曇天の日には収穫が多い

曇天の日には収穫が多い  前半


さて今私はここに私自身の現時点での結論であるところの論文を記そうと考えている、私は五十歳を過ぎやがて人生の最終盤に至ろうとしている、そして何かしらの社会的な貢献と今後呼ぶことができるような何かを試みようと考えている、逆に言えばそれだけ私は五十年以上も生きていながら社会的に多くの貢献をなすことができずに今日に至っているといってよいのである、「社会的貢献」という言葉はもしかしたら今の若い人々にはあまり馴染みのあるものではないのかもしれない、だが私はそれでもここに私の思いというものの痕跡を留めたい、確かにそれは私の生きた証を何かしらの形で残したいという思いもあるのだが、しかし同時に僭越ながら私が以下記す文言の中にもしかしたら読者諸君にとっていつか有益となる何らかの精神的価値を潜ませることができるのではないかとも考えているからである
どのようなものであれ他人の文章を読むことは一定の知的な意味でのメリットをその読者にもたらす、どのような読み方をするかにもよるが最初の十数行を読んで何らかのインスピレーションに襲われたならばとりあえずその書のタイトルくらいは記憶しておくべきかもしれない、あくまでも私見であるが心振るわせるものは期待とは反対の方向にある、したがってふと手にしたものの中に実は重要な人生のための指針が隠されていたりもするのである
そのように考えると年齢を問わず私たちにとって大切なのは好奇心そのものであるといえる、結果を追い求めると程度の差こそあれ予定調和を重んじることになるために面白いものではなく利益あるものへと目を向けがちである、したがって瞬間的な熱情に動かされてしまい冷静で理性的な判断が疎かになってしまうということもありうるであろう、だがチャンネルを限定せずに好奇心を優先させるということはそれ即ち「自己の可能性の模索」でもあるのである
誰にでも可能性がある、もし何らかの挫折が貴兄に限界を告げても別のチャンネルが貴兄に新たな道の存在を示すかもしれない、道は信じるものの数だけそこに存在する、後は貴兄が決断するか否かのみである、確かに決断とはタイミングの問題でもある、だがそれまでの数値化できる実績に目を奪われ過ぎなかったのであればおそらくそこでは他人の意見は最終的には貴兄の判断の障害にはならないであろう
これは知性の問題ではなく理性の問題である
したがって過去のデータを不問に処すことは可能である、理性とは自己を顧みる精神のことである、「自己を顧みる精神」が「にもかかわらず諦めない意志」と結びついたとき、そこには貴兄にしか分からない法則が貴兄にしか分からない暗号で運命の手により告げられる
ここである種の象徴的な文言を記すことはおそらく比較的高い確率で許されるのであろう
確固たる意志は闇の彼方にある一筋の光だけを見据えている時にこそその本領を発揮する、なぜならばその意志は光の中を歩んでいるのではないが故に迷いを持たないからだ
それに対し光は喜びであるがしかし視界を保証するが故に迷いをもまた常に帯同させているのである
なるほど集中力を必要としている人は概ね夜型の人が多いのかもしれない
デザイナー、作曲家、小説家、画家、脚本家、数学者、建築家、そして何らかの独自性を現実の仕事の中に生かそうと試みているすべての社会人

おわかりであろうか?
順調でない日常を歩む者こそ真理を知りうる者
私はすでに真の感動は期待とは逆の方向にあると書いた、ならばたとえ今迷いの中にあったとしてもそれを日々反芻し悔やむ必要はないということである、確かに夢が貴兄を救うであろう、夢は過去を清算し未来の扉の在りかを指し示す、条件が整わないことを嘆くのではなく自らを変革し時に現実の一歩先へ回り込むことを夢は教える
もうすでに数十行過ぎた、まだ貴兄がここに留まっているのであればどうかもう数十行お付き合い願いたい
この書に目を通しているということはそれだけで貴兄には探している何かがあるということである、それが仕事でもないにもかかわらずこの書に辿り着くということはスケジュール帳が予定で埋まっているような人にはおそらくあり得ないことであろう、順風満帆の時に人は神を思わない、レールを逸れるという非日常が選ばれたるものに巡り巡って復活のための切符を渡すのである
私はここで貴兄には一つの質問しかしない
貴兄はその日常において偽りの言葉を弄していないだろうか?
その返答がNo(弄していない)であることを確信し次へ進もう

この書は私の日常における二つの疑問に自ら答えを出すという目的で書かれたものである、その疑問とは人生はなぜかくも辛いのかというミクロの疑問と、神はなぜ人間を造ったのかというマクロの疑問である、したがってこの書は私個人の神に対する論考であると同時に私的な意味での幸福論でもある、いずれにせよここに述べられたすべては私論であり僅かもその域を脱するものではない、ここを十分確認の上諸君どうか読み進んでいってもらいたい
またこの書は上記したような内容であるため神という存在を強く意識した論文となっている、したがって無条件に無神論の立場をとっている人々とはやや相容れない部分も生じる可能性があるが、しかし私自身特定の宗教に帰依している人間ではなく故に特定の宗教団体に所属しているわけでもないので何かしらの組織の代弁者というわけではなく、おおよそ中立的立場は維持できていると考えている、そのため宗教的な要素、色彩を嫌う方々にもある程度はその論旨を受け入れていただけるのではないかと考えている、なにとぞ理解賜るよう御願い申し上げる
またこの書は私が五十歳を超えて書き始めたものであるためたそがれの扉(後に詳述)を開けた者でなければやや理解困難な部分があると思われる、たそがれの扉とはつまり老いの始まりのことであるが、たそがれの扉を開けて初めて人は死の近いことを知る、そして死を明確に認識することによって残された時間がすでに費やした時間よりもはるかに短いことを知る、だがそれはある意味かつて経験したことのない決断を行うチャンスでもあるのだ
私も決断を行い今この書を記そうとしている

有神論者であることとたそがれの扉を開けたことは読者がこの書を理解するうえで外せない条件ではあるが、一方でそれは絶対条件ではないともいえる、それは私が神について論じながらしかし宗教家でも宗教学者でもない単なる一市民に過ぎないということにその論拠があるのであろう、確かに人生はあまりにも短く故に五十年という年月もまた神や人生を語るには決して十分な歳月ではないと言えるのであろう、だがこうも考えられるのかもしれない、おおよそ論文というものは完璧なものではなくそこにある隙間に読み手それぞれがそれぞれの確信に近い要素を補うことで初めてそれは完成を見るのであると
いや、おそらく論文だけではあるまい、作品と形容されるものはすべて発表されたときには未完成でありそれを受け取る者が能動的にそれを鑑賞しまた批判を加えることでようやく完成を見るのであると
ならばこの作品もまた同様であろう、極論すればたとえその時はそれを正当に評価することができなかったとしても場合によっては数十年後に新たな評価をそこに加えることができるかもしれないのである
そういう意味では重要なのは感動ではなく鑑賞なのかもしれない、つまりそれを知ること、そのように考えれば16歳の少年少女が西洋の分厚い古典文学に手を伸ばそうとするのも、時期尚早の一言で片づけられるべきものではないのかもしれない
芸術にせよ、哲学にせよ、その道を究めたものだけが持つ普遍性というものは洋の東西そして慣習や風習のすべてを乗り越えて時に永遠という名の衣を纏う、人は永遠足り得ないが人が生み出すものは極めて稀にではあるが惑星間の障壁をも越えうるものなのである

私がここに記すその内容は時に何らかの論争の火種になるのかもしれない、また人一倍の信仰心故にその組織において重要な役割を担っている方々の感情を害することもあるかもしれない、そのすべての責任が私にあることは言うまでもないがどうか私が気まぐれでこのようなことを述べているわけではないということだけは何卒重々ご理解いただきたい、またこの書に端を発する議論には積極的に関わっていく所存でありまた読者諸君の慧眼による反駁にも浴したいとも考えている、また可能であればある場所に集まって活発な議論を交わすことができるならばそれは私にとっては至上の喜びとなろう

では諸君あとがきの後に訪れるであろう諸君らの感慨に思いを至らせながらも序としてはここで留めたいと思う

2016年7月2日
                            織部  和宏

神とは何か?

神とは何か?

序においてすでに私はこの書を理解するうえでの条件として、有神論者であることと、たそがれの扉をすでに開けたものであることの二つの条件を示した
たそがれの扉については後に述べるとして、神についてはこの書を理解するうえで非常に重要な概念であるため、ここで最低限の私なりの定義を述べておきたい
ただしここで断っておかなければならないのは序でも触れているとおり、私自身が特定の宗教に帰依していないということだ、これは読者諸君の多くにとっては意外なことと捉えられるかもしれない、なぜならば特定の宗教、宗派に属していない人が神についての持論を展開するなどということは私もあまり耳にしたことがないからだ、しかも私は神を信じると公言している、いってみれば無宗派の有神論者ということになるのだろう
幾分か例外的な状況にある一人の理論家によって紡ぎだされるこの持論の数々はおそらくは神を信じる者にとってもやや特異なものと映るかもしれない、おおよそ宗教というものは戒律を持つものでありまた組織を持つものである、私はそれをほぼ無視する形で論を進めていくことになるため、なるほどここで読者諸君に強くこの書を薦めることは難しいのかもしれない、しかし同時にこのような書が前代未聞に近いという点からも、ある意味神を信じる人々にとっては何らかの関心を惹くことになる箇所はいくつかあるのではないかとも思う、果たして特定の宗教に帰依していない人間の説く神とは?
そのあたりのところを以下論じていきたい

だが序でも述べているとおりこれはあくまでも私論であり、その領域をわずかも脱するものではない、そういう意味ではこれは私という一人の日本人の独白のようなものであって読者がそれに賛同を覚えない限りは一切の普遍性を持つものではない、故にこれを一初老人の戯言であると片付けられても私には反論する理由はない、私論であるが故にこれを価値あるものと認めるか否かはすべて読者の方々ひとりひとりにかかっているのである
ここまで読んでいただいてこの章の冒頭で触れた二つの条件に適っていない読者の方は確かにこれ以上読み進めるのを控えたほうがよいかもしれない、この書は私論であるが故にあまりにも独特な個性を備えすぎている、わからない人にはおそらく理解のきっかけすら捉えることができずに、その途上でこの書より去ることになるであろう、その難解さの筆頭に来るのが、私がこれより述べるところの神である、この神は古今東西あらゆる宗教において語られてきた神とその性格を異にしている、詳細は後で述べるとして私は二神論という立場をとっており、これだけをとっても他と違っている、私にとっての神は私論故主観的であり、その意味では特定の宗教に帰依する人々からすれば普遍性を欠くものであるのかもしれない、しかし一方で私論故に自由でもある、したがってこの私論に登場する神はこれまでのどの宗教の神にも似ていないと断言することができるであろう、「私と神」そして「私の神」、なるほど神の第一条件は普遍であり、故に権威である、しかしそのように考えるとこの私論に登場する神はややその趣を異にしているかもしれない、この私論に登場する神は一般論としては普遍でありまた権威も伴っているが、私論であるが故に現時点では通常備わっているであろうと想定される神特有の性質をこの私論に登場する神にそのまま当て嵌めようとすることは人によっては幾分かでも抵抗を覚えるかもしれない、したがってここではこの私論に登場する神は普遍と権威を併せ持ったものであるにもかかわらず、その一方で現時点では私の頭の中にのみ存在するものであると限定することも可能であろう、これは明らかに一歩引いた婉曲的な表現であるが扱っている題材が誤解を受けやすいものでもあるためここではやや抑えた表現のまま次に進みたいと思う
しかしだからといってここに述べられていることのすべてが読者諸君にとって無益なものであると言い切ることはできないであろう、僭越ながらもしこの書に登場する神に諸君のいずれかが普遍を見出すことができるのであればその神はその彼にとっては権威たりえるものとなるかもしれない、なぜならばこの書は私論であると同時に幸福論であり、幸福とはそれぞれひとりひとりの内側に存在するものであるからだ、幸福とは万人が希求するものであり、またその追求の権利も保障されなければならないものだ、読者の方々の脳裏に潜む過去の経験とインスピレーションにより培われたより良い人生を生きたいと望む本能は、この書に網羅された数々の箴言めいたメッセージの中にある種のヒントを見つけることができるかもしれない、それは最終的には読み手個人のフィルターによって濾されその結果その読み手にしか分からないであろう秘密の暗号となって長く読者の記憶と魂の片隅に存在し続けるかもしれない

確かに幸福は主観的だが、信仰は客観的だと定義することは可能であろう、だがその客観的な信仰が最終的にどのような形であれ、人々の幸福と安らぎに客観的であるが故に結びつかない部分があるのだとしたら、神を語ってはいるのだが、中世以前のキリスト教社会であればおそらく異端と片付けられていたであろう論理(主観的である)にも何らかの発言権がこの21世紀において与えられてもよいのではないのかと思う、神の声を多数で昼間に明確にそして繰り返し聞いた者たちはいない、神とは少なくとも人間に対しては沈黙を貫くものだ、だからこそ日常生活に潜む僅かなヒントの中から神とは何であるかのインスピレーション、ひらめきを感じ取る必要があるのだ
神を論じることは必ずしも哲学と同一ではない、だが神を論じることが哲学の一端と交わることはあるだろう、人間の終着点はほぼ例外なく個々人の幸福の実現でありその過程のすべては救済のための徳の実践である、宗教はおおよそそのための手段であり、宗派を変えることそれ自体が神への冒涜ではない、つまり神とはあらゆる障壁を越えていくものである、故に神とは創造主として定義され、また人類すべての信仰の対象となりうる唯一の存在である、普遍とは共通のことであり一切の「例外のない」正の価値のことである、だがここで気をつけなければならないのは、だからといって普遍は個別の善を目的とする探究心を犠牲にはしていないということだ、これについても詳細は後に任せるが、客観が多くを得ると異端が生まれる、それは普遍の定義に背くことになる、これも後に詳述するが幸福は多様性を完全に包含するものでなければならない
言うまでもなくすべての人間には等しく幸福を追求する権利が付与されていなければならない、もし現在一部の地域においてそれが現実のものとなっていないのであればそれは実に悲しむべきことである、客観は共通としばしば褥を共にする、それ自体は決して悪いことではない、がしかしそこに100人いるとしたらそこには100通りの幸福の形がある、それは何人たりとも侵してはならないものであり、故に表現および言論の自由は政治のみならず社会的レヴェルにおいても守られなければならないのであって、もしそれが侵犯されるようなことになれば、私たちは全力を挙げてそれに抗しなければならない、共通とは個別の集合体でなければならない、そうでなければ少数派の意見は少数派であるが故に最終的には圧殺されてしまうことになりかねない、この21世紀においても尚そのような事態が想定されるのであるとしたら、いったいこれまでの人類の文明の進歩というものは何のためであったのであろうか?
そういう意味では個別が個別足りうるために、そのための第一歩を記すべきときにもう来ていると思うのだが、実際にはまだそのスタートラインまでの距離は決して短くないといわざるを得ないであろう、幸福の形とはしばしば夢の形である、したがって幼少期においてこそ幸福を追求する権利=個別の権利が保障されている必要がある、正義は共通をその基盤とするが(これも後に詳述する)、幸福はそうではない、この書は序でも触れてあるとおり、私論であり私的幸福論である、故に個別の権利というものを私としては重視して筆を進めていきたいと思う、なぜならばそれは少数派の権利を擁護するものであり故にこの21世紀以降(偶然にもミレニアムの世紀である)の人類の文明の進歩を考えるときにすぐにではないが数十年後には極めて重要な思考の概念となっていることを確信しているからだ、そういう意味では20世紀の祭典がオリンピックであり、21世紀の祭典がパラリンピックであるといえるのかもしれない、これは障害者のみを対象とするものではないということはすでに読者諸君にも心理的に伝わっていることであろう、少数派というものはいついかなる時代にも存在するものであり、個々人の幸福を追求する権利こそ人権の基本中の基本という考え方が世界に遍く行き渡っていくその最初の世紀に今世紀がならなければならないと私は考えている、私たちはもう十分レッスンを受けているのだから

さて神に話を戻そう
神とは少なくとも私にとっては「私」という存在を証明する唯一の絶対である、なぜならば「万物は対象を求める」(これも後に詳述する)のであり、この世に単体で存在するものはひとつもないからである、すべては二つで一つであり、したがって神も宇宙もそれぞれ二つずつ存在している、私たち人間も神とつながることによって対象を得、それが存在の証明に結びついている、人間が人間足りうるためには私たちの存在の対象であるところの神の存在は必要不可欠であるが、神が人間の作り出した想像上の存在でないことは、私たち人間に「生」と「死」の二つがあることからも容易に推論できる、生は永遠に生ではなく死もまたそうであろう、この世の絶対法則(故に真理)は、「相矛盾する役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」(この言葉もこの書のキーワードのひとつ)であるのだから、魂が生と死の間を飽くことなく往復しているように、つまり死があるから生が証明されているように、私たちも神という人間とは対照的な存在があるから、そして人間は不完全であるがしかし神は完全であるが故にこの世に存在することが可能なのである、神はまるで植物のような存在であり私たちの身近にある存在である、神を知るのに宇宙を知る必要はない、まして物理学も不要である、これも後に詳述するが人間にとって最も重要な力は「感じる力」である、ここを読み誤ると専門であるが故に普遍を失うことになりかねない、彼その人にしか分からない論理はそれが明らかになった時点においてすでに救済には達しえないのである、救済という言葉には「万人の」という枕詞がなければならない、そうでなければそれは救済にはならない、単なる象牙の塔の論理である、そういう意味では救済を司るものは知ではない
では何なのか?
それは善である

神とは何か?
すでに神は私たちの存在の証明であると述べた
次に登場する言葉は「善」である、では善とは何か?善とは私たち人類の究極の目標である、これはこれもまた後に詳述するそしてこの書の実に重要なキーワードになっている「負の肯定」と見事な対照をなしている
善とは悪でないもののすべてである、故に善とは神そのものを体現する言葉である、これも言うまでもないことであろう、神に悪意があると仮定するにはこの世(私たち人類がすでに知っているすべてのもの)は美しすぎるのだ、これを判断するのは感性であり、知性ではない、おそらくこれから私たちが知ることになるすべても同じように美しいであろう、確かに中には恐ろしさを覚えるほどの美しさも存在するのであろうが、神の御業による世界(宇宙)というものがいかに限りなく創造的で、にもかかわらずバランスの整った美しさに覆われているかを遅かれ早かれ私たちも遍く知ることになるのであろう
この地球という惑星の年齢は専門家の方々に云わせれば48億年だそうである、なぜ48億年もの間この惑星は生き続けて来られたのだろうか?よくよく考えてみれば不思議な話である、「奇跡」という言葉で表現するのは簡単な話だが、しかしそう簡単な話なのだろうか?いや、奇跡という言葉が適当だとしても、ではなぜこの惑星に奇跡が?それはこの惑星地球が神に選ばれた惑星であるからだ、なぜ?それは神がこの惑星に生命を誕生させまた育むことを決断されたからだ、なぜ、生命を?神の理想の実現のためにそれらが必要であったからだ、ではなぜ人間を?読者諸君には俄かには信じられないだろうが、このように推論することができる、神は神の理想を実現するために人間をこそ必要とした、だが人間は実に不完全な存在であるが?神が人間をわざと不完全に造ったからだ、なぜ不完全に?それは第一に人間の中から絶対者になろうとする者が出てこないようにするためだ、また万が一出てきても必ず失敗するようにするためだ、第二に人間の文明の進歩において人間に直線的にではなく渦を巻くように、曲線的に進ませ、つまり遠回りをさせるためだ、なぜ遠回りを?それは神が理想とするゴールは端にあるのではなく真ん中にあるからだ、なぜ直線的にゴールへ向かっては駄目なの?苦しみ、もがき、時に憎み、いわゆる負の肯定を経験せずにゴールへ辿り着いてもそれは意味がないからだ、ゴールには何があるの?神の理想がある、神の理想とは?「究極の善」の実現である、究極の善とは?負の肯定の対照をなすものであるが、それを確立することで最終的には負に勝ちうるものである、だがその内容については現時点では大幅な推測に基づいて語るしかなく、私個人にとっての文字通り生涯の究極の課題となっている

もう一度、善とは?
神の理想、ゆえに救済
そして不完全であるが故に人間こそがそれを追求すべき役割を担っている
不完全なのに、なぜ?
負の肯定を人間に経験させるためだ、おそらくそれはグレートターン(後に詳述する)の後で神の意図は理解されるであろう

神を信じるが故に善を奉じる、善を考えるということはこれから生まれてくる人々のことを考えるということだ、したがって、卑近な例でいえばごみの分別は善である、また樹を植えるのも善である、そして借金をしないも善である、100年後の人類が100年前の人々に感謝をすると多くの人が推測できるすべてが善である、「次の人」は善を考えるうえで実に重要なキーワードだ
そして善にはもう一つの重要な側面がある
それは普遍である

神は私たちの存在の証明、神は善の体現、そして神は普遍、唯一の普遍
普遍とは何か?
普遍とは無限のことである、
無限とは何か?
神の裁量のことである
神の裁量とは何か?
神の理想の実現までの過程のこと、つまり私たちを取り巻く時間の流れのことである
故に時間とは神の呼吸のことである
時が存在する限り神が存在する、いや違う、時がなくとも神は存在する、だから神は普遍なのだ、神が息を止めれば時間も止まる、神は時間をも操る、確かに普遍故偉大なのであろう、しかし翻ってみればその神が人間を造ったのだ、実に驚くべきことだ、なぜならば神は自らの手を汚してまでその決断を下したからだ
なぜか?
ここに普遍の解読のための重要なヒントがある
キーワードはやはり「負」(この言葉はこの書で何度も繰り返されることになる)であろう、美しいだけでは神の理想は完成しない、また美しいだけでは神は普遍足りえない
手を汚す、なぜそれが必要なのか?
神もまたそうされたからだ
神には崇高で、この世の一切に捉われない超然とした印象があるが、しかしそれだけではない、神は肉体を酷使する労働者でもあるのだ、神が人間(特に男性)に労働を課したのは人間が神との約束を破ったからではない、人間が知恵を使って人類にとって有意義な創造を行うためには労働が必要不可欠であることを人間に教えるためだ、労働なくして文明の進歩はありえない、実はそれを最もよく知っているのが神御自身なのである、そういう意味では神の創造は今尚続いている

額に汗する神、だが実際はそうなのだ、この世の史上において最も働いたのが神、七日目に一度は休んだが、八日目にはまた労働を再開している、だから普遍足りえるのだ、労働に次ぐ労働、それが普遍につながる、労働を知らぬものは普遍を知らぬ、故に神を知らぬ
神は裁判官であり、同時に農夫である、土にまみれ、水を汚れた手で掬っては喉を潤す、朝陽に目覚め夕べに家路に着く、神はもちろん人間を超えた存在ではあるがそのように推測することは可能だ、神が人間を自分に似せて造ったわけではもちろんない、それはありえないであろう、それほどまでに人間は不完全である、だが人間のどこかに神は神性に似た何かを潜ませた可能性はある、人間が殺し合いの結果滅亡してしまわないように
神はすべてを創った、故に神はすべてを救う、恐れながらそれは神の責務でもあろう、生命の何たるかを最もよく知っているのが神である、その神がどうして自ら創り上げたものを滅ぼすのか?ありえないことである
神はすべてを創り、すべてを救う、故に普遍である

最後に、神だけが権威と呼べる唯一のものである

神とは何か?Part2

神とは何か?Part2

引き続き、神とは何かである、ここでは前章において書き及ばなかった部分を前章で述べた内容に関連させながら述べる

神とは「私」の存在の対象であり、したがって「私」という存在の証明である
また神とは善である
そして神とは唯一の普遍であり、また権威という言葉を用いることのできる唯一のものである

そして神とはすべての創造主である

この世は神が創った、これが出発点であろう、この世はすべて二つで一つである、したがってこの世も「有」と「無」の二つによりできている、無は創造とは無縁なのでここで縷縷と説明する必要はないであろう、問題は有の方である
有とはこの世のすべてのことだがこれは誰が創ったのか?
その答えが神である

神がこの世を創った

ではなぜ神はこの世を創ったのか?そこには何らかの理由があるはずだが…….
私はこう思う、神は神の理想を実現させたかったのだと
神はすべてを創った、惑星も衛星も生命も、目に見えるものも目に見えないものも、触れられるものも触れられないものも、人類にとって既知のものも未知のものも、すべて神が創った
神には理想があった、この世を遍く貫く一つの理想が
光も時間も空間も物質も、そして生命もそして知恵さえもすべてはそのために必要なものであり、そこに神が気まぐれで創ったもの、つまり不必要なものはない、すべてが必要なものであり故あってこの世に存在している、したがって誕生したものはすべて救われ滅びの運命を辿るものはない、ただし神は一人でこの世を創ったのではない、この世はすべて二つで一つ、なぜならば神もまた二人で一つだからだ、後に詳述するが二人の神は綱引きをするが如くこの世を創り支配している、片方の神が綱を引けばもう片方の神は綱を引っ張られる、また綱を引っ張られた神が今度は綱を引けば先ほどとは逆にもう片方の神が綱を引っ張られることになる、神が綱を引っ張る時、この世は拡大、膨張し、神が綱を引っ張られる時は、この世は縮小、萎縮する、つまりこの世はおそらく数字の8のような形をしている、二つの空間がありその片方が膨張すればもう片方は縮小する、そしてそれが極限に達するとそれまでとはまったく逆の動きが起こるようになる、つまり拡大していた方が縮小に向かい、縮小していた方がゼロになりその瞬間から今度は拡大に向かう、そしてそれを永遠に繰り返す、もちろん8の字のようなこの世の二つの空間は綺麗な円ではないのであろうが、おおよそ円というか楕円かもしれないが、いずれにせよ円のような形であろう、二人の神がお互いを意識し合いながらよりこの世を理想に近づけていこうとしているのである、また二人の神の役割はもちろん異なり、片方が光を担当するなら、もう片方が闇を担当する、闇は無ではない、暗闇というものが在るのである、また片方の神が生(私たちが勝手に生と呼んでいるだけだが、死の世界の人々からすればあっちが生であろう)を司るのであれば、もう片方の神は死の世界を司るのであろう、いずれにせよこの世の真理は「相異なる役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」であるのだから、まさに神がそうであるということなのであろう
神が二人いるという論理は私たちの現実とも符合している、つまり男と女である、神が一人ならば神は果たして男なのか女なのか?両性具有ということも考えられるが正直しっくりこない、つまり神が一人つまり一神教とするならば神はやはりどうしても男ということになってしまうのである、果たしてそれはこの世の理に適っているのであろうか?
二神論であればそこに矛盾はない、片方が男でもう片方が女である、この方がしっくり来る、そして繰り返し述べているようにすべては二つで一つである、いずれにせよ万物は対象を求める、神自体がそうなのだからこの世のすべてもそうである
神の理想は善である、だがこの世のすべては二つで一つなので、善とは相矛盾する要素がここに登場しなければならない、それがなければ善もまたないのである、その相矛盾する要素が悪である、私は必ずしも善悪二元論の立場をとるものではないが命(これがこの世で最も重要なものでありこの認識は神に由来する、なぜならば死んだものは生き返ることはないからだ、したがって神はすべてを救うことに決めたのである、もちろん救うのはもう一人の神の役割かもしれないが)という最も重要なものを育むものが善でありそれを奪おうとするものが悪であるという認識は第一に成立可能であると思う、アメリカの西部劇にも日本の時代劇にも必ず悪役が登場するが、彼らは実はこの世のもう一方の真理を体現している、善は美しいままに育ち成就するものではない、善はもがき、苦しみ、喘ぎ、時に息も絶え絶えになりながらそれでも尚諦めずに進む、それでようやく次の段階に善は進むことができる、そういう意味では善は美に似ている、善も美も必ずどこかに天邪鬼がいて「それは善ではない」とか「それは美しくない」とか水を差そうとするものだが、善も美も「にもかかわらず進んでいく」ものである、おそらく光と闇では闇の方に一日の長が在るのであろう、光の方が闇よりも早く誕生したとは考えにくい、したがって闇の方が常に善に先んじているという印象がある、もちろん闇=悪と単純に定義することはできない、闇にも闇なりの役割があるのであろうが、善にも美にも光というイメージがある、善や美に触れると暗く沈んだ気持ちも明るくなるが、その逆は想像しにくい、闇はやや損な役回りを背負わせられているようだ

さて先ほど私は神の綱引きと書いたが、これは善と悪の関係にもまた言えるようだ、悪が勝つようではこの世はより多く悲劇に見舞われるようになる、したがって善が必死になってそれを食い止めているというような感じであろうか、ただ人類に限っていえばまだ歴史が足りないのであろう、善と悪では悪の方にやや分があるようだ、したがってここでもう一度善の必要性を確認しておく必要がある
善と悪とは二つで一つなので、完全に切り離すことは難しい、しかし悪を最小限にすること、または飼い馴らすことは知恵を使うことによって可能であるかもしれない、少なくとも無理と断言することはできないであろう
知恵の最初の仕事は嘘をつくことであるが、それが身を守るためのものであるならばつまり悪意によるものでないならば少なくとも幼少時においてそれは仕方のないものであるかもしれない、ただ気をつけなければならないのは嘘は泥棒の始まりならぬ悪意の始まりであるということだ、計画性があればかなり悪質だが、そうでなくとも嘘が自分に利益をもたらすということは間々ある、嘘について語るとかなり長くなるので端折るが、悪のその第一歩目を嘘に求めることは可能であるかもしれない、できるだけ正直であれ、と子供たちに教えることは大切なことであろう、だがそのような時に神の在不在はもしかしたらその後かなり大きな違いとなって現れるかもしれない
やはりもう一度言わなければならないのであろう
神は善である
実はもう一つ愛という言葉がここで必要になるのだが全体の文章のまとまりを優先させるためここでは割愛する(後で述べる)
つまり善と悪はコインの裏表ではあるが最終的には善の方に優先権があるのだということをできるだけ若いうちに認識しておく必要がある、「この世はすべて金であり、うまくやったものが勝利者になる」という考えにはそのような人にさえも発言の権利があることは認めるが賛同はできない、それでなくとも善はこの21世紀において明らかに劣勢に立たされている、劣勢に立たされているものを応援したくなるのは人間としては不思議なことではないであろう
では善を今後何百年かかるか分からないが立て直していくためにはどうすればよいのだろうか?
善と悪とはコインの裏表であり切り離すことはできないのであるから、悪の中にあるものを自らに取り込んでつまり飼い馴らすことが必要になる
そう、「負の肯定」である
負の肯定についても後に詳述するのでここでは割愛するが、大切なのはこの世を善で目一杯覆うことではなく、最終的には必ず善が勝つのだということを普遍的な認識とすることである、悪に染まって利益を得てもその時点ではともかく最後は必ず後悔に終わるであろうと、理由は様々であれ悪を志向する特に若者たちにそう思わせることだ、またもう一つすでに悪に染まり不幸にも過ちを犯してしまった人々にも可能な限り更正の道を残すべきだ、そして悪から善への豹変(これもこの書を理解するうえでのキーワードのひとつ)を勧める、豹変はもちろん条件付だが恥ずかしいことではなくそれどころか時には歓迎されるべきものだ、豹変は人生で二度か多くて三度であろうが、それが善を志向するものであれば、それは許される
善とは人の善ではなく神の善、故にそれは普遍であり人間の都合主義により恣意的に変えることはできない、だから信仰が必要になるのである、しかしだからといって特定の宗教に帰依する必要はないであろう、なぜならば信仰が理性に先立つものであることを証明することは難しいからである、そういう意味でも大切なのは神を信じるか否かであり、それ以上のものは何もないであろう
どうかよく理解していただきたい、正と負は拮抗している状態がもっとも望ましい、それ故にこそ最後は信仰の有無がどちらに転ぶかを決するのである
しかしすべては救われるとすでに私は書いた、ならば地獄に落ちる人は信仰の有無にかかわらずいないのではないのか?
そのとおり、だから生前の約束となぜ神が人間を造ったのかが問われるのだ、生前の約束については後で述べるが、神がなぜ人間を造ったかはここで簡単に述べておこう、それは神が神の理想の実現するうえで、その一翼を人間に担わせようとしたからだ、そうでなければ神が人間をここまで不完全に造っておきながら知恵を与えた意味が理解できない
これについては次の章で述べる

神はなぜ人間を造ったのか?

神はなぜ人間を造ったのか?

さて序でも述べたとおり私がこの書を書いたのは二つの疑問に自分なりの答えを導き出したいと考えたからだ、二つの疑問とはまず人生はなぜこんなにも辛く苦しいのか(ミクロ)であり、もうひとつは、神はなぜ人間を造ったのか(マクロ)である
第一の疑問の人生はなぜこんなにも辛く苦しいのかについては、負の肯定と絡めて今後述べていくが、ここでは先に二つ目の疑問、神はなぜ人間を造ったのかについて前章、および前々章で語ったことと絡めながら述べていきたい
私はすでに前章において神が人間を造ったのは神自身が創り給うたこの世において神の理想を実現しようと考えたからだと書いた、確かにこのような意見は読者諸君も以前に聞いたことはないであろう、私自身でさえ果たしてこのような見解が多くの人々に受け入れられるのだろうかと常に疑問に思っているのではあるが、しかし私がここで私なりの文字通り持論(私論でもある)を展開することは少なくとも有神論者の方々にとっては僭越ながらまったく無駄なことではないように思う、まだこの書は始まったばかりでもあるので、諸君何卒ここはもうしばらくお付き合い願いたい
神はなぜ人間を造ったのか?その前に神が人間を造る前に創ったもの、つまりこの地球という惑星について考えてみたい、神はなぜこの地球という惑星を創ったのか、ここは物理学および地学といった理系の学問には一切捉われず私なりに見解を述べさせていただきたいと思う、この書はあくまでも私個人の私論であり、また私的幸福論であるが故必ずしも科学と同一のレヴェルにはない、つまり極めて主観的なものであることをここで今一度ご確認願いたい
それでは、神はなぜこの地球という惑星を創ったのか?
それはいつか機が熟したときに人間という知的生命体を造り、その人間に神自身の理想の一翼を担わせるためにである、ここで確認したいのは神が私たちホモサピエンスを敢えて現時点では最終的に選んだということと、もう一つ、では神がホモサピエンスを神の理想の最終的な拠り所と考えているのか否かということの二つである
第一に確認したいのは、人類は私たちホモサピエンスだけではなかった(ここでは敢えて過去形にとどめておく)ということだ、古くはアウストラロピテクスやアルディピテクス、最近では私たちと同種ともいわれるネアンデルタール人やクロマニヨン人(彼らもどうやらホモサピエンスの一種であるようだ)など様々な人類がこの地球には存在していたということだ、ではなぜ私たちホモサピエンスだけが唯一人類として生き残ったのか?科学的に考えれば複雑な言語を用いることができるが故に戦争に強かったのだということになるのかもしれないが、私はここでこういう考え方を取りたいと思う、つまり神はいくつかの実験をしたのである、と
神には複数の選択肢があった、神は最終的に自分の理想実現のためには様々な条件にうまく適合したより知的レヴェルの高さを望める人類が相応しいと考えており、またその人類をうまく活用することによってのみ実現可能であろう完全なる設計図があった、神には迷いはなかったが確認のためのある種の実験は必要であった、神は創造したものすべてを救うのでここに神の悪意はない、この世は神が創ったものであるが故に一から作り直すことも厳密には可能ではあるのだが、神には確信があった、「私が創ったこの世は素晴らしい世界になる」と
それでいくつかの知的生命体を神が想像する順に人類が生存する環境がようやく整った地球というこの惑星に誕生させていった、当然そこにはアウストラロピテクスそして猿人、または原人と呼ばれるもののすべてやネアンデルタール人はじめそれぞれの人類の果たすべき役割というものがあった、神はそれぞれの人類に課題を与え果たしてそれをこなすまでにどれくらいの時間や手間がかかるであろうか、そしてまたやや難しい課題を与えたときには実際にそれができるであろうかということも観察した、神は人類にも進化が必要であることはとうにわかっていた、したがってネアンデルタール人とホモサピエンスが対峙するようになった時も、より進化のスピードの速い方を優先させることに決めていた、また神にはもうこれ以上待つことができなかったという切迫した現実(現実が変化に接する時は常にそうだ)もあったかもしれない、結果的にホモサピエンスが神の試験に合格し、ネアンデルタール人はこの地球を去り(一部ホモサピエンスと混血)代わりに神(もう一方の神かもしれないが)によって救われた
つまりホモサピエンスが現時点での神の最終的な選択である、神は被創造物を滅ぼすことはしないためホモサピエンスはネアンデルタール人なき後ある種のフリーハンドを得ることになった、だが神がホモサピエンスを自由にさせていたというわけではない、神は発言しない代わりに人類(以下人類とはホモサピエンスのことである)に労働と知恵を使わなければ解決できない課題、時には重い課題を突きつけた、この神の意志は現在も続いており私たちはどんなに文明が進歩しても労働と知恵を使わなければ解決できない課題から解放されることはない、この21世紀においてホモサピエンスは概ね神の期待に副っているのであろう、だがこれから先は分からない、神はすでにホモサピエンスに変わる新しい霊長類の誕生に取り掛かっているかもしれないのだ、おそらくそれは間違いあるまい、先ほど、ここでは敢えて過去形にとどめておくと書いたのは、あくまでも現時点ではホモサピエンスは神の御めがねに適っているということであって、遠い未来においてはどうなるかは分からないということである、私自身はいつかこの人類にグレートターン(これはこの書の最後に述べる)が起きて人類の大回帰運動が起きるのではないかと思っているが、それはここでは触れない
いずれにせよホモサピエンスの役割が終わったときには神は次の手段を繰り出してくるのであろう、そこは私たちにはどうすることもできない部分なので、私たちは神により課せられた課題をひとつずつ解いていくだけだ、これは私たち人類にとっての義務である、だからこそ私たちホモサピエンスはこの惑星の何十万種類の生物たちの食物連鎖の頂点に立っていられるのであり、また救われもするのである
私たちにできることは神との生前の約束(後に詳述する)があることを認識し、神の理想、それは善なる理想の実現のために人生のすべてを捧げることである、そうすることによって私たちの後半人生(後に詳述する)が、より理想的なものになるのである
そしてここで神に悪意がないということも併せて申し述べておく必要があるであろう、神に悪意があると仮定するにはこの世はあまりにも美しすぎるのだ、
山も、河も、海も、湖も、空も、渓谷も、雲も、霧も、そして星空も、人間が作ったもの以外のすべてが美しい、これに異論を挟む者はおるまい、これはおそらく地球以外のすべてにおいても同じことが言えるであろう、すべてが美しく、永遠である、そこには私たちが日常においてふと思いついてしまうような恐ろしさの断片などはまったくない、滅びもない、地獄もない、神の残酷な仕打ちもない、打ちのめされもせず、火に焼かれることもない、恐ろしいことはすべて人間が考えることであって神の行うことではない、恐れながら神でさえこれほどにまで完璧で美しい世界を創るのは容易ではなかったはずだ、神でさえ額に滝のように汗を流し、両の手をアスファルトを扱う肉体労働者のように汚し、そして体中を自ら鞭打ちながらこの世を創造したのであろう、とても六日でこの世の創造が終わるはずがない、六日で終わったのはあくまでも地球という惑星に関することだけであって、それ以外についてはそれこそ気の遠くなるような日々を神自身がまず経験しその労働の果実をこの世に遍く行き渡らせたと考える方が理に適っているであろう、故に遥か何億光年と離れた所に今現在においても必ず居るであろう少なくとも私たちホモサピエンスと同じ程度の知性を持つ霊長類も、私たちと同様労働を尊び神がそうしてきたように諦めることを決してせず負に対抗できるだけの正を築き、また私たちと同様に善とは何かを見極めようと日々追求していることであろう、私たち人間が愚かにも映画の中などで創造する人間を主食とするような野蛮極まりない宇宙生物などはこの世には存在しない、なぜならば彼らは美しくないからだ、そのようなプレデターなどと呼ばれるような間違いなく人間しか想像することができないような荒唐無稽で非知性的な宇宙人がどうすればはるばるこの地球までやって来られるのか?
十三歳の子供でもわかるような尊大なる矛盾にたとえ人間の数パーセントでも惑わされているのだとしたらそれは実に悲しむべきことだ、美しいが故に救われる、私にとって至上の美とは神そのものであって、おそらくそれはすべてを失ったときにのみ見えるのであろうが、私たちの存在そのものがまるで凪の水面のようであり、私たちの個々人の欲望などというものは実は他愛のない何ら価値を持つものではないのである
私たちの行うすべてはこれから生まれてくる人々、つまり次の人たちのために行われるべきであって私たちのために行われるべきではない、それでなくともいったい私たちは天国に何を持っていけるというのだろう?もしかしたら思い出さえ持っていけないかもしれない、なぜならば生が終了した後には死後の世界が存在する(すべては二つで一つ)のであって、私たちはそこからまた新しい歩みを始めなければならないからだ、そのように考えると思い出はむしろ足枷にしかならないであろう、死後の時間はつまり後半人生は前半人生との辻褄を合わせるためにある、眠りという弛緩した時間が労働という緊張した時間をリセットするためにあるように

前半人生において幸福になれなかったものこそ後半人生の主役、逆に言えば前半人生において頂点を極めたものは後半人生では静かな人生を歩むことになるであろう、幸福になることは大切なことだが幸福になりすぎることは戒められるべきことだ、失うことは悪いことではない、そこに善への希求がある限り、つまり神の意志との整合性が取れている限り失う、いや負の経験そのものがすぐにではないが(タイムラグはあるであろう)、しかしやがては未来への糧となりまた一部は教訓となって次の世代に引き継がれるであろう、それどころか私論であるが故述べさせてもらえば、失うもの多き者こそ得ること多き者である、人生に百点満点はない、最後はすべてプラスマイナスゼロになる、だからこそ質が問われるのである、人間は上昇しては行かない、それは錯覚でありそのように人生を考えるべきではない、上へ行けば行くほど頂点を極められる者を除いて皆比較に苦しむことになる、比較こそ幸福の天敵、真の幸福は比較を完全排除したところにのみ存在する、人生は螺旋階段のようなものではない、上へ行ける人が幸福になれる人であり、上へ行けない人は幸福になれない人であるという考え方が一般的なものになることを私は危惧する、人生は短くだからこそ質が問われる、いくら稼いでもすべてをここにおいて私たちは逝くのだ、栄典は人生の価値の決定打にはならず、財産に永続的な安らぎはない、幸福のすべては日常の何もない時の流れの中にのみ存在する、五十得たいのであれば五十失うことだ、私たちは日々様々なトラブルに見舞われるが不条理なものは実によく幸福というものが持つその本質的な機微というものを教えてくれる、幸福のためのインスピレーションはいつも何か障害物の後ろに隠れている、さらにいえばごみが置いてある所や、ホームレスがうろうろしているような所にそれは潜んでいる、幸福のための種子が陽のあたるそして見栄えのする絵葉書にでもなりそうな風景の中に隠れていたというためしを私は知らない、トラブルに遭い、迷い、傷つき、不愉快、だがそういう時にしか神の声は聞こえない、私たちは神に祈るとき胸に手を当てるが神は私たちの前にはいないのだ、諸君、もし差し支えなければ両手を思い切り真横に伸ばしていただきたい、そう胸板とちょうど180°になるように、神は、そして大切なことはその伸ばした両手の直線の後ろ側にある、決して前ではない、胸に手を当て神に祈る姿はこの上なく美しいが、神(実際には神の使者)はそんな貴兄を後ろから静かに眺めているのだ

喜びとは現世の喜びであり、恩恵と呼べるものとは一線を画す、恩恵と呼べるものは概ね背後からやってくるものであり故に当初は不愉快なものだ、そして恩恵とはインスピレーションのことであり、それは取りも直さず天からの啓示である、だが信仰がなければ不愉快なものは不愉快なままに終わる、スピードを増せば増すほど振り返ることは難しくなる、より良い未来(better days)は煉瓦をただ直線的に積み重ねていくことにより得られるのではない、煉瓦を工夫して自分なりに積み上げたところに存在する、大切なのは数字ではなく個性、いくつ積み上げられたのかではなく、どのように積み上げたのかである、したがって煉瓦の数はそんなにたくさんは要らない
人生は直線ではない、それは渦を巻くように曲線によって成り立っている、したがって一周するとほぼ同じところに戻ってくるので、かつての自分を顧みることができるのである、したがってゴールもまた端にあるのではなく真ん中にある、私たちは遠くを見るべきであって上を見るべきではない、渦の中心、つまりゴールは曲線的に進むが故に遠い未来にあるが、しかし今現在の自分と同じ高さにある、人間にとって一番大切な部位は地面に接している部分でありそれ以外ではありえない、もし人間に地面と接している部分がなく文字通り宙に浮いて生活しているとなれば、私たちの精神は常に不安に苛まれることになるであろう、そういう意味では両の眼が足(foot)から遠いところにある人間は過ちを犯しやすい動物といえるのかもしれない

にもかかわらず

にもかかわらず

さてここからいよいよ本格的に私なりの思想、つまり私論に入っていく、そしてその最初のキーワードが「にもかかわらず」である
私の哲学といってもよいこの私論の冒頭を飾る言葉としてこの「にもかかわらず」以上に相応しい言葉はない、この言葉はこの後登場する負の肯定とも密接に関連しており、また諸君らにとってこの書に書かれてあることが僅かでも有益になったと仮定した場合、間違いなく諸君らにとっても重要な意味を持つ言葉になるであろうと考えられるからだ
にもかかわらずと聞いて私がまず真っ先に思い浮かべるのが人生の矛盾である
私たちは必ず死ぬ、にもかかわらず生きるのだ、しかも人生は短い、驚くほど短い、それなのに生きる、そしてまたあの疑問が繰り返される

いったい天国に何を持っていけるというの?

