雪の葉

ある雪山で。

甘い=おいしいというわけでは、ないと思いますけどね。

 つぶてのような雪が、顔に、ビシビシと突き刺さってくる。
 ツィオルは、帽子を目深にかぶり、首に巻いた風よけで鼻まで覆って、なんとか、凍えるような痛みをこらえていた。
 辺り一面、どこを見ても、真っ白だった。ちょっとの先も見えやしない。
 先ほどまでは、胸のすくような高く青い空がどこまでも続いていたのに、急に、何の前触れもなく、暗い雲がどこからともなくわいてきて、吹雪になったのだ。ツィオルの判断が追いつかないほど、あっという間の出来事だった。飛行前、念入りに山のほうの天候の具合を確認したうえ、空気の変化に敏感なクゥに尋ねてもやはり、大丈夫だ、と言っていたのに。今日中にはここより南にある大きな宿場町に着いていたかったツィオルは、内心うなった。
(これは、きっと、空神(そらがみ)さまの気まぐれだろう)
 こう考えることでしか、ツィオルのやるせなさは晴れなかった。
 せめて、この吹雪をやり過ごせるところを見つけるまで飛んでいきたかったが、難しそうだった。見つける前に、吹雪にもまれて落下してしまうだろう。こんなに高いところから落ちて、無傷で済むとは思えない。
 ツィオルはしかたなく、相棒の首を軽くたたいて、着陸してくれ、と合図した。相棒はかすかに頷くようなしぐさをして、高度を落としはじめた。いつもなら滑るように空を舞う相棒も、今ばかりは、ひどい吹雪に翼をあおられてぐらぐら揺れ、飛びにくそうだった。
 着地するときも、相棒は大きくぐらついた。足下の雪がかなり深いらしい。ツィオルは慎重に相棒の背から降り、雪の深さを確認してみると、すねの少し上まで、ずぼっとはまってしまった。
 ツィオルは、深い雪と吹き荒れる吹雪に苦心しながら、相棒の背から鞍と荷を外した。重い荷から解放された相棒が、やれやれ、というように大きな翼を広げてぶるっと震わせると、雪が粉のように舞ったが、絶えず吹き付けてくる雪のせいで、すぐにまた翼に雪が積もっていた。相棒は不満そうに喉をふるわせ、ツィオルの頬に頭を押しつけた。その首に手を添え、どう、どう、となでてやってから、ツィオルは言った。
「休める場所を探そう、な、クゥ。……いつまでもこんな吹雪にさらされていたら、オレもおまえも、凍え死んでしまうから」
 クゥは、心得た、というように、ツィオルの額をこんとつついた。

 荷を小さくまとめて背負うと、ツィオルたちは、森の中に入った。葉が枯れ落ちた寒々しい木々ばかりが並んでいたが、風をさえぎるものがなにもないよりましだ。頭上では、枝がごうごうと恐ろしい音を立てて揺れていた。
 次にツィオルは、腰につけている小さな袋からなにかを取り出して、口に含んだ。同じものをクゥにも食わせた。これは、食べると体を中から温めてくれる、ツィオル特製の薬だった。クゥはただでさえ鋭い目をますますとがらせて、嫌そうに嘴を動かしていた。苦いのだ。我慢しろ、とツィオルはクゥの嘴をなでた。
(さて……)
 少し落ち着いてから、ツィオルは、風よけの端をさすりながら、いまからすべきことはなにか、考えた。
 一番いいのは、誰かこの辺りの住人に助けを求めて、家に入れてもらうことだ。しかし、飛んでいるときに見た限りでは、人が住んでいる気配はまったくなかった。もっとも、吹雪のせいで、ほとんどなにも見えなかったのだが。いずれにしろ、見知らぬ土地、しかも極寒の吹雪の中を、いるかもわからない人間を探してむやみに歩き回るのは、危険だ。この案は、却下せざるを得ない。
 だとすれば、他に思いつくのは、雪洞を掘ることくらいだった。雪洞の中で夜を明かしたことは何度かある。今回は雪洞で過ごすための材料が少し足りないが、我慢すればどうにかなるだろう。
 ただ、自分だけが入るのならいいのだが、クゥも入れるとなると、話は別だ。クゥはツィオルより頭一つ分背が高い大鷲だ。翼ももっふりとふくれあがっているから、ますます大きい。クゥとふたりで入れる雪洞を作るにしても、クゥ用に別にひとつ作るにしても、大変な労力がいる。ひとつ掘るだけでもかなり大変なのだ。……確かに、クゥはよほど寒さに強いし、外に出しておいてもきっと大丈夫だろうとは思う。だが、自分だけが暖かい思いをするというのは、嫌だった。となると、結局、クゥの分も掘ることになるのだった。
