言われる様になったが、それ以前は大凡八年に一度行われ、慎助が江戸で北斎宅を尋ねた弘化四年(一八四七)のこの年も、三月九日から四月二十九日までの五十日間、六万五千日の御開帳として例年になく、多くの信徒を集めて回向の日を迎えていた。しかも門前町は言うに及ばず、近在の街道の宿場町も御開帳のこの時期だけはと、参詣する者からそれを当て込んだ商売人なども集り、ごった返す様な大変な賑わいとなっていたのである。

 それは慎助が江戸で北斎の娘である阿栄と、屏風画のやりとりをした十日程後の事であった。善光寺は御開帳最中で賑わう三月二十四日、それも夜の五ツ時(九時過ぎ頃)に、突然に足許を揺らす大きな地震が、善光寺を中心にした付近一帯を襲ったのである。しかも徐々に揺れは大きくなり、やがて人々の泣き叫ぶ悲鳴が家々のきしむ音に飲み込まれ、屋根が落ち土蔵の壁が崩れる音に変わった。更には山津波の様な地響きが、遠くから聴こえてきたのである。
この地震によって善光寺の如来堂から護摩堂、それに山門などが大きく傾き、門前に立ち並ぶ多くの旅籠は瞬く間に倒壊した。同時に門前町の幾つもの旅籠からは火の手が上がり、消す事も出来ないままに火は燃え広がり始め、鎮火したのは地震から実に三日後の事であった。

 江戸にいた慎助が善光寺で大地震の起きた話を耳にしたのは、地震の起きた二日後の朝の事である。振り返れば二日前の五ツ過ぎに小さな揺れは感じてはいたが、まさかその揺れの元が松代藩内の善光寺付近だったとは、その時の慎助には知る由もなかった。善光寺地震が起きた日の翌日の夜半には、早馬が赤坂の松代藩中屋敷に着くと、この話は翌日から江戸市中へと一気に広まった。更には次々と早馬が走り着き被害の詳細が伝えられる様になると、その深刻さに誰もが耳を疑ったのである。

 突然の天災に松代藩からは幕府へ急遽被害の届出を差し出し、幕府内でもその対策が議題として話し合わされた。深川の下屋敷に留め置かれた慎助は、松代に戻る用意をして置く様にとの指示が届いた。恐らくは直にでも御呼びが掛かるだろうと思い、江戸での身辺の整理をもしながら帰藩の準備をしていたのだ。今や一人の判断で勝手に動く事は、許されない状況でもあった。ただ慎助にとって救いは、筑摩川を挟んだ小布施や須坂などの揺れは、嘘かまことか古い家の屋根や土壁が落ちた程度と聞いた事であった。しかも善光寺に近い松代でも古い侍屋敷が凡そ三十戸ほど倒壊し、半壊は二百戸程だというのだが不幸中の幸いな事に、火の手も燃え広がるに事は無かったと耳にしたのである。

 地震に因る大きな被害は善光寺の宿場や寺を中心にして、近隣一帯の倒壊家屋が二千軒余り、死者は二千五百人と数えられていた。だがそれらは焼死や圧死で死体が確認された者達の数であり、住まいも分からない参詣客などを含めると、その正確な数を出す事は出来なかった様である。
日がたつにつれて被害の範囲は松代藩だけに留まらず、松本藩から飯山藩までに及んでいる事が分かって来た。更に震源地が善光寺西側付近の、鬼無里村の虫倉山付近だと判って来たのは、沢山の山肌が崩れ、谷間の集落が土砂に埋もれてしまったからである。特に犀川沿いの虚空蔵山の斜面が大きく崩れ、更なる被害を生みそうな事態となったのは、その虚空蔵山から崩れ落ちた土砂が、下を流れる犀川の流を堰き止めてしまった事であった。

 この時に松代に居た佐久間象山も又、いち早く被害状況の視察を行い藩が行うべき今後の方策を上申している。特に犀川の決壊を早くから予測し、筑摩川沿いの米穀非難警告を主張して藩を動かした。松代城は犀川が本流の筑摩川に流れ込む川中島の少し上流にあった為、決壊による影響は殆ど受ける事は無いのだが、下流域の川筋に建てられた蔵などには、一切の米や穀物を非難させる御触れを急いで掲げたのである。
「犀川を堰き止めていた土砂を、この際に大砲で破壊してはどうか」と言う意見も有った様だが、更なる予測の付かない事態を生めば、そこから生まれる被害や責任は、誰もが被る事も出来ない為に立ち消えになった。江戸に居た慎助も又、地震の状況を更に知りたいと逸る気持ちを抑え、飯さえも喉を通らない状態であった。だが反面、それを知った処で江戸に居る者達には、何も出来ないもどかしさが残るだけであった。

 慎助に急ぎ松代に戻る様にとの命が下りたのは、地震の知らせが届いてから二日後の早朝である。仕度は既に出来ていた。松代に向かって江戸を出立する朝、慎助は急いで戻りたい思いを抑え、浅草の北斎の許に少しの寄り道をしたのである。寄り道とは言っても、松代に向う途中でもあったからだ。
深川から浅草なら、中仙道の板橋宿に向う途中だからである。早く松代に戻りたい思いと共に、北斎には是非とも会っておきたかったからであった。未だ早朝の出立だった為か明るくなった日本堤の道には、吉原からの帰りと思われる様な御家人や、武士や若い僧侶、それに商家の息子の様な男達とすれ違った。善光寺は修羅の世界であるのに、何とも平穏な江戸の姿を見ていると、慎助にはやりきれない思いが湧いて来たのである。
 
 「早朝から失礼いたします。先般お伺い致しました松代藩の宮本慎助と申します。北斎殿は御在宅でしょうか」
やっと朝餉を済ませた様な時間である。長屋の端にある八右衛門と書かれた家の障子戸の奥から、北斎と思しき老人の声が響いて来た。
「聞こえて居るぜ、かまわねえからよ、中に入ってくんな」
その声を聞いて慎助は、建て付けの悪い障子戸を開けて中に入った。土間の向うにある狭い部屋には、未だに行火炬燵が置かれて布団が掛けられている。その炬燵から抜け出して来たばかりかと思えたのは、掛けられた布団の端が丸く穴が開いていたからである。
「北斎は儂だが、応為から話は聞いているぜ。今度は大層な地震が信濃の松代で起きたって言うじゃねえかい。そろそろ来るだろうと思っていた所よ。まぁ今になって屏風画の話どころじゃねえとも思うのだが、ご家老様にはこう言っておいてくれねえかい。北斎は中風になってしまってよ、まともな画は描けそうにはねえ有様だと。それでよ、どうしてもと言われるのなら、儂に一番筆筋の近い弟子を一人、松代が落ち着いた頃に、そちらに向かわせますからと、そう伝えて於いては呉れねえかい」
「承知致しました。必ずお伝え致します。処で先般は阿栄さまから、先生の描いた墨画を沢山戴きました。ありがとうございます」
「なぁに、礼には及ばねえよ、応為が言った様に、持っていても何の役にも立つ訳じゃねえしな、お前さんの役に立てられるのなら、それはそれで意味があると云うもんよ。そうだ、描いた由来など一筆書いて置こうか、そうしておけば、誰が描いたものか、どうして慎助さんとやらの手にあるのかも、明らかになると言うもんよ。で、あんたの號は何と云いなさる」
「下手な俳句の号でしたら「国之屋」と申します。国は信濃国のくにで、之が入り、屋号のやと申しますが、何故でございましょうか」
「書画に留める名前はなぁ、代々伝わる名字でも無ければ通称と呼ばれる様な名でもねえのよ、まして諱(いみな)で、なんてとんでもねえ話さ。昔から書画に入れるのはよ、雅号と相場は決まっているもんよ」

 北斎はまるで画の落款を書くかの様に、墨を筆に含ませると一気に書き上げた。何の役にも立たないと云いながらも、愛着を持っている事は隠しようも無い様に慎助には思える。
『日新除魔と號して、朝な々書き捨て足るを、高君子の応需にて、末世の一笑となりしは、今更汗顔をぬぐうのみ、 三浦屋八右衛門、国之屋高君』
この国之屋とは、家老の望月主水から句会で貰った、宮本慎助の俳號であった。
「ところで信濃の地震だが、小布施辺りの被害はどうだ、何か聞いていなさるかい」
北斎は筆を置きながら、小布施に住む門人の高井鴻山の事を案じている様である。
「善光寺から見れば千曲川の対岸にある小布施辺りは、他と比べれば被害の程度は左程でもでも無かった様です。それに火災の被害が少なかった事も、まぁ不幸中の幸いでした。ですが高井郡や水内郡での倒壊した家はかなりの数になりそうで、善光寺に近い松代でもお城の石垣がかなり崩れ、古い侍屋敷も数十軒は倒壊した様子でして、半壊した家は侍屋敷の半数余り有ったと聞き及びます。拙宅の事も未だ不明でして。
それに寧ろ心配なのはこれからで、犀川では崩れた土砂で川が塞がったと聞いており、このまま上流に溜まった水が土砂を越えれば、一気に水は土砂を削って濁流となるはず、私にはそちらの方が心配でして」
「ほぅ、それは又酷い事が起きたものだ、それにしても松代は又、これからが大変な事の様だな」

 被害の大きさを聴いた北斎は、今更の様に驚いた顔を更に曇らせた。だが初めて北斎と会った慎助はこの時、何故か尊敬の様な思いと親しみを募らせていたのだ。それは北斎が単に世間に広く名の知れた、著名な絵師だからと言う類のものでは無かった。阿栄に日新除魔図を貰ったその日、藩邸の長屋に着くと慎助は、一枚一枚の画を広げてその絵を見た。その中に慎助を感動させる程の、何枚かの画を見つけたからである。
『欲を捨てた我は楽しい』獅子を描いた墨画の横に、たった一言の北斎の言葉が添えられていた。十二月二十五日と記されていたその画を見つけた時、既に北斎は画人だけでなく、人として達観の域で遊んでいる事を知ったからである。
貰った二百枚余りの同じ様な獅子の墨画の中には、良く見れば様々な獅子の表情が描かれていた。情けない様な顔の獅子が、雨に降られている獅子の顔もあった。そして何よりも慎助を喜ばせてくれたのは、獅子が十露盤をはじいている画であった。しかもその画の横には「一獅子がしし、二疋が獅子、獅子の十六、獅子ち廿八・・」と、戯言を言う獅子と共に、無心に獅子を描いて戯れている北斎の姿を想像出来たからである。

 宮本家は代々に亘って、和算と十露盤を奉公の柱として来た家柄である。その画を見つけた時に慎助は、それが偶然ではあるにしても、何か大切な物を北斎から与えられた様に思えた。
「処で慎助さんとやら、一つふたつ、あんたには聞きたい事もあるが、又、是非とも頼み事もあるものでな」
「頼み事とは又どの様な事で、私に出来る事ならどの様な事でも、と思っていますが」
それが少しの無理であるにしても、何とか叶えてやりたいと慎助には思えた。
「まず聞きたい事と言うのは、あの象山の名前の事なのだが、一体何処から得たものなのか、慎助さんは知ってなさるかな、実にいい名前なもので、少々気になっていたものでな」
「象山先生の名前の由来ですか・・・。先生がお生まれになった屋敷の前にある山が、象山と呼ばれる様になる以前には、私などは竹山と申しておりました。ですがその竹山の麓には、恵明寺と申す禅宗の寺が御座いまして。黄檗宗と云う禅寺の開祖だった木庵禅師が清国に居られた時に、最後に住持していたのが泉洲の象山慧明寺と云う名前だったとか。そこでこの寺の号を象山としたようです。ですから象山と云う山が広く知られる様になったのは、やはり先生の名前の御蔭だと聞いております。先生は何処に居ても故郷を思い出せる様にと、雅号にこの名前を採ったと伺っております」
北斎は「ほぅ」と言うと、黙って頷いた。そしてこんな話を慎助に語り始めたのである。
「実はな、最初に小布施の鴻山の所に逗留した時の事だ。東町の世話役から頼まれた祭り屋台の天井画は、どんな画にしようかと考えていた時の事だ。儂は門人の鴻山から、象山が漢詩の『望岳賦』を作った話を耳にしてな。しかも鴻山や象山の師匠だった佐藤一斎と云う儒者が、これぞ当代一の漢詩だと言って褒め称えたって言うじゃねえか」

 北斎が語った話は、象山が著した漢詩『望岳賦』の最初の部分の言葉で、象山の想いを強く現している部分であった。
「登麗護以高視兮 望青天之厖鴻 正澔々以汗々兮 思宇宙之無窮 循欞檻而周流兮 聊披襟而嚮風 原野遒其案衍兮盈禾麻菽麥 之芁々嬰長阜之隱麟兮・・・・」
読み方で著すと、このようになる。
麗護(れいしょう)登り以って高く視(み)、青天の厖鴻(ぼうこう)なるを望めば、まさに澔々(ごうごう)として以て汗々(かんかん)たり、宇宙の窮(きわま)りなきを思ふ櫺檻(れいかん)に循(したが)ひて周流し、聊(いささか)か襟を披きて風を嚮(むか)ふ・・・・。
長文なので割愛するが、象山が三十一歳の頃に、つまり天保十二~十三年頃に書いた漢詩である。この漢詩の意味は冨士山の壮麗さを称え、その清々しい晴やかさや希望と喜びに満ち溢れた自らの想いを、六百八十七文字と云う数の漢字を用いている。それだけに縦六尺横三尺の大きな一枚の紙全体を使って書き上げた大作でもあった。それにしても北斎は、話が富嶽の事となれば否応なく気持ちがそこに向くのは、慎助にも理解出来ない話では無い。富岳三十六景の錦絵は、この国の津々浦々に運ばれ、富士の山の姿と北斎の名は全国に広まっていたからである。

 北斎は更に言葉を続けた。
「その鴻山が儂に言うにはよ、《先生は当然ながら筆で上手い画を描きますが、あの象山は漢詩で実に見事な富獄を描いておりますな》ってよ、まぁ、ぬけぬけと儂の前で言いやがったもんでな。よし、それならと儂はな、鴻山に届いた星厳からの手紙に書かれた『望岳賦』の最後の一文を読み終え、思わず頭に浮かんで来たのが、富岳の頂を龍が昇ってゆく姿よ。その時、急いで筆を取って下絵を描き、改めて描いたのがこの墨画だ。長い漢詩の最後の一文だが、そこにはこんな風に書かれておったのを、儂は今でも覚えておる。
《ああ、我まさに風雲に駕して電光に鞭打ち、紅の霞に軽裘をひらめかせ、蜺(げい)ほうの襂(しん)しをそばかし、氛旗(ふんき)の龍を曳き、六漠をはるかに過ぎ八荒をとり、その巓(いただき)への道して、輈(ながえ)をとどめ、玉泉の霊液を汲み、石芝を採りて自ら羞め、狭雲の金閥をあゆみし、蓬莱の巨鼈を出し、隠壑(いんがく)の潜虬は舞はじめ、永く愉楽して以って世を度(わた)り、大清を興して儔を為さんとす》」

 北斎は更に言葉を続けて、詩の意味を改めて慎助に説いて聞かせた。
「この意味を要訳すればだ、《我はまさに、風雲に乗り雷鳴を鳴り響かせ、赤い霞の様な薄絹を身に纏い、虹色の旗をなびかせて曲がりくねった雲の中を、まるで神に使わされた龍の様に舞いながら、冨獄の頂を越えて天空へと昇り、この俗世間から離れて行きたいものよ》と、こんな意味になるのだろうがな・・・」
北斎は思い出す様に、『望岳賦』の末尾の一節を口にした。そして慎助の目の前に、未だに経師にも出しては居ない、丸めた一枚の大きな紙を奥の押入れから取り出したのである。 
随分と幅の長い桐箱に入っていたのは、幅が三尺もある画だからで、襖に使う大きさの紙であった。確かに漢詩を著した『望岳賦』の横に並べるには、同じ大きさの紙に描く以外に方法は無い様に思える。紙を広げるとそこには富士の頂に向かって、龍がまるで雲の道を登って行くかのように描かれて、確かに北斎が言う様に大きな墨画であった。

 「この墨画は『富士越龍図』と云うが、まぁそんな訳でな、この画を象山が書き著した『望岳賦』と同じ大きさの紙に描いてみたのよ。象山には是非とも『望岳賦』の横に並べ併せ、見て貰いたいと思い描いたのだが、しかしだ、龍を描いた富嶽の向かい側に、少し空いた空白が儂にはどうにも気になっていかん。儂が描いたこの『冨士越龍図』には何か物足りないと思うていたが、その時に思い出したのが、あの小布施の穀屋の店に出向いた折に、目に入った『穀屋』と書かれた屋号の額の書よ。
象山の書が儂の描いた画のそこに入ってこそ、この墨画が生きると思うたのよ。そこでもう一つの頼みとはな、その空いた場所に象山の賛を入れて貰いたいと思うてな。今まで外には出さず手許に置いていたと、まぁそう云う事だ。
描いた時は除魔図と同じでな、売るでも無く求められた物でもない。賛をそこに書き添えて頂けるのであれば、象山に差し上げたいと思うておるのだが・・・。そこであんたへの頼みなのだが、儂が描いたその一幅に、是非ともを賛を添えては戴けまいかと、その様に象山に頼んで欲しいのよ。云いや、書いて戴ければ画は生きる。書いて戴かなければ、画は破り捨て去って戴きたい。その様に言って渡して欲しいのだが、この頼みを聞いては戴けまいかな」

 言い終えると北斎は、どうだ、とでも言う様に慎助を見た。
「先生の願いとあれば、届ける事は致します。しかし私には何処か、禅問答の様な話に聞こえて参りますが」
「そうかもしれん。しかしあの象山には判るだろうよ」
北斎は画を桐箱に入れると、無造作に慎助に手渡した。
「それでしたら今度は私の方から先生に、是非とも一つお尋ねしたい事がありますが」
そう云いながら慎助は押し戴く様に、掛軸の入った桐箱を、持っていた風呂敷に包み直した。
「何だ、言ってみればいい」
「先生は随分とご長寿でございますが、その秘訣とやらをお伺い出来ればと」
「なんだ、その事かい、よし、初めて儂が長寿の秘訣を伝授してやろう。紙に書いてやるから、松代に戻ったら試してみる事よ」
北斎は苦笑いをしながらも、新しい紙を広げて長寿の薬の製法を書き始めたのである。
  龍眼肉 皮を去り 目方拾六匁
  太白砂糖        八匁
  極上々焼酎       壹升
「壺に入れ能々封じ日数六十日置きて朝夕猪口にて二つ宛御用ひ」と作り方や飲み方まで書きとめ、それを慎助に渡した。
「実はこれから、このまま松代に帰らねばなりません。又、機会が御座いましたらお目にかけさせて頂けたらと思います。阿栄さまは御留守の様ですが、宜しくお伝え下さい」
「おぅ、伝えておこう・・・」
今度は一言だけ声を出すと、もう一度ゆっくりと北斎は頷いた。
慎助が葛飾北斎と出会ったのは、後にも先にも、この時の一度だけである。北斎は『冨士越龍図』と云う墨画に、象山殿の賛を入れて貰いたいと云った。そうして賛を貰えれば画は象山殿に差上げると言ったのである。そして賛を書き入れたくは無いのなら、破り捨てて貰いたい、と慎助は聞いただけであった。


十七、犀川の決壊

 慎助が中仙道を下り追分宿から北国街道を経て松代に着いたのは、善光寺地震が起きてから数えて六日目が過ぎた四月一日の事である。松代の有楽町にある家臣達が住む武家屋敷は、何処も屋根瓦が軒下に落ちて割れていた。住まいを囲む土塀も崩れ、門は傾いたままの屋敷もあった。慎助の屋敷も玄関の戸は開ける事も出来ず、台所の水瓶が割れるなど、被害の大きさは地震の揺れの大きさを物語っていた。
慎助が江戸詰めの御役目に移ってからは、母の「さだ」は、同じ町内にある実家の伊木家に戻って暮らしていた。留守中に伊木家の叔父達が、地震の後片づけに来てくれた事で、一部ではあるにしても新しく戸板が替えられ、取り敢えず雨が漏らない程度の屋根の補修も済んでいた。
一方で気になっていた御蔵屋敷は、落ちて割れた屋根瓦はそのままに、職人たちが屋根の補修に励んでいた。ここだけは急ぎ雨漏りを防がなければ、藩の政はたちどころに停滞するからである。
この日から御勘定方に戻った慎助は、地震の被害を調べる事を申し渡され、師の象山と同様に藩内の被害調査へと狩り出されたのである。

 藩から命じられた被害の調査をする傍ら、慎助は江戸から松代に戻る道中に考えていた事を、何とか実行できないかと思い悩んでいた。善光寺地震の後に震源地の近くにある虚空蔵山が崩れ、その下を流れる犀川が堰き止められている。しかも、ただ堰き止められているだけではなく、徐々に上流から流れて来る水量が増え続け、何れ決壊する事は時間の問題である事が、象山から藩に伝えられていたからである。
犀川の源流は美濃や越中との国境のある、安房峠から木曽の鳥居峠、更に常念岳などの高い山の雪解け水を集め、更には松本藩の安曇野の湧水も含まれる。いわば日本海に流れこむ信濃国の半分の水を、一手に集め下るのが犀川である。しかも犀川は広い安曇野の盆地から、急に山間の狭くて曲がりくねった渓谷へと流れ込み、一気に川中島で筑摩川と合流する、その手前の場所が堰き止められたのである。

 慎助は堰が崩壊するであろうと予測される日や、崩壊した時に起きる川津波と呼ばれる膨大な量の水が、果たしてどの位の高さで筑摩川に流れ込んで合流するのか、それを和算で予測する事ができないかと考えていたのだ。易学によって既に象山が行った見解が、上司の入安兵衛の口から慎助に伝えられた。それによると『七日より天候は俄かに悪くなり、暴風雨の来襲が予測され、山抜けで塞がった堤は十三日に決壊するであろう』と言うものであった。
易学を頼りに目前の大事を判断する程、慎助は易学に詳しくは無い。だが、そこに何がしかの根拠があるにしても、象山の言った決壊の日時や天候の話を鵜呑みには出来ないのは、仮にも算学を学んで来ているからである。ましてやそれが象山先生の出した予測であるにしても、易学で堰の決壊の日が予測出来るのなら、地震の起きる日を易学で何故に割出せられないのか、計算もせずに答を推測で出すに等しいではないか、と慎助には思えたからだ。
算学では定理とよばれる式を用いる事で、それが答を出す為の根拠になる。定理とは誰が行なっても不変であり、そしてその答えは又次の結果の根拠となるのである。それ故に出した答から根拠を示す事が出来なければ、それは学問とは言えない推測の様なものであるだろう。易学は謂わば、統計から導き出した一つの答ではあるにしても、絶対の根拠を持つ答ではないのだ。
地震の原因は不明ではあるが、それによって山崩れが起き、川が土砂によって塞き止められた。その川の水が更に増えて塞き止められた堰は、今や塞き止められた水の力で決壊寸前であった。

 慎助にしても決壊の仕組みは大凡だが想像する事は出来る。水が堰を越えた時、水を止めていた堰の反対側の斜面を、溢れた水は流れ落ちながら土砂をも削り流して行く。水を塞き止めた堰の厚さが次第に薄くなり、溜まった上流からの力に耐えられなくなった時に、一気に堰は崩壊して激しい勢いで水は下流へと駆け下って行く、これが川津波であった。
子供の頃に小川を堰き止め水を汲み出し、魚を獲った時に見てきた小さな経験と記憶があった。この時に初めて慎助は、象山とは意見を異にした事に慎助は気が付いたのである。まずはいつ頃に堰は崩壊するのか、大凡であるにしても分かれば下流域の人々の不安も、容易に解消する事が出来ると考えられるからである。
だが問題はその後である。算学と呼ばれる数字を、和算として帳簿にだけで使ってはいるものの、こうした災害にも予測を導き出す事に使えるはずだと思えるのだ。何故なら象山先生が専門の、大砲の弾の飛距離を算出する計算も、それが大砲の種類があるにしても、火薬の量が一定ならば既に求める砲弾の着弾距離は、砲の角度から数式で明らかにされているからである。

 御蔵屋敷の者に改めて状況を聞くと、犀川の状況は少しずつではあるにしても、水嵩は増えて来ていると云う。徐々に溜まった塞き止湖の水量を割り出し、後に堰を乗り越えて押し寄せる水の量は、想像を超える程のものであろう事は間違いない筈である。
象山も堰の決壊を想定して、川中島から筑摩川の下流に建てられた穀物蔵の中の物を、安全な高台に移す様にと、藩の命令として下知する様に申し入れていると云う。更に下流域の飯山藩や隣国の越後まで、速やかに知らせる様にと上申していたのである。だがどちらにも何時頃に決壊するのか、どの程度の水が溢れるのか一切は判らないままである。しかし少なくとも松代藩で行なっている様々な対策を、速やかに知らせて置くことになった。
そして慎助は早速、決壊すると予測されるその日と和算で割り出す為、決壊後に溢れて流れ落ちる水量を導きだす為、大まかな計画を組み立てた。そうして入弥左衛門庸昌の孫にあたる和算家の徳嵩甚蔵や、同じ松代に住む中村仲右衛門など宮本門下の者に声を掛け、仲間に誘う事を決めたのである。
この話を聞いた二人は、諸手を挙げて賛同した。そしてその夜に集まった二人に対し、慎助はこの計画を打ち明けたのである。

 まず初めに口火を切ったのは慎助であった。
「この度の災害を更に広げる事が無い様、我等の和算の力でもそれを試し、何らかの結果を得たいと私は思うのです。其の為には何時頃に、どの位の規模で塞き止められた水が決壊するのか。その予測が生かされるとすれば、我等の学んだ算学も生かされると思うのです。
そこでまずは犀川が塞き止められている堰を測り、その堰の最低部から塞き止湖の水面までの高さを測りましょう。塞き止められた堰の長さと幅と、それに犀川の上流から流入する水の量を調べ、毎日、どの程度の水か増えていくのかを割り出せば、後は水が堰を越えて堰が決壊するまでに、どの位の日数がかかるのかを割り出せるはずです。
そして貯められた水の量を掴む事で、決壊後の下流に流れ出す水量を予測し、波の高さやその力を割り出せれば、どの程度の場所まで流れが届くのか、それも事前に読み取る事が可能な筈です。読み取れれば予測が建てられる。それこそがまさに、更なる被害を少なくする早道だと・・・」
慎助の話の途中で、今度は甚蔵が口を開いた。
「左様、算学は何も帳簿や年貢の石高を算出すだけの物ではありませぬ。まずは大量の水が止められている堰の方は、私が調べましょう。慎助殿は上流に向かい、どの辺りまでが塞き止められた湖の湖面となっているか、是非とも見て調べて来て頂きたい。そして取り敢えず毎晩、その状況を報告させて頂き、そこから計算して行くというのはどうでしょう」

 今度は仲右衛門が、大きく頷きながら言った。
「考えて見ますと、計算はそれ程難しいとは思えませんな。寧ろ難しいのは測量する事のほうかと思えます。藩の御力を頂ければ手っ取り早いとは思いますが、もしも計算違いとなると話は後々に大ごとになるかと。それ故に計算の結果は、慎助殿から象山先生の御耳に入れて頂くと云う事では」
耳に入れて置くと言う提案に、慎助は思わず納得した。
「わかりました。取り敢えずは机上の計算、と云う事で象山先生に伝えます。早速、明日の早朝から始めようではありませんか」
藩内はこの俄に起きた天災に、全くと言って良い程に普段の仕事は手に付かなかった。御蔵屋敷でさえ御勘定方の半分の者達は、出仕よりも被害の報告書を書く為に、被災地を廻って多くの藩士達は不在となっていたのである。

