Meltykiss

  ヤチヨも、かつては海に立っていた。オトと同じく。浜と沖、北と南、縦に二つの岩が並んでいる。高さはお互いに十メートルほど。少女が小雨に凍えて、自分を抱いて身をかがめた格好によく似た形をしている。
 沖側がオトで、浜側がヤチヨ。姉妹岩、そう呼ばれていた。
 ヤチヨの裏手に、この町でただ一つの神社がある。夕方の雨霧のむこうで、ちょうどその辺りがぼんやりと光っているのが見えた。ちょうちんの光、人々の祭りの灯だった。

  「あんこう、なんだって。変なの」
 ふわりと、雨よりも軽く、女が石段の側に降り立った。雨に少し濡れたナチュラルブラウンのショートボブ、紫陽花柄の浴衣を着ている。瑞々しい色白の肌で、頬だけが遅咲きの桜の色に染まっていた。ぱっちりした瞳の端で、まつ毛がつんと伸びている。
 木々に囲まれた本殿の右横、境内に向かって伸びた短い階段に男が腰かけていた。カーキー色のハーフパンツにTシャツのラフな恰好で、野暮ったい髪。女と同じ年代の青年だった。
 「ちょうちんあんこうって、そういうことじゃないよな」
 鳥居から本殿に向かって伸びる石畳に沿って、様々な出店が並んでいた。その一つ一つに掛かるちょうちんは、楕円でヒレと尻尾が付いていた。
「はい、これ」
 ちょうちんと同じ形のものを、男に女が差し出した。
 「アキノ、お前さ。本当に買ってきたのか」
 アキノと呼ばれた女は、くりくりとした瞳を光らせながら、頬を上げた。
 「こんな機会がないと、あんこうの干物なんて食べられないからね。ケイタがいらないって言うんなら、二つとも私が食べるよ」
 ケイタは腰を上げて、アキノから紙に包まれた干物を受け取った。
 「食べる、いくら?」
 「いいよ別に」
 二人は階段に並んで座る。祭囃子が遠くに聞こえている。苔むした水盤の上に落ちる水音でさえ、鮮明に聞き取れた。静かな場所だ、アキノはそう思った。
 しかし、ケイタにとっては静かではなかった。何よりもうるさい自分の胸のために、顔を右隣りのアキノから背けていた。尻ポケットから四つ折りの紙を取り出す、表紙に当たるページには達筆で『地鎮祭』と書かれていた。
 パンフレットにかじりつく彼をアキノは不満に感じていない、むしろ、好ましく思っていた。なにせ、ケイタのポケットから小さなブレスレットが顔を覗かせているのを発見していたから。それに、自分も自分の鼓動で精いっぱいになって来ていた。
 「やっぱいらない?」
 「あ、いや、食べる食べる」
 二人は体の火照りを感じていた、小雨の中だったのに。

  ケイタは二人分の包み紙をゴミ箱に捨てると、ポケットを何度か叩いた。そこに、ちゃんとあることを確認したかった。
 「すごい人だな」
 二人は両横を出店に囲まれた石畳の通りを、出口に向かって歩いていた。
 「あんま天気よくないのにね」
 彼女が手で庇を作りながら言う。もうかなり濡れてしまったとはいえ、少しは気になっていた。
 「悪い方がいいんだってさ」
 ケイタはそのまま訳知り顔で語りだす。
 「悪い方っていうか、必ず雨の日にやるらしい。
 この地に住み着いた神様? っていうのが、どうも雨が好きらしいんだ」
 「あんこうも好きなの?」
 「えっ、それはその」
 言葉に詰まって、彼は後ろポケットに入れたパンフレットに手を伸ばそうとする。
 その時だった。正面から向かってきた何かが、ケイタにぶつかった。
 「わあ」
 彼がその場にしりもちを着いた。その拍子にブレスレットがポケットから転がり落ちた。大小のビーズで作られたものだった。祭りの出店で買った、粗末な品だ。
 「大丈夫?」
 アキノに手を借りて、ケイタは立ち上がる。
 「あなたも大丈夫?」
 ケイタにぶつかったのは、少女だった。左側の前髪がピンで留められている。新品の浴衣の腰の辺りから、毛先が覗いていた。
 「ああ、ごめんなさい」
 アキノが、少女にも手を差し出した時、妙齢の男女が二人の元にやってきた。ケイタは”この子のお父さんとお母さんだろうか”と思った。
 「サキ、あんまりはしゃぐんじゃない。もう十四歳になるんだから」
 少女は立ち上がると、何も言わずにケイタを通り過ぎてしまった。
 「あっ、こら」
 男の方が荒い息を立てながら、少女を追って駆け出す。
 「本当にごめんなさいね」
 女は口元に手を当てながら、小さく頭を下げる。その後で、少女と男が向かった方へ歩いて行った。
 「ハンカチ、いる?」
 「いや、いいよ」
 ふとももの辺りがヒリヒリするのを感じていたケイタだが、強がりを言うことにした。
 それからしばらく後、出口の鳥居の近くに来た頃だった。
 「ごめん、ちょっと待ってて」
 ケイタが急に反転して、道を戻りだした。
 何事かと、アキノは思ったが、すぐに安心した。
 ケイタは少女とぶつかったあたりで止まって、地面を見回した。次に、素早くかがみこみ、何かを拾ってポケットにしまった。
 その様子が人込みの隙間からアキノにはしっかり見えていた。
 「いつ、くれるのかな」
 彼女が呟くと同時、雨が止んだ。
 
  呼ばれている気がした、だから少女は走っていた。石の道をまっすぐに、賽銭箱を右に。ケイタとアキノが座っていた階段を右へ、そこへ広がる雑木林の中へ飛び込んだ。
 夕闇の林の道ならぬ道でも、少女は走った。木々で、服や肌が擦り切れるのも気にしていなかった。呼ばれている、そのことだけを気にしていた。
 そして、また転んだ。今度も何も言わなかった。
 少女は自分のすぐ横に木の根が飛び出しているのを発見し、自分が深い穴に落ちたことを理解した。
 「だれ、なの」
 彼女が呟くと同時、雨が止んだ。

  ”隠さなければいけないものが、深くなりすぎるからだろう。”、よく確認もせず玄関扉を開いたことを後悔しながら、ケイタは思う。
 彼の視線は、アイシャドウに向けられていた。オーシャンブルーで、湖面の代わりにラメが照り返し光る。眉からゆっくりと濃くなり、まつ毛の根本は深海の色。
 水は淀んでいる。近くの精肉工場が、絶えず脂肪をまぶたの海に捨てているから。落とされた脂肪がいくつも海面に浮いていた。
 「これね、ちょっと作りすぎちゃって、よかったらどう?」
 ケイタは差し出されたタッパーを受け取る。中には白菜の漬物が入っていた。”漬物なら冷蔵庫に置いとけばいいのでは”、彼は脳裏に浮かんだ言葉をなんとか押しとどめた。
 「ありがとうございます、いただきます」
 ケイタの1LDKの隣り部屋に住む奥さんだった。六時四十五分の早朝から化粧バッチリで、インターホンを鳴らした。二児の母で、夫は単身赴任中と聞いている。
 彼女の体形を見て、”三人目ですか?”と失言したことがあるので、ケイタにとっては、少し苦手な相手だった。
 世間話もそこそこに、扉を閉める。真っ暗な廊下で、ケイタはため息を吐いた。
 ”ちょっと雑に対応しちゃったかな、悪いことした。”、タッパーを開いて、漬物を口に含む。瑞々しさが口いっぱいに広がった。
 廊下は六メートルほどで、入ってすぐの左右にトイレと浴室、直進すればダイニングに繋がっている。
 まっすぐ進んで、廊下を半分来た頃だった。もう一度、インターホンが鳴る。
 それまでは、肩を落としてトボトボ歩いていたのだが、インターホンを聞くや否や、ケイタはすぐさま反転し、玄関のドアノブに飛びついた。
 「何度もごめんねぇ。はい、これ」
 扉の向こうに立っていたのは、さっきと同じ隣のおばさんだった。ケイタは灰色のプラスチックボードを手渡される。回覧板だ。
 「駐車場のこと、ちょっと変わるんだって。バイクあったでしょう?
 じゃ、渡したからね、次よろしく」
 真っ暗な廊下で、ケイタは深いため息を吐いた。
 「いつもこれぐらいだよな?」
 思わず、ひとりごちる。ここ二週間の彼は、早起きだった。今まで、八時頃にベッドを抜け出していたのが、六時に起床、半には顔を洗って、髪を整えて、服を着替えるようになっていた。
 ダイニングへ続く扉に手をかけた時、またまたインターホンが鳴る。ケイタも同じく弾かれたように玄関へ。
 「あー何度も何度もごめんなさいねぇ。上坂くん、夕方は部屋居るかしら?
 今日の五時頃なんだけどね、荷物が届くのよ。
 あ、居ない? そうなの、じゃあ他の人に頼むことにするわ」
 肺の息をあるだけ吐いて、暗い廊下を進む。
 ”もしかして、なにかあったのか?”、いや、まさか、と頭の中で否定と可能性をぐるぐるさせながら、ダイニングに足を踏み入れる。
 そして、インターホンが鳴った。
 今度は、すぐに動かなかった。首を振って、落ち着き払った態度を装い、ダイニングから廊下へ。小股で二十歩かけて、玄関扉の前に立った。
 ドアスコープに顔を近づけて――だらしなく上がった口角を隠すこともせず、ドアを開いた。
 エンボスの床材が、日の出で白く光っている。自分の玄関扉の近くに、隣の家の長男が使っている三輪車が置いてあることが不満だったが、今のケイタは気にならなかった。自分の玄関扉の前の床が、次男のマジックでピンクに汚れていることも、今は気にならなかった。
 「おはよ」
 ケイタの視線がキューティクルの描いた天使の輪を辿って、目で止まった。そこには、星々きらめく夜帳が二つ丸まっている。澄んだ闇の色だ、ケイタにとっては、布団に包まれて眠る時の暗がりだ。
 服は半袖のランニング用のジャージ、色は黒でピンクのラインが入っている。
 「おはよう」
 扉の向こうに立っていたのは、アキノだった。
 