 雲のほのかな明るさから察するに、幸いにも、まだ日は沈んでいない。気は重いが、完全に夜の帳が降りる前に、雪洞を作り上げてしまわなければ。のんきなことはしていられない。いますぐにでも掘り始めよう。ツィオルは、目の前で翼を広げて風を防いでくれながら、頬に頭をなすりつけてくるクゥに、その旨を伝えようとした。そのときだった。
 クゥが突然首をもたげ、横を向いた。緊張しているのか、寝癖のように跳ねた二本のとさかがピンと立っている。クゥは目をすっと細めて、木々の間をじっと見つめた。その視線の先を追うと、吹雪の真っ白な幕の中に、ぼんやりと、何かの影が浮かんでいる。よく目を凝らしてみれば、その影は、なんと、人間の影だった。意外に近い木の後ろから、こちらをのぞきこんでいる。小柄な影だった。子供だろうか。
 あまりに急なことに声を出せないでいると、クゥが、「キイ」と鋭く鳴いた。途端に小さな影が跳ね上がって、一目散に吹雪の向こう側に消えそうになった。ツィオルはあわててクゥを押して、叫んだ。
「追いかけるぞ、クゥ」
 クゥは、大きな翼をばたばたとはためかせ、「キュウ」と鳴いた。


 ツィオルたちは、木立の合間を縫って必死に人影を追いかけた。
 ツィオルの髪やまつげは霜のように凍りつき、目を開けているのも辛かったが、クゥが、翼を広げたり首を縮めたりして、狭い森の中を一生懸命走っている姿を見て、負けてはおれん、と歯を食いしばって走り続けた。ツィオルの目にはすでにあの小さな影は見えなくなっていたが、目のいいクゥは、この吹雪の中でもまだ影を見失っておらず、少しも迷うことなくツィオルを導き続けた。
 程なくして、急に周囲の圧迫感が消えた。森を抜けたのだ。相変わらず吹雪がやむ気配はなかったが、吹雪の向こう側に、なにがかぽうっとかすんで見える。近づくうちに、その輪郭がくっきり見えてきた。小屋だ。雪に埋もれるようにして建っている小屋の煙出しの穴から、かすかに灯りがもれていた。
(人がいる)
 そう思った途端、ツィオルはふらりと倒れそうになった。泊めてもらえると決まったわけではないけれど、あの小屋の住人がよほどの人嫌いでもない限り、事情を話せば、一晩を越せるだけの食料や暖取りくらいは分けてもらえるだろう。それだけでも大助かりだ。暗い森の中で一筋の日向を見つけたような思いで、ツィオルは、ゆっくりと小屋に近づいていった。
 あと少しで小屋の戸に手が届く、というところまで来たとき、その戸が勢いよく開け放たれた。吹雪が小屋の中に吸い込まれていく。ツィオルは一瞬びくっと震えたが、すぐに表情を引き締めて、クゥを自分の後ろへさがらせた。
 戸を開けた人は、目の前に厚着をした背の高い男がいるのを見て、わあっと叫んだ。その後ろにもっと背の高い大きな鷲がいることに気づいて、また叫んだ。
「ね、ねえちゃん! ほんとに来た!」
 小さな男の子だった。大声を上げながら、あわてたように戸を閉め、またほんの少しだけ開けた。わずかな隙間から、男の子の大きな目がのぞいている。さっきの人影はこの子だろうか、とツィオルが考えているうちに、男の子の声に、他の人の声が混じった。奥から家の人が飛んできたらしい。声色からして、女性だろう。また少しだけ戸が押し開けられると、若そうな女性が、不安げに顔をのぞかせた。
 ツィオルは、二人をこれ以上刺激しないよう、帽子を外し、風よけを顎の下までおろして、寒さでこわばった口元をなんとか動かし、言った。
「突然おたずねして、大変申しわけ……」
 しかし、ツィオルの言葉は、男の子の大声にさえぎられた。
「こ、ここには、何もないよ! だから、帰ってよ!」
 ツィオルは驚いて、男の子を見下ろした。男の子の顔には、明らかな緊張の色が浮かんでいる。口元は震え、心なしか青ざめていた。
(賊かなにかと勘違いされているのだろうか)
 目線をあげると、同じように顔色の悪い女性と目が合った。女性は男の子の肩に手を置き、なにかをこらえるように口をぎゅっと結んでいた。しかし、意外に芯のある目つきで、ツィオルを見つめている。
 丁寧に話せば、きっと、話を聞いてくれる。そう思ったツィオルは、改めて姿勢を正し、女性の目を見つめ返して、言った。
「信じていただくしか、ないのですが……。飛行中に、突然吹雪に見舞われてしまったのです。はい、それは、吹雪を予測できなかったわたしの落ち度なのですが……」
 寒くて足踏みしたくなるのをこらえて、ツィオルは続けた。
