善悪の彼岸

ひどく冷え込む、満月の夜であった。
冷たく青白い月光に照らしだされた一面の雪は、闇と調和して幻想的な輝きを放っていた。
昼間の日光で少し溶けかけた雪が再び氷の結晶となり、足を踏み出す度にリズムの良い音を響かせる。

ふう、と白い息を吐き、躊躇いがちにドアをノックした。

「やあ、ウィル」

ハンニバルは一瞬驚いた顔をしながらも、こうなる事を分かっていたかのような満足気な笑みを浮かべてウィルを招き入れた。

彼の家の独特の匂いがふわりとウィルの鼻に届く。
ここ数ヶ月、ハンニバルの診察を受けるようになってから、彼の家の匂いにどこか安心感を覚えるようになっていた。

「こんな時間にどうしたのかね?今夜はとても冷え込むからね。暖炉の前で話を聞こう。さあ、コートを貸して。」

そう言ってウィルの肩を抱くように、そっとコートに手を回す。

「今日は患者として話をしに来たのかな?それとも、友人として?」

ふん、とウィルは鼻を鳴らす。

「僕は貴方の患者ということになっている。精神科医が患者との間に友情など築いていいんですか?」

「私たちは特別なケースだからね。精神科医として診察し、友人としてアドバイスする。私はそれが君にとって最善の方法だと思っている。」

さあ座って、とウィルを暖炉の前の椅子に座らせてから、ワインを注ぐ。
そんな彼をぼうっと見つめながら、トポトポトと注がれる赤い液体が薄暗い部屋の中で暖炉の火に照らされて、まるで血のようだ、とウィルは思った。

ハンニバルはウィルに片方のグラスを差し出し、向かいに置かれたソファにゆったりと腰掛けた。

いつもそうなのだが、彼は自分から強引に話を引き出そうとはしてこない。
人と話すのが苦手だったウィルは、自分のペースを乱してこないハンニバルに好感を持っていたし、彼に対しては饒舌になる自分の存在もまた自覚していた。

「最近…」重々しく口を開く。
「症状が、酷くなってきてるんです。自分が殺人鬼と一体となる瞬間がわかる。…ふと気が付くと、彼らの殺意や、狂気や、快感に…飲み込まれてしまっている。」

声を震わせながらも、身体だけは震わせまいと、自分の肩をぎゅっと握る。

「そして、我に返ると同時に、被害者の痛みや恐怖がどっと押し寄せて来る。鮮明に覚えているんです…凄まじい痛みと、自分に向けられる恐怖に満ちた瞳。僕は自分が誰なのか分からなくなる。僕は殺人鬼なのではないかと、ほんの僅かでもそう望む自分がいるのではないかと。」

