〖第三章〗眠れぬ夜は君のせい

〖第三章〗眠れぬ夜は君のせい

■第119話 春

 
 
 
春、それぞれの新しい日々がスタートした。
  
 
リコは電車に乗って3駅離れた美術短大に通い始めた。
ナチは地元の女子短大で国文学を学ぶ。
コースケは昼間はバイト、夜は学校に通い幼児教育を勉強している。
リュータは就職活動に重い腰を上げた。
リカコはまたさっさと一人で海外へ旅立って行った。
 
 
みんな忙しい毎日を送っていたが、週末は誰からともなく集合し相変わらず
笑い合っていた。まるで当たり前のようにみんなでいられる事に、誰一人、
口に出さずとも心地よさを感じずにはいられなかった。
 
  
 
 
 
入学式の日。
 
 
リコは若干、緊張の面持ちで大学に向かった。

濃紺スーツにフリルが付いた春らしいピンク色のシャツ、フレアスカートは
膝丈でやわらかく踊るも、着慣れない感じが否めなくて落ち着かない。
 
 
4大に併設された短期大学部が広大な敷地内にあり、短大の校舎に向かうだ
けでも簡単に迷子になりそうで、リコは不安げに辺りをキョロキョロ見渡す。
 
 
短大は一応固定のクラスはあっても受講する講義は各自で選択する為、高校
の時のように常に行動を共にする ”クラスメイト ”という感じではない。

どうやって友達を作っていったらいいのか不安に思いながら、入学式終了後、
渡された書類の数々を目に溜息を落としながらリコはひとり、フラフラと当
てもなく校舎を歩いていた。
 
 
油絵の具の匂いと鼻歌を歌う声に導かれるように迷い込んだ東側の校舎の、
とある教室。
 
 
新しい大学ではないため各教室古びてはいるけれど、更に輪をかけてくたび
れた感じの、その教室。講義で使用している感じはない。一目で空き教室だ
と分かるそれから流れて来る鼻歌に、リコは小首を傾げながら恐る恐る扉を
開け少しだけ覗き込んでみた。
 
 
ギギギと耳障りな音を立て扉はスライドして開いた。

明らかに埃っぽくて、少しどんよりと空気が淀んでいる。
わずかに開けている歪んだ木枠の窓から入る春風に、すっかり日焼けして黄
ばんだカーテンが小さく小さく揺れている。
 
 
絵具が飛び散り部分的にやたらとカラフルに染まった床に、コーヒーの空き
缶と握りつぶしたタバコの空き箱がゴロゴロと転がり足の踏み場もなくて、
お世辞にも描きやすそうには見えない環境だ。
 
 
 
その奥で、
洋服を絵の具だらけにした痩せた背中がキャンバスに向かっていた。
 
 
 
ワイヤレスのゴツいヘッドフォンをして鼻歌にしては大きめの声で歌い、
体は右に左に小さくリズムを刻んでいる。
 
 
ひと気ない東棟校舎の殆ど物音もしないようなそこに、鼻歌と脚がリズムを
取る度にミシミシと軋む古床の立てるそれが響き、なんだか騒々しさが際立
ってどこか違和感が否めない。
 
 
その様子にどれだけ荒々しく情熱的な絵を描いているのかと、リコはその絵
を見てみたいという衝動にかられ、自然に足は教室内へ一歩また一歩と進ん
で行った。
  
  
 
  ♪ンン・・・ン~・・ンンン、ンン~・・・
 
  
 
鼻歌がより近くに響く。 

ヘッドフォンから漏れる音の大きさで、どれだけのボリュームで音楽を聴いて
いるかが分かる。実際この人の耳には、頭が割れそうなくらいの音量が流れて
いるのだろうと、それを想像してリコは少し顔をしかめた。
 
 
その人は、背後から徐々に近付ているリコに全く気付いていない。
 
 
 
そっと、肩越しにキャンバスを覗き込んだリコ。
 
  
  
 
 『キレイ・・・・・・・・・・・・・。』
 
  
  
思わず、喉が震えて声がこぼれた。

そこには、想像していたものとは全く真逆の、目映くやわらかい風景が広がって
いた。やさしく温かく、なんだか懐かしさすら込み上げるそれに一気に胸が締め
付けられ、鼻の奥がツンと痛む。
 
 
無意識のうちに思わず足が前に出て、リコは引き寄せられるようにキャンバスに
近付きその人の横に立っていた。
  
  
 
 『・・・新入生?』
  
 
 
その人は低く穏やかな声で一言だけ呟くと、瞬きも忘れ呆然とキャンバスを見つ
めたままのリコに目をやり、ヘッドフォンを頭からはずして首に掛けた。
少しずれたメガネを右手指先で上げた時、握る絵筆の絵の具が頬についた。
 
 
リコはゆっくりゆっくりキャンバスからその人へと視線を向ける。

伸び放題の無精ひげとボサボサな頭、長身で姿勢が悪い痩せた身体。顔色も悪く
どこか虚ろな目の奥は、必要以上に感情を出さないバリアが張られているように
も感じる。
 
 
 
 
 
  何故だか、その人から目を逸らせなかった・・・

  
  
  
それが、キタジマとの出会いだった。
 
 
 

■第120話 キタジマ

 
 
 
 『キレイですね・・・。』
 
 
 
リコは、その絵を見つめたまま動けなくなっていた。

なんだか吸い込まれるようで瞬きも出来ず、呼吸をするのさえ忘れてただ真っ
直ぐ見惚れる。
心臓がドキンドキンと急速に音を奏でて、頭の先から足の先までうるさいくら
いに体中で響く。
  
 
 
 『・・・今日からか?』
  
 
 
握っていた絵筆をすぐ横の絵具が散乱する机にポンと放り投げて、その机の
上で絵具にまみれて転がっているタバコの箱から1本取り出し咥える。

だいぶ年季の入ったイスに沈むように深く座り込んだその人は、キタジマと
名乗った。きっと購入当初は厚いクッションの背もたれが快適だったのだろ
うと思えるイスが、今はすっかりキタジマの身体に馴染むようにくたびれ、
革は擦り切れて所々中の白い綿が見えてしまっている。
 
 
暫しキャンバスに見惚れ続け、リコは自分が名乗っていないことに気付く。

慌てて『今日からお世話になります、タカナシです。』とペコリと頭を下げ
小さく会釈をした。
 
  
キタジマはイスに身体を預け、ぼんやりと遠くを見つめて煙を吐いている。
それは、リコの挨拶にも然程興味がないといった横顔で。
 
 
明らかにリコから遠い所に意識がいっているキタジマへ、リコは話し掛けて
いいものか様子を伺いながら、どうしても気になって仕方が無い事を思い切
って訊いてみる。
 
 
 
 『いつも・・・

  あんな凄いボリュームで、音楽聴きながら描くんですか・・・?』
 
 
 
そう不思議そうに訊くリコに、キタジマは『ぁ? なんで?』と訊き返す。
チラリと一瞬リコへと目をやり、その刹那すぐ窓の外へと視線を戻して。
 
 
リコが絵を描く時は、極力音の無い状態で心をまっさらに集中して描く事が
多かった為、キタジマのように大音量で曲を流しながら、しかもリズムを刻
みながら描くなんて考えた事も無かったのだ。
 
 
それなのに、こんなにあたたかくてやわらかな優しい風景を・・・
  
 
 
 『頭で考えすぎなんじゃねぇの?』
 
 
 
顎を上げ天井に向けタバコの煙をふ~っと吐きながら、キタジマは言う。
  
 
 
 『穏やかなやわらかい風景は、静かな環境で描かなきゃいけない、

  一人で無音で集中しなきゃ描けない、って考えてんなら、

  それは違うと思うけどな。
 
 
  ・・・まぁ、

  別に人それぞれだろうから、好きにしたらいいけど。』
 
 
 
その口調は指導のそれではなく、なんだか突き放すような冷たさが滲んで
いてリコは思わずムっとしてしまう頬を必死に隠そうとした。

まず第一に、目の前のこのキタジマが講師なのか学生なのかも分からない。

そんな人にこんな言い方されるのは腑に落ちないが、最初に質問したのは誰
でもない自分だったと、リコは俯いて入学式用に買った少し踵が靴擦れする
ローパンプスの爪先を見眇めていた。
 
 
すると、2本目のタバコを口の端に咥え、キタジマが無言でリコの目の前に
絵具だらけの拳を差し出したのが見えた。
 
 
 
  (・・・なに??)
 
 
 
リコは顔を上げ小首を傾げつつ、その手の方にしずしずと手を伸ばす。
そしてキタジマの拳へ向け手の平を上向きに広げると、そこに銀色と銅色の
コインがポトリと落とされた。 
 
 
 
    『コーヒー。』
 
  
 
 
  
 
 
リコはしかめっ面をして小銭を握りしめ、本校舎の1階にある自販機の前に
いた。東棟からはそこそこ距離があるそこ。階段を下り渡り廊下を通って、
学食のテラスがあるそこまで行かなければ缶コーヒーを買う事が出来ない。
 
 
何故か、会ったばかりのキタジマのお使いをさせられていたリコ。
 
  
 
 『なんで私が、使いっ走りなんか・・・

  ・・・ってゆうか、なんで自販機 東棟にないのよ・・・。』
  
 
 
不満気に口を尖らせブツブツ文句を言いながら、渡された小銭を投入口に入れ
缶コーヒーのボタンを乱暴に人差し指で押す。
ガゴンという音を立てて缶が落ちて出ると、しゃがんで自販機から取り出して
それを憎らしそうに睨んだ。
 
 
しかし、なんだか不思議でつかみ所のないキタジマにとても興味があった。

否。キタジマという人間ではなく、キタジマが描く絵に惹かれていた。
あまり認めたくはないけれど、もっともっとキタジマの絵を見てみたいという
気持ちが胸の中に湧き起こる。
  
 
 
 『遅っせぇな。』
  
 
 
リコから缶コーヒーを受け取ると、キタジマはまだ半分くらい残るタバコの吸
い殻を空缶に押し込み、絵具が付いた汚れた人差し指でプルタブを引いてコー
ヒーの飲み口に口を付けた。

その顔はぼんやりと虚空を見つめて、リコなどまるでそこに居ないかのようで。
  
 
 
 『ぁ、あの・・・

  ・・・学生、 じゃ、ないんですよ、ね・・・?』
 
 
 
リコが顔色を伺いながらたどたどしく訊く。

見た目はどう見ても初々しい学生には見えないし、かと言って講師にしては
あまりに自由すぎる感がある。では一体誰なのかと、リコの頭の中は当初抱
いた疑問でいっぱいだった。
 
  
キタジマは缶コーヒーの飲み口から口を離し、イスに更に深く背を沈めて
特にそこには何もないのに天井をぼんやりとした色の無い目で見ている。
 
 
 
 『・・・だった。

  昔、学生だった。 併設した4大の方の・・・
 
 
  ・・・今は違う。
 
 
  ココ借りて、暇つぶししてるだけ。』
  
 
 
そう言うと、ノソっと気怠そうに立ち上がりまたゴツいヘッドフォンをして
身体を揺らしリズムを取り始めた。
先程まで缶コーヒーを握っていた手は再び筆を握り、咥えタバコのまま鼻歌
を歌う。
 
 
そして、あの、やわらかくあたたかい風景が目の前で鮮やかに色付き始めた。
  
  
 
リコは呆然とその様子を見つめていた。
 
 
 

■第121話 助手orパシリ

 
 
 
 『タカナシーーーーー!!!』
 
 
 
長い渡り廊下の奥から、キタジマの叫ぶ声が響いている。
 
 
壁に天井にその低い声は跳ね返り、辺りにいた面々が何事かと声がする方を
見つめるも、当の叫んだ本人は他人の目など一切気にする様子もなく、首の
後ろをボリボリ掻きながらヨレヨレの上着ポケットに突っ込んでいた手を出
し気怠そうにリコへと手招きする。

お昼休み、リコが友達と学食でのんびりとランチをしているところを通りか
かったキタジマにうっかり見られてしまい、すぐさま召集が掛かったのだ。
 
 
 
 『リコちゃん・・・

  また、あの変な人が呼んでるよ・・・。』
 
 
 
入学から数週間経ち、最初不安の種だった友達もちゃんと出来たリコだった
がその友達にも ”あの人と二人で部屋にこもって大丈夫なの? ”と心配さ
れる始末だった。
 
 
キタジマの風貌は、伸ばしているのかただ切ってないのか分からないボサボ
サの髪に、無精髭。メガネで常に咥えタバコ、そしてヘッドフォン。絵具だ
らけのヨレヨレのシャツは、元の色は何色だったか今はもう分からない。

人を寄せ付けないようなその空気は、長身で痩せた神経質そうな猫背から醸
し出されるものが大きいのかもしれない。なによりキタジマ自身が人と関わ
ることを極力避けているように見えた。
 
 
今まで ”リコ ”と下の名前でしか呼ばれた事が無かったので、最初は自分
が呼ばれている事に気付くのに時間がかかった。
実際 ”タカナシ ”と苗字を呼び捨てするのはキタジマぐらいなものだった。
 
 
そしていつの間にか、よく言えば ”助手 ”、結局のところ ”使いっ走り ”
となったリコは講義が終わった後や空いた時間になると、キタジマの所に通
っていたのだった。
 
 
 
『遅せぇぞ、タカナシ。』 ぶっきら棒に文句を呟き、わざわざ昼食中に呼び
付けた用事は何かと思えば、
 
 
 
 『駅前の角の肉屋で、メンチカツ。』
 
 
 『・・・・・・・・・・・・・・。』
 
 
 
こんな具合だった。
 
 
しかし、リコはキタジマの描く絵を見るのがとても好きだった。

毎日毎日キタジマのキャンバスを眺め、あたたかくやわらかい風景が完成
する日をワクワクしながら楽しみにしていた。
なんだか色んな刺激を受けられて、決して無駄な時間ではない気がしてい
たのだった。
 
 
それに、人が言うほどキタジマは悪い人間ではないように思えた。

コースケやリュータの様に人懐く愛想がいいタイプでは決してないけれど、
それはただ単に底抜けに不器用なだけだった。
口数も少ないしぶっきら棒だが、その人間性はしっかり絵に滲み出ている。
 
 
昼食の箸を持つ手を置いてパタパタとキタジマの元へ駆け寄ったリコは、
またしても仰せつかった ”仕事 ”という名のただのお使いに思い切り怪訝
に顔をしかめる。
 
 
 
 『えぇ・・・

  あそこって凄い人気で、並ばないと買えな・・・』
 
 
 『だーかーら、お前を呼んだんだろが。

  早く行け! ダッシュだ、ダッシュ!!』
 
  
 
リコはブツブツ文句を言いながら、お弁当箱をハンカチで包んで片付けると
不安気な目を向ける友達にやんわりと苦笑いを返し、メンチカツを求め走っ
て校舎を出た。
 
 
 
 『なんで私が・・・

  まだお昼食べてる途中だったってゆうのに・・・

  ・・・なんなの? アノ人・・・
 
 
  もぉぉぉおおおおおおおお!!!』
 
 
 
駅前までの道すがら、ひたすらキタジマへの不平不満をひとりごちながらも
リコはここ最近、四六時中頭の中を占めるキタジマの絵の事を考えていた。
 
 
 
 (あんなボリュームで曲聴きながら、

  どんな事考えて描いてるんだろ・・・?)
 
 
 
キタジマは基本的には、殆どしゃべらなかった。

口を開く時は大抵 ”コーヒー ”か ”タバコ ”か ”メンチカツ ”。
なにか質問しても気が向かないと答えてはくれなかったし、聴こえている
くせに聴こえないフリもしょっちゅうだった。憎たらしい程に分かり易く
無視するその横顔を、リコは目を眇めて睨んだ。
 
 
しかし謎だらけの無口なキタジマという人間を、リコはどんどん気になり
始めもっともっと知りたくなっていった。
 
 
どんなことを考えながら描いていて、どんなキッカケで絵を描くようにな
って、どんな景色に心を奪われるのか。

リコの今後の絵に多大な影響を与えるであろう、キタジマのバックグラウ
ンドを知りたくて知りたくて仕方がなくなっていたのだった。
 
 
その為には、パシリだろうがなんだろうがキタジマの教室に通う事が苦で
は無かった。気が付くとキタジマの元へ通う為に学校に行っているような
感じになっていた。
 
 
 
 
 
 『キタジマさ~ん・・・ 今日はもう売り切れでしたぁ・・・。』
 
 
 『あぁ~?? 明日は買ってから来いっ!!』
  
 
 
 
 『そんなぁ~・・・。』
 
 
 

■第122話 予想外の・・・

 
 
 
ナチは一人、小さく溜息を付きながら学食のテラスに佇んでいた。
 
 
今まで生きてきた中で一番頑張って勉強し、なんとか獲得した有名短大への
入学切符も、実際スタートしてみると周りには知り合いが一人もいない状況。

同じ出身高からの進学者は一人もいず、完全にゼロから始まった環境に思わ
ずしょんぼりと心許なく俯く。
 
 
基本的に物怖じしないナチも、常に一緒に行動を共にするリコのような友達
が出来ないのが心細くて寂しかった。ふと視線を流し周りを見渡すと、同じ
出身校同士であろう子たちが愉しそうに笑い合い、大学生活を大いに謳歌し
ている姿が目に入る。

その笑い声に、ナチの細い肩は更に小さく縮まり、口からこぼれるのは声は
おろか、かすれてスカスカの溜息だけだった。
 
 
 
  
講義がはじまった初日のお昼休み。
 
 
混み合う学食のテラスで、ひとり、窓の外を眺めながら持参したお弁当を食
べていたナチ。お腹は空いているというのに、なんだか味気なくてただ数回
咀嚼して飲み込むだけの行為を繰り返していた。

周りの子たちは友達同士でギューギュー詰めになって窮屈そうに座り、賑や
かにしゃべって笑ってばかりいて、注文した学食や広げたお弁当を食べる手
は一向に進んでいない。

その弾むようなカラフルな笑い声は、ナチにとっては正直なところ耳障りに
しか思えない。一人ぼっちで座るその4人掛け席は必然的に他には誰もいず、
周りの混雑とは別世界で ”一人です ”とアピールしているようだった。
 
 
すると、背後から憮然とする声色が聴こえた。
 
 
 
 『一人なら、4人掛けの席使わないでくれない?』
 
 
 
そう痛い所を突かれナチが一瞬固まり、ムっとして眉根を寄せる。

なにか言い返そうと、痛烈な文句を考えるもグサリと刺さった棘に思い切り
動揺しナチは結局なにも言い返せずに、口を尖らせて振り返ると。
 
 
  
  
 
    『ァ、アカリっ?!』
 
  
  
 
 
そこにはニヤニヤしながら学食トレイを持って立つアカリの姿があった。

顎をツンと上げ憎たらしいすまし顔を向け、相変わらず見た目だけはモデルの
ように麗しい佇まいで、細く長い脚を見せつけるようにポージングして。
  
 
 
 『・・・え?? 
 
 
  な、なに??

  どうゆう事?? アンタ・・・ ど、どうしたのよ?!』
 
 
 
もう完全にパニック状態のナチ。

いるはずない人間が目の前に立っていて、それは唯一の知合いで、おまけ
に友達で。それも誰でもない、あの、アカリなのだから。
 
  
そんな絵に描いたような狼狽するナチを目に、アカリは満足そうにニヤリ
と口角を上げ、学食のトレーをナチの向かいのテーブルに置くとシレっと
涼しい顔をして座った。長い長い脚を組んで見せ、胸の前で腕を組んで。
 
 
 
 『何って、なによ?

  ここにいるって事は、学生に決まってんじゃないのよ。』
 
 
 
実はアカリもナチと同じ学校を受験し、合格していたのだ。

その当時リュータから離れたナチはリカコにだけ進学先の話をしていた。
アカリはその情報をいち早く入手し、ギリギリまでリュータにも内緒にし
てこっそり受験していたのだった。合格して初めてリュータに話をした時
もこの事をナチには決して漏らさぬよう堅く堅く口止めしていた。
 
 
どうりで、ナチが ”新しい環境や友達が出来るかどうか ”の不安を口に
しても、リュータはやたらとニヤニヤ笑って『絶対、大丈夫だっつーの!』
と繰り返していた訳だ。
 
 
ナチは、思ってもみなかった展開に嬉しくて嬉しくてアカリに飛びつきたい
衝動を必死に堪える。どうしても緩んでゆく火照った頬や口元を必死にいな
しかすかに潤んでしまう目を慌てて逸らして隠す。

アカリもまた、今にも満面の笑みをこぼしそうになるのを無理やり絞り出し
た乾いた咳払いで誤魔化す。
 
 
そして、似たもの同士の素直じゃない二人は、
 
 
 
 『せっかく平和な毎日になると思ったのに・・・。』

 『せっかく平和な毎日になると思ったのに・・・。』
 
 
 
と、見え見えの悪態をついた。

学食テラスで向かい合い座る二人のテーブルからは、周りのどの学生達の席
よりも賑やかで明るくて、まるで色とりどりのスーパーボールが跳ねるよう
な笑い声が溢れた。
  
  
 
それからは、ナチとアカリは姉妹のように常に一緒にいた。

しかし周りから見るとケンカをしているのかと思うように言い合い、けなし
合いを相変わらず飽きずに繰り返していた。
それがナチとアカリの最上級の友情の表現方法だった。
 
 
アカリは進学に伴い、実家を離れてリュータの部屋での同居を始めていた。
リュータもやっと松葉杖がはずれ愛猫あおいと共にコースケの所から引き上
げていて、アパートでの通常の生活に戻っていたのだった。
 
  
  
 『ねぇ。 今日、ウチ来な~い?』
 
 
 
アカリのその言葉にナチは少しドキっとする。

実はリュータと付き合いはじめて未だ一度も、リュータの一人暮らしの部屋
には入った事が無かったのだ。
 
 
ケガをしてコースケの所に居候していたからというのが理由だが、男の人の
一人暮らしの部屋に一人で行くという事に、ナチは過剰に意識してしまって
いた。リュータからもまだ誘われてはいなかったが、頑なに行かないのも何
か不自然で逆に恥ずかしくて、かと言って毎回リコを誘うのも憚られた。
  
 
 
 (アカリがいるなら平気かな・・・。)
  
 
 
ナチはやっと、気楽にリュータの部屋を訪ねられる事を内心喜んでいた。
なんだか急に色んな事がパっと明るく色付き、胸の奥がワクワクで溢れる。
 
  
不安一色だった毎日が、突然キラキラ輝きはじめた。
 
 
 

■第123話 不機嫌ナチ

 
 
 
 『ねぇ、リコ!!

  アカリがね・・・

  アカリが、こっちに出てきてたのっ!
 
 
  これからリュータさん家に集まるんだけど・・・

  リコも来れるよねっ??』
 
 
 
ナチから、興奮した上ずった声で電話が掛かって来た。

声のボリューム調整が効かないくらいにナチは早口で上機嫌にまくし立てる
もリコは相変わらず自分の世界にこもって筆を握るキタジマの背中を横目に
静かに教室を出て廊下でコソコソと話をする。
 
 
 
 『ん~・・・

  すぐ行きたい気持ちは山々なんだけど・・・
 
 
  キタジマさん次第なの・・・

  ・・・なるべく急いで行くから、先に始めてて。』
 
 
 
リコの返答に、ナチがあからさまにふくれっ面をして電話を切った。

ドシンと腰を落とし床にぺたんこ座りをすると、ローテーブルに片肘をつき
頬をぐにゅっと歪ませて頬杖をついて、思い切り不満気に下唇を突き出す。
 
 
アカリがその様子を見て、首を傾げる。

リュータと同居するアパートの狭いリビングのソファーにもたれ、煌びやか
なグラデーションネイルの手入れをしていた手を止め、身を乗り出した。
 
 
 
 『・・・なに? リコ、来れないって?』
 
 
 『リコ。 なんか最近、変な人の助手してんの・・・

  ・・・でも、別にその人、講師でもなんでもないんだよ?
 
 
  そんなことする必要あるぅ~う?!』
 
 
 
すると、アカリがちょっとニヤけながら言った。

再びソファーに深く背を預け、顔の前に指先を翳しネイルを満足気にチェック
しながら。
 
 
 
 『すっっっごい、イイ男なんじゃな~ぁい?』
 
 
 
それを聞いて増々不機嫌になるナチ。
口を真一文字につぐんで、引き攣った顔で一言も発しなくなった。

アカリはイタズラっ子のようにクククと笑いながら、ナチの肩に寄り掛かり
大袈裟に身振り手振りをつけて言う。両の指でハートマークを作って小首を
傾げて。
 
 
 
 『冗談だってば~!!

  リコは、”コーチャン先生・一筋 ”だもんねぇ~え?』
 
 
 
最近のリコの様子が、どうしても腑に落ちないナチだった。

こんな風に思ったのははじめてだった。リコのする事にはいつも賛成してき
たし応援してきたし、誰よりリコの気持ちを理解してきた自負があったのに。
 
 
そんな二人の遣り取りを、壁に背をつけもたれて座るリュータが雑誌に目を
落としながら黙って聞いていた。
 
  
  
 
 
 
リコは、ナチ達と早く合流したい気持ちの反面、キタジマの絵を片時も離れず
見ていたいという気持ちがあった。

ヘッドフォンに咥えタバコという相変わらずのスタイルで絵筆を握るキタジマ。
描いてる最中は声など掛けられない空気だった。

実際、声を掛けたところでそれは呆気なく無視されるのは目に見えている。
キタジマが筆を置いてヘッドフォンをはずし首に掛け、一服休憩のタバコに手
を伸ばすまでは、ただただ邪魔にならない場所でそっとそれを見つめていた。
 
 
キタジマがタバコをまた1本出そうとして、それが空だった事に気付きクシャ
っとその大きな手で空き箱を握り潰した。

リコはすぐさま立ち上がり横の棚から買い置きしてあるタバコを取って、無言
でキタジマへとそっと差し出し渡す。
 
 
『ん。』 さも当たり前というように、それを受け取るキタジマ。

そして、絵筆を棚に置き汚れた床におもむろに胡坐をかいて座ると、ゆっくり
タバコを吸って天井をぼんやり見つめた。
暫し、ただ白い煙を吸って吐くだけの静かな時間が流れる。
壁掛け時計もないこの教室には、キタジマのそれだけが唯一発する音だった。

リコはぼんやりと煙が天井に向かってゆったりくゆる様を見ていた。
 
 
すると、
 
 
 
 『・・・タカナシ、ちょっと付き合え。』
 
 
 
キタジマがボソっと呟いた。
しかし決してリコの方は見ない。最初リコは聞き間違えかと思った程だった。
 
 
少し間を置きキタジマを軽く二度見して、聞き違いではないような空気にリコ
は驚いて聞き返す。

突然のそれに、ビックリしすぎて思わず口ごもってしまう。
 
 
 
 『・・・ど、何処に・・・ です、か・・・?』
 
 
 
今までお使いを頼まれる事はあっても、キタジマと一緒に何処かに行くなんて
事は一度もなかったのだ。
 
 
 
 『行けば分かる。』
 
 
 
抑揚なくそう言い捨てると、ガバっと立ち上がってヘッドフォンだけはずし、
一人でさっさと教室を出て行くキタジマ。

目を白黒させ慌ててカバンと上着を持つと、リコはその後を追いかけた。
その背中はリコを振り返りもせず、どんどん大股で廊下を進む。リコはパタ
パタとせわしなく小走りで追いながら、
 
 
 
 『・・・き、着替えたりしないんですか?』 
 
 
 
絵具だらけのヨレヨレでシワクチャのシャツの背中に、思わず訊いた。
 
 
 
 『文句あんのか。』
  
 
 『ぃ、いいえ・・・。』
 
  
 
ひと気も少なくなった校舎を抜け、夕暮れの並木道を通り、どんどん一人で
行ってしまうキタジマに、リコは息を切らして早足でついて行く。

時折、お尻をボリボリ掻いたり頭をガシガシ掻きむしったりするその痩せた
大きな背中を見つめながら。
 
 
リコは、何故こんなキタジマにあんなやわらかい絵が描けるのか、不思議で
不思議でどうしようもなかった。
 
 
 

■第124話 ラーメン屋

 
 
 
 『おぉ! キタちゃん、カノジョ連れなんて珍しいねぇ~!』
 
 
暖簾をくぐって入ったのは駅前の小さな古いラーメン屋だった。

確か昔からあるそこだが、ごちゃごちゃと多種な古い店がひしめき合う通り沿
いにあり、存在はなんとなく知ってはいたが今まで入ったこともなければ、入
ろうと思ったこともなかったそこ。
 
 
キタジマは常連なのか、白髪交じりの店主に親しそうに話しかけられている。

そのシワが刻まれた穏やかそうな顔は、なんだかやけに嬉しそうににこやかに
口角を上げ、キタジマに向かってうんうんと一人頷いて。
 
 
店主の ”カノジョ ”というワードにリコが猛反論しようとキタジマを睨むも、
キタジマにとってはそんな事どうでもいいらしく、肯定も否定もせず黙ってカ
ウンターの一本足の椅子を引き摺って手前に引っ張り、腰を下ろした。
 
 
カウンターに5席、テーブル席がひとつあるだけの狭いそこ。

物理的に狭く感じるだけではないそれは、きっと視覚から得られる負の情報の
多さにもあるのだろう。
 
 
 
 『ラーメン2つ。』
 
 
 
やっと口を開いたかと思ったら、たったそれだけボソっと呟いたキタジマ。
ただお腹が空いていたならそう言えばいいのにと、リコは内心呆れていた。
 
 
 
  ( ”ごはん食べに行かないか? ”とか、

    ”ごはんに付き合ってくれないか? ”とか、

    ・・・フツウ、先に言うでしょ・・・?)
 
 
 
その前に、リコの予定もなにも確認する気配がないその勝手気ままな言動に
呆れるのすら通り越してしまう。キタジマの頭の中はどんな構造になってい
るのか一度パッカリ開いて探ってみたい気分だった。

そんなキタジマは、リコのことなど完全に無視して咥えタバコのまま新聞を
ガバっと広げ、無言で読んでいる。
カウンターに座るキタジマとリコの間には、ひとつ空席の椅子がある。微妙
な距離をとって二人は並んでいた。
 
 
手持ち無沙汰でひとり、リコは店内を見渡した。

キタジマは新聞を読んでいるが、雑誌コーナーにあるそれらはオジサンが好
むものばかりで、おまけにもれなく脂ぎっていてリコには食指が動かない。

正直言って、連れて来られなければ自分からは絶対に入らないようなあまり
キレイではない店。油でテカった茶色い壁に掛かっている日めくりカレンダ
ーは、去年の日付で止まっている。カウンターも油っぽくベタベタしていた。
リコ達の他には客もいず、店主は湯呑に注いだ瓶ビールを飲み、付けっ放し
のテレビを見ながら片手間にラーメンを作っている。
 
 
テレビから流れる昭和の歌謡曲だけが、店内に静かに響いていた。
 
 
人差し指の先で油っぽいカウンターを怪訝そうな顔でペタペタと触っている
リコの前に、『はい、おまちっ!』 ラーメンが少し乱暴に置かれた。

その瞬間、レンゲが転がり落ちその反動でスープが洋服に撥ねた。リコは慌
ててカウンター脇にあった台布巾を引っ掴み、それを拭く。
 
 
すると、『気をつけろ。』
 
 
チラリとリコへと視線を寄越し、キタジマがぽつりと呟く。
心配してくれたのかと思った次の瞬間、
 
 
 
 『それもたいしてキレイじゃねぇぞ。』
 
 
 
慌てて洋服を引っ張って見ると、台布巾の古い汚れがしっかり付いている
部分で洋服をゴシゴシ擦ってしまったらしく、拭く前より汚れて見える。

リコが苦い顔を向け、ぎゅっと口をつぐむ。
 
 
そして、『ラーメンは大丈夫なんですか?』と眉根を寄せ、ラーメン丼から
少し体をのけ反ってキタジマに小声で訊く。本当に食べても大丈夫な物なの
か心の底から不安になっていた。

そんな不信感200%のリコへ、キタジマは ”いいから黙って食え ”とで
も言うように無言で丼をアゴで指し、促す。
 
 
リコは指先でレンゲを持つと恐る恐る唇に当て、クンクンとにおいを嗅いだ
あと随分躊躇いながら一口すすった。
  
  
 
 『・・・美味しい。』
 
  
 
リコが目を丸くして驚いた。もう一度、本当に自分の感覚が間違っていないか
確かめるようにスープを口に含み、そしてその後は無言で無我夢中でラーメン
を食べた。額にしっとりと汗をかきながら食べ続け、最後には丼を両手で持ち
喉を上下させてスープも全て飲み干した。

そんな様子をチラッと横目で見るキタジマが、リコに気付かれないよう少しだ
けやさしく微笑んだ。
 
 
  
 
食べ終わったキタジマがトイレに立つと、店主がリコに話し掛けて来た。
 
 
 
 『キタちゃんを連れ出すなんて、アンタ凄いねぇ?』
 
 
 
キタジマがこの店に来たのは久々のことなのか、イマイチ意味が分からず首を
傾げるリコに、内緒話のようにカウンター越しに身を乗り出し呟く店主。
 
 
 
 『もっと連れ出してやってくれよ~

  ・・・本当はもっとよく喋るし、笑う奴なんだから・・・。』
 
 
 
その一言に、リコは意外すぎて驚いた。
キタジマがペラペラとよく喋る姿なんて、ましてや笑顔など全く想像出来ない。
 
 
そこへ、ボリボリと首の後ろを掻きながら気怠くキタジマが戻って来た。
『行くぞ。』 一言呟いて、店主に一瞬手を上げ挨拶してとっとと先に店を出
て行ってしまう。

リコが会計のことを心配する目を店主へ向けると、『もう貰ってるよ。』と微
笑んでいる。リコが気付かぬうちにキタジマが会計を済ませていたらしい。
 
 
 
 『ぁ、あの・・・ お金。』
 
 
 
自分の分の支払いを申し出るリコの言葉を無視して、キタジマは目を細め夜空
を見上げる。

『降るな・・・。』 そう言った直後、本当に雨が降り出した。
 
 
 

■第125話 通り雨

 
 
 
突然、通り雨が降り出した。
 
 
空から落ちる粒にアスファルトの色が一気に濃いそれに変わり、湿った生ぬる
いにおいが立ち込め、全身が包まれるようで。

キタジマはどんよりとくすぶる夜空を見上げ、ジーンズのポケットに手を突っ
込み背中を丸めて、なんだかどこか愉しんでいるように雨粒を見つめる。
 
 
二人はラーメン屋の軒下で雨宿りをしていた。

リコは軒先テントからのぞくねずみ色の雨空を見上げて、眉根をひそめ困惑顔
を作る。スニーカーの爪先が、アスファルトからの跳ね返り水でもう既にしっ
とりとしてきていた。
 
 
 
  (あぁ・・・ もぅ。 どうしよう・・・。)
 
 
 
今朝チェックした天気予報の降水確率は確かゼロ%だったはずだ。
勿論傘なんか持って来ていないし、この調子ならいつ止むか全く分からない。
リコの口から思わず諦めの溜息がこぼれ、肩がしょんぼりと落ちた。
 
 
すると、キタジマは言う。
 
 
 
 『雨が降ったら、やむまでただ待てばいいんだ。』
 
 
 
そう言ってまた絵具だらけでヨレヨレのシャツの胸ポケットからタバコの箱を
取り出し1本咥えた。それは全く焦る様子もなければ、困る様子もない。
 
 
 
 『雨の日は、筆が進むんだよなぁ・・・。』
 
 
 
リコに話しかけてるのか独り言か分からないような、その呟き。
ゆっくりと気持ち良さそうにタバコをくゆらせ、ぼんやり雨空を見上げている。

深く静かに上下するキタジマの胸が、シャツの動きでリコの視界に入る。
しかし、リコはナチ達との約束があった為、焦らない訳にはいかなかった。
 
 
一人、ソワソワと落ち着かない感じで左手首の腕時計を何度も確かめるリコの
姿にキタジマは目を止め、ほんの少しだけからかうような声色で言う。
 
 
 
 『・・・なんだ? これからデートか?』
 
 
 
すると、そのキタジマの揶揄に『ち、違いますっ!!』と、一瞬口ごもり睨む
ように目を眇めてムキになり言い切ったリコ。

”デート ”という単語が、なんだかキタジマの口から出るにはそぐわない気が
して恥ずかしくて仕方がなかった。親と一緒に見ているテレビでラブシーンが
はじまった時の、あの感じとでも言うべきだろうか。
 
 
 
 『まぁ、お前に男いないのは見てれば分かるけどな。』
 
 
 
キタジマは口の端で咥えたタバコをモゴモゴと動かしながら、深く煙りを吐き
してやったり風な涼しい顔をしている。そのすっ呆けた横顔が憎らしい程で。
 
 
すると、負けじとリコも反撃をした。
 
 
 
 『そうゆうキタジマさんは、どーなんですかっ??』
 
 
 
体の向きをキタジマに真っ直ぐ向け睨んで顔を覗き込むと、突然近付いたリコ
の顔に少しひるんで顎を引く長身の汚れたシャツの胸。咄嗟に目を逸らすと、
思いっきりリコへとタバコの煙を吹きつけ、キタジマが言った。
 
 
 
 『ガキは黙ってろ。』
 
 
  
 
 
すると、 
 
 
 
 ♪~・・♪♪~~♪・・・
 
 
 
ケータイの着信メロディが雨音にまじって鳴り響いた。

リコはカバンに手を突っ込みケータイを探るも、奥の方に入ってしまったのか
中々それを取り出せず、焦ったようにまさぐっている。
  
 
 
  ◆着信:コーチャン先生
  
 
 
やっと掴んでその画面を確かめると、そこにはコースケの名前。
リコはせわしなく瞬きをし、慌てながら電話に出た。
 
 
 
 『コーチャン先生・・・?』
 
 
 
コースケはこれからリュータの家に向かおうと思っていた。一度リュータに
連絡したところ、リコがまだ合流していないと聞きそろそろ用事が済みそう
なら一緒に行こうと思って連絡して来たのだった。
 
 
 
 『うん・・・ ごめん。 もう少し、かかるかもしれない・・・
 
 
  今は、えーぇっと・・・

  ・・・雨宿り中です・・・。』
 
 
 
すると、ケータイを耳に当てたままのリコの視界の端に、キタジマが急に走
って何処かへ行ってしまう姿が映った。

『キ・・・』 名を呼び掛けようとして、それを飲み込む。

勝手に一人で帰ってしまったのだと、リコはいい歳したひねくれ者に呆れて
いた。帰るにしても何か一言ぐらいあってもいいではないか。
こちらの都合も聞かず気ままに連れ出したかと思ったら、なにも言わずに帰
るなんて普通の大人がすることではない。
 
 
不貞腐れ溜息まじりのリコは、足元に跳ね飛ぶ雨の雫に目を落としていた。

耳にはまだコースケの声。傘はあるからどこかで待合せてリュータの家に一
緒に行こうかと、気を遣ってくれている。
 
 
すると、雨道を駆ける濡れた足音と水の跳ねるそれがだんだん近づいてきた。

俯いていた顔をふと上げると、ズブ濡れになりながらキタジマが走って戻っ
て来て店の軒先前で立ち止まる。
 
 
 
 『ん。』
 
 
 
そう言うと、コンビニのテープが持ち手に貼られたビニール傘をリコの手に
押し付けるキタジマ。それはまだ透明フィルムで覆われていて、今、この雨
の中でも使わずに握り締めていたものだと気付く。
 
 
 
 『ぇ・・・

  ・・・わざわざ、傘・・・ 買いに・・・?』
 
 
 
咥えたタバコは、このどしゃ降りの雨のせいで火が消えくったりと萎えてし
まっていた。その痩せた大きな肩は濡れてシャツが透け、ボサボサの髪の毛
の前髪からは次から次へと雫が滴り落ちて。
 
 
呆然とその姿を見つめ中々傘を受け取らないリコへ、キタジマは半ば強引に
押し付けると、再び雨の中をひとり走って行ってしまった。
 
  
 
 『リコちゃん?・・・ リコちゃん??』
 
  
 
リコは、コースケとの電話中なのも忘れてキタジマの背中を目で追った。
駆ける足の踵から跳ねた水が勢いよく飛び、腰の辺りにその跡が付いてゆく。

ケータイからコースケがリコの名を繰り返し呼びかける声が響くも、なんだ
か水の中のようにくぐもって遠くそれは不鮮明に感じる。
 
 
咄嗟に傘を広げさして、駆け出した。
リコのアスファルトを蹴り上げるふくらはぎのあたりにも、雨の雫が跳ねて
冷たい。
 
 
背の高いキタジマの、ずぶ濡れの猫背が次第に近くなってきた。
 
 
 

■第126話 着信

 
 
 
 『お前、帰っていいんだぞ。』
 
 
ずぶ濡れのキタジマを追い掛け傘をさしかけたリコは、その言葉に大きく首を
横に振った。背の高いキタジマに傘が掛かるよう、右腕をぐんと伸ばし爪先立
ちになっている。

キタジマはなんだかバツが悪そうにリコから目を逸らし、必死に差し出してい
るその傘の持ち手を暫し見つめ、そして諦めたようにそっと受け取り握った。
 
 
ビニール傘の狭い空間に、ふたり。
空からは細かい雫が透明のカーブしたビニールに矢のように突き刺さる。

すっかり濡れたキタジマの前髪からは、いまだに雨粒がポタポタと落ちていた。
リコはカバンからハンカチを取り出すと、その前髪に手を伸ばそうとして一瞬
躊躇い手が止まる。そしてキタジマの他方の手にハンカチを押し付けた。
 
 
 
 『どうせなら、一緒に駅まで行きましょうよ・・・。』
 
 
 
リコが不機嫌そうに低く呟く。

不器用すぎるキタジマに、リコは軽く怒りを覚えるほどだった。
言葉が足りなくて、行動はガサツで、愛想もなくて、もう呆れ果てて頭にくる。
 
 
 
 (ばかじゃないの・・・?

  ・・・本当は、イイ人のくせに・・・。)
 
 
 
その後は、二人。ひとつの傘に入り、一言も喋らずに駅まで歩いた。

キタジマが握る傘の持ち手は、リコに気付かれない程度に冷雨に濡れないよ
う右側に立つリコ寄りに差し掛けて。

傘のカーブ内には二人の息を吸って吐く音が小さく小さく反響している。
なんだかこの距離間に慣れなくて身の置き場がなくて、決して目を合わせら
れない。
 
 
駅に着くと、キタジマは傘をリコに渡して一言の挨拶もなしに背を向けて帰っ
て行った。
キタジマの背中をじっと見つめるリコ。その不器用で大きな痩せた背中は左肩
だけがダイレクトに雨を受けたように酷く濡れていた。
 
 
リコは暫くその猫背を見ていた。
決して振り返らない背中を、ただじっと見ていた。
 
   
 
 
 
 
駅でキタジマと別れ、リコはナチ達の元へ急いだ。

小走りでリュータの部屋の前まで着くと、玄関脇の小窓から漏れる部屋の明
かりと中からみんなの騒ぎ笑い合う声が聞こえ、安堵感が込み上げ頬が緩む。
 
 
 
 『ごめんっ! 遅くなっちゃった!!』
 
 
 
リコが勢いよく部屋へ飛び込むと、いつもの大好きな面々が迎えてくれた。

『遅い!』と文句を言いながらもその顔は笑顔で、リコは申し訳なさそうに
眉尻を下げ情けなく笑い返す。
 
 
すると、ナチがふくれっ面で言う。
 
 
 
 『師匠なんか放っといて、さっさと来たらよかったのにっ!』
 
 
 
言われると覚悟していた、ナチのその第一声にリコがペコリと頭を下げると
『どんだけイイ男なの? その師匠~ぉ。』 アカリが身を乗り出して興味
津々な感じでニヤニヤして訊く。
 
 
『そんなんじゃないってばぁ・・・。』と困った顔を向け口ごもるリコに、
コースケが言った。 『さっき電話した時に、一緒にいた人・・・?』
 
 
雨宿りをしてる時、コースケと電話中になんだかゴタゴタしてしまった事を
リコが謝る。

そして、そんな謝罪もそこそこにキタジマが描く絵について話し始めた。
 
 
 
 『コーチャン先生にも、あの絵を見せてあげたいくらいっ!!』
 
 
 
リコがキラキラした子供のような瞳で身を乗り出している。

とってもやわらかくて、優しくて、眩しい絵なんだと熱くリコが語るのを
コースケは優しく相槌をうちながら小さく微笑んだ。
 
 
 
その時、
  
 
 
  ♪~♪・・♪♪~~
 
 
 
  ◆着信:キタジマさん
 
 
 
 『もしもし・・・ どうしました?』
 
 
 
ナチは咄嗟に着信相手が誰か分かり、またしても苦い顔をする。

リコの正面に立ち、ケータイを耳に当てバツが悪そうに背を丸めて会話をする
リコにジタバタと駄々を捏ねる子供のようにアピールをして。
 
 
 
 『・・・ぁ。
 
 
  えーぇと・・・

  横の棚の、上から2段目の引出に買置きを仕舞いました・・・。』
 
 
 
リコがそれだけ伝えると、『わかった』も『ありがとう』もなく、キタジマか
らの電話はアッサリ切れた。みんながリコに注目していたので、ちょっと気ま
ずそうに片頬だけ歪めて笑いながら説明する。
 
 
 
 『 ”買い置きのタバコ、どこに仕舞ったんだ? ”って・・・。』
 
 
 
するとアカリがニヤニヤと厭らしく顔を緩め、眉を上げて一言呟く。 
 
 
 
 『まるで、夫婦じゃ~ぁん?』
 
 
 
その明らかに面白がっているアカリの声色に、ナチが更に不機嫌になった。

コースケが視線を落としその顔は作り笑いさえしていないのを、リュータが
横目で見ていた。
  
 
  
暫くなんだか微妙な空気になっていたが、その後はアカリが実はこちらの短大
をこっそり受験し、合格していた話で大いに盛り上がった。

みんなの愉しそうな笑い声が五重奏となり狭いアパートの室内に跳ね返り響く。

ナチとアカリはすっかり仲良くなり、日々ケンカしながら絆を深めていた。
リュータは来週から本格的に就職活動を始める予定だった。
コースケは夜間の学校が女の子ばかりで肩身が狭いと困って笑った。
 
 
すると、
 
 
 
  ♪~♪・・♪♪~~
 
 
 
『またぁ?!』 ナチが再び怒った。
 
 
 

■第127話 財布

 
 
 
再びリコのケータイに鳴り響いた着信音に、『ま、た、キタジマさん?!』

ナチからの射るような鋭い視線を気にしながら、きまり悪く電話に出たリコ。
 
 
すると第一声で、その低いぶっきら棒な声は慌てて『俺、財布どこやった?』
と呟いた。
 
 
さすがにリコも呆れ気味な声色を隠しもせずに返す。
(子供じゃないんだから・・・。) 心の中でひとりごち、
 
 
 
 『私、さすがにお財布は管理してませんよ・・・

  ラーメン屋さんじゃないんですか?
 
 
  ・・・あっ! 傘、買ってくれた時とか・・・?』
 
 
 
 『あぁ・・・

  ・・・傘、 買ったよな・・・。』
 
 
 
キタジマの、珍しく困り果てた様子がケータイを通じて伝わる。

滅多に喜怒哀楽を出さない、声色を変えない人間からそんな落ち込んだ空気を
醸し出されて、リコもさすがに只事ではないと悟る。
 
 
すると、キタジマは更にしょぼくれた一言を零した。
 
 
 
 『・・・全財産、はいってんだよなぁ・・・。』
 
 
 
『えっ?! 大変じゃないですか!!』 思わず大きな声が出るリコ。
 
 
モゴモゴときまり悪く呟き続けるケータイ越しのキタジマの声が、どんどん
心細げに小さくなっていき、それはまるで消えてなくなりそうで。
 
 
あの絵具だらけの空教室で、大きな背中がしょんぼりと小さく小さく縮まり
ガサゴソと財布を探している様子が思い浮かび、なんだかリコの胸が親心の
それのようにきゅっと痛む。

リコはひとつ溜息を付き、覚悟を決めたようにコクリと頷いた。
 
 
 
 『・・・私、今から行きますから。 一緒に探しましょ?』
 
 
 
その言葉に、会話を聞いていたその場にいた皆が一斉にリコを凝視した。
 
 
『もう暗いし危ないぞ?』 思わず電話中のリコに発したリュータの言葉にも
キタジマの元へ行き一緒に探す気持ちを変えようとはしないリコ。

あの夜の事件以来、リコは一人で夜に出掛けるのは極力避けていたし、何より
本人が一番嫌がっていたというのに。
 
 
 
 『・・・んじゃ、バイクで乗っけてく。』
 
 
 
そう言うとリュータが立ち上がり、ヘルメットを置いた棚へと手を伸ばす。
そして、同乗者用のそれをリコに渡した。

リュータに迷惑はかけられないとリコが何度断っても、リュータは断固として
それを聞き入れない。
 
 
 
 『どうしても行くってゆーなら、バイクで送ってく。』
 
 
 
コースケがリュータへと、何か言いたげに目を向ける。

その視線はなんだか哀しげで切なげで、リュータは ”分かってる ”とでも言
うかのように小さくコクリと頷き返した。
 
 
  
 
 
 
雨が上がった夜の街の、信号の青や赤が眩しいほどに反射する路面をリュータ
のバイクはスピードを上げて進んでゆく。

そしてだいぶひと気も少なくなった静かな駅前のラーメン屋で停まると、痩せ
た猫背の汚い格好の男が、暗い中ガサガサと辺りを物色する姿が目に入った。
 
 
 
 『キタジマさん!!』
 
 
 
リコがバイクから下り声をかけ駆け寄ると、その声に慌ててガバっと顔を上げ
その刹那リュータの姿を目に、すぐ顔を逸らしたキタジマ。
 
 
 
 『来なくていいって言ったろが。 カレシと帰れ。』
 
 
 
そんな他を寄せ付けない雰囲気のキタジマを見て、リュータが言った。
リュータもここまで来てなにもしないで見ている訳にはいかない。探し終わっ
たら再びリコをバイクに乗せて帰るつもりで来たのだから。
 
 
 
 『別にカレシじゃないし。

  ・・・それに、せっかく来たんだから探さして下さいよ~。』
 
 
 
そう言うと、キタジマの返事も待たずにリュータも一緒に財布を探し始めた。

キタジマはバツが悪そうに不機嫌顔でそれを見つめ、しかし何を言っても探す
ことを止めなそうなリュータの姿に、諦めたように黙りこくって再び辺りを探
しはじめる。
 
 
『全財産って、いくら入れてたんですか?』 心配そうに顔を歪めリコが訊く。
 
 
すると、キタジマはボソっと呟いた。 『5千円。』
 
 
それを聞き、リュータは探していた手を止め吹き出して大笑いし、リコは真っ
赤になって怒り出した。
 
 
 
 『な、なんで5千円が 全財産なんですかっ?!』
 
 
 
しかし、キタジマは顔色ひとつ変えず呟く。
 
 
 
 『タバコもコーヒーも買えるだろが。』
 
 
 
シレっとまるで真剣な顔で言うキタジマに、呆れ果ててそれ以上何も言う気が
しなくなるリコだった。
 
  
 
 
 
その頃、リュータの部屋ではコースケ・ナチ・アカリがリコ達の帰りを待っ
ていた。リュータとリコがいなくなった部屋は急に静まり返り、なにもする
事がなく手持無沙汰で、付けっ放しのテレビもいくらチャンネルを替えても
面白くもなんともない。

なんだか居心地の悪い時間が3人の間にノロノロと過ぎてゆく。
 
 
すると、アカリが少しコースケに鎌をかけるように、聞こえよがしにナチに
言った。
 
 
 
 『リコ・・・

  ・・・師匠に惹かれ始めてんじゃないのかな~?』
 
 
 
その一言にナチは大激怒する。

それは認めたくないけれど、近くにいるナチが一番杞憂していた事だった。
それをアカリにストレートに突かれて、八つ当たりするようにナチは憤る。
 
 
 
 『あんっな変人・・・

  私が絶っ対、 絶-っ対認めないんだからっ!
 
 
  リコはコースケさん一筋なのっ!

  ・・・コースケさん以外なんか、考えられないのっ!!』
 
 
 
大声で叫ぶナチの声に、少し赤くなり所在無げに目を伏せるコースケだった。
 
 
 

■第128話 再会

 
 
 
 『あの。 本当・・・ す、すまなかった・・・。』
 
 
大して痒い訳でもないのに首の後ろをボリボリ掻きむしりながら、身の置き
所なげに目を逸らし小さく呟いたキタジマは、更に情けなく背中を丸めて暗
い街並みの奥へ帰って行った。
 
 
リコは、そんな痩せた猫背を暗闇の先に見えなくなるまで遠く視線を投げて
見送る。なんだか滑稽で可笑しくて笑いそうになってしまうのを堪え、そっ
と優しく目を伏せた。
 
 
 
 『リュータさんまで巻き込んじゃって、ごめんね・・・。』
 
 
 
隣に立つリュータへ視線を向け、肩をすくめてリコは謝る。

『何おごってくれんだぁ~?』と、リュータが悪戯っ子のようにニカっと
口角を上げ、些細な事など気にしないいつもの大らかな雰囲気で笑った。
 
 
 
奇跡的に見付かったキタジマの財布。

年季が入った黒革のそれは、ふたつ折りタイプのものでだいぶ擦り切れて
いて正直みすぼらしい感じが否めないそれ。
 
 
リュータが第一発見者だった。

『コレじゃないっスかぁ~?』 と手を挙げて掲げたリュータの手から、
キタジマは思い切り乱暴に奪うように引っ掴む。そしてふたつに折り畳ま
れた財布を開き、中を見て確かにそれと確認すると、大切そうにジーンズ
のポケット奥底に押し込めた。

俯いて目を眇め、まるで泣き出してしまいそうな、心から安心した表情を
して。見つかったそれは、宝物のように・・・
 
 
リコは再びリュータのバイクの後ろに乗り、ナチ達が待つ部屋へ帰った。

達成感にも似た清々しい表情のリコと対照的に、リュータは少し何かを考
え込んで浮かない顔をしていた。
 
  
 
 
 
 
キタジマはリコ達と別れた後、再び大学へ向かっていた。

一人暮らしの自宅にはただ寝る為だけに深夜に帰宅し、殆どの時間を大学
の空教室で過ごしていた。夕飯を終えた後の数時間、再び絵筆を握ろうと
ボロボロのツッカケを引き摺って、穏やかな春の夜道を歩いていた。
 
  
すると大学へ戻る道すがら、キタジマは突然背後から声を掛けられた。

それはだいぶ耳に懐かしいやわらかい声で、頭の中でその声の主を思い出
そうと記憶をフル回転する。
 
 
そして、ゆっくりと振り返った。
 
 
 
 『・・・キタジマ、さん・・・ じゃない?』
 
 
 
そこに立っていたのは、マリだった。
仕事の関係で近くまで来ていて、これから電車に乗って自宅方面へ戻る所
だったマリ。
 
 
 
 『ナミキ・・・か?』
 
 
 
絵具だらけのヨレヨレのシャツだが、キタジマの特徴的な気怠い歩き方は
後ろ姿だけだとしても、マリにはそれだと気付かぬはずなかった。

きちんと社会人らしく小奇麗にスーツを羽織り、パンプスを履きこなすマ
リを見て、キタジマは目を見張って驚く。
 
 
実はキタジマはマリの高校時代の先輩で、古くからの知り合いだったのだ。
二人は互いに驚き悦び合い、道路の真ん中で大きな声をあげた。
 
 
数年ぶりに偶然バッタリ会った二人。
興奮冷めやらぬ感じで話をするも、道端での立ち話なんかでは収まらず近
くの喫茶店に入る事にした。
 
 
あまり客が多くないそこで、4人掛け席に向かい合って座る。
互いにコーヒーを飲みながら、懐かしい思い出話に一気に花が咲く。

キタジマが大学にそのまま残って絵を描き続けていることを話すと、マリ
はテーブルに頬杖をついて小首を傾げ、微笑んで嬉しそうに訊いた。
 
 
 
 『ミホさんは? 元気にしてますか・・・?

