とうりょう 上

とうりょう 上

 通い大工の松造(しょうぞう)が正太を初めて見て思ったのは、「なんて色の黒いがきだろう」ということだった。
 朝出がけに茶漬けをかき込んで、大工道具の入った道具箱を肩に担ぎ、さあ家を出ようという時に、大家の娘のおそよから「ねえ、しょうちゃん」と呼び止められたのがそもそものきっかけだった。
「ちょっと頼みがあるんだけど」
 見るとおそよは姉さんかぶりに前掛け姿と、まだ嫁入り前だというのに女房のようななりをしており、松造が出かける物音を聞きつけて、あわてて下駄をつっかけて出てきたといったふうであった。
「なんだい」と言って松造が立ち止まると、
「この子を少しのあいだだけ預かってほしいのよ」
 そう言って、おそよは自分の身体の裏側に隠れていた十歳ばかりの少年を前に出してみせた。
 その少年は色がばかに黒いうえに、おそろしくみすぼらしいなりをしていて、浮浪児であることは一見して見て取れた。
「そいつを、おれがかい」
 思わずあきれ顔で松造がそう尋ねると、おそよは平然とした顔で「そうよ」と答えた。
 松造は勝ち気な表情のおそよの顔をしばし見つめた。それから上を見上げて思案する素振りを見せたけれども、考えるまでもなく、答えはあらかじめ決まっていた。
 ひと月ほど前に神田佐久間町の河岸を火元とした大きな火事があってから、大工の彼は目が回るほどの忙しい日々が続いていた。棟梁の名代としての普請場を一件、またそれ以外にも工一(くいち)はいま普請場を三件抱えていて、とても見ず知らずの子供など預かることができようはずもない。
 ただ火事のことに考えが行ったせいで、この少年の素性はおおよその見当が付いた。あの火事以来、彼が住む長屋のある町内の一角に、被災して孤児(みなしご)になったらしき子どもたちが幾人かわだかまっているのを目にしていたことを思い出したからだ。「そうか……」と彼は言った。
「焼け出されたのか」
 少年はその言葉にぴくりと反応して、松造からは目を背けた。おそよに目を向けると、彼女は少年の背後で腰に手をあて、まるで通せんぼでもするような格好で、彼の真ん前につっ立っている。「冗談じゃねえ、おせっかいな奴め」と彼は心の中で舌打ちをした。きっと、孤児になった子らの面倒を見る役を、自分から買って出たに相違ない。なにしろこんなことは一度や二度ではないのだ。
「でも無理なものは無理だぜ。いくらおそよちゃんの頼みとはいってもな」
 松造はもともと細い眼をさらに細め、おそよの視線をまともに見返してそう言った。彼がそんな目付きをすると、ひどくぶっきらぼうな表情になる。けれどもおそよに限っては、彼に遠慮をすることなどついぞなかった。
「知ってるか知らねえか分からねえが、ひと月前の大火事以来、おれたち大工は猫の手も借りてえほどの忙しさだ。おれだって朝から日が暮れるまであちこちの普請場を飛び回っているし、ここには寝に帰ってくるだけの毎日だ。それなのにがきなんざ預かれるわけがねえ。どこかよその女房にでも頼んでくんねえ。おれには無理だよ」
 少年は下を向いて裸足のつま先で地面にのの字を書いていた。松造は少しかわいそうな気持ちになって、しゃがんで少年の顔をのぞき込み、「すまねえな、坊主。どこかほかの家に預かってもらいな」と言った。
「昼間はあたしが面倒を見るわ。夜だけでいいのよ。それでも駄目かしら」
 そんなおそよの頭の上からの問いかけには答えずに、松造は「長屋のいちばん西の空き家に皆を住まわせているんだろう。知ってるぜ。どうしてこいつだけ別にするんだい」と聞き返した。
「それはあとで説明するわよ」
 そう言ってから、おそよは少年のことをちらりと見た。
「ねえ、後生だから預かってちょうだい。いつまでもってわけじゃないの、ほんの十日か半月ばかりの間だけでいいのよ。駄目かしら」
 松造は頭を振りながら立ち上がって、片手でひざを払って埃を落とした。
「すまねえが、無理なものは無理だよ。おれはもう出かけるぜ」
 朝っぱらから嫌な思いをさせられて、松造は心の中で悪態をつきながら急ぎ足で通りを歩いていった。長屋中には手の空いていそうな女房がいくらでもいるのに、自分を名指しで面倒を見てくれとは、いったいどういう料簡だろう。あいつは昔からのおせっかい焼きだったけれども、ここ数年の行動は目に余る。彼はさっきやり取りをした時のおそよの顔を思い出して、今度は思わず声に出して呟いた。
「ちぇっ、冗談じゃねえ」
 おそよは鼻や口がちんまりしている割には目が大きくて、いつでも何かに驚いているような顔をしている。彼とは物心のつく頃からの幼なじみだった。大家の娘だからなのだろうか、長屋の子らの間でけんかがあると、いつでも少女時代のおそよが仲裁に入ってその場を収めた。昔から身体は決して大きくなかったけれども、自分がこうと信じたら後へは引かない気質であり、皆もそのことを知っているので、彼女が仲裁に入ると、たいていのけんかは収まった。またそのくせ偉ぶったところもないので、年の上下を問わずに皆から慕われていた。
 また松造自身もおそよには頭の上がらないところがあった。それは、子どもの頃からの彼女のこんな口癖に明白に表れていた。
 ──しょうちゃんはねえ、あたしが手を引っぱってここへ連れてきてあげたのよ。
 松造自身もまだ幼いころ、文政十二年春の大火の時に焼け出され、孤児になった経験の持ち主なのである。その時も火元は神田佐久間町の材木屋であった。その当時彼はおそらく七歳か八歳だったであろう。もうそろそろ物心のつく年頃にはなっていたはずであるが、彼はそれ以前のことをまるで何も覚えていない。どこに住んでいたのか。父親は何の仕事をしていたのか。母親とはどこではぐれてしまったのか。そうしたことを何一つ覚えていない少年が、おそよの家の近所の商家の軒下にぼんやりとしゃがみ込んでいたらしい。
 ──ねえ、あんた、名前は。
 ──どこからきたの。ちゃんやおっかさんはどこにいるの。
 おそよとこんな二言三言の会話を交わしたことを、松造はおぼろげに記憶している。それより前のことはまったく覚えていないため、彼の人生はほとんどそこから始まったといってもよい。
 その後おそよは自分で松造の手を引っぱって、表店で米屋を営んでいる父親の佐兵衛のもとへと連れていったという。いまも彼は、おそよの父親が大家をしている裏長屋に住んでいる。長屋があるのは籾御蔵の東の福井町で、火元であった佐久間町の河岸からほど近いところだったが、風向きが北西からの風であったために奇跡的に焼かれずに済んだのだ。
 幼くして両親と死に別れたらしい当時の松造は、およそ誰とも打ち解けない少年で、佐兵衛をはじめ大人からの問いかけには何も答えなかった。常にむっつりとだんまりをしていて、ただおそよからの問いかけだけには、「ああ」とか「うん」とかひと言だけぼそっと答えるといった具合だった。
 それから松造は、長屋の住人で源蔵という名の手間取り大工のもとへと引き取られて大きくなった。源蔵は当時流行り病で女房と子を失ったばかりで、家族に死なれてからは酒を飲んで過ごすことが多くなり、生活も荒れがちだった。しかし松造が彼のもとへとやってきてからは、その面倒をよくみ、仮親としてきちんと松造を育てた。
 二人はとても静かな親子となった。
 源蔵が松造を叱りとばすところなど長屋の誰も見たことがないし、また逆に甘やかしているところも見られなかった。けれども呼吸が合うのか、源蔵は周囲の住人の手をあまり借りずに、松造と二人で暮らしていった。
 やがて自然に松造は源蔵の職業である大工仕事に興味を持ち、放っておくと一人で切り出しを手に何かをつくるようになった。源蔵が仕事に出たあと、木っ端を削って黙々と何かを作っている少年の姿を見て、長屋の住人たちは頬をゆるませて、「ごらんよ、ちいさい大工がまた何かをこさえているよ」などと言い合った。
 それから五年も経つと松造は、源蔵の主な雇い主であった工一の一之助という棟梁のもとで見習いをするようになった。その頃から源蔵はまた酒を過ごすことが多くなり、やがて松造が一人で稼ぐようになった頃を見計らったようにして、一人でふらりと長屋を出て行った。
 源蔵が出て行ったとき、まだ十八だった松造は平然としていて、当然のことが起こったまでといった顔をしていたために、周囲の者は少なからず驚いた。「気丈な子だ」と言った者もあれば、「しょせんは血のつながった親子じゃないからさ」と陰口をたたく者もいたけれども、彼はどちらも相手にしなかった。
 稼いだ銭が身に付かなかった源蔵とは違い、松造は酒の味も覚えなかったし、女遊びにもまったく興味を示さなかった。そのため同年輩の他の職人からは煙たがられることもあったけれども、棟梁の一之助からはとてもかわいがられて、やがて一之助の一人娘のお勝の婿になる話が噂されるようになり、そのうちに周囲からも「若棟梁」と呼ばれるようになった。
 松造が岩本町の普請場に着くと、工一では主に彼の下で働いていて、松造からは三つ年下の正六が一人ぽつんと材木を乗せる馬の上に腰掛けて、ぼんやりとしているのが見えた。正六は皆からは名前をつづめて「チョロ」と呼ばれている。松造が「おい、チョロ、他の連中はどうしたんだ」と言おうとしたところ、正六はくるりと振り向いてから、ひょいと馬から飛び下りて、
「材木は来ねえよ、若棟梁」
 そう苦虫を噛みつぶしたような顔をして言った。
 機先を制された松造が「なんだって」と言ってよく見れば、なるほど本来なら昨日のうちに材木が乗せられているはずの馬の上に材木はなく、代わりに正六が乗っていたのである。
「チョロ、こいつはいったいどういうこった」
「工一で押さえていた材木を、よそへ抜かれたらしいや」
「そんな馬鹿な話があるか、ここで使う材木は、半月も前におれが山正(やましょう)へ行って押さえてきたんだぜ。それを横取りなんて……」
 そう言いかけて、松造は少しはっとした。すると正六は「ひゅっ」と鋭い音を立てて口笛を吹き、そのあとしたり顔で「どうもそうらしいぜ」と低い声で言った。
「……御用か」
 今回の火事では町屋だけでなく、旗本御家人の屋敷や大名屋敷も焼かれているため、それらの屋敷の再普請の話も当然出てくる。幕府の役人が普請に必要な材木をかき集めるため、市中の材木屋まで回っていることは想像に難くない。
 でもそればかりではない。工一とはつきあいの長い山正は分からないが、中にはいったん売約の付いた材木を、うまく交渉を進めるために「御用で押さえられたから」と言い訳をしたうえで、喉から手が出るほど材木が欲しいこちらの事情を逆手に取って、さらに値を吊り上げようというような悪い材木屋だっているだろう。
 どちらにしても、使う材木がなければ大工はお手上げだ。
「このことを、棟梁は知っているんだな」
 そう松造が尋ねると、チョロは「うん」と言った。
「今朝早くに、山正の番頭が来て話していったらしいよ。怒ったってどうにもならねえから棟梁も黙っていたそうだけど、とにかくもここへ来るはずだった職人はよそへ回すか休ませたそうだぜ」
 そう聞いて、松造は思わず天を仰いだ。これで朝から二度目だった。


 火事が十月の始め頃だったから、あれからもう丸々ひと月経っていることになるな。
 そう考えながら松造は、冨沢町の別の普請場へと歩いた。月もかわって十一月となり、江戸の町でも北風の吹く日が多くなってきていた。松造ら二人はその北風に後ろから追い立てられるようにして歩を進めた。
 今回の火事でも、炎は北寄りの風に乗って火元の佐久間町河岸から神田川を飛び越えて、岩本町、傳馬町、新材木町や冨沢町まで順繰りに舐めてゆき、その先の武家屋敷まで焼いて三ツ又でようやく焼け止まったのである。だから松造と正六が岩本町から冨沢町まで歩いてゆく道筋は、焼け焦げた武家屋敷の練塀だけが続いていたり、燃え残った家が飛び石のようにぽつりぽつりとある以外は、ずうっと焼け野原であった。いまはようやっと焼け落ちた木材やがれきの撤去が進んできて、あちこちで町屋の普請が始まったので、乾いた空気の中、ほうぼうから「かんかんかん」と槌の音が響いていた。
 火事のすぐあとは下駄でなければとうてい歩けなかった道のりは、今なら草履で歩くこともできるけれども、冨沢町へ着くころには二人の草履の裏は煤で真っ黒になった。
 冨沢町の普請場は、工一ではもっとも古参の大工である清二が指揮を執っていた。合流した松造は正六とともに黙々と仕事をこなしていったが、心の中では今回の山正のやり口に対して腹の虫が収まらなかった。
 松造が半月前に山正に出向き、材木を選んだときにその応対をしたのは、山正で若旦那と呼ばれている与一郎だった。与一郎は材木屋のくせに色の小白い細面の男で、歳は松造と同じくらいだろう、ただ松造とは正反対に常に着るものや身だしなみにはずいぶんと気を使っている洒落者だった。松造は初めて与一郎を見たとき、「たちの悪い同心じゃあるまいし、着丈の長い羽織なんぞ着やあがって、こいつは嫌な野郎だ」と思ったことをよく覚えている。
 与一郎は頭も切れるらしく、先代は早々と若隠居を決めこんで、仕事の大部分をすでに息子に任せているようであった。松造は彼のことを「嫌な野郎だ」と思ったけれども、大工仲間や同業者でもべつに誰も与一郎のことを悪く言う者はいない。むしろ常に慇懃な態度をくずさないので、彼の評判はけっして悪くはなかった。ただ松造は、にっこりと笑ったときの与一郎の眼には暖かみを感じたことはなく、いつでも底意を感じた。
 この間だってそうだ。奴はおれに向かって微笑みながら、
「先日の大火事以来、手前どもも材木の確保には困っているところではございますが、昔からの馴染みの工一さんの仕事ですから、精一杯のことをさせていただきましょう」
 なんて言ってやがったが、「御用で材木を押さえられてしまったから」という訳があるなら、なぜ今朝みずからそれを言いに来ないのか。いったん売約のついたものをよそへ流すのであれば、それなりの礼儀を尽くすのが筋というものだ。それをしないというのは、おれを小馬鹿にしたやり口だし、ひいては工一を軽く見ている態度だと言わざるを得ないじゃあないか。棟梁の一之助は黙って番頭を返したとチョロが言っていたが、棟梁が今回のことをどう思ったか、考えただけで腹が立ってしようがねえ。
 そんなふうに思っていると、いつまでも虫の居所は収まらず、昼になって清二が「よし、そろそろ昼飯にするか」と皆に声をかける頃になっても、松造はずっとむっつりとしていた。
 そして他のことに気を取られていたせいなのだろう、チョロが顎をしゃくって目まぜをしてみせるまで、松造は清二の周囲でもめ事が起こっているらしきことにまったく気付かずにいた。
「……面倒なことを言い出しゃあがったな」
 そうチョロが低い声で呟いたので向こうを見ると、三人ほどの手間取り大工たちが清二を取り巻くようにして何か話しているらしい。
「何かあったのか」
 そう松造が尋ねると、チョロはただひょいと肩をすくめる素振りをしてみせたので、彼は頭に巻いていた手拭いを取って手に持ち、清二たちのもとへ歩んでいった。
「清さん、どうかしたかい」
 松造が尋ねると、清二は眼尻に深くしわの寄った目を細めて難しい顔をして、「おれに話したって駄目だって、いま言って聞かせたところなんだがな」と言った。
 聞けばようするにこの冨沢町の普請場に来ている手間取り大工たちが口を合わせて、日当を上げてもらうよう棟梁に話してもらえないか、と清二に頼みこんでいたらしいのである。
「清さんの現場なのに、余計な口を挟んで悪いが……」
 そう断りを言ったうえで、松造は少しむっとした表情でこう続けた。
「仕事がひと段落したわけでもねえのに、そりゃあ無理ってもんだろう。せめてこの冨沢町の普請場が片付いてから言ったらどうだい」
 しかし三人の手間取り大工たちは黙ったままでいた。三人ともこれまで幾度も一緒に働いたことのある職人たちで、みな松造よりは年上の者ばかりだった。松造が彼らの顔を順繰りに見つめると、二人はうつむき、一人は無表情に松造の目を見返した。それは泰三という名の三十過ぎの男で、これまでも彼の表情や態度には、松造は幾度かかちんときたことがあったことを思い出した。
 しばらく黙ったのち、泰三は低く小さな声で言った。
「そりゃあ若棟梁の言うことはもっともだ……けど、おれたちの日当は一昨年前あたりからちっとも変わっていねえ。棟梁のほうも大変だってことが分かっているからなかなか言い出せずにいたんだが、このままじゃ食っていかれねえから言うことでさあ」
 そして泰三は口の端を少しゆがめて、松造からは目を逸らしながら「もし無理だっていうんなら、よその棟梁のところへ行くよりほかしようがねえな」と呟くように言った。
 松造はおしまいまで黙って聞いていることができなかった。
「ちょっと待ってくれ。じゃあなにか、もし日当を上げてもらえなかったら、この普請を終える前によそへ行こうっていうのか」
 松造が気色ばんだ声を出したので、泰三も思わず気後れした様子で、
「……いや、おれたちだってそんなことはしたかあねえんだ」と答えた
「だったら仕事の区切りがついてから言いねえ。それが筋ってもんだろう。それができねえんだったら、明日っから来なくたっていいんだぜ」
 思わず怒鳴り声になっていた。
 そう言いながら、彼は泰三たちの働きぶりを思い返していた。彼らはけっして技術は低くはなかったけれども、決められたことしかやろうとしなかった。松造は彼らの仕事には決して満足したことはなかったのだ。「使えねえ奴らだ」正直、何度そう思ったことか分からない。
 でも棟梁の一之助からは、「彼らをどう上手く使いこなせるかで、棟梁としての力量が決まるんだぜ」と日頃から言われている。理屈ではそのことを分かっているつもりでいても、ここのところの忙しさと、朝からの不快な出来事のせいでつい声が高くなってしまった。
 すると、それまでうつむいていた勘太という名の四十過ぎの男が「こんなことは言いたかあねえが……」と口を開いた。
「所帯を持ってねえ若棟梁には分からねえかもしれねえが、ここのところの諸式の値上がりはひでえもんだ。それこそ米から味噌から菜っ葉にいたるまでみんな高くなってるんだぜ。それなのに日当が変わらねえんじゃあとても食っていかれねえ」
 そう言って勘太は、前歯の抜けた口元を半開きにして、松造の顔をじっと見つめた。
「……若棟梁、あんたは一人でいるからまだ分からねえだろうが、おれたち手間取り大工は女房子を抱えてこの給銀じゃあやっていけねえんだ。なにも棟梁を困らせたくってこんなことを言い出すんじゃあねえ。おれだって……けっして不義理なことなんかしたかあねんだ。棟梁には義理だってあるしよう。だからそんな……そんな理由でこんな話を持ち出したんじゃねえ。そのことだけは言わせてもらいますよ」
 そう言われると、松造は二の句を継ぐことができなかった。見れば、勘太の両手はぎゅっと握られていて、かすかに震えていた。
 ──若棟梁なんて言われてちやほやされているあんたには分からねえんだろう。
 そう言外に言われている気がした。日頃から彼らと自分とのあいだには隔たりを感じていたけれども、それが何なのかを、いま改めて思い知らされた気がした。彼らはべつに日当を吊り上げるつもりでこの話を始めたのではないらしい。その証拠に、勘太らの表情はしんけんだった。でも彼らを怒鳴りつけたことの取り返しはつかなかった。すると、
「両方とも待ってくれ」
 と、それまで黙ってやり取りを聞いていた清二が口を開いた。そして「周りを見てくれ」と言って周囲の光景に目をやった。
「まだここいらの普請は始まったばかりだ。それも大部分は本普請じゃねえ、ほとんどが仮普請だ。まだまだ住む処のねえ者がたくさんいるんだぜ」
 松造も火事の跡は見慣れているつもりではいるけれども、今回の火事は焼けた範囲も広かったため、気を抜くと呆然としてしまいそうだった。なにしろ一面の焼け野原で、動いているものといえば大工などの職人たちと、焼け跡を片付ける人足だけなのだ。とてもここが江戸のど真ん中であったとはとうてい思われない光景だ。
 家を焼かれた者たちはみな、親類縁者のもとにやっかいになるか、あるいは幕府が建てたお救い小屋に身を寄せていたけれども、そのどちらからもあぶれてしまう者もけっして少なくはなかった。そうした者たちの多くは無宿人となってまっとうな道から転げ落ちてゆくか、また身寄りのない子供であれば浮浪児になってしまっていた。松造の脳裏に朝がたおそよに引き合わされた少年の姿がよぎり、彼は目を閉じてその真っ黒な顔を思い出した。
「おれたちは大工だろう。だったら家を建てるのが仕事だ。ここでこうして言い合っている場合じゃねえ。たしかに勘太や泰三のいうことももっともだが、それはやっぱり棟梁と直接話し合ってくれ。まずはこの普請を終わらせることだ。そうは思わねえかい」
 一番の経験者である清二にそう言われ、みな黙り込んでしまった。松造は心の中で清二に感謝した。いまでは腹を立てたことを後悔していた。


