*星空文庫

僕の好きな善人

かわら 作

 猫は自分を人間だと思っている、らしい。もしくは、人間を大きな猫だと思っているらしい。
 姿形も大きさもまるで違う生き物を同一視するなんていくぶん頓狂である。しかしこれらは人間側の解釈で、実際には猫もそんな考えは持ち合わせていないかもしれない。
 どちらにせよ、私も猫も意志を持つ肉の塊だという事実だけがはっきりしている。



 ときどき私はエゴで彼らの汚れを洗いとる。
 細かく、そして無数にも思える穴からぬるま湯が放出されると、面前の目玉二つは一気に大きくなる。ふるふると震える小さな存在を、哀れにも思う。それでも、真っ白だった身体を一転して真っ黒にしてしまう奴に家中を歩いてもらうわけにはいかない。
 室内飼いなのにどうしてだろうか。まあ仕方がない。
 とにかく、私は洗う。
 ノズルを持つ手がぐいと前へ近づくと、猫は途端に後ろずさる。だがもう背中と壁がぴたりとくっついてしまっている。逃げる場所はない。
 ああ、タイルを流れる湯は今にも柔らかな毛へ染み込みそうだ。後退しようと揺れるお尻と前足が愛らしい。
 必死な形相。必死に私の手元を凝視し、やめてくれと哀願している。
 駄目なのだ。洗われるのが嫌ならば外で暮らすのも良いが、生まれも育ちも室内のお前にきっとそれは酷だ。野口一枚飛んでいくキャットフードを貪る様子を見るに、明日から草を食むなどとてもとても。
 猫よ許せと、えいとお湯をその身体に流す。

うにゃあ。うんにゃあああ。

 狭い四隅を大きな悲鳴が満たした。
 地獄を早く終わらせてやるためにも、嫌がる姿はなるべく意識しない。よしよしと声をかけながら丁寧に揉んでいく。
 大方これでいいだろうと眺めると、そこには先ほどよりも更に更に小さくなった何かがいた。
 いや、何かではなく、猫なのだが、こじんまりと俯くそれは、繊細な毛むくじゃらが水浸しにされたような、なんとも形容しがたいものだった。
 しかし私の言葉でしっかりと表すならば、裸にされた人間の姿のようにも思えた。
 衣服で隠されていた肉体も、滑らかな曲線がはっきりと、明瞭に、この瞳に入ってくる。ああ肉だと、初めて間近に他人の裸を見たときに覚えた感覚と似ていた。
 見慣れたものではあるが、絢爛であった姿を知っているだけに少し切ない。豪勢な鎧を剥がれて、猫は悲しんでいる。
 やはり私も猫も同じ生き物なのだ。
 猛烈に愛しくなって、私は濡れていようが構わず抱きしめた。そして、絞り出したような掠れた鳴き声を聞いてハッとし、慌ててタオルを手に取った。
 猫は可愛い。
 人に無い魅力に惹かれ、人を愛するように愛でてしまう。正直恐ろしいと思う。