  ・・・結婚したんですよねぇ??』
 
 
 
すると、キタジマが小さく頷き、頬を緩めてどこか遠い目をした。
それはあまりに優しすぎて、なんだか哀しくなるくらいのそれで。
 
 
 
 『・・・アイツは死んだよ・・・

  3年前。 ・・・あっさり、事故でな・・・。』
 
 
 
あたたかく穏やかな声色とは真逆のその一言に、マリは目を見張って
固まる。『ぇ。そんな・・・。』 絞り出すように呟いた後は、それ
以上は声が出なかった。一気に目の奥が熱くなり、鼻がツンと痛んで
息苦しくて何も言うことが出来ない。
 
 
マリが涙がこぼれるのを必死に堪える沈痛な面持ちで黙りこくってし
まったのを見て、キタジマが静かに話し始めた。
 
 
 
 『それ以来、俺。 ゼンゼン、描けなくなってさ・・・
  
  
  やっと筆にぎれるようになったんだけど、

  静寂が全くダメんなって・・・
  
 
  頭割れそうなくらい音楽かけながらじゃないと、

  未だに描けねぇの・・・。』
 
 
 
嘲るように小さく笑いを含んでキタジマは目を伏せる。

その寂しげな姿に、マリはキタジマの優しくあたたかい絵を思い出し
ていた。いつもミホと二人で顔を並べ、愉しそうに鉛筆を握っていた
あの頃の姿が今でもハッキリと浮かぶ。
 
 
 
 『じゃぁ・・・

  ずっと、一人で・・・

  ・・・こもって、描いてるんですか・・・?』
 
 
 
そう問いかけるマリの声は、涙声になっていた。

泣いてはいけないと必死に自分に言い聞かせる。そんな事してもなん
にもならないし、キタジマの傷を掘り返すことになるだけだと深く息
を吸って吐いてなんとか動揺を鎮めようとしていた。

しかし何をどうしたって、キタジマがミホに愛おしそうに笑いかけて
いたあの顔が切なく浮かんで、胸が苦しくて仕方がない。
 
 
すると、ふっと思い出したように目を伏せて笑ったキタジマ。
 
 
 
 『イヤ・・・

  ・・・最近、ちょっと面白い奴がいてさ・・・。』
 
  
  
まるで、その人がそこにいるみたいに。目を細めて見つめるように。
優しく微笑みながら、小さく小さく呟いた。
 
 
 
 『アイツに・・・ どことなく、似た奴でさ・・・。』
 
  
  
  
 
 
夜道をリュータは、思いつめたような顔でバイクを走らせていた。
腰の辺りを掴むその手の感触に、思わず一瞬だけ後ろを振り返ってリコ
の顔を見る。
 
 
キタジマの財布を見付け、念の為にと二つ折りのそれを開いた時に真っ
先に目に入った色褪せた一枚の写真。

そこにはキタジマと、キタジマに寄り添い微笑む女性の姿があった。
 
 
どことなく、リコに似た女性の姿があった・・・
 
 
 

■第129話 噂話

 
 
 
 『キタジマって、結婚とかしてんのかな・・・?』
 
 
突然ボソッとアカリに訊いたリュータ。

アカリはソファーの上でちょこんと女の子座りをし、その膝の上に丸く
なって眠る愛猫あおいの背中を毛の流れにそって撫でていた。

5人での集まりはお開きとなって皆はついさっき帰って行き、部屋には
リュータとアカリの兄妹だけだった。
 
 
アカリが座るソファーの足元に、脚を投げ出しゴロンと寝転がっている
リュータ。首後ろで両の手を組んで、ぼんやりと瞬きを繰り返している。
 
 
 
 『・・・は? 

  知らないよ、そんなの。
 
 
  ・・・なんで??』
 
 
 
『ん~・・・。』 何故キタジマのことを知りたがるのか、その理由を
説明しようとしないリュータに、アカリはチラリと視線を向けながら再
びあおいへと戻る。そして断片的な情報だが、リコやナチから聞いた話
を繋ぎ合わせてみる。
 
 
 
 『でも、ずっと大学にこもって描いてるらしいじゃない?

  なんか、いつ帰ってんのか分かんない、とか言ってたじゃん・・・
 
 
  ・・・結婚どころか、カノジョだっていないでしょ~ぉ!!』
 
 
 
リュータは仰向けに寝転がり、天井の継ぎ目を見つめて考え込んでいた。

『ん・・・。』 ハッキリしない声を漏らすと、身体の向きを変え横に
向いてキタジマの財布の中で見掛けた写真のことを思い返していた。
写真の中で微笑む女性がリコに似ているという事が、どうしても引っ掛
かって仕方がないリュータだった。
 
  
  
 
 
 
翌日、リコは同じ講義をとる短大の友人からふいに話し掛けられた。

大講義室の真ん中くらいの位置に席を取り、あと数分で講義が始まるの
を教科書を手持無沙汰にペラペラとめくっていたリコに、その友人は別
席から移動しわざわざ隣に座って、リコを覗き込んだ。
 
 
 
 『ねぇねぇ、知ってたぁ~?

  リコちゃんが助手やってる、あの変な人。
 
 
  何年か前までは、あんな感じじゃなかったんだって!』
 
 
 
そう言う顔は、やけに目がギラギラしていて口角がなんだか意地悪く吊
り上がり、リコは瞬時に感じた不快感に咄嗟に目を逸らした。
 
 
女の子は噂好きだ。

キタジマを悪く言ったり変人扱いする人が多かったが、リコはその手の
噂話には全く興味が無かった。他人の感覚や感情をそのまま鵜呑みにす
る必要など無いと思っていたし、自分が実際に傍にいて感じたことを、
ただ信じればよいと思っていた。

誰がなんと言おうが、自分が感じるキタジマという人間への感覚だけで
充分で、他人からの情報など必要ないと思っていたのだった。
 
 
 
 『髪の毛も短くて~ぇ、ちゃんと小綺麗な格好して~ぇ、

  いっつも穏やかな感じだったんだって!
 
 
  何があってああなっちゃったんだろうねぇ~?

  ねぇ、やっぱ失恋とかかな?
 
 
  ・・・チョ~ォ興味あるよねぇ~え??』
 
 
 
リコはそんな言葉に心の底からうんざりし、愛想笑いをその頬に作って
やり過ごした。丁度はじまった講義に集中するフリをして、真っ直ぐ教
科書へと目を落とす。
 
 
しかし、内心ちょっとだけ気にはなっていた。
 
 
 
 (キタジマさんに、何があったんだろう・・・。)
  
 
  
  
 
 
その時、キタジマはいつもの様にヘッドフォンに凄いボリュームで音楽
をかけ、埃っぽく絵具の匂いがこもった空き教室で絵筆を握っていた。
何も考えなくていいように、否、何も考えられないように、どんどん音
量は大きくなってゆく。
 
 
しかし、心に刻み込まれた ”やわらかくあたたかい気持ち ”は、どん
な激しい音楽にもかき消される事なく、絵筆を通してキャンバスに色を
残してゆく。
 
 
他の何を描こうとしても、結局はたったひとつの風景に似通ってしまう。
やわらかくて、まばゆくて、あたたかくて、懐かしい風景に。
  
 
 
 
   ミホが微笑んで佇む、あの風景に・・・
 
  
 
 
色を失った目でキャンバスを見つめるキタジマの右手から力がすっと抜け
てゆき、その指先から筆がコトリと床に落ちた。

気怠そうにゆっくりと体を屈めしゃがみ込んで筆を拾った時、汚れたシャ
ツの中に潜めている、首からぶら下げていた銀色のチェーンが揺れながら
現れた。
 
 
指輪が掛かったネックレスだった。
それは、目を逸らしたくなるほど眩しく光る2つの指輪。
 
 
内側にキタジマとミホの名が刻まれた、結婚指輪だった。
 
 
 

■第130話 マリの知人

 
 
 
その日、コースケは仕事で遅くなるマリの代わりにタクヤを預かっていた。
 
 
他の園児がいなくなった閑散とした夜の保育園の遊戯室で、床に広げたパ
ズルで遊んでいる時、タクヤがコースケにおもむろに訊いた。
 
 
 
 『リコおねえちゃんは~?』
 
 
 
キラキラした純粋な瞳のタクヤは、コースケを真っ直ぐ見澄ます。
まるでそれは、コースケの胸の内を知っていて訊いているかのようで。
 
 
『・・・元気だよ。この間会ったよ・・・。』 そう言って、微笑み返す。
 
 
すると、『ぼく、リコおねえちゃん大好き!』 タクヤが屈託のない笑顔
で笑う。
 
 
 
 『・・・・・・・・・・・・・俺も。』 
 
 
 
コースケがちょっと俯いて、呟いた。

純真なタクヤの視線がなんだか胸に息苦しくて、真っ直ぐ見つめ返す事が
出来ず床の上のパズルピースに目を落としたコースケは、それを意味も無
く指先で弄びながら小さく小さく溜息をこぼした。
 
 
  
それから暫くして、マリがタクヤを迎えにやって来た。
パタパタと慌てた足音を立てて園の裏口から遊戯室へと駆けて来たマリ。
 
 
 
 『ごめんね、コーチャン!! ありがとね・・・。』
 
 
 
そう開口一番で謝ると、手に持つドーナツの箱をコースケに見えるように
掲げ、『お腹空いたでしょ? 一緒に食べよ?』 とやわらかく笑った。
 
 
園児用の小さいテーブルにドーナツを広げ、コースケ・マリ・タクヤの3
人で食べる。

マリが買ってきたそれにはチョコ系のものは一切無い。普通定番はチョコ
な気がするコースケに、マリは肩をすくめどこか嬉しそうに言う。
 
 
  
 『たっくん、チョコ嫌いなのよ。 可笑しいでしょ・・・。』
 
 
 
チョコ嫌いなのは兄ケイタからの遺伝か。ケイタも子供のときにバレンタ
インで貰ったチョコを食べすぎて、それ以降一切食べられない体質になっ
ていた。学生時代、マリから貰ったチョコが嬉しすぎて後先考えずに食べ
蕁麻疹だらけの顔になったケイタを思い出していた。

コースケは、懐かしくもどこか思い出したくない兄の話に、ほんの少し投
げやりに素っ気なく相槌を打つ。
 
 
コースケが無意識に作る苦い顔を目に、咄嗟に話題を変えようとマリが先
日の出来事を話し始めた。
 
 
 
 『この間ね、高校の時の先輩に何年かぶりでバッタリ会ったの。
 
 
  すっごくキレイな絵を描く人でね・・・

  ・・・ケイタも凄く慕ってた先輩なのよ。』
 
 
 
やはり自然に出てしまう ”ケイタ ”という固有名詞に、マリは気付いて
いない。しかしコースケは、それよりなによりマリの口から出た ”絵を描
く人 ”という言葉に、ふと引っ掛かりを覚え口を開く。
 
 
 
 『そう言えば・・・
 
 
  リコちゃんが美大に進んだのって、知ってたっけ・・・?』
 
 
 
マリが『ううん。』と首を横に振る。

しかし、園の遊戯室を鮮やかに彩るイラストの数々がコースケとリコの合作
だとタクヤから聞いていたマリは、それは納得の結果な気がした。
 
 
 
 『どこの大学~?
  
  
  ちなみに。

  その先輩も、未だに大学に残って描いてるみたいなのよ。』
 
 
 
その瞬間、コースケになんだか言葉に出来ないモヤモヤしたものが生まれた。

マリの先輩という事は、そこそこ年齢は重ねている。そして、いまだに大学
で描いているという。しかしそれは ”講師 ”としてという意味かもしれな
いと考えつつも、一瞬頭をかすめたそれをどうしても無視出来なかった。
 
 
『ぉ、丘美大じゃないよな・・・?』 ある筈のない可能性に、心配しすぎ
な自分を少し嘲る笑いが混じった声を落としたコースケ。
 
 
すると、マリが目を見張って驚いた顔を向けた。

胸の前で両の手を合わせ、パチパチと瞬きを繰り返すその顔はすごい確率に
嬉しくて仕方なさそうに高揚して。
 
  
 
 『・・・ぇ。

  その人って・・・
 
 
  ・・・キタジマ、・・・って、人・・・?』
 
 
 
マリのその様子に、コースケの声は有り得ない確立の偶然に完全に落ち着き
を失っていた。途切れ途切れでこぼれた、その、口にしたくない固有名詞。

聞きたくなどないのに、ここ最近コースケの耳にはその名ばかりが聞こえ、
そして何処までも追い掛けて来るような気がする。
 
  
マリは『こんな偶然てあるのねっ?!』と、もの凄く喜んではしゃいだ。

キタジマの学生時代のエピソードを、訊いてもいないのに次々と矢継ぎ早に
まくし立てる。
コースケだけがなんとなく鬱々とした感じを拭えきれず、おざなりに相槌を
打って話を聞いていた。
 
 
マリは、まだ嬉しそうに続ける。
 
 
 
 『リコちゃんはキタジマさんを知ってるのかなぁ~?

  とっくに卒業したような人が校内うろついてたら、

  やっぱり噂にもなるかな・・・?』
 
 
 
頬を緩めて、校内でのキタジマを想像するマリ。
若い女の子ばかりできまり悪そうに廊下を歩くキタジマに、少しぷっと吹き
出しそうになりながら。

コースケは一言も喋らずに黙ってそれを聞いていた。
 
 
 
 『キタジマさんね・・・

  3年前に奥さんを亡くしたらしくてね・・・
 
 
  ・・・あの当時とは、雰囲気が全然違ってたんだぁ・・・。』
 
 
 
キタジマが既婚者だったなんて初耳だったコースケ。

しかもその相手はもう他界しているなんて、リコは知っているのだろうかと
なんだかやけに気になり、キタジマはリコの事を何か言っていたのか訊こう
か迷っていたコースケに、マリが手元のドーナツに目を落とし小さく小さく
続けた。
 
 
 
 『・・・でも、最近ね。

  なんか、面白い子が傍にいるらしいの・・・
 
 
  ・・・その子のお陰でね、

  ちょっと、笑顔が戻ってきてるみたいでねぇ・・・。』
 
 
 
コースケが、息を呑む。

自分の意思とは関係なしに、顔の筋肉が強張ってゆくのを感じる。
なんだか喉がカラカラに乾いて引っ付いて、巧く呼吸が出来ない。
 
 
 
 『・・・その子ね、
 
 
  少し、亡くなった奥さんに似てるって・・・ 

  キタジマさん、言ってたなぁ・・・。』
 
 
 
マリがそう俯いて呟き、要らぬことまで話し過ぎたかと顔を上げると、絶句
して真っ青な顔を向けるコースケがそこにいた。
 
 
瞬時に、何かに気付いてしまったマリ。

薄く開いたままの口から、それは色を失ってこぼれ落ちた。
 
 
 
   『ゥ、ウソでしょ・・・

    ・・・もしかして・・・・・・・・・・・・・。』
 
 
 

■第131話 歯車

 
 
 
コースケは気が付いていた。
 
 
あの夜、泣きじゃくりながら一人佇むリコを抱き締めキスをした時から、
自分の中にある ”気持ち”に気が付いていた。
 
 
勿論、マリを助け支えていく事はこれからも変わらない。

しかし、それは今はもう ”愛情 ”という形から ”家族愛 ”に変わった
という事にも気が付いていたのだ。
 
 
タケがリコの傍にいた時も心配で仕方なかった。
あのどこか危うい、なにを仕出かすか分からない無表情なタケがリコを傷
つけたりしないか、目を離す事が出来ないでいた。

そして、今度はキタジマという男。
タケとは全くタイプは違うけれど、キタジマもリコに違う種類の傷つけ方
をしようとしている気がして、心配で仕方が無い。
  
 
 
 『亡くなった奥さんに似てるってなんだよ・・・。』
 
  
 
自分の中でリコへの想いが明確になった途端、どんどん気持ちは溢れ出し、
止まらない嫉妬や独占欲は、柔和なはずのコースケを苦しめた。

四六時中コースケの頭の中はリコのことばかりで、考え過ぎて眠れなくて
やっと眠れたかと思うと、今度は夢の中でもその姿を想い心配し胸を痛め
ていた。口を開けばこぼれるのは、溜息ばかりになっていた。
  
 
 
 
 『いつまでも想われる側だと思ってんなよぉ~・・・。』
 
 
ふいに、リュータにそう言われた。

リュータは気になどしていないようで、見ていないようで、意外に周りを
しっかり観察し、そして鋭い。
コースケの気持ちの変化など、全てお見通しだったのだ。
 
 
 
 『さっさとリコに言っちゃえばいーじゃん。』
  
 
 
ベッドに寝転がりマンガを読みながら、片手間にリュータは言う。
そのあまりに簡単に言うお気楽な姿を横目で睨むと、またコースケは無意
識に溜息をついた。

今まで自分の本当の気持ちは誤魔化して隠すばかりで、誰かに真正面から
向き合い自分の全てをぶつけた事など一度も無かった。
上手に笑い、交わし、当たり障りない ”いい人 ”でいるのは簡単だった
けれど、その何重にも重ねた殻を割って脱ぎ捨てる方法など知らない。

どうしていいのか分からず、コースケの情けなく丸めた背中はまるで途方
に暮れる茜空の下の迷子のようで。
 
 
 
  逢いたいと思っても、どんな丁度いい口実を作ればいいのか

  声が聴きたいと思っても、なんて電話をすればいいのか

  たった1通のメールも、どんな文章を作ればいいのか
 
 
 
嫌でも考えてしまうのは、リコがキタジマという男と四六時中一緒にいる
という事ばかり。

そのキタジマは、リコに不誠実な感情を抱いているのではないか。亡き妻
の面影を求めてリコをその代わりとして利用しているだけなのではないか。
優しいリコのことだから、情に流され自分の気持ちに蓋をして受け入れた
りしないだろうか。
 
 
悶々と考え込み、寝返りばかりを打ってベッドは小さく軋む音を立てる。
コースケは眠れない夜を幾度も過ごしていた。
 
 
 
  
 
そして、リコも一人、部屋の窓から夜空を見上げて溜息をついていた。

”あのキス ”の事を、内心傷付いていたのだった。
  
 
 
 『いくら酔ってたからって・・・ 酷いよ・・・

  ・・・私のこと。 好きでもナンでもないくせに・・・。』
  
 
 
コースケの前では、”あのキス ”の事は知らないフリをしていたリコ。
本当ならば、好きで好きで仕方ない人からの思いもよらないキスが嬉しく
ないはずは無い。

しかし、無条件に100%喜ぶなんて到底出来なかった。
 
 
 
  (マリさんのことが、好きなくせに・・・。)
 
 
 
思い返すと、ナイフで突き刺されたように胸は鋭い痛みを憶える。
苦しくて苦しくて、ベッドに突っ伏し枕に顔をうずめて身体を丸めた。
 
 
 
 『こんな事なら、知らない方が良かった・・・。』
 
 
 
ひとり、涙声で震えて呟くリコに、ほんの少し開けた窓から流れた夜風
がまるでいたわる様に優しくそよいだ。
  
  
遂に歯車が噛み合いそうで、しかし中々噛み合うことが出来ず・・・
リコとコースケは、こんな歯痒いすれ違いを繰り返していたのだった。
 
 
 

■第132話 二人の距離

 
 
 
  ◆大丈夫です!

   日曜、いつもの時間に行くね。
 
 
リコがコースケに返信メールをした。
メールが送信されたことを表す小さな機械音が軽快に響く。

コースケから、久しぶりに日曜に園のイラスト描きの手伝いを依頼する
メールが届き、優しく目を細め画面を見つめていたリコ。
 
 
しかし、嬉しそうに緩んでいた頬が少しずつどこか切なげなそれに変わ
ってゆく。コースケと2人で過ごせる嬉しさと、その反面、胸に引っか
かった小さな棘がリコの笑顔を翳らせた。

コースケとどう接して良いのか分からず、無意識のうちに溜息が落ちた。
 
 
  
そして、日曜。

約束の時間に園へ行くと、既に裏口に佇みコースケがいつもの笑顔で出
向かえてくれた。
その笑顔にニッコリ微笑み返し、『お邪魔しまーす。』と呟き中へ進む。

リコのスリッパが立てるペタンペタンという足音が、誰もいないのんび
りした雰囲気の遊戯室に響く。
 
 
遊戯室の真ん中に模造紙が広げられている。

リコは画材道具が入ったトートバッグを壁際に置き、床にぺたんこ座り
をする。どんなイラストがいいか事前に考えてきた案を簡単に説明しな
がら鉛筆で軽く下書きしてゆくそのリコの横顔を、コースケはそっと見
つめていた。大きな窓から差し込む午後の陽がリコのまつ毛に積もって
キラキラ眩しい。瞬きに合わせてその長いまつ毛が揺れている。
 
 
ふと、リコが模造紙から顔を上げ目を向けると、いつにも増してコース
ケの笑顔が優しい気がした。
  
 
 
 『なんか・・・ イイコトでもあったの?

  ・・・今日のコーチャン先生、すごいニコニコしてない?』
 
 
 
コースケの笑顔の理由を知りたくて、小首を傾げ覗き込む。

それでもまだコースケが微笑み続けるから、思わずつられてリコまで笑
顔になった。コースケのこの笑顔が大好きだった。出逢った頃から変わ
らないこの笑顔。思わず瞳の奥を探るようにコースケをじっと見つめる。
 
 
すると、コースケもリコを見つめ返した。
まるで瞬きするのも惜しいくらい、じっと。

それは、世界の時間が止まってしまったかのように。二人だけの時間が
進むのをやめてしまったかのように。

どのくらい見つめ合っていたのだろう。数秒か数十秒か分からない。
でも確かにその瞬間、二人の気持ちは通じ合っていた気がした。
 
 
リコが思わず目を逸らした。

吸い込まれてしまいそうなコースケの優しい眼差しに、急に恥ずかしく
なってしまって、ガバっと俯いてせわしなく瞬きを繰り返す。
 
 
コースケもハっと我に返ったように、慌てて下を向いた。

言葉にはしていなくても視線だけで ”好きだ ”と言っているようなも
のだと、無意識に取った自分の行動に一気に体中が熱くなる。心臓がも
の凄い速さで脈打った。
  
 
 
 
 
遊戯室に広げた模造紙の前で座り込むリコの隣にコースケが胡坐をかき、
出来上がった下書きに互いに色を付けはじめた。
 
 
リコは真剣な表情で絵筆を握っている。

瞬きも忘れてイラストに見入っているその凛とした横顔を、コースケは
こっそり盗み見ていた。リコにばかり目が行ってしまってコースケの筆
は一向に進んでいない。

リコの呼吸に合わせ背中が上下するわずかな動きでさえ、見逃したくな
くて見つめていたくて、コースケは息を潜めて切なげに目を細める。
 
 
すると、リコのまとめていた髪の毛がハラリと垂れて落ち、絵の具が付
きそうになった。水がたゆたうように黒髪が流れ、左右に揺れる。

コースケは慌てて指先で髪の束をすくうと、そっとリコの耳にかけた。
 
 
ビクっと驚いて小さく跳ね、身を固くしたリコ。
微かにその指先が触れたリコの耳輪は、右側だけ真っ赤に染まってゆく。

深く考えずに取った行動に自分自身驚き、コースケの心臓はこれ以上な
いほど激しく打ちつける。その音が隣のリコにまで聴こえてしまうので
はないかと思うくらいで、恥ずかしくて恥ずかしくて呼吸が苦しい。
 
 
思わずガバっと勢いよく立ち上がり 『な、なんか飲む?』と呟いて、
リコの返事も待たずに慌ててコースケはその場から離れた。
 
 
 
静けさが漂う日曜の保育園。

そこにあるのは、模造紙とコースケとリコとだけ。
そこに響くのは、壁に掛かった大きな時計が秒針を刻むそれと、二人が
互いを意識して息苦しそうに吸っては吐く呼吸の音だけ。

改めて、この空間に二人きりだという事をひしひしと感じる。
 
 
飲み物を取りに行ったコースケがまだ戻らないのを確認すると、リコは
前屈みになっていた体を起こして座り直す。そして、そっと心臓に手を
当てた。小さな掌にコトンコトンと振動が伝わり、目を閉じてひとつ大
きく深呼吸した。

”あの棘 ”は無かったことになど出来ないけれど、それでもやっぱり
コースケへの気持ちが確かにここに在ることを感じ、その掌はぎゅっと
胸元のブラウスを握り締めた。
 
 
 
 
 
 
  ♪ン~ンン・・♪ンン♪~ン・・・
 
 
やたら時間を掛けコースケが缶ジュースを2本持って戻ると、遊戯室に
リコの鼻歌が小さく響いていた。

コースケに気付かずに、リコは再び前屈みになって集中して絵筆で色を
付けている。午後のあたたかな陽が床に反射して、少し眩しそうに。
でも、なんだか幸せそうに。
  
 
 
 『・・・なんの曲? それ。』
 
 
 
少し不安定に聞こえるその音程に、リコのことが愛しくて仕方ないコース
ケは思い切り微笑む。

出来るならばもっと近付きたくて、もっと聴いていたくて、もっと見つめ
たくて。
 
 
すると、
 
  
 
 『ぁ。これ・・・

  キタジマさんがいっつも聴いてる曲なの・・・
 
 
  いつの間にか、うつっちゃったみたい・・・。』
 
 
 
リコの口から出た、その後ろめたさの欠片も無い固有名詞。

あまりに簡単に飛び出すそれに、コースケはリコに気付かれぬよう俯いて
本当は不満が募る歪んだ表情を隠した。
 
 
リコからは見えない角度の奥で、コースケは奥歯を噛み締め、頬が引き攣
る。缶ジュースを握り締めた手には力が入りすぎて、アルミが少し凹んだ。
 
 
 

■第133話 コースケのヤキモチ

 
 
 
最近、頻繁にリコの口から出る ”キタジマ ”という名前。

情けないくらいその名前に過剰反応してしまうことに、コースケ自身もう
嫌気がさしていた。
 
 
リコはそれについて気が付いていないようで、顔色ひとつ変えず何も気に
せず無邪気にその固有名詞を口にする。

リコの近況をもっと知りたくて、二人で話がしたくて、コースケはなんと
か話題を変えようとする。 『大学はどう? 友達はできた?』
 
 
すると、
 
 
 
 『一緒に講義受けたりお昼食べたりする友達は出来たけど、

  やっぱりナチみたいな常に一緒ってゆう子はいないかなぁ~
 
 
  それに私、講義以外はキタジマさんのトコにいるから・・・。』
 
  
 
また、”キタジマ ”だ・・・

なんとか他の話題を、と。
  
 
 
 『駅前にさ、なんか凄い汚くて古いんだけど

  すげぇ旨いラーメン屋があるって聞いたんだ・・・
 
 
  リコちゃん、どこの事か分かる・・・?』
 
 
 
出来れば一緒に行きたいという意味も込め、少しドキドキしながら口に
したつもりが、
 
  
 
 『あっ! そこ、この間行ったの!!
 
 
  本当に汚くてカウンターとかベトベトしてて・・・

  でもね、本当に美味しかったよ!

  ・・・私、感激しちゃったっ!!』
 
 
 
その時のことを思い返しているのか、リコの顔がパっと明るくなり胸の
前で手と手を合わせて嬉しそうに身を乗り出してくる。
 
 
  
 『リコちゃん、行った事あるんだ?!』
 
 
 『うん!!

  この間、キタジマさんに連れてってもらって・・・。』
 
 
 
・・・・・・。

キタジマキタジマキタジマ・・・リコは口を開けばキタジマの事ばかり。
顔に出しちゃいけない。絶対に顔に出しちゃいけない。
いつも通りに。いつものように笑顔で、笑顔で・・・
 
 
しかし今までどうやって笑っていたのか思い出せないくらい、上手に笑顔
を作ることが出来ないコースケは、なんとか口角だけ必死に上げてぎこち
ない笑顔を向けた。頬が引き攣って、それはどこをどう見たって無理して
いるのは一目瞭然で。
 
 
コースケは自分がこんなに嫉妬深い人間だなんて、今まで気が付かなかっ
た。兄ケイタとマリのことで思い悩んだ時期もあったけれど、二人の間に
割り込むことなど出来ないと最初から頭のどこかで分かっていたし、実際
に割り込もうとも思っていなかったのかもしれない。

しかしリコの事となるとどうにかなってしまいそうな程、その口から出る
その名が嫌だった。
 
 
頬を引き攣らせるコースケの口から、思わず一言突いて出てしまった。
 
  
 
 『最近・・・

  リコちゃんは、キタジマさんの話が・・・ 多いね・・・。』
 
 
 
考えなしに言ってしまってから、コースケは自分の口から出たそれが
弱々しく震えていたことに慌てて咳払いをする。
しかし作り笑顔も、もう限界だった。

一度切り出してしまったらもう止まらなくなってしまって、リコはキ
タジマのことをどう思っているのか、好きなのかそうじゃないのか。
そして、今も自分のことを想ってくれているのか。胸の中がザワザワ
とざわめいて苦しくて歯がゆくて、シャツに手を突っ込んで掻き毟り
たい気分で。
 
 
しかし、コースケのそんな切ない胸の内に全く気付いていないリコは
『一緒にいる時間が長いからかな?』と、小首を傾げ斜め上方を見て
何の気なしに言う。
 
  
 
 『リ、リコちゃんにとって・・・

  ・・・キ、キタジマさんてさ・・・・・・・・。』
 
 
 
コースケは顔を伏せたまま、低く呟く。

心臓がバクバクと音を立てて耳元で鳴り響くようで、少し苛つきが声に
出てしまう。リコは質問の意味が分からないようで、キョトンとしてコ
ースケを真っ直ぐ見ている。
 
 
その反応でリコがキタジマへ特別な感情など無いということは、普段の
冷静なコースケならすぐさま気付けるはずなのだが、今の状態ではそれ
は無理で。聞きたいけれど聞きたくない。ハッキリさせたいけれどそれ
はそれで怖い。

どこかいじけるように、それでもコースケは尚も続ける。
 
 
 
 『だって、ほら・・・

  そんなにいつも一緒なら、なんか・・・ほら。
 
 
  キタジマさんだって、男だし・・・  
 
 
  ・・・ねぇ?』
 
 
 
そう言った目の前のコースケを、リコがまん丸い目をして見つめる。

その姿は床に胡坐をかき情けなく背中を丸めて、膝の上で両の指先を
無意味に絡め爪を弾いて、それはまるで不貞腐れる子供のようで。

暫し呆然とそれを見つめていたリコが、弾かれたようにお腹を抱えて
笑い出した。可笑しくてバカバカしくて仕方がないといった高音の笑
い声が静まり返った二人きりの遊戯室に響き渡る。
リコは身体をよじらせて涙を流しながら尚も笑い続けている。
 
 
そして、笑い声の合間をぬって苦しそうに切れ切れに発した。
 
 
 
 『キタジマさんは、私の師匠だよ!

  それに・・・ 髪の毛ボッサボサで、無精髭で、

  お風呂も入ってなくて、家にも帰ってなくて・・・
 
 
  ・・・仙人よ! 仙人っ!!』
 
 
 
そう言って更にリコは床に突っ伏して笑い転げた。

コースケは、あまりに笑われるものだからあからさまにムっとした顔
をすると、床に放置されたままの絵筆をむんずと握って再び無言で色
付け始めた。
 
 
コースケがこんな子供っぽい一面を見せたのは初めてだった。
 
 
 

■第134話 大人のフリ

 
 
 
 『うはははははははっ!!!』
 
 
リュータが床に突っ伏して笑い転げている。

互いにバイトが入っていないその日、コースケの部屋に遊びに来ていた
リュータは、不貞腐れて口を尖らせぶつくさと文句を延々ぼやき続ける
コースケに呆れ果てていた。
 
 
腹を抱えていまだに笑い続けているリュータを、コースケは恨めしそう
な目でただ黙って睨んだ。
 
 
 
 『好きなだけ笑ってろ! ボケっ。』
 
 
 
本気でムクれて強張った顔で吐き捨てたコースケに、リュータはニヤつき
ながら『悪りぃ悪りぃ。』と謝り、そしてまた大笑いした。
 
 
最近はコースケも、口を開けば ”キタジマ ”という名前ばかりだった。

リュータがニヤニヤする頬をいなし必死に笑いを堪えるも、我慢しきれず
再び腹を抱えて寝そべって笑う。
 
 
 
 『俺・・・

  お前がそーんなに分かり易い奴だったなんて知らなかったよー
 
 
  もう、明らかに、どっから見たって、

  そりゃー・・・ ヤキモチだろがっ!!!』
 
 
 
そう言うとまた体を折り曲げてリュータは笑った。

もう我慢の限界とばかりコースケは引き攣りまくった顔でおもむろに
立ち上がると、床をバンバン叩きながら笑い続けるリュータの尻を、
脚を思いっきり振り切って蹴とばした。
 
 
 『死ねぇぇぇええええええ!!』
 
  
 
  
 
実はリュータは、そんなコースケの姿が内心とても嬉しかった。

今まではマリとタクヤのことばかり考えなによりも優先し、一人の女の子
と真正面から向き合う事などなかったのだから。
人一倍真面目なコースケは、それを避けるかのようにしてきた。
大人のフリをして、いつも穏やかに笑顔で、感情は表に出さず、人と争わ
ず競わず・・・
 
 
しかし今、目の前にいるコースケは、感情剥き出しで怒ったりすねたり、
ヤキモチを焼いたり。いつも情けない笑い顔を作っていたはずのその顔は
真っ赤になって不貞腐れ、文句を言い、眉根をひそめて怒っている。
こんなに子供っぽくジタバタ足掻くコースケなんて、長い付き合いだが見
たことがなかったのだ。
  
 
 
 『だーかーらー・・・

  ・・・早くリコに言えっつってんだよっ!』
 
 
 
リュータが笑いながら言う。
何故こんな簡単なことが分からないのか、リュータは不思議でならない。
 
 
『・・・。』 コースケが黙りこくって、胡坐をかく背中を心許なく丸め
た。床の一点を見つめ、なにか考えあぐねるかのように。
 
 
 
 『なんだ? フラれんのが怖いのか?

  ”保育士目指すロリコンには興味ありません”て

  言われんのが怖いのか~ぁ?!』
 
 
 『誰がロリコンだっ!!』
 
 
 
いまだ寝そべるリュータの頭を、思い切りグーで殴ったコースケ。

しかし ”フラれるのが怖い ”というのは、あながち見当はずれでも
無いらしい。
 
 
その俯く姿に目を遣り、リュータは優しく目を細めて呟く。
 
 
 
 『コースケ君がフラれたら、

  ボクのFカップを貸してやっからよー
 
 
  泣けばいいじゃない!

  泣けばいいじゃないの!! コースケ君~・・・
 
 
  ・・・つーかよ?

  なんでお前がフラれんだよ?
 
 
  リコはお前に2回も告ってんだろ?
 
 
  お前の気持ちがそうなった今、

  ”完全なる両想い・は~と・うふふ ”ってヤツじゃねーの??
 
 
  まぁ、

  リコがキタジマってオヤジに惚れてなきゃの話だけど・・・。』
  
 
 
・・・。

コースケが再び黙りこくり、切なげに小さな小さな溜息をついた。

どうしてもキタジマの存在が気に掛かる。
タケの時なんかとは比べ物にならないくらい、あのキタジマという男が。
 
  
 
 『キタジマか・・・。』
 
 
 
独り言のように、コースケがその名を呟いた。
 
 
 

■第135話 留守の間に

 
 
 
 『もぉ! なんなのよ・・・

  コーチャン先生も、ナチも・・・
 
 
  ・・・なんでみんな、キタジマさんとのこと疑るの?!』
 
 
リコは自宅の自室でひとり、ブツブツと呟いていた。

ここ最近、周りの色々な人から言われる ”キタジマとのこと ”に正直
そろそろ辟易しはじめていた。
 
 
 
 『ただ絵の師匠だって、あれほど言ってるってのに・・・
 
 
  ・・・そりゃあ、講義以外は最近ずっと

  キタジマさんのとこに出入りしてるけど、

  それがなんだって言うのよっ!
 
 
  なんでみんな寄ってたかって文句言うのっ?

  もぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!』
 
 
 
最初、心の声だったはずが、次第に口からハッキリ言葉として出ていた事
にもリコは気付かない。声に出して発してしまったらもう止まらなくなっ
てしまって、仕舞にはそれはキタジマへの悪口のようになってゆく。
 
 
 
 『そんなに言うなら、本人を見てみればいいのよっ!
 
 
  ボッサボサの頭で汚い無精髭で、

  服だって絵の具だらけで、

  いつ家に帰ってんのか分かんないくらいだし、

  お風呂だってきっと入ってないし、

  タバコ臭いし、コーヒー臭いし、年齢不詳だし・・・。』
 
 
 
ベッドに腰掛け枕を膝に置いてそれをボフボフと殴りながら、散々ぶつく
さ文句を言った後で、ふと先日のコースケのことを思い出していた。

今まで見たこともないような不満気な顔を作り、機嫌が悪くなって一言も
喋らなくなったあの日のコースケ。あれは、キタジマの話をしていてそう
なったような気がしないでもない。

もしコースケがキタジマとの事をなにか勘ぐって不機嫌になったのだとし
たら、正直それはそれでリコにとってはなんだか嬉しい誤算だった。
 
 
 
 『ヤ、ヤキモチ・・・

  ・・・とか、じゃ・・・ ないよね・・・?』
 
 
 
呟いた自分の言葉に途端に恥ずかしくなって、膝の上の枕に顔をうずめて
膝を抱える。そんな訳ないとは思いつつも、それならあの反応はどう説明
するのかと再び自分に問い掛け、願う結論ばかりが頭の中を占めてしまっ
て慌ててそれを振り払おうとブンブンと頭を左右に振った。枕に向かって
『ああああああああ!!!』と抱えきれない想いを叫ぶも、それはそば殻
のそれに吸収されくぐもって響く。
 
 
リコの胸の奥がこそばゆく音を立てた。
 
  
 
  
 
 
翌日。

いつもの様に大学の空き時間にキタジマの元へ行くと、そこにはその姿は
無かった。
 
 
 
 『珍しい・・・ 帰ったのかな?』
 
 
 
空き教室を見回して、やはりあの薄汚い長身の姿がないことを確認すると
リコはキタジマがいない間に部屋の掃除を始めることにした。

キタジマが愛用している年季が入った革の擦り切れたイスの背に、いつも
羽織ってるシャツが掛けられている。それは絵の具だらけで、本当は何色
のシャツなのかやはり分からない。
絵具が飛び散った床にゴロゴロ転がる空缶を片付けたり、クシャっと握り
潰されて放置されているタバコの空き箱をゴミ袋に集めて歩く。
 
 
いくら空気の入れ替えをしても、どんよりとしたものが籠っている感じが
するこの教室。普段キタジマが描いている時はさすがに窓を全開には出来
ないそれを、リコはここぞとばかりに換気をしようと思い切り窓を開けた。
 
 
その瞬間、埃っぽい部屋に一気に爽風が通り抜ける。

黄ばんだカーテンが躍るように流れ、まだ片付け途中だった空き缶が風に
飛ばされカラカラと床を舞う。
一瞬だけ吹いた勢いはあるがうららかな春の風に、リコの黒髪も踊らされ
そっと目を閉じて風が通り過ぎるのを待った。

なんだか心地良くて目をつぶったまま佇んでいたリコが、なんとなく背後
に感じた気配にくるりと振り返った。
 
 
そこには、スーツを着た長身のメガネの男性が立っていた。
清潔感があり、穏やかな雰囲気が内面から滲み出ているようなその佇まい。
 
 
 
 『ぁ、あの・・・
 
 
  ・・・キタジマさんなら外出してて、今はいないですよ・・・?』
 
 
 
そう、声をかけたリコ。

キタジマ宛に誰かが訪ねて来たことなど今まで一度もなくて、思い切りド
キマギしながら。おまけにキタジマの知合いだとは到底思えないような、
完全にキタジマとは真逆の雰囲気の男性は、20代後半くらいに見えた。
 
 
すると、
 
 
 
 『んなもん、自分が一番よく知ってるよ。

  ・・・アホか、タカナシ。』
  
 
 
その声音にリコは目を見張る。
 
 
 
    それは、キタジマだった・・・
  
  
  
いつもの汚いボサボサの髪は短くカットしてアップバングスタイル、髭はキ
レイに剃られて顎のラインがハッキリ見えている。
濃色のスーツだと思ったのは喪服だった。

あまりに驚いてしまって声が出ないリコ。ただ目を見開いてキタジマを呆然
と見ていた。
 
 
 
 『・・・なんだよ?』
 
 
 
キタジマが上着の内ポケットからタバコの箱を出し、1本咥える。

その仕草に、正真正銘のキタジマだと悟る。咥えたタバコは口の右端に引っ
掛けなんだか危なっかしくユラユラと揺れて、右手の人差し指と中指の間で
浅く挟んで、気持ち良さそうにしかしどこか不機嫌そうに大きく煙を吐くい
つもの、それ。
 
 
 
 『わ・・・ わわ、若いんですね。 意外に・・・。』
 
 
 
リコがやっとのことでノドの奥から声を絞り出した。

目が乾きそうなくらい見開いて見つめていたリコは、口もぽっかり開いてい
たようでなんだかノドの奥まで乾いて引っ付いていそうに感じる。
 
 
そんなリコの反応に、『ゲホッゲホ・・・』 キタジマが思いっきりむせた。
 
 
 
 『俺をどんだけオヤジだと思ってたんだ、お前・・・。』
 
 
 
そう言うと、黒のネクタイを窮屈そうに左右に引っ張りながら緩めて気怠そ
うに首をバキっと鳴らした。

毎日毎日見ていたはずのその姿は、本来はこんなにも大人の男性だったのだ
と知り、なんだかソワソワして一向に落ち着くことが出来ない。
 
  
それでもリコは、キタジマから目を逸らす事が出来ずにいた。
瞬きするのを忘れるくらい、じっと見つめる。
 
 
胸の奥の奥でこっそり動いていた心臓が、急速に大きな音を立てはじめた様
な気がした・・・
 
 
 

■第136話 命日

 
 
 
リコは、ただただキタジマを見つめていた。
 
 
キタジマはそんな視線に気付いていながら決してリコの方を向こうとはしな
い。怠そうに喪服の上着を脱ぐと乱雑にイスの背に放り投げ、真っ白く汚れ
ひとつないワイシャツの袖を肘まで捲ると絵を描くいつものスタイルになり
始めた。
 
 
それを、リコが慌てて止める。
両手を前に出して ”ダメダメ ”と左右に小刻みに振って。
 
 
 
 『ぇ、絵の具付いちゃいますよっ!!』
 
 
 
そうリコに制止され、『あぁ・・・。』と気の抜けた感じで返事をすると、
猫背で少し立ち竦んでなにか考え込み、諦めたようにイスに深く腰掛けた。
 
 
互いになにも喋らない時間が流れる。

耳に届くのは、キタジマがタバコの煙を吸って吐く小さなそれのみ。
それはいつもの事なはずなのに、なんだか今はその沈黙が重く感じるリコ。
 
 
 
 『・・・お葬式かなんかだったんですかぁ?』
 
 
 
キタジマが放り投げた喪服の上着をハンガーにかけ、既に少し付いてしま
った埃を手の平で軽く払いながらリコは何気なく訊いた。
 
 
すると、『命日。』とたった一言キタジマがポツリと呟いた。
 
 
近親者か誰か他界しているのかと、それ以上はなんとなく聞いてはいけな
い気がして、リコは黙った。
 
 
キタジマはイスに背を預けまるでそれに包まれるように深く沈むと、首の
後ろで両手を組みぼんやりと天井の継ぎ目を見ている。
 
 
そして、それはあまりに優しく哀しい音で静かに響いた。
  
  
 
    『・・・嫁さんの、命日。』
  
  
 
その言葉にリコが目を見張り、言葉を失って振り返った。
その瞬間、ハンガーから上着が傾き絵具で汚れた床へ落ちる。
 
 
キタジマを真っ直ぐ見つめるだけで、何も言い返せないリコ。
足元にはキタジマの喪服が哀しげに丸まってしおれている。
  
  
 
 『3年前に。 死んだんだ、事故で。』
  
  
 
それはまるで天気の話でもするかのような、普段のトーンの声色で響いた。
しかしそれはどこか必死にそう装っているように思えて仕方が無い。

キタジマは首を後ろに反って、タバコの煙をふ~と天井に向かって吐いた。
頭をガシガシ掻いて、首を左右にバキバキ鳴らしながら。言ってしまって
後悔している胸の内を必死に隠そうとしているみたいに。
 
 
リコの胸が、突然ぎゅぅっと締め付けられるように苦しくなる。
 
 
キタジマのこれほどまでに不器用な佇まいは、きっと、最愛の奥さんを亡
くしたから・・・

険しい表情で立ち尽くすリコ。潤んでゆく目を眇め、ぎゅっと口をつぐみ、
両の手はきつく握り締められている。
 
 
それを横目で見て、キタジマが抑揚なく低く呟いた。 
 
 
 
 『なんでお前がそんな顔してんだよ?』
 
  
 
2本目のタバコに火をつけながら。
 
 
人に同情されたり可哀想だと思われるのが何より嫌なキタジマは、リコに
そんな顔をされたくはなかった。それでも亡き妻のことをリコに話してし
まった事に自分自身で少し驚いていた。話すべきだったのか、否か。自分
がそんな話をしなければ、目の前のリコはこんな顔などしないのに。
 
 
自己嫌悪に似た溜息をひとつ付いて、首元の緩めた黒いネクタイに指を掛
け思い切り引っ張り抜く。襟の隙間からシュルシュルと音を立て生地を擦
って、まるでヘビのように1本のそれになった。

沈黙を埋めようとでもしているみたいに気怠く右手で左肩を揉み、またし
ても首をバキっと鳴らした。
 
 
 
 『人は、みんな死ぬんだよ。 遅かれ早かれ・・・
 
 
  受け入れなきゃダメなんだよ。

  ・・・キッパリサッパリ、な・・・。』
 
  
 
そう口では言ったが、普段のキタジマを見る限り ”受け入れ ”られてい
るようには到底見えなかった。

必死に自分で自分に言い聞かせているようにしか。
未だにもがいて足掻いて、苦しんでいるようにしか・・・ 
 
 
イスに深く沈み遠くを見つめているキタジマの横顔を、リコはそっと見つ
めていた。今まで毎日見てきたそれなはずなのに、今、初めて素顔を見た
ような気がする。
 
 
 
 『なんか・・・

  私が、悲しくなってきちゃいました・・・。』
 
 
 
我慢し切れなくなったリコがその場に膝を抱えてしゃがみ込んだ。
コンパクトに縮まったその華奢な身体。長い黒髪は真っ直ぐに垂れて揺れ
哀しく歪んでゆく顔を隠す。
 
 
鼻の奥がツンとして痛い。
ノドが詰まるような苦しさを憶える。
今にも涙がこぼれそうなのを必死に堪えた。
 
 
 
 『タカナシ、今日はもう帰っていいぞ。』
  
 
 
そのキタジマの優しい声が、更に胸を締め付ける。

そう言われはしたけれど、リコはどうしてもキタジマを一人にしたくなか
った。キタジマへ何かしてあげられる訳ではないけれど、何も求められた
りしないのは分かっているけれど、それでも、せめて同じ空間にいたい。
 
 
しゃがみ込んだまま、俯いて、首を横に振るリコ。その揺れに併せて黒髪
がたゆたう。遂に涙は溢れ、頬をつたって顎から滴ったそれは抱え込む膝
に次々こぼれ落ちた。
 
 
その迷子の子供のような心許ない背中を目に、ゆっくりとイスから立ち上
がったキタジマ。
磨き上げられた黒色の革靴が静かに近付いて来るのがリコの潤んで霞んだ
視界に入る。

そして、リコの正面で立ち止まるとおもむろに胡坐をかき床に座り込んだ。

せっかくのキレイにアイロンがかかったスラックスが、汚れた床の埃にす
すけた色が付いた。
 
 
 
 『ったく、ガキか・・・。』
 
 
 
呆れたように笑い、キタジマはリコの頬の涙を乱暴にティッシュで拭った。
 
 
 

■第137話 鼻歌

 
 
 
キタジマはリコの頬に伝う涙をティッシュで少し乱雑に拭きながら、ひとつ
溜息をついた。
 
 
子供のように顔をクシャっと歪ませ、目元も頬も鼻の頭も真っ赤にしてポロ
ポロと涙をこぼしている。ぎゅっとつぶっていた目尻から流れていた涙は、
キタジマが握るティッシュが突然頬に触れた感触に驚いてパチっと目を開け
瞬きを繰り返した瞬間に大粒の雫となって、下まつ毛を揺らして落ちた。 
 
 
困ったような呆れたような顔をして、キタジマが目の前で小さく笑う。
リコは赤く染まる鼻をスンスンとすすりながら、言った。
 
 
 
 『キ、キタジマさん・・・

  なんかあったら、私・・・ 話とか、聞きますから。
 
 
  だから、愚痴・・・とか、もし。 

  ・・・なんか、あったら・・・ わ、私・・・。』
  
 
 
泣きすぎてしゃくり上げ、胸が跳ねながら必死に言葉にしようとするも
それは途切れ途切れでぎこちない。

瞬きもせず、未だ雫が溢れる透明な瞳で真っ直ぐリコに見つめられて、
キタジマが思わず目を逸らした。
 
 
 
 (どうゆう育てられ方したら、

  こう、真っ直ぐなるんだろな・・・。)
 
 
 
内心そう思いながら、『ん。』と一言ぶっきら棒に返事をした。
 
 
こんな風に自分のために泣いてくれるリコの握り締めた震える拳が、なん
だか照れくさくて俯き床に目を落としたキタジマの視界に入る。

白くて細くて華奢な、リコのその手。
 
 
 
 『タカナシも・・・

  なんかあったら。 話、聞いてやってもいいぞ。
 
 
  ・・・まぁ、俺の気分次第でな。』
 
 
 
そのキタジマらしい言葉にリコが呆れた顔を向け、そして、やっと笑った。

ケラケラと高音で笑う声と可笑しくて仕方なさそうに綻ばせ笑うその顔に、
キタジマは少しホッとする。
 
 
 
 『ぁ。 ・・・あと、金の相談以外でな?』
 
 
 『間違ってもキタジマさんにお金の相談なんかしませんよっ!』
 
 
 
いつものように軽快に悪態付き合って、二人で笑い合った。
床に胡坐をかくキタジマが照れくさそうに目を細め大きく口を開けて笑う。

リコはその時、キタジマの笑う顔を見ながら『ちゃんと笑う人なんだな。』
と思った。
 
 
その不器用な笑顔が、リコの心に小さな小さな波紋を落とした瞬間だった。
 
  
 
 
 
気が付くともう陽は傾きはじめ、今日はもう帰る事にした二人。リコとキタ
ジマは荷物を持つと揃って教室を出た。

大学の門をくぐり、ほんのり橙色に染まったやわらかな夕暮れの並木道を二
人並んで歩く。気怠そうに片手に喪服の上着を持つキタジマと、まだ微かに
目元が赤いリコ。
 
 
以前ラーメン屋に行った時は勝手に一人でズンズン進んでしまうキタジマを
リコが必死に小走りで追いかけた。

今は長身のキタジマと小柄なリコが、互いの歩幅に気遣い合いながら一緒に
歩いている。 
 
 
 
 ♪~ンン・・♪♪~ン・・♪~
 
 
    ・・♪♪~ン・・♪~
 
  
 
キタジマがいつもヘッドフォンで大音響で聴いている曲の、いつもの鼻歌を
無意識に歌いだした、その時。リコも自然に、合わせて歌っていた。
 
 
ふいに斉唱した事に気が付きちょっと驚いた顔をして立ち止まり、慌てて
リコへと視線を向けたキタジマ。

リコも完全に無意識だった為、パチパチと瞬きを繰り返し一瞬なにをして
しまったのかと動きを止め固まって、改めて斉唱してしまった自分に驚く。
 
 
そして、互いに顔を見合わせて大笑いした。
  
 
 
 『勝手に真似すんな! タカナシっ。』
 
 
 『毎日毎日聴かされてたら、

  覚えたくなくても覚えちゃいますよっ!!』
 
 
 
可笑しくて仕方なさそうに、二人は道の真ん中でよろけながら笑い続ける。

すると、尚も笑いながらキタジマが呟いた。 
 
 
 
 『この曲、なんて曲なんだろな・・・?』
 
  
 
『知らないで、毎日毎日聴いてるんですかっ?!』とリコはまた呆れ顔を
向けた。まさか曲名も知らずに聴いていたなんて思いもよらなかったのだ。
 
 
すると、少し何かを考え込むように優しく遠くを見ながらキタジマが言う。
 
  
 
 『・・・曲名ぐらい、訊いとけば良かったな。』
 
 
  
その言葉の意味を察し、リコが何も言えずに俯いた。
キタジマが今でも亡き妻を愛している証な気がして、胸がぎゅっと詰まる。
 
 
そんなリコに、キタジマはやわらかい声で呟く。
 
  
 
 『いくら後悔しても、どうにもなんない事があんだよな・・・

  あの時ああしてれば、こうしてればって。
 
 
  だから、後悔しないように生きろ・・・

  後になって悔やまないように、真っ直ぐ自分に正直でいろ・・・。』
 
 
 
まるで自分に言い聞かせているよなキタジマの姿を、リコは真っ直ぐ見つ
めていた。
 
 
 

■第138話 ケンカ

 
 
 
ナチはただ黙ってリコを見ていた。
それは怒ったような哀しんでいるような、沈痛な面持ちで。
 
 
久々、休日にリコの家に遊びに来ていたナチ。 

2階のリコの部屋で最初のんびりと互いの近況を話し合っていたのだが、
ナチにはそんな事より何よりリコに訊きたいことが、確認しないとどう
しても気がおさまらない事があった。
 
 
 
 『ねぇ、リコ・・・
 
 
  最近、全然 ”コースケさん ”て名前が

  リコの話に出て来ないね・・・?』
  
 
 
ナチは言おう言おうと思って胸に溜め込んでいたそれを、やっと口にした。

今日は ”それ ”を訊くためにここに来たようなもの。一大決心するよう
に真顔で眉根をひそめ、座り直してフローリングの上で正座して姿勢を正
して。膝の上で拳にしたその手は、どこか緊張してぎゅっと力がこもった。
 
 
しかしリコは『そうかな?』と、然程気にもしていない様子に映る。

ベッドに背をもたれて脚を伸ばして座り、その爪先がゆらゆらと揺れてい
る様子が、ナチにはなんだか呑気に映って仕方がない。
 
 
ナチは意を決し、本当は口にしたくないその一言を小さく問いかける。
 
 
 
 『ねぇ・・・
 
 
  ・・・キタジマって人の事が、好きになったの?』
 
  
 
ナチは、リコをじっと注視した。瞬きもせず、じっと。

『そんな訳ないでしょっ!』と即答するはずだと、当たり前に思った。
キタジマが ”ただの絵の師匠 ”で、キタジマがどれだけ ”仙人 ”で
キタジマへの ”恋愛感情 ”などあるはずもないとバッサリ切り捨てる
そのリコの言葉を待った。
 
 
しかし、リコは一瞬驚いたようにナチを見ると、バツが悪そうにそっと
目を逸らした。
そして馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに小さく笑うも、その笑顔は頬が引
き攣り、なんだか必死に感情を隠そうとしているようなそれに見える。
 
 
 
 『ねぇ、リコ・・・

  コースケさんの事はいいの?
 