 日暮れどきに茅町の工一に戻ると、いきさつを知った一之助は泰三らに「話は分かったし、お前たちの言い分ももっともだが、もうしばらくは今の条件で我慢してくれ」と言った。
 そして彼らを帰したあと、一之助は清二や正六のいる前でくるりと松造に向き直り、こう言った。
「お前はあいつらに明日から来なくっていいなんて言ったそうだな。だったらお前一人で何人分もの仕事ができるのか。
 どうなんだ、答えてみろ。お前一人で棟上げができるのか。お前ひとりっきりだったら、満足に柱一本立てられねえだろう、違うか。
 なるほどお前は年のわりには鑿も鉋も上手く使えるかもしれねえ。それに頭だって悪かあねえ。だいいちそうでなけりゃあ、おれだってお前に棟梁の名代を任せやしねえんだ。
 けどな、一人じゃあ家は建てられねえんだぞ。そのことが本当に分かっていたら、今日みてえなご大層な口は利けねえはずだぜ」
 一之助にそう言われて、松造はぐうの音も出なかった。そのとおりだった。己の気の短いのが災いして、けっきょくのところ棟梁に手数をかけさせただけになってしまった。
 一之助はあぐらをかいていた右足を前に投げ出すようにして座り直して、「清さんたちも聞いてくれ」と言った。
「今回工一で請け負った普請は全部後払いだ。それなのに材木の値段は上がるいっぽうだ。諸式の値上がりはおれも承知しているから、なんとか皆の給銀も上げてやりたいところだが、全部が上がったんじゃあおれも首が回らなくなる。そこのところを分かってくれ」
 そう言う一之助の表情は、さきほどから無表情のままだったけれども、逆にそのことが棟梁のしんけんさを表しているようだった。松造は唇を噛みしめながら、上目遣いに一之助を見た。
 棟梁の一之助は今年五十五になる。茅町の棟梁と言えば大工仲間でも知られた顔で、町屋の普請ならどんな建物でも請け負って見事に建ててみせた。若い頃から「できない」とは言ったことがなかったらしい。それは良い仕事ぶりで名が通っていた先代に負けぬよう、自らに課していたことなのだろう。
 しかし四年前の冬に普請場で屋根から落ちて足をくじき、それ以来ひとが変わったようになった。現場での指揮は清二や松造に名代をさせるようになり、みずからは毎日普請場へは出ないようになった。普段もふつうにあぐらをかいて座っているのが辛いらしく、足を前へ投げ出して座ることが多いし、座っていても自ら右足をさすっていることが多かった。
「……それからな、松造」と一之助は話していた。
「正六から聞いたかもしれねえが、岩本町の普請場で使うつもりだった材木は諦めなけりゃあならなくなった。しかしいったん請け負った普請をこのままうっちゃっておくわけにもいかねえ。だから明日もういっぺんお前が山正へ行って、代わりの材木を手配してこい。
 ただしうちが今回の普請で請け負った金額は変わらねえ。だからもし山正が高いことを言うようだったら、別の材木屋を当たらなけりゃならねえかもしれねえ。
 いいか松造、ここが棟梁としての腕の見せどころだぞ。
 御用だろうとなんだろうと、いったん売ると決めたものをよそへ流したのは向こうの手落ちだ、しかし相手を怒らせて仕入れ先を一つしくじったら、いま請け負っている他の普請の材木の手配にも関わってくる」
 一之助は山正との交渉はあくまでも自分にやらせるつもりらしい、だからこそ今朝は山正の番頭を黙って帰したのだ。「分かりました」と松造は答えた。彼の頭の中では、与一郎が微笑する顔が浮かんで消えた。
 一之助は松造の顔を計るように見つめ、
「ただしくれぐれも言っとくが、けっして短気を起こすんじゃあねえぞ。相手を怒らせてもいけねえが、お前が怒ったらなおいけねえ。分かったな」と、細い眼をさらに細めて念を押した。
 松造には、棟梁が今日の泰三らとのことも言っているのが分かったので、いよいよ神妙な面持ちで「はい、気をつけます」と答えた。
 工一を出るときに松造は、ちょうど入れ違いで一之助の妻のお(よし)と娘のお勝がどこからか帰ってきたところへ出くわした。
「あ、おかみさん」
 と言ったなり、彼の視線はすぐに後ろにいたお勝のそれとぶつかった。するとお勝の表情は光が差したようにぱっと明るくなり、なにか言いたそうな口もとになったので、松造はそれを避けるように眼をふせて、
「今日はこれで失礼します」
 と簡単にひとことだけ挨拶をして家を出た。
 道具箱を担いで帰る道すがら、彼の脳裏にはお勝の顔がちらついて離れず、松造は口の中でいく度も「弱ったな」とか「参ったな」などと呟きながら歩いた。
 お勝は松造よりも五つ年下で来年の春に二十一になる。涼しげな眼差しとくっきりとした眉をしていて、一見すると癇の強そうな顔立ちに見えるけれども、実際には意外なくらいに従順な気質のため、何を考えているのか分かりかねるところがあった。美しい顔立ちをしているのに、二十歳になっても他の男と浮いた噂も立たずにこうしてぼんやりしているところを見ると、松造と所帯を持つことを素直に受け入れている証拠なのかもしれない。
 けれども彼はお勝をどう扱ったらいいのか、むかしも今もよく分からなかった。
 じつは棟梁から正式に「お勝の婿になってくれ」と言われたことはないのである。そのために彼女をなんと呼んでよいのか分からないから、ということもある。しかしそれだけではない。黒目勝ちなお勝の瞳を見つめると、これから自分が話そうとしていることが全て馬鹿げたことのように思われ、いつもへどもどしてしまうのだ。だから彼女と一緒にいても、いまだに何を話したらよいのか分からず、居心地の悪い思いをしてしまうことが多かった。
 そんなお勝から、今月の顔見世狂言にいっしょに行くよう以前から繰り返し言われていたのだ。きっと、さっきもの問いたげな視線をこちらに向けていたのは、この話をしたかったからに違いない。幾度も誘われたためについ約束をしたのだけれども、松造は芝居にはまったく興味がないので内心閉口していた。おかみさんからも誘われているのだから行かないわけにはいかないのだが、このことを考えると少々ゆううつな気分になった。
 途中一膳めし屋で夕飯をすませ、福井町の長屋に帰り着くともうとっぷりと日が暮れていて、路地を歩くものも誰もいなかった。さっき五ツの鐘を聞いてからしばらく経っているので、どの家の戸障子からもほんのりと灯りが洩れているばかりで静まりかえっており、灯りの点いていない家の人々はもう寝てしまったのだろう。
 と、「大工 松造」と書かれた己の家の戸障子からも灯りが洩れているのを見て、彼の顔が訝しげなものへと変わった。
 ──こんな時刻に誰だろう。
 ふだん松造のところへ来客などほとんどないため不審に思いながら、「誰だい」と言いながら彼は勢いよく戸を開けた。
 すると部屋の隅の枕屏風の前に置いてある行灯には灯りがともっており、向かって反対側の部屋の隅に少年らしき者が膝を抱えて座っているのが見えた。
 まったく予想もしなかった者がいたので、松造は思わず「わっ」と声を出して道具箱を下に落としそうになった。そんな松造の様子に向こうも驚いたらしく、こちらにぎょろりと眼を向けたあと、いっそう部屋の隅に縮こまるのが暗い中でも見てとれた。
「おめえは今朝の」
 そう言って松造は言葉を切った。相手が誰なのかは合点がいったものの、名を思い出せなかったためである。それとも名は聞かなかったのかもしれないな、そう考えながら、
「こんなところで何をしてるんだ」
 そう尋ねても、少年は身体を固くしてだんまりをしていた。よく見ると彼の隣には夜具が畳んで置いてあるのが見える。すると何をしにここへ来たのかは一目瞭然だった。
 ──くそ、おそよのやつめ、余計なことをしやあがって。
 ちっと舌打ちをして松造が回れ右をしようとしたところ、少年が意外なくらいに大きな声で、「お姉ちゃんは悪くないよ」と言った。
「なに」
「おいらが一人で勝手にここへ来たんだ、だからお姉ちゃんは悪くないよ」
「おめえが一人で来たって」
「そうだよ」
「何をしに来たんだ。おめえをここへ置くことはできねえって、けさ言ったばかりじゃねえか。冗談じゃねえぜ」
 すると少年はしばらく黙ったあと、「……おじさんは大工なんだろう。おいら知ってるよ」と、今度は小さな声で言った。
「おれが大工だろうと、鍛冶屋だろうと関係ねえ。おめえを預かる余裕がねえからそう言ってるんだ。いいか」
「おいら、うるさくしないよ」
「なに」
「いいだろう、ねえ。おいら……おじさんの邪魔はしないからさ」
 部屋が薄暗いうえに顔が黒いため、少年がこちらをちらちらと見るたび、暗い中で白目ばかりがきょろきょろと動くのが見てとれた。その様子を見て松造は「こいつは両国の見せ物の河童にそっくりだ」と思い苦笑いをした。それから彼はひとつ小さなため息をつき、「坊主」と言って部屋に上がり、道具箱を下へ置いた。
「おめえ、名はなんというんだ」
 少年が黙っているので、「名前もねえようなものを、一晩でも置くわけにはいかねえぜ」と言うと、
「正太」
 と、少年はすぐに答えた。
 先ほどはあまり頭にきたので、おそよのところへねじ込んでこの少年を突っ返そうと思ったが、聞けばこの正太とやらは勝手にここへきたと言うし、それにこの時刻によその家に文句を言いに行くのも不穏当な話だ。松造は、
「一晩だけだぜ。分かったな」
 そう言って、今夜のところは大目に見てやることに決めた。ところがその晩おそくに、彼はさっそく後悔することになった。
 正太はすでに飯も食わせてもらってきたと言っていたため、疲れていた松造はさっさと寝ることにしたのだけれども、夜中過ぎに頭が妙に痒くなって目が覚めた。「かゆいな」とは思ったものの、起きるのも億劫なのでそのまま寝返りを打ったりしながら寝ていたところ、今度は首筋や背中も猛烈にかゆくなってきた。
 ──ちくしょう、このがきは虱をしこたま持ってきやあがった。
 あまりの痒さに起き上がった彼は、「おい、小僧」と言って暗いなかで、布団を被って眠りこけている少年の身体を軽く蹴った。しかし正太は「ううん」と軽くうなっただけで、かゆいのにももう慣れている様子で、またすぐに小さないびきをかき始めた。
「冗談じゃねえぞ、ちくしょう」
 そう呟いたものの良い思案も浮かばずに、彼は頭や背中を掻きむしったり、寝巻きを替えたりして、けっきょく朝までほとんど一睡もできなかった。
 翌朝、まだ熟睡している様子の正太を置いて、松造が家を出て大家のところへ行こうとしたところ、長屋の奥からあわてた様子でこっちへ来るおそよとばったり会った。
「ねえ、しょうちゃん、正坊が……」
 と、見るからに心配そうな顔でやって来るおそよを見て、松造は帯に親指を差してつと立ち止まり、「あのがきはまだおれのところでいびきをかいて寝てるぜ」と言った。
「おい、おそよちゃん、おれは昨夜あのがきの虱のせいで、一睡もできなかったんだぜ。どうしてあいつはいつまでも汚ねえなりをしてるんだい」
 するとおそよは彼の顔をじっと見つめた。
「じゃあやっぱりしょうちゃんのところへ行ってたんだ。良かった。朝になって見たらあの子がいないので、あたし心配してたのよ。てっきりどこかへ行っちゃったのかと思って」
「なにをほっとした顔をしてやがんだ、こっちは疲れてんのにちっとも眠れなかったんだぜ。あのがきはここへ来てから一度も風呂に入ってないだろう、違うかい」
 おそよは松造からの問いかけには答えなかった。そうしてかわりに本当に安心した様子で、彼の腕に軽くつかまってほっと息をついた。
「……じゃああの子は昨夜はよく眠れたの」
「ちぇっ、冗談じゃねえや、おれのことはどうでもいいのかよ。さっきも言っただろ、あいつは今でもぐっすり眠ってるよ」
 おそよはいま気づいたというふうな表情で松造を見上げ、「ごめんなさい」と言った。
「あの子ね、ここへ来てからというものの、夜中になると決まってうなされて悪い夢を見てるようだったのよ。おかげで周りの子たちも起こされるうえに不安がってね……昨日の朝はあの子の前だったから言えなかったけれど、正坊だけ別にしようとしたのは、そういう理由からだったのよ」
「おいおい、呆れてものも言えねえぜ、そんな面倒ながきをおれに押しつけようたあどういう料簡だい。昨日も言ったとおり、おれは忙しくってそれどころじゃねえんだぜ」
 するとおそよは少しむっとした表情で言った。
「あの子が自分で言ったのよ、おいら、あの大工のおじさんのところがいいって」
「あいつが自分でそう言ったって」
「そうよ、昨夜だって自分からこっそり布団を抱えてしょうちゃんのところへ行ったらしいのよ」
 そう聞いて松造は「へえ」と言ってしばし考え込んだ。そこへ近所の女房が通りがかりにどぶ板の向こうから、「おや、朝から夫婦喧嘩はよくありませんよ」と声をかけてきたので、
「違わぁ、まぜっけえすねえ」
 そう松造が言い返して、二人はぱっと離れた。
「じゃあ、あいつが他のがきよりも馬鹿に汚ねえなりをしていて、風呂にも入ってねえ様子なのはどういうわけだい」
「あたしにもよく分からないのよ。でも湯屋に連れていこうとすると、どうしても嫌がるの。無理に連れていくと途中で逃げ出しちゃうし……たぶん暗いところや狭いところが怖いからじゃないかと思うんだけど……ほら、ざくろ口の中は狭くって暗いでしょ。だからきっと、火事の時のことを思い出しちゃうんじゃないかと思うの」
「そうか、なるほどそういうことかもしれねえな」
 そういったんは得心がいった様子でうなずいたものの、「でもよ、昨夜はぐっすり眠ってやがったぜ。こいつはどういうわけだろう」と松造が言った。
「さあ、きっと、安心したんじゃないかしら」
 そう聞いて、彼はおそよの顔をまじまじと見つめた。
「そうね、きっとそうよ……ねえ、お願いよ、少しの間だけあの子をしょうちゃんのところへ置いてやってちょうだい。昨日も言ったとおり、昼のあいだはあたしが面倒を見るわ」
 こいつの押しの強さというものはいったいなんなのだろう、と思いながらも、間近におそよの顔を見ると、ここのところの忙しさのせいですっかり疲れきっているのだろう、眼の下には隈ができていた。被災した幾人もの孤児たちを抱えて、それこそ朝から晩まで駆け回っているのだろうな、というふうに想像したらもういけなかった。「……しょうがねえな」とあきらめ顔で彼は言った。
「しばらくの間だけだぜ。それから始めに言っておくけれども、面倒ごとを起こしたらすぐに叩き出すから、おそよちゃんからもあのがきにそう言っといてくれよ」
「正太よ」
「なに」
「あの子の名よ、正太っていうのよ。覚えてあげてちょうだい」
 朝飯を食ったあとに、松造は嫌がる正太を近所の湯屋に連れていった。「いやだ、おいら行かねえよ」と言って動こうとしなかったものを、「うるせえ、これから風呂へ行かなかったらすぐに叩き出すからそう思え」と言って無理に引っぱっていった。
「おや、若棟梁にもう子どもがいたとは知らなかったな」
 そう湯屋で番台の親爺に冷やかされると、松造は「冗談じゃねえ、こんな河童野郎がおれの子なわけねえじゃねえか」と言い返した。けれども彼はみずから正太の身体を洗ってやり、特に頭は「毛虱が残ってるといけねえから」と言って念入りに洗い、櫛でとかしてやった。また、おどおどしている正太の手を引いてざくろ口の中には一緒に入ってやって、ともに湯船に浸かった。
 風呂から上がると彼は正太を新しい着物に着替えさせた。来るときにおそよから預かってきたものだった。それから二階に連れてゆき、顔なじみの髪結いに自分と正太の両方の頭を剃らせて、髪も結い直してもらった。
 そうして二人ともさっぱりした姿で湯屋を出て明るい往来へと足を踏み出したとたん、松造は「こいつは驚いたぜ」と言って正太を眺めて目を見張った。
「おめえ、本当は色白だったんだな」
 すると正太はなんとも答えずに下を向いてもじもじしていた。
 長屋へ戻ると正太は、松造が綿入れなどをしまっていた空の行李を指差して、「おじさん、これ使ってもいいかい」と訊いてきた。夏のあいだしまっていた綿入れなどの冬物は、すでに出して枕屏風や衣紋竹にかけてあるため、「ああ、いいけど、何に使うんだ」と尋ねると、正太は、
「大事なものやなんかをしまっておくんだ」と答えた。
 松造が「ふうん」と言って何気なしに見ていると、正太は今朝まで着ていたぼろぼろの着物を、古びた風呂敷に包んで、行李の中へ大事そうにしまい込んだ。