 翌日の早朝である。慎助は犀川に流入して来る水量を調べる為、堰から上流に出向いた。被害は至る処にその痕跡が残され、あの地震の大きさを物語っていた。他の二人は塞き止められた堰や、増えて来る水の量を測量する為、震源地と思える虚空蔵山の麓にある岩倉へと向かった。既に地震から丸八日目が過ぎた、四月三日の事である。
山崩れは虚空蔵山の山裾にあり、その川岸近くには、嘗て家々が集って建つ集落があった、藤倉の部落と古宿である。だが山崩れは村を一瞬の内に呑み込んだのだ。三人が現場の岩倉に着くと、目の前には幅が三町(約三百メートル)程の斜面が剥ぎ取られ、虚空蔵山の頂き近くからは真っ直ぐに下に、六町(約六百メートル)近くもの長さで地滑りの跡が見えた。この下に村があった、と思うと震えが来る様な思いがしたのである。
虚空蔵山から少し離れてはいるが、藤沢組と呼ばれる虫倉山の東南斜面にある集落では、崖壁の下にあった二十二戸の全てが土砂で一瞬の内に埋もれ、恐らくは九十名程の村人が土砂の下になってしまったと云うのである。

 だが既に起きた被害よりも、寧ろ犀川の塞き止められている姿が慎助には驚きであり関心事であった。犀川沿いにある穂刈新町(現、信州新町)の橋本までは、松代藩の領内である。しかし松本まで出るとなれば、普段は山越えで大町へと向かうか、天保三年から始まった通舟で松本に向かうのが、最も早い方法なのである。この付近から犀川は蛇行を繰り替えし、急峻な山並みが道を作ることを拒んでいるからである。何れにしても国境に出向き、松本藩を流れる犀川の様子を尋ね、或いは見てこようと慎助は考えていた。
何艘かの川舟が流され、堰の傍に漂う様に集まっていた。慎助は中条村の村役に申し付け、二人の漕ぎ手を貸してもらい川舟で上流に向かう事にした。濁った水面には流されて来た材木と、そして牛馬の死体が漂っていた。波の無い水面は静かに山間の谷底に続いていた。どちらが上流になるのかさえ、流の無い水の上では判断が付きにくい。岸辺は水かさがが増した事で、屋根まで浸かっている家が幾つもあったのである。

 一方の甚蔵達の二人は犀川を塞いだ堰に登り、塞き止め湖の水面から堰の一番低い場所までの高さを測っていた。水が僅かに流れている川底から堰の高さは二十丈(六十メートル)程で、その幅は六町程(六百メートル余り)である。堰の幅は七丈(二十メートル)余り、堰き止湖の水面から堰の低い所までも、やはり七丈程もあった。凄まじい程の量の土砂や石が流落ちていたのである。
更に今度は塞き止湖に溜まっている水量を調べる為に、対岸までの遠い距離と近い距離を測った。目印として一尺ずつの印を付けた長い棒を、湖岸に深く突き差し湖面の位置を記録し、毎日を同じ刻限に付ける様に村役に頼む事にした。最後に犀川を挟んで虚空蔵山の向に住む者達に、地震以前の川の深さや川幅の話を聞いて記録したのである。

 其の夜、慎助は松代に戻らなかった。松本藩との国境にある番屋で一夜を明かし、松代で待ち構えて居た二人と顔を合わせたのは、二日目となる翌日の夜の事である。しかも犀川沿いに連なる家屋は、床上や水没などまさに水害の様相を見せていた。慎助はそれ等の話を二人に伝えたのである。 
「塞き止湖の水面は、既に国境を越えて松本藩の預地となる生坂村まで届いている。距離にして川上に凡そ七里(二十八キロ)程もあった。川幅も下流の堰のある辺りとは、左程の違いはない様に思える。犀川上流の天候が大雨などによって極端に悪化しない限り、溜まった水の量が堰を越える日の算定は可能の筈だ。後はその溜まった水量を湖面の広さから算出して、出来る所まで計算しながら明日にはまた、堰に出かけて増えた水量を調べてみよう」
「私の方は一昨日に出かけ、堰の所の水面の高さを調べて参りました」
と、仲右衛門が声を上げた。
「それはご苦労様でした、で、どの位の上昇でしたか」
まずは一日で、どれ程の水位の上昇があったのか大事な数字であった。
「はぁ、それが出かけた三日目より、凡そ九尺(二・七メートル)程で、差し込んだ棒が沈むかと思われました」
聞いた質問に、慎助は驚いた顔をしながら、又、口を開いた。
「今はまだ何も結論は出せませんが、明日の水位の上昇を見てから、計算を始めようではありませんか。堰を水が越えるのは、水位の変化を追えばいつ頃かは出て来ます。問題は水量ですから」

 四月五日の朝である。慎助は一人で堰に出かけ、昨日からの増水した目印を調べた。増水の量は八尺(二・四メートル)程である。俯瞰して見れば犀川が発する源流は、美濃と信濃の境でもある安房峠や、越後の糸魚川を結ぶ千石街道沿の、夏でも雪の残る高い峰々から流れ出る水を集めている事を思った。雨が降ればこの予測も、大きく崩れてしまう事になると、慎助は自然の力を予測する事の難しさを思った。
それでも慎助達は水が堰を越える日を四月九日~十日と算出し、堰を越えた水が堰の反対側に流落ち、堰が崩れて出す日を四月十二日から十三日頃と割り出したのである。そして更に堰の下流に広がる善光寺平の筑摩川合流域まで、凡そ十尺から二十尺(三~六メートル)の波が、いっきに襲い掛かると算出したのである。しかも堰の上に広がる塞止湖の湖面の面積は、既に諏訪湖の一・二倍程になっていた事が判明した。

 慎助はその決壊するであろうと予測した日と、そして襲ってくる水の量を密かに象山に伝えたのである。象山はただ黙って「ご苦労だったな」と言った。
特に犀川の状況を聞くにつけ、周囲は慌ただしくその対策に振り回され、象山もその先頭にたって指示をしている様である。地震から十六日後の四月十一日、震源地に近い犀川の岩倉で塞き止められていた水は堰を越え、強い流となって自らの堰を徐々に削り取って行った。
それから三日後の四月十三日、水の量に持ちこたえられなくなった堰は、大音響と共に濁流は川を駈け下っていった。筑摩川と犀川が合流する辺りでは、高さで六尺(一・八メートル)を越えた濁流が流落ち、更にその倍程もある大きな波を作り出して、次々に川沿いの家や小屋を押し流していった。
この洪水は松代藩内だけではなく、下流の飯山藩を含め一千八百戸余りの家屋が流され、半壊家屋は二千八百余りとなった。そして実にこの濁流が越後の河口まで届くのに、丸一日も掛かる事は無かったと後で耳にしたのである。

 善光寺地震で受けた災害の全容が見え始め、それに伴って少し落ち着きを見せ始めた五月に入った頃、遠くの江戸では狂歌が瓦版に載った。『死にたくば、信濃にござれ善光寺、火葬に土葬、水葬もする』と、この地震が異なる様々な姿の、被害を生んだ事を表していた。
後で判明した事ではあったが、近隣を含めた死者の数は実に八千人と伝えられ、それ以外にも善光寺参拝に来た宿泊者凡そ七千人の、二割程度しか生き残ってはいなかったとも伝えられているのである。この善光寺地震は、松代藩にも大きな影響を与えた。地震による孤児の救済から炊き出しなど、松代藩では急遽、幕府から一万両の金を借り受け、三年間の倹約を領民に求めている。既に六年前の天保十二年には、飢饉の為に藩主真田幸貫が倹約令を出していた。更なる罰則を伴った倹約令など、出せる状況ではなかったのである。

 松代の藩領ではないものの、幕府領のある高井郡や水内郡の被害の状況は、「中野御代官高木清左衛門様御伺書写」が長野市居稲里町の柳沢家に伝えられ、その状況を具体的に知る事が出来る。
長野市小田島の岡沢氏の解読によると「誠ニ以、絶言語二候。異変之体不見忍」とし、「小前者勿論、村役人迄本心を失い、更ニ跡片付之心得茂無之、銘々潰家之前ニ家内一同に雨露の手当茂不致、只途方ニ暮、茫然と致し居、私の見請狼狽、頻りニ落泪止難く、問絶致し、尋候而茂答も出来兼相伏居」と村人たちが呆然としている様子を伝えている。 
ここでは死者だけでなく、馬や牛の被害の数にも言及して居て、馬が百五十疋、牛が二疋と書き送っているが、後の正式な報告書では馬二百五拾疋としている。更に「田方用水肝要之時節なので、被害の無かった田畑でも田植が困難となり、このまま捨て置けば末々御収納御国恩ヲ失ひ不易之義」と二千五百両の拝借金を願い出ている。

 地震からひと月余りが過ぎた頃、慎助は家老の小山田壱岐宅を訪れた。北斎の屛風絵の話を伝える為である。しかし家老の壱岐は慎助の話を制して、こう言って労いの言葉をかけたのである。
「ご苦労な事であった。しかし今度の地震では未だ重なる倹約の最中、屏風絵の話などが表に出れば、きつくお咎めを受けるやも知れぬ故、そうよ、この話は三年か五年、しばし時間を経てから後に、と云う事にな」
家老である小山田壱岐のこの一言で、北斎の屛風絵の話は立ち消えとなったのである。当然の事だが、北斎から貰った『日新除魔図』も行き先を失った。慎助はバラバラになっている画を仮綴すると、先考遺墨と題して画帳装を施し、宮本家の蔵に入れられ何時しか忘れ去られて行ったのである。

 話を少しだけ戻す事にしよう。
松代藩は地震の翌年から新たに人頭税として十八歳以上、六十四歳以下の男には五年間を毎月百文、女には三十二文を求める事を決めた。そうした税を課す一方で、家屋の流失や焼失者には金三分と米を二斗五升、潰れた家には金二分、半焼の家には金一分を見舞金として渡し、降りかかった災難の急場を乗り越えようとしたのである。
松代に戻った慎助は善光寺地震の被害の調査から、その対策へと役目を与えられ、江戸へと往復する勤めも以降は他の若い藩士に代えられる事になった。

 善光寺地震の被害救済などが一段落したのは、その年の八月の半ばである。象山は越後の国境である佐野村(現、山の内町・木島平・野沢温泉)で、後に熊の湯(志賀高原)と呼ばれる温泉を発見し調査している。処がこの三村利用掛の視察の最中、象山はリュウマチに罹ってしまったのである。間接が固くなり、節々が痛くなる病である。暫くは象山も江戸に出向く用事も無かった事から、松代で地震や筑摩川の決壊などの後始末で追われる事になった。
慎助の方も父親の市兵衛同様に、松代藩内にある幕府直轄地の管理を行う御預所掛のお役目を任された後、初めて藩主の幸貫から褒美を貰った。産物方出精に付き青銅百疋、そして荷物会所懸出精に付として青銅百疋を併せてこの時、主君から直接の褒美を受け取ったのである。
そして象山も犀川の決壊を予測し、下流の穀物蔵などに保管していた穀物などを、速やかに高台へと移す手配をした事に対する褒美として、青銅百疋を二人とも有難く戴く事となった。
そして地震で伸び伸びとなっていた父親市兵衛の十三回忌の法事を、慎助はこの八月の末に執り行ったのである。

 余談だが、この百疋とは何を指しているのか、歴史が好きだと言う人でも、どの位の価値があるのかを知る人は少ない。ここで言う疋(ひき)とは、贈答に用いる単位の事である。疋が馬や牛などの単位であると同時に、反物を贈る時にも使用する単位である。つまり馬も牛も反物も古くは贈答、つまりここでは身分の高い者から目下の者に、褒美などとして贈られる時に使われた単位の事である。
そしてこの価値の事だが、江戸時代の単位は三種類あった。金貨の単位は両・分・朱であり定量計数貨幣であるのに対し、銀貨の単位は何貫・何匁と呼ばれ、こちらは秤量貨幣である。銭は銀と同じで何貫・何文と云うが、こちらは金と同じ定量貨幣での呼び方である。しかも金にしても銀にして、交換率は絶えず変動しており、大坂の景気が江戸より良ければ銀が値上がりし、江戸の景気が大坂より良ければ、銀は下がり江戸の金が値上がりすると言う関係があった。所謂、変動相場制と云うものである。

 江戸時代も中期となると、金一両は銀六十匁と定着したのだが、金一両が銭の何貫になるのかは、江戸時代最後になっても定着する事は無かった。しかも金や銀の計算は四進法を使用していた為に、益々ややこしくなって来るのである。
交換比率を言えば、金貨一両は二分金が二枚の事で、一分金なら四枚、つまり一両は四分である。更に二朱金では八枚となり一朱金なら十六枚が一両となる。それを銀貨に変えると一両小判は、丁銀或いは豆板銀が六十匁で、五匁銀なら十二枚、一分銀では四枚となり、二朱銀では八枚、一朱銀では十六枚となる。簡単な話が基本は一分金と一分銀は等しく、二朱金と二朱銀も等しく、一朱金と一朱銀も等しいと言う事になる。つまり金と銀は同じ価値とみなされていたのだ。
ただ異なるのは、そこに相場が存在し、変動する事なのである。そして銅銭なら大凡、四千文から一万文(つまり四貫~十貫文)と変動が激しい為に、的確な数字を示す事が出来ないのである。

 本題となる青銅百疋とは一文銭が百枚の事だが、実際には一文の銭の真ん中の穴に紐を通し、九十六枚を百文とした九六銭である。尤も一文銭百枚を百文とする丁銭と呼ぶ勘定の場合もあるのだが、紐で纏めたものは九六枚でも百文と呼ぶのが江戸時代では常識なのである。差額の四文は両替商の手数料とみなされるのだ。
ついでだから一つだけ幕府の失策を挙げて置く。ペリー来航以降に外国との通商条約を行ったあとで、金と銀が同じ貨幣価値に目を付けた西洋人は、銀で金と両替をしまくっていたのである。西洋では銀貨よりも金貨の方が価値は高く、其処に目を付けた西洋人が大儲けを企んで、徳川幕府は何とそれを許してしまつた事であった。西洋では金が銀よりも高価であるなど、幕府は全く知らなかったのである。

 慎助は自分たちが和算を使い、犀川の決壊日を算出した答えが、大きな誤りも無く予測出来た事が喜びであった。十分な満足感と、自信を持つ事が出来た事が嬉しかった。しかも象山と共に主君の幸貫から褒められた事は、今年で二十五歳となった自分の、何処かが一回り大きくなれた様にも思えたのだ。知りたい事を知るには、知りたいと言う強い思いと、それ相応の努力が必要である。知る為に用いた努力は用いた努力の大さに応じて、知ると言う満足感が喜びに変わる事を知ったのである。

 ところで慎助が御預所掛を任された場所とは、松代藩の中にある高井郡の六つの村、つまり中島村・大島村・村山村・飯田村・山王島村・そして福原村である。更に区分けが混み入ってはいるが、幸高村や相之島村・そして小布施村も含まれていた。其の為に慎助は小布施の高井鴻山とは時々ではあるにしても、顔を合わせる機会が多くなってきていた。特に鴻山の高井家や十八屋の分家である穀屋の小山家は、代々続いて居る小布施の名家と云っても良いだろう。
既に述べている事だが、元々が小布施はかなり古い時代、つまりこの時から百五十年程前の元禄十五年頃から十年余り、幕府直轄の代官所である陣屋が設けられていた。豊臣秀吉の子飼いとも言われる武将の福島正則が、二百二十年前に安芸広島城から川中島へと移封されて、幕府領の小布施でその生涯を閉じている。今も此の辺りの村々は藩の指図では及ばない、独自の町人文化が色濃く残って居るのである。あの八坂神社の祭り屋台などは、まさにその典型的な文化でもあったのだ。

 慎助が久しぶりに象山の顔を見たのは、市兵衛正武の十三回忌の法要を執り行った八月末である。山歩きが祟ったのか象山のリュウマチは益々酷くなり、片足を引きずる様に歩く姿が痛々しいほどであった。それが為なのか近々、郡中横目付は御役御免になると云うのである。亡父の法事の席に来てくれた象山に、慎助は北斎からの話を伝えながら、預かった墨画の大幅『冨士越龍図』を象山の前に差し出した。
「先生、北斎殿から先生に画賛を入れて欲しいとの事で、墨画をお預かりして参りました。画賛を入れて頂けるのであれば、是非とも先生に差上げたいとも申しました。もし画賛を入れて頂けないのであれば、破り捨てて欲しいと承っております」
慎助は桐箱の中の墨画を取り出すと、象山の前に差し出した。頼まれていた事を伝えた事で、やっと肩の荷を下ろす事が出来た様な安堵した気分になった。
「ほぅ、絵師とはやはり上手いものよ、実に見事な一幅だ」
北斎が描いた冨士越龍の墨画を広げた象山は、感心した様に感嘆の声を上げた。慎助が見るのは二度目だが、まじまじと見るのは初めてである。大きな墨画であった。凡そ何処にでも見かける掛軸の、それは倍以上もの大きさである。恐らくは天保十二年に象山の書き認めた、漢詩『望岳賦』に並べ併せて見て貰う為に、襖と同じ六尺三尺の同じ大きさの紙に筆を取ったものと慎助には思えた。

 それに小布施の高井鴻山から「北斎先生は筆で画を描くが、象山は文字で画を描く」と言われた一言が、余程北斎の胸に深く突き刺さったのだろと思えたのだ。既に北斎の描いた墨画の左下には、画狂老人卍筆と北斎の落款が小さく書き入れられてあった。
北斎本人から持たされた画だから、画としては紛れもない北斎の墨画である。落款もあり北斎から受け取った自分の手を離れたとしても、何処から見ても完璧であろうと慎助には思えた。図柄は白く聳えた富士の中腹を巻く様に、海から立ち昇る黑雲の中を龍が天に昇って行く図である。描いた龍の反対側の、富岳の頂きの空白が気に入らないと北斎は云っていたが、慎助にはどれ程のものでも無い様にも思えた。
北斎の話を慎助から聞き終えた象山は、黙ってその大幅『冨士越龍図』の墨画を見つめていた。やがて墨と硯を貸してくれと言うと、そのまま硯で墨を摺りながら、暫く物思いに耽っていた後で短い漢詩を書き始めた。何処に画賛を入れるかも聞かずに、象山は北斎が求めていた場所に筆を入れたのである。

 『滄海翻波起伏龍 飛騰倐忽過芙蓉 沛然下雨物皆息 雨霄雲収無跡蹤  象山平子明起』
書き上げると象山は懐から自らの印を取り出し、白文方印「啓又大星」と朱文方印「字子明」の、二つの印を捺した。慎助は横目でその絵を見つめた。そしてまさにこれこそが、画竜点晴の一幅であろうかと思った。絵だけでも凄いと思っていたものが、象山先生の賛が加えられると更にその凄さを増していると思えたのだ。それに北斎も象山先生も賛を入れる場所など、自分が伝えなくても既に以心伝心の境地に居ると知ったのである。しかも画賛に入れた文字を見て、慎助はおやっと思った。最後に象山平子明起と自らの雅号を入れながら、詩の最初にも滄海と云う、これも象山先生が自らの雅号を、賛の最初に入れていたからである。
象山はこの他にも観水とか養性斎など、幾つかの雅号を持っている。手紙に使う号は更に幾つも書き分けている。書くだけでなく印に彫った号も、大星とか呉湾、更に星白と云う名前や、星拝と済す時もある。北斎も三浦屋八右衛門など、幾つもの雅号を使っていたと云うが、象山も負けず劣らず、その時々で使い分けて居たのである。

 北斎が描いた大幅『富士越龍図』に象山先生の書いた賛の意味は、恐らくこんな内容ではないだろうかと慎助には思えた。
《海中から出て来た龍は、雲と共に冨士の山の頂を、たちまちのうちに越えて飛んで行く。全てのものが思わず息を飲む、やがて雨や止み雲が収まると、その龍も消え去って雲も無くなる》
龍は或いは海面から湧き上がった雲だったのか、その雲が龍になって消え去ったのか慎助は考えていた。その時、象山は慎助に向かって、その後の画の始末を語った。
「暫く画は預かる事になるが、江戸に出向いた時にでも、北斎殿へ届けて観て貰う事にしようかと思っている。差し上げると云われても、儂は昔から絵師の画を飾る程の好みは無いものでな」
象山はそう言って墨の乾いたことを認めると、墨画を桐箱の中に入れて仕舞った。慎助が大幅の『冨士越龍図』を目の当たりに見たのは、この時が最後であった。
そしてこの弘化四年(一八四七)の十月の末、二十五歳になった慎助は妻を娶った。父の市兵衛が亡くなってから、それまで母一人子一人の屋敷が、俄かに賑やかに、そして笑顔の耐えない暮らしが始まったのである。


十八、象山が筆を入れた『富士越龍図』と、北斎の死

 年が明けた弘化五年(一八四八)の二月、孝明天皇が新たな代始めとなった事で、年号が嘉永と改められ嘉永元年となった。この年に象山は藩命によって十二拇人砲、三斤野戦地砲、十二拇天砲の三門を鋳造し、松代西郊の道島で試射する事となったのである。
同じ年の六月、象山はそれまで考えていた国境の視察を兼ね、岩菅山から野反りを経て越後国の秋山郷へ抜けて見たいと考えていた。関節が痛むリュウマチの症状が、大分良くなって来ていたからである。目的は鉱山と温泉、それに森林を視察する事である。三村利用掛としての御役目を任せられた前任の役人達は、これまで一度として自ら足を踏み入れる事もせず、樵や猟師から聞いた話を元に、何事も済ませて来た様であった。
そこで象山は自ら足を運び、鉱物や木材などの天然資源を正確に調査する為、沓野村(現・山之内町、湯田中、渋温泉)から藩内一の高さと言われていた岩菅山を山頂まで登り、更に上野国の草津を経て、野反から信濃国の秋山郷に抜ける踏破を考えていたのである。そして雪が融け出した初夏を待って、その目的を果たす為に松代を発ったのである。

 この時「・・・山にかかり沓野御林上手よりはいり、御さかひより三里下せん澤(沢)の小屋と申す岩魚留めの小屋に其の夜は明し、昨十八日夫より又谷をわたり、山をこし候て、魚野川と申へ下り候所にて・・・」と象山は沓野日記に書いている。
しかもお役目とは言え、こうして山に登り谷を渡り、川漁師が留まる小屋掛けに一夜の宿を得ての見聞は、並みの役人には出来ない事であった。知りたいと言う強い好奇心と、何かに役立てたいとする探究心は、知っているという満足と、それを知る為に見合うだけの努力をした、と云う自信に裏打ちされて象山は生きていたのである。
この岩菅山への視察から松代に戻った象山に、お菊からは児が出来た事が知らされた。そしてその年の十一月、次男となる格二郎が生まれたのである。

 年号が嘉永となったこの頃の象山は、藩が主導して行える新しい事業を考えていた。つまり蘭学を更にこの国に広める事で、新たな知識を広く行き渡らせる為、藩費で『ドゥーフ・ハルマ』と呼ばれる蘭和辞書を作り、他藩に売る事を考えたのである。日本にある蘭和辞書は長崎の出島に居たオランダ商館長、ヘンドリック・ドゥーフが著したものである。後に十一名の長崎通詞らが協力して、文化十三年(一八一六)に幕府の要請で編纂が始められ、完成したのは天保四年(一八三三)の時であった。
特にこの辞書の複製は全てが写本であるにしても、文語よりも口語を重視して編纂された為に、使い勝手が良い辞書であった。しかし出版部数は僅かに三十部程度と少なく、総頁数は三千を超えて、言葉は五万語程が収録されているものであった。

 象山はこの辞書に新たに加えたい言葉をも入れ、外国の脅威に対抗する為に『増訂荷蘭語彙』の出版を目論んだのである。この時の象山が上奏したのは「攘夷の策略に関する藩主宛答申書」で、半年後には藩主幸貫の賛同も得る事が出来た事から、出版の資金としても千二百両を貸し与えてくれる事が許された。後は幕府の許可を得る迄となったのである。
藩の同意を得た象山は、早速その準備にと取り掛かった。嘗て十一名の幕府お抱えの通詞が作り上げたハルマ辞書を基本に、新たな言葉を選択してはその意味を正確に調べ上げたのは、試作の『増訂阿蘭語彙』を作る為である。書上げた内容を清書する為に専門の書家に頼み、それを版木に彫上げる彫師や、摺り師など多くの人出と手間の掛かるという問題もあった。こうして郡奉行で収納方の竹村金吾から四百両余りを借金しつつ、『増訂阿蘭陀彙』の一部を摺り終えて幕府天文方に提出たのである。

 更にこの頃から象山は、フランス人のショメールが著した『家庭百科事典』の阿蘭陀語版の中から、日本語に翻訳した電信機の試作にも取り組んでいた。指示型と呼ぶ二台の電信機を銅線で繋ぎ、片方の電信機に合わせた目盛の場所に、もう片方の電信機が反応して同じ目盛を指すと云う仕組みである。こうして自らの手で電信機を作り、松代で四十間程も離れて通信を試みたのである。未だ世間では殆ど知られていない電気と云うものを使い、それを利用した機器の試作が松代で行われていたのである。
象山が新しい事業や研究を行っている最中の七月に、慎助の家庭でも目出度い出来事が起きた。慎助に初めて子供が産まれたのである。生まれたのは女の子で、「かめ」と慎助は名前を付けた。この長女となる「かめ」の話は、少し後で記すことにしたい。と云うのも慎助の子供や孫達が、その後に具体的な「秀でた頭脳」を持ちはじめる、その最初の一人の母親となるからである。

 嘉永二年(一八四九)の四月、北斎が八十九歳の生涯を終えたと、高井鴻山から慎助宛に訃報が届けられたのは、松代の荷物会所で勘定役として勤めていた時である。この時に慎助は一瞬、あの北斎から頼まれた大幅『富士越龍図』の事を思い起こした。
象山は三月下旬から沓野村に出かけ、薬用人参の育成指導を村人に教えていた為に、この時には未だ松代には戻ってはいなかった。それに思い返せば、弘化四年(一八四七)の三月に起きた善光寺地震からの丸二年間、象山は一度も江戸へは向かってはいないと慎助は思った。そして北斎は象山に賛を入れて貰ったあの大きな墨画を、見る事もなく没してしまったのだと、この時に慎助は何処か孤独で頑なな、老いた北斎の顔を思い浮かべた。

 北斎が歿した大分後になってから慎助が知る事になるのは、北斎が亡くなる三か月前となる正月、つまり曲亭馬琴の日記にも、北斎が「大病を患う」と書かれた少し前の事である。正月辰の日と落款のある絹本に、淡彩の色を用いて描かれた、もう一幅の肉筆画『冨士越龍』(ふじこしのりゅう)を北斎が描いていた事である。北斎が描いた最晩年の作と云われている画だが、構図は龍が黒い雲の中を富士の頂を越えて、空高く登って行くと云う、あの墨画と殆ど同じ画であった。
その違いを挙げれば、歿する前に描かれたとするその画の大きさは、あの大幅『富士越龍図』と比べてふた廻りも小さい。しかも細長くなった為に富嶽の形は急峻さが少し増している。急峻さが増せば左上の富士の頂の空白も、左程に気になる事は無い様にも思える。
それに北斎の落款は画の右下に入っている。しかも僅かに彩色が施された絹本であった。この画の大きさなどを正確に言えば、お題は『冨士越龍』款記は嘉永二年己酉年正月辰ノ日 宝暦十庚辰年出生 九十老人卍筆とあり、印章「百」白丈方印 絹本 墨画淡彩 一幅 (九五・五センチ×三六・二センチ)である。恐らく慎助が北斎から象山の賛を頼まれた墨画は、この一幅の淡彩画を描く為の、下絵ではなかったのかと思えたのだ。
あの象山が賛を入れた大幅『冨士越龍図』に書かれた款記は、画狂老人卍筆、印章 「ふじのやま」(朱文方印)紙本 墨画 (一七四センチ×八八・五センチ)であった。左上に象山の賛が書き加えられて、同じくその横には象山の落款と印が二つ押されているのである。