 
  なんか・・・ コースケさん、

  リコがキタジマさんのとこに通いっきりなのを

  凄く気にしてるみたいだよ?
 
 
  リコが口を開けばキタジマさんの名前を口にする事、

  凄く気にしてるみたいだよ?
 
 
  ・・・リコ・・・?』
  
 
 
ナチの訴えるようなその言葉を、リコは哀しげに微笑んで黙って聞いて
いる。ナチはリコがどう感じたか知りたかった。どう思っているのか知
りたいのに、誤魔化すように頬を緩めるだけで埒があかない。

ナチは身を乗り出してリコの二の腕を掴むと、答えを急ぐようにそれを
揺らして俯くリコを覗き込む。
乱暴に揺らされてリコの黒髪が左右に流れる。尚もナチは壊れたレコー
ドのように同じ問い掛けを繰り返し続けて。
 
 
リコが遂に唇を噛み締め、ギュっと目をつぶった。
頭を左右に振って、もうナチの話は聞きたくないとでもいう表情で。 
 
 
 
 『ねぇ!! リ・・・』
 
 
 『放っとけないの・・・。』
 
 
 
リコの喉の奥から絞り出したような低い一言に、ナチが目を見開いて固まる。

その言葉の意味を考えるナチ。
きっとリコの言う ”放っとけない ”は ”絵 ”に関することななずだ。
そうに決まっている。 ”人 ”として ”男性 ”としてな訳など無い、絶対。
 
 
しかし、一度言葉に出してしまったらリコの喉は息継ぎも忘れたかのように
キタジマへの本音を告げはじめて止まらない。
 
 
 
 『どうしても、どうしても気になるの・・・

  放っとけないの。

  一人ぼっちにしたくないの・・・
 
 
  ・・・だってねぇ、聞いて?

  キタジマさん、奥さんを亡くし・・・』
 
 
 
『そんなの聞きたくないっ!!!』 リコの話を無情にもバッサリ遮って、
ナチが今にも泣きそうな顔を向け声を張り上げた。

その瞬間、リコもまるで頬をぶたれたように哀しげに顔を歪めて目を眇め。
 
 
そして暫く二人とも無言で俯き、居心地の悪い時間が恐ろしくノロノロと
過ぎた。
  
 
 
 
重く苦しい沈黙が二人に圧し掛かる。

耳がキーンとするような痛みと、心臓が破裂しそうにバクバクと鳴り響く
音が更に息苦しさを助長する。
 
 
その沈黙を破ってナチが静かに呟いた。
 
 
 
 『別に・・・

  別に、リコが誰を好きでも私の知ったこっちゃない・・・
 
 
  だから、勝手に・・・

  ・・・リコは、リコが思うようにしたらいいよ・・・。』
 
 
 
その突き放すような一言に、リコが救いを求めるような目を向ける。

今まで誰より近くにいて、誰より分かり合ってきたナチ。嬉しいことも
哀しいことも全部二人で共有しあっていたそのナチが、初めてリコを軽
蔑するような嫌悪が滲むような声色で吐き捨てた。
 
 
 
 『ナチも・・・

  ナチも、きっと・・・ キタジマさんに会っ・・・』
 
 
 『会わないっ!!!

  キタジマなんて人、知らないし、興味ないっ!!!』
 
  
 
リコの言葉を最後まで言わせない、ナチ。

顔を背け、怒りと哀しみが入り交じった真っ赤な顔で涙をこらえるナチ
自身、リコにこんな風に酷い怒鳴り方をしてしまった事に驚くも、もう
後には引けなくて震える唇を歯がゆく噛み締める。
 
 
すると、今度はリコが爆発した。
  
 
 
 『好きな人と ”当たり前に一緒にいられる ”ナチになんか・・・

  分かる訳ないよっ!! ・・・こんな気持ちっ!!』
 
 
 
必死に我慢して我慢して、それも限界でリコの頬には涙がとめどなく流れ
落ちる。まるでダムが決壊したかのように流れ続ける雫は、リコの顎を伝
い次々とフローリングにこぼれて小さな水溜りを作った。
 
 
 
キタジマが寂しげに微笑んで呟いた、あの夕暮れの一言がよぎる。
 
 
 
 
  (・・・曲名ぐらい、訊いとけば良かったな。)
 
 
 
 
もう二度と届くことのない想いが、リコの胸をナイフで刺したように痛め
つけて苦しくて仕方が無い。
 
 
しかし、その涙の本当の理由をナチは知らない。
 
 
 
  リコの、”コースケへの受け止めてはもらえない想い ”と

  キタジマの、”もう二度と逢えない妻への想い ”の事など。
 
 
 
ナチも弾かれたように負けずに強く言い返す。
 
 
 
 『ちゃんと、自分の気持ち伝えてもいないリコになんか

  そんなこと言う資格ない・・・。』
 
 
 
すると、その非情な一言にリコが遂にしゃがみ込んで震える両手で顔を
覆い泣き崩れた。
 
 
 
 『・・・ちゃんとぶつかったもん、私だって・・・。』
 
 
 

■第139話 突然、ナチが

 
 
 
来客を示すドアチャイムの音に、リュータがノソノソと玄関へ進みドアを
開けると、そこにはナチが立ち竦んでいた。
 
 
 
 『・・・今夜、泊めて。』
 
 
 
睨むように見眇めるその真剣な眼差しと、低く感情を押し殺したような声
にリュータは目を白黒させ、思いっきりアタフタと取り乱す。 ”泊めて ”
の意味を考えあぐねるも、どうしても不埒な願望の方に吸い寄せられ急激
にニヤけてゆく頬はもう自由が効かない。
 
 
 
 『えっ?

  ぁ、あの・・・

  ・・・えっ?! と、泊まるって・・・ ココに??』
 
 
 
その遣り取りを後ろで聞いていたアカリが、体を沈めていたソファーから
半身起きると、『私は外出とかした方がいいのかしら~?』 と半分冗談、
半分本気で呟いた。
 
 
ナチはリュータの明確な返事も待たずに玄関先で靴を脱ぐと、不機嫌そう
に足音をドシンドシンと響かせ勝手に部屋に上がりこみながら、凄い勢い
でまくし立てた。
 
 
 
 『今夜は飲むっ! 飲むって決めたのっ!!

  三人で朝まで飲んで、嫌な事は全部忘れるのっ!!』
 
 
 
やけくそ気味に声を張り上げると、両手にぶら下げていたコンビニ袋をリ
ビングのローテーブルの上に乱暴にドサっと置く。

その反動で、アルミ缶が数本テーブルの下に転がり落ち散らばった。
ビニール袋にはビールやチューハイやつまみが。ここにやって来る前に大
量に買い込んで来たらしい。
 
 
アカリはソファーから身を乗り出し喜んでビールに飛びつくと、一人で開
けて勝手に飲み始めながらチラリとナチへ視線を向け訊いた。
 
 
 
 『何があったのよ? ナチらしくないじゃーん。』
 
 
 
一応言葉では心配している風を装っているが、アカリの口端にはつまみの
サキイカがしっかり覗き、その指先は次のつまみの柿ピーの袋を開けよう
と必死で。
 
 
『どした? ナチ・・・。』 リュータは心配そうに眉根をひそめナチを
覗き込み、その細い肩に手を置いた。その大きな手の平の熱が、ナチのカ
ットソーを通して優しく伝わり、じわじわと涙が込み上げそうになる。
 
 
暫くの間、ナチは口を真一文字に噤み黙ったまま、眉間に深く深くシワを
寄せていた。

そんな様子に、リュータもアカリも無理に聞き出そうとはせず、ビールを
飲みながら静かにナチを横目で観察していた。
 
 
すると黙りこくっていたナチは、突然両手でガッチリ掴んだまま一向に飲
もうとはしないチューハイの缶の底をテーブルにゴツンと打ち付ける。
  
 
 
 『リコが・・・
 
 
  ・・・リコが、

  キタジマって人の事、好きになりかけてる・・・。』
 
  
 
搾り出すように、なんだか息苦しそうに小さな声で呟いた。

ナチの不機嫌な様子はきっと ”リコの件 ”だろうと思っていたアカリは
『最近のリコの様子で感じてたけどねー。』 と、呆気らかんと声を上げ
それは他人事のように軽い。2本目のビールに手を伸ばすと真新しいネイ
ルの爪を気に掛けながらプルタブを引く。
 
 
『そんなの、私、ヤなの!!』 ナチが強い口調で言い切った。

完全なる八つ当たりになるけれど、アカリのその反応にも苛立つナチ。
勿論リコとの付き合いの長さは全く違うけれど、だからといって友達の事
をそんな風に簡単に、ぞんざいに出来るものかと神経を疑いたくなる。
 
 
すると、アカリはナチの不満気な様子に気が付き、ビール缶片手にソファ
に体を深く沈めながら、言葉が足りず思うように伝わらなかったそれをゆ
っくり冷静に言葉にする。
 
 
 
 『リコだって散々頑張ってきたけど、

  コースケさんはいつまで経っても相変わらずなんでしょ?
 
 
  リコの気持ちが他の人にうつったとしても

  責める権利なんか、誰にも無いんじゃない?』
 
 
 
ナチが唇を噛んで、ぐうの音も出せず俯く。
アカリの言っている事は見紛う事無く正論で、1ミリの非の打ち所もない。

ナチだってそんな事は分かっていた。誰よりリコの傍でリコを応援してきた
ナチ。誰よりもリコの幸せを願ってきたのだ。しかしコースケと幸せになっ
てほしいという気持ちが強すぎて、他を受け入れることなど考えた事がなか
ったのだ。
  
 
 
 『悪いのは、コースケなんだよ・・・。』
 
 
 
それまで黙って聞いていたリュータが、テーブルに片肘を付いて背中を丸め
溜息混じりにボソっとこぼした。
 
 
 
 『コースケは、もうちゃんと分かってんだよ・・・

  自分が一番誰の傍にいたいのか、誰と一緒にいたいのか。
 
 
  ・・・でも、なんでか。

  アイツは、踏み出さないんだよなぁ・・・。』
 
 
 
二人の想いは知らず知らずの間に通じ合っていたというのに、歯がゆい程
にそのベクトルは思わぬ方向に逸れてすれ違ってゆく。
 
 
 
 『リコ・・・ もう疲れちゃったのかなぁ・・・。』 
 
 
 
その一言は震えて涙声で寂しげに落ちた。
両手で顔を覆い、遂にしゃくり上げて泣き出してしまったナチ。
 
 
張り詰めていた糸がプツリと切れた音がした。
我慢の限界だった。
 
 
 

■第140話 重い空気の中で

 
 
 
 『リコね・・・

  コースケさんにちゃんと気持ち伝えてたみたい・・・
 
 
  ・・・全然、

  私・・・ そんな事、知らなかった・・・。』
 
  
 
散々泣きはらした真っ赤な目で、しょぼくれながらナチが呟く。

ナチは今までなんでもリコに相談してきたのに、リコはそうではなかった
事をはじめて知り、これでもかという程に打ちひしがれた。リコの事だか
ら周りに気を遣わせないようにという配慮の元なのだろうけれど、ナチに
はどうしても ”水くさい ”としか思えない。リコが哀しい時は、泣きた
い時は、自分が傍にいて一緒に泣きたかったのに。
 
 
飲めないくせにチューハイを豪快に傾け一気に飲もうとし、その缶を即座
にリュータに横から奪われた。
 
 
リュータは奪ったチューハイに口を付けながら、静かに話し始めた。
 
 
 
 『俺も。 最近、聞いた・・・

  ちゃんと ”好きだ ”って、コースケに伝えたって・・・。』
  
  
 
『で? コースケさんの返事は・・・?』 アカリが訊く。

それはまるで答えが分かっていて、自分の中のそれと答え合わせしようと
するかのように。なんだか気乗りしない声色で響く。
 
  
 
 『 ”No ”だった、って・・・
  
  
  ああああああああ!!! もぉ・・・

  コースケは、頭カタ過ぎなんだよなー・・・
 
 
  マリさんの事で、誰かに嫌な思いさせるくらいなら

  誰とも付き合わないって・・・
 
 
  やっぱ、

  マリさんとタクヤを支えてく気持ちは変わらないから、って・・・。』
  
  
 
ナチが悔しそうにしかめっ面を作り、その頬にはまた涙が伝い落ちる。

コースケもリコのことを少なからず想っているのなら、せめてそれを伝え
たっていいのではないか。その一言でどれだけリコが喜ぶか、どれだけ幸
せな笑顔になるか、そんな事も分からないのかとナチの苛立ちはコースケ
へと矛先が向かう。
 
 
 
 『でも、でもねっ!!
 
 
  リコなら・・・

  リコだったら、マリさんとの事情も全部知ってるんだもん。
 
 
  コースケさんと一緒に、

  マリさん達を支えていけ・・・』
 
 
 『そりゃ、残酷だろ。』
 
 
 
ナチが必死に考え導き出した妥協案を、リュータが抑揚ないトーンで遮っ
た。ナチの願いをバッサリ切り捨てるような、それ。
 
 
どんなに事情を詳しく知っていたって、どんなにマリという人間を知って
いたって、自分の好きな人が他の人の為に一生懸命になっている姿なんて
そうそう受け入れられるものではない。

リコのように真っ直ぐで心根が優しい人間ほど、相手の気持ちを尊重して
自分の本音をきっと抑えつけるだろう。
どうしても全ては受け入れられない自分に自己嫌悪に陥り、嫉妬してしま
う自分を責めるだろう。独りぼっちで隠れて泣くのだろう。
 
 
リュータは、これ以上リコにそんな思いをさせたくなどなかったのだ。
  
  
 
 『コースケ次第なんだよ、全部・・・。』
 
  
 
三人の間に重く苦しい空気が圧し掛かりどんよりと停滞していた。
それ以降、誰も口を開くことはなかった。 
  
  
 
 
 
 
その頃リコもまた暗い表情でひとり、自室でうずくまっていた。
長い付き合いのナチとあんな酷いケンカをしたのは初めてだった。
 
 
ナチに問い詰められ勢いで言い返したあの言葉を思い返し、それを発した
自分に今更ながら驚いてしまう。
 
 
 
 『 ”放って・・・ おけない ”・・・?』
 
 
 
自分が言い放った言葉を、小さく呟いた。

そう呟くと浮かぶのは、寂しげに頬を緩めるキタジマの顔。泣きたくなる
ほどに優しいキタジマの声。本当は大きいはずなのに心許なく見えたキタ
ジマの背中・・・
 
  
あんなにコースケ一色だった毎日が、少しずつ少しずつ変化していた。
それは、自分でも気付かぬうちの事で。
 
 
コースケが好きじゃなくなった訳ではない。

それでも、やはり引っかかっている事があったのだ。
どうしても納得いかない、理解できないあれが。
 
 
 
    ・・・あの ”棘 ”が・・・
  
  
 
 
 『どうしよう・・・

  ナチに・・・ ほんとに嫌われちゃった・・・。』
 
 
 
頭を壁にもたれ掛け涙声で呟くと、目尻から流れた透明な雫が真っ白い
頬のカーブに沿って滴り落ちた。
 
 
 

■第141話 早朝の教室で

 
 
 
 『・・・なんで、こんなトコで寝てるのよ・・・。』
 
 
リコはその姿に呆れたように頬を緩め、小さく小さく囁いた。 
  
 
まだ朝靄けむる、早朝の大学の空き教室。

ナチとのケンカで酷く落ち込みあまり眠れなくて、気が付くとその足は大
学へと向かっていた。何かしようという訳でもなく、ただキタジマがいつ
も描いている教室で一人、ぼんやりとしようと思ってやって来たのだ。
 
 
誰もいないと思ってやって来たそこには、いつもの擦り切れたイスに深く
体を沈め、ヘッドフォンをしたまま眠るキタジマの姿があった。

小さな寝息が静まり返った教室に響いている。
何故かそれはリコの耳に優しくて、どこかホっとする。

もう音楽は終わり無音のヘッドフォンをキタジマの頭から静かに取ると、
少し斜めに傾げて窮屈そうな黒縁メガネもそっと外した。
 
 
リコは羽織ってきた淡色のAラインスプリングコートを脱ぐと、無防備に
眠るその大きな体にそっと掛ける。
 
 
絵具の匂いがすっかり染み付いたその教室に、キタジマの小さな寝息だけ
が一定のリズムで小さく流れ続ける。色褪せたカーテンから初夏の朝陽が
やわらかく漏れ差し込んで、光の筋がキタジマの寝顔を照らす。
 
 
リコは眠り続けるキタジマの正面に立ち、小さく微笑むと静かに膝を折り
しゃがみ込んだ。

その姿は、先日剃った髭が少しずつ伸びてきていて、また元の汚い姿に戻
りつつある。髪の毛はまだ短いけれど、全く手入れしないものだからまた
ボサボサの艶の無いそれに。

絵の具だらけの汚れたシャツ、絵の具だらけの大きな筋張った手・・・
 
 
 
  大きな大きな、哀しいほどに不器用な、その手
  
 
 
微かに震える細い指を伸ばし、躊躇って、それは中空で止まる。

しかし、触れてみたいという想いに抗えず、リコはそっとキタジマの手の
甲に指先をあててみた。
  
  
この大きな手で、あんなに優しく繊細な風景を描き出すのだ。
こんなに絵の具で汚れて、こんなにゴツゴツしていて、こんなに感情表現
下手で・・・
 
 
自分でも気付かぬうちに、リコはその大きな手を両手で包み込み自分の頬
に当てていた。

思ったよりもずっとずっと、それは切ない程に温かい。

ふっと絵の具の匂いがかすめる。
そっと目を閉じて、固く筋張った手の感触を微かに染まる頬で感じていた。
 
 
そして、自問自答する。
  
  
 
 (私は、キタジマさんを好きになりかけてるの・・・?)
  
  
 
もう自分の気持ちすら分からなくなっていたリコ。

どのくらいそうしていたのだろう。キタジマの手があまりにあたたかくて
離したくなくて、離れたくなくて、まるで祈るように両手で包み込み深く
深く息を吐き目を閉じていた。
 
 
窓の外から小さく響く小鳥の囀りに、リコは我に返ったように顔を上げる。
そして静かにキタジマの手を離すと、ゆっくり教室から出て行った。
 
 
古い引き戸が軋んでスライドし閉まる音が小さく響き、リコの背中が廊下
の奥へと消えた次の瞬間、そっとキタジマが目を開けた。
リコが、眠るキタジマから外して横の棚に置いたメガネを再び掛ける。

そして、目の高さに上げた自分の手を神妙な面持ちで見つめた。
 
 
さっきまでリコのひんやりした頬に触れていた、その手を・・・
 
  
  
 
 
30分後、リコが教室に戻るとキタジマがイスに深く腰掛け、気怠そうに
タバコを吸っていた。
 
 
 
 『ぁ。 起きたんですか?』
 
 
 
そう言うと、リコは片手に握ったコンビニ袋を目の高さに上げキタジマに
見せて明るく言う。 『朝ごはん買って来ましたよ!』
 
 
なんだかキタジマを真っ直ぐ見られなくて、リコは投げ掛けた一言の反応
も待たずに絵具だらけの散らかった作業棚を片付けはじめる。なにか言わ
れるのを恐れるかのようにやけに落ち着きなく、俯いたまま。
 
 
キタジマはそんなリコを横目で見ながら、壁にかかった時計を見て呟く。
 
 
 
 『まだ8時前だぞ・・・ 

  ・・・なんでここにいる?』
 
 
 
不機嫌そうに顔をしかめ深く深く煙を吐くと、少し躊躇いがちに低くボソ
っとこぼす。 『・・・言ってみろ。 なにがあった?』
 
 
 
 『・・・・・・。』
  
 
 
その不器用な言い回しが優しすぎて、一瞬でも気を抜くと泣いてしまいそ
うになる。

さっきからリコを心配して、きまり悪そうにチラチラと向けるその視線に
気付かないはずはなかった。いつもは指の間に浅くタバコを挟むその指は、
落ち着きなく無意味にパチンパチンと爪を弾いて。
 
  
リコが少し大仰に明るく笑って、首を横に振る。
 
 
 
 『なぁ~んにもないですよ~!

  ただ早く目が覚めたから、ちょっと来てみただけです。
 
 
  キタジマさんだって、なんで帰らないんですかぁ?

  あんな寝方してたら、疲れとれないじゃないですかぁ・・・。』
 
  
 
至って何もないように振舞うリコを、キタジマは黙って見ていた。
 
 
 

■第142話 憂う夏休み

 
 
 
 『もうすぐ夏休みか・・・。』
 
 
キタジマの何気ない一言に、リコが咄嗟に浮かない顔をした。
 
 
あれからナチとはケンカ別れしたままで、一度も連絡を取り合っていなか
った。高校の時と違い短大の夏休みはやけに長期で、今までいつも長い休
みの時には、必ずナチと一緒に過ごしていたリコには他になにも予定はな
くそれが重く圧し掛かり憂鬱で仕方がない。

しかし、あんなケンカをしてしまった今、『どこかに出掛けよう』なんて
簡単に声など掛けられる状況ではなかったし、ナチから連絡が来る気配も
皆無だった。
 
 
 
 『キタジマさんは、普段通りここで描いてるんですか?』
 
 
 
休み中もキタジマの所に通い詰めたいと一縷の望みを込めて訊いたリコに、
キタジマはどこか冷たく言う。
 
 
 
 『・・・休み中は来なくていいぞ。』
  
 
 
それはまるで、その一言でこの会話は終わらせようとしているみたいに。
 
 
 
キタジマは、あの早朝の出来事を思い返していた。

眠った振りをし続けるキタジマに気付かずに、手を取って頬にあてた、
あの日のリコのぬくもりを・・・
 
 
必要以上に一緒にいてはいけないと、そう考えはじめていた。
リコの為にも、そして自分自身の為にも。

いつの間にか ”その想い ”が大きくなってきている事に、もう目を逸ら
せなくなってきていた。
最初はほんの一瞬見せる表情とか、キタジマにチクリと嫌味を言う時に選
ぶワードとか、そんな小さなものだった。しかし、それがどんどん回数が
増え ”その想い ”は膨れ上がってゆく。気のせいだと思えば思うほどに
似ているポイントを探すようになっていた。
 
 
リコに。
リコの中に。
 
 
 
  どうしても、無意識のうちに重ねてしまう亡き妻の面影を・・・
 
 
 
リコに求めてはいけない。
それは最もリコを振り回し、傷つける事になるのだから。
  
 
それでも珍しく聞き分けなくリコが食い下がる。 
 
 
 
 『わ、私・・・

  休み中ヒマなんです!!
 
 
  ・・・キタジマさんが、もし、ここで描・・・』
 
 
 
『ここには来ない。』 思い切り冷たく言い放ったキタジマ。

そして、息継ぎもせず語尾に重なる勢いで次の言葉を続ける。
沈黙が怖くて、リコが見せるであろう反応がツラくて、顔を伏せたまま。
 
 
 
 『田舎のバアサンのとこで、のんびりしてくる。』
  
 
 
その言葉に、あからさまにリコが肩を落とした。
下を向き、口をつぐんで、悲しげな視線は何処を見るでもなく彷徨う。
 
 
痛いくらいの沈黙が二人に襲いかかった。

キタジマはリコの寂しげな背中を見ないよう見ないようにと、必死に中空
に目をやり慌ててタバコに手を伸ばして、1本取り出し咥える。しかし咥
えて取り敢えず安心したのか、火を点けていない事にすら気付かない。
 
 
リコはまだ俯いていた。
年齢の割りにはしっかりしている方だと思っていたリコが、子供みたいに
いまだ不貞腐れて、否、ガッカリして泣きべそをかいてうな垂れている。
 
 
結局は気になって仕方なくてその様子を横目で盗み見てしまったキタジマ。
『来るか?』という言葉が口を突いて出そうになるのを、喉の奥にぐっと
力を込めて必死に堪える。 
 
 
『ご実家はどちらなんですか・・・?』 リコがやっと発したその一言は、
やはり落ち込む様子を隠そうともしない声音で、必死に口を噤むキタジマ
のそれを簡単に開いてしまえそうなほど。
 
 
 
 『・・・すげぇ田舎。 田んぼと山と川しかない。』
  
 
 
再びリコから視線をはずして、手持無沙汰に思い切りタバコを吸い込んだ
ところで火を点けていなかったことにやっと気付き、バツが悪そうにキタ
ジマはライターに手を伸ばした。そして勢いよく煙を吸っては吐く。
 
 
リコはそっと目を細めて優しく口元を緩めた。

”田んぼと山と川しかない ”というその風景を思い描きながら、どうし
ても諦め切れずに、寂しそうに呟く。 『行ってみたいなぁ・・・。』
 
 
その一言に、キタジマは思わずガバっと顔を上げリコを見つめる。
 
 
何かに酷く落ち込んでいるリコを気晴らしに連れ出したい気持ちが、
自分が生まれ育った田舎の素朴な景色を見せてあげたい気持ちが、
そして、リコが斜め後方から見つめる中で絵筆を握りたい気持ちが、
どうしようもなく溢れ止まらなくなりそうになる。 
 
 
 
 『・・・・・。』

 『・・・・・。』
 
 
 
リコとキタジマが、互いに何か言いたげに見つめ合った。

それは、何秒のことだったか何十秒だったのか分からない。
ジリジリと津波が押し寄せるような感覚が胸の中に広がっていた。
 
 
しかしひとつ大きく深く煙を吐き、キタジマが言った。
 
 
 
 
 『・・・休み明けに・・・ 描いたの、見せてやる。』
  
  
 
 
願った言葉がキタジマの口から聞けなかった事に、打ちひしがれながらも
リコは最後になんとか笑顔を作った。 『楽しみにしてます・・・。』
 
  
  
 
  
ナチは毎日毎日、ケータイを見つめていた。
あれから一度もリコと連絡を取り合っていない。
 
 
”きつく言い過ぎた、ごめんね ” そう一言メールするだけなのに出来ず
にいた。
 
 
ひとり、溜息をついてケータイをOFFにした。
 
 
 

■第143話 向き合う覚悟

 
 
 
 『キス・・・ したんだ。 俺・・・。』
 
 
うな垂れていたコースケが、突然呟いた。

それは聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな呟きで、聞き間違いかと
リュータは顔をしかめてコースケに聞き返す。
 
 
 
 『ぁあ??』
 
 
 
『・・・キス、した・・・ リコちゃんに。』 2度目で確実に聞き取
れたリュータが、目を見張って固まった。暫く何も言えずに、口をぽか
んと開け、ただただコースケを見つめている。
 
 
 
 『ぇ・・・

  ・・・い、いつの話だよ・・・?』
 
 
 
驚きすぎて動揺を隠せないリュータ。

やっと出た言葉は詰まってぎこちなく現れ、落ち着きなく瞬きを繰り返
しゴクリと喉を鳴らして息を呑む。
長い付き合いのこのコースケが、そんな行動に出るなんてにわかに信じ
がたい。しかもそれは、きちんと正式に付き合っている相手でもないと
いうのに。
 
 
コースケは、リカコが帰国し園でみんなで飲んだ夜のことを話し始めた。
 
 
リュータは、あの夜の事は酔っていて100%完璧に覚えている訳では
なかった。しかしリコがあの時酔っ払って遊戯室で倒れた事はしっかり
記憶にある。
 
 
 
 『だってよぉ・・・

  あん時、リコ倒れたじゃんか・・・
 
 
  ・・・酔っ払って、遊戯室で・・・。』
 
 
 
黙って俯いているコースケ。

責められている訳でもないのに、コースケは神妙な面持ちで口を閉ざし
床にかいた胡坐の脚をぼんやりと見つめている。
 
 
 
 『・・・それで、

  お前とタケが、それを見付けて運び込んだろが?』
 
 
 
コースケはコクリと小さく頷きやっと反応を示すと、重い口を開く。
 
 
 
 『リコちゃんが倒れた時に・・・

  最初にそこにいたのは・・・ 俺、なんだ・・・。』
 
 
 
リュータが静かに相槌を打ち、二の句を待つ。
 
 
 
 『あの時は・・・

  みんな、すげぇ飲んで、酔っ払ってて・・・
 
 
  リコちゃんが、夜中に急に、フラフラしながら下に降りてって。

  ・・・心配だったから、後、着いてったんだ・・・。
 
 
 
  そ、そしたら・・・

  ・・・声、殺して・・・ 泣きはじめて・・・
 
 
  ・・・俺の、名前・・・ 泣きながら・・・。  
 
 
 
  気が付いたら、俺・・・ 駆け寄ってた・・・。』
 
 
 
リュータは黙って聞いている。

コースケが所々なんだか泣きたいのを堪えているみたいに言葉に詰まり
ながら懸命に話すそれに、リュータの心臓も同じようにきゅっと痛む。
 
 
 『この子を・・・

  ・・・この子を。

  どうしてこんな風に独りで泣かしてんだろう・・・て、思った。
 
 
  いっつも笑ってて、一生懸命で、こんないい子を。
 
 
  なんで、俺・・・ 独りでこんな風に・・・

  泣かしてんだろう、って・・・。』
 
 
 
『・・・それ。 リコは気が付いてんのか?』 暫し切なそうに目線を
落としていたリュータ。情けなく丸めた背中を少しだけ伸ばしてコース
ケを見ると、静かに口を開く。
 
 
コースケがほんの少し嘲るように頬を緩め、首を横に振った。 
『・・・知らないと思う。』
 
 
そして再び暫くの間、二人は何もしゃべらず重い空気がどんよりと留ま
った。互い、微動だにせずに考え込んで口を噤んだまま。
 
 
すると、リュータが背を仰け反り床に後ろ手を付いて天井を仰ぐ。
目を眇めて大きな大きな溜息をひとつ付くと、喉仏が微かに上下した。
 
 
 
 『いい加減、リコと向き合うべきだろ・・・
 
 
  全部、お前次第だろうが?

  お前がちゃんと気持ち伝えれば、それで万事解決だろぉ~?  
 
 
  マリさんの件は・・・

  出来る範囲で、支えたらいいだろ・・・
 
 
  お前は、自分の事を・・・

  リコとの事を、もっとちゃんと考えるべきだって・・・。』
 
 
 
ぼんやりと何処を見るでもなく見ているコースケ。
そして、心ここにあらずといった感じで、力無く呟いた。
 
 
 
 『万が一・・・

  ・・・リコちゃんが、

  キスに・・・ 気付いてたとしたら・・・。』
 
 
 『もしそうなら、

  気持ちが通じ合ってるって、リコも確信してんじゃねぇ?』
 
 
 
すると、まるで泣き出しそうな顔で、うな垂れたコースケ。

それは震えてかすれて、あまりに弱々しくこぼれ落ちた。
  
 
 
 『・・・逆かもしんねぇ。』
 
 
 

■第144話 高揚しながら

 
 
 
 『じゃ。

  明日から・・・ 気をつけて・・・

  ・・・ゆっくりしてきて下さいね・・・。』
 
 
リコがキタジマに向け背中で言った。
 
 
夏休みに入る前日。暫くこの教室に顔を出すことはなくなる為、リコは
念入りに掃除をし、空き缶や空のタバコの箱を全てゴミ袋にまとめた。

時間をかけていつもしない場所まで掃除をしながら、キタジマの様子を
盗み見る。チラチラと視線を向けるも、それを知ってか知らずかいつに
も増してリコの方を全く見ないキタジマ。

リコは最後の最後までキタジマからの『お前も来てみるか?』という言
葉を待ったが、それを聞ける気配は微塵も無かった。
 
 
リコの最後の挨拶にも、キタジマは聞いてるのかどうか分からないよう
な感じで虚空を見つめ、タバコの煙を深く吐くだけだった。

さすがに諦めたリコが俯いて苦笑いをし、『私は、これで・・・。』と
小さく呟き、ドアの前でもう一度だけキタジマを振り返った。
しかし、その目に見えたのはイスに深く沈んだ微動だにしないキタジマ
のシルエットだけだった。

かぶりを振り寂しげに目を伏せて、リコは教室を後にした。
 
 
 
 
 
大学からの帰り道。
独りぼっちで歩く並木道。

夕暮れ前の風は緩やかになびきリコの頬を優しく通り過ぎるけれど、その
表情は暗く浮かないもので、分かり易く踵を重く引き摺りトボトボと家路
へ向かっていた。
 
 
最寄駅で電車を降りると、いつもは自宅近くまでバスに乗るのだが今日は
久しぶりに目的も無く商店街を歩いてみる。いつもの見慣れた商店街なは
ずが、なんだかまるで知らない街を歩いてるかのようだ。
 
 
リコの心は明らかに沈んでいた。

ナチもいない、キタジマもいない。
そして、コースケとは暫く会ってもいない。
 
 
自分が誰と一緒にいたいのか、どうしたいのか、正直もう分からなくなっ
ていた。 ”寂しい ”という言葉だけでは言い表せないこの心細さや焦燥
感、世界にたった一人だけ取り残されたような孤独感に打ちのめされそう
になる。
 
 
活気ある商店街の喧騒も、なんだかそれは他人事のようにぼんやり霞む。

俯いてただ足を進め本屋を通り過ぎようとした時、リコは後方から誰かが
自分の名前を呼ぶ声に鈍く反応すると、気怠そうに振り返った。
 
 
すると、そこにはマリとタクヤの姿があった。
 
 
 
 『久しぶりね、リコちゃん!!

  ・・・もし良かったらお茶でもしない??』
 
 
 
そのやわらかい声に、リコはもうずっと長い間誰とも口をきいていなかっ
たかのような感覚に陥り、マリからの誘いが泣きたくなるほど嬉しくて、
哀しげな情けない笑顔で首を縦に振った。
 
 
商店街の一角にある古い喫茶店に、マリとタクヤ。そしてその向かい席に
リコが座る。タクヤはリコに久々会えたのが嬉しくて仕方ないようで、
息継ぎも忘れ身を乗り出して喋っている。身振り手振りを付けながら目を
キラキラさせるその姿を、リコもマリも微笑ましく見ていた。
 
 
 
 『ぁ、そう言えば・・・

  ・・・リコちゃん・・・ 美大に、通ってるんだってね・・・?』
 
 
 
マリは思い切って、以前コースケから聞いた話を切り出してみた。
しかしそれはどこか躊躇いがちに、様子を伺うように。

マリやコースケが心配する ”あの件 ”が、どうか間違っていることを
願って。どうか ”それ ”がリコではないことを祈って。
 
 
すると、リコが目を見張り堰を切ったように早口で話し出した。
 
 
 
 『私の大学に、すっごい変わった人がいて・・・
 
 
  その人、学生でもないのに、

  大学で居座って描いてるんですけど・・・
 
 
  ・・・その人、凄いんですっ!!

  すごい・・・ すっごい優しくて、あったかい絵を描くんですっ!!』
 
 
 
リコの何処か必死なすがる様な目を見て、マリは瞬時にキタジマの事だと
気が付いた。しかし、リコはマリとキタジマが知り合いだという事を知ら
ない。知人だなんて夢にも思わず、身を乗り出して興奮気味に語るリコは
止まらない。
 
 
 
 『その人・・・

  そんな優しい絵を描きそうな雰囲気なんかじゃ、全然ないんですよ!
 
 
  髪なんかボサボサで、無精髭で、偏屈者なんですけど・・・

  ・・・でも、すごい人で・・・
 
 
  ほんとは・・・すごい、優しくて・・・

  すごい、あったかくて・・・

  ・・・ただ、不器用で照れ屋なだけ、で・・・
 
 
 
  ほんとは・・・ ほんとは・・・・・・・・・・・・・・。』
 
 
 
マリは、高揚しながらまくし立てるリコを、ただじっと見ていた。

なんだか胸の奥がザワザワと音を立てる。心臓が早鐘を打ち、喉が痞える
ような息苦しさを感じて落ち着かない。
暫し口を噤んでいたマリは、一瞬頭をかすめたその一言を言おうかどうし
ようか迷い、しかし躊躇いながら小さく口にした。
 
  
 
 『なんだか、まるで・・・

  ・・・リコちゃん、恋してるみたいに見えるわね・・・?』
  
 
 
そう言うと、マリは必死に頬に少しぎこちない笑みを浮かべ、リコの表情
を盗み見た。 ”恋 ”というワードによる化学反応が、リコにどう作用す
るのかを確かめたいけれど確かめたくない。

マリは言ってしまってから、どこか後悔しているかのように目を落とし、
手持無沙汰にスプーンでコーヒーを無意味にかき混ぜ続けた。
 
 
少しの間、俯いて黙りこくっていたリコ。じっと膝の上に置いた手を見つ
め続けている。それは自分で自分に問い掛けているような、明確な言葉と
して形づけてしまうことに怯えているような。
 
 
居心地の悪い時間が通り過ぎ、リコは弱々しい視線をマリへ向けると囁く
ように小さく嗤って呟いた。
  
  
 
 『・・・そうかも・・ しれません・・・。』
 
 
 
コースケの困ったように情けなく笑う顔が、よぎって消えた。
 
 
 

■第145話 求めるその人

 
 
 
マリは、とても嫌な予感がして居ても立ってもいられなくなっていた。
 
 
胸の中をザワザワしたものが渦巻き、やけに口の中が乾いて気持ち悪い。
脈が速くて耳元でドクンドクンとうるさい程に音がする。口元に手をやる
と自分でも気が付かないうちに小さく爪を噛んでいた。
 
 
何かが悪い方悪い方へ向かっている気がしてならなかった。

それはゆっくりと。細くて心許ない一筋の川の流れが静かに静かに大海に
向かうようにゆっくりと。
まるで運命という大きな流れには抗えないとでも言われているようにさえ
思えるそれ。
 
 
 
 (キタジマさんに、

  リコちゃんに近付かないで、なんて言えない・・・
 
 
  もし・・・

  リコちゃんのことを、ミホさんの代わりみたいに思ってるなら、

  そんなの、絶対ダメに決まってる。
 
 
  リコちゃんに、キタジマさんの亡くなった奥さんの話すればいいの?

  そうすればリコちゃんはキタジマさんから離れていく・・・?
  
  
  どうすれば、誰も傷つかずにいられるの・・・?)
 
 
 
マリは一人で誰にも言えずに考え込んでいた。

あれからずっと胸のモヤモヤが晴れない。
リコが哀しげに目を伏せなんだか泣き出しそうに嗤って囁いた、キタジマ
への恋心。言葉にしてしまって初めて自分で確認したかのようなその表情。

考えれば考えるほど、浮かぶのはコースケの顔ばかりだった。
 
 
コースケはこの事を知ってるのだろうか。

リコがキタジマに惹かれ始めているという事に気付いているのだろうか。
また自分を抑えて、我慢して、情けなく頬を緩めて笑っているのではない
だろうか。
 
 
コースケを思うと、胸がつぶれそうに痛く苦しくなった。
何も出来ない不甲斐ない自分にかぶりを振り、ふと自宅リビングの棚に飾
ってある写真立てにすがる様に目を向ける。
 
 
 
  (ケイタ・・・

   コーチャンを助けてあげてよ・・・。)
 
 
 
マリの口から弱々しく震えて溜息が漏れた。
  
  
 
 
 
夏休みに入り、リコはまるで空っぽになってしまったように毎日を過ごし
ていた。一人でいても家族といても、なんだか居場所がないように感じる。
 
 
スケッチブックを持って家を出てはみるものの、何も描きたいものが見付
からない。口からこぼれるのは溜息ばかりで、伏し目がちなその瞳には何
も映らなかった。やわらかい日差しにも、子供の笑い声にも、青々とした
煌く樹々にも、リコの心が動かされることは無かった。
 
 
ひとり、部屋にこもってはケータイを眺めていた。

自分でも誰からの連絡を待っているのか、もう分からない。
ただ闇雲に、このケータイを震わせてくれる誰かを待っていた。
 
  
  
ナチもまた、ケータイと睨めっこする日々だった。

体育座りをしてコンパクトに体を縮め、膝の上に顎を乗せて。不貞腐れた
ように目を眇め、日に何度も何度も新着メッセージの有無を確認する。
 
 
隣でそれを見ていたリュータがさすがに呆れ果てて言う。
 
 
 
 『そんなに気になるなら電話すればいーだろ?』
 
 
 
しかし、半ば八つ当たりのようにふくれっ面を向けジロリとリュータを睨
むとナチはケータイを乱暴にテーブルに放り投げた。
 
 
 
そして、メールを打っては消し打っては消している人間がもう一人いた。

もしリコが ”あの夜のこと ”に気付いているのだとしたら、きちんと話
をしたかったのだ。しかし、話すと言ってもなにをどう切り出したらいい
のか。どう言葉にしたらいいのかなんか分からなくて、たった数行の無味
乾燥な文字列でどう伝えたらいいのかなんか分からなくて、時間を掛けて
躊躇う指先で入力したそのゴシック体は、結局はクリアボタンで最初の真
っ新な画面に逆戻りした。
 
コースケもまた、向き合うチャンスをずっと探っていた。
  
 
  
  
 
 
  ◆元気にしてますか?

   私は、何故か全く描けなくなっちゃいました(笑)
  
 
 
リコが送信ボタンに触れた。
”送信完了 ”とケータイの画面に表示され軽快な短いメロディが響く。

たった2行のメールは送られた。
たった2行の、今のリコの心情全てが込められたメール。
 
  
 
 
  リコが迷いに迷って、やっとメールを送ったその先にいた相手・・・
  
 
 
 
すると、すぐさまリコのケータイに着信音が鳴り響いた。

それはまるでリコからの言葉を待ち望んでケータイをひたすら眺めていた
かのようなスピードで。
  
  
 
 『・・・なんで描けない?』
 
  
  
言葉の間々に、穏やかにゆったりとタバコの煙を吐く息を感じる。

ケータイの画面に、リコが求めるその人の名前が表示されていた。
  
  
 
  ◆着信:キタジマさん
 
  
 

■第146話 逢いたい気持ち

 
 
 
ひんやり冷たいケータイの奥から流れる、あの低くてぶっきら棒な声に
リコは涙が出そうになっていた。

朴訥なその口調も、本当は情が深く極度の照れ屋だということを知って
いるリコにとっては、より愛おしさが込み上げて仕方がない。
 
 
数日一緒にいないだけなのに、こんなに気持ちは揺り動かされる。

普段当たり前に来る日も来る日も絵具だらけの空き教室で顔を合わせて
いた事が、どれだけ凄いことだったかを痛感する。
 
 
思わず涙ぐんでしまって喉が詰まり声が出せないでいるリコに、キタジ
マは静かに話し掛けた。
 
 
 
 『・・・どうした?
 
 
  でも、まぁ

  描けない時は無理して描こうとしないでボケっとしてろ。
 
 
  毎日毎日描き続けることには何の意味もねぇぞ。

  スポーツじゃないんだし・・・。』
  
 
 
ケータイ越しに微かに聞こえる震える息遣いで、リコが泣いている事に
キタジマは気が付いていた。

リコは決して言わないけれど、なにかに落ち込んで元気がない事にも勿
論気が付いていたし、本音を言えば傍にいたい。隣にいたところで気の
効いた言葉も掛けてあげられはしないけれど、それでも、ほんの少しで
もリコが元気になるのなら。リコが笑ってくれるなら・・・
 
 
キタジマの喉の奥で、言いたくて言いたくて仕方がない一言が出かかっ
て震える。言ってしまおうか、言ってもいいのだろうかと自問自答し、
それに呼応するように胸の奥で心臓だけがバクバクと破裂しそうで。
 
 
暫く互いに黙っていた。
 
 
耳に響くのは互いの息遣いだけで、リコにはその沈黙が怖かった。
特に用が無いのならばキタジマからアッサリとケータイを切られてしま
いそうで、この心許ない繋がりにすがるように慌てて話し始める。
 
  
 
 『そっちはどうですか・・・?

  ・・・のんびりしてますか・・・?』
 
 
 『ボ~っとしたり、散歩したり、釣りしたりしてる。

  バアサン手伝って、畑もちょっとイジった。
 
 
  トマト嫌いだって言ってんのに、無理矢理食わされてる・・・。』
 
 
 
リコがぷっと吹き出して笑った。

苦い顔をしながらキタジマが渋々トマトを口に入れる姿を想像し、可笑し
くて声を出してケラケラと笑う。
軽快にピアノが弾けるようなその笑い声がキタジマの耳に響き、久々に聴
いたやわらかい声色に胸がきゅっと切なく音を立てる。
  
 
『・・・楽しそう。』 散々笑った後で、小さく寂しそうにリコは呟いた。

キタジマは、一人ポツンと部屋で小さく丸くなって座っているリコを想像
する。潤んだ目を伏せて、頬も鼻の頭も真っ赤に染めて、唇をきゅっと結
んだそれを。
 
 
もう堪え切れなくなり、思わず上ずりながらも口に出してしまった。
 
  
 
 『こ、こっちに来・・・』

 『シュン~! 納屋に来てくれないかぁ~。』
 
 
 
決死の言葉を言いかけた瞬間、祖母キヨに呼ばれキタジマは最後までそ
れを伝える事が出来なかった。

ハっと我に返ったように慌てて口をつぐみ、哀しげに目を伏せると、
『バアサン呼んでるから、また・・・。』 そう告げて電話を切った。
 
 
 
 
  ツーツーツー・・・
  
 
 
 
リコの耳に、呆気なく通話が終了した冷たい機械音が聴こえる。

最後にキタジマが言いかけた言葉に気が付いていたリコ。
 
 
 
  ”こ、こっちに来・・・ ”
 
 
 
歯がゆくて、切なくて、胸が苦しい。

あの言葉の続きを聴きたくて、続きを言ってほしくて、もうとっくに切れ
てしまっているのに諦め切れずに耳にケータイを当てていた。

しかし、当たり前にそれはもう聴くことは出来ない。
切れたケータイを見つめながら、そっと呟いた。
 
 
 
 『逢いたいよぉ・・・。』 
 
 
 
ゆらゆらと揺らぐ瞳をつぶった瞬間、大粒の雫が頬を伝ってこぼれ落ちた。
 
  
 
 
 
そして、キタジマもまた、切ったケータイをジーンズのポケットに突っ込
みながらリコを想っていた。
 
 
ギュっと目をつぶって、頭を左右にブンブン振る。

それは、心の迷いを振り払うかのように。間違いを犯しかけているのだと
必死に自分に言い聞かせるように。
 
 
しかし、頭の中から追い出そうとすればする程、耳に心地よいリコの笑声
が苦しいくらいにリフレインする。
 
 
ポケットからゆっくりケータイを取り出した。
微かに震える親指で、メールを打ちはじめたキタジマ。

たった2行のメールを打つと最後の送信ボタンに指をかけ、止まる。
 
 
 
  (いいのか・・・?

   コレを送ってしまって、いいのか・・・?)
 
 
 
メールを送信したい気持ちと、送信してしまったらもう後戻り出来なく
なるという気持ちがせめぎ合う。息苦しいほどに脈が速く打ち付けた。
顔を歪め、ぎゅっと目をつぶる。

するとその真っ暗な世界の向こうに、それは見えた。
 
 
 
  リコの、まぶしそうに目を細め屈託なく笑う顔が・・・
 
 
 
 
 ピ・・・
 
 
 
        ”送 信 ”
 
 
  
 
 
   ◆明日の朝イチの電車で、里見駅まで来い。

    迎えに行くから。
 
  
  
目を見張りケータイを見つめるリコが、子供のように声を上げて泣いた。
 
 
 

■第147話 田舎

 
 
 
まだひと気のない早朝の駅のホームに佇むリコ。

両手で持ち手を握ったサーモンピンク色とチョコ配色のボストンバッグは、
少しサイズは大き目だ。中にはスケッチブックなど画材道具と、キタジマ
に逢えるという溢れるほどの気持ちが詰まり、心なしか重く感じる。
 
 
今日。始発の鈍行列車に乗って、キタジマの待つ里見駅へ向かう。
 
 
3時間半の列車の旅。
ゆっくりホームに滑り込んで来た列車はまだ誰も乗車していなくて席など
座り放題だというのに、リコはややせっかちに飛び乗ると窓側の席を一番
乗りで陣取り、動き始めた車窓からの景色をじっと見つめていた。
 
 
しかし、流れる穏やかな風景も一切リコの頭には入っていなかった。

願うのは、キタジマが待っていてくれているであろうその場所へ1秒でも
早く着く事だけだった。
 
 
 
 『逢ったらなんて言おう・・・。』
 
 
 
そう頭をかすめ、無性に恥ずかしくなる。

どんな顔して逢えばいいのか。
キタジマはどんな顔をするのか。
ノコノコとはるばるやって来たはいいが、本当は冗談だったんじゃないか。
 
 
ケータイメールの受信履歴を開いて、昨夜キタジマから送られてきたそれ
を再確認する。するとそこには確かに涙が込み上げる愛おしい2行がある。
しかしあれから新着のメールはない。

昨日の今日でそんなマメに連絡をくれる人間ではないことぐらい分かって
はいるけれど、不安で仕方なくて胸の奥がザワザワとざわついた。
 
 
考えれば考えるほどネガティブな方向にハマりそうになる。
ギュっと目をつぶり頭を左右に振って、嫌な想像を頭から追い出した。
 
 
しかしそんな言いえぬ不安とは裏腹に、リコは何度も何度も左手首に付け
た時計に目を落とす。

こんなに地球の回転は遅かっただろうかと、不満気に眉根をひそめた。
腕時計の電池が切れ掛かっているとか、列車の故障でスローペースで走行
しているとか疑いたくなるほどに、キタジマに逢いたくて逸る気持ちに抗
うようなそのノロノロとしか過ぎてくれない時間。
 
 
やっとのことで時間は経過し、列車のアナウンスで次が里見駅だと知った
リコは急激に打ち付ける胸の鼓動に、落ち着きなく照れくさそうに瞬きを
繰り返す。

その目に映る窓から見える風景は、キタジマが言ってた通り ”田んぼと山
と川しかない田舎 ”だった。
 
 
ゆっくりとスピードを落とし列車はきしむ音を立て停車する。重力で少し
前のめりになり、顔にかかった髪の毛をそっと耳にかけると大きくひとつ
深呼吸をした。
 
 
そして、リコは隣席に置いていたボストンバッグを掴むと、勢いよく立ち
上がり足早に歩き出した。
 
  
  
 
 
キタジマは、昨夜は殆ど眠れなかった。

リコにあんなメールをしてしまった事を、何度も何度も繰り返し考えてい
た。自分は間違いを犯しているのではないか、ただリコを傷つけるだけな
のではないかと、胸に重く渦巻くのは不安だけだった。
 
 
しかし反面、リコがやって来るであろう駅へ向かう足は、自然に早足にな
り仕舞いには豪快に砂利を蹴り上げ駆け出していた。
炎天下の元、運動不足の鈍った体で全速力で走り息を切らして駅に着いた。
 
 
肺が爆発しそうに乱れた息を、大きく胸を上下させ深呼吸して整える。
頭に巻いた日除けの手ぬぐいを一旦はずし、もう一度きつく巻いて縛った。

ハーフパンツのポケットからタバコを取り出し、咥えて火をつける。緊張
してやたらと口が渇いている自分に、キタジマは照れくさそうに失笑した。
 
 
  
小さな小さな無人駅の、改札の役目をまっとうしていないような心細いそれ
の奥に、大きなボストンバッグを握るその姿が見えた。

陽が当たっているだけではないように感じる、その目映いシルエット。
 
 
すぐさま駆け寄りたい気持ちをぐっと堪え、キタジマは駅舎の壁に寄り掛か
り不自然に視線を泳がせながら佇む。

いの一番に不器用で照れ屋な姿を見付けたリコが、照れくさそうに頬を染め
微笑み小さく手を振りながらキタジマの元へ走り寄った。
 
 
互いに嬉しさと照れくささを隠そうと必死になっているのが、中々、言葉を
継げない歯がゆい空気でいとも簡単に伝わる。
 
 
すると、キタジマが片手に持っていた麦藁帽子をリコの頭に乱暴に乗せた。
 
  
 
 『ここは日差しが強いんだ。 日に焼けんぞ・・・。』
 
 
 
それはどう見ても若者向けではない、農家の作業用のようなツバの広い麦藁
帽子だった。リコのために、祖母のそれを持って来たのだろう。
 
 
そしてキタジマはもう片手でリコが抱えるバッグを引き受けると、くるりと
背中を向けて一人で歩き出した。ニコリとも笑わないキタジマが相変わらず
で可笑しくて仕方なくて、必死に笑いを堪えてリコはそのTシャツを追う。
  
 
何も話さずに日差しが強い田舎道を二人は歩いた。
 
 
 

■第148話 田舎道

 
 
 
二人はただ黙って、日差しが降り注ぐ田舎道を歩き続けた。
 
 
リコが歩く数歩前を、キタジマが歩いていた。

咥えタバコで、片手に握ったリコの荷物は肩に引っ掛けている。
相変わらずの痩せた猫背、気怠げな踵を引き摺る歩き方。やはり大きな手
にはカラフルな絵具がこびり付いているのが見える。
 
 
リコはその背中を、泣きそうになりながら見つめて歩いた。

逢いたくて逢いたくて仕方なかったその背中は、相変わらず不器用でぶっ
きら棒で、優しい言葉ひとつも掛けてはくれない。
それがキタジマらしくて、愛しくて、リコは泣きそうになるのだった。
 
 
すると、無言でひたすら真っ直ぐ歩いているキタジマが、たまに振り返り
斜め後方を見上げる。それは時間をおいて何度も何度も繰り返されていた。

空を見ているのかと思ったリコ。リコも、そこには何があるのか振り返っ
て見上げてみた瞬間。 
 
 
 
 『キャっ!!』
 
 
 
リコが余所見したその時、道端に小さなアマガエルが急に飛び出してきて
踏み付けそうになった。

驚きそれを避けようとバランスを崩し、草むらに突っ込みそうになったリ
コの腕をすかさずキタジマが掴んで引っ張り上げる。
 
 
 
それは、あまりに完璧なタイミングで・・・
  
 
 
 
  (空を見上げてたんじゃない・・・

   私を気にかけて、振り返ってくれてたんだ・・・。)
  
 
 
一緒に並んで歩くでもなく『気をつけろ』と声を掛けるでもなく、たまに
斜め後方をチラリと盗み見て、リコを気遣っていたキタジマ。

咄嗟に掴んだリコの腕からアッサリと手を離し、まるで何もしていない様
な涼しい顔をしているが、口に咥えたタバコの煙がやけにスピードアップ
して晴天の青にくゆって昇る。
 
 
 
 『不器用にも程があるでしょ・・・。』
 
 
 
キタジマには聴こえぬよう小さく囁き、泣いてしまいそうな顔で微笑んだ。

その大きな手にはじめて触れられたリコのノースリーブの二の腕が、真夏
の日差しに照らされて恥ずかしそうに赤く染まっていた。
  
  
 
 
 
 『虫とか、爬虫類とか。 苦手か・・・?』
 
 
リコを振り返りもせず、真っ直ぐ進みながらまるで独り言のようにキタ
ジマがポツリと訊く。

リコもその歯がゆい距離を保ったまま『苦手ですよっ!』と返事をした。
 
 
すると、『ウジャウジャいるからなっ!』 

少し振り返ってニヤっと笑うキタジマ。まるで子供のように片頬を歪め
完全にリコをからかって愉しんでいるその表情。
 
 
やっと見せてくれたキタジマの笑顔が嬉しくて、リコはちょっと早足で
キタジマに追いつき、下から顔を覗き込んでイタズラに笑いながら言う。
 
 
 
 『その時は、カッコよく助けてくれるんですよねっ?!』
 
 
 