  『それでは次のニュースです』
 自分の部屋だというのに、ケイタは居心地の悪さを感じていた。六畳のダイニングは、キッチンシンクとテーブルとテレビで窮屈だ。彼の座るイスは背もたれが壊れていて、伸びをすることもできない。しかし、そのことが居心地の悪さに繋がっているのではなかった。ここは彼の部屋なのだから、いつものことだ。
 水が落ちる音がする、小さないくつもの水の粒が床を叩いている。ケイタの耳にも、それは聞こえていた。そして、それこそが、彼の今の気分をもたらしている。リモコン操作で、テレビのボリュームを上げる。しかし、どうしてもその音に耳を傾けてしまっていた。
 『白坂動物園の名物パンダのチンチン。彼女の赤ちゃんが誕生しました』
 ダイニングの東側、バルコニーへ通じる窓から見える空は、快晴そのものだ。音は廊下へ続くドアの向こうから聞こえていた。そちらにはトイレと浴室と、玄関。
 『それでは次のニュースです』
 つまり、アキノがシャワーを浴びているから、落ち着かないケイタだった。”今日昨日の付き合いでもないし、この習慣だって、今日昨日から始まったわけでもないのだから、いい加減慣れよう”、そう考えているが、思うようにはいかなかった。
 『先ほどお伝えしたパンダの名前に誤りがございました。白坂動物園のパンダの名前はインインでした、訂正させていただきます』
 水音が止んで、ケイタは息を呑んだ。数分後、普段着のアキノがダイニングに入ってくる。とてつもない大仕事を終えたような気持ちで、ケイタは彼女を迎えるのだった。
 『――で相次ぐ失踪事件ですが』 

  アキノの左側の右手をケイタは見ていた。ハンドルを少し傾けると、太陽が映り込んで何も見えなくなった。
 「それ、まだ付けてるのか」
 サイドミラーにぺったりした髪型の自分を見つけたアキノは頭に手をやる。髪を軽く握ってふくらみを作った。
 「あ、これ?」
 彼女が左腕を掲げて見せると、金属と大粒のビーズがぶつかって小さな音を立てる。ブレスレット、ケイタが祭りの時に買ったチャチな品物だ。
 「安物だし、な?」
 「えっ、けっこうしたんだけどな。あんまり可愛くはないけど、在庫がこれしかなかったんだよね」
 薄手のニットワンピースの袖を腰で結びながら、アキノが言う。半袖のカットソーから伸びた細腕に、デジタル表記の腕時計が巻かれている。
 「見てくれはちょっとゴツいかもしんないけど、距離測れたりするよ。あと、時間とか」
 下は足首までしっかり隠れるデニムで、ケイタの要望によるものだった。バイクの危険性を小一時間説いた成果だ、前はショートパンツを履いてきたこともある。
 「いや、時計じゃなくて」
 アキノが眉根を寄せる。しかし、それは一瞬のことで、ニカっと笑った。
 「いいでしょ」
 ”日差しのせいだな”。
 「いいけどさ」
 ケイタはその笑顔がまぶしく感じられて、言い返す気にならなかった。
 
  駐車スペースは食堂がある校舎の裏にあった。
 二人は黄色いポールに囲まれたアスファルトを出ると、レンガの道に立った。
 道の側にパンジーとジャスミンが咲いた花壇がある。茶褐色の土の一部が小さく光っている、逆さに刺さった酒瓶型の栄養剤に太陽が反射していた。
 「俺のレポートの題材にしようかなって、けっこう図書館に資料になりそうな本あったしさ」
 花壇の向こう、ぴかぴかの窓の更に奥に、清潔な白いテーブルがいくつも見える。その一つがまさに今、三角頭巾にエプロンの中年女性によって、もっと清潔にされていた。雑巾を片手にテーブルを拭っている。
 「でも、ダメなんじゃないの」
 「そうか?」
 二人は並んで歩き出す。ケイタの肩の五センチ下に、アキノの肩があった。
 「学部的に、ジャンル違いじゃない?
 下手したら受け取ってもらえなそうだけど」
 「民間伝承っていうのかな、史学科の分野だろうね。
 でも、俺んとこの教授なら大丈夫だ」
 朝の大学構内の人はまばらだった。春先の同じ時間なら倍は居た学生も、月日と共に減少した。
 「落としても知らないよ」
 「平気だって、先輩が言ってたんだけどさ、おいしいカレーの作り方まとめた人も居るらしいぜ」
 前から自転車を押した学生がやってきて、二人の間を通った。”避ければよかった”アキノは、小さく後悔した。
 「さすがにウソでしょ」
 「本当だって」
 一階が食堂の棟の角を抜けると、レンガの道は終わった。四人は並べる砂の道が街路樹に挟まれて続いた。
 「なんか新聞の授業思い出す、小学生の時にやったよ」
 「俺もやったな、地元のこと調べたよ」
 二人は四辻で足を止めた。アキノは東の道へ、ケイタは西の道へ行くつもりだ。先週の月曜日もそうだった。
 先週と違うのは、彼だ。じゃあ、と手を振って、体を回すことができないでいた。
 瞳がアキノの唇へ向く、薄いピンクの口紅。昨日、見かけた駅前で別れる白人の恋人を思い出している。
 葛藤は長く続かなかった。心の中で首を振ると、ケイタは手を上げた。

  結局、この事の至りについてはケイタの不注意だ。
泥が喜び、跳ね回っている。天が叫んで、泣いている。最大風速は毎秒八メートルを越えていた。
 「午後は雨っていったじゃん!」
 アキノも叫んでいる、喜んではいない。
 ケイタは黙っている、少し喜んでいた。
 彼の斜め前を走るアキノの背中にブラジャーが透けて浮いていた。それのためだけではない、二人が一緒に帰ることが当然になっていることが嬉しかったからでもある。
 刹那的には前者の方が喜ばしく感じられている。ケイタは人並みにスケベだ。悪いとは思いつつも、視線を外すつもりはなかった。
 どしゃ降りの構内を二人駆け抜けて、大通りの歩道に出る。先に走っていたアキノがタクシーのドアを掴んだ。
 「どちらまで?」
 ケイタは前髪をかき上げながら、自分の住所を告げる。ズボンから染み出した水分が固いソファに広がっていった。
 つんつんした後れ毛から、水滴が一つ、うなじを通って重力の方向へ。アキノはその感覚に身震いした。
 「ハンカチ、いる?」
 初老の運転手は、帽子のつばを下げると、発車させた。
 「いや、いいよ」
 アキノはハンカチを尻に敷いた。ケイタもそれに倣うことにする。
 「そういえば、どうだったの?」
 「なんであんこうなのかはよくわからんかった」
 ”大丈夫かな”、ケイタがびしょ濡れのカバンを開く。中には図書館で借りた本が数冊入っていた。幸いにも濡れていない。
 「でも、けっこうおもしろいぞ。近くの浜辺に姉妹岩ってあるだろ?」
 「うん」
 信号が赤くなる。歩道の人らはみんなびしょびしょだ、誰もが傘の中から体を出すまいと身を縮めていたが、自然の前には無駄な努力だった。
 「あ、ごめん、ちょっと」
 急なことで、ケイタが目を丸くして固まった。彼の側へアキノが身を乗り出してきたからだ。左手がケイタの股の間に置かれる。
 「見てよ」
 走っていた時に見ていたところと同じ場所にケイタの視線は向かったが、彼女の人差し指が窓を指しているのに気が付く。
 名残惜しむ気持ちを拭い去って、雨のむこうに目を凝らした。
 「あの子、どっかで見たことない?」
 細長い雑貨ビルの一階、シャッターの前で、人が雨宿りをしている。
 レインコート越しに腰まで伸びた黒髪が透ける、両手で自分を抱きしめながら、空を見上げていた。
 「よく見えるな」
 「すいません、あのビルの側に止めてもらえません?」
 ”なんのつもりだろう”、ケイタの心中に湧いた疑問を察して、更に一言。
 「乗せてあげようと思って、ケイタと話しててもつまんないしね」
 「えっ」
 「冗談だよ」
 