「せめて夜を越せるだけのものはないかと探していたところ、この小屋を見つけたのです。……大きな連れもいるので、泊めてほしいとは、言いません。暖を取れるものを、ほんの少し、分けていただけませんか」
 男の子も、女性も、しばらく押し黙っていた。
 やがて女性が、かぼそく言った。
「……失礼ですが、どちら様ですか」
 ツィオルは目を瞬いた。ややあって、ああ、と吐息のように漏らした。
 そういえば、名乗るのをすっかり忘れていた。名乗りもせずに頼み事をするなど、どうかしている。これではいつまで経っても女性たちが心を開いてくれないに決まっている。ツィオルは頬がじわじわと熱くなるのを感じながら、恥じ入るように非礼を詫びた。
「わたしは、ツィオルといいます」
 そう名乗ると、ツィオルはつかの間、ためらうように目を伏せた。しかし、ため息にも似た短い吐息を漏らすと、ぐっと左腕の袖をまくって腕をさらし、女性に差し出した。
 ツィオルの腕を恐る恐るのぞきこんだ女性は、はっと目を見開いて、固まった。その頬に、だんだん、赤みが差してきた。そして、急に、うろたえたように男の子の肩から手を離し、戸を大きく押し開けた。再び吹雪が小屋に吸い込まれていく。
「ああ、どうしよう、エヴィ。無礼を働いたのは、わたしたちのほうだわ」
 女性が震えるようにつぶやいた。男の子は戸惑って、振り返って女性を見上げた。
「どうしたの、ねえちゃん」
 女性は、遠慮がちに、目でツィオルの腕にかちりとはまっている腕輪を示した。
 女性の視線の先を目で追っていった男の子は、しばらくぼうっとツィオルの腕輪を見上げていた。が、次第に、その大きな目が丸く見開かれていった。
 さきほどとは打って変わった、興奮を隠しきれないというような声で、男の子はささやいた。
「にいちゃん、ユノイさまなの?」
 ツィオルは苦く笑った。
「かの村の者では、ありませんが」
 その答えを聞いた男の子の顔が、ゆっくりとほころんでいく。やがて、顔を一面輝かせ、わあっと手をたたかんばかりに笑った。
「すげえや! おれ、青色の腕輪って、初めて見たよ」
 そう言って、いまにもツィオルに飛びついていきそうな男の子の腕を、女性が引っつかんだ。
「だめ。やめなさい、エヴィ」
 先ほどとは違った種類の焦燥感を表情ににじませた女性は、さっとツィオルに向き直ると、深々と頭を下げ、震えるように言った。
「どうか、無礼をおゆるしください。……お詫びにとは、とても言えませんが、こんな粗末な出小屋でよろしければ、いかようにでもお使いください。もちろん、お連れさまも。どうぞ、お入りください」
 突然がらっと態度を変えて自分たちを小屋へ招き入れようとしている女性を、ツィオルは、どこか寂しげな気持ちで見ていた。
 ツィオルの腕にかちっとはまっている腕輪は、空をそのまま写し取ってきたような青色で、ところどころに雲のような白い模様がさっと入っている。これは、着けている者が『ユノイ』――神に仕える身分――であることを示す色だった。
 ユノイは、あらゆる国、身分、部族などを飛び越えた、特殊な立場の者であり、神に近い者として大昔から敬われてきた。だから、人々がこれを見てさっと顔色を変えるのは、仕方のないことだと思う。……そうわかっていても、ツィオルは未だに、自分の扱われ方に慣れずにいた。
 畏れ敬うべきは神であって、神に仕えるヒト(ユノイ)ではない。ツィオルは常にこう思っていた。
 とはいえ、いまは、こちらから頼んだのだ。態度がどうこうといって断るわけにはいかないし、もとよりそんな気もなかった。それに……。
 ありがとうございます、と素直に頭を下げると、ツィオルは後ろを振り向いた。
「クゥ」
 クゥは、ぱたぱたと翼をはためかせながら足踏みをしているところだった。呼ばれたことに気がつくと、顔を上げて、きょとんとツィオルを見つめた。
「中に入れてくださるそうだ」
 そう言って小屋を指し示すと、クゥは目を輝かせた。
「挨拶は?」
 クゥはのそのそとツィオルの隣まで来ると、女性たちにくちばしを向けた。
「キュウ!」
 ここ一番の甘え声だった。二人は、ぽかんとクゥを見上げている。
 やがて、男の子がうれしそうに笑った。
「かわいい声だなあ!」
 女性の方も、徐々に表情のこわばりが薄れていった。
「……ほんとう、愛らしい声」
 ようやく、女性の顔にも、かすかな、しかし自然な笑みが浮かんだ。