 慎助がこの話を初めて高井鴻山から聞いた時、一瞬だが大幅『富士越龍図』は北斎の手許に戻ったのだと思った。しかし振り返って考えてみれば、象山の雅号が入った賛の書かれた大幅『富士越龍図』は、北斎が象山の書いた『望岳賦』から発想した、最初に描いたものだろうと慎助には思えた。
象山に渡すようにと頼まれた画を、北斎は生涯最後の作品として新たに小さく描きなおし、世に知らしめたのではないだろうかと思った。北斎は象山から、賛の入った大幅『富士越龍図』を受け取る事も見る事も無く、それ故に北斎は絵絹に描き直したのだろうとも思えたのだ。だが象山に渡したあの時以降、北斎が初めに描いたであろう大幅『冨士越龍図』の墨画の行方は、慎助にもその後を知る手掛かりは無かった。

 北斎が没してから八十二年後の昭和六年に話を進めると、佐久間象山先生遺墨顕彰会が刊行した『佐久間象山遺墨集』大日方美代里(おびなたみより)著の本には、この象山と北斎の合作である大幅『冨士越龍図』が写真で掲載されている。更に平成二十七年(二〇一五)四月には、藝華書院より刊行された『北斎娘応為栄女集』にも、この画が掲載される事になる。個人蔵の為に日の目を見たのは八十五年振りであった。しかも象山に渡った大幅『冨士越龍図』の箱書きには、慎助の息子である宮本仲の文字が残されていたのである。
仲は象山の書に関して、その真贋を見極める鑑定の第一人者である。北斎は今一度、賛の入らない絹本の『冨士越龍』を描く事で、自らを納得させようとしていたのかも知れない。とすれば、下絵を元にして後年、新たに筆を取ったとも考えられる。そしてこちらは現代に至って小布施の北斎館に購入され、その存在は確かめられている。しかし紙に描かれた大幅『富士越龍図』は個人蔵として、その行方は公にはなっては無いものの、確かに今も存在しているのである。

 巧みな想像を更に押し広げれば象山の惨殺以降、画は松代の妾であるお蝶の手から、妻である順子の手へと渡り、やがて人手に渡ったと考えられるのである。そしてそれを仲が箱書きしたものとも考えられる。或いは北斎最後の画とされる絹本の『冨士越龍図』は、北斎の娘である応為が描き、落款のみを北斎が書き記したと云う話も推測としては出来る。
だがこの話は後の明治二十二年三月八日、東京江東の中村楼で行われた象山贈正四位を受けた祝の集りに、象山の妻であった順子の話として又後で書きたい。
何故なら北斎が最初に描いた大幅『冨士越龍図』が、世間の目にとまる事になるのは、前にも述べた様に昭和六年(一九三一)に佐久間象山先生遺墨顕彰会が刊行した、『佐久間象山遺墨集』の中に掲載された写真からなのである。
歴史を紐解く上で、佐久間象山と葛飾北斎が対面していたなどと云う記録は一切無い。しかし事実は記録として、北斎の描いた墨画の上に、象山の雅号を入れた賛が書かれ、落款も印も押されているのである。

 北斎は晩年、画の真偽を門人の為斎に語った時、名前を有難がる者には名前を、画を尊ぶ者には良い画を描けば良い、と語ったのだと云う。為斎は北斎の門人の中でも、ずば抜けて北斎の筆筋に似ていた。その門人の為斎に対して、描いた画が儂の描いた画と評価されるなら、為斎が北斎と名乗れば良いと言うのである。
だがそうは云われても為斎は自らの名を、画の世界から葬る事は出来なかった。後年、この為斎は小布施で高井鴻山と合筆の画を描き、更に家老の小山田壱岐が北斎に頼んだ龍虎六曲一双の屏風絵を、北斎の代理として描いている。
後にその屛風は明治になると、小山田家から飯山の豪商へと売り払われ、更には一隻ずつが別々となり、今は龍図の方だけが信州信濃町の雲龍寺へと、奉納されて保管されている。その奉納された理由は寺の名前が偶々雲龍寺だからと、奉納した檀家の者の話であると云う。とは言え、その画に残された為斎の落款を、削り取ろうとした痕跡まであった。為斎の為を北に書き直して北斎の描いた画として、高く売る為であったのだろう。
この雲龍寺に保管されている為斎の描いた『玉巵弾琴図屏風』は、毎年六月の僅か一日だけ屏風を寺の中に広げ、虫干しとしなから訪れた者に見せると云うのである。

 嘉永二年巳酉七月に宮本家では、哀しい出来事が起きていた。宮本家にとって跡継ぎともなる長男が生まれたものの、名前すらも付ける事も出来ない死産であった。二番目に、生まれ名前も付けられずに歿した長男の小さな身体を抱きながら、慎助は宮本家の菩提寺である大林寺に葬ったのである。
自らの分身である子供の冷たい体を腕に抱きながら、慎助は初めて声をあげてその墓の前で泣いた。そしてこの時に心に決めた事は、亡くなった子供の事を忘れない様にと、男子か生まれたら順番を名前に入れる事にしたのである。

 この同じ年の同じ七月、一方の象山は恩田頼母に又借金を申し入れている。象山の提案で阿蘭陀の辞書であるドゥーフ・ハルマの改訂版を、松代藩で改定増刷して諸藩に売る為である。この時に象山は自らの知行百石を担保として、その経費となる千二百両の資金を申し入れたのである。
「右は兼ねて在込罷在僕西洋詞書ハルマ開版之儀、今般従公儀御免を可得候處、彫刻諸入用金子差支候に附、此企決して始終の損財に不相成筋段々申立御内借奉願候・・・・」
既に藩主の許可も得ている阿蘭陀辞書の増ドゥーフ・ハルマ改訂版の刊行は、幕府の天文方へと許可願いを出す為で、こうして江戸に向って松代を発ったのは十月の事である。千二百両の金は言わば辞書を量産する為、木版に彫らせ摺り上げて製本まで行う、版元に支払う準備資金であった。そしてその試作を添えて、幕府へ提出したのである。

 処が象山の許に幕府から、増ドゥーフ・ハルマ改定版の刊行は認めない、とした知らせが届いた。藩で阿蘭陀語辞書などの刊行は、まかりならぬと云うものであった。象山はその知らせを聞いて愕然とした。この国の情報を諸外国に知らせたくない事情は、多少とも理解出来る。だが交易を行っている阿蘭陀語の辞書さえ作らせないとなれば、阿蘭陀国から入る異国の情報も、幕府以外は知らなくて良いという事である。
しかし有能な人材を多く登用するならいざ知らず、世襲の仕組みで成り立つ幕府が、外国と様々な分野で太刀打ち出来など、象山には到底考えられないのである。特に進んだ科学技術の最たる兵器は、鉄砲から大砲に至るまで全てが西洋からの情報を元にして、単に真似をして来たに過ぎないからである。 

 十二月に象山は一度松代に帰藩したものの、翌年の嘉永三年二月に再度出府し、出版の許可を得る為の運動を行った。だが決定的な不許可の知らせに、象山は行き場の無い怒りを抱えたまま、三浦半島を廻り江戸湾付近の砲台を視察した。そしてその砲台が殆ど用をなさない事を藩主に指摘した後、松代に帰藩したのは六月の事である。そしてそのまま又、直ぐに江戸へと向ったのであった。
藩の中に居ても、象山の場所は無かった。出版は藩主の許可を受けていただけに、やり場の無い怒りが湧いて来たのである。この幕府からの返答によって象山は、それまで持っていた攘夷の考えは急激に薄れて行くのを感じたのだ。
しかし振り返れば老中筆頭の阿部正弘も又、特に蘭学嫌いの攘夷論者であった。ただその考えを顔や言葉に表す事をしないが為に、今の地位を水野忠邦から受け取る事が出来たのである。同じ蘭学嫌いの鳥居耀蔵が、水野忠邦から土井利位に乗り換えた時も、われ関せずと涼しい顔をしながら、阿部正弘は老中首座の地位を、密かに待ち望んでいたと言ってもいいだろう。何故なら自らの病も蘭方医には絶対に見せないと言う、本心は筋金入りの徹底した蘭学嫌いの老中であったからだ。

 象山の頭の中で、不意に別の思いが頭を持ち上げて来た。老中にしても将軍にしても、幕府の政の全てを決めるその源は、単に好きか嫌いかと云う好みだけが拠り所の様に思えて来たのだ。単にそれだけの動機で政治を動かしているのではないか、と云う疑問であった。
それまで象山が持っていた思想は、国の基本は朱子学であり、防備を備えてから科学技術など必要とあれば、取り入れれば良いと考えていたからである。しかし今回の幕府の決定は、象山の内に大きな変化のきっかけを作ったことは確かであった。そして頭の中にこの時に生まれたのは、この国を動かして行く若い青年たちを、自らの手で育てる目論見を芽生えさせたのである。
再度江戸で塾を開こう、この国の未来を憂いている者達に、今の、これからの時代に求められている学問を教え、考えて貰いたいと思った。そうした覚悟が、象山の中に強く湧き上がって来たのである。

 嘉永三年(一八五〇)の七月十日、江戸の深川にある藩邸にいた象山は、松代に住むお蝶とお菊の二人の妾宛てに、一通の短い手紙を書いている。
「此の方かはる事なく候間、気遣ひ申しまじく候、二郎(格二郎の事)たっしゃ何よりと存候。何分先日途中より申こし候事わすれ申しまじく候。われら居らぬ時は別して両人むつまじく、かたらひ可申候。うたいかがや、つれづれの時よみ候て遣し可申候」
 ―われかこし人をおもえばうちとけて、ねられざりけり夜のふくるまでー
      十日             春蛾
                      秋香         両人

 春蛾とはお蝶の事で、秋香とはお菊の事である。敢えて二人の雅号を使い、象山は自らの思いを二人に伝えている。母親は松代の親戚に住まわせてはいるが、お菊には更埴郡生萱村の雨宮(砲術の試射を行なう場所の近く)に住まわせ、一方のお蝶は一つ山を越えた筑摩川の川向こう、更級郡戸倉の門人でもある佐良志奈神社の宮司豊城直友に任せ、その宅内に建てた別邸に住まわせていた。
二人の妾同士も互いの住いを往来していたと言うから、我々余人が勝手な推測を推し量ることなど、愚の骨頂とも言うべき話である。ただ一つだけ言える確かな事は、象山は誠実に接してくれる相手には、何時も同じ様に誠実であった、と言う事である。
翌月の八月に二十九歳になった慎助の許に、次女となる紀伊が生まれた。色白で少しひ弱な感じがしないではないが、元気で乳を飲み、そして良く眠り、健やかに育っていた。

 その紀伊が誕生して四ヶ月程が過ぎた十二月の初め、松代に戻った象山は宮本家を訪れ、慎助の元に出産の祝いを言う為に訪ねてくれたのである。それは慎助にとって、忘れられない慶びでもあった。
だがこの時、祝いの言葉と共に象山は慎助に、こんな話をしたのである。
「実に目出度い事ではあるが、なぁ慎助、わしも二人の妾を持ちながら、やっと一人の男子の格二郎を得る事が出来た。その恪二郎の出来る前に、二人の妾には、どれだけの子を身ごもらせ亡くしてしまったか。こう言っては何だが慎助、お前もわしと同様に、男子の子供を既に亡くしているだろう、どうだ」
「ええ確かに、この私も先生と同じ様です」
象山が言う様に、慎助も死産で子を既に亡くしている。子を持つまでの親とは、何と喜びと悲しみの境を行くのかと慎助は思っていた。
「お蝶にわしの分身でもある菖蒲を身篭らせたとき、その嬉しさや喜びの大きさが是ほどのものかと、噛み締める程の感動を初めて知る事が出来た。だがな、子を失った悲しさも、それと同じ位の大きさであったと、つくづく思い知ったものよ。そしてもしも、わしが生まれ変わる事があれば、子供を病から守る医者になりたいと、つくづく思ったものだ」
「それはこの慎助とて同じことです。子を亡くした男とは、実に情けないものでございますなぁ」
「そこで慎助、お主への頼みなのだがな、これからお主に男の子が出来たのなら、何としてでも医者に育てて欲しいのよ、子供の命を守る医者だ。子は国の宝よ。子が生まれても直ぐに死ぬようでは、良い国とは言えん。わしも何とか格二郎を、蘭方医にしたいと思っている。慎助も何時か男の子が出来た時には、必ず医者にして欲しいと思っているのだが、どうだろうかな」
象山の言葉からは、強い想いが滲み出していた。
「分かりました。頭の良い子供でしたら、何とか子どもの命を救う医者にと話してみますので」
慎助の返事を耳にした象山は、嬉しそうに微笑みながら、安心した様に大きく頷いた。
 
 翌年の嘉永四年(一八五一)の二月半ばである。前年の暮れから松代に戻っていた象山は、藩の門弟達と共に生萱村(現更埴郡)に五十斤石衝天砲(二十九ドイムモルチール砲)の試射を行っている。正月の二十六日にも同じように再演したのだが、この時には砲弾が一重山(現、屋代駅の裏手)を越え、幕府の直轄地内の満照寺まで飛んでしまい、中之条村の代官と思わぬ紛議が生じてしまったのである。その結果、今後は砲演の際に事前に届出て行う事を承諾し、なんとか大事にならず事件は落ち着いたのである。
こうして象山は松代での日々を過ごし、藩に暇乞いをすると妾のお菊だけを連れて江戸と向った。一時深川の藩邸に過ごした後で、新たに木挽町に構えた新居へと移り住んだのである。自らが学んだ砲術の塾をそこで開き、諸藩にその知識を分け与えて、此の国の防備を高める為であった。しかもその根底には新たな時代を切り開く人材を、自らが育てたいとする願望を実現する為でもあった。

    
十九、五月塾の門人たち

 「もし慎助の許に男子が生まれた時は、出来るなら子供の命を守る医者にして欲しい」、慎助が象山から頼まれた翌年の、嘉永四年四月のことである。江戸で蘭学塾を開く故、暫くは松代にも戻れないだろうと云う四十一歳の象山に、慎助は心ばかりの餞別を渡したのだが、象山は押し戴く様に喜びを顔に表わした。
五月の初めに江戸に着いた象山は、浅草猿若町に移された芝居小屋の跡地である木挽橋の袂近くとなる、木挽町五丁目(現・歌舞伎座向居辺り)に住いを借り受けた。しかも住まいの横に新たに部屋を増築すると、二階建て二十坪余りの小さな塾を構える事となる。塾の入り口には「和漢洋兵学砲術指南」と大書した看板が掲げられ、そこで教える主な学問は、異国との戦に備えた西洋砲術などで、言うなれば大砲の操作や製造から火薬の製法、更には歩騎砲操典など西洋の兵学が主な講義内容であった。
象山は五月に塾を開いた事で塾名を五月塾とし、今この国が最も必要としながらも何処の誰もが教える事の出来ない学問を、実地で教える事の出来る塾とすべく広く塾生を募集したのである。その看板には当然だが流派を書く事は無く、免許皆伝もなければ秘伝書も更には他言無用の誓約も無い。

 塾を開くと直ぐに噂を聞きつけ入門して来たのは、越後国長岡藩士の小林虎三郎であった。かつて象山が越後国に出向いた天保九年の閏四月、懇意になった新潟町奉行の小林誠斎から、その折は是非とも倅を先生に師事させたい、と頼まれた事を昨日の様に思い出したのである。小林虎三郎はその誠斎の、成長した息子であった。
象山が松代から江戸に転居し、開塾した四日後の五月二十四日には、長州藩士の田上字平太から紹介を受け、象山を深川小松町にあった松代藩下屋敷に訪ねて入門を求めたのは、長州の吉田寅次郎(松陰)で、更に熊本藩の藩士宮部鼎蔵が入門した。
この同じ頃に松代では、藩主の幸貫が藩校として文武学校の建設を決め、その完成予定を三年後の嘉永七年とした報せを象山は受けている。しかも西洋の学問も教える事を念頭に、それまで何処の藩校にもある孔子廟を廃し、文庫蔵や文学所も設けられると聞いた時、象山は珍しくその嬉しさを、満面の笑みを以って顔に出したのである。今こそ若い者達の力を借りて、自らの考えで国の在り方を模索すべきだと思えたのだ。

 ところがこの年の十二月十四日に、五月塾では新たな問題が生まれた。五月塾の門人で長州萩藩士の吉田寅次郎が、藩の発行する通書(手形)が届かないまま、熊本藩士の宮部鼎蔵等と共に東北の視察へと出かけてしまったのである。既に七月には藩から許可は得ていたのだが、藩から送られて来る通書の発給が遅れていた為、他藩の友人との約束を優先しての出立であった。それは脱藩をした事と同じ意味を持つ程の、藩士として重大な規律違反でもあったのだ。
この時期の東北の地は蝦夷と共に、世間から眼を向けられる事の無い場所であった。露西亜の船が津軽海峡を頻繁に行き来し、東北の防備を語るにはどうしても視察が必要だ、と寅次郎は考えたのである。
しかも他藩の者との約束事を通書の遅れを理由に約束を違えれば、それこそ他藩の者から自藩の信頼を失う事になりかねない。それなら一身に己の罪としてそれを受け入れ、約束通り東北へと出かける事にしたのだ。寅次郎は自らの日記の中に、『「亡命は国家に負(そむ)くが如し」と言へども、その罪は一身に止まる。これを国家が辱むるに比すれば、得失いかがぞや』と書き残している。
寅次郎の言う国家とは自藩でもある長州萩藩の事を指すが、他藩の者から自藩全体を恥しめる行いよりも、自ら一身に罪を受け止める覚悟の行動であった。

 翌年の嘉永五年(一八五二)四月に東北の視察から江戸に戻った寅次郎は、江戸藩邸に一度戻されると罪を問われて萩へと戻される事となる。そして実家の杉家に蟄居させられると、藩からの処分を待つ身となった。しかし藩主の毛利敬親は、この寅次郎に対し藩士としての籍を取り上げたものの、その一方で十年間の遊学の許可を与えたのである。その温情のある沙汰が下りたのは、嘉永六年となった一月の事である。
そしてこの時から、それまで使っていた寅次郎を、新たに松蔭と名を改め名乗る事になったのである。江戸に入ったのは五月半ばの事で、この松蔭と名を変えた寅次郎は、まるで少年の様ににこやかな顔をして五月塾に顔を出したのだ。だがこの時の江戸は松蔭にとって、自らの残された時間を燃え尽くす様な、大きな出来事が待ち構えていたのである。それは松蔭が五月塾に姿を現したまさに翌日の事で、この国を変える事となる黒船の来航であった。
この時の出来事は次の章に譲る事にして、象山の周辺の出来事を、少し時間を遡って書いて置く事にしたい。

 象山が江戸で黒船来航の報に接する四ヶ月前の嘉永六年二月十四日付けで、故郷松代の若い友人である宮本慎助に対して送った書簡には、この当時の象山の想いが色濃く浮き出ている。つまり妾である菊が産み落とした四歳になる恪二郎の事や、松代に置いていたもう一人の妾のお蝶の事、更には母親や勝麟太郎の妹である順との、結納から婚儀に至る迄の出来事などである。
一方で象山は格二郎を生んだ菊を、手紙を出した半年後の九月に暇を出すことにした。もう一人の妾であるお蝶が母親代わりとなり、格二郎の養育を引き受けたからで、お菊も佐久間家の跡継ぎとして格二郎を育てて貰う事に納得したからでもある。そしてこの時に菊は幕府御殿医で二百五十石取りの高木常庵の後妻として、自らが新たに生きて行く道を選んだのである。

 「余寒猶厳敷候処、弥御休安珍重之至奉存候。然者、雨宮生義に付、先頃中、両書を発し候所、前書の御返事、四五日前相達し、拝見申候。被仰下候次第、余議もなき事に存じ候へども、当人も数年の願にて、又此度の如き好場所も、是迄とても無之、此末も再びあるまじく、扨又、当人の存念も此度の義調はず候へば、莬もおめおめと在所表へも帰られ不申、剃髪似ても致し候はんなど、決心の様子に見受け申候。依て、是迄、かの後室も当人の意に任せ候程の事に至り候はゞ、後室暮され方を減じ候て也、何とか工夫相つけ被下候様致し度存じ申候。是は当人よりは申かね候事に候へども、私井に西山氏より冀ひ候所に御座候。此方一人のしゅうとめと申すもの(即老母也)至てよき人にて、先便書中にも認め候通、其表の後室にも、同居致しもらひ度と、申候程の事のよし、其趣に候へば、其表の暮らされ方は、基本を減じ候手も子細も無之、直々家督致し候義に付、何分他日に気遣ひも無之事に御座候。
只、億万の一を気遣ひ候へば、雨宮生実子無之間に、命短く候時、こまり候など申事あるまじきに無之候へども、万々一、右様の節は、西山氏いかようにも兄弟の義に付、引受世話可申と被申候。
何分も此所にて、早速一御工夫被下候様致申度候。人一人の義、かの後室よりは子一人の浮沈、此一挙に有之候事に付、御勘弁可被下候。幸、此度、三村氏御内用にて、其表へ被参候に付き、委細の義は此人へ頼み塚遣し候。何分も此帰府の節、慥かなる便にも候へば、二百金御送り被下候様、所祈御座候、昨日、結納も無滞仕舞申候。廿五日弥引越に決し申候。昨日も持参金之義不都合と申事に付、私よりも弐十円才覚致し遣し申し候。何分も此度は速に事を調へ候様致し申度候。後室へも宜しく御伝声、乍憚、奉頼候。
 宮本賢友
  二月十四日                大星拝 
 封書書 宮本慎助様      佐久間修理」

 現代語に直せば、大凡この様な内容かと思える。
 (寒さがまだ厳しい折のなかだが、珍しく元気でいる。処で生萱村の雨宮に住む格二郎の母のお菊の事だが、先般に手放す承諾書など書いて送ったが、その返事が来たので読ませてもらった所だ。突然の事の様だが、数年前から妾を辞して妻になる願いを聞かされていて、今度の様な良い条件の話は恐らく、この先二度と廻って来る事は無いと思っている。当人も今度の話が反故となれば、実家に戻る顔も無くなり、髪を剃って尼になる以外には無いとも言っている。
 それに順子もお菊の行く末は、本人の気持ちを大事にして上げればと言っているから、何とかそちらから相手先に話を進めて貰いたい。それに相手方も一人姑が居るのだが、前に手紙に書いたように、その姑からも後添えとして来て貰いたいと言われ、同居致して貰いたいとも申している。それ故に今までの事は敢えて表に出す事は無く、慎助の所から後妻に向う事にして貰えれば、無用な気遣いをする事も無いと思っている。
 ただ、もしもの事を気遣ってやれば、お菊には他に子も居ないので、何か事が生じた時に慎助の方で、何とか兄弟のよしみで引き受け世話をしてやって欲しい。
 順子とも相談したのだが、人一人の一生がかかっている。色々言いたい事もあるだろうが、許して欲しい。三村のお役目で松代に戻る者が居るので、詳細についてはその者に頼んでいる。この様な状況なので、二百両の金を送り届けてくれれば助かると言うもの。それから昨日に何とか結納も済ませた。二十五日には引越しする事も決まった。持参金は持っては行けないと言うので、私の方で工面し、二十両ほど渡した所だ。何とかこの話は速やかに進めて欲しいと思っている。奥様に何卒よしなに伝えて欲しい)

 一方のお蝶は、象山の息子である四歳の恪二郎を、産みの母親であるお菊から引取り、手元で育てる事を決心した。お菊が妾では無く妻と言う世界に憧れを持ち続けているとしても、自分はどこまでも象山の近くに居たいと考え、順子が正室となる事も全て受け止めていたのである。
少し前の事になるが、象山は筑摩川の河畔にある戸倉村に住む門人で、佐良志奈神社の神主松田直友に対して、お蝶の行末を案じ別邸を建て、そこに住まわせる事を頼む手紙を送っている。順子を正室に迎えるにあたって、妾のお蝶を松代から離し、そこで暮らして貰う為であった。
そして嘉永五年(一八五二)十二月六日、黒船が来訪する半年前の頃である。象山は勝麟太郎の妹、順子を正室として迎え入れたのである。

 「別来御疎遠愧入候。其表発軔之節も、御丁寧御餞別等被下、感刻之至奉存候、夫旁絶て御礼も不申、簡怱之段、幸御宥恕可被下候、御母堂様御始、弥御清健に御座候歟。爰許、幸にいずれも頑全候間、乍慮外、御放念被下度候、近来、一斎先生も八十の賀偖莚有之候。至て健に御出候、匾字一枚到来候所、賢友山下の御住居には、丁度適当候まゝ、致贈上候。御咲存可被下候。少々御厄介に相成度義も御座候。別紙にて御承知被下度、先は御疎遠の申訳蒡如此に御座候。乍憚御母堂様へも宜しく御致意可被下、伊木御母堂様へも可然希候。
億君より、過日認ものゝ事申来候。多忙にて末了。いずれ年内には責を塞ぎ可申候間、是も御序に御一声所祈御座候、
寒候千万、御自愛候様奉存候。以上
宮本賢友 十二月六日              敬白 」

 松代の宮本慎助に宛て、江戸の象山から一通の礼状が届いている。吉田寅次郎が密航を企て蟄居処分となる二年程前の事で、順子を正室に迎え入れるまでの様々な経緯で、厄介になった事や餞別のお礼の内容である。
それにしても五月塾への入門者は、全国から噂を聞きつけた若者達が集っていた。既に塾生も百二十名を越え、一度の講義で受けられる人数を四十人と制限するなどしたが、中には庭に立って聴く塾生も出る始末である。とは云え、塾生達の中には問題を抱える者達も居た。だが、すぐさま破門を言い渡し追い出したのである。

 前の年に豊前中津藩から注文を受けた二門の大砲、ホーイツスル砲と呼ばれる野戦砲が川口村の鋳物屋で作られたが、これは青銅製であった。青銅は銅に錫を加えた加工のしやすい金属材料だが、それだけに問題も多く発生する。この青銅に燐を少量加えると、更に強い金属となるのだが、未だ金属加工の技術は西洋からは大きく遅れていたのだ。この国がやっと青銅砲をこしらえた時、西洋では既に鉄で作られた、丈夫で大きな大砲に替わっていたのである。
同じこの年の暮れに、松前藩から一年前に頼まれていた十八ポンドの長カノン砲と、十二ポンドの短カノン砲の試射が上総姉ヶ崎の鶴牧原で行われた。処がこの時に大砲の一門は、弾詰まりから砲身が破裂し怪我人が出る始末で、他の一門は試放に成功している。この日に視察に来ていた松前藩の家老は、苦々しい思いをぶつける様に象山に向かって言ったのである。

 「折角、先生の御技量を信頼申しましたのに、大砲は破裂して役に立たなくなり申した。尚且つ費用は全て無駄となり、誠に迷惑を仕った」
 不満と愚痴の言葉が口を突いて出た。しかし象山はその言葉に臆する事も無く、こんな風に言い返したのである。
「まことにお気の毒であった。然し拙者とても神様では無く、千に一つの過ち無いとは云われぬ。殊に蘭書を読んで日本では未だ一人も知らぬことをやっているので、間違いは有り得る事。貴藩の様な大藩にこうして間違いの機会を頂き、更なる良い物が出来ると申すもの。怪我人が出た事は忍びないが、大目に見て頂きたい」
 そこには自分の藩だけの利益を考える者と、日本の砲術の将来を考える者との差が、明確に表れているのである。だがこの事件の直ぐ後に、江戸の町中には幾つもの落首が張り出される事となった。

 「黒玉を、うつにわざわざ姉ヶ崎、海に陸にと馬鹿がたくさん」
「しゅり(修理)もせず、書物を当てに押し強く、打てばひしげる高慢のはな」
「大玉池(おったまげ)、砲を二つに佐久間(裂くわ)修理、この面目をなんと象山」
「松前にことわりくうて手付金、今更なんとしょうざん(象山)のざま」
しかし象山は常々、成功よりも失敗の方が大事。何故に砲身が破裂したのかを知ることが出来れば、同じ過ちを起こさずに済む、として気にも留めなかったと言う。お蔭で砲術を学ぶ為に入門する者は更に増え、幕臣の勝麟太郎や会津藩の山本覚馬が入門したのも此の頃の事である。だが松前藩から受けた注文の大砲は、この事件で中止する事が決まった。

