蝶と蜘蛛

 
 駅前から南に真っ直ぐ延びる大通りには、桜並木が続いていた。
 晩秋の候、大方葉を落とし尽くした裸木の列に沿って、曇天の空模様さながら憂鬱な表情で通りを彷徨する男がいる。もう冬はすぐそこまで来ようとしているのに、コートもまとわず薄手のジャケットを羽織っているだけである。足元は定まらず、何度か躓きそうによろめいた。いったいどこに向かおうとしているのか自分でも分かっていないとでもいうかのようなその足取りは、まるで夢遊病者のそれのようであった。
 男は、芸術家を志す若者だった。去年の四月に都内の美術大学の油絵科に通い始めてからは、学科の授業以外の時間は日がな一日絵を描いて暮らす日々を過ごしていた。
 ところが、男はここ三月程全く絵を描いていなかった。描かないのではない、描けないのである。始まりはどんな理由があったのか覚えていない。もとから理由などなかったのかもしれない。夏の終わりごろから徐々に絵を描くことへの興味が薄れていった。次第に絵筆を取ることさえ苦痛に感じるようにさえなってきた。ついに或るとき、男は自分が全く絵をかけなくなっているという事実にはたと気がついた。それから一週間が過ぎ、一月が過ぎても再び描けるようになることはなかった。もちろん男自身もこの状況に対して黙って拱手傍観していたわけではなく、なんとか無理にでも描こうと強いてキャンバスの前に立ったこともある。しかしイメージも創作意欲も何一つ湧き上がって来ることはなく、手元のパレットの上でぐずぐず油彩絵具を混ぜ合わせるだけで時間は過ぎていき、結局いつまでもキャンバスは白いままなのであった。
 この頃になっては、焦っても仕方ないと半ば諦め気味に悟り、なるべく絵のことを考えないようにして過ごすようになった。自分でもわけが分からないまま描けなくなったことであるから、再び描けるようになるきっかけも自分では分からないところにあるのかもしれない。それならば徒にあがいても仕様がない。そう考えるようになってから、男は意識して自らの生活を絵から遠ざけた。決して安くはない学費を親に拠出してもらっている大学も、絵を描けないのであれば意味がないと行くことが少なくなっていた。その代わりに空いた昼間の時間を、男はよく自宅の付近を散歩することに充てるようになった。
 男の下宿しているアパートは大学から少し離れた閑静な住宅街にあった。周りには個性を失くしたコンクリート造りの家々が乱立している。その間を縫って少し行くと桜並木の大通りに出る。男が好んで散歩するこの道は、直線的でありながら通りの果てを肉眼では確認することができないほど長く続いていた。この道はどこまでもどこまでも続き、自分の全く見知らぬ異郷の地まで繋がっている。そうした空想は男を愉快にした。そこでは自分の住むこの街とは全く違う風景が広がっている。そして全く異なった風習や言葉をもつ人々が住んでいる。時にはそこは日本ではないような気さえした。もちろんそんなことは有り得るはずはないのだが、不思議と男にはそれほど荒唐無稽な考えとは思われなかった。

 今日も大学にも行かず、いつもと同じコースをたどって並木道まで出てきた。遠い目をしながら通りを歩いていたかと思うと、ふと一本の裸木の前で足を止めた。寒々しい枝の間になにか揺らめくものが見えたような気がしたのである。目を凝らしてよく見てみると、枝と枝の間に大きな蜘蛛の巣が張ってあるのだと分かった。男は木に近寄り下から覗き上げるような形で蜘蛛の巣を眺めた。周りの木には全く蜘蛛の巣など張ってはいないし、それにその大きさが普通の蜘蛛の巣の三倍はあろうかという巨大なものだったことが男を不思議がらせた。巣がこれほど大きいのならこれを作った蜘蛛の大きさも相当なものだろう、と考えた。
 そうして何の気なしに眺めていると、巣の端のほうに獲物らしきものが掛かっているのに気がついた。蝶であった。一見しただけで蝶と分からなかったのは、その蝶の左羽が三分の二ほど引きちぎれたようになくなっていたからである。もしかするとこの巣の主に食いちぎられたのかもしれない。しかし蝶はその左羽を失ってもまだなお生きていた。その証拠に、時々なんとか自分の体の不自由を奪っている粘着質の繊維から体を引き離そうと身もだえしていた。たとえこの巣から逃れられたとしても、片方の羽を失くした体では飛び立つことなどできないというのに、まるでそんなことには気づいていないのである。
 その様子を見ていた男を、或る感覚が襲った。それはどこからか前触れもなく突然現れて、瞬く間に男の体を脳天から爪先へと貫いた。その次の瞬間、男は体の奥のほうから震えが湧き上がってくるのを感じた。それを抑えることもままならず、恍惚とした表情で男は呟いた。
――俺が求めていたものは、これだったんだ。