肉体はこの世に置いていくことは明らかだ、ということは脳もこの世に置いていくということだ、ならば思い出さえ天国へ持っていけないかもしれないのである、それなのになぜ人は生きるの?
私にも確信はない、正直な話その人生が素晴らしいものであったか否かはその生が終了してみなければわからないであろう、つまり生きている間は何ら人生に対する確信を持てないまま、つまり最後まで不安に苛まれたまま時を過ごすということになる
そう、この世のすべてがそうではないが人生は間違いなく空である、空の空、そしてまた空、有り余る富も、屋敷に入りきれない友人からのプレゼントも、愛する人との幸福な夕べも、彼の人生を決定付けるものにはならない、その人生の価値は死をもって決する、だが人が死後人生を振り返ることなど果たしてできるのであろうか?死後は死後の何かが待っているのであって、生を生きる私たちに生前の記憶がないように死後後半人生が始まった後も私たちは現在と同じくそうなる前の記憶を辿ることなどできないのではないだろうか?おそらく神がその方が良いと考えた方に現実は転ぶのであろうが、死後かつての自分を懐かしむことができるのか、それともできないのか、誰にも分からないことだ、ただ言えることは、そこに死がある以上、そして死後の世界は誰にも具体的には分からない以上、人生は結局空であるということだ
しかしだからこそ「にもかかわらず」なのである、空、にもかかわらずグッド(good)

「にもかかわらず」は負のすべてをマイナスからプラスへと変える
これは他人から言われることではなく自ら自分に言い聞かせることだが、人生とは誰でも10日のうち9日は逆風である、空模様の9割は曇りか雨で晴れなど間違っても期待してはいけない、また風が弱ければそれは信じられないほどの幸運であると考えるべきであって、したがって風が強かったとしてもそれは当然のことと受け止めるべきである、このように人生は日々多くの負に覆われている、「にもかかわらず」を知らなければ負は永遠に負のままであり、空は最後まで彼を苦しめるであろう
敢えて言おう、私は障害者など少数派の人々の人生をこの「にもかかわらず」に重ねることによってそこに彼らの人生の新たな意義を見出すことができるように思う、左手が不自由な人には右手があり、脚が不自由な人には車椅子がある、「にもかかわらず」を知る彼らはにもかかわらず不平を述べることがない、きっと彼らは人生とは何であるかを健常者よりも多く知っており故に彼らすべてがそうであるとは言い切れないのであろうが、彼らのひたむきさは人生の蹉跌を知る者をこそ振り向かせることができるのである、そこには一段深い人生があり、一段高い理想がある、健常者たちが当たり前だと思っていることがそこでは当たり前ではないからこその洞察がある、私は21世紀以降、世は多様性の時代になると考えている、偶然にもミレニアムの世紀であるが、得てして大きな変化とは暦の変化としばしば重なるものではなかろうか
多様性の反意語は効率性である、20世紀とは効率性の時代ではなかったのか、
大量生産、大量消費とはまさにその象徴的な意味合いを持つ言葉であった、私たちは訳も分からず、しかし今日よりも明日は良い日になるのだと盲目的に信じ年長者の意見に従ってきた、だが1000年ぶりに暦が変わった今、何かが大きく変わり始めているのは間違いあるまい、自動運転の車とノートパソコンは70代以降の生活を劇的に変化させるであろう、また先進国が抱える少子化の問題はやがて愛の問題とスリリングなモラルバトルを繰り広げるかもしれない、そして子供たちの夢はいつしかデータとインフォメーションという客観的な、つまり説得力のある数字によって拘束され、主観的かつ楽観的であり、尚且つ拡がりのある世界は次第に力を失っていくかもしれない
だが私たちが最も恐れなければならないのは、慣習に漫然と従い、新しい時代のドアを開けることに消極的になることだ、いやそれどころかそこに新しい時代のドアがあるにもかかわらずそれを開けることが自分たちの世代にとっては必ずしも有益ではないという理由で、ドアに気付いていながらそれを開けることを拒否するということも考えられるであろう
時代は今産業革命以降初めて下降線を辿り始めている
その中でいかに最大公約数を確保していくのか、これを考えた時にどうして多様性を無視できるのであろう、多様性とは「待つ」ということだ、そして待つとは寛容であるということだ、IT革命は人々から「待つ」を奪った、このことは新しい時代は多様性の時代であるという私たちが未来に希望をつなぐ上で数少ない選択肢のなかの一つの可能性を完全に殺してしまっている、行き過ぎたITツールの蔓延は特に若者たちを孤独にしただけでなく、「待つ」ことのなかにある「価値ある無駄」をも消滅させてしまった、やや大袈裟に言えば待つとは時間であり、時間とは文化のことである、時間により育まれなかった文化というものはノーベル賞クラスの文学作品からラジオから流れてくるヒットチャートのポップチューンに至るまでおそらくひとつもあるまい、すべての文化は時間により成長し、そして世界中に遍く行き渡っていく、ビートルズ楽曲が今もCMソングで扱われているのはその好例であろう、文化とはそして特に優れていると評価されているものは尚更多面体であり、彼、または彼らの後継者が現れることによって初めてその真の輝きを同時代の人々に見せつけることになる、すべては二つで一つ、後継者なしに文化は文化足りえず、そのことも文化というものがいかに時間により多くを負っているかの証左であろう

さてITツールであるが、では彼らの後継者とは何であろう?
スマートフォンの後継者とは?
もちろんツールとは道具であり故にソフトではなくハードであるから後継者などはいないと片付けることもできるであろう、だが私はこう思う、スマートフォンの後継者は「善の喪失」であると、確かにこれは微妙な表現であり誤解が生じることに気を配らなければならないが、しかし私はそう思う、そして善の喪失という言葉が巷に溢れるころにはもはや取り返しのつかない状態に陥っているであろうと
そう、ITは危険だ、だからITはあくまでも限定的に扱われるべきだ
私は20年後の二十歳はこの2016年の二十歳とはまったく違うライフスタイルになっていると考えている、20年後の二十歳は20年後の四十歳を尊敬するだろうか?
20年などあっという間であるが、この2016年若かりし日々をプレイバックする四十代を二十代は冷めた目で見つめている、おそらく同じことが繰り返されるのであろう、スティーブ・ジョブスはiPodを使っていなかった、世代間の価値観の隔たりというものは常に時代の中に存在するものだ、IT世代だけが例外ということはあるまい、やがて明らかになるであろう真実は2016年においてスマートフォンに夢中になっている若者たちを精神的に追い詰めることになるかもしれない

時代の変化とは急激に訪れる、1990年代はCDの時代だったが、今やティーンエイジャーの多くはCDに触ったことすらないのだ、デジタル・オーディオプレイヤーは文字通り世界を変えた、そしてポスト・デジタル・オーディオプレイヤーはさらに音楽の環境を変えるであろう、そして音楽ビジネスも大きく姿を変える、1970年代フリー・ジャズのアーティストは年2枚のアルバムを発表していた、音楽産業が順調に発展していたからこそ実現したことである、本来音楽がかつてより入手しやすい環境になったのだから音楽産業も併せて発展していかなければならないはずなのだが……….
リスナーの利益とアーティストの利益はこの2016年において必ずしも一致しなくなっている、音楽産業の衰退はそれだけ新人発掘に予算を組むことができなくなっていることを意味している、ジャズ雑誌「Swing Journal」の休刊などはまさにこの2010年代を象徴する出来事であったのだ
そしてビートルズ、今も50代以上の人々の間で人気のあるこのバンドのCDが売れているということは、新しいジャンルの音楽やアーティストが出ていないことの裏返しであろう、より便利な社会=経済の発展、だがいまこの方程式は崩れつつある、拡大していかなければいけないはずの社会が今限界を迎えようとしている、便利なものは今転換期を迎えようとしているのだ

さて話を元に戻そう、
便利なものには副作用がある、これには概ね賛同していただけるのではないか、歩かない、走らない、だからメタボリックになるのである
それはITでも同じである、しかもITには免許は要らないためそれを公権力がコントロールすることは難しい、したがって危険なITは事実上フリーパスで世代も故郷も、いや国境さえも越えていく、これが恐ろしいことでないと誰に言えるであろうか?

「待つ」は時間である、時間は文化である、とすでに書いた、そして待つ時間は価値ある無駄であると、そう、価値ある無駄、一見無為に見える時間、だがそこにこそインスピレーションの泉がある、何もしないにもかかわらず有益な時間、負の筆頭は怒りだが、無為もまたそれに近いと認識されているのかもしれない、だが無為は時間というものがいったいどういうものかを他の何よりもよく教えてくれる、眠れぬ夜が追憶を連れてくるのと同じように、無為、いや沈黙といってもよかろう、それは今自分が本当にやりたいことは何なのかを教えてくれる
これもまた後に詳述するが、メッセージやストーリーという主観なきデータやインフォメーションは決してインテリジェンス(意思決定)やタクティクス(戦略)を産むことはない、したがってそこには新しい価値の創造は起こりえない、故に後継者が生まれず、文化は衰退する

一見無駄に思える、にもかかわらずそれに没頭する、そういう人はいつの時代にも必ずいる
なぜ彼はそうするのか?
それが好きだから
ITは便利の対象であり、好きの対象ではない、そういう意味ではギターや自動車、そしてオーディオといったかつて若者を虜にしたマテリアルとは一線を画す、自動車やオーディオのカタログを見て悦に入る若者は多かったが、スマートフォンのカタログを見るのが好きだという若者は少ないだろう
好きとは「感じる力」のなせる技だが、好きがなければ感じる力は衰退する、そして好き以外にも「感じる力」のなせるものがある
それは命である
命は感じるものであり、考えなければそこに命があるかどうか分からないようになったら人間はおしまいであろう、そして命とは善なのである、だから人を殺めることは法以前の段階で罪なのである

この章のテーマは「にもかかわらず」だが、簡略化していえばこういうことだ

負にもかかわらず正である
つまり多様化である

負の定義についてはこの次の章で述べる

負の定義

負の定義

さて前章では「にもかかわらず」というこの書を理解するうえでのキーワードについて述べたが、この章でも前章で述べたことを踏まえたうえで私論を展開していくことになる
この章のテーマは負の定義である
すでに「負、にもかかわらず正」と前章で述べているが「負」という言葉はこの私論の一方の中心をなす言葉であり、また以下述べる内容はこの書の冒頭(スタート)において実に重要な概念となる

ではまず負とは何か?

負とは正以外のすべてのもののことである
そしてまた負とは人間たちの間で否定的に捉えられるまたは捉えられがちなすべてのものである
怒り、憎しみ、嫌悪、嫉妬、呪い、恨み、蔑み、嘲り、嘘、差別、約束を違えること、争い、また破壊、暴力、命を奪うこと、物を盗むこと、物を粗末にすること、弱者を排斥すること、尊大な態度をとること、陰口をたたくこと、他人のプライドを故意に傷つけること、法で禁じられていることを知りながらそれを破ること、私利私欲のために道徳に反する行いをすること、正当な理由がないのに他人の秘密を暴露すること、過去にこだわること、過ちを反省しないこと、他人の夢の実現を故意に妨害すること、そして困窮する人々に手を差し伸べないまたは沈黙すること、正義に反する行いをすること
このような情念や行いはすべて負である
だが私は思う、負はすべて肯定されるべきものである、と
なぜならば人間とはあまりにも不完全な存在であるからだ
神はなぜ人間をここまで不完全に造ったのか?
これは私のマクロの疑問とも通じるが、おそらくそこには神の実に周到な計算があった
人生はまるで渦を巻くように進行する、誕生そして死まで、直線的に進むのではなく渦を巻くように曲線的に進むのである、そしてゴールは端にあるのではなく真ん中にある、したがって私たちは常にゴールを視野に捉えながら進むことになる、なぜ神は人生をそのように設定したのか?
ここにこそその答えがある

負を人類に経験させるため

だからこそ神は人間を造ったのである、しかも不完全に
確かに人間の不完全さは時に目に余るものがあるがそれでもこの論理は間違っていないであろう、それは今後展開されるこの私論の中で私なりの方法で証明されていくことになるが、神が人類を創り進化させるうえで必要であったものはまず時間でありそして人類が経験すべき多くの負であった、神は人類に自立可能な体力と精神力を与えたが、ここで忘れてならないのがその過程において神が人類に期待したものがヒューマニズムの成熟であったということである、ヒューマニズムについては後に述べるが、人間が神の期待に副えるような存在になるまでには、あまりにも膨大な時間がかかると想定されたのであろう、それは人間のなかから神になろうとするような不届き者が現れぬようにするうえでも必要であった、愚かな人間がしかし膨大な時間を浪費し、また莫大な犠牲を払いながらようやく到達する境地、そこに神の国ならぬ人間の理想郷があるのである、だがもし人間がより完全な動物であったならば、人間たちは神の期待ではなく自分たちの理想に適う世界を創ろうとするに違いない、また人間の知恵は宇宙の彼方にある神以外知ることの許されない秘密の呪文を解き明かそうとするかもしれない、だが宇宙の摂理はいかなる理由があろうとも守られなければならない、したがって被創造物がたとえ誰であったとしても神が設けた最終ラインを突破することはこの世の絶対秩序故赦されることではないのである
この世は有と無の二つの世界によって成り立っている、そして言うまでもなく私たち人類は有の世界の住人である、そして有の世界はいくつあったとしてもすべてはつながっているのであり、他の有の世界に人類が踏み込むことはたとえどのような理由があろうとも神の名の下に制止されなければならない、だが神は人間の知恵と想像力を恐れたのではない、それどころか神は人間の持つ可能性を信じたのである、おそらく神は宇宙を無数の領域に区切りそれぞれに私たちホモサピエンスのような知的生命体を誕生させた、無論、今尚その過程にあると考えられる星々も多いであろうしまたはすでにその役割を終えた知的生命体もあるであろう、したがって私たちホモサピエンスがどこか他の領域に確実におそらく今現在もあるに違いない知的生命体とコンタクトを取ることは同時的には不可能であり、私たちがいつか受け取るかもしれない異星人からのメッセージはそれを解析できたと仮定しても、それは数百万年前のもはや今となってはこちらからの発信は不可能なものでしかないであろう、この世は私たちだけのものではない、しかしこの世において私たちが異界の人々と直接出会うということは決してないであろう、それは神の定めた掟であり、この世のルールである、またそうでなければ神がなぜ人間をかくも不完全に造ったのかが理解できないのである、神は人間を負の世界に埋もれさせ、迷わせ、そして疑わせる、だがそれらはすべて負の肯定のためである、神は人類に「負の肯定」を経て最終的にそのもう一方の真理である「究極の善」に人類に到達させようと試みているようだ、そのためには多くの悲劇と犠牲が必要であると神は考えた

ここでのキーワードは「喪失」である、先ほどは書き漏らしたが喪失もまた負と捉えられる概念であるかもしれない、だが喪失、いや更にいえば大いなる無駄が人類には必要なのである、この21世紀、人類は火星に何を見つけるだろう、しかしいずれにせよ私は火星に行きたいとは思わない、確かに火星の夜空は綺麗であろう、また地球とは異なる星座の乱舞を目撃できるであろう、だがそれ以上のものはない、私たちには結局地球しかないのだ、なぜならば人生というものがあまりにも短いからだ、たとえ人生が今の数倍になったとしても、宇宙を横断するために必要な数百万年にはとても及ばないであろう、知ることはいつしか無益な感動にしかつながらなくなり、私たちはやがて自分たちの故郷へと帰っていくことになる(グレートターン)、私たちは行くべき場所を求めて実に長い間さまよっているが、夢とはそれを追いかけている間のみ輝くものだ、これ以上追いかけることが意味のないものと分かった時、訪れるのはしばしの虚無感とそれに続く郷愁であろう、カタルシスは私たちをかつて居た場所へといざない、懐かしいメロディが人類のたそがれを告げるであろう、だがその時こそ神が唯一発言する瞬間であるに違いない、またその瞬間は神の本質が善であることが証明される瞬間でもあるだろう、そう、神こそ「待つ」存在、神はその瞬間を待っているのだ、最後の審判は訪れない、しかし最後の啓示は訪れる、それが「究極の善」である

動物たちを見るといつも思う、母親は鳥であれ、サバンナの動物たちであれ、いや野良犬や野良猫でもそうだろう、子供が自立できるようになるまでは必死になって育てるが、もう子供が自立できるようになると容赦なく子供を突き放す、「もうこれ以上、甘えてはいけない」と
神もまたそうなのだ、最後の啓示は神が生きる私たちを救おうとする最後の瞬間、そしてその後は「お前たちだけで生きろ」となるのであろう、そういう意味では神は常に私たちのそばにいる、他の領域はすでに終わり今度は私たちの番だ、宇宙の真理もまた静かであり、しかし同時に厳しい、そして宇宙の真理は私たちの地球の多くの生命体に見事なまでに反映されている、つまり多様であり、冷徹である
神が生命を誕生させ育むのは、それが神の創り給うた世界の正しさを目に見えるそして動きのあるまさにその対象として確認できるからだ
神は時を、空間を、複数の元素を、大気を、光を、石を、磁力を、そして水を創った、すべては神の理想の成就のため、だが忘れてはいけないのは神がこの世を創る前にすでに秩序を作っていたことだ、故に時間は不可逆であり、命は一度失われると再生しない、奇跡は起こらずただ救済があるのみだ
神は時間と、空間と、生命に影響を及ぼす様々な力を予め定めた秩序に従って使い分けている、そしてここが重要なのだが神は新たな領域を創造するたびにその都度必要に応じて正と負をその空間に織り込んでいる、最初は負が強くしかし幾多の宇宙レヴェルの紆余曲折を経て正が最終的に選択されるように
この方程式を人間が解くことができないのは、その方程式が難しいからではなく私たち人類が「負の肯定」と「究極の善」という二つの相矛盾する真実にまだ気付いていないからだ、そして正と負は拮抗している状態が望ましく、最終的には信仰の有無がどちらに転ぶか、つまり理想(これも後に詳述する)へ到達するか現実に留まるのかを決める  

やや話が拡大しすぎた感があるようだ、そろそろ次の話題に転じよう

捨てることと待つこと

捨てることと、待つこと

さて前章において私は負について述べ、そして負は肯定されるべきであると書いた、それはすべて「私」の唯一の対象である「神」の理想の実現のためであり、また負を経験することで人間は究極の善に近づくことができると書いた、究極の善については後に詳述するが、もうすでに諸君の多くがお気付きのように私の最大の関心は負(マイナス)にある、この章においても前章と同様負というものをどう扱えばそれがより良い明日へとつながっていくのかについて述べたいと思う、引き続き負を神との関連において述べていくが、つまり日本人にはやや馴染みのない表現が続くことになるがなにとぞ了承のうえ読み進んでいただきたい

この章のテーマは「捨てること」と「待つこと」である
私はすでに神は待つと書いたが、この捨てることと待つことは私に言わせれば人間の行為の中で最も重要なことである、なぜならばこれは神が今も続いているに違いない天地創造に着手する際に最も気を配ったことだと考えるからである、言うまでもなく神は最高のロマンチストにして最大のリアリストである、時間を不可逆に設定した神にとってやり直しの効かない天地創造は神をして容易ではない作業であったに違いない、確かに神は過ちを犯さない、それについてここで紙数を割く必要はあるまい、神の行為にはすべて理由があり人間もまた神の意志によって然るべく創造された存在である、だが神はこの世を構築するにあたってある決まり事を自身に課したはずだ、宇宙の健全ある発展に矛盾や錯誤は許されない、私はここでかなり思い切った言葉を使う必要があるであろう、この世に悪魔がいると仮定したとしてもそのような輩に断じて宇宙に込める神の理想を妨げさせてはならない、故に神はこう決断した、つまり神が天地創造に着手する際、その脳裏にまずあった言葉は「犠牲」である、この世を創り、そしてそれを進化、発展させていくには多くの犠牲が必要だったのだ、百のプラスには百のマイナス、一万のプラスには一万のマイナス、そして千兆のプラスには千兆のマイナス、宇宙(この世のこと)が拡大すればするほどそれだけ多くの犠牲が必要になる
なぜか?
この世には理想があるからだ、この世には実は神は多くいて私たちの神は他の神がしたことをそのままなぞらえているというわけではない、宇宙の絶対は神の独創性をすでに証明している、そして真の理想とは神の理想のことである、そうでなければなぜ星々にまで死があるのかが説明できない、あらゆるものがいつかはこの世からいなくなり、そして新しいものが生まれ長い年月を経て再びかつて輝いていたものと同じような存在になる、そして死が訪れ同じことが繰り返されていく、この世の真理は「相矛盾する役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」であるため永遠とは神にのみ当てはまる言葉ということになる、この世にあるものは生と死の二つのみ、そしてプラスマイナスがゼロになった時に神の救済が待つ、だからこそその過程においては善が必要になるのである、なぜならばすべては救われるからだ、救済があるのになぜ善へ向かわないのか?それは神が沈黙しているからだが、ここでもう一度確認したい、神は待つのである
恐れながら神の理想を達成するには神でさえ待つ必要があるのだ、時間が不可逆であり、死を迎えたものを完全に再生させることはできない、故に生あるものの成長を待つのである、待つとは育むこと、そして育むこととは理想に近づくこと、だから神はすべてを救うのである、その過程において多くが理想のために犠牲となる、人間において言えば夢は潰え、愛は必ずしも成就しない、そしてこれは神にとっても実に重要なことなのだが、にもかかわらず更なる頂を目指す、そう、神こそチャレンジャーである、何という多くの犠牲、だがそれでも尚挑戦する、ならばなぜ神の子である私たちが挑戦しないのか?善に向って

「犠牲」はこの章のみならずこの書全体の一つのキーワードであろう
「犠牲」とは何か?捨てること、だがこの意味を恣意的に受け取ってはいけない、ここには神の意志が介在しているのだ、人間の人間たる最大の特徴は何か?それは弔いをすることだ、確かにその結果再び騒乱がこの世を覆うことがあるかもしれない、がしかし死者を弔うということは神を思うということであり、そしてまた死者を弔う時こそ大地が天と結びつく瞬間、だから私たちは死者を前にしてこう言うのだ
「彼は天に召されたのだ」と
死のすべてを犠牲と定義することは難しいであろう、だが夢半ばにして逝く人の多いこともまた事実だ、なぜ神は人類に犠牲を強いるのか?しかも人生は極めて短いというのに、それはおそらく神でさえ捨てることなしには前進できないからであろう
捨てることとはそこに信仰があればだが、人間の行為の中で最も尊い行為だ、捨てることの九割は諦めることだが、残りの一割はそうではない、残りの一割はつまりこういうことだ
悟ること
悟るとは?人生をそしてついには死を
悟るとは運命を知るということであり、それを受け入れるということであり、そしてこの世の唯一の権威、神に従うということである
諸君は宇宙を見る時、こう思わないか?宇宙は星で埋め尽くされているのになぜスペース(空間)なのだろうと、そう、宇宙には空間つまり隙間が多いのだ、地球から隣の火星へ行くまでにも半年はゆうにかかる、さらに言えば隣の銀河アンドロメダまでは実に230万光年の開きがある、なぜこれほどまでの空間があるのか?それはこの世の秩序(それは善だ)を維持するには隙間というものが必要だからだ、しかもそれは僅かではなく私たちが想像するよりはるかに多くの隙間が必要なのだ、そしてその隙間を確保するために必要なのが「捨てること」である

一年、365日のすべてをスケジュールで覆ってはならない、捨てることなしに救うことはできない、ジャン・バルジャンは無実の男を救うために自分がかつて監獄につながれていたことを公表する、そして彼は市長の座を失う
隣人のために自分の命を差し出すこと、しかし誰にそれができるというのであろう、命をも捨て善に生きる、価値あるものを捨てるとは究極の信仰の証、司祭は監獄から出てきたばかりのそして銀のさらを盗んだジャン・バルジャンに警官を前にしてこう言う、「彼は銀のさらを盗んではいません、これは私が彼に与えたものです」そしてさらに銀の燭台二本を与える、これ以上の気高さを私はついに知らない、捨てるとはしばしば慈悲であり、そしてまた捨てるとはしばしば赦すということである
ここには「得る」や「性急であること」には決してない希望がある、不運は絶え間なく人類を襲うが不運が諦めさせた彼の夢は、だがいつかまったく違った形で彼の前に現れるだろう、それは彼にしか分からない瞬間、そして彼はその時こう言うだろう

「そうか、そういうことだったのか、しかしそれにしても随分と時間がかかったものだ」

何十年という月日が彼を目覚めさせる、そう、何十年である、人一人にとっては何と長い時間であろう、ひとつの真実を知るのに何十年という歳月が流れるのである、神は待ち、待たせる、だが神は神と同じように待った人間には必ず福音を授ける、それは救いの扉を開けるための鍵、もう彼にとって現世的な喜びは幸福とは結び付かないであろう
捨てることの一割は悟りだとすでに書いた、悟りとは諦めではなくそこに救いがまだ存在していることの確認、故にそれは癒しであり、希望である
また捨てることは「喪失」の側面も持つ、失うことは悲しいことだが、それがカタルシスを脱した時に、荒れ狂った風雨はその後彼に今まで見たことのない風景を提示するかもしれない、だがこれは雨の後には虹がかかるという楽観的な話ではない、喪失の傷跡が完全に癒えるにはおそらく稀なとも表現できるほどの幸運が必要であろう、失ったものが元に戻ることはない、去っていったものは振り返ることはなく、ただ風の中に消えていくのみだ、だがその一方で何かが彼を待っているということもまた事実だ、それが希望を孕むものか否かは誰にもわからないがしかしおそらく彼が彼にとってかけがえのないものを捨てることができた時に、変化は訪れる、信じる者を神が見限ることはない、負を多く抱える人こそ、また悩み多き人こそ真実に近い人である、神は不思議なほど陰や汚れた場所を好む、明らかに神はブルーカラーである、真実を知りたければ手を汚せ、汗まみれになれ、塵、芥のなかで眠れ、シャワーを3日浴びられないにもかかわらず労働に勤しめ、美しいところやスムーズな時間の流れや清潔な空間には天の啓示はない、神はおそらく今この瞬間も汗をかいている、しかも流れるほどに、故に発汗こそ悟りのための第一歩、だが信じることを諦めてはならない、汚れたみすぼらしい姿こそ神の姿、神は人間が約束を守らなかったから人間に罰として労働を課したわけではない、労働とは尊いものであるから神は人間に労働を課したのである、そして労働とは賃金労働のみを指すものではない、私は先日ごみ集積所の網のほつれを直している老女を見た、おそらく誰に言われたわけでもあるまい、彼女は針と糸のようなものをもってその網のほつれを直していた、何という気高さ!彼女こそ神に選ばれたそして人間の最高位に叙されるべき存在、だが神もまた日々同じことをされているのだ、それなのになぜ人間たちは今日もまたただ快楽のための儲けに奔走するのか?

私事で恐縮だが、この書を書く前にその下書きをパソコンのWordを使って書いていた、ところがパソコンが突然壊れたためその下書きの300ページ分がすべて失われてしまった、今諸君が読んでいるものはしたがってその後書き直したものである、だが衝撃と幾日かのその余波の後私はこう思うようになった、不運こそ神が私たちに贈る最も重要なインスピレーション、なぜならば順風満帆の時には人間は神を思わないからだ、死のような苦しみがあってこそ人間は神を思う、もしかしたらそれは時には呪いに豹変するかもしれない、だが負の肯定によってこそ人間は神と最大に同一になれる(完全にではない)、したがって私は呪いを否定しない、呪いを知る者こそ神を知る者、故に呪いを知る者こそ救いの在りかを知ることができる者、負と正ではまず負の方に軍配が上がる、必ず最初はそうだ、善はいつも最初動きが鈍くなかなか前進することができない、故に負の肯定が必要になる、負の肯定により負は正と融合し、そこに新たな価値が生まれる、負を排除してはならない、この世に存在するものは見えるものも見えないものもすべて神が創造したものだ、それは神がそれを必要と判断したからだ、したがってこの世に無駄なものは何一つない、何一つだ、すべて故あって存在しておりなくなってもよいものなどはひとつもない、創る人は救う人だ、すべてが神のお眼鏡にかなっており恣意的に判断されるものなどない、だから私たちは活かすべきだ、悪が蔓延るのは悪が強いからではなく悪に傾く人間が「自分は排除されている」と考えているからだ、したがって悪に傾く人間こそ神を知る必要があるのだ、悪に傾く人間こそ信じることを学ぶ必要があるのだ、神は何物をも排除しない、貴兄が誰であれ神は貴兄に福音をもたらす、そういう意味では悪に傾く人間こそ教会や神社仏閣を訪れるべきである

諸君、自らの掌を見ていただきたい、それは汚れているだろうか?汚れているならば貴兄は正しいということになる、すべては救われる、そして貴兄は第一に救われるであろう、スポーツもそうである、スポーツマンの掌は汚れていないだろうか、また彼は汗にまみれていないだろうか?画家もそうである、彼の掌は汚れていないだろうか、彼の服に絵の具はついていないだろうか?そして彼らは人を感動させていないだろうか?この地球という惑星についても同じである、海はどうだろうか?山はどうだろうか?川はどうだろうか?空はどうだろうか?大地はどうだろうか?野山をかける動物たちはどうだろうか?海を泳ぐ生物たちはどうだろうか?すべて美しくないだろうか?そう、神の掌もまた汚れているのだ
美や感動を作り出すものは汗であり、体を動かすことであり、エネルギーを出し惜しみしないことであり、それでも理想を追求し続けることである、人は「パンのみにて生きるにあらず」であり、同様に脳のみにて判断するにあらずである、感動するときに人は感動するべきだと考えてから感動するのであろうか、それとも感動せずにはいられないから感動するのであろうか?だが実際には感動したふりをする人も少なくないのではないだろうか?
また感動したとしても実はそれは予定調和であり、その感動に嘘はないとはいえ予め折り込み済みであるが故にそれは真の感動とはまた別ものと言えるのかもしれない
感動とは新しい価値を認めたときにこそ訪れる、だから探す必要があるのだ、人間の感性は完璧ではない、また人間の知恵はしばしば見逃す、同じ映画を二度見るとよい、一度目には気づかなかった場面を確認できるはずだ、だから探すことを知っている人の口癖はこのようになる
「なるほど」
人間は感動を知るために生きているのではない、感動を与えるために生きているのだ、だから感動したらそれを友人に伝えるべきだ、そうすれば友人が同じことをして感動し、またそれを彼の友人に伝えるだろう、善は容易には連鎖していかないが、真に価値あるものこそ深く連鎖する、深い感動とは「待つ」感動のことだ、その瞬間はそうでもないがしばらくすると感動が漣のように押し寄せてきて最後はとめどない感動になる、それは芸術の感動であろう、瞬間熱の典型であるポップアートの芸術性を認めないわけではないが、瞬間的なものは不思議なほど「得る」に向かう、「捨てる」とは対照的だ、おそらく瞬間熱的なもので成功した人は大金を得るのであろう、現代人はそれほどまでに「今すぐ」に飢えている、待つことができないのだ
便利なものには副作用がある、利便性の向上は一方である慢心を芽生えさせる
「いつでもできるじゃないか」
だが現実はそうではない
そのあたりのことは次の章で述べる

指揮者のいないオーケストラ

指揮者のいないオーケストラ

この21世紀多くの人が利便性を享受している、言うまでもないPCやスマートフォンのことである、これらが普及するのに時間はまったくかからなかった、電光石火とはこのような場合に用いる言葉ではないが、この表現を用いたくなるほど特にスマートフォンの普及は素早かった、これらが普及する以前はほとんどの人は受信する人でしかなかったが、IT(この書ではインターネット《world wide web》というシステム及びその媒体(yahooなどのこと)、そしてそのツールのすべてを含むが、必ずしも通信のすべてを指しているわけではない)のおかげで多くの人が発信する人になった、意思を明確にすることで自分の世界は変わる
たとえば自分の書いた小説を発表する、自分たちのロックバンドの演奏を動画サイトにアップする、またはSNSを使って海外の人とも友人になる、それらはすべて人間にとっては「利」の行動である、実に多くの人がこの風潮を肯定的に捉え、また実に多くの人がその精神的、または物質的、経済的恩恵に与っている、つまりこの過度に情報化した社会は急速に膨張し、もはや後戻りはできないほどになっている、驚くことはこれほど大きな潮流がこの世を覆っているにもかかわらず誰も警鐘を鳴らさないことである、性急であることが慎重であれば起こることのないミスを誘発することは想像に難くない、にもかかわらずこの「?」、つまり疑問(クエスチョンマーク)の少なさは何だ?確かに世の流れというものはどのようなものであれある程度はそれに染まらなければ日常の最低限のレヴェルを維持できなくなる、かつては電話やテレビがそうであったし、その前はラジオや電灯がそうであったであろう、この世には明らかにひとつの空気の流れ(モード)のようなものがあり、その空気の流れが人々の決定に実は想定以上の影響を与えている、そしてこの空気の流れに抗うことは特に若い人にとっては難しいことであり、故に若い人はしばしばプリテンダー(装う人)になるのである

だが私は思う、瞬間熱の効果というものはどれくらい永続的なものなのだろうか、と
モードはどのようなものであれ次の流れが来ればその役割を終える、ハイヴィジョンも4Kが普及すればやがてこの世から姿を消すだろう、だが価値あるものは復活するのである、アナログレコードはその典型であるかもしれない
ではITはどうなのか?驚くほどの無批判のなかを悠々と泳ぎまわっているこのアメリカ生まれの怪物は世界を席巻するどころか未来さえもすでに手に入れているように見える、27歳ではや7兆円(当時のレートで)を稼いだ若者が見る夢とはどのようなものなのであろうか?
私は思う、それが優れたものであるかどうかを判断するのは誰なのであろうか、と
それは彼の後継者である、優れた後継者がしかも多数現れてこそ彼が正しかったことが証明される、ビートルズはその典型であろう、1970年代に世に出たアーティスト(おそらく音楽以外の分野でも)で日本も含めて彼らの影響を受けなかった人が果たしていたであろうか?私たちにできることは新しい価値を創造することだけである、後はそれを受け継ぐ者がさらにそこに新しい価値を加えることでその前に活躍した者の価値が決定づけられていくのである、優れた後継者なくして優れた芸術作品なしである、だがここで確認しておかなければならないのは実は歴史に名を残したものの多くは作者であれ、その作品であれ必ずしも順風満帆ではなかったということである、若き日に患った聴覚の障害をついに臨終まで抱え続けたベートーヴェンは象徴的だが、後世にまで感動を与え続ける作品の多くはしばしば懊悩の産物であった、彼らは皆芸術を愛し、理想を果てしなく追及したがために悩み、孤独になり、そして何よりも世間の無理解に苦しんだ、負なくして真の創造はあり得ずその代償は限りなく高かった、天国に召されたであろう歴史に名を遺した芸術家たちの多くは満足しているに違いないと私たちは思いがちだがそれは事実ではあるまい、天才こそ多くをやり残した人である、世に出たものは彼らの才能の一部に過ぎない、それほどまでに人生は短く、芸術の奥義は深い、そこにあるキーワードはやはり犠牲なのである、彼らが多くを得たと考えるのは性急だ、私は金銭のことを言っているのではない、芸術的普遍性のことを言っているのである、真に価値あるものが世に広く理解されるまでには優れたものであればあるほど時間がかかる、優れた後継者が現れ、またその後継者が現れ、そしてまたその後継者が現れる、そしてようやくその価値が普遍的なものとなる、真実はいつも歴史の中にあり、私たちは摘み取った果実がその後どのようになるのかをついに知らぬまま天国へと旅立つ、そう、瞬間熱は歴史を超えることはできないのだ

今私たちの前には素晴らしいオーケストラがいる、優れたヴァイオリニストがいる、優れたチェリストがいる、優れたフルート奏者がいる、そして優れたピアニストがいる、だが指揮者は?
ITが作り出したものには二つのものが欠けている、ひとつは「脈絡」であり、もうひとつは「隙間」である(これは大都市の現実と驚くほど符合している)、そしてそれぞれがそれぞれの目的に向かって勝手に進んでいる、そこに一貫性はなく、ただ瞬間的な快楽があるのみだ、ITほど頽廃を感じさせるものも珍しく、またそれは限界を知らない、利便性の向上がもたらす自由は本来の自由(つまり自由の反意語は権威であり、権威に抗うものこそ真の自由人である)には程遠く、ただ放埓と追従による新しい価値の創造にまったくつながらない非生産的な日常が連続するだけである、頽廃とは道徳の劣化、持続性のない想像力の放縦さ、「今」を知らないのに今を生きようとする若者たちの驕り、すべて反脈絡であり、反隙間である
神の一瞬のまばたきは「得る」に特権を与えてしまった、情報は権利故保存され永遠に失われることはない、罪を犯した者は記憶の桎梏から生涯逃れることはできず、大金を稼いだ者はより多くの選択権を得る、本来は拮抗して然るべき正と負がそのバランスを著しく失っている、一億ドルの財産が指し示すものは何か?私はすでに神はすべてを救うと書いた、神が人間を滅ぼさないのであれば人間を滅ぼすものは何であるのか?

拡大していく社会とそれについていけない弱者たちの焦燥感、悪に傾く者たちはいつもこう考えている
「俺たちは排除されているんだ」
不信の最終形は革命である、神をも信じられぬものがこの世の転覆を図る、私が道徳を重んじ悪意を排除しようと考えるのは、寛容は一度失われると容易には取り戻せないからだ、これは幸福の論理とも重なる、幸福とはまず愛の成就であろうか、だが愛するとは信じるということだ、どうして信じられぬものを愛することができよう、愛は誓いであり、誓いは神との契約である、だが約定を違えたにもかかわらず利益を失うことのなかった者は次にどこへと向かうのであろうか?
私たちは神の特性の一つである「待つ」を拡大解釈してはならない、神の沈黙は「赦し」の証明ではない、おそらく富を掴む者はそれだけ悟りに遠い者であろう、
私は神の手は汚れていると書いたが、神は私には痩せた旅人のように見える、そして神はなぜか裏通りを好む、それに対して大通りを跋扈する者は華やかで、巨大で、そして弁舌滑らかだ、そして現代ほど現世が来世を上回っている時代はかつてなかった、今日の喜びは明日の幸福を常に上回り、故に瞬間熱が時代を遍く覆っている、「明日では遅い」と宣うものは、では今日をどのように捉えているのであろうか?戦争の絶望と革命の希望、おそらくそう表現できるような時代がかつてあった、だが1960年代に見た若者たちの夢は今どのような形で結実しているのであろうか?当時多くの若者たちがその青春を託した愛と平和のすべてのメロディは今の若者たちの心にあの頃と同じように伝わっているのであろうか?
物語は終わり、数字に覆われた損益計算書のようなものが巷に出回っている、アプリは今日も摂取可能なカロリーの数値を少女たちに伝えている、時間の短縮と効率的なエネルギーの消費、その結果、人々は「そうする人」から「そうさせられている人」へ見事な変貌を遂げた、すべては瞬間熱のなせる業、この傾向はグレートターンが本格化するまでは続くだろう

今日もまた街角でスマートフォンに勤しむ若者を多く見るのだろうが、彼らはまるで故郷を忘れた避難民のようだ、だが20年後の20歳はそんな大人たちに理想を見出さないかもしれない、それほどまでに彼らの姿は「美」から遠い、またその時にはもはや新しい潮流が新しい流行を生み出し、文字通りの新世代の若者たちが21世紀最高の文化を紡ぎ始めているかもしれない、そうなればもはやITは時代遅れなのだ
人間は果たしてデジタルな生き物なのだろうか?もしこの答えがYesならば、私たちはしばらくはのんびりしていられそうだ、がしかしもしこの答えがNoならばこれから生まれてくる子供たちはそのことを敏感に嗅ぎ取るであろう、時代が変わる時はあっという間だ(CDはどこへ行ったの?)、そして富は明日が今日よりも拡大していかない限りやがてはなくなってしまうものだ、それにしても輝きの儚さを人間は十分知っているはずなのにどうして今日もまた追いかけるのだろう?