 以前に和蘭辞書の『ドウフ・ハルマ』改訳本の出版を藩で行って欲しいと、藩主の真田幸貫を通じて幕府に進言していた頃に知り合ったのは、旗本小普請組の勝麟太郎であった。その勝と、思いもしない義兄弟の関係となるのは、このしばらく後の事である。
勝はこの和蘭辞書である『ドウフ・ハルマ』を知人から借り受け、二冊ほど書き写すと一冊は自らの辞書とし、一冊は売って金に代えていた。更に十六歳になる勝麟太郎の妹、順子を正室に貰いたいと四十一歳の象山が請うた時に、学者の夫を持ちたいとして、象山本人の申し出を受け入れたのは順子本人の意志でもあった。

 一方の勝は自らの塾である勝塾を、象山の勧めもあって江戸の三田にある田町に開いていた。勝塾はどちらかと言えば自由奔放な教え方の為か、塾生の集まりは良かったものの、金に無頓着な勝は絶えず貧しさの中に身を置いていた。しかも勝の父親である小吉が本家に残したのは、勝でさえも手に負えない程の莫大な借金だった様で、それがどの様な経緯で生まれたものなのか、象山も立ち入る事を憚られたのだ。更に象山もまた正式に妻を娶る事に、幾つかの重苦しい問題が生まれる事を感じていた様である。

 この頃、江戸の三田にある勝麟太郎の勝塾に学ぶ塾生から、高島流砲術の祖と言われた高島秋帆と佐久間象山とを比較し、「象山は単に阿蘭陀語の本を翻訳して、塾生に教えているに過ぎないではないか」と言う疑問に対し、江戸っ子の勝海舟はこんな事を言っている。
「相手を批判するって事はよ、子供にだって言える簡単なこった。こっちの気に食わない部分を取り上げて、あれは駄目だ、こっちも駄目だと言えばいいのだからな。だがよ、それじゃあちょいと聴くが、おめえさんの頭の中身は、象山よりも出来が良いとでも言うのかい。百歩下がって大砲の図面をよ、おめえさんは描けるとでも言うかい。
誰かを批判すると言うのはなぁ、批判した相手から戻って来る反論を、真正面から受け止める用意と覚悟が、必要だと言う事でもあるんだぜ。もしも相手から反論されてよ、屁理屈をこねてすごすごと引っ込む位の批判なら、いいや黙って逃げ出すくらいならよ、鼻っから批判をするなんて事は、止めとくのが大人と云うもんよ。せめて阿蘭陀語を読める様になってからにしてくんなよ、それに批判するにしてもだ、本人の前でやってみて貰いたいもんよ」

 確かに勝麟太郎が言う様に、象山は西洋の学問を身に付ける為に、長崎に出かけて阿蘭陀人に教えを請う事も無く、やっと手に入れた辞書と首っききで阿蘭陀語を習得する事から始めている。やがて朱子学や儒学の知識を持つ象山は、長崎で阿蘭陀医学を学び深川で蘭医を開業していた宇田川玄真の紹介を受け、同じ蘭学塾の日習堂
を開いた坪井信道の門人の一人、黒川良安を紹介されるのである。そしてこの黒川良安に儒学や朱子学と教える代わりに、交換授業と言う方法で阿蘭陀語を身に付けたのである。
しかも象山はナポレオン戦争時にプロシア軍の将軍で、兵術で著名な著述家カール・フォン・デッカーの著書を、この国では唯一の辞書だったハルマ蘭和辞典で訳し、それらを理解する事で自らを西洋兵学者と名乗ったのだ。更には三冊からなるヨハン・ゴットフリード・ゾンメルの書いた『宇宙記』を訳し、余りの感動に幾つもの漢詩を書き遺した事は、西洋への憧れを一気に募らせる強い動機となったのである。
この頃から象山は藩の金を四十両も支払って購入して貰った、十六冊からなるショメールの『家庭百科事典』を訳すると、ガラスを造り通信機を作り出すなど、種痘や病の事などを広く医学や科学の見識をも深めていたのである。

 とは云え、この辺りから諸藩の藩主等に推挙された、後に明治の日本へと突き進んで行く三百名余りの若い侍たちの名前が、象山の開いた五月塾の門人帳『及門禄』に記されて行く事となる。彼らが象山の塾に集まって来たのは、折から異国の船が開国を求めて沿岸に姿を見せ始め、開国か異国との戦かの選択を迫られたこの国が、新たに生まれ変わる為に時代が求めた若者達でもあった。
それにしても北信濃の片田舎の松代で生まれ、長崎に行く事も阿蘭陀人に教えられる事も無く、僅かな蘭学書を開いて鎖国をこじ開ける様に西洋を知った象山は、更に時代の風を読み自前の技術と才を駆使して洋式大砲を作り上げたのである。しかも自ら得た知識や技術を若者に惜しみなく伝え、この頃に枯渇していた『未来』を若者たちに与えた、まさにこの国の未来を切り開いた稀有な人材と言えるだろう。

 この嘉永五年に象山の五月塾には、後に長岡藩の家老となる河井継之助や、そしてこれも後に東京大学の総長となる但馬国出石藩の加藤弘之が入門した。この時の弘之は、未だ僅か十六歳であった。この年は佐賀候の依頼で、十二ポンドの新式野戦砲架と海岸砲架の雛型を各一座ずつ作ったのを始め、松代藩の二十拇天砲と同人砲を借用し、大森海岸に於いて演砲を行った。佐賀藩の藩士達や五月塾の門人達に、操作の手順などを見せる為である。
しかしこの年の五月、藩主の幸貫公が隠居すると、家督を十七歳の未だ若い幸教に譲ったのだが、その直ぐ後の六月三日に、突然に幸貫公が卒去してしまったのである。この頃の松代藩内では大きな異なる派伐が存在し、藩政の根元を三つに割っていた時期でもあった。佐幕派と称する考えは、幕府を補佐するという意味を持つが、後に幕府を倒すと言う倒幕派に対峙した考え方として使われている。その佐幕派は恩田頼母を主にして山寺常山、河原舎人、佐久間象山、竹村金吾等で恩田党とも呼ばれ、尊王派は真田党と呼ばれる真田志摩、鎌原伊野右衛門、長谷川深見(昭道)、菅沼九兵衛、高野広馬等であり、更に中間派として小山田壱岐、望月主水、矢沢猪之助、赤澤助之進等の重鎮達である。
藩主幸貫が卒去し、新たな若い藩主幸教の相続などが重なり、象山の周囲は何かと多忙な用事が続いていた。この頃に松代では、お蝶が産み落とした三男の惇三郎が、同じ六月の十四日に夭折したのである。未だ一歳と九か月であった。

 藩主幸貫の御遺骸と共に松代に戻った象山は、長園寺に主君を帰葬すると、その墓碑名を撰書した。そして葬儀が終わった後に江戸に戻った象山は、妾でもあり長男の恪二郎の母でもあるお菊に、格二郎をお蝶に預け、佐久間の家を出る様に手紙で求めたのである。お菊は未だ格二郎と共に、松代の外れにある生萱村の雨宮に住んでいたからである。
お菊は象山の許に来てから既に十年が過ぎ、恪二郎も四歳を迎えていた。まるで跡継ぎを得る為だけに傍に仕えていた様なものだが、そもそも武士の妾とは、そうした役割が当然の勤めであった。もう一人の妾となるお蝶はその点から言えば、自らの仕合せを望む以上に、象山の情けだけを頼りに生きた女性だったと言えるだろう。

 こうして象山の最初の妾であったお菊は、我が子の格二郎を同じ立場の妾であるお蝶に預け、高木常庵の許に後妻として入る為に松代を後にしたのだ。高木常庵は代々幕府の御殿医で、浅草松葉町に住む二百五十石取りの身分である。それが少し前に先妻を病で亡くし跡を継ぐ子もなく、この時に後妻となる女を探していたのである。お菊は後年、後妻として入った常庵との間に、一男一女を儲けている。この時から五十六年後の明治四十年十月十七日、八十歳でお菊は歿した。まさに天寿を全うしたと言えるだろう。
 
 嘗て封建の世に生きた女達の多くは、使い慣れた名を残して死んだ者は極めて限られた、それも僅かな者と云ってもいい。墓石や過去帳に記されるのは、生前に呼ばれていた名前では無く戒名であり、精々残されるとしても、誰々の母とか何々の妻とする立場だけであったからだ。だがそれでも夫々の女達は、良かれと考えを張り巡らせ、意を決めて自らの道を歩いて行ったのである。
 四歳の幼い恪二郎は突然に消えた母のお菊に、自分を取り巻く象山やお蝶に対し、長く反抗の意思を示した様でもあったと言う。それは象山を含む大人の者達だけが、納得して夫々の別れを受け入れたからでもある。この事が恪二郎と象山との間に、そして育ての母となったお蝶との間に、実の母を追い出した者達とする深い傷を心に残す事になる。

 ところで宮本慎助の周辺は、目出度い事が起きた。この年の九月二十日に松代の屋敷から、久しぶりに元気な産声が聴こえたからだ。慎助に取っては四人目の子供だが、宮本家の跡取りとなる筈の、初めての男子の赤子であった。暫く前から慎助は、男子が生まれたらと子供の名前を考えていた。それが四番目に生まれた男の子供である。四を名前としては入れられず、考えた末にこの年の干支から、壬子郎と名付けたのである。子を四番目のし、と読ませる為であった。

 一方の象山の方はと言えば、その年の十二月十五日、順子を田町の勝塾から木挽町の五月塾へ、佐久間象山の正室として迎え入れた。仲人は勝が剣の師と仰ぐ島田見山(虎之助)と呼ぶ剣客である。この時に象山は一枚の額を、十二歳も若い義兄となった勝の許に届けたのである。それは『海舟書屋』と一気に書いた隷書で、嘗てこの国の最も重要な防備を論議した時、互いの意見が一致したのが海軍の創設であった。そしてその時に象山は若い勝に、君は自らがその舟になれ、と求めたのである。その象山の願いが、この書の意味でもあった。勝が自らの号を『海舟』と名乗る様になったのは、まさにこの時からである。
だが、それらは全て黒船来航の直前の事で、この直ぐ後にこの国は、幕末と呼ばれる時代へと引きずり込まれる事となる。

                            
二十、夜明けの号砲

 幕末と呼ばれた時代、きっかけとなる事件は嘉永六年(一八五三)の黒船来航が真っ先に上げられる。その意味合いは単に亜米利加の船が開国を迫り、この国の江戸湾に入ってきたと言うだけの事ではない。石炭を燃やして黒い煙を吐き、蒸気の力で外輪を廻し推進力を得る、そうした予備知識も無いまま突然と現れた黒船を見た時、多くの人々は異国との科学技術の差に驚きと言う以上に、理解不能の云う恐れと不安を感じたに違いない。
他方、この国が閉じられていたとは言え、完全に外国の情報や交易を遮断していたと言う訳ではなかった。薩摩藩は琉球を通じて中国と、対馬藩は朝鮮と僅かに往来が行なわれていたし、長崎の出島に在った阿蘭陀商館が閉鎖された安政五年(一七九九)まで、実に二百十八年間もの間、細々とではあるにしても東印度会社とは交易を行っていた。
しかし交易額や入船の回数も徐々に減らされ、正徳五年(一七一五)にはそれまで制限の無かった来航を年に二回と定められ、従来から取引額は銀三千貫とされていたものが、更に寛政二年(一七九〇)には入港の回数を年一回とし、銀七〇〇貫へと取引額は大幅に減らされたのである。

 尤も窓口を開けていた、と言うにしても多少の語弊がある。例えば嵐に遭遇した日本の魚民が遭難し、異国の船に助けられたモリソン号事件にしても、それらの受け入れを行なう事には躊躇する程の、極めて消極的な姿勢であった。厳密に言えば徳川幕府は江戸開府以来、外国の意見には聴く耳を持たず、世界を見ようとする意思も無くしてしまい、国家間に於いては親しく交わす会話は殆ど行わなかった。つまり見ざる、聴かざる、言わざるを決め込み、異国に関心を以って貰う事や、自ら関心を持つ事を極力避けて居たと言えるだろう。
しかもそれが可能であった大きな理由は、西洋の国々から見ても、地球の裏側のアジアの東の果てに存在する、平地の少ない山国の小さな島であった事である。特別な資源がある訳でもなく、しかも死をも恐れない武士達が、事あれば大陸へと出かける侵略の歴史を持っていた。
嘗てマルコポーロが書き残した東方見聞禄の中で、黄金の島と呼んだ面影は消え失せ、世界への窓口を阿蘭陀一国に絞ると、幕府はキリスト教の広がりを恐れて国を閉じたのである。絶対的な一つの神を崇拝する彼等が持ち込んだ信仰は、将軍や天皇すらも頭を下げなければならないものであり、しかも遥か以前から伝来した仏教や、この国独自の神道などの信仰を全て排除を前提にしていたからである。

 だがこの国の民は西洋の人々が考えていた程に、野蛮でもなければ無知でも無かった。確かに武士達は絶えず刀を腰に差し、日々その武術の訓練を励んでいたが、争う戦の時以外の刀は武器では無く、武士としての精神を鍛える道具であり、責任を負う時に腹を切る為に使う、武士と云う誇りの象徴でもあったのだ。
「士は己を知るものゝ為に死す」とする武士道の中に、あきらかに輝いていた観念でもあった。それ故に幕府は信仰を伴う葡萄牙との交易を止め、阿蘭陀との交易に替えたのである。未開の地となる世界に行けば、彼等白人が持つ進んだ科学或いは医学的知識は、神の存在を大いに裏付ける力となるのは、まさに彼らが蓄えた高度な知識が、神そのものだと理解されただけの事である。 
例えば幕府奥医師の漢方医が、後に蘭方医にその座を追われたのは、ひたすら守り続けた変らない知識の漢方医学と、検証によって絶えず新たな知識と技術を積み重ね高められた、西洋医学の持つ探究心の違いなのである。

 当時この国は唯一の学問であった儒教を柱に、そこから分かれた朱子学などを独自に生み出したものの、科学技術の分野は西洋の学門からどれ程の遅れを取っていたか、初めて目の当りにしたのが黒船の来航であった。風が無いにも関わらず蒸気で前に後ろにと動く船は、疑問と脅威を目覚めさせるには十分な見世物だったからである。
遥か遠くまで飛ぶ大砲を積んだ軍艦は、恐らく種子島に鉄砲が伝えられて以来、それに等しい程の驚きであった筈である。西洋に大きく遅れている事を嫌が上にも認識させられる事となったのは、それ等の状況が戦で負ける事を意味していたからで、異人に対し何事も従わなければならない、屈辱の暮らしを示唆していたからである。

 これまでのこの国の歴史を振り返れば、権力を持つ者達は民に対し知恵を求めてはいても、新たな知識を求めていた訳ではない。僅かな知識を個人の物として抱え込み、何もかもを流派と称して技量や知識を独占し、一族以外に洩れる事を嫌い、そして巷に広まる事を拒んでいた。凡そ術とか道とかの付く習い事の全てに於いて、その立ち振る舞いから茶を飲むしぐさまでもが、免許や家元と云う仕組みとなって狭い世界に閉じ込め、徹底して究極の技や意味をそこに追い求めたからである。
何に役立つのかも分らない思考する学門よりも、世に受け入れられる好奇心や、儲け話には無くてはならない読み書きと算術などは、直ぐにでも受け入れられる身近な存在であったのだ。疑問を持たない或いは持たせない方策は、不平を言わせず争わないことが基本である。貧しさも病も天変地異や飢饉も、民は因果と受け止め耐える事を教えられて来た。しかも世襲制は子を産む事でのみ保たれる仕組みだが、それだけに知能の良し悪しは二の次で、建前や形を優先する文化が、江戸時代を通じてこの国に深く根付いたと言っていいだろう。
そして図らずも、この国が幸運だったことは、高い科学技術を持った西洋の国が、互いに相手を牽制しながら、幾つも存在していたと言う事である。

 この国が最も激しく揺れ動くことになる幕末と云う時代を迎えたのは、天保十一年(一八一〇)六月から始まった清国と英吉利との戦争、つまり阿片戦争と呼ばれた戦いの後である。阿片とは西暦で言えば紀元四千年前頃から、メソポタミアなどの地域で使われている。ケシの実から取る常習性の強い鎮痛剤で、特に戦の時に多く使われたのは、恐怖心や痛みをやわらげるものだからである。それ故にこの阿片戦争と呼ばれたその根拠は、国家そのものを混乱の中に落としいれ、領土や富を収奪すると云う、武力を用いた戦とは全く違う戦術的な侵略でもあった。
当時の英吉利は高価な紅茶を清国で買い取る為、印度で芥子を栽培させて阿片を作り、それを清国に売り払って紅茶の代金にしたのである。しかも清国に売りつける阿片の量は年々増え続け、(百二十ポンド=約六十キログラムで一箱の輸入単位)で一七七三年に一千箱だったものが、五十年後には凡そ六倍に増え、六十七年後の一八四〇年には、四万箱と四十倍に増えたのである。
阿片患者が一年に使用する量が大凡一箱の四十分の一(約一・五キロ)としても、既に百六十万人以上の阿片患者と云う廃人を、先進国の英吉利は清国でつくり出した。しかも十九世紀も後期となる頃には、実に総人口の一割、四千万人が阿片中毒の患者であったとする記録も残っている。阿片は常習性が強い為に止める事が出来ない事から、増える事はあっても廃人となる者が減る事は無い、売り上げを増やすには極めて確実な商品なのである。

 この現実を前にして、自国の危機を感じた清国の湖北・湖南省の長官だった林則除は、英吉利の阿片を没収して焼き払うと、英吉利はそれを待っていたかの様に軍艦十六隻を始めとして、輸送船や病院船に至るまで動員し、四千人の兵士を三十二隻の船と共に清国に差し向けたのである。だが戦の勝敗は軍備の優劣の違いで、勝敗を大きく左右するものでもあった。僅か四千人の兵で二年をかけた戦いは、広大な領土を持つ清国を敗北させたのである。
英吉利の勝利によって清国は香港の割譲を余儀なくされ、更に南京条約の不平等な条約港として上海が開港させられた。特に広大な領土を持つあの清国が英吉利に負けたと言う、その衝撃は周辺国に広がったのである。この時、初めて西洋の兵器に代表される科学技術との差に、大きな開きがある事を幕府の指導者は、まざまざと認識したと言えるだろう。

 幕府の決断は、新たな方針の転換によって示された。天保十三年(一八四二)に、それまで出されていた異国船打払令を緩め、「外国船と見懸け候はば、篤と相糺し、薪水等不足にて帰国致し難き向きへは、薪水糧食を給すべし」と、それまでの強硬な姿勢から、今度は柔軟路線へと一転させたのである。
だがそれはともかく、戦勝国の英吉利が香港を割譲させ上海を開港させたこの話は、すぐさま人々の耳に伝わって行った事は言うまでも無い。このままでは清国の二の舞になるかもしれないと、特にこの国の行末を憂いていた者達の誰もが、目の前の危機を感じ始めたのである。

 とは言え人と言う生き物は、得てして血を流すまでは死ぬ事の怖さを知らない。痛みが激痛とならなければ、その激痛の向こうにあるものを実感し、回避しようとはしない生き物だからである。太平の世に甘んじていた誰もが、今は何をなすべきか、どの様に対処すべきか、その方策を普段から持ち合わせる事は無かった。藩や幕府の重鎮とよばれる者達は、昔からの慣習と面子を重んじ、世襲と自らが置かれた立場に胡坐をかく事で、現実を直視する事を拒絶していた。何事も聴かなかった事にすれば見なかった事にすれば、水に流せば全ては丸く収まると思っていたからである。それ故に武士の責任の取り方は、眼を閉じる事と同じで、自らの腹を切るたけの事であった。遺された者達の事など一切思い遣る配慮も無く、いとも簡単に腹を切るのである。

 嘉永六年(一八五三)の六月三日の夕刻、この国にとっての大きな転換を強いられる出来事が、突然に多くの人々の目の前で起きた。亜米利加合衆国からフィルモア大統領の国書を携えたペリー提督が、四隻の黒船に乗って浦賀の鴨居沖に姿を現した事だ。鴨居は今の三浦半島の東京湾入り口にあたる、観音崎付近の高台の事である。その鴨居から砂地の海岸がある久里浜との間には、浦賀と云う小さな漁村が入り江の奥にあった。
しかしこの出来事を突然だと感じていたのは、江戸の庶民や多くの武士達であった。老中等が予想していた時期の曖昧さはあるものの、ある程度の予測を幕府は持っていたのだ。それは阿蘭陀から届く海外情報を、長崎の出島にある商館長のカピタンが取りまとめ、毎年一度だけ江戸の幕府に届けられる、「別段風説書」に書かれていたからであった。
しかも前年に届いた風説書には、「亜米利加が開国を求めに江戸に向かうであろう」と云う、阿蘭陀国王からの話が記されていたからである。それ故に半身半疑の幕府は、江戸湾の周囲に物見などを強化させ、阿蘭陀語の通史を常駐させるなどして、警護には川越藩、会津藩、忍藩、彦根藩をあたらせ、佐倉藩や館山藩、そして勝山藩にも出兵の用意を命じていたのである。目的は江戸湾に入れさせない事と、交渉は長崎へ向かわせる事であった。

 ペリーの乗る黒船が浦賀沖に来航した時、幕閣は薩摩や長州、熊本藩へも出動を要請したのだが、その目的は何としても上陸を阻止することであった。老中阿部正弘が水戸藩の徳川斉昭に打ち払いの是非を伺う使者を向かわせたものの、黒船の装備を知らされた斉昭は、それまでの方針であった異国船に対する態度を放棄したのである。
「今と相成り候ては、打ち払いをよきとは申し兼ね候、宜しく衆議を尽くしてご決断あるべく候」とした返事が戻って来たのである。しかも将軍である家慶はこの時、既に危篤状態であった。

 処で、吉田寅次郎(松蔭)が長州藩藩主の毛利敬親に許され、江戸に戻って来たのがこの五月二十四日の事である。その日の行動が書かれた「癸丑遊歴日禄」(嘉永六年)によると、中仙道の熊谷・蕨と泊まりを重ね、この日は親友だった烏山確斎の住む板橋白山の宿に草鞋を脱いでいる。ここでは前から打ち合わせていた通り、萩の家から届いた手紙を受け取り、江戸にいる朋友や知己に上京の手紙を書いた後、翌日には鎌倉に叔父の竹院和尚を訪ねている。そして六月朔日(一日)に江戸に向って出立し、三日には象山が開いている五月塾を一年半ぶりに訪ねたのである。

 ペリーが浦賀沖に現れた同じその日の日記に、六月三日、晴れ、訪佐久間修理、近澤啓蔵來。とある。
嘉永四年の七月に五月塾に入門して以降、十二月十五日に東北視察へと出るまで、象山から講義を受けたのは五ヶ月の期間のみであった。それからは帰藩や謹慎を命じられ、一年半程塾を留守にしていた事になる。松蔭と名を変えた寅次郎を迎えた象山が、積り積もった話しをどれ程に交わしたのか、その記録は残されては居ない。しかしそうした話を許す間もなく、この翌日の夜に江戸は蜂の巣を突っついた程の大騒ぎとなった。黒船の来航した話が江戸中に広まった為である。

 黒船が来航した知らせを聞いた松蔭は、四日の夜半には急ぎ江戸を飛び出し、一人で浦賀へと向った。浦賀への道が止められるかも知れぬとすれば、黒船を近くで見る機会を逃すかも知れないと不安に思えたからである。日記には「五日朝四ツ時ニ舟品川へ達し候、是ヨリ陸行ニテ是日夜四ツ時達浦賀」とある。そして既に亜米利加から来た船である事や「此国未三十一州ノ會盟ニ不興因テ此度本邦トノ互市ヲ初メタレバ・・・」と象山に亜米利加の事を教えて貰い、兄の杉梅太郎へと送った手紙に記している。
異国を知りたい、異人の文化に触れたいと常々望んでいた事が、思いもかけずに現実の事として眼の前に近づいて来た事で、松蔭の心は大きく弾んでいた筈である。その松蔭を追う様にして、佐久間象山は五月塾の門人で越後長岡藩士の小林虎三郎と、後に長岡藩の家老となる河井継之助を連れ、八日には黒船を見る為に浦賀の高台に来ていたのだ。久里浜は砂浜の為に幕府の役人が、既に近くの浦賀へと黒船を移させたのである。この黒船の目的は亜米利加合衆国大統領からの国書を、日本の幕府に届ける事であった。

 しかし黒船の近くに伝馬船を寄せて、幕府の役人は阿蘭陀語の通訳を間に入れると、「長崎に行け、何事も長崎で用向きを聞く」と伝えるのだが、黒船の乗組員は「大事な亜米利加大統領の国書を持参している。責任者を呼べ」、と回答して埒が明かぬまま時間が過ぎてゆく。こうして「ここで受け取れ」「長崎に向え」の押し問答が続いたのである。
「受け取らぬなら直接に我々は江戸に向うがどうだ」と云う黒船からの回答に、「それは困る、猶予を戴きたい」と、こうした談判の末に浦賀から江戸へと、お伺いの早馬が走ると言う繰り返しが続いたのだ。しかも船は蒸気で走り、沢山の大きな大砲を積んでいる。今にも黒船は、そのまま江戸に向う様な勢いであった。
何時までも埒の明かない談判の最中、黒船の中の二隻は江戸湾の品川沖まで入り込み、戦闘態勢の蒸気船ミシシッピー号に護衛させ、更に水深などの測量を始めた。所謂「砲艦外交」と呼ばれる武力を背景にし、強引に鎖国の扉を開かせようとしていた。

 幕府はこの事態を打開する為、とにかく亜米利加の国書を受け取る事を伝え、その場所も極力江戸から遠い場所で行う事を決めた。交渉によって浦賀から少し先の久里浜に上陸させ、九日には浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄と井戸石見守弘道などが、亜米利加からの国書を受け取ったのである。
この時に亜米利加の国書を、浦賀の役人が受け取る所を目撃した者達の中に、象山や松蔭など五月塾の門人達の姿があった。遠巻きに見物していた多くの者達の間には、戦が始まるとした予想を大きく裏切られた様な、妙な安堵感が集まっていた人々を包んでいたのだ。幕府の浦賀奉行の戸田氏栄等の役人達と、亜米利加の軍服を着た兵士達が静かに別れ、ペリーは黒船に乗り込んだからである。
翌日の朝に黒船は錨を上げると帆船を引きながら、何を思ったか又も品川方面へと向って進んで行くのが見えた。どうやら更に湾内の水深を測り、海図に書き込んでいるのだと思えた。象山を始めとした五月塾の門人達も、久里浜から浦賀へと抜ける海沿いの道を、その黒船の船影を追って歩いたのである。

 門人たちは口々に黒船の意図を想像し、互いにその感想を歩きながら語り合った。
「先生、どうやら戦にはならぬ様子ですが。しかし実に驚きましたな。黒煙を吐いて蒸気で車輪を回して船を動かすとは、風が無くとも自由に動く事が出来る船の様で、それに何と帆船まで引いて走りました。しかも載せている大砲が実に大きい、百五十ポンド以上はあるかも知れません。砲弾を撃てば六十町以上は飛ぶのではと思われます。砲門も凡そ一隻で片側十二門程を積んでおります。これでは戦などは到底出来ませんなぁ」
 そう話したのは、河井継之助である。未だ興奮しているのか、何時もより多弁であった。
「事ここに及ぶは知れたこと、故にワシは先年より軍船と大砲の事を、あれほどやかましく申したるに一向に聞こうともせず、今は陸戦にて手詰めで勝負する他に、我等に残された手段は既に無い事を知らねばならん。何分にも太平に頼りきり、腹鼓を打っていたのだ、この期に及んで大慌ての体たらくよ。憐れなのは防ぐ手立てが何も無い事だ。既に面目も無くしてしまったのだから、褌を締めて日本武士の意地を見せる時が来たと考える事だな」
と象山は腹立たしそうに語った。象山が腹を立てている相手は、当然だが幕府であった。