悔しいけれど一枚上手な、太陽のように眩しく笑うリコを横目でチラっ
と一瞬見てすぐ目を逸らし、少しモゴモゴと何か言いかけてキタジマは
タバコの煙をふ~っと大仰に吐いた。

返答なしのキタジマが可笑しくて、リコは声に出してケラケラと笑った。
 
  
 
どこまでも続くのではないかと思うような、田舎道。
 
 
突き抜けるような高い青空には、真っ白なふわふわの雲。
日差しは増々強くなっていき、リコのノースリーブの肩を赤く染めた。
道端には、名もないようなカラフルな小さい花々。
砂利道の小石に、シャリ シャリと二人分の足音が小気味よく続く。
夏の虫の音は、不規則に延々響いている。
 
 
 
 『この景色、全部写し取りたいな・・・。』
 
 
 
目を細めて見渡すと、優しい気持ちに全身が満たされてゆくのを感じる。
久しぶりにリコの描きたい意欲が沸々と湧いていた。

今すぐにでもスケッチブックを取り出し、道端にしゃがみ込んで色を付
けたいくらいだった。
 
  
『もう着くぞ。』 キタジマが指をさす先に古い民家があった。
 
 
 

■第149話 祖母

 
 
 
そこには古くて小さな民家と、よく手入れされた小さな畑があった。
 
 
どこかぼんやりとそれを見つめ歩きながら、キタジマは困ったような、
しかしその実、然程真剣にもとれない呑気な声色でポツリ呟いた。
 
 
 
 『バアサンに、お前の事言ってないんだよな・・・。』 
 
 
 
その信じられない一言に、リコが驚いて目を見張り絶句する。

するとどう説明するのか何も名案が浮かばないまま、キタジマの祖母キヨ
が二人の姿に気付き笑って手を振った。
 
 
 
 『シュン~・・・ お客さんかぁ~~?』
 
 
 
絵に描いたようにアタフタと慌てふためき、麦藁帽子をとって深々とリコ
がお辞儀をする。その隣でまるで他人事のようにキタジマは涼しい顔をし
てタバコの煙をくゆらせていた。
 
  
  
 
 
キタジマの祖母キヨは、とても優しくてあったかくて可愛らしかった。

古いけれど丁寧に隅々まで掃除をしているのがよく分かる古民家。玄関の
引き戸も縁側の窓も開放し、夏の青い風が小気味よく通り抜ける。
 
 
キヨは居間にリコを促し座らせると『あっつかったでしょぉ~?』と皺だ
らけの顔をさらに皺くちゃにして笑い掛け、年季が入った丸いちゃぶ台に
氷が入った麦茶とよく冷えたトマトを出して歓迎してくれた。

涼しげなガラス器に入った八つ切りのトマトを横目で一瞬見て、苦い顔を
したキタジマをリコはクスっと笑った。
 
 
リコはキタジマにチラチラと視線を投げ、”この状況 ”をどう説明する
つもりなのか目で必死に合図を送るも、畳に胡坐をかいて背中を丸めるキ
タジマは美味しそうに喉を鳴らし呑気に麦茶を飲んでいて、リコを紹介す
る気配が微塵もないので、痺れを切らしてリコが自分から切り出す。
 
  
 
 『タカナシ リコです。

  ・・・キタジマさんの、大学の。 後輩、です・・・。』
 
 
 
キヨは満面の笑みでうんうんと頷き、必要以上にはなにも訊かずただただ
『ゆっくりしてきなさいよぉ~。』とリコの背中に手を当て優しく撫でる。

そして思い出したようにパチンと手と手を打つと、リコの手を引いて畑へ
連れて行き『嫌いなモンはあるのかい?』と丸々としてツヤツヤに光った
野菜を見せた。

リコがニコニコ微笑んで『野菜大好きっ!』と嬉しそうに返事をすると、
キヨも歳で曲がった背中を更に丸め、顔をクシャクシャに綻ばせて笑う。
 
 
窓が開け放された縁側向こうの畑に立つそんな二人の様子を、壁に寄り掛
かって座り麦茶を飲みながら、キタジマが目を細めて見ていた。
 
  
  
 『散歩でも行くか。』
 
 
 
扇風機が生ぬるい風を送り続けるために、汗でしっとりとした首元を手ぬ
ぐいで拭いながら、キタジマがそう言って立ち上がった。
リコが嬉しそうに大きく頷いて、パタパタと後を追う。
 
 
キヨの家の裏手へ回ると、そこにはキレイな小川が流れていた。

いつもそうしているのだろう。カゴに野菜が入れられ、川の清水で冷やさ
れている。
 
 
パステルカラーで彩ったような涼やかな景色と、太陽光が反射しキラキラ
光る水面の眩しさに、リコがうっとりと目を細めた。

スカートの裾を気にしながらしゃがみ込み、小川にそっと手を入れてみる。
指の間を流れ過ぎゆく透き通った水が、冷たくてどこかくすぐったくて気
持ちがいい。
 
 
そんなリコを優しく見つめ、キタジマも隣にしゃがみ込む。

既に日焼けしてしまっている長い腕で膝を抱えるように背中を丸めしゃが
むと目の高さが合って一瞬二人の視線が絡み合った。
キタジマは慌てて目を逸らし、正面の川面へと視線を戻した。
 
 
 
 『俺が子供の頃は、小さい魚とか取って遊んだんだよ。』
 
 
 
その言葉に『今もとれるっ?!』と、子供のような無邪気な顔でリコが
隣のキタジマを覗き込んだ。
 
 
 
 『今か・・・ 今はどうだろなぁ~?』 
 
 
 
幼く素直過ぎるその反応に、キタジマがやわらかく微笑んだ。
 
 
するとその時、一瞬強い風がそよいだ。
穏やかな川面が波立つようにざわめき、辺り一面に轟音が響き渡る。

その乱暴な夏風は、驚き肩をすくめたリコの麦藁帽子のツバを下からすくっ
て飛ばしかけた。ふんわり浮いたそれをキタジマが素早く立ち上がって片手
で瞬時にキャッチし、再びリコの頭に乗せる。

そしてポンポンと麦藁帽子の頭を軽く叩くと『しっかり被っとけ。』と頬を
緩め笑った。
  
  
 
 
  瞬きを忘れ見つめるリコの胸が、こそばゆく音を立てた・・・
 
  
  
 
二人はまた、のんびりと田舎道を歩きだした。

珍しくキタジマが言葉多く色々な事をリコに話して聞かせる。
気が付くと並んで歩きながら、二人の笑い声が高く広い空に響いていた。
 
 
 

■第150話 ゆうげ

 
 
 
日が暮れかけて家に戻ると、祖母キヨが夕飯の支度をしていた。
 
 
『おばあちゃん、私も手伝うっ!』 そう言って慌てて手を洗い、リコもキヨ
と並んで台所に立った。
なんだかやけに愉しそうな笑い声が台所から流れてくるのを、キタジマは一人
居間のブラウン管テレビから流れるナイター中継に目を遣りつつ聴いている。

リコがお盆に乗せた料理を次々と運びちゃぶ台に置いては、パタパタと台所へ
戻ってゆく。キタジマはその顔をチラリと盗み見ると一瞬目が合って、思わず
やわらかく微笑んでしまい慌ててテレビへと視線を戻した。
 
 
魚の煮付けや煮しめ、ひじき・玉子焼き、新鮮な生野菜。
狭いちゃぶ台の上には、素朴な祖母の味が所狭しと並んだ。
 
 
 
 『ぁ、ついでにお皿出してくれないかい? ミーちゃ・・・』
 
 
 
キヨがリコにそう言いかけ、『リっちゃん』と慌てて訂正した。

リコはそれに気付かなかったのか、『は~い!』と明るく返事をして茶箪笥か
ら指定された小皿を取り出している。

キタジマがその様子をそっと一人で見ていた。
 
 
3人で囲む和やかな食卓。
キヨとリコはよく食べよくしゃべりよく笑い、一瞬も静かになる暇がない程。

リコも勿論だが祖母キヨがこんなに嬉しそうにイキイキとしている表情を見る
のはなんだか久しぶりで、キタジマまで嬉しくなってしまって思わず頬は緩ん
だ。リコとキヨを温かく見つめるキタジマの胸の奥の奥が、懐かしいぬくもり
でひたひたに満たされた。
  
  
 
『リっちゃん、先にお風呂入っておいで。』 夕飯後、暫し三人でお茶を飲み
ながらのんびりしていた所、キヨにそう勧められリコが着替えを持って浴室に
向かった。

子供のように上機嫌に鼻歌を口ずさみながら裸足の足でパタパタ駆けてゆくリ
コの背中を、二人は目で追って思わずクスリと笑ってしまう。その鼻歌はいつ
もキタジマがヘッドフォンで聴いているそれだった為、照れくささも混じって
キタジマは首の後ろを無意味にガシガシと掻いて俯いた。
 
 
 
居間には、キタジマとキヨの二人。
 
 
キヨが空になったグラスに麦茶のおかわりを注ぎちゃぶ台に置く。蚊取り線香
に火をつけると白い煙は真っ直ぐ上に伸びてくゆり、独特なにおいが部屋中に
立ち込めた。ナイター中継が終わったテレビからはバラエティ番組の過剰な笑
い声が小さく流れている。なにも喋らずに二人は真剣に見るでもなくなんとな
くテレビへと目を向けていた。
 
 
静まり返った中、キヨが小さく小さく呟いた。
 
 
 
 『・・・ミーちゃんに、似てるねぇ。』
 
 
 
それは決して責め咎めるような口調ではない。優しさと懐かしさと、そして切な
さを含んだそれだった。

キヨに一瞬目をやり、キタジマは無言で俯いた。胡坐をかいた脚の上で、思い悩
むかのように、こびり付いた指先の絵具に目を遣り必死にこそげ取ろうとする。
 
 
 
 『いい子だねぇ・・・

  ・・・リっちゃんも、いい子だ・・・。』
 
 
 
どこか涙声に聴こえた一言に、キタジマが下を向いたまま、『・・・ん。』
 
 
あの時、葬儀で周りの目もなにも気にせず大声を上げて泣き叫んだキヨの小さな
壊れてしまいそうな背中を思い出していた。

そして、きっとそれはキヨも同じで・・・

もう二度と、哀しい出来事によりキヨの愛する人間を奪い去られたくない。自分
のこの手からも、もう二度と、決して、奪い去られたくなどない。

亡き妻の屈託ない笑顔が胸に去来し、息苦しくて胸をそっと押さえて深呼吸した。
  
  
 
 
 
開けっ放しの縁側に出て涼むリコとキタジマ。

裸足の足を縁側に出しブラブラ揺らすと、夏の夜の風を爪先に感じる。それはま
るで薄いレースがそっと通り過ぎるようで、涼しくてくすぐったくて心地よい。
 
 
ネイビーの大布に針で穴を開けたみたいに、漆黒の夜空に小さな星が無数に広が
っている。リコは縁側に脚を投げ出したまま後ろに手をつき首を反らせて、その
圧巻の星空を瞬きもせず見ていた。

吸い込まれそうなそれに、言葉を失った。
 
 
 
 『首、痛めんぞ。』
 
 
 
キタジマがリコを見て笑う。

そして居間から座布団を持ってくるとそれを二つに折り、リコに寝転がるよう
促す。 『仰向けで寝て見ろよ。』
 
 
二人で縁側に並んで寝転がり、なにもしゃべらず黙って星空を眺めていた。
言葉などなくとも心は穏やかにゆっくりと優しさを刻む。コトンコトンコトン。
 
 
『・・・明日もいい天気だな。』 仰向けのまま、キタジマがポツリと呟いた。
 
 
 
 『明日は描きに行くか?』
 
 
 
キタジマの言葉に、リコがガバっと起き上がって『はいっ!』と笑顔を向けた。
スケッチブックに色付けたい景色が溢れるほど湧き上がり、今からもう落ち着か
なくてソワソワしてしまう。
 
 
するとキタジマが体を起こし、タバコを咥えて縁側から離れて行った。
それを目で追いながら、リコはもう一度座布団を枕に寝転がって星空を眺めた。
 
 
いつも見ている空と同じものだなんて思えなかった。
見方が変わるとこんなにもクリアになる事があるのだと痛感する。
 
 
そっと目をつぶってみる。

視界から満天の星空は無くなったはずなのに、瞳の奥の奥に無数の星はしっかり
焼き付いていてキラキラ瞬く光の粒が見えた。
 
 
その時、リコの身体にふわっと温かい感触が広がった。
 
  
 
 『段々冷えてくるから、羽織っとけ。』
  
 
 
それは、キタジマの上着だった。

リコに上着を羽織らせるために、取りに立ち上がったのだ。まるでそれはタバ
コを吸う為のように見せて。

ほんのりタバコ臭い、それ。
リコは上着をずり上げ顔を隠すとそっと目を閉じ、深く呼吸をした。
大きくて温かくて優しくて、胸が痛くなるほどに切ない。

このタバコ臭さは何故だか嫌いじゃなかった。 
 
 
 
 (本当は優しいくせに・・・。)
  
 
 
上着から目を出し、どこまでも不器用で照れ屋なキタジマを小さく微笑んで見
つめた。
 
 
そして、『タバコ くっさぁぁああああいっ!!』

わざと大袈裟に騒いだリコ。臭いと声を上げる割りには、嬉しそうに上着に包
まって離そうとはしない。
 
 
キタジマがムキになって言い返した。『うるせぇ!! 黙って着てろっ!!』
 
 
二人の笑い声が満天の星空に響いていた・・・
 
 
 

■第151話 スケッチ

 
 
 
翌朝、リコが目覚めるともうキタジマも祖母キヨもとっくに起きていた。
 
 
 
 『おはようございますっ!

  ・・・ごめんなさい・・・ 寝すぎちゃった・・・。』
 
 
 
恥ずかしそうに眉根をひそめ寝間着代わりのTシャツの裾を引っ張ると、ガバっ
と上半身を倒して大仰に頭を下げる。

こんなに深い眠りについたのはいつ以来だろうかと、リコは下げた頭の中で考え
る。自分の家でもないのに、とても落ち着きそして心から安らいでいた。
 
 
『ぐっすり寝られたなら、そりゃ良かったぁ~。』 祖母キヨが優しく笑う。

そのまぁるい声色にリコが微笑み返すと、無言で近付いて来たキタジマから後頭
部を軽くパコンと叩かれた。 『寝癖付いてんぞ。』
 
 
その一言に目を見張って両手で後頭部を押さえると、慌てて走って洗面所へ向か
った赤い顔のリコを、キタジマが愛おしそうに見つめ声を上げて笑った。
  
 
 
朝食の後、リコとキタジマはスケッチブックを抱えて家を出た。

ツバが大きめのレトロな麦藁帽子を今日もキヨから借りてかぶっているリコ。
キタジマも日除けの手ぬぐいを頭に巻き、首にも手ぬぐいを掛けている。
互いの不格好な姿を見て、指を差しバカにし合って大笑いした。
 
 
散歩がてら少しのんびりと歩くと、小川沿いの木陰にポイントを定めた。

キヨから借りてきた敷き物を広げて荷物を置くと、二人は同時に腕を伸ばし
てぐんと伸びをし、清々しい空気を胸いっぱいに吸い込む。そして互いに同
じ動作をしている事に気付いて、可笑しそうにケラケラ笑った。
 
 
遠くの山々の稜線が晴天のお陰でハッキリ映し出されている。
美しい山があり、清らかな小川があり、可憐な野の花が溢れるその景色。
まるで描いて下さいとでも言っているような、最高の風景だった。
 
 
リコがキラキラした瞳で、スケッチポイントを探し駆け出した。

まるでスキップでもし始めそうな軽やかな足取り、その弾けるような嬉しそ
うな顔。相変わらず鼻歌を口ずさんでいることに、リコ本人は気付いていな
いのだろう。なんだかそこだけ陽が差しているみたいに眩しく見える。

キタジマは木陰で腰を下ろし休憩しながら、そんなリコを黙って見ていた。
 
 
膝くらいまである背の高い草花の中に、リコはそっと腰を下ろした。

膝を抱えて座ると、丁度目の高さに色とりどりの花の海原。川面がプリズム
となりキラキラ日差しに反射して、まるで夢の中の様な幻想的な景色だった。
 
 
麦藁帽子のツバを少し上げて、リコが描きはじめた。

キタジマと離れ一人自宅にいた時は、あんなに描こう描こうと頑張っても全
く描けなかったのが嘘のように、不思議なほどにパステルを掴む指先は動く。
リコは夢中になって時間も忘れて描いていた。
 
 
 
  ♪ン~♪♪ンン~ン~・・・
 
 
 
無意識にまた鼻歌を歌っている自分に気が付いて、ふと辺りを見回しキタジ
マの姿を探したリコ。まるで無我夢中で遊びまわる子供が、我に返って親を
探すような必死なそれ。

キタジマは、リコの後方の少し離れた所で描いてた。とても穏やかな表情で。
その姿に、何故かいつもとは違う違和感を感じ・・・
 
 
 
 『ヘッドフォン無しでも描くんですね~?』
 
 
 
リコが立ち上がり、キタジマへ向けて少し大きめに呼び掛けた。

すると、キタジマ自身もそれに気が付いていなかったらしく、描いていた手
を止めせわしなく瞬きをして驚いた顔を向ける。
 
 
 
キタジマは内心驚いていた。

頭が割れるほどのボリュームで音楽をかけなければ、一切描けなくなってい
たはずなのに。なにも考えられないようにしていなければ、指は動かなくな
っていたはずなのに。

こんなに穏やかで、優しくまっさらな気持ちで絵と向き合えたのなんて何年
ぶりだろう。キタジマもまた、時間を忘れて無我夢中で色を乗せていた。
 
 
ふと手元のスケッチブックに目を落とす。

するとそこには、優しさ・やわらかさ・眩しさ、そして溢れるほどの愛情が
その中に満ちて潤っていた。
 
 
 
   花の海の中で眩しそうに目をほそめ微笑むリコの姿があった。
 
 
 

■第152話 その手のぬくもりを

 
 
 
木陰で休憩をとる二人。
互いに大きなハルニレの樹皮に背中を付け寄り掛かり、脚を伸ばして座った。

真夏の日差しは増々威力をまして照り付けるも、大振りの枝が張り出すハルニ
レのお陰で二人には葉の影が体のあちこちに広がり、涼やかな風が通り過ぎる。
 
 
キタジマはリコのスケッチブックをめくり、夢中になって懸命に描いていたそ
れをやわらかく見つめ、小さく口元を緩ませながら言った。
 
 
 
 『タカナシらしさがよく出てんな・・・。』
 
 
 
『私らしいって?』 リコがキタジマを見つめ、首を傾げる。

パチパチと瞬きを繰り返すその瞳は、長いまつ毛にハルニレの隙間から差した
光が積もり眩しそうで。
 
 
無邪気に真っ直ぐ見られて、キタジマが照れくさそうに慌てて目を逸らしわざ
と言い捨てる。
 
 
 
 『THE・単純。』
 
 
 
『なんですか、それっ!!』 からかわれて隣で不貞腐れるリコをチラリ横目
で見ながら、”純粋で素直 ”と本音を言えない自分に苦笑いする。

膝の上に置いたリコのスケッチブックを、キタジマはこっそり愛おしそうに手
の平で撫でて俯いて微笑んでいた。
 
 
 
 『キタジマさんは??』
 
 
 
リコはいつも大学の空き教室で見ているキタジマの絵と、野外でスケッチする
それに違いがあるのかとても興味があった。それに今日はヘッドフォン無しと
いうレアなシチュエーションでもあるのだ。

リコが身を乗り出してキタジマが描いた絵を見たいとしつこくせがむも、キタ
ジマはムキになって断固拒否する。

『こ、これは・・・ ヒトに見せる絵じゃねえからっ!!』 スケッチブック
を掴んだ手を遠く伸ばして、決してリコには触れられないよう、それを開かれ
ないように死守した。
 
 
何故なら、その中には ”リコ ”しか描かれていないのだ。

自分で見返してみても、それはどう見たってまるで思春期の中学生のように、
恥ずかしいほどにリコを ”想って ”描いたと分かる、それ。
それを本人に見せられるキタジマではなかった。
 
 
『なんで見せてくれないんですかー・・・。』 理由を知る由もないリコが
頬を膨らませて不満気に目を眇めていた。
  
 
 
 
 
 
のんびりと木陰でまどろんでいた二人だったが、なんだか少し怪しげな空模様
になってきたので、引き上げるため片付けを始めることにした。

画材道具を片付けカバンに詰めその場を後にする頃には、ねずみ色に変わった
空から小雨がパラつきだしていた。細かい雨粒が落ちていたはずが、遠く山の
向こうから地響きのような雷鳴が突然響き渡り、急に肌寒さに肩をすくめる。
 
 
二人は小走りで来た道を戻った。しかし、どんどん強まる雨脚により気持ちと
は裏腹に、ぬかるんでゆく砂利道にサンダルの足をとられ思うように進めない。

リコがかぶる麦藁帽子の頭が、ノースリーブの肩が、透明の雫により濡らされ
てゆく。二の腕を雨の粒が伝い流れ、それは空の色を映してこぼれ落ちる。
 
 
先を駆けるキタジマが真っ直ぐ前を向いたまま、後方のリコへと左手を伸ばし
た。リコは肩に掛けていたトートバッグの持ち手を握ると、それを差し出す。

するとキタジマは、リコのバッグを左手で受け取りそれを即座に右手に持ち替
えた。
 
 
そして、一瞬だけ振り返ると再度手を伸ばし、リコの華奢な手を無言で掴んで
走り出した。
 
 
 
 
  はじめてキタジマに握られた、リコの右手・・・
 
 
 
 
思わずこの手のぬくもりを離したくなくて、リコはぎゅっと指先に力を入れた。
すると、それに応えるかのようにキタジマも更にしっかり手を握り返す。
 
 
ゴツゴツした、不器用な大きな手。なんだかやけに体温が高くて、そのぬくもり
にまるで全身が包み込まれているように思える。

それは、眠るキタジマの手を包みそっと触れた時とは全く違うものだった。
自らの意思で、リコの手を掴みしっかり握ってくれる骨ばった男らしい手で。
  
  
 
 (雨なんか・・・ やまなきゃいいのに・・・。)
 
  
 
リコは心からそう願っていた。
ずっとこうして手をつないでいたかった。ずっと二人でいたかった。

他にはなにも要らないとさえ思えた。キタジマさえいれば、不器用で極度の照
れ屋なキタジマがたまに小さく微笑んでさえくれれば。

何も話さなくてもただ隣にこうしているだけで、まるで溺れているかのように
呼吸が苦しい。どうやって今まで呼吸していたのか分からなくなるほど胸が苦
しくて、こみ上げる溢れるほどの感情に涙を堪えた。
 
 
リコは今にも零れ落ちそうな涙を堪えながら、キタジマに手を引かれ雨道をよ
ろけながら駆けていた。
  
 
 
すると次第に雨は小降りになって、やみ、再び雲間からひとすじ光が差した。

あっという間にその景色は雨上がりの霧に霞み、ぼやけた空の雲の隙間から梯
子が下りてきたかのような幻想的なそれに様変わりする。
慌てて駆けていた脚を休めると、すっかり濡れてしまった身体はもう諦めて再
びのんびり歩きはじめたキタジマとリコ。
 
 
 
 『・・・通り雨が多いな?』
 
 
 
キタジマは以前もリコと2人の時に通り雨に降られたのを思い出していた。

あれは確か、ラーメン屋の帰りだったはず。店の汚さに顔を歪め、しかし食べ
てみるとラーメンのあまりの美味しさに目を見張ったあの日のクルクル表情が
変わったリコを思い出しキタジマの頬は勝手に緩んでゆく。

しかしその呟きに対する反応がないリコを不思議に思い、キタジマが振り返っ
て覗き込むと、麦藁帽子の大きなツバに隠れて下を向いている。
 
 
 
 『ん??』
 
 
 
リコの様子が可笑しい気がして、顔を見るため帽子のツバを上げようと繋いで
いる手を一旦離そうとした瞬間、リコは離されぬよう繋いだその手に更に他方
の手も添えギュっと握り締めた。まるで祈るようにキタジマの手を包み大切に
離さないリコは少し震えているようにも見える。ツバの陰に見えたリコの口元
はきゅっと噤まれ駄々を捏ねる子供が泣いているような、あまりに心許ないそ
れで。
 
 
 
 
次の瞬間・・・
  
 
 
  
       リコはキタジマに抱き締められていた
 
 
 

■第153話 祖母の願い

 
 
 
 『ねぇ、おばあちゃん・・・

  キタジマさんて、どんな子供だったの・・・?』
 
 
 
夜。祖母キヨと二人、布団を並べて敷いて横になりながらリコが訊いた。

小さな和室は畳の良いにおいが漂い、障子の隙間から月明りが細く入り込んで
いる。リコはうつ伏せになって枕の下に手を入れ、顔だけキヨの方を向いた。
 
 
 
 『ヤンチャ坊主でねぇ・・・

  死んだジイサンによく怒られてたんだよ・・・。』
 
  
 
突然訊かれた問い掛けに、キヨは少し驚きながらもどこか遠くを見て少し微笑み
ぽつりぽつりと話し始める。

久しぶりに懐かしい幼いその姿を思い出すと、一気にあの頃に遡ることが出来た。
 
 
 
 『一度遊びに出たら中々戻って来なくてねぇ、

  日が暮れて真っ暗になるまで、ドロドロになって遊んでた・・・
 
 
  それがいつの間にか絵を描きはじめて、そっちに夢中になりだして。

  そしたら今度はスケッチブック抱えて、日が暮れるまで帰らなくなってね。』
  
 
 
キヨとリコの笑い声が静かな和室に響く。
ピアノの鍵盤が弾けるような、愉しそうな声音が小さく斉唱してこぼれる。
 
 
『毎年遊びに来てたの?』 リコが何気なく訊くと、少しキヨは言葉に詰まった。
 
 
 
 『ん~・・・

  ここ2~3年は、来てなかったねぇ・・・
 
 
  だから本当、久しぶりにシュンの笑ってる顔見れて、

  ばあちゃん、嬉しくて・・・。』
 
 
 
そう呟いたキヨの顔を、細い月明かりが照らす。
優しく眇めた目の奥はほんのりと潤んで、それでも尚微笑むキヨの目元のシワ
が更に更に深く刻まれる。
 
 
その言葉の意味を察し、リコが哀しげな目でキヨを見つめた。
 
 
その瞬間、二人の間に小さな沈黙が生じる。
今までの愉しげな笑い声が嘘だったかのように、それは深く暗い闇へと二人を
いざなった。
 
 
リコはこんな事を訊いてしまって申し訳なさそうに目を伏せた。キヨに哀しい
思い出を不必要に思い出させてしまった。そんなつもりはなかったのだけれど、
それでもキヨのこんな顔は見たくなかったし、させたくなどなかった。
 
 
リコが自己嫌悪に陥り塞ぎ込んでしまった気配に、キヨもまた少し慌てそして
リコをかばうように明るく声を張る。
 
 
 
 『昔はよく喋る子だったんだけどね、

  大人になるにつれて、あ~んな無愛想になっちゃって・・・
 
 
  口を開いたかと思ったら ”ん ”と ”タバコ ”と ”コーヒー ”・・・

  小さい頃は可愛かったのにねぇ~・・・
 
 
 
  ・・・でもね、リっちゃん・・・
 
 
  優しい言葉のひとつも言えないけど、

  本当は・・・ 思いやりの、ある、優しい、子 だから・・・。』
  
 
 
そう言い掛けている途中でキヨの声色は少し潤んで揺れる。

そしてキヨは布団から出て起き上がり、リコの手をしわくちゃな小さな両手で
包んだ。
 
 
 
 『・・・シュンの、傍にいてあげてくれないかい・・・?』
  
 
 
キヨのシワシワの顔の優しい目に涙が浮かんでいた。

リコがやって来てからのこの数日の、キタジマが嬉しそうに笑っている顔が浮
かび胸が締め付けられるように苦しくなって、キヨはお節介だとは分かってい
つつも、リコに不躾にそんな願いを託してしまう。
 
 
その切ないほどあたたかい言葉に、リコも体を起こすとキヨと向き合った。
そして、そっと小さな老いた身体に抱きつきコクリと頷く。
  
 
 
 『・・・ぅん。』
 
  
 
キヨの胸の中で、リコは何度も何度も頷いた。

ぎゅっと目を瞑ると目尻から熱いものが流れて顎へと伝う。
キヨはお日様のにおいがして、とっても懐かしい感じがして、あったかくて
優しすぎて切なすぎて、幾筋も幾筋も涙がこぼれた。
 
  
  
  
 
帰る日の朝、リコは何度も何度もキヨと抱き合った。
互いに抱きしめ合いながら、この体を離さなければいけないのは分かっているけ
れど中々そう出来ずにいる。

キヨの胸の中で、何度言っても足りないくらいにお礼を言った。
そして『また来るから』という言葉も何度も何度も繰り返し、名残惜しそうに後
ろ髪を引かれながら、涙で滲んだ目を向け合った。
 
 
小さな身体で大きく大きく手を振り続けるキヨが、どんどん小さくなる。

リコも何度も何度も脚を止め振り返りながら手を振り返した。
小さな古い家と、小さな手入れされた畑と、小さな小さなキヨ。
そしてこの ”田んぼと山と川しかない ”風景がどんどん遠くなっていった。
 
 
駅までの道程。
キタジマと二人で歩く、二人きりの道程。
 
 
来た時とひとつ違うのは、キタジマの隣を並んで歩くリコがいた。
やっぱりキタジマはぶっきら棒で、タバコを咥え片手にリコの荷物を持って、
もう片手はポケットに突っ込んでいる。
 
 
お互い何も話さず黙って歩き続けていた。

砂利を擦って歩くサンダルの音と、今日も照り付ける太陽のジリジリとした
それと、道端から延々繰り返される夏の虫の音。静かな静かな真昼の田舎道。
 
 
このまま無言で駅に送り届けられ、本当に何も言わずにサヨナラするのでは
ないかと、リコの心の中は不安でいっぱいだった。
 
 
 

■第154話 別れ

 
 
 
駅までの田舎道は、今日も日差しが強くて眩しくて、そして人ひとり通らない
静かな砂利道だった。
 
 
汗ばむ肌とジリジリ焼ける肩に、どんどん気温が上がっている事を感じる。

こんな時、雨でも降れば・・・リコは本気で願っていた。
雨が降れば、どしゃぶりにでもなれば・・・また手を握ってもらえるかもしれ
ないのに、と。
 
 
しかし、そんな気持ちを余所にキタジマは相変わらず無言で歩き続けている。
 
 
 
『いつ頃戻るんですか・・・?』 痺れを切らして問い掛けたリコに、
 
  
『ん・・・ あと、もう少し。』 とキタジマは相変わらず言葉少なで。
 
 
 
 
『メール・・・ してもいいですか?』 再びリコが、振り返りも立ち止まり
もしないぶっきら棒な背中へと問い掛ける。
  
 
すると、『ん。』 キタジマはやはり真っ直ぐ向いたまま小さく答えた。
 
 
 
『電話も・・・ していいですか?』 リコがキタジマに、訴えるような目を
向け呟くも、キタジマはリコの方を向きはしない。

『ん・・・。』 と一応肯定のそれが微かに聞こえただけだった。
 
 
 
リコがいくら願ってたとしても、やはり駅には着いてしまう。

何度も何度も、もっと道が長く続く事を祈った。しかし、無情にも駅は目の前
で憎らしく見上げた空は真っ青のそれ。雨雲ひとつ掛かりはしない。
 
 
改札口の目の前で、リコが麦藁帽子を脱いで無言でキタジマに突き出す。

本来ならば借りていた帽子や滞在中のお礼を言うのが当たり前だと分かっては
いるけれど、どうしても帰りたくなくて不機嫌に俯いたまま、キタジマの顔す
ら見ないリコ。
 
 
ついに地団駄を踏むようにジタバタと足を踏み鳴らし、リコがしかめっ面をし
て切り出した。
 
 
 
 『まだ、帰りたくない・・・

  ・・・家に電話して、もう少しコッチに居・・・』
  
 
 『ダメだ。』
 
 
 
リコが勇気を出して言葉にした痛切な想いを、キタジマがアッサリと遮った。
 
 
 
 『ダメだ。 約束は守らなきゃダメだ。』
 
 
 
キタジマの正しいけれど厳しい言葉に、リコはあからさまに打ちひしがれる。
 
 
分かっている。
そんな事分かっているのだ。

家には ”学校の合宿 ”と嘘を付いて出て来ていた。それを信じて送り出し
てくれた母ハルコの優しい顔だけで充分胸は痛んだ。でも、それでも、キタ
ジマと一緒にいたかった。1秒だって離れたくなかったのだ。
 
 
分かりやす過ぎる程に、がっくりうな垂れるリコ。

涙ぐんで俯いたまま、その瞳は自分のサンダルの爪先だけ見眇めている。
そこからひと言も口を利かなくなったリコを、キタジマは困ったような顔で
見つめ首の後ろをボリボリと掻きむしった。
 
  
キタジマだって、本心はリコを帰したくなどなかった。
駅の改札をくぐらせたくなどない。列車に乗せたくなどない。

リコと共に朝を迎え、日差しが降り注ぐ田舎の風景を並んで色付け、キヨと
三人で賑やかな夕飯の時間を過ごし、寝る直前まで二人で縁側で星空を眺め
たかった。
リコの笑う顔を、真剣な顔を、困った顔を、不貞腐れる顔を、ずっとずっと
隣で見ていたかった。
 
 
しかし、そうしてはいけないと分かっていた・・・
堪え切れずここに呼んだだけで、充分過ちを犯しているのだと。 
 
 
リコは目からこぼれ落ちるくらい涙を溜めたまま、しかめっ面をして顔を上
げない。頬を真っ赤に染めて、口を尖らせて、体の横で垂れたその手はぎゅ
っと握り締めて今にもキタジマにポコポコと殴りかかりそうな、それで。
 
 
キタジマがそんなリコを見て、思わず呆れ果て小さく笑った。 
 
 
 
 『本っ当、ガキだなぁ・・・。』
 
 
 
その言葉とは裏腹に、それは愛おしさが溢れる優しい音で響く。

キタジマが俯いたままのリコと向き合ったまま、サンダルの足を一歩だけ前
へ進めた。ふたりの距離はあと少しで触れ合ってしまいそうに、縮まる。
やわらかく目を細めてリコを見つめ、吐息のようなあたたかい息をついた。
 
 
すると、
 
  
 
 リコの首の後ろにやさしく手を添え、ぐっと自分の胸に抱き寄せた・・・
 
 
 
  
   『電話するよ・・・ 俺も。』
 
  
 
キタジマの低い声。やさしくて、あたたかくて、涙が出る程に沁みる。
それは、リコの心の奥底まで響いた。
 
 
キタジマの胸にぎゅっとしがみ付き、リコが顔をうずめる。

Tシャツから香るタバコの匂いを震える胸で大きく吸い込んだ。
深く深く深呼吸をした拍子に、リコの頬にはついに涙がこぼれキタジマのシャツ
にその切ない跡を残した。
 
 
夏の出来事だった・・・
 
 
 

■第155話 ナチへのメール

 
 
 
  ◆To:ナチ

  ◆Title:久しぶり

  ◆元気ですか?

   どうしても聞いてほしい話があるの。

   嫌かもしれないけど、会えない?
              
 
  
リコはキタジマと別れた後、列車の中でメールを打っていた。

今回キタジマと一緒に過ごした数日間で、気が付いた ”本当の気持ち ”
誰を想っているのか、誰の傍にいたいのか、ハッキリ思い知らされたのだ。
 
 
ナチには自分の気持ちをちゃんと伝えたかった。
リコにとって一番の友達であるナチには、包み隠さず全てを。

それがもし、ナチに受け入れられなくても。例え、嫌われたとしても・・・
 
 
何度も何度も文章をつくり直し、打っては消してを繰り返した。

言いたい事は至極簡単なはずなのに、やはり怖くて中々文章を完成できずにい
たが時間を掛けやっと送信ボタンに触れたリコ。
メールが送信されたメロディが小さく響くと、胸に渦巻くどうしようもない不
安に心臓がバクバクと音を立ててうるさいくらいで。

しかし強い意志の宿る目をしたリコは、何度も大きく深呼吸をし窓の外の景色
をじっと見つめる。例えナチに分かってもらえなかったとしても、この気持ち
には嘘を付かないと心に決めていた。結局、その後は一睡も出来ずにいた。
 
 
3時間弱、列車に揺られ地元へ降り立った頃には、夕焼けが空を染めていた。

途中、ケータイは圏外を示すマークが表示され、車中では確認できなかったメ
ールを駅のホームで確認する。
すると真っ先に目に入った ”新着メール1件 ”の表示にリコは息を呑む。

早鐘のような鼓動が全身に響き、少し震える指先でケータイ画面に触れる。
 
 
 
 ピ・・・
  
 
 
  ◆分かった。

   連絡して。待ってるから。
        
   
   
ナチとゆっくり顔を合わせるのはいつぶりだろう・・・

こんなに距離をおいた事など、今までの長い付き合いの中で一度もなかった。
いつもリコの隣にはナチがいて、笑ってくれていた。

怒って、すねて、泣いて。言いたいことは言い合って、それでも分かり合って
いつも二人は飽きもせず一緒に過ごしていたのに。
 
 
これから先の二人は、今までの二人とどう変わってしまうのか、変わらずにい
られるのか、リコは潤んでしまいそうな心許ない瞳を一度ぎゅっとつぶると、
ひとつ深く息をつき揺れる心をいなした。
 
 
 
 
 
いつものファミレスのいつもの席も、とても懐かしくここに通っていたのも遠
い昔の事のように感じた。先に待合せ場所に着いたリコが一人、ナチを待つ。

窓の外を見渡したり、出入り口をじっと見つめたり、手元に目を落としたり。
ソワソワと緊張して全く落ち着かず、お冷だけが急ピッチで減ってゆく。
 
 
そこへ、少し遅れてナチがゆっくり店内に入ってきた。

店の奥のいつもの指定席にリコを見つけると、少し手を上げて小さく微笑んだ
ナチ。そのナチの笑った顔さえとても久しぶりな気がして、それだけでリコは
一気に鼻の奥がツンと痛んで苦しい。
 
  
 
 『・・・元気だった?』
 
 
 
先に声を掛けたのはナチだった。

久々に聞くナチの高くて幼いこどものような声。毎日毎日聞いていた、聞こえ
て当たり前だったナチの声。
 
 
リコはもう限界で、目に涙をとどめておく事も出来ず、『ナチ』とただ名前を
呼ぶことさえ喉の奥が締め付けられるように苦しくて、唇を噛み締め俯いてた
だただ首を小さく縦に振る事しか出来なかった。

リコの肩が細かく震えている。膝の上でぎゅっと握り締めた拳に、透明な雫が
ぽつぽつと跡を残す。
 
 
ナチはそんなリコを哀しげにしかし優しく見つめると、向かい側の席から隣に
移動して、二人並んで座る。
 
 
そして、リコの涙で濡れた手をとって自分の両手で包むと、ナチがあのいつも
の太陽のような明るい顔で微笑んだ。

思い切り微笑んで、ナチも我慢しきれず咄嗟に俯きぎゅっと唇を噛み締める。
リコの手を包むそれに、ナチの雫も次から次へとこぼれ落ちた。
  
 
 
 『わ、私ね・・・ ハッキリ、分かったの・・・。』 
 
 
 
リコが声をしぼり出すように震えながら呟いた。
 
 
 
 『私ね・・・

  キタジマさんの事が、好きなの・・・
 
 
  ・・・もし、私のせいで

  みんなを、気まずくさせ・・・』
 
 
 
リコの決死の告白を途中で遮り、ナチがギュっと抱きついた。
リコの細い身体をきつく抱きしめながら、ナチが涙声で言う。
 
 
 
 『リコが幸せなら、それでいいよ・・・

  それがいいの・・・
 
 
  リコには、もう、

  我慢したり、頑張りすぎたり、泣いたりしてほしくない・・・
 
 
  ・・・リコは、今、幸せなんだよね・・・?』
 
 
 
そのナチの言葉に、涙でクシャクシャに顔を歪めるリコがしゃくり上げながら
大きくコクリと頷いた。
 
 
リコのその顔を見つめ、ナチも我慢しきれなくなり両手で顔を覆って大粒の涙
を流した。
 
 
 

■第156話 ふたり

 
 
 
ナチは自分の勘違いに気が付いたのだった。
 
 
なんだかんだ言ってもリコは受身で、結局はコースケ側から何かしらのアクシ
ョンがあるのをただ待っているのだと思っていた。ただ可愛く微笑んでいれば、
周りが勝手に動いてくれるとでも思っているのだと・・・
 
 
内心ナチはそんなリコに苛立っていた。
自分の足で前に進もうともしないで、ぶつかってもみないで、人任せにただ待
つだけのリコに。
 
 
しかし、それはナチの間違いだった。
 
 
リコは、ちゃんと自分の正直な気持ちを二度も伝え、答えも貰っていたという。

ナチはなんでもリコに隠さず話して来たが、リコはきっと仲間のバランスが崩
れないように気を使って黙っていたのだ。
自分一人が平気なふりをすればいい、と。
 
 
ナチは、リコが一人ぼっちでどんなに苦しい思いをしていたかを思い胸が痛く
なった。ナチがつらい時はいつもリコが傍にいて励ましてくれたというのに。
 
 
リコにきちんと謝ろうと決心した瞬間だった。
ひとりで我慢させてごめんね、と・・・
 
 
そして、その足は自然にリコの家へ向かっていた。

1秒でも早くリコに謝りたくて、リコの顔が見たくて、最初普通の歩幅で歩い
ていたスニーカーの足は、次第にアスファルトを蹴り上げ駆け出していた。

すると、ゼェゼェと息を切らしてリコの自宅のチャイムを押したナチに、母ハ
ルコから想像もしていなかった言葉が返って来た。
  
 
 
 『リコは今、大学の合宿で里見村に行ってるのよ。』

  
 
その瞬間、直感で分かった。
ナチの頬がほんの少し引き攣り、慌てて俯いてハルコから顔を逸らす。
 
 
 
  (キタジマって人と一緒なんだ・・・。)
 
 
 
きっと ”合宿 ”なんていうのは嘘なはず。本来なら嘘をつけるようなリコでは
ないのに。それでも大好きな母親に嘘をついてまで傍にいたい相手が、キタジマ
という人間なのだ。
 
 
それ以来、リコに連絡しようかナチはずっと迷っていた。

しかし、メールの中の言葉の温度が伝わらない簡素な文字を送るよりも、ちゃん
と会って顔を見て自分の気持ちを伝えたかった。
だから、連絡はしなかったのだ。
 
 
そんな中、リコから届いたメール。

画面の中の ”リコ ”という送信者名を目にしナチは一気に涙が込み上げ、ケー
タイを掴む手が震える。
 
 
あの日、リコに酷いことを言ってしまった。

あんなケンカは長い付き合いの中で初めてで、あんな強い口調も、あんな睨む様
な目も、あんな哀しそうな背中も、全部全部ナチの胸に後悔という棘となって突
き刺さっていた。
 
 
ナチはリコに会ったらたくさんたくさんキタジマの話を聞いてあげようと思って
いた。以前リコがキタジマの事を言いかけて、ナチが思いっきり怪訝な顔でそれ
を遮ってしまった事を最も気にしていたのだ。
 
  
 
  リコが今、幸せなら・・・

  リコがたくさん笑っているなら・・・
 
  
 
ナチはそれだけを願っていた。
リコと笑い合えることだけを願っていた。
 
 
そして、今。ナチは願った通りに微笑み合えたのだ。
 
  
 
 『ねぇねぇ、里見はどうだったのよ~?』
 
 
 
ナチが話を聞きだそうと、いやらしくニヤニヤ頬を歪めながら身を乗り出す。

ファミレスの4人掛け席で片方のソファーに並んで、幼い子供のようにピッタリ
くっ付いて座り、頬をほんのり染めて愉しそうにクスクスと笑い合って。
 
 
 
 『それがねっ!

  里見はすっっごいイイ所で、キレイでのんびりしてて・・・

  で、おばあちゃんがすっごい可愛くて、野菜が美味しくて、

  小川が家の裏手にあるんだけど、キタジマさんが子供の頃は・・・』
  
  
 
二人の幸せそうな笑い声は夜更けまで続いた。
 
 
 

■第157話 妻の顔

 
 
 
キタジマは、祖母キヨの家の縁側に腰掛けて虫の音をぼんやり聞いていた。
 
 
リコが帰ってしまった後のキヨ宅は、あちこち照明が切れたように薄暗く感じ
あの時間は夢だったのではないかと思うほどに侘しさだけが漂う。

キヨとの食事は特に、まるでお通夜のように静かだった。
互いの咀嚼する音と、付けっ放しの然程面白くもないテレビの音声と、外で延
々響いている虫の音だけ虚しくこぼれる。
 
 
 
 『シュンと二人は、つまらんもんだねぇ・・・。』 
 
 
 
キヨが箸でつまんだ里芋を目に溜息を落とし、遂に言葉に出した。
 
 
『悪かったな、俺で。』 キタジマが不満そうにボソっと言い返す。
そして互いに見計らったように同時に大きな大きな溜息をついた。
 
 
  
 
 
柱に背中をもたれ、足を前に投げ出した格好でキタジマはタバコを吸っていた。

ここでリコと過ごした数日を繰り返し思い返していた。最初から最後まで何度
も何度も。リコの笑った顔、驚いた顔、引っ張り上げた二の腕の感触、握った
手のあたたかさ、そして抱きしめた時の華奢な身体の熱。

まるで初恋のそれのように、何をどうやってもリコを頭から締め出すことが出
来ずそんな自分が照れくさくて、無意味に首の後ろをボリボリと掻きむしる。
 
 
ふと、居間に置いてあるスケッチブックを引っ張り寄せた。

そっとページをめくると、そこには花に埋もれて絵を描くリコの姿がある。
あの日の嬉しそうに夢中で描くリコが脳裏に浮かび、思わず目を細め頬を緩ま
せ微笑んだ。

指先で優しく優しくページの中のリコに触れる。それはひんやりと冷たくて、
本物のリコの身体は体温が高った事を再び思い出し、いい大人なはずのキタジ
マの頬が急にジリジリと熱くなる。

思わずうっとりと眺めている自分に気付き、キヨに一人でニヤけている姿を見
られぬよう慌てて咳払いをして顔を伏せた。
 
  
 
ぼんやりとスケッチブックの中のリコを眺め、灰皿を持ってくるのを忘れた事
に気付き取りに立ち上がった時、膝の上に置いていたもう1冊の古いスケッチ
ブックが床に落ちた。それは四隅が擦り切れ表紙も少しくすんでしまっている。

縁側の廊下にコトリと落ちた音が小さく響くと、その拍子にスケッチブックが
開かれ中のそれが現れた。
 
 
キタジマがそれを見て、一切の動きを止め瞬きもせず固まる。
 
 
そこに描かれていたのは、亡き妻ミホの顔。

それは、何枚も何枚も描かれていた。
正面、横顔、斜め後方から。
笑った顔、怒った顔、すねた顔、ぼんやり遠くを眺める顔、驚いた顔。

一緒に過ごした日々の、いつも傍にいたミホを、全部写し取ろうとするかの様に
キタジマは何枚も何枚も描いていたのだった。
 
 
しかしそこにはミホの哀しそうなそれだけ無かった。哀しいと思う事が無かった
訳ではないだろうに、何故かミホはそんな顔を見せたことがなかった。

陰でひとりでこっそり泣いたりしていたのだろうかと、今更ながらキタジマの胸
は切なく痛む。我慢させていたのだろうか、無理させてしまっていたのだろうか。
 
 
 
あれから3年経った。
 
 
ミホが目の前から永遠に居なくなり、何もする気が起きなくて空っぽになってい
たキタジマも、気が付けば少しずつ少しずつ前進していた。

一時描けなくなっていた絵も、また描けるようになった。
閉ざしていた心も、また少しずつ前を向けるようになった。
笑うことを忘れていたのに、また笑えるようになった。
 
 
そして。また、誰かを愛しいと思えるようになっていた・・・
  
  
  
 『ミホ・・・ これでいいのかな、俺・・・。』
 
  
  
キタジマが星空を見上げて小さく呟いた。

縁側で一人、まるで迷子の子供のように心許なく背中を丸め、少し震える声を
落とすとそれは呆気なく夏の夜の虫に掻き消される。

ミホが返事をしてくれたらいいのに、と叶わない願いなのに本気で思っていた。
 
 
そして、大きく大きく溜息をつく。答えなんか出る気配はなくて、そっと目を
伏せ縁側にゴロンと寝転がる。ひんやりとした床の心地良さをTシャツの背中
に感じ、もう一度溜息をついた。
 
 
ぼんやり見上げるキタジマの揺らぐ瞳に、今夜も満天の星空が映っていた。
 
 
ふと、リコを想う。

今この瞬間何してるのか、何を考えているのか、誰を想っているのか、少しは
想ってくれているのか、リコ本人を目の前にすると上手に気持ちを表せない自
分に嫌気がさしてなどいないか。まさに思春期の初恋のそれ。
 
 
思わずケータイを取り出そうとジーンズのポケットに手をかけた瞬間、着信メ
ロディが夜空に響き吸い込まれた。
  
 
 
  ◆From:タカナシ

  ◆Title:こんばんは。

  ◆今、夜空を見てます。

   でもそっちみたいにたくさん星が見えないの。

   今夜も満天の星空ですか・・・?
 
  
  
キタジマがケータイの画面を見て、小さく声を出して笑った。

胸の奥がきゅぅっと掴まれたように歯がゆく痛みを発し、嬉しくて仕方がない頬
がだらしなく緩んでゆく。
 
 
『シュン~? 何が可笑しい~?』 キヨがそれを不思議そうに見て呟いた。
 
 
 

■第158話 星空の電話

 
 
 
 『今夜も、すっげぇ星だ・・・。』
 
 
リコの左耳に、あの低くて愛想の無いキタジマの声がじんわりと響く。

リコが送った短いメールへの返信は、文字ではなくて胸をぎゅっと締め付ける
愛おしくて仕方がない低音バスのそれだった。
それはまるで耳元で囁かれているように感じ、恥ずかしくてくすぐったくて、
リコはほんのり染まる頬でそっと目を伏せる。
 
 
 
 『この間ね・・・

  友達と仲直りできたんです。
 
 
  私の、一番の友達・・・

  ・・・一っ番だいじな、大切な友達・・・。』
 
 
 
リコはそれを言葉にすると、一気に喉が詰まるような息苦しい感覚に少し震え
て呼吸を繰り返した。

その涙を堪える気配がひんやり冷たいケータイを通し伝わると、キタジマはど
こか安心したように目を細め小さく笑う。 
 
 
 
 『それが、タカナシが落ち込む原因だったのか・・・。』
  
 
 
互いに1秒でも早く話したかったはずなのに、実際に言葉を交わすと思ったよ
うに言葉が出ない。
言葉と言葉の間に、切なくそして歯痒い ”間 ”が生じていた。
 
 
穏やかな沈黙の後、キタジマが小さく微笑んだままやわらかく呼び掛ける。
 
 
 
 『・・・なんかあったら言え、っていったろ?』
 
 
 
リコの落ち込む姿に、直接口には出せないけれど本当は心配していたキタジマ。

そんなキタジマの、ぶっきら棒な言い回しが可笑しくて嬉しくて仕方なくて、
リコは笑う。 
 
 
 
 『だって、キタジマさんの気分次第でしょ~?』
 
 
 『当ったり前だ。』
 
 
 
軽快な掛け合いをして、二人は同時に声を上げてケラケラと笑う。

そして、
 
 
 
 『お金の問題以外で、ね?』
 『金の問題以外で、な?』
 
 
 
同時に同じことを言って、大笑いした。

暫し耳元に優しく響く相手の笑い声を聴きながら、その余韻に浸るようにそっと
口をつぐむ。
つい数日前まで一緒にいたというのに、逢いたくて逢いたくて仕方がなかった。

顔を見たくて、声を聴きたくて、手に触れたくて、そしてもう一度抱きしめたい。
互いの唇の温度に触れる時のことを想像し、胸の奥の奥が壊れてしまったみたい
に鳴り狂う。
  
  
 
 『・・・バアサンが・・・ 寂しがってる。』
 
 
 
優しい沈黙の後、キタジマが小さく呟いた。
それは言おうか言うまいか悩みに悩んだ末に、やっと出た言葉だった。

言ってしまった後で、ケータイを掴む手とは他方の手の指先で、照れくさそう
にやたら高速でポリポリとコメカミを掻いているキタジマ。

リコはその遠回しな表現が可笑しくて可笑しくて声を殺して笑う。
 
 
 
 『おばあちゃん、だけ・・・??』
 
 
 
あまりに可笑しいので笑いを堪えて少しからかってみる。
9歳も年上のキタジマは ”大人だから ”なのか、中々本音を出さない。
 
しかしそれは ”大人だから ”なんかではなく、只単にキタジマが超ド級の
”照れ屋で不器用だから ”に他ならなかった。
 
 
分かり易い誘導尋問に、キタジマは突然貝のように口を閉ざし黙りこくる。
リコが耳を澄まして電話の向こうのキタジマの様子を伺う。
 
 
すると、
 
 
 
  カチッ・・・
 
 
 
ライターのフリント・ホイールが鈍く回転する音がわずかに聴こえた。
 
 
 
  (困ると、す~ぅぐタバコに逃げるんだから・・・。)
 
 
 
リコはまた声を押し殺して笑った。
  
  
その時、『リコ~、お風呂入っちゃいなさ~い!!』
階下から母ハルコの呼ぶ声が聴こえた。

『お母さんが呼んでるので、また・・・。』 そう言って少し名残惜しそうに
リコが『おやすみなさい』と言いかけた時、
 
  
  
 『あさって帰るから・・・。』
 
  
 
そう一言呟いて電話は切れた。

次の瞬間、通話終了の機械音がリコの耳に流れる。それは、本来ならば無機質
な冷たいそれなはずなのに、今夜は何故か優しい鼓動のように響く。
リコは大きく息をつき、ゆっくり画面をタップして通話を終了した。 
 
 
 
 『 ”待ってるから ”ぐらい言わせてよ・・・

  あんなに、すぐ電話切らなくたって・・・。』
 
 
 
そう呟くリコの顔は、不満の言葉とは裏腹に嬉しさを隠しきれない表情だった。
  
  
 
 『あさってかぁ・・・

  ・・・あと2日もあるじゃん・・・。』
 
  
 
リコが窓辺に立ち、星空を見つめ溜息をつく。
濃紺のそこには、さっきよりも星が瞬いているように思える。
 
 
恋しさが募るリコの頬が、ほんのり染まっていた。
 
 
 

■第159話 同居計画?!

 
 
 
リュータとナチとアカリは、8帖の居間のソファーに三人ギューギュー詰めで
座っていた。

リュータは真剣にマンガを読み耽り、ナチはテレビドラマに釘付け、アカリは
膝の上の愛猫あおいを撫でながらうっとりと自意識過剰気味にネイルの指先を
見つめ、その手入れをしている。
 
 
暫し三者無言の時間が流れていた。
マンガのページをめくる音とテレビの音声と、たまにあおいが上げる鳴き声と。
 
 
すると、ずっと思っていた事をリュータが遂に発した。
 
 
 
 『あのさ・・・
 
 
  ・・・狭くね? 

  何をどう考えても狭くね??』
 
 
 
そのボソっとこぼした一言に、ナチとアカリが同時に返す。
 
 
 
 『下りればいいじゃん。』
 『下りればいいじゃん。』
 
 
 
その二人の白けた淡白な反応に、苛立って勢いよく立ち上がったリュータ。
 
 
 
 『ソファーが狭いって言ってんじゃねぇーんだよっ!