  薄手のビニール手袋を何枚か重ねて嵌めていることに、ケイタは気が付いた。
 「いいんですか、私を乗せてしまって」
 「気にしないでよ、どうせケイタが全部払うから」
 助手席から、ケイタが後ろへ顔を覗かせる。聞き捨てならないことが聞こえた気がした。
 「おい」
 「すごい雨だったね、ハンカチいる?」
 「いえ、体は濡れてませんから」
 後部座席、アキノの隣りに座った少女は車内でも、フードを脱がなかった。
 「ねぇ、どこかで私たち会ったことない?」
 「ナンパかよ」
 少女は小さく首を横に振った。
 「そっか、どこ住み?」
 「ナンパかよ」
 「うるさいな」
 「神社の辺りです」
 ピクリと、アキノの眉が反応する。
 「神社って、姉妹岩のとこ?」
 今度は首を縦に振った。アキノが手を叩く。
 「あの時の! ほら、ケイタ、覚えてるでしょ」
 「いや、わからない」
 「榊先生の概論落とすわけだ」
 ”関係ないだろ”、出そうになった言葉を飲み込んだ。関係があるような気がしたからだ。ケイタの記憶力と取得単位ではなく、二人と少女だが。
 「思い出した。痛かっただろ、ごめん」
  アキノの腕で時計とブレスレットがぶつかって鳴った。
 「別にケガもありませんし、私の不注意でしたから」
 「それならいいけど」
 車は海岸沿いのカーブを進んでいた。県外ナンバーの外車がタクシーを抜いていく。
 「この辺なんだよな」
 ケイタが海を見やる。前方斜めに、オトの全貌が確認できる。姉妹岩の沖側だ。
 「なにが?」
 雨脚は徐々に弱まりつつあった。逆側には、今進んでいる道を挟んでヤチヨが遠くに見えている。
 「割れたんだってさ」
 ケイタは掲げた右手の人差し指でオトを、親指でヤチヨを指しながら言葉を続けた。
 「ちょっとした不思議な事件があったんだよ」
 「この浜辺でなの?」
 「そうそう。で、その事件ってのが、ああ、見てたのは、ゼミの友達なんだけど。そいつから聞いたんだよ、姉妹岩のこととか調べてる、資料も探してるって言ったら教えてくれたんだけど――」
 「早くなにがあったか話してよ」
 アキノの瞳に少し険しさを感じて、ケイタは心臓が震えたような気がした。
 「旧約聖書の有名なエピソードがあるんだけど、知ってる? 出エジプト記のやつ。あ、これはいいや。」
 ”マジで怒らせるかも”、アキノが髪に手を置くのは、不機嫌のサインだ。たった今、そうした。
 「海が割れたんだよ、オトからヤチヨの間に道を作るみたいにさ」
 「モーセみたいにってこと? そんなのありえないでしょ、見間違いじゃないの」
 「夜だったから、見間違いってのはありそうだけど。ただ、その日は前の祭りの夜だったんだよ。だから、結構な数の人が見てるんだ」
 アキノは腕を組みながら、首を傾げた。
 「信じられないなあ」
 「本当ですよ」
 その声はアキノとケイタにとって意外な人物からだった。運転手が片眉を上げた。
 「急に話に入り込んですみません。ただ、私も見たんですよ」
 ケイタとアキノが身を乗り出す。。
 「見たって、海が割れるところをですか?」
 「割れる、というよりは渇く、と言った方が近いですが。ともかく、見ましたよ。娘と砂浜を歩いてましてね」
 「へぇ」
 感心した二人の声がユニゾンする。と、瞳を輝かせながら、アキノが助手席に手を載せた。
 「そうだ、事件ならもう一つあるよね。ケイタ、覚えてる?」
 ”こういう時のアキノはろくなことを言わない””、嫌な予感がしていた。
 「あの紙、まだ持ってるの?」
 「さあ、知らないよ」
 ケイタは寝室に置かれた机を想像していた。五段の引き出しの二段目のことが、特に強く思い出された。

 「遠慮しなくていいよ」
 「家はすぐ近くですから」
 ドアが閉まる。雨はすっかり止んでいて、神社を取り囲む木々の枝葉から、残滓を滴らせるのみになっていた。
 鳥居の前で二人へ一礼すると、少女は夜の闇に消えていった。
 「大人しい子だったね」
 「なあ、どうして乗せてやったんだ? 別に悪いって言ってるわけじゃないけれども」
 「親切にするの、嫌いじゃないから」
 ”ああ、そういう奴だった。”ケイタは聞いた自分が、バカに思えた。
 「見覚えあったし」
 「俺の時もそうだったのか?」
 ケイタは波の打ち寄せる音が聞こえてくる気がした。海岸を自分が歩いている幻視。
 「初対面だったよな」
 「違うよ、覚えてないの」
 唇を尖らせ、髪をかき上げて、アキノが呟く。
 「始業式の時、近くに居たでしょ」
 「そうだったかなあ」
 そこから十分後、乳白色のマンションの前でタクシーは止まる。
 風船型の電灯の周りを何匹もの蛾が飛び回っていた。
 ぼんやりと照らされた歩道にケイタは降り立つ。
 「いいのか」
 「いいって、オゴリオゴリ」
 ”あの子の名前聞かなかったな”、深い宵闇を見ながらアキノは思った。
 「それじゃ、また明日ね」
 タクシーの後部座席横の窓が半分だけ開かれている。窓を挟んで二つの視線が交じり合った。
 しかし、それは一瞬で、ケイタは目を下へ。幼いイチゴ色の唇がそこにあった。そして、それもまた一瞬。
 「また明日」
 言って、ケイタは車に背を向ける。心に小さく鞭打って、右足を踏み出す。
 「ケイタ」
 「ん?」
 「ちょっとこっち」
 振り返って、手招きするアキノにケイタが従った。車の窓に顔を寄せる。
 「あっ」
 いつのまにか開ききっていた窓が閉まっていく。
 「顔、ちゃんと洗いなよ」
 エンジン音を住宅街にこだまさせて、彼女は去って行った。
 残されたケイタは、口をぼんやり開けて、頬に手をやった。先ほどの暖かな感触がまだそこにあるような気がしていた。
 一転、ケイタがマンションに向かって走り出した。階段を一段飛ばしで進んで、スキップで廊下から自室の玄関へ。力任せに洗面台の電気を付けて、鏡を覗いた。
 「わあ」
 右頬に小さな赤い点。アキノの口紅だ。
 「おおお」
 両手を掲げてガッツポーズを決めると、床を蹴った。しばらくダイニングで跳ねていたが、下の住民のことを思い出して落ち着いた。
 机の引き出しを開ける。ケイタが次に向かったのは、寝室だった。その中に、透明のファイルに紙切れが挟まれていた。
 歪な三角形で、十センチ程度。所々が茶色に染みた切れ端で、赤い線が引かれている。
 ケイタがまた頬に手をやる。そして、彼は波の音に沈んでゆく。ケイタの頭蓋の内でのみ響く音に。

 人影、二階のカーテンのむこう。ケイタの部屋だ。
 影、暗闇の中で、より暗きもの。
 蛾が次々に落ちてゆく。街灯が消えた。
 雲の切れ間から月光が刺す。路上に落ちたビニール手袋が光を浴びた。 