 大津の浜の茶店で一息ついた時、象山は目の前に広がる光景を見ながら、おもむろに紙と筆を取り出すと、その時の心情を漢詩に認めた。そこには蒸気を吐く黒船の一隻が、帆船の軍艦を引っ張りながら、何故かゆつくりと品川の方へと進んで行く姿があった。やはり水深を測っている様であった。
寅次郎も目の前に起きた出来事を見て、早速に手紙へ認めると、長州に住む叔父の玉木文之進宛てに書き送る事にした。
既に象山の方はこの時、一編の漢詩を書き上げていた。読み下しを書いて置く。

火輪横恣 江流に転ず 
是れ君臣 日をむさぼるの秋に非ず 
忠義 神国の武を張らんことを要す
巧名 慮人の謀を伐たんと欲す
東圻 堵を起こすは曾ち策を陳ぶ
南島 船をおぎのるは蓋ぞ猷有らざる
兵事 未だ巧みの久しきを開かず
何人か速やかに熱眉の憂を解かん

 読み易く訳した文章を探すと、幕末史を書いた作家の半藤一利氏は、こんな風に現代語で訳している。
「外国船がわが江戸湾を勝手に動き回り、君臣ともにぼんやりしている時では無いぞ。我が忠義の魂は、今や神国の武の発揮を求めている。又わが功名心は外国の企みを撃破すべし、と言っている。江戸の防備については嘗て策を述べた事があるが、しかし備えが滞りなく進んでいると云う話は無いようだ。一体誰がこの私の憂慮を速やかに解き放ってくれるのだろう」

 象山等が走水から金沢八景を過ぎた頃である。黒船は我が物顔で測量を続けていたようだが、突然に大きな大砲の撃つ音が響き渡った。既に幕府に対して昼には空砲で刻を告げる為と称し、大砲を撃つ事が知らされてはいた。しかしそれを知らずにいた者達は、すっかり戦が始まったものと思い込むと、まさに蜂の巣を突っついた様に右往左往したのである。開国の要求について幕府は翌年までの猶予を貰い、ペリー等の艦隊が浦賀沖を去ったのは六月十二日の事であった。
浦賀に向った五月塾の一行が江戸に戻ったこのとき、象山は藩主の幸教から松代藩の軍議役を命じられ、江戸の藩邸に居る松代藩士達に対して、武装と警備を整える為に奔走する事となった。更に松代藩は品川御殿山の警備に当るべく用意がある旨を幕府に進言して、幕府からの沙汰を待った。しかし既に黒船は引き上げた後の事で、後の十八日には藩の家老から、黒船を見に出かけた事を非難され、象山の行動は軽率では無かったかと幸教に進言されると、二十四日には軍議役を解かれる事となるのである。

 黒船が浦賀沖に姿を見せてから十九日後の二十二日、将軍職にあった家慶は、徳川斎昭と阿部正弘に「後は任せる」と言い残して六十一歳の生涯を終えた。
一方でペリーから開国を突きつけられた幕府は、亜米利加の国情を知る為、直ちに土佐の元漁師である万次郎を江戸へと呼び寄せた。万次郎は漂流した挙句に嵐に遭遇して遭難し、亜米利加の捕鯨船に助けられた後に、亜米利加で英語を学び日本に戻って来たからである。しかもこの時に万次郎には、直参の旗本としての身分を与えられる事となった。二十俵二人扶持の御普請役格である。
しかも姓も故郷の土佐の中濱村から中濱万次郎とし、韮山代官の江川英龍の配下に籍を置く事となる。だが問題が起きたのはこの後の事であった。この時の幕府には英語を話せる人材が、唯の一人として居なかったからである。
それだけに様々な憶測が飛び交い、ねたみや嫉妬、そして自らの保身を図る為の具申などの他、万次郎は亜米利加国の密偵ではないか、と云う嫌疑まで掛けられ、其々の立場を守る者達からは、様々な異論が出される迄となったのである。こうして中濱万次郎が和親条約締結に於いて、結局は表に出る事も無くなったのだが、象山はそうした幕府の舞台裏の話を耳にしていたのである。


二十一、吉田寅次郎の決意

 七月に入ると幕府は、全ての江戸表に居る諸大名を城中に集めた。そこで開国を求めに来た亜米利加に対し、良い意見があれば取り上げる、どの様な意見でも構わぬ故に、「・・いささかも心底を残さず十分に申し聞かせらるべく候」と、ペリーから出された開国の要望についての対策を迫られ、諸大名に意見を求めたのである。だが具体的な妙案も無く、更には江戸の庶民に対しても、同じ様に意見を求めたのであった。
 それはまさに江戸幕府が開かれてから二百五十年、初めて臣下の大名から町人に至るまで、夫々の考えを求める程の幕府にとっては苦渋の決断であった。中には吉原の娼婦から、「酒を飲ませて寝込みを襲えば、恐れて二度と来なくなるはずだ」などと云う意見も届いた様である。言い換えれば開国を求めて来た亜米利加に対し、対応する方針が幕閣には打ち出せないままで居たのである。
 この時に集められた意見の中には、勝麟太郎や河井継之助などの意見があった。特に勝の書いた上申書が、幕府の異国応接掛となっていた岩瀬忠震や、大久保忠寛(一翁)の目に止まったのは、まさに的を射た意見だと思えたからである。

 こうしてこの時に勝麟太郎と言う一介の御家人は、初めて歴史の表舞台に其の名前を留める事になる。勝はこの時、国を守るには取り急ぎ軍艦を外国から買取り、海軍を組織して兵を育て、国の防備にあてる事が何よりも大事、と考えていたのである。それは又、嘗て自ら師でもあり前年には義弟ともなった、佐久間象山の考える所と一致するものでもあった。
 既に勝の妹である順子は自ら進んで学者の妻となる道を選び、前年には象山の正室として佐久間家に嫁いでいた。同じ年の九月に幕府は、それまで禁止していた大船停止令、つまり大型船の建造や買い入れる事を禁じた法令を、突然に破棄したのである。亜米利加の黒船が来訪する事は、既に阿蘭陀から風説書によって知らされてはいたが、こうした強引な開国を求められる事は、幕閣の誰もが予想してはおらず、それが故に慌てて対応せざるを得なくなったのである。

 同じ年の九月初旬の事である。塾生も既に帰った五月塾の部屋の中で、まだ十七歳の吉田松蔭は、象山が顔を見せるのを待ち構えていた。「是非とも先生にお話を」として、時間を貰う事を約束していたからである。名前を松蔭と変えたものの、象山からは以前のままの寅次郎と呼ばれていた。
象山から見てもこの松蔭は、どこか思いつめる様な処が多い若者であると感じていた。東北へと視察を兼ねて友人と向った時も、表面的には思慮が浅く幼いと思う反面、その行動には必ずひとつの理があった。そこに秘めているものは気迫であり、自信であり、そして行動力であると見ていた。
  
 大方の者は何か事を起こそうとする時、只その時の感情や思い込みだけで始めてしまう。思っても始めない者は行動したその先の事を考え、行動を抑制してしまうからである。松蔭の性格は前者に近いのだが、それとは少し違っていた。何時も在るべき姿をこれからに求め、そこに向かって躊躇なく行動を起こす若者でもあった。何よりも周囲の者達の心を魅了してしまうのは、守るべき大切なものを今ではなく、その姿を未来に求めていたからに他ならないと象山には思える。この時に松蔭から問われた内容は、如何にすれば異国を知る事が出来るかと云う質問であった。 
異国の、それもたった四隻の軍艦の来航で、二百五十年間も続いた幕府の鎖国政策は突然に崩れ去ったのである。それが完全な鎖国では無いにしても、免許の無い外国人が日本に入る事は許されず、同じ様に免許の無い日本人が勝手に国外に出れば死罪を免れる事はない。この国の鎖国とは、そうした鎖国なのである。

 若い松蔭は師である象山に、まるで自らの怒りをぶつける様に疑問を投げつけた。
「先生に是非ともお尋ねしたいのです。私たちが異国の事を知る為には、その殆どは書物しかありません。しかもその書物も幕府の検閲を受け、キリシタンの疑いが無い物や、尚且つ先生が求めた阿蘭陀語で書かれている百科事典の様な、或いは医学や天文学など知識を得る為の本でしかありません。無論ですが、それも藩から幕府に対しての許可を得ての話です。しかしこれだけでは異国を知る事は叶わず、『敵を知り己を知れば百戦危うからず』の孫子の兵法は、まさに画に描いた餅そのもの。
知るとは相手の懐に飛び込む事では無いでしょうか。亜米利加の軍艦が、しかも蒸気の力によって水車を廻し、海の上を走り回る事が出来るなど、今まで誰が想像すらしたでしょうか。来航した船は亜米利加だけでは無く、翌月の七月には露西亜の船が長崎に開国を求め、親和条約から通商条約を求めて来ていると聞き及んでおります、先生はこの事をどの様にお考えなのでしょうか」

 松蔭の言葉には、突き刺す様な強さがあった。この時に象山も又、阿蘭陀語辞書ドゥーフ・ハルマの改訂版刊行が、幕府から却下された時の事を思い起こしていたのだ。あの時は怒りを何処にぶつけて良いのか、その気持ちに誰も応えてはくれなかった。だから今ここでは、正論を述べなければならない。象山はこの時、そう覚悟をして若い松蔭と向かい合ったのである。
「孫子の兵法を寅次郎が言うのであれば、それには先ず、儂の考える兵法を持って応えよう。寅次郎は孫子の謀攻に述べられている《彼を知れば百戦殆(あやう)からず、彼を知らずして己を知れば一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず殆し・・・》、から言うのであろう。
儂も彼を知らず又己を知らずしては、毎戦必ずや敗れると思うておる。しかし彼を知り己を知る事も無い今にあって、戦いの話は余りにも無謀。まずは彼の良い処を知り、己の良い処を知る事を忘れず、そこで初めて戦の話が出て来るもの。
始めから戦いを描いた行動は、必ずや負ける事は必定。この度の黒船の事だが、大凡幕府は既に阿蘭陀からの風説書により、一年前には既にその情報は得ていたとの事だ。しかしその話を事前に幕府が市中に広めたとして、黒船が来なければ騒がせたと非難され、来たとなれば今以上の騒ぎとなるのは明白であろう。しかも蒸気による黒船の速さは、前に後ろにと儂の大砲でも沈める事も無理な事。皆が言う様に幕府はこれまでの二百数十年を、阿蘭陀国と云う小さな国の穴から、その向こうの世界を覗いていたと云う事よ。寧ろ大事な問題は、鎖国を解くべきと阿蘭陀国からの再三の忠告に、貸す耳さえ持たなかったと云う事にあるだろう。そのことの方こそ見直さなければならぬ、根の深い問題だと儂には思えるのよ」

 象山は黒船の来航と云う出来事の本質は、幕府自身では何事も決断の出来ない所にまで、既に来ているかの様な言い方をした。
「実は先生、私はそれ故にこの目で異国を、或いは亜米利加と云う国を見て来たいと思うて居るのですが、それは正しい事でしょうか、そしてそれを可能にする方法はあるのでしょうか」
 既に松蔭の気持ちは自らの目で異国を知る事以外、この国が置かれた今を理解する方法は無い、と云う覚悟が象山には見て取れた。
「儂は常々、門人達にはこの様に申しておる。『地を離れて人なく、人を離れて事なく、故に人事を論ぜむと欲すれば、先ず地理を観よ』とな。観た者が語る言葉の重みは、見ない者の話より遥かに重いと知るだろう。だがそれが何時なのかが、今は何よりも問題よ。すでに儂も幕府の勘定奉行である川路の所へは、若い人材を海外に派遣すべきではないかとした書を送っている。実際には幕府の中でも、その様な声はあがっているとも聞いている。
ただその川路から今は無理だと申して来た。それゆえに幕府の老中でもある阿部に対して、十か条なる急務の上申を送ったのだが、川路からの返書には「然らば海外に送るに足りる人材は」と申してきてな。故に「小生の門人にも、多くの無之忠直義烈の士がおる」と、お主などの名も挙げて推したのだが、犯禁のこと故に以降は未だに返書は届いてないのだ」
 この時の川路聖謨のお役目は、幕府勘定奉行であった。象山が川路と知り合ったのは、川路が江戸に在任していた小普請奉行の、天保十三年頃に遡る。象山が藩主の求めで江川英龍の門下に入った時、確か翌日に入門して来たのが川路であったと記憶していた。それだけにそれほど親しい関係ではなかったが、互いの気心は理解し、手紙のやり取りはしている相手でもあった。

 海外に向わせる者として免許を与える様にと、師の象山が幕府に推挙して呉れた事を、松蔭はこの時始めて知った。象山の自分に対する期待の大きさに、震える程の思いを持って感激したのである。
象山は更に言葉を続けた。
「実はな、土佐国の若い漁師だった者が、亜米利加に行って戻って来たと言う話を聞いておる。名を中濱万次郎と申す者だが、この度は旗本に召抱えられる事となり、あの伊豆の韮山の江川殿の手代になったと云うのよ。この者は土佐の国幡多郡中ノ浜と云う所で、仲間の船に乗り込んで手間賃を稼ぐ為に働くと云う、何処にでも居る若い漁師だったらしいのだ。
その男が十五歳の時に仲間らと共に海に出て、嵐に遭遇すると舟ごと流されてしまった。伊豆の八丈沖から更に南の無人島へと流され、沖を通った亜米利加の捕鯨船に救けられ、後にかの国で学問を受けて十数年程を暮らしたと云う。その男等が、この度は琉球を経由して土佐に戻って来たとの事だ。不慮の事故ゆえにお咎めは無かった様で、亜米利加語が堪能な為に、この度は幕府に通詞として登用されたらしいのだが、老中からは異国の密偵やも知れぬ、との意見も出たらしい。しかし漁師如きにお上と亜米利加との交渉の中で、通史を任せる訳には行かぬ、と云う話になった様でな・・」

 「先生、遭難したと申せば、戻る事は可能だと云う事になりましょうか」
「この国は前例を重んじる故に、戻る事が出来るとなれば、その可能性は高いとは思うが・・・しかも別の話としてだが十数年もの間、東方の何も無い離れ小島で、数人の漁師達か生き延びたと言う話も聞く。戻れたのは島に流れ着いた流木を集め、自らが作った舟で戻ったという話よ。
それに幕府の方では、寛永十年に御禁令を発しておる。内容はと云えば、異国へ奉書を持つ以外の船を遣わしてはならぬ事や、それ以外に日本人を異国に遣わすまじき事、又、もし、忍びて乗り参り候者は、其の者死罪、其の船や船主は共に留め置き、別段の沙汰が出るなど、厳しい決まり事があるのでな。それになぁ、何故に海を往くこの国の舟の帆柱が、必ず一本しか無いのか、そこもとは存じているかな」
 突然に当たり前だと今まで思っていた事を、師の象山は若い松蔭に問いかけた。
「いえ、一向に存じませんが」
「異国へこの国の民を向かわせない為よ。嵐で舟の帆柱が折れれば、後は汐の流れに任せるだけだ。迂闊にこの国の程度が異国に知れ渡れば、或いは一気に攻め滅ぼされるかも知れぬからな。それ故に幕府は本音を言わぬが、遭難した者は、二度とこの国に戻る事を望むなと云うことよ」
 断定は出来ないと象山は思う。その答えは必然的に曖昧な返事でしかなかった。
「であれば先生、今も長崎に来ていると云う露西亜の船へ沖合で乗り込み、異国へ向かう事が出来れば、後にその様な方便も使えなくは無いかと・・」
 方便は単に方便でしかない。乗り込んだら、異国に向う事が出来れば、生きて帰れれば等々、全ては自分の目論む都合の良い考えの羅列であった。

 松蔭が浦賀で幕府が亜米利加の国書を受け取る所を、じっと見つめていた事を象山は思い出した。多くの者には好奇心を満たすだけの見物であったのだろうが、松蔭はその先を見つめていたのである。それは沸々と自らの心の内に激しく湧き上がる、知らない事は知りたいと云う探究心であった。自らのその目で、その肌で異国を知りたいと云う、熱い想いでもあったろう。その為には捕えられ、或いは処刑される事も覚悟出来る程の、それが情熱と云うものだと松蔭には理解している様であった。
「先生、私は是か否でも、この目で異国を見て参りたいのですが・・・」
 松蔭は何時も、そして何事にも真摯に向き合っていた。多くの塾生の中でも、その姿は一際目に付く。所謂、息抜きとか手抜きと云う部分が無いのである。 
「止めはせぬ、何れは誰かがしなければならない事だ。もし若ければ儂がやりたい位の事よ。後は上手く、その手配を整える事だ。長崎には露西亜の船が千島や樺太の国境の画定をと、交渉に参っていると聞いているが・・もし長崎に向かうなら、途中、京に住む梁川星厳を訪ねる事だ。儂の名前を伝えれば、何かと話も聞かせてくれよう。しかし可笑しな話なのだが、儂もかつては攘夷だった、が、今はこの国も開国すべきと強く思う様になった。既にこの国は、だいぶ西洋に遅れを取ってしまったと、近頃はそれを嫌と言う程に知る事が出来るからの。そしてもうひとつ、異国に向かったその後はどうするのかという事だ。あの万次郎の様に亜米利加に行き、其処で学んだ事がこの国に戻って来てから、何一つとして学んだ事が使えないとすれば、それも又辛いことではあろうがのぅ」

 象山は立ち上がると小机の前に座り直し、そして墨を擦り始めた。その姿は静かに瞑想している様に松蔭には見えた。やがて筆を立て紙の上に書を書き始めた。

  送 吉田義卿 佐久間象山

之子有霊骨  久厭蹩蘗群
振衣萬里路  心事未語人
雖則未語人  付度或有因
送行出郭門  狐鶴横秋旻

環海何茫茫  五洲自成鄰
周流究形勢  一見超百聞
智者貴投機  帰来須及辰
不立非常功  身後誰能賓

 意味はこうである。
「きみは普段から気骨のある若者であった。俗人の中で同じように見られる事を嫌っていたのだろう。その君が今、世俗の塵にまみれた衣を振って、万里の彼方へと旅に出ようとしている。心の中を誰にも打ち明けられないとしても、私には君のその思いを知る事が出来る。旅立つ君を見送る時に門を出ると、まるで君の高い志を見守る様に、一羽の鶴が秋の空を舞っている。
 この国の周りは海に囲まれてはいるが、その遥か向こうには五つの大陸が横たわり、それらは皆、海に接している。行って見て来るがいい。一見の価値は、まさに百聞を遥かに超えるはずだ。知恵を持つ者はその機会を見逃す事は無い、帰る時にも、その時期を見逃すのではないぞ。誰もが為し得ない大きな行いを示す事は、君の死んだ後にも永く語り継がれるはずだ」

 書き終わると寅次郎の前にその紙を置いて、象山はこう言ったのである。
「寅次郎君には、これを差し上げよう。私からの餞別だ、持って行くがいい」
広げた紙には、象山の漢詩が書かれていた。旅立つ松蔭の為に象山の願いや祈りが、深い慈愛に満ちてそこに記されていた。師である象山からの想いが、大きく託されて居る様に松蔭には思えたのである。
「これから出かけなければならん。支度があるでな」
 と、そう言って象山は席を立った。


二十ニ、密航から蟄居へ

 長崎に来ていると云う四隻の露西亜の軍艦で密航を図り、外国を自らの目で見てみたい、そう思った松蔭が夢を実現しようと長崎に向けて発ったのは、師である象山と語り合った半月後の九月十八日の事である。この直前の十日に、松蔭は叔父の玉木文之進宛てに一通の手紙を書いている。その内容は嘗て学んだ山鹿流の兵法が、どれ程の時代遅れであったかを悔やむ内容であった。

「(略)邸史ノ議論ハ西洋ノ事ハ分釐も不 用船は和船、銃ハ和銃、陣法ハ和陣法トノミ一圖(いちず)ニ凝リ固まり洋説ヲハ一切不入剰 都下之諸名家ニ一人もかゝる愚論無之故風説カハ知ラサレモ近藤普一郎ヲ山鹿素水江ヤリ其説ヲ聞カシムルノ論起リシヨシ素水ガ不学無術之侫人タル事ハ勿論衆目之ミル所殊ニ此度和戦ノ論起りシヨリ筒井紀州ニ侫シ和議ヲ唱へ人心ヲ惑シ自ラノ立身出世ヲ謀ル悪ムベキ心術・・・云々(略)」

 それまで自らが師として学んで来た山鹿流の兵学者である山鹿素水を、松蔭はこの時に徹底して糾弾している。何故にこれまで、あれほど尊敬していたのか、単に鵜呑みにしていた自分が情けない程に、様々な事を知るに付け己の愚かさを悔やんだのである。
更に同様にして十五日には兄である杉梅太郎に書き送った手紙にも、今度の出府後に最初に入門してしまった安積良斎に対する、痛烈な自らへの批判が綴られているのである。良斎は毛利藩の江戸藩邸内にあった有備館へ、講義に来ていた事から知り合っただけの儒者である。しかし安易にその門人に加わってしまった自らに対して、師を選ぶ目を持ってはいない自分の、余りの不甲斐無さを悔やんだ手紙であった。

 長崎に向かった松蔭の思惑は笑い話の様に、その後の行動は大きく外れる事になる。松蔭は象山からの紹介状を携え、京に戻っていた梁川星厳の許に立ち寄った。そこで天皇が異国の船が頻繁に現れている事を危惧し、酷く心を痛めていると云う話を聞いたのである。それは松蔭に取って生まれて初めての驚きであった。故郷の萩では叔父の玉木文之進から、天皇こそが神であるとした「神国由来」などの国体論を、徹底的に教えを受けていた事からで、梁川星厳から聞いたその話に松蔭の若い血肉は震えたのである。
そしてこの時の感激や感動を吉田松蔭は漢詩に託しているが、最後の一文だけを解釈して記して置くことにする。
「 (略)人生は萍(うきぐさ)の若く定住なし、何れの日にか 重ねて天日の明なるを拝せん。右は癸丑十月朔旦、鳳闕を拝し奉り、䔥然として之を賦す、時に余 将に西走して海に入らんとす 丙辰夏季  二十一回藤寅手録」

 松蔭が長崎に着いたのは十月二十七日の事である。だがこの時に露西亜の軍艦四隻は、既にこの三日前に長崎を後にしていた。英吉利と仏蘭西が同盟し、露西亜に宣戦布告を行う僅か四ヶ月前の事で、露西亜は注意深く、この二つの国の艦隊の動向を探っていたのである。
幕府の全権大使でもある川路聖謨らが、未だ長崎に着いていない事と共に、英吉利の軍艦が極東の露西亜艦隊を攻撃すると云う情報を得た指揮官のプチャーチンは、一度、上海に向けて長崎を離れ、十二月五日には再び長崎に戻って来る、そうした手筈を長崎奉行に知らせていた。しかし自らの思惑だけで動き回っていた松蔭には、そうした事情を知る術は無かった。その意気込みとは異なる現実に突き当たり、後に書いた幽因録にも、「事意の如くになるを得ず」と、この時の想いを書き記している。

 この年の嘉永六年十一月二十一日、松代の慎助の家では又も男子が生まれた。五番目の、それも男子である。慎助は丑五郎と名付けた。既に家には五歳の長女の「かめ」、次女の「紀伊」は三歳になり、一歳の壬子郎とともに丑五郎を合わせると、四人の子供達が生まれ育っていたのである。

 ところで翌年の嘉永七年(安政元年)一月四日に露西亜の軍艦が出航するまで、幕府が長崎に遣わした大目付の筒井政憲や勘定奉行の川路聖謨と、プチャーチンとの交渉は実に六回もの回数を重ね、その間も露西亜船は長崎に暫く留まっていた。松蔭は密航を企てたものの、まるでその想いをいたぶるかの様に、松蔭が長崎を離れて直ぐに露西亜船は舞い戻って来たのである。
尤もこの時の幕府には開国をする意思など無いだけでなく、実質的な交渉の成果は何も無かったと言って良い。何事も曖昧にした、のらりくらりとした「ぶらかし」と呼ばれる交渉術であった。この「ぶらかし」とは、「たぶらかす」と云う言葉が転じて生まれたもので、狸や狐が人間を騙すと云う古くからある言葉でもある。その意味では誠実さに欠けた、相手を小ばかにした様な、自らの戦略を前面に出した利害剥き出しの交渉術であった。
それでも互いがこの交渉で得たものは、交渉の相手が交渉に足る者であったと云う事であろう。この時の交渉の内容が記録としては残されている。

 協議が始まって四日目の、十二月二十日の記録である。
交渉の為に長崎の湊で停泊している露西亜船に対して、水や食料などの提供をして貰う話を二人は交わしていた。
「我が露西亜船に薪や水、更に食料に関しても、貴国は無償で提供すると言うのだろうか」
そう切り出したのは今年で、五十歳となったプチャーチンであった。
「左様、どの国の船でも薪と水は無論、食料も、とは申しても肉は鶏肉ではありますが、米や野菜なども無償で提供させて貰いますぞ」
川路聖謨は穏やかな表情で、平然と答えていた。
「否、やはりそれは困る。無償で戴く事は困る、故に代価をお支払するが」
大げさに首を振りながらそう言ったのは、又もやプチャーチンであった。
「いやいや、差し上げます。代価を頂いたとなると、交易が始まるきっかけとなるやもしれず、誤解される事が無い様に、先ずは協定を結ぶ事が先決かと」
協定を結ぶ気持ちの無い者が、先ずは協定を結ぶ事の方が先決と、二枚の舌を使い分ける文化こそが、建前と本音を使い分ける文化として今に引き継がれて来たのである。
松蔭が失意の内に江戸に戻ったのは、二か月後の十二月二十七日の事であった。一年後にペリーが来ると言う話も、既に半年後と迫っていた。松蔭はその日が来る事に淡い期待を寄せながら、新たな正月を江戸で迎え様としていたのである。

 処で土佐藩士の坂本竜馬が五月塾に入門したのは、突然に江戸湾に現れた黒船騒ぎから半年後の、嘉永六年十二月初めであった。松蔭が国禁でもある密航を企て、長崎に向かい無駄足を踏み、江戸に戻って来た頃の事でもある。この時の竜馬が書いた故郷への手紙には「異国船処々に来たり候由に候えば、戦も近き内と存じ奉り候。その節は異人の首を討ち取り、故郷の土産に帰国つかまつるべく候」程度の、何とも呑気で怖いもの知らずの、十八歳の血気盛んな若者であった。
しかし松蔭や龍馬の師でもある象山にしても、暫く前までは龍馬と同じであった。この国に異国の者を入れないとした攘夷の考えは、徳川幕府が続く二百年余りに培われた、極めて当然な前提でもあったからである。しかし浦賀の沖合に来ている黒船を見て以降、漠然とではあるにしても西洋の持つ技術や物事の考え方に、この国が西洋に大きな遅れを取っている現実を、嫌が上にも強く象山は受け止めたのである。
 