 必要以上に張り詰めてしまった人の心は、いつもこうして、クゥがほぐしてくれる。身体は恐ろしいくらい大きいのに、声が間抜けでかわいらしい。その差が人を惹きつける、らしい。幼い頃からずっと一緒にいるツィオルにはいまいちわからない感覚だったが、いずれにせよ、少々口下手なツィオルにとって、クゥは心底ありがたい存在だった。
 おまえがいてよかった、としみじみ思いながら、ツィオルはクゥに積もった雪を払いはじめた。


 身体の大きいクゥは、戸口に身体が引っかかってひどく通りにくそうにしていたが、一生懸命身をにじりよじりして、なんとか小屋に入ることができた。ツィオルはその後ろから静かに入っていった。
 小屋は思ったよりも広かった。クゥがまっすぐに立っても天井にぶつからないくらいの高さもあった。
 炉には、薪が小気味良い音をたてて赤く燃えている。その両隣の壁には、薪がうずたかく積まれていた。
 ツィオルは背負っていた荷を静かに下ろし、部屋の隅に置いた。そのそばにクゥを連れてきて、ここでおとなしくしていろ、とささやくと、クゥは小さく喉を鳴らした。
 どうぞおかけになってください、とうながされるまま、ツィオルは炉から少し離れたところに置かれた椅子に浅く腰掛けた。感覚が麻痺するほどに冷え切った身体が、徐々に暖められていく。助かった、と心の中でほっと息をついたが、ある程度暖まると、手や足の先がじんじんと鈍く痛みはじめたので、ツィオルはそろそろと手をこすりあわせた。
 こすりあわせついでに、そっと部屋の中を見回してみる。この女性と男の子以外に人がいないのか、気になったのだ。そんなツィオルの心中を読んだかのように、目の前にいる女性が、ためらいがちに言った。
「わたしたち以外の者は、いま、外に出ているのです。仕事があって……」
 こんな吹雪の中で仕事? まるで、かの村の連中のようだ。そう思いながら、ツィオルはぼんやりうなずいた。
「この吹雪だからさ、大変なんだ! でも、今じゃないとだめなんだよ」
 いつのまにかツィオルのそばに来ていた男の子が、どこか誇らしげに言った。
「青色のユノイさまは、吹雪だとあんまりお仕事できないだろ? おれたちは、その逆なんだ。吹雪がないとなにも始まらないんだよ」
「エヴィ……!」
 女性はまたしても血相を変えて男の子の腕をぐいと引っ張り、その頭をぐっと押した。
「ユノイさまに、そんな口の利き方をしないで!」
 ツィオルは苦笑して、立ち上がった。
「気にしないでください。……確かにわたしはユノイですが、いまは、あなたがたに助けてもらった、ただの旅人です。どうか、いつもどおりになさってください」
「しかし……」
 女性は、戸惑ったようにツィオルを見た。が、ツィオルがほんとうに、弟の不躾な態度をなんとも思っていない、それどころか少し困ったような表情をしているのを見て取ると、戸惑いながらも、ありがとうございます、と小声で言った。
「あのね、ユノイさま、おれたちいつもどおりだよ。だって、ねえちゃん、いつもこんな風に目をつり上げて、おれのこと叱るんだ!」
「エヴィ!」
 ツィオルは、なるほど、と心の中でつぶやいて、苦笑した。
 
 一段落つくと、女性が、木の器にあたたかいお茶を入れて持ってきてくれた。クゥにもいるかと聞かれたので、水をいただくことにした。
 温かいお茶を器の半分まで飲んで、身体が中からぽかぽかとしてきたとき、ツィオルがふと言った。
「それにしても、わたしたちがここを訪れたとき、なぜあれほど驚いていたんですか? ここを尋ねてくる人はあまりいない?」
「この時期はね」
 ツィオルの隣に立って、部屋の隅にいるクゥを見つめていた男の子が、声を張り上げた。
「今日みたいに、なんの前触れもなくひどい吹雪になることがあるから、この辺りを避けて通る人がほとんどなんだ。いるとしたら、おれたちシウヤの族か、質の悪い賊か。あとは、にいちゃんみたいな、迷い人」
 向かいの椅子に座っている女性の顔がさっとこわばったが、それに気づかず男の子は続けた。
「でも、迷い人なんてめったにいないんだよ。
 森の中で会ったとき、おれは、賊がいないかどうか、見回りをしていたんだ」
「勝手にね」
 と、女性がこわばった声で付け加えた。
「と、とにかく、見回り。小屋を出たときは、まだ吹雪いてなかったし。