  『じゃ、デートとかは?』
 「休日に図書館で一緒に勉強したり」
 『ディナーは?』
 「晩飯なら作ってもらったことあるけど」
 『そうじゃないくてさ』
 「そういうのはないよ」
 『じゃ、連れてけ』
 「でも、バイク買って金ないし、他にも高い出費があったし」
 『はぁ』
 「あっそうだ、頼みが」
 『金ならねーぞ』
 ケイタは携帯電話をテーブルに置いた。
 「しょうがないだろ、アキノが朝来るって言ったんだし、ランニングするからシャワー貸してるだけだし。俺たちには俺たちの進み方があるんだよ」
 虚空に呟くと、ベッドに飛び込んだ。スプリングが悲鳴を上げる。
 ケイタは頬に手をやる、まだそこにあの日の暖かさがある気がしたから。

  「僧が退治した妖怪についてだが、ナマズ、もしくは勇魚、もしくは……ああ、それで」
 ケイタは身震いして、本から目を上げた。空は曇天、半袖では肌寒い日だった。
 構内の道を行く人々が足早に歩く中、彼だけはゆっくりと本を読みながら進んでいた。
 長短の針が描くのは直線、六時ちょうど。彼の待ち人はまだ居ない時間だ。
 「お兄さん」
 と、急に声をかけられて、足を止める。ちょうど、ケイタの真横。芝生の上に少女が立っていた。
 タクシーに乗せた少女だった。今日も、同じレインコートを着ている。ブラウスの影に鎖骨が盛り上がっていた。
 「ああ、こんにちは。ちゃんと帰れたかい?」
 彼女は頭を下げる。面を上げ、手袋を嵌めなおすと、口を開いた。
 「お礼がしたいんです、これを」
 ケイタの方へ手が伸ばされる。一枚のメモ用紙を受け取った。
 「これは?」
 「私の家、レストランなんですよ」
 ”地図だろうか”、鳥居から岩の脇を逸れて矢印が伸びている。先は星を指して、住所と電話番号が書かれていた。
 「よければ、彼女さんとどうぞ。もちろん、お代は頂きませんし、前日までにご連絡をもらえれば、いつでも大丈夫です」
 「でも」
 ケイタの続く言葉を遮って、少女が喋る。
 「二人のことを話すと、両親がどうしてもというのです」
 額に感触、ケイタは手をやる。手のひらを見みると、雨の一粒だった。
 「それじゃあ――あれ?」
 風に千切れた草が、空へ渦巻いて上る。少女は、もうそこにいなかった。
 額にもう一粒。彼は慌ててカバンから折り畳み傘を取り出した。向こうの道で、アキノが手を振っていた。
 
  襟を正して、ジーパンに足を通す。”なんでわざわざ待ち合わせなんだ。”
 顎を上げて、剃り残しがないことを確認すると、ケイタは鏡に笑いかけた。
 『本日は全国的に晴れで』
 廊下の先から、小さな声が彼の耳に届く。付けたままのテレビの音声だ。
 ”どうせ走って俺の家の近くまで来るのにさ。”腑に落ちないものを感じながら、洗面台の電気を消した。
 『次のニュースです』
 靴ベラを元あった場所に返すと、かかとで床を叩いた。新品の革靴が、ようやく足に馴染んだ気がしていた。
 『――に保管されていた錫杖が、無くなっていたことが、昨夜分かりました。
 錫杖は同市に伝わる伝説の中に登場する修行僧が、怪物に使ったとされるもので、地鎮祭の後に無くなったものと思われます』
 誰も居ない部屋にむかって、ニュースキャスターがそう語った。
 
  "テレビ消し忘れたかも。"、駅前の噴水に立つアキノに手を振る。純白のショートパンツから伸びた足がケイタにまぶしく映る。上着はシャツにグレーの薄いパーカーを重ねていた。
 「じゃ、いこっか」
 ケイタのバイクが車検で使えなかったため、二人は電車で目的地へ向かった。
 『姉妹岩前』駅で降りる。色あせたブルーのベンチで老婆がうつらうつらと舟をこぐ。つられて、アキノがあくびをした。ぼおっとそれを見ていたケイタが肘を食らう。
 「ここかな」
 ケイタは手元のメモ用紙から目を上げて言った。『ファミリーレストラン ハングリーアングラー』、道路脇に建てられた白い看板に赤い文字で書かれている。
 「かわいいね」
 アキノが看板の隅を指さす。ディフォルメされたちょうちんあんこうが、触覚の先を明滅させながら、腹を鳴らしていた。
 「そうだな」
 ”かわいくはないだろ。”、ケイタは頭の中で反論した。
 看板の横から木々に囲まれた一本道が通っている、二人は先へ進んだ。
 神社のちょうど裏手に、そのレストランはあった。二階建てのテラス付きの建物で、別荘のような印象を二人は受けた。
 「ようこそおいでくださいました」
 テラスのイスから、レインコートの少女が腰を上げた。
 かしこまった口調を面白く感じて、アキノが笑みを浮かべながら答える。
 「うん、来たよ」
 少女によって恭しく開かれた玄関ドアに向かって、二人は階段を上った。貸し切り中と書かれたプレートが小さく跳ねる。
 右手には二階へ向かう階段、左手には人一人分の幅しかない廊下がある。ケイタは手狭に感じた。窓に雨戸が下ろされており、薄暗かったのもあったろう。
 エプロン姿の中年がマットの前で出迎えた。”お父さんかな”、アキノは既視感を覚える。頬に無精ひげがぽつぽつと生えていた。
 「ようこそおいでくださいました」
 アキノがほほ笑む。少女への影響を想像させた。
 「そちらの中身は?」
 「え?」
 男が言うのは、アキノの肩に掛かったハンドバッグだ。
 「当店、お飲み物の持ち込みは禁止させていただいております」
 「ありませんよ」
 ケイタは男が少女と同じビニール手袋を嵌めているのを見つけた。
 「それでしたら」
 板張りの廊下を先導されて進む。歩いてすぐ、左右に二つの扉が現れた。右はトイレで、ひし形の窓が開いている。
 雨戸の隙間から差し込む光が、突き当りにも扉があることをケイタに教えた。チェーンがドアノブに何重も巻かれていた。
 二人が案内されたのは、四つのテーブルが並ぶ部屋だった、席は十席ある。
 長方形の部屋で、二面の壁はガラス張りになっている。こちらも雨戸が下ろされていたが、天井の蛍光灯で、廊下よりは明るかった。
 「こちらへどうぞ」
 入口に近いテーブルを父親が示した。しかし、アキノが座るのを躊躇った。
 ケイタはどうしたのかと、彼女の視線を辿る。
 黒塗りの丸テーブルの上に、白い膜が薄く張っていた。ケイタの指がなぞった軌跡をそれが描く、埃だった。
 「すみません、他の席使ってもいいですか?」
 「もちろんです、お好きな席をどうぞ」
 父親は無表情で言った。

  ケイタがハンカチで拭いた後で、最初に案内されたテーブルに着くことにした。結局、ここが一番マシだと判断した結果だ。
 「家族経営だろうから」
 「うん」
 アキノは一瞬眉をひそめたが、腰を下ろした。二人はイスの下にカバンを置いた。
 「なに入ってるの、それ」
 ケイタのデイパックに不自然な厚みを感じての、言葉だった。
 「本だ、レポート期限近いんだよ」
 「テーマ、あれでよかったの」
 「うん、おかげで、この辺りの伝説みたいなのには詳しくなったよ」
 のれんの掛かった出入り口から、エプロンの女性が現れる。少女の父親の着ていたものと同じデザインだ。
 深いほうれい線に泣きぼくろ、アキノは少女の母親と思った。
 「ありがとう」
 対面して座る二人の前におしぼりを置くと、一礼して来たところへ戻っていった。
 「あれ」
 ケイタはそれを手に取って、疑問符を浮かべる。
 おしぼりは乾いていた。
 