 きのう棟梁から言いつけられていたとおり、昼前に深川の山正へ出向くと、若旦那の与一郎は不在とのことだった。かわりに応対をした番頭はあらためて昨日のことを詫びたうえで、「金額はそのままで、改めて木材を工一さんに選び直してもらうようにと言いつかっております」と言った。
 なんだか拍子抜けした感じで材木置き場へと案内してもらい、「こちらからお選び下さい」と言われて立てかけられた材木を見て、松造はむっとした顔をした。
「白太が多いですね」
「へえ、申しわけございません」
 前回松造が選んだ木材は節の少ない上等な赤太の木材だった。けれども今回ここから選べと言われた材木は、白太の混じったものか、もしくは赤太でも節のあるものばかりだった。ということは狂いの出やすい辺材か、心材でもまだ若い木ばかりということだ。
「人を馬鹿にしやあがって」と思ったものの、すぐに棟梁の言葉を思い出して怒りをぐっと飲み込んだ。そして「少しほかを見さして下さい」と言って、松造は屋根が高くて薄暗い山正の材木置き場の中、案内された場所以外に立てかけられている材木をゆっくりと見て回った。しかし材木の量が以前よりもずいぶんと少ない上に、多くはすでに売約がついており、また質についても初めに見せられたものと似たり寄ったりのものばかりだった。
「御用」だって言ってたのも、こいつはあんがい嘘じゃねえのかもしれねえ。そう松造は心の中で独りごちた。
 岩本町の仕事は老舗の酒屋の普請であり、見世は一階部分だけなので、料理屋などと違って造作の仕上げに気を使う場所は限られている。とはいえ棟梁の名代を任されている仕事をいいかげんにやるつもりは毛頭ない。彼は普請の見取り図を手に、使う場所を考えて墨をつけながら一本一本念入りに木材を選んでゆき、配達の手配まで済ませて山正を出たら昼はもうとうに過ぎていた。
 今日木材を選び直し、岩本町の普請の材料の目処はついたのでひと安心したものの、心の中では納得のいかない気持ちでいっぱいだった。
 たしかに大火事の後で需要が急激に増えたために、材木の値段が上がっていることも量が足りなくなっていることも理解はできる。しかしたった半月前の事だというのに、前回よりも明らかに一段劣ったものを今回選ばされて、それで値段が同じというのはどういうことか。番頭はさっき言い訳がましく「先日若棟梁に選んでいただいたものと同じ質のものはしばらくはご用意できないと思います。しかも相場は急騰しておりますので、今回選び直していただいたものでも、次回は同じ値段で用意はできないものと思ってください」と言っていた。
 ──この火事を機会にして、どこかでもうけている奴がいるに違いない。
 頭の中でそんな考えが繰り返し繰り返し浮かんだ。
 始めにつまずきはあったものの、その後は岩本町の普請は順調に進んでいった。今回は焼け跡に家を建て直す作業のため、地形師に仕事を頼む必要もなく、いきなり彼ら大工の仕事から始まるかたちとなった。最初に選んだ材料よりも質の低い材料で仕事をしなければならなかったが、「なに、ここが腕の見せどころだ」と開き直って、木材の節の出方や、反りや割れの出方などを考慮しながら手斧(ちょうな)を使い、ほぞ穴を彫り、木材を組んでいった。
 そして普請が始まってから九日目の朝、手間取り大工の泰三が現場に来なくなった。
 それまでも泰三は普請場では終始むっとしていたけれども、あんな経緯があったあとだからといって、松造は彼ら手間取り大工たちに対して冷淡に接することもしなかったし、かといって下手に出るのもまた嫌だったため、必要のあるとき以外は無駄口を利くこともしなかった。するとある朝突然に姿を見せなくなったのだ。もっとも泰三は松造のいないところではずっと不平を口にしていたらしく、チョロはこのことを知ったとたんに「やっぱり逃げやがったか」と言って、さも不愉快そうに脇へ唾を吐いた。
「こんなこたあ言いたかあねえけど、あいつはずっと若棟梁の陰口を言ってやがったんだぜ。それだけじゃねえ、今だったら仕事はなにも工一の仕事だけじゃねえ、そこいら中に転がってるんだから、どこへ行ったって食っていけるだなんて抜かしゃあがった」
 そう言われても、松造は何も答えかった。
 するとチョロは鼻をふんと鳴らして「ほんとだぜ、あにい」と言った。
「けど誰も取り合ってやらねえもんだから、きっといたたまれなくなって逃げ出しゃあがったんだ」
「ここにいねえ者の悪口は聞きたくねえな」
 そう言いながら、松造の頭の中では以前に勘太から「若棟梁、あんたは一人でいるからまだ分からねえだろうが」と言われたときのことが思い出され、泰三のことを責める気持ちばかりにもなれなかった。いまでは、ああ言って自分に噛み付いてきたのも、泰三には泰三なりの訳があったのだろう、そう考えていたため、彼が現場に来なくなったのを知ったときには、むしろおのれに対する苦い感情ばかりが残った。
「棟梁にはおれの方から話しておくから、もう泰三の名は口にしねえでくれ」
 松造はまだ不満げな顔をしているチョロに、続けてそう言った。
 そしてじきにお勝らとともに顔見世狂言に行く日がやってきた。
 天保の火事をきっかけにして、芝居小屋が猿若町へ移されたことは知ってはいたものの、松造には興もない事柄であったため、芝居に関する話は彼にとってすべてただの漠然とした知識であるに過ぎなかった。ところがいざお吉とお勝の供をしてみたら、一から十まで驚きの連続であった。
 まず夜明け前の七ツ起きをして出かける準備をしなければならないことに驚かされた。なにもこれから大山参りに行くわけでもあるまいし、そんなに早くから行く必要もなかろうなどと考えていたら、お勝から「芝居は朝の早くから始まるものだし、とくに顔見世狂言は始めから終わりまで見ないと面白くないんですよ」とたしなめられた。
「この顔見世狂言で来年一年の役者の顔ぶれが分かるんです。それにね松造さん、芝居を見ると、世の中のことがよく分かるんですよ」
 猿若町の芝居茶屋のなか、早朝の薄ら明るい光の中で、年若いお勝からにこにこしながらそう言われても、そうおいそれとは「はいそうですか」という気にもなれず、心の中ではむしろ「嫁入り前のまだ若い娘のくせになにょう言ってやがる」と言いたい気分だったが、それにしてもこの寒い中を芝居の見物客が意外にもぞろぞろいるのには驚かされた。
 松造らが案内を頼んだ茶屋の者とはお吉もお勝も顔なじみらしく、若い衆からいきなり「へえ、じゃあこのお方が若棟梁ですかい。あっしは新吉と申します、以後お見知り置きのほどを」などと挨拶されたので面食らった。
 大きな火事があってからまだいくらも経っていないし、それにだいたい天保の改革で芝居町はここ聖天町の隣に押し込められたのだから、もっとさびれた雰囲気なのかと想像していたら、大間違いだった。江戸三座の芝居小屋を中心として茶屋や料理屋、また芝居に関わる商売の店が狭いなかにひしめき合っていて、これでは移転前よりもむしろ賑わっているように思われた。猿若町は彼の住む福井町からは目と鼻の間の場所であるため、よけいに驚きだった。
「それじゃそろそろ行きますか」
 そうお吉が言ったのを合図に、松造ら三人は新吉の案内で芝居小屋へと導かれていった。通常の三階分はあろうかという程の高さの二階屋根の上には、座紋を冠した枡形の櫓が組まれており、その真下では幾人もの若い衆が口上を述べながら呼び込みをしている。一階の屋根の上にはずらりと今回の芝居の絵看板が掲げられていて、桟敷の入り口からはぞろぞろと人が入ってゆく。松造は人に連れられて初めて新吉原に行った時のことを思い出した。来るまでは「芝居なんぞ」と馬鹿にした気持ちでいたが、実際に初めて来てみると、まるで酔ってでもいるように頭がぼうとなっているのが自分でも分かり、「これは大したもんだ」と図らずも感心してしまった。これは昼間の吉原だなと思った。世の女たちがみな芝居に夢中になるのも少し分かる気がした。
 やがて人をかき分けて案内された土間に陣取ってほっと息をつく暇もなく、方々から人が挨拶をしていくのには閉口してしまった。それらの人々の中には松造の知った人もあったし、知らない人もあった。けれども彼らは一様に松造のことを知っているらしかった。自分は相手のことを知らないのに、向こうは一方的にこちらのことを知っているというのは、甚だ具合の悪い心持ちであった。ようは普請場のみならず、ここでも松造は棟梁の名代というかたちになったのだ。棟梁の一之助は昨夜、「おれは脚が痛くって、とても丸一日中座って芝居を観ているなんぞできねえから、お前が代わりに行ってきてくれ」と言っていたけれども、いま彼は棟梁を少しうらめしく思った。
「お前は芝居になんぞ興味はねえだろうが、これも一つ勉強だと思って行ってきてみろ」
 そう一之助は言っていたけれども、それはなるほどこういうことかとも思った。
「これはこれは工一の皆さん、お揃いでいらっしゃいますな」
 ふいにそう声をかけられて振り返ると、そこには格子の羽織を着た、松造の見知らぬ中年の男が笑顔でこちらをのぞき込んでいた。おやこの男は誰だろうと思っていると、その後ろには山正の与一郎が微笑を浮かべて立っていた。
「しばらくご無沙汰しているうちに、ずいぶんとおきれいになられましたなぁ」
 お勝に対するそんな世辞がすらすらと出てくるところをみると、風采からしても中年の男のほうは幇間だろう、と松造は思った。与一郎のほうはというと、着丈の長い縞の着物に紋付の黒の羽織をはおって、手には長煙管を持っており、まるで役者が幕間に挨拶に来た、といったような風情であった。
 彼はお吉と松造を交互に見てから、「先だっては材木の手配のことでたいへんご迷惑をおかけいたしました」と詫びを言い、慇懃に頭を下げた。
「いえいえ、そんな」
 と、受け答えをしているお吉の表情を見ると、まんざらでもない様子である。
「こちらといたしましても、材木の仕入れにはほとほと手を焼いているような次第です。しばらくはご迷惑をおかけすると思いますが、ひとつどうかご容赦を願います」
 与一郎は丁重な口調で詫びを済ませてから、「……ところで」と言葉を継いで、お吉の着物を褒めた。松造はそんな与一郎の如才ない様子に舌を巻いたが、心の中では、
 ──この間おれが山正に行った時には応対もしなかったくせに、こうして芝居なんぞには洒落た身なりをしてせっせと足を運んでやがるのか、と猛烈に腹が立ってきた。
 やがて与一郎は、ふとその存在にいま気が付いたとでもいうように、
「ところで、お勝さんとは去年の皐月狂言のとき以来ですね」と言った。
 ところが不思議なことに、お勝は与一郎から話しかけられているのに、うつむいて知らん顔をしている。そればかりではない、さっきからお勝は自分とも母親とも、誰とも目を合わせようとはしていないようだ。
「それともその後どこかでお会いしましたでしょうか」
 与一郎が微笑しながら続けてそう尋ねても、お勝はなおも問いには答えず、かわりに「そろそろ三建目の幕が開くころかしら」
 そう言って松造に向かってにっこりと微笑んだ。
 まるでこの場にはお勝と松造らしかいないかのような態度である。そんなお勝の態度に座は白けたようになり、幇間ふうな男が表情を変えて「さ、若旦那」と言った。
「お邪魔をするのもなんでございますし、そろそろ芝居も始まりますので参りましょうか」
「そうさな……」と小さく呟いたのち、
「ではお邪魔をいたしました。またお目にかかります」
 そう言って与一郎は去っていった。別れ際には、彼の顔からは心残りな表情は掃いたようにきれいにかき消されていた。松造は腑に落ちない心持ちのまま、途中で方々に挨拶をしながら去ってゆく彼らの後ろ姿を見送った。
 じきに舞台の幕が開き、辺りは喧噪に包まれた。お吉とお勝の表情を見ると、とくにいましがたの出来事は気に留めてもいない様子である。むしろお勝などは普段は見たことがないほどうきうきした様子で松造の肩に手を置き、
「さあ、次は成田屋が出てきますよ」などと言っている。
 舞台の上では芝居が進んでゆき、やがて団十朗が大太刀を腰から下げて登場すると、桟敷のいたるところから「成田屋」の呼び声がかかり、周囲は騒然とした。隣を見るとお勝もいかにも興奮した様子で口を半ば開き、舞台の光景に目を奪われているようだ。こんな様子のお勝は、彼はこれまで見たことがなかった。松造にしてみれば、舞台上で行われていることよりもむしろ、小娘だとばかり思っていたお勝の妙に(あだ)っぽい表情のほうに、驚くばかりだった。
 そういえばずっと以前に、これまでは気にも留めていなかったが、与一郎がお勝を嫁に欲しがっているとかいう話を聞いたことがあったことを思い出した。しかし与一郎は山正の跡取りで、お勝は工一のひとり娘である。それに家柄だってずいぶん違う。どだいどうなるものでもないので話そのものは立ち消えになったが、与一郎のほうはあんがい本気でお勝に惚れているらしい、というものだった。
 あるいは与一郎とお勝との間で、かつてなにかわけがあったのだろうか。
 そう考えて、すぐに松造はそんな疑念を心のなかで打ち消した。想像するだけで不愉快だった。
 彼はふたたび、芝居に心を奪われて観ている様子のお勝の横顔を、まるで初めて見るように見つめた。二十歳という年齢にふさわしい振り袖姿で、今日の芝居のために昨夜は晴れ着を着たり化粧をしたり髪を結い直したりで、ほとんど寝ていないはずである。しかしそんなことは微塵も感じさせないくらいに、屈託のない笑顔をときおりこちらに向けるお勝を見て、彼はかえってお勝と自分との間に隔たりを感じてしまった。
 やがて「暫」のあとに書き出しや立女形などが出てくる「だんまり」が続き、昼になっていったん茶屋に下がって皆で弁当を食べるときにも、お勝らに変わった様子はなく、去年の浄瑠璃は良かったけれども今年はどうかしら、などと二人で話していた。もはや彼らは与一郎たちのほうへと視線を向けることすらしなかった。
 松造には分からないことだらけで、彼は心のなかで「つんぼ桟敷とはこのことだな」と自嘲的に思った。また与一郎と自分とを比較するのは不快だったけれども、「なぜおれはさっきの与一郎のように、すんなりとお勝やお吉の着物を褒めるくらいのことができないのだろう」そんなふうに考えもし、どんどん気が滅入ってきた。
 この猿若町の芝居だけではない、身の回りにも自分の知らないことがまだまだたくさんあるようだなと思い、芝居の内容がちんぷんかんぷんであることも相まって、日が暮れる頃には松造はすっかりくたびれてしまった。
 芝居が終わってから皆でいったん茶屋へと下がり、ひと息ついたら外はかなり暗くなっていた。すると慣例となっているようで、新吉が提灯を手に猿若町の入り口まで送ってくれた。別れ際に松造は新吉からぎゅっと強く手を握られて、「来年もまたご贔屓のほど、よろしくお願いします」と言われた。
 浅草からの帰り道は、お吉とお勝はそれぞれ駕籠に乗って、松造はひとり歩いて帰ることにした。女二人はどっと疲れが出た様子だったけれども、彼は気疲れしていただけなので、表を一人っきりで歩いて帰るのは、むしろいい気分だった。
 腹が減っていたので途中雷門前に出ていた夜鳴きそば屋で蕎麦を食い、後ろから北風に追い立てられて長屋に帰ると、彼の家には灯りがともっており、松造が「帰ったぞ」と言ってからりと戸を開けると、正太が少しかすれた声で「おかえり」と言った。
 最近では松造も、こうして正太から迎えられることにすっかり慣れてきた。しかし正太の様子が少し変だなと思い、部屋へ上がりながら、彼は「どうかしたか」と問うた。
「どうもしねえよ」
 よく見ると部屋がどことなく散らかっているようである。そうしてふと床に落ちている一枚の紙切れを見て、松造は「あっ」と言って拾い上げた。見ればそれは岩本町の普請の見取り図で、棟梁から預かっている大切なものだ。その紙の裏側に墨で落書きがしてあった。近頃はおそよが子どもたちに読み書きを教えていると聞いていたが、きっと筆を貸し与えられた正太が書いたものに違いない。そう思って、
「正坊、こいつはお前が書いたのか」
 と尋ねると、「……おいらはちゃんと覚えてるんだ」と、まるでとんちんかんな答えが返ってきた。
「このがきは碌なことはしやがらねえ」
 そう言いながら、松造は正太の目の前に見取り図をぶら下げて、下を向いていた正太の頭をもう片方の手で上からわしづかみにして、見取り図に彼の目を向けさせた。
「いいか、こいつはいま建てている普請の見取り図で、おれが棟梁から預かっている大事なもんだ。お前はそれに落書きをしたんだぞ。分かるか、小僧。これは明日っからまだ使うんだぞ。それにお前はこんな落書きなんぞしやあがって」
 そうして横っ面のひとつも張ってやろうと思って、仏頂面をした正太の顔をぐいとこちらへねじ曲げた。すると行灯の明かりに照らされたその表情は、まるで泣くのをいっしょうけんめい我慢しているようにも見えた。
「正坊、おまえ、なにかあったのか」
 そう言って松造は正太の前にすわり込んだ。しかし問いかけられても正太は再びうつむいてしまったため、松造はあらためて手にしていた見取り図を行灯に照らして眺めてみた。
 するとさっきは気づかなかったけれども、よく見ると柱位置や間取りを示した表側の図の上からも薄墨でなぞったような跡が見えた。それを見てから裏側を見ると、どうやら表の見取り図の真似をして裏に何かを書いたように思われた。
「怒らねえから言ってみろ。ここに何を書いたんだ」
「……みんなおいらに覚えてねえっていうけれど、おいらはちゃんと覚えてるんだ」
「要領を得ねえな、おめえ、なんの話をしてるんだ。ちゃんと順序立って話してみろ」
 きっとした顔でこちらを向いたとき、正太はもう泣きそうな顔はしていなかったけれども、よく見ると唇が切れていて、左目の横にうっすらと赤いあざがあり、けんかをした後であることは明白に見て取れた。
「……今日、おっかねえ顔をしたおじさんがここへ来て、お姉ちゃんと話をしてったんだ」と、正太は話し始めた。
 話を聞くと、どうやら今日、町内のかしら(鳶の頭)が町役人とともにこの長屋へとやってきて、被災児らの人別改めをしていったようである。そこで集まった子らのうち、もといた場所の分かる者はなるべくもとの町へ返すようにすること、また場所が分かっても町が丸々焼けていて身寄りもない者はここでしばらく預かるか、もしくはお上に面倒を見てもらうようにすること、さらにはどの町で被災したどこの誰かも分からないような場合は、ここでは世話をしきれないため、一括してお上に面倒を見てもらうこと、などが話し合われたようだった。
 こうした話は当然子どものいない場所で話し合われたはずだが、子どもらのうちの誰かが盗み聞きをして、それを皆に伝えたものらしい。
「きいちのやろう、おいらはもといた場所も分からねえようなやつだから、ここを追い出されるに違いねえなんて言いやがったんだ」
「きいちってのは誰のことだ」
「おいらよりも一つ上のやつで、きいちろうっていう名のやつがいるんだ」
「分かった、それでそのきいちろうが、お前はここを追い出されるぞって、そう言ったんだな」
「ああ、だから、おれは頭にきてあいつをぶん殴ってやったんだ」
 そのときの様子を思い出したのか、正太の目は怒りに燃え上がっているように見えた。けれども松造は胸の詰まる思いがした。きっと、彼らはようやく居つくことができたこの場所から追い出されると思い、疑心暗鬼に駆られたのに違いない。そうして自分だけは追い出されないようにと、他人のあら捜しをしたり、意地の悪いことを言ったりしたのだろう。しかし境遇の違いはあれど、彼らがみな孤児であることには変わりない。身寄りもない子らがそんなふうに振る舞う姿を想像すると、彼は堪らない気持ちになった。松造自身、幼い頃に幾度も同じような体験をしていることを思い出したのである。
「気持ちは分かるが、だからといって殴り合いのけんかは良くねえな。それに心配するな、誰もお前をここから追い出しゃあしねえよ」
「ほんとかい」
「ああ、余計な心配をするこたあねえ。しかし分からねえな、そのこととこれと、どういう関係があるんだ」
 松造は普請の見取り図をふたたび正太の目の前にぶら下げてみせた。
 しかし問いかけられても正太は難しい顔をして押し黙ってしまった。うつむいた正太の視線の先には、畳の上にうっすらと墨の跡がついており、それはまるで彼が落とした涙の跡のように見えた。正太が黙りこくってしまったため、松造は彼がさっき言っていたことを、あらためてよく思い返してみた。
「お前はさっき、もといた場所もわからねえと言っていたけれども、それは本当のことなのか」
 すると正太はいっそう頑なな表情になってしまった。彼はそんな正太の顔をじっと見つめた。普段の正太は無表情で、何を考えているのかちっとも分からない少年だ。しかし表情には表れないけれども、その裏側ではきっと多くのことを感じているのに違いない。ほかの者なら分からないかもしれないが、松造にはそのことがよく分かった。
「……こいつはお前が住んでいたところを書いたんだろう、違うか」
 そう問われて、正太ははっとした表情で彼の顔を見上げた。そうして見取り図の裏に自分で書いた落書きに目をやり、
「おいらは、ちゃんと覚えてるんだ」とまたも同じことを言った。それから指先で紙の上をなぞりながら、
「ここに箪笥があって、ここには布団をたたんであって、こっちにはへっついがあっておっかあが飯を作ってくれてたんだ。それからね……」
 と、次々と記憶を辿って話し始めた。切りがなさそうなので松造は途中でそれをさえぎり、
「けど、どこの町に住んでいたのかは、覚えてねえんだな」と言った。すると正太は再び押し黙ってしまった。ちょうど初めて会ったとき、彼が「焼け出されたのか」と問うたときと同じ表情だった。
「ばかやろう、そんな顔をするんじゃねえ」
 と、松造はすこし乱暴な口調で言った。
「おれだって、てめえの生まれ育ったところのことは覚えちゃあいねえんだ」
 正太は彼の顔を見上げた。
「お前もおれもしょうの字だ。つまりおれたちは似た者同士だってことよ。だから余計な心配をするんじゃねえ」
 すると正太は唐突に「おじさん、おじさんは大工なんだろ」と尋ねた。
「ああ、それがどうした」
「それに、棟梁っていうんだろ」
「おれはまだ棟梁じゃねえ。いいか、棟梁ってのはな、偉えんだぜ。家を建てるときに、全部の木組みの仕方と寸法が頭の中に入ってるんだ。だから、本当の棟梁にはこんなものは要らねえんだ」
 そう言って松造は見取り図をひらひらと振ってみせた。
「おれはまだ半人前だから、こいつが必要なのさ。分かったか」
「でも、みんなおじさんのことを、若棟梁っていうよ」
「へっ、まだ半人前だから、若の字がつくのさ。こいつが取れたら一人前ってところだな」
「そうか」と呟いていったん下を向いたのち、出し抜けに正太は松造の目を見つめて言った。「ねえ、おじさん」
「おじさんが棟梁になったら、おいらの家を元通りにしておくれよ。いいだろう。おいら、住んでた家のことは隅々までちゃんと覚えてるんだよ。だから、おいらの代わりにおいらの家を元に戻しておくれよ」
「……そうさな」と呟いてから、彼は正太のしんけんな眼差しを静かに見返した。ちょうど二十年近く前の自分自身が目の前にいるような気がした。
「お前が住んでいたのはきっと、ここみてえな裏長屋だろう、だったら、たいていは表店といって通りに面した店があって、その裏側に、ちょうどここの建物のように、棟割の長屋がいくつか建っていたはずだ。
 お前の住んでた家を元に戻すとはいっても、全体を建て直さなくちゃあいけねえんだ。だから、どんなところに住んでいたのか、もっと詳しく分からねえとどうにもならねえ。住んでた町のことが思い出せれば、建て直す方法もあるかもしれねえが、ただ……」
 と言って、松造は少し言いよどんだ。彼自身、住んでいた町のことをいまだに思い出せずにいるし、思い出そうとすることは苦痛を伴うことであることが分かっているために、それを正太に強いるのはかわいそうに思ったためである。
「無理をして思い出すことはねえ。だんだんに思い出せればいいんだ。分かったか」
「分かったよ」
 そう答えたとき、正太はほんの一瞬だったけれども嬉しそうな顔をした。正太の笑顔を見るのはこれが初めてだな、と松造は思った。
 その夜、二人は一緒に布団を敷いて寝た。寝るまでは、正太は普段よりは嬉しそうにしているように見えたけれども、深夜になってからは、辛い夢でも見ているのかしきりに寝言を言ったり、苦しそうに寝返りを打ったりし始めた。
 そんな正太の様子に目を覚まさせられてからは、松造もなかなか再び寝入ることができず、表で戸板が北風でかたかたいう音に耳を澄ませながら、暗い中で自らがこの長屋へやってきた頃のことを思い出していた。


 それからの正太は少しずつではあるが、打ち解けた態度を示すようになっていった。ことに日が暮れてから松造が家に帰ると、日中にあった出来事を彼に話すようになった。なかでもその後もずっと仲たがいを続けている正太ときいちろうとの間に、幾度もおそよが仲裁に入って仲直りをさせようとしているらしいことは、昔を思い出させて面白かった。正太自身はきいちと仲直りをする気はさらさらないらしい。けれどもおそよへの信頼はいや増しているらしく、正太の話のなかでは「今日お姉ちゃんがね」という台詞はたびたび出てくるようになった。
 十一月も下旬になって、岩本町の普請場では上棟式を迎えることとなった。
 さすがにここでも松造が棟梁の名代、というわけにはいかず、一之助がみずから普請場へと足を運んで儀式を執り行うこととなった。施主である酒屋の紀州屋の立ち会いのもと、神酒が捧げられたあとで棟上げが行われ、松造ら工一の大工だけでなく、岩本町のかしら、左官屋、屋根屋などの職人が揃って完成後の建物の無事を祈った。
 二階部分の棟木を槌で打ち込んで建物の木組みがほぼ完成したのちに、松造は棟梁のかわりに裃姿で一階の母屋(もや)の上にあがって、かしらと一緒に餅や銭をくるんだおひねりを撒いた。
 屋根に上がって改めて周囲を見渡すと、今回の火事でいかに広範囲が焼けたかがよく分かった。西は大名小路から御城にかけて、東は両国橋や川向こうの家並が目の前にあるかのようによく見えた。
 また雪が降り出す前になんとか屋根や壁まで仕上げたいとの思いで大工たちがみな普請を急いでいるため、近所のいたるところで連日上棟式が行われていて、餅を撒き始めるとどこからともなく大勢の人々、とくに子どもたちが集まってきて、我先にと餅やおひねりを拾い集めた。彼らの中にはこの近所に住んでいた子らもいたが、多くはみすぼらしい格好の、一見して被災した孤児と分かる子らであった。
 そんな光景を見て、けさ出掛けに正太が上棟式に来たがったのに、「冗談じゃねえ」と言って来させなかったことを、松造はいまになって少し後悔した。あさ彼が棟梁からの借り物の裃を身につけて身支度をしていると、正太は目を丸くして、
「お侍みてえだ」と言って嬉しそうにしていたのだ。
「なに、上棟式じゃあ礼装をするのが決まりだからな」
 見ると正太も当然連れていってもらえるもののような顔をしている。松造は着慣れない自らの裃姿をにわかに照れくさく感じ、「連れてかねえぞ」とぶっきらぼうに言った。
「遊びでやるわけじゃあねえんだ」
 屋根の上から見ると、子どもたちは我先にと群がって、喧嘩をしながら餅を拾っていた。しかしそれでも彼らの目は輝いているように見えた。べつにこの建物が彼らの住む家になるわけではないし、それに火事のすぐ後に建て直しができるのは経済的に余裕のある者に限られ、多くの人々は家財を失ったままなのである。しかしそれでも、目の前で建物が建ってゆくのを見ることは、ことに子どもたちにとってみればこころ踊る出来事なのだ。それは正太にとってもきっと同じことだっただろう。彼自身、子どもの頃に経験があることなのでよく分かった。
 ──この次にはきっと連れてきてやろう、そう松造は独りごちた。
 上棟式が終わったあと、一之助が「顔を出す義理があるから」と言って(しろがね)町で普請をしている同業者のもとへと向かう供をしている途中、小柳町があった辺りの焼け跡の普請場で、松造は「あ」と言って立ち止まった。
 そこでは表店と同時に裏長屋の普請も進めていて、その長屋の普請をしている大工の中に、彼の育ての親である源蔵の姿を見出したためである。一之助もすぐに気づいて、「源蔵か」と言った。
「あいつはたしかいま、川向こうの堀川町の棟梁のところで働いていたはずだ」
「堀川町っていうと、あの堀川町ですか」
「そうだ」
 堀川町の棟梁というのはもうずいぶんな年寄りで、大きなものは建てられないために裏長屋などの普請ばかりを請け負っている棟梁のことだった。使っている大工も年寄りばかりで、同業者の間では「小屋大工」などと陰口を叩かれているのを松造も知っていた。
「ちょいと顔を出してきてもいいですか」
 そう松造が問うと一之助はすこし渋い顔をしたが、「じゃあ銀町にはおれ一人でいくから、お前は先に茅町へ帰れ。そうして着替えて昼飯を食ったら、午後からはまた岩本町の仕事に戻ってくれ」と言ってくれたので、彼は「あい」と言って一之助と別れた。
 源蔵親父と会うのはもう何年ぶりだろう。
 そう思いながら彼は、屋根の野地板を張っている最中の源蔵のもとへと歩んでいって、下から勢いよく「源さん、おい、親父」と声をかけた。すると源蔵は、裃姿の彼を眩しそうにしばし見下ろしたあと、間延びした口調で「……松造か」と呟くように言った。