明日はいったい誰のもの?

明日はいったい誰のもの?

さて前章ではITに絡めて現代人に対する批判的な文章を連ねたが、ここではその前章で書いたことを部分的に引き継ぎながら筆を進めようと思う
時代とは多かれ少なかれそのような傾向を持つものなのであろうとは思うのだが、特にこの20世紀後半以降の情報化社会において、そして都市部において主役とはもはや人間ではなく時代を駆け抜ける空気、つまりモードである
これは洋服やヘアスタイルなどのファッションに象徴的に表れるが、しかし政治や経済、そして思想などの精神的なものなどを含むすべてのものにこのモードは多大な影響を与える、新聞、雑誌、テレビ、友人との会話、そしてウェブ、すべてが明らかに過剰にこのモードに決定的な作用をもたらしている、前章でも触れたが驚くことに警鐘が響くことは我が国日本のみならず世界中で軋轢が激化し、混乱が引き起こされているにもかかわらずまったくない、この「知らず知らずのうちに」過ぎ去っていく時の流れの中で、もし私たちがすでにポイント・オブ・ノーリターンを超えてしまっているのだとしてもついに誰も気づかぬまま私たちは22世紀に突入してしまうのかもしれない

確かに時代とはそういうものであり、人間とはそういうものであるのかもしれない、革命も独立戦争も何かの復活もすべてそこに大義がなかったためしはない、残酷な現実がそこに確かにあったのだとしても多くの人はこのような一言で片づけてしまっている
「あの時代はそういう時代だったのだ」
だがしばしば耳にするこの文言は私たちが実は歴史から多くを学ばない存在であることを証明している、人間は犠牲者に対して冷たく過ぎ去っていった負の中にある涙から遠いが、にもかかわらず重要なものを顧みようとはしない、追憶によって掘り起こされるものは概ね熱のこもったものであり、またそういうものしか商業的に良い結果を残さない、だが真実とは常にといっていいだろう、冷たいものであり神が人間に犠牲を強いるように私たちは冷酷なものの中にこそ普遍的な真理を見つけ出そうと試みるべきである
「熱いものは全部嘘である」、批判を恐れずに言えばそういうことであろう、私は戦争を経験したことはないが、戦争が繰り返されるのはそこに熱い何かがあるからではないのか?それは「過ぎ去るものだけが美しい」という一方の真実と相まって無垢な人々をこそ後から見れば狂気でしかないものに駆り立てる、だがロックコンサートよろしく熱いものに対する人々の希求は絶えることがなく、戦費調達のための芸術、またはフェスティヴァルが横行することがあったとしても実はまったく不思議なことではない
アドルフ・ヒトラーは元画家ではなかったのか?この認めたくない事実はしかし歴史というものは冷酷であるという前提に立てば納得のいくものでもある、私たちは常にモードに動かされ、そしてよく考えてみれば矛盾に満ちたものでしかないものに容易に魂を揺すぶられる、モードは情報の伝達によって拡散していくが、そこに複雑な方程式などはない、人がそれを誰かに伝えればそれだけで情報の伝播というものはいとも簡単に現実のものとなる

僭越ながらしかし敢えて言わせていただこう、人間の目の99%は節穴であると、
人類は確かに素晴らしい文明を築いた、歴史に名を遺した人間たちの叡智というものは常人の想像を超えるものも少なくなく、人間に生まれたことを誇りに思うものが多数いるのだとしてもそれは僅かも嘲笑の対象となるものではない、だが人間の認識というものは常識としてこの21世紀を生きる人々によって共有されているものほど明晰なものではなく、それどころか多くはこの上なく危うくまた容易に豹変していくものだ、「昨日言っていたことと違うこと」が社会的地位の高い人物の口からも飛び出し、にもかかわらずそこに批判はない、矛盾はいつしか知らず知らずのうちに当たり前のものとして人々に共有され、絶望的な破綻が人々を襲うまで高学歴者でさえ沈黙を守り通す、このような現実は太古の昔からあったに違いない、だが一歩間違えば虐殺にもつながるような悲劇を孕むようになったのはつい最近からであろう、20世紀人類は月にまで到達し、21世紀人類はきっと火星にまで到達するであろう、だがその一方で科学の進歩がヒロシマ、ナガサキを産んだのも事実である、私たちが努力すれば子供たちの希望の延長線上にあるものだけが未来を覆うことになるであろう、と断言することはできない、いや、それどころか今肯定的に捉えられているものの中にも負のウイルスは確かに潜んでいるのである

さてここでまたITの話になる、私は前章で人々は「そうする人」から「そうさせられている人」へ見事な変貌を遂げたと書いたが、このことはついに私たちが自らの意思ではなくモードにその全権を委ねたまさにその扉を開けたということを意味する、奇遇にもミレニアムの世紀である
これは言うまでもなく革命である、だが革命とは不信の最終形でもあるのだ、人間が人間よりもコンピューターを信じるようになったこの現実は100年後果たしてその未来を生きる人々に何を伝えるのであろうか?
確かにこれまでも人間の意思というものは概ね薄弱なものであった、だが全権を意思以外のものに委ねるという愚に先達が踏み込んだことは一度もなかった、このことは人間の意思以外の何か(それは新しいモードであろう)が人類史上初めて出現し、目に見えぬものであるが故にそれが世界の360°すべてを覆い尽くしても容易には発見できないであろうことを示している、ここにガイガーカウンターはない、私たちは計測不能なこの怪物たち(複数形で表すのが望ましいであろう、それほどまでにこの怪物は手に負えないのだ)をおそらくこの後何世紀にも渡って私たちの同居人として扱っていかなければならない
恐ろしいのは全権を委任しているにもかかわらずこの自立の放棄を誰もが歓迎していることだ、この見えない怪物の因子は60歳以下の人間のすべての脳に侵入し、この後激しく増殖していくことが予想される、そしておそらく中毒症状が起きたとしても特効薬はなくまた今後発見されることもない、私たちは荒波の中に放り込まれたのだとしても哲学を持つことさえ許されぬまま、そのモードに翻弄されるままになるしかない、そう、この章のキーワードは「知らず知らずのうちに」である

だがまったく希望がないわけでもあるまい、なぜならばITに完全に侵食されている人々の姿には老若男女「美」というものが欠けているからだ、20年後の20歳の何割かはそこにある種の嫌悪感を抱くかもしれない、おそらくそのような人々は多数派にはならないであろうが、善を追求するうえで大切な「抗う」を彼らは実践するかもしれない、放埓と追従が新しい価値の創造に成功することはない、夢を実現させることができるのはいつの日もオリジナリティーを持つものだけだ、他人と違うことに起因する孤独を疎ましく思うことなくそれでも尚諦めることなく信じる道をたったひとりで往く、創造者の魂とはあらゆる分野において孤独な魂である、そうでなかったためしは一度もあるまい、見識なきモードの迎合はもはや笑い話にはならずいつの間にか膨れ上がった神経の病は子供たちをその大人たちに対する批判に向かわせるであろうが、その時いったい誰がその責任を負えるというのだろう?
不眠と、鬱と、セックスレス、夏の浜辺で遊ばなくなった少年たちがエアコンの効いた部屋の中で見る夢はきっと20世紀の少年たちが見たものよりも2次元的なものになっているであろう、安全であること、安心していられること、大人から見て人畜無害であること、彼らの掌は今日もきれいだ、おそらく明日以降もそうであろう、限りなく模範的であり、そして学生としての勤めを一日も欠かすことはない、ウェブが教えてくれる効率性と現実の社会において重んじられる規律との間に矛盾はない、故に開けてはいけない扉を開けたのだとしてもそれに気づくことはもしかしたら生涯ない
ウェブ・ファシズム、誰もNoを言うことができない現状を私はこう命名しよう、やがて18歳の億万長者が誕生するであろう、ジャーナリズムはそれをどう伝えるのであろうか?私にはそれは地獄の入り口の悪魔の呼び声にしか響かないであろうが………
「ようこそ、地獄へ」
この言葉を聞いて太く、低く、凄みの効いた音声を想像した人は、残念ながら現実が分かっていない人と結論付けられるであろう、悪魔の囁きこそ甘美この上ないのである
私たちを今日喜ばせているもののすべてがいつかそれとはまったく対照的な顔を見せる、時代は突然変わり、神は犠牲を厭わない、すべては救われるが一度失われたものが再びこの世に姿を現すことは決してない
ウェブが人を傷つけるものであってくれたなら、私はそう願わずにはいられない、そうであれば誰か有力者が警鐘を乱打してくれるのに

私はウェブに興じる者たちの姿は美から遠いと書いた、未来にバトンを託すうえで美とは実に重要な要素だ、かつて公害が深刻な問題となった時、人々はこう言ったものだ
「美しい青空を子供たちに残そう」
そして美しい青空が21世紀まで残った
負が重要なものであるならば、誰かがNoを言う必要がある、それは時に理想故の怒りであろう、もし何れかの国の内閣の支持率が100%であったなら多くの有識者は強い反発を示すに違いない、それは民主主義ではない、多様性の否定であると
今日主体を失えば明日は服従するしかない、確かにその方が楽なのかもしれない、そう思いたくなるほどスマートな情報のやり取りは私たちの警戒心の裏側にすっと入り込む
正と負は拮抗しているのが望ましい、故に情報の需要と供給も拮抗しているのが望ましい、乖離とはどのようなものであれ、「理に適う」に反する、ただ敏感な人たちでさえこんなにも早く未来が到来するとは思ってもみなかったのだろう、もし未来に期待ができるのだとしたらその時は20代の若者の一部が40代以上の大人たちを律する時であろう、これはすでに1995年からの10年間に見られた現象と同じである、大きく振られた振り子はその限界に達したとき、それまでとは逆の動きを見せる、これは理に適っているのである、なるほど人間の目が節穴であるとしても人間の理性とはまたそこまで虚弱なものではあるまい
新たな時代のインスピレーションが優れた洞察に一筋の光を放つ時、夢に浮かれない慎重な理性が既定の軌道を修正し、地味だが重要な扉の存在をその後に生まれてくる人々に指し示すかもしれない
それはきっと帰郷のための第一歩
そうなれば、日本人が日本に帰る日もそう遠くはないということになる
それは「にもかかわらずの敗北」だけが教えてくれる短期的には残酷だが長期的には納得のいく秘密の合言葉、神こそ俯瞰する者であり、故に選ばれし者に試練という形で無言のメッセージを送る、怒りを知るが故にその対極をも知る者だけがやがて(すぐにではない)そのメッセージの真の意味に気付き、ほとんどの人々から評価されないにもかかわらず、善のための第一歩を沈黙のうちに記す
そしてグレートターンが静かに始まる

グレートターンについてはこの書の最後に記すことにしよう

限界への挑戦

限界への挑戦

さて前章ではこの世を支配し時代を駆け抜ける空気、つまりモードについて書いた、すでに私たちはポイント・オブ・ノー・リターンを過ぎているのかもしれないが、おそらく私たちはそのことに気付かずに時は過ぎ去るであろうと
恐ろしいのはこのような現状において誰も警鐘を鳴らさないことであり、また支持率100%の怪物は民主主義と多様性の時代に反するものであり、私はそこに危惧を覚えるのであると
正と負が拮抗していないがために、知らず知らずのうちにモードは社会の隅々にまで影響を及ぼし(反対勢力の不在)、ウェブ・ファシズムに染まる美しくない若者たちに嫌悪感を抱く次世代の少年少女たち(多数派にはならない)が現れるまでは少なくともこの傾向は続くであろうと
だが新しい人々が現れることができればいつか私たちも故郷に帰ることになるであろうと書いた

さてこの章では前章とは少し視点を変えてその社会に、そしてその時代を流れる空気つまりモードに最も影響されやすい若者たちについて考えてみよう
若者の特権とは何か?
この章ではまずそれについて考えてみよう、それは限界まで挑戦する権利と才能を与えられていることだ、確かに17歳ではまだ早いだろう、17歳は精神的には未熟であり、今日することが明日どのようになるのかを正確に予測することは50%以上の確率で不可能である、したがってここでは若者とは19歳以上の男女と定義したいと思う
限界への挑戦とはつまり自分の力を試すということである、だが当然ながらうまくいかない場合も多い、故に若者たちにはモラトリアムつまり猶予期間が設けられている、失敗しても少しぐらいなら社会から大目に見てもらえるのだ
若者はこのチャンスを積極的に活用するべきだ、故郷を離れるのもひとつの選択であろう、若いうちに見知らぬ土地へ行き、見知らぬ人々と交わるのは必ず良い経験になる、辛いことも多いがいつか後悔は新しい一歩のための動機に変わるだろう、マイナスがいつしかプラスに転化する、これは青春時代の経験に最も特徴的に表れる、20歳の時の負の経験は30年後には哲学を帯びた自身への教訓へと姿を変えているであろう、その時彼は50歳、後継者を育て始めるには最も良い時期だ、仕事とはすべてどのようなものであれ後継者によって完遂される、若い時に多くの負を経験しておけばたとえそこに幾つか都合の悪い結果があったとしても、後継者がそれを修正しゴールへと導いてくれる、仕事とはどのようなものであれひとりきりでやるものではなく、また世代を超えた協力が必要になるのである

世代を超えたという表現でまず私たちが思い浮かべるのは何であろう?
私の場合それはスポーツである、選手たちと、コーチ、監督、すべての競技の目標である勝利のためには、この世代を超えた協力というものがまず必要になる
時には指導者が交代することもあるであろう、またチームプレーであればレギュラーが変わることもあるであろう、そのレヴェルが上がれば上がるほど勝利のための条件は厳しくなる、17歳の少年少女の日常に過酷な現実が重なるのは時に見ていられない気分にもなるが、それだけどのような競技であれそのトップに君臨するということは多くを犠牲にしないと不可能なのであろう
さてなぜ私はこの章でこのような文章を書いているのであろう、実は今この文章を書いているのは2016年の7月である、そう、リオ・デ・ジャネイロオリンピックそしてそれに続くパラリンピックの直前である、したがってどうしてもスポーツに触れざるを得ないのである
また私は前章で「熱いものはすべて嘘だ」と書いた、これは主に政治的な動きを意識してのものだが、唯一の例外として挙げられるのがスポーツである、以下なぜそう思うのかを前章までに述べたことを絡めながらいつものように私論を展開していきたい

スポーツと聞いてまず浮かぶのは「感動をもらう」であり、「勇気をいただく」である、いずれも人生を豊かなものにするためには不可欠なものであり、にもかかわらず私たちが年齢を問わず辛い日常の中で見失いがちになるものでもある、
誰もが可能ならばどこかの瞬間において実践したいと思っている「感動を与える」、そして「勇気を活かす」はオリンピック・パラリンピックをはじめとするさまざまなスポーツの大会、祭典において私たちの中の善良な感性を刺激する、それは彼らが年齢、性別を問わず実にひたむきであり、特に大人たちが失いかけている「ほんとうに大切なもの」を甦らせてくれるからである、おそらくそれは遠くではなく身近な所でも確認しようと思えば容易にできるのかもしれない、例えば市民マラソンがそうであろう、または高校野球などのアマチュアスポーツがそうであろう、よく考えてみれば私たちがその気になれば本来の自分を取り戻す機会は決して少なくないのである、ここではスポーツの話題に限っているが、少年少女によるオーケストラの演奏なども私たちにきっと感動を与えてくれるに違いない

さて私たちに感動と勇気を与えてくれるアマチュアや障害者も含むアスリートたちのその本質とは何であろう?
それは「限界への挑戦」である、しかし限界への挑戦とは常にリスクを背負うものでありまた必ずしも結果を伴うものではない、したがってにもかかわらず挑戦し続けるその姿勢に私たちは真に感動するのである、そういう意味では勝負の世界であるその一方で、アスリートたちの世界において重要なのは記録ではなく記憶なのかもしれない、確かに五十年以上生きている私の記憶に残るスポーツの名場面とは必ずしもメダリストたちのオンパレードではない、もちろん結果を残したアスリートが後々までその業績を讃えられるべきなのはいうまでもないが、しかし何であれ心の琴線に触れる瞬間というものはしばしば予想すらしなかったタイミングで訪れたりするものだ、それは外国人選手や郷土の選手以外の選手などのプレーにも表れるかもしれない、集中していない瞬間にふと目に入ってきたものに感銘を受ける、これは珍しいことではあるまい、たとえその選手をよく知らなくても限界への挑戦は、彼がここまで来るのにどれほどの犠牲を払ったのかを容易に私たちに連想させ、また彼の人柄まで想像させる、勝者の笑顔も、敗者の涙も、また勝者の涙も、敗者の全力を尽くした故悔いなしというさばさばとした表情もすべてが青春を今生きている者であればその記憶に刻まれ、またとうに青春を過ぎた者であれば遠い過去に思いを馳せる、いずれにせよたとえ一瞬であっても善を生きるそのきっかけになるであろう
さらに言えばスポーツの感動とは彼らの実力が拮抗していることがまたその一つの要因になっているのではあるまいか、格闘技であれ、ボールゲームであれ、タイムや距離や高さを競う競技であれ、美を競う競技であれ、正確さを競う競技であれ、また重量挙げのように太古の昔より伝わる競技であれすべて、もし金メダルまたは優勝が簡単に決まってしまったらおそらくそこには感動はないかもしれない、スポーツの醍醐味とは下馬評はともかく実際には蓋を開けてみなければ結果はわからないというところにある、当然どのようなスポーツにおいても番狂わせは生じる、本命視されていたアスリートにとってそれは辛い現実かもしれないが、しかし予想外の敗北を喫したそのアスリートがその後復活してきた時の感動の大きさは計り知れないものがある、その時彼、彼女が流す涙は大袈裟ではなく地球を揺るがす、ここで限界への挑戦と並ぶもう一つのキーワードが頭をよぎる

「決して諦めてはいけない」

彼が多くを語らずとも、また彼が外国人であっても、彼はその時私たちの家族になる、アスリートたちの実力の拮抗はそのまま私たちのままならぬ日常とオーバーラップする、だが諦めない限りチャンスが消えることはない、スポーツは人生に似ている、だがそれ以上に青春に似ている、その思いは彼らに引退があるという現実を知る時さらに強烈なものに変わる、もうあのプレーを見られないという日本人特有の無常がたそがれ時の風景のように私たちの中にある若さに取りあえずの終わりを告げる、そしてしばしの寂寞の後、ニューヒーローの登場を期待する声があちこちから起こり始める

政治、経済、文化、スポーツ、そして科学技術、すべてに変遷があり、永遠はない、勝者は君臨し、しかしやがて去っていく、そして復活の資格を有するものと新しい者とが再び鎬を削る熱い季節がやってくる
私はすでに人は感動を知るために生きるのではなく、感動を与えるために生きるのだと書いた、スポーツ、アスリートの世界はまさにこれを地でいくものだ、そして「限界への挑戦」と「決して諦めない精神」は彼が誰であれそこに新しい道を開く、そしてその新しい道をこれから生まれる子供たちがいつか歩みまた新しい時代を築いていく、そう、それはバトンのリレー、そして私たちが人間であり続ける限りこのバトンのリレーは絶えることがないであろう
瞬間熱、しかも極めて純度の高い瞬間熱、オリンピック・パラリンピックやFIFAワールド・カップにナショナリズムは付き物であろうか?だがそう仮定したとしてもこの純度の高い瞬間熱が人類の抱えるあらゆる障壁を越えうるものであることに変わりはない、それはきっと言語を駆使する必要のなかった原始の時代に人類がいずれにせよ必要としていた生きるための熱に起源を発する生命の最奥部の鼓動、それは三百万年の時を超えても尚朽ち果てることのなかった私たちの身体を流れる血の証明
生きるとは何かを問うのではなく、生きることそのものを確認する、そしてそうせざるを得ない衝動
人生は渦巻き状であるのに、人類の歴史はそれとは対照的だ、まるで階段を昇るように一歩ずつ単純にしかし確実に進化を遂げている、おそらくそれは人生には終わりがあるのに人類の歴史には終わりがないことを意味しているのであろう
私たちはやはり滅びることはない、ただ回帰していくのみである

神の時

神の時

さて前章ではスポーツの世界とアスリートが迎える勝負のその瞬間における感動について書いた、彼らの高い目標とそれを実現するためのたゆまぬ努力、たとえ彼らが十代の若者であったとしても私たちはそこに何らかの模範のようなものを発見し、それを自分たちの日常に生かそうと少なくとも試みる、もちろんうまくいかないことも多いのだがそんな時に私たちの脳裏に甦るのはあの感動の瞬間である、ここで私は思う、では夢を叶えることができたにせよ、そうでなかったにせよ、アスリートたちにとって避けられないその瞬間というものは果たしてどういうものと捉えることができるのであろう?

実はこれは日常を送る私たちにも言えることである、私たちも日々何らかの目的を持って暮らしている、また夢と呼べるほどのものではないにしろより良い明日のための小さな努力というものを私たちはしばしば試してもいる、それらはすべてうまくいかないことをある程度前提としながらも、にもかかわらず心のどこかで「きっと明日は」という思いと伴に私たちを日々鼓舞し続けている
いずれにせよ「うまくいった」も「うまくいかなかった」もその瞬間において判断されることであり、私たちは結果であるその瞬間を知るために日々努力を重ねているといってもいい、ただ問題なのは一部の才能溢れる人や環境に恵まれた人を除いてほとんどの人が日常的に辛いそして挫折という表現を使っても差し支えないような精神的に耐え難い経験をしているということである、そしてそのような経験の積み重ねの中でついに諦めてしまう人も決して少なくはないということである
ではそんな辛い瞬間を私たちはどのようにして乗り切っていけばよいのであろうか?

「負の肯定」すでに私はこの言葉を繰り返しこの書で用いている、当然この章でもこの表現を用いることになるがどうやらそれだけでは足りないように思える、
失敗も挫折も、いや時には裏切りさえもある日常における負の経験は私たちの希望を奪うには十分すぎるほどである、にもかかわらず希望を失わずに明日を見据えるにはおそらく何らかの外的な要因が必要であるように考えられる
確かに夢を叶えるには強靭な意志が必要であり、またそこまでいかなくてもより良い未来というものは決して逡巡の中からは生まれ得ないといえるであろう、だがたとえ強い思いを持って決断したとしてもそれを日々実践していくことは容易なことではなく、自身を鼓舞する必要性は理性ではわかっていても、どうしても言い訳が先に立ってしまう、そう、意志だけではない、また友人や家族の励ましだけでもない、もう一つ何か外的な要因がやはり必要なのである

運命、取りあえずこの言葉から始めてみよう、私たちを日々襲う負はすべて運命であり、避けることができないものである、したがって私たちはそれを甘んじて受け入れていくしかない、そう、必要なのは「忍耐」である
これはひとつの答えであると私は確信する、言うまでもなくこの「忍耐」、「我慢する」はあまりにも私たちの周囲に散在する言葉であり、ここで私が云々する必要はないと思えるほどである、とはいえ学問であれ、スポーツであれ、また例えば楽器の習得であれ自分を高めるための何かはこの忍耐なくしてあり得ないことは明らかである、
また忍耐は一層の集中力を必要とする、忍耐と集中は私に言わせれば双子のようなものであり、どちらかだけを分離して身に着けることはできない、したがって特に若いうちは何でもいいから明確な目標を持つことが大切である、明確な目標なしに忍耐と集中を自分に強いてもどこかで精神的に参ってしまうであろう、そういう意味では可能ならばであるが、できるだけ若いうち(もちろんあまり早すぎるのもどうかとは思うが)に「自分が何を好きで、何をやりたいか」を発見するということが大切である
これはいわゆる自分探しとも密接に関連しているのであるが、自由であるとは何もしないということではなく、自由であるとは自分の中に何らかの可能性を見出すということである、ただそのためには個人の権利というものが守られていなければならない、故に「自由」の反意語は「権威」である、したがって真の自由人とはこのことがよく分かっている権威から遠く離れた場所にいる人のことであるということになる
さて忍耐と集中であるが、これは一見若い人のみに当てはまることのように思えるが、必ずしもそうではない、人間とは皆幸福の在りかを見つけては探し、そしてまた見つけては探しの連続である、「これこそ私が探していたものだ」と思える瞬間に出会い、そしてそれを活かすための努力を散々続けても10年後にはスタート地点に舞い戻ってしまい、最初からやり直しなどということも決して珍しくない、だから私たちには「継続」というものが必要なのであり、私に言わせれば「継続だけが力」なのである、たとえ夢のための努力であってもそこに継続がなければついには複数の夢をただ徒に追いかけていただけということになり、おそらくいずれの夢も叶うということはないであろう、そういう意味では夢を追いかけるにも冷静な判断力が必要であり、それこそ一つの目標を辛抱強く追いかけるということが大切なのであろう

さて話を最初に戻そう、私たちを日々襲う負の瞬間のことである、私はすでにそれを運命と捉えることをひとつの答えであると書いた、大切なのはどのような瞬間であれ、一時的にはそこから退避しても最終的にはそれを肯定的に捉えるということである、人は順風満帆の時には神を思うことをしない、その通りである、どうしてもうまくいかない、そんな時こそ私たちは天を仰ぐ

「なぜ辛いことばかりが続くのか?」

だが負の瞬間こそが昨日までならできなかった決断を後押しするのである、それは時には何かにさよならをすること
誰でもそう、いつでもそう、すべてのさよならが悲しいというわけではない、訣別とは意志ある人間のみが選択できることだ、それはある側面から見れば確かに運命
「夢を追いかけることでしか自分を確認することができない」
それはおそらく青春期においてしばしばみられる現象、感動や勇気を得るということは青春を生きる者をしばしば精神的に追い込んでしまう、純度の高い瞬間熱を感じ取ることができるからこそ後戻りはできないのである
だが喜びの瞬間も重要な瞬間なら、辛い瞬間もまた重要な瞬間
それはきっと神の時
いや、順風満帆の時に人は神を思わない、ならば負の瞬間こそ神の時
信じることが時を打開するであろう
もはや涙さえ枯れてしまった彼女の瞳に映る未来はたとえ過去のものとは違っていたとしても、信じることがいつか神をも振り向かせるかもしれない、なぜならば彼女は夢を追いかけるその過程において多くの犠牲を払ってきたのであり故に「捨てる」ことも「待つ」ことも知っているからだ

追求の後に来るのは分配である、逆に言えば分配は追及なくして訪れることはない、実はこれを最もよく教えてくれるのが夢または目標なのである、本来手段であるべきものが目的となり、その結果自分の本質を見定めることに失敗した頭脳明晰な青年たちは残酷なことに負の瞬間を知らぬが故にいつか未来に影が差した時、その対処を大きく見誤るかもしれない
私はこう考えている、人生を決するのは最も感受性の強い時期、つまり14~16歳の頃の経験であると、14歳とはプライドの目覚める時であり、時とは連続して連なるものであることを知る時である、したがって人生で最も重要な時であるといえる
感じることができる者は年齢性別を問わず、未来を信じる資格のある者である
「感じる力」は人間の能力の中で最上位に来るものであり、「考える力」を大きく上回るがそのあたりのことは次の章で述べる

感じる力

感じる力

私は前章、および前々章でスポーツそしてアスリートをキーワードに彼らの限界への挑戦が新しい道を切り開きそこに様々な感動が生まれる、また挑戦者が受け取ることになる瞬間とはすべて神の時であり、故に辛い瞬間こそ貴重な負の経験となるであろうと書いた、またアスリートたちの日々の鍛錬は結果を残す、残さないにかかわらず私たち日常を生きる人間たちにも多くのインスピレーションを与えるであろうという意味のことを書いた
ここでキーワードになっているものは何か?もちろん「負の肯定」もあるであろう、だがもう一つある、それは青春である

青春とはいつ始まるのか?

それは14歳であると私は思う
14歳とはプライドが芽生え始める時であり、時間が連なり始める時でもある、したがって14歳ごろから少年少女は過去を気にし始める
また14歳とは人生における創造元年ともいえる、楽器を始める人もいるだろう、また映画にのめりこむ人もいるだろう、古典の文学作品などの読書を始める人もいるだろう、漫画家を具体的に志す人も現れるだろう、そしてスポーツ、無論プロまで辿り着ける人はごく少数だが、高い目標を現実的に捉え始める、その入り口が14歳である
また14歳とは大人批判の萌芽が垣間見える最初でもある、身体に変化が生じ始めることもあるのだろうが、彼らは徐々に大人たちとの距離を縮め、大人たちを肯定的と否定的の二者に分離し始める、そして大人たちのいないところで、時に冷静に大人批判を展開する、成長するということが楽しいことばかりではないのだということを理性によって判断することができるようになり、また金銭などの現実的な社会の一側面をやたらと強調したがるようになる、したがって夢を語る人が生まれる一方でそれが空想的であることを強く批判する人が現れるのもこの頃である、将来の職業つまり人生設計を考え始め、その結果、義は後退し、実利が「現実的である」というただそれだけの理由で、趣味にまで影響を与え始める
14歳、この実に面白くしかし同時に実に厄介な青春の初心者に私はなぜこうも強いこだわりを見せているのであろうか?
それは14歳こそが「感じる力」を考えたときにその最初に想起される年齢であり、またここで感じる力を軽視した場合、それが三十代、四十代と大人になるにつれて深刻な問題に結びついていくと思われるからである
感じる力は幼少期においてすでに備わっている能力ではあるが、ここでは青春をキーワードにすることもあり、理性が不十分である13歳以下の少年少女については対象外とする

私は経験上こう思う、感じる力は14歳から16歳くらいまでの間に急上昇し、17歳から21歳くらいでピークに達する、その後しばらくの間その高い状態を維持するが25歳くらいで早くも緩やかな下降局面に入る、そして30歳を過ぎたあたりから感受性そのものが弱くなっていく、たとえば読書の習慣である、読書癖というものは概ね感受性の豊かな時期、つまり14歳から21歳くらいまでにある程度でよいので身に着けておく必要がある、というのも30歳を過ぎてから読書癖を身に着けることは相当難しいことのように思われるからだ、文章を読むも書くも感性が豊かでないと続かないことである、そういう意味でも、青春期において自分で図書館などに行ってどのような分野でもよいので、書籍そのものに関心を抱くということが大切である
「知は力なり」とはよく聞く言葉ではあるが、この「知」を考える力と単純に規定してはいけない、むしろ知とは感じる力であろう、知には学問のみならず芸術が含まれる、またスポーツにおける戦略も含まれる、もしそこに複数の選択肢がある場合、最終的に決定権を持つのはその本人のやる気、積極性である、データが十分であってもその本人がそれに多くの関心を持つことができないのであれば大人たちは彼に自分たちの都合を押し付けるべきではない、感じる力とは人の持つ三つの能力、「感じる力」、「信じる力」、そして「考える力」の筆頭に来るべきものであって、ゆえに14歳とは非常に重要な年齢となるのである

では「感じる力」の第一の役割は何であるか?

それは命を感じることである、もし考えなければそこに命があるかどうかも分からないようでは正直人間失格である、命とは感じるものであり、そして感じることが二の次になっている人とは命とも命の躍動とも無縁の人であり、然るに自分を愛するようになる人のことである、また過剰な自己愛に捉われる人は新しい自分の可能性の発見つまり自分探しに対してやや消極的であるように私には思われる、自分探しに消極的であると、自分にしか当てはまらない「個別」の価値ではなく、社会一般にある「共通」の価値を重んじるようになり、故に「新しい価値の創造」に対しても保険をかけてからでないと挑戦できなくなる

私は思う、「積極的な失敗の連続が自分にしか当てはまらない法則の発見につながる」のだと、そしてこれが自分探しである

「共通」を重視しすぎることの危うさは、「新しい価値の創造」を考えた場合、決して避けては通れない孤独という名のトンネルを保険がないという理由で時に安易に避けてしまう可能性があるということである
例えば偏差値もそうであろう、この21世紀、偏差値はかつてほどの意味を持たなくなっているように感じられるが、高い偏差値とはイコール保険であり、それだけ次のステップに進む場合そうでない人々よりも多くのアドヴァンテージを得られるということである
このことの良し悪しについてはこの章の中心のテーマではないので控えるが、青春という言葉と保険という言葉はベクトルが真逆であり、しかし「共通」を重んじすぎた結果負の連鎖に陥り、年齢的に若いにもかかわらず保険のあるなしを気にしすぎるようになっては青春期にしかない「感じる力」を有効に使うことができないのではないのか、そしてそれではその彼の青春は結果的に非常に残念なものとなってしまうのではないのかと私は思うのである、無論、無鉄砲であることを推奨しているわけではないが、すでに述べたように青春期を生きる者にはモラトリアム期間が設けられている、ならば少なくともそのメリットについては冷静に認識しておくべきだ、私たちがジェームス・ディーンの肖像の向こう側に見るのは傷つきやすい青春の群像の1ページだけではない、「個別」(つまり、しばしば孤独)ではあるが実に想像力も、そして創造力も豊かな一人の若者の強烈な自意識と生の本来の価値を模索する、いってみればひとりのロックンローラーの姿である、「理由なき反抗」はもう一方の側面から見れば、理由あるが故の反抗であろう

感じるがゆえに抗う
感じるがゆえにさまよう
感じるがゆえに煩悶する
そして、感じるがゆえに立ち止まる

青春を生きる者は理性的に見た場合、大人としては明らかに未熟である、しかし皮肉なことに、だからこそ輝くのである、確かにそこには勝利よりも挫折の方がうまく嵌まるのかもしれない、より理想的な社会の構築のための若者たちの奔走は今日も続いているが果たしてそのうちどれだけが報われるのであろう、結局は19歳にてうまく保険を掛けることに成功したものが、中高年層の手厚い支持を受け社会における発言権を実に効率よく獲得していくのだけではないのか?
なるほど「感じる力」に現実的な権威や権力というものは相応しくないのかもしれない、青春時代を生きる者は人生に対してクールに振る舞うことができずに、「考える力」が備わっていれば遭遇しなかったような時に悲劇的な事態に陥る、また青春の傷跡は短期的にももちろんだが、また20歳前後が人生において最も輝く瞬間であるという、ある意味絶対的な原則からいってしばしば長期的に尾を引くこともある、だからこそ感じる力は文字通り傷つきやすく、また得るところ多くなく「にもかかわらず右往左往」ばかりの顛末となる
だが翻ってみれば、感じることができない者が命を、芸術の洞察を、そしてスポーツの躍動を感受性豊かな人とどれほど精神的に同次元的に捉えることができるのかどうか、そしてまた保険などないにもかかわらず限界までチャレンジすることを、愚ではなく漲る純粋なる魂の発汗であると果たして看做すことができるのかどうか、私は甚だ疑問に思う

人生において最も充実した経験ができるのは三十代であろうと私は考える、なぜならば三十代とはまだ若く活力も豊富であるにもかかわらずもはや青春期を脱し人生に対してクールな視点を持つことができるからである
つまり、「人生なんてそんなもの」
そう思えるのである

だがその充実した三十代に達するにはその過程において、この章で長々と述べてきた青春期における「感じる力」をその礎とした、「積極的な失敗を繰り返すことによってのみ自分にしか当てはまらない法則を発見できる」という自分探しを経験することが必要なのである
私個人の経験からすれば、十代から二十代初頭において感じる力の効果を十分経験できなかったものは、三十代中頃には早くも功利的にしか動くことができなくなる、つまり事務的人間に堕してしまう虞が強いように思う、彼らは「個別」をついに知らず、「共通」をこそ唯一の頼みの綱として日常を駆け抜けていく、故に彼らの地位とは如何なるものであれ優れた後継者が現れれば容易に転覆してしまうものであり、優秀な彼らはそのことが理解できているからこそ自らの保身に汲汲となるのである

このことは言葉で表現する以上に悲劇的な側面を持っていると私は考えている、というのも感じる力において命と同様その筆頭に来るべきものは美であり、美の感覚の欠如した人間がこれから生まれてくるいわゆる次の世代の少年少女たちの尊敬を得られるとは正直思えないからである、ITがまさにそうであろう
この2010年代後半において特に十代、二十代のたとえばスマートフォンなどに対する依存度はかなりのものがある、だがこれから生まれてくる子供たちが二十歳になった時、すでに三十代、四十代の大人たちの日常の姿の中に何らかの憧れを見出すであろうか?おそらく二十年後も現在十代、二十代の若者たちはポスト・スマートフォンを手放せずにいるであろう、だが下を向いて歩く彼らの姿に美はない、その醜悪さに最も敏感に反応するのが14歳から21歳くらいまでの少年少女たちであり、若者たちである
20年後の14歳も今日の14歳と同様、大人批判を始めるであろう、彼らの瞳に否定的にしか映らない大人たちの中に食事中もスマートフォンを離すことができない大人たちは果たして入っていないだろうか?