 そしたら、にいちゃんたちを見つけたんだ。そりゃもうびっくりしたよ。でっかい鳥もいるんだもん。あんなのに襲われたら、おれたちなんか、ひとたまりもない。賊だったらどうしようって思って、大急ぎで小屋に帰って、ねえちゃんに伝えたんだ」
 ツィオルはうなずこうとしたが、どうも引っかかるところがあったので、あいまいに首をかしげてしまった。
 その様子を見た女性が、苦笑した。
「それほどまで賊に警戒しなければならないような貴重なものを、こんな粗末な小屋にいるわたしたちが持っているのか、と不思議に思われるでしょう。……少しお待ちください。いま、お持ちいたしますね」
 そう言うと、女性はゆっくりと立ち上がって、戸棚の方へ歩いて行った。
 男の子が驚きに目を見開いて、「いいの?」とささやいた。しかし、女性はなにも答えずに、白い皿の上になにかをのせて戻ってきた。
 一枚の葉っぱ、だった。芽吹きたての葉のような、若い緑色をしている。不思議なことに、一面、雪をまぶしたようにきらめいていた。
 触ってもいい、と言われたので、ツィオルはその葉をそっとつまみあげた。手触りは油紙に似ている。炉の方に向けて透かしてみると、期待通り、ちらちらと光を反射した。
 きれいな葉だな、と思った。だが、それ以上のことはわからなかったので、ツィオルは葉を皿に戻し、立っている女性を見上げた。
「これは……?」
雪の葉(オタン)、といいます」
「オタン?」
 聞いたことのない言葉だ。ツィオルは、忘れないように、何度か心の中で同じ言葉をつぶやいた。
「そうそう出回るもんじゃないから、まずお目にかかれないよ」
 男の子が後ろから身を乗り出して言った。
雪の葉(オタン)はね、特別なんだ。これの狩り方は、おれたちシウヤの族しか知らないし、採るのがすっごく大変でさ。年に一枚採れるかどうか、ってくらい。毎年、都で建国記念のお祭りがあるから、そのときに王さまに献上するんだよ。だから、とても大切なものなんだ。
 あれ、でも、にいちゃんは青色のユノイさまだから、もしかして、知ってた?」
 ツィオルは苦笑して、首を振った。
「いや。……オレは、まだまだ駆け出しだから、知らないことだらけなんだ」
「そうかあ。ふうん。ユノイさまも大変だなあ」
 男の子が、ツィオルの前に回り込みながら、えらく大人ぶった口調で言って、大仰に腕を組んだので、ツィオルは思わず笑ってしまった。それにつられたのか、男の子もうれしそうに笑った。
「しかし、この葉は、どう使うのだろう。装飾?」
 ツィオルが不思議そうにつぶやくと、女性が、かすかな微笑みを浮かべて、再び白い皿をツィオルに差し出した。
「召し上がってみてください」
「えっ」
 ツィオルはびっくりして、女性を見上げた。
「食べものなんですか?」
「はい。きっと驚かれますよ」
 ほんとうに食べものなのだろうか。それ以前に、王族に納めるような貴重なものを自分が食べて良いのだろうか、と不安に思い、男の子の顔ものぞき込んでみたが、彼は興味津々というようにツィオルの手元と顔とを交互に見つめているばかりなので、ツィオルはこわごわと不思議な葉をつまんで、てのひらにのせた。そしてその端を少しちぎると、おそるおそる口に入れた。
 途端、葉が、舌の上でしゅわっと溶け、口の中いっぱいに、なんともいえぬ柔らかな甘さと香ばしさが広がった。なんと美味いのだろう。これまでに口にしたどんな菓子よりも美味かった。一息に飲み込むのがもったいなくて、その味をしばらく噛みしめた後、ツィオルはうなるように言った。
「……おいしい」
 それを聞いた女性は心の底からほっとしたという表情で、空(から)になった皿を胸の前で抱きかかえて微笑んだ。
「ああ、よかった。他にお出しできる物がないものですから、ええ、ほんとうに」
「しかし、よかったのですか? わたしなんぞが、このような貴重なものをいただいてしまって」
「もちろんです。……本来なら、雪の葉(オタン)を他人さまに召し上がっていただくどころか、見せることすら禁じられておりますが、ユノイさまになら問題ありません。それも、青いユノイさまですから。そうでしょう?」
「そっか。なら、父さんにも叱られないね!」
 ツィオルは返事をせず、口元にかすかに笑みを浮かべるにとどめた。
 青色の腕輪をしているユノイは、世界中のありとあらゆる情報を集めるのが主な仕事。どんな機密事項や秘技であっても、ツィオルは聞き出せるし、見ることができる。それがたとえ、国の根幹に関わる大事であっても。集めた情報は、定期的にかの村に届けることになっている。そこは、ツィオルとは違う色の腕輪をし、『神々の樹』を祀って守護しているユノイたちの暮らす、閉じられた聖地だった。