「じゃあその後も親父は独りで暮らしてるんだな」
 松造がそう問いかけると、源蔵は「なにを当たり前のことを」といった表情で、黙ったまま猪口を口許にもってゆき、きゅっと旨そうに酒を飲んだ。
 源蔵と会うのは三年ぶりのことだった。その三年前と比べても源蔵はずいぶんと顔も酒焼けしており、背中も曲がって白髪も増え、全体的にしょぼくれた雰囲気になっていた。
 ──これでも工一の棟梁とは年も同じくらいのはずだがな。
 そう考えて、一之助の年の取りかたと源蔵のそれとではずいぶんと違うことに、松造は心の中で戸惑いを感じていた。
 昼間すこし話したあと、仕事が終わってから再び会う約束をし、日が暮れてからいったんは本所の源蔵の住まいへと足を運んだものの、あまりにも乱雑な部屋であるのに閉口して、けっきょく家の近所の縄のれんへと二人でやってきたのであった。
 「井筒屋」という名のこの店には源蔵親父は足しげく通ってきているようだった。
 松造が店の中を見回すと、場所がらか客はこの近辺の武家の下屋敷で奉公をしている中間や小者のたぐいと、木場の職人などが特に多いようだった。本所で「井筒屋」などとは洒落た名前を付けたものだが、その名からは程遠い雰囲気の古びた薄暗い店だった。
 見たところ、少なくともふところ具合の良さそうな客は一人もいないようだ。源蔵が床几に腰をかけて片足を膝の上に乗せ、くるぶしの辺りを手で撫でながら、ちびちびと酒を飲んでいる姿を見ると、彼が毎日のようにここでこうして過ごしているのが目に浮かぶようだった。
「不便なこたあねえのかい」
 そう松造が尋ねると、源蔵はちらりと彼の目を見てから、「なに、不便なことなんかあるもんか」と言ってまた猪口へ口をつけた。
 ──年は取っているけれども、親父は相変わらずだ。
 と、心配と安堵がないまぜになった心持ちで松造は思った。そして表情を変えて明るい口調で、
「しかし申しわけのねえ話だけれど、おれは堀川町の棟梁のことを見くびっていたぜ」と言った。
「いやさ、ほんとうのことだ。親父たちの仕事ぶりを見ていて、おれは兜を脱いだぜ。もうけも出ねえような長屋の普請ばかり請け負っているのは、年がいって仕事ができねえからだなんて、親父たちの仕事ぶりを見もしねえで、よその奴らが言っているのを鵜呑みにしていたおれが明きめくらだった。
 よぼよぼで仕事ができねえからだって。へっ、とんでもねえ。満足な材料も手に入らねえのに、あれだけのものを建てられるなんて、おれにはまだ真似のできねえ仕事だよ」
 材木不足なのはどこも同じらしく、小柳町の普請場で源蔵らが長屋を建てるのに使っていた材料は、本当に普段なら小屋を建てるときくらいにしか使わないような代物だった。けれども源蔵らは、松造が岩本町の普請場でやっているよりもさらに巧みに、個々の木の性質を計算に入れて、材料に恵まれない環境の中では最大限と思われる仕事をしていた。
 それは松造の大工としての現在の経験値をもってしても、まだ真似のできない仕事だった。三四年前ならこの違いすら分からなかったかもしれない。しかし棟梁の名代として仕事をやらせてもらっている今なら、彼らの仕事の巧みさがよく分かった。一之助からは、岩本町の普請が終わったら、次は表店と裏店両方をまとめて請け負っている仕事があるぞと言われており、そのための勉強の意味もあって、日中に彼は源蔵らの仕事ぶりをつぶさに観察していたのであった。
「しかし松で柱なんか建てて大丈夫なのかい。土台や梁に松を使うなら分かるが、あんなふうに有り合わせのもので柱を建てて、後々困るようなことにはならねえのかい」
 そう松造が尋ねると、源蔵はにこりともせずに、「へっ、どうせ高い材木なんぞ使って建てたところで、十年も経ちゃあ火事できれいに燃えちまうんだ。おんなじことよ」と言った。
「それにな、上に二階が乗るんならともかく、平屋の、それも長屋の普請ならあれで充分よ」
 自信たっぷりに源蔵がそう言うのを聞いて、松造は内心舌を巻いた。
「けどそれにしても堀川町の棟梁は立派なもんだ。おれは本当に感心したぜ。火事の後には表店だけ建て直せばそれでいいってわけじゃねえ、誰かが裏店だって建てなけりゃあいけねえんだ。けどあんまり儲けがなさ過ぎてなかなか受け手がねえような仕事ばっかりを、進んでやってるのは立派な話だぜ」
 すると源蔵は不思議そうな顔をして松造を見つめ、「おめえも妙なことを言うな。おめえが住んでいるところも、おれがいま住んでいるのも裏長屋だろう。だったら長屋の普請だってするのが当たりめえじゃねえか」と言った。
「儲けが出るか出ねえか、そんなこたあおれは知らねえ。ただあんなものを造るのは雑作もねえことだからな。腰の曲がってきたおれにもできる仕事だからやっているまでのこった。難しいことはおれは知らねえよ。そういうことは、棟梁がうまいことやってくれてるんだろうさ」
 そう言われて、今日初めて普請場で会った堀川町の棟梁の安吉の顔が鮮やかに思い出された。はじめはその老人が堀川町の棟梁だとは気づきもしなかったのだ。源蔵が「棟梁」と呼びかけたのでようやく気が付いたくらいだった。
 ──こいつが茅町の親方のところで厄介になってる松造というもんです。
 ──そうか、お前さんが茅町のところの若棟梁かい。
 そうして相好を崩した顔を見ると、とても昔は男伊達として鳴らした人物とは思えなかった。大工の棟梁の跡継ぎとして生まれたものの、若い頃から喧嘩ばかりしていて手に負えず、やがて親から勘当されると独りで上方や東北などの諸国を渡り大工として歩きまわり、四十をだいぶ過ぎてから江戸へと戻ってきたのだ、と以前に一之助の口から聞いたことがあった。江戸に帰ってきたときには腕も知識も抜群になっていたにもかかわらず、どういうわけかばかに無欲になっていて、それからは安い普請しか請け負わない少し変わった棟梁として今もやっているのだという。年は六十を二つや三つ過ぎているだろうか。眼尻には深々と皺が寄り、髪も真っ白だが、一之助と違っていまも毎日現場へと足を運んでいるためによく日に焼けた顔をしていた。
「お前さんのことは源さんの口からもよく聞いているよ。自慢の息子だって聞いてたけれども、なるほどいい面をしてるじゃないか。まあ、茅町の棟梁のところでよく辛抱をすることだね」
 そうしてにやりと笑い、「ただもし茅町から勘当でも食らって、食うに困るようなことにでもなったら、わたしのところへ来るといいよ」と、冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「もっとも、それまでわたしが生きているかどうか分からないがね」
 そんな安吉の表情や態度に、松造は言いようのない魅力を感じた。五尺二寸ばかりの小柄な身体つきで、腹掛けの上から半纏をはおり、向こう鉢巻きをした姿はとても「親方」という感じはしない。恰幅のよい一之助とは見た目からしてもまったく異なった種類の棟梁だな、と思ったのだ。そうしてふと、いま目の前で黙って酒を飲んでいる源蔵をしげしげと見て、「しかし源蔵親父はおれのことをなんと話しているのだろうな」そう考えて、一人でくすりと笑った。
 源蔵が自分のことを他人に話しているところなど、想像できなかったのだ。それにだいたい、自慢の息子だなんて間違っても言いはしないだろうと思われた。
 昔っからそうだったのだ。いつもむっつりとしていて、何を思い、また考えているのか、その顔色からは推し量ることのできない親父だった。きっと妻子と死に別れたときから、時間が止まってしまっているのだろう、いつの頃からかそんなふうに松造は想像するようになっていて、その思いは今でも変わることはなかった。
 けれども、だからといって他人には冷淡だということでもなかった。
 源蔵親父の大工道具の箱の中から切り出しをくすねて、ひとり木切れを削って時を過ごすようになってから、だいぶ経ったある日の晩、酔って帰ってきた源蔵が「ほらよ」と言って、刺し子の布切れにくるんだ小さな鑿をくれたときの嬉しさは今でも忘れられなかった。自分の使い古しの道具をくれたのではなく、小振りな大きさの鑿を一丁、わざわざ誂えてくれたのだ。思えば、あの日からおれは大工になりたい、ひいては棟梁になりたい、と考えるようになったのかもしれなかった。源蔵親父は、要所要所できちんと自分のことを見守ってくれている。そのことは、幼心にもよく分かっていた。
 そんなふうに、昔のことをあれこれ思い出してどれくらい時を過ごしたのだろう、
「おい、聞いてるか」
 と言われて、猪口の底を見つめていた松造がふと目の前を見ると、源蔵は目許を真っ赤に染めていて、呂律が回らない口調で続けてこう言った。
「……どうやら今日はちっと飲み過ぎたらしい。松造、おまえ、悪いけど家まで送っていってくれるか」
 源蔵を送って帰る道すがら、彼は子どもの頃によくこうして親父を迎えに行った時のことを思い出した。行きつけていた居酒屋から、「おい、また親父さんが酔いつぶれたぜ」と言って、店の若い衆が呼びにくるのだ。
「またかい」
 とひとことだけ言って、いつも彼はすぐに親父を迎えに行った。すると「すまねえな、しょう坊」と口では言うものの、家に連れて帰ると、源蔵はすぐに大きな鼾をかいて眠ってしまうのが常だった。けれどもそんな源蔵親父のことを、彼はけっして嫌ってはいなかった。むしろ自分のすることによけいな口出しをせず、いつも放っておいてくれることを快適に感じていたような気がする。
 久し振りに親父を家に送り届けて、使い古してずいぶんと薄くなった布団を敷いて寝かしてやりながら、彼はそのことをはっきりと思い出した。
「親父、じゃあおれはこれで帰るけど、なにか欲しいものはあるかい」
 すると源蔵は「ううっ」と唸ってから、「なんにも、なんにも要らねえよ」と言った。そうして松造が入り口の戸を閉める時、その背中に向かって、
「すまねえな」
 としゃがれた声で言った。
 夜更けに新大橋を渡って帰るとき、向かい風はとても冷たく、まるで筑波山の方からまっすぐに北風が吹き下ろしてきているようだった。加えて大川の西側は焼け野原のために、土ぼこりが盛大に顔に吹き付けてくるのには遣り切れなかった。しかもこの時刻では行き交う人もほとんどいないために途中から心細くもなって、「しまった、両国橋を渡れば良かった」と思ったけれども後の祭りだった。松造は半纏の襟元を掻き合わせて、提灯を前にかざして、襟巻きの中に顔をうずめて家路を急いだ。
 福井町の家にたどり着くと、当然正太は寝入ったあとで、部屋の中はまっ暗だった。提灯の火を行灯に移して部屋の中を見ると、正太は一人で布団を敷いてぐっすり眠っている様子で、松造の布団もすでにそのすぐとなりに敷いてあった。ここ最近は遅くに帰ると、あらかじめ二人分の布団が敷いてあって、正太は寝たあとであることが多かった。
 はじめのうち、正太は松造からは離れて、とは言っても六畳ひと間なのでさして離れることもできないが、部屋の隅っこに布団を敷いて寝ていたのだ。それが近ごろでは松造のすぐそばに布団を敷いて寝るようになってきていた。正太は寝言が多いのでそれには閉口していたけれども、正太の布団が次第に近づいてくる様子は、かわいいものだと思うことがらでもあった。
 正太の寝ている様子をしばし眺めたあと、彼はふと部屋の長押(なげし)の上に作り付けてある棚の上に乗せた行李の蓋がずれていることに気付いた。あの中には、正太が以前自分でしまい込んだぼろの着物のほかには、何も入っていないはずだった。まさか鼠が行李の蓋を持ち上げることもあるまい、そう思い、正太を起こさないように気を付けながら、行李を下ろして蓋を開けてみた。するとそこには、着物をくるんだ風呂敷以外に、なにやら白っぽいものが入っているのが見えた。
 ──なんだろう。
 そう思って、中に入っているものをそっと取り出してみると、どこから拾ってきたものか、縦八寸に横一尺ばかりの板きれの上に、割り箸のような細い木と紙くずとを貼り合わせて作った何かが乗っかっていた。またそれ以外に、行李の中には松造のものらしき切り出しと、源蔵からもらった刺し子のきれにくるんだ鑿が入っているのが見えた。
 正太が切り出しをくすねて何かごそごそやっていたのは知っていたが、鑿までくすねていたとは知らなかった。一昨日まではたしかに道具箱に入っていたので、これはきっと昨日か今日盗ったものに相違ない。
 彼は行灯を近くまで引き寄せ、中に入っていた何かを明かりに照らしてよく見てみた。すると、板きれの上に乗っていたものは、どうやら家の模型のようなものであるらしかった。そしてはじめのうちは苦虫を噛みつぶしたようだった彼の表情が、しだいに感嘆の表情へと変わっていった。
「おいらはちゃんと覚えてるんだ」という正太の声が、頭の中で聞こえた。
 これはきっと、正太が住んでいた長屋の部屋の間取りを再現しようとして作っているものに相違ない。間取りとはいってもひと間の部屋だ。複雑なつくりではないけれども、彼が驚いたのは、どうやら縮尺もきちんと再現しようと試みているらしいことだった。
 またおそらくこれを作ろうとしたことによって、壁の中はどうなっていたのか、また床下はどうなっていたのか、色々と疑問にぶつかったに違いない。そうした疑問にぶつかるたびに、いま暮らしているこの長屋を参考にして少しずつ作っていったのだろう、そんな苦心のあとがあちこちに見て取れた。そんなふうに様々に思いを巡らせながら、松造はこの板きれの上に乗った模型を、行灯の明かりにかざしながらしばらく眺めて過ごした。木と木を、また木と紙をくっつけるのには飯粒を使ったのだろう、だからうかつに触ると壊れてしまいそうだった。
「……こいつは驚いた、ちゃんと上がり(かまち)や縁の下まで作ってあるじゃねえか」
 松造は暗い部屋の中で、ひとり微笑みながらそう呟いた。
「おい、いいかげんに起きやがれ」
 翌朝、松造からそう怒鳴られてようやく起き上がった正太は、枕元に模型や切り出しが並べられているのを見て、驚きのあまりに、小さな眼を精一杯に大きく見開いて布団の上で後退りをした。
 めずらしく自分で飯を炊いていた松造は、正太が起きたのを見ると、部屋に上がって近寄っていって模型を指差し、
「こいつはなんだ、なんてこたあ聞かねえ。おめえなかなか上手に作ってるぜ、おらあゆうべこれを見つけて感心したんだ、ほんとだぜ。けどな、そのとなりにある切り出しと鑿はなんだ」
 起き抜けにそう問われて、珍しく正太は狼狽した様子で、「これは、これは」とどもるばかりで目をあちこちに泳がせた。
「おめえが十日ばかり前に切り出しをくすねたことは気付いていたんだ。それはまあいい、おれにも経験のあることだからな。でもその鑿はいけねえ。そいつはおれが育ての親からもらった大事のものだ。そいつはな、おれが大工になるきっかけを作ってくれた宝物なんだ。おれの言っていることが分かるか、正坊」
「おいら悪気はなかったんだ、ほんとだよ……この鑿がそんなに大事なものだなんて思わなかったんだ、あんまり使ってなさそうだったし、それに……」
「それに、こんなきたねえきれにくるんであるしな。けどこれで分かったろう、お前の目にはいらないもののように見えても、持ち主からすれば大事なものだっていうこともあるってことだ。この鑿は道具箱に戻させてもらうぜ」
 そう言って彼は源蔵からもらった鑿をさっさとしまい、布団の上でしょんぼりしている正太に、続けてこう言った。
「それとなあ正坊、こいつを覚えといてくれ。職人てもなあ自分の道具はけっして他人には貸さねえもんだ。大事な商売道具だからってこともあるが、一番大きな理由はこうだ、自分の道具を一度でも他人に使わせちまうと、道具に他人のくせが移っちまうからなんだ。
 おれがしじゅう鑿の刃を研いだり、手斧の手入れをしてるのをお前も見ているだろう。あれはなあ、道具がいつでも自分の思いどおりに使えるようにしておかないと、まともに仕事ができねえから、だからああやってまめに手入れをするんだ。それがいったん他人に道具を貸したとたん」
 と言って彼は、正太の前で両手をぽん、と叩いてみせた。
「自分の道具が他人のもののようになっちまう。だから職人は他人には自分の道具は貸さねえのさ。たとえ相手が弟子や子であってもだぜ」
 そして松造はうつむいて布団の上に視線を落としている正太の頭にそっと手をのせて、「おめえにはまだ鑿を使う必要はねえはずだ」と言った。
「その切り出しはおめえにやるから、まずはその道具に慣れるといい。それがきちんと使えるようになったら、次の道具の使い方を教えてやる。分かったか」
「うん」
 と頷いて自分を見上げた、まだ寝惚け顔の正太に向かって松造はにっと笑い、それから模型の方へと顎をしゃくってみせた。
「おめえがこれでいいと思うまで、ひとまずはそいつを作ってみるといいぜ。道具はその切り出しだけでたくさんだ。それでそうしているうちにもし、おめえが住んでいたところのことを思い出したなら、おれがどこへでも出向いていって、きっとおめえの家を元通りに建て直せるよう請け負ってやろう」
「ほんとかい」
 と、正太は布団の上でこれまで見たこともないような顔でにんまりと笑った。もともと細い眼がさらに細くなって眼尻も垂れ、また並びの悪い歯もむき出しになり、正直に言ってあまり見栄えのよい笑顔ではなかったけれども、松造はそれを見て、喉元に何かがこみ上げてきてぐっと喉がつかえるような感覚を覚えた。そして顔をしかめながら、えへんと一つ咳払いをして、こう言った。
「そのかわり、黙ってひとの物に手をつけるような真似はもう二度とするんじゃねえぜ。分かったな」
「分かったよ、おじさん」
「よし、ところで、おめえもおれと一緒に朝飯を食うか。おそよが作ってくれる飯よりは美味くねえとは思うが」
 ふたたび嬉しそうにこくりとうなずいた正太の顔を見たあと、彼は二人分の朝飯の支度を始めた。


 それから数日後の冷たい雨が降る日の午前に、松造はひとり家にいた。雨は昨夜から音を立てて降り続いていて、こんな日には大工はなすすべもないので家にいるほかはないのだけれど、降り始めてからは気温がぐっと下がり、そのせいか少し風邪気味のようなので、松造は朝飯を食ったあとは火鉢を抱いて、掻巻を背中から引っ被ってじっとしていた。
 福井町の佐兵衛店(さへえだな)は東西に細長い作りになっている。東端には通りに面して大家の佐兵衛が営む米屋と、店子の下駄屋があって、その間に長屋の木戸と番太郎の営む雑貨屋があった。そして米屋と下駄屋の背後に、松造が住む棟割りの長屋が二棟向かい合って建っている。この二棟の長屋の戸数はそれぞれ五戸ずつの計十戸であった。またこれ以外に、反対側の通りに面した建物もあり、ここにも商売をする店子が入っていた。敷地内には長屋の住人が共同で使う厠はあったが、井戸は同じ町内に一ヶ所しかないため、それを共同で使用していた。
 向かい合った長屋の間の細い路地には、降り続く雨のせいで所々に水たまりができていて、ときおり住人が下駄を履いて通り過ぎるときにはぴちゃぴちゃと小さく音が聞こえたし、子どもたちが草履や裸足で駆けてゆくときには、水をはねかす大きな水音が聞こえた。
 こんなふうに家にこもるのは久し振りのことだった。正太は仲間のところへ行っているらしく、朝からどこかへ出かけていったまま戻る気配もなかった。彼は珍しくぼんやりとしながら、長屋じゅうに響き渡る子どもたちの嬌声や喧嘩の声などを聞くとはなしに聞いて過ごしていた。こうした子どもらの声を聞くと、普段ならうるさいとしか思わないのに、今日は不思議と彼はほっとしたような気持ちになっていた。
 ここに孤児たちが寄り集まってから、もう(ふた)月が経つ。その間にどこかへ逃げ出してしまった子もいる。いつだったか正太と喧嘩をしたきいちろうという少年はすでにどこかへ飛び出していってしまったらしい。想像したくはないけれども、そうした子らの行く末は、暗いものであると思わざるを得なかった。
 しかし改めて感心するのは、こうして大きな火事があったあと、決まって大家の佐兵衛が孤児たちの面倒を良くみ、飯を食わせ、逃げ出さなかった子どもたちに対しては、彼らが落ち着くところへ落ち着くまできちんと差配をすることについてだった。
 ──わたしは米屋なんだから、それくらいのことをするのは当たり前だ。
 と、面白くもないような顔をして佐兵衛は言うけれども、こう幾度も孤児たちの面倒を見るのは、並大抵のことではない。孤児たちの中には生来の悪たれ坊主だっているし、どんなに良くしてやっても結局あばずれになってしまう娘だっているのだ。彼らは素性や背負っている過去が様々で、必ずしもこちらの気持ちに応えてくれるわけではないのである。そのことは松造自身がよく知っていた。
 でもそうした孤児たちの中で、これまでに最終的にこの佐兵衛店と呼ばれる長屋に居ついてしまった者も、松造自身を含めて三人いる。松造は通い大工をしているが、あとの二人のうち、一人は鋳掛屋で名を新吉といって女房や子とともにここで居職をしており、もう一人の助二郎は塗師で、働き先が今度の火事で焼けてしまったため、現在は京橋の先の暖簾分けの店まで通っているのでたいへんだとこぼしていた。みな手に職を持って暮らしている。それもこれも佐兵衛と、その娘のおそよが陰日向なく松造らを支えてくれてきたからに他ならない。
 けれどもいま、雨音を聞きながら松造が思うのはそのおそよ自身のことだった。
 おそよは数えで十四の年に母親と死に別れている。その母親の葬式の時に、彼女が涙も見せずに気丈に振舞っていたのを、松造は今でもよく覚えている。それから後の彼女は、家族のなかで、亡くなった母親の代わりを、ひいてはこの長屋全体の母親役をみずから買って出ているようにも見える。おそよには上に跡継ぎの兄がいるので、とりあえずは婿取りなどの心配をする必要はないけれども、二十五を過ぎても片付かずにいるのは、きっと父親の心配の種であるに相違ない。これまでに勧められた見合いはみな断り、今回のような火事が起こって、またこの長屋に孤児たちが集まってくると、面目躍如とばかりに率先して、眼の下に隈をこしらえてまで忙しく立ち働いているのを見ると、いったいこんなことをいつまで続けるつもりでいるのだろうか、と思えてくる。
 あらためて考えてみても、おそよは昔からちっとも変わっていない。どこへ行くにも必ず松造の前を歩きたがった勝ち気な少女のままに、今でも振る舞っているように見える。初めて会ってからもう二十年近くの年月が経とうとしているのに、いつになったら大人になるというのだろう。このおれでさえこんなに変わったというのに。
 そう考えて松造は眉根を寄せ、唇の端をゆがめて、声には出さずに「ちぇっ、馬鹿なやつめ」と呟いた。
 そうして、それにしてもこの雨はいつ止むのだろうな、と裏の戸を開けて空の様子を見ていたら、表のほうからおそよのものらしき高声が聞こえて、その後を追うように「そんなことはお前のやることじゃない」という佐兵衛の声が続いた。
 ──この雨の中を、なんだろう。
 そう思っていたらすぐに松造の家の戸障子を荒っぽく叩く音が聞こえ、「しょうちゃん、いるの」と問うおそよの声がした。
「ああ、いるぜ」
「ちょっと、入ってもいいかしら」
 傘をたたみながら入ってきたおそよは髪や肩が雨に濡れていた。そうして顔を紅潮させて、視線を下に落としたままだった。こんな様子のおそよはあまり見たことがない。なにかよっぽどのことがあったんだな、と松造は思った。
「どうしたんだい」とすぐには問わずに、彼はおそよの様子をじっと見た。けれども、
「畳が濡れるかもしれないけれど、堪忍ね」
 そう言って松造に背を向け、畳の縁にすとんと腰を下ろしたままおそよは、しばらく何も言おうとはしなかった。
 雨のせいで薄暗い家の中、松造はそんなおそよの背中をしばらく見つめた。おそよの肩は呼吸のたびにやや大きく上下していた。いっとき外の子どもらの声は聞こえなくなり、長屋の板葺きの屋根や路地のどぶ板を打つ雨音だけが聞こえていた。
 そしてやがて「いったいどうしたんだい」と彼が問うと、おそよはびくっと身震いをして慌てたような表情で振り向いた。まるでいま初めて松造の家にいることに気付いたみたいな顔つきだった。
「何かあったんだろう」
「正坊は」
「ああ、あいつなら朝からどこかへ遊びに行ってるぜ。正坊のことで、何かあったのかい」
「あの子のもといたところが分かったのよ」と一気に言ってから、おそよはほっと大きなため息をついた。
「ほんとかい」
 思わず松造は弾んだ声でそう問うたけれども、おそよの表情は硬いままだった。彼女の顔を見て松造はすぐに何かを感じ取ったらしく、ふと真面目な表情に戻って「そうか、そこで何かあったんだな」と言った。
「そんなところじゃあ話もできねえ。とにかく中へ入って、座りなよ」
「邪魔じゃないかしら」
 松造は「なにを言ってやがる」と言って、仰向いてみせた。「この雨だぜ、大工はお手上げだ。妙な遠慮をするこたあねえ」
「ほんとね」
 言葉の上では遠慮をしているようでも、おそよが誰かに、それもきっと自分に話を聞いてもらいたがっているのは明らかだった。おそよが部屋の中に入って座り直すのを待ってから、松造は話をうながした。
「言ってみねえな、聞くぜ」
 松造にそう言われると、おそよは興奮を抑えきれない様子で語り始めた。
 ことの発端は、きいちろうと正太の二度めの大喧嘩のときに、きいちろうが「てめえなんかここを追い出されたら、帰るところなんかねえんだぞ」と言ったのをおそよが聞いて、ふと彼は正太のもといたところを知っているのではないかと考え、後で問いただしたことにあった。すると、彼ははじめのうちは口を濁していたが、やがて「たぶん、弁慶橋の近くの八百八店(やおはちだな)という長屋であいつを見かけたことがある」と答えたのだった。
 きいちろう自身もその弁慶橋からほど近い亀井町にもと住んでいたことがすでに分かっていた。
「じゃあきい坊は、正太のことを以前から見たことがあるのね」
 そうおそよが問うと、「人違いかもしれないぜ」と言ってきいちろうは口をとがらせたけれども、おそよは本当の話だと判断した。なぜなら、きいちろう自身はもといた場所が特定されたものの、そこで辛い思いをしていたのか、そこへは戻りたがらずにいておそよらの手を焼かせていたからであった。そんな時、彼らは自分だけがこの長屋を出されるのを嫌って、他の者も巻き添えにしようとすることがよくあった。けれどもでまかせを言ってもすぐに分かってしまう。だからきいちろうは本当に以前に正太のことを知っていたのに違いない、そうおそよは考えたのであった。
 きいちろうはそのすぐ後にここを飛び出したのだけれど、果たしておそよの予想は的中した。弁慶橋近くの松枝町に、じっさいに八兵衛という名の角店を張っている八百屋がいて、そこの裏長屋で八百八店という長屋があることが分かったのだ。
「じゃあ今日はそこへ行ってきたってえのかい」
 そこで松造が口をはさむと、おそよはふんと鼻を鳴らした。
「ばかね、行ったって焼けちゃって何もないにきまってるでしょ」
「そうか、そりゃそうだ」
 そう言って頭を掻いてから、松造はふと、ある大事なことを思い出したけれども、ひとまずは黙っておそよに先を続けさせた。
「けれどね、八兵衛さんに会うことはできたのよ。今は川向こうで仮の店をやっていて、今朝はそこへ行って、正坊のことを聞いてきたの。そしたら、確かに正坊のことは分かったわ。でもわたし、あんまり頭にきちゃって……」
 そう言っておそよは気持ちを静めるように、ほっと小さくため息をついた。
 確かに正太は八百八店の住人だった。おそよが正太の外見や言葉つきなどの特徴を説明すると、八兵衛は「はい、たしかに居りました」と得心した様子でうなずいたのだ。けれども八兵衛は、もし長屋の普請が済んだとしても正太を引き取ることは難しいと言うのだ。
「どうしてですか。正坊はそちらさんの長屋にいたんでしょう。正坊のご両親がどうなったかは存じ上げませんが、そちらさんの住人であった以上、引き取るのが筋じゃありませんか」
「そりゃ仰るとおりです。ただね、引き取り手がないんですよ」
 堅く商売を積み上げてきたように見える赤ら顔で五十過ぎの八兵衛は、おそよの気色ばんだ表情を見て、それからおもむろに周囲を見回してから「いえ……」と言い直した。
「ここじゃあなんだ、はじめからお話しいたしましょう。こちらへどうぞ」
 裏から顔を出した息子らしき若い男に、「おい、奥を使わせてもらうぞ」と声をかけてから、八兵衛はおそよに向かってうなずいてみせ、それまで店先で話していた二人は、彼の案内で店の奥に上がって座った。
「ここは手前どもの息子夫婦がやっております店でございましてね。松枝町の店の普請が終わるまでという約束で、子の世話になっているような次第です。しかし普請にかかる費用を工面するのはたいへんな話で。そちらも大家をやっていらっしゃるのでしたらお分かりでしょうが」
 そう言って八兵衛は唇を舐めた。
「しかしそうは言っても、うちでは店の普請と一緒に、借財をしてでも長屋の普請も進めるつもりでおります。店だけ建て直して、長屋の住人のことまでは知りませんてな不人情なことを、わたしはするつもりはございません」
 彼は終わりのほうを力をこめて話し、まるでおそよのことを計るようにじっと見た。そんな八兵衛の様子に、おそよは彼の言葉とは裏腹に不誠実なものを感じ取り、思わず少し身を固くした。
「だったら長屋がもとどおりになったあかつきには、正太が戻れるのが筋だとお思いでしょう。けれどもこれには少しばかり事情がございましてね。
 実は正太は十月の火事で両親を亡くしたのではございません。火事よりも前に、あれの父親は行方知れずになって、母親もすでに亡くなっておったのです」
 思いもかけない話を聞かされて、おそよは大きく眼を見開いた。
「……じゃあ、正坊は火事で両親と死に別れたわけじゃないんですか」
「さようでございます。あれの父親は棒手振りをしておりましたが、稼ぎも少ないくせにどうしようもない遊び人で、正太がまだごく幼い頃に、方々に借金をこしらえたまま長屋を出て行方知れずになりました。
 後に残された母親のお石は、甲斐甲斐しく働いて女手一つで正太を育てておったのです。お石のことを悪く言う者など、長屋には一人もおらんでしょう。けれども、もともと身体がけっして丈夫でなかったところへ無理を重ねたせいなのか、二年ほど前に寝付いてしまい、その後一年足らずの後にあっけなく死んでしまいました。
 もちろん、一人残った正太のことは、長屋の者たちがみなで助け合いながら世話をしてきたのですよ。なにしろ、どうにも可哀想な境遇ですし、同じ長屋の仲間の話ですからね」
 そこへ先ほどの息子が二人に茶を持ってきた。店先は開いたままなので、畳の上ではあったけれども、風が表から入ってくるので、小さな火鉢一つでは寒かった。八兵衛は火鉢を前にして、湯飲みを両手で捧げるように持って茶をすすった。それからもったいぶった様子で煙管に煙草を詰めて火をつけると、ふうっと音を立てて一服をした。おそよは息子の横顔をちらと見たけれども、とくに特徴もないかわりに篤実そうな顔をした男だった。「ところが」とおもむろに八兵衛は続けた。
「母親が死んでからは、あれは人が変わったようになりましてね。それまではごく大人しい性質の子だったのですが、だんだんとわがままを言うようになり、世話をしていた近所の女房たちにも口答えばかりする、子ども同士でも誰それ構わず喧嘩を吹っかける、あちこちで盗みを働く、とどうにも手に負えなくなりましてね」
 おそよは正太の心の中を想像して胸が痛んだ。きっと誰だって同じようになるだろう、と思った。なんと言ってもまだ父親も母親も必要な年頃なのだ、おそらくは誰もその役割を果たせる者がいなかったためにそうなってしまったのだろう、そう言いたかったけれども、口をぎゅっと閉じて何も言わずにいた。
「今回の大火事では、わたしどもの店も長屋も全て焼けてしまいました。さいわいにも火事で亡くなった者は一人もおりませんが、全員が家財を全て失ったうえに、このうえよその子の面倒までみる余裕はないでしょう。ですから、もし正太をわたしどもの元へ戻していただいたとしても、可哀想ですが、わたしとしてもあれはそのままお上に面倒を見てもらうようにするほかしようがないのですよ」
 そう言われてしまうと、おそよの口からはなんとも言うことができなかった。
「もちろん、わたしどもの長屋におった者が、ぜんぜん関係のないそちら様のご厄介になっているわけですから、そのことはまことに申し訳なく思っております。
 ところで、つかぬことを尋ねますが、あれはそちらでは大人しくしておるのでしょうか」
「ご存知ないでしょうけれど、正坊は火事のあとで、以前の記憶を失ってしまったようなのです。ですから、こうして八兵衛さんのところへ辿り着いたのは、正坊に聞いたからではなくって、偶然のことなんです……そのことが関係あるかどうか分かりませんが、正坊はうちではとてもいい子にしていますよ」
 八兵衛はそのことを聞き、「へええ」と言って少なからず驚いた顔をした。おそよはといえば、心の中では正太のことを精一杯かばってやりたい気持ちでいたのだ。けれども、八兵衛はふたたびふうっとため息とともに煙を吐き出して、こう呟いた。
「さようですか、こんなことを言ってはなんですが、記憶が戻らないほうがあの子のためかもしれませんなぁ。もし記憶が戻ったら、また人様に迷惑ばかりかける悪童に逆戻りするかもしれませんから」
 そう聞いて、「あなたは、……あなたはなんてひどいことを言うんですか、記憶が戻らないほうがいいだなんて」と、思わずおそよは八兵衛に言い返した。それから続けて甲高い声で、
「それに黙って聞いていればさっきから正坊のことをあれあれって、正坊は犬や猫でもなければ、ましてや物じゃあないんですよ」と言った。
 言ってから、ああしまった、言い過ぎたと思ったけれども、さりとて後へ引く気にもなれなかった。
 八兵衛は真っ赤になったおそよの顔を一瞥し、そうして火鉢の中へ煙管の灰を叩き落としてから、憮然とした表情でこう答えた。
「あなたは以前の正太がどれほど手に負えなかったか、ご存じないんです。わたしのことがどう思われようといっこう構いませんがね、もしあれがうちの長屋にいた頃の姿に戻ったら、きっとあなたもわたしが言っていたことが本当だったって分かるでしょうよ。もしあれのことをそんなに庇い立てするんでしたら、そちらで引き取ったらいい。そのかわり、のちのち後悔することになりますよ」
「では八兵衛さん、あなたはあくまでも正太を引き取るつもりはないと仰るんですね」
 と、口の中がからからになりながらも、やっとのことでおそよがそう言うと、「いえ、べつにそうは言っておりません」と平静を装った表情で、口の端だけを動かして八兵衛は言った。
「ただ、わたしどものもとへ帰されたとしても、可哀想ですがわたしはあれをお上の手に委ねるよりほかにしようがありません、と申し上げるだけです」
 松造はおそよの話が終わるとすぐに、
「なんてえふざけた野郎だ」と顔を赤くして、いまいましそうな表情で膝頭を右手でぴしゃりと叩いた。
「それでも大家かよ。どんなに悪がきだって、町内で生まれ育った子の面倒を町内でみてやるのは当り前のことじゃねえか。冗談じゃねえぜ、まったく」
 予想以上の剣幕で松造が腹を立てたので、おそよはかえってなだめるような調子で、「わたしに怒らないでよ」と言った。ここへ来たばかりのときと比べると、彼女はだいぶ落ち着いた表情に戻っていた。松造に話をすることができ、また彼が一緒に怒ってくれたおかげで、感情の高ぶりは治まってきたようだった。
「わたしだって本当に頭にきたから、あなたじゃあ話になりません、って言って、帰ってきたのよ。そうしてお父さんに、松枝町の町役人とかしらに掛け合いに行くって言ったら、今度はお父さんから怒られて」
「そうか、さっき怒られてたのはそういうわけか」
「そうよ、お前がよその町の町役人のところへねじ込んでも、かえってことを悪くするだけだ、余計なことをするんじゃあない、って怒鳴りつけられて。だったらわたしはどうしたらいいっていうのよ」
 そう言われて、松造も「むむう」と唸って下を向いた。
 冷静になって考えてみると、たしかに両親がいないうえに、町そのものが丸焼けになっているのだから、八兵衛がこれ以上正太の面倒をみるのは無理だと言ったとしても、それははたから見れば責められることではないのかもしれない。
 しかし、八兵衛という大家がどんな考えの持ち主であれ、松枝町の町役人やかしらがこのことをどう考えるかは、また別の話だ。だとしたら、こっちに話をつけるのは、確かにおそよや自分などではなくて、佐兵衛に任せたほうがいいだろう。
「ねえ、しょうちゃん、どうしたらいいの」
 松造がしばらく黙って考え込んでいたせいだろう、焦れったそうにおそよはそう言って、一途な眼差しで松造の顔をじっと見た。
 そんなおそよの顔をちらりと見て、彼は新しい発見でもしたような心持ちになった。
 ついさっきまで彼は、「どうしておそよはいつまでも変わらずにいるのか」と考えていた。しかしいまふと、そう考えるのは間違いだったかもしれない、と思い直したのだ。
 おそよは正太のためにこんなにもしんけんに心配をしたり、腹を立てたりしている。彼らのために本気で怒ってくれる誰かがいるということは、孤児たちにとって、とても大事なことだ。だって、おそよがいなかったら、いったい誰がそうしてくれるというのだろうか。このことだけでも、彼はおそよを褒めてやりたいと思った。そうして、理屈ではなく「おそよはこのままのほうが良い」と考え直したのである。
「おそよちゃんが腹を立てるのも無理もねえ」と、彼はゆっくりと言った。
「おれだって、その八兵衛とかいう大家のところへ文句の一つも言いに行きてえくらいだ。けどこの話の続きは、たしかにおそよちゃんの親父さんに任せたほうがいいかもしれねえぜ」
 すると今度はおそよの方が松造の様子の変化に少し驚いた様子で、
「じゃあわたしは何をしたらいいの」と言った。
「何もしねえほうがいいだろうな」
「そんなのひどいじゃない」
 膨れっ面をするおそよに、今度は松造が「まあ怒るなよ」と言った。
「おそよちゃんは今までどおり、正坊たちのことを見守っていてくれるのが一番だ。ここから先の話は親父さんの言うとおり、親父さんや町役人同士で話し合ってもらったほうがいい。それから、おれにもできるかもしれねえことがもう一つあるけれども、このことはまた今度話すとしよう」
「ひどいわ、それじゃあわたしだけ除け者じゃない」
「そんなことはねえさ」
 そう松造は言って、おそよに白い歯を見せて笑ってみせた。
「誰にだって得意なことと不得意なことがあるってことさ。おそよちゃんは今でも充分によくやってくれていると思うぜ。おれにはおそよちゃんのようには子どもらの世話はできねえけれども、おれは大工だから、大工にしかできねえことをやろうと思っていると、こういうわけだ」
 おそよはそんな松造の顔をまじまじと見つめた。
 いま目の前にいる松造は、少年時代から見てきている松造とは少し違うようだ。そのことに改めて気付かされ、戸惑っている様子であった。
「そうだ、言い忘れていたが、子どもたちを住まわせている部屋で、もし何か造作を直すようなところがあったら、遠慮なくおれに言っつくんな。おれも忙しいことは忙しいけれども、こんなふうに天気の悪い日にはどうせ仕事にならねえんだ。この長屋には大工はおれしかいねえんだから、大工仕事はおれに任せてくんねえ」
「分かったわ、ありがとう」
 と、照れたような表情でおそよが答えたとき、突然に表で誰か子どもが泣き出す声が聞こえた。おそよは振り返って「誰かしら、長屋の子じゃないわね」と呟いた。
「……たあ坊かしら、そうね、きっとたあ坊だわ。またいじめられてるのかしら」
 そうしておそよは落ち着きのなさそうにそそくさと腰を浮かして、「それじゃわたし行くわ、ありがとう、しょうちゃん」と言った。
 立ち上がってからおそよは、松造のうしろに掻巻がだらしなくつくねてあるのにふと気づき、「ごめんなさい、もしかして風邪でも引いて寝てたの」と訊いた。
 松造はかぶりを振って、「いや、なんでもねえさ」と答えた。
「向こうで子どもがまだ泣いてるぜ、行ってやんな」
 そううながされて、おそよはもう一度「ありがとう」と言ってから、傘を差して表へ出て行った。出て行く時は、ここへ来てから初めて彼に笑顔を見せた。そのせいなのだろうか、来た時には気づきもしなかったのに、髷の下に結った緋縮緬の赤い色が、独り住まいの松造の部屋には場違いなほどに、鮮やかに彼の目には映った。
 それは、二十歳を半ばも過ぎた年なのに島田を結っているおそよの今をよく表しているのと同時に、一見すると男勝りに見えるおそよも、実は娘のままなのだということを彼に思い起こさせて、松造は内心どきりとした。