美を感じることができるのは豊かな感受性のみの効果によるものではない、そこには理性の働きもまた必要になるのである、だから14歳以上ということになるのである、確かに14歳にもなればITの実利を理解するだけの十分な知識を持っているであろう、だがそのように考えてみても青春期を生きる者たちは美しくない大人たちのその根本原因であるITにはクールに振る舞うようになるかもしれない、手を汚さないこと、一日中エアコンの効いた小綺麗な部屋の中にいること、汗をかかないこと、対象を常に距離を持って眺めること、そして何よりもITに使われているようにしか見えないその主体性のなさに対して、ある種の生理的な不快感を彼らは覚えるかもしれない、その時それまではなかった新しい需要がその時の若者たちの手によって始められ、それまで最先端であった人やモノが大きな後退を余儀なくされるかもしれない
すべては「感じる力」のなせる業、「利」ではなく「美」、新しい人はいつの時代も利ではなく美を優先させる、だがそれが大きな潮流となって時代を覆うのは数十年に一度なのであろう、ITには美が欠けている、このことは人々がいつか冷静さを取り戻したときに時の少年少女たちの未来に対する決断に大きな作用をもたらすかもしれない
終わりとはそういうものであり、豊かさもまたリセッションが始まれば一夜にして倹約令が復活する
私はすでに不信の最終形が革命であると書いた、ならばポストIT革命は明らかにもうカウントダウンに入っている

信じる力

信じる力

前章において私は「感じる力」、「信じる力」、そして「考える力」のうち最も大切なものは感じる力だと書いた、なぜならば私たちが生きる上で、そして新しい価値の創造を行う上で最も大切な感覚は「命を感じる力」と「美を感じる力」であるからであると、そしてIT優位のデジタル時代において、その感じる力は果たして損なわれていないだろうか?もしそうならば、20年後の20歳はITなしではもはや生きられなくなっている大人たちの中に憧れを見出さないであろうとも書いた

私がこの章で以下述べる内容は上記したものを踏まえての「信じる力」の重要性についてのものである、では早速本論に入ろう
「信じる力」は上記した人間の三つの能力の中では二番目に来るものであり、考える力よりは優位に立つものでる
実は「信じる力」とは最終的には愛の問題であり故に最も敏感な問題ともいえる、なぜならば命の問題はそれが重要であることは論を待たず(いわずもがなである)、また美の問題はしばしば主観によって判断が分かれることも多いからである、だが愛はそうではないであろう、愛とはつまり信頼のことであり、“I love you”とはとりもなおさず「私は決してあなたを裏切りません」といういわゆる決意表明である、だからであろう、その言葉が真実ではなかった時の精神的な衝撃というものはそれを経験していない人には想像すらできないほどの悲劇性が包含されている
感じる力には「個別」の価値観のようなものが色濃く反映され、また一歩引いた姿勢のままそれを取り入れるということが可能だが、信じる力の場合は「信じる」の対象が人間である場合常にそれはリスクを孕んでおり、必ずしも当初想定した結果に達するわけではないというところに信じるということの難しさが潜んでいる

私たちが信じるという言葉をてらいもなく使用するときその脳裏には信じるという力を最大限行使することによって、普通に日常を送っていたのでは得られないような精神的に一段上の忍耐や集中を得ようとするその思いが隠されている、それはたとえばスポーツや受験であれば自身に対する期待と比例するものであり、したがってやる気が充満しているのに自身を信じることができないということはやはり通常考えにくいことである
「感じる」がその第一段階においては「受」であるのに対して「信じる」の第一段階においては、それは「能」であろう、信じるはそれ自体が行動的であり、故に青春を感じさせ、向こう見ずとも思えるような挑戦であっても彼の瞳の中に嘘がなかった場合は、うまくいかないことが分かっていてもそれにあからさまにNoを言うことが難しいように思われる
今私は「嘘」という言葉を用いたがこの言葉はこの章のみならずこの書全体を覆う幾つかのキーワードのうちの一つとなるものなので、諸君、どうか記憶に留めておいていただきたい

さてすでに述べたように「信じる力」は愛を司っている、にもかかわらず「感じる力」に首位を譲っているのは、信じるという行為がいかに人間の世界において重要だがまた同時に傷つきやすい、つまり報われないものであるかということを暗示している、また信じるには「神を信じる」という側面もあるようだが、しかし私に言わせれば神とは感じるものである、神とはもう何度も述べているように「私」の唯一の対象である、自分自身の存在を考えることなく確認できるのであれば、また信じなければ自身の存在の確証を得られないわけではないと判断できるのであるならば、やはり神とは感じるものと結論付けることができる
では信じる力の最大の眼目は何か?
その前に信じるという精神の動きがなぜこれほどまでに目標を達成するのが難しいのかについて考えてみよう
私がこの問題でまず思い浮かぶのが核の問題である
もはや日本人に対してのみならず、ヒロシマ、ナガサキにについてここで紙数を割く必要などはあるまい、地獄を生み出すのは神ではなく人類である、ということが証明されたのみならず、その後も核の傘による安全保障が確立されている現実から見ても、人間がこの期に及んでも人を信じることができない動物であるということが疑うべくもないということが明らかになったということでもあろう
私はヒロシマ、ナガサキの人々のこの70年の努力が不足していたとは考えていない、不足していたのはむしろ核の加害者になりうるつまり核保有国の間の情報交換の方ではなかったかと思う、被ばくによる被害を訴えているのはヒロシマ、ナガサキの人たちだけではない、数多くの核実験による被ばく者もまた不信の犠牲者とも呼びうる、つまり「語ることを許されない少数派」の人々であるのである
おそらく戦争においても同じなのであろうが、核においても果たして最終的勝利者とは誰のことなのであろうと訝らざるを得ない、革命が不信の最終形ならば、戦争は不義の最終形であろう、「義」を失えば「武」が出てくる、義は論の上に立ち、武は虚の上に立つ、いずれも力を志向するがより強い力に立脚しているのはどちらであるか、数秒で判断できることである、ただ不思議なことは一貫性のある未来志向のしかし時に負を含む論客よりも、微妙に立ち位置を変化させ負のみならず「次」も欠如しているような錬金術師の方がこの21世紀において多くの支持を得ているということだ
だが私たちがより良い明日のために凝視しておかなければならないのは「負は連鎖していく」という事実である、そして負を肯定できずに決定を先送りするということは文字通り姑息な手段でしかないという事実である
核という負を、そしてその結果を私たちが当然負うべき「次の世代の人々」への責任として認識することができないのであれば、負特有の連鎖と拡散から私たちはおそらくは永遠に逃れることができないであろう、この次世代への責任という点においてもしかしたら人類は今重大な分岐点に立っているのかもしれないと私は思う、なぜならば人は今直線的思考(志向でもあるのだが)に捉われすぎているのではないかと私には思えるからだ、やや論点が外れるがいい機会なのでこの直線的、曲線的思考について以下簡単に述べてみたいと思う

私は人の想像力、そして創造力を掻き立てるものは、また同時に人の心を和ませ得るものは短期的にはともかく長期的には曲線であると確信している、それは自然界には直線が存在しないというスペインの有名な建築家の言葉からも類推できるが、それだけでなく私たちの日常に溢れているものの中にも曲線であるが故に魅力的に映るものが少なくないと思えるからだ、たとえば、車、建築物(橋など)、家具(テーブルや椅子)、皿やマグカップなどのキッチンで使うディナーウェア、文房具、そして楽器(ギター、ヴァイオリンなど)はその曲線が人間の想像力を刺激するのであって、たとえば真四角のギターを高名なギタリストが弾いていたとして、それはそれを見る者に好ましい印象を与えるであろうか?やはりギターの魅力の一つはあのボディーの曲線であり、直線ではたとえいい音色が出ていたと仮定しても聴衆は何か物足りなさを感じるであろう、また文字もまた直線的な、つまり丸みのまったくない文字というものは読んでいる者に疲れを感じさせるかもしれない、おそらくそれは英語や仏語でも同じであろう、またハートのマークを想像してみてもあの形は100%曲線でできている、もちろんこのマークは人為的に作られたものであるが、しかしそれだけ人は曲線に和みを感じるということなのであろう、だがこの21世紀、私たちの周りから急速に曲線が失われているように思える、たとえばレコード、言うまでもなく円であり、完全なる曲線である、だがレコードも、CDも過去のものとなり音楽を聴くうえで曲線というものは徐々に感じられなくなってきている、またテレビ、リモコン、PC、スマートフォンなどはすべて直線が優位に立っているデザインであり、また今後爆発的な普及が予想される多機能型腕時計も丸い画面ということは考えにくいことから直線的なデザインになるものと考えられる、また例えば軍事の世界などは戦闘機などを中心に直線的なデザインが多いようにも感じられる(美しくないと言い切ることはできないが)、このように今後工業製品を中心に曲線的なものは排除され直線的なものが私たちの日常を覆うようになるであろう、このことは人間の思考、そして志向性に何らかの影響を与えないだろうか?
直線は硬であろう、曲線は軟であろう、直線は男性的であろう、曲線は女性的であろう、そして直線は量であり、曲線は質であろう
ここで再び原則に戻る
私たちは何のために生きているのか?
そう、幸福になるためである、故に生涯獲得所得すでに100億円の人でも、仕事を続ける人がいるのである
曰く、「私は日本一になりたいのではない、世界一になりたいのだ」
その通り!幸福とは質のことなので、極論すれば稼いだ額は関係ない、本人が満足できるか否かなのである
また稼いだ額によって幸福の度合いが決まるわけでもない
これもこの書で繰り返されていることだが、「いったい天国に何を持っていけるというの?」である

さて直線は始まりと終わりが誰にも認識でき、また故に中間点も推測できる、したがって量を重視している人の思考は、直線的であると推定できる、それに対して例えば曲線の代表、円はどこが最初でどこが終わりかが分からない、故に中間点もどこであるかが分からない、したがって量よりは質を重視している人の思考は、曲線的であると推定できる
私はすでに人生とは渦を巻くように進行すると書いたが、当然、この考え方からいっても曲線的思考(志向も含む)を支持する
だがこの21世紀初頭において、幅を利かせているのは直線的思考である、そういえばスケジュール帳も開けば直線の部分が多い、仕事であれば時間で仕事を明確に区切っていくというやり方は確かに効率的ではあるのだろうが、すでに述べているように効率性とは多様性に反する言葉である、効率性を重視すればするほど多様性を担保できなくなる、このことは大袈裟ではなく21世紀の大きな課題として今後も引き継がれていくであろう

直線的思考=効率性重視
曲線的思考=多様性重視

効率性を重視する者は上昇志向が強く、一方多様性を重視する者は「自分が何を好きで何をやりたいか」つまり本当の自分を見定めようとする精神的傾向が強い
そしてここでもう一つ述べておかなければならないのが、最近よく聞く以下のような文脈である
曰く「人生とは螺旋階段のようなものである、つまり同じところをぐるぐる回っているように思えるが実際には少しずつ上へあがっていっているのである」
ところでこのような考え方に私は与しない、なぜならばこのような考え方には幸福の最大の敵が実に明確に含まれているからである
幸福の最大の敵とは?
それは「比較」である

上へ行ける人には確かに螺旋階段説は非常に強い励みとなるであろう、だが上へ行けない人はどうなるのか?
言うまでもない、階級闘争のただなかに放り込まれ、上へ行けないことに毎日のように苦しむということになる、一番上まで行ける人を除いて、人生螺旋階段説では誰も幸福にはなれないであろう、幸福のために大切なのは比較をせずに日々を生きることである、したがって「私」、「個別」、そして「多様性」といった言葉が重要になるのである
人生の目的とは幸福になるということである、そして幸福になるとは量ではなく質を重視するということである、では質を重視するとは?
私はここで二つのキーワードを提示したい
ひとつが肉食をできるだけ排すこと、もうひとつが故郷へ帰ることである
確かにこれは私自身の考えなので、まだたそがれの扉を開けていない若い人にとってはまた違う考えもあるのであろうが、しかしこれはこれで何らかのヒントになるのではないかと思う、私は破産するのは金持ちだけだと考えている、おそらくこれは比較的高い確率で正しいだろう、預金通帳の残高を見てほくそ笑むようになったら危機がそばまで来ていることを彼は認識するべきである、金は保険ではあるが同時に薬でもある、多量に服用すると恍惚を得られる場合もあるがしかし幸福という観点からすれば要注意であろう、また金があれば苦しみから逃げおおせると考えるのは誤りである、逃げおおせるのは金を持っている人ではなくノウハウ(技術、やり方)を知っている人だ、そしてノウハウを知っている人とはしばしばストイックな人でもある、だからであろうか金ではなくノウハウにこだわる人の手は汚れている場合が多い(下町の小さな工場で働く海外からも注文が来るような職人の手などはこれに当たる)、24時間エアコンの効いたごみ一つ落ちていないオフィスで3台のPCに囲まれ、スマートな時間の使い方をしている人にはこのあたりのことは分からないかもしれない、時間のつなぎ目は直線的に裁断されるべきではなく可能ならば弾力的に、線ではなく面で区別されるべきだ、特に新しい価値の創造のためにはしばしば「大いなる無駄」が必要になるため効率性を重視しすぎると時に酷いマンネリズムに陥るであろう

さて「信じる力」に論点を戻さなければならない
すでに私はこの信じる力について二つのキーワードを用いている
ひとつは「愛」であり、いまひとつは「嘘」である、この二つは信じる力を考えたときに実に重要な言葉であるが、ここでもう一つ
重要な言葉を述べなければならない
それは「約束」である
私は有神論者であるので、そうでない人とはここで論点に齟齬が生じるであろうが、なにとぞしばし辛抱のうえ読み進めていただきたい

私がここで問題にしたいのは生前(生まれる前という意味)の約束である、生前の約束という言葉はすでにこの書において述べられており、また詳細は後に譲るが、私たちは皆神との約束の下にこの世に生を受けている、命を授かるということはそれほどまでに奇跡的なことであり、誕生という言葉自体に私は神の意志というものを感じる
神との生前の約束とは神との約束を違えぬことを条件にこの世に生を受けるというものである、そして神との約束とは人を殺めぬ、自分を粗末にしない、命あるものを尊重し可能な限り庇護する、そして神が作り給うた世界の守護者として然るべき義務を全うしながら生きる、といったところであろうか
もちろんこのあたりのところは私がこの身体をいただく前の出来事なので記憶もなく多分に空想的であるが、しかし神を信じるということはこういうことである、「万物は対象を求める」が故に「私」の対象は「神」である、またこの世はすべて「二つで一つ」なので神を否定すると「私」の対象を失ってしまうことになり、存在の核心が消滅することにもなってしまう
つまり信じるとは第一に神のことであり、神という言葉を用いることに抵抗があるのであれば「未知の力」でも取りあえずはよいかもしれない、いずれにせよ神というこの世の唯一の権威を認めるということが、この後述べる「愛」の問題にも密接に絡んでくるので、やはり信じるということを語る時、神を抜きにして論を進めるということはできないのである
私たちが生前の約束を履行している限り、神が私たちを裏切ることはない、確かに神は創造主であるのですべてを救うが、神との約束を違えたものにはそれなりの裁きが待っていると考えるべきであろう、空想的なものが説得力を持つのはそこに人間としての高い徳性が備わっている場合のみであり、生前の記憶がある人はこの世には存在しないという事実からしても、徳(しばしば善)を信じるという人間特有の美徳と絡めて論評するのはそれほど間違っていないように思う、私たちには程度の差こそあれ善への希求がその思考の根底にあると推測されるうちは、たとえ空想的であってもひとつの論法としてそれは肯定的なものと看做されるべきであろう

信じるとは神が唯一の権威であることを認めるということであり、故に宣誓が成り立つということを意味している、「誓い」とは人間が絶対者になれない以上、神なき世界においては成り立たない行為であり、本来別々の環境と経歴を持つ男女が未来を共有することを約束するとき、そこに神(つまり唯一の絶対者)が介在するのはそれほど不思議なことではない
また結婚とはすべての命あるものにとっての重大事である後継者(次の人)を産み、育てるという意味でも人間の営みの要に存するものであり、自立を証明するものでもある
では結婚における愛の果たすべき役割とは?
結婚が単なる慣習の履行であると推測されてもおそらく愛の果たすべき役割というものには何ら変化はあるまい、愛の宣誓というものにはある重要な意味の確認が含まれているのである、それは愛が普遍性を帯びる時に最も排除されなければならないもの
それは「嘘」である
愛の反意語は無関心ではない、また憎悪でもない、愛の反意語は嘘である
このことは一方で人間がこの愛という問題に関しては宣誓をしばしば破ってしまうという人間個々の特性が関連しているとも考えられる
また嘘は神に対する背信でもある、そう、神との間には生前の約束があったのだ
「私は決してあなたに嘘をつきません」
この神前において交わされる人生最大の約束は、「信仰」が最も強調される瞬間であり、故に個人の理性が最も試される瞬間でもある
「信じる力」について考える時にキーワードとなる三つの言葉
「約束」、「愛」、そして「嘘」
いずれも神という概念なしには成立しないように私には思える
大昔、「神」という対象を知った「個」(私)は、そこに普遍を見出そうとした、なぜならば神とは目に見えぬものでありまた永遠に沈黙しているものであるからだ、「ほんとう」があるならば「うそ」もまたあるはずである、だが人間はかなり早い段階で普遍は「ほんとう」にしか存在しないことを悟っていた、神とは真実であり、真実とは普遍であり、普遍とは嘘の完全排除、つまり愛である
愛が人間にとって尊いのは、神によって与えられた想像力、そして創造力が文明を切り開くとき、その根本の部分を支えたのが愛であったからだ

愛は美の法則に矛盾しない

美しいものには嘘がない、つまりそこには愛があるのである
これは人間の理性というよりは本能に近い部分にある徳性なのであろう、つまり人類が誕生した当初から理性的であったとは考えにくいため、人類のその存在の根源的な部分とも重なり合うものでもあるのであろう
そしてこの地球上に存在するすべての歴史的な建造物がそうなのであろう、そこにあるのは普遍、嘘を完全排除したときにのみ現れる神が人間(すべてではないかもしれないが)に込めた高潔なる魂の最高峰、そして真理を貫くたった一筋の光、
すべての宗教の悲願がここにある、キーワードは「統一」であろうか、だが人間とはにもかかわらず嘘に染まる動物でもある、信じる力は「神とは何か?」という人類にとっての永遠の課題を今日も私たちに突き付けているのである

考える力

考える力

さて前章では信じる力について書いた
信じる力は感じる力の次に来るものであり、考える力の前に来るものである
信じる力のキーワードは3つ、「約束」、「愛」、そして「嘘」である
愛とは能動的な問題であり、故に嘘を排す、嘘がそこにわずかでもある限りそれは純粋な愛とは言えない、また約束とはもちろん結婚も指すがここでは生前の神との約束を指している、私たちは生前に神と約束を交わしその結果命を授かった、だからこそ命あるものを尊重し、また無駄にしてはならない
愛の反意語は嘘であり、また愛は美に矛盾しない、また愛も美も「私」の唯一の対象である神の介在なしには成立しないだろうと書いた
また上記したことに関連して、最近は直線的思考が幅を利かせ、曲線的思考が後退している、そして直線的思考は量を、曲線的思考は質を重んじ、したがって幸福を考える場合、曲線的な思考が重要になると書いた

そしてようやく「考える力」である、ここまで書き漏らしていたが、私はこの三つの能力「感じる力」、「信じる力」そして「考える力」を善の三人の息子と呼んでいる、いずれも善を志向する場合省くことのできないものであり、また順番からいっても感じる力が長男、信じる力が次男、そして考える力が三男ということになるであろう
考える力が一番下に来ているのは、その他の二つよりも軽んじることができるからではもちろんない、考える力はおおよそ25歳くらいになってようやくその本領発揮ということになるのであり、他の二つよりもやや成長が遅い、また考える力のその最も重要な役割は義(正義)の規定であり、これは十代ではまだ早すぎると判断することができるであろう、また考える力には前提条件がある、それは自由な環境で「個別」の判断を主に自主的判断によって育むこと、である
私はこの書で「共通」という言葉をやや批判的な意味で多用しているがここでもそれを繰り返すことになるようだ、確かに共通の目標に向かって皆で頑張るという姿はたとえそれが受験のためであっても容易に否定されるべきものではない、受験もまた青春の重要な1ページであり、彼に将来に対する明確な目標があるのであれば彼の努力は称賛に値すべきものである、だがそれでも私はここで「個別」を強調することになる、なぜならば道を外れたときにこそ重要なインスピレーションが訪れるからである

ここからはややその趣旨を把握しにくい内容になるかもしれないが、なにとぞやや辛抱のうえ読み進めていただきたい

考える力で特に若い人の場合大切なのはまず自分の力でレールを敷くということである、受験を例にとるとわかりやすいかもしれないが、まず自分の判断でどこの大学を目指すかまたはどこの地域の大学を目指すか、またはどの学部を受験するかなどを選択する、これは自分自身の判断で行わなければならない、ここで重要なのは当初は100点を目指すということである、そしてレールを敷く、だが当然ごく一部の人を除いて予想していたようには進まない、当然レールを逸れるということが起きる、その時に実はチャンスが訪れる、私に言わせれば当初は100点を目指し、そしてそのためのレールを真面目に敷くというこの前提さえ整っているのであれば、「にもかかわらず脱線する」はチャンス以外の何物でもない、だがそれができないのはたった一つのキーワードが彼の頭から消え去っているからである
それは「豹変」
豹変とは実に不名誉な響きのある言葉であるが、善を希求することを考えた場合、不完全であるが故に人間には豹変がどこかで必ず必要になる、もちろん豹変した場合、信用問題に発展することもあるだろう
「昨日まで言っていたことと違うではないか」と
したがって豹変は人生でも二度、多くても三度までであろう
だが100点を目指す(完璧なスケジュール)→レールを敷く(具体的な行動に移る)→脱線する(想定通りにいかない)→豹変する(脱線をチャンスと捉える)というこの一連のプロセスは幸福を第一に考える時実に重要なのである
確かにこの論理には矛盾ではないがやや腑に落ちない部分がある、当初は100点を取るつもりだったのに、悪い結果が出たことをにもかかわらず肯定するといっているのだから、では最初から100点など目指さなければよかったではないかということになる、だがそれでは豹変ができないのである

ではここで少し日本史の話を
幕末、長州は当初極端な攘夷を主張していた、ところがそれが難しいと判断される状況になると前言を翻し一転開国へ動いた
そう、長州の豹変である
だがこれは国益を考えたときには実は正しい判断なのである、国の独立は善であろう、そういう意味でも幕末の長州の判断はやや腑に落ちない(一貫性がないように見える)が正しいのである

このように一旦ある極端な方向に大きく振れて、にもかかわらずそれとは対照的な考え方に一日にして豹変の上まるで以前からそのような考え方をしていたとばかりに落ち着く、やや軽薄であろうか?だが人間というものが不完全な動物であるが故この豹変は避けられないように思う、だが忘れていけないのはこの豹変は善のためのものでなければならないということだ、ここを取り違えると大変なことになる
限界まで挑戦するというチャレンジング・スピリットと、高潔なる目標、その能動的なスケジュールと著しい行動力があれば、「にもかかわらず豹変」は一定の嘲笑を呼び込むことにはなるが最終的にはその主体の利益につながるであろう、確かに大学受験はこの範疇に収まるにはやや物足りない部分もあるかもしれないが、25歳くらいになればここで述べられていることは幾分かではあっても飲み込めるのではないかと思う
さてやや遠回りをした感があるが上記したものはつまり「個別」の肯定である、他人と同じスケジュールを組んだのであれば、最も重要な豹変に辿り着けなくなる可能性がある、失敗はそれが積極的なものの結果であるならば、それは自分にしか当てはまらない法則を発見するうえでの実に貴重な経験となる、だがこれは自分自身で設定した目標、そしてスケジュールであるからこそ可能なのであって、集団で行動することが当たり前になっているような環境では、つまり自分以外の人が立てたスケジュールに沿って行動するのでは、上記したことの実践は難しいかもしれない、「個別」であるが故に一定の柔軟性を担保できるのである

一時的なものではなく長期的に記憶に残るような重要なインスピレーションというものは99.9%、戸惑いや、鬱などのいわゆる負のしばしの滞留の後にやってくる、なぜならば重要なインスピレーションのほとんどはそれまでの価値(昨日までの価値観)の逆転によって完遂するからだ、そう、豹変とは価値の逆転、昨日までのYesが今日のNo、個人の内側に限定されるのであれば豹変は何回起きてもいいということになる、つまり豹変の数だけインスピレーションがあったということになる
レールから逸れることを、そしてその時に需要なインスピレーションが訪れることを潜在的に期待したうえで、にもかかわらず100点を取るためにレールを敷くというのは論理的に見た場合、矛盾しているのかもしれないが、しかし「義」というものは元来そういうものなのかもしれない
義とは、考える力のみに与えられた人類の理想の彼岸へ達するための小舟に取り付けられたエンジン、故に義とは正義であり、大義である、義は「愛」と「美」という明文化することが難しい概念に絶対に近い価値を与える、また義は「利」と「和」という本来ならば相容れない二つの性質の中間点を模索する、義は「制する」であり、「君臨する」である、また義は国境を超える、世代も超える、そういう意味では義は志に似ている、しかし誠とは少し違う、誠は日本人以外にはやや理解しづらい概念であろう、「至誠天に通ず」とは素晴らしい格言だが、果たしてこれがヨーロッパ人やアメリカ人に通用するだろうか?
また義は私たちの生活の中に入ってくることによって、すでに一部は市民権を得ている、民主主義がそうである、民主主義の理念に異を唱える人は少なくとも現時点においてこの国日本にはほとんどいないであろう、「主権在民」も、「言論の自由」も、そして「直接普通選挙」もすでに代替案がないと思えるほど国民の間に浸透している、「考える力」とは政治的にはつまり制度(システム)の構築であり、「最大多数の最大幸福」を獲得するための政策の実現である、このようなマクロの概念は確かに感じる力や信じる力にはない
「考える」とは「明文化する」であり、故に概念に形を与えるである、しかしだからこそ「共通」に陥りやすく、したがって少数派の意見が切り捨てられるというリスクも孕んでいる

私は思う、たとえばいわゆる超高学歴のエリートたちは行政に関して未来における一般市民の落としどころをどのように考えているのだろうかと
諸君、ここからはいつにも増して私風の思考が繰り広げられることになる
キーワードはhome(帰るべき場所)である
20世紀は資本の追及の時代であった、そして21世紀は資本の分配の時代である、これはいったい何を意味しているのであろうか?
おそらくすでに社会を吹き抜ける風(モード)はかつてとはまったく逆の方へと緩やかにではあっても吹き始めている、これは感じる力の産物なのでその数値を測定することはできないが、敏感な人々ならばきっと気づいているはずだ
10億円稼ぐ、20世紀であれば更に10億円稼ごうという話になる
だが21世紀は違う、10億円稼げばそのうち必要な額だけを取っておいて後は分配に回そうという話になる
たとえば10億のうち3億円は取っておくが残りの7億円は、それを稼いだ主体が誰であれ、またその年齢がいくつであれ分配に回す、たとえばその7億円を故郷にために使う、または今住んでいる地域のために使う、あるいはこれから生まれてくる子供たちのために使う、障害者などの少数派の人々のために使う、いずれにせよ10億という数字は生涯獲得所得としては十分すぎるほどのものだ、ならばそれ以上上を目指すのではなく、その蓄積された富を何らかの新しい価値の創造のために使うべきだ、この21世紀、更に金を稼ぐことや、その地域、またはその業界でNo.1になることの中に未発見の新しい価値があるとは私には思えない、さらに言えば貧富の差の拡大は進行すればするだけ様々な社会の不安定要素の深刻化につながり、歴史上類例を見ない緊急事態を生じさせることになるかもしれない、だが感じる力が考える力よりも上に来ていることからも分かるようにこの世に命の価値を上回る大義などは存在しない、と私は考えている、命よりも大切なものがあるという考え方は虐げられた者にとっては報復のための論理的根拠にしかならない、このような恐ろしい考え方が蔓延していくことを考えれば、生前の約束を根拠にしてでも私たちは善の追及というものを生活の中でもっと具体的に認識するべきである

神はすべてを創り、すべてを救う、この世にある目に見えるものも目に見えないものもすべて神が創り給うたものであり故に無駄なものなど何一つない、ニュートリノから太陽に至るまですべてが由あってこの世に存在している、それが確認できるその瞬間まで私たちホモサピエンスが文明の中を生きているかどうかはわからないが、私たちは天からの使者が舞い降りてくるとき、いかなる理由があろうとも堂々とその天使に相対するべきだ、だが報復を実行したものに果たしてそれができるであろうか?
疚しさは狂気の中にあって尚息づく、私は思う、生前の神との約束を違えた者に神が恩赦を与えた場合その疚しさを知る背徳者はどのようにして神に詫びるのであろうか?神は悪人をも救う、だが罪人は神が用意したもう一つの世界に果たして足を踏み入れることができるだろうか?なぜならばそこには彼の家族が待っているからである、報復は彼が自分こそが「共通」の代弁者であるとの驕慢に支配された時にのみ起こる、だからこそ彼はしばしば神の名を口にするのである、だが人間は誰も「共通」の代弁者になどなることはできない、私たちにできるのは「私」の唯一の対象である「神」を「個別」の世界で見つめることだけである、だから信仰は理性に先立つものではなく故に私たちは常に試されているのである、100回生まれ変われば1回は犯罪者になる、善には普遍が必要なのに、普遍のための統一は信仰に敗れた者の理性による自己救済を認めようとはしない、そこでは人間が神以外纏うことのできないはずの権威を纏い、大義の名のもとに君臨する、「個」は死に、多数派が神にだけ許されているはずの「試す」を神に代わって施行し、実は本質から少しずれているにもかかわらず彼らにとって都合の良い論理を現実的な取引によって正当化しようとする
もうお気づきの方もおられるであろう、今ここに記した私の意見は、かつては例えばキリスト教の世界では異端と看做されていた意見である
善とは大きな理想ではない、私たち個々人の中に息づくささやかな正義である、誰が鮮血に染まる腕で母を、子を抱きしめることができよう、神を信じぬ者でも愛の放棄を完遂できる者はいない、なぜならば人は一人では生きてはいけないからだ、「万物は対象を求める」これは数多の被創造物の連関を言い表したものだ、この世に単体で存在しているものなど決してない、すべては時さえも連なりそれはまるでこの世には終わりなどないのではないかと思えるほどだ、だが私たちは「個別」による信仰というものを決して諦めてはいけない、神が巨大化するとき必ずや神の権威を笠に着ようとする輩が現れるものだ、そのような輩は皆取引を知っている者であり、故に信仰を貫く者ではない、そしてそれを見破ることができるのは「個」を知り、「孤」を恐れぬ者だけである
なぜ神を信じるのに条件がいるのであろうか?

いかに歴史が積み重ねられようとも私たち人間の能力にどれほどの変化があったというのか?
私たちの眼は2000年前の人々の二倍見えるようになったのか?
私たちの耳は2000年前の人々の何倍聞こえるようになったのか?
そして私たちの命の価値は2000年前の人々よりもどれくらい重くなったというのか?
発達したのは私たちではない、私たちが使う道具だ
だから私たちは常に歴史に対して謙虚でなければならないのだ
私はすでに書いた、私は火星に行くつもりはないと
私たちの人生は青春期の憧れに始まり、たそがれの扉を開けた後の帰郷によって終わる、火星に行くことは青春期の夢としてはこの上ないものであろう、だが結局私たちはここへ戻ってくる、それは100%間違いのないことだ
私たちはどこへも行かない、ただ回帰するだけだ
実に面白いことだ、これを教えてくれるのは他でもない沈黙を守り続ける神だけなのだ、homeを知る時、少しだけだが神の謎が解ける
遠い未来において人工的な何かが子宮の代わりを務めるとしてもその子がこの惑星に生まれることに変わりはない、またもしケプラーが見つけた惑星に生命が育まれているのだとしても、そこは私たちのhomeにはならないであろう
面白いものは多数派を形成するが、不思議なほどそのようなものは真実からは遠いのだ

たそがれの扉

たそがれの扉

さて前章までに私は、感じる力、信じる力、そして考える力のいわゆる私が名付けたところの善の三人の息子について書いた
長男は感じる力である、なぜならばこの世で最も尊いものは命であり、また命とは感じるものであるからである
次男は信じる力である、なぜならば信じる力は愛と美を司っており、いずれも神の認識なしには成立しないものであり、また育み、守っていくことのできないものであるからである
そして三男が考える力である、なぜならば考える力の第一の役割は義(正義)の規定であり、故に十代の若者ではそれを十分に認識することができずに、おおよそ25歳くらいになってようやく認識できる概念、つまり他の二つよりやや遅れて私たちのもとへと降りてくる概念であるからである
だが考える力が他の二つよりも軽んじられてよいというわけではない
実はここで認識すべき重要なキーワードがある
それは「豹変」である
私はすでに「にもかかわらず」という言葉からこの書を始めているので、そういう意味では何ら矛盾していない(私たちは皆いつか死ぬ、にもかかわらず必死になって生きている)のだが、以下の一連のプロセスを認識することは幸福を第一に考える場合、実に重要なことなのである
① 100点を目指す(完璧なスケジュール)→②レールを敷く(具体的な行動に移る)→③脱線する(想定通りにいかない)→④豹変する(脱線をチャンスと捉える)
つまり、昨日まで言っていたことと違うというある種の矛盾を抱えながらも、「にもかかわらず」を実践していく、ただこの豹変はあまり多用すると信用問題に関わるので、人生で二度、多くて三度くらいしか使用できないだろうと書いた
ただ「考える」は概念に言葉を与えしたがって「明文化する」であるので、上手にこのあたりを超えていかないと少数派の切り捨てにつながるかもしれないとも書いた、つまりこの部分ではかなり民主主義の徹底に力点が置かれているのである、なるほどよく考えてみればこの善の三人の息子も民主主義が崩壊したと仮定した場合、神の第一の僕(しもべ)を名乗るような輩によって骨抜きにされてしまうかもしれない、このあたりは私たちも気をつけなければならないところだ

また前章では最後にやや宗教的な内容の個人的な思想についても述べた
生前の約束を違え、悪に傾く者に神の恩赦はどのように伝わるであろうか、と
私たちは最後は回帰する
私たちを待っているものは家族と故郷、許されない罪を犯した者を罰するのは実は自分自身、神は尚沈黙を守るであろう、そして咎人は赦される、だがその罪を贖うために彼は神との約束を違えた者だけに課せられた旅を続けなければならない、そう、人間はついにいわゆる落とし前を自身でつけるしかないのである

さてこの章ではすでに頻繁に登場している「たそがれの扉」について述べる
まさにそれについて述べるには潮時であろう
たそがれ(黄昏)の扉とは、おおよそ五十歳くらいになった人間がおしなべて結果的にせよ開けてしまう扉のことである
言うまでもなくそれは「老い」の始まり
だが私はそこに希望も見出している
結論を先に言えば、「老い」は必ずしも悲劇的なものではない
以下、「たそがれの扉を開ける」+「老いの認識」=「救済」(条件付き)について述べる
私はすでに序においてこの書自体がたそがれの扉をまだ開けていない人にはやや難解なものになるであろうと述べている、したがって以下述べる内容も同じような意味に捉えられるかもしれないが、若い諸君、なにとぞこの章を飛ばさずに付いてきていただきたい

私の場合、たそがれの扉は五十歳の夏突然開いた、老いというものはそういうものであり、私は瞬間死もまたこのように近づいてくるのであろうと悟った
私はすぐにタバコをやめた
来年の夏は来ないかもしれないという言葉が一切のケレンを排し、人生で初めてじわじわとそして具体的に私の感覚に忍び寄ってきた、そして思った
生きたい、と
そしてこの書を書き始めたのである

老いは足元から這い上がってくる、経験者ならわかっていることだ、頭はそうでもない、足、そして脚がまずやられる、当然ながら性欲も格段に落ちる、女性の場合は更年期ということになるのであろうか
人生は短いのに、青春期が遠く思える、そして焦る、あの時もっと頑張っておけばよかった、と
「老い」の一丁目一番地は後悔である、故に「尚も生きる」の第一歩目も後悔から始まる、私はじっとしていられなかった、「伝える」はその後しばらくしてから訪れたものであり、当初はとにかく何かやろうであった、私は当時商売をやっていたが事実上破たんしていた、私はもはや商売人ではなかった、ただ希望のない毎日をそのような者に相応しく繰り返しているだけであった
人生最大の挫折がたそがれの扉を呼び込んだのであろうか?
いずれにせよ、事業の失敗は衝撃的にやってきたのではなく、潮が満ちるようにやってきた、そして終わりの時が来た
そう、私は今無職なのだ

扉はすべてそうだが開けた後気づく、中にはこちらが開けようとしなかったにもかかわらず自動で開く扉もある、私の場合たそがれの扉は、明確な故意によってではなく自然にそうなったという感じであった
負の衝撃は誰をもまず過去へといざなう、未来が一時的にせよ閉ざされるという衝撃はおそらくどんな人間をも取りあえず活動的にする、その「じっとしてられない」が何を生み出すかは青春期の過ごし方により決するのかもしれない
私も若い時は小説家を目指していた、果たして何冊の大学ノートが消費されたことであろう、すべては徒労に終わったが、私は自分の努力が誠実なものであるということだけには自信があった、私の努力には嘘はなかった
文学の神はついに私に微笑むことはなかったが、ある未経験の思いを私の中に残した
それは「呪い」である
自分についに背を向けたままであった文学そのものに対する、そしてあまりにも愚かであった若き日の自身に対する
「こんなもののために私は……」
呪いに支配された期間は決して長くはなかったが、呪いはその後の私の人生に一定の影響を与え続けた、呪いを是とすることはまだ比較的若く希望を捨てるには早すぎる私にとって、まるで悪友のようにこれまでの価値観とは真逆であるというただそれだけの理由で、好ましく思えることであった
にもかかわらず運命に裏切られた者、それが私であったかもしれない、私は女を致命的に傷つけたことはなかった、それどころか女に金を借りたことさえなかった、では傷つけられたことはあったのか?
青春期のハートブレイクに悩む三十歳近き若者よ、もし諸君の中にそういう孤独に苛まれる青年がいたとしたらここは注意深く聞いてほしい、青春期のボタンの掛け違いはいずれ解消する、だが誠実なる努力が報われなかった時の悲しみは残念ながら後々まで尾を引くであろう、一時的には記憶の彼方に消え去る悲劇が復活してくるのがたそがれの扉を開けた直後なのである
誠実すぎる若者よ、君にひとつのヒントを与えよう
まずは夢を持とう、何でもよいのだ、条件はひとつだけ
嘘がないこと
その条件さえクリアできれば、それは君の夢になりうるであろう
だが夢は叶わない、なぜならば夢はそれを追いかけている時だけ輝くものであるからだ
夢が叶う時は必ずや理想とは矛盾する形で叶う
「実は私がやりたかったのはこれではない」
だが夢が叶うと、金が彼を縛る
理想や憧れは一瞬で潰え、後は彼がその時どのような環境にいるかにかかわらず現実が直ちに強烈に彼を縛る
夢が叶わなかった者、だが彼こそ夢の中に自由を見続けることができる者だ
そういう者にこそこの言葉を捧げよう

呪い

夢が叶わなかったからこそ、呪いが彼を救う
「神よ、滅びよ」そう呟くことができた若者は幸いである
君は今、「負の肯定」のとばぐちに立っている、その中に入るにはまだ多くの試練が必要だが、君の中に嘘がなければ、もう一人の神の両の眼がそこに嘘がない限り君を見つめ続けるであろう
私はすでに何度も書いた、順風満帆の時に人は神を思うことはしないと
だから神は選ばれし者には試練を与え続けるのである

常に神を思え

呪いを知らぬものにこの格言は届かないであろう、神は人類に犠牲を強いる、そして神の理想の実現のためにどうしてもこの者だけは必要であると判断した場合、他の者との公平を図るため更なる犠牲を強いたうえで彼を救う
真の栄光は人間が人間に与えるのではなく神が人間に与える
だがそれを私たちが死の訪れよりも前に知ることはない
したがって私たちは死後、人間の判断と神の判断がかくも違っていたのかと初めて気づくのである
私たちは時々こういう表現を使う
「彼は天に召されたのだ」と
例えば夭折の天才などにこの表現は使われるのかもしれないが、真の栄光に浴することができるのはおそらく無名の信徒であろう、誰にも知られず、悲劇に屈せず、一切の嘆きもなく、呪いとさえ無縁であった、そのような者
彼こそ真に誉れ高き存在
だがそういう人はあまりにも少数であろう

裏切り者に恩赦を与える、これこそ神の第一の徳性
呪いを知る者はそこに嘘がなければ悔い改める機会をいつか与えられる者
そして悔い改めた人間は紆余曲折を経て故郷の大地に終の住処を見つける
たそがれの扉は、そのような者にとってこそ希望の扉となる、だが老いは都会のネオンに未練を残す者にはしばらくは辛く、たとえば信仰の糸口を見いだせない場合にはそれだけ帰郷は遅れるであろう

扉は最後はきっとこう告げるのであろう、待っているのは死以外の何物でもないが、それでも尚成長することは素晴らしいのだ、と

メッセージという理念とストーリーという歴史

メッセージという理念とストーリーという歴史

さて前章ではこの書を書くうえで私にとって重要な動機となった「たそがれの扉」について書いた、しかし前章をここで振り返る必要はあるまい、前章で書いた内容はあまりにも個人的な内容であった、ここはただ前へ進むことにしよう

今、私たちの生活はPCやスマートフォンなどのITツールなしには成立しないものとなっている、おそらくこのことに異論を挟む読者はおるまい、だがその一方で日々提供される情報にある種の切迫感を抱いている人も少なからずいるのではないかとも予想される、つまり自分が必ずしも欲していない情報も知ることになってしまうのである
私たちは情報の主に受け手であるがしかしそこに私たちの主体と呼べるものは果たしてあるのだろうか?
つまり私たちはこのIT優先の時代、データやインフォメーションを重視しすぎていないだろうか?
私は思う、今という時代は私の方程式、A+B=CのBの部分が抜け落ちてしまっている時代なのだと、この方程式に付いては後に詳述するが、Bに来るのはこの章のタイトルにもなっている、メッセージであり、ストーリーである

ところで情報の反意語は何であろうか?
それは理念(哲学)である
理念は歴史によって育まれ、負を肯定することによって鋼のように確固たるものとなる、また理念は瞬間的には単なる思い付きでしかなく故に多くの矛盾を抱えるものでしかない、したがってそれがひとつのやや大袈裟にいえば体系を持つ永続的な価値を持つものに変化していくにはまるで植物を育てるが如くの辛抱とそれから天候(植物の生育は天候に左右される)などのいわゆる外的要因に因るところが大きい、つまり理念とは一朝一夕には確立されないものなのである
正直に言えばITが歴史のない国アメリカにおいて誕生し、成長し、そして確立されたというのは実に象徴的な意味を持つと私は思う、歴史というものは巨大なものであり、ただそれだけである種の畏怖を感じさせるものでもある、たとえ人生が今の二倍の長さになったとしても、それでその国の歴史が直ちに二倍になるというわけではない、歴史がないということはそこにおいて多くの実験が可能になるという絶対的なメリットはあるものの、精神的な意味での制約(実はここからいわゆる国民性というものが生まれてくるのだが)のなさは、本来は権威の反意語である自由の中に潜む「自己を理想的に規律する」というおそらくは人類普遍の価値とも言ってよい不文律を軟化させてしまうのである

何度も言うが自由の反意語は権威である、つまり自由を叫ぶものはその対象として権威というものを強く認識しておく必要があるのだ、そうでなければ対象を失った自由は秩序のないつまり自由というよりはむしろ放埓や頽廃に陥ってしまう、果たしてそこに新しい価値の創造など期待できるのであろうか?
前例のないまた革新的なものであればあるほど、モラル(道徳)というものが頭をもたげてこなければならない、なぜならばそれがよいものであるならば尚更のこと社会の隅々にまでそれは影響を与えるものになるであろうと考えられるからである、老若男女すべてに遍く恩恵をもたらすものならば、そのようなものにこそ、一部の人のみが理解できるのではなく、最大公約数的な多くの価値の共有が潜在的にせよ約束されていなければならない、自動車は実に便利なツールでありまた社会にとっても有益なものだが然るに免許が必要であり、またルールに従って利用することがドライヴァーに求められている、また明文化されてはいないが当然そこにはモラルやマナーと呼べるようなものがあり、それは絶対ではないが一定の影響力を持つものである、だがITにはそれがないようだ
自由の中にあるべき「自己を理想的に規律する」はおそらくは特に若者たちによって分断され、破壊され、無秩序の中にしばしば散見される「僅かでも上に行ったものがすべてを得る」がまるで当然のようにその中心を跋扈している、それはまるでアメリカの大統領選挙のようにいわゆるノックアウト方式であり、強いものにこそ有利でありしたがって少数派の権利を担保するのが難しくなる(2016年のアメリカ大統領予備選挙で、「社会民主主義者」を自認する民主党のサンダース候補が躍進した例などはその象徴的な現象であり、ノックアウト方式が少数派や弱者にとっては必ずしも有益なものではないことを暗示している)のである

翻ってITはノックアウト方式ではないのか?私たちにはマッキントッシュ方式とウィンドウズ方式のたった二つの方式のOSしか与えられていないのではないのか?
かつてカセットテープというものがあった、1968年にオランダのPhilips社が開発したものだが特許をオープンにしたため、主に日本のオーディオメーカーによって爆発的に世界中に普及した、そこにはたくさんのメーカーによるたくさんのカセットテープが生まれ、当然ながらこれまたたくさんのカセットデッキやラジオカセットが生まれ、音楽というものが特に若者たちにとってより身近なものになった、また1970年代には世界中でFMの放送局が次々と開局したことから、FMに関する雑誌と、その情報に依ったエアチェックが音楽好きの若者の間でかなり流行した、またカセットテープもノーマルテープだけでなくクロームテープや、メタルテープなども誕生し、さらに1980年代には日本のメーカーがWalkmanという歩きながら音楽を楽しめるという画期的な製品を発売したために、文字通りそれらは世界を席巻していった、さらにカセットテープはCDの時代にもうまく適合し、CDラジカセがこれまた世界中で売れた、そしてカセットテープは今もなお生き残っている
では、なぜカセットテープがこれほどまでの大ヒットにつながったのといえば、もちろんPhilips社が特許をオープンにしたことも大きいが、最も重要なのはそこに互換性があったということである、つまりA社のカセットテープはB社のカセットデッキでも使えたのである、この互換性があるということが音楽(特にビルボードなどのチャートを席巻するポップなヒット曲)というものを世界中に行き渡らせていくその足掛かりとなったのである
では互換性とは何か?
それは独占の逆である
互換性とはaでもbでもよいということであり、独占とはa(またはb)でなければだめだということである
これは権利の平等という観点からすれば甚だ由々しき問題であり、また同時に歴史のない国の人々に多くの権限を委任することの危険性を明確に暗示してもいる、更に資本の追及は更なる資本の追及を産むというすでに私たちが20世紀において経験済みのいわゆる勝ち組と負け組に人々を分けるという負の遺産が尚も繰り返されているということも意味しており、また21世紀は資本の追及の時代から分配の時代にならなければならないという観点からも甚だしく矛盾している

これ以上の格差の拡大が人類にどのような形のものであれ更なる恩恵をもたらすと考える人はアメリカ国内においてさえほとんどいないのではなかろうか?
そしてこの互換性のないアメリカ生まれの怪物は、もうひとつのもしかしたら「21世紀特有の」と将来呼ばれることになるのかもしれない負の遺産を産もうとしているのかもしれない
それはデータやインフォメーション過多によるこれまでとは異なる価値観の醸成である、数字や帰属のはっきりしている情報は確かに強い説得力を持つ、それらが高名な研究所や新聞社から出たものであるならば尚更のことだ、したがって多くの利益を得ようとするものは個人であれ、法人であれ、データやインフォメーションによって自己の権益を拡げようとするものだ、これは特に選挙などによく見られる現象である
だが、と私は思う、個人にせよ、法人にせよ、一定以上の影響力を社会に対して得ようとする者にとって最も大切なものは何なのか?
そう、ここに「メッセージという理念と、ストーリーという歴史」が来るのである
ではこのメッセージという理念とストーリーという歴史とは具体的にどういうことなのか?
それは個人にせよ、法人にせよ自分が何者であるかを明らかにするということである、可能ならば最大限の透明化を図るということである、誰が見てもこの個人は、またはこの法人はこういうものであるということが明確にひとつの形として見えるということである
いってみれば、「その性質の可視化」である
ではなぜこのその性質の可視化がそれほどまでに重要なのかというと、以下の方程式があるからである

データ・インフォメーション+メッセージ・ストーリー=インテリジェンス・タクティクス
これが先ほど示した方程式、A+B=Cである

もちろんこの書自体が私論の集積なのであるから、これもまた私のオリジナルの考え方であるが、以下その解説を試みたい
データやインフォメーションとはいわゆる数字または数値化されるものと、国民などに対して行われる世論調査などの結果による、「信頼できる客観情報」のすべてである、それに対してメッセージやストーリーとはその逆、つまり主観的なものであり、集団ではなく個またはそれに近い少数に属するものであり、そこにある現象を捉えるのではなくそこにある意思の方向性を指し示すものである、したがってデータやインフォメーションの収集よりもはるかに多くの時間を必要とすることになり、また個人または少数であるが故にいわゆる「行ったり来たり」を繰り返しもするのである、また豹変を100%否定するわけではないが、社会に対する一定以上の影響力の行使を視野に入れているのであればそこにはやはり一貫性が必要であり、度重なる豹変はご法度である
メッセージは主に積極的な失敗の繰り返しによって育まれ、またストーリーは歴史を学ぶことによって育まれる、またここでいう歴史とは個人、法人の経験も含み教科書的な定義によるものだけをそう呼んでいるわけではない
つまりメッセージもストーリーも誤解を恐れずに言えば強烈な自我であり、時に「はらわたを見せる」行為ですらある、だが大なり小なり自らの意見を表明するということはそういうことだ、故に何らかの文章などを新聞などに投稿する場合基本的に匿名希望ということはあり得ない、それではデータやインフォメーションという点では問題はないが、メッセージやストーリーという点ではかなり問題があるであろう
なぜならば読者が追加の情報を欲しても送り手が誰であるかわからないためにそれが叶わないからである、つまり情報の一方通行になり建設的な議論のための第一歩にはそれはならないのである

そのあたりに関して以下述べたい
さてデータ・インフォメーションにメッセージ・ストーリーをプラスすれば、インテリジェンスとタクティクスになる
ではインテリジェンスとは、そしてタクティクスとは何か?

