すいそうのなか

 エイが、およいでいる。
 すいそうのなかを、エイがひらひらと、およいでいる。すいそうは、つめたい。
 ガラスだからか、なんて、あたりまえのことを思いながら、すいそうに、ひたいをよせる。
 ぺたり、とくっつける。
 つめ、たい。
 エイが一匹、目の前をゆうゆうと、およいでゆく。エイが、なんという種類のエイかは、わからないけれど、エイってなんか、なやみごととかなさそう、なんて、かんがえる。木曜日のこと。朝からあった講義は、すべて自主休講した。

(わすれたいことが、できた)

 わすれたいことを、わすれようとするのだけれど、わすれようとすると、わすれられなくて、きのうからずっと、わすれたいことのことを、かんがえている。

(いわなきゃよかった、好きだなんて)
 
 ガラス一枚を隔てた向こう側に、エイがいる。
 エイが、ぼくの目の前をぐるぐる回遊し、はなれていかない。なまえもしらない、エイ。
 木曜日の水族館は、静かだ。
 海の底にいるみたいに、すいそうの青。
 目をつむると、水のなかにもぐったときのように、耳のなかに膜ができて、静けさのなかに、ときおり、ぱち、ぱち、と、なにかがはじける音が、きこえる。
 はじけるのは、泡。
 もしくは生物の、なにかしらの音。
 にんげんでいうところの、声。ことばに代わるもの。
 おはよう、おやすみ。
 いってきます、ただいま。
 いただきます、ごちそうさま。
 すき、きらい。
 あいしてる、あいしてない。

「たべてあげようか」

 だれかが、いった。
 たぶんエイだ、と思った。

「なにを、たべるの」

「きみがわすれたいこと」

「たべられるの?」
 
「きみがこちらにきてくれれば、やってみる」

 ガラスの向こうで、エイが、白い裏側をみせている。
 くちをぱくぱく、させている。
 ぱくぱく、ぱくぱく、うごかしている。

(好きなひとに、好きだといったら、申し訳なさそうに、笑ってた。付き合えないとか、そういう風にみれない、とか言われる前に、もう、だめってことは、わかってた。ともだちだった)

 ひとの気配がする。
 声で、男と女だと、わかる。
 女の声が、きこえる。「なにあのひと」
 男の声も、きこえる。「やばいひとなんじゃない」
 そこは、「さかながすごく好きなひとなんじゃない」とでも言えよ、と思う。ちいさい声で話しているつもりかもしれないが、ちゃんときこえている。
 男と、女。
 ふつうの、恋人同士。
 では、ふつうではない恋人同士、とは。

「ともだちのままじゃ、だめなの?」
 
 ともだちはいった。
 うそでもそこで、ともだちのままでもいい、とこたえれば、よかったのかもしれないけれど、そんなうそは、つきたくなかった。たとえうそをついても、ともだちをやっていける自信は、もうなかった。だからきのう、好きだといってしまったのだけれど。

(ともだちが女の子だったら、なにかちがったのだろうか)

 なんて、かんがえる。
 木曜日の、水族館。
 エイがひれを波打たせ、ぼくをすいそうのなかへ、手招いている。

すいそうのなか

すいそうのなか

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-11

CC BY-NC-ND
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CC BY-NC-ND