「やっぱりねえ、猫と結婚できないこの世に生まれたことこそ最大の不幸だわ」
「僕も姉さんと愛しあえないのを恨めしく思う」
 陽一くんはそういって、大きく開いた口で大きなサンドイッチにかぶりついた。歯切れの良さそうなキャベツを噛みちぎる音が心地いい。それから彼はペロリと下唇を舐め、それで? というようにこちらを見据えた。
「まあ、いつものことなんだけど……」
 このいつも、というのは日常的に陽一くんと愚痴を吐きあっていることだ。私は猫、彼は姉さん。
「ところでさあ、前貸した本どうだった? 面白かったでしょ」
 こげ茶の瞳を輝かせながら彼はいう。何故煌めているのか、私は知っている。
「面白かった。主人公の恋が報われたときなんか、最高に興奮した。で、陽一くんは私が貸したDVDどうだったの」
「良かったよ。僕は彼女にずっと猫のままでいてほしかったけどね」
「そう! そうなの! 本当、あのままバロンと恋に落ちてくれていたらなぁ」
 はしゃぐ私に陽一くんは優しく微笑む。
 いつだって彼は柔和で、欲する相手がその人でなければ、恋に不自由などしなかっただろう。でも彼も、私も、きっとそうではない。
「でもね陽一くん。本を貸してくれるのはいいけど、いつも姉弟の話じゃ飽きちゃうよ」
 たまには別のないの? とわざと語調をきつくする。対する相手は今にも具がこぼれ落ちそうなサンドイッチを見つめていた。
 隅々に詰められたトマト、その液が垂れて赤くなったハムを包んだパンを彼は勢いよく咥えこむ。唇にまでたらりと液体が流れて、少しだけ扇情的に感じた。
 食欲をそそる音を立てながら、頬がへんてこに動く。しばらくしてのみくだすと、彼はそうはいうけどと前置きしていった。
「僕も猫の話ばかり見ることになって困ってるんだよね」
「……お互い困っちゃうね」
 そういうと堰を切ったように私たちは笑った。特に陽一くんなんかは、頬が緩むことはあっても大声をあげて笑ったりはしないので、その笑顔を見るだけでも気持ちが良かった。弾けるように彼は笑っていた。
 けれども前後の会話を見聞きして、何が可笑しいのか、わからない人にはわからないだろう。私には、わからない人の気持ちが逆に把握できない。
 肩を小刻みに上下させながら、暫く私たちは見つめあった。
「さっきのサンドイッチ、お姉さんの手作りなんでしょ」
 陽一くんの手からはサンドイッチは消えていた。すでに胃袋に収まったようだった。
「まあね。君も食べたかった?」
「まさか、呪われそうで嫌だし」
「姉さんのサンドイッチを口にすることで君が姉さんに間接的に好意を持って、それでいつか出会った二人が恋に落ちて、姉さんを君に奪われることがあって……。いや、それはないよね。僕はそこまで妄執的じゃない」
 真面目に思案する様子は少し間が抜けていた。そのうえ結論が出ても未だ首を傾げるので、私は呆れて席を立った。
「もう帰るの?」
「うん。だって本人はすっかりお姉さんに夢中みたいだしね」
「相談に乗ってくれていたのにごめん」
 そう、私は彼の悩みを聞きにわざわざ公園でピクニックもどきをしていた。色の落ちた木製のベンチの上で、テーブルを間に置き、対面で長々と続く姉さん自慢を聞かされていたのだった。
 なんどもなんども同じ話題が続くと飽きるものだ。だいたい、自分の問題を語っているはずなのに解決しようとする意思が全く見当たらない。つい昨日に元恋人になってしまった彼女の怒りもわかる。
 本当、彼の瞳にはお姉さんしか映っていないのだ。それが前提にあるものだから、ため息も自然と出てしまう。
「ごめんごめん。そんな顔しないでよ、また今度何か奢るからさ」
 呆れ気味に立つ私を見て、陽一くんは拝むように両手を擦り合わせた。
「あのね陽一くん。無駄なことだと思うけどいうから」
 途端に彼の背すじがまっすぐに伸びる。少し間抜けで、口元が緩みかけるがここでは堪えなければならない。わざとらしくゴホンと誤魔化した。
「惰性で彼女作るのやめたほうがいいよ」
「姉さんがほかに作れっていうから仕方ないよ。心配かけたくないんだ」
 今度は陽一くんがわかりやすく大きなため息をつく。おそらく私の意見への嘲笑もこめて。
「彼女とうまくいかないことを私に話すけど、いつもお姉さんの話になるじゃない。相手にとっても陽一くんにとっても、そして私にとっても何もかも無駄だから。やめてよ」
 これまた仰天する話ではあるが、彼のお姉さんは弟から向けられた好意に気づいている。彼自身がその気持ちを言葉にして伝えたことがあるからだ。
「姉さんが素直にうんと首を振りさえすれば、こんな面倒しなくていいんだけどなあ」
 正しく本心を語っている彼の表情は、それでいて平然としていた。丸くなった背でぽりぽりと頭をかく。
 やっぱり無駄なことをいってしまったと悟る。どうしようもないから、私も無駄に考えを巡らすのをやめた。再度座り直し、空を仰いだ。
 ピクニックもどきにふさわしい天気。風は穏やかに吹き、横髪がふわりと揺れた。