インテリジェンスとは、意思のことであり、決定をするということである
そしてタクティクスとは戦略のことであり、行動するということである
つまりインテリジェンスは「静」を、タクティクスは「動」を司っていることになる
まず断っておかなければならないのは、インテリジェンスもタクティクスも私たち民主主義国家の国民としては当然の権利であるが故にリスクも伴うということである、そしてデータやインフォメーションにメッセージやストーリーを加えることで初めて、決定や行動が可能になるということである
権利の対象は言うまでもなく義務である、意思決定もそれに基づく行動も権利として認められているからこそ義務というリスクの発生もまた避けられないのである、したがって当然ながら権利の行使を試みる者は義務の履行もまた課されることになるのだが、どうやらこのあたりがこのITの時代うまくいっていないように思える
つまり、メッセージやストーリーの欠如が感じられるのである
私たちの周りは十分すぎるほどのデータとインフォメーションによって埋め尽くされている、だがもう一つのメッセージとストーリーが欠けているために当然ながらインテリジェンス(意思決定)、そしてタクティクス(意思決定に基づく行動)が今一つ説得力の欠けるものとなっているのである
おそらく現実にはデータとインフォメーションだけで、メッセージやストーリーがないにもかかわらず、強引に意思決定とそれに基づく行動を起こそうと企んでいる人もいるであろう、しかしそれこそが私が最も恐れている事態なのである

ここでその核心にあるのは、言論の自由であり、表現の自由である、匿名希望が許されると考えている人たちの論理的根拠になっているのもおそらくこれであろう、だが自由の対象は権威であると考えることによってその考えは必ずしも正しくないということが証明されるであろう
なぜならばそこには自由という追求されるべき理想の中に組み込まれるべき「自己を理想的に規律する」が時には著しく毀損され、故に自由という本来人間が文明を発展させるうえで最も重要と考えられるその概念の中に当然見出されなければならない善が蔑ろにされてしまうからである
自由だけではない、概ね権利というものは何かの犠牲の上に成り立つものである、それはまるで見ようによってはゼロサムゲームのようであり、何かが上がれば何かが下がる、したがって量ではなく質を高めるということが重要になるのである、そこでのキーワードはこれまた繰り返されていることではあるが、「捨てる」ことと「待つ」ことである
即座に入手できるものは即座に価値を失う、行ったり来たりを繰り返し、時に自己矛盾に苦しみ、理念、哲学を延々たる時間と「ここまでやらないと結論が出ないのか」と思うほどの呻吟の中で醸成させそれをさらに繰り返すことによってのみ、私たちは意思決定の能力を得る

所詮、バーチャル(仮想)はバーチャルであり、現実が持つ美しさと恐怖にはとても及ばないのである

仮想現実と善

仮想現実と善

さて前章では、独自の方程式を用いることによって理念であるメッセージと歴史(個の経験も含む)であるストーリーの重要性を説いた
すでに巷に溢れている数字で表される信用可能な客観情報であるデータやインフォメーションにメッセージとストーリーを加えることによって、意思であるインテリジェンスとそれに基づく行動であるタクティクスが生まれる
したがってデータやインフォメーションだけで自らの論理を構成しようとしてもそこにメッセージやストーリーがなければ、意思決定や、それに基づく行動は心もとないものとなる、と書いた
そして現実にはメッセージやストーリーが年々衰退しているように私には思えるためこのことはたいへん危惧されると書いた、多くのデータやインフォメーションはPC、スマートフォン、テレビ、新聞、雑誌などから仕入れた客観的なものであり、自身が足を使って稼いだものではない、もちろんそれでも確立されたメッセージやストーリーがそこにあるのであれば問題はないのだが、そうでなければ外から仕入れた情報だけで重要な意思決定やそれに基づく行動が実行されるということになり、時間をかけて育まれるべきメッセージやストーリーの欠如は、決定も行動もあまりにも瞬間的な力に依りすぎるものになるのではないかと書いた
おそらく読者諸君の間にも同じような危機感を抱いている人はおられるのではないだろうか、今、バーチャルと呼ばれる仮想現実がものすごい勢いで時代を席巻しようとしている、それらの中には革新的で尚かつ有益なものも少なくないが、問題はこのバーチャルが生み出す果実が時間をかけて味わうものではなく瞬間的な現在を楽しむためのものに終始しているように思われるということだ、もちろんこれが単なる流行に終わるのであれば問題はない、しかし、この仮想現実はこの後も一大勢力となって時代に、そして社会に大きな影響を与えるものとなることが予想されるのである

私はすでに書いた、熱いものは全部嘘である、
ただしスポーツはその例外であろうと、なぜならばスポーツの世界には限界までのチャレンジがあるからである、と
ではバーチャルはどうなるのであろうか?
バーチャルに足りないのは二つである、ひとつは「風」でもうひとつは「匂い」である、この世に安全確実な利益などというものはない、有益なものはすべて安全ではなく確実でもない、確かに3D映画に典型的に見られる一時現実を忘れさせてくれる見事なまでの被想像世界の細部にまで行き届いた時に幻想的な映像は見る者を圧倒するが、映画館を出てしばらくすればすべては元に戻ってしまう、バーチャルは被想像物であるが故に瞬間力という点ではその最高峰を目指すことができるが、直線的であるが故に普遍的、永続的なものとはなりえない、ここに仮想の決して逃れられない絶対的な現実の壁がある
「風」とは実感のことである、「匂い」とは危険を察知する力、つまり自己防御の源となるもののことである
「経験する」とはたとえ日常的な旅であってもリスクを敢えて受け入れるということであり、面倒を排除しないということである、つまり安全も合理性も取りあえず棚上げして経験を優先させるということである、やや大袈裟にいえばここにこそ人類の精神的な面も含むすべての文明の進化の核心がある
かつて縄文時代より前、沖縄に辿り着いた日本人の祖先は、藁を編んで作った粗末な船に自分たちの希望のすべてを乗せて中国大陸を出帆し黒潮を利用して航海を成功させた、果たして彼らはそこに辿り着くべき島々(現在の南西諸島のこと)があることを確信していたのであろうか?
いずれにせよ、新世界はリスクの先にしかない、クリストファー・コロンブスの大航海によるアメリカ大陸発見(ヨーロッパに大西洋の西に大陸があることを初めて紹介した)も多大なリスクを背負った結果であった
話が大きくなりすぎている、読者のなかにはそう感じている方もおられるであろうがそうではない、コロンブスは航海の天才でもなければ、高名な学者でもない、ただ地球は丸いということを確信していた人というだけであった、だが彼には実感があったのだ、出帆した船は水平線の彼方に没しいつしか見えなくなる、もし地球が丸いのでなければ、船はずっと見えたままになっているはずだ、彼はおそらく少年期において何かを感じ取っていたのであろう、風を感じ彼は学んだ、そして匂いの中で彼は計算した、風は夢であり、匂いは現実、彼の人格のその中心にあったものは科学のための貢献などではもちろんなくまたキリスト教的世界観の破壊でもなかった、彼はただ現実的な欲望のために西へと向かった、だが結果的にではあってもそれは世界を変えた、なぜならば彼はリスクをとることを躊躇しなかったからだ
社会を彩る文化には二つの種類がある
ひとつは直線的な儚い、しかし瞬間的なエネルギーの爆発による世界の変革を可能にするもの、少数派であり得てして短命
もう一つは曲線的であり安定した、瞬間的なエネルギーの爆発ではなく、より普遍的であることによって世界を変えるもの、多数派であり、また永続的である

これらの二つの文化がうまく融合することによって普遍に近い文化が生まれることになる
私は思う、1960年代とはその二つの文化が見事に融合していた時代ではなかったのかと、私は1965年生まれであるので僅かではあるがあの時代の息吹を感じている
ビートルズは直線的な儚い、しかし爆発的なエネルギーを持つ革命的な文化の代表的なものであろう、彼らが活動したのは1970年に発表された”Let it be”までと計算しても7年半ほどである(実際には1970年にはビートルズは活動をほぼ完全に停止していた)、だがその僅か7年半の間に彼らは世界を見事なまでに変えた、2012年のロンドン・オリンピックの開会式、そして閉会式でもイギリスでいかに彼らが今も尚特別な存在であるかに気付かれた読者も多かったのではないだろうか、ジョン・レノンが若者たちに証明したものはたった一つ
「俺たちはギターで世界を変えることができる」である
もちろん彼らが終始徹底してラブソングにこだわっていたということも見逃せないことではあるが、彼らのシンプル(4人で演奏し、4トラックのアナログ録音でレコードを作る)なスタイルは、同時代のボブ・ディランやビートルズの後に続いたローリング・ストーンズやアニマルズなどとともに、学歴もない労働階級の若者たちでも世界に衝撃を与えることはできるということを実証した、当時はカウンター・カルチャーなどと呼ばれていたようだが、ビートルズの革新的な所は当初は直線的な革命的なものであったのに、いつしかそれが曲線的な永続的、普遍的なものに変化していったことだ、それはエルトン・ジョンなどをはじめとする彼らの後継者たちが彼らの偶像を質的に高めていったからだと考えられる(ビートルズだけの功績ではない)が、1960年代を彩った直線的な文化と曲線的な文化との見事な並走(これが1960年代という時代を特別なものにしている)は、ビートルズの中に実に象徴的に見ることができるのである
またビートルズに関していえばもう二つ重要な項目がある
ひとつは「犠牲」であり、もう一つは「訣別」である
まず犠牲であるが、ビートルズの犠牲者となったのはピート・ベストである
彼のことをご存知ない読者のために簡単に説明すると彼はビートルズの初代ドラマーである、そして1962年9月彼らがロンドンのEMIレコードで1stシングル“Love me do”を録音したとき彼、ピート・ベストはそのスタジオにいた、ところがその録音の最中に彼はディレクターに呼ばれ突然解雇された
彼は言われた、「君はもうビートルズじゃない」
このあたりの事情は私もよく知らないし、彼も話していないようだ
いずれにせよ、彼はその日のうちにリヴァプールへ帰り、翌日リンゴ・スターがビートルズの新ドラマーとして加わった
神は犠牲を強いるとはすでに何度も述べていることだが、ビートルズの場合、それはピート・ベストであったということであろう、ビートルズの栄光のために彼が犠牲となったのだ
もう一つの訣別であるがこれは言うまでもなく、ジョン・レノンとポール・マッカートニーのことである、ビートルズの楽曲の多くが“Lennon and McCartney”とクレジットされているように、彼ら二人がバンドの核であった、したがって彼らの訣別はバンドの解散を意味した、だがこれは私に言わせれば避けられなかったことである、私の方程式に従えば、データやインフォメーションにメッセージやストーリーを加えることでインテリジェンス(意思決定)とタクティクス(それに基づく行動)を得ることができる、しかしインテリジェンスとタクティクスを持つ者が同時にそこに二人以上いた場合、当然軋轢が起き、最終的には訣別に至ることもありうる、だがこれは彼らに明確な意思(意志も含む)、つまり「自分が何を好きで何をやりたいかが明確にわかっていた」があったからであり、またそこに才能が加われば、訣別という結果は悲しいことではあるが、時に避けられないことなのである、したがって訣別という悲劇を招くことを避けようとする人々は、意思の明確化を回避する傾向にあるように私には思える、意思を明確にすれば軋轢が生じる虞がある、それを彼らは恐れるのである
だが私はそれでもビートルズの方を支持したい
なぜならば「新しい価値の創造」のためには「さよなら」はやはり最終的には避けられない可能性が高いと考えるからである

何かをクリエイトするということは簡単なことではない、それが新しく価値あるものとなれば尚更である、例えばそこに4人のメンバーがいたとしたらその全員が「自分たちは何が好きで何をやりたいのか」を度重なる意思疎通などによって明確に認識しておく必要がある、場合によってはこの段階ですでに訣別が生じるかもしれない、だが「新しい価値を創造する」とはそういうことだ、ビートルズはとうの昔に解散しているが彼らの楽曲の多くは今も尚生き続けている、新しい価値の創造に成功したものは、どのようなものであれ簡単に朽ち果てるということは決してなく、それどころか作者が亡くなった後でも以前と同じように輝き続けている、これは特に芸術の世界において、主役は常にその作品であり作家自身ではないというその好例であろう、”Imagine”はすでにジョン・レノンを超えている、同じように”Yesterday”はすでにポール・マッカートニーを超えている、したがって例えば未完に終わった作品(モーツァルトの
“Requiem”など)の続きを読み解こうとするクリエイターがいるが甚だ僭越ながらそれはほぼ意味のないことである、作家がいて作品があるのではなく、作品があって作家があるのだから、未完であってもそれは作品として完結しているのである、極端な表現になるが作家がその作品を完成させることができなかったのではなく、作品がその作家を見限ったのである、だから未完の続きを詮索することは芸術的にはほぼ意味のないことである、作家はおしなべて作品によって生かされているのである

さてバーチャルの話から随分とその中心が逸れてしまっているかのようにも思えるがそうではない、ここからがこの章の核心なのである
私はこの章ですでに1960年代は直線的な文化と曲線的な文化とが見事に並走していた(ビートルズはその象徴的存在)、だから1960年代は特別な時代なのだと書いた
つまり古典と前衛の融合である
おそらく古典は資本主義で、前衛は社会主義であるというような括りも当時はできたのであろう、その二つのどちらかが圧倒的に強くなるのではなく、文字通り拮抗していた時代、だから「新しい価値の創造」が可能であり、普遍的な価値を持つものが大量に産まれ得たのである、古典も前衛もお互いに活力が漲っており、故に政治的には危うい場面も多く発生したのだが、お互いがお互いを刺激し合うことで結果的に21世紀になっても廃れない多くの文化や伝説が生まれた
異論はあるであろうが、これらは私たち人類にとって「良いこと」であり、「拮抗」というともすれば不安定とも読み取れる状態の中からこそ「普遍」が生まれるというまさにその良い例なのである
ハイリスク・ハイリターンである

翻って、ITそしてバーチャル、この21世紀を彩ることになる文化であるが、これらは果たして将来的に普遍足り得るであろうか?
確かに短期的には相当な効果を上げるであろう、ビートルズもそうであった、彼らも当初は自分たちが作るものが長続きするとは思っていなかったのだ(ポール・マッカートニーは「40歳になっても”PS I love you”を歌うなんてできない」といっていた)、だが長期的にはどうであろうか?
私がITで最も気になるのはすでに書いたが、誰も異を唱える人がいないということである、ビートルズの場合は異を唱える人がたくさんいた、彼らの音楽を聞いてはいけないという大人たちまでいた、また来日直前には日本武道館を彼らに使わせてはいけないという多くの抗議が寄せられた、しかしITやバーチャルにはそれがない、そう、抵抗勢力が欠如しているのである
新しいものはただそれだけで保守的な大人たちからは警戒されるものだ、つまり新しいものの「匂い」が未経験というそれだけの理由で、自己防御の対象となるのである、だがしかしこのアメリカ生まれの怪物にだけは誰も警戒をしようとしない、それどころか尻尾を振って礼賛し無条件に服従している
ここでのキーワードは二つである
ひとつは「健全」であり、もう一つはやはり「美」である
まず健全であるが、この無批判に特にWindows 95の発表以降時代を席巻しているこのITなしには生活が成り立たないという現象は果たして健全なものといえるのであろうか?
結論を先に言おう、このスマートフォンを含む一連のバーチャルな空間における情報のやり取り(会ったこともない人と会話することによって生まれる知人をどこまで友人と呼べるのか)などによって得られる果実のある意味不均衡ともいえる状態(データやインフォメーションばかりが増える、したがってメッセージやストーリーの欠如が生じる)からいち早く脱退するのが他あろうアメリカである
彼らはITの生みの親であるが故にITの危険性を最も知っている人々である、彼らは風と匂いを知っている、だからITを使うことはあっても、ITに使われることはない
「人間はコミュニケーションがすべてである」とよく言われる、確かにその通りだがこの言葉を吟ずれば吟ずるほどFace to faceが必要であることに気付く
いくらSkypeなどで会話をしても実際に会ってみると雰囲気が違って見えたという経験をお持ちの方もいらっしゃるのではないか、便利なものには副作用がある、それを抑えるにはバーチャルにはない「風」に吹かれ、「匂い」に時に怯えることだ、安全確実な利益(メリット)などというものはない、外に出るということ自体にリスクは伴う、だがバーチャルはそれをゼロにしてしまうのだ
これは確かに多くの大人たちにとっては都合のよいことなのかもしれないが、「次」を育むことの重要性に気付いている人はきっとそこに懸念を抱いているに違いない、カルチャーはどのようなものであれそれに異を唱える人がいてこそ本物に成長できるのである

「すべてがひとつになる」一見素晴らしいスローガンのように思えるが、私はここに深刻なる矛盾を捉える
そこに10人の人がいればそこには10通りの幸福の形がある、なぜならば幸福とは主観によって決定されるものであり、また特に大人たちの都合で子供たちの自己決定権(12歳の子供でもこれは認められるべきだ)に影響を与えるというのはやはり健全ではないように思えるからである、また「多様性の尊重」という言葉を聞いてそれに異を唱える大人たちはどれくらいいるであろうか?おそらくは誰もが賛同するであろう「多様性の尊重」と「ひとつの世界」の間には一筋縄ではいかない深い溝がある、「個別」を優先させればそれぞれの人がそれぞれの人生を生きればよいということになる、したがって「ひとつの世界」にこだわればこだわるほど主観は排除され誰か権威を振りかざす者が決めたルールによって世界は規定されてしまうことになる、しかし人間の中に世界の代弁者になれるような人などいないのである、だから神の概念が必要になるのだ
スマートフォンのアプリが世界を一つにする、だがそこに障害者は含まれているのであろうか?
健常者のみによって構成される社会は健全ではない、もはやこの21世紀、そう言い切ってもよいであろう
同じようにITは健全ではない、100%そうだと断言することはできないが、車いすの障害者がいくらPCやスマートフォンから情報を得られたとしてそれを実生活にどれほど役立たせることができるであろう、少なくとも現時点ではITの恩恵を受けられるのはほぼ健常者に限られているのである
確かに「健全なる社会」というものを言葉で明確に定義することは簡単ではあるまい、だが「多様性の尊重」にそのヒントがあることは多くの人の賛同を得られるであろう、ならば時代の最先端を行くべきツールもまた多様性の尊重を反映したものでなければならない、例えばGoogleが開発した自動運転自動車、この車にはハンドルがない、自動運転なので必要ないのだ、もちろん免許が不必要というわけではないのだろうが、これが普及すれば障害者の人も外出が格段に容易になり、故に社会における多様性の尊重が一歩前進することになるであろう、このように元々IT企業であるGoogleがこのような挑戦をしていることは特筆に値する、IT企業で働いている人でもやはりわかっている人はわかっているということなのであろう、このような現象がアメリカにおいてすでに起きていることはIT発端の地であるからこそなのであろう、アメリカはポストIT時代に向けてもう歩き出しているのである

さてもうひとつのキーワードが「美」である、これについてはすでにある程度述べているのでここではその補足程度に留めるが、多感な少年少女が周りにいる大人たちを序列化するとき、おそらくその筆頭かその次に来るのがこの美であろう、美しくない人を感受性豊かな人は支持しない、つまり美しいということは理に適っているということだ、そして理に適っているということは健全であり、それだけ理想に近いということだ、14歳にもなれば少年であれ、少女であれ、自分自身の世界を築き始める、つまり「自分が何者であるか?」を探し始めるのだ、その時にキーワードとなるのが「美」であり、故に「理」である
では「美」や「理」の延長線上にあるものは何か?
それが「普遍」である
16歳くらいになればこの普遍が分かってくる、井の中の蛙では駄目なのだということが理解できるようになり、したがってアルバイトなどをやって社会との関わりを持とうとし始める、「共通」がやや後退し、「個別」が前進する
曰く「俺はこれをやりたいんだ」
それはスポーツであろうか、進学であろうか、それともギターや美術であろうか、それともパティシエであろうか、いずれにせよ、彼は殻を破りこれまで知らなかった世界の住人との接触を試みるようになる、これが大人になるということだが、本気の人間、特に若者には絶対に譲れない一線というものがある、なぜならば彼には夢があるからだ、刹那的な快楽に興じる大人たちには美が欠けている、そして本気の人間はすでに時間がないことを知っている、だから美と理を維持するために先を急ぐのである、彼のそういう姿勢はしばしば周囲の人間に強いストイシズムを想起させるかもしれない、大衆の空気に流されれば流されるほど「個」は「滅」に向かう
ドリーマーの親友は孤独である、だがそれは美、そして理を失っていないからこそそうなるのである
そう、快楽とは頽廃なのだ、頽廃に美が存在しないと断言することはできない、だがそれは少なくとも健全ではないであろう

さてここからようやく善の世界に入っていくわけであるが、それについては次の章で詳述しよう

ITと善

ITと善

さて前章では、ITやバーチャルから生まれるものが果たして私たちの精神にどのような影響を与えるかについて、ITに批判的な立場から自らの意見を論じた
また、新しい価値はそこに抵抗勢力がいてこそ生まれるのであり、つまり支持率100%の中からは真に新しいものは生まれないのである、その典型的な例がビートルズであり、またビートルズが活躍した1960年代は特別な時代であったとも書いた、1960年代とは直線的なものと曲線的なものが並走していた時代であり、古典と前衛がいずれも力が漲り故にお互いがお互いを刺激し合いそこから新しい価値が生まれた、確かに政治的には保守的なものと革新を目指すものとの激しい対立があったため、多くの悲劇が生まれたが、しかしそれでも1960年代とは良い時代だったのだと結論付けた

なるほど神は1960年代にも多くの犠牲を人類に強いたということなのであろう、「にも」と書いたのはそれ以前にも世界は二度の世界大戦を経験しているからである、特に二度目の大戦の末期に日本を見舞った二つの核による悲劇はいまだに世界中の人々をかの地に生まれ育った人々も含めて苦しめ続けている
ハイリスク・ハイリターンと前章では書いたが実はそう簡単には精神的に矛を収めることのできない大きな蟠りを20世紀は未来に残したのだが、しかしならば尚更のこと21世紀を生きる者たちは20世紀の先達の悲しみと教訓(驕りもあったであろう)を十分に理解したうえで理想の追求に邁進しなければならないのであろう
確かに20世紀はあまりにも犠牲者が多すぎた、ナチスのホロコーストを例に挙げる人も多いであろうが、それだけではない、ヴェトナムの悲劇は、ヒロシマ・ナガサキの悲劇に匹敵する、また1963年11月のアメリカ、ダラスの悲劇、1968年のマーチン・ルーサー・キングJr牧師の暗殺、そして1997年のダイアナ元イギリス皇太子妃のパリのおける事故死まで、20世紀とは「異」を認めない勢力がその影響力を維持するために時に最高指導者までを刃にかけるというある意味「狂」の時代でもあった、もちろん一方で宇宙の時代が始まり、1969年7月には、ライト兄弟の初飛行から僅か66年というハイスピードで人類は月面に立った、このような科学技術の飛躍的進歩(やや表現は陳腐だが)は私たち人類の未来に「この世は絶望だけではない」というメッセージを目に見える形で伝え、特に多くの子供たち(「次」を担う人々)に夢と希望を与えた、それも忘れてはならないであろう

そして21世紀である

21世紀とは「多様性の時代」であり、つまり「異」を認める時代である
「彼と私は同じではない、だから協力できる」きっとすでに誰かがそういっているであろう、20世紀は資本の追及の時代であった、そして21世紀は資本の分配の時代である、おそらく歴史は追及と分配を繰り返してきたのではあるまいか、まるで振り子のように
資本とはつまり富のことである、私たちはようやく天国に預金通帳を持っていくことはできないということに気付き始めた、だから追及がある程度の段階に達したら残りは分配に転ずる、そのようにして世界のバランスを保つのである

さてITである
この章のタイトルはITと善であるが、これには前章の最後で述べた「健全」と「美」という二つのキーワードが大きく絡んでくる、さらにそれに「多様性の時代」が加わるが、まずは「健全」と「美」つまり前章の続きから始めることとしよう
私はすでに支持率100%の中からは新しいものは生まれてこないと書いた、その代表がビートルズであり、そして彼らの音楽は当初は音楽と看做されていなかった
事実彼らの1st Albumはたった1日で録音されている、1963年1月1日である、そう、休日だったのでEMIレコードのスタジオが空いていたのだ、つまりこんなもの音楽じゃない、だから売れるはずがないと周囲の大人たちからは思われていたのだ、そのたった1日で録音された彼らの1st Albumは今も尚売れ続けている
もちろんこの2016年においてもビートルズを健全でないと評する人はいるのであろう、しかしその数百万倍の人がビートルズの価値を認めている、当初はそうではなかったのに、時間をかけてようやく保守的な大人たちからもその実力と普遍性を認められるに至ったのである、また前章でも少し触れたがビートルズの偉大な所は彼らの音楽が素晴らしかったということもあるが、同時に多くの後継者を生み出したということである、もちろん彼らがMBE勲章をエリザベス女王から叙勲されたという現実的な側面も見逃してはならないが、それでも同時代の多くの若者たちがイギリス国外の人々も含めてその後に続いたということである、このあたりのことはまた後に詳述するが、どのような偉大な人物であれ後継者なくしてその理想を完遂することはできないというその典型的な例をビートルズにまたしても象徴的に見ることができるのである
真に価値あるものは保守的な大人たちの反感をまず買う、またそのような保守的な人物の中には頑として自説を曲げようとしない者も多くいる、したがって真に価値あるものはついに100%の支持率に達することはできずにそれどころか、デビューからしばらくの間はいわゆる「冷や飯」を食わされることさえある
そして時間が、いやもっと具体的に言おう、「次」の人々がそこに真の価値があることにようやく気付き、遅ればせながらその「次」の人々に引きずられる形で大人たちもその価値を認め始める
そう、これが真に価値を持つものの健全なる成長の姿である
つまり「凄いもの」の認知にはタイムラグがあるのだ
ではなぜ、タイムラグがあるのか?
それはきっと「風」と「匂い」のせいであろう、風はときめきを運ぶ、だが新しいものの匂いは未経験というただそれだけの理由で敬遠されやすいものだ、エレキ・ギターなどはその代表例であろう、当時の人には若者も含めてそれは相当ショッキングな音と聴こえたであろう、その真の価値に気付く人は、同時代の人では30%、3年遅れで50%、5年遅れで70%、10年遅れで95~99%といった感じであろうか、そういえばビートルズもグラミー賞のレコード・オブ・ジ・イヤーは受賞していない(”Michelle”が受賞したのはソング・オブ・ジ・イヤー「作曲賞」である)、意外なことだが事実である、あの”Hey Jude”でさえ受賞を逃している、彼らがイギリス人であったことが多少影響しているのであろうが、価値あるものこそ容易には理解されないということなのであろう

ではITはどうなのか?
おそらくITはかなりの短期間で市民権を得た、確かにスティーブ・ジョブスが初めていわゆる世界初のパーソナルコンピューターを製作したのが1976年であるから、Windows 95が出るまでにはかなりの時間がかかってはいるのだが、Windows 95が発売されるまではパソコン自体がCOBOL(パソコン用言語)が必要なためそれほど流通していなかったと私は記憶している、当時は電器店でもPCよりもワープロの方に多くのスペースが割かれており、私もローマ字入力をワープロで覚えた
しかし、Windows 95が発売されてからはすべてがハイスピードで動いた、特に光ファイバーが整備されてからは動画も簡単に見られるようになり、PCは一気に普及したという感がある、また2011年頃からはスマートフォンが普及し始め、当初はバッテリーが弱かったがその点も修正され今2016年現在スマートフォンなしでは生活が成り立たないほどまでになっている
ITの支持率は贔屓目に見なくても99.9%には達している、やはりかなり早くここまで到達したという印象はある
このハイスピードを特に若い読者諸君はどのように感じているのであろうか?
瞬間的なものが瞬間的に多数派になる時代、今はそういう時代であろうか?
しかし、もしそうであるならばこのITに関しては世代間格差のようなものがほぼ存在していないということになる、老若男女おそらくは還暦を越えた者さえもがその生活の重要な部分をITに依っている、果たしてそこで「異」は認められているのであろうか?
私は思う、それほどまでに影響力のあるものであるならば、もっとエキセントリックなアプリが登場してもよいのではないのか、と
私が知る限り、例えばスマートフォンのアプリの多くは「共通」であり、「個別」的な要素を備えるものはあまり見当たらないように思える、twitterはその代表的なものであるかもしれない、皆が利用できるが故に皆が影響されてしまう
そう、ITの世界には「隙間」がないのだ、「何もしない」が許されない世界、したがって知るべきではない情報がそこにあったとしてもNoを言うことができない、これはもしかしたら「知る権利「ではなく「知りたくない権利」の侵害ではないのか?
それを知れば誰かを傷つけることになる、ならば映画のR指定のように「この情報は18歳未満の人には悪い影響を与えるかもしれませんので、ご注意下さい」というRマークのようなものがネットの世界にもあってもいいはずだが、実際にはない、おそらく「知る権利」が「知りたくない権利」を大きく上回っているのであろう
私は思う、大都市に欠けているものは「脈絡」と「隙間」である、と
だがこれはITが作り出した文化にも同じことがいえるのである
脈絡とは意志であり、隙間とは特に感受性の強い人が逃げ込むことのできる場所(セーフティースペース)である、これは風と匂いにも共通する、言ってみれば隙間とは株式市場と同じで市場への参入と退出が自由に認められている、ということである
だがITに関して私たちは自由に参入と退出を繰り返すことができているであろうか?
一度参入したら事実上簡単には退出させてもらえないということになっていないであろうか?
ITの任意的強制、それはもしかしたらそういうことであるかもしれない、表面上は任意なのだが実際にはそれに対してNoを言うことがほぼ不可能な状態(事実スマートフォン、またはタブレットがなければビジネスにかなりの影響が出るであろう)
奴隷という言葉は確かに不適切であろう、だがITに疲れを感じたとしても、容易にそこを立ち去ることは難しいであろう、本来孤独から自分を解放させてくれるはずのツールは今、それとはまったく逆の様相で私たちに迫ってきている

ITを便利であると積極的に肯定する人も多くいる、だがそういう人は参入と退出がうまくできている人なのではあるまいか、ツールはアプリも含め手段であり目的ではない、だが15歳の少年少女に同じことを私たちは期待できるであろうか?
便利なものには副作用がある、しかしこのITに関していえばその副作用は時に激しいものになるかもしれない、なぜならばITは比較的安価に利用できるからだ、おそらくスマートフォンの月額支払いが今の3倍になったら、学生を中心に多くの人がスマートフォンからかつての携帯電話に利用を切り替えるであろう
しかし実際には安価であるからこそ少年少女は行き過ぎてしまうのだ
ある程度の都市であればそこには15歳では近寄ってはいけない場所というものがある、したがってITのない時代そこに近づこうとする15歳には覚悟とまた知恵が必要であった、だがそれは今の少年少女には必要ないのである、PCが壊れてもハードディスクを交換することでそのPCは甦る、命の危険を感じるなどということは液晶の画面を見つめている限りない
安全確実な利益、しかしそういうものは実はこの世には存在しない
瞬間的に手に入るものには瞬間的な価値しかないのである
そしてそれを教えてくれるのが旅である
旅とは「風」と「匂い」、ときめきを感じるが危険な所に近寄ってはいけないし、また夜遅く出歩くことも厳禁である、君が地元の人間でないことは容易にバレるものだ、地元の人間のように振る舞えば大丈夫などとは考えないことだ
旅はリスクの向こうには必ず新しい発見があるということを教えてくれる、海外旅行ならば尚更のことである、言葉も慣習も違う所に行くというのは団体であっても緊張するものだ、しかしだからといって旅を敬遠するのでは風と匂いを知らぬままに大人になるようなものだ、果たしてそれで「行ってはいけない場所」を単独で感知するための嗅覚を鍛えることができるであろうか?
一見安全しかし実際には旅のできない大人たちを作る不健全なツール
ITの反意語は旅だ

さて旅をしなければ人間はどうなるのであろうか?
第一に美を感じることができなくなる
なぜならば美とは普遍であり、洋の東西を問わないからである、旅をすることで自然であれ人間が造ったものであれ、美しいものには国境がないということを知るのである
そしてそれがわかったら次に人間はどうするのであろうか?
そこに美があるとわかったら次に人はその土地の人を好きになるのである
一足飛びに愛だの結婚などとはいかないが、少なくともその美しい街の人を好きになろうとする、好きになれば次はどうなるのか?そのことを誰かに伝えようとするのである、確かにここではPCやスマートフォンがその威力を発揮するかもしれないが、いずれにせよこの感動を誰かと分かち合おうとするのである、だからお土産を買うのは悪いことではない、お土産は何であれ友人、そして家族と喜びを分かち合う時にやはり不可欠なものだ、お土産というとすぐに日本人を思い浮かべるが、そう思われることは決して屈辱的なことではないのである、むしろ手ぶらで帰る方が寂しいのではあるまいか
そして感動を伝えた人は次にどうするのか?
それはもう一度今度は誰か別の人とそこへ行こうとするのだ
実はこれは連帯の始まりである
そういう意味では美は信条に似ている、人を動かすのだ
旅をすることは美を感じること、美を感じることは新しい自分を発見すること、新しい自分を発見することは何かにチャレンジする勇気を持つということ、何かにチャレンジする勇気を持つということは新しい友人を作るということ
すでに善の三人の息子については書いた、それが健全であるとはいったい何が判断するのか?
感じる力である
それが美しいかどうかはいったい何が判断するのか?
感じる力である
では「健全」と「美」を感じる力を私たちはどのようにして私たちの中で育むべきなのか?
旅をすることによって育むべきである
旅の反意語は何なのか?
ITである
なぜ、そう言えるのか?
ITに夢中になっている人は下を向いているからである
では何に夢中になればよいのか?
カメラである
なぜか?
カメラを持っている人は下を向いていないからである

下を見ていることは悪い事なのか?
悪いことである
なぜか?
そこには善がないからだ
なぜそう言えるのか?
以下それについて述べる

善の三人の息子とは長男から順に「感じる力」、「信じる力」そして「考える力」である、そして善を習得するにはこの順番を違えてはならない、善の筆頭は「命を育む」であり、それは感じる力のなせる業である、もしここで考える力が筆頭に来てしまうと数値化された情報が優先されることになり、それは「共通」を押し上げ、「個別」を衰退させてしまう、だがそれは多様性の否定であり、最終的には健常者だけに開かれた未来を作ることになってしまう、なぜならば多様性が退くと効率性が頭をもたげてくるからだ、これでは20世紀と何も変わらないということになってしまう
また数値化された情報とは幸福の天敵である比較の材料にまず使われてしまう、これは由々しき問題である、そもそも私がこの書でしばしば強調している「負の肯定」とは第一義的には「個の幸福のために」ということである、もし成功を人生の最重要項目と捉えるのであれば負の肯定はあり得ない、また比較の否定もあり得ない、人生とは直線であり、上へ行ける者はためらいを学ぶべきではなく、また人生とは螺旋階段のようなものだから同じことを繰り返しているようでも少しずつ上へあがって行っているのだと自分の日々の努力を認識すればよいということになる
だがこのような考え方をした場合、上へ行けない者はどうなるのか?または上へ行けたがさらに上へ行った他の者が多くいる場合はどうなるのか?
これは比較の問題である
人生で幸福を優先させるのであればこういうことになる

成功して奴らを見返すのではなく、幸福になって彼らを忘れる

確かに成功とは未来の問題であるのかもしれない、そして幸福とは現在の問題であるのかもしれない、未来を志向するが故に成功を知ろうとする
だが私は思う、多様性の肯定とは自分の人生の決定権を自分に取り戻すための精神の運動のことであると
どうして他人に自分の人生の点数を決められなければならないのか?