 ツィオルはぼんやりと皿をさすりながら、その村のことを思った。峻烈な山脈に抱かれた、木々がびっしりと立ち並ぶ森の中に、ぽっかりと空いた草むら。そこに、小さな村がある。そういえば、先日、『神々の樹』に実が成った、と村の者が言っていた。となると、『巡り』の日も近いな……。
 炉の薪がぱちんとはぜた音で、ツィオルははっと我に返った。
「にいちゃんは、青色のユノイさまだから、教えても良いんだよね。
 さっきおれ、吹雪がないと何も始まらないって言ったろ? あれ、雪の葉(オタン)狩りのことなんだ。雪の葉(オタン)は、この時期、ふいに湧き起こる吹雪とともに、現れるんだよ。だから、吹雪がいつ起こるのか、そしてどの木に雪の葉(オタン)が生えるのか、しっかり見てなくちゃならない。それでもって、現れたら、木によじ登って採るんだ! おれたちの父さんは、雪の葉(オタン)狩りの名人で……」
 早口にまくしたてる男の子の言葉を、女性がぴしゃりとさえぎった。
「小屋でぬくぬくしてるだけで、まだ一度も雪の葉(オタン)狩りに参加したこともないあんたが、偉そうに言わないの」
「それは、そうだけどさ! でも、今回は、雪の葉(オタン)が出たら、おじさんが教えてくれて、そこまで連れて行ってくれる約束じゃないか!」
 熱を帯びた声でそう言った男の子は、ツィオルと目が合うと、はたと動きを止めて、恥ずかしそうに頭をかいた。ひとりで熱くなっていることに気がついてしまったらしい。決まりが悪そうに目を伏せ、へへっと笑った。
「まあ、そういうわけで、父さんたちは、外で吹雪とにらめっこしてるんだ」
「なるほど……」
 吹雪の中での仕事とは、そのことだったのか。下手をすれば命にも関わるような恐ろしい吹雪だというのに、あえてそこに身を投じるなんて。それとも、吹雪なぞ慣れっこなのだろうか。いずれにせよ、すごいことだ、とツィオルは素直に思った。
雪の葉(オタン)が出るのが、今日か明日か、ずっと先か、わかんないけど。楽しみだなぁ。出るってわかったら、おじさんが教えてくれることになってるんだ」
 男の子はそう言って、待ち遠しそうに目を輝かせた。
 そのとき、背後から、もぞりとなにかが動く音がした。首をひねって振り返ると、部屋の隅でおとなしく身を縮めていたクゥが、首を持ち上げて、戸口をじっと見つめているのが見えた。
 その直後、勢いよく戸が開け放たれ、凍えるような冷気とともに、ひとりの男が飛び込んできた。男は、興奮しきったようすで、荒く息をつきながら言った。
「エヴィ! エナ! 出たぞ、雪の葉(オタン)が……!」


 身をじんわりと包んでいた暖炉のぬくもりが一瞬で吹き飛んでしまうような強烈な吹雪が、ツィオルたちを出迎えた。すでに日は落ち、あたりは黒々とした陰気な闇に覆われている。しかし、雪の葉(オタン)を狙って一行をつけてくる賊が絶対にいないとは言い切れないというので、灯りは持ってきていなかった。
「真っ暗だね!」
 ツィオルの前を軽快な足取りで歩いている男の子が、ちらっと振り返って、吹雪に負けないような大声で言った。
「ね、ユノイさま、おれもね、実際に雪の葉(オタン)狩りを見るのは、初めてなんだ! すっごくどきどきするよ」
 ツィオルは、ああ、と大声で返して、うなずいた。
 本当は、ツィオルは小屋で待っているつもりでいた。しかし、世にも貴重な葉の収穫をする光景を一目見てみたいと思うと、どうしてもじっとしていられなかった。見たことのないものは、何でも見てみたい。知らないことは、何でも知りたい。外に出れば吹雪が待っているし、その吹雪の中で、この先にいるであろう男の子の仲間たちに事情を説明しなければならなくなることは、よくわかっている。しかし、そんな苦い思いを無視してツィオルの身体を突き動かす、ふつふつと煮えたぎる衝動があった。これはもう、ユノイとしての本能と言わざるを得ない。
 男の子が「おじさん」と呼んだ男は、ツィオルを見ると露骨に顔をしかめたが、腕輪を見せると、手をもむような勢いでころっと態度を変え、ツィオルの同行を快諾してくれた。
 当たり前のように連れてきたクゥは、のそのそとツィオルの隣を歩いている。ときどき声をかけてやると、もっふりと羽毛をふくらませた。