 「あれほどに口やかましく海防の遅れを説き、大砲の設置を願い、西洋の知識や学問の普及を求めていたにも関わらず・・・」と、象山が溜息に似た愚痴を、若い松蔭に語ったのは半年前の事であった。象山の想いは科学技術や軍事力の整備は異国から取り入れ、人々の心の拠り所となる倫理や教育はこれまでの様に、古くから重んじた儒学や朱子学を基に、とした考えに変って来ていたのである。それは知識を積み重ねた人間が向う、当然の進歩でもあった。
だがこの頃になって幕府は、蘭学者で奥医師の桂川甫周らの要望もあり、あの象山が求めていた和蘭語の辞書とである「ドゥーフ・ハルマ」の増版刊行を、やっと許可する事にしたのである。ペリーの黒船来航によって時代が大きく変化し始めた現実を、幕府も受け入れざるを得なくなって来た証でもあった。しかし象山は既に藩に対し、再度出版の御伺いを求める気にはなれなかった。
好むと好まざるとに関わらず、そして知る、知らずにも関わらず、時代はこの国をも巻き込み、大きく動き始めていた。しかも既に黒船で来航した亜米利加は、阿蘭陀語では無く英語を使用していたのである。そしてその英語を訳す為に浦賀で行なった談判でも、幕府は英語を知る中国人の通詞を間に入れての交渉であったのだ。

 この年、松代の慎助は数えで三十二の歳を迎えていた。屋敷の庭に繋がる竹山の裾を、ゆっくりと頂に向う途中まで登って周囲を見渡していた。眼下には昔は海津城と呼ばれた松代城が良く見える。この新しい年を迎えた正月の朝、天気が良ければ城へ新年の挨拶に向う前に、慎助には必ず行う事があった。象山と呼ばれる様になった竹山の途中まで登る事である。

 嘗てこの竹山は、川中島の戦いでは戦略上の狼煙台のあった場所で、今でも藩から許された者でなければ登る事だけでなく、小枝一本切り落とす事も許されない場所であった。何故ならこの頂きからの眼下には、松代城の動静が手に取る如く見えるからである。その松代城も又武田信玄が川中島の四度目の戦いで本陣を敷いた場所で、後に世に広まったキツツキ戦法も、この松代城で信玄が編み出した戦術でもあった。
それに象山先生とは幾度か手紙で意見を求めた末に、自らの屋敷を象山堂と名付けた経緯のある我家が足元にあった。道を挟んで隣にあった先生の家も、あの善光寺地震でほぼ倒壊してしまい、今は井戸を残して唯の空地なっているだけである。松代の住まいは同じ御城下の御使者屋敷ではあるにしても、先生の姿は既に有楽町のそこには無く、江戸の木挽町へと移ったからである。

 とは云え、この山の名前も象山と呼ばれる様にはなったが、それがたとえ山の名前であったとしても、慎助には象山と呼び捨てには出来ない自分を感じていた。十一歳と云う年齢の差だけで無いのは、師とする先生の見識と学問の深さに、自分が遠く及ばない事を知るからである。
そしてその様に自分に思わせているのは、間違いなく知識を求める願望でもあった。既に松代の藩だけでは無く、象山先生は今この国を動かそうとしている様に思えるのだ。この国の多くの藩から推挙された若者達が、先生の開いた五月塾の門人となるべく、毎日の様に訪れていると聞いている。だが兄の様な師への敬意と、友としての親しみを象山先生に持ち続けられる事が、素直に慎助には嬉しいとも思えたのである。

 慎助は象山と人々から呼ばれる様になった竹山の中腹に登り、この数年の事を思い返していた。短い時間で身の回りを見回せば、大して変わらない当り前の様な日常が過ぎて行くのだが、近頃の武士は刀を使う剣術よりも、飛び道具と云う鉄砲や大筒が戦の道具となっていた。これからは更に時代も大きく変わり、何もかもか激しく変化して行く様な気がした。
二年前の五月六日に藩主の幸貫公が隠居すると、その翌月の八日には突然に亡くなってしまった。後を継いだ幸教公は庶子では無いものの、養嗣子として家督を継いで藩主となったのだが、十七歳と余りにも若く、しかも酷くひ弱な体質であった。それが家臣の一人として心痛める心配事でもあった。

 一方の我が家では嘉永五年の九月に、念願の長男となる壬子郎正朝が生まれ、更に昨年の秋には弟の丑五郎が生まれて元気に育っていた。藩の置かれた状況に一抹の不安を覚えながらも、それでも家長としての安堵感は隠せるものでは無かった。
特に子供達が日々育って行く事で、我ながら随分と落ち着いたものだと、自分を見つめる事があるからだ。そして先生と呼ぶ象山先生の足許にも及ばない自分に、もしも先生よりも勝る事や、或いは誇れるものを手にする事があるとするなら、この子供達を立派に育て上げる事だろうと慎助には思えるのだ。
そう考えると何故か、目の前の視界が広がって行く様に感じられるのである。慎助は大きく息を吸い込んだ。足許の象山堂と名付けた我家からは、既に六歳になる長女の「かめ」と四歳になった「紀伊」の大人びた声と、泣き声を上げている幼い二人の息子達の声が、賑やかに慎助の耳に届いてきた。
この十日後に慎助は藩の御救方の勤めに対し、褒賞が与えられる事になった知らせが暮れに届いていた。安政元年(一八五四)の正月、松代の有楽町にある宮本家での事である。

 松代で慎助が感慨に浸っていた時から半月後、日本との和親条約締結を他国に先んじられる事を恐れたペリーは、予定より半年も早く、しかも突然に江戸湾の金沢沖へと姿を現したのは、一月十六日の事である。羽田沖まで侵入した黒船は七隻を数えたのだが、更に後から二隻がこの艦隊に加わった。
 この黒船の江戸湾侵入を幕府が恐れた理由は、江戸城に砲弾を撃ち込まれる事である。幕府がこれまで築き上げて来た二百五十年もの権威が、砲弾を撃ち込まれる事で一瞬にして失墜するからで、それは幕府の崩壊を意味するからでもあった。しかも自らが持つ大砲より、数倍はあろうかと思われる大口径の大砲を積んだ船が、海の向こうから来るなど考えも出来なかった事である。否、来るにしても、これほどに大胆に江戸湾に入って来るなど、幕閣の誰もが予想さえしていなかったのである。

 確かに前年に又来ると言い残して去った事から、既に幕府は江戸湾防備の為に、花見で知られた品川の御殿山を切り崩し、その土砂を持って台場を作り上げる工事の最中であった。つまり砲台を品川沖に築く事で、黒船を簡単に江戸城に近づけさせない様にする、いわば威嚇する為だけのシロモノであった。
しかもこの時の江戸城は、余りにも無防備だったと言える。象山に言わせれば「江戸湾三里(十二キロメートル)の海上を、射程二十数丁(約二キロメートル)の大砲で守らんとする事の、如何に無意義なるかは斯くの如く明らかである。我が国はこの時、太平洋に向ひ又日本海に對して、全くの無防備の儘、一葦帯水、亜米利加、露西亜にその長き海岸線を暴露してゐる」に過ぎなかったのである。

 外様の大名から江戸城を防備する為、かつて幕府は大川(隅田川)にさえ橋を架ける事を禁じていた程である。勿論、江戸城防備の為の外濠として、役割を持たせた為でもあった。それ故に当初は東北へと繋がる街道を、参勤交代の必要から千住大橋だけ架けられ、後は全てが渡し舟にしていた程である。幕府が敵として想定していたのは、同じこの国に領地を持つ、仙台の伊達や上杉、毛利や前田などの外様大名達であった。それだけに堂々と江戸湾に入る異国の船の存在は、全くのところ頭の隅にも思い浮かばなかったのである。精々将軍家の別荘となる浜御殿(現、浜離宮)の岸近くに、澪(みお)と云う浅瀬の目印を建て、漁師達の舟が近寄る事を防ぐ程度の事であった。
更に言えば、幕府は完全に異国の戦力を侮っていたし、科学技術の差を無視していた。それどころか様々な国が幾つも存在する事や、異人がそこで暮らしている事も、彼らが独自の文化を発展させていた事も、その一切を見ないように触れない様にと、数百年を過ごして来ただけなのである。年に一度の江戸幕府に届く阿蘭陀風説書に書かれていた内容も、全く別の世界の事として自ら安泰を謳歌していたのである。

 二月十日から横浜村で始まった亜米利加との交渉は、やっと三月三日に両者は一致点を見出し、ここに初めて日米和親条約が結ばれた。だがその根底には異国を知らない攘夷思想が浸透し、ここから始まる混沌とした時代へと、この国は引き込まれて行く事になる。それは知らしめない事で得た幕府安泰のツケが、取り返しのつかない事態に向かう事を知ることになる。
和親条約のそれは函館と下田の二つの湊の開港であり、捕鯨に立ち寄る薪や水そして食料と石炭の、積み込みとしての寄港であった。更に灘波した場合の積荷や乗組員の処遇、湊周辺の外国人遊歩区域の設定、そして外交官を一名、下田に置く事などを決めたのである。
だが亜米利加が日本の鎖国を解かせた出来事は、瞬く間に世界の知る事となった。それは新たな異国との、和親条約締結の始まりの合図でもあったのだ。その結果、この年の暮れまでに英吉利や露西亜などが次々と、亜米利加と同様に和親条約を締結したのである。和親条約を結び終えた亜米利加の黒船は、三月半ばに横浜から下田へと向かった。開港が認められ、その湊の水深や停泊場所などを決める為であった。

 かねてから何としてでも異国を見てみたい、と考えていた吉田松陰とその友人の金子重之輔が、下田に停泊していた一艘の黒船、軍艦バウアタン号へと忍び込んだのは、三月二十七日の夜の事である。二人は亜米利加への密航を企て、その機会が訪れた事に胸を高鳴らせていた。しかしこの密航は、いとも簡単に拒絶されてしまったのである。
夜陰にまみれ警備の目を盗み、砂浜に置かれていた小船を無断で借用し、やっとの事で軍艦に乗り移った迄は目論み通りであった。しかし最初に乗り込んだミシシッピー号では一切言葉が通じず、次に乗り移ったバウアタン号の亜米利加下士官に、にべも無く密航を断られてしまったからである。やっと開国させたばかりの日本から、見ず知らずの若い密航者を自国に連れて行くなど、外交上からもあってはならない事であった。亜米利加が太平洋を渡ってまで開国させる為の努力は、一切が立ち消えとなる程の意味を持っていたからである。ところが松蔭と重之助の二人は、相変わらず何事も自らの信念や至誠だけで、望みが叶うと思い込んでいた幼さがあった。或いは叶うとは思わないまでも、行動しなければ何事も始まらない事だけは、誰よりも知っていたのかもしれない。
何者かが密航しようとした事実が幕府へと知らされた翌朝、程なく二人は自ら役人に自首したのである。浜から黒船に乗り移った時の櫓こぎの小船が、乗せていた寅次郎等の荷物と共に湾内に流されてしまったからである。この時、亜米利加のペリーから、二人の若者が死罪を言い渡されるかも知れない、とした幕府の裁定を心配して、下田の役人宛に穏便に取り計らう様にとの願書が出されている。
後にそのペリー提督が日本遠征記に書き残した一文には、この様な内容の一文が残されている。

 『この事件は、同国の厳重な法律を破らんとし、又知識を増す為に生命をさえ賭そうとした、二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すもので、興味深いことであった。日本人は疑いも無く研究好きの人民で、彼らは道徳的ならびに知識的能力を、増大する機会を喜んで迎えるのが常である。この不幸な二人の行動は、同国人の特質より出たものであったと信ずるし、又人民の抱いている激しい好奇心を、これ以上よく示すものはない。ところでその実行は、最も厳重な法律と、それに違反させないようにするための、絶えざる監視とによってのみ抑えられているのである。日本人の志向がかくの如くであるとすれば、この興味ある国の前途はなんと味のあるものであることか、また付言すれば、その前途はなんと有望であることか!』

 ともあれ密航の事実が露呈し、吉田松陰と金子重輔の二人が幕府に捕らえられると、荷物共々伝馬町の牢に送られ厳しい詮議が行われた。その後に松蔭の師となる佐久間象山も、門人の松蔭を扇動したとして捕らえられ、伝馬町へと送られたのである。荷物の中からは象山が松蔭に贈った、密出国を勧める様な漢詩が見つかったからであった。そうして五月塾はこの時に、多くの門人達を置き去りにして閉塾されたのである。
九月末に江戸では、門人の吉田松蔭を唆したとして、佐久間象山の処分が決まった。松蔭同様に藩に戻され、蟄居する事を命じられたのである。こうして象山は母親や正室となった順子共々に、松代藩の家老望月主水の別邸となる聚遠楼へと移され、松代での蟄居生活を余儀なく始める事となるのである。一方の松蔭等が萩に戻った翌年の安政二年、百姓牢と呼ばれている岩倉嶽に入牢された金子重輔は、一月十一日に二十五歳のその短い命を病によって没したのである。
 

二十三、地震と津波

 幕府は黒船の来航した年の七月、この国の置かれた現状を打開する為に町人までも含め、広く意見を求めた事は既に書いた。それは幕府の中に於いても、これぞと云う意見が、中々見出せない為であった。そして求めた意見に対する反応は、実に様々な内容の意見が集まったのである。しかし幕府に最も受け入れられる意見として、勝海舟の提案が採用される事に成った。
即ち海軍を起こして軍艦を外国から買い入れ、海軍の兵士を訓練する事から始める、とした案であった。その意見の根幹を支えていた考えは、師でもあり義弟となった象山が嘗て唱えた、「海防八策」から生まれている。
しかもこの時に勝が述べた海軍とは、幕府の海軍でも諸藩の海軍でもなく、日本国を守る為の海軍である事が明記されていたのである。
幕府は早速にその案を取り入れ、軍艦を買い入れる事に決めると、海軍の兵を養成する為の手配と共に、勝に対して新たな御役目が申し渡されたのである。与えられたお役目は「異国応接掛手附蘭書翻訳御用」と云うもので、象山同様に勝も又阿蘭陀語には堪能であった事に依るものである。こうして勝の提案した通り、長崎に幕府の海軍伝習所を開設する事になるのである。

 嘉永七年(安政元年)の十月半ば過ぎ、勝は海軍伝習所を開く為に長崎に着くのだが、その勝が留守にしていた半月後の十一月四日、江戸の町は大地震に見舞われたのである。後にこの年からの年号が安政と変わるために所謂、安政大地震と呼ばれる地震の連鎖で、江戸での死者は凡そ一万人、家屋の倒壊は一万四千余りが被害を受けたのである。
だが震源地は東海道の駿河湾沖で、最大の被害を受けたのは東海道沿いの宿場町であった。三島宿では武士が立ち上がる事も出来ずに、地に這い蹲ってしまったと云う記録がある程で、箱根宿から蒲原や原の宿場町の他に、興津や島田などの東海道の宿場町も倒壊が激しく、その地震の影響は遠く名古屋あたりまでの広範囲で被害を受けたのである。
四日の朝に起きたこの安政東海地震は、日露和親条約の締結交渉の為、下田港に停泊していた露西亜の最新木造戦艦ディアナ号を大津波が襲った。排水量二千トン、長さは凡そ三十間(五十二メートル)、プチャーチン提督が率いる軍艦だが、これが地震によって発生した津波で岩場に乗り上げ、船底を破損すると船体が傾き、自力航行が極めて難しい状態となってしまった。
しかもこの日の下田の町も大津波に襲われ、百名近くが波に吞まれて死亡したのだ。下田奉行所の記録によると全戸数八百五十六戸に対して、全壊と流失の家屋は八百十三戸に上り、ほぼ殆どの家々が流され半壊の家は二十五戸、高台に建てられ被害を免れた数は実に二十戸にも満たなかった。しかし反面、死者が流失家屋の数と比べて少なかったのは、地震の発生後に多くの村民たちが高台へと、津波を警戒して逃げた事によるものであった。

 だがこの大津波に襲われた最中、ディアナ号のプチャーチンは医師を伴い、惨劇の中で被災者の治療を川路聖謨に申し入れている。幕府の露西亜国交渉窓口に居た川路聖謨は、丁度その日に下田の町中で地震と津波に遭遇していたのである。宿泊していた旅籠から飛び出し、裏山の頂へと向かい「おもわずいばらをわけ、木をつたいて、道なき山をひたすら上(のぼ)りに上りたり、絶頂へ参りみれば手足をかき破りて、血の出ぬというものなし。ここには女其外逃上りて、みな念仏を唱え、或いは泣き居りたり」と、その日記に記している。
しかも川路聖謨は露西亜船ディアナ号の乗組員達が、湾内で波に押し流される下田の人々を救助し、遺体の回収活動をしているのを丘の上から見ていたのだ。川路のその日の同じ日記に、「死せんとする人を助け、厚く治療の上あんままで」つまりマッサージをして「助けらるる人、泣き拝む」と書いている。この時、それまでの漫然とした交渉から、川路は更に誠意を尽くす様に真摯に交渉をせねばと思い直した。そしてその日の日記の最後に「恐るべし、心得べき事也」と書いている。

 下田湊内で多くの漂流する日本人を助けたディアナ号の乗組員達は、傾いた状態の船体を操作しながらも和船に曳航され、船体修繕の為に伊豆の戸田港に向う事が認められた。しかし曳航される途中で、富士川沖でディアナ号は沈没してしまうのである。この時の富士川河口の海岸での出来事を、ディアナ号の航海日誌にはこう記載されている。
「(略)この出来事が実際に目の前に起きた事を、信じられない思いで私達は見ていた。それは早朝から集まった千人程の日本人の男女が、傾いた船体から何艘ものカッターに乗り移った我々を救助しようと、波打ち際で体に綱を結んで待っていたからだ。無鉄砲な我々の救助隊員の事を、心配して集まって呉れていたのだ。岸辺の方では綱の先に多くの人々がそれを掴み、波に引き戻され沖に流されるのを拒んでいた。乗組員が乗ったカッターが岸に着くやいなや、押しては引いてゆく波にカッターが浚(さら)われない様に抑え、そして支えて呉れていたのだ。善良な、誠に善良な博愛の心に満ちた民衆よ・・・」

 富士や原、田子の浦、三津の小梅などの漁師を先頭にして、百艘余りの伝馬船はディアナ号へと綱を張り、戸田村の入江に曳航しようと試みていた。だが余震で起きた大きな津波が又も押し寄せ、もやい綱を切り放す事になった。ディアナ号の傾きが更に大きくなったからである。こうしてディアナ号は駿河湾に沈んでしまうのだが、乗組員や兵士達五百名の全員は救助されたのである。しかも幸運な事にディアナ号から持ち出した荷物の中には、ヨットの設計図が掲載された『海軍論集』が見つかり、この時にプチャーチンは小型帆船の建造を思い立った。

 ところがディアナ号が津波に襲われた翌日の十一月五日、今度は後に安政南海地震と呼ばれる大地震が又も発生した。震源地は紀伊半島と四国の中程らしく、大坂や京を含めて地震の被害は広がり、こちらは紀伊半島の先の串本で、五丈(十五メートル)土佐では六丈(十八メートル)程の津波が押し寄せ、更に又一日を空けた七日に、今度は四国の伊予辺りを震源にして大きな地震が発生したのである。
立て続けに三度も関東以西で発生した大きな地震で、老中筆頭の阿部正弘はその被害の対策から心労がたたり、九日は将軍の承諾を得ると、老中筆頭職を佐倉藩主の堀田正睦に譲ったのである。堀田正睦は前任者の阿部正弘を凌ぐ程の、強く開国を唱える人であった。

 後にディアナ号の乗組員や兵士等は、戸田の船大工らと共に天城山から材木を切り出し、戸田港では新たな軍艦の建造を開始する事になる。これを許可したのは長崎でも下田でも、露西亜との和親条約の交渉にあたっていた幕府の旗本で、阿部正弘から海岸防禦御用掛を任された川路聖謨であった。そして日露和親条約も津波の翌月に、下田で締結されたのである。
津波による遭難から露西亜の船員と戸田などの船大工が寄り集まり、昼夜を分かたずに露西亜に戻る船を建造して四ヶ月余り、完成させたのは翌年の安政二年三月十日の事である。勿論だが幕府にも思惑があった。西洋の軍船を建造する技術、それも特に竜骨と呼ばれる船底を支える仕組みは、和船には無い外洋向きの設計思想であったからだ。これ等の技術を少しでも取り入れたいとした、強い思惑が聖謨の中にはあった様である。

 建造した船の大きさは嘗てのディアナ号の半分程ではあったが、船名を「へだ号」と命名された二本マストのスクナー船は、六十一名の乗組員を乗せて三月二十二日に露西亜へと向った。そして残りの船員達は中立国独逸の船と契約を行い、一応の面目を保って露西亜へと送り返されたのである。しかし独逸船で露西亜へ戻る船員達は、帰国の途中に英吉利海軍に拿捕されると、乗組員だった彼らは捕虜として捕らえられてしまった。

 一方「へだ号」で露西亜に戻ったブチャーチン提督は、自らの代理として副官のポシエットに「へだ号」を幕府に返還する事を託した。この「へだ号」が露西亜から下田に戻ったのは、翌年の安政三年(一八五六)のことで、ポシェットが乗り込んだ「オリバー号」に曳かれて帰って来たのである。それから暫く後にプチャーチンが病で歿すると、自らの遺言としてこの戸田村の領民に対し、百ルーブルの金を贈り届けた。更にアレクサンドル二世に進言して、ディアナ号から引き上げた大砲五十ニ門を、幕府に贈る様に働きかけたのはプチャーチンの感謝の気持ちであった。

 この頃の幕府は様々な手段を講じて、海防の具体化を進めていた。例えば三月三日には国防と称して、全国の寺社にある梵鐘を大砲に変える為、その供出のお触れを出した。更に七月には西洋流の銃砲演習を奨励している。しかしその一方で幕府は、十二月十五日に名前を松蔭と改めた寅次郎を野山獄から出し、その身柄を父親の杉家に移して幽閉する事になる。
幕府が四百トン程の阿蘭陀製蒸気船のスームビング号(日本名で観光丸)を一隻、阿蘭陀から貰い受けた時、阿蘭陀人の航海術や砲術などの先生を六名程雇い、勝海舟を筆頭に幕府や諸藩から集められた二百名程の若者らと共に、海軍士官の養成を長崎で開始した。そして更に幕府は十一月には元号を、それまでの嘉永から安政へと変えた。こうした事から安政元年は、ひと月余りで安政二年へと移ったのである。 

 年号が変わったこの安政二年(一八五五)、松代の宮本家や蟄居を余儀なくさせられていた象山へと話を移すと、松代藩では藩主の真田幸教が藩の財政を再建する為、藩士に対して知行借り上げ(棒禄の半分を藩が借りて置く事)を行うなどの緊縮策を決断した。併せて藩が持つ城下の無用な山林や山を売り払い、それまでの藩の借財を整理する事となったのである。
 それは丁度百年も前の話ではあるが、同じ松代藩の家老職の家に生まれた恩田大工民親が、新たに家老職に任じられたのは、三十代後半の宝暦四年(一七五四)の時である。当時、未だ十代だった藩主の幸弘は、この頭が切れると噂の高い恩田に藩政の改革を命じたのだ。既に前任者は見事に失敗し、更なる負債を抱えての改革であった。

 藩の財政改革を任された恩田が選択したその方法とは、極めて単純で明確な事であった。つまり「改革に際して嘘偽りを述べない事」「一度命じた事、命じられて引き受けた事は、決して撤回する事なく最後までやり通す覚悟を持つ」の二つである。こうして藩主も藩士達も痛みを共有する所から、松代藩の改革は始められたのである。そして見事に財政の改革が行なわれたのである。
この時に恩田大工民親が行なった改革の手法は、後に引き継がれ松代藩は既に自藩の物としていた。後はその改革を藩の全ての者が、同じ覚悟を共有すれば出来る事でもあった。慎助は御弊川村に住む、分家などの一族から資金を借り受け、知行借上げを認めて藩に貸すと共に、藩が売りに出した象山(竹山)を宮本家で買い求める事にしたのである。後に太平洋戦争の負け戦が見え始める中、象山と呼ばれた竹山の下には日本軍の大きな防空壕が掘られ、本土決戦に向けて大本営の移転先として整備されるのだが、それこそ宮本家が松代藩から買い求めた山であったのだ。

 翌年の安政三年(一八五六)一月十一日、この物語の文頭に出て来る宮本璋の父親となる宮本乙六郎仲が、慎助の三男として松代に生まれた。既に宮本家では仲の八歳上の長女「かめ」と、六歳上には姉となる「紀伊」が、更には四歳上には長男の壬子郎、そして次男の丑五郎が居た。二人の姉と二人の兄の許で、名前も乙六郎つまり六番目に生まれ事を残す為に、その名が付けられたのである。 
こうした子供達の名前を付けた慎助の真意は、死産や早産で育って生きて行く事が出来ず、或いは病で亡くなった子供の事を、自らと家族の中に永く記憶として留める為であった。

 慎助の娘や息子達は、その後に其々が皆、あり余る力を持て余す程に益々元気に育っていた。その力が一体何処から湧いて来るのかと思う程、遊ぶ、食べる、寝る事を無心に貪っている様に見える。その一方で、子供達の元気な姿を見ている慎助の心の内に、師でもある象山との境遇を、嫌が上にも比べてしまう事があった。その時不意に象山と共に語り合った、夫々の子供達が向かう未来の事を思い出したのである。
師である象山が自らの心の内を話してくれた様に、そして自分も其の通りだと思ったのは、互いに初めて生まれた子供を、産まれて直ぐに、或いは幼くして失った事の悲しさであった。あの悲しみや辛さをこれからの時代に、親となる全ての者達には味合わせたくない。我が子として生まれた子供達が親になった頃には、その子供が生まれても生き伸びて行ける、そうした西洋医術を必ず学ばせたい、と象山と語り合った事である。

 同じ年の三月、松代で蟄居中の象山に届いた勝海舟からの手紙に、ジャワ島で九死に一生を得たと手紙で知らせて来たのは、海軍練習船「観光丸」による航海中の出来事だった様である。そして同じ年の七月、ハリスが総領事として下田に着任した。
松代での蟄居を命じられ幕府の命に従って日々を過ごしていた象山も、安穏とその日々を過ごしていた訳ではなかった。この国の行末やその在り方について、嘗ての知人や友人、そして門人達等に対しても手紙を書いて意見を求めると共に、自らの意見をも伝えていたし、時勢の状況などを知らせて貰っていた。その一方では阿蘭陀語で書かれた百科辞典から、これからの時代に役立ちそうな様々な器機を試作し、実験を行なっていたのだ。
そして住まいを戸倉村に移させたお蝶の許にも、時折は馬で宮坂峠を越えて通っていたのである。蟄居とは表向きは謹慎だが、幕府の役人が来て監視されていた訳ではなかった。
この翌年の安政四年二月に、松代で蟄居中の象山は連射銃を試作した。恐らくは種子島に鉄砲が渡来してこの方、誰もが及びもつかない発想によって、しかも手作りで独自で考え作り出した象山の頭脳は、驚くべき豊かさを見る事が出来る。

 更にこの時、併せて軍容や軍人の節度、更には軍装に至るまで、新しい時代の兵の姿を書き著している。六月になると嘗ての老中筆頭だった阿部正弘が、三十九歳の若さで歿したと言う話が象山の耳にも届いて来た。そして七月には江戸城や大阪城に築いた砲台が殆ど意味をなさない事を、同じ松代藩士の三村晴山に書き送っている。
十月になると、幕府に動きがあった。以前から亜米利加国領事のハリスに求められていた事だが、江戸の将軍への謁見が初めて許され、二十一日にはその将軍との対面の儀が行われた様であった。それは亜米利加が新たに貿易に向けた、通商条約の締結に向けた打診の様な意味かあったと象山には思えた。

 これまで幕府が行って来た開国までの話は、その一切が朝廷には相談も無く行って来たと言える。本来、国の重要な国策の変更に関しては、京に居る天皇に意見を求めて決めるのが先例ではなかったのか、とした意見が諸藩から出て来たからである。この頃に江戸屋敷にいた同じ松代藩士の山寺源太夫からも、開国や条約の締結など、朝廷の御意向も聞かずに進めるのは如何なものかと、外交問題に関する時事の意見を求める質問が象山の許に届けられた。
しかし象山には幕府と朝廷の間で交わした、確か取り決めがあった様に記憶していた。少しの時間の猶予を貰い調べたのだが、幕府と朝廷が交わした、禁中並公家諸法度の中にそれを見たのである。大阪城が落城し豊臣家が滅んだ年、つまり武家諸法度が制定された時に、併せて朝廷との間で結んだ取り決めであった。

