*星空文庫

私のガードレール

rimo 作

 あの頃の私は、祖父を恥ずかしいとすら思っていた。
 昭和六十年頃、母方の祖父母と両親と私の五人で、東京杉並区の古い一軒家で暮らしていた。バブルへ向かう世の中は、昭和の面影など、肩身も狭そうに身をひそめた。新しければそれでいい。そんな風潮は、子どもたちの間にも押し寄せた。友だちは、鬼ごっこをやめて、代わりにファミコンに夢中になった。
「今日は、家族の種類を勉強しましょう」担任の先生が、家族の種類を教えようと、はたらきかけた。教室の前から三列目の児童たちを指す。端から順に、家族構成を発表するように促す。私も三列目の児童の一人だった。
 端の子が「お父さん、お母さん、お兄ちゃん」と答えた。次の子は「お父さん、お母さん、妹」と、その次の子は「お父さん、お母さん、お姉ちゃん、弟」と答える。兄弟姉妹の種類が全部出揃ったと気づいた。
 私の番が来る。祖父母と同居している人が誰もいない。祖父母との同居が珍しいと初めて知った。焦った。一人っ子が少ないのは承知している。何度も批判され、慣れている。祖父母との同居もからかわれるのかな……。自分が否定されるならまだしも、祖父母を否定されたくない。言いたくない気持ちを押し殺す。
「おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん」
「これで、全部の家族の種類が出そろいましたね」
 私が声を絞り出すと、先生は満足げな顔をした。
 先生は、クラスの児童の家族構成を把握している。前から三列目の児童が自分の家族を発表すれば、祖父母や父母、兄弟姉妹という家族の主な種類が出揃うと見越していた。先生の思惑を、その時、悟った。
 クラスの人に祖父母の存在を知られ、恥ずかしい。肩身の狭い想いを抱えながら家路につく。一緒に帰る友だちと別れ、一人になると自宅が見える。
その日もいつも通り、祖父は、家の前のガードレールに腰かけている。そうやって、私の帰りを待つ祖父と、ニコッと笑顔を向け合う。私の照れ隠しで、別々に家に入っていく。私たちの習慣だった。
 祖父はいつも同じ服装だった。白いワイシャツに紺のズボン、皺だらけの黒革ベルトに、茶色のサンダル。塗装されたコンクリートの道路の脇に、建売の新築住宅が増えていく。道行く人たちの服装は派手になった。時代の中で浮くような、地味な祖父の姿をみつけると、誰かに見られないかと心配した。家は学校の通学路に面している。何でもからかう材料にする男子に見られていないかと、いつも焦る。新しい時代は、年寄りの愛情表現さえも、嘲笑の対象だった。
 口数は少ないけれど優しい祖父が、本当は大好きだった。それなのに私は、クラスメイトが通りかかると、恥ずかしさに負けて、祖父に対し他人のふりをして、家の中に飛び込む。祖父は不思議そうな顔をした。淋しげだった。私は、祖父を傷つけた自分が嫌で、不機嫌にさえなった。
祖父は、福島県の農家の四男として生まれた。同郷の祖母と上京すると、すぐ出征した。私の母の杏子が産まれたときは戦地にいた。幼い母は、父親を知らずに育った。祖父が一時戦地から戻ると、母は「このおじちゃん、いつ帰るの?」と尋ね、祖父はただ黙った。数か月後、戦地からの祖父の手紙には「杏子をだいず(大事)にしろ」と綴られていた。死を覚悟した祖父が伝えたかった、たった一つの願いだった。
 祖父は銃弾が入ったままの体であったが、運よく生還した。結局、家族で暮らし始められたのは、母が十歳の頃だった。祖父は生計を立て直すため、すぐに郵便局に勤め始めた。新宿の牛込郵便局付になり、GHQや神楽坂の芸者街が配達区域になった。GHQの職員には、配達の度に中に招き入れられ、コーヒーでもてなされた。
 夜が明けないうちに出勤し、夕方に帰宅し、夜の八時に就寝する。年末年始の一週間は帰ってこない。いつも活き活きと仕事に向かった。退職して十年が過ぎても繁忙期には手伝いに呼ばれた。