 翌日は朝からからりと晴れたので、松造は働くことで風邪を身体から追い出すように、忙しく立ち働いた。十二月も後半に入り、雨上がりで空っ風の強く吹きつける一日だった。ちょうど同じ頃に普請の始まった周囲の現場と競い合うように仕事を進めてきたけれども、岩本町の現場はいわゆる大工仕事はもう終盤であり、いまはもう建具師や屋根屋などとの仕事の調整が彼の主な役割になっていた。
「もうだいぶ目鼻が付いてきたな」
 そうチョロと話しながら夕方に茅町へと戻り、いま帰りました、と棟梁に挨拶をした。
「遅かったな」「へえ、岩本町の仕事もそろそろ最後の仕上げにかかってますから」などと話したあとで、ふと気付けば工一には棟梁が一人いるだけでしんとしており、どうやら職人たちの中では彼とチョロが最後に戻ってきたもののようだった。
 そしてチョロも帰ったあとで、松造は一之助に次の仕事について尋ねた。彼が次に任されると聞いていた仕事の現場は、たしか松枝町だと棟梁から言われたように記憶していた。そして昨日おそよからの話を聞いて、次の仕事の施主は、もしや八兵衛ではないか、と推量したためである。
「ひょっとして、次の仕事は八百八店というんじゃありませんか」
「ああ、よく分かったな。あすこに誰か知り人でもいるのか」
「いいえ、そういうわけじゃあありませんが……」
「だがその仕事はもう断ったぜ」
 そう聞いて、松造は思わず「ええっ」と声を出した。
「いったいどういうわけですか」
「どうもこうもねえさ、仕事にならねえから断ったまでのこった」
 と、一之助はこともなげに言った。
 どうやらいったんは話を受けたものの、施主の八兵衛があまりにも値切るのに閉口して、最終的にはこの話は断ってしまったらしい。
「お客のことをどうこういうのは良くねえが、この八百八の主は(しわ)い男でな。表店を建てるかねはきちんと払うから、そのついでに裏店はただで建ててくれと言わんばかりなのさ。このごろは材木代が天井知らずだ、向こうの言い分をいちいち聞いていたらまともに家なんか建ちゃあしねえ。あんまり馬鹿馬鹿しいから断ったのよ」
 普段の松造であれば、そう聞かされたら「はいそうですか」と言ってそれで仕舞いだったであろう。けれどもこの時は彼の脳裏を正太の顔がよぎり、「そんな、約束を反古にするなんて親方らしくもねえ」と言って、一之助に食ってかかった。
「どうしたんだ」
 と、一之助は松造の顔をじろりと見て言った。「おめえらしくもねえ拘りかたをするじゃねえか」
 松造の目には、棟梁の顔と、正太の作った模型が重なって見えた。正太のもといた所が分かった以上、約束を違えるわけにはいかなかった。「きっとおめえの家を元通りに建て直せるよう請け負ってやろう」と、おれははっきりと正太にそう言ったのであり、それも自分の手で、と思って言ったことなのだ。彼は棟梁に正太との約束について語り、またおそよから聞いた話で、八百八店が正太のもといた場所に間違いないため、なんとしても自分の手で長屋を建て直してやりたいのだと言った。
 一之助は終わりまで黙って松造の話を聞いたあと、
「なるほど聞けばいかにもおめえらしい話だが、それでもやっぱりこの仕事を請け負うわけにはいかねえな」と、きっぱりとした口調で答えた。それから、なおも納得のいかない表情でいる松造の顔をしばし見つめたあと、黙ったまま立って奥の部屋へゆき、両手で何かの帳面を持って戻ってきた。
「ここに書いてあることをよく読んでみろ」
 そう言ってどさりと床の上に置いたのは、仕入れや支払いの台帳であるらしかった。松造はこれまでこういったものを一之助から見せられたことはなく、おそるおそる帳面を手に取り、一枚一枚繰ってみた。そこには、身体も大柄で腕も指も太い棟梁には似合わない几帳面な字で、個々の普請毎の収支が書かれていて、ところどころ朱で訂正がしてあるのが見えた。一之助はそれを上からのぞき込むようにしながら、
「そら、そこが今おめえに任せている岩本町の普請にかかっている材木代を始めとした代金だ。まだ途中だから当然締めてはねえが、おめえに見てもらいてえのは、材木代の単価が、以前の普請と比べてどれだけ上がっているかってことだ」と言った。
「三寸五分の杉の角材が一本いくらするか、前の普請と比べてみろ。それから手間取り大工たちの賃金やら何やらを足して、全部でいくらかかっているか、そうしてそれぞれの普請で最後にいくら残っているか、遡ってよく見てみろ」
 そう言って一之助は部屋を出て行った。松造に一人でそれらをつぶさに見せ、そして考える時間を与えるつもりであるらしかった。
 茅町の工一の建物はふた棟に分かれた造りになっている。間口は三間半で、通りに面したほうの戸障子には丸に工一と墨書きしてあり、入ると三和土をはさんで正面に上がり框があって、さらに障子を開けて入ったところに十畳の部屋と、その続きで八畳の部屋がある。ふだん職人達は、まず神棚のある十畳の部屋へ寄ってからそれぞれの普請場へと仕事に行く。そして帰りもここへ寄るため、基本的に一之助はここか、またはその奥の八畳の部屋にいることが多い。
 奥の方の部屋は主に一之助が仕事用に使っていて、書きもの用の机や書類を収める棚、長持などは全てこちらに置かれていた。そしてこれらの部屋の脇に土間続きの通路があって、ここを抜けてゆくとへっついや水場、道具置き場などがその奥にあり、ここまでがひと棟である。さらに奥には一之助とお吉、お勝が寝起きしている家があって、こちらは別棟で建てられている。いま棟梁は奥の家のほうへと引っ込んでしまったため、十畳の部屋には松造一人が残されたかっこうとなった。火鉢には鉄瓶がかけてあって、それがしゅんしゅんと音を立てているばかりでとても静かであった。
 言われたとおりに松造が遡って材木の値段を見ていくと、火事の前でも、ここ五年足らずの間に、材木の単価はおよそ二割から三割がたも値上がりしていることが見て取れた。さらに驚いたのは、岩本町の普請はともかくも、十月の火事以降に請け負った普請で使っている材木の値段は、五年前の同じ時期の値段の倍近くであることだった。なにしろ家を建てるうえで一番かかる材料費は材木代である。これが倍になってしまっては苦しいに決まっている。しかも施主から受け取ることができる代金はそう上がっているわけではないのだ。
 厳しい現実を目の前にして、松造はううむと呻き、下を向いたまま黙り込んでしまった。
 棟梁がこんなに苦しい思いをしているとは、正直なところまったく知らなかった。
 こころみに、火事の後に請け負った直近の普請の収支を確認しようと、慣れない算盤を弾いて計算していってみたら、材木代を始めとして手間取り大工達へ支払う人件費や、左官や屋根屋、建具師などへ支払う代金を合計していくと、普請の受け取りの代金に対して完全に赤字であることが分かった。
 ──なんということだろう。
 棟梁がこんな思いをしているのに、おれはさんざ偉そうな口を利いていたのか。そう思い、まさしく消え入りたい気持ちでいると、背後から「どうぞ」と声がして、振り返ったらお勝が茶を持ってきてくれたところであった。
「すみません」と松造が言うと、お勝はそこへそっと座り、火鉢に少し炭を足しながら、
「お父さんから無理なことでも言われたの」
 と訊いてきた。
「いえ、とんでもねえ」
 松造はまぶしそうにお勝の顔を見て、すぐに帳面へと視線を落とした。彼の脳裏には、お勝のはにかんだような、そして見ようによっては少し困惑したような表情が残った。松造の様子を見て自分は邪魔だと思ったのか、お勝は「それじゃわたしは戻ります」と言って、すぐに立って部屋から出ていった。あとには何とはなく彼女の残り香のようなものが残り、彼は頬のあたりがぼうと赤くなったのが自分でも分かった。
 それにしてもあらためて腹が立ったのは、どう考えてもこの機に乗じて材木屋が腹を肥やしているとしか考えられないことだった。
 山正に限らず江戸市中の材木屋にとって、少なくとも火事の直後に注文が入った材木については、材木の仕入れ値が高騰する前に仕入れをしたものであるはずだ。ところがそれらの値段からしてひと月前の二三割増しの値を付けているのである。そうして与一郎は幇間などを連れて芝居を見に来ているのだ。これをはたから見れば、他人の不幸を機に利を貪っているとしか考えられないではないか。なのに普請の施主から、この苦しいときに家を建てるのに、こんなにもおあしがかかったのでは堪らない、とこぼされるのは大工のほうなのである。
 彼には世の中の複雑な仕組みなどはよく分からなかったけれども、家がなくて苦しんでいる者が大勢いる中で、どうやらその裏で商売をして儲けている輩がいるということはどうにも我慢がならないことであった。
「どうだ、ちっとは勉強になったか」
 振り返ると、いつの間にか棟梁が戻ってきて、松造の背後に立っていた。そうしてひげの濃い顎を左手で撫でながら、真面目な表情で、
「棟梁になりたかったら、かねの工面ができるようにならねえと駄目だ」と言った。
 松造は、きっと棟梁も材木屋の暴利には腹を立てているだろうと思い、いま考えていた疑問を一之助に投げかけてみると、意外にも一之助は平静な顔で、「おめえには分からねえことがまだまだ沢山ある」と言った。
「どういうことですか」
「なに、それを口で言ったんじゃあ何にもならねえ。もしおめえが仮にも一人前の棟梁になりてえと思うんだったら、てめえでひとつひとつ掴んでいくよりしようがねえことだ」
 そう言われても、松造にとっては腑に落ちないことばかりだった。
 それから一之助は表情を変えて、「さっきお勝が来たろう」と言った。
「なんぞ話でもしたか」
「いいえ」
 すると一之助はちっと舌打ちをして、「……どうにもしようがねえな」と口の中で呟き、それから大儀そうに松造の前にすわり込んだ。
「おめえは大工仕事は人一倍速いが、それ以外のことがどうにものろま過ぎるぜ」
「相済みません」と口では言ったものの、何について苦言をいわれているのか、松造にはちんぷんかんぷんだった。
 それを察したのだろう、一之助は片方の眉をぐいと上げて、
「分からねえのか、お勝はお前を待ってるんだぜ」と言った。
「え」
 まだぼんやりした顔でいる松造を見て、今度は一之助は少し慌てたような表情になり、「おいおい、大丈夫かよ」と言った。それからやや声をひそめて、
「お勝はまだ小娘の頃からおめえに懐いていたし、おめえだってまんざらじゃねえ様子だったから心配もしていなかったが……こりゃあどうも雲行きが怪しくなってきたぜ」
 そして仰向いて思い出すような表情をしてから、「源蔵がおめえをおれのところへ預けに来た最初っから、おめえはおれに、おいらはいつか棟梁になりてえって言ってたもんだ」と言った。
「どうだ、覚えているか」
 そう言ったような気はするが、なにぶん少年の頃のことなので、はっきりとは覚えていなかった。
「棟梁になりてえってな、おめえはおれに向かって、こう、睨むような眼をして言ったもんだ。その時のおめえの眼つきは、今でもはっきりと覚えているぜ。おれはその時にもう、棟梁を継がせるのはおめえだって決めたんだ。
 ……しかしおれもうっかりしてたな、考えてみれば、お勝のことをおめえに任せるとは、きちんと言ったことがねえかもしれねえ。おめえたち二人もそのつもりでいるとばかり思っていたからな。
 けどこれがいい機会だ。松造、お勝の気持ちを汲んでやれ。お勝はな、以前に縁談の口があった時も、わたしには決まった人がおりますから、と自分から断ったんだぜ」
 そんな話は初耳だった。松造が眼を丸くしていると、一之助はさらに驚くことを口にした。
「このことはおめえには初めて話すけれども、幾年か前にお勝を嫁に欲しいと言ってきたのは、山正の若旦那だ」
「え」と言って松造は絶句した。やはり以前に聞いていたうわさ話は、本当のことだったのだ。
「山正といえば材木商としてもかなりの身上(しんしょう)だ。この工一とは格が違うと言ってもいい。けれどもお勝はうちの大事な一人娘だ。いったいどうやって断ったものかとお吉と二人で考えあぐねていたら、お勝が自分から破談にして下さいと言ってきたんだ。わたしはどこかよそへ嫁に行く気は毛頭ございませんってな」
 そう聞いて、彼は先日芝居を見に行ったときの出来事を鮮やかに思い出した。そしてまたさきほどのお勝の表情も思い出され、今までどこか遠い存在のように感じていたお勝のことが、ぐっと身近に引き寄せられたように実感させられた。
 と同時に、なにかまるで胃の腑の辺りがぐうっと押さえつけられるような気がした。そしてなぜそんなふうに感じるのか、彼にはすぐには分からなかった。けれども、「分かりました」と頭を垂れたまま棟梁に返事をして、冷たい風に吹かれながら茅町から帰る道すがら、一歩一歩と足を踏み出すごとに、心の底のほうから疑問がふつふつと浮かび上がってきた。
 おれはこれまで色々なことから眼を背けてきたのだろうか。お勝の存在や、また棟梁になるのであれば必ず学んでゆかなければならない様々な事柄から。そして「若棟梁」などと呼ばれることに、ただいい気になっていただけなのではなかろうか。
 それにしても与一郎とお勝との間に、過去にそんないきさつがあったとは思いもよらなかった。芝居見物のとき、なぜお勝があのような態度を取ったのか、また与一郎のお勝に対する態度、また自分に対する態度についてなど、これまでもやもやしていた疑問が、少し解けたような気がした。しかし疑問は解けたものの、与一郎に対する厭悪の感情は増すばかりであった。
 それから、さっき棟梁はおのれが口にした疑問に対して、「おめえには分からねえことがまだまだたくさんある」と言っていたけれども、あれはいったいどういう意味で言っていたのだろうか。その口ぶりではまるで、山正がこの機に儲けているのはしょうがないし、それが当然だとでも言わんばかりのように自分には感じられた。まさか、棟梁がそんなふうに考えているとは思われない。だいいちこんなことが公然とまかり通ってよいはずがないのだ。だとしたら棟梁はいったいどんなつもりで、ああ言ったのであろうか。
 いずれにせよ、このままでは自分と正太との間の約束が果たせないことになってしまう。彼にとっては、このことが一番重要なことであった。こんな約束も果たせないようなら、いったい自分はなんのために大工をやっているのか。