 そのままぼうっとしていると、真正面から来た突風がテーブル上のバンダナを飛ばした。あ、という声と共に紫色の薄布が目の前を舞う。持ち主である当の本人はなぜか眺めている。
 どうせお姉さんからもらったものなのだろうからと、私はそれを手にとって差しだした。
「飛ばされちゃうよ?」
「君がいたから。ありがとう」
 陽一くんは少し脱力気味に笑う。ああ、彼が猫であったならば恐らく惚れていた。
「もし僕が猫だったら君に飼われていてもよかったかな」
「え。そ、そう。そっか……」
 突拍子もないことが頭に浮かんで、そして面と向かって突拍子もないことを吐かれて、思わず面食らった。瞬間的にも対応パターンが崩されてしまって恥ずかしい。
「そんなに堂々といえるのは陽一くんくらいだよ」
「同じこと思ってそうだったから」
 だから恥ずかしくないよ、と陽一くんは付け加える。今度はやや犬っぽい。
「いつもすました顔してるけど、想定外のこといわれるとすぐ赤くなるよね」
「そんなことないと思うけど、いやあるかな……」
 そう指摘されて両手で顔を包むとなんだか熱い。全身に流れていた血液が一気に頬へ集まったような気さえする。とにかく嬉しくはない。
 しかし彼は私の愚行をさも愉快げに笑った。
「ほら、これで隠してあげるよ」
 すらりとした指で摘んだ紫色のバンダナがこちらに近づいてくる。拒否の意をこめて右手で押しのけると、怪訝な目線が飛んでくる。
「リンゴみたいな顔ぶらさげて歩くのが平気なわけ?」
 私は沈黙した。そして目をつぶって、降伏の意を示すことにした。
 真っ暗な視界で、少しの足音と楽しげな鼻歌が聞こえる。ついでに耳元で布の擦れる音がし、鼻先から下はどうやら覆われてしまったようだった。なんだか香ばしい匂いがする。
「うん、似合うね。目を開けていいよ」
 目の前に立つ陽一くんは何やら満足げである。こちらとしてはまるで銀行強盗のようにさせられてどう似合うのかさっぱりだ。加えていつもに増してにこにことした表情が余計に不安を煽る。
「あのさ陽一くん……」
「うん」
「これサンドウィッチ包んでたやつでしょう?」
「そうだよ。でもいい匂いだろ」
「じゃあ今度キャットフードの紙袋かぶせてあげる」
 どうせお手製サンドウィッチだから気に入っているのだろう。屈託のない笑顔でいわれると余計に腹がたつ。だが私が大好きなキャットフードの匂いを鼻に詰めてやろうものならすぐに根をあげるに違いなかった。好みが違うという重要な事実を彼は理解していない。それか、私だから理解を忘れているのかどちらかだった。
「自分勝手じゃないの本当。そんなだから数多の女に振られるんじゃないの」
 苛立ちを思いきり声にだしてぶつける。けれども彼は飄々として、どうしてか私の手を握った。
「ちょっと」
 怒りにもなりきれない声が耳に響く。それが自分のものだというのが情けなかった。そして、力ない私の手は引き上げられ二人の目線はずいぶんと近くなった。
 陽一くんの瞳が真近によく見える。ガラス玉のような黒眼に、どうやら私は映っている。錯覚かもしれないが、猫がそうするように黒眼の真ん中にある円がますます大きくなっているような気がした。
「じゃ、行こうか」
 繋がっている右手など、私など意に介さぬように宣言通りに彼はどこかへ歩きだす。意気揚々とした顔つきで、そのまま進んでいく。
 予想ができるが、私は尋ねた。
「お姉さんのところ?」
「ああ。きっと喜ぶだろうな」
「どうして」
 陽一くんのお姉さんが喜ぶ理由を問うているわけではない。どうして私を彼女に紹介しようとしているのか、彼の口から聞きたかった。
「自明の理だ。君は僕を気持ち悪いと否定しないし、僕も君の愛を理解しているから」
 スラスラと出てくるその端的な理由に驚く。しかし素直に納得している自分もいた。
「……そうかもしれないけど、実際に演じるのは別じゃない」
「演じる必要ない。今まで通りでいいよ」
 とうに答えはわかっているだろうと、彼は背中を見せたままはっきりといい放った。ああそうだ、確かにそうだ。けれどまた瞳を遠くに見据えたまま、私を視界に入れぬまま、そう簡単にはいってほしくもなかった。
「何故なら」
 陽一くんが突然に立ちどまる。いきなりの急停止に彼の背中へ顔を埋めてしまう。
 私は慌てて見上げた。なんとなく顔が頭上にある気がして、その予想は見事に当たった。
 いつものように優しい微笑みをまとった陽一くんの顔。私をゆっくりと見つめて、余裕たっぷりのようで少しはにかんでいる。
「君は僕の善き人だ」
 確かにどうも私をわかっている。本当に、私たちはよくわかっている。

『僕の好きな善人』

『僕の好きな善人』 かわら 作

即興小説のお題で書きました。猫を愛す女と姉を愛す男の話。好きなものを好きなままでいたいですね。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-02-11
Copyrighted

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