 もの静かだったが、配達地域の人たちとのふれあいが好きだった。郵便局の保険の外交を任されると、営業成績は局内一だった。公務員なので収入が増える訳ではない。日ごろの信頼関係の賜物だった。祖父がほめられると、祖母や母は、勤勉だけが取り柄の人ですから……と言った。
祖父は、本当は頑固だった。当時、待遇の交渉が労使関係において激化していた。サボタージュが増えた。祖父には、配達をしないという手段が納得できない。お客を困らせる交渉手段はしたくない。急ぎの大事な文書があると、周りから足並みを揃えろと責められようが、我、関せずとばかりに配達する。
 孫の私が生まれると、東京から私の暮らす名古屋まで、七十になる祖父母は頻繁に来てくれた。名古屋は父の転勤先だった。幼児をあやす経験のない祖父は、私を猫じゃらしであやす。やがて扱いも慣れ、抱っこをするようになった。四歳の私が祖父に抱っこされ、喜んで興奮する写真が残っている。
わが子の幼少期を知らないだけに、子どもの扱いは不器用だった。祖父にとって、学校から帰る私を待っていたのは、最大限の愛情表現だった。だから、本当は恥ずかしくても、「恥ずかしいから、やめて」と告げれば、子どもの反抗に慣れていない祖父を傷つけると思って言わなかった。
 田舎の中学校しか出ていない祖父。物静かだった祖父。だけど、ひたむきに働いて家族を養ってきた祖父が、本当は私の誇りだった。
 私は思春期を迎えると、同性の祖母や母とばかり接するようになった。それでも、祖父は隣でニコニコしながら温かい眼差しで私を見守る。娘の幼い日をそこに見ていたのかもしれない。
 ある日、中学二年生の私が学校から帰ると、母が急いで玄関の外に出てきた。
「さっき、おじいちゃん、死んじゃったの」
 最近、祖父との会話が減っているから、帰ったら話しかけようとしていた。
「もっと、おじいちゃん孝行すればよかったよ」
 悔しくて泣きながら母に訴えた。もっと喜ばせられたのに……。
 葬儀が終わり、学校に通い始める。家に着くと、いつものガードレールが見えてくる。もう、そこに祖父の姿はない。本当はいつだって、ガードレールに腰かけている祖父を見つけた時は、嬉しかった。なぜ、私はもっと素直に喜ばなかったのだろう。二度と会えないことが身に染みた。
死の間際、急に体や声が弱々しくなった。か細い声で、コーヒーを飲みたいと訴えた。母は慌てて、外の自販機に買いに走る。好物になったコーヒーを、娘に飲ませてもらいながら息絶えた。誕生に立ち会えなかったが、何よりも大事だった娘に看取られた。後から聞いて、嬉しかった。やっぱり、お母さんの方が、私より喜ばせられる。おじいちゃんにいい娘がいてよかったと安心した。
 年月が過ぎ、私も偶然、公務員になった。組織と一般の人々の狭間で、何度も悩んだ。状況を良くしようとするほど、汚れ役や矢面になり、損な役回りをしなければならない。つらくて辞めたい時はいつも、勤勉だった祖父に似ているはずだと自分に言い聞かせた。
 最近になり、祖父の遺品の一部を整理したら、辞令書が何枚も出てきた。公務員が異動や昇格の度にもらうものだ。祖父がもらい続けた辞令書を、今度は私が何枚ももらっている。跡を継いだようで、嬉しくなった。あの頃、ガードレールで私の帰りを待っていてくれたように、今もどこかで、私の成長を待っていてくれている気がした。                〈了〉

『私のガードレール』

『私のガードレール』 rimo 作

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-02-07
Copyrighted

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