  ・・・いや、狭いけど。
 
 
  それだけじゃなくて・・・

  この1Lの一人暮らし用の部屋に

  兄妹で暮らすだけで超ぉ狭いっつーのに、
 
 
  毎日毎日ナチまで居座って・・・
 
 
  引っ越すっ!

  決めた、もぉ決めた。 引っ越すぞっ!!!』
  
  
  
ひとり、真っ赤な顔をしてやたらと熱くなっているリュータを、ナチとアカリは
半ば呆れてポカンと口を開けて見ていた。

愛猫あおいだけがまるでリュータを心配するかのように、仁王立ちになって猛る
その足元に擦り寄って『にゃ~』と鳴いた。
 
  
 
 
 
その日から、部屋探しが始まった。
 
 
リュータはコンビニから無料配布の賃貸情報誌を集めてひたすらページをめくり、
アカリはパソコンに齧り付いてネットで情報収集をした。

その隣でナチは一人、首を突っ込んではワクワクした様子を隠しもしない。
リュータとアカリの顔をせわしなく交互に眺めると、軽い癖っ毛の髪の毛が左右
にふわふわと揺れる。
 
 
 
 『あっ! この6帖の部屋は私のにして!!』
 
 
 
リュータが開く情報誌の一部屋に、興奮気味で食いついたナチ。

リビングのラグに腹這いになって足をバタバタさせ、右手に握るカラーマーカー
でその部屋をぐるぐるとマルで囲んだ。
 
 
そんなご機嫌顔のナチを、リュータは眉ひとつ動かさず真顔でまじまじと見る。

『お前は自分ん家があるだろ。』
 
 
 
 『なんでぇぇ???

  三人同居計画じゃないわけ?!
 
 
  ・・・私だけ仲間はずれなの?!』
 
 
 
文句を言いはじめたナチは、止まらない。

不満気に口を尖らせて、水泳のバタ足のようにジタバタと足掻く。
フローリングの床がナチの足先でノックされタンタンタンと音が続く。
 
 
すると、リュータが眉尻を下げ困った顔をして聞き訳のないナチをなだめた。
 
 
 
 『いいよーぉ?

  俺はいいよーぉ?
 
 
  ・・・でも。 お前ん家の親が、んな事許してくれんのかぁーぁ?』
 
 
 
そう言われ、ナチがあからさまにふくれっ面をして黙りこくった。

フローリングに腹這いになっていた体勢から起き上がってぺたんこ座りをし、
子供のように頬を膨らませて鋭くリュータを睨み付ける。
 
 
その遣り取りを聞いていたパソコン画面に向かうアカリが、キャスター付きの
イスをクルクルと回転させながら、ニヤリと片頬を上げて言う。
 
 
 
 『私と二人で住むって事にすればいいんじゃーん?』
 
 
 
しかし、ナチは更に眉間に深くシワを刻んだ。
 
 
ナチは一人っ子で親は結構厳しいほうだった。いわゆる ”箱入り娘 ”という
やつで大切に大切に真綿に包むよう過保護に育てられていたのだ。

例え本当に同居相手がアカリだったとしても、許される見込みなど0%だった。
大学を卒業して自分の給料で生活できるようになったとしても、結婚するまで
家を出る事など許されないだろう。
 
 
目を逸らしまくっていた現実を改めて突き付けられ、ガックリうな垂れ小さい
体が増々小さくしぼんで見える、ナチ。首が肩の間にめり込んだのではないか
と思う程にすくめて。

諦めきれないその指先は、まだ情報誌にマーカーでピンク色のマルをぐるぐる
と書き続けている。
 
 
すると、リュータがなだめるようにナチの頭をポンポンと軽く叩きながらそっ
と耳打ちした。
 
 
 
 『広い部屋になったら、もっと遊びに来やすくなんだろ?
 
 
  ほら・・・ 俺の個室もある家ならさぁ・・・。』
 
 
 
『うわっ! エロ~っい!!』 聞き耳を立てるアカリがニヤニヤほくそ笑む。
 
 
ナチが不貞腐れながら、耳を真っ赤にして俯いた。
 
 
 

■第160話 引越と帰省

 
 
 
 『ここでいいな?! 文句はないな?!』
 
 
リュータが右側のナチと、左側のアカリに交互に目線を向け最終確認をした。

リュータ兄妹の中で突如持ちあがった引越計画。
夏の初めから探し続けていたのだが、やっと納得のいく物件を見付けたのだ。
 
 
商店街にも、コースケの実家にも程近いアパート。

2LDKという広さは、リュータ・アカリ各々のプライベートを守るには完
璧だ。居間も今までの8帖から10帖になる。キッチンも別。浴室に繋がっ
た洗面所があれば、もう風呂上りにコソコソ隠れて着替えをしなくて済む。
家賃は今よりアップするけれど、アカリがバイトを決めた事だし何とかなる。
 
 
『完璧じゃ~ぁん!!』 リュータ・ナチ・アカリが同時に三人でハイタッ
チして満足気に笑った。
  
  
 
引越の日は夏らしい快晴の空がジリジリと日差しを照り付け、業者を頼らな
い自力での引越をするリュータ達に意地悪をした。

手伝いに来ていたコースケも暑さで一気に吹き出す汗に、顔をしかめて太陽
を睨んだ。リュータ・コースケ・ナチ・アカリの四人で汗だくになりながら
荷物を運び、片付けをした。
 
 
大体の荷物が新居に収まったあたりでやっと休憩をとる四人。
 
 
汗をかきすぎて水分を摂っても摂ってもすぐに吹き出してしまう気がする。

皆疲れた顔をしながらも、部屋に収まった大き目の家具を見渡しどこか満足
気だった。あと一息頑張って荷物の運び込みが終わったら、コンビニに買物
に行って今夜は盛大に ”引越パーティー ”だ。
 
 
ナチがペタンと床に座り、大きく息をついて額の汗をぬぐう。
新しいフローリングの床の冷たさが、熱い身体に直接伝わって気持ちがいい。
 
 
すると、それを横目で見てプっと吹き出したリュータ。
ふと自分の手元に視線を向け、悪戯っ子のように満面の笑みでナチに近付く。
 
 
 
 『疲れたろ? 大丈夫かぁ??』
 
 
 
そう言いながらナチの頬をグニグニと撫で回す。
もの凄い厭らしい笑顔で軍手のままの手で撫でられ、ナチの頬が右に左に歪む。

あまりの度が過ぎる愛情表現に、ナチはバタバタと足掻き困惑して言った。
 
 
 
 『も、もういいからリュータさん・・・。』
 
 
 
その様子を見ていたアカリが、丁度リュータの背中で見えていなかったナチを
見た途端、声を上げて大笑いした。コースケも何事かと二人の元へ近寄りそし
て爆笑する。

それにつられ我慢出来なくなって、リュータも再び愉しそうにケタケタ笑った。
 
 
 
 『え? なに?! ・・・なに笑ってんの?!』
 
 
 
事態が把握出来ずキョロキョロ見渡すナチの額は、軍手の汚れた手で汗をぬぐ
ったため丁度まゆ毛とまゆ毛の間に黒色が付き、繋がり眉。

そしてわざとリュータが軍手で撫で回した頬には、悪魔のようなシャドーが。
  
 
 
 『なによぉー!

  ちょっと、なんなの?! なに笑ってんのぉぉおおお??』
 
 
 
それでなくとも肉体労働で疲れているのに、笑い過ぎて皆もうヘトヘトだった。 
 
  
 
 
 
 
リコはナチから、今日がリュータ達の引越の日だと先日会った時に聞いていた。
勿論手伝いに行こうと思っていたし、ナチにもそう約束していた。

しかし、ナチに電話して謝っていた。 『その日は行けそうにない。』と・・・
 
 
 
駅のホームで落ち着かない様子で佇むリコ。

予定の到着時刻にはまだ30分も早い。何度線路の向こうを見つめたって列車が
予定より早く着くはずなど無いのは分かっているのだけれど。
 
 
それでも、じっと座ってる事すら出来ずその場をウロウロ歩き回る。

カバンから手鏡を取り出して前髪をチェックする。鏡に映る高揚した染まる頬が
中々赤みを引かない。気にすれば気にする程それは赤くなるようで。
 
 
そっとカバンの中からケータイを取り出した。
そして、もう何十回も確認したその着信メールを選択して開く。
 
 
 
 
  ◆そっちに12:30着の電車に乗る。
 
  
 
 
キタジマが帰ってくる日だった・・・
 
 
 

■第161話 約束の駅

 
 
 
駅のホームに、速度を落としながらゆっくりと列車が入ってくる。

目の前を過ぎ流れゆく列車の窓を、リコは目を凝らして見つめた。
そこにあるはずのキタジマの姿を探して・・・
 
 
耳障りな軋んだ音を響かせ、完全に停車した列車。

車中の人々が、荷物を持って我先にとせっかちに出口へ向かう様子が映る。
リコは窓を一つずつ覗きながらパタパタと小走りで進むと、ひとつの窓に探し
ていた横顔があった。
それは全く急ぎ焦る様子もなく、出口への行列を涼しい顔でやり過ごしている。
 
 
リコが嬉しそうに微笑みながらその窓の下でピョコピョコ飛び跳ね、小さく手
を振る。

すると、やっとキタジマが顔を窓外へと向け目が合うも、ニコリと微笑む訳で
もなく呆気なく目を逸らされた。しかし、軽く片手を上げてリコへ小さな合図
を送った。その手はいつも通りこびり付いた絵具だらけの、それで。

その様子にリコは笑いを堪えた。
相変わらずぶっきら棒で愛想が無くて、超ド級の照れ屋な姿に。
 
 
一番最後に列車を降りて来たキタジマ。気怠そうに痩せた猫背で、緩んでしま
いそうな頬を無理やりいなし、不自然に強張った表情でリコとはやはり目を合
わせない。

リコはどうしてもニヤニヤしてしまう表情筋を隠す為、慌てて周りを見渡すと
同じように帰りを待ちわびた恋人達がハグしたり手を繋いだりしているのが目
に入った。
 
 
互いにそれを目に、一瞬、二人は見つめ合い気まずそうに目を逸らした。
 
 
 
  (私があんな風に抱きついたら怒るのかな・・・?)
 
 
 
リコが俯いてこっそり笑った。
 
 
 
キタジマは肩からカバンをさげ、重そうに段ボールを両手に抱えていた。
こんな段ボールに詰める程に荷物を持って帰郷したのかと、リコはじっとそれ
を見つめる。
 
 
そして我慢出来なくなり、『なんですか? この段ボール。』 
リコは不思議そうに小首を傾げて、指先でツンツンと突いた。
 
 
すると、
 
 
 
 『俺んじゃねぇ。

  バアサンから、タカナシにだ・・・。』
 
 
 
それは、祖母キヨがリコの為に畑の野菜を段ボールに詰めて持たせてくれたも
のだった。
 
 
『こんなに要らないって言ったんだけど・・・。』 キタジマは眉根をひそめ
ブツブツと文句を呟く。そしてチラリとリコを盗み見て、逆に迷惑になるので
はないかと不安そうに段ボールを睨む。
 
 
しかし、そんな心配は杞憂だとすぐさま気持ちが晴れるくらい、リコは思い切
り嬉しそうに段ボールに飛びついた。その顔はキラキラと輝き、もう少しで泣
いてしまいそうに瞳を潤ませて。
 
 
 
 『えっ?! おばあちゃんから・・・?
 
 
  嬉しいぃぃいいいい!!!

  ・・・これ、私が持ちますっ!!』
 
 
 
しかし、キタジマがそれを制す。 『バカっ! すっげぇ重いんだって。』
 
 
そして、『じゃ、こっち頼む。』と、少し屈んで肩のカバンをリコに委ねた。

大きな肩からストンとリコの手の中に落ちたショルダーテープに、キタジマ
のプライベートにほんの少し関われるだけでリコには充分嬉しかった。
 
  
 
 
 
 
時刻は昼を回っていた。
駅を出ると真上に照り付ける太陽の光に、半袖の腕がじんわりと熱を持つ。
 
 
『メシは? どっか行っか?』 キタジマが抱える段ボールに、タバコも吸え
ない状態で口寂しそうに唇を蠢かす。

リコは外で二人で食事に行けるのは嬉しかったが、1秒でも早く段ボールを置
いてキタジマを少し休ませてあげたかった。
 
 
 
 『大学って開いてますよね?

  ここから近いし、何か買って大学でゆっくり食べましょ?』
 
 
 
リコの言葉に、キタジマは『ん。』といつものぶっきら棒な返事を返した。
 
 
大学までの並木道。
久しぶりに二人で並んで歩く、この並木道。

照り付ける夏の日差しに青々とした葉を輝かせるイチョウが生い茂るそこ。
真夏の陽は暑かったけれど、田舎のジリジリしたものとは全く違いムシムシと
した嫌な湿気が体中にまとわりつく。
 
 
『おばあちゃん寂しがったでしょ?』 また一人ぼっちになった祖母キヨを思い
リコの胸がチクリと切なく痛む。段ボールに野菜を詰めるあの小さな背中を想像
すると、再び今すぐにでも飛んで行きたくなる。
 
 
すると、『また行けばいいんだ。』

そうボソっと呟いてキタジマが少し ”間 ”をおき、小さく二の句を継いだ。
 
 
 
 『また、行くか・・・?』
 
 
 
その言葉にリコがパっと頬を染め、笑顔で大きく大きく頷いた。
 
 
 

■第162話 段ボール

 
 
 
久しぶりの大学の校舎はまだ夏休み中という事もあり、ひと気もなく静まり
返っていた。
 
 
二人は2階の教室への階段をあがる。
踏面をゆっくり一歩ずつ踏みしめると、古い階段はギシギシと歩みに合わせ
て仲良く二人分の音を立てた。

当たり前だが美大らしく、そこかしこに鼻に付く絵具の匂いが漂っている。

それにうんざり顔をしながらも、どこか心が安らぐのは何故だろう・・・
絵を描く人間は皆同じようにそう感じるのだろうか。
 
 
いつもの空き教室へ入ると、窓を閉めっ放しのどんよりと空気がこもった感
じがした。リコが空気の入替をしようと窓の桟に指をかけ、鈍く重いそれを
上方へ押し開ける。

しかし開けたところで今日は蒸し暑くて、風は全く通らなかった。
リコがしかめ面で振り返りキタジマへ無言で訴えると、やわらかい表情で同
じようにしかめ面を返す無精髭。二人の間に優しい風が通り過ぎた気がした。
 
 
抱えていた段ボールをゆっくり床へ下ろしたキタジマ。

丁寧に置いたつもりが、結構な重量がある為ドサっという音が静かな部屋に
鈍く響く。ずっと重い段ボールを持っていた両腕がダルくて、苦い顔で右手
で左腕を上から下に揉んでいる。
 
 
そして、首を傾げたまま床の上のそれを見眇めポツリと呟く。
 
 
 
 『・・・これ、相当重いぞ?』
 
 
 
『どうやって持って帰ろ・・・。』 リコも、少々困り顔で情けなく笑った。
  
  
 
キタジマがいつものくたびれたイスに深く腰掛け、タバコを1本取り出し咥
えた。いつものその景色がなんだかやけに懐かしくあたたかく感じる。

リコは嬉しそうに目を伏せ、相変わらず画材が散らばるテーブルの上を片付
け買ってきた昼食を広げ準備をした。
 
 
二人は絵具がこびり付いたテーブルに向かい合って何も喋らずに昼食を摂っ
ていた。何故か沈黙でも全く気にならなかった。むしろ、それが心地よくて
安らいで、まるでゆったりと寄せては返す春のうららかな海のようで。
 
 
 
 (この部屋にこんな風に二人でいるのって、いつぶりだろう・・・。)
 
 
 
リコが両手で掴んだサンドイッチを一口齧りながらふと思った瞬間、
 
 
 
 
 『ココでこうしてるのって、いつぶりだろうな・・・。』
  
 
 
キタジマがぼんやりと何処を見るでもなく見つめ、ポツリ呟いた。
 
 
 
 ゲホッゲホッ・・・ 
 
 
 
驚いたリコがパンを喉に詰まらせ、思い切りむせて咳込む。

乾いたそれは喉の壁に引っ付くように停滞し続け、いくら咳払いをしても息苦
しさは治まらず、どんどん込み上げる涙に目は真っ赤に充血した。
 
 
キタジマが慌てて立ち上がり缶ジュースをリコの手に押し付けると、大きな手
でその情けなく丸まる背中をトントンと優しく叩きながら、呆れたように目を
細め小さく笑う。 『ナニやってんだよ・・・。』
 
 
 
 『だって・・・

  ・・・私も今、おんなじこと考・・・ ゲホゲホゲホッ・・・。』 
 
 
 
リコは必死に言葉にして、再び苦しそうに涙目でむせる。
 
 
『無理してしゃべんなって。』 キタジマが笑いながら尚も背中を叩く。

トントンと叩いていたそれは、リコの咳が収まってゆくのと同時に次第に優し
くさする。まるで親鳥が雛を守るような慈しむような大きな手の平からのぬく
もりがリコの心の中へダイレクトに伝わった。

むせて涙目だったリコの瞳に、じんわりと優しい雫が更に込み上げていた。
 
  
  
 
 
 
 『ぁ・・・ いい方法があるぞ。』
 
 
そう言うと、キタジマはリコを連れて校舎の裏へ行った。

まるで暗黙の了解で粗大ごみ置き場のようにされているそこにあったのは、荷台
が付いた古くて錆びた大きな自転車だった。昭和のテレビドラマで蕎麦屋の岡持
ちが乗るようなレトロなそれ。だいぶ前に学生が放置していったらしく、ずっと
誰にも使われずそこにあったという。
 
 
『荷台に段ボール括り付けたらイケるだろ?』 自転車の荷台をポンポンと叩き
自信満々に言うキタジマ。少し触れただけで指にしっかり付いた錆を、両手をパ
ンパンと払いそれでも得意気なその横顔に、リコが困り顔で口を尖らせ呟く。
 
 
 
 『でも・・・ 私、

  重い荷物乗せて、こんな大っきい自転車なんか乗れるかなぁ・・・。』
 
 
 
その不安気なボヤキを聞いて、キタジマがケラケラと声を上げて笑った。

『タカナシ一人で乗れなんて言ってないだろが?』 キタジマが眩しそうに目
を細め微笑む。 
 
 
 
 『・・・送ってやるよ。』

 
 
 

■第163話 二人乗り

 
 
 
夕暮れの時間まで、二人は教室でのんびりしていた。
 
 
何を話すでもなく、ただゆったりとした時間が1秒ずつ流れてゆく。
互いの呼吸をする音が聞こえるほど、教室内は静まり返っていた。

しかしその沈黙の時間も窮屈には感じない二人。ウトウトとまどろんで
しまいそうに心は凪ぎ、そして居心地がよくてそっと目を伏せた。
 
 
小さくなったタバコを消して空缶に落とし入れたキタジマが、静かに立
ち上がった。その横顔に窓から差し込んだ橙色の陽が当たって、痩せた
喉仏が逆光に浮かぶ。
 
 
 
 『・・・そろそろ帰るか。』
 
 
 
その一言を聞きたくなくて、まだまだキタジマとここに二人で居たくて
リコはうな垂れそうになるも、キタジマも家に帰って休みたいだろうと
ぎこちなく頬に笑みを作って首を縦に振り応じた。
 
 
 
  
 
校舎裏の、あの錆びれた自転車がある場所にやって来た。

キタジマは荷台に野菜が詰まった段ボールを紐でグルグル巻きに括り付
け傾がったり落ちたりしないか入念に確認する。そしてそれが問題ない
と分かると、自転車のストッパーをはずしハンドルを握って押して歩き
出した。
リコがパタパタと追い掛け、その横に並んで歩く。
 
 
すると、校舎敷地の広目の通りまで来たところでキタジマが脚を止め、
慎重に自転車に跨った。

その様子をリコはただ見ていた。心の中で ”グラグラしないのかな? ”
と呑気に他人事のように思いながら。
サドルに跨ったキタジマと目が合い、互いになにか言いたげに顔を見合
い暫し目線は絡み続けると、
 
 
 
 『後ろに立つんだよっ!』
 
 
 
そう言って、笑いながらキタジマはリコを促す。

まだ状況が把握できていないキョトンとした顔のリコに、後方を乱雑に
顎でクイっと指して。
 
 
 
 『だって! 荷台に座れな・・・』
 
 『後輪のどっかテキトーなトコに足乗せて、立てって!!』
  
 
 
可笑しそうに、キタジマがケラケラ笑う。

『送る』というただ一言だけでは、荷台に大きな段ボールを括りつけた
自転車でどう二人乗りをするかなんて分かるはずないか、と自分の言葉
の足りなさに少しだけ反省しながら。

笑い過ぎてその振動が腕に伝わり、段ボールを括りつけた自転車まで少
し揺れてしまって、『揺れる揺れる』と呟きながら尚も笑った。
 
 
リコは思い切り不安顔をしながら、いまだ戸惑ったままそっとキタジマ
の肩に手を置いた。
はじめてしっかり触れるキタジマの肩の大きさと堅さが少し照れくさい。

そしてそれを支えにして体を持ち上げ、片足ずつ後輪の爪の部分に爪先
を乗せる。しかしそれはどう考えても不安定でぎこちなくて、肩を掴む
指が食い込むほどに力が入っていた。
 
 
 
 『しっかり掴まってろよ。』
 
 
 
キタジマは肩に食い込むリコの指の強さに微笑みそう言うと、自転車は
はじめはノロノロと、次第にスピードを上げて走り出した。

リコは初めての立ち乗りが怖くて、自転車のペダルをこぐキタジマの肩
にしがみ付くように更に手に力を入れる。
 
 
 
 『あ。 掴まれっ!!!』
 
 
 
キタジマが叫んだ瞬間、自転車が石ころを踏んで少しよろけた。
その直後、右に左にと大きく揺れリコは思わず小さく悲鳴を上げる。

そしてバランスを崩したリコが思い切りぎゅっとキタジマの背中に抱き
ついた。
  
 
 
 
   リコの右頬に、キタジマの左耳が触れた・・・
  
  
 
 
急接近したキタジマの伸びてきた髪の毛からは、いつものタバコの微か
な匂いがする。そして、やわらかな風になびくリコのシャンプーの香り
もまた、キタジマに伝わっていた。
  
 
 
 
   互いの心臓が大きくドキンドキンと跳ねる・・・
  
  
 
 
急に恥ずかしくなってしまって、リコは『ごめんなさい』と小さく謝り
抱き付いた体をパっと離した。

そしてキタジマの肩に再び手をおき、なんとかバランスを保とうとする。
しかし中々うまくいかず、危なっかしくヨロヨロとよろけ肩を掴む指先
だけやたらと力が入って白くなるほどで。
 
 
すると、『・・・さっきみたいに掴まっとけ。』 
 
 
キタジマが小さく呟いた。それは心の奥底にまで響くような低く優しい
それで。リコの心にあたたかく切ない波紋がゆっくりと広がる。
 
 
 
 『・・・はい。』
 
 
 
頬を赤く染めたリコが再びキタジマの背中へそっと抱きついた。
その大きな肩に体を寄せ、両腕は後ろから回して抱き締めるようにして。
 
 
俯いて一度目を閉じ、深呼吸をする。

痩せている割りにキタジマの肩や背中はガッチリしていて、”男の人 ”
だという事を改めて感じる。
 
 
こんなに間近でキタジマをじっと見たのは初めてだった。
 
 
意外に睫毛が長い。また少し無精髭が伸びてきている。
耳の形がキレイ。首は筋張っていて、喉仏が浮き出ている。
少し乾燥した唇をぼうっと見つめる。当初とは比べ物にならないくらい
よくしゃべり、よく笑うようになったそれを。
 
 
じっと見つめるリコの息がキタジマの首筋に優しくあたっていた。
 
 
決して顔には出さないものの、リコの体温を背中に直接感じるこの距離
にキタジマもまた、ドキドキしていた・・・
 
 
 

■第164話 リュータの決心

 
 
 
引越作業をしながらみんなでワイワイ楽しく騒いではいても、やはりそこに
リコの姿がない事に誰しも口には出さないけれど、モヤモヤしたものを胸に
秘めていた。
 
 
コースケをチラっと盗み見たリュータは、その至っていつも通りの笑顔の
横顔に小さく溜息を落とし、こっそりナチに耳打ちをする。
 
 
 
 『少し遅れてでもリコは来れないのか?』
 
 
 
するとナチはきゅっと口をつぐみ少し考え込んで、みんなが作業する居間か
ら誰もいない寝室へとリュータのTシャツの裾を引っ張っていざなう。

そしてベットにちょこんと腰掛けると、言おうか言うまいか悩みながら口を
開いた。
  
 
 
 『リコね・・・

  この間まで、キタジマさんの田舎に行ってたんだって・・・。』
 
 
 
『えっ?! それって・・・。』 リュータが驚いて目を見開き固まる。

普通、ただの先輩後輩の仲で自分の故郷になど連れて行くだろうか。
これが数人で押し掛けるとかならまだ分からなくもないが、きっとリコ一人
で行ったのではないかと推測すると、二人の関係はそこまで進展していると
いうことか。
  
 
ナチはうな垂れ、小さな声で続ける。
 
 
 
 『この間、リコに久々会ったの・・・
 
 
  リコね、ハッキリ私に言ったよ。

  ”キタジマさんが好きだ ”って・・・
 
 
  だから、私・・・ リコを応援するって決めたの。

  ・・・だってリコ、凄く幸せそうだったんだもん・・・。』
  
 
 
そう口では言いつつも、ナチの顔は明らかに浮かない表情だった。

リュータはそんなナチの頭をガシガシと少し乱暴に撫でると、少し悲しげな
表情で笑う。 『そっか・・・。』
 
 
ナチは頭の上に置かれたリュータの手をそっと握り返す。
 
 
 
 『今日もね

  ほんとは、手伝いに来てくれるはずだったんだけど、

  キタジマさんが帰って来るから、それを迎えに行ってるの・・・
 
 
  ・・・なんか、ちょっと・・・ 寂しいけど・・・。』
 
 
 
ナチが俯いて呟く。
  

ナチはナチなりに、精一杯リコを応援しようと無理をして頑張っていた。
しかし、キタジマにリコを取られてしまうような妙な感覚に、ナチは戸惑い
を隠しきれない。心の奥底では、やはりリコはコースケと結ばれてほしくて
そればかり願ってしまって、本心ではキタジマなど受け入れたくないのだ。
 
  
 
 『コースケさんは・・・

  ・・・この事知ったら、どう思うかな・・・?』
  
  
 
ナチがポツリ呟いた。

コースケが少なからずリコの事を気にしている事を知っているナチには、
このすれ違いが歯がゆくて歯がゆくて仕方がない。リコが誰より想ってい
るのは間違いなくコースケだったはずなのだ。それなのに、ほんの少しの
運命の悪戯が、二人を分かつ見えない壁を造り上げてしまった。
 
 
リュータは脱力したように床にしゃがみ込み胡坐をかくと、頭を掻き毟る。
眉尻を下げた情けない顔で小さく笑いながら、心許なく呟いた。
 
  
 
 『あいつなら、きっと・・・

  笑って ”良かったね ”とか言うんだろな・・・
 
 
  ・・・また、自分を抑えて。 我慢して・・・。』
 
  
 
リュータとナチはそれ以上なにも言えなくなってしまった。
二人の胸はやり切れない思いでチリチリと痛みを発していた。 
  
 
 
 
 
みんなが作業する居間に戻ると、コースケはまるで何も無かったかのように
ヘラヘラと笑っている。

リコがここ最近みんなでの集まりに来ていない事も、今日引越の手伝いに来
ていない事も、最近まったく連絡すら出来ていない事も、一番気にしている
のはコースケなはずなのに。
 
 
リュータは正直なところ、コースケを見ているのが辛かった。
いっその事、不機嫌になったり泣き言いったり落ち込んでくれたらいいのに。
 
 
しかし、最近のコースケは顔色ひとつ変えない。

ただニコニコと情けない笑顔を上手に作り、人当たりよく見せてその実本心
を決して晒そうとしない。それは、兄ケイタとその恋人マリの間で思い悩ん
でいた頃のコースケと同じだった。

またあの頃と同じコースケに戻りつつあるのだ。
 
 
 
 『このままじゃダメだ・・・。』
 
 
 
リュータがひとつ決心をした。
しかし、その顔は泣き出してしまいそうな不安気なものだった。
 
 
 

■第165話 コースケの決意

 
 
 
リュータは引越の荷解きが一通り終わると、コースケを連れ出していた。
 
 
新居のアパートはコースケの実家にも程近く、自然にリュータの足はいつも
の公園へと向かう。陽が暮れかけて少し薄暗くなった公園には人影もなく、
ひっそりと静まり返っていた。まだ生ぬるい夕暮れの風が木立ちの緑を優し
く揺らしてかすかに音を立てる。
 
 
リュータはどう切り出したらいいのか、必死に言葉を選ぶも中々口に出せず
沈黙が続いていた。
 
 
すると、その無言の流れを断ち口火を切ったのはコースケだった。
 
 
 
 『リコちゃん、今日来なかったな・・・。』
 
 
 
『そうだな。』 リュータは驚いて一瞬言葉に詰まるも、一言ポツリと返す。

コースケは公園のベンチに腰掛けると、背中を丸め俯きながら尚も続けた。
 
 
 
 『きっと・・・

  キタジマって人と一緒にいるんだろうなぁ・・・。』
 
 
 
そう呟くと、可笑しくもないのに小さく笑う。
目尻を下げ頬を緩めて、ぐんと両腕を空に突き上げ伸びをして。

それはあまりに情けなく哀しい響きで、夏の夕暮れの湿った風に呆気なく連れ
去られる。
 
 
 
リュータの心臓が一気に痛みを帯びた。
コースケの、本音を隠して笑う顔などもう見たくなかった。
 
 
リュータは目を眇めきゅっと口の端を結ぶと、ゴクリと息を呑み腹を決めて
コースケを睨むように真っ直ぐ見つめた。

そして少し震えそうになる喉に力を入れ、低く一つずつ言葉にする。
 
 
 
 『リコ、 ”キタジマが好きだ ”ってナチに言ったらしいよ・・・
 
 
  この間まで、向こうの田舎に行ってたらしい・・・
 
 
  今日も、帰って来るキタジマを迎えに行ったから

  こっちには来れなかったって・・・。』
 
 
 
それを耳にコースケがダランと頭を垂れ、泣きだしそうに表情を翳らせる。

きっとキタジマと一緒にいるのだろうとは思っていた。しかし一緒に帰郷
しているとまでは想像していなかったコースケは、二人の距離がどんどん
縮まっている事にやはり動揺を隠しきれない。嫉妬と焦りと不安と怒り。

色んな感情がごちゃ混ぜになり、今自分がどんな顔をしているのかさえ分
からなかった。ただただ血の気が引いていくような感覚だけ鮮明で。
 
 
しかし次の瞬間、『・・・そっか。』と震える声で情けなく微笑んだコー
スケ。笑ったのか溜息を零したのか区別がつかないような、それ。
 
 
リュータはそんなコースケの態度があまりに遣り切れなくて、咄嗟に鋭く
睨みつけ怒鳴ってしまった。
 
 
 
 『なんで真っ直ぐぶつかんねーんだよっ!!』
 
 
 
もどかしくて仕方なくて、怒りが混ざった刺々しい口調になってしまう。

コースケを責めるつもりなど毛頭ないのに、切なさと悔しさが怒りとなり
表れてしまった。
 
 
リュータは地団駄を踏む。

苛立つ心と連動して、じっとしていられない身体が落ち着きなく動き回る。
少し汚れたスニーカーの踵は、蹴散らすように前後に砂利を踏み飛ばす為
シャリシャリとしたその音だけ滑稽なほどに静まり返った公園に響いた。
 
 
 
 『ぉ、お前がモタモタしてっから・・・

  それじゃなかったら、リコは、ずっと・・・ お前のこと・・・。』
  
 
 
『ムカついてしょうがねぇよ、俺だって。』 コースケの表情が一変して、
今までとは全く違う声色が落ちた。
目をすがめて、唇を噛み締め、頬は引き攣っている。

自分の気持ちから目を逸らしてばかりで、リコに真摯に向き合えなかった
ことに対しても心の底から嫌気がさしていた。しかしそれより何よりやは
り ”あの件 ”に対してコースケは猛烈に腹が立っていたのだ。
 
 
リュータは今までコースケのこんな憤激する顔を見たことが無かったため
思い切りたじろいでしまって、言葉を失い目を見張って見つめる。
 
 
すると、唸るようにコースケは続けた。
 
 
 
 『マリと知り合いなんだ・・・アイツ。

  数年前に、奥さんを・・・ 亡くしてるらしい・・・。』
 
 
 
そのコースケの言葉に、リュータがある事を思い出した。
 
 
あれは、リコと一緒にキタジマの財布を探した雨の夜。リュータが見つけた
その財布には一枚の女性の写真があった。何故かリュータはその女性に嫌な
予感がしていたのだった。
 
 
 
 
  それは、どことなくリコに似ていたから・・・
  
 
 
 
 
 『最近、傍にいる子がその奥さんに似てる、って・・・

  マリに言ってたらしい・・・。』
  
  
 
リュータが俯き、苦虫を噛み潰したような苦渋の表情をつくる。嫌な予感が
的中してしまったのだ。思い切り奥歯を食いしばると顎がギリギリと音を立
てる。やり場のない怒りに、握り締めた拳をベンチの座面に打ち付けた。
 
 
 
 『なんだよ、それ・・・

  ふざ・・けんな、よ・・・
 
 
  奥さんの代わりか・・・?

  なに、その都合のいい扱い・・・
 
 
  ・・・ジョーダンじゃねぇっつうの。
 
 
  リコは・・・?

  まさか、リコはそれを知っ・・・』
 
 
 
『知らせちゃダメだ、絶対。』 リュータの言葉を遮ってコースケが低く
強い口調で言う。
 
 
 
 『そんな事知ったら、どれだけ傷付くか・・・

  絶対、知らせちゃダメだ。
 
 
  またあの子を泣かせてしまう前に・・・。』
 
  
 
コースケの目に強い光が滲んだ。 『俺が・・・ 守る。』
 
 
 

■第166話 コースケとキタジマ




コースケとリュータが硬い表情で立ち竦む公園に、ナチとアカリが二人を
探しやって来た。


『なぁ~にやってんの~?』 からかう口調で声を掛けてみたが、引き攣
ったその顔を目にした瞬間、なんとなくその場の雰囲気を察しそれ以降は
何もしゃべらず四人はただその重い空気の中そこにいた。


そこへ、遠く、自転車の軋む音と笑い声が微かに流れ聞こえた。



『リコ・・・?』 一番最初にそれに気付いたのはナチだった。



少し覚束ない感じでパタパタと通りへ駆け出し、目を凝らすナチ。
すると、通りの向こうに自転車を押す痩せた背の高い男性と、その隣を歩
きながら楽しそうに笑うリコの姿が映った。


咄嗟に、弾かれたようにナチはリコの元へ駆け寄る。

そして、リコ達の目の前で立ち止まると、隣に立つ男性を目を見開きまじ
まじと見つめた。



 『ナチ!!』



リコが驚きの声を上げ、ナチの少し強張り固まる表情に慌ててキタジマを
紹介する。同じようにキタジマへナチの紹介もすると、ゆっくりと公園か
らコースケがこちらへ向かって来た。
 
 
久しぶりに見るコースケの姿。

なんだか何年も会っていなかったかのように感じる、その正しく背筋が伸
びた佇まい。まさかこんな場面で出くわすなんて思ってもみなかった。
 
 
 
 『コーチャン先生・・・ 久しぶり。』
 
 
 
リコの少し緊張し上ずった声に、コースケは少しだけ目線を向け弱々しく
微笑んですぐさまキタジマへと目を向けた。
 
 
そして、ゆっくりとゆっくりとキタジマの方へ一歩前に出た。
 
 
 
 『ナナミ ケイタの弟、コースケです。
 
 
  ・・・マリから

  ・・・話は、聞いてます・・・。』
 
 
 
この言葉に、リコが目を見張り固まった。
頭の中で何度も何度もその意味を考えあぐねる。
 
 
 
 
  (ぇ・・・? どうゆう意味・・・??)
 
 
 
 
リコはキタジマとマリ・ケイタが知り合いだという事など、今の今まで全
く知らなかったのだから。

まだ信じきれない表情で狼狽えながら、リコは隣に立ち竦むキタジマの腕
にしがみ付くようににじり寄った。
 
 
 
 『ぇ・・・

  キタジマさん、マリさん達のこと知ってるんですか・・・?』
 
 
 
リコは何がなんだか分からずにいた。

事態が把握出来なくてせわしなく瞬きを繰り返し、コースケとキタジマへ
交互に不安気な視線を向け続ける。
 
  
キタジマは、自分を鋭く睨むコースケの目を見て状況を呑み込んだ。

その真っ直ぐな嘘のない瞳の奥には、リコへの想いがありありと見て取れ
る。そして、その純粋な瞳は知っているのだろう。マリへした亡き妻の話、
リコにその亡き面影を重ねてしまっている事を・・・
 
 
キタジマは猫背を更に丸めてコースケから目を逸らし、何も言えずに所在
無げに口をつぐんで俯いた。キタジマ本人だって、まさかリコがマリ達と
関係があるなんて夢にも思わなかったのだから。倒れないように自転車の
ハンドルを押さえるその大きいはずの手が、ガクガクと小刻みに震えはじ
めていた。
 
 
 
 
  (頼む・・・

   ここでは言わないでくれ・・・
 
 
   タカナシの前でだけは、頼むから・・・。)
 
 
 
 
リコは急に青ざめた顔で黙りこくったキタジマに心配を隠せないでいる。
 
 
『キタジマさん・・・?』 リコが眉根をひそめ覗き込むも、キタジマは
目を逸らし返事をしない。リコの問い掛けに反応も示さず、青ざめた顔と
は対照的に耳だけはペンキを被ったように真っ赤に染まってゆく。
 
 
すると、その煮え切らない態度を目に、コースケが尚も挑発的にキタジマ
に詰め寄る。
 
 
 
 『キタジマさん・・・
 
 
  ・・・あんまり卑怯なマネしないで下さい。』
 
 
 
その低い地響きのような一言にも、何も言い返せないキタジマ。
大きいはずの背中がみるみる小さく萎んで、今に消えてなくなりそうに心許
ないそれへと変わる。
 
 
そこへ、リコが一歩前に出ると二人の間に立ってコースケに言い返した。
 
 
 
 『コーチャン先生・・・

  なんの話してるの・・・?
 
 
  ・・・卑怯なマネって、何・・・?』
 
 
 
リコの目に初めて、コースケへの強い怒りが滲んだ。

大切な人を訳の分からない理由で追い込むコースケを、初めて ”憎い ”と
感じた瞬間だった。
コースケは自分が知らないキタジマについての ”何か ”を知っている。

しかしこのバカが付くほど不器用なキタジマが ”卑怯 ”な事など出来る訳
がないと、リコはコースケがなにか勘違いをしているはずだと決めてかかる。
 
 
そこへ慌ててリュータが出て来て三人の間に割って入り、必死にコースケを
なだめた。肩に手を置き軽くポンポンと叩いて、リュータは努めて明るく笑
って見せる。

『まぁ、今日はもういいだろ。帰るぞ!』 そう言ってコースケの腕を掴む。
 
  
しかし、
 
 
 
  『俺は、許さない。』 
 
 
 
コースケの呻くような低い声がキタジマの胸に重く重く圧し掛かった。
 
 
 

■第167話 バイト初日

 
 
 
 『イラッシャイマセー 店内 デ オ召シ上ガリ デスカー・・・』
 
 
自動ドアが開き来客の合図のピロリロリロ~というチャイムが店内に鳴り響く
とまだ着慣れない制服に身を包んだアカリが、全く抑揚のない口調で入店して
きた客に言った。

気怠そうに首を傾げ少し顎を上げ、相変わらずスラリと細く長い脚を片方前に
出して。胸に垂れる緩く巻いた髪を指先でクルクルと暇そうに弄びながら。
 
 
それを目にしたヒナタがギョっとして、横から慌てて割って入った。
 
 
 
 『ちょ、ちょっとアカリさん!!

  もっと丁寧に、感じよく接客してくれなきゃ・・・。』
 
 
 
ヒナタの必死の指導にも、アカリは涼しい顔を向け全く気にしない。

実践に移る前にはしっかり顔を突き合わせてマニュアル片手に練習もしたと
いうのに、この有様だった。
 
 
全く悪びれることの無いアカリは、ツンと顎を上げ言った。
 
 
 
 『だって。

  私のマニュアルトークを聞きに客はやって来る訳じゃないじゃん?』
 
  
 
 
 
 
今日はアカリのバイト初日だった。

近所のファストフード店のカウンターに立ち、生まれて初めて接客のバイトを
するアカリ。

しかし全くヤル気は無かった。以前より大きな部屋に引っ越したため少しでも
家にお金を入れなければならないので、仕方なくはじめたバイト。渋々感はそ
の顔や態度から滲み出て、溢れて、ダダ漏れだった。
 
 
そんなアカリを、指導係になったバイトリーダーのヒナタがなだめすかす。
 
 
『アカリさん、いいですか? 僕の接客よく見てて下さいよ?!』 根気よく
見本を見せ指導するヒナタに、アカリは『あー、ハイハイ』と軽くあしらう。

左手首に付けた腕時計に目を落とし小さく欠伸をして、とっとと時間が過ぎる
事だけを考えていた。
 
  
 
22時、バイト終業。

怠そうに片手で肩を揉みながら、制服から私服に着替えたアカリはかなり適当
に『お先に失礼シマッス。』とボソっとこぼして店を出る。
すると、同じタイミングで退勤するヒナタも自然とアカリの後に続いた。
 
 
『アカリさん、もっとちゃんとしてくれないと~。』 ヒナタは尚も、バイト
リーダーモードのまま、アカリの接客のなってなさを指摘する。

それに若干イライラしたアカリ。最初は『ハイハイ』と流していたのだがそれ
も限界とばかり、ヒナタに向かって大きな声で言い返した。
 
 
 
 『アンタ、私より年下でしょっ?!

  ・・・イっチイチ、うるっさいのよっ!!』
 
 
 
すると、ヒナタは驚いて一瞬固まりアカリを凝視して、次の瞬間身体を屈め腹
を抱えてケラケラ笑い出した。
 
 
 
 『だって・・・

  僕は、バイト歴ではアカリさんより先輩じゃないですか~ぁ。』
 
 
 
ヒナタの至極真っ当な一言に、増々ムキになったアカリ。
『私よりチビじゃん!』 仕事に関係ないただの悪口が飛び出し、反撃する。
 
 
 
 『だってアカリさん、

  その靴はいてるから、少し高くなってるだけでしょ~?』
 
 
 
ヒナタはアカリのヒールが高いビビッド柄のミュールを指差し、可笑しくて
仕方ない感じで身体をよじらせ頬を緩めて応戦する。
 
 
 
まるでそれは幼い子供のケンカだった。

アカリが顔をしかめムキになって言い負かそうとすると、ヒナタは笑いながら
それをかわす。気が付くと二人はバイト先の駐車場で延々と喧々諤々やり合っ
ていた。他のバイト仲間がそんな二人を遠巻きに呆れ顔で眺めていたことすら
気付かぬまま。
 
 
興奮して声を張り続けていたアカリがさすがに疲れてバテ始め、どんなに食っ
て掛かっても暖簾に腕押し状態のヒナタを恨めしそうにギロリと睨む。

そんな様子すらヒナタには面白くて仕方がなかった。
圧倒的な勝利を手にしたいのにそう出来なくてキリキリと歯ぎしりする横顔。
 
 
すると、散々言い合いをした後で、ヒナタはニコニコと心から愉しそうに笑い
ながら言った。
 
 
 
 
 
   『僕たち、きっといいコンビになりますね!』
 
 
 
 
全く以って想定外のその言葉に、驚き目を見張るアカリ。

どこか気まずそうに弱々しく目を逸らすと、『はぁ? 意味わかんない。』 
そう低く言い捨てて踵を返し足早にひとり家路へと歩き出した。
 
 
商店街の中を歩きながら、アカリは先程のヒナタの脳天気で意味不明な言葉を
思い返していた。
 
 
 
 
   ( ”僕たち、きっといいコンビになりますね! ”)
 
 
 
 
胸がムカムカして仕方がない。何を言っても何処吹く風と上機嫌な感じで笑っ
て返してくるヒナタ。あの愛想のよい屈託ない笑い顔すら頭にくる。
 
 
 
その時。
イライラしながらも何故かアカリは立ち止まって来た道を振り返った。
 
 
 
すると、通りの向こうに、ヒナタが手を振りながらまだその場でアカリを見送
っていた。自分に気が付いてくれた事に、あの笑顔を更に綻ばせてピョコピョ
コと飛び跳ね大きくアピールをして。
 
  
 
 (なんっなの? ・・・意味わかんない・・・。)
 
  
 
尚の事不機嫌になり、思い切り冷たく顔を背け無視をして不機嫌そうに再び前
を向き大股でアカリは家路へと急いだ。
 
  
  
『おぅ! バイト初日はどうだった?』 リュータがビール片手にソファーに
身体を沈めたまま、帰宅したアカリに訊ねる。

しかしアカリは一瞬リュータを鋭く睨み舌打ちを打つと、何も言わずに機嫌悪
そうに自室へ入って行った。
 
 
『なんだ??』 訳がわからないリュータが小首を傾げてアカリの部屋のドア
を不思議そうに眺めていた。
  
  
自室のベッドにバフっと勢いよく腰掛けると、アカリは尚もイライラしていた。
 
 
 

■第168話 パニック

 
 
 『イラッシャイマセー 店内 デ オ召シ上ガリ デスカー・・・』
 
 
相変わらず懲りもせず、アカリはダラダラとバイトをしていた。
 
 
しばしば客から ”愛想がない ”やら ”態度が悪い ”などと文句を言われる
事もあったが、元来他人に愛想を振りまくなんて死んでも嫌なアカリは、誰に
何を言われようが何処吹く風と全く気にしていなかった。
 
 
それを横で見ている指導係ヒナタ。
ある意味一本芯が通ったブレない姿に、仕舞いには感心するほどだった。
 
 
 
 『アカリさん、どうしてもっとニコっとしないんですか~ぁ?

  きっとニコニコしてたら、すご~い可愛いですよ~・・・。』 
 
 
 
バイト終わりの、駐車場でのヒナタとの反省会。

制服から着替え店の裏口から出て来た二人は、さっさと帰ってもいいものを
またしても喧々諤々言い合いながら、何故かその場での立ち話を止めない。
 
 
『だってモテまくったら困んじゃん。』 冗談だかそうじゃないんだか分か
らないアカリの返答。その顔は苛つき目を眇めて生意気にツンと顎を上げ、
今日も履いているミュールの尖ったヒールの先端で、アスファルトを不機嫌
に蹴り付けカツカツと連続音を響かせている。
 
 
ヒナタは、アカリとバイト終わりにする ”反省会 ”という名の雑談タイム
を段々愉しみに思うようになっていた。

確かに毎日毎日アカリには反省してもらわないといけない事は多かったのだ
が、もしそれが無くても何かしらの理由をこじつけて立ち話はしたかった。
ヒナタの頭では到底考えられないような事を、アカリはさも当たり前かの様
にサラっと言ってのける。それは、ある意味尊敬するほどで。
 
 
すると、あまりにアカリが面白くて目が離せなくて、溢れる興味が止まらな
くなったヒナタは、その夜ついに切り出した。
 
 
 
 『アカリさん、今度の日曜ってヒマですか~ぁ?』 
 
 
 
反省会の話の流れとは全く関係なく、脈絡なく突然発せられたそれ。
ヒナタは屈託のない笑顔で少し首を傾げ、優しくアカリを見つめて。

アカリは耳に響いたそれに絶句してしまって、一瞬その場で固まる。
しかし次の瞬間、思い切り引き攣った顔をしかめて低く言い返した。
 
 
 
 『なんで私のプライベートをアンタに教えなきゃなんないのよ。』
 
 
 
すると予想通りのその冷めた反応に、笑いながらヒナタが言った。
 
  
 
 『デートしませんか? 僕と。』
 
 
 
その顔は、つぶらな瞳をキラキラさせて子供のように真っ直ぐで。

簡単に飛び出したように感じる一言だったが、からかっている感じには聞こえ
ない。アカリはポカンとして、ただただヒナタを見ていた。瞬きも忘れた見開
いた目が乾燥してカラカラになってゆく。
 
 
あまりに突然で、あまりに唐突で、そしてあまりに呆気らかんとヒナタの口か
ら出たデートの誘い。
 
 
 
 
  (デ、デデデデ、デーーーーーーーーーーート・・・???)
 
 
 
 
暫し時間が掛かりつつ頭の中が整理出来るにつれ、思いっきりアカリは狼狽し
はじめた。恥ずかしさを隠すように高速で瞬きを繰り返し、シドロモドロな口
は金魚のようにパクパクと開いたり閉じたり。
 
 
こんなに真正面から堂々とデートに誘われた事は、今まで一度も無かった。

ルックスは良いから近寄って来る男は少なからずいたが、皆すぐに蜘蛛の子を
散らすように去って行った。

好きになった人もいたけれど、元来の性分が ”素直 ”とは程遠いため結局憎
まれ口を叩き可愛らしいところなど見せる事が出来るはずもなく、しかしそれ
はこんなアカリを受け止める度量がない相手のせいにして生きてきた。
 
 
”このままの私を好きになってくれる人が、いつかは現れるはず ”と・・・
 
 
 
必死に痛烈な売り言葉に買い言葉を探すも、パニックになっていて何も言い返
せない。もどかしくモゴモゴと蠢く唇を、口惜しそうにきゅっと噤んだ。
 
 
そして、やっと口を開いたアカリ。
それは弱々しく心許なく震えて落ちる。
  
 
 
 『だって・・・
 
  そ、その日は、 バイトだし・・・・・・。』
 
 
 
死にそうに照れくさくて不機嫌に眉根をひそめ俯くアカリを、ヒナタは面白く
て仕方なくて嬉しそうに見つめ笑う。

バイトリーダーのヒナタはシフト管理もしていて、アカリのシフトなどとっく
に把握済みだった。
  
 
 
 『僕もアカリさんも、今度の日曜はシフト入ってませんよ~。』
 
 
 
何処をどう見ても、完全完璧にアカリの完敗だった・・・
 
  
  
 
 
 
ぐうの音も出ない程に玉砕した帰り道、またアカリが途中で足を止め振り返る
とヒナタは今夜も笑顔で手を振って見送っていた。
 
 
慌てて前を向き、早足で家路へ向かうアカリ。

完全にパニックになっていた。眉間にはくっきりとシワが寄り、口は真一文字
になって、どうしていいか分からないその瞳はかすかに潤んで。
 
 
『おぅ!おかえ・・・』 またしてもリュータの言葉に耳も貸さず、チラリと
目線を投げることすらせず、イライラした様子でアカリは真っ直ぐ自室へ入る。

カバンからケータイを取り出すと、大慌てでナチに電話をした。
 
 
 
 『ナチ・・・ 

  ちょっ、どうしよう・・・ 助けて・・・。』
  
 
 
はじめて聴くようなアカリの真剣な声色に、ナチは急に怖くなり何があったのか
慌てて身構えた。
 
 
 

■第169話 卑怯な理由

 
 
 
  ◆少し時間ありませんか?
 