「けえったぜ」
 そう言いながら戸を開けると、正太はまだ起きていて、まるでだるまのような格好で掻巻にくるまって、行灯の明かりを前になにかしていた。
 おかえり、というかわりに、正太は「できたよ」と言ってこっちを向いた。
 近寄っていって、正太の手元を見ればなるほど、作っていた模型には屋根らしきものが乗っていて、棟割り長屋のひと間を再現しただけではあったが、それはきちんと家の形をしていた。
「屋根を付けてみたんだけど……」
 正太の口調はやや自信がなさそうだったけれども、松造の目から見ても、どうして立派なものだった。屋根そのものは薄い木の板を二枚、勾配を付けて貼り合わせただけだったが、そのために正太は棟木に相当する位置に細い角材を用い、その隣り合った二辺に板の端を貼り合わせることで処理していた。すると屋根の両翼の勾配は妻側から見て九十度の急勾配になる。
「ずいぶん急勾配な屋根だな」
 にやりと笑いながら松造が言うと、正太は口をとがらせて、「しょうがねえじゃねえか。だって、屋根が壊れないようにするには、そうしなけりゃならなかったんだから」と、まるで大人のような口調で言った。
 その屋根部分は桁の上に乗っかっているだけで、屋根を外すと梁はなく、妻の中央部分の束だけが立っている。屋根は、その束と桁に支えられて乗っていた。そのため屋根をはずすと、すぐに部屋の内部が丸見えになった。
 それにしても屋根を取り外しできるように、そして壊れにくくするために、棟木を束側ではなく屋根側に、そして勾配を付けるために四十五度傾けて取り付けた工夫には感心させられた。
「たいしたもんだ。よくできたな」
 思わず本心からそう言うと、正太は今度は少し自慢げな表情になって「まあね」と答えた。
 松造は、そんな正太の顔をしばし見つめたあとに、こう尋ねてみた。
「正坊、お前は、もしこの家が元通りになったら、ここへ戻りてえと思うか」
「ああ」
「戻れたとしても、お前のおとっつぁんもおっかさんもいねえかもしれねえんだぞ」
 すると正太は眉根を寄せて考える表情になり、「……うん」と言って黙り込んだ。
 昨日おそよから話を聞いて以来、彼はずっと疑問に感じていたのである。はたして正太はどこまでを忘れ、どこまでを覚えているのかと。父親は失踪し、母親も火事の前にすでに亡くなっていたことを、正太は覚えているのだろうか。それとも楽しかった頃の記憶のままで止まっていて、辛かった過去のことは全て忘れてしまっているのではなかろうか、彼は昨夜からずっとそのことを考えていたのだ。
「……今頃おっかあはどうしているだろうか」
 しばらく黙っていた正太が、ふとそう口にしたのを聞いて、松造は言葉に詰まった。見ると、正太は再び口をとがらせて、下を向いていた。行灯の明かりは正太の顔を正面から照らしており、その光は彼の顔に、少年の表情とは思えないほどに陰影を刻んでいた。ではやはり、正太は両親とどのように別れたのかを、忘れてしまっているのだ。
「正坊、おめえはおっかさんの事はちゃんと覚えているんだな」
「忘れっこねえさ」
「そうか」
「ねえ、おじさんは」
 と言って、ふいに正太はくるりとこちらへと振り向いた。
「おじさんのおっかさんのことを覚えていねえのかい」
「ああ」
「なんにもかい」
「ああ、そうだ」
「……かわいそうに」
 そう言われて、彼はふたたび言葉に詰まった。まさか、こんな年端のいかない少年からそんなことを言われようとは思いもしなかった。しかもその言葉の調子は、生意気な印象など微塵もなく、深い共感にあふれたものだったのである。
「おいらはまだおっかあのことを覚えているからいいけれど、なんにも覚えてねえなんてかわいそうだ……だってよう、そうしたら思い出すこともできねえんだろ」
 松造は強いて笑顔を作って、こう答えた。
「なに、辛いことなんかあるもんか。おれには源蔵親父っていう育ての親がいるからな。そら、おれに鑿をくれた人のことだ。生みの親のことを知らなくたって、おれには源蔵親父だけでたくさんよ」
「ふうん」
 これじゃあどっちが子どもで居候なのかわかりゃあしねえ、そう思って苦笑しながらも、松造はあらためて正太の身の上に思いを馳せ、身につまされる心地がした。もし正太が自分の母親の死についてなんにも覚えていないのだとしたら、それをいつ、誰がどのように伝えたらよいのであろうか。
 その夜、正太はもう母親のことについては何も言わなかった。
 ただ、模型を枕元に置き、布団の中で先に眠りについた正太が、暗闇のなかで「おっかあは……」と、話しかけるような、そして甘えるような口調で小さく寝言をいうのを松造ははっきりと耳にした。松造もうとうとしかけていた時のことだった。彼ははっと目を覚まし、すぐ隣で寝ている正太の寝言の続きを聞き取ろうと、布団の中で知らず知らずに全身を緊張させた。しかし続きは分からないままで、彼はしばらくのあいだ耳を澄ませ続けた。
 部屋の入り口の戸の隙間からは、冷たい風がひゅうひゅうと音を立てて入り込んでくるのが間断なく聞こえていた。目が覚めてしまった彼は、隣で正太がふたたび小さく鼾をかき始めたのを聞きながら、今日の出来事を振り返ってみていた。正太がもといた長屋に戻ることになるのかどうかは分からない。けれども、いずれにしても家を建て直すという約束だけは果たしてやりたかった。それが、たまたまこうしてこの少年と関わり合うことになってしまった自分の責務だと思った。
 もうすぐで今年も終わりだ、岩本町の普請は年内に目処をつけて、正太には、いや、正太だけではない、被災してこの長屋にいる子どもたちにはなんとか良い正月を迎えさせてやりたい、そんなことを考えていたら、松造も知らぬ間に眠りに落ちていたらしい。
 ……夢の中で、彼は燃えさかる炎に囲まれて、どちらを向いているのか分からぬままに走っていた。
「おっかさん」
 と必死に叫んでみたけれど、周囲の音の大きさの中では、彼の声はまるで響くことはなかった。まるで水の中でいっしょうけんめい叫んでいるかのようだった。まわりからは途切れることなくごうごうという風の音が鳴り響いていて、その音に混ざって、木材がぱちぱちと燃えながら爆ぜる音が、また瓦が屋根から落ちて割れる音や、家全体が燃え落ちてどうと崩れる音などがあちこちから聞こえてくる。そして行き会う誰も彼もが必死の形相で、口々にいろんな事を叫んでいた。「そっちへ行っちゃあ駄目だ」「そんなものは捨てて早く逃げろ」そうした声にかき消されないように、彼も声の限りに「おっかさん」と叫んだ。
 わけも分からぬままに走っているとやがて広い通りに出たけれども、そこではいっそう沢山の人々が逃げ惑っていた。赤ん坊を抱いて裸足で走ってゆく女、荷車を引いて走る男、右からも左からも人が走ってくるため、彼はどちらへ向かって逃げればよいのか見当もつかなかった。すると「あぶない」と上から声が聞こえたと同時にどんと大きく突き飛ばされて、振り返ると、彼の立っていた辺りを、主を失った馬が狂ったようにいななきながら走り過ぎてゆくところであった。
 泣きたい気分だったし、きっと実際に泣いていたのだろう。しかし涙が流れるそばから頬の上で乾いてしまうほどに熱かった。四方八方から顔に吹き付ける風はそれほどに熱く、息をするのも困難なほどだった。
 彼は袂で口元をおおい、とにかく多くの人が向かう方へと一緒に走っていった。子どもごころにも、ここから生きて逃れる事ができるとは到底思われなかった。
 ──おいらはきっと、こんなふうに死んじまうんだな。
 そう思い、涙が後から後から溢れてくるのを感じていると、「おじさん、ねえ、おじさん」という声が聞こえて、そこでようやく目が覚めた。
 明け方近い時刻で、そとはもう空が白み始めているらしかった。横を見ると、正太が不安そうな目付きで、松造の隣で布団をかぶったままこちらをのぞき込んでいた。どうやら正太に揺り起こされて、目が覚めたようだった。
 布団の上で起き直ってからもしばらくの間は、たったいま見ていた光景が夢の出来事であることを理性的に理解することができず、また動悸がなかなか治まらなかった。やがて彼は眼を拭いて、「すまねえな、正坊」と、悄然とした表情で言った。ひどく寝汗をかいているのが自分でも分かった。
「……大丈夫かい、おじさん、ひどくうなされてたみたいだけど」
「ああ、大丈夫だ……ちっと悪い夢を見ただけだ」
 松造のそのような様子は見たことがないせいであろう、夢を見てうなされていた当人の松造よりも、隣で眼を覚まさせられた正太のほうが不安そうな顔をしていた。
 いま見ていた光景が、実際に自分が子どもの頃に体験したものなのか、それともたんなる夢の光景であるのかは分からない。しかしただの夢、といって片付けてしまうには、あまりにも鮮烈な光景であった。


 その後しばらくは晴れて寒い日が続き、年の瀬も近い師走の二十三日に、岩本町の普請は終わり、施主に引き渡しをすることができた。引き渡しののちに商品の酒樽が運び込まれ、開店の準備が整うのは年明けになるため、落成の祝いも年が明けてから、ということになった。
 年末までの僅かな日数も、松造は冨沢町やその他の普請場へと、仕事の手伝いに忙しく飛び回り、工一での仕事納めは二十七日となった。しかし彼はここで体を休めることなく、二十八日と二十九日の二日間を使って、長屋で孤児たちを住まわせている部屋の手直しをした。
 長屋のいちばん西側のふた部屋を使って孤児たちは寝起きをしていたのだけれども、部屋が二つに分かれてしまっていると、どうにも面倒が見づらいとおそよがしきりにこぼしていたので、佐兵衛の許しを得て、このふた部屋の間の壁をぶち抜き、十二畳の大部屋に改造することになったのである。この作業を一人でやるのはさすがに大変なので、「あにいの口癖じゃあねえけれど、冗談じゃねえぜ、まったく」と言ってこぼすチョロを手伝わせた。
「うるせえ、どうせお前だって一人者で暇人なんだから、つべこべ言わずに手伝いやがれ」
「年の暮れにただ働きたぁひでえ話だ」
 そんな会話を交わしていたのを見かねて、おそよが「ごめんなさいね、正六さん、お詫びに正月にはご馳走させてもらうから、堪忍してね」と言い、その話に気を良くしたのか、それからは松造と二人でてきぱきと作業を行ない、晦日にはおそよの指示のもとで子どもたちも含め皆で煤払いと大掃除も済ませ、広びろとしたきれいな部屋で孤児たちは大晦日を迎えることができた。
 大晦日の朝には、佐兵衛の計らいで朝早くから餅米を炊き、孤児たちのために餅つきをした。おそよが支度をして餅米が炊きあがると、町内のかしらが臼と杵を持ってきてくれて、松造もたすきをかけて餅をついた。餅つきには長屋の住人の子ら(鋳掛け屋の新吉の子らを含めて全員で八人いた)だけでなく、孤児たちも皆一緒に参加したため、たいへん賑やかなものとなった。
 松造はこのとき初めて孤児たち全員の顔を見た。勘定してみると男子が正太を含め五人で、女子が二人だった。年齢は様々で、後からおそよに聞いてみると、上は十三歳から下は四歳までいるとのことだった。いつぞや雨の日に、泣いているのをおそよが心配していたたあ坊は七歳になる男の子だったが、少し頭が弱いうえに動作がのろいので、よく皆からからかわれているようだった。
 つきあがった餅は、恵方棚へ飾る鏡餅用はおそよが別に取り分けておいて、残りの大部分は孤児たちに食べさせるために、彼ら自身に丸めてこしらえさせて、わずかに残った餅はさらに小さく丸めて柳の枝にいくつも飾り付けて紅白の餅花にした。子どもたちはこの作業をたいそう喜んで、松造は正太が他の孤児たちと一緒に楽しそうにしている姿をこのとき初めて目にした。
 しかしよく観察してみると、もともとここの住人である長屋の子らと、おそよが面倒を見ている孤児たちとの間には、どうしても隔たりがあるようだった。新吉の二人の子はまだいくらかは打ち解けた様子を見せていたけれども、基本的に両者はそれぞれの集団でかたまっていて、言葉が交わされることはまれのようだった。これは松造にも経験のあることなので、見ていてもどかしい思いがした。長屋の住人の子らは孤児たちのことを、あくまでもよそ者として見ているようだし、逆に孤児たちは長屋の子らに対して、遠慮と反抗心がないまぜになった感情を抱いているように見える。しかしこれはどうしようもないことだ。
 おそよが子どもたちとの接し方で、分け隔てをしないことは松造もよく分かっているので、あとは子どもたち自身がなんとかうまく折り合っていってくれればよいのだが、と願うほかなかった。
 年が明けて一月二日の朝のことだった。
 元日は仕事もないので長屋でゆっくり過ごして、二日の朝に茅町へ年始の挨拶に行こうと、松造は盲縞の腹掛けのうえに木綿の綿入れを着、下は股引、白足袋を履いて、羽織をはおった姿で長屋の木戸を出ようとしたところで、同じ長屋の住人である鋳掛け屋の新吉から「若棟梁、ちょっといいかい」と声をかけられた。
「ちょいと話したいことがあるんだ」
「どうしたい」
 顔を見ると新吉は少しばかり硬い表情をしていた。木戸を出てから、新吉は先に立って通りを少し歩き、立ち止まって長屋のほうを振り返り、誰も見ていないことを確認してから改めて松造に向き直った。
「なに、そんなにたいした事じゃあねえんだが……」
 新吉には勘太という名の息子と、おみよという名の娘がいる。勘太は十歳、おみよは六歳だった。話というのは、息子の勘太のほうの事で、新吉が年末に浅草寺の年の市で息子に買い与えた破魔弓が、昨日誰かに盗まれた、というものだった。
 新吉は松造と同じく文政の大火によって孤児となっていたものを、ここ佐兵衛店で引き取られて大きくなったため、松造とは幼なじみの間柄だ。女房もこの長屋の住人の娘であり、所帯を持ってからは口をきく機会も少なくなったものの、今でも松造とは気安い仲ではある。だからこそ分かるのだが、「たいした事ではない」と口では言ったものの、新吉の表情、とくに目元が少し引きつっているのを見て、松造もわれ知らず体を硬くした。
「昨日は元日だから、町内の者たちがみなで集まって、お節や雑煮を馳走になったろう。おそらく昨日初めて、焼け出された子らと、勘太をはじめ長屋の子らが一緒に飯を食ったりしたと思うんだ。おれもお前も元は孤児だから分かるだろう、おれは昨日皆が仲良くしているのを見て、嬉しかったんだぜ。ああ、これでようやく少しはわだかまりが取れたのかな、と思ってな」
 たしかに、昨日は松造も同じように感じたのである。おそよが全てを取り仕切って、いちばん端の十二畳の家に皆を集めて年賀の祝いをし、馳走をしたのだ。大人には酒もふるまい、約束どおりにチョロもやってきて、ほろ酔い気分になると、編み笠を目深にかぶって鳥追いの真似をし、二本の割り竹をこすり合わせながら「なに追う、鳥追う、ほいほいほい」などと陽気に唄ったり踊ったりしてみせたので、子どもたちは大喜びをしたものだった。
 夕方近くになると松造はチョロと二人で出かけてしまったため、勘太が破魔弓を盗まれたというのは、どうやらその間にあった出来事のようであった。
「けど暗くなってから家へ帰ってきた勘太の様子がどうもおかしいから、どうした、何かあったのか、って問いつめたら、十日ばかり前に買ってやった破魔弓を、あいつらの誰かに盗まれたらしいんだって言って、わっと泣き出したんだ。
 もとはといえば、勘太が破魔弓を買ってもらったことを、嬉しそうに皆に話したことがいけねえんだ。おれもそれは分かっているつもりだ。それで皆から見せてくれってせがまれて、きっと自慢げに貸して見せたりしたんじゃあねえかと思うんだ。
 そうして目を離した隙に、誰かがそれをどこかへ隠しちまって、誰に聞いても知らねえって答えしか返ってこねえ。口惜しいけれど、みんなで口裏を合わせているみたいで埒があかねえもんだから、泣き寝入りをして帰ってきたと、こういうわけなんだ」
「それを正太が盗ったっていうのか」
 少しむっとした表情でそう松造が尋ねると、新吉は腕組みをしながら今度は少し途方に暮れたような顔をした。
「いや、確証があるわけじゃあねえ。ただ勘太の野郎が言うには、どうやら正太が怪しいっていうもんだから……」
 松造も腕組みをしながら、昨夜の正太の様子を思い返してみて、何か変わったところはなかったかどうか考えてみた。昨日はあのあとチョロと二人で、珍しくそとの店でしばらく酒を飲んで帰ったけれども、家に帰ってからの正太の様子に、とくに変わったようなところがあったとは思われなかった。
「……よし、話は分かった。おれのほうでも確かめてみるから、少し待ってくれ」
 そう言ってから、「だから、まだ正太のやつを盗人呼ばわりするのは止しにしてくれ」と付け足した。すると新吉は慌てた様子で右手を振ってみせ、「いや、しょうちゃん、ちょっと待ってくれ」と、彼をむかしの呼び名で呼びながら言った。
「なにもおれだってそんなつもりでこんな話をするんじゃあねえ。勘違いをしねえでもらいてえんだが、おれは年の暮れに安い価で買った破魔弓なんぞを惜しくてこんなことを言うんじゃねえんだ。さっきも言ったが、勘太にも悪いところはあったろうと思う。ただ誰かは分からねえが、それを盗むとなると話はべつだ。これを放っておくのはどっちのためにもならねえ。だから……」
 松造は頭を振って、新吉の話を途中でさえぎった。
「いや、分かってるよ。おめえの言うのはもっともな話だ。ただおれにも思うところがあるから、この話の続きはあとにしてくれ」
 そう言って、まだ話し足りなさそうにしている新吉を後に残して、松造は踵を返して長屋へと戻った。二人の様子がおかしいので、木戸脇から様子を見ていた番太郎の老人の視線も目に入らないといったふうで、彼は自分の家へと戻っていった。
 ──新吉のやつめ。
 と、松造は心の中で悪態をついていた。正太がおれとの約束を破るはずがねえじゃねえか。人のものに手をつけるような真似は二度とするんじゃねえって、おれがあれだけ言ったものを、あいつが破るわけがねえ。
 そう考えながら、彼はまっすぐに自分の家へと戻ってきた。正太は朝から仲間のもとへ行っていて居ないため、家の中は今しがた出てきた時のままで、しんとしていた。松造は迷うふうもなく棚から行李を下ろして蓋を開けてみた。するとそこには、風呂敷や模型と一緒に(くだん)の破魔弓が入っていた。
 彼は行李の中の破魔弓をじっと見つめ、途方に暮れたような顔をして、部屋の真ん中でしばらくの間じっとしていた。全身から血の気が引いていくような感覚があり、かわりに頭の中では様々な光景や思いがめまぐるしく駆け巡っていた。これまでに正太が自分に見せた顔つきや口にした言葉、それから逆に自分が正太に言ったことや、正太のために考えたことなど。そして最後に、
 ──こんなに裏切られた思いをするのは初めてだ。
 という思いが心の中で大きく膨れ上がると、破魔弓を片手でつかんで、勢いよく家を飛び出て、長屋の西の端のほうへと大股に歩いていった。
 松造ががらりと大きな音を立てて戸を開け、部屋の中をじろっと見やると、そこにいた孤児たちはぴたりと話をやめ、いっせいに彼の顔を見た。松造は子どもたちの中で、正太にだけ視線を合わせて、「おい、正坊」と言って、入り口の土間に立ったまま、持っていた破魔弓を左手で差し出してみせた。
「いったいこれはなんだ」
 今はおそよもおらず、子どもたちだけだったこともあり、みな怯えた表情で松造の顔を見つめた。しばらく沈黙が続いたのちに、「それは……」と正太が言い、たあ坊と呼ばれている少年がすがるような目で正太を見、それから松造を見た。
「こっちへ来い」
 そう松造から言われると、正太は重い足取りでこちらへとやってきた。
「お前はおれと約束したな。それをどうして破った、言ってみろ」
 黙ったままでいる正太に向かって、松造は気持ちを静めるように、二度三度と深呼吸をしてから言った。
「ひとの物に黙って手をつけるような真似は二度とするんじゃねえって、おれは言ったはずだぜ。そうしたらお前は、分かったよって答えたよな。そうだったな、違うか」
 正太はこくりと頷いてみせた。
「それを、どうして破った。こんなものがそんなに欲しかったのか」
 そう言いながらも、彼は長屋の子どもたちに、どうして凧の一つも買ってやらなかったのか、どうして羽子板の一つも買ってやらなかったのか、そう思って胸が痛んだ。しかし正太はうつむいたままで、ひと言も喋ろうとはしなかった。
「理由は言えねえのか」
 押し黙ったままでいる正太の様子に痺れを切らして、「だったらもういい」と松造が言ったところで、正太はぽつりと呟くように言った。
「……そんなものは欲しかぁねえよ」
 そう言いながら、正太は彼の前で立ったまま、細い首が折れるほどに下を向いていた。彼には正太の顔は見えなかったけれども、どんな表情をしているのかは目に見えるようによく分かった。
「ならなぜ盗った。これはお前が盗ったんだろう、それとも違うとでもいうのか」
「おじさん、正ちゃんが悪いんじゃないよ」
 とふいに、いつの間にか正太の後ろに来ていたたあ坊が、涙をいっぱいに溜めた目をこちらに向けて言った。
 あらためて見回すと、ひっそりとした部屋の中で、孤児たちはまるで全員で一つの生き物であるかのように、身を寄せ合い、気持ちを合わせているらしく見えた。その様子に松造は少したじろいで、今度はやや語気を弱めて、「理由はともあれ、勘太からこれを盗ったことは認めるんだな」と正太に尋ねた。すると正太は再びこくりと頷いた。
「だったらこれを持っていって、勘太に謝ってこい」
「いやだ」
 と、ふいに正太は顔を上げて、ぎらりと睨むような眼でこちらを見返して言った。
「なにを」と言いながら、ほとんど反射的に松造の右手が動いていた。ぱん、と頬を打つ音が部屋中に響きわたり、まるでその音が合図であったかのように、たあ坊をはじめ幾人かの子どもたちがいっせいに泣き出した。
「いやだとはなんだ」
 と大きな声で言うのを、松造は己の耳で聞いていた。まるで自分ではなくて、他人が喚いている声を聞いているような感覚があった。
「おれは盗みを働くような奴を自分のところに置くつもりはねえ。どうしても勘太に謝ることができねえっていうんだったら、とっととここから出て失せろ」
 すると正太は泣きもせずに、もう一度ちらりと松造を睨んでから、勢いよく部屋を飛び出していった。残された子どもたちのうち、半分は泣き、半分は視線を畳の上に落としたままだった。松造はすぐに激しい後悔に襲われたものの、その場の始末をどうすればよいのかも分からず、しばらくは家の入り口に立ち尽くすのみであった。
 すると間もなく松造の家のほうで、大きな音を立てて戸を開けるような音がして、子どもたちの幾人かはびくりとして首をすくめた。やがて松造は乾いた声で、皆に向かって「いいか、よく聞け」と言った。
「たとえどんな理由があっても、ひとの物を盗むような真似をしちゃあいけねえ。それは自分で自分を(おとし)める行為だ。おれも孤児だったから、お前たちの気持ちはよく分かる。けど、だからといって、自分を軽蔑するようなことだけはするんじゃねえ。それだけは、皆もよく覚えておいてくれ」
 松造はそれだけ言うと、孤児たちの家を出た。そして自分の家のほうを見やると、入り口の戸が開きっ放しになっているのが見えた。念のために歩いていって家の中を覗いてみたけれども、やはり正太の姿はそこにはなかった。
 彼はしばらくの間、必死で自分に何かを納得させるかのように、家の入り口で目を閉じて立ったままでいた。いまや彼の顔には激しい後悔の表情が浮かんでいた。眉の間には縦に深い皺が入り、唇も醜く歪められていた。しかしそのうちに、左手で何かを握りしめていることに気付くと、すぐに回れ右をして、その足で新吉のもとへゆき、破魔弓を入り口の畳の上にそっと置いて、切り口上にこう言った。
「おめえの言うとおり、どうやら正太がこれを盗ったらしい。済まなかった、勘弁してくれ」
 そうして頭を下げると、すぐに新吉のもとを辞した。突然のことでもあり、また松造の顔つきにも気圧された様子で、新吉夫妻は口をぽかんと開いて見送るのみであった。