 男には付き合って二年ほどになる女がいた。四年制の普通の大学に通うごく普通の女だった。容姿こそ一般に美人と呼ばれる範疇に含まれるとはいえたが、絶世の美女というわけでもなく、いわばどこにでもいるような美人だった。自宅へと戻ってきた男はすぐさま携帯電話を取りだして女のところに電話をかけた。三回ほど呼び出し音が流れたところで女が電話に出た。
――今すぐ僕のところに来てくれないか。
 男は前置きもなく切り出した。
――構わないけど、急にどうして? 何かあったの?
――ひょっとすると絵が描けるかもしれない。
――本当に? それならなるべく早く行くね。
 女の家は男のアパートから程近いところにある。電話を切ってから三十分ほどで女はやって来た。
――絵が描けるかもしれないって、何か特別なことでもあったの?
――ああ。でもそれには君の協力が要るんだ。
――私でよければ力になるけど……。何をすればいいの?
――君にモデルになってもらいたいんだ。
――えっ。でも前にも私がモデルになったことがあったけど、描けなかったじゃない。
――でも今日はきっと描ける気がする。何しろ、今日僕は美しい蝶を見たからね。
――蝶?
――そう、蝶だよ。それは今までに見たことも無いほど美しい蝶だった。なぜだと思う?
――え。さあ。見たこともないような色使いの紋様だったからとか?
――違うよ。それはね、その蝶の左羽が引きちぎられてしまっていたからなんだ。僕は今まで、完全なものこそ美しいものだと思っていた。でも、どうやらそうじゃなかったようなんだ。その左羽のない蝶を見たとき、僕は気づいた。むしろ、「完全性の欠落した姿」にこそ美の核心があるんじゃないか、ってね。本来あるべきものがそこにないという虚しさや喪失感、しかし他方で失った部分に対するバランスを限界のところでなんとか保とうとしている。そういうもう一押しさえすれば崩れ落ちてしまいそうなギリギリのところにこそ、ホントウの美が生まれるんだ。
――何、言ってるの。分からない……よ。
 女の顔は、蒼ざめていた。口元には引きつった笑みが浮かんでいた。
――-分からない? なら教えてあげよう。
 そう言うと男はおもむろに立ち上がり、奥の台所へと引っ込んでいった。すぐに再び戻って来た男の右手には、ナイフが握られていた。
――怖がる必要は無いよ。君は綺麗だと思う。整った顔立ちをしている。けれど君の美しさには決定的な弱みがある。それは、整いすぎていることさ。君は自らの完全な均衡ゆえに自己完結してしまっているんだ。なぜダヴィンチの「モナリザ」が人を惹き付けるか知っているかい? それは、彼女の顔が微妙に左右非対称に描かれているからさ。シンメトリーは良くない。だから、僕は君のバランスを少し崩してあげる。
 そう言って、男はナイフを持った右手を振りかざした。
 すると、次の瞬間。
 突然、男の目の前が真っ暗になった。
 男は何が起こったのか即時には理解できなかったが、暗闇の向こうで何か大きなものが動くのを感じた。初めは抽象的な黒い塊に過ぎなかったそれが、暗闇に目が慣れるにつれて次第に明瞭な形を成していった。表面に細かい毛が無数に生えた黒褐色の躰。そこから左右に伸びる節のある細長い脚。横を向いている顔には赤黒く光る眼がいくつも並び、口元からは鋭い牙のようなものが覗いている。それは一匹の巨大な蜘蛛であった。
 男はそれを見たとき、直感的にこれはあの桜の木に巣を張った蜘蛛だ、と勘付いた。蜘蛛もこちらに気づいたのか、男のほうに顔を向けた。そのとき男が驚いたことには、その蜘蛛は笑っていたのである。無論蜘蛛に表情などあるはずはないのだが、男には蜘蛛の顔に浮かんだ笑いを明らかに感じることができた。それも、男を嘲るかのような皮肉じみた薄ら笑いを。
 男は、この不可解な状況に対する疑問よりも先に、蜘蛛に対しての激しい憤りを感じた。歯軋りをしながら蜘蛛に真っ直ぐ近づいていった。近くで見ると、思っていたよりも断然大きかった。自分と同じくらいの体躯をしているではないか。しかし男は怯むことなく、持っていたナイフを真正面から蜘蛛の顔面目掛けて力いっぱい突き刺した。えぐられた傷口からは紫色の粘り気のある液体がにじみ出てきた。ところが、蜘蛛には痛がる様子など微塵も見られない。口元にはまだ薄ら笑いを浮かべてさえいる。
――何が可笑しいんだ。やめろッ。 
 男は二度三度とナイフで突き直す。しかしまるで効果がないばかりか、蜘蛛はますます可笑しそうに笑い出す。ついにそれは高笑いに変わった。暗闇の中に響く笑い声に取り囲まれて、男の怒りは急速に熱を失っていき、次第にそれは絶望と恐怖へと変わっていった。
――やめろ、やめてくれッ。

 男は自らの叫び声で意識を取り戻した。目の前では女がうつ伏せに倒れ、その周囲には絵の具をひっくり返したような鮮やかな血だまりが広がっていた。横を向いた顔は、何が起きたか分からないというような表情で、大きく目を見開いたまま固まっていた。
 男はやがて思い出したように右手に提げていた血塗れのナイフを放り投げると、胸ポケットからロングピースを取り出し、口にくわえて火を点けた。一つ煙を吐き出すと、囁くような低い声で男は呟いた。
――俺が求めていたものは、こんなものじゃないんだ。

蝶と蜘蛛

美学についての話。アシンメトリーについての考察。芥川の「地獄変」のようなものが書きたかったのかもしれない。

蝶と蜘蛛

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-01-31

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