 
リコが思いつめた顔でメールの送信ボタンに指先で触れた。

ここ数日ずっと思い悩んでいた ”その件 ”をハッキリさせたくて、何がどう
なって ”あんな事を言ったのか ”知りたくて、悶々としていたのだ。
 
 
メールが送信された事を表すメロディが響いた数分後、リコのケータイにメー
ル着信の証が小さく音を立て震えた。
 
 
 
  ◆From:コーチャン先生

  ◆Title:Re:こんばんは

  ◆分かったよ。

   ちゃんと話そう。
 
  
 
リコはコースケが知っている ”キタジマの事 ”を訊こうと思っていた。
マリやケイタがキタジマと知り合いだった事。

そして、コースケがキタジマに ”卑怯 ”と言ったその真意を・・・
   
 
 
子供達が帰った後の夕暮れ時の園のグラウンドは、なんだか死んだように静か
で逆に落ち着かないくらいだった。鉄棒や滑り台の影だけが寂しげに暗く長く
伸びていて、地べたから這い出す真っ黒いオバケみたいで。
 
 
訪れるたび、あんなに心が軽やかに躍ったこの保育園。
カラフルな色合いもにおいも温度も、全部全部大好きだったここ。

今は、胸に渦巻く言葉にならない不快感で心は落ち着きをなくしていた。
 
 
静かに裏口を2回ノックすると、すぐにコースケが迎え出てリコに向かって少
しだけ優しく情けなく微笑んだ。

『お邪魔します・・・。』 リコは素っ気なくスっと目を逸らすと、抑揚なく
小さく挨拶をする。
 
 
二人は園の遊戯室わきに設置してあるテーブルについた。
リコは一つのイスを勧められペコリと形ばかりの礼をして黙って座る。コース
ケは居場所無げに落ちつかなそうに、リコの向かい側に座った。
 
 
二人の間に居心地の悪い沈黙の時間が1秒ずつ流れる。
 
 
リコは真っ直ぐ睨むようにコースケを見つめ続けた。
言いたい事、言おうと思っている事はただ一つだった。

その射るような鋭い視線に、コースケが困ったように情けなく俯く。
 
 
するとその ”いつも通り ”のコースケのそれに、嫌気がさしたようにリコは
腹を決め本題を切り出した。
  
 
 
 『マリさん達、キタジマさんと知合いだったんですよね・・・?』
 
 
 
『・・・そうだね。』 遂に始まったそれに、一拍遅れてコースケは俯いたま
まリコに小さく返す。
 
 
リコはどうしても納得がいかなかった。

コースケもマリも、知合いなら知合いだと何故なにも言ってくれなかったのだ
ろう。何故、隠す必要があったんだろう。
 
 
しかもマリには、あんな風にキタジマの事を浮かれながら話してしまった。
なにも気付かずに高揚するリコを影で笑ってでもいたのだろうか。
知ってて知らん振りしてたなんて、悪趣味だとしか思えなかった。
  
 
そして、一番気になって仕方がないコースケがキタジマへ言ったあの暴言。
 
 
 
 『キタジマさんが ”卑怯 ”ってどうゆう意味なんですか?』
 
 
 
その声色は感情を必死に抑えているのがよく分かる低い、それ。

しかし抑えれば抑えるほど逆に表情にはありありと ”負 ”のそれは出てし
まっている事に気付く余裕がないリコは、目を眇め眉根を寄せて唇を噛み、
心の底から怒っている様子で。
 
 
こんなに感情を剥き出しにするリコを見るのは初めてだった。

いつもいつも優しくやわらかく笑っていた太陽のように眩しかったリコは、
今、自分に対してこんなにも憤激し憎しみすら抱いているような目で睨ん
でいる。
 
 
コースケは思わず哀しげに小さく笑ってしまった。
肩と肩の間に頭がめり込んだのではないかと思う程に情けなく背中を丸めて。
 
 
一瞬聴こえたその場違い極まりない笑い声に、リコが更に不快感を露わにし
怪訝な顔を向ける。
  
 
 
すると、
 
 
 
 『・・・そんなにアイツが好きなの・・・?』
 
 
 
ゆっくりと顔を上げ、寂しそうにリコを真っ直ぐ見つめたコースケ。
その目はあまりに哀しく、迷子の仔犬のような訴えるそれ。
 
 
リコはその視線に刺され、出逢った当時のコースケのことを思い出す。困った
ような泣いてしまいそうな顔で優しく笑うコースケ。誰より大好きだったコー
スケ。しかし、今はそのコースケに怒りを抱き憎らしいとさえ思っている。

頭の中を巡る愛おしい記憶に負けそうになりつつも、睨み返して言った。
 
 
 
 『・・・コーチャン先生には、関係ない・・・。』
 
  
 
その冷たく突き放すような一言を聞いて、コースケは震えるように小さく溜息
をついた。もうリコにはあの頃のような想いはひとかけらも残っていないのだ
と痛感する。もっと早く向き合えていれば。もっと早く気持ちを伝えていれば。

もっと、ちゃんと。もっと、真っ直ぐ・・・
 
 
後悔という名の鎖にがんじがらめになり自分自身を心の底から蔑むと、また首
が折れたようにうな垂れる。

そして、時間を掛けて小さく小さく泣いているみたいに震える声を零した。 
 
 
 
 『俺が・・・

  アイツを ”卑怯 ”だと言ったのは・・・
 
 
  ・・・リコちゃんが、
 
 
  リコちゃんのことが、ホントに心配・・・』
 
 
 
『やめてっ!!!』 リコが頭を深く垂れ両手で抱え込んで叫んだ。

ぎゅっと目を瞑り頭を左右に振って、そんな言葉を聞きたいのではないと
猛烈に抗議するようにコースケをピシャリと遮って。
 
 
 
 『そんな風に・・・

  思わせぶりな態度とるの、もう、やめてよ・・・
 
 
  優しいフリなんかしないで・・・

  気まぐれに優しくされる身にもなってよ・・・
 
 
  ・・・私は、

  私は、たくさん傷付いたっ!!』
 
 
 
 
  
  (あの夜のキス・・・。)
 
 
 
コースケはリコのその反応で、それだと直感で分かった。
 
 
 

■第170話 涙

 
 
 
 『そんな風に・・・

  思わせぶりな態度とるの、もう、やめてよ・・・
 
 
  優しいフリなんかしないで・・・

  気まぐれに優しくされる身にもなってよ・・・
 
 
  ・・・私は、

  私は、たくさん傷付いたっ!!』
 
 
 
静まり返った園の遊戯室に、リコの張り上げる声が木霊した。
 
 
そう怒鳴りながらもリコ自身、自分勝手なことを言っているのは分かっ
ていた。例えコースケに想いが届かなくてもそれでもいいと思ってきた
この数年間。”好きでいさせて ”と勝手に宣言したのも自分なのだ。

しかし、そんなに人は強くいられない。積もり積もった行き場のない想
いを結局は半ば八つ当たりのようにコースケのせいにしてしまう。
 
 
リコの悲痛な叫びは静まり返った遊戯室の天井に、壁に、反響する。
その壁には二人で懸命に描いた数々のイラストが、今となっては哀しく
佇んでいる。
 
 
そして、痛く苦しい耳を劈くほどの沈黙が二人の間に流れた。
 
 
リコはいまだ両腕で頭を抱えぎゅっと目を瞑ったまま、微動だにしない。
呼吸をするのでさえ辛そうに、華奢な身体を更に小さく縮めて。
 
 
すると、泣き出しそうに俯いてじっと足元を見つめていたコースケが静
かに口を開いた。
 
 
 
 『あの夜は・・・

  リコちゃん、すげぇ酔ってて・・・
 
 
  急に起き上って、フラフラしながら下におりてったから、

  俺、心配でついてったんだ・・・。』
 
 
 
リコは頭を両手で抱え込んだ体勢のまま、ピクリとも動かない。

正直なところ、 ”あの夜のこと ”など聞きたくない。思い出したくも
なかった。 
 
 
 
 『そしたら・・・

  そしたら、泣き声が・・・
 
 
  リコちゃんの、泣き声が、響いて・・・
 
 
  壁に・・・ しがみ付いて、ひとりで、泣いてて・・・
  
  
  ・・・それ見たら

  俺・・・ 心臓が潰れそうに、痛く、なって・・・

  苦しくなって・・・   
 
 
  それで・・・ 俺・・・・・・・・・・・・・・・・・・。』
  
 
 
『やめて。』 リコが俯いたままコースケを制止した。その声は冷静で
感情のない嫌忌のそれ。
 
 
 
 『同情なんてやめて。

  可哀想な子を見るように扱わないで。
 
 
  なんとも思ってないくせに、

  自分の気が向いた時だけ優しくして、その気にさせないで。
 
 
  卑怯なマネしないで・・・。』
 
 
 
そして、ゆっくりと顔を上げるとリコはコースケを射るように真っ直ぐ
睨んだ。
 
 
 
 
    『・・・あなたの方が、よっぽど卑怯だわ・・・。』
 
  
 
 
低く絞り出すようにそう呟くと、リコは足元のカバンを掴んでガバっと
立ち上がり弾かれるように走って園を出て行った。

一瞬見えたリコのその横顔は、もうこの場に1秒もいたくないとでも思
っているように引き攣って歪み青ざめたそれで。
 
 
リコの走り去るスリッパの足音が遠く小さく、そして裏口のドアが開閉
する音と共に消えた。
 
 
コースケはゆっくりとゆっくりと、崩れ落ちるようにイスから下り床へ
とへたり込んだ。
 
 
もう、何も考えることが出来なくなっていた。
リコの最後の言葉だけが、延々、頭の中をリフレインする。
 
 
遊戯室にひとり座り込み、顎を上げ天井を見上げて自分自身に失笑する。
あの夜の事を、もう思考が停止した頭でぼんやりと思い返す。
 
 
 
あの夜。

月夜が差し込む遊戯室で、泣き続けるリコをそっと抱き締めたコースケ
の頬にもまた、涙が伝っていた。

そして、リコのすすり泣く声に紛れて小さく呟いた、今まで言えずにい
たその言葉。胸に秘め続けた想いは、透明な雫とともに哀しく零れる。
 
 
 
   『好きだよ・・・
 
 
    君が・・・ 好きだ・・・。』
 
 
 
 
      もう、リコには届かない・・・
 
  
  
 
 
 『キタジマさん・・・。』
 
 
保育園を飛び出したリコは、何処に向かうでもなく闇雲に通りを歩き
ながら思わずキタジマに電話をしていた。

その頬には堪え切れずに幾筋もの涙が伝って、顎から滴っている。
キタジマに泣いている事を気付かれないよう、涙につまる声をなんと
か隠そうといつも通りを装おうと必死になっていた。
 
 
『・・・どうした?』 静かな静かなキタジマの声。

まるでゆったりと引いては寄せる波のように、穏やかでやわらかい。
言葉の隙間のいつものタバコの煙を吐く ”間 ”に心から安心し頬を
伝う涙はとどまる事を知らぬように流れ続ける。
 
 
きっとキタジマは泣いている事に気付いている。

しかし、リコが自分から言い出すまで、気付かぬフリをして静かにい
つまでも待ってくれていた。
 
 
 
 『ドラえもん・・・。』
 
 
 
涙を堪える沈黙の後、リコが突然ポツリと一言呟いた。


 
 (ドラえもん・・・・・・?)
 
 
 
ケータイを耳に当てるキタジマが、固唾を呑んで目を見張る。
 
 
その瞬間、
 
 
 
 (あたしが描ける唯一の。) 
 
 
 
もう二度と逢えない懐かしい顔が目を細め微笑む想い出がフラッシュバ
ックのように甦り、キタジマは胸が締め付けられ息苦しくて眩暈がする。
 
 
 
 (ねぇ、キタジマ君。)
 
 
 
もう二度と聴くことが出来ないあの声があの呼び方が、耳鳴りのように。
 
 
すると、
 
 
 
 『ドラえもんの・・・ ”どこでもドア ”があれば・・・

  今すぐ、そっちに行けるのにね・・・。』 
 
 
 
リコは自分で言った言葉が馬鹿馬鹿しくて可笑して小さく笑った。

ケータイを耳に当てたまま、クスクスと尚もひとり笑い続けるリコ。
しかし次第にその笑い声は切ない泣き声に変わり、その場にしゃがみ
込むように体を小さく縮め声を震わす。
 
 
  
 『今、どこにいる・・・?
 
 
  ・・・迎えに行くから・・・。』
 
  
 
耳に響いたその低く優しい声音に、リコが声をあげて泣き崩れた。
 
 
 

■第171話 大丈夫

 
 
 
ガードレールに寄り掛かって、リコはひとり佇んでいた。

夜のこの時間の大通りは車の走行量も多く、ぽつんと心細げな背中を車
のヘッドライトが次々と照らしては素っ気なく通り過ぎてゆく。
 
 
泣きじゃくった目元や頬が熱い。そんな顔をキタジマに見られたくなか
った。キタジマのことだから、きっと言葉は無いけれど内心心配するは
ずだ。思わず電話してしまったけれど、迷惑だったかもしれないとリコ
は反省し更に落ち込んでゆく。

せめて少しでも元気なフリをしようと何度も何度も目をこすり、赤く火
照った頬の熱を気にしていた。
 
 
すると、遠くから鈍い音を軋ませながら一台の自転車が猛スピードでや
って来るシルエットが見えた。

それは痩せて長身で、古く錆びついた重いペダルを立ち漕ぎして身体を
右に左に揺らしながら段々近付いて来る。古いボロ自転車に加えて少し
傾斜がある為、尚の事ペダルは重くだいぶ脚には負荷が掛かっているの
だろう。しかし大慌てで踏み込むその姿を目に、リコの胸がぎゅっと熱
くなり再び一気に涙が込み上げた。
 
 
 
嬉しくて有難くて、そして愛おしくて。
 
 

リコは潤んだ瞳を細め頬を緩めると、思わずぷっと吹き出した。
 
俯いて背中を丸め肩を震わせ、口元に手をあてて声を押し殺して笑う。
黒髪が肩の震えにあわせて小刻みに揺れ、照らされるヘッドライトの光
に清流のようにたゆたう。
 
 
すると、普段立ち漕ぎなど決してしないであろうその姿は、俯くリコの
前で耳障りなブレーキ音を立て急停車した。
 
 
 
 『・・・ってお前。 笑ってんじゃねぇかよっ!!』
 
 
 
リコを心配して猛烈に自転車を漕いでやって来たキタジマ。
ひとりメソメソ泣いてるんじゃないかと、大慌てであのボロ自転車でか
っ飛ばして来たというのに。

運動不足な不健康な身体は急激な負荷に悲鳴を上げ、息が切れてゼェゼ
ェ肩を上下させながらしかめっ面で一瞬リコを睨み、しかしちょっとだ
け安心した顔を向ける。
 
 
リコは尚もクスクス笑いながらチラっと目線をずらすと、ボロボロの自
転車の荷台にはちゃんと座布団が紐で括り付けられている。古いタイプ
のそれは、直接座ると錆びで衣服が汚れるだけでなく、きっとお尻が痛
くなり長い時間は腰掛けていられないと思えるもので。
 
 
我慢しきれずリコが声を出して笑った。
身体を屈めてよろけながら、愉しそうに嬉しそうに幸せそうに笑う。
 
 
 
  キタジマの優しさに、思いやりに、あたたかさに、

  全てに、心がまぁるく溶かされてゆく・・・
 
 
 
『さっさと乗れ。』 照れくさそうに目を眇めるキタジマに、リコは後
頭部をパコンと軽く叩かれた。

尚もケラケラと笑いながら、リコはキタジマの言葉にコクリと頷き従う。

その時、やっと真っ直ぐ目が合った。
まだ泣きはらした真っ赤な瞳のリコを、キタジマはやはり心配そうに眉
根をひそめて優しく見つめ返した。
 
  
  
キタジマの背中にもたれ掛かりながら、ギシギシと軋む古い自転車で夜
の街並をのんびり走り抜ける。

先程までひとりだった時は車道に響き渡る車の走行音がなんだか怖くて
心細かったのに、今キタジマの腰に腕をまわし痩せた背中に耳を付けて
寄り添うリコは心の底から安心することが出来ていた。
 
 
キタジマの心臓の音がトクン・トクンと小さく小さく耳の奥に響く。

なんだかそれはまるで ”大丈夫・大丈夫 ”と言われているみたいで、
やわらかくて心地良くて、ずっとこうして月夜の径をのんびり駆けてい
たくなる。
 
 
やはり、キタジマは何があったのか一切訊こうとはしない。
相変わらず口数が少なくて不器用なキタジマを、リコは心から愛おしく
思っていた。

この背中から伝わる微かな体温も、シャツから漂うタバコのにおいも、
たまにさり気なく後ろを振り返りリコを心配する姿も、全てが・・・
 
 
 
 『腹減ったなぁ・・・。』
 
 
 
キタジマがボソっと呟いた。
そして『ラーメン屋行くか?』とリコを振り返り、眩しそうに笑った。
 
  
 
 
 
久しぶりに駅前のラーメン屋へやって来た二人。

暖簾をくぐり店内へ入ると、店主が『おお!キタちゃん』と笑顔を見せ
た。そしてリコを見て嬉しそうにニッコリ微笑む店主。ちゃんとリコの
ことも覚えていたようだ。
 
 
二人はカウンター席へ座る。今回も他には客の姿はなく、相変わらず付
けっ放しのテレビを見ながら片手間に麺をゆで始めた店主に、リコは思
わず笑ってしまう。

キタジマは前回同様、黙って新聞を広げてリコのことなど気にしていな
い風だった。
 
 
しかし、リコはもう分かっていた。
二人で並んで座るのが照れ臭くて、新聞を広げ隠れているだけの事だっ
ていう事を。
 
 
リコが笑いを堪えながら言う。 『また財布なくさないで下さいよ?』
 
 
するとキタジマは新聞からチラっと目だけ出し、リコを睨んでまたすぐ
新聞へ戻っていった。
 
 
 
相変わらずの汚い店内。

テレビから流れる熱狂的な野球観戦の音声。ナイター中継に興奮する店
主のボヤキが小さく聴こえる。贔屓にしているチームはどうやら劣勢の
ようだ。
 
 
 
 『ありがとう・・・。』
 
 
 
リコはテレビの音声に紛れ小さく消え入るようなトーンで呟いた。
キタジマには、きっと、届いていないと思った。
 
 
すると・・・
 
 
 
 『もう大丈夫なのか・・・?』
 
 
 
新聞に隠れたままのキタジマが優しく返す。

それは泣きたくなるほど、あたたかくて切ない響きだった。
 
 
 

■第172話 テスト?

 
 
 
 『いらっしゃいませ~、

  お客様、店内でお召し上がりですか~?』
 
 
ニコニコととても愛想のいい店員の笑顔を、ナチは半笑いで見つめて
いた。どうしても緩んでしまう頬を必死にいなそうとするも、そっち
に意識がいくと今度は口元がふるふると震えてしまう。

一向に注文せずにニヤニヤと不気味にほくそ笑むナチにも、怪訝な顔
ひとつしないその店員の影に隠れてバックヤードから半分顔を出し、
アカリはムキになってナチへと眇めた険しい目で合図を送っていた。
 
  
 
それは、3日前のこと・・・
 
 
 
 『ええええ?! 年下の子からぁあああ~?!』 
 
 
 
ナチが飛び落ちそうな程に目を見開き、たった今聴こえたそれに真っ赤
な顔をしてたじろぐ。
 
 
 
 ”バイト先の年下が生意気にデートしようとか言ってきやがった ”
 
 
 
結局のところアカリの話を要約するとこの一言だったのだが、最初は慌
てて電話を掛けてきて、その時は『どうしよう、どうしよう』ばかりで
ナチには何が起こったのか全く理解出来なかった。

その為その翌日にアカリの部屋にわざわざ出向き、ナチはあの手この手
を使って話を聞き出しやっと事態を把握出来たのだった。
 
 
どうしてもニヤニヤ緩んでしまう頬を誤魔化しもせずに、ナチは厭らし
くじりじりとアカリに詰め寄る。

アカリは眉根をひそめ不機嫌そうに何やらブツブツ呟き、一向に要領を
得ない。こんなに歯切れの悪いアカリなんて珍しかった。
 
 
『ゼッタイなんか魂胆あるに決まってる・・・。』 無意味に指先で爪
を弾き口を尖らせ呟くアカリに、ナチは小首を傾げ呆気らかんと言う。
 
 
 
 『はっ??

  魂胆なんてないでしょ?
 
 
  ただ、アカリに興味があるってだけじゃない?』
 
 
 
すると更にアカリは怒り出した。

腰掛けていたベッドからガバっと立ち上がったかと思うと、再び乱暴に
腰を下ろす。照れくさいのと恥ずかしいのと、あんな行動に出たヒナタ
に頭に来るのとで長い手足をジタバタと動かし暴れて。
 
 
  
 『ムカつくっ! ムカつくムカつくぅぅうう!!!』
 
 
 
 
 
 
それなら一度どんな子か偵察してみようという事で、ナチは今、アカリ
のバイト先に鼻息も荒く肩で風を切って馳せ参じていたのだった。
  
 
 
 (すっごく感じはいい・・・

  でも、ただの表面上の営業スマイルかも・・・。)
 
 
 
最初はただ単に面白がっていただけだったが、次第に目の前のヒナタの
感じの善さを本当に疑いはじめたナチは、ヒナタに無茶な注文をして様
子を見る。

しかし、次々と笑顔とスマートな対応でクリアしてゆくヒナタ。

ナチも半ば意地になって決して諦めない。影に隠れてその様子を伺うア
カリも真剣そのもの。仕事も放置して、穴が開きそうなくらいにカウン
ターでの二人の遣り取りを凝視している。
 
 
 
 『ねぇ。

  おたくの背だけ馬鹿デカい、アノ小生意気な店員。

  すっごい感じ悪くない~? あんなのさっさとクビにしたら??』
 
 
 
ナチの最終攻撃に、アカリが思わず舌打ちを打ってバックヤードから半
身出て来かけた。クレーム演技を通り越して本当に思ってる事を言って
いるだけのような、ナチのそれ。
 
 
すると、
 
 
 
 『それは、大変申し訳ありませんでした。

  お客様に不快な思いをさせてしまったのでしたら、

  しっかりと指導いたします。
 
 
  まだ、入ったばかりの新人でして・・・
 
 
  でも、彼女なりに一生懸命頑張っているところですので・・・

  どうぞお客様、是非ともまたいらして下さい。
 
 
  必ずいい店員になっているはずですので。』
 
 
 
その流暢な言葉に、ナチがポカンと口を開けてヒナタを見つめた。

チラっと視線をずらしヒナタの肩越しに後方を見ると、後ろのアカリが
赤くなって照れ臭そうに不機嫌顔をし、バックヤードの奥に隠れる。 
  
 
 
 『アナタ、最高じゃないっ!!!』
 
 
 
ナチがいきなり、カウンターを乗り越える勢いで身を乗り出しヒナタの
手を掴んだ。そしてブンブン振り回しながら、『合格!合格!』と何度
も何度も繰り返した。

目を白黒させ、されるがまま訳が分からないヒナタだった・・・
  
  
  
 
その夜の、バイト後のいつもの反省会。
 
 
ヒナタは今日来た変な客のことを笑いながらアカリに話して聞かせる。
アカリはずっとむっつりと黙り込んだまま俯いていた。
 
あまりに愉しそうにイキイキと話すヒナタに、アカリは腹が立って思
わずチクリと嫌味を言った。
 
 
 
 『・・・ってゆうか。

  随分、口がうまいんじゃん?

  変なクレームにもテキトーな嘘ですぐ切り返して・・・。』
 
 
 
しかし、ヒナタは一瞬キョトンとして、その刹那無邪気に笑う。
 
 
 
 『ん~?

  ・・・別に、本当の事じゃないですかー。』
 
  
 
そして、再び嬉しそうにニコニコ笑ってアカリに問い掛ける。
 
 
 
 『そんな事より。 ・・・デートの返事は?』
 
 
 
アカリが思い切りしかめ面をして、尚も不機嫌になった。
 
 
 

■第173話 OK?

 
 
 
相変わらずヒナタは、毎日毎日めげずにアカリを誘う。

雨の日も、風の日も、アカリが不機嫌な日も、無視する日も、鬼の形相
で睨み付ける日も、何処吹く風と全く気にせずに。
 
 
  
バイトの休憩中にアカリにドリンクを渡しながら、『で? 返事は?』

店長に叱られたアカリを上手にフォローしながら、『で? 返事は?』

バイト終わりの反省会でニコニコ笑いながら、 『で? 返・・・』
  
 
 
 『うるっっっさいわねっ! 分かったわよ、分かったわよ!!

  行きゃぁああいいんでしょ、行きゃぁああ!!』
 
 
 
遂にアカリが折れた。
こんなに素っ気なく冷酷に断っても蔑んでもめげない人なんて初めてで、
もうどうしていいか分からないというのが本音だった。
 
 
その最高潮に機嫌が悪いアカリの引き攣った顔を盗み見てイヒヒと笑い、
ヒナタが満足気にゴソゴソとカバンからケータイを取り出した。
そして可笑しくて堪らない感じで頬を緩めながら画面を開く。

アカリは舌打ちを打つ勢いで、それをただ頬を歪めて睨んでいた。
 
 
 
暫し、そのケータイをただただ見つめる二人の間に謎の沈黙が流れ・・・
 
 
 
『番号、番号!』 と相変わらずの笑顔で連絡先をねだったヒナタ。
  
 
アカリはやっとそこでヒナタが連絡先交換をする為にケータイを差し出し
ていた事に気付くも、照れくさくてイライラして思い切り理不尽に怒鳴る。
 
 
 
 『・・・そ、そんなの自分で考えなさいよっ!!』
  
 
 
ここ最近マリアナ海溝よろしく刻まれているアカリの眉間のシワが、増々
深く深く刻まれる。ヒナタに向け上げた大声が店の駐車場に反響しバイト
終わりのスタッフが居た堪れない苦い顔をして足早に帰ってゆく。
 
 
ヒナタは、そのアカリの意味不明な絶叫に一瞬固まり、そしてまじまじと
穴が開くほど見つめた。

そして、声をあげて笑った。涙を流しながら身体を屈め、よろけながら息
苦しそうに笑い転げている。
  
 
 
 『自分で考えろって・・・

  番号が偶然ヒットするまで、

  何億通り考えなきゃダメなんですか・・・。』
  
 
 
尚も笑い続けているヒナタ。

あまり背は高いとはいえないが適度に筋肉がついたしなやかな身体で、
健康的に日焼けしたその顔で、つぶらな目を楽しそうに細めて、大口開
けて笑うその口元には片方だけ八重歯が覗いて。
 
 
本当に純粋に楽しそうに笑う。

アカリはそんなヒナタを横目で睨むも、なんだかつられてちょっと笑いそ
うになって思わず咳払いをして堪えた。
 
 
そして、『死ぬまで笑ってろっ!!』と吐き捨てて家路へ向かって歩き出
した。アカリが履くミュールの高いヒールが、アスファルトをカツカツと
踏みしめる音が夜空に響いている。不機嫌そうに足早に歩きながら、長い
髪の毛をそのリズムに乱暴に躍らせながらも、背後に置いて来たヒナタの
ことを考えていた。しかめていた顔は次第にどこか心許ないそれに変わる。
 
 
 
 
 (また、振り返ったら・・・。)
  
 
 
 
そう考えて、アカリは今夜は振り返らなかった。

きっと振り返ったなら、ヒナタはまた手を振ってニコニコ笑ってこっちを
見ているはずだから・・・
 
 
アカリは不本意ながら頭の中を占領するヒナタをなんとか追い出そうと、
目をぎゅっとつぶりかぶりを振った。
 
なんだか胸の奥の奥の、みぞおちの更に奥の、深い部分に違和感がある。
モヤモヤというか、チクチクというか、ムズムズというか。
 
 
どうしようもなく居心地が悪くて落ち着かなくて、アカリはナチへライン
をしながら夜道を歩いた。
  
 
 
  ’アイツ、やっぱムカつく。 ’
 
 
 
すると、
 
 
 
  ’アイツって? ’
 
 
 
ナチは重々承知しているくせに、わざとスッ呆けて訊き返す。
 
  
 
  ’バイト先のアイツだよ!!

   超ムカつくんだけど。意味わかんないし。 ’
 
 
 
アカリの怒りは収まることを知らない。
 
 
 
  ’ああ、アカリにゾッコンの高校生君ね?(笑)’
 
 
 
ナチは尚もアカリをからかう。ケータイを見つめるその顔はニヤニヤと
厭らしく緩み、背中を丸めてクククと笑いながら。

すると、思い切りからかわれてる事に気付き、アカリのボルテージは一
気に急上昇。通りで立ち止まりその場で一人地団駄を踏んで悔しがった。
 
 
 
 『ぁぁぁぁあああああああああああああああ!!!!!!!!』
 
 
 
 
 
 『ぉ。おかえ・・・』
 
 
『うるっっっさいっ!!!』 またもやリュータの ”おかえり ”は空
振りとなり、虚しくリビングにこぼれ落ちる。
 
 
アカリは乱暴に自室のドアをバタンと音を立てて閉め、ベットに倒れこ
んで顔を突っ伏しため息をついた。
 
 
 

■第174話 お兄ちゃんは心配性

 
 
『最近、アカリからなんか訊いてっか?』 リュータがなにか考えあぐね
るような怪訝な顔をして、真剣な声色でにナチに訊いた。
 
 
アカリ不在のリュータ兄妹のアパートのリビング。

リュータはソファーにゴロンと寝転がり、ナチは床のラグにペタンコ座り
をしてリュータに背中をもたれている。付けっ放しの然程興味も無いテレ
ビ番組をなんとなく見ているリュータと、リュータの部屋から持ってきた
少年漫画を読みふけっているナチ。互いに別々の事をしなにも喋らない時
間にも安らぎを感じる程、二人でいる事が自然なことになっていた。
 
 
 
 『なんか、アイツ・・・

  バイトが入ってる日は、すげー機嫌悪くてさ・・・

  マトモに口もきかずに部屋に閉じこもるんだよ・・・
 
 
  バイト先でうまくいってないのかな?』
 
 
 
そう呟いて仰向けに寝そべっていた体勢から、片肘を付いて横向き寝に
なった。ナチに問い掛けてるくせにその返事も待たずに、ブツブツと一
人で延々呟き続ける、妹アカリを心配して頭を抱え込む兄の顔をナチは
真っ直ぐ見ることが出来なかった。

リュータを振り返ることもせず、下を向き漫画本で顔を隠して決してそ
の表情を見せないナチ。その小さな肩はなんだか心許なく微かに震えて。
 
 
それに気付いたリュータが、そっとナチの肩に手をおいた。
そしてポンポンと優しくバウンドして、なだめるように囁く。
  
 
 
 『ナチ・・・

  大丈夫だって、きっと心配することな・・・』
  
 
 
『ぶはははははっ!!!』 リュータの言葉を遮り、ナチが我慢しきれ
なくなってふんぞり返って吹き出し笑った。腹を抱えてラグに突っ伏し
て涙を流しながら笑い続けている。

その様子を、なにがなんだか分からずポカンと見ているリュータ。
 
 
そして、事態を呑み込んだ所でナチの頭を思いっきり漫画で殴った。
  
 
 
 『なに笑ってんだよっ?!

  こっちが真剣に心配して言ってんのによぉ!!』
 
 
 
ナチはなんとか笑いを堪えながら、どうしても緩んでしまう顔をいなし
『ごめんごめん』と謝る。しかし中々ニヤニヤは止まらない。俯いて両
手で口元を隠し無意味に咳払いを繰り返すも、その手の奥の口元はやは
り笑いを堪え切れずにふるふると震える。
 
 
リュータは横寝の体勢から起き上がってソファーに腰掛け、ナチの顔を
まじまじと凝視した。なにかを探るように、細く目を眇めて。
  
 
 
 『お前・・・

  ・・・なんか知ってんだな・・・?』
  
 
 
そう低く呟くと、リュータはナチに飛びつき体をくすぐり始めた。
指10本を滑らかに蠢かし、ナチの脇腹を上に下にと刺激しまくる。
 
 
 
 『やめてっ! やめてーー!!!

  やぁぁぁぁぁぁああああああああああああ!!!』 
 
 
 
ナチは体をよじらせ、手を伸ばしてリュータを押しのけ必死に抵抗する。

くすぐられて苦しそうに笑っている隙間で、やはりリュータの兄馬鹿っ
ぷりが可笑しくて、笑いながらも悲鳴を上げ感情はごちゃ混ぜで。 
 
 
 
 (高校生君の事バラしたら、アカリに殺される・・・。)
  
 
 
ナチは必死に抵抗を試みるもリュータの男の力に逆らう事は出来ず、仕
舞いにはラグに仰向けに倒され両手を掴まれて、もう完全に身動きがと
れなくなっていた。
  
 
 
 『早く吐けっ! この裏切り者めっ!!』
  
 
 
それでもナチは口を固くつぐみ、首を横に振ってリュータに口を割ろう
としない。暫し目を逸らさずに睨み合うも、両者一歩も譲らず。

すると、リュータはナチの一貫した強情さに白旗を揚げ、掴んでいた手
を離し引っ張って起き上がらせる。
 
 
ナチは自らの勝利を確信し負けん気の強い笑みを小さくこぼすも、ふと
リュータに掴まれていた手首を見ると、少し赤くなってジリジリと熱を
持っていた。
ナチがその痛む部分を他方の手でさすり、手首を返してじっと見つめる。
 
 
それに気付いたリュータが少し慌てて『ぁ、ごめん・・・。』と小さく
謝った。まだらに赤くなったその細い手首を恐る恐る掴んで、優しく優
しく撫でて、機嫌を伺うようにナチの顔を覗き込む。

そして、ナチの頭にチュっとキスをした。
 
 
リュータは体育座りの体勢でナチの背後から抱きつき、首のあたりに顔を
うずめて『ごめんな。』とまた謝る。

ちょっと赤くなっただけなのに、やけに大仰に反省して落ち込んでいるリ
ュータが可笑しくて可笑しくて、ナチは思わずやわらかく微笑んだ。
 
 
そして、イタズラっ子のような顔で口を尖らせ体を後方へ仰け反りリュー
タを睨む。
 
  
 
 『痕が残ったら、もうお嫁に行けないかもー!!』
 
 
 
そう言ってわざと大袈裟に目を眇めるナチに、リュータはさも当たり前の
ようにサラっと言った。
 
 
 
 『ヨソん家には行かなきゃいーんじゃん?』
 
 
 

■第175話 ペース

 
 
 
 『いらっしゃいマセ・・・ 店内でお召し上がりデスか・・・。』
  
 
アカリがブツブツと不貞腐れたように不明瞭に呟く。
 
 
それを横に立ち見ているヒナタ。

以前よりは棒読み感はなくなり、若干良くなった気がしないでもない。
多少の抑揚は出てきた。しかし、照れくささが出てしまうのか俯き加減
でまだ全く笑顔が無い。
 
 
どうしたもんかと胸の前で腕を組み首を傾げるヒナタを、アカリは横目
でジロリと睨みながら今日も相変わらずイライラしていた。
 
 
ヒナタといると完全にペースを崩す。
アカリはいつも誰とでも自分のペースに巻き込んで、自分のホームで好き
勝手に暴れるタイプだった。

しかし、ヒナタはアカリの攻撃も追撃も嫌味のない笑顔でサラリと交わす。
否。それはむしろ交わすというよりはきちんとアカリの感情は受け止め、
しかし停滞させずに巧く流すことが出来るのだ。しかもアカリの人一倍繊
細な自尊心を傷つける事なく、陽だまりの様なやわらかい笑顔で・・・
 
 
それが、増々アカリは気に入らなかった。
なんとかヒナタの欠点を見つけ出してやろうと、血眼になっていた。
 
 
 
とある休憩時間。

アカリはバックヤードの壁にもたれて、一人でドリンクを飲んでいた。
休憩室もきちんと用意されてはいるが、他のバイト仲間とつるむ気など更
々ないし別段しゃべる事も無い。一人でいる方がずっと気楽だった。
 
 
すると、少し開いた休憩室のドアの奥から複数人の笑い声が流れて来た。

そちらへ目を向けふと見ると、ドアの隙間からヒナタがバイト仲間と楽し
そうにしゃべって笑っている。それはいつものあの屈託のない笑顔、人懐
こい話し方、耳触りのよいアルトの声。

アカリに話しかける時と同じそれで・・・
 
 
 
  (なによ・・・

   誰にでも ”イイ顔 ”してんじゃん・・・。)
 
 
 
アカリは苛ついたように顔を歪め背けると、掴んでいた紙コップをグシャ
と握りつぶしてゴミ箱へ乱暴に投げ入れた。
 
 
  
  
 
 
その日のバイト終わり。

いつも何故かヒナタと駐車場で少し立ち話をしてから帰るのが恒例になっ
ていたが、アカリはさっさとカバンを持つと足早に家路へ向けて歩き出し
ていた。
 
 
その直後、背後で裏口が開きヒナタの『お先に失礼しま~す!』と元気よ
く挨拶する声が微かに聞こえた。

しかし、アカリはカツカツと硬くヒールの音を響かせ早足で歩く。
ヒナタの顔を見ると腹が立って仕方がない。あの笑っている顔も、声も、
仕草も全てアカリの感情を逆なでし、いとも簡単に平常心を奪ってゆく。
 
 
気が付くと、アカリは走り出していた。

大きく腕を振り長い髪の毛を振り乱し、とにかく1歩でも遠くへヒナタか
ら遠くへ離れたかった。しかめっ面で眉根をひそめ、アカリは全速力で逃
げるように走る。
 
 
息が苦しい。
心臓が破裂しそうにバクバクと早鐘を打つ。
全速力で走ったのなんか数年ぶりで、脚はもつれミュールの踵は靴擦れし
たのだろう、ピリピリと痛みを発していた。
 
 
すると、後ろから突然腕をぐっと掴まれた・・・
 
 
アカリが息を呑み驚き振り返ると、ゼェゼェと息を切らしたヒナタがアカ
リの細い二の腕を掴んでいる。

『な~んで反省会しないんですかー?』 と苦しそうに顔を歪めながら。
 
 
そして、
 
 
 
 『言っときますけど、

  僕、陸上やってたんで足速いですよー。』
 
 
 
といつもの屈託のない笑顔で笑って。
 
 
アカリは目を見張ってそんなヒナタを見つめる。

しかしその刹那、鋭く目を眇めて頬を引き攣らせ、ヒナタに掴まれたまま
の腕を乱暴に振り解いた。
 
 
 
 『なんなのよ、アンタ・・・。』
 
 
 
低く唸るようにアカリは吐き捨てる。
何故か憎らしくなっていた。無性にヒナタのこの笑顔に腹が立つ。
 
 
 
  (誰にだって優しいくせに・・・

   誰にだって、そうやって笑うくせに・・・。)
 
 
 
 
 『私に構わないでよっ! なんなのよっ!!』 
 
 
 
アカリは道の真ん中で、顔を真っ赤に染めて怒鳴った。

車のヘッドライトが全身で怒りを露わにするアカリと、呆然と立ち尽く
すヒナタ二人を照らしては通り過ぎてゆく。街灯の灯りにぼんやりと伸
びた影も気まずい居心地悪いその空気を感じているように霞んで滲む。
 
 
 
 
   怒鳴ってしまった・・・
 
 
 
 
これでヒナタは背中を向けて帰ってゆくはずだった。

他の人のように、アカリの傍若無人さに呆れ付き合いきれなくて離れて
ゆくと。これでいいんだとアカリは俯いたままミュールの爪先を見つめ
ていた。自分の喉から出た怒鳴り声がなんだか頭の中でいつまでもリフ
レインする。それは ”怒り ”よりも ”怯え ”が強い、震えたそれで。
 
 
しかし、ヒナタは小首を傾げニコニコ笑って言った。
 
 
 
 『そんなの、

  アカリさんと仲良くなりたいからに決まってるじゃないですかー。』
  
 
 
その一言は、アカリの頭の先から足の先まで稲妻のように一気に貫いた。
呼吸も出来ない。一切の思考能力をなくして、微動だに出来ない。
 
 
アカリはただただヒナタを見ていた。
瞬きもせず、ただ呆然と。
 
 
周りの空気や音、全てが一瞬止まったように思えた・・・
 
 
 

■第176話 手放したくない温もり

 
 
 
キタジマは薄暗い教室でひとり、あの日コースケに言われた言葉を思い返
していた。
 
 
『卑怯、か・・・。』 口に出して呟いてみる。

猫背の痩せた背中が弓矢のように更に丸くなり、どこか自分に向け嘲るよ
うに小さな嗤いがこぼれ落ちた。
そのたった2文字には憎しみや軽蔑や怒りが詰まっていて、キタジマの心
に重く圧し掛かった。
  
 
 
最初は、亡き妻になんとなく似ている気がした。

次第に距離が近くなるにつれ、その感覚はどんどんスピードを上げて増し
ていった。もしかしたら妻本人なんじゃないかと思うほど、笑い方や言葉
の選び方、仕草、口をつぐみ黙る時の間が・・・
リコの中には妻ミホが存在しているんじゃないかと思うほどだった。
 
 
しかし、そう思えば思うほど比例して積もるのは罪悪感だった。
 
 
リコの好意には気付いていた。自分もリコを愛おしく思っていた。

でもそれは、リコを通して妻ミホを見ているだけなのかもしれない。
愛おしいのは、求めるのは、リコではないのかも・・・
 
 
日々、自問自答した。

リコを傷つけたくはない。泣かせたくなどない。このまま、うやむやなま
ま傍にいていいのか。時が経てばミホの残像は消えるのか。
 
 
悩みながら苦しみながらも、一人でいたくなかった。
不器用でぶっきら棒な自分の傍には、明るくあたたかく照らしてくれるリ
コが必要だった。

否、”必要 ”なんじゃない。
 
 
 
   ただ、傍にいてほしかったのだ・・・
  
  
  
昔は一人でいる事になんの不自由も寂しさも感じなかった。
むしろ、気楽でその方がいいとさえ思っていた。
  
 
しかし、それはある日突然、目の前に現れた。
  
 
眩しくて目がくらむような感覚。毛布でくるまれるような懐かしい温かさ。
交わす言葉に胸が躍り、何も語らない時間に安らぎを感じた。
触れ合った指先のぬくもりに頬は熱くなり、抱きしめた身体の心許なさに
強くあらねばと誓った。
  
 
 
 
   ・・・永遠に、続くと思っていた。
  
 
 
 
一度温かさを知った人間は、それが無くなった時には以前とは比べ物にな
らないほど凍え震える。

一人が辛く寂しくなる。こんな事なら最初からずっと一人でいれば良かっ
たと思うほど。
 
 
ミホを失って一度凍りついたキタジマの心は、もう凍えたくないと叫んで
いた。やわらかく包んでくれるあの温もりをもう二度と手放したくないと。
  
 
自分の弱さ、ずるさを嫌というほど感じていた。

そんな自分に自己嫌悪になりつつも、どうしても手を離したくなかった。
どうしてもリコに隣で笑っていてほしかった。
 
 
 
 
 
そっとジーンズの尻ポケットからケータイを取り出した。
そして、ゆっくりと親指でその登録先を指定しボタンを押す。
 
 
静かに耳の奥に響くコール音。それは4回目に繋がった。
  
 
 
 『キタジマさん・・・?』
  
 
 
やわらかな声色に、自分でも驚くくらい胸が高鳴っていた・・・
 
 
 

■第177話 はしゃぐ顔

 
 
 
 『明日・・・ どっか行かないか・・・?』
 
 
夜更けの静かな教室でひとりキャンバスに向き合ったまま、キタジマは耳に当
てたケータイで言葉少なに語りかけた。途中途中で、何かを考え込んで言葉を
探し何か言いかけてまた言葉を呑む。
 
 
決して居心地は悪くない、どこかくすぐったい ”間 ”が二人に流れていた。
 
 
明日は午後から講義が入っていない話を、事前にリコから聞いていたのだった。

リコはキタジマから電話が貰えるだけでも充分嬉しいのに、”どこか行こう ”
なんて言われて、驚き舞い上がってイスから慌てて立ち上がる。電話越しにで
も喜び微笑んでいる様子が息遣いで伝わった。
  
 
 
 『えっ?! ほんとに??

  行きたい!! 行きます!!

  どこ行きますっ?! 行きたいトコあるんですか??』 
 
 
 
嬉しくて嬉しくて興奮し、はしゃぐ様子を隠そうともしないリコ。
普段のんびりした口調で話すくせに、今はやたらと早口で矢継ぎ早なそれ。

つられてキタジマも自然に顔はほころんだ。手の甲で口元を隠し背中を丸めて
照れくさそうに頬を緩める。
耳の奥に響くリコの嬉しそうなソプラノの声音が、寄せては返す波のように。
 
 
少し話をして、『おやすみ』と電話を切った。

本当はまだまだ電話を切りたくなくて、ずっと話をしていたくて、声を聴いて
いたくて、そんな4文字の挨拶はしたくない。

否。本当は電話じゃなくて直接顔を見たくて、細い指先に触れたくて、華奢な
背中を抱き寄せたくて。

決してリコ本人には伝えられないそんな想いを胸に、キタジマは通話が終了し
たケータイを掴んだまま、尚も照れくさそうに俯いて微笑んでいた。
 
 
そして、ゆっくり顔を上げると目の前のキャンバスを見つめる。
 
 
 
   そこには、優しく微笑む黒髪の女性の肖像画があった。
 
  
 
 
 
   
翌日、午前の講義を終えるとリコは駆け足でキタジマの元へ向かった。

その日の講義など全く頭には入らなかった。朝からソワソワと浮足立ち左手首
に付けた腕時計ばかりに目を落とす。そんな時に限って中々時間は過ぎてはく
れず、リコの口からは小さな溜息ばかりがこぼれて落ちた。
 
 
勢いよくいつもの空き教室ドアを開けると、キタジマはいつも通り咥えタバコ
で絵筆を握っている。しかしその顔は笑いを堪えるような、ぎこちないそれ。

遠く廊下の向こうからリコが大慌てで駆けて来る足音が、キタジマの耳にもし
っかり響いていて、可笑しくて可笑しくて勝手に頬は緩んだ。
 
 
『順調ですか?』 リコが少し息を切らせてキャンバスを覗き込む。

そこには、キタジマが最近ずっと時間を費やしているやわらかい風景画が着々
と完成に向かっていた。
 
 
 
 『・・・キタジマさんて、風景しか描かないんですね~?』
  
 
 
リコの無垢な一言に、キタジマの頬が一瞬引き攣りそっと目を逸らした。
 
  
 
 
 
二人で並んで昼下がりの大学の並木道を歩く。

太陽はてっぺんに鎮座しギラギラと光を差し込むも、通りの両サイドにある大
きなケヤキの枝ぶりの良い葉が丁度よく木漏れ日を作ってくれた。
リコ同様、午後の講義がない学生が気が抜けたようにのんびりと帰宅する姿が
チラホラと見える。
 
 
『どこ行くか決めました?』 リコはキタジマを覗き込むように見つめる。

その真っ直ぐな視線から照れくさそうに目を逸らし暫く考え込むと、キタジマ
は一人で納得するように一つコクリと頷いた。 『駅に行こう。』
 
 
駅の切符購入窓口でキタジマが二人分の切符を買った。そして、無言で1枚を
リコに渡す。

駅員に告げていた行先を聴き、リコの顔は目を見張りパっと明るくなっていた。
その喜ぶ顔を横目でチラっと盗み見たキタジマ。一緒に浮かれそうになる自分
を必死で堪え、こっそり顔を伏せて微笑んだ。
 
 
駅構内の小さな売店で、弁当と飲み物を買って電車に乗り込む二人。

指定席なのだから慌てる必要もないのに、リコはキタジマの腕を引っ張りせっ
かちに『早く早く!』と笑みをこぼし急かした。
 
 
平日の昼間なだけあって、乗客はそう多くはない。
リコはいち早く窓側を陣取り、隣の通路側にはキタジマが座った。
 
 
すると、乗車早々リコが膝の上にお弁当を乗せ、ゴソゴソと広げ始めた。

キタジマが少し呆れて肩をすくめ笑いながら、そんなリコを見て言う。
『そんなに腹減ってたの?』
 
 
『キタジマさん空いてないんですかー?』 笑われて照れくさそうに口を尖ら
せ眉根をひそめて割り箸をキタジマに渡しながらも、リコの表情はめまぐるし
くクルクルと変わる。
 
 
 
 『だって、なにより・・・ すっごい嬉しいんだもんっ!!』
 
 
 
静かに動き出した電車の、窓から入ってくる心地よい風に黒髪をそよがせて
リコが眩しそうに目を細め笑って言った。
 
 
 
 (だって、嬉しいのよっ!!) 
 
 
 
よくそう言ってはしゃいでいた懐かしい顔が、キタジマの頭をかすめた・・・
 
 
 

■第178話 フラッシュバック

 
 
 
2時間ほどのんびりと電車に揺られ、目的地に到着した二人。
キタジマとリコ以外は、誰も下車する人はいなかった。
 
 
電車を降りた途端、磯のにおいが漂ってくる。

目の前は一面の海。海水浴シーズンが過ぎた夏の終わりの海はひと気もなく
静まり返って、聴こえてくるのは寂しげな波の音と海猫の鳴き声だけだった。
 
 
寂れた無人駅をくぐり抜け車道に出て、海沿いの何もない道を少し歩く。
人の姿どころか車も殆ど通らなくて、なんだかこの景色をふたり占めしてい
るみたいで、折角の穏やかな晩夏の海が勿体ないとすら感じてしまう。

丁度歩く先に見えてきた小さな個人商店で飲み物でも買おうと暖簾を潜った。
 
 
『ごめんくださ~い!』とリコが声を張り上げるも、店の人間は店続きの自
宅の方でテレビを観ているようで中々出て来はしない。何度か呼び掛けた末
やっと出て来た店の店主であるふくよかなおばさんは、謝りながらも愛想よ
く笑った。
 
 
 
 『これから海かい?

  天気崩れそうだから、気をつけるんだよ。』
 
 
 
そう言われ振り返って軒先の隙間から空を見上げるリコ。しかし青空で陽も
差していて、天気が悪くなるなんて思えなかった。
 
 
店から向かい側の道路へ渡り、簡易の小さな梯子を伝って下へおりる。
そこはもう砂浜。海だ。
 
 
サンダルで歩く砂浜は足をとられ歩きにくくてリコは顔をしかめる。

『裸足の方がいいぞ。』 キタジマがくたびれた突っ掛けを脱いで、それを片
手に持った。ひとつ頷いてリコも片足ずつサンダルのバックルをはずし脱ごう
として、バランスを崩しよろけた。

すると、そのリコの手をすかさずキタジマが掴む。大きくてゴツゴツしたキタ
ジマの手。何度触れてもいつも同じように、リコの胸をギュっとこそばゆくす
るその手。ふと互いに目が合って、そっと微笑み合った。
 
 
そこはあまりキレイとは言えない砂浜だったが、ただキタジマと一緒にいられ
るだけでリコには充分すぎるほど満足だった。

波打ち際ギリギリで波をよけて遊ぶうちに、気付けばしっかり濡れてしまった
爪先。意を決して膝下まで水に入ったリコ。夏の終わりの海は、少し水温も低
くなっていたがそれが丁度気持ち良かった。
足先で砂の中を掘ると小さな貝殻が出て来て、リコは子供のようにはしゃいだ。
 
 
それを砂浜に腰をおろして見つめるキタジマ。
目を細め微笑んで、陽に照らされ輝くその姿をただじっと見つめている。
  
 
胸に込み上げるあたたかいものに、そっと目をつぶると懐かしい風景がフラッ
シュバックした・・・
 
 
 
波打ち際で遊ぶうち、砂にめり込んでいたガラス片で指を切った彼女。

しかめっ面で指先を押さえ、砂浜に座るキタジマの元へ駆け寄る。
眉根をひそめたまま無言で赤く染まる人差し指をキタジマに差し出して来る。

そっとハンカチを取り出しその指をおさえてあげると、彼女は嬉しそうにニコ
っと微笑んで言った。 
 
 
 
   『シュン、優しいね・・・。』
 
  
 
そんな昔の事を思い出し、ゆっくり目を開けるとリコが真っ直ぐキタジマを見
つめていた。
 
 
『寝ちゃったのかと思った・・・。』 そう言って、ホっとした顔を向ける。
 
 
そして、少し怒ったようにキタジマに呟くリコ。

『ガラス・・・ ちょっと切っちゃった・・・。』 リコの人差し指が小さく
血で滲んでいる。
 
 
キタジマは何も言えずに、呼吸を止めてただその赤く染まる指を見つめた・・・
 
 
 

■第179話 雨宿り

 
 
 
キタジマは、赤く滲むリコの人差し指を目を見張り見つめる。

一気に心臓が異常なほどに早く胸を打つ。全身が心臓になったのではないかと
思うほどバクバクと爆音が響き、息苦しさすら感じるくらいだった。
 
 
暫し呆然とそれを見つめ、しずしずと震える手でポケットからハンカチを出す
と恐る恐るリコの指先を包む。
そして怯えるようにゆっくりと目を上げると、リコが嬉しそうに小さく微笑ん
でいた。
 
 
 
   (シュン、優しいね・・・。) 
 
 
 
ミホの声が、頭の中で木霊する。

ミホが眩しそうに微笑んで、ミホが愛おしそうに目を細めて、ミホが嬉しそう
に小首を傾げて。ミホが・・・ ミホが・・・。
 
 
苦しそうに俯きギュっときつく目をつぶって、キタジマは唇を噛み締めた。
そして、咄嗟にキタジマは空を指さしてやけに早口で言った。
  
 
 
 『・・・ほ、本当に降るのかな? 天気いいのにな・・・?』
 
 
 
リコがもし、万が一『優しいね』と口にしたらと思うと、キタジマは居ても
立ってもいられなかった。
 
 
リコが、妻ミホと重なる。
そんな事したくなどないのに、どうしても重なって見えてしまう。
 
 
苦しかった。
苦しくて苦しくて胸がつぶれそうだった。
 
 
ミホを忘れたりなんかするつもりはないが、こんな風に誰かに重ねていつま
でも胸にとどめておくなんて間違っている。
それはきっと、己の弱さやずるさや小ささが生みだしたものだと自分が一番
分かっているのだ。

そんな自己嫌悪と自己保身の間でどうしようもなく悩み苦しんでいた。
 
  
その時、
 
 
 
 『ぁ・・・ 降ってきた・・・。』
 
 
 
リコが空に向けて手を伸ばし広げた。

その手の平に細かな雨粒のくすぐったい感覚。辺りからは、ほんのり雨のにお
いが立ち込め、湿度の高さと共に体にまとわり付いた。
 
 
二人は慌てて砂浜から抜け出し駆けた。互いに片手には靴をつかんだままで。

簡易梯子をのぼり道路を渡って、裸足のまま先程の商店の軒先に逃げ込む。
次第に強まってゆく雨脚にふたり困り顔を向け合うと、ここで少し雨宿りさせ
てもらおうと互いに目で合図し合った。

軒先に置かれている企業名が書かれたレトロなベンチに勝手に座り、足に付い
た砂をはらう二人。足を前に投げ出すと丁度雨粒が砂を洗い流してくれる。
足だけシャワーのような雨に打たれ、互いに顔を見合わせて笑った。
 
 
すると、『やっぱり降ったねぇ?』 店のおばさんが奥から出てきた。
勝手に雨宿りさせてもらってる事を詫びると、おばさんは笑顔で首を振る。
 
 
『中に入って休んで行きなさい。』 おばさんが人懐こい笑顔でリコの手を引
く。海水浴シーズンが終わった海辺の雨天の商店は誰も客が来る気配はなくて、
店続きになっているおばさんの自宅テレビのワイドショーの音声と、更に雨脚
が強まるその雫音だけが辺りを包んでいた。
 
 
おばさんがなんだか上機嫌に鼻歌を歌いながら、ポットから急須にお湯を注ぎ
お茶を淹れてくれた。
二人は申し訳なさそうに背中を丸め、お礼を言ってお茶を戴く。少し濃い目の
それに何故かほっとする。
 
 
すると、『可愛い彼女だねぇ?』 おばさんがニコニコと微笑みながらキタジ
マに言った。リコの方へもう一度目をやり、やわらかく頬を緩めて。
 
 
その瞬間、キタジマとリコとおばさん、三人の間に一瞬の ”間 ”が生じる。
 
 
”彼女 ”という響きに、思わずリコがキタジマの方へそっと視線を向けた。
キタジマは肯定するのか・・・ または、その逆なのか・・・。
 
 
キタジマは勿論、リコでさえ ”好き ”という言葉を告げたことは無かった。
自分の存在は相手のなんなのか、確認しあった事など今まで一度も・・・。
  
 
思わず、咄嗟にリコがうわずる声で話題を変えた。

キタジマの反応が、怖かった・・・
 
 
 

■第180話 ほのかなぬくもり

 
 
 
乗り込んだ夕方の電車は丁度帰宅時間なこともあり乗客も多く、席は確保出来た
ものの往路のようにゆったりのんびりとはいかなかった。

しかし、それに内心ホっとしていた二人。
 
 
ひと気もなく静かな車内だったら、先程の ”彼女 ”という言葉に対する答えを
確かめてしまいそうになる。自分の中の答えと、相手のそれと。相手にとっての
自分のポジションの、答え合わせをしてしまいそうに・・・。
 
 
知るのが怖くて仕方ないくせに。
聞きたくないけれど、でも本当は聞きたい・・・。
 
 
二人は並んで座っていた。一言も発せずに、目を逸らしたまま。

しかし無言のそれが気にならないくらい、車内は帰路に向かっているであろう乗
客の声で騒がしかった。
  
 
 
 (あの時、話題を変えなかったら

  キタジマさんは、なんて返事してたんだろ・・・。)
 
 
 
いくら気にならないフリをしていたって、やはりそればかりが頭をグルグル巡る
リコ。 ”もしあの時 ” ”もしあの時 ”と過ぎた時間ばかりを思い返す。

そして同じように、決して口にも表情にも出さないがキタジマもずっと先程のそ
れのことを考えていた。
 
 
 
 (あの時、なんでちゃんと肯定できなかったんだろう・・・。)
 
  
 
まるで何もなかったかのように振舞う二人は、騒がしい電車の中で静かに窓の外
を見ていた。互いの胸の内など気付けるはずもなく、ただひたすら平静を装って。

四角い窓の向こうに広がる橙色の夕焼けがキレイだったけれど、ぼんやりと目を
向けているだけで、頭にはその景色も何も入ってなどいなかったのだけれど。
  
 
 
キタジマの上腕の辺りに、リコが寄り掛かり細い肩が触れた。

キタジマが少し傾げそっとリコを覗き込む。 『・・・寝たのか?』
リコは目をつぶっていた。そして、更に重心を寄せキタジマに体を預けた。
 
 
その寝顔に少し微笑んだキタジマは、そっとリコの頭を撫でた。
優しく左右にさする大きな手の平に、リコのツヤツヤの黒髪の小振りな頭の感触。
愛おしさが込み上げ自らの頬をリコの頭に寄せると、互いに体をもたれ掛け合い
寄り添った。

すると、微かにリコが震えているのがキタジマの肩に腕に伝わった。
それは必死に涙を我慢しているような感じで・・・。
 
 
キタジマは哀しげに目を伏せると、寄り添うリコが膝の上に置いているその白い
左手をギュっと握りしめた。

本当は眠ってなどいない、一瞬驚いたリコの手が想いを込めるように更に強く握
り返す。それに応えるかのように、キタジマも指を絡めてしっかりと握った。
 
 
そして、
 
 
 
 
    『・・・ちゃんと、 想ってる・・・。』 
 
 
 
 
小さく小さく、まるで囁くようにキタジマが熱い想いをこぼす。
それは不器用でぶっきら棒で無口なキタジマの、精一杯の言葉だった。
 
 
その瞬間、リコの肩が小刻みに震えた。
なんとか声を押し殺すのがやっとで、その反動で本当は泣きじゃくりたい胸は
痙攣するように跳ねる。

俯いたままキタジマの肩に思わず顔をうずめたリコ。ギュっとつぶったままの
目尻から目頭から、涙が次から次へと溢れ伝う。水中で溺れているように胸が
苦しく歯がゆい痛みを発し、思うように息が出来ない。
 
 
リコはクスンと鼻をすすり、ゆっくり顔を上げキタジマを見つめた。

涙で濡れた頬は赤みが差し、長い下睫毛には透明な雫がゆらゆらと揺れている。
それは嬉しくて幸せで、でもどこか怖くて怯えているような心許ない瞳で。

キタジマが泣いてしまいそうな脆い表情で微笑みながら、大きなその手をリコ
の頬に添える。不器用な手の平には、赤みがさした熱をもった白肌の感触が。
 
 
頬を包んだその手を自分の方にゆっくりと引き寄せ、互いの息を今までで一番
近くに感じた次の瞬間、列車はトンネルに入り車内が暗くなった。
 
 
 
 
    。。。。。
  
  
 
 
数秒後、トンネルを抜け車中がまた一気に明るくなった。
突然の眩しさに乗客は目を細めて、せわしなくしばたかせている。
 
 
リコは、目を伏せ俯いていた。

小さな耳は真っ赤に染まり、膝の上に置いたキタジマにしっかり繋がれたまま
の手は、まるでもう二度と離したくないとでも言っているように強く強く指を
絡めて。潤んだ瞳は、海の底深くに沈んでいるようにぼんやりとたゆたって。
 

  
 
 
   つぐんだその唇は、ほんの一瞬ほのかなぬくもりを感じていた。
  
  
 
 
それは、あたたかくて優しくて少し眩暈がするような感覚だった・・・
 
 
 

■第181話 リュータの棘

 
 
 
 『リュータ?』 
 
 
コースケが、大学構内でポツンとひとり佇むリュータに声を掛けた。

その丸めた背中は何かを考え込んでいるようで、明らかにいつもの元気が
ない。基本的に普段から無駄に元気で、悩みなんかなさそうだというのに。
 
 
『なんかあった?』 コースケは丁度目の前にあった自販機にコインを投
入して缶コーヒーを2本買うと、振り返ってその内の1本を掴んだ手をリ
ュータへと伸ばす。
 
すると、目の前に差し出されたアルミ缶を受け取りぼんやり見つめながら
『ん・・・。』 煮え切らない反応を見せ大きく溜息を付いたリュータ。
 
 
そして、ガックリうな垂れてなんだか不貞腐れたように呟いた。
 
 
  
 『・・・内定、出た・・・。』
 
 
 
  
 
昼休みをとっくに過ぎた構内の学食は人も疎らで、講義がない学生数人が
暇つぶしにお茶をしていたり、あからさまに突っ伏して寝たりしている。

コースケとリュータは4人掛テーブルにつき、持ち込んだ缶コーヒーを握
ったまま向かい合って座った。
 
 
 
 『良かったじゃーん? なに凹んでんだよ??』
 
 
 
コースケはテーブルに片肘を付いて斜めに傾げ、浮かない顔のリュータを
覗き込む。『ん~??』 なんだかハッキリしないリュータに小首を傾げ
眉根をひそめて。コースケにはリュータが落ち込む理由がさっぱり分から
ない。内定を貰えなかったならまだしも、内定が出て落ち込むなんて全く
以って意味不明だ。
 
 
リュータは気怠そうに腕を突き上げ伸びをすると、戻る反動で一層背中を
丸め頭をボリボリと掻きむしった。本当は痒くなどないのに、行き場のな
い気持ちに勝手に指先が動いているようなそれ。 
 
 
 
 『アイツに・・・ なんて言おう・・・。』
 
 
 
『んぁ? ナっちゃんに??』 心細く落ちたリュータの一言に、増々コ
ースケは意味が分からなかった。

リュータの内定が決まって、ナチが喜ばない訳などないのに。
  
 
すると、暫く俯いて口を閉ざしていたリュータがやっと重い口を開いた。
  
  
 
 『勤務地が・・・ 問題なんだよ・・・。』
  
  
 
 
 
 
リュータは自宅アパートの居間のソファーに仰向けに寝そべって、ナチに
なんて説明しようか考えあぐねていた。

アカリがまだ帰宅していないそこは、壁掛け時計の秒針が進む音と無自覚
だけれどひっきりなしに零れるリュータの溜息のそれだけ響いている。
愛猫アオイが寝転がるリュータの腹の上に飛び乗り、丸くなって毛づくろ
いを始めた。
 
 
やっとの事で内定を貰った会社は、最初の3年は支社がある各地に点々と
しなければならなかった。
勿論、この自宅アパートから通える距離などではなく、会社が完備してい
る独身寮で生活をする事になる。
 
 
ここに戻ってこれるのは3年後。
 
 
少なくとも3年間は離れ離れになるということだ。ナチが激怒する姿は容
易に想像できた。真っ赤な顔をして怒って、子供のように声を上げて泣い
て、仕舞には感情のおもむくまま暴れて・・・

それを考え、リュータはなんて説明したらナチに分かってもらえるか思い
悩んでいたのだった。
 
 
『ただいま。』 玄関の鍵が開錠された音が小さく響き、帰宅したアカリ
が居間へ入って来た。
突っ掛けたスリッパの足音がやわらかい。機嫌が悪くないという事は今日
はバイトではなかったらしい。

アカリはソファーに寝転がるリュータに一瞬目を向けすぐさま逸らして、
ふとテーブルの上に置かれ開封された内定通知を手に取った。
 
 
『あれ?決まったの? 良かったじゃん。』 テーブルの横で立ったまま
指先で掴んだその通知をざっくりと流し読みしたアカリのその言葉にも、
ため息しか出ないリュータ。
 
 
 
 『・・・なに? なんか問題でもあんの??』
 
 
 
アカリもさすがに首を傾げる。

すると更に大きな大きなため息をついてうつ伏せに突っ伏し、リュータは
不機嫌そうに低く唸った。
  
 
 
  
 
 『ねぇ、今日ってバイト?』
 
 
結局、考えて考えて何もいい案が出なかった翌日、ナチから電話があった。
バイトは無かったが、なんとなくナチと顔を合わせにくかったリュータ。
 
 
『今日は・・・ コースケと、ちょっと。』 思わず嘘をついてしまう。

するとナチは『そっか。じゃぁ、いいや。』 とアッサリ引き下がった。
 
 
リュータの胸に、小さな小さな棘が刺さった。
 
 
 

■第182話 何故・なぜ・ナゼ

 
 
 
 『ねぇ、アカリ~。

  最近、リュータさんなんかあった??』
 
 
アカリのバイト先のファーストフード店に、ナチの姿があった。

レジのすぐ傍のカウンターを陣取り、固定され少し窮屈なカウンターチェ
アに腰掛けて、一応バイト中のアカリなど気にせず一方的に話しかける。
 
 
 
 『なんかってナニ?

