うまれる

 うまれる、のは、もうひとりのぼく、あたらしいもうひとりのぼくは、通算で六人目のぼく、であることを、指折り数えらながら叔母さんの、うみのみえるアトリエで、モササウルスがあらわれるのを待っている。土曜の午後。
 モササウルスのことを、あいしている。
 たべられたい、と思うのは、あいされたい、とイコールではないかと、ぼくはかんがえる。
 モササウルスと、こいびとになりたいの?
 叔母さんにたずねられたときは、わからない、とこたえたけれど、きょうははっきりと、いえる。モササウルスの、こいびとになりたい。にんげんのぼくを、こいびとにして、もらえるならば。
 すでにうまれた、四人のぼく(ぼくを本体とし、ぼくがうんだぼくが、四人いる。計五人。そしてきょうか、あしたか、あさってにうまれそうな、あたらしいもうひとりのぼくをあわせて、ぼくは六人となる)は、独立し、ぼくの元をはなれている。
 ひとりめは、ギャンブルにはまっている。ぼくが忌み嫌っているものの、ひとつである。
 ぼくのおとうさんはギャンブルで多額の借金をかかえ、まだ小学生だったぼくと、おかあさんをのこして、自殺した。おかあさんは、おとうさんののこした借金を返済しながら、ぼくを学校に行かせるために、朝から夜中まで働いて、働いて、休みなく働きつづけて、死んだ。ひとりで完済したうえに、ぼくのために大学進学の資金を貯蓄しておいてくれた。
 ぼくは、大学には行かなかった。叔母さんのアトリエを改築して、住まうようになった。絵描きの叔母さんは、べつにちゃんと住居があって、だんなさんと、五歳の娘と三人で暮らしていたから、アトリエは、わたしが絵を描くスペースをのこしておいてくれれば、あとは自由につかってかまわないといった。
「ねえさんのことだから、大学に行かなくたって怒らないわよ。あんたがほんとうにやりたいことをやれっていうひとだから」
 ふたりめは、小説を書いている。
 ぼくは、写真を撮っているのだが、おそらくぼくのなかの、小説も書いてみたいという願望が、ふたりめに宿ったのだろうと思う。ふたりめの所在は、わかっている。女のひとと暮らしていることも、しっている。女のひとにごはんをたべさせてもらって、洋服を買ってもらって、申し訳ないと思っていることも、ぼくはしっている。だから、はやく小説家にならなくてはと焦っていることも、わかっている。焦りが、文章に伝わって、大雑把で、内容がうすっぺらで、言葉足らずで、だれが読んでも小説家にはなれないと思うような小説を、書きつづけている。
 あきらめればいいのに。
 とは、いわない。その言葉をくちにした瞬間、ファインダー越しにみる、ぼくの世界が、ゆがみ、ひび割れ、崩れ落ちる気がするから、いわない。ぜったいに。
 さんにんめは、四人のなかでいちばん遠いところにいる。
 鉄工所に就職した、ということ以外、しらない。
 どこに住んでいるのかも、こいびとがいるのか、いないのかも、しらない。連絡先も、しらない。でも、生きていることは、わかる。ぼくからうまれたぼくが死んだとき、たぶん、ぼくは、わかると思うのだ。遠くはなれていても、本体であるぼくに、なんらかの影響があると。おかあさんが死ぬ一週間前、ぼくは、心臓が、死にそうなほど痛かった。どきどきして、ずきずきして、ほんとうに死ぬかと思った。けれど、死んだのは、おかあさんの方だった。あれからぼくの心臓が、死にそうなほど痛くなったことは、一度もない。
 よにんめは、ぼくが住んでいるアトリエから、三〇〇メートルしかはなれていないところに、住んでいる。
 だから、ときどき、ぼくのところに遊びにやってくる。
 よにんめは、よくもわるくも、自由奔放であった。
 定職には就いていなかったが、ひとりめのようにギャンブルにおぼれるでもなく、アルバイトをかけもちしているし、ふたりめやぼくのようにひとつの夢を追い求めるのではなく、あしたにでもかないそうな小さな夢から、一生かかっても無理かもしれあい大きな夢まで、さまざまな夢をかかえて、まいにちを実に楽しそうに生きている。生きていること自体が楽しい、といった感じだ。こいびとは、女のひとのときもあったし、男のひとのときもあった。やりたいことをやって、やりたくないことは一切やらなかった。やりたくないことを、やりたくない、ときっぱりいえるのが、よにんめのぼくであった。今のところ、ぼくがうんだ四人のなかでもっともぼくに似ていないのが、このよにんめのぼくである。そのために、ぼくのところに遊びにやってきても、ぼくと、よにんめのぼくは、友だちのような関係を築けていた。おなじかおの、おなじからだつきの、性格だけが異なる、もうひとりのぼく。
「ぼくは、まじわるなら、ティラノサウルスがいいな。いちばんかっこいいよ、かれが」
 ぼくが、モササウルスのことを話して、そういってくれるのも、よにんめのぼくだけであった。
 さて、つぎにうまれてくるごにんめのぼくは、いったい、どんなぼくなのか。
 ぼくの、どういったところを吸収し、汲み取り、分解し、組み立て、構成されたぼく、なのか。
 モササウルスへの想いは、吸いとらないでほしいと思った。写真への熱も。カメラで表現したい、ぼくなりの芸術も、生きざまも。
 どうか、ぼく、というにんげんが、ぼく、というにんげんでなくなってしまいませんように。
 ぼくは、もうひとりのぼくがうまれるまえの、どきどきと、いらいらと、もやもやと、そわそわをもてあまし、ベッドのうえでカメラをさわりながら、うみをみていた。
 モササウルスがあらわれたら、まず、ぼくの存在をどう伝えようかと、妄想した。コミュニケーションほうほうは?言葉は通じないだろうから、直接からだに触れてみようか。そのまえに、たべられるかもしれないけれど。
 そんなことを頭のかたすみで、かんがえていた。嫌でも頭の大部分を占めるのは、ぼくからうまれてくる、もうひとりのぼくのことであったから、モササウルスのことをたくさんかんがえても自然と、すみっこの方に追いやられてしまうのだった。
 ほんとうはもう、うむのは嫌だった。
 モササウルスがとっくのむかしに絶滅しているって現実を直視することくらい、嫌だった。
 嫌だった。

うまれる

うまれる

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-05

CC BY-NC-ND
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