 目的地にたどり着くまでの道すがら、懸命に踏ん張って男の子を支えるようにして歩いている女性が、雪の葉(オタン)について少し教えてくれた。
 かの葉が、なぜ吹雪とともに現れて不特定の木に芽吹くのかは、彼女たちシウヤの族にもいまだにわからないそうだ。ただ、地に落ちると、蒸発するようにスッと消えてしまう。また、長い間風に飛ばされていると、雪に溶けるかのようにしてかき消えてしまう。だからといって、枝から離れる前に摘もうとすると、触れた瞬間に砂のように崩れてしまう、ということは、判明している。そのため、雪の葉(オタン)は吹雪に吹かれて枝から離れた直後に捕まえなければならないそうだ。その葉は、発生するのがいつなのか、どの木のどの枝になるのか、まったく予測がつかないので、ずっと昔から雪の葉(オタン)を採ってきた彼らの族であっても、見つけるのは非常に困難なのだという。一年に一枚見つかるかどうか、というところだそうだ。それでも、毎年王族に献上しなければならないから、どんなに吹雪いていても、死に物狂いでそれを探すのだ、と女性は苦笑交じりに言った。
 先頭を行く男は、この吹雪と暗闇の中でなにを目印に歩いているのか、なんの明かりもない森の中をずんずん進んで、ツィオルたちを導いていった。
 小屋を出てからずいぶんな時間が経ち、夜闇に目が慣れてきたころ――もっとも、吹雪のせいでまともに目を開けていられないのだが――、クゥがざわりと羽毛を逆立たせ、まっすぐ前を見据えた。なにかいるのか、とクゥにたずねると、彼女は肯定の意を示すようにクルルと鳴いた。
「おう、あそこだ、あそこだ」
 男はしわがれた声でそう言って、前方を指し示した。確かに、なんとなく、なにかが動いているような気がしないでもない。近づいていくと、それが人の影であることがわかった。数人がこちらに気づいて、ぱらぱらと手を上げた。他の多くの者はみな、口を開けて一本の高い木を見上げている。
 あいさつをしなければならないな、とツィオルが心の中で思ったそのとき、吹雪の唸りに負けぬような野太いうめき声が、頭上から降ってきた。木の上に誰かがいるのだ。その場にいる全員が一斉に高い木を見上げた。ツィオルには、そこに誰かがいるらしいことは、枝が不自然にたわんでいるのでわかったが、なにが起きているのかまではわからなかった。
 続けざまに、だめだ――! という、悲痛な叫びが、さざなみのように人々の間に広がった。ツィオルには、いまだになにが起きているのかわからない。視線を下へ戻し、女性に聞こうとした。が、彼女も、男の子も、石のように硬直して木を見上げている。とても話しかけられる雰囲気ではなかった。
「だめだ、届かない!」
「父さん……!」
 そう叫ぶやいなや、脇目も振らず木へ駆けていくふたりを、ツィオルはぼうぜんと見ているしかなかった。
「もっと身を乗り出せ! 大事な葉が逃げちまう!」
「だめだよ! 父さんが落っこちちゃう!」
 一本の木を中心に、怒号と悲鳴とが、入り乱れた。
 突如わきあがった喧噪の中で立ち尽くすほかないツィオルに理解できたことは、三つ。一つ目は、雪の葉(オタン)があの木の上の方にあるのだということ。二つ目は、木の上にいるのは男の子たちの父親だということ。三つ目は、その父親が、雪の葉(オタン)にあとちょっとで届かないところにいるが、それ以上身を乗り出すと、落ちてしまうのだということ。いま届いていないということは、吹雪に吹かれて舞い上がったところを捕まえることも、当然できないだろう。……それがわかったところで、ツィオルにできることはなにもない。ツィオルは人の輪から離れたところで、傍観しているしかなかった。
 そのとき、見上げた木の枝の合間に、なにかがちらりと光った気がした。雪の葉(オタン)が枝から離れて舞ったのだ、と、ツィオルは直感した。少し遅れて、周囲の人々が悲しげにうめくのが聞こえた。やはり、間に合わなかったのだ。彼らの族が、つらい思いをしてようやく探し当てたのだろうに。無情なことだ、と、同情で胸がつきんと痛んだ。
 その瞬間。
 ツィオルの隣で、すさまじい勢いの雪煙がわきあがった。
 突然の出来事に、ツィオルの頭はついていかなかった。だが、ひとたび事態を理解すると、頭の中が真っ白になった。
 クゥが飛んだのだ。
 高い木を猛烈な速さで飛び越え、羽ばたきもせずに上昇していく相棒の姿が、ツィオルの目にはっきりと映った。