ハンニバルは表情一つ変えず、ウィルの話を聞いていた。
「君はそれを症状と呼んでいるが…」

ゆっくりと口を開く。

「私には才能と呼べるものだ、ウィル。君の才能は美しい。」
微笑みながら彼は言った。

才能?冗談ではない。
もしこれが「才能」と言えるものならば、僕は今までどれだけその才能とやらに苦しめられてきたことか。

「相手がどんな人間であろうと、人の心に寄り添うことは苦しいことだ。それにーーー、」

ウィルは急に、ハンニバルの獲物を捕らえた獣のようなーー冷たい光を宿した瞳に見つめられ動けなくなった。

ハンニバルの太く、しかし繊細な指がウィルの髪に触れる。咄嗟に振り払おうと思ったが、蛇に睨まれた蛙のように、彼の瞳に吸い込まれて身体が動かない。

ハンニバルはウィルの頭に手を回し、自分の目を覗き込ませるようにして言った。

「ウィル、痛みや恐怖を感じるという事は、生きているという証拠だ。その二つほど、生の実感を与えてくれるものは無い。」

「その痛みや恐怖を忘れずにいるんだ、ウィル。それを完全に忘れてしまった時ーーそれらを感じなくなった時、君の中のウィルは死ぬだろう。」

そしてふっと表情を和らげウィルから目を逸らした。
「怪物というものは、痛みや恐怖を感じないものだよ。」

「貴方は痛みや恐怖を感じる事はあるんですか?」

「…私が怪物とでも?」

変な意図は無かったものの、咄嗟に口をついて出た言葉にしまったと焦る。

「い、いえ…そういう訳では…」

申し訳なさそうに、視線を泳がせるウィルに、いいんだ、と微笑みながらハンニバルは言った。

「そうだね…あるよ。今でも、痛みを感じる事は。」

そう言って、彼の机に置かれた一枚の写真をちらりと見た。その一瞬、彼の瞳に暗い影が差したのを、ウィルは見逃さなかった。

そこには一人の少女が写っていた。歳は恐らくは3、4歳。白黒写真ではあったが、髪は金髪のようだった。
前々から気になっていたのだが、聞いていいものなのかわからず、恐らく親戚かなにかだろうと、自分に言い聞かせていた。
しかし、ハンニバルの家に飾ってあるもので、美術品や絵画以外で誰かの写真といえば、その一枚だけなのだった。

「その少女は…誰なんです?」

ウィルはおずおずと尋ねた。

「妹だ。」

思いもよらぬ回答に思わず目を見開く。

「え?」

真逆、妹が居たとは。初耳だ。
でも、こんな幼い写真しかないという事はーーー、

「正確には妹だった、と言った方が正しいかな。名前はミーシャだ。3歳の頃、亡くなった。殺されたんだ。」

ハンニバルは静かにそう言った。
彼は感情を表に出すということが殆どない。
しかし、不思議なほど落ち着いたその口調とは裏腹に、彼のアンバーの瞳にはゾッとする様な狂気と、怒りの炎が揺れていた。

「彼女の事を考えると、今でも言いようのない恐怖に襲われる。痛みを思い出す。」

そして笑っているような、泣いているような、なんとも言えない表情で言った。

「しかし彼女のお陰で、感じられるんだ。まだ私は痛みを感じることが出来るのだ、と。」


ウィルは猛烈に後悔した。聞くべきではなかった。
彼の闇を覗いてしまったのだと、悟った。

彼の闇に触れてはいけないーーウィルの本能がそう彼に命じた。


きっと、引き返せなくなってしまう。

彼に、その闇に、飲み込まれてしまう。


だが、それ以上の感情が、彼を突き動かしていたのだった。
ウィルはハンニバルの頬に触れ、そっと呟いた。

「じゃあ、僕たちはまだ、人間ってことですね。」

ハンニバルは少し驚いた様な表情をしたが、その顔にはゆっくりと笑みが広がっていった。

「そうだね。」

その瞬間、彼の瞳の奥にキラリと光ったのは、子羊を捕らえた飢えた狼の独占欲に満ちた瞳の、まさにそれであった。


二人はそっと唇を重ねた。
最初はゆっくりと、そして次第に激しく、求め合うように。
互いの体温が流れ込み、一つになるのを感じた。


もう戻れない、ウィルはそう悟った。
それでもいいと思った。

重なり合った二人の影が窓から差し込む月光に照らされて、その中に溶けていった。


静かな書斎の中に、彼等の接吻の音だけが、ただ響いていた。



“怪物と戦う者は、みずからも怪物とならぬように心せよ。汝が久しく深淵を見入るとき、深淵もまた汝を見入るのである”
ーフリードリヒ・ニーチェ

善悪の彼岸

善悪の彼岸

海外ドラマHANNIBALの二次創作。 殺人鬼と一体になるウィルの能力って、ニーチェの『善悪の彼岸』に通じるものがありますよね?と思い、一部引用しています。 書きながら思っていたのですが、この2人をイチャイチャさせるの難しい!どこまでいいの?って迷宮に入ってしまいました。 結果、すごくマイルドなレクウィル仕様になりました笑 只の自己満足なので後悔はしてません笑

  • 小説
  • 掌編
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  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-02-02

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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