さてここでひとつやや極端とも受け取られかねない私論の展開をお許し願いたい
ITとは何であるか?
私は思う、ITとは「拡散」であると
そう、私の思考の中ではこの一語に尽きるのである
「拡散」
私にすれば恐ろしい響きの言葉だ、時にファシズムを連想させることもある(極端な私論とすでに断っている)
私は善は拡散しないと考えている、拡散するのは悪だけだ、善は拡散せず沈殿する、だから私たちには沈殿するもの、たとえば文学のようなものが必要なのだ
神はしばしば遅刻するなどという格言めいた言葉を私たちはすでに何度か耳にしているはずだ、悪魔の方がいつも素早く動く
その通りである
善は沈殿するため、内省的なものであり故に機敏ではない、逆に悪は拡散するものであるがために、云わば「悪事千里を走る」となるのである
人間は根本的に知恵の扱い方を間違えている、だがこれは私に言わせればまさに神の思し召しである、なぜか?
負を経験させるためである
人生とは曲線であり渦を巻くようにして進む、そしてゴールは端にあるのではなく真ん中にある
なぜ、そうなっているのか?
負を経験するためだ
何のために?
神の理想を実現するために
なぜ神の理想を実現するために負の経験が必要なのか?
神の理想を実現するためには多くの時間が必要であるからだ
なぜ多くの時間が必要なのか?
人間に多くの失敗を経験させるためだ
なぜ多くの失敗を経験させなければならないのか?
それは神が人間を長い時間をかけて理想的な状態に導いていくためにである
短い時間では駄目なのか?
駄目である
なぜか?
人間の中から神になろうとするものが現れるからである
人間は神になれないのか?
この世で権威を持つものは神だけである、したがって人間は神にはなれない、また神の代理人にもなれない
では人間はいつ自らの過ちに気付くのか?
わからない、ただかなり先である、今神は人間を見つめている、なぜならば人間だけは特別に造ったからだ、それは神の理想を実現するために人間にその協力をさせようと思ったからだ、ただそのためには人間自らが悟る必要がある、そのためには多くの負が必要なのだ、人間が神の意志を悟った時、変化は訪れる、それは最後の審判ではない、神は人間を隔てることはしない、だがおそらくその時だけ神は沈黙を破る

さて善とは何か?
人間の権威を認めない「個別」の徳の実践である、善の多くは個の徳性に依る
では悪とは何か?
人間の権威を認めることである、悪の多くは絶対者の思考(時に恣意的)の拡散による

翻ってITとは何か?
ITとは「共通」である
「共通」とは何か?
「個性的」の逆、単純なものであり拡散可能なものである、故に成功のためのメソッドになりうるものである
もう、これ以上ここで述べる必要はあるまい
幸福を望むのか、それとも成功を望むのか?
「拡散」は這う
「沈殿」は重なる
悪とは恐ろしいものだ、なぜならば悪に傾くことによって痛みが生じることはないからだ、知恵からは嘘が生じるが悪からは何も生じない、ただ人間が不完全であることが実証されるだけだ

偶然にもミレニアムの世紀である、こういう時には何か象徴的なことが起きそうな気がするが、そういう意味では私たちは今こそ試されているのかもしれない

悲劇が語るもの

悲劇が語るもの

さて前章においてはITをそれは善なるものであるかどうかについて論じた
新しい価値を持つものはどのようなものであれ容易には周囲の大人たちからは理解されず、したがって「凄いもの」はすべて認められるまで多くの時間がかかる、つまりそこにはタイムラグがあると書いた
また21世紀は多様性の時代であり、20世紀の効率性の時代とは逆であり、故に「異」を認める時代である、果たしてITは「異」を認めるであろうかと書いた
またITと善の関係に絡み「健全」と「美」をキーワードに論を連ねた、ITの反意語は旅であり、ITとは旅のできない大人たちを作る不健全なツールであると結論付けた、そしてITでは「共通」が「個別」に勝っており故に99.9%を超える支持率があるのであろうと書いた、だが支持率100%の中からは新しい価値を持つものは生まれてこないのであり、またハイスピードで拡散していったITから善を導きだすのも容易ではあるまい、なぜならば拡散していくのは悪であり、善は沈殿していくものであるからだ、ITには隙間がなくしたがって多様性を担保できない、これは幸福を望むかそれとも成功を望むかという個人の資質にも関わってくる問題ではあるが、しかし善に必要な「負の肯定」がITにはない、なぜならばITには抵抗勢力が欠如しているからだ
私がなぜ斯様にITに対して批判的であるのか怪訝に思う読者もいるであろうが、この点については取りあえずここでいったん筆を置き次に話を進めたいと思う

私はすでに21世紀は「多様性の時代」であると繰り返しこの書で述べている、それは20世紀という時代を振り返った場合、そこに横たわる悲劇の多さと大きさに愕然とするからであって、そのような時代を繰り返してはならないという意味で効率性の対象の概念として多様性を強調しているのである
だがそれにしても人間の歴史はあまりにも多くの悲劇に覆い尽くされている、私は「負の肯定」を論じている以上、また有神論者でもあるため、神がなぜこれほどまでの犠牲を人類に強いるのかについてやはりここで明確な自分の意見というものを可能な限り詳細に論じざるを得ない

なぜ神は人類を悲劇から解放しようとしないのか?
人間に知恵を与えたのは他ならぬ神自身であるにもかかわらず

これは人類にとっての永遠の課題であろうか、いずれにせよ神は犠牲の先に何らかの理想のその糧となるようなインスピレーションの存在を人類に沈黙のうちに教えようとしているように思えてならない
人間の最大の特徴、即ち人間にだけ備わっている美徳は弔いをするということである、確かに時にそれが報復につながったりすることはある、人間は恨みを抱く動物であり、人間の内面の奥深く漂うそのような暗い部分を完全否定することはできないであろう、だが同時に人間は弔いの中から何かを学ぶ動物でもある、旅立った者たちを思う時、誰でも彼らが残していったものの中から教訓を学んだりまたは死者に対して一定の憐憫を覚えたりするはずだ
死というものはすべて厳粛なものであり、また死者を埋葬するということは争いや軋轢を超えた命の尊さを知る限られた瞬間であるということを確認するその人間としての当然の感情の結果の行為としてすべての人間にそれは認識されているのである
そしてここが大切なのだがどのような人間であれ死を身近に感じる時、必ずや神を思う
神、そう、絶対者のことを思うのである
ある人にとって死とは永遠の入り口なのであろう、またある人にとっては死とはすべての終わりなのであろう、だが私は思う、死とは肉体を神により与えられた人間が死後真の幸福に辿り着くために支払うべき代償を支払い終わった後そのもう一つの世界に向かうためのその分岐点であるのだと
生とは尊いものだ、
だが同時に人間の生の世界とはあまりにも悲しいものだ、私はこのような悲しい世界が人生のすべてであっていいはずがないと思う、不思議なことに人生の辛ささえなければこの世は美しすぎる世界なのである、確かに夕暮れは一日の疲れを癒してくれる、また星座のきらめきは日常の苦悩に捉われすぎてはいけないということを教えてくれる、潮騒は地球の鼓動の表層現象であり故に自分が一人ぼっちの存在ではないということを教えてくれる、そして朝焼けはこの地球という惑星が一度もこの惑星の住人を裏切ったことがないということを、暑さも寒さも永遠ではないということを告げている、もし死がこの世になかったら私たちはこの美しい大地の風景の中にいったい何を見出すことができるのであろうか?

私は思う、この世に実は永遠の別れなどはないのではないかと、私たちはいつか必ず故郷へ帰る、死とはそのための、つまり死後愛する者たちと再び出会うために神が用意した生を諦めきれない者たちへの最終切符、だがこの世に悲劇がなければ弔いを忘れた人間たちは死を厳粛なものと受け止めることをしなくなるであろう、だがそれは神の意志に反するのである、神は残酷ではない、ではなぜこの世にはかくも多くの悲劇に覆われているのであろうか?
それはきっと神が沈黙の中にこそ潜む神自身のメッセージをどんなに時間がかかってもよいから人間に伝えるためであろう、創造主が自ら創造した命というものを粗末に扱うはずがない、もしそのような霊的な存在に悪意があると仮定した場合果たしてその霊的な存在はこれほどまでに美しい世界を創造できるであろうか?

もし神に悪意があるのであればこの世はもっと混沌としているはずだ、一部の神に選ばれた人間には死は訪れず、また神の悪意により生まれた命はもっと短い一生を終えるはずだ、だが実際には死は成功した者にも平等に訪れる、どんなに偉大であっても神から特別な恩恵を与えられることにはならない、それは神が恵まれた人生を歩む者もそうでない人生を歩む者もその両方に両者が必ず納得のいく最終到達点を用意しているからに他ならない、つまり結果はすでに誕生の瞬間に定められているのであろう、すべては神のもと平等である、だから過程が重要になる
彼が、彼女がどのように生きるのか、量ではない、質である
多くの犠牲を払った心優しき人間にこそ神により与えられた特別な責務がある、神はそのような人々にこそ悲劇が語る価値ある言葉をそれに気付かずにいる多くの人々に伝えてほしいと願っているのである
順風満帆の時に人は神を思うことをしない、だからこそ悲劇という形ではあるが誰かが神のうちにある価値ある言葉(きっとそこに神の本質がある)を長い旅路の果てに見つけ出し、そして命というものが何であるか、死というものが何であるかそこに思いを馳せてほしい、そう神は考えているのである
理想とはそれ自体は天を思わせる崇高なものだが、一方で理想を追求する人が講じるべき手段とはそれとは対照的な印象を与えるものだ、天高く聳える理想と、そのための地を這うような血と、汗と、涙しかない鍛錬の日々、万物は対象を求める、ならば夥しい悲劇の数々は神の理想の高さを実は同時に証明しているのではあるまいか?
私たちはあまり楽観的に考えるべきではないがしかし悲観的に考えすぎるべきでもない、美とは理に適っているものだ
この世は美しくないのか?
ならば神は美しくないのか?
では、美の最終到達点はどこか?
それは幸福である

ならばもう一つ尋ねよう、亡き人を想い流す涙は美しくないのか?
死とはいずれにせよ悲しいものだ、だが人間が遭遇するすべてのものの中でもっとも真実に近い瞬間こそが死の時を知るその刹那である
悲劇こそが価値ある言葉を告げる
ここに神の沈黙の真の意図が隠されている、神は人間に知恵を与えた、感情を与えた、また信じる力を与えた、そして魂を与えた
死とは魂により斟酌されるべきものだ

かけがえのないもの、それは生よりはむしろ死である、だから死を、その言葉でさえ軽々しく扱ってはいけないのである

最後に死を知ることは神を知ることである

なぜ人間は特別なのか?

なぜ人間は特別なのか?

さて前章では、あまりにも悲劇に覆われすぎている人類史を顧み、なぜ神は斯様に残酷な仕打ちを人間に見舞うのかについて論じた、そして神は沈黙しているからこそ悲劇を通して人間に重要なメッセージを伝えようとしていると書いた、なぜならば順風満帆の時には人間は神を思わないからであると
そのように考えると悲劇こそが価値ある言葉を告げるのであり、したがって私たちは死をあまり悲観的に考えてはいけない、死の時こそ神の時であると、ただしそこには善の概念が必要である、なぜならば神には悪意がないからだ
おおよそそのようなことを前章では書いたが、この章では、ではなぜ神が人間を、いや人間だけを特別に造ったのかについて論じたい

神には悪意がないということはすでに書いた、神に悪意があると考えるにはこの世はあまりにも美しすぎるのである
さらに言えばこの世で醜い行いをしているのは人間だけである、したがって人間だけは神の失敗作であると考える人も多数おられるのであろうが私はそうは思わない、神は人間だけは特別に造った、そしてわざと人間だけは不完全に造った
なぜか?
これを私たちは時間をかけて考える必要があるのだ

私はかつてこう考えていた、この世は人間がいなくても十分成立すると
したがって人間はもっと世界に対して控えめにしておくべきであると、人間はこの世の添え物にすぎない、つまりこの世の主役では決してあり得ない、それなのに人間がいかにもこの世の主人であるかのように振る舞うのはこの世の創造主に対して甚だ失礼千万ではないのかと
今でもこのような考えがまったくないわけではない、理想成就へのあまりにも長い道のりを思う時、確かに気の遠くなるような瞬間に襲われることはある、だが私は思う、この世に不必要なものなど何一つないのであると、神はすべてを創り、すべてを救う、そこに例外はない、ニュートリノから太陽のような恒星に至るまで神は必要なものだけを創った、神に「戯れ」はない
そして人間である
ならばなぜ人間だけはわざと不完全に造ったのか?
それは時間をかけるためである
事実この世に多くの動物、哺乳類が存在する中で人間が最も長生きをする、かつてはそうでもなかったかもしれないが19世紀以降はそうである
なぜ不完全な人間が長生きをするような現実を神は放置しているのか?
それはそれが神の意に沿っているからだ
人生は直線ではなく渦巻き状の時間によってできている、したがって終わりは端にあるのではなく真ん中にある、私たちは渦を巻くようにそしてゴールを常に見据えながらゆっくりと前進していく、なぜ直線的にではなく、明らかに非効率的な渦を巻くようにして前進するのか?
それは人間に多くの負を経験させるためにである、神は知的生命体を必要とした時、そこに多くの犠牲が必要であるとわかっていた、なぜならば神自身が天地創造の際に多くを犠牲にしたからだ、したがって知的生命体の歴史というものは悲しみに覆われた複雑かつ負の印象の強いものになるであろうと、だが神には理想があった、そのためには人間のような存在がどうしても必要であったのだ、そして人間に神の理想の一部を担わせる、だが短期間にそれを成就できるように人間を設計してしまうと人間の中から神になろうとするものが出てくるに違いない、それではこの世の秩序が乱されてしまう可能性があるのである
神は人間、つまりホモサピエンスだけを知的生命体たちとして創造したわけではない、多くの知的生命体を創造した、そしてそれぞれにそれぞれの役割を与えた、しかしそこには限界があった、知的生命体が決して神になろうとはしないようにしなければならなかったのだ、故に神は知的生命体をわざと不完全に造った(おそらくホモサピエンスだけではあるまい)、そうすることによって神になろうとする知的生命体が出てきても必ず失敗するように仕向けることができた、そしてそのことによって神は絶対的秩序の中で理想成就のための作業に勤しむことができたのである

もちろん、神の理想というものがどのようなものであるかをここで十分に推し量るということはできない、だが神の悪意を想像できない以上、それは善に根差したものであると推測できる、そしてもうひとつ考慮しなければならないのはそこへ辿り着くまでには途方もない時間が必要であるということだ、神が人類の進化というものをどのように計算していたかは知る由もないが、おそらく神にとって想定外の出来事というものは一度も起きていないのではないだろうか、なぜならば僭越ながら神もまた「負の肯定」を行っているからである
私はすでに二神論を主張している、この世に神は二人いる、その二人の神はお互いに相異なる役割を負っている、そしてその二人の神はお互いがお互いの対象となりまるで綱引きをするかのように、一方が押すときはもう一方が引く、また一方が引くときにはもう一方が押す、というように争うことなく互いに日々(今現在も)天地創造に勤しんでいる、そして宇宙も少なくとも二つあり、片方が膨張している間はもう片方は収縮する、そしてそれが限界まで達すると逆転現象が起き、膨張していた方が収縮に向かい、収縮しゼロになった方が一転膨張に向かう
つまりこの世の真理は「相異なる性質を担った二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動である」ということになる
このような考えは「万物は対象を求める」ということを理解した時に訪れる
この世に単体で存在しているものなどはなく、つまり人間もまたそうである、では人間、つまり「私」の対象は何か?
それが「神」である、故に特定の宗教に帰依しているわけでもないのに私は有神論者となるのである
存在するものはすべて二つでひとつである、神が存在するのであれば神もまた二人でひとつである

また神が二人であるという考えにはもう一つ別の根拠もある、神が一人であるとするとその神はどうしても男性的なものになってしまう
この世は合理的であるが故に不平等になっているわけであるが、しかし実際には男と女の二つの種類の人間が存在する、そのように考えると「私」の対象である神が一人だけであり、そしてそれが男性であると考えるとそこに齟齬が生じるであろう、女性もまた神の創造物であるはずなのに神はそこを考慮していないのか、または神は女性を男性より一段下に造ったのかということにもなる
だが実際にはそうではない、なぜならば女性は子を産むからである、妊娠、そして出産という過程は言うまでもなく渦を巻くが如き人生のその縮図である、つまり渦を巻くように人生が進行するとは一周するとほぼ同じところに戻ってくるということだ、生まれた個である自分(子を産むのは女性だが子を授かるには男性の協力が必要である)が一周して今度は出産という形でほぼ同じところを通過するというわけである、そしてそれが繰り返される、もし人生が直線的であるならば、人生に繰り返しはないということになるのだ、それでは現実と符合していないことになる
人生は直線ではなく曲線である、曲線であるということは、繰り返すということであり、負を経験するということであり、そして時間をかけて進行するということである、さらにいえば曲線であるとは量でなく質であるということである、直線であればいわゆる右肩上がりということも想定されるが、渦巻きであればそのような考え方には至らないであろう、だが渦巻きであるからこそ想定できる体系というものもある、多様性である、果たして直線は多様性を肯定しているであろうか?

実はこのことはこの21世紀において重要な意味を持っていると私は考えている、20世紀は効率性の時代であった、故に人類は二度の大戦を経験しながらも月にまで到達することができた、だが21世紀はその逆、つまり多様性の時代ではなかろうか、偶然にもミレニアムの世紀である、しかしそのような時にこそ何か新しい風が吹き始めるのではなかろうか
渦を巻くといってまず思い浮かぶのは銀河である、なぜ銀河は渦を巻いているのであろうか?ここに神の意思は働いていないであろうか?
おそらくここでのキーワードは「時間」であろう、この世に終わりがあるかどうかはわからないが、しかし永遠を思わせる時の流れが銀河にはある、神は「有」を「無」から切り離すとき、つまり天地創造の最初の段階おいてすでに膨大なる時間の計算に成功していたのではあるまいか、そのように考えれば神がなぜこの世の被創造物にかくも犠牲を強いるのかもおおよそ合点がいくというものだ、「誕生」はその瞬間から「終焉」という運命を背負うことになる、ベテルギウスのような巨大な惑星でさえそうなのだ、この世の全責任を負うべき立場にある神は「終焉」の後にこう続かせることでその責任を全うしようとした
それは「再生」である

「誕生」、「終焉」そして「再生」

ただ私たち人類が知ることのできるのは最初の二つのみである、それは神の時と並ぶもう一つの約束事のせいであろう

神の法

神の法

ホモサピエンスの脳が果たして神の法をどれほど解明することができるのかは私にはわからない、宇宙が二つあるのであればホモサピエンスが万が一神の御業のその本質に迫ることができたとしても実はそれは全体の半分でしかないということになる、また私たちの暮らす地球が属するこの天の川銀河が属する宇宙ももしかしたら無数に細分化された宇宙の一部に過ぎないのかもしれない
僭越ながら天才科学者の洞察といえども神の想定を上回るものであるとは考えにくいかもしれない、なぜならば人生はあまりにも短いからだ、10万光年を費やしたとしても私たちはこの天の川銀河の出口までしか行けないのである、もし神の法を人間が知ることができるのであれば、その時人間は人の生き死にまでも自由に制御できるようになるということなのであろう、だがそれで人間はより人間らしくなれるのであろうか?
おそらくはこういうことなのであろう

人間の知性は然るべき人間の理性を超えてはいけない

私はすでに幸福の天敵は比較であると書いた、では選別はどうか、選別は人間の幸福にとっていかなる意味を持つのであろうか?
ここで人類に求められるのはより強い理性としばしの沈黙である、より望ましい未来のためにAを選別し、Bを排除した、常識の通用する範囲内ではしばしば見受けられるこのような現象はしかしいつか箍が外れ、ある特定層の利害を代弁する一部の天才たちの手によって人類を迷いの中に引きずり込むかもしれない、種の選別などはまさにその一例であろう
果たして近い将来、最先端の医学によって生まれ来る子の肌の色までコントロールすることができるようになるのであろうか?
しかし「多様性の時代」を強調することで、悲劇的な状況においても重要なのは「優劣ではなく相違である」と主張することができるようになるのかもしれない、そしてそれは人間の健全な成長に明らかに資するのである
量ではなく質、直線ではなく曲線
手の届くところに褒美があるとしてしかしそれを自分には相応しくないと考えることによるある種の引き際の美学、だがそれは公平、平等を重んじることの裏返しではあるまいか?
格差とは比較のことである、だが比較とは優劣のことではない、運不運のことである、したがってそこに勝ち負けがあってはいけないのではあるまいか?

理性による力の望ましい分散(時に少し無理をしてでも)

これがこの章のとりあえずの結論であろうか、神は人間を特別に造った、しかもわざと不完全に造った、この神の作為の裏側を読もうとする人間の行為は果たして善と認識されるべきであろうか?
ただ一つだけ言えることは、どのような人間であれ全権委任を望むことを自他いずれにおいても認められることは決してあるべきではないということである

神様、なぜ私なの?

神様、なぜ私なの?

さて前章では神がなぜ人間を創ったのかについて論じた、神は人間を特別に造った、それは人間に神の理想の実現のための一翼を担わせるためだ、だが神は同時に人間をわざと不完全に造った、それは人間の中から神になろうとする者が現れないようにするためだ、したがって神になろうとする者が現れてもその試みは失敗するであろう、なぜならば神はそのように人間を設計しているからだ
また知性は理性の下に置かれるべきだとも書いた、21世紀とは多様性の時代であり、故に「優劣」ではなく「相違」が尊ばれるべきである、そのように考えると、それができるのだとしても過度な上昇(飛躍)を自分の人生に期待するのはいかがなものか、つまりこれからはある種引き際の美学のようなものも必要になるのではあるまいか?
理性的なより(神の)理想に近い世界の構築のために
おおよそそのようなことを書いた

さてこの章では、前章で書いたことを踏まえて神が人間を設計するときに間違いなく考慮したであろうことを書き連ねようと思う、以下記す内容はすでに私が述べた諸々のことに関連することであり、すでに記した内容を幾分かでも反芻しながら読み進んでいただけると有り難い
では本論に入ろう

私たち人類(ホモサピエンス)はネアンデルタール人などのライヴァルとの生存競争に勝ち抜きこの地球という惑星内での絶対的優位の立場を確立した、故に私たちはこの21世紀という現在、この惑星内において神が創り給うたものたちの頂点に君臨し、従わせることはあっても従うことのない日々を享受している
人間として生まれた者はその辛い日々の連続であるにもかかわらずその多くがもう一度生まれることがあるのであればやはり人間として生まれたいと思い、また天国に何を持っていけるのかまったくわからないにもかかわらず日々自分のこだわりの実現や何かの積み重ねに勤しんでいる、すべての人間にとってではないのであろうがしかし多くの人間にとって人生とは愛すべきものであり、また罪人として一時獄につながれ、憐れむべき余生を送る羽目になったとしても可能ならば更生したいと考えている者も多くいるであろうことは容易に想像できる、確かに人生のすべてを諦めざるを得ないような状況に追い込まれているものも多くいるのであろうが、それでもそのような現実を何とかしたいと考えている善意の徒もまた数多くいることも事実であろう
ではこのような宿命から決して逃れられないような数多くの不運、そして不自由な人生に神はどのようなメッセージを込めたのであろうか?

私たちは日常においてしばしば神に選ばれたというような表現を使う、この言葉は主に天賦の才に恵まれたような人に対して使うのが常道であるがしかし時にきわめて不運な状況下に生を受けかつ生きる人に対しても用いることがある
たとえばヘレン・ケラーはこの範疇に入らないであろうか?
視覚、聴覚、嗅覚、声を出すことができる能力、手足を自由に使えるということ、また極端に背が低いというわけではないということ、髪や肌の色が他人と明らかに違っているわけではないということ、このような能力や、自ら選択できない
つまり天により定められた個の条件は私たちの中に「ふつう」という概念を生じさせている、そして現実を眺めればそのような「ふつう」の範疇に入らないような人も多くいるのであり、そのような人々は言ってみれば「異」の存在として少なくとも無邪気な人々には「負」の印象で認識されることが多い
人と違っていることはそれが天賦の才と世に広く認められる場合を除いて悪いことであると受け止められるのであり、そのような人々は明らかに少数派と位置付けることができる、たとえば「異端児」という言葉があるがこの言葉を肯定的に扱う人はおそらく芸術の世界に生きるかまたは芸術の世界に携わっている人たちに限定することができるであろう、常識的に考えれば異端児とは極端な人のことであり、友人とするには相応しくない人のことである、つまり「異」とは「負」であり、ただそれだけで社会の中央を歩む人としては好ましくないということになる
だが果たして私たちはこれから先もそのような世間一般の常識に捉われながら生きていくべきなのであろうか?

20世紀とはマテリアルの時代であった、では21世紀は?
21世紀とは情報の時代である
マテリアルは重厚長大である、情報は軽薄短小である、
またマテリアルは軍隊である、情報は市民社会である
そしてマテリアルは優劣である、情報は相違である

20世紀はそれを入手することによって事は始まった、21世紀はそれを知ることによって事が始まる
「知る」とは何か?
おそらくそれは理想を追求するではなく、現実に備えるということであろう、なぜならば知ることによって見えてくるのは多くの場合人間の美しさではなく醜さであるからだ、情報はそれが増えれば増えるほどそれを知ることができる立場にある人の恐れを増大させる、インスタントな情報にはインスタントな価値しかなくそれはまるで週刊誌のように読み捨てられていく、だが負の記憶というものは容易に脳裏から去ってはいかずそれどころか長く停滞し似た現象が起こるたびに彼方にあった記憶が再生され新しい価値の創造に結びつかない負だけが積み重なっていく、やがて人は二十代の若者でさえ鬱の症状を訴えるようになり、不眠と性欲の著しい減退が彼の精神から次第に善を奪っていく
この2016年、もうすでにこのような現象は多く散見されるであろう、「知る」は「異」を排除し、「負の肯定」を意味のないものにしてしまう、マテリアルは「物」であるが故に拡散することがなく、人から人へといわばHand to handで引き継がれていく、たとえばギターやレコード、またはもう絶版になった古い書籍、カメラ、腕時計、オーディオ機器、それに車やオートバイなどがその良い例となるであろう、「昔はよかった」というわけではないが、1970~80年代には物の移動が人と人とのコミュニケーションを育んできた、ギターを弾く人はエリック・クラプトンの話をした、車が好きな人はポルシェ911の話をした、物は情報と異なり必ずしも拡散しない、そしてそこにこだわりが存在すれば悪意ではなく生産的でクリエイティヴな会話が人と人とをつなぐ、物はそこに思いが加われば姿形を変える、ほんとうに良い物は少数であるため情報のように拡散することはなくそれどころかそこに滞在したまま正の、つまり感動を呼ぶこともある、たとえばアイルトン・セナが操縦したマクラーレン・ホンダMP4/4、今マクラーレン博物館にあるこのレーシングカーは彼がすでに亡くなっていることもあり、私たちに有益な何かを告げないだろうか?

善は拡散しないということはすでに書いた、したがって知る必要のない情報だけが拡散していく
「知らなければよかった」というのは現時点ですでに言い訳として通用しない、恐ろしいのは自分(個人)に利益をもたらすものは、20世紀は必ずリスクを伴っていたのに21世紀はそうなっていないことだ、何らリスクを冒すことなくお望みのものが手に入る、これは便利で喜ぶべきことではなく視界の効かない戦慄すべきことであると認識されるべきだ、人間は性善説により判断されるような動物ではない、不完全であるが故に衝動的に行動し、不完全であるが故に豹変する、「知る」は「異」を擁護しない、「異」を擁護するのは「負の肯定」である、そして負の肯定とは多様性の尊重ということである、これは「知る」とは無関係に進行する、そして「異」を「是」とするとき初めて神が現れる

神は貴殿を選んだのだ

異を抱える人とは負に苦しむ人のことであろう、だがそれを「是」とすればそこにあるのは「普遍」である
ただ残念ながらこれは容易には人類共通の価値とはなりえない、人間とはそれほどまでに不完全であり、短絡的に行動し、また自らを省みることをしない、ただ選ばれたる者は煉瓦を一つずつ積み上げていくが如く「異」を「是」とすることの価値を分かっているつまり「善を知る人」を少しずつ増やしていく努力を重ねることしかできないのである
21世紀は多様性の時代である、だがきっと歴史はそれとは逆の動きを活発化させるであろう、そしてそれは神が巧妙に仕組んだある種の罠(トラップ)
確実に手の届くところにある褒美(時に巨大)を神の理想を奉じるが故に辞退する

「そうすることが誰かを傷つけることになるとは知らなかった」
言葉が拳よりも重く鋭角であることはスパルタの時代においてすでに確認されていることである、もし言葉がそれほどまでに人類にとって重要な価値を持つものでないのだとしたら戦争もない代わりに文明の発展もなかったであろう
では神に選ばれた者はまずどうするのか?
この問いの答えに思い当たるところのない人は選に漏れたが故に救われた人であるのかもしれない、神は人を選ぶ、だが贔屓はしない、神は人間が神の理想に適うことがついには人類の幸福につながることを唯一確信している人である、したがって神により選ばれた人とは「沈黙」を知る人のことである
神はなぜその人にこの世の負の象徴を担わせたのか?
果たしてそれは偶然という言葉だけで片づけることのできることなのであろうか?

私の周りには私を含めておおよそ百人の人がいた、そして私の行く手には一つの門があった
一人ずつ順番にその門をくぐった、衛兵はいった
「次の人、通りなさい」
その言葉が99回繰り返され、ようやく私の番が来た
私は自分が百番目に門を通過する人になるのだと確信していた
だが私がその門をくぐることはなかった
私が通過する直前その門は閉ざされたのだ
だがそれ以上に衝撃的だったのは私の次の人が私と同じ扱いではなかったことだ

私だけが外されたのだ

ここに多くの人が神の悪意を認めることは可能であると思う、だがその一方でこうも想像することができる
神はその人、ただその人だけを選ぶ

神様、なぜ私なの?

幸福のうちにいる人にこのような言葉は聞かれないであろう、故に真の幸福とは何か、を私たちはこの想定の中に問うことになる
神を思う幸福
神を思わざる幸福
神を思う幸福は幸福とは何かを自らに問い、神を思わざる幸福は比較による自らの地位に思いを馳せる
神はなぜ悲劇による犠牲を人間にしばしば強いるのか?
それは沈黙を是とする神が人に神を思い起こさせるためである
神は沈黙を守り続けたまま人に神を思い起こさせるためにこそ人に知恵を与えた、知恵は一方では神から人間への特別なプレゼントであるが、また一方では人間を創造したにもかかわらずこの世の万事において沈黙を守ることを自らに課した神の苦肉の策でもある、神は人間の誰よりも自らの発するシグナルは喜びの渦中にある人間には決して届かないのだということを最もよく認識している人である、だから敢えて人間を不平等に造ったのだ、「負」を知る者に神の言葉を間接的にではあっても代弁させるために
人間の社会において「異」とは「負」である、したがって「異」は成功者とはなりえない、「異」は街に入ることを許されずまるで異教徒のように時に粗末な扱いを受ける、これは実に重要な問題である、おそらく私はそれを語るに相応しい人間ではないであろう、だがそれでも論を進めるのであれば神は実は正統とされているものをこそ認めず異端とされているものにこそ望みをかけるのである、なぜならば神の理想の実現にはあまりにも多くの時間がかかるからであり、そのためには容易に世に認められない異端にこそ神の理想とする漸進が期待できるからである

私はすでに書いた、帰郷の日は近い、と
だがそれでもその最初の日までにはあと百年はかかるであろう、いや、もっとかもしれない、今群衆は神の理想とは真逆の方向にしかも喜々としてその歩みを速めている、便利であることは良いことである、情報は増えれば増えるほど生活を豊かにする、削ることは即マイナスであり、豊かさとはイコール幸福である、不思議なのはダイエットがこれほどまでに流行しているにもかかわらず、多くの人が肉食を制限しないことだ、もちろんヨーロッパなどではベジタリアンが増えているのかもしれないが、我が国日本ではベジタリアンが急増しているという話は聞いたことがない、煙草を吸わない人が急速に増えているのは事実だ、だが食の喜びにクールになることは豊かさイコール幸福に反していると看做されているのであろう、それとも情報の氾濫にただ踊らされているだけなのか?
もし自分が「何が好きで何をやりたいのか」が明確にわかっているのであれば、人はおそらく食にクールになる、寝食を忘れて没頭できるものがもたらす喜びは特に若者にはその精神の成長という点において実に譲れない価値がある、また自分が「何が好きで何をやりたいのか」が明確にわかっている者たちこそが「新しい価値の創造」に成功できるのであり、すでに何度も述べているように「新しい価値の創造」によってこそ「次」の人々、つまりこれから生まれてくる人々の歩むべき道が開かれるのでる

新しい価値の創造=未来人の幸福、である

この世に存在する人はすべて誰かの、そして何かの後継者であり故にこれから生まれてくる人々に対して潜在的な責任を負う、ならばそこにある種の「抑制」が当然の如く働かなければならないのではあるまいか?

今時代は明らかにアクセルである、やがて人類は火星にまで到達するであろう、無邪気な人はこう言うであろう
夢こそが私たちを幸福へと導く
だが果たしてそこに弱者や障害者は含まれているのであろうか?火星旅行とはつまり健常者の夢でしかないのではあるまいか?ならばそれは21世紀の夢としては失格である、21世紀の夢は弱者や障害者を含めたものでなければならない、なぜならばもはや健常者だけの夢では新しい価値の創造につながらないからだ、健常者だけの夢はすでに20世紀までに実現され尽くしている、だから効率性から多様性への価値のシフトチェンジが必要なのだ

神様なぜ私なの?

この言葉に心当たりのある人こそ21世紀を生きるに相応しい人である、貴殿の言葉が評価されるのは残念ながら22世紀になってからであろうが、しかし貴殿は言ってみれば少し早く生まれてきた人々なのだ、22世紀を生きる人々のためのいわゆる地ならしをするために
貴殿が旅経つ頃にはもう22世紀が近いであろう、そこにもまた私たちと同様幸福になるために必死に生きるに違いない人々が数多く待っている、いってみれば貴殿はその水先案内人、その成果を見届けることはないかもしれないが、21世紀の人々は貴殿に感謝しなくても22世紀の人々が貴殿に感謝するであろう
貴殿はすでに未来人である


さてようやくこの書も前半を終えようとしている、諸君、よくぞここまで私についてきてくれた、心よりの感謝を申し上げる
さらにこれまでと同じほどの行程が後半として待ち受けているがなにとぞもうしばらく辛抱の上私にお付き合い願いたい、そして完読の上は私とともにどこか任意の場所に集まってともに祝杯をあげよう、もちろん私が自費で諸君らを招待する、もはや諸君らは私の客人ではない、友人である

ではここでしばらくのインターミッションとしよう、しばし休憩をとってくれ給え

前半終了

前半のまとめ

曇天の日には収穫が多い 後半


前半のまとめ

さてこの書もようやく後半に突入である、前半同様、私論が続くわけであるが前半のキーワードが「負の肯定」であったとするならば後半のキーワードは「究極の善」である、この二つは対照的な性格を持ちながらもお互いがお互いを補完し合いながら構築される
いってみればこの私論の陰と陽ともいうべき概念であり、また理想が理想足るうえで欠かせない動的な部分と静的な部分との並走を実現するうえでもお互いがお互いの見事な対象となりこの書の根幹を支えているのである
この世のすべては二つで一つであり、ひとつの概念のみで構成される論などは直線的ないわゆる弾力性のない一方通行のメッセージであり、短期的には効果を上げることが考えられるがおおよそ普遍とは縁遠いものである、したがってこの後半においては前半においてすでに書いたものを後半において展開する論のその対象として強く意識しながら筆を進めることとなる、であるからこそここで前半のまとめを後半への入り口としてあまり長文とならない範囲内で記しておきたい

だがその前に前章、つまり前半の最終章のまとめを簡単に行っておかなければならないであろう

前章では「異」を考えることによってそこから「負の肯定」による新しい時代とはどうあるべきかを述べた、それは効率性から多様性の時代へのシフトであり、「異」を認めるつまり優劣ではなく相違によって人に対する諸々の判断がなされるべきである、と
すでに年度も述べているように偶然にも今はミレニアムの世紀である、暦が変わる時に時代も変わる、相対的に見てそのように言うこともある程度は可能であるのかもしれない、1000年代から2000年代へ、暦というものは人々の生活にとって重要な役割を担っている、そのように考えると今が時代の転換期であると考えてもそれほど差し支えはないのかもしれない
故に「神様、なぜ私なの?」と問う時、その人はもしかしたら今ではなくすでに未来を生きているのかもしれない、この2016年において未来とは相違を認め合う時代であり、効率性を重視し更なる利益に走るのではなく、追求から分配の時代へ、それを担うのが「異」を知る人々である
おそらくこれまで「異」はおおよそ排除される運命にあった、異端児は街に入れず、また入れたとしても街の隅で他人の目を気にしながら生きていくより他なかった、だがそのような時代はもう終わりを告げなければならない、新しい価値の創造は常に未来人のためにこそあるのだ
前章では概ねこのようなことを書いた

では前半のまとめに入ることにしよう

さてこの書の冒頭の一句を覚えていらっしゃるだろうか?
そう、神とは何か?である
ではその次に来た言葉は何であったであろうか?

にもかかわらず、である

前半を振り返るうえではやはりこの言葉から始めるのが最も効果的であるといえるであろう、にもかかわらず、だからこそ「負の肯定」となるのである
「負」の筆頭に来るのは怒りであろうがそれについては後に述べるとして、負の肯定がなぜ必要なのかをもう一度おさらいしておきたい
この書が私的な神に関する論でありまた私的幸福論であることを今一度確認の上先へ進みたいと思う

常に神を想え

すでに私はそう書いている、そしてまたこうも書いた、順風満帆の時には人は神を思うことをしないと、だがそれでは神がなぜ人間を造ったのかを理解することはできない、したがって神は人が神を思い出すために敢えて試練を人に与えまた時に犠牲を強いる、神には理想があり、その実現のためにこそ人間を造った、そうでなければなぜこれほどまでに不完全な人間が少なくともこの今現在において小さいとはいえこの地球という惑星の中でまるでチャンピオンのように食物連鎖の頂点に君臨し続けているのかを理解することができない
人類の君臨は神が人間たちに知恵を与えたことに起因する
つまり神は人間だけを特別に造ったのだ
現時点で人類と呼べるのはホモサピエンスだけなので、やはり神はホモサピエンスを特別に見ていることだけは間違いのない事実であろうと思う、もしホモサピエンスが間違っているのであれば神はとうにその代わりの人類を誕生させているはずだ、そうなっていないのは神の期待に少なくとも現時点においては私たちホモサピエンスがぎりぎりであっても適っているからなのであろう
神の第一の目的は、神の理想を実現させることである、そして神の理想とは最も合理的で美しい世を創り出すことである、そしてそのためにこそ人間を神は造った、神は人間にその理想の実現のための一翼を担わせようとしたのだ、このような考えは多分に空想的だがしかしその一方で一定の説得力を孕んでいると個人的には考えている、なぜならばこの神が創り出したこの世というものはあまりにも美しいからだ、もし神に悪意があるのであれば、またそこに理想がないのであればなぜ神はかくも美しい世界を創り出したのか?
この地球という惑星一つをとってもこの意味はおわかりいただけるはずだ、無論水のある惑星とはこの地球だけではない、この地球のような惑星はこの同じ天の川銀河のなかでさえ多数存在するはずである、私たちホモサピエンスが永続的に生活できるのはおそらくこの地球という惑星だけであろうが、しかし生命が育まれている惑星は間違いなくこの地球だけではない、だからこそ私たちは探る必要があるのだ

神がなぜ人間をしかも不完全に造ったのかを

明らかに神は人間をわざと不完全に造っている、それは第一義的には人間の中から神になろうとする者が現れないようにするためであり、また同時に人間に多くの負を経験させるために、である、人生とは直線的に進むのではなく渦を巻くようにして曲線的に進む、故にゴールは端にあるのではなく真ん中にある、私たちは実は常にそのゴールを視界に捉えながら前進していっているのである、だがそのことに私たちが気付かないのは知恵が教える間違った観念に支配されているからである

それは幸福よりも成功を重視しろ、である

私はすでに「成功して奴らを見返すのではなく、幸福になって彼らを忘れる」と書いた、これは比較の否定であり、多様性の尊重の肯定である
ここで読者の中には人生における負を肯定するのであれば、幸福よりも成功を重視する者が現れても仕方がないのではないかという意見を口にする者も現れるかもしれない、しかし「負の肯定」とはそもそも「常に神を想え」という最終理想の体現のために行われるものであり、「負の肯定」そのものが目的というわけではない、また「常に神を想え」の先にあるのは言うまでもなく善の実践である、故に私たちの日々の努力のすべてはにもかかわらず成功ではなく幸福のためにこそ払われるべきものである

順風満帆である、にもかかわらず常に神を想え

この困難な課題に取り組むにはおそらく自発的要件だけでは足りないのであろう、屈辱にも似た外的な要因が偶然にもそこに重なることによって初めて人は目覚める、この屈辱にも似た外的要因を果たして運命と捉えるか否かは多分に主観によるものなのでここで詳述する必要はないであろうが、神とは人間に対して実に多大な影響力を行使しているにもかかわらず目に見えぬものでありまた永遠に沈黙するものである、だが特に順調に人生の階段をステップアップしていた者が一度レールを逸れ荒れ野のただなかに放り込まれるとき、彼はふと神を思う、そう、知恵とはこのような時のためにこそあるのである、だから神は人間が知恵を誤って乱用することを十分承知の上で敢えて人間に知恵を与えた、この世の唯一の権威である神はこの出来の悪いホモサピエンスが神の設定した最初の頂に到達するまでにどれだけの時間が必要なのかを、また唯一知っている人でもある、そこに横たわる膨大な時間(神にとってはそれほど膨大ではないが)を逆算する形で神は時間に関する答えを導き出した、そのように考えると私たちは遅かれ早かれ一度回帰を経験する必要があるのであろう

おそらく私たちが故郷へ帰る日もそう遠くはない
グレートターンはもしかしたらごく一部においてはだが、すでにカウントダウンに入っているのかもしれない

偶然にもミレニアムの世紀である、時代は効率性重視から多様性重視の時代へと変わる、オリンピックは20世紀の祭典であり、パラリンピックは21世紀の祭典である、故にこの両者は同時に開催されない方が望ましい、もし21世紀的なパラリンピックが20世紀的なオリンピックと同じ日程で開催されたら、20世紀的なものにパラリンピックが飲み込まれてしまうことになりかねない、効率性重視のものと多様性重視のものは明確に分離されるべきであって、効率性の代表でもある商業主義が多様性の真ん中に入ってくることは健全なる未来の創造という点でも問題があるであろう
「健全である」とはより良い明日を構築するためには外すことのできない概念であり、多様性の中にこそ散在する少数派の意見をはたして汲み上げることができるのかどうかわからない商業主義とは多様性重視のパラリンピックは一線を画しておくべきだ、パラリンピアンに長者番付は似合わない、なぜならばパラリンピアンとはタイム(time、数えられるもの)ではなくクオリティー(quality、数えられないもの)をこそ未来人に伝える人々であって、そういう意味ではパラリンピアンこそが成功ではなく幸福の在りかを最もよくこれから生まれてくる人々に指し示すことができる存在なのである

果たして、感動は数えることができるのであろうか?