  「そうそう、だからあんこうなんだってよ。あの祭りは、そいつを治める意味があるらしい」
 「でも、どうしてそのお坊さんは殺さずに、封じたんだろうね。人を襲ってた危ないあんこうなんでしょ?」
 ケイタは顎に手をやる。剃り残しを一本発見した。
 「そりゃあ、殺生はダメだとか、理由があったんじゃないの。
 そうだ、面白いのがある。呪いを掛けたんだよ、僧がね、あんこうに、錫杖を使ってさ。その呪い由来で地鎮祭は、雨の日らしいんだよ。ほら、俺たちが言った時もそうだったろ」
 早口でまくし立てるケイタの前に、皿が置かれる。少女の母親だ、アキノの前にも同じ皿が置かれた。
 「これは?」
 「小アジの干物です」
 皿の上には茶褐色の魚が、一口サイズでいくつか載っている。
 「あ、言わなかったか。コースメニューにしたの」
 二人は割り箸を手に取る。袋に看板と同じロゴとあんこうのイラストがプリントされていた。
 「あ、おいしい」
 アキノが頬に手を当てながら、舌でころころと口内にアジを泳がせている。
 「本当だ」
 それから、次々と料理が運ばれてきた。カレイの干物を混ぜ込んだご飯、あんこうの干物、さばの干物……。
 「あの」
 腹をさすりながら、ケイタが母親を呼び止める。料理を置いて、厨房へ戻るところだった。
 「飲み物、いただけませんか?」
 「ウチではお出ししてないんですよ」
 表情を変えずにそう言うと、のれんをくぐって行った。
 「干物専門店なのかな、こだわりあるんだね」
 ケイタが愛想笑いを浮かべながら呟く。
 「にしても、ちょっと喉が」
 と、アキノが体をかがめる。イスの下に手を伸ばして、カバンを漁りだした。
 「はい」
 取り出したのは幅広のペットボトルだ。一リットル入りのミネラルウォーターで、彼女はそれをケイタに手渡した。
 「いいのか?」
 「店的にはダメみたいだけど」
 少しだけ迷った後、ケイタはペットボトルに口を付けることにした。唇から舌から喉へ、冷たい感覚が通ってゆく。
 「ありがと」
 「ん」
 返されたペットボトルにアキノが唇を寄せる。ごくりと嚥下した、ケイタの倍は飲んでいた。
 ”女々しいやつかな、俺”、ケイタは鼓動の高鳴りを恥じていた。彼女は歯牙にもかけないで、素早く水をバッグにしまった。
 「あれ」
 のれんをくぐって、少女の母親が新しい料理を運んでくる時だ。ケイタの視界が揺れる。
 ”おかしいな”、彼のすぐ目の前で、音が鳴る。驚いてそちらの方を見ると、アキノが突っ伏していた。
 「どうした」
 ケイタは腕をそちらへ伸ばそうとする、しかし、それはかなわず力なく机に落ちる。
 そして、彼女と同じように、テーブルへ額を叩きつけた。

   高波が姉妹岩のオトで砕けて、泡になって散る。沖で波が生まれる、オトで砕けて泡立ち散る。遠くの方のそんな光景が、ケイタにはやけに近く感じていた。
 座り込んだ尻が熱くなる、立ち上がろうとする気はなかった。腹の虫が鳴る、そもそもこんなところに来るつもりはなかった。
 ”朝食を買いに来ただけなのに”、知らない道をふらふらと好きに曲がったり、曲がらなかったりしていると、いつのまにか海に出た。
 「誰か」
 何度目かになる叫び。自由な左手を精いっぱい振る。
 諦めて、腕を下ろそうとした時だ。
 「キミ、なにしてるの」
 ケイタは上を向く、女性が立っていた。彼からは逆光で顔が暗い。
 彼女は、公道のガードレール越しにケイタを見ている。
 これが、アキノとケイタの出会いだった。ケイタが覚えている二人の最初の記憶だ。
 「バカじゃないの」
 厳しい一言だが、ケイタは甘んじて受け止めた。
 「違うんだよ、この奥に紙みたいなものがあって」
 ケイタの右腕は岩と岩の間に挟まれていた。突っ込んで抜けなくなっていた。
 「じゃ、いっせえので」
 ケイタの二の腕がアキノに捕まれる。”いい匂いがする”、潮と混じりあった香水の匂いが彼を刺激した。
 二人が声を合わせる。すると、ケイタのいままでの苦労がウソのように簡単に腕は抜けた。
 握りこぶしを開くと、古びた紙切れが出てくる。
 「そんなものが欲しかったの?」
 「まあね」
 照れ隠しに頭を掻きながら、二つ折りにした紙をポケットにしまう。偶然、岩と岩の間に何かがあることに気が付いて、理由もなく手を伸ばしただけとは言えなかった。
 「ありがとう」
 「いいよ、別に。親切にするの嫌いじゃないし、知らない仲ってわけじゃないし」
 ケイタが首をかしげるのを見て、アキノは両手を振った。
 「ああ、始業式でなんとなく見た顔だなって思っただけだから」
 口を開こうとしたケイタを制して腹の虫が鳴る。
 「ごはん、食べに行く?」
 彼は頷いた。
  目を開いても暗いので、ケイタは自分がまだ夢の中に居ると思った。
 しばらく、目を開いたつもりのままでいると、ゆっくりと自分の周りに輪郭が浮かび上がってきた。
 どうやら、自分はベッドに寝かされているらしい。彼は腕を支えに上体を起こす。
 脳の周りに羽虫が飛んでいるような気分をケイタは感じた。覚束ない両足を闇の地面に投げ出す。体が一瞬傾いたが、すぐに建て直せた。
 ぼんやり、ドアノブがぽつんと浮いている。彼はそちらへ向かって足を進めた。
 扉を半分開いた時、まぶしさに目を閉じた。廊下は蛍光灯が灯っている。雨戸の隙間から宵闇が差している、夜だ。
 彼は光の下で、ようやく自分の姿が確認できた。いつもと変わりない姿。ポケットの携帯を取り出す、電池切れだった。
 扉の近くにケイタのデイパックがあった。そして、その横にアキノのハンドバッグを見つける。
 「アキノ?」
 更に、もう一つの扉も。二つのカバンはお互いを支えあっている。
 ケイタは自分のデイパックを背負うと、ハンドバッグを手にした。
 ちょうどその時だ。壁越しに、声が聞こえた。
 「アキノか?」
 ドアノブに手をかける、生暖かい。”夏のせいだ。”、ケイタはそう考えることにした。
 汗が一筋、額から垂れてきて、唇の湿り気に合流した。ケイタは扉を開く。
 「なにしてんだ!」
 ケイタは走る。部屋は中央に天井から吊られた豆電球が一つ。
 だが、何が起こっているのか、自分がどうすべきかを、彼は一瞬で判断した。
 アキノの上に男が覆いかぶさっている、男の両手は首に掛かっていて、力ない喘ぎ声が彼女の口から漏れ出していた。
 男がケイタの咆哮に驚いて、ドアの方を向いた。若い男で、明るい茶髪。少女の父親とは別人だった。
 ”どこかで見たような?”、脳裏に過った疑問を振り払って、男に掴みかかろうとするケイタ。しかし、片手で振り払われて、床に尻を付いた。
 ケイタは即座に体を起こして、アキノのハンドバッグで、男を打ち付ける。それも、片手で払われ、バッグの中身が散らばった。化粧品、タオル、ペットボトルがバラバラと落ちる。ケイタも押されて、腰を打った。
 必死で散らばったものから、武器になりそうなものをつかみ取り、彼は立ち上がった。ケイタが選んだのはペットボトルだった。
 飲み口を握り、遠心力を付けて横薙ぎに振る。男の横腹に命中した。
 がむしゃらにもう一度振りかぶる。その時、汗で滑ったのか、もともと緩くなっていたのか、ケイタには分からなかったが、ペットボトルのキャップが外れた。中から水があふれ出す、構わずもう一度体を叩いた。
 それが契機だった。
 「うわぁ!」
 ケイタが男から飛びのいて、ペットボトルを取り落とす。とくとくと水が木目の床に小さな池を作り始める。
 立ち上った白煙が天井に届く前に消えてゆく。異変は腰から起こった。
 男が体をねじりながら、床に転がる。なんの変哲もない長袖シャツとズボンの奥から煙が出てくる。
 頭がペットボトルの飲み口の近くに来る、男が顔から水たまりに突っ込んだ。
 更なる白煙が男の頭から生まれる。煙と煙の合間から、ケイタはそれを見てしまった。彼の体に課せられた呪いを。
 まず、皮膚が煙となる。水に触れた部分から宙に上り空気に溶ける。赤い筋肉がむき出しになる、形のよい歯が並んでいた。眼球がぐるりと回る、鼻に血管がいくつかこびりついていた。
 筋肉が露出した部分の所々から、ぷくりぷくりと血液が湧き出してくる。しかし、それらはすぐさま煙になっていった。唇が落ちる、水の中へ浸かると、消えた。
 苦悶の声が大口から飛び出す、その口の中からも煙が立ち上がっていた。歯を繋ぐ筋肉が溶けていく、ぼろぼろと歯が零れた。
 今や、体中のいたるところから煙が上がっている。やたらめったらに振り回していた両腕がもげて飛んでゆく。腕は轟音を立てて、壁にぶち当たり、溶けた。
 顔は骨が見えてきていた、赤い筋が何本か残っている。右目が落ちた。
 ケイタは何も言えなかった、何が起きているのか理解できていない。
 側頭部から間欠泉のように脳漿が噴き出す。茫然としているケイタはそれを浴びている。
 前頭葉がごろりと鼻の方へ転がった。数本の血管で、頭の上に座った大部分の脳と繋がっている。
 そして、噴水の勢いが弱まり、重力の方向へ戻る頃、最後にあご骨が千切れて、水の中に溶けていった。
 残されたのは服と靴だけだった、全てが煙となり消えてしまった。
 ケイタの服には染みすらなかった、確かに男の体液を浴びたのに。