 ──ちくしょう、なんであいつはあんな顔をしやがったんだ。
 工一からの帰り道も、松造の脳裏には、自分を睨んだときの正太の目付きがちらついて離れなかった。一之助からは、仕事は四日から始まること、また松造には新しい普請に取りかかってもらうつもりであるからそのつもりでいてくれ、などと言われたものの、話を聞いている最中もほとんど上の空だった。
 たとえどんな理由があろうとも、正太が自分との約束を破ったことは許せなかった。だから自分が正太に対して怒ったことは、決して間違えてはいないはずだ。そこにはなんのわだかまりも生ずるはずはないのだけれど、心の中でおのれを正当化しようとすると、かならずこちらを睨んだときの正太の顔が思い浮かぶのであった。あの目付きは、自分のよく知っているものだ。あれは、少年時代のおれの目付きそのものではなかっただろうか。
「しょうちゃん、聞いたわよ。あんたはどうして……どうしてろくに理由も訊かずに正坊をぶったりしたのよ」
 松造が茅町から自分の家に戻ってきたとき、おそよは松造の肩を両手で揺すぶってそう言った。家の中にはおそよの他に新吉がいて、彼は部屋の入り口に腰掛けて神妙な顔をしていた。松造が黙っていると、おそよは再び「ねえ、どうしてよ」と言った。
 彼はおそよと新吉の顔を交互に見て、無表情に「理由は訊いたよ」と言った。
「訊いたが、あいつは何も言わなかったんだぜ」
「言わなかったんじゃない、言えなかったのよ」
 おそよの言葉に松造は怪訝な表情になり、「そいつはどういうこった」と反問した。
「すまねえ……今度のことはおれの責任だ」
 と、ふいにそう言われて、松造は新吉の顔を見た。しかし、「いや、新吉は黙っててくれ」と言ってから、彼は再びおそよに向き直った。
「まだがきだからといったって、ちゃんと口があるんだから、何か理由があったというのなら、それは自分で言うのが筋ってもんじゃあねえか。おれ自身もこれまでそうしてきたし、あいつにだって」
「あんたにできることが、みんなにもできるってもんでもないでしょう」
 そうおそよからぴしゃりと言い返されて、松造も口をつぐんだ。
「しんちゃん、勘太から聞いたことをしょうちゃんにも言ってあげて」とおそよから促された新吉が、再び口を開いた。
「始めに言っておかなけりゃあならねえのは、正坊は破魔弓を盗んだんじゃねえ、隠したらしいってことだ。
 おめえが破魔弓を返しに来たあとに、もう一度勘太を問いつめて分かったんだが、やっぱりあいつは、おれから破魔弓を買ってもらったことを自慢げに皆に話したようなんだ。悪気はなかったかもしれねえが、子どもらからすれば、自分たちには何かを買ってくれる親も今はいねえんだ。言われたほうは辛いに決まっていらあ。
 なかでもたあ坊は羨ましがったらしくって、幾度も貸してくれってせがんだのに、勘太の野郎がおめえに貸すと壊すからいやだとか何とかぬかして貸し渋ったらしいんだ。そしたら正坊が……なあ、おそよちゃん」
 と目顔で促されて、おそよが続きを話した。
「正坊はけっして、勘太の持ってた破魔弓が欲しかったわけじゃないと思うわ」
 そうおそよから言われて、松造の頭の中では、──そんなものは欲しかぁねえよ、と言う正太の声が聞こえた。
「たあ坊はどうしてもそれが欲しかったみたいで、わんわん泣いて悔しがったらしいの。そうしたら正坊は、男の子がそんなことで泣くんじゃないって、決めつけたらしいわ。そうして勘太には、たあ坊には触らせないからっていう約束をして、少しの時間だけ破魔弓を借りていったらしいのよ。そのあと、正太はたあ坊になんて言ったと思う」
 無言でいる松造の顔を見てから、おそよは言った。
「ひとの物を欲しがっちゃあいけねえって諭したらしいわ。それから、こんな物があるからいけねえんだって言って、破魔弓をどこかへ隠したらしいのよ。そうしてあとで勘太から返してくれって言われたときには、もう返したからおれは知らないよってつっぱねたみたいなのよ。
 いま話したことはみんな、さっき子どもたちから聞いたことなんだけど、これで分かったでしょ、正坊はけっして、自分が欲しくって盗んだりしたわけじゃあないのよ」
 おそよからそう聞かされて、そうか、と松造は心の中でようやく納得をした。そんな経緯(いきさつ)があったから、おれが勘太に謝りに行けって言ったときに、あいつはおれをあんな目で睨みつけやがったのか。そして、
 ──もしおれが同じ立場だったら、おれもおんなじようにするだろう。きっと、死んだって謝らねえだろうな。
 そう思ったけれども、口では何も言わずに黙っていた。いまやこころの中は、後悔の念でいっぱいになっていた。しかし別のどこかで意固地になっている自分がいて、素直にそれを認めることができずにいた。そうして口には出さずに、「ちくしょう」と何度も舌打ちをしていた。
 おそよはしばらくの間、松造の顔をじっと見つめていたが、やがて今度は哀願するような口調で、「ねえ、正坊は戻ってくるわよね」と言った。そうして彼女は松造と新吉二人の顔を交互に見た。
 新吉は再び「すまねえ、おれが若棟梁に余計なことを言ったばっかりに……」とうなだれた様子で言い、松造は無理に笑顔を作って、「なに、戻ってくるさ」と言った。
 しかし松造の心の中では、正太は戻ってこないだろうという声がしていた。
 そして実際に、いくら待っても正太は長屋に戻っては来なかった。
 外がまっ暗になって、表では冷たい風が吹きすさび、戸板ががたがたと鳴っているなかで、松造は腕組みをしながら落ち着きもなく、ただ家の中で立ったり座ったりを繰り返していた。
 そして四ツも近い頃だろうか、彼の家の戸ががたりといったので、松造がはっとしてそちらを振り返ると、おそよが戸を開けてのぞき込んだところだった。
「……戻っていないわね」
 彼女は部屋の中を一瞥して、いかにも気落ちした様子でそう言った。
「ああ、子どもたちの家のほうにも戻ってねえのかい」
「ええ、戻ってはいないわ」
 うつむいていたおそよがふと目を上げたとき、無意識のうちにであろうか、彼女の眼にははっきりと松造に対しての非難の色が宿っていた。そして、
「こんなに寒い中を外にいたりしたら、あの子凍えて死んでしまうわ」
 そう言ったときの彼女の声は、震えていた。
 それに対して松造は、「あしたの朝一番にお救い小屋をまわってきてみるよ」と、怒ったような口調で言った。
 そしておそよが出て行ったあと、「ちくしょう、正太のやつめ」と口に出してつぶやき、虚空を見つめた松造の目は、ある一点に止まった。さっき自分が怒って家を出たとき、行李のふたは開きっ放しだったはずだ。なのにいま見ると、ふたは閉められた状態で、部屋の隅に無造作に置いてある。彼は立っていって、正太が模型をしまい込んでいた行李のふたをそっと開けてみた。
 が、そこにはあるはずの模型も切り出しも、そしてぼろの着物をくるんであった風呂敷すらもなく、中は空っぽになっていた。
 それは不思議なことに、正太自身が居なくなったことよりも、より雄弁にその不在を物語っていた。松造が心の中でどれだけおのれを罵ってみたところで、済んでしまったことはもう取り返しはつかなかった。
 彼はその晩、無駄だと知りながらも、正太の布団を隣に敷いて寝た。ひょっとして夜中にこっそりと戻ってきてもいいように、と思ったからであるが、そんなことはないだろうということは、彼自身がよく分かっていた。
 その晩はほとんど眠れずに過ごした松造は、正太を探しに行くため、翌朝早くに起き出して身支度をした。朝は冷え込んでいてとても寒く、地面が凍っているのではないかと思うほどだった。彼は昨夜のおそよの言葉を思い出して、われしらず身震いをした。
 そしてがたりと音を立てて入り口の戸を開けると、子どもらの家の戸もすぐに開き、中からたあ坊が出てきて、向こうからじっとこちらを見つめるのが見えた。松造が「どうした」と言っても、たあ坊はこちらをただ見つめるばかりで、ひと言もしゃべろうとはしなかった。
「おい、たあ坊、これから探しに行ってくるからな」
 と、松造が怒ったような口調で声をかけると、たあ坊はしばし彼を見たあと、家の中へと引っ込んだ。
 火事のあと、市中には幕府が建てたお救い小屋が、火元となった佐久間町を始め、浅草御門をくぐってすぐの郡代屋敷の脇などに三ヶ所あり、それ以外にも大きな寺社が建てたものや、私設の小さなものも数カ所あった。松造はそれらを順繰りに回っていってみたけれども、どこにも正太の姿を見出すことはできなかった。
 やがて夕方近くになって、ふと思い立って彼は、松枝町の八百八店のあったあたりへとくたびれた足を向けてみた。そこでも正太の姿を見出すことはできなかったけれども、ようやく普請が始まるのか、材木が馬に乗せられているのが目に入った。すると、ここの普請は工一が断ったあとに、どこかの大工が請け負ったということになるのだろう。
 そう思うと、ここの普請に自分が関わることができなかったということについて、あらためて松造は慚愧の念を味わった。おれは正太に対して、約束を破ったという理由で怒り、横っ面を張った。けれどもそういう自分自身はどうだというのか。もし正坊のいたところが分かったなら、自分が建て直してやるようなことを言っておきながら、結局のところ約束を反古にしているではないか。口惜しさで唇を噛みしめながら佐兵衛店へと戻ると、米屋の店の中からおそよが下駄をつっかけてさっと出てきて、「正坊は」と目顔で問いかけてきた。
 松造は「駄目だ、あちこち回ってみたが、どこにも居ねえ」と答え、おそよはがっかりした表情でうつむいた。
「……やっぱり正坊が自分から戻ってくるのを待つしかないのかしら」
「ああ……そうだな」
 そう答えて、彼はおそよの視線を避けるようにしながら、疲れた様子で長屋の木戸をくぐって、自分の家へと足を向けた。するとどういうわけか、自分で作っていた模型を小脇に抱え、ぱっと家を飛び出してゆく正太の昨日の姿が見えたような気がした。
 ──そうか、正太があれを持ったまま長屋を出て行くわけがねえ。
 そう思って、彼はまっすぐに、長屋の建物の端に作り付けてあるゴミ捨て場へと歩いていった。それは縦横が三尺四方で、高さが四尺ほどの大きさに、角材と板きれだけでむかし彼自身がざっと作ったもので、長屋の住人が共同で使っている屑入れであったが、その中をのぞいてみると、そこには正太が作っていた模型が、屋根が外れてゴミになかば埋もれるようにして捨てられているのが見えた。
 想像したとおりではあったものの、それは、直視するのにはあまりにも辛い光景であった。
「……ああ」
 と、ため息をもらしながら松造は、それを両の手ですくい上げるようにして取り上げた。しかしもともと弱い造りである上に、皆が知らずにその上からゴミを捨てたものだから、柱が何本も折れて、土台の板きれから半分ほどがゴミの中へと崩れ落ちてしまった。
 彼は再び「……ああ」とため息をついた。
 そして、二枚の板へと剥がれてしまった屋根や、壁の代わりに貼り付けてあった紙くずなどの破片を丁寧に一つ一つ拾い上げていった。これで全てであろうというところまで破片を拾い上げたあとに改めて見るその姿は、両手の中で弱い西日を受けて、見るも無惨なほどに壊れ果てていた。
「ちくしょう」
 と思わず口に出した瞬間に鼻がつんとして、涙が出そうになるのが分かった。
 彼はその後しばらくの間、上を向いて暮れかけた冬空を見つめながらじっとしていた。
 やがて長屋の住人の女房が「寒いねえ」と言いながら通りかかり、「若棟梁、どうかしたのかい」と問いかけると、
「いや、なんでもねえ」
 と松造は答えて、模型の破片を両手で持って家へと帰っていった。
 翌日、松造は一之助に、松枝町の八百八店の普請をどこの棟梁が請け負ったのか知っているかどうか尋ねてみた。年が明けて工一での仕事始めの日であった。
 一之助は怪訝な顔を見せながらも、「ああ、あすこは常盤町の」と松造の知らない棟梁の名を挙げて、「そろそろ仕事に取りかかっている頃だと思うが、それがどうかしたか」と、片方の眉をぐいと上げて彼の目を見つめた。
 松造は棟梁の目を見返しながら、「じゃあ裏の長屋も、その常盤町の棟梁のところで請け負うんですね」と言った。
「おめえは松枝町の普請にまだ未練があるのか」
 清二やチョロをはじめとして、十畳の部屋に居た他の職人たちは、一之助の声音を聞くとみな振り返り、部屋の中はしんと静まり返った。
 一之助は目を細めながら、「住む家や仕事場が無くなって困っているのは、何も八百八店の住人ばかりじゃあねえ。おめえにはやってもらいたい仕事があるんだ、余計なことに気を取られていられちゃあ困るぜ」と、うむを言わさぬ口調で松造に言い、松造のほうは額を白くして棟梁の言葉を聞いた。
 やがて他の職人たちがみな、神棚に手を合わせてからそれぞれの仕事場へと出かけてゆくなか、一之助は松造に次の普請についての説明を始めた。次に彼に任せられようとしているのは、日本橋の少し手前の十軒店(じっけんだな)にあった人形を売る見世の再普請の仕事であった。ここは火事で焼ける前は、人形を商う多くの店で賑わっていた場所であり、それぞれの店の普請を請け負っているのは、なにも工一だけではなく、江戸市中の沢山の棟梁がここの再建を請け負っているのである。だから、棟梁の名代としてここの普請をやるからには、それなりの覚悟を持ってやってもらいたい、と一之助は言った。
「なにしろ、どこの店も雛市に間に合わせて、見世の再建をしなけりゃあならねえんだ。それくらいのことはお前にも分かるだろう。だからまずは山正へ行って、必要な材木の手配をしてこい。何がどれだけ必要かは、おれがいちいち言わなくとも、これを見れば分かるはずだ」
 そう言って、一之助は床に置いた見取り図の上を人差し指でとんとんと叩いて見せた。
 松造には、一見すると無表情に見える表情でそう語る一之助の気持ちがよく分かった。棟梁は岩本町の普請の落成祝いも、自分の代わりにおまえが行け、と言った。これらの言葉は全て、「棟梁になる」ために自分に足りないものが何なのか、一之助にはよく分かっているために、発せられているものなのである。そのことはよく分かる。しかしそれだけでは割り切れないものが、自分の中にはあるのだ。でもそれをどう伝えればよいのか、またどうすれば問題を解決できるのかが、松造には分からなかった。
 正太との約束という筋を通そうとすると、一之助という棟梁のもとで働いている上での義理が立たない。そしてこの義理を通そうとすると、正太との約束が反古になってしまうのである。彼にはどうしたらよいのか見当もつかず、一之助の話を聞きながら、脂汗が出るのを感じた。
 彼が棟梁のもとを辞するとき、一之助はふと思い出した様子で、「そういえば……」と言った。
「八百八の裏店の普請は、堀川町が下請けでやるらしいな」
「堀川町が」
「ああ、この儲からねえ仕事を、どう工面してやるのか知らねえが」
 そう言われて、彼の脳裏には棟梁の安吉の顔が、そして源蔵親父の言葉が鮮やかに蘇った。
 ──儲けが出るか出ねえか、そんなこたあおれは知らねえ。
 と、源蔵は言っていた。一之助はそんな松造の心を読んだかのように、続けてこう言った。
「儲けが出ねえのは、八百八店も十軒店も同じことだ。けど同じ儲からねえ仕事でも、請け負うに足る仕事と、そうでねえ仕事ってものがある。おめえもそこのところをよく考えてみるがいいぜ」
 そんな言葉に送り出されて、松造は茅町を出て山正へと向かった。