 だが俄に巻き起こった諸藩の声に押されるかの様に、新たに老中首座に就いた堀田正睦は、朝廷への挨拶とその説明を行う為に京に向う事となった。しかしそこには更に多くの思惑が入り乱れ、収拾の就かない事態へと向って行くのである。この幕府の動向を知った象山は、京に住む梁川星厳に手紙を認め、懇意にして居る公卿などから、朝廷の意向や情勢を知らせて呉れる様にと書き送っている。
更に三月になると、やはり江戸の山寺源太夫に、ペリーが日本寄港の折に書いていたであろう、旅行記の翻訳文を是非に探して貰いたいと頼んでいる。そして象山はこの頃、知人や昔の門人などに手紙を送り、蟄居生活を送りながらも多くの接触を試みていたのである。
中でもこの年の四月には勘定奉行の川路聖謨に頼って、外交処置に関する意見書を幕府に進言した。更に同様の内容の時事に関する所見を、同じ松代藩家老である望月主水宛に届けている。蟄居中の者からの意見を、恐らくは誰もが聞く耳は持たないとは思うのだが、意見を述べずには居られない程に焦りと苛立ちとが、この時に象山の頭の中には交錯していたのである。

 丁度この同じ頃の京では、天皇の勅裁を求めに来た老中堀田正睦が、抜き差しならない袋小路へと足を踏み入れた。孝明天皇は元々から、異国嫌いの天皇であった。理由は生理的なものである。理解の出来ない事や気味の悪い物など、自分とは異質と思えるものに酷く怯えるのは、生き物が根源的に持つ生理的な作用でもある。だが言い換えれば、知らない事や理解出来ないことを、敢えて知ろうともしない者が持つ、極めてそれは消極的な性格の特徴でもある。
この時に孝明天皇は堀田正睦に対し、「異国との条約の締結は、国家の大事、勅裁を求めるなら御三家や諸大名の意見を十分に聞いてから、再度又申し出よ」と申し渡した。つまりそこには曖昧な言葉で、とりあえず曖昧にして置くと言う意図があった。
安政五年四月に何も決められないまま江戸に戻った堀田正睦のもとに、三十四歳となる将軍家定から、大老には彦根藩の井伊直弼に命じる様にと、その考えが伝えられたのである。この大老職とは将軍が幼少、或いは緊急時の折には、将軍の代行や補佐を行う最高権限を持つ御役目である。どんな手を井伊直弼が、或いは南紀派と呼ばれる人々が用いたのか、歴史にその記録は残ってはいない。しかし「余は紀州好き、一橋好かぬ」の将軍家定の一言で、城中に居た水戸の一橋派は瞬く間に左遷されてしまったのである。
開国しなければ外国に滅ぼされてしまうと考える幕府の開国政策と、異国の人や文化を国内に入れないとする攘夷の考えが天皇の異人嫌いと繋がり、尊王攘夷とする勢力とに国内では二分していた。更には異国の植民地にさせない為、一度攘夷を行い、改めて公武両方の意見を纏めて、開国すべきだとした開国派など、それぞれに自らの意見を信奉し、互いに相手の意見に耳を傾けない状況が続いていた。だがこの時から大老となった井伊直弼は、どれ程の躊躇も手加減も無く、自らの決断を行動へと変えて行ったのである。

 しかも朝廷の意見をお伺いするとしたそれまでの老中の方針を、この時に大老となった井伊直弼はきっぱりと否定した。その根拠は象山が調べて探り出したと同じ、二百五十年も前に幕府と朝廷が結んだ、禁中並公家諸法度「公武法制応勅十八ケ条第二項、政道奏聞に及ばず候」の一文を持ち出したのである。大坂夏の陣が起き、武家諸法度が作られた慶長二十年(一六一五年)に、幕府が朝廷と交わした約束ごとであった。
内容は「親王摂家をはじめ、公家並びに諸候と言へども、ことごとく支配いたし、政道奏聞に及ばず候」として取り決めたものである。政治の事については一つ一つの事案を、朝廷にいちいちお伺いを立てる必要は無い、と井伊直弼は解釈すると、すぐさまそれを徹底させたのである。

 こうして幕府は六月十九日に、神奈川沖に停泊中のボーハタン号の艦上で、日米修好通商条約に調印した。更に三日後の六月二十二日に、諸藩に対して総登城を命じた井伊直弼は、そこでまず日米修好条約の調印を行った事を公示した。さらに翌日、一橋派の老中筆頭だった堀田正睦や松平忠固などの老中を左遷し、老中を紀伊派一色にすると、二十五日には再度、諸藩に総登城を命じて将軍継嗣問題が、紀伊の家福に決定した事を発表した。跡継ぎ問題も開国か攘夷かの問題も、まさに矢継ぎ早に大老の一言で決められたのである。

 江戸城の中でこれまでになく専制的な政治が行われていた頃、松代の宮本家では十一代目の当主となる丑五郎が、初節句を迎えていた。春には三女の廉が生まれ、更に五月の端午の節句となる日に、慎助の元に嬉しい出来事があった。蟄居中の象山から一幅の軸が贈られて来たからである。 
後に宮本家の跡取りとなる丑五郎の初節句の祝いにと、小布施の高井鴻山と象山の二人は互いに相談し、鴻山の描いた鬼の画に象山が賛を添え、慎助の息子の節句の祝いにと描き挙げ、一幅の軸を送り届けてくれたのである。そこにはこの様な象山の賛の文字が認められ、その意味はその後の宮本家の家訓となった。

 辟邪之道無地術。清白慎謹是其實。終葵訛傳何須論。不許虚耗窺爾室。清虚觀道士策開
丑五郎の弟となる仲は、その著書『佐久間象山』の文中で、賛に書かれている文字の意味を受け止め、「清、慎、謹の三文字は人間の最も心得るべき文字にして、士が身を持するには其一をも缺(欠)てはならぬ、と先生は常に説かれた。亡父なども修身の格言として、よく其の話をして著者の兄弟等を訓戒したことが、今尚耳底に遺っている」と書いている。
更に此の年の夏の終わりに慎助は、勘定方に勤めて初めて湯治の為に休みを貰った。この年の暮には藩より一代給人格を賜る事が慎助に伝えられた事や、三女の廉が元気に育っていた事もあり、妻の貞と幼い廉を連れて姫川の小谷(おたり)村にある温泉場へと湯治を決めた。その折に慎助が書き残した「安政五年小谷湯治紀行」が、今も松代の真田宝物館に残されている。
 

二十四、松代を訪れた高杉晋作

 国の政(まつりごと)を執り行う老中では月の替わった七月五日、大老の井伊直弼が一橋派に更なる追い討ちを掛けた。今度は呼びもしないのに城中へ登城し、勝手な意見を述べたとして、水戸藩の藩主徳川斎昭を謹慎に処した。しかも息子となる徳川慶喜には登城差し控え隠居謹慎処分を命じ、更には尾張藩主であった徳川慶勝や福井藩主の松平慶永には、隠居謹慎を命じたのである。
これら井伊直弼の強権的な行動は、既に予め想定しての裁断だったと言われている。史書には翌日の七月六日に、将軍家定が急逝したとあるが、この前日の五日或いは前々日の四日には、既に急逝していたと言う説である。家定は三十五歳でその殆どの生涯を、幕府の中では飾りとして奉られていただけの将軍であった。
 更に家定の亡くなった二日後に、井伊直弼は幕府内で新たに外国奉行を置いた。そして二日後の十日には日蘭修好通商条約が締結され、翌日には日露が十八日には日英が、更に九月三日には日仏修好通商条約と、次々に条約が調印されて行ったのである。
こうした混乱の中で紀伊家の家福は、家茂と改名して将軍職に就く事になる。しかしその家茂も又、大老が集めた老中達の意のままに動かされる、十三歳の少年だったのである。この強権発動で「井伊を倒すべし」の声は、日増しに大きくなって行った。

 さて話を二年程遡り、杉家に幽閉されていた吉田寅次郎(松陰)の事を、ここで少し書いて置く事にしたい。
下田で密航を企てた松蔭は安政四年、萩の杉家で伯父から松下村塾を引き継ぐと、集まった青年達を育てる事に専念していた。そこには十七歳の久坂玄瑞、十六歳の伊藤博文、十八歳になった高杉晋作、二十三歳の前原一誠、そして十四歳となる品川弥二郎などと共に、互いに学び語らい、そしてこの国の未来について論議を交わしていたのである。
寅次郎から名前を松蔭と替えたこの時、松蔭が今の時勢を語るのに松下村塾で取り上げたのが、あの『イソップ物語』であった。著名な童話として知られる物語の作者イソップは、紀元前六百年頃に生まれ、五十歳ほどで亡くなったとされる古代のギリシャ人である。生涯の大半を奴隷として過ごしたと言うが、創作した沢山の物語はその後、纏められて欧羅巴各地へと広がって行った様である。

 この物語が日本に入って来たのは戦国時代の終わり頃で、ローマ字の口語体で書かれたキリシタン版天草本『イソボのハブラス』と云う本である。以降にも『伊曾保物語』と題された国字体の木版本が出版されている。吉田松陰が西洋人の考え方を知るために、この『伊曾保物語』を読んだのだが、巷の学者達が考え唱えている様な「西洋人は仁なり、未だかつて禍心あらざるなり」と決め付けることには、強い疑問を持ったのである。
そこで松蔭は、彼らが伊曾保物語を読めば、それまでの考えを改めざるを得ないだろうと考え、安政四年(一八五七)の十一月に『伊婆菩喩言(イソップゆげん)に跋す』を著した。
香港で発行された阿蘭陀新聞の中に掲載されたイソップ物語を集め、訳した『かじかんちん』の中の一文、『馬鹿同遊』を読んでそれを書き写している。その内容はこの様なものであった。

 草原でのんびりと草を食んでいた馬の処に鹿が入り込み、その草を片っ端から食べつくして、馬が食べ物に困る事になる。そこで馬は人間に助けを求めた。人間は馬に轡を付け、その背中に跨って鹿を退治するのである。馬は感謝して立ち去ろうとすると、人間はご馳走と敷物の干し藁を与えると言って誘い、まんまと家畜にしてしまった。馬が日本人で人間が亜米利加、鹿は日本を狙う英吉利や仏蘭西、露西亜と言ったところだ。まさに現代でも通じる話である。後年に松蔭は友人の山県半蔵から、「イソップ物語」七十三則を見せられ、更に西洋人にも恐ろしい一面があるのを知る事となる。
そして松蔭は日米和親条約の際の亜米利加に対し、薪や水を補給するなどの補給基地として下田や函館を開いた事に、このイソップ物語が似ていると指摘したのである。

 朝廷から井伊を倒すように、とした密勅が水戸藩に出されたと言う話が、まことしやかな話として広まったのは、松蔭が『伊婆菩喩言(イソップゆげん)に跋す』を著した、十ヵ月後の安政五年八月八日の事である。しかも御丁寧に密勅の写しが諸藩へと送られ、島津藩主の斎彬が三千の兵を京に差し向け、朝廷をお守りするとした噂話が、人の口から口へと広がっていった。更に未だこの話に尾鰭が付いて、越前からは松平春獄も一千の兵を出すと言う話が加えられた。しかし島津藩主である島津斎彬は、この年の七月半ばには既に歿していた。それ等が単に流言飛語の類なのか、幕府の混乱を目論んだ意図的な策略なのか、そうした経緯は一切が闇の中であった。

 だが密勅が本物か偽物かと云う話の前に、このさも有りそうな話の内容に井伊直弼は怒り、これは幕府に対しての反乱と決め付け、その探索の手を朝廷にまで伸ばしたのである。そしてその挙句、幕府はその真偽を確かめる事も出来ないまま、九月から後に安政の大獄と言われる、強硬な弾圧へと手を付けはじめたのだ。つまり幕府の方針に反対の声を挙げていた者達を捕縛し、その意見を葬ることが目論見の弾圧であった。
この時、捕縛者の名前が入っていた者の中に、あの京に住む梁川星厳が居た。九月五日、幕府による一斉捕縛が開始される二日前の事である。星厳はこの時に長崎から流行したコレラによって、捕縛直前に病で歿してしまったのである。しかも同じ日に妻の紅蘭は捕縛されたのだが、捕縛される程の証拠も嫌疑も無く、翌年には釈放される事になった。

 安政の大獄と呼ばれる幕府の方針に批判する者を取り除く粛清の矛先は、まず徳川慶喜の将軍擁立に動いた者達から始められた。更にこの弾圧で福井藩主松平春獄の側近で、象山の五月塾の塾生でもあった二十六歳の橋本左内や、小浜藩士で儒学者であった梅田雲浜が捕らえられた。しかも過激な尊王攘夷論者の雲浜は拷問にかけられ、後に獄中で安政六年に亡くなる事になるのだが、安政三年に長州の萩で松蔭と会見した時、その吉田松陰が老中の間部詮勝の暗殺を計画していたと語ったことから、五月に松蔭は萩から江戸へと送られたのである。
そして松蔭の罪状を遠島と決めていた井伊直弼は、この時に遠島から死罪へと罪名を変えて松蔭を処刑した。安政六年(一八五九)十月二十七日の昼前の事であった。この安政の大獄と呼ばれた粛清は、実に七十名以上が切腹や死罪、獄門、追放、所払い、押し込めなど様々な処分が断行されたのである。

 ところが強権を振るった井伊直弼にも、その終わりの時が近づいていた。翌年の安政七年三月三日、この日は夜明け前から珍しく雪が降り始める寒い桃の節句の朝であった。脱藩した水戸藩士と元薩摩藩士の十八名が、登城前の桜田門外で井伊直弼を襲い、その首をはねると言う所謂、桜田門外の変が起きたのである。江戸の町民らは早速に狂句を認め、詠み人知らずとして町のあちらこちらに張り出す事になる。そこにはこんな狂句が書かれていた。
「井伊かもと、雪の寒さで首を絞め」
 庶民が幕府に批判的となる中で、老中は世情の気分を一新する事となり、同じ三月に元号を万延と改めたのである。
 
 安政の年号が万延と変わった年の、九月二十一日の夜の事である。松代に一人の若い男が長州の萩から、蟄居中の象山を訊ねて来たのだ。其の者の名前は高杉晋作、西行法師にあやかり号を東行と云う名を持つ若者であった。高杉が足を東に向けたのは、師の吉田松陰が断罪にあって以降、三人の偉人・奇人と言われている人と会い、教えを請う様にと言い残したからである。その三人とは福井に居る横井平四郎、笠間の加藤有麟、そして松代の佐久間象山にも必ず会う様にと、松蔭から言われている相手であったからだ。
尤も晋作が象山を訪ねた時の話には、少しの物語があった。象山が蟄居していた家老の下屋敷、聚遠楼の玄関口に突然訪れた高杉に対して、象山の家の者は面会を拒んだのである。蟄居中の身の上であり、しかも公然と他藩の者と面会するなど、幕府が禁じている事もあって、当然の事として出来る訳が無いからである。

 しかし断られた高杉晋作の方は、その断られた理由が良く判ってはいなかった。気配りとして暗くなってから訪ねた事も、建前としては理解しているつもりであった。しかし蟄居謹慎中の象山が、これ程に幕府の目を気にしていた事など考えてもいなかったのである。既に晋作の頭の中での幕府は、恐れるに足りぬ存在だったからでもあった。
困惑した晋作はその夜に、宿舎としていた中町の旅籠の主人長崎屋新三郎に、訳を伝えて相談する事にした。事情を察した旅籠長崎屋の主人は一計を思い立った。城下では象山の住むこの聚遠楼に出入りの武具屋で、勝手の御用も賜って居た者を紹介してくれることになったのだ。しかもこの策とは、旅の途中の高杉が俄かに病になった事にして、蘭医の大家として象山に診察を頼む事にしたのである。尋ねて来た者が松蔭の門人だったと、事前に密かに知らされていた象山は大いに喜んだ。そして翌日には病人の診察として藩に届けを出し、やっとその夜に象山は高杉晋作と面会することが出来たのである。
 
 この時の高杉は師である松蔭が安政六年四月二十六日、つまり江戸で処刑される一年半程前に書いたと言う、象山宛ての密書を持参していた。そこには凡そ、この様な事が書かれていたのである。
『(略)今は天下の事情について教えを請うべき人もなく遺憾である、憂国の至情抑える事が出来ず、それ故に門人の高杉東行を紹介したい。まずはこの者を私だと想い、宜しく教えてやって欲しい。そして今後の行くべき道の教えを伝えてやって戴きたい。つまり我が国をいかに定めるべきか、幕府や諸役人の信頼出来る人物は誰なのか、又自分と同じであるが、最も相応しい死に場所を何処に求めるべきか・・(以下略)』
それはまるで今も生きているかの様な、松蔭からの質問の様な願いであった。

 象山が高杉晋作と語り明かしたのは、余儀なく蟄居暮らしをしていた松代藩家老望月主水貫恕の下屋敷で、別名を聚遠楼と呼ばれた屋敷の、その庭に建てられた高義亭と呼ぶ別邸である。来客時に使用する寄棟作りの二階建てで、屋根は桟瓦葺で壁の一部は防備の為に鉄板を入れてある。一階は玄関や取次の間などがあり、次の間、客間、茶の間、更に勝手があり、二階にも控えの間や六畳間と、置き床の付いた七畳半の部屋があり、天下国家を論じる時に使う為に、どの様な身分の相手でも使用出来る造りとなっていた。

 二人はこの別邸で、夜を徹して語り明かしたのである。象山は開国の要を語り、高杉晋作は攘夷を主張した。そこでは是から向うべき高杉自身の行く道から国の行く末の事、或いは萩の師である松蔭が学んだ、その師である象山の考えを高杉は問うた。死罪を申し渡され、既に処刑された松下村塾の師である松蔭から、象山先生には必ず会って話を聞く様に、と高杉に強く求められたからである。いずれにしても、その後の高杉晋作の生き様は、この時に象山が語った話の中身を確かに物語っていたと言えるだろう。

 それまで攘夷を信奉していた高杉晋作は、象山と会った二年後の文久二年(一八六二)、考えられない事だが長崎から清国の上海に渡っている。しかも藩命による視察であり、幕府の命による貿易視察の随行員としてであった。しかし晋作の真の目的は、清国が西欧の植民地と変貌して行く姿を、その眼でつぶさに見聞する為であった。更に帰国した後の十二月には、品川御殿山の英吉利公使館を焼き討ちしており、翌年の文久三年には幕府の攘夷を実行に移し、関門海峡にて外国船に対して砲撃を加えている。
そして更に翌年の文久四年八月に下関では、英吉利・仏蘭西・亜米利加・阿蘭陀の四カ国の軍艦からの砲撃を受けた。この時に藩からは和議交渉の全権を与えられ、翌月には農民や商家の次男など、武士だけでない全く新しい組織の軍隊、つまり騎兵隊を創設するなど、新たな時代に乗り出そうとしていたのだ。そしてこれらの行動の背景には、象山の考えが少なからず反映されていたと思えるのだ。

 ここで十代目となる宮本慎助の身の上に突然起きた、予想も付かない出来事を少しだけ記して置く事にする。
高杉晋作が蟄居中の象山に会う為、松代を訪問したのは安政七年(一八六〇)の九月の事である。この年は年号が万延と改元された事から、翌年は万延二年となる筈の翌年二月九日、又も年号が改元されて文久となった為、万延とした年号は一年足らずで文久と改元された。この文久元年四月に慎助の母で、亡くなった九代目宮本市兵衛の妻でもある『貞』が病で亡くなった。
更にそれからふた月足らずの六月十日、亡くなったばかりの母である『貞』の看病疲れからだったのか、過労から寝込んでいた慎助の妻『清』が突然に没したのである。この時に慎助の手許には、末娘で未だ三歳の廉と五歳の仲、そして八歳の丑五郎や九歳の壬子郎、更に十一歳となる紀伊と十三歳になったか「めの」の、合わせて六人の幼い子供達が残されたのである。
頭を抱えた慎助は亡くなった妻の実家である伊木家にも、後妻となる女を捜してくれる様に求め、その間は伊木家に女手を頼み込むなど、更に下女を頼んでの子育ての日々が続いたのである。『清』が亡くなった二ヵ月後の八月、今度は宮本家の隣家に住む、象山の母「まん」か歿したのである。享年八十七歳で天寿を全うしたと言っても良いだろう。宮本家の「貞」や「清」は菩提寺である大林寺に葬ったが、象山の母「まん」は大林寺の隣にある佐久間家の菩提寺、蓮乗寺に弔われたのである。

 慎助が六人の子供達を抱えながらも後添えを貰ったのは、先妻が亡くなって二ケ月後の八月二十一日の事で、象山の母である「まん」が亡くなった事もあり、先妻の一周忌も済まない内の見合いではあったが、六人の幼い子供達を見てくれる女が、宮本家では必要に迫られていたのだ。
取り急ぎ婚儀は後にして、籍だけ先に宮本家に入れる事で事は進められた。再婚した相手は埴科郡西條村(松代町西条)の出で、松代の宮本家からみれば北に五分程歩いた辺りである。父は御番士(警護役)の西澤八十馬貞取の長女「たか」と言う二十四歳となる娘であった。「たか」が、どの様な経緯で慎助の後妻になったかは知る由も無いが、恐らく天保五年に「たか」の祖父である西澤軍冶美政画松代藩の御蔵奉行であった処から、この同じ年に歿した慎助の父市兵衛正武とは、同じ松代藩の御蔵屋敷に於いて懇意にしていた関係があったと推測できる。

 ところが「清」が歿して二年後の文久三年の事である。この同じ年に前妻の末娘である「廉」は、僅か四歳で流行り病から亡くなってしまった。
慎助と後添えとなった「たか」の間に初めて男子を儲けたのは、入籍から二年後の元冶元年(一八六四)だが、これも生まれて直ぐに歿してしまった。名前さえも付けてやる事も出来なかったのである。更に翌々年の慶応二年に今度は女児が生まれ、名前を「政」と名付けたものの、これもまた僅か半年の命であった。授かった子供達ではあったが、未だこの時代は子供が産まれたとしても、確実に育って行くのは極めて稀でもあったのだ。
しかし人はそれでも子供が授かる事を期待し、自らの分身をこの世に残したいと求める。この後妻となる「たか」との間に、慎助の七番目として念願の男の子が生まれたのは、翌年となる慶応三年(一八六七)の一月五日である。慎助はこの世に我が子として生を受け、七番目に生まれたこの男子の名前を、これまでの例に合わせて叔七郎とし、その諱(いみな)を叔(はじめ)と名付けたのである。
その叔と同じこの日に生まれた人に、義兄の仲が主治医となった正岡子規の友人である夏目漱石がいる。その漱石が修善寺で大吐血をした時、意識不明の昏睡状態に陥った後で、主治医から頼まれて診察に向った宮本叔と奇遇な出逢いが起きるのだが、後でその話は書く事にしたい。

 慎助と「たか」との間に叔七郎が生まれた前年、この年に数えで十八となった慎助の長女「かめ」は、松代藩の御役替えで足軽奉行となった小野喜平太を父に持つ、小野熊男の許に嫁いで名前を邦(クニ)と変えた。そしてこの頃、時代の波は信濃だけに止まらず、この国の全ての場所に押寄せていたのだ。
叔が生まれた前年の慶応二年(一八六六)の七月には、将軍家茂が大坂城で歿し、十二月には孝明天皇が亡くなった。更に翌年の慶応三年正月には明治天皇が皇位に就き、そしてその年の十月には、慶喜が政権を朝廷に返上する大政奉還が行なわれたのである。
幕府が二百五十年間もの間、ひたすら維持し続けた社会の仕組みがこの時に壊され、新たな時代の扉が開けられたと言える。それでも古い仕組みにしがみつく武士達は、時代の渦の中に放り込まれ飲み込まれていった。一方で未来に夢を預けた若者達は、その渦の中へと自ら飛び込んで行ったのである。


 二十五、桜賦と開国

 幕末の時代を生きた人々の話は、これまでにも数多くの物語に描かれている。それ故に時代を飾った人々の話は、ここでこと細かく探るまでもないだろう。しかし黒船の来航からの十年余りの間、まるで人々は激流の中へと放り出され、小舟にしがみ付く漂流者に似ている様に思える。日本中が逆巻く浪に弄ばれ、飛沫を上げて絶えずぶつかり合いながら、更に新たに生まれた流れに吞み込まれ、翻弄されてゆく姿を思い浮かべる。
それだけにこの頃の混乱を黒船の来航に求める事は容易い事なのだが、黒船の来航は一つのきっかけに過ぎないと私には思える。寧ろこの国が未来に向かって歩くことを止め、東洋の端の小さな島の中に自らを閉じ込めた結果、外国の好奇心を否応無く受け止めざるを得なくなったに過ぎない。御伽噺の浦島太郎は、実はこの国に人々の話でもあるのだ。

 科学技術の進歩を止めた側からみれば、当然だが進んだ相手には脅威を持つ。しかしそれまでこの国の権力者が脅威を持つ程の差を見せ付けられなかった事から、外の世界を詳しく知る事もなく又知ろうともせず、為政者は自らの持つ血族や身分制度を護ることにのみ、代々に亘って汲々としていた様に思える。
しかもそれらの歪が余りにも大きくなりはじめ、時を同じくして弱者と思っていた小国が大国を打ち破るとした、それまでの常識が大きく覆ったことであった。僅か数千の兵で隣の清国が打ち負かされるなど、青天の霹靂とも言うべき大事件が起きたからだ。
嘗て火縄銃と呼ばれる鉄砲が種子島に伝わり、それまでの刀や槍の戦から戦の様相は大きく一変した。だが武士が用いる刀が不要な程、外国から買い入れる鉄砲の精度はたかまり、脅威として目の前に現れたのである。
それ等の現実を具体的に知らしめたのが、蒸気の力で走る黒船であった。更には遥か遠くまで弾丸を飛ばせる強力な大砲から、矢でも鉄砲でも射抜けない鉄で作られた船など、数隻の軍艦を持ってすれば、この国を支えている幕府は、いとも簡単に崩壊すると思わされたのだ。
それ故に江戸から明治への変革は、それまで続いた様々な仕組みを打ち壊し、新たな国家を建設する為に一つの民族が行った、紛れも無い革命と呼べるものであった。

 主だった幕末の外交史を取り上げ並べて見ると、古い思想や仕組みに縛られ、小さな島国に閉じ込もっていた日本人が、押し寄せて来た大津波の様な異国の思惑を前に、右往左往と揺れ動いた痕跡が鮮やかに見えて来るのが分る。
英国による清国への侵略、黒船の来航から開国、そして象山が暗殺された前年の文久三年(一八六三)まで、新たな時代への期待と空しい抵抗の傷痕を、外交に関係した出来事を拾い重ね合わせてみると、それがはっきりと浮かび上がって見えてくる。