  別に・・・
 
 
  ・・・あっ! 内定出たみたいだけどね。』
 
 
 
そのアカリの一言に、ナチは一瞬固まりその刹那みるみる顔が強張ってい
った。 『・・・私、聞いてないけど。』
 
 
そのナチの顔色の急変を目にアカリが慌てまくった。

当然、とっくの昔いの一番にリュータはナチに報告をしているものだと思
っていたのだから。
 
 
 
 『ほ、ほら!!

  ぁのぉ・・・ もしかしたら・・・
 
 
  アンタをビックリさせようとして、

  今は・・・ 内緒にしてるの、かも、よ・・・??』
 
 
 
やたら嫌な汗が噴き出るアカリの必死のフォローもナチの耳には届かない。
眉間のシワが深く深くなってゆく、見るからに不機嫌な顔のナチ。
 
 
アカリはコーヒーサーバー片手に、レジカウンターからナチの席へ出て来
てあの手この手で機嫌をとるも、全て虚しい努力だった。

ナチはぶすっと膨れて全く口を利かない。その目は納得いかないそれに潤
んで、下唇は尖らせて、まあるい頬は不機嫌そうに赤く染まって。
 
  
すると、そこへ
 
 
 
 『アカリさん!!

  サボってちゃダメで・・・ ぁああ?!』
 
 
 
客席カウンターに立ち尽くし、担当のレジカウンターから勝手に姿を消し
たアカリに注意をしに来たヒナタが、ナチを見て目を丸くする。
 
 
以前、ヒナタに散々難癖をつけた変なクレーム客がアカリと知合いだった
のだ。事態が把握出来ずにアカリとナチの顔をせわしなく交互に見るヒナ
タ。しかし、なにか重い空気を敏感に察し、口を挟むのをやめておいた。
 
 
そして、アカリにこっそり耳打ちした。
 
 
 
 『このお客様、コーヒー注文してないですから、

  いくらサーバー持ってたって不自然ですよ・・・。』
  
  
  
 
 
  
 
ナチはモヤモヤした思いをどうする事も出来ずにいた。

リュータに確かめなければなにをどうしても気が済まない。
でもその前に『何故?』という二文字が気が狂いそうなほどに頭を巡る。
 
 
 
  何故、教えてくれないんだろう・・・

  何故、隠すんだろう・・・

  何故・・・何故・・・何故・・・
  
 
 
居てもたってもいられなくて、ナチはカバンからケータイを取り出しその
名前を選択してタップする。
 
 
 
 『・・・今、どこ? 家?』
 
 
 
ナチのやけに冷静な一言に、電話向こうのリュータがあからさまに慌てて
いる気配を感じる。

その瞬間、増々ナチの心はドス黒く重いもので曇ってゆく。
何故・・・どうして・・・?
 
 
『話があるの。今から行くから。』 リュータの返事など聞かずに一方的
に電話を切ったナチ。

アカリが言ったように、ただ単にサプライズで驚かせようとしていてくれ
たらどんなにいいか考えていた。
 
 
しかし、直感でそうではない事は分かっていた。
 
 
 
 (なにを隠してるのよ・・・。)
 
 
 
頭の中を占めるのは、最悪な状況のことばかりだった。

そんな事考えたくもないのに、リュータを誰より信じてるのに、心の中に
垂れ込め広がったモヤモヤは悪い方へ悪い方へばかりナチをいざなう。
 
 
トボトボと俯いて歩く、リュータの部屋への道程。

胸に渦巻くどうしようもない不安に、途中足が止まる。立ち止まって足元
を見つめる目は、これから知るであろう真実に不安気にゆらゆらと揺れて。
それは怒りよりも、ずっとずっと悲しみと不安の方が大きかった。
 
  
  
  ピンポーン・・・
 
 
 
震える指先でドアチャイムを押すと、少し躊躇いがちに玄関ドアが開いた。
 
 
 

■第183話 隣席のクラスメイト

 
 
 
 『よく落書きしてるよね?』
 
 
隣の席のサワタニが机に片肘をついたまま、横目でこっちを見て言った。
左手の指先で器用にクルクルとシャープペンシルを回しながら。
 
 
 
  (左利きなんだな・・・。)
 
 
 
その時そう思ったのを、何故かよく覚えている。
 
 
 
高校2年の春。

新しいクラスに中々馴染めず、元来すぐに他人と打ち解ける事が得意では
ないし、そもそも誰かとつるもうとも思わない俺は授業中も休み時間も、
窓側の席でなんとなくノートの上でペンを動かしてヒマを潰していた。
 
 
あの日話しかけられるまで、正直なところ隣席に誰が座ってるのかさえ気
にしてなかったし、それはサワタニじゃなくても誰でも大差は無かった。
 
 
 
 『いっつも風景だね? 人は描かないの?』
 
 
 
それ以来、俺が落書きしてるとちょくちょくサワタニが話しかけてくるよう
になった。しかしそれは、必要以上にグイグイ近付くことはなく適度な距離
を保って少しだけ身を乗り出し、適切などこか居心地の良いタイミングで。
 
 
 
 『人は描かない。』
  
 
 
今思い返しても、ぶっきら棒すぎたと反省する。

”描かない ”んじゃない。ただ単に、”描けない ”だけなのに。
あれも一種の見栄だったのだろうか。
 
 
するととある授業中に、サワタニが腕を伸ばしてノートをポンと俺の机の
上に放った。突然現れた自分のノートとは別のそれに、一瞬たじろぎ隣を
睨むとサワタニがクイっと顎でそのノートを差して笑っている。

訳が分からぬまま怪訝な顔でそれに目を落とすと、そこにはまるで小学生
が描いたような珍妙なイラストがやけに威風堂々と在った。
 
 
 
 『あたしが描ける、唯一の。』
 
 
 
それはきっと、青色で描かれた丸い生物だからドラえもんなのだろう。

思わずぷっと吹き出した。
このクラスになって初めて声を出して笑った。なんだかツボにハマってし
まって中々笑いがおさまらず、気を抜くと思い出し笑いをして肩を震わせ
た。それを横目で見るサワタニも、教科書で顔を隠し一緒になって声を殺
して肩を震わせる。
 
 
 
 
    本当、酷いドラえもんで忘れたくても忘れられない。

    きっと、死ぬまで。

    ・・・いや、死んでも 一生・・・。
 
 
 
 
俺は背中を丸めてノートに向かい、そこにこっそりドラえもんを描いた。
我ながら何処からどう見ても完璧なドラえもん。黒目の感じも、口角の上
がり具合も、鼻の位置もパーフェクトなそれ。

それをサワタニの机に静かに放った。
突然飛んできたノートにビクっと身体を跳ねて驚き、そして背中を丸めて
何かを描き始めた彼女。チラリと横目で盗み見ると、その横顔は上機嫌に
表情筋が上がっている。
 
 
再び俺の元に戻って来たノートには、のび太が。
多分、のび太のつもりなのだろう。メガネの男児っぽいものがそこに在る。

完璧なジャイアンを描いてノートを渡す。
すると、スネオっぽい吊り目の生物が戻って来る。
 
 
その1時間の授業中には、俺のノートにはドラえもんの面子が勢揃いして
いた。
 
  
授業が終わるチャイムが鳴った途端、二人で声をあげて笑った。

横向きに座り俺の方を向いたサワタニが、愉しそうに両腕で腹を抱え笑う。
まるで鈴の音みたいな耳に心地よい高い声音で、ケラケラといつまでも。
 
 
 
 『ひっでぇ落書き! ヒトのノートだと思って・・・。』
 
 
 
ノートにはその時間に習った事など一文字も残されていなかった。

確か定期テストが近かったはずで、きっとその授業では聞き漏らしては
いけない重要なことを板書していただろうに。
 
  
すると、
 
 
 
 『だって楽しいじゃない?』
 
 
 
彼女が嬉しそうに目を細め、笑って言った。
 
 
それはなんだかとても眩しくて、目がくらむような笑顔だった。
 
 
 

■第184話 2人の距離

 
 
 
放課後。部活にも入っていなかった俺はさっさとカバンに教科書を詰めて
教室を出た。部活へ向かうクラスメイトのやたらテンションの高い笑い声
やいまだ机に腰掛けて愉しそうにおしゃべりし合う姿を横目に、ほんの少
し冷めた感情を抱きながら。

まだ築浅な校舎の、違和感を感じるほど磨かれた廊下を靴箱へ向かって気
怠く歩く。内履きのゴム靴底がキュっと耳障りな音を立てた。
 
 
下校する生徒で騒がしい靴箱の前に立ち、自分の名がテプラで貼付された
そこから外履きを取り出そうとした時、なにかが指先に触れた。

靴の中に何かが入っているようだ。

不審に思いしずしずと取り出すと、そこには4つに折りたたまれた小さな
メモ紙があった。
 
  
 
 
 
家路へ向かう道すがら、学ランの胸ポケットからメモ紙を取り出した。
アスファルトを踵で擦って歩く音を気怠げに響かせながら、折りたたまれた
それを開く。寸分の狂いなく美しい四つ折りのそれ。

自分でも気付かぬうちに自然に微笑んでいた。突発的な出来事に声を出して
笑うことはあっても、照れくさすぎて思春期に突入してからは ”微笑む ”
なんて殆どしていない。

しかし自分の意思とは無関係に勝手に頬が緩んでゆく。だらしない口元を必
死にきゅっとつぐんでいなすも、すぐさまそれは嬉しそうにほぐれる。

メモ紙を開いて眺めては微笑み、また丁寧に折りたたんでポケットにしまう。
靴箱の前でそれを開き見てから、何度も何度も開いてはしまってを繰り返し
ていた。
 
  
 
  ”明日はアンパンマンで勝負よっ!”
 
  
 
 『アンパンマンなんて、あんまり知らねえよ・・・。』
 
 
ひとりごちて俯き、また嬉しそうに目を細め微笑んだ。
 
  
  
それから、毎日毎日落書きをし合うのが俺たちの日課になっていった。

アニメのネタが尽きると、互いにお題を出し合って描き、相変わらずサワタ
ニの絵は酷く、それなのにひるむ事なく自信満々に見せつける彼女が面白く
てならなかった。
 
 
そんなサワタニのお陰で、何故か家に帰っても気付けばなんとなくノートに
落書きしていて、そんな自分に気が付き無性に恥ずかしくなって手を止める。

しかし、気付けばまたペンを握ってる・・・
それを繰り返した。
 
 
まっさらだったノートは、色んな角度の横顔で埋め尽くされていた。

それは、決して真正面からまっすぐ見られない不器用な俺が描く、ありとあ
らゆる角度の横顔だった。
 
 
 
  横顔のサワタニでいっぱいだった。

  笑顔のサワタニがいっぱいだった。
 
 
  
 
 
 『じゃぁ、今度はあたし。 あたしを描いてみて?』
 
 
突然、そんなお題を出されて正直狼狽した。
 
 
今までのドラえもんとは訳が違う。アニメのキャラクターならいくらでも描
けるけれど、苦手な人物画で、よりによってサワタニを描くなんて。サワタ
ニをじっと見るなんて、サワタニを真っ直ぐ見つめるなんて・・・
 
 
必死にお題変更を促しても彼女は頑として聞き入れない。
 
 
俺は困り果て不貞腐れた顔を向けながら、卵型の輪郭と肩より少し伸びた真
っ直ぐな黒髪を描いた。
しっかり凝視して事細かに描写するのは照れ臭すぎるから、目・鼻・口は点
と線で省略してザックリ描く。
 
 
しかし思いの他、完成してみるとなんだかよく似ていて、完成したそれを目
に二人で顔を見合わせて笑った。

散々笑い転げた後、彼女が学校指定カバンからケータイを取り出しその絵を
写メで撮影した。まだ笑っている彼女は、手が震えて中々ピントが合わない
と文句を言いながら。
 
 
そして、ノートからそっと顔を上げ、彼女が眩しそうに微笑んで言った。
 
  
 
  『ねぇ、キタジマ君。 アドレス教えて?』
 
  
  
こうして、二人の距離はどんどん縮まっていった。
授業中も、放課後も、休みの日も、いつもいつも隣を向けばサワタニがいた。
 
 
いつも、ミホが笑っていた・・・
 
 
 

■第185話 最初で最後の

 
 
 
  あの時、何故そう思ったのかいまだに分からない・・・
  
 
 
元々、写真が嫌いだった。
撮られるのが理由もなく、とにかく嫌いだった。
 
 
物心ついてからは、強制的に撮られるクラスの全体写真など以外は、
自分が写っている写真は無かった。
無理強いされると更に拒否し、相手が二度と写真の話など出来なくな
るくらいに抗った。
 
 
俺は高校卒業後、美大に進んだ。ミホは地元の短大に。
進む方向は違っていても相変わらず隣を向けばミホがいた。

俺たちの落書き遊びはいつしかフェイドアウトしていったが、同じ部
屋で互いに別々の事に夢中になってはいても、二人の間に流れるやわ
らかい空気に心は凪いだ。
 
 
その頃からミホはやたらとガチャガチャ騒々しい外国の音楽に夢中で、
大きめのヘッドフォンをしては音洩れさせながら大音響で聴き、キャ
ンバスに向かう俺の斜め後方で鼻歌をうたっていた。

その鼻歌を小耳に挟みながら絵筆を握る時間がなにより心地良く幸せ
な時間だった。
 
 
 
互いに24歳になった年、正式にミホはキタジマの姓になった。
 
 
それは日々の当たり前の事のように、何も大袈裟にする事もなく大荷
物を抱えて観光地に行く訳でもなく、誰に仰々しく祝われるのでもな
く極々自然に ”これから二人で生きてゆく ”というとてもシンプル
な流れのように思えた。
 
 
何も望んではいなかったミホをなんとか説得して連れ出し、頑なに首
を横に振る彼女に無理矢理選ばせた結婚指輪が唯一 ”形 ”に残る二
人の想い出となってしまった。
 
 
 
そんなミホがある日突然、写真を撮りたいと言い出した。
とくに何かの記念日でもなく、写真館で撮りたい訳でもないらしい。
 
 
 
  『だって二人の写真が一枚も無いのよ?

   ・・・17から一緒にいるっていうのに。』
 
  
 
彼女は、呆れている風でしかし可笑しくて仕方ない感じで笑っていた。

写真は大嫌いだったが、いつまでも楽しそうに笑っている彼女を見て
いたら珍しく俺は『一枚くらいなら』という気になった。
  
 
 
  あの時も、今までのように写真なんか頑なに断っていたら・・・
 
 
 
写真撮影に応じてはみたものの、俺たちはカメラという物を持っては
いなかった。まずそこから始めなければならない事実に、二人で声を
出して笑い互いに呆れた。
 
 
 
 『最初で最後の一枚だもん、”写ルンです ”で充分よっ!』 
 
 
 
そう言ってミホは、さっそく自宅近所のコンビニへ使い捨てカメラを
買いに行った。もし本当に最初で最後だったとしたら、ちゃんとした
カメラで撮影するか、または写真館などでの撮影の方がいいのではな
いかと俺は思ったのだが、そこら辺頓着しないミホがミホらしかった。
  
 
 
 
 
 『何処がいいかなぁ・・・?

  最初で最後だからなぁ・・・。』
 
 
 
近所の公園。

休日の昼間という事で子供たちが遊びまわり、はしゃぐ声が響く。
中央にある砂場では、新米な感じ溢れる母親とまだヨチヨチ歩きの子
供の姿。ふと未来のミホを重ね、その隣に佇むぎこちなさ全開の自分
も想像した。

照れくささにだらしなく頬が緩み、慌てて母子から目を逸らした。
 
 
木陰のベンチに腰掛け木漏れ日に少しだけ目を細めながら、涼しい風
が心地よくそよぐ中、やけに幸せそうに撮影ポイントを探しまわるミ
ホを俺はぼんやりと眺めていた・・・
 
 
 

■第186話 永遠に失った光

 
 
 
 『ねぇ? 写真撮ってくれない?』
 
 
ミホが公園で元気に遊びまわる子供たちに声を掛けた。

鬼ごっこをしている最中だったその男児は、一瞬困った顔を向けたが
ミホが顔の前で手を合わせて必死に懇願するので、渋々足を止め応じ
てくれた。
 
 
散々迷いに迷って決めた撮影ポイントは、結局今俺が座っている木陰
のベンチで落ち着いたらしかった。
 
 
 
 『ただココのボタン押すだけでいいからね~!』
   
 
 
男児に使い捨てカメラを渡しボタンの位置を指示すると、ミホが慌た
だしく小走りで駆けて来て隣に座った。

俺はぎこちなく背筋を正し、あまりに久しぶりすぎる写真撮影に一応
心の準備を整えつつ、隣のミホに視線を投げる。
例えば肩をよせて寄り添ったり、手を繋いだり、撮影用に何かするの
かと思いきや、ミホはただ真っ直ぐレンズに向かって幸せそうに笑っ
ていた。
 
 
すると、『ココ押せばいいんだよねぇ?』
 
 
男児が指定されたボタンを押してもシャッターがおりないと困った顔
でカメラとミホを交互に見つめる。

ミホがベンチから立ち上がり男児へと駆け寄って、顔を並べてカメラ
と格闘するも、何回か試してみても何故か写真が撮れない。
そして、やたらと時間がかかってやっと撮れた時には疲れ果てた顔の
俺と、それとは対照的にやわらかい表情のミホがいた。
 
 
24枚撮りの使い捨てカメラで、本当にたった一枚だけの写真撮影。
 
 
さすがに他にも何か撮るのかと思っていたのだが、ミホは男児に礼を
言ってカメラを受け取ると、ベンチの座面に置いていたカバンを引っ
掴み走り出した。
  
 
 
  『すぐ現像したいから、ちょっと行って来るねっ!!』
 
 
 
いくらなんでも気が早いとミホを止めようとしたのだが、何故かそれ
を頑として聞き入れないミホ。普段は頑固なタイプではないのに。

『じゃぁ一緒に行こう』という俺の声も聞かず、公園の狭い出入口を
抜けて道路へ駆けて行った。
 
 
 
ミホは途中振り返って、俺に嬉しそうに手を振って笑っていた。
幸せそうに笑っていたように思う。
 
 
逆光で眩しくて、本当はミホの表情は分からなかったように思う。
 
  
  
 
   それが、ミホの最後の姿だった・・・
  
  
  
 
カメラ屋の手前で、歩道の信号が青に変わるのを待てず道路に飛び出
したらしい。スピードを緩めることなく突っ込んできた車に、ミホの
細い体はいとも簡単に突き飛ばされ、跳ね上がり、そして硬く冷たい
アスファルトに叩き付けられた。
  
 
 
即死だった。
  
 
 
辺り一面に響き渡った車の急ブレーキを踏む耳障りな音と、耳をつん
ざくような人々の悲鳴と、その後に遠くから雷鳴のように近付く救急
車のサイレンと。

それらが混ざり合って、いつまでもいつまでも耳の奥にうるさくて。
 
 
ミホの血だらけの左手には哀しい程に輝く真新しい、まだ馴染んでい
ない結婚指輪と、しっかり握られた使い捨てカメラ。本来は緑色のカ
メラにも嫌味なほど鮮やかな赤色がこびり付いていて。
 
 
たった一枚の写真を現像する為に、はしゃぎ、急ぎ、駆けて、彼女は
短い人生を終えたのだ。
  
 
 
絶望すると、人は何も出来ないということを知った。

泣き叫ぶ声も出ない。
悲しみ暮れる涙も流れない。
 
 
ただそこには真っ暗な闇だけが広がっていた。

もうどこにも光は無かった。
自分を照らし導いてくれるあのやわらかい光を永遠に失った。
 
 
 
そして、ただひとつだけ残ったものは後悔の念だけ。
 
 
 
日頃から100枚でも1000枚でも写真ぐらい撮っていれば・・・
ちゃんとしたカメラを買ってさえいれば・・・
ミホを一人で行かせたりしなければ・・・
 
 
後悔してもしてもし足りなくて、毎日毎日ただ彼女の元へ逝くことだけ
を願った。もう一度ミホに逢うために、ミホと共に生きていくために、
ミホの笑う顔を見るために、俺は毎日毎日逝く方法だけ考えていた。
 
  
俺は、ミホを失った・・・
 
 
 

■第187話 写真

 
 
 
この世界にひとり取り残された俺は、暗い部屋で独りただ息をするだけだった。
 
 
 
それは生きようとする呼吸などではなく、ただ吸って、ただ吐いているという
虚しく無意味な行為だった。
 
 
カーテンも開けることはなく、部屋の照明も付けず、壁に背を預けうずくまっ
たまま何時間もその体勢から動かない。

音の無い部屋に耐えられず、ミホが日頃から愛用していたヘッドフォンを思わ
ず掴んでボリュームを上げる。そこからは、どこかの国の頭が痛くなるよな騒
々しい音楽が流れた。頭が割れる程の大音量に、なんだかやけに落ち着いた。
 
 
 
一年後、悩んで悩んでやっと思い切って写真を現像に出してみる事にした。

この世に、たった一枚の写真。
本当に、最初で最後の一枚になってしまった二人の写真。
 
 
カメラ屋の店員から袋を受け取ると、店を出て歩き出した。
片手に掴んだ、ミホがあれほど急いで現像したがったこの写真。
 
 
 
  あの時、ミホはどんな顔していたんだろう・・・

  あの時、俺はどんな顔していたんだろう・・・
 
 
 
ふと道の途中で足が止まり、薄い袋に手を差し込み取り出した。

たった一枚きりのひんやり冷たい光沢紙が指先に触れる。それはあまりに心許な
く薄っぺらい。

心臓が強く打った。
少し震える指先で、それを静かに静かに引っ張り取り出す。
呼吸が苦しくて、眩暈がした。耳元でバクバクと鼓動が打ち付ける音が響く。
 
 
やっぱりこんなの捨ててしまおうと思い、ギュっと目をつぶって俯いた。
写真を引き出しかけた手を止める。
 
 
怖かった。
ミホの顔を見るのが怖かった。
もう永遠に逢えないミホを確認するのが怖かった。
 
 
暫くそこに立ち尽くし、何度も何度も深呼吸する。

そして、ゆっくりと袋から手を出すと潤んだ目で写真を見つめた・・・
 
  
  
 
 
 
 
『無い・・・ 財布が無い・・・。』 キタジマが血相を変えて財布を捜す。
 
 
タカナシとラーメン屋で会計した時にポケットから出したのは覚えている。

それからどうしたんだろう・・・。
財布がない。
財布が。
写真が。

財布に入れてある、ミホとの1枚きりの写真が・・・。
  
  
 
 
  
 
キタジマがリコに財布をアンダースローで放り投げた。
リコがそれをキャッチし、『いつものですよね?』と目で合図する。
 
 
大学側からの要請で講師になったキタジマの元へは、学生がチラホラ集まるよう
になっていた。

職員から ”特定の学生とだけ親しくする事 ”に釘を刺され、他の学生も受け入
れるように通達があってから、キタジマの空き教室は前より賑やかになっていた。
 
 
リコはそれに少し寂しさも覚えつつも、キタジマの助手兼使いっ走りを相変わら
ず出来る自分のポジションに、本音を言えばやはり喜びを隠せないでいた。
 
 
『いつもの、いつもの・・・。』 自動販売機の前に立ち、見本缶をパネル越し
に指先でなぞって探し、缶コーヒーを選ぶ。
 
キタジマから預かった財布を開け、コイン入れのチャックを開くと丁度小銭が切
れていた。札入れへと指を伸ばし引き出すと、お札と共に一枚の写真が出て来た。
 
 
少し擦り切れた、それ。 
  
 
 
     キタジマと女性が写っていた・・・
 
 
 

■第188話 自分の事しか

 
 
 
ゆっくりと開いた玄関ドアの隙間から見えたリュータの顔を、ナチが怒っている
ような哀しんでいるような顔でじっと見つめた。
 
 
室内へと促すように無言のリュータにより開かれたドアに、ナチは何も言わずに
靴を脱ぎ中へ入る。もう入り慣れた部屋の、当たり前にすら感じるこの空気。

居間の付けっ放しのテレビから流れる騒がしい音声を、不機嫌そうにリモコンの
ボタンを押してOFFにすると、テーブルの上に少し乱暴にリモコンを放った。
 
 
ナチはいつもの指定席のソファーではなく、床に正座して無表情で黙っている。
 
 
『なんか飲む?』 2ドアの冷蔵庫前でしゃがみ込み、お茶のペットボトルを
取り出し、グラスを2つ掴んだリュータ。

テーブルの上で注がれるお茶の音だけが、居心地悪いくらい静まり返った部屋
にコポコポと響く。
 
 
 
暫し、互いに俯いたまま目を合わせずに無言の時間が流れた。
 
 
 
すると、『ナチ・・・ ぁ、あのさ・・・。』 リュータが口ごもりながら、
言葉を紡いだ。
 
 
 
 『内定・・・ 出たんだ・・・。』
  
 
 
その言葉にナチはガバっと顔を上げ、リュータを見つめる。

しかし、その先の言葉を待っているナチ。それはもうアカリから聞いて知って
いるのだ。それだけで話が終わるとは思ってなどいない。
 
 
無言の圧力で先を促すナチに目を遣り、リュータが大きくため息をついた。
そして、覚悟を決めゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
 
 
 
 『この間、内定もらったんだ・・・
 
 
  何社か受けた中で、

  一番入りたいと思えた会社だったから、すげー嬉しかった。
 
 
  でも・・・。』
 
 
 
ナチが『でも?』と、せっかちにその先をせがみリュータをじっと見眇める。
  
 
 
 『・・・でも、
 
 
  ・・・3年は・・・ こっちに、戻って 来れ、ない・・・。』
  
  
 
その瞬間、キーーンと空気の張り詰める音が聞こえた。
リュータは呼吸すら忘れたように黙りこくって動きを止め、ナチを見つめた。
 
 
ナチは何も反応しなかった。
瞬きもせずに能面のような顔でただ黙っている。

もっと泣いたり叫んだり怒り狂う事を覚悟していたリュータは、逆に不安にな
り声を掛けることも出来ずに、ただただ泣き出しそうな顔で視線を泳がせた。
 
 
『ナ、ナチ・・・?』 小さく小さく呼び掛ける。
 
 
『ぉい・・・ ナチ??』 リュータがナチの肩にそっと手を置こうとした瞬
間ナチが急に立ち上がった。
 
 
  
 『そこの会社じゃなきゃダメなのっ? 平気なのっ??』
  
  
 
ナチが一気に爆発した。
みるみる顔は真っ赤に染まって歪み、目は充血して潤んでゆく。 
 
 
 
 『3年だよっ?

  3年も離れるっていうのに平気なのっ?
 
 
  そこまでして、なんでその会社じゃなきゃダメなのっ?
 
 
  リュータさん、全っ然 私のことなんか考えてな・・・・・・』
 
 
 
 
 
     バンッ!!!
 
 
 
その時、リュータが思いっきり強く手の平をテーブルに叩き付けナチのそれを
遮る。リュータも一気に顔が赤く険しくなり、口元はふるふると震えている。

はじめてリュータのそんな顔を見て、ナチは目を見張って息を呑み固まった。
 
 
 
 『自分の事しか考えてないのは、お前だろ・・・
 
 
  いつまでも学生じゃいらんないんだよっ!

  そうそう簡単に就職先なんて決まんねぇんだよっ!
 
 
  なんで ”おめでとう ”の一言もないんだよ・・・

  なんで・・・

  ・・・なんで、 ”頑張って ”って言ってくんねぇんだよ・・・。』
 
 
 
最後はフェイドアウトしそうに弱々しくこぼれたリュータのそれを、ナチは納
得いかない面持ちで唇を噛み締めていた。

そして、ぎゅっと目をつぶりやはり我慢出来ないといった顔で弾かれたように
玄関を飛び出して行った。
 
 
その時一瞬見えた横顔は、口元を手で覆っていたからきっとナチは泣いている。
 
 
しかし、リュータは追いかけずにその場に立ちすくんでいた。
 
 
 

■第189話 木の葉舞う中で

 
 
 
口元に手の甲を押し当て、声を殺してナチは走った。

泣き声が漏れない分、その反動のように涙は次から次へと溢れ出しツヤツヤの
頬を伝ってゆく。
 
 
 
誰より一番に、内定が出た話は聞きたかった・・・

勤務地の話だって、先に相談してほしかった・・・

何より、自分にだけ黙って隠されたのが悲しかった・・・
 
 
 
声を殺すのも、もう限界だった。感情のままに大声をあげて泣きたかった。

アテもなく走ったものの結局はいつもの公園に駆け込み、崩れるようにベンチ
に座ると両手で顔を覆ってナチは泣いた。地団駄を踏む足の靴裏がシャリシャ
リと砂利を蹴とばす音が鳴る。まるで幼い子供が駄々をこねるように、首を左
右に振って、身体を揺らして、大仰にナチは泣いた。
 
 
いつもこうやってナチが泣くと、必ずリュータが探し当てて飛んできてくれて
やれやれといった風にまるで子供をあやすように慰めてくれる。
 
 
ナチは心の中で思っていた。
 
 
 
   きっと慌てて追って来てくれる・・・

   そして笑いながら『別の会社受けてみるから』って・・・

   そう言うに決まってる。 絶対に、そう言うに決まってる・・・
 
  
 
すると、『やっぱり、ここか・・・。』 

後ろから声がした。いつもの、ちょっとかすれた低い声。
ナチは両手で顔を覆ったまま、何も言い返さない。

しかし隠れた顔は、やっぱり追って来てくれた安心感で少し微笑んでいた。
 
 
 
 『中々言い出せなくてゴメン・・・。』
 
 
 
リュータがナチの背後に立ったまま、小さく呟く。

ナチを哀しませることが分かっていた事、怒らせるのを分かっていた事、
リュータ自身散々悩んだ事、他の解決策を必死に考えあぐねた事・・・言葉を
選びながら静かに話した。
 
 
それでもナチは黙って俯いていた。

離れたりなんか出来る訳がない。そう思っているのはリュータも同じなはずだ。
ナチは次の ”その言葉 ”をただひたすら顔を隠したまま黙って待っていた。
 
 
すると、リュータがナチの肩に優しく手を置いた。

大きな手の平の、やけに高い温度がナチの細い肩に伝わる。
もうすっかり触れることにも触れられることにも慣れた、リュータの大きな手。
 
  
  
 
 『少し・・・ 距離、おこうか・・・。』
 
 
 
 
その瞬間、強い風が吹き抜けた。

低い轟音と共に公園内の大樹が一斉に揺さぶられ、一気に木の葉が空に舞い上がり
ナチの肩や膝に降って来た。
 
 
顔を覆っていた華奢な両手が、力が抜けたようにダラリと身体の横に垂れる。
ゆっくりゆっくり、恐る恐る後ろを振り返る。

その時、ナチの肩に置かれていた大きな手がスっと引いていった。

ナチは視線を上方へと移動し、いまだ佇むリュータの顔を確かめる。
すると、リュータは哀しそうに微笑んでいた。
否、微笑んでいたのではなく泣きそうになるのをぐっと堪えていたのだった。
  
 
 
 『・・・冗談でしょ・・・?』
 
 
 
やっとノドの奥から絞り出した一言は、何も言わないリュータのその顔を見て、
そうではないのだと悟った。

冗談なんかではないのだと。
いつもの上機嫌に笑っているリュータではないのだと。
  
 
ナチはただ、リュータのその顔を見つめていた・・・
 
 
 

■第190話 押し殺していた感情

 
 
 
 『・・・ったく、

  落ち着かねぇえっつーの・・・。』
 
 
キタジマが眉間にシワを寄せブツブツ文句を言いながら、不機嫌そうにイス
に深くもたれかかりタバコの煙を吐いた。
 
 
以前からずっと大学側より打診があった講師の話を受け、正式に大学で描くこ
とになってからというもの、講義以外にもキタジマの元へは学生が集まって来
ていた。しかしそれは、何かを学ぶ為というよりは謎だらけのキタジマに興味
があるミーハー女学生ばかりだった。

それでなくともキタジマは人嫌いで騒がしいのが苦手で、講義のときですら不
機嫌そうで愛想などあるはずもなく、ほぼ口頭での指示はないサイレント講義
だというのに。
 
 
 
 『人気があるって事じゃないですかぁ~! キタジマ センセ~イ!!』
 
 
 
わざと大仰に ”センセイ ”を強調し、からかうリコ。

肩をすくめニヤニヤしてるリコを、キタジマは横目でジロリと睨んでは溜息を
ついた。
 
 
そして、
  
 
 
 『・・・最近、減ったな?』
 
 
 
キタジマはイスにゆったりと身体を預けたまま、天井に向かって煙を吐きつつ
静かに呟いた。低くて穏やかで、リコだけが知るキタジマの優しいそれで。
 
 
『減ったって? 何がですか??』 リコが聞き返した。買置きのタバコを棚
に仕舞いながら、チラリと一瞬そちらへ視線を向けて。
 
 
キタジマは講師になったことで、大学側から特定の学生との過度な接触を避け
るように釘を刺されていた。それはまさしくリコの事に他ならなかった。

リコも職員に呼び出され直々に注意を受けていたので、今までのように毎日毎
日いつも一緒という訳にはいかなくなっていたのだった。
 
 
 
 『ガキのくせに、ヨケーな気ぃ使うな。』
 
 
 
自分が通い詰める事でキタジマに迷惑が掛からないようにと気遣っているリコ
にキタジマはとっくに気付いていたのだ。
 
 
リコが嬉しそうに照れくさそうに、少しだけ俯いて頬を緩める。

無骨な言い方だけれど、それは不器用なキタジマの精一杯の照れ隠しだって分
かっている。
 
 
 
  見てないようで、ちゃんと見てくれてる・・・

  口数は少ないしぶっきら棒だけど、ちゃんと想ってくれてる・・・
 
 
 
そっと目をつぶって胸に手を当てた。
リコの胸の中に、やさしくて暖かい風が流れ満たされた。
 
 
『たまに、飯でも行くか。』 タバコの吸殻を空缶に押し込め、キタジマが立
ち上がった。その横顔は照れくさくて落ち着かなさそうなそれで、決してリコ
を見ない。まるで逃げるように、さっさと一人で教室を出て行ってしまった。
 
  
 
 
 
季節はもう秋になっていた。
 
 
日が暮れるのはどんどん早くなり、夕暮れ時の風は冷たくて体を強張らせる。

いつもの絵の具だらけのシャツに、ヨレヨレのロングタッフルコートを羽織っ
たキタジマ。片手はタバコを、他方の手はポケットに突っ込んでいる。
 
 
そんなキタジマに数歩遅れて歩くリコ。

極度の照れ屋な痩せたカーキ色の背中を見つめていた。
愛おしくて仕方なさそうに目を細めながらも、リコは先日のあの写真を思い出
していた。
 
 
 
 (この人が、奥さん・・・。)
 
 
 
奥さんがいたことは知っていた。
3年前に事故で亡くなった事も。

今まで深く考えたことが無かった。否、考えないようにしてきた。
しかし、あの写真を見てしまった事で一気に押し殺してきた感情が溢れ出した。
 
 
 
   どんな人だったんだろう・・・

   どれほど大切だったんだろう・・・
 
 
   まだ・・・ 愛してるのだろうか・・・
 
 
 

■第191話 欲

 
 
 
考えないように、ずっと考えないようにしてきた奥さんの事・・・
 
 
写真の中のやわらかく微笑む彼女を見た日から、リコは気持ちを抑えられなく
なっていた。

いつも通りキタジマの傍にいても何かを考え込む様子が増えたリコを、キタジ
マは横目で見つつ内心かなり心配していた。
 
 
 
 『おい、タカナシ。』 
 
 
 
キタジマの呼ぶ声に、一拍遅れて反応したリコ。 『・・・は、はい?』
 
 
キタジマは後方のいつものイスに座っているリコの前に立ち、背を屈めた。
互いの目の高さが合ったところで、そっとリコの顔を覗き込む。

そして、大きな手の平をリコのおでこに当てて小首を傾げた。
 
 
 
 『熱は無いな・・・

  調子悪いなら帰れよ。』
 
 
 
キタジマはそう呟くも、リコは何故かなんの反応も示さない。

不思議に思ってもう一度顔を覗くと、何か一点にリコの意識は集中していた。
驚いたような哀しそうな表情をして、じっと一点を見つめている。
 
 
リコが凝視する視線の先を追うと、それはキタジマの胸元に辿り着いた。

銀の鎖にかけた2つの指輪が、絵具だらけのシャツの襟元から出てリコの前で
瞳を閉じたくなるほどに眩しく輝き、揺れていたのだった。
 
 
一瞬動きを止め、その刹那無言でネックレスをシャツへ押し込んだキタジマ。
 
 
リコは目を逸らして黙っている。
なんとも言えない重い空気が二人の間に流れていた。
 
 
 
  分かっている。

  分かっているのだ・・・
 
 
  頭では分かっているつもりなのだけれど・・・。
 
 
 
リコが静かに口を開いた。
必死に平静を装ったつもりも、それは泣き出す直前のように震えてこぼれる。
 
 
  
  『・・・どんな人だったんですか・・・?』
  
 
 
いつかはこの問題に直面する日が来るとは思っていた。

キタジマは苦い顔でかぶりを振り、まるで溜息のような息を吐く。胸ポケット
からタバコを取り出した。手持無沙汰で1本指先で掴んだものの、火も点けず
に動きを止める。
 
 
そして、低い声で言った。 『・・・聞いてどうする?』
  
 
 
 『だって・・・

  ・・・気になるから、どうしてもやっぱり・・・
 
 
  どんな人だったんだろうなぁ、って・・・

  ・・・気になって気になって、仕方ないから・・・。』
  
 
 
リコはまるで自分を嘲るように、俯いたまま少し笑った。

それはとても哀しい響きで、小さく揺れている肩とそれに連動して流れる長い
黒髪が今にも泣き出しそうに見える。
 
 
キタジマはリコに背を向けいつものイスに深く腰掛けた。

思い出したように火を点けたタバコを口端に咥えると、天井に向かって煙を吐
く。必死に言葉を探しているのが、哀しい程に分かり易く伝わる。
 
 
そんな横顔を目に、リコは立ち上がってキタジマから丁度陰になって見えない
位置へと移動した。顔が見えない方が、色んなことを話せる気がしたのだ。
 
 
キタジマから死角になっている画材が乱雑に仕舞われた棚に寄りかかり、リコ
はもう一度訊ねる。
 
 
 
 『奥さんって・・・ どんな人だったんですか・・・?』
 
 
 
二人の間に息苦しいほどの沈黙が流れた。
閉め切った窓の向こうから、屋外ではしゃぐ学生の声が漏れ聴こえる。

暫く沈黙が続き、観念したようにキタジマがやっと重い口を開いた。
 
  
 
 『よく笑って、喋って・・・

  ・・・明るい奴だったかな・・・。』
 
  
 
その、懐かしむような穏やかな声を聞いた途端、リコの胸が歯がゆくギュっと
痛んだ。自分から訊いたくせに、聞いたらいじけるって分かっていたくせに、
いざ本人の口からそれを聞くと苦しい程に妬いてしまう。
 
 
『・・・他には?』 キタジマからどんな言葉を聞きたいのだろう、自分でも
分からないリコ。本心では、もう彼女のことなど聞きたくないと思っていた。

彼女からキタジマを根こそぎ奪い去りたい。全部自分のものにしたい。彼女の
記憶なんか全て消してしまいたい。自分のことだけ見ていてほしい。
  
 
 
 『絵は、まったく描けない奴だった。
 
 
  ・・・欲がない、人間だったなぁ・・・。』
  
  
 
リコが泣き出しそうに顔を歪め、目を伏せる。
 
  
 
  (私はこんなに欲張りだよ・・・

   奥さんに敵いっこないのに、勝てっこないのに・・・
 
 
   キタジマさんを独り占めしたくてしょうがない・・・。)
 
 
 

■第192話 どんなに恨まれても

 
 
 
  『リコちゃんのことが好きなんでしょ・・・?』
 
 
マリが優しく呟いた。

簡単に口から出たようにも聞こえるその一言には、コースケへの心からの安堵
と今までの感謝、そして、一抹の寂しさが含まれていた事には気付かれていな
いのだろう。
 
 
コースケは目を逸らさず真っ直ぐマリを見て、確かな口調で言った。
 
 
 
  『・・・だから、

   アイツにリコちゃんを傷つけてほしくないんだ・・・。』
 
  
  
 
 
 
 
夕暮れ時。マリが保育園にタクヤを迎えに行くと、丁度外出先から帰宅したコー
スケと会った。
マリは久しぶりに見掛けたコースケの姿に、嬉しそうにひらひらと手を振る。

しかし、コースケのなんだか酷く疲れたような落ち込んでいるような姿に、思わ
ずマリは駆け寄った。
 
 
『コーチャン・・・?』 マリは眉根を寄せ心配そうに顔を覗き込むと、コース
ケは一応頬を緩め笑顔は作ったものの、いつものそれとは全く違う寂しげな表情
だった。
  
 
 
園のグラウンドのベンチにコースケとマリが並んで座る。

ただ黙って、タクヤがジャングルジムに登って遊ぶ姿を目で追っていた。
 
 
マリは横目でコースケを盗み見つつ、頭に浮かんだそれを訊いていいのかどうか
悩んで一度呑み込む。しかしコースケの弱々しいちっぽけな背中に、どうしても
切り出さずにはいられなくなった。
 
 
 
 『最近・・・

  みんなで、集まったりしてないの・・・?』
  
 
 
訊いてしまってから、やはり訊かない方が良かったかと、マリの指先はタイトス
カートの膝の上で居心地悪そうに絡めたり解いたりを繰り返す。
 
 
 
 『みんな、は・・・ 無い、かなぁ・・・。』
  
 
 
  いつから ”みんな ”で集まらなくなったのだろう。

  いつからリコは、いなくなってしまったのだろう。
 
 
 
 
マリはもう気が付いていた。
コースケが落ち込む理由はリコにあるのだという事を。
 
 
 
 『ただ黙って待ってちゃダメよ。』
 
 
 
マリがまっすぐ前を見つめたまま言った。

橙色の大きな夕陽に逆光で翳るタクヤのシルエットに ”想う人 ”の姿を重ね
ながら。
それはまるで、自分で自分に言い聞かせるかのように。
 
 
 
 『リコちゃんのことが好きなんでしょ・・・?』
 
 
 
リコという名前にコースケが一瞬小さく反応し、泣き出しそうな哀しい笑顔を
作って微かに溜息をついた。
 
 
リコが幸せなら、それでいいと思っていた。

リコを誰より大切にしてくれて、誰より想ってくれて、誰より幸せにしてくれ
る相手ならば。
勿論簡単にリコへの気持ちを手放したりは出来ないけれど、そんな相手だった
なら・・・
 
 
リコから向けられる想いを知りながら真っ直ぐ向き合えなかった自分を、心から
悔やんでいた。
リコを正面から受け止められず、曖昧な態度で散々傷つけた自分を。
 
 
しかし、キタジマはコースケが願うリコの相手ではなかった。
 
 
ただただ、リコを心配していた。
真実を知ればリコはまた泣くだろう。
傷付いて落ち込んで、また一人で抱え込む。
 
 
リコにどんなに恨まれても嫌われても、コースケはなんとかしたいと思っていた。
リコが深く傷付く前に、一人泣き崩れる前に、心が悲鳴をあげる前に・・・
 
 
コースケは低く唸るように呟いた。
 
 
 
  『・・・マリ。

   ・・・アイツの連絡先教えてくれないか。』
 
 
 

■第193話 強い決意

 
 
 
日も暮れてすっかり暗くなり、物音ひとつしないひと気無い大学の構内。
コースケはゆっくりと、しかし強い意志を持ってその闇の先へ歩み進んだ。
 
 
真っ暗な長い廊下の先に、ドアの擦り硝子から明かりが漏れる教室がひとつだ
けあった。それはまるでトンネルの出口のように眩しいけれど、その先にある
のは新しい風景でも目映い光でもない。
 
 
ドアの前で立ち止まると、その教室の中から微かに人の気配がある。
コースケはひとつだけ深く息を吐き、軽く握り締めた拳でしっかりと2回ノッ
クをした。

すると、擦り硝子にぼんやりと人影が浮かび、鈍く少し軋んだ音を立ててドア
が開いた。
 
 
ヨレヨレの絵の具だらけのシャツを着た上背のあるキタジマが、片手に掴んだ
空き缶の飲み口にタバコを押し込め、目で合図するように室内へ促した。

コースケはキタジマを睨むように真っ直ぐ見ると、小さく会釈をして中へと進
んだ。
  
 
『リコちゃんは?』 コースケは念の為に、ここにはキタジマ一人かどうか確
認する。

『・・・さっき帰った。』 キタジマは小さく返した。
  
 
 
 
教室は異様なほどの沈黙と緊張感に包まれていた。

キタジマはいつものくたびれたイスに浅く腰掛け背中を丸めるも、コースケに
イスを勧めていなかったことに気付き、慌てて立ち上がってパイプイスを渡す。
 
 
教室内を観察するように見渡していたコースケが、動きを止めて軽く礼を言い
腰掛けた。そして再び壁や棚や描きかけのキャンバスを注視する。まるでそこ
にリコの痕跡を探すような鋭い視線で。

息苦しいほどの長い沈黙に耐えられなくなり、キタジマも自分のイスに腰掛け
ると慌ててまたタバコを取り出し1本咥えた。やけに口の中が乾いていて、唇
にそれはくっ付き否応なしに感じる違和感に小さく顔をしかめる。
 
 
 
 『このままだと、リコちゃんを傷つける事になるとは思いませんか?』
 
 
 
コースケが遂に切り出した。

それは、真剣なストレートな言葉だった。
鋭い角度でキタジマを容赦なく真っ直ぐに射抜く。
 
 
『分かってる・・・。』 キタジマは下を向いたまま呟く。俯いた瞬間に少し
ずれたメガネを指先で直し、頭をボリボリ掻いて落ち着かない様子で。
 
 
そして、また二人の間に沈黙が流れた。
互いにどうしようもない思いをずっしりと抱えたまま。
 
 
『リコちゃんを、どう思ってるんですか?』 じりじりとした無言の時間の後
コースケが継いだ冷静な声音の二の句に、キタジマは一瞬言葉を詰まらせた。
 
 
 
 『彼女が好きなんですか?

  ちゃんと大切にしようと思ってるんですか??』
  
 
 
溢れ出したような矢継ぎ早な言葉に、キタジマが思わず少し笑ってしまう。

コースケの兄ケイタやマリとは親しかったけれど、今目の前にいるコースケの
事は全く知らない。しかし、顔つきや声色で本来は穏やかで優しい人間だとい
う事はすぐ分かった。

真面目で素直で、そして誰よりも心があたたかい人間なのだろうと・・・
 
 
 
 『君は、タカナシの事が好きなんだな・・・。』
 
 
 
それは決して馬鹿にした笑いなどではなく、どこか痛みに似た切ない響きだっ
た。コースケのようにまっさらな心でリコを受け止められたらと、変えられ
るはずのない現状に羨望が混じって滲む。
 
 
すると、コースケはハッキリと告げた。
  
 
 
 『彼女が好きです。

  だから、アンタのしてる事がどうしても許せない。』
 
 
  
『何も言い訳はしない・・・。』 長い静寂の後、キタジマがゆっくりと口を
開いた。
 
 
 
 『最初は・・・ なんとなく、似てる気がしただけだった・・・

  でも、どんどんその思いが強くなって

  自分でもどうしていいか分からなくなった・・・
 
 
  タカナシを傷つけようなんて思ってない!!