  アキノの存在、それが彼に正気を取り戻させた。掠れた声を上げ、白目を向きながら、口を開閉させている。
 ”水だ。”、ケイタは直観的に判断して、ペットボトルから水を喉へ流し込んだ。
 せき込んで、いくらか吐き出してしまったが、目に光が戻ってくる。空になったボトルを投げると、ケイタは彼女の上半身を抱えて、起こしてやる。
 「アキノ!」
 まばたきを何度かして左右を見渡し、視線をケイタで止める。アキノがわっ、と泣き出して、腰に手を回した。
 「もう大丈夫か?」
 赤く腫らした目をこすると、アキノは頷く。宙吊りの豆電球を境に二人は座っていた。
 「なんなの、目が覚めたら、苦しくって、男の人が、首を」
 ケイタが首を振る。
 「俺も分からない、けど」
 彼は自分の手が震えていることに気が付いた。”人を、殺してしまったのか。いや、あれは人だったのか。”
 「アキノ、見たか」
 床に落ちた服を指さす。床はもう渇いていた。
 「うん」
 「心当たりがあるんだ」
 ケイタは言って少し後悔する、自分の考えはあまりに飛躍した考えだと思っていた。しかし、現実の出来事の方が、それよりも突然で突飛だった。人が一人溶けて消えた。
 「これは、渇きの呪いだ」
 リュックサックを下ろして、ファスナーを開く。中から一冊の本を取り出した。
 「渇きの、呪い?」
 「さっきの話は覚えてるか」
 ぱらぱらと本をめくるケイタ、見開きの半分に写真が載っているページで止まった。
 「昔、この地では、凶暴な人食いあんこうが暴れていたってのだよ」
 「お坊さんが、呪いをかけて封じた?」
 「そう、錫杖を使って呪いを掛けたんだ。そして、その錫杖は近くの神社へ奉納されて――いや、それはいいか」
 文字に指を這わせながら、本を読み進める。
 「その呪いってのがこれだ」
 一文を指で示して、アキノに見せる。
 「そのもの――古語って読めないよ、私。忘れた」
 「ええっと」
 頭を掻いて、本を自分の正面に戻した。
 「簡単に言うと、体が水に触れると溶けるようになるって呪いなんだ。どこか一部分でも触れると、全部が溶ける。そう言って、僧はあんこうを脅したんだよ」
 アキノが眉を歪めて、髪に触れた。不機嫌のサイン。
 「俺もバカなことを言ってる自覚はある。けど、考えてみてくれよ。人が溶けたんだぞ、俺のかけた水で。これよりバカらしいことがあるか?」
 しばらく、しかめっ面をしていたアキノだったが、ケイタが瞳を逸らさず見つめてくるので、納得するしかないと考えた。まだ頭が混乱していて、これ以上説得力のある反論ができそうになかった。
 「わかった、でもそれがなんなの?」
 「えっ、いや、別に、何がってわけじゃないけど」
 アキノがため息。”なんでこんなこと話してるんだろ。”
 「もうここに居るの嫌、さっさと出よ」
 とんでもないことが起こっているのに、ケイタの素っ頓狂な声で、緊張が解けた。
 それはケイタも同様だった。現実味がなかった。
 「なあ、アキノって法学部だよな。これって、どうなるんだ殺人か?」
 「知らないよ!」
 立ち上がって、廊下の方へ進むアキノ。それにケイタが追随する。
 扉のそばの壁を掴んだ時、アキノの指が突起に触れた。電気のスイッチだったらしく、今まで中心しか見えていなかった部屋の全貌が明らかになる。
 振り向くケイタ。そして、振り向いたことを後悔した。
 「こ、これ」
 暗い眼窩、萎びた細い手足。部屋の隅々に積み重ねられている。
 思わず、アキノが首に手をやった。”私も、ケイタが来なければ。”
 それは、ミイラ状になった死体だった。
 ケイタはアキノの背を押した。

  ケイタが扉を後ろ手で閉める。なんの変哲もない廊下が、今の二人にはありがたかった。
 「その、ごめん」
 何について謝ったのか、ケイタは言わなかった。しかし、アキノには正しく伝わった。
 「謝らないでよ!」
 手首で安いブレスレットが揺れる、夏の夜にそぐわない冷たい空気に彼女の声が伝播する。
 「責めれないってわかるでしょ! こんなことになるなんて誰も分からないじゃん!」
 「でも」
 ”ありがとう”、アキノはそう言うつもりだった。
 「いちいち謝んないで、うっとうしい!」
 どうして自分が怒鳴っているのか、アキノは自分で分かっていなかった。ただ、今の異常な状況が悲しくて苛立たしかった。
 楽しい一日になるはずだったのに、せっかくケイタが誘ってくれたのに。そんな思いが頭の中を回っている。
 「出ようよ、もういいから」
 すっかり萎縮しているケイタを見る勇気が出なくて、アキノは前へ進んだ。
 ”なんでこんなことになったんだ。”、ケイタも同じ気持ちだった。
 脇に挟んでいた本を、現実逃避に開く。左のページに大きな写真が載っていた。大きな岩にしめ縄が巻かれ、札が貼られている。脇の説明文には、『オトにて撮影した封印の大岩』とあった。
 写真に何か引っかかりを感じながらも、バッグにしまう。ふと、ケイタは手を止めた。
 バッグの奥をじっと見ていた。そこに、包装された小さな箱がある。
 ”今日はもう渡せないな”、まだ呑気にそんなことをケイタは考えていた。

  二人はバッグをここに置いていくことにした。少しだけ身軽になる。
 「あの人、行方不明になってた人じゃない?」
 廊下を直進すると、下り階段に出会った。
 奥に行くにつれて暗さが増してゆく段差を二人は歩む。
 「あの人?」
 急に声を掛けられたものだから、ケイタは少し驚いた。
 「その、さっきの、部屋に居た人」
 アキノが慎重に言葉を選んでいることが、ケイタには分かった。
 「ケイタの家で、一緒に見たよね、ニュース。その時に写真が」
 「別に今はいいだろ、誰だろうが」
 ケイタはそんなつもりはなかったのだが、彼女は意趣返しのように聞こえて、耳が痛かった。
 「そうだよね、気にしないで」
 下った先は真っ暗だった。かろうじて玄関扉らしきものが見えたので、二人は一階だと判断した。
 ”よかった、あのレストランだ。”、ケイタに見覚えのある扉だった。
 足音を立てないように扉までに近づくと、ゆっくりと鍵を回した。鍵は外れたが、思ったより大きな音が鳴ったので、二人して肩をすくめる。
 「開けるよ」
 細長いドアノブにアキノが手をかける。ケイタは高鳴る鼓動を抑えるように胸に手を当てた。アキノが唾を飲む。
 彼女が息を吐き、そして大きく吸って――ケイタが後ろから首を絞められた。
 アキノの方にも暗闇が飛びつく、白いエプロン、少女の父親だ。
 ケイタはもがくが、首に纏わりつく手を引きはがせない。触れられている首から、表現できない何かが抜けていくような感覚があった。
 唇の端に張り付くような渇きを感じる、それで理解した。”水分を吸っているんだ。”、彼に理屈はわからなかったが、それは確かにそうだった。渇き、渇かせる、脳裏に積み重ねられた死体が過る。”嫌だ!”。
 ケイタは床を蹴る、力任せに後ろへ飛んだ。背中に張り付いている影が壁にぶつかる。一瞬、首を絞める力が弱まった。
 その期を逃さず、指を外すと、彼は影に向き直った。そして、唾をまっすぐ吐いた。悲鳴ののちに、白煙が上がる。
 ”こんな少しの水分でもいいのか”、ケイタは驚きながらアキノの方へ駆け出す。
 少女の父親がアキノを羽交い締めにしている。肌が見えている父親の首にケイタは噛みついた。
 絶叫と共に白煙。ケイタに茶髪の男が溶けていく姿が想起された。あちらこちらから湧いた血が蒸発してゆく様、前頭葉がだらりと目の前に下がる様。”ああ、あれはちょうちんあんこうに似ていた!”
 二つの叫び声が止むまで、二人は動けなかった。
 ”なんてか弱い命なんだろう”、ケイタは同情していた。
 「行こう」
 「うん」
 アキノがもう一度ドアノブに手を掛ける。扉が開いた、夜のヴェールに包まれた雑木林が見えてくる。
 安堵のため息がどちらからともなく漏れた。
 アキノは振り返り、ケイタへ手を伸ばす。その手を取る。
 「あっ」
 ぐらりと、ケイタが倒れた。廊下の闇の奥から金属の光沢が月下に突き出してくる。レインコートに包まれた腕と共に。
 グリップをビニール手袋越しに握りなおすと、次はアキノが狙われた。金属バットがアキノの肩を叩きつける。
 肩をかばった彼女に近づいたのは、少女だった。二人をここに招待し、二人とタクシーに乗り、二人とあの神社で会った少女。
 少女はアキノの首根っこを掴む、そして、もう片方の手でケイタの体を掴むと、廊下へ引きずり込んだ。アキノは叫んで暴れたが、全くの無意味だった。ケイタは半分失神してなすがままになっていた。
 強い風が吹く、ドアが閉まる。そのむこうから聞こえるアキノの声は徐々に小さくなり、最後は聞こえなくなった。
 