成功は彼が稼いだ金額によって証明される、では幸福は何によって証明されるのであろうか?
それは年輪である、もっと言えば彼の生き方そのものである、故に言葉は成功者ではなく幸福者にあってこそより多くの説得力を持つ、したがって幸福な人とは良い年の取り方をしている人ということができるかもしれない
幸福の世界においては結果がすべてではない

これはITの世界についても同じようなことがいえる、拡散するものと沈殿するもの、悪は拡散し、善は沈殿する、果たして情報は拡散していかないだろうか?
また欲望は拡散していかないであろうか?
ではその一方で沈殿するものとは何か?
言葉である
故に善を司るものこそ言葉である
そこに巨額の富を生み出す興奮を私は認めないわけではないが、大量生産、大量消費の中に明らかに潜む究極の効率性への模索をやはり見逃すわけにはいかないように思える、生産者、そして情報の送り手にこそ有益なこのシステムは果たして民主主義に合致しているであろうか?
確かに効率的に金銭を稼ぐというのはいつの時代においても優先順位の高いものとして社会によって認知されている、非効率的なものは無駄の多いものとしていつしか消えていく運命にある、結果にこだわればこだわるほど多様性は衰退する、面白いものではなく実利的なものが常に選択され、それと同じ思考回路が次の世代にも伝授されていく
そしてこのような思考は最終的には以下のような結論に辿り着く

僅かでも上をいくものがそこにある利益のすべてを獲得する

確かにそこに拮抗した状態がある限り、正と負は互いに互いを刺激し合い最終的にはより良い結果をもたらす、そしてここが重要なのだが最終勝利者はにもかかわらず善でなければならないのだ

ここでキーワードとなるべき言葉は理性である

おおよそ知的遊戯というものはある情報またはシステムの供給者によってその影響の及ぶ範囲というものが定義されるのであって、そこにオリジナリティーがあるかどうかはすべてその受け手が自分が受け取ったものが何であるかを明確に認識できているかどうかにかかっている、故に瞬間熱の繰り返しに見られる少なくとも新しい価値の創造に結びつかない複数の行動の形態は結果的に低い生産性と創造性のある経験だけが生み出すことのできる未来への懸け橋の無価値化を推し進めることにしかならないかもしれない、なぜならば俯瞰とは理性にだけ与えられた抑制のための能力であり、抑制を知らぬものはついに多様性を知ることはないからである
前半においても強調されていたと思うが、人間にとっては継続だけが力であり、継続に依らぬものが如何なるものであれ人間の社会に有益なものをもたらすことはない、そして継続とはアクセルとブレーキの理性的なさらに言えば適切な使い分けであり、「敢えてする」と「敢えてしない」の俯瞰による区別であり、最終的にはその目的に適った決断とそれに基づく行動の延々たる繰り返しである
ここにあるものは実は「孤」であり、集団的な価値観に日々埋もれている人々にはおそらく決して想像できないであろう「発汗する意志」の長期的なスケジュールである、だが凡庸な人々はそこに協調性の欠如しか見出すことができないために善を犠牲にしてでも実利を優先させようとする、したがってこの2016年、神の理想とは明らかに真逆の方向にこの世は動いているのである

であるが故に貴殿の出番である

「神様、なぜ私なの?」

神は22世紀のために貴殿を選んだ、この21世紀初期の神の理想に対する反動は100年後の未来人が100年前を振り返ったときにより多くのインスピレーションを得られるようにと神が敢えて仕組んだ罠、おそらく時代はそのようにしばらくの沈潜の後にこそ浮上する、1の次に2が必ず来るのではなく、1の後一旦マイナスに振れ、その直後に5や6に達する、時代が夏の太平洋に発生する台風のように迷走することはおそらく珍しいことでも何でもない、時代も人生と同じように曲線的な軌道を辿るのか、だとしてもそれが意外なことであろうか?
「私」の対象が「神」ならば「時代」の対象は何であるのか?
私はそこに善を見出したい、時代とは最終的には善へと向かう
神に悪意がないために善の対象は悪ではない、善はそれ自体独立し時代をいやこの世のすべての時間を導く存在となる、だが人類の歴史は宇宙のそれと比するとあまりにも短いがために時代は行ったり来たりを繰り返し容易に善へは向かわない、したがって誰かがその先陣を切る必要があるのだ
なにとぞこの言葉を貴殿に使うことをお許し願いたい
確かに貴殿は犠牲者であろう、だが神はすべてを救うのである、神に選ばれたる者の苦悩は実に余りあるものだ、「ふつう」から逸れることにそうではない人にはないチャンスがあるのだとしても「異」の烙印を押されることの悲劇性はそれが女性や子供でなくとも未来に横たわる時間から一気に生気を奪ってしまう
いや、だからこそ私は繰り返し申し上げ続けなければならない
21世紀は多様性の時代であると

おそらくはPCやスマートフォンのせいだけではあるまい、例えば都市がそうだ、この21世紀急速に私たちの周りから「隙間」と「脈絡」が失われていっている、感受性豊かな若者を中心とした「今日と同じ明日」を志向しないクリエイティヴな人々は突っ込みどころのない日常に深刻な閉塞感を覚えているであろう、隙間があるからこそそこに自由が生まれる、fullであることは、つまり満たされていることが人々に供給するのは豊かさではなく余裕のなさである、今大人たちは与えられた空間のすべてを何かで覆うことで現状の打開を試みているようだがまるで何者かに追われているかのように急ぐ彼らの日常からは自分と対象とをつなぐキーワードとなるべき言葉が欠けている、これが脈絡の欠如であり、対象を失った者が陥る主体の喪失である
万物は対象を求める、これは人にだけ当てはまる法則ではないが、逆に言えばそれに失敗しているのは人間だけである、感受性豊かな14歳から21歳までの間に然るべき正と負の拮抗を経験しなかった少年少女たちは、いつしか大人になり進むべき方向を示してくれていた水先案内人が去った後、自分が真に求めているものが何であるかもさっぱりわからないままただ徒にモードの奴隷となって人生の果実に翻弄され続けている、今も尚そうだ
彼らはなぜ進むのだろう?彼らこそ帰るべきなのに

この世のすべては二つの世界の間の行ったり来たり、そしてやがて次の人が現れてお役目御免でバトンを渡しさようならとなる、だがこれこそ合理的な考え方である
もし世界がひとつしかないのなら、私たちは最低限の多様性を担保することができずに故に価値の逆転のないモノクロームの世界を生きることになる、しかし二つの世界が保障されるのであれば、私たちはその対照的な二つの世界を行き来することによって相対的な価値の中間で自己の可能性のための最低限のフリーハンドを得ることができる、つまりAでは通用しなかったがBでは通用した、というようなことが起こり得るのである
人間を量る尺度が一つであってはならない、そういう意味ではリーダーも男女一人ずつの二人の方が望ましい、そうすることで最低限の多様性を確保しまた独裁を排除することができる、また世界が二つあることで弾力性のある人生設計が可能になる、つまり豹変の余地を残すということが可能になるのである、豹変はその主体が善を志向する限りにおいて無制限にではないが認められるべきものである
「昨日まで言っていたことと違う」はそこに悪意や嘘がある場合は認められないが、善を志向する場合は無条件で、また錯誤を修正するためのものや、新しい価値の発見に基づくものである場合、またそうしなければ継続が困難になる場合などには条件付きで認められるべきだ、もちろん豹変は人生において多くても三度まで、通常は二度までだが

この「二つの世界の間の、行ったり来たり」はもっと端的に言えば旅のことでもある、旅も故郷を離れ見知らぬ街を旅してはまた故郷に戻ってくる、そしてまたしばらくすると同じことを繰り返す、旅こそ人生そのものであり、故に「二つの世界の間の、行ったり来たり」の肯定である
私はすでにITの反意語は旅であると述べている、この旅にはある程度象徴的な意味合いが込められているが、見知らぬ外国の街を一人で歩いている時の緊張感は、常にinであり、outが著しく欠如している人々には容易に理解され難いものであろう、だが人生においてリスク(時に多大)を払うことでしか得られない貴重な経験こそが確かに未来の中にあるのに確認することが難しいものを気付かせてくれる
それは自己の中に眠る可能性、若者でなくとも一人で過ごす外国の都市での一夜は、100冊分の書物の読破に匹敵するほどの価値を有している、孤独であること、模索し続けること、明日に対する期待と不安、故郷からはるか離れた場所にいることを認識すること、そして言葉が通じないこと(かろうじて英語が喋れるくらい)、このような非日常的な空間の中に潜む未知の外的な要因はしかし時にとうに忘れていた何かを甦らせたりさせてくれるものだ、そしてここが重要なのだが、扉がこちらの意思に関係なく開くのは旅をしている時に圧倒的に多いのである、もちろんそのことを明確に認識するのは帰国してからであり、旅をしている時はむしろ不安が上回っていたりもするのだが、帰国し、旅が完了することで行ったり来たりは終了する、人間の感覚はおそらく若い人でも現実にやや遅れているので、インスピレーションは帰国後しばらくしてからやってくるが、それでもこれは旅によってしか味わうことのできない恍惚感なのである

この世の真理は「相異なる役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」である
ならば相矛盾する二つの概念とは如何なるものであろうか?
以下簡単にいくつか例示しておきたい

緊張と弛緩(労働と休息)
昼と夜
静と動
生と死
暖かいと寒い
発見と喪失
明るいと暗い
現実と理想
前進と後退
出会いと別れ
そして正と負

(注釈)「善と悪」は神に悪意がないと想像されるためこの範疇には入らない、この世の唯一の権威である神は善そのものであり、悪は善に拮抗することはあっても打ち勝つことは如何なる場面においてもあり得ず、したがって善のみは単体で存在しうる唯一のものであると推定できる、事実神に悪意がない以上、この世の始まりは文字通り善100%の状態から始まっている(ちなみに『必要悪』という言葉があるがこれは善の対照的な存在が悪であるとの前提に立っているようだ)

上記したもの、いずれも単独で存在しうるものではない、理想だけの人生もなければ現実だけの人生もない、また出会いだけで別れのない人生もあり得ないであろう、キーワードは繰り返すである、私たちは日々繰り返す、誰でもいつでも、日常とは繰り返すということであり、非日常とは未知に覆われるということである、そして良い人生とは正と負の拮抗を経験している人生のことである、だから日常を繰り返す私たちには非日常の経験である旅が必要になるのである、しかし非日常を経験できない若者たちはそれを経験するために薬物に手を染めるかもしれない、ここにも健全であることがITの対立概念として浮上してくる、言うまでもなく旅はアナログである、空の旅はしばしば天候に影響される、また予約していた部屋と違う部屋に案内されたなど予想外の状況に見舞われることなど僅かも珍しいことではない、だから100のシミュレーションよりその時々の判断の方が重視されるのであり、行ったり来たり、つまり緊張と弛緩の両方を経験することがよい人生につながるのである、確かに悪いことが起きませんようにと願うのは人の常であるが、都合の悪いことが起きない旅というのは本物の旅ではないかもしれない

さて前半のまとめとしては以上のようなもので十分であるかもしれない、短くまとめると書いたが少し長くなってしまったようだ、しかし概ね前半の要約としておさらいできたのではあるまいか
では本格的に後半へと入ろう

怒りについて

怒りについて

さてすでに私は後半の中心になるものは「究極の善」であると書いたが、もう少し「負の肯定」について前半において触れることができなかった部分を補足する必要があるであろう

私はすでに「負」の筆頭に来るものは怒りであると書いた、しかしその怒りについて前半において積極的に論じることはなかった、故にここで論じることにする
私は負の筆頭が怒りであることを認めながらもしかし怒りという情念をここで肯定したい、なぜならば怒りには善を追求するうえで決して欠かすことのできないある重要な概念が含まれているように思えるからだ
それは「抗う」ということである
この言葉にはあまりいい印象を抱かない読者も多くおられると思うが、私は抗うことなしに善の追及もまたその実現も不可能であると考えている
言うまでもなく私たちは日々多くの条件に囲まれて生活を営んでいる、法を犯さないことは無論であるがそれを除いても私たちが日々守り実践していかなければならない人間としての責務は決して軽々しく論じられるようなものではない、明文化できるものもできないものも、また常識という範疇で括られるものもそうでないものもすべて私たちの日々の生活を最も合理的に故に円滑に進ませるために、古人たちがおそらくは苦慮の末考えだしたものの末裔の姿である、このいわゆる先人たちの知恵は家庭も含む教育の場において上から下へという形で伝承され、時に新しいライフスタイルから生まれる新しい価値観を添加しながらより良い明日のためにこの21世紀においてもそれ以前と同様度重なる議論の末に微調整され、そしてリニューアルされ続けている
ここにあるのは人間の知恵そのものであり、また一言で言うならば真摯なまでのひたむきさであろう
無論私はこの先達を含む多くの人々の経験と知恵の産物を僅かであっても疎かにするつもりはないし、また昨日までの価値観というものは原則維持されるべきであるとも考えている、だがそれでも私は怒りの扱いにおいては他と同様の考え方に与するつもりはない、その理由には感覚的なものと論理的なものとの二通りがあるが、まず感覚的なものの方から述べていきたい

端的に言えば怒り、いやその原因であろう、は常にではないもののしばしば私にとっては神の使者(守護神?いずれにせよ神そのものではない)から与えられた現状を打破するためのチャンスである
確かにこれには条件がいる、少なくとも信心、つまり善を奉じていること、そしてもう一つはそこに嘘がないこと、これらの二つはそのための条件として必須であろう
怒りとは概ね物事が自分の思い通りにいかないことに起因するものであると断じてもそう差支えはあるまい、やることなすことすべてが順調にいく人(そういう人はいないが)がしばしば怒りに捉われるとはやはり考えにくい
しかしそうであるからこそ、じっとしていればただ閉塞感が募るだけの日常の殻をどこかで部分的にせよ破っていく必要がある、これは確かに成長のためなのだが、同時に幸福の在りかを見つけるためでもある
前半において正しい人の手は汚れている、なぜならば神の手もまた汚れているからだと書いたが、この何かを完遂させるために手を汚すという、文字通り油や、土や、絵の具や、インクで汚れている人の手というものはただそれだけで尊いものだ、この仕事故手が汚れるという労働の一断面はこの21世紀以降徐々に減っていく運命にあるようであるが、しかし神の意志の確認をするうえでこのことは実に重要な意味を持っている、神の使者はメインストリートにはいない、そして労働とは「より良い物を作る、提供する」という意思がそこに介在している限りにおいてただそれだけで尊いものであり、人生の規範となりうる何か精神的なものを得るそのきっかけとなる、おおよそ母親の指というものは少なくとも冬には皸ができているものだ、そこに彼女の子供たちは本能的な尊崇の念をはたして覚えないだろうか?

「うまくいかない」がなぜ怒りを生むのか?
それは貴兄が100点を取ろうとしているからだ
だが人生に100点などないことは誰の眼にも明白である
故に人生とは結果ではなく過程になるのだが、私に言わせれば殻を破るということは即ち手を汚すということである、またデジタルではなくアナログであると言えなくもないかもしれない、だが殻を破るには動機がいるのである、そして怒りこそしばしばその動機になりうるのである
私たち人類の暮らしというものは何もしなければいつしか降下していくものだ、ただ21世紀という文明の発達した世界に暮らしているとそのことを忘れてしまいがちになる、自分が頑張らなくても世の中は勝手に進んでいくものであると勘違いしてしまうのだ、だが実際には私たちが何もしなければ知らず知らずのうちに私たちの暮らしの質は降下していく、私はこれをヴァーティゴと呼んでいる、元々は航空用語であるが、雲ひとつない青空の下を飛行していると青空と水平線との境が分からなくなり、実際には航空機が降下しているのにそのことに気付かずに飛行してしまうという現象のことである、現時点では順調に飛行しているように見えるのだが、実際には降下しているのでいつかは海面に衝突するというわけである
ではそうならないためにはどうすればよいのか?
緊張すればよい
どうすれば緊張するのか?
怒りのエネルギーを利用すればよい

確かに怒りを100%客観的に捉えるということは難しいかもしれない、故に怒りは負の筆頭であり、またそうあり続けるのである、だが現実が知らず知らずのうちに構築する殻を破り現状を打破するには一つの法則があるようにも思える、それは迷いに包まれたときにそれが初めての経験であることを受け入れることができるか否かによって決まる
うまくいかないのはなぜか?
それが初めての経験だからである
だがそこに以下の言葉を受け入れることによって事情はいくらか変わるかもしれない

失敗してもよい

大切なのはチャレンジすること、したがって「頑張らなくてよい」は間違いであり、「失敗してもよい」が正しいということになる
これ即ち怒り(負)の肯定である
ここにはすでに前半で述べた「捨てる」の概念も幾分含まれる
負のエネルギーが動機となって「しない」が「する」へと変化したのだ、ここではすべての「うまくいかない」が怒りのエネルギーを経て「失敗してもいいから動く(にもかかわらず動く)」へ連鎖していっている、もしここに怒りのエネルギーがなければ、また怒りが負であるからという理由で否定されているのであれば、答えは「頑張らなくてもよい」ということになる
だがこれでは「抗う」には直結しない、怒り(負)の肯定は、最終的には究極の善の実現のためであり、ついには「他人の迷惑になることはしない」から「人の役に立つようなことをする」へ180°の転換をする、この望ましい変化は負の肯定を経て初めて有効となる、万事うまくいくということは人生においてはあり得ず故に不平不満はいかなる時代であれ人間の間に蓄積していく、究極の善はこの悪の循環を断ち切るための最終かつ最良の概念であり、それは究極の善の対象である負の肯定を持ってしか為すことはできないであろう

さて話を少し戻そう
それが初めての経験である場合当然失敗の可能性は増える、ところが多くの人は最初こそ良い成績を残そうと考える
初めてだからうまくいかなくても仕方がない、ではなく最初だからこそうまくやろうと
ここに「失敗してもよい」が加わればチャレンジの機会は当然増え、またその結果も受け入れやすいものになるのだが、失敗を恐れるとチャレンジそのものに対して臆病になってしまう、したがって「頑張らなくてもよい」という、つまり言い訳が先に立ち結局は殻を破ることができずに今日と同じ明日になってしまうのである
どうやら多くの人はこう考えるようだ
まず、最初の数回はうまくやろう、そして5回目くらいで少し余裕ができた時に力を緩めてそこからはマイペースでやろう、ここでいう余裕とは保険のことである、最初のうちいい結果をいくつか連続して残せばその後少しくらい失敗しても大目に見てもらえるだろう、だから保険を掛けられるようになるまでは辛くても頑張ろう
だが私に言わせればこの考えは間違っている
というのも最初に失敗するのが最も良い失敗の形だからだ
なぜならば最初に失敗すればもう100点は取れないからだ、何に対してもそうだが14歳以降は可能な限り自分で自分の人生設計をするように努めるべきだ、家庭も学校もまったく関係ないとは確かに言い切れないのだが、しかし青春時代とはあっという間に過ぎ去ってしまうものだ、したがって自分以外の人が敷いたレールに乗っかってしまうとそれが誤りであることに気付いた時にはもう19歳くらいになってしまっている、19歳では青春ももう曲がり角を過ぎやや黄昏時といった感じであろうか、人生はたそがれの扉を開ける前とその後と二回あると考えられるが青春は一回しかない、したがってそうならないためにもできるだけ早く「自分が何を好きで、そして何をやりたいか」を見定める必要がある、だが現実はそのような少年少女たちの自我の目覚めを必ずしも歓迎しない、曲線的に自分自身の道を模索することよりも直線的に社会の規範を維持することの方が優先されているのである
これは私に言わせれば個々人の主体性を否定する危険な考えである、私はこの21世紀は「多様性の尊重」の時代だと思っている、だが直線的な思考を優先させる人々はこの考え方に真っ向から対峙している
だから「抗う」が必要なのである

おおよその場合「抗う」と「怒り」は緊密な関係にある、また「善を奉じる」が故の怒りは肯定されるべきである、そして善は「共通」ではなく「個別」にこそ宿る、なぜならば最終的には善とは正と負の拮抗の結果であり、またそれを曖昧にせずしっかりと経験するにはやはり「個別」が優先されるべきと考えられるからである(「共通」を優先させるとその失敗を他人のせいにするということも論理的にはありうることになる)、さらに言えば社会は少なくともこの2016年現在では「異」を排除する方へと動いている(この傾向はもうしばらく続きそうだが)、したがって自分の道を模索する者はそれを封じ込めようとする大人たちと戦わなければならない、また社会の規範に従ったからといって、もはや保障が手に入る時代でもない、自分の道は自分で切り開いていく他ないのだ
ここでまた私風の表現になることをお許しいただきたい
神は神の期待に副えると思われる者にのみその背に重しを載せる、それはその者に負を経験させ故に他とは違う道を選ばせるためである、順調に成長した者は順調に会社員になる、そしていつしか父、母となり40歳を迎える、だがそれでは神の期待に副う世にはいつまでたってもならない、そこにははみ出し者が必要なのだ
はみ出し者、いや、異端児でもよかろう、彼は抗う、まるでそれ自体が目的であるかのように、彼は大人たちからは忌み嫌われるであろう、なぜならば彼は未来を生きているのであり、現在に固執する者は昨日の価値を引きずることによって利益を得ているため未来をできるだけ遠ざけようとするからである
多くの負を経験することはその者に特に嘘に対する怒りを芽生えさせる
「共通」が秩序を維持するためには入り口と出口が違っていてもそれを「是」とするある種の錯覚の肯定、または矛盾に気付くこともない神経的な意味での麻痺のようなものが不可欠なのである、おそらく75年前の我が国日本もそうであったであろう、言動の不一致がそこにあったとしてもまた大義が十分でなかったとしてもそれを是としなければならないモードがそこにはあった、だがそれはいつの時代もそうなのである
「これっておかしくないか?」そう思わない方がおかしいのであるが、「異」となり排除されることを恐れるがために若者でさえ自由に発言することができない、しかしにもかかわらず結果は求められるのである
怒りとはそれが若者でなくとも先に示した条件が整っているのであればそれは「健全」である、だが怒りの先にあるものを見る保守的な大人たちはどうしてもそれを受け入れることができない
そのあるものとは「変化」である

私はすでに「新しい価値の創造」についてはこの書において実に何度も繰り返してきたが、またここでも繰り返さなければならないようだ

今日と同じ明日=新しい価値の創造の否定

しかし、それではこれから生まれてくる人々に今を生きる人々が渡すべきものがなくなってしまうのだ、なぜオリンピック・パラリンピックをはじめ限界への挑戦が必要なのか、それは新しい価値の創造を実現するためである、ではなぜ新しい価値の創造が必要なのか、それはこれから生まれてくる人々の暮らしが今を生きる私たちのものよりも豊かになることに、そして未来を生きる人々の今を生きる人々以上の幸福にそれが資するからである、つまり新しい価値の創造とは私たちのためにやっているのではなく未来を生きる人々のためにやっているのである、ここはどんなに生活が豊かになったとしても決して今その時を生きる人々が忘れてはならないところである、なぜならば私たちも先達のその時々の限界までの挑戦によって得られた果実の下に生きているからである、私たちは私たちの力のみで生きているわけではない
組織というものは、いや、もしかしたら国家でさえ私たち人間のためにあるものであり故に目的ではなく手段である、だが手段と目的の置換は常に至る所で生じる虞がある、教育の主役は誰なのか?この実に簡単明瞭な問いの答えにさえ戸惑う人々がいる、だから変化が必要なのだ
これは実は信仰にも同じことがいえるのである
信仰は主観的なものであるべきであり理性に優先されるべきものではない、なぜならば信仰が客観的なものであり理性に先立つものであることが認められると必ずそこにはその秩序を維持するための組織が生まれ、当初は順調に推移するのだが、やがて手段と目的の置換が起こり手段であったはずの組織がいつの間にか目的化し、やがて神の代理人を名乗る不届き者が現れその組織を盤石なものとするために絶対者となり権勢を振るう、そうなってしまうのである、だがそのようなことになってはならないのだ
信仰は「拡大」ではなく「循環」である、しかしそこに組織が生まれると組織は拡大を目指すために、残念ながら手段と目的が逆転してしまうのである、ここは宗教の本質的な矛盾ともいえるのかもしれない、だが人間が絶対者には決してなれない以上、組織の目的化はやはり否定されなければならない

組織の成功≠信者の幸福である

おおよそ成功と幸福とは矛盾するものである、そして破産するのは金持ちだけである、だが金を貯めれば貯めるほど破産に近づくというこの絶対法則に誰も気づこうとしない、そういう意味ではこの世は神の理想にはあまりにも遠い

ただ「抗う」には一つだけ条件がある、それはそれが「復讐」に変化しないことだ、これは案外難しいことなのかもしれない、人間の生活は100%、コミュニケーションでできている、したがって時に差別や屈辱に十代の若者であっても苦しめられることになる、おそらく酷い裏切りに傷ついた人は都会ではなく地方を目指す、それは最終的に人間を癒してくれるものは、実は人間ではなく山の緑であり、川のせせらぎであり、海の潮騒であることを私たちは理性の奥底で知っているからだ、都会は風だが、田舎は水である、そして人は傷つくと自由の風に吹かれるよりも、澄んだ水にのどを潤すことを欲する、だが水は、いや水こそ復讐とは無縁であろう、「上善は水の如し」とはよく言ったものだ、水は器を選ばないが故に「異」をも受け入れるのである、ならばきっと私も受け入れてくれるに違いない、都会の生活に疲れた魂はそう主に告げるのであろう
怒りが復讐に向かわないためにはどうすればよいのか?
それは理性の最上級の働きの中に答えがある
だがそれについては後に詳述しよう

さてここまでは怒りについてまず感覚的な立場からいつものように私論を述べた、ここからは論理的な立場から怒りについて述べたいと思う
私はすでにこの部分のキーワードをこの書の前半で述べている、そう、自由の反意語は権威であると
この自由の反意語は安定ではなく権威であるという定義こそ論理的に怒りを肯定するその根底をなすものである
なぜ自由の反意語は権威なのか?
実はこれは民主主義と大きな関わりを持っている、もし主権が国民の側にないのだとしたら言論は即自由を失う、また言葉とは独り歩きするものであるため、そこに「自由にそれに対する批判」が加えられうる状況(言論の自由)に常にないと、いつしか書物でさえ権威の衣を纏い、聖域に達したその書物の批判も不可能になってしまう、だがこの世において権威と呼べるものは神のみであり人間が、人間が書いた物も含めそれがまるで神の代理人のようにこの世に君臨することはそれ自体実に危険なことである、神が永遠の沈黙を少なくともホモサピエンスに対しては貫いている以上、私たちは私たちが日常的に使う言葉というものを相対的なものとして、つまり短期的にはともかく長期的には批判可能なものとして扱い続けるべきである、言うまでもなく神は目に見える存在ではなくまた神の声を聴くことも難しい、ならば神を信じないというものが現れたとしても多様性の肯定故それ自体を否定することはできない、私たちは常に政治における最大公約数と、芸術における絶対数1との間で揺れ続ける必要があるのだ
この世の真理は、相矛盾する役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動
故に政治経済(目に見えるものの価値)がそこに存する限り、芸術(目に見えないものの価値)もまたその対象として永遠に存在し続けるのであり、したがって芸術は決して無用の長物などではない、そして芸術家こそ民主主義を最も愛すべき存在なのである
民主主義の根幹は実益にあるのではなく芸術の中にこそある
芸術とはまだ貨幣すらなかった時代、生きることそれ自体が「恐れ」と「謎」の間で右往左往していた時代、神により与えられた知恵を最大限に使うことによって人類が得た束の間の休息の集合体に端を発する
酒の歴史は経済の歴史よりも古いのであろうか?いずれにせよ目が覚めている間、死について思いが至らなかった時などはなく、常に生に対して必死であることが求められていた時代、人類はそれでもそこに生の喜びを見出すことに苦闘していた、酒もあったであろう、だが同時にそこには芸術があった、当時の芸術は当然今の芸術とは切り離されて考えられるべきなのであろうが、たとえそうだとしてもその時々の世のどこかに、決して多くはないのかもしれないが自由を求める魂がうごめいていたことだけは事実だ、彼らは他のものよりも何かにおいて優れていたがために明らかに異端であったであろう、彼らは太鼓を叩いたであろう、舞を舞ったであろう、そして手先の器用な者と組んで笛を鳴らしたであろう、そこにあるのはおそらく第一に神への称賛と従属、そして宗教的な祭事を中心とした政(まつりごと)に対する献身と社での祈りと演舞の奉納、舞も鼓も祭政一致の儀式に端を発するのであろうが、しかしやがて長い時間を経てそこから一芸に秀でる者が政に関わるその一方で神のためにではなく人間のためにその技術を磨くようになったのであろう、確かに彼らは優れていたが故に「異」であり、したがって社会的には排除されやすい対象であったのであろうが、彼らがこだわった自由への賛歌はその次の世代の人々によって初めて価値付けられ、更にその次の世代の人々によって伝説となった
古の時代において宴とは概ね神のためのものであったに違いない、だが苦悩の中から喜びを見出すことに成功した知恵ある古人たちは神事と分離された芸術の中にただひたすら自由を求めた
何のために?__________幸福のために
人間の世界における権威とは力への意志旺盛な神の代理人を名乗る者が何の根拠もなしに人々に強いた軛という名の亡霊、だが無知で無力な多くの小民たちはそれが盲信であるにもかかわらず、そこに救いがあると考えた、しかしそれは信仰ではなく慣習に過ぎなかった、神を信じるということが理性に先立つものであると考えられていたがためにこのような混乱がしかも長きに渡って生じたのである、だが今、人々のそれでも尚自由を求める精神は古の時代より数十万年を経た現在においても健在であることがすでに証明されている
自由を求める精神が当初は実に小さな「異」の存在でしかなかったにもかかわらず、数えることができない程の年数を経ていつしか新しい価値の創造にその時々において成功しそれがその後の世代によって連綿と引き継がれてきた
自由とは知恵あるが故に死に怯える古代の人々が編み出した死を下す神への畏敬とともにそのもう一方で抱いた一つの抵抗運動、知恵やそれ故の想像力が死への恐怖しか生まないのだとしたら、生とは何と虚し過ぎることか
自由の反意語は権威である
だがその権威の中には何とこの世の唯一の権威である神の権威さえも含まれているのである、だが勘違いしてはいけない、神を真に知る者こそ芸術を真に知る者である、芸術家こそ人間が決して絶対者にはなれないことを最もよく知る人である、自由とは普遍、だからこそ芸術は神の権威とさえしばしば接触するのである

そしてようやく怒りの出番である
自由への希求とは最終的には神(人間の脳が作り出した神という名の一般的な概念の部分も含む)さえもその対象とする権威に対する抵抗運動である、これは主権在民とその性格において一致し、故に反民主主義勢力に対する強烈なアンチテーゼとなる、民主主義=言論の自由であり、自由を愛する者はこの民主主義という言葉には常に敏感であらなければならない
また抵抗運動についてはこの章の最初の部分で触れた一文をそのままここで引用することができる、つまり善を奉じる、そしてそこに嘘がないこと、この二つの条件に合致していればそれは赦されるということになる、また逆に言えばどのような大義を掲げても、この二つの条件に合致していなければそれは認められないということになる

私に言わせれば人類の歴史は権力に対する抵抗故に自由への希求の歴史である、そしてそれは可能性探求の歴史であり、また神の真意を探るための歴史でもある、自由とは神がなぜこの世を創ったかという人類の根源的な疑問に答えを導き出すためのその動機となりうるものであり、数十万年前、人類が知恵を操り神という言葉を発見したその瞬間に自由は生まれているのである、実はここにも善がある、神の本質を悪だと看做した場合自由という概念は果たして誕生するであろうか?
自由が指し示す可能性はすべて善を包含したものでなければならない
この後半で中心的なテーマとなる究極の善はここで「自由」ともうひとつ「愛」という伴侶を得た、愛については後述するが、真に自由を愛する者は真に善を奉じる者である、だが自由に達するには「怒りをはじめとする負の肯定」というつまり人間の権威が個々人の多様性よりも優先されるべきであるという誤った考えに取りつかれた人々からは最も忌み嫌われる考えに立脚する行程を経る必要があるのだ、そのように考えると理想の未来は何と遠いことか
しかしその一方で善への模索は人類の漸進によって図られるべきという神の意思にそれは叶っているともいえるのである
いずれにせよ道のりは長い

最後に怒りを知る者とは抗う者であり、したがって究極の善を模索しうる者である、そしてもうひとつ怒りを知る者こそ理性による物事の判断を最もよく知る者である、レールを逸れたときこそ何か有意義なものを発見するチャンス、負を知る者はそのことをよく知っている、失敗を恐れるのではなくチャレンジすることの意義を経験により悟っている、つまり曲線的に生きることが、遠回りすること、寄り道することが教えてくれる何か有意義なものの価値を判断する能力を有する者、それは人一倍強い理性によってのみ可能である
理性とは何か?
それは実は愛というものを理解するうえでまずその筆頭に来るものであるがそれについては次章で述べよう

理性の最上級の働き、究極の善について

理性の最上級の働き

さて前章では怒りという負の概念の筆頭に来るものを肯定的に捉えることによって、新しい価値の創造に結びつくための「抗い」を条件付きではあるが積極的に認めるという内容のことを述べた
そして「怒り」と「抗い」は緊密な関係にあるとも述べた

私たちは日々知らず知らずのうちに同じことをただ繰り返すだけに終わっている、もちろんそこにあるのは悪意でもなければ、頽廃でもない、それどころか概ねむしろ善意に近いものであるのだが、しかしただ同じことを繰り返しているといつしかヴァーティゴに陥り次の人々、つまりこれから生まれてくる人々のための何かを残すことができないままに終わってしまう、したがって私たちは常にチャレンジをして新しい価値の創造に努めなければならない、なぜならば今を生きる私たちも先達が同じことをして得た果実の恩恵を十分すぎるほど受けているからである、と
そしてヴァーティゴを回避するための現実への抗いは現実に対する怒りから生まれる、それほどまでに現実は不条理なものである、もちろんそれは人間が不完全であるからであり、したがって私たちは怒りから生まれる負のエネルギーを最大限に利用して、今を生きる私たちのためにではなくこれから生まれてくる人々のために全力を尽くそうではないか、というようなことを書いた

さて前章の文脈の中にも出てきたが、負の肯定はその一方で強い理性を必要とする、そうでなければ怒り(負)のエネルギーを利用するはずが逆にその負のエネルギーに振り回されてしまうことにもなりかねないからだ、たとえばアルコールの力を借りて何かを完遂するつもりだったが、酒を飲み過ぎてしまい、思惑とは逆の結果を導いてしまったという、よくありがちなことになりかねない
そのようなことにならないようにするためにも、負のエネルギーを利用する者は強い理性を備えていなければならない
ではその強い理性を備えるためには私たちはどのような思考を身につけるべきなのか?
それを考える上での実に重要な手掛かりとなりうるものが「愛」の中にあるのである
ただ愛について論じることは場合によっては相手に都合の良いように解釈される可能性もあるので、これまでよりも一層慎重に筆を進める必要がある
愛の定義とは言うまでもなく非常に敏感な問題である、愛とは巷に溢れるものであるように見えながらも実はそうではないがために多くの錯覚を生んでいるようだ、また私は「愛する」という人間にとって「命を感じる」とほぼ同じ次元で捉えられるべき崇高な行為は「私」の唯一の対象である「神」の介在なくしては成立しないと考えている、したがってここでは今私が述べた前提に従って論を進めていくので、そのあたりのことは予めご了承いただきたい

さて愛そのものについて論じる前に、理性の働きについてやや詳細な論を展開したいと思う
私はすでに繰り返し「負の肯定」という言葉を使っているが、その一方で「究極の善」という言葉もまた多用し、この後半で詳述するつもりでいる、そしてこの負の肯定、究極の善という両者をつなぐ役割を果たすものがこの理性(強い理性)である
「酒は百薬の長」というが、これは負にもそのまま当てはまるといってよいであろう、人間が神によってわざと不完全に造られている以上、個人がその人生において負から解放されることはおそらく永遠にない、31世紀においてもこれまでと似たような悲劇が繰り返されていないという保証はないし、また実際繰り返されるであろう、私たちはそのように正と負の間を絶えず行き来しながら「より良い」明日を目指していくしかないのである
ならば負を徒に否定し排除するよう試みるのではなく、負の対象を見つけその両者の間を行き来することによってより良い何かを見つけ出すことに精進すべきであると私は考える、そしてその行ったり来たりの繰り返しの中からにもかかわらず新しい価値を見つけ出していく役割を担うのが理性である、もしそうでなければ私たちは新しいものではなく、その時点において最も高い位置にある快楽にただ身を委ねるだけになってしまうであろう、これは頽廃のその初期現象ともいえるものであるが、スピードと容量がある意味限界値を超えつつあるこの2016年において、禁欲的に振る舞うことはそこに一つの法則性を確認できない限りそれを長期的に継続していくことはかなり困難であると思われる
これは高度情報化社会の宿命的な欠陥ともいえるのかもしれない、私たちは情報に踊らされるのを望んでいるのではもちろんなく、ただ個の確立の向こうにある幸福のかけらのようなものを獲得したいだけなのだが、そのためにはハイスピードと大容量の大平原を駆け抜けていかなければならない、IT革命は地方に暮らすことのデメリットを縮小させたが、その一方で「一律的な」価値観を文字通り遍く普及させてしまった、ここに精神的な危機を感じ取ることのできた敏感な人々はおそらくすでに朝方の生活に一日のスケジュールを切り替えていると思われるが、しかしそれができている人々は環境的に恵まれている人々と断ずることももしかしたら可能なのかもしれない
なるほどここを論じつめればやはり「理性的な」という形容詞が多く用いられることになりそうだ、それほどまでにこの21世紀の現実は理性の運用の限界のようなものを多く露呈させているように見える、ツールの発達がもたらしたものははみ出し者がようやく手にしたチャンスではなく、20世紀同様の方程式を巧みに操るビジネスマンの次のステップへの挑戦権であった

確かに理性とは計算のことでもある、そこでは「敢えてする」と「敢えてしない」が時に緻密に結果を推論する、だが私たちは労働という緊張と休息という弛緩の往復の繰り返しの中からしか有意義な何かを発見することができない、そのように考えると理性とはまた水のようなものであるのかもしれない
器を選ばず、その時々の条件のベストの組み合わせを感情を含む余計なものに一切囚われず判断する
これはバランスのことであり、また水平であるということである
そこには傾きがない、このことは実は愛の定義を考える時におそらく外すことのできない概念であろう
また愛が理性と不可分であるという考えは切迫した現実が常にそこに横たわっていると想定したときにこそ改めて認識されるべきものであろう
きっと以下のような事態は紛争地においては散見されるものであるに違いない
銃で撃たれた二人の子供が救護施設に運ばれてきた、うち一人はどう見ても助かる見込みがない、そして医師は一人しかいずまた医薬品などの医療物資は限られている、そのような時に私たちはどのような判断をすればよいのか?
いや、紛争地だけではあるまい、実は上記したような事案はどのような社会においてもきっと珍しいことではないであろう、国境なき医師団だけではない、医師や看護師の行う行為はすべて理性的であり、人道的であり、また普遍的な価値を持つものである、
それは無差別であり故に平等である
だが上記した例ではそれはどのように解釈されるべきなのであろうか?