  ・・・そんな事しない。したくなんかない・・・。』
 
 
 
結論の出ない煮え切らないその態度に、コースケは次第に苛立ってきていた。

キタジマのそんな曖昧は思いはどうでもいいのだ。
このままじゃ何も変わらない。
もっと強い確固たる ”決意 ”を聞きたいのに・・・
 
 
コースケは怒りに任せて思い切り足を踏み鳴らし、ガバっとイスから立ち上が
ると強い口調で言い放った。
  
 
 
   『ただ、奥さんの面影を重ねてるだけなんだろっ!!!』
  
  
 
その怒鳴り声は、暗く静まり返った廊下の先まで響き渡る程だった。
 
 
 

■第194話 光

 
 
 
  『ただ、奥さんの面影を重ねてるだけなんだろっ!!!』
 
  
 
暗く静まり返った廊下に、聞き覚えのある声が響いていた。

少し前まではよく聞いていた、大好きだったその声。
いつも穏やかで優しくて、決して声を荒げる事など無かったその声。
 
 
誰より好きだった。

他の女性を想っている事に気付いても、動き出した気持ちは止められるはず
などなかった。
困ったように情けなく笑う顔も、やわらかい口調も、たまに天然なところも
全部全部好きだった。
 
 
好きだったけれど、今、自分の気持ちはもう別の人へ向かっていた。
不器用で、ぶっきら棒で、全く愛想の無い別の人へ・・・

今度こそは真っ直ぐ向き合えると、傷を負った彼の心ごと抱きしめようと思
っていた。彼女を失って一度 ”無 ”になった彼を、もう一度包み込んであ
げたいと・・・
 
 
奥さんの事はなるべく考えないようにしようと決めた。
考えたって仕方ない。競う相手じゃない。敵う相手じゃないのだ。

ただ、目の前にいる彼を心から信じようと決めた。
真っ直ぐ、彼だけ見つめようと。
 
 
帰り際、奥さんのことを無理やり聞き出し、なんとなく嫌な空気のままキタ
ジマの教室を後にしてしまったリコ。

自己嫌悪や嫉妬や諸々の抑え切れない感情が入り混じり、自宅へと向かう足
取りは重く、思い返すのはキタジマの気まずそうな横顔ばかりで思い切り後
ろ髪を引かれた。
 
 
トボトボと俯きながら駅前の商店街を通りかかった時、キタジマの好きなメ
ンチカツが最後に2つだけ残っているのを見つけ、思わず店に飛び込んだ。

『一緒に食べよう・・・。』 小さな紙袋を抱え、リコは元来た道を大学へ
とパタパタと小走りで戻っていた。
  
 
  
 
 
 
  『どうしようもないくらい・・・ 似てるんだ・・・
 
 
   ミホに・・・

   ミホなんじゃないかと思うくらいに・・・。』
  
 
  
ぼんやりと心許なくひとつだけ明かりが漏れる教室。

こんな場所でコースケの声が聴こえるなんてただの聞き間違いかと、漆黒
の廊下でリコがもう一度小さく耳を澄ませた瞬間、教室内から響いたそれ
に呆然と立ち尽くす。
 
 
そして、 ”その意味 ”が理解できた瞬間、全身の力が抜け人形のように
その場に崩れ落ちた。

今までの色んな事が急速に頭を巡る。
 
 
 
 『ミホさん・・・

  ・・・だから・・・  ”ミーちゃん ”・・・。』 
 
 
 
それは、祖母キヨがリコを呼び間違えた名前だった。
 
 
キタジマの田舎へ行った時、リコはキタジマと祖母キヨの会話を偶然耳にして
いた。盗み聞きしようと思った訳ではなかったけれど、なんとなく微妙な空気
感に触れない方がよい話題なのだと感じていた。
 
 
その時、微かに漏れ聞こえたキヨの言葉。 
 
 
 
 『・・ィーチャンに、似てるねぇ・・・。』
 
 
 
あれは、リコが亡き妻ミホに似てるという意味だったのだと気が付いた。

妻に似ているから、キタジマは優しくしたのだ。
微笑んだのだ。
抱き締めたのだ・・・
  
 
 
立ち上がろうとしても、力が入らない。
全身の力が抜け、瞬きも出来なくなっていた。
 
 
何も感じない。

声も出ない。

涙も流れない。
 
 
ただそこには虚しさだけがあった。
  
  
  
   愛されてたんじゃないんだ・・・
 
 
 
瞬きもせず見開いた目は、光を失った。
 
 
 

■第195話 拒絶

 
 
 
小さく響いた物音に気付き、キタジマが血相を変えて廊下へ飛び出した。

するとそこには、崩れ落ちるようにリコが床にしゃがみ込んでいた。
 
 
『タ、タカナシ・・・。』 キタジマは、人形のように動かないその姿に、
目を見張って息を呑む。

一度帰ったはずのリコが何故ここにいるのだろう。

慌てて近付きリコを立ち上がらせようと手を伸ばしかけた時、キタジマのその
声にコースケも教室から飛び出して来た。
 
 
すると、『・・・ら・・ないで・・・。』 リコが力なく呟く。
 
 
『ん?』 それが聞き取れなかったキタジマは、リコの傍らに跪いて耳を澄
ます。取り敢えずは教室に連れて行こうと、その一層華奢に見える背中にそ
っと手を添えようとしたその時。
 
 
 
  『・・らないで・・・ 触らないでっ!!!

   ・・・いやぁああ!!! キライ・・・ 大キライ・・・
 
 
   大っキライ、みんな・・・ 大っキライ!!! 』
 
  
 
リコが突然爆発したように叫んで暴れた。

触れようとしたキタジマの手をまるで汚いものかのように払い、今まで見た
こともないような怒りや軽蔑や悲哀がごちゃ混ぜになった表情を向けて。
 
  
キタジマは腰を抜かしたように呆然と座り込み、リコを見つめる。
先程のコースケとの話を聞かれてしまったという事を、この時はじめて気付
いたのだった。

息を呑んで何も出来ず、ただただリコを見つめる。

目の前には、ミホを失ったときのあの日の自分がいた。
光を失うつらさは誰より知っていたのに、痛みは誰より分かっているのに。
 
 
コースケもそれを泣き出しそうな顔で見つめていた。
キュッと唇を噛み締め、体の横で力無く垂れていた拳を再度握り締める。

そして、いまだ立ちあがろうとしないリコの傍らにしゃがみ込んだ。コース
ケの事も拒絶し続けるリコをなだめすかし、嫌がるリコの小脇を抱えて立ち
上がると廊下の先へ向けて覚束ない足取りで歩き出した。

一度だけ小さくキタジマを振り返ったが、そこにはまだ魂が抜けたように床
に座ったままの姿があった。
 
  
 
 『やめて・・・

  ・・・離して・・・

  ・・・キライ・・・ キライ、大っキライ・・・』
 
 
 
コースケに支えられながら、まるでうわ言のように何度も何度も繰り返し、
リコは何とか一歩ずつ一歩ずつ爪先を前に出し歩いた。

涙はひと粒も流れていない。
繰り返し繰り返し呟く声にも、まるで抑揚が無い。
壊れたレコードのようだった。
 
 
コースケはリコになんと言われても、どれだけ拒否されても、ただ黙ってそ
の体を支え、半ば抱えるようにして歩いた。

もうすっかり夜のとばりが下りた通りまで辿り着くと、リコの家の方角のバ
スに乗る。もう最終便に近い時間の車内には乗客の姿はない。一番後ろの5
人掛けの座席にリコをゆっくり座らせると、うわ言のように繰り返していた
言葉は段々小さくなり、そして止まった。
 
 
窓に頭をもたげ、窓の外に目を向けているリコ。しかしその目はぼんやりと
霞み焦点が合わず、何かを見ているという感じではない。

コースケは少しだけ離れて座った。
そして何も言わずにじっとリコを見つめていた。
 
 
恐ろしいくらいに時間がノロノロと過ぎているように感じる。
 
 
1秒でも早くリコを家に帰してあげたいのに、中々バスは到着しない。
相変わらず窓の外を見ているリコ。
その瞳は光を失くし瞬きも忘れていた。
 
 
バスは夜の商店街の前を通過する。もう閉店した店々の閉ざされたシャッタ
ーがなんだかより寂しさを誘う。いつもは賑やかなそこも、勿論あまり人は
歩いていなかった。
 
 
すると、下車するバス停まであと2つという所で、突然リコがフラフラと力
なく立ち上がりバスを降りようとした。
慌ててコースケは止めるも、そのままリコは定期券を運転手に翳し降りてし
まった。
 
 
後を追ってバスを下車したコースケ。

リコの足はもつれながらも自力で帰宅しようと前に進む。
数歩遅れて、コースケは再び黙ってそれを見守るように歩いていた。
 
 
すると、哀しい程に弱々しく響いていたリコの靴音が静かに止まった。
 
 
 
細い肩が震えていた・・・
 
 
 

■第196話 痛み

 
 
 
華奢な身体から感情が溢れ出てしまっているように細い肩を震わせるリコの
足取りは覚束無い。
 
 
それはあまりに危なっかしく、やっとなんとか片足ずつ前に出してはほんの
少し前に進んでいるような感じだった。

ヨロヨロと歩くリコが躓いてよろけた瞬間、コースケが駆け寄り腕を掴んで
支えようとしたが、リコに力無く振り払われた。
 
 
 
 『放っといて・・・。』
  
 
 
それは、ノドの奥から絞り出したような小さな小さな呟きだった。
 
 
そっと見守るように、コースケはリコのすぐ後ろを同じペースで歩く。
小さな背中が増々小さく、細く、なんだか今にも消えて無くなってしまいそ
うに見えた。
 
 
コースケは考えていた。自分がした事は正しかったのだろうか、と。
 
 
もし。今日自分がキタジマの所に行かなければ、リコが偶然立ち聞きして
しまう事も無かった。

もし。このまま変わらずに二人が一緒にいたならば、キタジマはリコの事
だけを真っ直ぐ想うようになったのかもしれない。
 
 
 
  リコは何も知らずに、ずっと幸福だったのかも・・・
 
 
 
 
 『結局、傷つけるキッカケを作ったのは・・・。』
  
 
目の前の憔悴しきったリコの背中を見つめながら、コースケは激しく痛む
胸に拳を押し付け、泣き出しそうに顔を歪めた。
 
 
もう、何をどうしたらいいのか分からなくなっていた。
 
 
空を仰ぐと、漆黒だった夜空にはいつの間にか雨雲が垂れ込め、今にも降
り出しそうなどんよりしたそれに変わっていた。
まるで、コースケの心情を写すかのように。
  
 
ただ黙って、リコの家までリコの背中だけを見守りひたすら歩いた。

坂をのぼり懐かしい一軒家が見えると、リコはまるですがり付くように歩
みを早め、なだれ込むように玄関ドアを開けそのまま家の中へ入って行く。
 
 
その背中は、一度もコースケを振り返る事は無かった。
 
 
リコの自宅の前で、コースケは上階を見上げる。
少ししてからリコの部屋の明かりが点いたのを確認すると、踵を引き摺るよ
うにトボトボと坂を下ってコースケは帰って行った。
 
 
しとしと降り出した雨が、コースケをこれでもかというかくらいに刺した。
 
 
  
 
 
 
その頃、大学ではひとり呆然とキャンバスを見つめるキタジマがいた。

片手には油が染み出したメンチカツの袋が握り締められている。
リコが廊下で崩れ落ちた時に潰してしまったのだろうか、歪な2つの形のそ
れが物悲しさをより語っていた。
 
 
ケータイを取り出し ”タカナシ ”という宛先を選択し通話ボタンに指をか
け止まる。

その指は、震え躊躇っていた。
 
 
『何を、どう言えば・・・。』 弱々しく呟くキタジマの手からケータイが
床に落ちた。ステンレス材質が堅い音を立て転がる。
 
 
そして、首から下げたネックレスを乱暴に引っ張り出すと、そこに光る2つ
の指輪を掴み思い切り引き千切ろうとするように力を込めた。

しかし、ぶるぶると震えるその不器用な手は、輝く2つの指輪を傷つける事
など到底出来なかった。
  
 
各々が抱えきれない程の大きな痛みを抱えていた・・・
 
 
 

■第197話 ノックするのは

 
 
 
  コンコン・・・
 
 
 
自室のドアがノックされた音に、リコはわずかに瞬きだけで反応した。
 
 
カーテンも閉めっ放しの薄暗い部屋で、床に体育座りをし壁に背をもたれて
小さく小さく体を縮こめている。

無音の部屋には時計の針が1秒ずつ進む音だけが響き、リコの吸って吐く呼
吸のそれさえも秒針に負けて聴こえてはいない。
 
 
誰にも会いたくないし、話したくないし、動きたくないというのに執拗に何
度もノックされ、リコはうんざりしながらもそんな表情さえその能面のよう
な頬には表れない。
 
 
ゆっくりと立ち上がり、ドアノブに手を掛け数センチだけドアを開いた。

すると、そこにはマリが立っていた。
 
 
やっと開いたドアの隙間からマリは小さく微笑むと、片手に持ったケーキの
箱を目の高さまで上げ、『ここのケーキ美味しいのよ!』と笑った。
 
 
リコは心の底から誰とも話などしたくないと思っていた。
マリが来た理由はキタジマのことだろう。それなら余計に話をするつもりは
なかった。
 
 
しかしリコは追い返そうとする拒否反応すら現せない程、憔悴していた。
そんなパワーはリコのボロボロになった細い体には残っていなかったのだ。

マリは半ば強引に部屋に入って来る。その後ろで心配そうな顔をした母ハル
コの姿が見切れた。ハルコが訪ねて来てくれたマリを後押ししているのは明
白だった。
 
  
 
 
死んだように静まり返った部屋に、二人。
 
 
まるで深い水の底のように暗くて息苦しくて、マリは余計に気が滅入ってし
まう感じがして哀しげに眉根をひそめる。

リコは再び壁に背をもたれ崩れるように座り込んだ。
『お邪魔するね。』 マリは努めて明るくそう言って、リコから少し離れた
場所に同じように壁にもたれて美しく横座りをした。
 
 
沈黙が二人を覆い尽くす・・・
 
 
マリも何も話さない。
たまにチラっとリコの様子を横目で盗み見ているだけだった。
 
 
すると、再度ドアがノックされ母ハルコがお茶とお皿が乗ったお盆をマリへ
と渡した。マリはそれを受け取ると、手土産のケーキを皿へと取り出す。

リコは目の端で一瞬それを見たが、どんなに美味しそうなものでも一口も食べ
る気などなかった。
 
 
 
 『ここのチーズケーキは世界一よっ!』
 
 
 
そう言いながら、そのチーズケーキとの出会いをマリは誰に聞かすでもなく
語り始めた。フォーク片手に、懐かしそうに嬉しそうに頬を緩めて初めて食
べた日のことを生き生きと話す。

そしてお皿の端にフォークを乗せると、無理矢理リコの手を引き力の入らな
いその痩せた手の平の上にお皿を持たせた。
 
 
『くぅ~、美味しい~!!』 マリがニコニコしてケーキを頬張る。
目をつぶって肩をすくめて頬まで赤く染めて、まるで子供のように。

しかし、リコはケーキが乗った皿をただ手に乗せたままで、再びマリから顔を
背けて壁にもたれた。
 
 
再び、耳が痛くなるような無音の時間が流れた。
 
 
すると、
 
 
  
 『私・・・ リコちゃんに言えなかった・・・。』
 
 
 
マリが皿をローテーブルの上に置き、まっすぐ前を向いて呟いた。

それは今までのチーズケーキに熱くなっていた明るい口調とは全く違う、
真剣で真っ直ぐな響きを持って響く。
  
 
 
 『きっとリコちゃんは、

  ミホさんのこと全部知ってて

  わざと黙ってたって思ってるんだよね・・・?     
 
 
  ・・・実際、確かに黙ってはいたんだけど・・・。』
  
 
 
リコはそれにも人形のようにぴくりとも動かない。
表情ひとつ変えず瞬きひとつせず、マリに顔を背けたまま。
  
  
 
 『だってね・・・

  あんなに嬉しそうにリコちゃんのこと話すキタジマさんを見たら

  どうしても・・・
 
 
  ・・・どうしても、言えなかったの・・・。』
 
 
 
その瞬間、リコがゆっくりと瞬きをした。
 
 
 

■第198話 マリの言葉

 
 
 
 『あんなに嬉しそうにリコちゃんのこと話すキタジマさんを見たら

  どうしても・・・
 
 
  ・・・どうしても、言えなかったの・・・。』
 
 
 
マリの真剣な言葉に、リコがゆっくりと瞬きをした。

しかし、そちらに顔を向ける事は無い。青白い顔のうつろな目で、ぼんやり
と何処を見るでもなく見ている。
 
 
マリはひとつ息を付くと、意を決したように話し始めた。
  
 
 
 『リコちゃんの気持ちを考えたら、

  ・・・やっぱり・・・ 凄く傷付くと思うし

  絶対にそんなことはしてほしくないって、分かってる・・・
 
 
  でもね・・・

  リコちゃんをミホさんの代わりみたいに思ってた訳じゃないのよ・・・
 
 
  あの人は、そんな事が出来る人じゃない。

  賭けてもいい! キタジマさんは、そんな人じゃないの・・・。』
  
  
 
マリが話をやめた途端に、また時計の針が刻む音が室内に響く。

震える胸にそっと手を当て、もうひとつ覚悟を決めたようにマリは再びリコ
をしっかり見つめた。 
 
 
  
 『生きながらも死んだ人みたいになってたキタジマさんが、

  またあんな風に笑う事が出来たのは、

  全部全部、リコちゃんのお陰なのよ・・・
 
 
  キタジマさん・・・

  リコちゃんの話する時、なんだか凄っく楽しそうで・・・
 
 
  まるで高校生に戻ったみたいに、キラキラしてたわ・・・
 
 
  たまに思い出し笑いみたいに、嬉しそうに笑いを堪えたりして。

  ”アイツがアイツが ”、って・・・。』
 
  
 
マリが目を細め俯いて微笑んだ。
キタジマの照れくさそうなやわらかい表情を思い出していた。
  
   
  
 『ミホさんにどこか似ていて、

  一番苦しかったのは、キタジマさんなんじゃないかな・・・
  
 
  ミホさんが亡くなったのを、

  自分のせいだと、ずっとずっと悔やんでたみたいだし・・・

  勿論、リコちゃんへの後ろめたさも・・・
 
 
  何よりリコちゃんを傷つける事を恐れていたと思うし・・・。』
  
 
 
永遠かと思うような沈黙が、リコとマリに流れていた。
マリはそれでもリコを静かに見つめ、ただひたすら優しい無言を続けた。
 
 
すると、
 
 
 
 『ぜ、全部・・・ 受け止められると、思って、たの・・・。』
 
 
 
どのくらいの時間が過ぎただろう。
リコが俯いたまま、かすれた声で途切れ途切れに呟いた。
  
 
 
 『傷付いたキタジマさんを、

  全部・・・ 奥さんごと、全部・・・

  受け止めたかった・・・
 
 
  ・・・受け止められると、思って、たの・・・ なのに・・・。』
  
 
 
リコの肩が小さく震えはじめた。
  
  
 
 『私・・・ ダメだったぁ・・・・・・
 
 
  ぜんぜん・・・ ダメだった、私・・・。』
  
 
  
その瞬間、リコが悲鳴のような泣き声を上げた。

それは、心臓をえぐられるような悲痛な響きとなって木霊する。リコの瞳か
らダムが決壊した様に一気に涙が溢れて流れる。
 
 
マリは静かに近寄ると、思い切りリコを抱き締めた。
何も言わずただ優しく抱き締める。

マリの胸にもリコの痛みが苦しいくらいに直に伝わる。ギュっと目を閉じて
深呼吸し、マリはその痛みを少しでも吸収しようとした。
 
  
  
 『キタジマさんの隣で・・・

  キタジマさんが絵を描く姿を・・・ ずっと・・・

  ・・・ずっと・・・ 見てたかったのに・・・。』
 
 
 

■第199話 落ち込む理由

 
 
 
マリは何も言わずに、リコの震える肩を優しく優しく包んでいた。

天を仰ぎ大きな声を上げて子供のように泣きじゃくるその身体は、憔悴しき
って痩せて、あまりに哀しく心許ない。
 
 
リコは、キタジマに裏切られた思いだけで落ち込んでいるのではなかった。
全てを受け止められなった自分自身にも心の底から失望していたのだった。
 
 
すると、『それとね、リコちゃん・・・。』
 
 
マリが、リコの背中をトントンと手の平で優しくリズミカルに叩きながら話
し始めた。
 
 
 
 『コーチャンを責めないであげてほしいの・・・
 
 
  私からキタジマさんの話を聞いて、

  早い段階でミホさんの事に気付いてたコーチャンも、

  まるで自分の事のみたいに、悩んで、苦しんでたのよ・・・。』
 
 
 
リコの泣き声が一瞬止まり、身を縮めて硬くした。

そして ”コースケ ”という固有名詞に、再び顔をくしゃくしゃに歪めて
ぎゅっと目を瞑り唇を噛み締める。
 
 
マリは、リコのことだけを想って確固たる決意でキタジマの元へと向かった
あの日のコースケの背中を思い出していた。
 
 
 
 『 ”リコちゃんを泣かせたくない ”、って・・・

   ”リコちゃんが傷付く前に俺がなんとかする ”、って・・・。』
 
  
  
その時、リコのマナーモードにしているケータイが小さくバイブ音を立て
振動して光った。
その画面には ”コーチャン先生 ”と、メール送信者の名前が表示される。
 
 
それを涙で潤んだ目で見ると、リコが囁くように小さな声で言った。
 
 
 
 『あの日から、毎日・・・ メールが、来るの・・・
 
 
  でも、

  励ましたりとか、慰めたりとかじゃなく・・・

  なんてことない、他愛ない内容の・・・。』
 
 
 
マリの胸が急激に痛みを増し、その瞳は今にもこぼれそうに雫が揺れる。

コースケは、結局は自分がリコをこんな風に傷つけてしまったと心から後悔
しながらも、それから目を逸らさずに逃げずに必死にリコを見守ろうともが
いている。四六時中ケータイを見つめて文章を考えている横顔を思い返した。
 
 
抱き締めていたリコから体を離し、真っ直ぐ正面から見つめてマリは言った。
 
 
 
 『コーチャンを恨まないであげてほしいの。』
 
 
 
リコが泣き腫らした真っ赤な虚ろな目で、弱々しく見つめ返す。
それはまるでマリに助けを求めるような、迷子の子供のような瞳だった。
 
 
 
 『あなたは、たくさんの優しい人たちに愛されてるのよ・・・。』
 
 
 
マリが微笑んだ。
聖母のようなやわらかい表情で、しかし1本芯の通った凛とした瞳で。
 
  
そして、マリは帰って行った。
『ケーキ、美味しいから食べてね。』と肩をすくめて無邪気に笑って。
 
 
 
マリがいなくなった自室で、ひとり。
帰り際に残した言葉を、リコはそっと思い返していた。
 
 
 
 
  
 (本当に縁がある人とは、

        例え今は離れたとしても、必ずまた巡り会うわ。)
 
 
  
 
 
それはまるで、自分自身に言い聞かせているような言葉だった。
真っ直ぐ胸に突き刺さり、そしてじんわりと優しく広がる。

体育座りで壁にもたれたまま、顎を上げ天井を仰いだリコ。
床に放置したままのケータイに手を伸ばしそっと引き寄せ、指先でタップ
して新着メールを読んだ。
 
 
 
  ◆今日、園に途中入園してきた子がいるんだ。

   でも全然みんなと仲良くしようとしない(汗)

   あの手この手を使ってみるんだけど難しいね~ ◆
 
  
 
ケータイを握る手が小刻みに震えて、涙の粒が頬のカーブを伝って落ちる。

リコが落ち込むもう一つの理由・・・ それは、コースケへの誤解。
 
  
 
 『どう謝ればいいのよ・・・。』
 
 
 
ケータイを抱き締めるように胸に押し付け、体を小さく小さく縮めて膝に
顔をうずめる。

再び、とめどない涙が流れた。
 
 
 

■第200話 それぞれの春

 
 
 
そして時は流れ、新しい春がきた。
 
 
リコはあの日以来、キタジマの元へ通うことはなくなった。
たまに校内ですれ違っても、俯いて目を合わせる事もない。

しかし、リコの目はその姿を見つけようといつも無精髭を探していた。
哀しいほど不器用でちっぽけな、キタジマの背中を。
 
 
コースケは無事大学を卒業し、引き続き夜間の学校で幼児教育を学んでいた。
昼間はバイトや園の手伝いをし、忙しい日々を過ごしていた。
 
 
リュータは、この街から遠く離れた場所で新社会人として働きはじめていた。

社員寮が完備されたその会社で、毎日毎日慣れない環境とはじめての仕事と、
ナチのいない寂しさに堪えそれでも懸命に新社会人の一歩を踏み出していた。
 
 
ナチは結局あれから一度もリュータに会う事はなかった。
リュータが旅立つ日も見送りには行かなかった。

短大2年になったと思ったらすぐ就職活動が始まり、ナチも忙しい毎日の中
で何かを吹っ切ろうと必死だった。
 
 
そしてキタジマからは再び笑顔が消えた。
うつろな目で闇雲にキャンバスに向かうだけの日々に逆戻りしていた。
 
 
みんなが各々、必死にもがき苦しんでいた・・・
 
  
  
 
 
 『私、向こうで就職しようかな・・・。』
 
 
俯き加減にナチがアカリに相談する。

リュータがいなくなった部屋はアカリ一人が住むには広すぎたが、親に甘え
て家賃の半分を負担してもった為、変わらずこの部屋に住み続けていた。
 
 
『向こうって、リュータがいる街?』 アカリがソファーに寝転がりお菓子
を食べながら片手間に返事をする。そして、”その話題はしたくない ”とで
もいうように、リモコンでテレビのボリュームを少し上げた。
 
 
 
 『やめときなよ、そんな事。

  リュータ追っかけてくなんて、無駄無駄っ!』
 
 
 
何故かアカリはこの話題になると真剣に取り合ってくれない。
真っ直ぐテレビに見入って、あからさまにナチに背中を向けている。
 
 
しかし、アカリが反対するまでもなく、ナチの親がナチを手元から離す事
など到底考えられる事ではなかった。

ただ、ちょっとだけアカリに話を聞いてほしかっただけだったのだけれど。
 
  
 
  ♪~♪・・♪♪~~・・・  
 
 
 
その時、アカリのケータイが着信メロディを奏でた。
 
 
『なに?』 第一声としては信じられない程に冷たい一言。

ナチはアカリをチラリと横目で見て、小さく笑う。こんな態度をとるって
事は電話向こうの相手は一人しかいない。
 
 
 
 『意味わかんないんだけど?』
 
 
 
アカリはまるで怒っているような素っ気ない口調でブツ切りに返す。
でもそれは素直じゃないアカリの照れ隠しに他ならなかった。
 
 
 
 (ヒナタ君と、なんだかんだ言って仲いいんだな・・・。)
 
 
 
ナチは小さく頬を緩ませるも、寂しさと羨ましさを隠せなかった。
 
 
 

■第201話 アカリのため息

 
 
 
 『どうしたんですか? 元気ないじゃないですか~?』
 
 
 
日曜の夕方。休日の夕飯で混み始めたお好み焼き屋に二人の姿があった。

四人掛け席に向かい合って座り、お好み焼きを焼きながらヒナタが尋ねる。
なんでも器用にこなすその手先は、手際よくテキパキと生地を混ぜ、鉄板
に流して美しく丸く形を作り、まるで食品サンプルのようなそれ。
 
 
そんなヒナタの向かいに座るアカリは、ヘラを片手に頬杖をついてさっき
から溜息ばかり付いているのだ。
 
 
 
 『なんか悩み事でもあるんですか~?

  ぁ・・・ もしかして、バイトの事とかですか~?』
 
 
 
小首を傾げ顔を覗き込むヒナタに、『うるっさいわね! 早く焼いてよ!』
アカリが目を眇めて不機嫌そうに言い放つ。
 
 
ヒナタはそんなアカリを見て、『いつも通りのアカリさんでしたね?』と
愉しそうにケラケラと笑った。
 
  
 
 『私の友達、みんな最近元気なくてさ・・・。』
 
 
 
ヒナタが焼き上がったお好み焼きを6等分にし、アカリの目の前の鉄板へと
それを移動させ皿や割り箸など全ての準備を整えて満足気な顔を向けた時、
さも当たり前といった顔でそれを受け取り、なんの反応もせずにさっそく食
べはじめながらポツリと話し出したアカリ。
 
 
『なんか・・・ 私も一緒に凹むわ・・・。』 片方の奥歯でだけモグモグ
噛んで、そう呟きまた大きな溜息をついた。
 
 
何も気にしていない風に平静を振舞っていたアカリだったが、リコやナチが
塞ぎ込んでいるのをとても心配していた。

特にナチに関してはリュータが関わっている事だけに、ナチの気持ちも分か
るしリュータの言い分も分かる。分かりすぎるだけに辛かったのだ。
 
 
誰より近くで心配しているにも関わらず、それを素直に表に出せないアカリ
だった。
 
 
ヒナタは、頬杖をついて溜息ばかりのアカリをニコニコしながら見ていた。
そして、次の焼きそばを焼き始めながら優しく言う。
 
 
 
 『お友達の溜め込んでる愚痴を

  とことん聞いてあげるのが一番なんじゃないですか~?』
 
 
 
すると、アカリはガックリと肩を落とし、もう一つ大きな大きなため息を
落とした。
 
 
 
 『だってさぁ・・・

  ・・・私、聞き下手っていうか・・・

  こう・・・ なんて言うか、
 
 
  ちゃんと聞いてるんだけどさぁ・・・

  ・・・巧く返せない、って言うか・・・。』
 
 
 
珍しくアカリが歯切れ悪くモゴモゴ言っている。

口を尖らせ眉根をひそめて、箸を持っていた手も置いて無意味に絡めた
指先をぼんやりと見つめながら。

本当はとても友達思いの優しい子だが、アカリもまた不器用で要らない
事はすぐ口に出すくせに、大事な事となるとてんで伝えられないタイプ
だったのだ。
 
 
ヒナタは焼きそばを焼く手を止め、真っ直ぐアカリを見て言った。
 
 
 
  『巧い返事とかアドバイスなんか要らないんじゃないですかね~?

   なんならお酒でも飲んで、

   ひたすら愚痴を聞いてあげれば、それだけで・・・。』
 
 
 
すると、アカリは『そっか・・・ そうだね!!』と素直に頷いた。
 
 
週末にでもリコとナチを家に呼んで、飲んで食べて騒いで大いに愚痴る会
でも催そうか。なんなら泊まりで来てもらってもいい。世に言う女子会と
いうヤツだ。最近三人で集まっていないし、丁度いいかもしれない。

『うん、うん。』 とアカリが一人、自分の中だけで納得して満足気に頬
を緩め頷いている。一度止まった箸をまた持つと、嬉しそうに美味しそう
に再び頬張り始めた。
 
 
そんな様子をヒナタは優しく微笑んで見守っていた。
クルクルと面白いほどに表情が変わるアカリが愛おしくして仕方ない。

ヒナタは鉄板の上をスライドさせて焼け焦げた野菜をこそげていたヘラを
持つ手を止めると、背筋を正して真っ直ぐアカリを見つめる。
 
 
 
 
  『アカリさん、僕と付き合いませんか?』
  
  
  
その一言に、アカリが目を見開いて固まった。

驚いて手を引っ込めた拍子に倒してしまったグラスの氷が、鉄板の上で音
を立てて溶けた。
 
 
 

■第202話 ヒナタのため息

 
 
 
会計を済ませ、お好み焼き屋を出た二人。
 
 
アカリはまるでヒナタから逃げるように、やたらと早足で歩き出した。
そんなアカリの背中を見て、笑いを堪えながらヒナタが追い掛ける。
 
 
アカリが大慌てで立てるヒールの音が藍色の夜空に高らかと鳴り響き、
ヒナタは美しいフォームでアスファルトを蹴り上げ走り追い付くと、アカ
リの腕を後ろから優しく掴んで笑った。
 
 
 
 『だから~・・・ 僕、足速いんですってば~!』
 
 
 
『ついて来ないでよっ!』 アカリが眉根を寄せて、その掴まれた腕を振り
払おうとするが、優しくもしっかり掴まれたそれは振り解く事が出来ない。
 
 
二の腕の辺りを掴んでいたヒナタの手が、ゆっくりと下にさがってゆく。
二の腕から肘の辺りへ。そして、更に下がってアカリの手をそっと握った。

ヒナタの手は意外にとても冷たい。
 
 
 
 『意味わかんない・・・。』
 
 
 
アカリが耳まで真っ赤になって俯く。
 
 
その言葉を聞いてヒナタが笑った。
握った手に少しだけ力を込めて、小首を傾げアカリを覗き込みながら。
 
 
 
 『意味わかんない事ないでしょ~?』
 
 
 『私より年下じゃん・・・。』
 
 
 
尚もアカリは下を向いたまま。

しかし、しっかり繋がれたその手は離そうとはしていない。恥ずかしくて
仕方なさそうに不機嫌顔をして、ただひたすら今日のために買った新しい
サンダルの爪先を眇めている。
 
 
 
 『年下って言ったって、何ヶ月かしか違わないじゃないですか~。』
 
 
 
ヒナタは愉しそうにケラケラと笑う。

早生まれのアカリは学年で言えばヒナタより一つ上だが、春生まれのヒナ
タとはほんの数か月の差しかないのを、もう既にヒナタはリサーチ済みだ。
 
 
 
 『誰にでも・・・

  そうやってニコニコしてるくせに・・・。』
 
 
 
もう今となっては、すねた子供のようなアカリ。

欲しいおもちゃは独り占めしたくてしょうがないのに、そのおもちゃは皆
から人気があって、それが憎らしくて悔しくて、そして寂しい。
 
 
 
 『だって接客業だもん、当たり前じゃないですか~!』
 
 
 
そんな子供みたいな膨れっ面を隠そうともしないアカリを見つめ、ヒナタ
は上機嫌に大笑いする。
 
 
そして、いまだ下を向いたままのアカリをそっと覗き込みヒナタは微笑ん
で言った。
   
  
  
 『僕、アカリさんが大好きですっ!』
 
 
 
それは恥らったり迷ったりする事のない、真っ直ぐな言葉だった。
素直で無邪気で一点の曇りも無いヒナタという人間、そのもので。
 
 
恥ずかしいのと照れ臭いのと信じきれないのと、色々な気持ちで混乱して
アカリはたった一言の憎まれ口を吐くことすら出来なくなってしまった。

ただ、不機嫌な顔をして口を真一文字に結び、まるで不貞腐れた子供の様。
 
 
『アカリさん・・・?』 暫くの沈黙の後、ヒナタはアカリの次の言葉を
促した。それは、やわらかいけれど確かな返事を待つヒナタの呼び掛けで。
 
 
困り果てたアカリが渋々と顔を上げる。

その顔は情けなく、口元は何か言いたげに微かに動いているがいつもの勝
気なそれも今回ばかりは出て来ない。
 
 
そして、やっとアカリの口から出てきたのは、力なく自信ない小さな言葉
だった。それは、あまりに心許なく弱々しく震えてこぼれる。
 
 
 
 『だって・・・

  だって、私の事なんにも知らないくせに・・・
 
 
  今までだってそうだもん・・・

  ・・・キライになってすぐ逃げ出すんだから、みんな・・・。』
 
 
 
それを聞き、ヒナタがかぶりを振って小さな溜息をついた。
そして顔を上げ真正面からアカリを見つめると、胸を張って言い切った。
  
 
  
 『大丈夫っ!

  アカリさん、大丈夫です。

  ・・・僕らなら、ゼッタイ大丈夫っ!!!』
  
 
 
何故かその自信満々すぎるヒナタの言葉に、一瞬目を見張りキョトンと固
まって『意味わかんない・・・』とアカリが仏頂面のまま笑いを堪えた。
 
 
すると、
 
 
 
 『まぁ、根拠はないんですけど・・・ でも大丈夫ですよ!』
 
 
 
ヒナタは満面の笑みで握ったままのアカリの手に更に更に力を込める。

そしてその手をアカリの目の高さまで挙げると、俯いていたアカリも顔を
上げ繋がれた指先にはじめて照れくさそうに力を込め返した。
 
 
 
二人、しっかり手を繋いで星が満天の夜空の元ゆっくりと歩き出した。
  
 
 
繋ぐ手がこんなに温かい事を始めて知った夜だった。
 
 
 

■第203話 3人

 
 
 
  ◆土曜日ウチに来て。泊まりで。
 
 
 
リコとナチの元へアカリから届いたメッセージ。

その文章ひとつにも、アカリの人となりがよく表れている。到底女の子と
は思えない素っ気ない文章に、リコもナチも呆れて少し笑った。
 
 
何の用事なのかも何も分からない状況で、久しぶりに三人で集まった土曜
の午後。先に着いたリコがアカリの住むアパートのドアチャイムを鳴らし
既に開錠されていたドアを開けて中に入ると、アカリがエプロンをしてキ
ッチンに立つ姿が真っ先に目に入った。
 
 
『アカリ・・・? どうしたの?』 驚きすぎてポカンと口が開く、リコ。

すると、玄関先で呆然と立ち止まっているリコに、タッチの差でやって来
たナチがそこに誰か突っ立ってるなんて思いもせずに玄関に進入し、思い
っきりリコの背中におでこを打った。
 
 
 
 『リコ~・・・

  なんでこんなトコで止まっ・・・ァ、アカリっ?!』
 
 
 
ナチもアカリのエプロン姿を見て、目を見開いて驚く。金魚のように口は
パクパクと開いたままで。
 
『何よっ?! 早く入りなさいよっ!』 そんな二人の反応に、アカリは
片頬を歪め不機嫌そうにアゴでリビングへと促した。
 
 
リビングに入ると、テーブルの上には色とりどりの料理が所狭しと並んで
いた。ビールやら缶チューハイなどアルコール類も各種揃えられている。

リコとナチが無言で顔を見合わせた。互いに目配せをし合い、眉根をひそ
め小首を傾げ全く同じ表情をしている二人。
 
 
 
 『今日の事ってなんか聞いてた?』

 『全く。なんにも。』
 
 
 
二人でコソコソと訝しげに確認し合う。

実はアカリは意外に料理が出来た。しかし、リュータと暮らしていた時は
全部リュータに任せていた為、誰もアカリが料理をしている姿など見たこ
とがなかったのだ。
 
 
すると、『さぁっ! 飲んで食べて騒ぐよっ!!』

唐突にアカリが珍しく高めのテンションで声を上げた。
そして、まるで台本のセリフを言うようにぎこちなく棒読みで言う。
  
 
 
 『あああんた達の愚痴を・・・ 今日はとことん聞くからー・・・。』
  
 
 
リコとナチが一瞬固まり、再び顔を見合わせる。

そして、二人は大笑いした。
『あははははっ!!!』 涙を流し、腹を抱えて笑い続けている。
 
 
『なによっ! なに笑ってんの、ちょっと!!』 アカリが真っ赤になっ
て恥ずかしくて仕方なさそうに怒っている。子供のように手を振りまわし、
ジタバタと暴れて笑われることに納得いかない不満顔で。
 
 
しかし、リコとナチは尚も笑い続ける。
苦しそうにカーペットに突っ伏して笑い続ける。

アカリはあまりに笑われ続ける事にムキになり、リコとナチの腕を掴んで乱
雑に引っ張ると二人の目には涙が滲んでいた。
 
 
少しずつ少しずつ笑い顔だったはずが、クシャっと崩れた泣き顔に変わる。
 
 
そして遂に、頬には涙が伝った。
ナチが顔をくしゃくしゃに歪めて声を上げて泣き出した。すると、リコもそ
れにつられるように、しゃくり上げて泣いた。
 
 
部屋には胸が切り裂かれそうに切ない泣き声が響く。
 
 
アカリはそっとその場にしゃがみ込むと、優しく優しく二人を抱き締める。
二人の背中に片手ずつ回し、ぎゅっと抱き寄せて背中をトントンと叩いた。
 
 
アカリの下手くそな優しさが胸に沁みた二人だった。
 
 
 

■第204話 電波の向こう

 
 
 
アカリは、リコとナチ二人を優しく温かく包む。

ぎゅぅううっと愛情を込めて大切そうに抱き締め、そして二人の顔を交互に
じっと見つめ言った。
  
 
 
 『アンタ達ふたりとも、逃げちゃダメだよ・・・。』
 
  
 
リコもナチもきちんと各々の相手と向き合って話をしないままに、逃げ出す
形で今に至る。このままでは、気持ちに整理などつくはずがなかった。
 
 
アカリはナチの方を向き、顔を覗き込むようにしてナチの本音を探ろうとし
た。しかし、ナチは自信なさそうに弱々しく目を逸らして俯いてしまった。

次はリコの方を。リコはただただ哀しそうな顔をして、情けない愛想笑いを
浮かべただけだった。
 
 
アカリは眉尻を下げ困った顔でひとつ息をつく。

そして、リビングのテーブルに置きっぱなしの自分のケータイを引き寄せ、
指先でタップすると、『ほら。』 

それをナチに押し付け手渡した。
 
 
『ん?』 ナチは突然のそれに意味が分かっていない顔を向けながらも、
それを軽く耳に当てるとケータイからはコール音が響いている。
 
 
そして、4コール目で通話状態になると、ずっとずっと聴きたくて仕方が
なかった声が流れた。
 
 
驚き慌ててナチは耳からケータイを離し、アカリへと返してしまう。
その顔はもう既に哀しく歪んで、イヤイヤとまるで子供のように首を横に
振って。

しかしアカリは再びナチの手へ押し戻す。 『ナチ、ほら。』
その間も、ケータイから低い声が小さく漏れ聞こえていた。
 
 
 
 『もしもし?

  アカリ? おいっ! ・・・もしも~し??』
 
  
 
ナチが今にも泣き出しそうな子供のような表情で、恐る恐るケータイを耳
に当てた。その手は小さく震え、呼吸すら止めてぎゅっと口をつぐんで。
 
 
 
ずっと一緒にいるのが当たり前だと思っていた。
離れるなんて夢にも考えた事がなかった。
なのに、リュータはひとりで遠くの街へ行ってしまった。
 
  
 
『なんだよ・・・ 切るからな~』 アカリから着信があったのに何の反応
もないため、リュータはぶつくさ文句を言ってケータイをオフにしようとし
たその瞬間。
 
 
 
 『・・・リュータ、さん・・・。』
 
 
 
ナチは既に涙声になっていた。

喉がつかえるような息苦しさに、上手く声が出せない。
それでも、小さな小さな震える声で電波の向こうにいるリュータへ、ありっ
たけの勇気を出して呼び掛けた。
 
 
すると、その瞬間沈黙があった。
 
 
その居心地の悪い沈黙で、ナチはもうリュータに嫌われたのだと悟った。

今まで我がままばかり言ってきた。泣いて怒っていじけて、リュータを困
らせてばかりいた。離れた今、もう新しい恋でも見付けたのかもしれない。
 
 
『ごめん・・・ 切るね。』 蚊が鳴くように切れ切れに呟いたナチに、
リュータが大慌てで叫んだ。
 
 
 
 『ま、待てってばっ!!』
 
 
 
必死に繋ぎ止めたはいいが、何をどう話をしたらいいのかも分からない。
再び、どうしようもない無言の時間が流れる。
 
 
今まであんなに当たり前に話をしてきたのに。
全てが今まで通りとはいかない。
 
 
ただ互いの居場所無げな呼吸だけが微かに聞こえていた。

ナチはもう苦しくて苦しくて、いっそのこと電話を切ってしまいたかった。
大きな目には涙がゆらゆらと揺らぎ、今にも零れそうに・・・
 
 
すると、
  
 
『元気だったかぁ・・・?』 静かに、優しくリュータが話しかけた。
リュータの心臓もまるで壊れてしまったかのようにアベコベに暴れる。
 
 
『ぅん・・・。』 ナチは震える両手でケータイを掴み、コクリと頷く。
中々うまく声が出せなくてもどかしくて、その何百倍も怖くて仕方なくて。
 
 
 
 『就活・・・ はじめてんのかぁ・・・?』
 
 
 『ぅん・・・』
 
 

  
 
 『ちゃんと、メシ・・・ 食ってんのかぁ・・・?』
 
 
 『ぅん・・・』
 
 
 
『 ”うん ”ばっかだなぁ~・・・。』 リュータが電波向こうで小さく
笑う。その笑い声が懐かしくて優しくて、ナチの胸を容赦なく締め付ける。
 
 
ナチはケータイを手で包んで口から離すと、顔を背けてクシャクシャに歪
めて泣いた。涙が次から次へと溢れだし、まあるい頬を伝って顎から滴る。
 
 
リュータに泣いていることを知られたくない。
これ以上迷惑かけたくない。
困らせたくない。

これ以上、嫌われたくない・・・
 
 
 
必死に泣き声を殺すのがやっとで、跳ねる胸が苦しくて呼吸が出来ない。
再び、歯がゆく窒息しそうな程の沈黙が暫しふたりの間に流れた。
 
 
すると、
  
 
 
 『・・・すげー、しんどいよ・・・。』 
 
 
 
リュータがポツリと呟いた。
 
 
 

■第205話 Reスタート

 
 
 
『・・・すげー、しんどいよ・・・。』 リュータがポツリと呟いた。
  
 
 
ナチはギュっと痛む胸に顔をしかめる。

仕事がつらいのか、慣れない環境か、周りの人達とうまくいっていない
のか色々な想像が瞬時に頭を巡った。

しかしもう今となっては、自分なんかに出来ることなど何もないのだと
ナチは哀しげに目を伏せる。
 
 
すると、リュータはしずしずと口を開いた。

悩んで悩んで言っていいのか否か自分の中で散々葛藤した末のそれは、
格好悪いくらいに震えて落ちた。 
  
 
  
 『す、すげー・・・ しんどい・・・

  もう、死にそうだ・・・
 
 
  ・・・ナチが、いないのは・・・ しんどい・・・。』
  
 
  
その瞬間、ケータイの向こうのナチが驚いて息を止めた気配が伝わる。
そして涙に詰まった鼻を慌ててすする音が小さく小さくリュータの耳をく
すぐった。
 
 
リュータもそれが伝染したように一気に鼻の奥がツンと痛みを発する。
しかし必死にそれを堪えて、優しく優しくナチの名を呼び掛ける。
 
 
 
 『・・・ナチぃ?』
 
 
 
ナチは口元に手の平を当て、しゃくり上げそうな声を必死に殺している。

その反動で涙の雫が溢れ、フローリングの床にぺたんこ座りをする膝に
切ない程に水玉模様が現れる。
  
 
  
 『今更・・・

  待っててほしい、なんて・・・ 都合いいって分かっ・・・』
 
 
 『ちゃんと言ってよっ!!』
 
  
 
リュータの言葉を遮って、ナチが大声で言い返した。
もう堪え切れず爆発するように、涙声も隠すことなくしゃくり上げながら。
  
 
 
 『ちゃんと、言ってくれなきゃ・・・

  なんの約束もなかったから・・・
 
 
  ・・・ただ、勝手にひとりで待つだけじゃつらいよぉ・・・

  そんなんじゃ、寂しいよぉ・・・。』
  
 
  
必死に冷静を装っていたリュータも、心臓が大きく鳴っていた。
ケータイを握る手も微かに震えている。
 
 
目を瞑って呼吸を整え、ゆっくり、丁寧にリュータが囁いた。
  
 
  
 『・・・3年で、必ず、戻るから。』
  
 
 『遅いのよっ! バカっ・・・。』
  
 
  
勢いよく怒鳴った後、ナチは子供のように声を上げてわんわん泣いた。
背中を丸め、顎を上げて、目も鼻も耳も真っ赤に染めて。

しかし耳に当てるケータイだけは、なにがあっても決して離さずに。

その様子を微笑んで見つめるリコとアカリの目にも光るものがあった。
 
 
 
 
切れたケータイをまだ耳に当てたまま、リュータも一人、寮の狭い部屋で
目を閉じていた。
 
 
深呼吸を何度も繰り返す。今起こったことが現実か夢か、まだ信じきれて
いないように、そっと手の平を胸に当てると心臓が驚く程に早鐘を打って
まるで他人事みたいに感じる。
 
 
そして、ケータイを見つめた。
指先でタップしてメールの画面を開き、保存メールを表示する。
 
 
リュータが照れくさそうに嬉しそうに頬を緩める。
 
 
そこには、今までナチへ送る事が出来なかった未送信メールが何通も何通も
保存されていた・・・
 
  
  
リュータとナチの長い長い3年間が始まった。
 
 
 

■第206話 最後の言葉

 
 
 
教室のドアをゆっくり開ける。
古く軋んだ音を立てて重いそれは右方向にスライドした。
 
 
たった少しここに来なかっただけで、まるで何年も来ていないかのような
感覚に陥った。
 
 
埃っぽく、タバコのにおいが充満するどんよりとした教室。きっと掃除も
換気もしてなどいないのだろう。ふと見ると、そこかしこに散らばってい
るいつものブラックコーヒーの空き缶が。窓の桟に並べられた空き缶には
山のようなタバコの吸殻が押し込められているのだろう。
 
 
少し首を傾げて見つめた先には、増々汚い格好で髪の毛もボサボサのキタ
ジマが見えた。

その猫背の背中は、絵に集中していてドア付近にリコが立っている事にも
気付いていない。出会った頃を思い浮かべて、リコは懐かしさと淋しさで
いっぱいになっていた。
 
 
いまだリコに気付かないキタジマ。

キャンバスに広がる色彩にどこか納得がいかなそうに絵筆を横の棚に放る
と、タバコを吸おうとして箱を取り出ししかし中は空だった事に気付き、
買いに行こうと振り返った。
 
 
 『・・・タっ。』
 
その目がリコを捉えた途端、瞬発的に体が動く。 ”タカナシ ”と名を呼
びかけようとしたが、たった四文字のそれは最後まで言い切ることが出来
ずに。

リコの元へ駆け寄ろうと2,3歩近付いて、そしてその足は踏み止まった。

キタジマは今にも泣き出しそうな顔でリコを見つめ、何か言いた気に口を
動かし、しかし唇をかみ締めて俯いた。
  
 
耳が痛くなるような沈黙が二人を包む。
 
 
リコは目を逸らさずに真っ直ぐキタジマを見つめた。

きっとキタジマはなんて言葉で謝ろうか考えている。きっと言い訳なんか
はしないはずだ。ただただリコを傷つけたことだけを、必死に。
しかしリコは謝ってほしくなどなかった。謝ってもらうつもりもなかった。
 
 
リコは静かに教室の中へと進み、キャンバスの前に立つ。
リコの立てる靴音だけが痛々しいほどに静寂に包まれた教室内に響く。
 
 
 
 『私・・・ キタジマさんの絵、大好きです・・・。』
 
 
 
リコは緊張で震える胸をそっと手で押さえ、やわらかく呟いた。
 
 
『ん・・・。』 キタジマは微かに頷く。いまだリコから目を逸らし居場
所なげに俯いたまま。
 
 
 
 『すごく優しくて、すごくやわらかい・・・
 
 
  でもね、

  優しすぎて、なんか・・・

  ・・・どこか、淋しい感じがする気がしてたんです・・・。』
 
 
 
その言葉の意味に、キタジマが顔を上げそっとリコの方を向いた。

それは完全なる無自覚で、自分では淋しさなど表現しようとは思っていな
いのだから。
 
 
  
 『今になって、やっと分かったの・・・
 
 
  ・・・きっと、キタジマさんの風景には、

  そこに佇んでいてほしい人がいないから・・・
 
 
  そこにいてほしいと願う人がいないから、だから淋しいの・・・。』
 
 
 
『タ、タカナシ・・・。』 キタジマが苦渋の表情でリコへと何か言いか
ける。しかし、リコはそれを慌てて遮って言葉を継いだ。
 
 
 
 『無理して締め出す必要はないと思う・・・
 
 
  思う存分、思い出せばいい。

  好きなだけ、描いたらいい。
 
 
  ・・・心からそこにいてほしいと思う人を・・・。』
 
 
 
リコは見てしまっていたのだった。
 
 
キタジマが一人静まり返った夜更けの教室で、ミホの肖像画をひっそりと描
いていた事を。

キャンバスの中であたたかく微笑むその女性からは、溢れてこぼれる程の愛
情が満ちていた。愛おしくて愛おしくて仕方がない、切ないくらいの想いが。
 
 
そこには淋しさは無かった。
そこにだけは淋しさは無かったのだ。

それが、それこそがミホだったのだと・・・
 
  
『ちゃんと、顔を見て話せて良かった・・・。』 なんとか笑顔を作ろうと
ぎこちなく頬を緩めるリコ。しかし急激に鼻の奥がツンと痛んで、その何百
倍も胸が痛くて苦しくて、しかめ面のようになっていたのかもしれない。
 
 
最後の一言は、涙声でちゃんとうまく伝わったのだろうか。
  
 
 
   『キタジマさんが、大好きでした・・・。』
 
 
 
 
 
                      ≪最終章へ続く≫
 
 
 

〖第三章〗眠れぬ夜は君のせい

〖第三章〗眠れぬ夜は君のせい

高校を卒業し短大に進学したリコ。新しい環境の中での新しい出会いにより、コースケとリコの互いへと向き合ったはずのベクトルにも微妙な変化が・・・ コースケがリコの元へと駆け出すも、その時リコは・・・。 【眠れぬ夜は君のせい】の続編 第三章。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-06

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. ■第119話 春
  2. ■第120話 キタジマ
  3. ■第121話 助手orパシリ
  4. ■第122話 予想外の・・・
  5. ■第123話 不機嫌ナチ
  6. ■第124話 ラーメン屋
  7. ■第125話 通り雨
  8. ■第126話 着信
  9. ■第127話 財布
  10. ■第128話 再会
  11. ■第129話 噂話
  12. ■第130話 マリの知人
  13. ■第131話 歯車
  14. ■第132話 二人の距離
  15. ■第133話 コースケのヤキモチ
  16. ■第134話 大人のフリ
  17. ■第135話 留守の間に
  18. ■第136話 命日
  19. ■第137話 鼻歌
  20. ■第138話 ケンカ
  21. ■第139話 突然、ナチが
  22. ■第140話 重い空気の中で
  23. ■第141話 早朝の教室で
  24. ■第142話 憂う夏休み
  25. ■第143話 向き合う覚悟
  26. ■第144話 高揚しながら
  27. ■第145話 求めるその人
  28. ■第146話 逢いたい気持ち
  29. ■第147話 田舎
  30. ■第148話 田舎道
  31. ■第149話 祖母
  32. ■第150話 ゆうげ
  33. ■第151話 スケッチ
  34. ■第152話 その手のぬくもりを
  35. ■第153話 祖母の願い
  36. ■第154話 別れ
  37. ■第155話 ナチへのメール
  38. ■第156話 ふたり
  39. ■第157話 妻の顔
  40. ■第158話 星空の電話
  41. ■第159話 同居計画?!
  42. ■第160話 引越と帰省
  43. ■第161話 約束の駅
  44. ■第162話 段ボール
  45. ■第163話 二人乗り
  46. ■第164話 リュータの決心
  47. ■第165話 コースケの決意
  48. ■第166話 コースケとキタジマ
  49. ■第167話 バイト初日
  50. ■第168話 パニック
  51. ■第169話 卑怯な理由
  52. ■第170話 涙
  53. ■第171話 大丈夫
  54. ■第172話 テスト?
  55. ■第173話 OK?
  56. ■第174話 お兄ちゃんは心配性
  57. ■第175話 ペース
  58. ■第176話 手放したくない温もり
  59. ■第177話 はしゃぐ顔
  60. ■第178話 フラッシュバック
  61. ■第179話 雨宿り
  62. ■第180話 ほのかなぬくもり
  63. ■第181話 リュータの棘
  64. ■第182話 何故・なぜ・ナゼ
  65. ■第183話 隣席のクラスメイト
  66. ■第184話 2人の距離
  67. ■第185話 最初で最後の
  68. ■第186話 永遠に失った光
  69. ■第187話 写真
  70. ■第188話 自分の事しか
  71. ■第189話 木の葉舞う中で
  72. ■第190話 押し殺していた感情
  73. ■第191話 欲
  74. ■第192話 どんなに恨まれても
  75. ■第193話 強い決意
  76. ■第194話 光
  77. ■第195話 拒絶
  78. ■第196話 痛み
  79. ■第197話 ノックするのは
  80. ■第198話 マリの言葉
  81. ■第199話 落ち込む理由
  82. ■第200話 それぞれの春
  83. ■第201話 アカリのため息
  84. ■第202話 ヒナタのため息
  85. ■第203話 3人
  86. ■第204話 電波の向こう
  87. ■第205話 Reスタート
  88. ■第206話 最後の言葉