君と一緒に。

 例えば「一歩、前に足を踏み出してみる」。この言葉は、前向きな行動を意味する場合に用いられることが多い。

じゃあ、この一歩も前向きなんじゃないかと、皮肉交じりに一瞬思う。木下凛がいま一歩、前にその足を踏み出せば、黄色い点字ブロックの向こう側へと着地することになる。初めの第一歩は、きっと次の二歩目を踏み出す為の弾みをつける。一連のその動きは、彼女の約29年という体に染み込んだ動作だ。まるで小川の水がさらさらと流れるように、よどみない滑らかな動線を描くことになるだろう。


その動きが意味することに対して、彼女は何も思わない。彼女自身の空っぽな心情と、現実の間には大きな距離感がある。


体の気怠さを重くひきずりながら家を出た。そのはずなのに、駅のホームで電車を待つ間、ただぼんやりとそこに立っていると、自分の体ではないような軽さを感じる。


頭を垂れて、木下は線路へと落ちてゆく自分の姿を何度も何度も想像した。そうやって、行動に移すギリギリのところで立ち止まっている。初めの第一歩さえ前に出れば、もう最後まで落ちてゆくだけだと思う。なんの抵抗もなく、線路へと吸い込まれていく自分。この場所で、何度思い描いたか知れない。連休明けの出勤日は、いつもこうなのだ。


電車が近づいていることを、アナウンスが知らせる。白い朝日をまぶしく反射させながら、緩い曲線を引く線路の上を電車のタイヤが滑る。その音を、木下はじっときいていた。彼女の耳は、電車の近づく音とその距離、そしてあるタイミングを計っていた。

今までに何度も繰り返してきたシミュレーション上、絶妙なタイミングに、木下は肩を少し揺らして息を多めに吸い込んだ。今だ。


彼女の吸い込んだその息は、吐きだされる前に一旦その喉元でつっかえた。

不意を突かれて、木下は何が自分に起こったのかわからなかった。背後から力が加えられた。それは前にではなく、後方に彼女をクッと引っ張った。前かがみになっていた彼女の背中が仰け反る。その勢いを殺せずに、半歩後退して、揺らいだ足元のバランスをとる。


それとほぼ同時に、トンッと肩を支えられたのがわかった。


電車が目の前で走り抜ける。ゆっくりと速度を落とすその窓に、まだ状況の整理が追い付いていない無表情な自分の顔と、その背後に立つ男が、二人して亡霊のように映っている。


電車が止まるよりも早く、木下は勢いよく振り返った。そこにはちゃんと地に足をつけた男がいて、彼女を見下ろしていた。


「…すみません」


 ただ驚いている木下に対して、その男はバツが悪そうにいった。俯いている男の視線の先では、木下が肩からさげているショルダーバックを、その右手がしっかりと掴んでいる。もう片方の掌は、まるで抵抗する意思がないように、木下に向けている。発せられた一言や態度は遠慮がちなのに、その右手だけが確固とした意思を伝えている。


 ぼんやりと見上げて何もいわない木下に、男は急に何かを思いついたのか、その右手をバックの紐を勢いよく手離した。


「…ひったくりとかではないので…ただ、その…」


 少し呂律が回っていないその声が、木下には甘えているようにきこえた。見た目からして、彼女よりも年上だろうが、男の戸惑いを隠せていない態度が妙に幼さを感じさせる。


 昨夜、遅くまで酒を飲んでいたのだろう。少し長めの黒髪はボサボサで、その前髪の向こうに、赤みを帯びた目が、とろんと眠そうにしている。声と一緒に吐き出される息や、よれよれのワイシャツから酒の、そして居酒屋独特のタバコの匂いがした。


今までにも嗅いだことのあるその匂いは、嫌な感じしかしなかった。しかしその匂いが、男の気だるい雰囲気に似合っていた。男の妙な魅力を引き立てているようにさえ感じた。


それが木下の心を密かに惹きつけた。同じ程度に、危うさも感じさせた。


しかしそんな危うさを振りまいているなどと、男自身はわかっていないのだろう。むしろ彼自身が、怯えるように始終落ち着きをなくしている。


 男と向き合って、ただ見つめ続ける木下も驚いて何も言えなかった。


自分の内心を見透かされたように感じた。そしてそれを先回りして、彼が止めた。何の確証もないのに、男にバレたと思った。見ず知らずの男に、自殺をしようとしていることを気づかれた。そのことに、声もでないほど驚いている。ひったくりだと思う余裕などなかった。


 しかし、正しく彼女の内心を判断した当の彼は、自分が誤った行動をとったのだと誤解したままだ。自分自身のとった行動に、弁明する言葉も見つけられないまま、可哀想なほど困ったように視線を左右に揺らす。


髪の毛でよく見えなかったが、黒縁の大きなレンズをかけている。軽く握りこぶしをつくって、頬をなでるように掛けなおした。その仕草が、戸惑う顔を隠しているようにも見える。


男と向き合っている木下の後ろで、電車が止まって扉を開ける。居たたまれない表情のまま、男はそそくさと電車にのる。


その電車に木下も乗るはずだった。しかし乗れない事情ができた。今、この電車に彼と居合わせることは、なんとなく避けたかった。


電車が発車し、遠く見えなくなるまで、木下は振り向くことができなかった。動くことさえ、できなかった。

君と一緒に。

君と一緒に。

木下凛は連休明けの最初の出勤日になると、いつも駅のホームで自殺することを考える。 将来の夢も目標も、特にないまま過ごす日々。その日も、自殺する自分をイメージしていた。 駅のホームに電車が走り込んでくる。そのタイミングで、思いもよらない出来事がおきる。

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更新日
登録日
2017-01-31

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