「……おれも親父と一緒に安吉棟梁のところで働きてえな」
 と、松造はぽつりと言った。
 彼と源蔵が並んで床几に腰掛けている井筒屋の店内は、時刻が遅くなるにつれて、だんだんと客が多くなってきていた。けれども松造はそんな様子はまったく目に入らないといったふうで、酔いが回ってくるにつれて饒舌になってきたようだった。
 飲みはじめのうちは、「いけねえ、こいつはとんだへまをやらかしそうだぞ」と自制心を持っていたのだけれど、相手が源蔵であるためか、猪口の数を重ねるにつれて、普段なら決して口にしないようなぐちを松造は並べるようになっていったのである。
「親父が相手だから言えるけれども、おれも孤児だった身の上だ。だから、正太の気持ちはよく分かるんだ。そりゃもう、痛いくらいに分かるんだぜ。その正坊と、男同士の約束をしたのに、儲からねえ仕事だからなんて理由でそれが果たせねえなんて、こんなつまらねえ話があるかよ。そうは思わねえかい、親父」
 松造は今朝茅町を出てから木場へと向かい、一之助に言われたとおりに、山正に十軒店の普請で使う材木を見に行ったのである。
 前回と違い、山正で初めに松造の応対をしたのは与一郎だった。十一月に見に来たときよりも、さらに材木の種類と量は少なくなっており、ほとんど選ぶ余裕などないと言ってよかった。しかも、与一郎が示した材木の単価は、目が飛び出るほどの高値で、火事のすぐ後の仕入れ値と比較しても、さらに二割から三割がた高くなっていたのである。
「若棟梁ならお分かりいただけると存じますが、いまは伐旬(きりしゅん)を過ぎて、山では雪になってしまっています。ですからこれからの入荷も見込めず、本来なら師走までに入った木しか使えないわけです。しかも、貯木場に浮かべてあった丸太を水から揚げて、それがすぐに板や角材に挽けるわけではありません。わたしどもも、そんな売るものがない中で、なんとか工面をして材木を卸しているのが現状でございます」
 与一郎は殊勝らしい表情で、ときおりうつむきながらそう言った。そして彼の言葉には、説得力があった。言葉だけ聞いていれば、たしかにそのとおり、と頷ける内容の話だった。けれども、この機に材木屋も苦しい思いをしている、とは松造には到底思われなかった。それは、与一郎が贅沢な着物姿に羅紗の襟巻きをして、ぬくぬくとした格好をしている姿を見れば明らかなことだと思った。
「それにしても、木材の種類も質も選べねえのに、四五年前の倍以上の値段とは、いくらなんだって……」
 思わず松造がそう口にしても、与一郎はまったく動じる気配もない様子で、
「なんならよその材木屋を回ってごらんになって下さい。ここよりも安く卸すところはないことが分かっていただけると存じます」と、表情を変えずに言った。
 十軒店の普請は、雛市に間に合わせて、ひとまずは二月末までに仮普請で仕上げるという話だった。そのあと再び手を入れ直して、五月の端午の節句までに本普請を終えるようにと、棟梁から言いつかっていた。しかしいくら取りあえずは仮普請だからといっても、間柱の数を抜いて見世を造るわけにもいかない。つまりはかかる材木の数を減らすわけにはいかないのであって、けっきょくは山正の言い値で材木を仕入れるほかないのである。
 松造は懐手をしながら考え込んでいたが、やがてこう言った。
「……なるほど若旦那の言うことはもっともなようだ。今回の普請で使う材木の値段はそれでよしとしましょう。木材の種類についても、いまあるものの中から選ぶということで結構です。けれどもこんな値段の材木を使っていては、大店の再普請ならともかく、貧乏長屋はとても建ちますまい。そこで若旦那に一つ訊きてえんだが、市中の焼けた裏長屋は、いったいどうやって建て直したらいいとお考えですかい」
 松造はひたと与一郎の眼を見据えた。
 しかし与一郎は彼の眼を静かに見返したあと、いったいこの男には、どうやって世の中の仕組みを分からせたものか、といった表情で、「材木の相場を決めるのは、わたしどもではございません。たしかに今は高値ですが、じきに相場は落ち着いてきますよ」とだけ言った。
 ──じゃあそれまでは、貧乏人は住むところがなくても我慢をしていろということか、と言いたいのを松造は必死にこらえた。そうして唇を歪めて、
「……わかりました」
 と短く答えた。すると与一郎は、ほんのかすかに微笑んで、「では」と言った。おそらくは無意識のうちに出た、習慣的な微笑に違いない。この話に納得したのであれば、具体的な商談に入りましょうか、といったところなのだろう。
 その様子を見て、松造は直感的に理解をした。この与一郎という男からすれば、家を失った人々が今なお大勢いることなどは眼中にないのだ。彼にとってみれば、おれと正太との間の約束のような話などは、なんの興もない話なのであろう。この男と自分とでは、同じものを見ていても、まったく違うように見えているのだ。つまりは同じところに居ても、住んでいる世界がまるっきり違うのだということを、彼はいまやはっきりと思い知った。
 山正には他の客も幾たりか来ていたため、その後の商談は先日彼の応対をした番頭へと変わり、与一郎は微かに衣擦れの音をさせながら別の客のもとへと去っていった。
 彼の中では、材木を選びながら、静かな怒りがだんだんと勢いを増していった。家を失った家主も、またそこに住んでいた住人たちも、そして家を再建するために働く職人たちも、皆が苦しい思いをしているなかで、これを商売の好機ととらえて、平然と儲けている輩がいるらしいことに対して、彼はどうにも我慢がならなかった。儲けているのが材木の元売りなのか、山正のような材木問屋なのか、あるいはそのどちらもなのか、それは分からない。しかし日々焼け跡の光景を見ながらも、あるいは話に聞きながらも、それに心を動かされずにいられるような奴らは人でなしだと思った。
「ちくしょう、思い返してみても腹が立ってしょうがねえ」
 そう松造が低い声で言うと、頭の上から「あら、何がですか」という声が聞こえたので、目を上げると、店のまだ年若い女が注文を取りにきたところだった。
 松造は焦点を合わせようとするように、女の顔を目を凝らしてよく見た。そこでようやく、いまどこに居るのかを思い出したようだった。あらためて周囲を見回すと、狭い店の中は人で一杯になっており、酒や食い物の匂いと人いきれで店内はむっとしていた。
「怒りながら飲んだってつまらないわよ、お客さん」
 と、女は眼もとに笑みを浮かべながら言った。
「それから、飲んでばっかりじゃなくって、少しは食べたほうがいいわよ。もっともうちのつまみはまずくって食えないっていうんなら別だけど」
 そう言って彼女はくっくっと喉声で笑った。
 松造は顔をしかめて、「なんだ、お前は」と言った。「お前はこの間おれが親父と一緒に来たときはいなかったな」
「おい、おそよちゃん、小半(こなから)で二本持ってきてくれ。燗にしてな。それからつまみも何か適当に見つくろって持ってきてくれ」
 源蔵がそう注文をしたのを聞き、松造は二人の顔を交互に見てから、「なんだ、お前の名もおそよっていうのか」と、口を尖らせて言った。
 女の年は二十歳を一つか二つ越したくらいだろう、顔は佐兵衛店のおそよとはちっとも似ておらず、ここのおそよはどちらかというと下ぶくれ型で、愛嬌のある顔立ちをしていた。
「そうよ、お生憎さま。もしかして、おそよって名は、あんたのいい人の名前といっしょなんでしょ」
「へっ、冗談じゃねえ」
 おそよと呼ばれた女は、前掛けで手を拭きながら、人懐っこい笑顔を見せて、「ねぇ源さん、この人、源さんの息子なんでしょ。ちっとも似てないじゃない。ずいぶんと怒りんぼなのね」と馴れた口調で言った。
 松造は「うるせえ、あっちへ行ってろ」と言って、女を追い払ったあと、「あんたのいい人とおんなじ名前かって、へっ、冗談にもほどがあらぁ」と軽く頭を振りながら独りごとを言った。それからふとうつむいて、手に持った猪口を見つめながら「おそよ、おそよか……」と、口の中だけで呟いた。正太が長屋を飛び出してからというもの、おそよの非難の眼差しがしきりに思い出されるのである。それからたあ坊のもの問いたげな表情もだった。
「くそっ、面白くもねえ」
 そう言って、彼は猪口に残っていた酒を飲み干した。それからふと表情を変え、
「そうだ、親父、棟梁から聞いたんだけれど、親父のところじゃあ、八百八店の裏長屋の普請を請け負うんだろう。そこで一つ聞きてえんだが、この材木が高いなかで、堀川町の棟梁はどうやって材木を工面するんだい。おれは今日山正に行ってきたけれども、この高値じゃあとても長屋なんぞは建てられねえと思うんだが、いったいどうするつもりなんだい」
 そう問われて、源蔵は赤くなった眼をついと上げて、口の端だけでにやりと笑った。
「おめえもまだまだだなあ。材木ってのは、なにも材木屋からしか仕入れられねえってわけじゃあねえんだぞ。それともう一つ、家を建てるのに、杉や檜でなけりゃあ建てられねえってわけでもあるめえ」
「……そりゃあどういう意味だい」
 源蔵が語った言葉に、松造の酔った頭は衝撃を受けた。安吉棟梁は、使う木材がなければ、近郷の農村の庄屋などから、雑木林の間伐材の(くぬぎ)小楢(こなら)を直接仕入れて、それで家を建てると言うのである。いったいそんなことが本当にできるのであろうか。かりによく枯れた木材が使えたとしても、これらの樹種では鋸で挽くのも(ほぞ)を組むのも大変だし、だいたい家を建ててから材が割れたり暴れたりすることが容易に想像ができるのだ。
「本当かい、親父。まきざっぽうのようなもので家を建てるなんて……」
 ──おれには信じられないよ、という続きの言葉は飲み込んだけれども、本当に信じられない気持ちだった。そこへ「お待ち遠さま」と言って、先ほどの女が酒とつまみを持ってきた。
「源さんの好きなぬるめの燗にしてあるわよ」
「ありがとうよ」
 そう言って源蔵は、さっそく自分の猪口に酒を注いで旨そうに飲み始めた。
 松造はそんな源蔵の顔を感嘆の眼差しで見つめてから、「そうか、おれはまだまだ経験不足なんだな……」と言ってうつむいた。
 以前に一之助から聞いた話では、安吉は渡り大工として諸国を巡り歩いたと言っていたが、そうした経験もあるからこそ、こんな材料不足の最中(さなか)でも応用を利かせることができるのであろう。そう考えてから、彼はほとんど無意識のうちに、
「……おれも親父と一緒に安吉棟梁のところで働きてえな」と呟いたのである。
 そうして彼は自分自身が口にした言葉にはっとさせられた。そんなことは考えてみたこともなかったのに、と思った。
 でも本当にそうだろうか。おれは以前に初めて安吉棟梁と顔を合わせたときすでに、彼の顔つきや表情に、言いようのない魅力を感じていたのではなかっただろうか。
 けれどもこれはどだい無理な話だ。
 だって、任されたばかりの十軒店の普請はどうするのか。ほんの一時的にもせよ、この忙しい時によその棟梁のもとで働きたいなどと言うことは、一之助の顔に泥を塗り、またこれまでの一之助からの全ての恩を仇で返すことに他ならないことである。かなり酔いの回ってきた彼の頭でも、それくらいの分別はついた。しかしいま思いついたことは、とても魅力的な考えであった。なぜなら、もしもそうすることができるのであれば、正太との約束を果たすことも同時にできるのだから。
 松造は眼をつむって、ゆっくりと頭を振った。いま考えたようなことは頭から追い出してしまわなければならない、と思った。しかし、違うことを考えようとすればするほど、自分自身が口にした──おれも親父と一緒に安吉棟梁のところで働きたい──という言葉に、おのれが絡めとられてゆくように感じられた。彼は困惑した表情で、源蔵の顔をちらりと見た。源蔵はすっかり赤い顔をして、独り黙って酒を飲むことを楽しんでいる様子であった。
 この世の中には、おれの知らないことがまだまだ沢山ある。
 いま彼の目の前には、まるで茫漠とした広大な枯れ野が広がっているように感じられた。「棟梁になる」ということはどういうことなのか、今になって彼にはまったく分からなくなってしまった。彼は頭の上に重しでも乗せられているように感じ、そこから逃れようとするように、新しく運ばれてきていた徳利に手を伸ばして、手酌で呷るようにして飲み始めた。
 するとそこへ、
「おう、寒いなぁ」
 などと言いながら、四五人の職人ふうな男たちが縄のれんをくぐって店内に入ってきた。
 松造は赤く充血した眼でちらりとそちらを見やった。どうやら常連客らしい、入ってくるなり、さきほどのおそよという女と軽口を交わしているのが聞こえた。
「今年の冬はばかに寒いじゃねえか」
「毎年そう言ってるわよ」
「木場の丸太が水の中で凍り付くかと思うくれえだぜ」
「それならころころ回らなくっていいじゃないのさ」
「ばか言ってんじゃねえ。そしたらどうやって動かすんだい」
 職人ふうの男たちは、空いている床几にそれぞれ腰を下ろして、大きな声でおそよに注文を始め、井筒屋の店内はいよいよ喧噪に包まれてきた。
 松造はそうした様子を関心も無さそうにぼんやりと眺めていたが、やがて彼の顔は苦痛な表情へと歪んだ。彼らの会話から、この寒い中を正太はどうしているだろう、という考えが連想されたからだった。
 考えてみれば奇妙な話だった。四ヶ月前は赤の他人だったのだ。でも今はふとした時に正太のことがすぐに思い出され、自らが彼を追い出したことへの自責の念に駆られて、居ても立ってもいられない気分になるのである。松造は隣に座っている源蔵をちらちらと見た。源蔵はさっきから、現場でともに仕事をしているまだ若い大工たちが「なっちゃいねえ」などという、たわいもない話を始めていた。
 おれが佐兵衛店に来て、この源蔵親父に預けられたとき、親父はおれを家から叩き出すようなことをしただろうか。
 答えは、否だ。だいたい親父はおれに何かを「しろ」とも「するな」とも言ったためしがなかった。それなのにこのおれ自身はなんだ。おれは正太のことを、つまらない理由で怒鳴りつけて、この寒空の下へと放り出したのだ。おれはろくでなしだ、という思いは、今や喉元から溢れんばかりになり、眼もとは行き場のない憤りによってどす黒い色を帯びてきた。彼は空になった徳利を片手で振って、「おい」と大きな声で人を呼んだ。
「酒を持ってきてくれ」
 源蔵は話を止めて松造の顔をまじまじと見た。松造のそんな様子を見るのは初めてだということに、ここへ来てようやく気付いたようだった。
「おい、止めておけ」
 そう言われても、松造は聞く耳も持たないといったふうで、「だいたい世の中おかしなことだらけだぜ。そうは思わねえかい、なあ、親父」といきなり言った。
「貧乏人が住むところもなくって震えているのによう、その最中にだぜ、ものの値段を吊り上げて儲けている奴らがいやがるんだ。ちぇっ、冗談じゃねえ。どんなに外面をよくしてごまかそうとしたって、おれは騙されやしねえんだ」
 そこへ先ほどのおそよがやって来て、松造の様子を見て眉をひそめた。そして、
「源さん、もう帰ったほうがいいんじゃない」
 そう源蔵にそっと耳打ちをした。しかし松造はそんなことにもまったく気付かない様子で、あらぬ方を睨みつけながら、
「なにが与一郎だ、役者みてえなちゃらちゃらした格好をしやがって。うぬらが他人の不幸の引き換えに、しこたま儲けていやあがるのは、こっちはちゃんとお見通しなんだぞ」と高声で言った。
 その瞬間、周囲での会話はしんと止み、店内の客はみないっせいに松造らのほうを見た。
「へっ、材木屋なんざぁ糞を食らえだ」
 女は「ちょっと」と言って、松造の肩に手を置き、辺りに視線を走らせた。するとさっき入ってきた四五人の職人ふうの男たちのうちの一人が、つと立ち上がってこちらへと歩いてきて、険のある目付きで「おい、あにい」と松造に向かって声をかけた。
「ずいぶんと威勢がいいようだが、ここいらで木場の文句を言うたぁいい度胸をしてるな」
「なんだ、てめえは」
「なんでもいいやな、この辺りで、あることないこと言われちゃあ目障りだ、とっとと帰りやがれ。さもねえと痛えめに遭うぜ」
 松造は座ったまま、男の姿をまじまじと見た。男は首元から彫り物をのぞかせていて、襟に「山正」と染め抜かれた半纏を着ていた。彼は「ほう」と言って頭を振った。
 二人の間に入るような格好になっていた女は、「ねえ、源さん」と声をかけ、源蔵はよろけながら立ち上がって、「おい、松造、帰るぜ」と言った。
「分かったよ。どうやらおれはここじゃあ邪魔者らしいからな」
 そう言って松造も立ち上がろうとしたけれども、うまく立ち上がることができずに、床几の上へ尻餅をついた。彼は自分をあざ笑うかのように、頭を振りながらへらへらと笑った。そうしておもむろに職人ふうの男に向かって、指を一本立てながら、「けどけえる前にひとつ教えてやるぜ」と、呂律の回らない舌っ足らずな口調で言って、よろけながらもようやく立ち上がった。
「おめえのところの若旦那は」
「駄目よ」と言って間へ割って入ろうとした女を、男はぐいと押しのけた。
「いんちき野郎だぜ」
 と、彼は最後まで言うことができなかった。ああ、これは殴られるな、と思うのと同時に、男の右腕がぶんと振られるのが見え、次の瞬間には後ろ向きに吹っ飛ばされていた。殴られる刹那に、松造は男の後ろで冷笑しながら立っている与一郎の姿を見たような気がした。けれども本当に見たのかどうか、自分でも分からなかった。井筒屋の店の床の上で伸びながら、「おい、こいつは工一の若棟梁だぜ」「かまうもんか」などと言う声が聞こえたような気がしたけれども、彼はそのまま気を失ってしまった。
 翌朝はやく、松造は源蔵の家で目を覚ました。
 起きてすぐには、自分がどこにいるのかもまったく分からず、布団の上で起き上がってから、しばし呆然とした。隣を見ると源蔵が鼾をかいてまだ寝ていたので、「ああ、ここは親父の家か」ということだけは分かったけれども、自分がなぜここで目を覚ましたのかは見当もつかなかった。
 早朝の冷たい空気のなかで、吐く息が自分でも分かるくらいに酒臭かったのと、なんだかすえたような嫌な臭いもしたためよく見ると、襟元に反吐がこびりついていたので、昨夜は飲み過ぎたうえに吐いたことが分かった。二日酔いのためだろう、頭が猛烈に痛かった。そうして左頬が腫れていて痛かった。
 仕事に行く前に、佐兵衛店の自分の家へ道具箱を取りに行かなければならないため、彼はぶつぶつと悪態をつきながら、眠りこけている源蔵の肩を揺すって起こした。源蔵はようやく起き上がると、眠けまなこをこすりながら松造の顔をしばし見つめ、
「おめえは昨夜……」としゃがれ声で言った。
「いや、よしてくれ、聞きたくもねえ」
 そう言って制してから、「すまねえな、親父。どうやら昨夜は色々と迷惑をかけたみてえだが、おれは仕事があるからもう帰るぜ」とだけ言い、松造はまだ夜明け前の張りつめたように冷たい空気の中へと出て行った。源蔵はそんな彼の後ろ姿に向かって、
「おい、あんまり無理をするんじゃねえぞ」と声をかけた。
 両国橋を渡る時には、川上から容赦なく吹き付ける風の冷たさにぶるぶると震えながら、ちょうど夜明け頃に長屋へと戻ると、驚いたことに米屋の勝手口から、まるで待っていたかのようにおそよが顔を出した。そして松造の顔を見るなり、目を見張って「まあ」と声を上げ、そばへ駆け寄ってきた。
「ちょっと、どうしたのよ、その顔は」
「どうもこうもねえ、昨夜どこかで誰かに殴られたらしい」
「覚えてないの」
「ああ」
 と言って彼がため息をつくと、おそよはその息の酒臭さに顔をしかめた。彼が夜通し家に帰らないなどということはついぞないことなので、きっとおそよは心配してくれていたのだろう、そう考えて彼は申し訳ない気分になり、下を向いて「……すまねえな」とひと言だけ言った。
「なにがよ」
「いや、心配をかけたみてえだから」
「心配だなんて」
 松造が顔を上げておそよを見ると、彼女は彼の顔を鋭い眼差しで見返した。いまはもう、ついさっきまでの気遣わしげな表情はきれいになくなっていた。
「……いい気味だわ」
 そう言ってすぐに彼女は家の中へ入ってしまった。
 彼にはおそよの言いたいことがよく分かった。
 自分の家の戸を開けるとき、つい「いま帰ったぜ」と言いそうになり、しかし戸を開けて中を見ても、部屋の中はひと気もなければ火の気もなくしんとしているので、彼は顔をしかめた。そうして口の中で「いい気味か。違えねえ」と呟いた。


 その日、岩本町の酒屋の落成祝いには、かねてから言われていたように、松造が一之助の代わりに出向いて行った。施主の紀州屋からは、この冬の寒酒の販売に合わせて見世が仕上がったので、たいそう喜ばれた。松造の頬が腫れているのには、居合わせたみなが気付き、なかには眉をひそめる者もいたけれども、彼はまったく気にもしなかった。帰り際には、「今年できたばかりの酒だから」と言って角樽を手渡され、「これじゃああべこべだ」と言って彼は苦笑いをした。
 また小寒を過ぎて、一年で一番寒いこの時期に十軒店の普請は始まったのだけれども、彼は億劫がることもなく、毎日朝早くから仕事へと出かけていった。普請の始まった時期は近所の店でもまちまちで、中には昨年のうちに普請が始まってすでに営業を再開している店もあったし、中にはまだこれから、という店もちらほらとあった。ただ仕上げなくてはならない時期が先に決まっているのと、「よそに負けないような仕事をしなければ」という思いから、松造は仕事に日々精を出した。必要以上に忙しくすれば、余計なことを考えずに済むと思っているかのようだった。
 毎朝出かけるとき、おそよが彼を呼び止めることはもうなかった。彼のほうでもだんだんと、「向こうがそのつもりなら、こっちだって構うものか」という気にもなってきて、そのうちに二人が長屋で顔を合わせること自体なくなっていった。ただ、ときおりたあ坊だけは、孤児たちの家の戸口に立って、松造のことをじっと見つめることがあった。
 一月も半ば近くになったある朝、正六と二人で十軒店の普請場へと向かっているときのことだった。
 その日は朝から曇り空で、底冷えのする日だった。火事からすでに三ヶ月以上が経って、町々の家並はところによって、少しずつ格好がついてきていた。ただ表店の普請は進んできていても、裏長屋の再建はまだまだで、表店と表店の間からのぞくと中はがらんどうで、がれきなどが積み上げてあるのがざらだった。
 道具箱を担いだ二人が岩本町の紀州屋の前を通りすぎ、千葉道場の辺りに差しかかったとき、チョロがふいにこっちを向いて、だしぬけに「あにいに一つ頼みがあるんだが、聞いてもらってもいいだろうか」と言った。
「なんだ」と松造が問うと、
「実はおれの幼なじみで紺屋を継いでいる助次っていうのがいて、こいつがやっぱり十月の火事で仕事場を焼かれちまってるんだ。
 それでそろそろ仕事を再開したいらしいんだけど、貯えもないから、なんとか仕事ができる程度の小屋のようなものを建てて、ひとまずはそれで仕事を始めたいって言うんだ。
 そこで相談なんだけど、あにいにも助次の仕事場を見てもらって、仕事場の仮普請をするんならおおよそ幾らぐらいかかるものか、見積もりをしてやってほしいんだ」とのことだった。
 松造は「ああ」と曖昧に答えたのち、「ただ、材料費は日々値上がりをしてるから、おれにも正確には答えられねえぜ」と言い足した。
 彼は「紺屋か」と口の中で呟きながら、チョロと一緒に歩いていった。そうして彼は、紺屋の仕事場を頭の中で想像していた。彼はこれまでに紺屋の作業場の普請など関わったことはなかったし、また知り合いにも紺屋はいないのだが、不思議と紺屋の作業場の様子が分かるような気がしていた。チョロは「小屋のようなものを」と簡単に言ったけれども、染め上げた糸や布を干すための場所も必要なため、普通だったら二階建てにして、二階には物干し場を作らなけりゃあならねえな、などと考えながら彼は歩を進めた。
 やがて紺屋町に入って、「あにい、ここだ」とチョロが顎をしゃくってみせた場所には、二間四方ほどの掘っ建て小屋が建っていて、チョロが外から「おい、助次」と声をかけると、中からチョロと同年輩の若い男がのっそりと出てきた。
 小屋は見るからに粗末なもので、廃材などをかき集めてきて素人が建てたものらしく、積もるほどの雪でも降れば、今にも潰れそうなものだった。隣は角店の大きな染物屋で、ここはもうすでに普請も終わって仕事も再開しているらしく、職人たちが忙しそうに立ち働いているのが、通りからも見ることができた。しかし反対側の隣は、やはり同業者がいたものと思われるが、焼けた跡はかろうじて片付けが済んでいるばかりで、染物に使用する(かめ)がひび割れて野ざらしになっているのが見えた。
 助次と呼ばれた男は、いかにも口の重そうなむっつりとした顔をしていて、挨拶を終えるとすぐに、「なかを見て下さい」と言って小屋の中へと二人を招き入れた。採光窓がきちんと作られていないため、小屋の中は薄暗かった。
 足を踏み入れると、床から一段高くなったところが、よく突き固められた三和土(たたき)になっていて、ここは全体をしっかりと木枠で囲われていた。そうしてその三和土から、口だけを出すような格好で、火壷を中心に甕が並んで埋まっているのが、かろうじて見えた。それ以外に小屋の内部で目につくものといえば、隅のほうに洗い場があるのと、染めた布などを干す物干しが竹を組んで作ってあるくらいだった。
 中へ入ったとたんに、松造は不思議な感覚に捕われるのを感じた。
 この小屋の中で男はどうにか仕事を再開しているらしく、藍の匂いがするのがはっきりと分かった。かすかに発酵臭を伴った土臭いその匂いは、なぜか彼を懐かしいような気持ちにさせた。
「大きな布はまだ無理ですが、小さいものなら、なんとか仕事をもらってやっています」と男は言っていた。
「紺屋にとっては、この甕が命です。藍をうまく発酵させることができるかどうかは、長年使い続けているこの甕を、冬場は火壷に火を入れて、長く休ませたりせずに使い続けなけりゃあいけません。
 火事でここが丸焼けになった時にはもう駄目かと思いましたが、甕がこうして土に埋まっていたのが幸いでした。これさえ無事でいてくれれば、建物は後からどうにでもなると思って、なんとかこんな小屋を作って、この甕の番を続けているような次第です」
 これだけのことを言うのに、助次は松造の倍くらいの時間をかけた。明らかに喋るのはあまり得意ではないようだが、生一本な職人らしい性格であるらしいことは、真っ黒に染まった両腕を見れば分かる気がした。
「おあしがねえのは正六に言ってあるとおりなもんで、だからなんとか、せめてもうちっとましな仕事ができるくらいには仮普請をしたいと思って、こうして若棟梁にもご足労を願ったんですが、いかがなもんでございましょう」
 そう言って男は少し途方に暮れたような顔をした。まるでこの仕事場の再建ができるかどうか、彼自身がいちばん疑っているかのような表情だった。
「普請を請け負うかどうかそのものの判断は、わたしにはできません。それに材木代も高騰しているので、どんなに簡単な造りでも、普段以上に費用がかかるのは承知しておいて下さい」
 そう言ってから、松造は唇を舐めた。なぜか、口の中がからからに乾いていた。そして相手の表情を見てから、「ただ、わたしにできるだけのことはいたしましょう」と付け足した。
 男は黙ったままゆっくりと一度うなずいてから、おもむろにくるりとこちらに背を向けて、甕に向かってかがむようにしてしゃがみ込んだ。そしてどろりとした藍の中から、伸子(しんし)で張った布をゆっくりと取り出して、「この布はまだ二度しか染めてません」と、背を向けたままで言った。
「紺地に仕上げるまでには、あと幾度も染めなけりゃあなりません。……この仕事であれ、若棟梁のところの仕事であれ、なんにしても時間がかかるのは承知のうえです。けど、上手くは言えませんが、あっしの仕事だって、なんとか仕事を再開していかねえと、困る人だっていると思うんでさぁ」
 そうして男はこちらへと向き直って、「もっとも、こう思うのはあっしだけじゃねえ、市中の皆が思っていることでしょうがね」と、少し照れたような表情で付け足した。
 松造はさきほどから、助次の背中を見つめながら、同時に誰か別の人物の背中を見ているような気がしていた。股引を穿いて、尻端折りをした藍色の着物にたすきをかけ、両腕を真っ黒に染め、こちらに丸い背中を向けているその姿は、奇妙な既視感をともなっていて、まるで二重の光景を見つめているような感覚があった。
 そのあと助次は、仕事場に最低限必要なしつらえについて、松造と正六に説明をした。そうして、
「もし普請を頼んだ場合に、おおよそ幾らぐらい必要なのか、その見積りを教えて下さい。親父から跡を継いだばかりで苦しいところですが、どこからか借銀をするにせよ、金額が分からなければ話もできませんので」と言った。
 助次の表情はしんけんそのものだった。だが松造は彼の話に集中することができず、さっきからずっと感じている奇妙な感覚にとらわれたままでいた。
「ではひとつよろしくお願いいたします」
 そう言われて助次の小屋から送り出され、正六と二人で通りへ踏み出してからも、彼の感覚はもとに戻らなかった。まるで心はここにあるのに、身体だけがどこかへ行ってしまっているような、あるいは自分の身体が自分のものではなくなってしまって、思うように動かせないような感覚があった。
 正六は松造とともにしばらく歩いてからふと立ち止まり、振り返りざまに「あいつは火事でふた親を亡くしたんだぜ」と、思い出したようにぽつりと言った。そうして再び歩き出してから、珍しくしんみりとした調子で続けてこう言った。
「このあたりの普請もまだまだだな、あにい」
 そう正六の言うとおり、紺屋町のあたりの再普請の進み具合はまだまだまばらで、見ると空き地のままになっている場所も多かったし、まだがれきが積み上がったままの場所もあちこちにあった。通りの真んなか近くに立って品川のほうを見通してみても、あたりはまるであちこち歯の欠けてしまった櫛のような状態であり、全体としては荒涼とした光景のままだった。
「今日は雪にならなけりゃいいんだがなあ」
 歩きながら少し仰向いて、チョロがそう呟いた。
「……ああ」
 と相槌を打ったあと、彼は通りの端でつと立ち止まり、目を幾度かぎゅっと閉じたり開いたりを繰り返した。右肩に担いだ道具箱が妙にぐらぐらするような気がして、立っているのが急に困難になってきていた。あたりではやや強い風がときおり吹いていて、そのたびに土埃がまき上がるのが見えた。曇り空の下で見る焼け跡の町並みや、忙しそうに立ち働く職人たちの姿は、まるで現実の光景のようには思われず、彼は自分がいまどこにいるのか、その実感を失ってしまった。するとさきほどの藍の匂いを再び嗅いだように感じ、その直後に、彼は目の前には存在しない光景のただなかにいた。
 ちょうど以前に夢で見たように、周囲ではあちこちから火の手が上がっていて、人々が逃げ惑う声が聞こえていた。空は真っ黒で、真っ赤な火の粉がつむじ風に乗って、ぱちぱちと音を立てながら舞い飛んでいた。呆然として立ち止まっていると、熱い風が頬をなでるのをはっきりと感じることができた。
「あにい、どうした」
 と、振り返った正六の声も、遠くから聞こえるようだった。
 おれはいま、いったいどこにいるのだろう。そう思いながら、火の粉の向う側にぼんやりと見える正六に向かって、
「……おい、チョロ、ちょっと待ってくれ」
 と言うのがやっとだった。
 彼は自分の道具箱が地面に落ちる音を遠くで聞いたように感じ、そのあとすぐに目の前がまっ暗になった。

とうりょう 上

とうりょう 上

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-09

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