  自分が引きずられていることは分かる、けれども、どうしてこうなったのか今一つ思い出せないでいた。
 ”ああ、あれってもしかして、俺の家にある紙きれじゃないのか。なんとなく気になってたけど、そういうことか。”
 ケイタの思考はまとまらず、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。今は、さっきの本に載っていた写真について考えていた。
 ”あの石に張り付いてた紙が千切れて、浜まで流れて来たんだな。”
 音を立てて床に落ちたチェーンを焦点の定まらないケイタの瞳が漠然と見ていた。
 ”その紙を拾おうとして、俺はアキノに出会ったんだ。”
ケイタの体が上下して、後頭部が角に何度もぶつかる。少女の細腕が二人の襟首から離された時、ようやく彼はまともな思考力を取り戻した。
 本当の暗黒が彼の周りにあった。何も見えない、全身が凍えるほどの寒気だけが吹きすさぶ死に際の世界観。宇宙のような無窮の広がりを感じながらも、窒息しそうな孤独に襲われていた。
 ”地下だろうか。”、壁に上体をもたれて、手足を床に投げ出しながらケイタは思った。両手足をうまく動かせない、頭がジンジンと熱かった。ケイタの後頭部から流血している。
 すぐ近くにアキノの吐息を感じた。動けないのはアキノもケイタと同様で、吐息にか弱い声が混じっている。彼の名前を呼んでいた。
 ケイタの心、無限大の寂寥感に、小さな明かりが灯る。大嵐の海の中心にぽつんと立ったロウソクが光りだした。
 暗闇の中にレインコートの少女が浮かび上がる。少女は二人を見下している、二人と同じ地面に立っていなかった。宙に浮かんでいた。右手にライトを持っている。
 「おまえ」
 渇いた唇の端に痛みが走る、言葉がちゃんと出ているのかケイタには分からなかった。
 そして、次の瞬間。彼は、気が付いてしまった。今までとは比にならない強烈な寒気、瞳を潰されながら歩く地雷原の不安、断頭台への階段。不安のイメージが脳を支配する。
 恐れだ、少女の首から闇へ繋がるそれを意識してしまったから、少女の背後に何が居るのかを理解してしまったから。
 暗さは関係がない、なぜなら、それは暗黒の中に光る大暗黒。世界に闇を投射する恒星。
 ただ、そう、あまりに巨大なので、小さき人の身の認識を越えていただけ。それは優にケイタの三倍、この部屋のほとんどはそれの体に支配されている。
 「ああ」
 少女の体をちょうちんに、闇を周回軌道のようにぐるぐる。
 渇き飢え餓えにあんぐりと開かれたハングリーアングラーの口、無数の鋭い歯が二人に向いている。
 ゴム質の肌は呪いのために本来の湿り気を失って、割れた粘土をケイタに思わせた。
 双眸は赤く、狂気を宿す。ロウソクの光が大波に飲まれて、暗き深海へ落ちてゆく。
 ケイタは喉奥から熱砂が這い上がってくるような感覚に抵抗できない。鼻が奥まで傷んでざらつく、嗅覚が死んでしまったように働かない。脳が記憶のページを乱雑にめくる、一枚の絵が大写しになる。荒れ狂う波打ち際、たくましい腕で錫杖を掲げてそれに対峙する僧。それは大口を開ける。海原に空いた陥穽。
 「暗黒……あんこう!」
 応えるように闇の世界が吠えた。

  二人の理解の範疇を超えていた。現代社会の死角から忍び寄る暗渠の魔物だ。
 アキノの震える歯がかち合って音を鳴らす、少女がふわりとケイタの前に着地して頭を垂れた。
 茶褐色の管が暗黒あんこうの頭頂部から、少女のレインコートのフードの奥まで続いている。管には、連なるさざ波の模様が、しわによって形作られている。
 少女がライトを床に置き、両手でフードを引っ張ると、うなじを晒した。生物味を欠いた白い肌に、それが突き刺さっている。
 音もなくそれが引き抜かれた。血は出ない、少女の首に赤い内壁を覗かせる穴が生まれた。凝固した血流が死斑を作っている。
 大きな輪に繋がれた小さな六つの輪が揺れるたびに音を鳴らす。色は金、アキノはなんとなく、ケイタは正確に、それがなんなのか思い出す。先の尖った錫杖だ。
 ”あれは、まずい。”少女にも、その両親にも、行方不明になっていた青年にも、渇きの呪いが掛かっていた。錫杖が揺れながら上昇していく。
 逃げなければと、ケイタは思う。しかし、体が動かない。生気を吸い込む暗黒の恒星が二つの瞳を光らせていた。
 錫杖は上昇を続けていた。全神経を集中して、舌をようやく動かせた。渇いた舌を剥がすので痛みが走る。”唾は、ダメだ。”半開きになったままにしていた口内はすっかり乾いていた。
 肩が震える、寒気が止まらなかった。凄まじい熱源が近くに居て、渇いているのに、真冬より凍えていた。股間に暖かい感触、彼は失禁を始めた。情けなさすら感じる余裕がケイタになかった。錫杖が止まった。
 ケイタが瞳を巡らす、暗闇、暗闇、暗闇より暗きもの、動かない少女。ライトの小さな明かりに照らされた二つの瞳。”アキノ。”彼女が彼を見ていた。風を切る音が鳴る。
 瞳から顎にかけて涙の跡を見た。”アキノに涙は似合わない。”錫杖が振り降ろされていた、ケイタに向けて闇の中を一直線に走る。
 「ちょっとだけ、目を閉じててくれ」
 ロウソクに火が灯った。嵐の中、混乱する夜の海の底、白砂と共に渦に巻かれる中で。ケイタは懐に構えた腕を管に向けて振った。
 部屋どころか屋敷全体を揺らす振動が起こる、耳をつんざく声、錫杖は闇をかき乱すと、管から千切れて、回転して床に刺さった。
 ケイタが右手を上げている、指先は濡れていた。
 「えっ」
 困惑したのはアキノだった。目をつむっていた一瞬の間に何が起こったのか分からなかった。
 ケイタが腰を上げる、ベルトの外れたジーパンが地面に落ちた。トランクスから半分尻が出ていて、アキノはまた目を閉じた。
 もう彼に恐れはなかった、少女を押しのけると、大暗黒へ向かった。左手で後頭部を掻きむしる、固まった血の奥から血が流れだした。
 言葉にならない叫びをあげて、あんこうに両手を押し付ける。闇そのものを掴んだような、水で出来た粘土を掴んだような感触がケイタの手から這い上がってくる。
 恐ろしくなったケイタは両手を引きはがすと、ジーパンを腰まで上げた。
 「アキノ!」
 耳元で急に呼ばれて、アキノは驚きながら目を開ける。
 「立って! 逃げるんだ!」
 ケイタに腕を掴まれて、強引に立たされる。アキノの近くに落ちていたライトをケイタは拾った。
 屋敷を揺らしている振動は更に強くなり、声もまた大きくなる。
 「あれ!」
 白煙の向こうにアキノが階段を見つける、二人は肩を組んで走り出した。
 あんこうが叫んでいた、苦痛のためではなく、恨みのために。
 「いたっ!」
 階段まで、あともう一歩というところで、アキノがバランスを崩す。そして、そのまま転んだ。
 太ももが切れていた。足をかばうような仕草を見て、ケイタはそばに屈んだ。
 「足、持つぞ!」
 ケイタが両手をアキノの膝の裏に回す。彼は自分の力に驚いていた、ケイタがアキノを持ち上げている。今だからできることだった、彼女のためだからできることだった。
 階段を駆け上がる、玄関まで続く廊下が現れた。雨戸の隅から日が差している。二枚のエプロンと、二人分の服が落ちていた。少女の両親が残したものだ。
 揺れが更に酷くなる。ケイタは自分がまっすぐ走れているのかどうかすら分からなかった、そして、ドアノブに手を――。