 なんの指示もしていないのに、どうして……。そんな思いが心の表面を滑っていったが、ツィオルは声を上げることもできずに、相棒が吹雪の中に吸い込まれていくのを見ていた。
 その飛翔は、一瞬のできごとだったのか、数刻のできごとだったのか。流れる時間を計るには、ツィオルの頭はあまりに混乱しすぎていた。
 気づいた時には、クゥはもう、なにごともなかったように人々の間に降り立っていた。
 誰もかれも、水を打ったように静まり返って、巨鳥に釘付けになっていた。もともとここで雪の葉(オタン)狩りをしていたシウヤの族の人たちにしてみれば、大事な雪の葉(オタン)に逃げられ、暗い思いにとらわれているところに、突然恐ろしく大きな鳥が現れた、という状況だったので、彼らの目に浮かんでいるのが、深い動揺や絶望の色であっても、しかたがなかった。
 その巨鳥と二十年近くを共に過ごしてきた若いユノイは、なんども目をしばたたき、深く息をつくと、足をもつれさせながら、ゆっくり巨鳥に近づいていった。
「キュン」
 相棒は、なぜか、褒めてほしいときに出すめいっぱいの甘えた声で、ツィオルを迎えた。大きな彼女は、心なしか、誇らしげに胸をぐっと張っているようにも見えた。
 褒めるどころか、叱らなくてはならないのに。なぜ急に飛んだりしたのか、聞かなければならないのに。そう思いながらも、ツィオルの手は、自然とクゥの胸の毛をなでていた。周囲の目も吹雪も忘れて、もふりもふりとなでて、そのぬくもりを味わった。しかし、なでるうちに、手になにか違和感を感じて、ツィオルはなでる手をはたと止めた。
 クゥの胸の毛に、なにかがうずまっている。その感触は、つい最近味わった覚えのある、独特なものだった。
 ツィオルは一瞬ためらって、おそるおそるそれを引き抜いた。そして、それが何であるのかわかった途端、あっと声を上げた。
「ユノイのにいちゃん……?」
 いつのまにか隣に来ていた男の子と、若い女性と、見知らぬ男が、心配そうにツィオルの顔をのぞきこんでいた。
 ツィオルはその手にあるものを、彼らにも見えるように、高く掲げた。
 それをぽかんと見上げた男の子の顔が、みるみるうちにほころんでいく。そして、叫んだ。
雪の葉(オタン)だ!」
 ツィオルたちを囲むように遠巻きに見ていたシウヤの族の人々が、それぞれ顔を見合わせた。その目に、ゆっくりと明るい光がともっていく。やがて、誰かが「やったあ!」とさけんだのを皮切りに、その場は、歓喜の声に包まれた。そして、ツィオルとクゥは、嬉しそうに跳ね飛んでくるシウヤの族の人たちに、押し包まれた。



 ツィオルとクゥは、青く澄み切った空の下を、滑るように飛んでいた。
 あの後ツィオルたちは、あのシウヤの族の人々から、特にあの父親からは、たいそう感謝された。しかし、感謝の儀をさせてほしい、と言われた瞬間、これは面倒なことになるな、と予感したツィオルは、朝日が昇り、吹雪がやんでいるのを確かめるやいなや、あれこれと理由をつけて、そそくさとあの小屋を出てきたのだった。男の子たちに満足に別れのあいさつもできなかったのは悔やまれるが、ツィオルも暇ではない。いつまでも一所にとどまっているわけにはいかなかった。
「……それにしても、まさかお前が、あんなことするとはなぁ」
 独り言のようにつぶやくと、「キュ?」と返事が返ってきた。ツィオルはくすりと笑って、風よけをあごの下までおろすと、クゥの首をぽんとたたいた。
「あの葉が大事なものだと、わかっていたんだな。……偉かったな」
「キュウ」
「だが、これからは、勝手に飛び出して行っちゃだめだぞ」
「キュ」
 素直に返事をするクゥがかわいらしくて、ツィオルはそれ以上叱る気になれなかった。代わりに、風よけを引っ張り上げて口を隠し、ぼそっとつぶやいた。
「おまえばかり頑張って、オレがなにもできないのでは、恥ずかしいしな」

 もともと泊まる予定だった宿場町をはるか眼下に見下ろしながら、若いひとりと一羽は、雪をいただく雄大な山脈の向こう側へ、まっすぐに飛んでいく。
 彼らをのせてどこまでも運んでいく冷たい風は、なぜだか、ほのかにあまい香りがした。

雪の葉

雪の葉

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-06

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