天保 十年 (一八三九)
 九月  四日、 九竜沖にて砲撃戦が始る。アヘン戦争
嘉永 六年(一八五三)
       六月   三日、 亜米利加使節、ペリー提督軍艦四隻をもって浦賀に入港する。
         九日、 久里浜に上陸し国書を幕府に渡す。象山、松蔭等がこれらを見る。
       七月 十八日、 露西亜使節、プチャーチン提督、軍艦四隻をもって長崎に入港。
          二十二日、 幕府は将軍家慶の喪を発する。
       八月 十九日、 露西亜プチャーチン提督、長崎奉行に国書を手渡す。
     十二月   五日、 露西亜プチャーチン提督、又も軍艦四隻をもって長崎に入港。
安政 元年(一八五四)
   一月  十六日、 ペリー提督、軍艦九隻を率いて江戸湾に入り和親条約を求める。
       三月   三日、 日米和親条約を横浜で調印。
          二十七日、 夜半に松蔭等は下田にて密航を企て、二十八日に自首し捕えられる。
     閏七月  十五日、 英国使節スターリング提督、軍艦四隻を率いて長崎に入港。
       八月二十三日、 日英和親条約を長崎で調印。
十月  十五日、 プチャーチン提督、軍艦ディアナ号で下田に入港
       十一月  四日、安政東海地震の津波でディアナ号大破。後に駿河湾の富士川河口にて沈没。
      十二月二十一日、 日露和親条約、下田で調印。
安政 二年(一八五五)
       三月二十七日、 亜米利加測量船二隻、下田に入港、沿岸測量を求めるも幕府拒絶。
       十月   二日、 前年に始る安政東海・安政南海・豊予海峡・江戸などの安政の大地震、更にペリー来航による対応など、筆頭老中阿部正弘が退任、後任には佐倉藩主の堀田正睦が引き継ぐ。
     十二月二十三日、 日蘭和親条約、長崎で調印。
安政 三年(一八五六)
       七月二十一日、 亜米利加領事ハリス、下田に到着。
       九月二十七日、 ハリス・国書を将軍に上呈の為、江戸城に向う事を幕府に求める。
       十月  十七日、 老中堀田正睦を外国事務、取り扱いに命ぜられる。
安政 四年(一八五七)
       五月二十六日、 ハリス・幕府との間で下田協約調印。
       六月 十七日、 老中、阿部正弘過労死か 死去。
       十月   七日、 ハリス、下田より江戸に向う。
          二十一日、 ハリス、将軍家定に謁見、大統領の親書を上呈。
          二十六日、 ハリス、堀田正睦を訪問、世界の大勢を論じ通商を勧める。
安政 五年(一八五八)
       一月   八日、 幕府は堀田正睦に、条約の勅許奏請の為に上洛させる。
       三月  二十日、 朝廷は幕府の認めた条約の調印を同意せず。徳川御三家の意見を集める様に、再度促す。
       四月二十三日、 井伊直弼、将軍家定の近親である南紀派によって大老に任命される。
       六月  十七日、 ハリス・米艦ポーハタン号上で、日米修好通商条約を調印。
          二十三日、 堀田正睦は老中を罷免される。
       七月   五日、 松平慶永(越前)、徳川啓恕(尾張)、徳川斎昭(水戸)、徳川慶喜(一橋)等、幕府の政策に反対した為、井伊直弼より罰せられる。
             六日、 将軍家定が死去。
             八日、 外国奉行を置く。
             十日、 日蘭修好通商条約調印。
            十一日、 日露修好通商条約調印。
            十八日、 日英修好通商条約調印。
        九月   三日、 日仏修好通商条約調印。
安政 六年(一八五九)
    六月   二日、 横浜(神奈川)、長崎、函館開港。
    七月   五日、 安政の大獄と呼ばれる井伊直弼、尊王攘夷派とに対して目される者に対して行動を起こす。
二十七日、 露西亜艦の乗組員二名、横浜で襲撃され殺される。
    十月  十一日、 神奈川の仏蘭西領事館雇い人殺される。
二十七日、 吉田松陰、江戸で処刑される、享年三十歳。
  十二月   八日、 下田港閉港。
安政 七年(万延元年)(一八六〇)
    一月    七日、 英国総領事館雇通弁伝吉、総領事館前の門前で襲撃、殺される。
       十九日、 咸臨丸遣米使節を乗せて浦賀を出航。
      二十二日、 遣米使節、新見正興らを乗せた米艦ポーハンタ号横浜を出航。
    二月   五日、 阿蘭陀人二名、横浜で襲撃され殺される。
    三月   三日、 桜田門外の変、井伊直弼暗殺。
    六月  十五日、 日葡修好通商条約、調印。
    九月二十七日、 遣米使節、米艦ナイヤガラ号で帰朝。
   十二月   五日、 米国公使館書記ヒュースケン、襲撃され殺される。
文久 元年(一八六一)
    五月二十八日、 英国公使館員、水戸浪士に襲撃される。
   十一月  十三日、 幕府はヒュースケン暗殺事件の賠償金一万ドルを英国に払う。
文久 二年(一八六二)
    一月  十五日、 老中安藤対馬守、坂下門外で水戸浪士に襲撃され負傷。
    三月二十二日、 幕府は阿蘭陀へ海軍技術生の留学を求める。
    四月二十三日、 寺田屋騒動(薩摩藩同士の斬り合い)が起る。
      二十九日、 長崎奉行支配の貿易視察の為、その一員として高杉晋作、長崎から上海に向う。
    五月二十九日、 英国公使館警備の伊藤軍兵衛守衛、英国水兵二名を殺害し自刃。
    八月二十一日、 島津久光の従士、英国人リチャードソンを殺害。生麦事件。
十二月 十二日、 品川御殿山英国大使館放火(長州藩士との噂広まる)
十五日、 慶喜、江戸を出立し京に向う。(将軍家茂上洛にかかる準備の為)
      十九日、 象山蟄居中、土佐藩士中岡慎太郎、原四郎、衣斐小平、土佐藩主山内容堂の招聘の書を持参し、土佐藩へ招聘を求められるも断る。
     二十七日、 久坂、山縣、福原の長州藩士、象山の招聘を打診に松代に来る。
      二十九日、 象山、蟄居を解かれる。

 文久二年八月、江戸から国許に戻る薩摩藩の島津久光等の行列に、物見遊山に観光していた英吉利人の四人が、馬に乗ったまま行列に割り込んで来た。しかも下馬の指図も理解出来ず、島津久光の乗る籠に馬で近づいて来たことから、供侍達はこの英吉利人に斬りかかった。その挙句に英吉利人一人が死亡、二人は重傷を負ったのである。場所は神奈川宿の手前にある生麦村でのことから、後に生麦事件として伝えられ事件は直ちに国際問題となった。賠償問題が発生し、戦争までもが取り沙汰される事態に幕府は追い込まれたのである。更に翌年の六月には薩摩藩に対して、英吉利が軍艦を用いて威嚇したことから、鹿児島湾で薩英戦争が行なわれた。

一方、松代では十月に蟄居中の佐久間象山に対して藩主の幸教から、幕府に具申する為の上書草稿の内覧を命じられている。更に藩政に関する意見をも、象山は書面にて幸教に上申している。そして十二月にはその幸教から、これからの藩が取るべき道とは、とした諮問に対し象山は開国進取、公武一致とした國是を確立する様にと進言し陳情した。
こうした最中の十二月十二日に今度は、品川御殿山に建造中の英国公使館が放火された。実行犯は長州藩士ではないか、とする風聞が江戸市中に広まった。だがその確たる証拠を、幕府は掴む事が出来ずにいたのだ。後に世間の風聞通りに実行犯は長州藩士達で、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤俊輔(博文)・志道(井上)聞多(肇)・品川弥二郎などであった事が、幕府が消えた後の明治政府となってから判明するのである。
時代が益々混沌として行く最中、十二月の末になり佐久間象山の蟄居謹慎処分が、八年ぶりに解かれる事となった。更に朝廷と幕府との間には開国問題で亀裂が深まり、それを打開する為に翌年の三月には、十四代将軍家茂が初めて京に向かった。これは三代将軍徳川家光の上落以来、実に二百二十九年ぶりの入洛であった。

かつて五月塾の門人でもあった吉田松陰が、仲間一人と九年前に密航を企て、それに手を貸したとして象山が捕えられる原因ともなった密航事件も、元はと言えば黒船の来航から始まった出来事である。その黒船来航から九年が過ぎたこの時も尚、国内では様々な余波が一向に収まる気配もなく、寧ろ時が経てば経つほど大きなうねりの様な力を蓄えて来ていた。
武士の世界が抱えてきた世襲の仕組みにも綻びが見え始め、幕府内ではこの頃から一気に問題が噴出すことになった。更には鎖国をやめて異国との通商条約を結ぶなど、朝廷をも巻き込むだけではなく、幕府そのものの進退が窮するまでの、末期的な様相を示しはじめていたのである。それまで幕府の下で纏まっていた諸藩も、幕府の命に簡単に服する事を拒絶し、寧ろ傍観者的に見つめる程にまで幕府は信用を失っていたのだ。

 その明らかに表れた兆候は、幕府の頂点となる将軍職に関わる様々な混乱である。既に十三代将軍の家定は、四年前の安政五年七月に二十一歳で死去していた。この家定に対しては越前の松平慶永からも、「凡庸の、中でも最も下等」と評されるほど使い物にならなかった将軍であり、一説には脳性麻痺であったとする記録もある。しかし将軍と云う立場や名前を利用したい者達にしてみれば、最も利用しやすい将軍であったことは確かであろう。
まして家定の生みの親でもある井伊直弼も又、この時から二年後の安政七年に桜田門外で暗殺されており、更にその二年後の万延元年九月には、徳川慶喜や松平春獄等に申し渡されていた謹慎処分が解かれる事となる。家茂の御台所を天皇家から降嫁して貰う事で、公武合体の実現を画策していた者達の思惑からであった。
 
 既にこの国の統治は幕府の中でさえも国家の未来を思い描く者は少なくなり、自らの立場や権利を追い求める者達だけが、この機会に幅を利かせようと画策していたのだ。
かつて十一代将軍家斎が十六人以上の側室達に産ませた子供が男子二十六名、女子二十七名と、その養子先から嫁ぎ先まで片付けるのに、莫大な持参金を付けて諸藩へと送り出した。更に引き継いだ十二代将軍家慶は、その家斎の次男でもあるが、体が弱かったと言われていたものの、それでも男子十四名、女子十三名の子作りに励んでいる。徳川の将軍達は肉欲に溺れ、異国の事など我関せずであったのだ。
尤も二十歳を越えて生き残った子供が将軍になった例は、次の将軍となる十三代将軍の家定しかおらず、その家定も二十一歳の若さで歿するのである。そして次に十四代の将軍職を継いだのは、あの家斎を祖父に持ち家定の従弟で幼名を慶福とした、僅か十三歳の家茂だった。誰もが口には出さないものの、短命であろう事は推測出来たのである。

それだけにこの機に乗じて倒幕を行い、攘夷をした上で新たな国家の仕組みを創りだすべきだ、とした公武合体論が国内のあちこちから聞こえ始めたのである。更には倒幕を掲げた勤皇の志士と呼ばれる者達も、長州や薩摩や土佐で声をあげ始めた。天皇を中心にして国を築く為に討幕を掲げ、新たな時代を迎えようとしたのである。
とは云え、幕府が開国を推し進めようとした思惑は、当然ながら隣国である清国がアヘン戦争で英吉利に負け、国土の一部を割譲させられた事からである。それは屈辱と共にこの国を、植民地へと向かう可能性を、極めて大きく秘めていたからでもあった。
この時に危機感を持った幕府が強く推し進めたのは、紛れもなく西洋の持つ進んだ科学技術に少しでも近づく為である。鉄砲や大砲などの他に蒸気で走る軍艦や鉄で作られた船などもその一つである。だが持ち込まれたそれが優れた科学的技術の結晶ではあっても、それを作り上げる為の基礎となる学問は、何一つとして幕府は拒絶していたのだ。

尤もこれまで諸外国の情報は、阿蘭陀から伝えられる極めて限られたものでしかなかった。例えばナポレオンが露西亜に攻め入った出来事も、大まかな内容を阿蘭陀から伝え聞くだけで、逐次幕府からは詳細を求める事は無かったのである。
つまり積極的に情報を集める事もせず、寧ろ鎖国である事を建前にしてそれを避けていたと言えるだろう。それでも諸藩と比べれば何処よりも早く世界の情勢を得ていたものの、それらを諸藩や朝廷に伝えなかったのは、諸藩が独自に外国と結びつく危険を危惧していた為であった。
更に朝廷に於いては、孝明天皇の個人的で生理的な「西洋人は嫌い」の感情が、この国の政治に大きな影響を与えていたことも確かである。これらは幕府が人材を育てる事を怠っていた事にも起因するが、世襲が当然とする時代に人材を育てるなど、それこそが相反する考え方でもあるだろう。
それ故に世襲制の持つ最大の欠陥は、単純に他人よりも自らの血筋を優先する事である。国家よりも自らを、自らの一族を大事にする、それは極めて独善的で傲慢な習慣であった。老中の中を見渡せば、二年前に桜田門外で井伊直弼が暗殺されて以降、開国を強く推し進める者はいなかった。寧ろ幕閣の周囲に流れる風を、的確に早く読む事に長けた者だけが、その中に残されていたに過ぎなかったのである。

この文久二年十二月も半ばのことである。未だ象山が放免される事も決まっては居ない中で、土佐藩前藩主の山内容堂からは松代藩主の真田幸教に宛て、象山招聘の書を持った土佐藩士の中岡慎太郎、衣斐小平、原四郎等が蟄居中の象山を訪ねて松代を訪れている。その用件を記した文面がある。

一書呈研北候。愈御安全可被成御座雀躍之至奉存候。然は御家臣佐久間修理事于今嚴譴蒙居り候趣、巳後寛宥之命下候時は弊藩へ招じ度豫願置候間宣希候。右に付家僕貴藩へ差遣候。先は要要而巳如斯御座候頓首
十二月十九日                       容堂 拝
 真田君座下
 尚々餘寒御自愛可被成候 以上

佐久間象山の蟄居が解けた折には、ぜひとも我が土佐藩に預けて戴けないかと云う招聘の求めである。ところがその直ぐ後で、今度は長州藩の使者として久坂玄瑞、山縣半蔵、福原乙之進の三人が、土佐藩同様に象山の招聘にと松代へと訪れたのである。それも土佐藩の中岡慎太郎が来て八日後の事であった。これはその時に持参した招聘の文面である。

                   福原乙之進
右信州松代え罷越山縣半蔵、久坂玄瑞一同佐久間修理へ相尋半蔵玄瑞申談三人之中両人は直様京都え罷登一人は江戸え罷歸候様被仰付候事、
十二月二十七日

 この内容は、「福原乙之進が信州松代に来たのは、山縣半蔵、久坂玄瑞と共々佐久間修理へ尋ねる事があっての事、正式な使者を出す前に、まずはお話を伺いたい。その返事次第では、二人は京に登り、一人は江戸に帰りその手配を致したい」とした、象山の腹のなかを打診した書状であった。

この書状から長州藩の方では予め象山の内意を探り、承諾の意向が見えた様なら、正式な使者をだそうと考えていた様である。象山もかつては攘夷論者であった。それが黒船来航から以降の世界を知るに付けても、攘夷論だけでは立ち行かない現実を、象山はひしひしと感じて公武合体を唱えることになったのである。
それに長州藩士達の話は土佐藩の様な、前藩主の求めでは無かった。象山は自藩の改革を更に進めなければならないとして、両藩からの招請の求めに対して、はっきりと拒絶をしたのである。後に久坂はこの時の事を、長州の來島や麻田等に書き送った書状の文面からも、その目論見を汲み取る事は出来る。しかし最も大きな問題は極めて頑なに久坂は、この時も強く攘夷論を固持していた事であった。

折しも象山の耳にも蟄居をそろそろ解いて良いのでは、とする検討が幕閣内で行われている話が伝えられて来ていた。こうした諸藩からの招請の話が来ることは、それを裏付けているのだろうと象山にも思えたのだ。それは又こうした時期だからこそ、かつて書き上げた『望岳賦』に匹敵する様な、この時の心情を吐露した、漢詩を書きたいと象山は思ったのである。そして望岳賦同様に、大作の『桜賦』とする漢詩を認めた。その最初の部分の読み下しを書いておく。

『桜の賦』

皇国の名華有り
九陽の霊和を鐘む
列樹の苯尊たるを翳ひ
樛枝の交加するをたる
妙色を自然より稟け
煌として妍しく茂りて瑕なし
群卉に冠たりて特り秀で
終古に亘って差はず
故に浪津を皇嗣たるに詠じ
開耶(さくや)に邦媛※(ほうえん)たるを命ず 
・・・・・(略)

かつて『望岳賦』を認めた三十過ぎた頃の作品とは違い、今度の『桜賦』も同じ様に七百五十九文字を充てた大作だが、意味は単に希望や感動を著したものではなかった。率直に言えば象山の今の心情を、飾らずに正面から訴えた詩であった。
その文頭から意味を語れば、『桜花が日本の名花である如く、自分もこの国で比類ない程に自らを磨いている。開国して外国の学術と技芸を取り入れる事が、唯一の国防の策である。しかし攘夷論者が天下を騒がせ動かしているのを見ると、憂慮に堪えられなくなる。今はもう頼み奉るのは皇室しかない。私の意見を採用して頂き、開国の国是を何とか確立して頂きたい』と語っているのである。更に象山は、こうも述べている。

『家厳、国を慮り、時を憂い、心を防海に潜むること十数年、人の未だ嘗て思わざる所を思い、人の未だ嘗て発せざる所を発す。忠を竭(つく)し悃(まこと)を致せども、ただその効を見ざるのみならず、遂に是に由り罪を獲て、禁固せられることここに九年なり、感じて桜賦を著す』と、その積もりに積もった心情を最後に述べている。
象山は自分が立派だなどと、自ら飾って語っている訳では無い。寧ろ堂々と「自分は誰よりも、自らを磨いて来た」と述べているだけである。儒教の教えを盲目的に信奉する者達の、美徳や謙譲さを以って自らを飾る者達から見れば、自らを飾らずに意見を堂々と述べる象山に対して、傲慢とか不遜などと決め付けている程に、それは不満の種だった様である。

象山が松代での蟄居を解かれたのは、時代が混沌とし始めた最中の時期で、実に象山の蟄居は九年間にも及んでいるが、だからと言って世情に疎くなった訳でもなく、多くの情報は嘗ての門人や、友人達からの手紙がそれを伝えてくれていた。特に義兄でもある勝海舟からの手紙は、時勢の動きを的確に伝えてくれていたと言って良いだろう。
年が改まった文久三年一月、新年の挨拶と共に藩主幸教に謁見した象山は、藩政改革について自らの意見を述べている。更に二日後には藩老達の無能を強く糾弾すると、五日には兵制の改革についても進言している。そして二月になると雪の中を、沓野から地獄谷を経て佐野村に出かけ、大筒の台木を調べに出かけるなど、まるで九年もの時間を取り戻すかの様に、領内では精力的に動き回っていた。


二十六、訪ねて来た青年

 佐久間象山に関係する二冊の本を目の前に置いながら、私はこの章を書き始めている。無論だが一冊は宮本仲著の分厚い岩波書店の『佐久間象山』と、もう一冊は岩波文庫本で石黒忠悳(ただのり)著の『懐旧九十年』である。
何故にこの様な事を書いているのかは、宮本仲著『佐久間象山』の中に書かれていた年譜の行實の部分に、文久二年(壬戌)(一八六二)の五十二歳の所に『石黒忠悳来り、訪ふ』と、単に一行だが記されていたからである。ここで云う石黒忠悳とは後に日清戦争に於いて陸軍軍医総監、つまり陸軍に於ける軍医の最高位(少将に相等)となった人物である。また明治の文豪と言われた森鴎外が本格的に小説を書き始める以前の、陸軍軍医としては上官でもあった人物としても知られている。その忠悳が若い頃に象山を松代に訪ね、どの様な話を交したのかも書かれておらず、全く不明であったからだ。

 そこで象山が会ったと云う相手の石黒忠悳の著書を捜すと、『懐旧九十年』と云う著書の中に、象山と会った時の会話の内容が書かれていたのである。尤も石黒忠悳が書いた『懐旧九十年』は自らの生涯を振り返り、随分と後になってから書いたものである。しかも文中には「文久三年三月(一八六三)に松代で象山と会ったと記憶している、前年の十二月に象山が蟄居を許されていた」とある事から、象山の蟄居が赦免された日を調べて見ると、確かに文久二年十二月二十九日である。この事から宮本仲著の「石黒忠悳来り、訪ふ」とは異なり、翌年の文久三年の春であった事は間違いない。尤も象山の生まれた日が和暦の四月十一日で西暦なら三月二十二日になる為に、曖昧な春としているから五十ニ~三歳と言う事になる。いずれにしても忠悳が象山と会ったのは、蟄居暮らしが許された後と言う、少し曖昧な時期の回想である。

 この時に十九歳になった若い忠悳は、面会を許された五十二~三歳の象山と、この様な会話をした様である。とは言え象山から見れば一介の見知らぬ訪問者であり、例え知り合いだとしても象山の方から会う事を避けていた時期である。それ故に同じ町内に住む象山の門人であった管氏の添え状を、改めて持参する様にと家人に勧められた事から述べている。
恐らくは家の者は十九歳の若い訪問者を、このまま返すのは可愛そうだと思ったに違いない。そして象山の質問から始まるその一部分を紹介する事にしたい。
「昨日は頻りに拙者に会いたいとの事であったが、又今日はわざわざ管の添書を得てお出でになった。どの様な用があっての事なのか、先ずはその用向きを承ろう」
象山は突然の若い来客に対し、怪訝な顔色を隠そうともせずに訊ねた。
「私は先生の泣顔を拝見しに出ました」
すると先生は私をじっと見つめられたので、私は重ねてこう述べました。
「私はかつて中之条(群馬県)におりましたので、大石村の道端で先生の御撰文で、且つお書きになったかの力士、雷電(為右衛門)の碑文を毎々拝見し、誠に敬服致してりましたので、今でもその全文を暗記しております」と言って、それを諳んじ「この碑文の終わりに有ります『今、余雷電のためにこの碑に識(しる)して、またまさに殆ど泣かんとするなり』というその御顔を拝見に参りました」
と申しました。先生は、「面白い、面白い」と頷いて微笑されました。私は先生の泣顔を見に参りましたと申しましたが、かえって家人すら滅多に見られぬと聞く、先生の笑顔を拝したのであります。こうして翌日も先生と面会し、様々な話の後で年齢の事となると、先生のお歳の事となり私は言下に先生は五十三歳であります、と言い当てられたので不思議に思ってお出ででしたから、
「先生は御自分の年齢を明言しておられるではありませんか」
と申しましたら
「いつ足下に言うたか」
と不審に思われました。
「それは先生の庚申述懐の詩に『君が齢今齢甫て五十、未だ天命を知らず尚思いを苦しむ』とあります。申の齢が五十歳なら、今年は亥で五十三歳ではありませんか」と申したので
「いかにも左様であった。足下は色々な事を覚えている」
と私の記憶を褒められました。(略)そして午後にわたって、国事、外国、経済、兵制のようなことや文雅のことまで、色々と話をしてくださいました。正午には昼飯を頂き、丁度馬の稽古から帰られた少年の令息(恪二郎)と引き合わせて下さいました。(略)

 十九歳になったこの時の忠悳の心に強く印象に残ったのは、象山の『省諐禄』(せいけんろく)の一説であった。孫子が唱えた兵法の謀攻の一説を、象山は自らの考えに重ね合わせ、自分流の解釈を施したのである。門人である吉田松陰が密航事件に連座して捕らえられ、獄中に於いて自らを省みて異国の思惑に振り回されているこの国を憂い、あるべきこれからのこの国の姿を模索した随想の書なのである。
忠悳の文章は未だ続いた

 「彼を知らず、己れを知らず、毎戦必ず敗る、元よりなし。しかれども彼を知り己を知る、今の時にあってはいまだ戦いをいうべからず。彼の善くするところを善くして、己の善くするところを失わず、以って初めて戦いをいうべし」
これが先生独特の意見でありまして、私はますますその卓見に感服いたしますと
「しからば話して聞かせるが、一体攘夷をするというて、よく人々は騒ぐが、どういう方法を以ってそれを実行するのであるか。先ず足下について尋ねるが、いわゆる彼を知るのだが、米国や仏国・英国・蘭国等の兵力は、およそどの位のあるものか知っているのか」
と、きつい質問です。私が一向存じませんと降参すると、書物を出して来て米国の常備兵は幾ら、軍艦は幾ら、大砲はどう、蘭国の方はどう、英国は、仏国はどうだと、いちいち挙げて話され、わが国の兵備はどんなものであるかを比較して、詳細に説き召されました。何れもこの書物は今で言う統計書の様なものであったのでしょうが、私はその知識の該博精確なのに、ただただ感服してしまって驚いて傾聴しているばかりです。・・・(後略)」
 翌日、別れの日である。忠悳は象山にこの様に話した。

 「(略)誠に残念な事は、先生に門人に御加えて戴く事が出来ない事です。それは私に同志がいて、何れも攘夷家であります。西洋の文字を習い洋学を致す事は、世を惑わす非行となり、従って甚だ失礼且つ残念ながら、先生の門下に加えて戴く事が出来ません」
 先生は、私に強いて横文字を読む事を勧める事もせず
「足下のようにまだ春秋に富んでいるものは、今しばらくさような事を言うていてよかろう。しかし早晩必ず横文字を読まねばならぬ場合になる。その時に読まねばならぬ必要があるのだ、という事を自覚するであろう」
と申され、先生の書を頂き辞したのです。

 石黒はその著書「懐旧九十年」の中で、象山との出会いの時をこの様に述べている。
しかも石黒にとって、これが最初で最後の象山との出会いであった。後に時代が明冶となり、帝国陸軍の軍医総監と云う医師としての最高の職に就いた石黒は、当時は兵士の間に蔓延していた脚気の原因を、未だ知られて居ない細菌なのではないか、とする説を固守した事で広く世に知られている。
しかし一方の海軍はこの脚気に関し、明冶二十三年以降にはパンと米飯及び麦飯の混用になった事で、八十七名の脚気患者の発生で済んでいた。だが陸軍は兵食を白米にした為、多くの陸軍の兵士を脚気の病によって死へと向わせ、その責任(戦地入院の内、実に四十四%、十一万人程が脚気に因る者で、五千七百十一人が脚気による死亡であったとする資料がある)を、軍医総監の石黒は終生顧みる事は無かった様である。

 若い頃に象山の許を訪れた著者である石黒の、自伝でもある『懐旧九十年』は自らが九十二歳の時に書かれ、昭和十一年から十六年にかけて編纂されたものである。その自らの著書の中でも軍医総監時代、脚気の病で多くの兵士の死を見つめた筈なのだが、そこに悔やむ様な記述は一切無い。
それに部下だった鴎外も、脚気の原因が細菌だと信じていた様で、海軍が麦飯や玄米を兵に食べさせ脚気患者を減らした事に比べ、陸軍のこの二人は大正時代になるまで脚気の原因を探し出す事が出来ず、事もあろうにそのまま白米を兵士に食べさせ続け、多くの陸軍兵士をその病から救う事が出来なかったのである。
否、寧ろその後も数千人もの将兵を、死に向かわせたと言えるだろう。未だビタミンと云う栄養素が発見されてはおらず、その責任を問う事は出来ないにしても、海軍が採用した米飯と麦飯、そしてパンの混用の結果をいち早く認めていれば、兵士の脚気による死者を減らす事は出来た筈である。

 この脚気の話は又暫く後に書き加えたいと思う、何故なら後年、慎助の息子で仲の異母弟となる宮本叔も、後にこの陸軍主導の臨時脚気病調査会に、委員の一人として名前を加えられたからである。無論だが誰もがそれを責める資格など無い。しかし叔にしてみれば人生に於いて、唯一の大きな汚点を遺してしまったと、思っている様に私には思えてならない。
ところで石黒忠悳には長男が居た。石黒忠篤と言い、後に札幌農学校を出て農林官僚となり、農政の神とも呼ばれた人である。その忠篤が見合で結婚したのは、近代法の開祖とまで呼ばれた穂積陳重の次女である光子であった。光子の母は渋沢栄一の長女歌子で、栄一の孫となる敬三と石黒忠篤とは従兄と云う関係である。明治の半ばを過ぎた頃の時代、財なき財閥と呼ばれた渋沢家には著名な学者や新興の実業家など、数多くの人々がその関係を求め、後ろ盾となって貰う事を願って集って来ていたのだ。
 
下巻へと続く
 

 

評伝 『秀(ひい)でた遺伝子』 -佐久間象山と宮本家の人々- 《中巻》 

評伝 『秀(ひい)でた遺伝子』 -佐久間象山と宮本家の人々- 《中巻》 

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-12

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