  テラスが、二階のベランダが、家が、レストラン『ハングリーアングラー』が崩れてゆく。その様を二人が並んで眺めていた。ケイタの右手がアキノの肩にかかっている、もう一方は腰の辺りでアキノの両手に包まれていた。
 「魅入られていたんだと思うよ、書いてあったんだ。あのあんこうは人を邪心に染め、操るって」
 明るい空に散らばる木材の粉塵が、白煙に見えて、アキノは何か物悲しくなる。小さく漏らした声は爆砕音で消えた。
 やがて、音は止んだ。木々に囲まれた瓦礫がそこにあった。かつて、レストラン『ハングリーアングラー』であったところに。
 「帰ろう」
 アキノが頷く。と、鼻をひくひく動かした。
 「ケイタ、臭い」
 渇いた彼の右手からアンモニア臭がしていた。

  ”お互い酷い恰好だな。”、苔むした水盤からケイタは手を上げて、ジーパンで水を拭いた。
 アキノのパーカーとシャツは所々破れ、純白だったショートパンツは黒く汚れていた。太ももに大きな傷も作っている。ケイタの下ろしたてのジーンズは破れ、後頭部がまだズキズキ傷んだ。パンツの履き心地も悪い。
 二人は神社に来ていた、『ハングリーアングラー』の裏手、『地鎮祭』が行われた場所。
 本堂の右側の階段にアキノは腰かけている。ケイタはひしゃくを使って水を飲んだ。口が潤ってゆくのを感じた。
 「アキノもいるか?」
 ひしゃくを向けると、アキノは両手を振った。
 「気分じゃないの」
 ”せめて、足の血でも落としたらどうだ?”、そう言おうとした出鼻を挫かれる。アキノが言葉を続けた。
 「さっきはごめん」
 うつ向いて、ケイタからは表情が見えない。しかし、どういう顔をしているか、彼には容易に想像できた。嫌いな顔だ。
 「さっき?」
 「その、怒鳴っちゃったでしょ」
 二階の廊下を歩いていた時のことだ。
 「いいよ、別に」
 「でも!」
 両手を境内に叩きつけて、アキノが飛び跳ねる。充血した瞳を彼へ向けた。
 「いいから」
 ケイタがアキノの肩を押さえながら、隣に座る。
 「優しいんだ」
 からかうような語調に、ケイタは少し安心する。アキノは指の震えを隠して、大きく息を吐いた。
 「また助けてもらっちゃったね」
 「また?」
 くりくりした瞳がケイタの方へ向けられる。アキノは体を乗り出した。
 「ね、あの紙ってまだ残してるんでしょ」
 彼は顔を背けた、朝焼けの空に視線を遊ばせる。
 「知らないよ」
 アキノはほほ笑む、彼がウソを付くのが苦手なことを知っていた。
 「じゃ、二人がどこで会ったか覚えてる?」
 「そりゃあ、海岸だろ」
 会話が途切れて、沈黙。怖くなったケイタが向き直った。
 「ね、大学の試験日のこと覚えてる?」
 矢継ぎ早に話題が切り替わる、ケイタは若干置いて行かれながら答えた。
 「いや、緊張しててあんまり」
 アキノは唇を尖らせ、髪を触った。
 「駅でさ、会場が分かんなくて困ってた女の子居たの覚えてない?」
 ケイタが必死で記憶を辿る。しかし、何も思い出せなかった。
 「ごめん、覚えてない」
 ケイタの額に汗が滲む。
 「もうっ!」
 ケイタが目を閉じて顔を背けそうとする。しかし、アキノの手で戻された。
 「――――」
 彼が目を開くと、初めて見た光景があった。いや、近いものは見た。あの夜、タクシーに乗った日に。
 ぴんぴんとしたまつ毛が、ケイタの目の前にあった。ラメで輝くまぶたがあった。濡れた彼の唇が熱を受け取っている、アキノの唇から。
 ”ああ。”言葉にできない感情が駆け巡った、炎が燃えている。大暗黒を照らした火よりも強く、体を焼いている。
 二人の唇が触れ合ったのは一瞬だっが、ケイタには今までのどんな時間よりも長く感じた。
 ケイタの心臓が跳ね回る、アキノも同じだった。胸に燃えていた炎が喉まで上がって、顔を染めてゆく。
 ”今しかない。”、ケイタは後ろのポケットに手を回した。
 ――時、だった。彼は気が付いてしまった。気が付かなければよかったのだろうか、いや、いずれにしてもいずれ分かることだった。
 「あ」
 ケイタの口が開かれる、驚愕のため。
 「ああ」
 眉が下がり、瞳が潤む。逃れられぬ未来が、分かってしまった。
 その表情にアキノは異常を感じた。そして、今だ冷めやらぬ頬に手を当てる。
 ケイタを見ている視界が遮られる、それは――白煙。彼女は気が付く、熱いのはどうしてか。
 「あああ」
 ケイタが肩を掴んだ。錫杖は、一体どこへ落ちたのか? アキノは、一体なにで足を切ったのか? 二つの問題文に、回答を書き込めないでいた。ビニール手袋、少女。行方不明になっていた青年、鼻先に吊るされた脳。錫杖、あんこう。イメージがいくつも浮かんでは消える。
 アキノの唇から、白煙が立ち上っている。ケイタがアキノを抱きしめる、そうすることしかできないと思った。
 「いや、いやあ」
 渇きの呪いとは、どういうことか。水を受け付けなくなるというのはどういうことか。
 水は生命の証、人は海から生まれている、水がなければ生きてはいけない。
 水を飲めないということは、もう既に死んでいると同じ。
 アキノの感じている痛みは、融解によるもの。桜色の唇がめくりあがって、煙に変わってゆく。
 あんこうを封じた僧は、自らに殺生を禁じている。魔物とはいえ、闇から生まれ、闇に死ぬわけではない。立派な血袋で、生命だ。
 だから、封じた。しかし、もう生かしているつもりもなかった。
 渇きの呪い、必滅の宿命。首筋に刃、こめかみに銃口。あんこうの復讐心だけが、僧の目算を上回っていただけだ。
 アキノはもう眼球を失っていた、眼窩から最後の涙にそって白煙が上がる。地元に居る母親が脳裏に浮かんで、彼女に唾を吐いた。唾が当たった額が溶けてゆく。
 「アキノ、アキノ、アキノ!」
 皮膚が無くなり、全身が痛んだ。この世の全てが、彼女を苛む。朝日すら、潮風すら、空気ですら、背中を抱くケイタですらも。
 「ケイタ!」
 それでも彼の名前を呼んだ、それだけができることだった。液体混じりに掠れても、名前を呼び続けた。
 ケイタは見れなかった。彼女にこぼした涙が、決別を更に速めた。どうしても止まらなかった。
 彼の両手が自分の肩に強く当たる、足元に何かが落ちた。
 叫ぶ、とうに喉は枯れていた。泣き叫ぶことしかできなかった。
 ケイタは地面に崩れ落ちる、服があった。そして、その上にビーズの安いブレスレットが乗っていた。

  太陽が彼の上に昇る頃、ケイタは立ち上がった。両手で顔を覆ったまま、木々の向こうへ消えていく。
 藪に足を突っ込む、その時に、彼のポケットから転がり落ちたものがある。
 高級なケースに包まれた真珠のブレスレットが、ビーズのブレスレットの近くで輝いていた。
 
  姉妹岩は海と陸とで分かたれた。オトが海で、ヤチオが陸。海に浸かれぬ理由ができたのか。そんなことを思いながら、男は帽子のつばを上げる。海岸線を一台のタクシーが走っていた。
 「わっ」
 驚きながら、急ブレーキ。朝日に照らされた道の真ん中に人が立っていた。
 「お嬢さん、危ないじゃないか!」
 男は窓から首だけ出して叫んだ。
 「って、あの時の?」
 ランプを賃走に切り替えると、助手席のドアを開いた。
 「乗りなさい、これから帰るところだから」
 少女はにこやかに車へ駆け寄る。後ろ手には錫杖が握られていた、ビニール手袋越しに……。

Meltykiss

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-08

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