国籍も性別も無論肌や目の色も、そして宗教も、慣習も、言語も関係ない
そこには傾きがない
だがそれでもそこにあるべき判断とはしばしば日常的な推論を大幅に逸脱するものであると推論することは十分に可能である
愛から最も遠いところに存在するものの一つにナショナリズムがあるとここで断じてもおそらく何ら差しさわりはあるまい、故に愛とは無国境的なものであるはずだが読めない現実の動きはおおよそそれとは対照的なものなのかもしれない

愛とは時に犠牲
だが犠牲とは神の領域に存する言葉である、確かに戦地に散った若者たちは英雄ではなく犠牲者と見做されるべきだ、彼らの死を尊い命を犠牲にした結果と考えるならば尚更のこと私たちはそこに通常のレヴェルの人知では到達できないであろう崇高な瞬間を見出そうと努めるべきだ
理性の最上級の働きは、愛というものはこの世の唯一の権威である神と直接的につながっていると見做すことにより、そこに非日常的な瞬間が訪れたときにこそその真価を発揮する、そしてそれは人間にしかできない精神の最も上質な運動
万物は対象を求める、故に愛とは人が人を愛さずともすでにそこに存在することが可能なものでなければならない
ならばそれは何か?
博愛であろうか?
「一人が万人を慈しむ心」それを博愛と定義できるならば博愛とはそれこそが個の愛で最も上位に来るものでなければならない、僭越ながらこれは愛の排他性を肯定する、愛の反意語は嘘であるが、嘘を用いることによって愛が損壊する時、私たちはこのように想定することができるのかもしれない
愛とは第一に神の愛であるが故に人間が愛を人間のレヴェルで解釈してはいけない、故に人間が嘘をもって愛に報いる時、神の所有に属する愛を一人間が貶めたことにより愛の価値そのものが棄損する、だがそのような権利は人間にはない、なぜならば愛とは神の領域に存する言葉であるからだ、故に人は愛を嘘をもって裏切ることはできない
愛とは神という「私」の唯一の対象であり唯一の権威を認めることにより初めて誕生しうる概念である、故に愛とは神の愛であると同時に個の万人に対する慈しみの心のことである
神にこだわるということは愛にこだわるということである
甚だ僭越ながら上記した内容を前提にするのであればなぜ神が人類に一見残酷な仕打ちとも思える悲劇をもって犠牲を払わせるのかももしかしたらそこに何らかの推論を立てることもできるのかもしれない

神はすべてを救う、故に神の理想の実現のために被創造物で唯一人間のみが理解可能な愛を善と同様普遍的な価値を持つものとして人間の間に遍く行き渡らせようと神は考えている、そのためには愛の本質的な非日常性を人間に悟らせる必要があった、愛とは第一に博愛のことであるが故に日常を脱した者こそがそれを知りうる立場にある者ということができる、悲劇に見舞われた者とは故に神により選ばれた者、神の普遍性は彼らによってこそ受け継がれていく、そして犠牲とはつまり救済のことである

日常と非日常の峻別、そして愛は非日常の中にこそある
ここには犠牲と伴に「献身」という言葉も見え隠れする、おそらく愛が日常の中に埋没するようになったのは比較的最近のことではあるまいか、そういう意味ではそろそろ短期的であっても原点回帰的な精神の動きが見られてもよいころではないかと思う
人間の知恵は数多の試練を経てしかし嘘と富の中間にあるべき一本の絶対的な区分線を曖昧なものにしてしまっているようだ、それは貧富の格差の拡大に従って進行しまた中央と地方の格差という別の問題も生んでしまったようだ、より多くの富を得る者がより多くの愛を得るわけではない、それどころかその逆であろう、だが人生の成功モデルの一つとして、いやその筆頭に来るものであろうか、アメリカ合衆国での最もポピュラーな人生観というものがここへきて全世界規模で影響力を持ちつつある、ここは慎重に読み進んでいってもらいたいところだが歴史のない国アメリカの人、物、金に関する基準というものが過度にグローバルな価値を持ちすぎることは、22世紀以降の人類を考えたときにはもしかしたら好ましい結果にはつながらないのかもしれない、だがここでアメリカの代わりに中華人民共和国が来ることもほぼ同じくらいかまたはそれ以上の確率でNoであろう、ここに欠けている観念は「中庸」である、しかしここは「水」でもよいのだ
てっぺんに達した者以外、皆比較の犠牲者になる
これは洋の東西を問わず、21世紀社会を生きる人々のその宿命であろうか、poorはmiddleになりたがり、middleはrichを目指す、そしてrichはestablishmentをその最終目標とする、引き際の美学は最後まで置いてきぼりを食らい、成功者は利潤が滞った時に何が訪れるかを知っているが故についに追求と拡大から解放されることがない、この過程において都市から失われるのが何度も記しているように「隙間」と「脈絡」である、だがこの二つは想像力と創造力にとって欠かすことのできないものであり、都市は肥大すればするほど優秀なcreatorたちを失うことになる
ではどうすればよいのか?
回帰である
そしてこれは愛に矛盾しない
愛が理性の最上級の働きならば、そこにある精神の動きは拡大ではなく循環であろう、これは環境問題における望ましい意識の動きとも合致するが、文明を短期間にここまで進歩させ、然るに人類により多くの幸福と安全を保証し続けてきたその基盤となったものが想像力と創造力であることは誰も異を差し挟まないであろう、ならばここでは「拡大」と「追求」を旨とする人々こそcreatorたちの前に跪くべきであろう、私たちは今ある諸問題を私たちだけで処理してしまおうなどとは考えてはいけない、私たちにできるのは引き継いだバトンを適切に次の世代に引き継がせていくことだけだ、そうでなければ私たちは文明の進歩の在り方というものを見誤ってしまい、場合によっては地球上のエネルギーのほとんどを21世紀中に使い切ってしまうかもしれない、私たちには地球しかない、もし火星や土星の衛星に人類が使用可能な資源が眠っていたとしても、それを「私たちのためにあるもの」と解釈することは少なくとも現時点ではやはりあってはならないことなのではなかろうか、なぜならば火星にも一億年後に私たちのような知的生命体が誕生するかもしれないからだ
私たちは利潤の追求よりもポイント・オブ・ノーリターンの領域までは踏み込んではいかないことをこそ優先させるべきだ、かつては誰もポイント・オブ・ノーリターンまで達することなどできなかったが、20世紀後半以降それは可能になりつつある、だから核には用心しなければならない、核は最悪の場合後戻りできなくなる
「引き際」とは敢えてそれを「しない」ということである
ここまで推論を重ねてきてここで以下のように愛を定義することはおおよそ可能ではなかろうか

愛とは「私」と「神」との関係において神を唯一の絶対者そして唯一の権威と見做すことによって生まれる個の万人に対する慈しみの心をその基盤とする、最上級の理性の働きのことである、故に愛は人が人を愛さずとも存在しうるものであり故に人は嘘をもって愛に報いることはできない、したがってしばしば愛は「しない」を選択する、これは精神的にはおおよそ常に拡大ではなく循環を志向する

私たちが日常的に使用する愛という言葉はおそらくただそれだけでは普遍性を持ちうるものではないのかもしれない、誓いの言葉は神をその認識において明らかに内在させているものであるが、愛の喜びはいつしか過酷な現実と相殺され、本来ならば別々の人格を持つ者同士をつなぎとめるその最大の役割を担えるものであったのかもしれないのに、世俗的な価値に風化していくという現象を頻発させている
ここでは理想と現実との取引が行われているわけであるが、問題なのはそのような理想からの乖離がこの21世紀より一層進んでいるように見えることだ、そこに復活のための僅かな機会が見え隠れするのであれば、きっと「多様性の尊重」というスローガンもまたその言葉の背後にあるべき理念を伴って私たちの意思というものの新しい運動の形を喚起するのであろうが、このあたりはやや微妙な段階に入りつつあるようだ

愛が一義的には博愛であるならばここは善よりも多くの時間が必要になるのかもしれない、善は道徳のレヴェルにおいてもおおよそ理解可能なものであるが愛は信仰、またはそれにつながりうるものが不可欠であると考えられるからだ、真の愛は日常を大きく逸脱したところにこそある

これまでの文明の進歩というものがそのためのウォーミングアップのようなものなのだったとしても、回帰が近づきつつあるのであればどこかで私たちの認識は反転するはずであるが今現在それを楽観視することはできないようだ

きっと回帰が私たちに何かを告げるであろうが今はただその時を静かに待つしかない


究極の善ついて

さて前章では理性の最上級の働きと題して「愛」について語った、愛するという行為は命を「感じる力」と並んで神が人間に与えた美徳の中で最上位に来るものであり、故に「愛する」には「私」の唯一の対象である「神」の存在を介在させることが必要なのであると書いた、また愛とは人々の間であまりにも自由にまた恣意的に感情的に解釈される恐れがあるために理性による愛の定義が必要であろうと書いた、神は自身の理想を実現させるために人間に知恵を与えそこから信仰が生まれ、やがてそこから連帯や相手を慈しむ心が生まれた、そういう意味では愛とは神の愛のことであり、また愛を司る理性の最上級の働きが人間によって理解されるにはまだ相当な時間がかかるであろうと書いた
だが回帰が起こればそれがいつか正と負を反転させるかもしれない、だから今は静かに時を待つしかないと書いた

さて愛について述べた以上、次は善について述べなければならないだろう
「愛」と「善」はいずれも神の概念がない限りは理解されえないという点でよく似ている
前章では愛は唯一の絶対者である神の介在による理性の最上級の働きと書いたが、では善はどのように定義されるべきなのであろうか?
後半の冒頭でも述べたが、この後半の中心のテーマである「究極の善」は前半のテーマであった「負の肯定」と対をなすものである、そしてこの両者は強い理性によって固く結ばれることによって初めてその役割を全うすることができる
また愛を司るものが最上級の理性であるため、愛もまた究極の善そして負の肯定とも密接に関連していると推測することができる
ではもう一度と問おう
究極の善とは何か?
その前に善そのものの定義についても触れなければならないだろう、善もまた愛と同様に極めて敏感な主題となりうるものである、ただ善は愛よりははるかに人々によって整然と理解されているという印象がある、それは人が善の行いをするときには、おそらくは常にある一つの概念が想起されているからであろう
それは「自分のためではない」ということである
この自分のためではないという考えには実に深い意義が隠されている、例えば鍵入れを拾ったとする、もちろん鍵もついている、それを拾った人はこう考えるであろう、鍵をなくしたこの持ち主はきっと困っているに違いない、そしてそれを交番に届ける、確かに鍵入れは財布とは違う、財布であればまた違う解釈ができるのであろうがそれについてはまた後で述べる
この「これをなくした人はきっと困っているに違いない」という思いは、他者を思いやるという行為であり、自分のためのものではない、これは前章にもあった慈しむ心というものとどこか関連しているようにも思える、また愛の定義で触れた「しない」の精神にもつながっている
つまり、自分の利益にはしない
この時点で他者を思いやる行為は、それ自体が善の精神に立脚しているということが可能であろう、ここにまだ神はなく、ただ人間としての道徳観があるのみである、ここまでは教育の話であって神という形而上学の段階には達していない、だがここには究極の善にもつながるひとつの重要な要素がある
それはいうまでもなくヒューマニズムである、まだこの時点ではそれについて論じるには早いであろう、だが「自分のためではない」の中に明らかにヒューマニズムの萌芽を読み取ることは可能であり、またそれは功利主義(おそらくはナショナリズムとも)とも対立するものであるため、究極の善を考える時に関連付けて想起することは有効であろう
ここですでに善とは実利に反するものであるという結論がほぼ導かれている、これは私たちの日常に散在する愛という言葉が体現するものとはおそらくかけ離れており故に神にそれだけ近いともいうことができる、愛とは即ち神の愛であるが、善はそこにヒューマニズムを色濃く漂わせているため、これ以降は善については愛とは切り離して論を進めたいと思う

他者を思いやる気持ち=自分のためではない≠功利主義

善の中心に潜む道徳はその多くが教育の結果であるにもかかわらず、最終的にはヒューマニズムとの関連を否定できないために、やはりそこには崇高なエスプリが漂う、これはもしかしたら日本人にはやや苦手な分野なのかもしれない、なぜならば教育による道徳が信仰による善に昇華した瞬間そこには神が現れるからである、そして教育から信仰にその行為の端緒が変化したときにヒューマニズムが現れる、だがここではこの部分は無視して私論をこのまま進めたいと思う、なにとぞご了承願いたい

さて善とはその根底においては道徳であり、故に教育に端を発するものであり、この時点では純粋に人間のためのものである、それは概ね日常の範囲を逸脱するものではなく、また容易に理念へと変化するものでもない、例えば地蔵を見てふと自分を省みるなどはこの範疇に属するものであろう、だがそれ故に善とは温もりであり、優しさであり、また郷愁であり、そして時に友情である
確かにこの日常に溢れて然るべき道徳の範疇にある善は神の愛よりははるかに身近なものでありながら、いつしか日々の務めに忙殺される私たちはそれを遠くへと追いやってしまっているようだ、この厳しい現実は私がこの書で「究極の善」を記すその動機になっている一方で、私のこの理念というものが実は現状を鑑みたときに非現実的なものとしてしか受け取られないのではないかという恐れにも似た思いにも私は同時に駆られるのである
だがここまで論を進めてきた以上私はこの書を完成させるためにもさらに数歩踏み込まなければならないであろう
善は道徳の範疇にあるもの、しかし究極の善は神の範疇にあるもの、故にそこにはヒューマニズム(人道主義)が色濃く反映されるものになる

さてここで私は平和について一筆記さなければなるまい、これは究極の善を考えたときにどうしても避けることのできないものであり、また愛にも関連していることでもある、あまり大袈裟な表現にならないように気を配りながらも、筆を進めたいと思う

平和とは何か?
平和とは何もない自由な日常を指すに非ず
それは何物にも脅かされることなく日常を生きることができるという権利のことを指す、故に平和とは人権が保障された状態のことを指す

ここに言論の自由が関連してくることはいうまでもないが、前半でも述べたように自由とは権威に抗うものであるため、自由と同じように平和もまた私たちの日々の努力によってしか達成されえないものであると結論付けることができる、もし自由の反意語が権威であることが十分に認識されているのであれば、平和=自由と定義することも可能であろう
また平和の反意語はもちろん戦争でもあるがそれ以上に権力である、特に戦争には大義が必ず必要になるため、大義を常に必要としている公権力というものは実は民衆にとっては身近な存在ではなく慎重に接するべき存在なのである
したがって権力に対しては普通選挙を定期的に実施し、その都度候補者に有期の信任状を与えるという限定信任が望ましいのである、自由を考えるとき必ず民主主義が出てくるとすでに述べたが、それは権威の反意語である自由が平和と密接に関連しているからであって、したがって平和もまた直接普通選挙による民主主義によってこそ叶えられるべきものなのである
おそらく民主主義というものは僅かな綻びによって崩壊する、例えば選挙が事実上形骸化してしまえば、公権力は直ちに国民から自由を奪うであろう、なぜならば権力とは大義によってこそ維持されるべきものであり、政治とは政党が拡大を目指す限りにおいてヒューマニズムと対立するものだからである、国益と個人の利益とはしばしば矛盾する、だからこそ有権者によるチェック機能というものが常に作動していなければならないのだが、これは監視者に過度の緊張を強いるためおそらく定期的に崩れる、そのようなときに野心に駆られた独裁傾向の強い反民主主義者が現れないことを願うばかりだが、果たして21世紀は20世紀とは異なる時代となるのであろうか?

さて平和に話を戻そう
私たち日本人が戦争を忌み嫌う気持ちは十分に理解されるべきものである、それほどまでに日本人が戦争と聞いてまず思い浮かべる先の戦争、太平洋戦争は悲劇的なものであった、ここでは多くを述べないがあの3年8か月の間には肯定的に解されるべき要素がほとんどない、このような戦争も珍しいのではないだろうか?
例えば話は変わるが、本能寺において織田信長が家臣明智光秀に討たれたとき、信長の後継者である織田信忠も同時に討たれている、この時信忠は逃げようと思えば逃げることができた、だがそれを武士として潔しとせず自刃している、信忠公には申し訳ないが彼が腹を切ってくれたおかげで秀吉の織田家乗っ取りが首尾よく収まり故に戦国時代の終焉が早まった、おそらく信長亡き後信忠公だけの尽力ではこうはいかなかったかもしれない、1600年にはオランダよりリーフデ号が九州の臼杵に漂着している、つまり天正10年、1582年は天下統一待ったなしの状況にあったのである
そのように「彼には申し訳ないが、あの時負けて良かった」というような後世の人々によって負の出来事であるにもかかわらず大きな声では言えないが肯定的に解釈されている事実が歴史上にはしばしばある、だがそれが太平洋戦争にはほとんどないのである、パール・ハーバー(宣戦布告は間に合わなかった)もミッドウェイも、ガダルカナルも、ブーゲンビル島における山本五十六長官機撃墜も、レイテ沖も、マリアナ沖も、硫黄島も、特攻隊も、東京大空襲も、沖縄も、そしてヒロシマ、ナガサキ、すべてが絶望しかない戦いであった、サンゴ海海戦など一部を除いて3年8か月すべてがそうである、確かに歴史を紐解けばポエニ戦争や、モンゴル軍のバグダッド攻略など、耳をふさぎたくなるような話はいくつもある、だがここ数百年ではおそらくここまで絶望的な戦争は太平洋戦争だけであろう
国体が護持されたのは日本人にとってはせめてもの救いであったのか、いずれにせよ日本人の戦争を憎む気持ちはまだ終戦より71年しか経ていないことを考えれば文字通りやむを得ないことであろう

だが戦争の反意語は平和だけではない
戦争の反意語は自由であり、ヒューマニズムであり、そして民主主義である
そのように考えると平和とは戦争を憎む思いだけで達成されるものではないのもまた事実であろう

さて究極の善である、もうそろそろこの言葉の核心に迫らなければならない
だがそれは私にとっては容易なことではない、なぜならば私の人生そのものが究極の善とはほぼ交わりをなさずに現在に至っているからである
おそらくはそうではない人々も多くおられるのであろう、そのような人々こそ究極の善を語るにふさわしい信徒、そのような方々を差し置いて私のような一小民が大天井より物を申すというのは明らかに憚られることではある、だがこれについて記さなければこの書は完成を見ない、故に甚だ僭越であることを予め読者諸君にお断りしておいてから論を進めようと思う

究極の善は、信仰を知ることによって生まれ、民主主義を学ぶことによって醸成され、ヒューマニズムに辿り着くことによって自省の言葉として認知される、故に究極の善とは自分の内側に向けてのみ発せられる言葉であり、ごく少数のそれを発するに相応しい者を除いて、多くの人々にとっては心の隅の鍵付きの箱の中に普段はしまっておくべきものであろう、まして私のように特定の宗教に帰依しない流れ者のような信徒にとっては「個別」を信仰の拠り所とすべきだと主張しているが故にここは何とも言えぬジレンマを抱えながらの著述ということになる
よく考えてみれば究極の善とは幼い日々には実に身近なところにあった、そして実践可能な、ひとつの教訓として記憶されることさえない当たり前の行為だったのである
だが14歳になりプライドが芽生え始めると、事は急展開を見せ始める
時間が連なり始め過去における特に負の出来事を脳裏より消去することがひどく難しくなる、また一方で理性が成熟していくにもかかわらずもう一方ではしばしば感情に流され、様々な経験が重なるにつれて正しいか否かではなく、己に利益があるか否かという一つの尺度に依った時に極端な判断を是とするようになってしまう
そしていつしか当たり前のものではないことが当たり前になり、新しい価値の創造のための限界へのチャレンジではなく、ヴァーティゴの危険性があるにもかかわらずその時点で多数を占めるものにある意味盲目的に追従していくことになる
すべてはプライドから始まった
だが私はこの矮小なプライドを負のプライドと呼び他と区別したいと思う、私が推奨するプライドは正のプライドであり、それはすべてが救われるという私の究極の論理がモラルハザードに陥らないようにするためにどうしても欠かすことのできないものだ、だがそれは究極の善の次に来るべきものだ
まず究極の善について述べ、ヒューマニズムによって信仰の確認を行い、そして最後に正のプライドについて述べようと思う

ここまで私が縷々述べてきた私論のすべてが諸君にとって少なくとも理性的に解釈されていることを前提としたうえでこの章の最後を記したいと思う

究極の善とはつまりはこういうことである

汝の敵を愛せ

だが果たして誰にこれができるというのであろう?
私がこの言葉をここに記す以外ないと認識しながらもそれでも尚躊躇することを禁じ得ないのは、この言葉が宗教的であり過ぎるからというのではなく、この言葉がこの21世紀においてはあまりにも遠くに感じられるからである
敵とは即ち最大の負
自分の内側に革命を起こさずして誰もこの至高の善に辿り着くことはできないであろう、前半においてもっと突き詰めておくべきであったのかもしれないが、「負の肯定」とはそれを排除することをしないではなく、それを積極的に受け入れるということである、差別しないではなく、進んでそれを招き入れるということである
究極の善が特別なのはそれが後世美談として伝わる可能性が極めて低いにもかかわらず人類よりも神を優先させることによってのみ完遂しうる究極の自己犠牲をその内側に孕んでいるからである

神によってのみ評価されうる自分のためではない行為

栄光とは常に無名戦士のためにこそあるもの、現世的に「利益あり」と多数派によって看做されるものはすべて善とは真逆の方向にあるものである
そして神とは善である

人類は今ものすごいスピードで神から離れていっている、だがこれもまたやがて起きるであろうグレートターンのために蓄えられるべきエネルギーのその前段階の反動的動作なのか?
振り子はいつか限界に達しそれまでとは逆の方向に振れ始める、おそらくそれは人類史上何度も繰り返されてきたことだが、次の方向転換は象徴的なものとなるかもしれない、私たち人類はこの地球以外で生きていくことはできないということにもう気付き始めている、遠い将来は脱出組と残留組とに分かれるのかもしれないが、それでも私たちホモサピエンスにとっての故郷はこの地球という惑星だけである

私はすでに人間は絶対者にはなれないのだと繰り返し述べてきた、しかしその一方でこうも述べてきた

限界へのチャレンジによって新しい価値の創造を次の世代の人々のために行う必要がある

この両者のバランスを如何にしてとるのかということがこれからの私の大きな課題であろう、真に偉大なる人間は多くの負を知るが故に決して神になろうとは思わないというのが私の現段階での結論だが、私の恐れは気付くことに遅れた人類がこの20世紀と21世紀の200年間でこの地球上のすべての使用可能な財産、資源を使い切ってしまうのではないか、つまり22世紀以降の人々の取り分がなくなってしまうのではないかということにある、そのように考えるとグレートターンは遠い未来の話であってはならない、21世紀は「多様性の尊重」の時代であるべきだ、「より速く、より多く」ではなく、「より寛大に、より慎重に」でなければならない、社会共通の尺度ではなく個々人の自由意思による尺度が重視されるような社会、弾力性のある社会とは所々に逃げ場のある社会のことだ、強制力が弱まり、自己判断力が強まる、特定の人物の絶対的な判断によってすべてが決まるのではなく、参入と退出が可能な限り自由である共同体、雲一つない青空ではなく、雲の群れがちらほらと見えるような、100点を必ずしも目指す必要のない社会
ひとつの共通の目標に向かって若者たちが朝早くから集合して勉学や労働に勤しむ、そのような光景を美しくないと言い切るつもりはないが、だが18歳にもなればそれは個別の判断の集合体であるべきだ、自分の人生なのになぜ自分以外の人の意見が優先されなければならないのか?
「抗する」ことを知らぬ人間だけが盲従するのである
それは善ではない

神はこの世の唯一の絶対者である、にもかかわらず神への反抗は赦されているのだ、神に抗することによって神の代理人を名乗る不届き者の言葉に踊らされることを防ぐことができる、この悪に傾く者に加担することから逃れるには究極的にはひとつの方法しかない
ここで「負の肯定」と「究極の善」がついに一つになる

曰く、不倶戴天の敵との和解

追い風を感じられる人とはすぐに友人になれる、だが逆風に感じられる人とはすぐには友人になれない
私はすでにこう書いている
神の使者は、雨の日や、ホームレスがいる所や、鼠が出そうな裏通りや、そのような綺麗で清潔な空間ではない所で見かけることができると
そしてまたこうも書いた
神の手は汚れている、なぜならば神は日々労働に勤しんでいるからだ、と
“Welcome”というのは誰か?
それは神ではない、すべてを救う責務を負う神がなぜ人間に手招きをするのか?
騙されてはいけない、神の使者がメインストリートを闊歩することはない、神の使者は皆薄汚れた粗末な服を着た痩せた旅人、彼らには裏通りこそが相応しいのだ
彼を敵だと思うなら、君よ、もう結論は出ているのだ

究極の善とは戦争の終わり
そして究極の善とはついに到達できぬ神の山の頂
そして戦争とは永遠に続く人間が贖うべき罪の総称

恐ろしいことだ、神は人間に知恵を与えておきながら、そこから想像力と創造力が芽生えることを予知しておきながら、それが人間にもたらす喜びと真逆のところに人類の最終の到達点を据えた
ならば人の喜びというものはいったい何のため?
100の喜びを得たものは100の悲しみを知ることになる、しかし10しか喜びを知らぬものは10の悲しみを背負うだけで足りる
最後はすべてゼロになる
しかしゼロとはつまりこういうことだ

救済

私たちはゼロから生まれ、長い旅路の果てにまたゼロに戻る
一周するのだ、やはり人生は曲線
曲線故私たちは繰り返すのだ、何もかも
時にそれは表、そして時にそれは裏
まるでメビウスの輪のようだ、表は昼、裏は夜、また表は労働、裏は休息、そして表は出会い、裏は別れ、最後に表は生、裏は死、すべていつしかそうなる
最後は皆ゼロになるのにそれを人間に伝えないのは神の優しさなのかそれとも厳しさなのか?

神を論ずることと幸福を論ずること
人生の厳しさを論ずることと神の意図を論ずること
だがきっとそこには終着点がある

取りあえず次の章へ進もう

ヒューマニズムについて

ヒューマニズムについて

さて前章ではついに究極の善について述べた
善とは愛の次に来るもの、そしてそれは「自分のためではない」がキーワードになっている
もちろん善の行為とはまず道徳によって成り立っている、だが道徳が教育によって導かれているのに対して、善は信仰によって導かれている、善を体得するには神の介在を認めることが必要なのである、つまり善とは神の善である
それは功利主義(実利的に行動すること)と対照的であり、そしてここにヒューマニズムの存在を認めることによってそれは初めて究極の善足り得るのであると書いた

また究極の善は平和との関連なしに述べることはできず故に言論の自由や民主主義とも切り離して考えることはできない、また自由の反意語は権威であるため平和のための自由を獲得するには、権威の衣を纏う公権力とも対峙していく必要があると書いた、そうでないと、間隙をぬって独裁的傾向を持つ不届き者が現れるかもしれないと
究極の善は信仰、自由、民主主義、そしてヒューマニズムの延長線上にある、したがってこれは愛と並ぶ神が人類に与えた最も崇高な美徳でありながら、にもかかわらず多くの人にとっては認識することの容易でないものである
なぜならば究極の善とは、神によってのみ評価されうる自分のためではない行為であるからだ
神によってのみそれが評価されうるというのはそれが善の行為であり故に「敵を愛する」という人間にとって最大の難関を超えたところにのみ究極の善は存在しているということであり、神はわざと現世的な喜びに頓着する人には絶対に気付かれないであろう所に人類の、いや神の理想の最終地点を設定した
これは実に厳しいことであるが、しかし私たちが正のプライドを身につけることができればそれは可能であろう
なぜならば最後はすべてプラスマイナスゼロになるのだから
そしてゼロとはつまり救済のことであると
概ねそのようなことを書いた

さて「愛」、「善」ときて次はヒューマニズムである
教育による道徳が善に昇華するとき必ず神が現れ信仰が生まれる、そしてその時に私たちが遭遇するのがヒューマニズムである、ヒューマニズムとは当初は道徳的なごく身近なものであった善がより積極的、普遍的なものに変化していく時に必ず通らなければならない関門であり、ここを通らずして人間は究極の善に辿り着くことはできない
またヒューマニズムとは神の介在による愛と善を結びつけるものとして極めて重要な役割を担っている
なぜならば神の介在による愛と善とは対照的な動きを見せるからである
愛とはすでに書いたように「奪わない」ということである
それに対して善とは神によってのみ評価されうる自分のためではない「行為をする」である
前章では鍵入れを拾ったことを例として用いたが、これは財布を例にとるとわかりやすい
財布を拾ったので交番へ届ける、中身の確認などはしていない
ここには「奪わない」と神によって評価されうる自分のためでない「行為をする」の両方の要素を見て取ることができる
これ即ちヒューマニズムである
だが事がそれほど簡単でないのはここに信仰が入るからだ
たとえばその財布を拾った方がお年寄りで身寄りもない貧しく孤独な生活を送っていたとしよう、もしそのお年寄りがその財布を天からの贈り物であると解釈して懐に入れた場合はどうなるのか?
実はここでヒューマニズムを取り上げたのはこのような複雑な問題がヒューマニズムの中には隠されているからである
確かに財布の中身のすべてを拝借するのはいただけない行為であろう、では一部ならどうか?
その孤独で貧しい老人(老女)が、それが天からの贈り物であると理解することにはおそらくいくらかの理があるのであろう、もちろんこれは窃盗である
だが私はすでに究極の善は神によってのみ評価されうるものであると書いた、ならばこの老人は自らの判断によりその財布の中身の帰結を決断するべきであろう、私はすでに前半において「レ・ミゼラブル」における銀のさらを盗んだジャン・バルジャンの話を例に出して彼を警察に突き出さなかった、それどころかさらに二本の燭台を与えた聖職者の行為を崇高であると結論付けている、ならば財布を拾った貧しい老人は自分自身で自分が行おうとしている行為が神の評価に適うものであるかどうかを判断すべきであろう、厳密にはその財布の中の金額にもよるのであるが、教育であればこれはNoであるが、信仰であればそこは「寛大」と「慎重」故に神の善を知る者であれば、彼にしか出せない結論というものがそこにはあるはずなのである、つまり自ずからそうなるのである、これはおそらく信仰は理性に先立つものではないという私個人の考え(かつてのキリスト教異端の考えに近い)によるところが大きく、諸君の間では異論も多いのであろうが、すべての民に幸福を追求する権利があり、にもかかわらず幸福とは程遠い生活に甘んじている人々も数多いという現実から想像するにここは教育とは異なる結論もありうるのである

そして教育による道徳ではなく信仰による善の結果であるヒューマニズムのもう一つの力点は民主主義にある
愛と善はそこに信仰があり神が介在する限りにおいて民主主義とは切り離して考えることのできないものである、なぜならば民主主義は多様性を担保しているからだ、神は神の理想の到達点を現世において十分な幸福を掴んだ人には気付かれないような所に置いた、それは負を多く知る者だけがこの世の真実に近づくことができるという神の意思の表れであり、同時に最後はすべてプラスマイナスゼロになるという神の天地創造に着手したその瞬間における神自身との約束の忠実な履行の結果であろう
だが神の意図を知るにはまだ十分な歴史が足りない人間たちは、実際にはゼロサムゲームなのにそのことに気付かずに今日もまた効率性重視の競争を続けている
芸術の真逆にあるものは経済であり、前者は数えられないものの価値を、後者は数えられるものの価値を代弁している(両方大切)、そして信仰とは当然前者に属するものである、故に多様性の担保とはデータやインフォメーション(数えられるもの)がIT革命以降巷に溢れすぎている現在、それまで以上に敏感に扱われるべき理念なのである
おそらく「より速く」、「より多く」が幅を利かせすぎると、効率性がさらに伸張し、したがって多様性は相対的に失われ始める
だがヒューマニズムとは多様性と同様、隙間から生まれてくるものである、そのためには社会を語るうえでこの言葉がキーワードとなる

弾力性

インタラクティヴなどもよい感じの言葉だ、そこへの参入と退出が自由に認められている社会、誰か絶対的な権力を持っている者が、いわゆる鶴の一声で事を決するのではなく、「秩序」と「寛容」のバランスを可能な限り最大にうまくとりうる制度がヒューマニズムにとっても最も良い社会ということになる
実は双方向通行というものはしばしば面倒臭いものである、なぜならば十分な知識を持たない者も時に参入してくるからだ、そういう意味では民主主義に完璧はなくまた終わりもない、しかし模索とは即ち民主主義のことではないのか?
先ほどの財布の例でみても分かるように信仰によるヒューマニズムの理想的な在り方一つをとってもそこに各論の微調整が必要であることがわかる
人は様々であり、文化を横に動かすことはほぼ不可能に近い、だからこそ権威に抗う自由の徒が常に必要になるのである

私はすでに愛とは神の介在による理性の最上級の働きであると書いた、では善はどうか?
善もまた愛と同様、神による善である
ならば私たちは理性の働きを最大限に発揮できるであろう状態を維持する必要がある、神が発言をしない以上、私たち人間が理性を信じなくて一体何を信じるというのか?
そしてこの理性の働きこそがヒューマニズムの原点である
だが私が言うヒューマニズムはそこに信仰が入るため、神を遠くに感じる人にとってはやや理解が難しいのかもしれない、だが私にとっては神とは普遍そのものであるため、「私」の唯一の対象が「神」である以上、ヒューマニズムもまたその関連の中から読み取られるべきものなのである

さて最後にヒューマニズムの核心について述べたい
それは前々章の「理性の最上級の働き」と前章の「究極の善について」の流れの中から導かれるべきものである
私はすでに負の肯定について述べるとともにまた前章で最大の負は敵であると書いた、そしてこの論点から推測するに負の肯定と究極の善は「不倶戴天の敵との和解」という極めて実現困難な結論によって終息に至っている
果たしてここにヒューマニズムの役割を見つけ出すことはできるのであろうか?
もしヒューマニズムが何かの書物による倫理的影響を強く受けるものなのだとしたらそこにあるのは学術的解釈の可能なひとつの叡智の結集であると看做すことができるであろう、またそうではなくてヒューマニズムというものが人間が本来持っているその本能に根差したものであると考えるならば、それは学ぶものではなくすでに体得している、にもかかわらず多くの場合彼自身まだ気付いていない美徳の領域であると考えられるであろう、後者には性善説が色濃く滲み出ており故に科学的、合理的な見地からはおおよそ是認しがたいものであろう、また前者の場合も論争そのものに論点の中心が移ってしまう可能性がある
ならば究極の善の追及時においてヒューマニズムは何を私たちに伝えようとするのだろうか?
神の愛が巷に溢れるものとは別物と定義できるのであればヒューマニズムにもまたその定義を援用することができるかもしれない

つまりヒューマニズムとは追いかけない理性

確かにこれは条件付きだ
神の愛=理性の最上級の働き、それだけではあるまい、この主人公には理想と哲学が必要である、愛は「しない」である、善は「する」である、そしてヒューマニズムはその二つを中和させたものである

即ち、「見つめる」

そして彼の理想と哲学がやがて然るべき時に彼にしか分からない暗号で答えを告げる
ヒューマニズムを知る者は自分の前を行くものを知るのではなく自分の後ろを来るものを知る
では自分の前にはいないが後ろにいるものは何?
それは神の使者だ
というわけでここにこの言葉が出てくる

漸進

この言葉はすでにこの書において一度用いているが神の御業というものを考えた場合やはりこの言葉が不意にではあるが脳裏に浮かぶ
神は急進を認めない、少なくとも人間をそれに耐えられるようには造らなかった、しかしだからこそ事実(史実)の正確な伝承というものが必要になるのだ
事実の正確な伝承とは何か?
それはバトンのことである、私たちは皆いつかこの世を去る、したがって次の世代にバトンを引き継がせなければならない、それが事実の正確な伝承である、だからこそ言論の自由が保障されていなければならないし、また自由を獲得するために権威に抗わなければならないのだ、そういう意味ではジャーナリズムというものは実に重要な役割を歴史に対して担っていることになる、彼らが意気軒高であってこそ未来は望ましいものになるし、またその逆であれば少なくともその国、地域には明るい未来は訪れないであろう
なるほどこのように考えてくるとヒューマニズムと自由とは実に密接な関係にあるということができるであろう、民主主義とは言論の自由を確保することによって実現される、そして自由の反意語は権威である、ここにヒューマニズムの影を視認しない者はいまい、人道とは22世紀以降の世界を予想しても、今以上重要視されていることはあれその逆はあり得まい、自由とは権利のための闘争、そして人道とは平等のための精神の旅路
この闘争も旅もきっと永遠とも思えるほど長いものになるに違いない
だが私たちが諦めることさえしなければいつかは終着点に辿り着けるに違いない
ここまで書いてきて、私はヒューマニズムについて以下のシンプルな言葉でこの章を締めたいと思う

命の価値は皆平等

もうこれ以上ここでは必要ないであろう

正のプライド

正のプライド

さて前章までの3つの章でこの書の核心といえる私の理念を書き連ねた

言論の自由(権利としての自由)
幸福を追求する権利
人道主義に基づく命の価値の平等

一見誰にでも理解可能な理念のように思えるが、私の場合ここに信仰が加わるのであり、故に「私」の唯一の対象「神」の介在が上記した3つの理念の理解習得には不可欠なのである
信仰は誰によっても強制されるものであってはならない、神は常に私たちの背後にいる存在であり、強い理性の習得がない場合、神というものは沈黙していることもあり容易には語るべき理想の中には登場し得ないものだ、したがって、ここに記すすべては何度も繰り返しているようにあくまでも私論なのである

正と負、それらは拮抗している状態が望ましい、だが最終的には正が負を上回らなければならない、では最後にものをいうのは何であるのか?
それが信仰である
最後に正と負そのいずれに転ぶのか、それは信仰の有無によって変わるのである
おそらく死によって初めて私たちは信仰というものがどのような意味を持っていたかを知る、だが死者が再び娑婆に戻ることはないために私たちは生の価値というものを必ずや推測によって判断していくしかない、私はこの世のすべては二つで一つという考えに依っているため、死はあくまでも通過点に過ぎないという主張をしているわけであるが、しかしこれもまた他の意見と同様推測であり、死後が明確でない以上、神はいるのか?も、また生とは何か?もいずれも生の世界にいる人々にとっては永遠に答えの出ない疑問である
しかしだからこそ私たちは推論するのだ、なぜ神は人間をここまで不完全に造りながら知恵を与えたのか?
欺瞞と驕慢と窃盗と殺人と快楽の追及に結局はあまりにも多くの時間が費やされることになるということに神は気付かなかったのであろうか?
だがその一方で絶対的な現実としてこの世の美しさがある、多くの私論を書き連ねるのにこれだけでも十分な動機となる
然るに神に悪意があるならなぜこの世はこんなにも美しいのか?
だから追及するのである、富ではない、真実を
私は時に思う、神は実は発言しているのだと、だが現世に染まり過ぎた者にはそれが聞こえないだけであると
すでに神とは粗末な服を着た、大通りではなく裏通りを行くような痩せた旅人であると書いた、ならば神の光とは六等星の輝きようなものであろう、それは漆黒の闇の中でしか肉眼では確認できないのだ
そのように考えるとこの21世紀、神の声は年々感じることができないようになっていくのかもしれない
知恵の無限と感情の放埓を信仰による強い理性によって制御していく時、必ずやそこには理想が生まれる、理想とはとりもなおさず現実へのアンチテーゼである、ならば理想のない現実はないということになる、現実に完全無欠などということがあろうはずはなく、そこには多くの批判可能な凹凸があるということは論を待たないからである、だからこの章の冒頭の3つの理念になるのである

万物は対象を求める
ならば「私たち」の対象は何か?
それは「現実」ではなく「未来」である
そして未来の反意語は「過去」でもあるが同時に「頽廃」である
頽廃とは通常進歩の逆であり、今日と同じ明日を是認するということである
そこに「次の人」の認識はなく、それどころかそこに象徴的に存在するのはドラッグと肉欲を中心とした、にもかかわらず効率性重視、多様性排除の20世紀の遺物と思しき明らかにダイエットを必要としている孤独な多くの中高年の姿である
私が民主主義にこだわるのはそこには現時点での人類が守らなけれればならない最低限の条件が列挙されているからであり、またこれが未来人に対する現代人の果たすべき責務でもあると考えているからだ、過去と未来はつながっているにもかかわらず、時の流れの中にはいつも幾つもの危険な因子が紛れ込んでおり、過去を学ぶだけではそれを予防することはできない、「過去」と「未来」をつなぐ「今」というものは実は常にストイックであることを人々に求めている、だが約束を守り切れない私たちは今いる場所から容易に離れることができない、これは誘惑のせいではなく生活の厳しさのせいなのだが、ここで重要なのは、ストイックの価値への覚醒はレールを逸れたときに訪れるインスピレーションの中にあるということだ、今日と同じ明日を望む以上そこに変化はなく、したがってレールを逸れることもないがためにストイックの価値には気付くことなく終わるのである
ストイックは民主主義とも結びついている、億万長者は金で権力を買おうとはしない、しかしその後継者たちは金で権力を買おうとするかもしれない、金はそれだけの代償を払った場合には決して汚いものではない、だが金も地位もより軽い代償によりそれが与えられた場合には、多大な反動を覚悟しなければならないであろう、錬金術というものは古代よりある、そして時にそれは成功してきた、神は時に犠牲を民に強い、故にそこには差別が生まれた
幸福になれるものとそうでないもの
この両者の格差は20世紀以降拡大し続け今や絶望的な状態に陥ろうとしている
この惑星の資源は無尽蔵ではない、果たして2101年に生まれた子供は2016年を生きる私たちと同様な幸福を夢見ることができるのであろうか、そして努力の結果その果実を得られるであろうか?
危険な因子のうち左寄りの人々は格差だけを口実に未来をつぶそうとする、また右寄りの人々は貧しき者の未来は富の中にしかないと考えている、何れにせよ彼らは動き続ける「今」という時間軸を常に不確実な未来と結合させることにおおよそ失敗し続けるであろう、今を生きる私たちは現実とつながっているのではなく未来とつながっているのであり、それは図にすれば襷掛けのような感じになる、過去は現在とつながり、現在は未来とつながる、したがってテロリズムや戦争を是とする人々が攻撃しているのは現在を生きる人々ではなくこれから生まれてくる人々を攻撃しているのである

未来に対する私たちの責任
それを果たしていくには民主主義という完全無欠ではないにせよ、未来のある時点においてまでは確かに最良の選択肢と思えるこの制度をその時が来るまでは維持していくしかないのである
私たちに今できることは未来人がその時が来た時(もっと理想的な制度が見つかった時)に、そのことに気付かずに通り過ぎてしまうことがないように世界の劣化を最低限に留めておくことだ、おそらく人口が75億を超え食糧問題が深刻化していくことが想定される現在、まさにここ2020年前後がポイント・オブ・ノーリターンの最終地点であろう

ではこの2016年を生きる私たちは今、これ以上の絶望に陥らないために一人一人何をすればよいのであろうか?
私はすでにすべては救われると書いた、神はすべての創造主であり故にすべてを救う責務を負っている、だからこそ神は被創造物に対して犠牲を強いることができるのであると
だがこの考え方によるとすべては救われるのだから理想を必ず追求しなくてもよいではないかという安易な結論に至りかねない
そこでこのような疑問が生じる

すべてが救われるのであれば、では私たちが生きる上での理想とは何か?

答えを先に言おう
それは正のプライドの中にある

すべては救われる、故に私たちにはある義務が生じている、それは知恵を神により与えられこの世の食物連鎖の頂点に君臨し、尚且つ想像と創造の間を行き来できる私たちは神により特別に造られた存在であるが故に他の生命体とは違う責務を負うのである
それが正のプライドである
では正のプライドとは何か?
これも答えを先に言おう
神の理想の実現のために可能な限り尽力することだ
故に正のプライドを語るうえでは信仰が欠かせないものとなる、以下それを唯一の条件として論を進める

信仰とは言うまでもなく対象の確認である
「私」の唯一の対象である「神」を知ることによって、私がなぜ存在するのか、そして私はどのように生きればよいのかが、人生の根本のテーマとして日々行うすべての行為の動機となりうる、私はこれを人間の存在の「根幹主題」と呼ぶ

この根幹主題は、当然人間はどうあるべきなのかという理想をその内側に孕んでいるが、その一方で哲学的であり、またストイックであるために20世紀終盤以降の社会では疎んじられる傾向にもあるようだ
特にこの21世紀を「拡大」から「循環」への転換期と考えるならば、人生の目標の設定がこれまでと異なりしたがって難しくなるため、人々の多くは20世紀には通用した法則がもはや通用しなくなることに戸惑いを覚えるであろう、本来ここにはフロンティアがあるべきであり、それがあればそこが21世紀の社会の新参者の開拓の場となるのだが、人間がこの地球以外では暮らしていくことが難しいのだということが明らかになりつつある現在、私たちは実は小さな惑星でしかないこの地球という惑星の中で新たな価値を発見するべく多くの挑戦を日々試みていくしかないのである
おそらく神は火星をもっと人間(ホモサピエンス)たちにとって都合のよいように設えることもできたはずだが、果たしてそうなっているであろうか?
もし火星が、人類がこの数百年以内に移住するのに極めて適した惑星であれば話は別だが、もしそうでないのであれば、私たちはこの地球という小さな世界の中で新たな精神的価値を発見していくしかないのである
よく考えてみればコロンブスがアメリカ大陸をヨーロッパに紹介したその約三十年後にはマゼランが世界一周を達成している、どう考えても早すぎるのである、コロンブスが発見したのはインドではなく、キューバだった、だから西周りでインドへ到達するにはもっと時間がかかってもよかったのだが、ヨーロッパ人はあまりにも早くその偉業を達成してしまった、すでにこの時点で地球は小さかったのである、きっと大航海時代には多数のフロンティアが地球上に存在し、しかも手を伸ばせば手の届く距離にそれらがあったために侵略者による多くの犠牲者が一方で大量に発生したにもかかわらず人類の歴史にとっては幸福で活気溢れる時代だったのだろう(もちろん悲劇を繰り返してはならない)、事実大航海時代がなければ産業革命(植民地戦争勝ち組のイギリスでそれは起こった)もまたなく、人類の幸福に明らかに資する科学技術の発展も現在よりは遅れるものとなっていたであろう(これまで搾取される側だった人々の権利を擁護していくうえでもdiversityになる)、だが火星に短期間に比較的安全に人類が移住することができないのであれば、私たちにはもはや空間的な意味でのフロンティアは存在しないことになる、このことは人類の精神史において将来大きな意味を持つことになると私は考えている

「人はパンのみにて生きるにあらず」とはよく言ったものだ
人間の精神というものは常に熱せられた空気のように上昇を求めている、そうしなければ鬱が私たちを待っているだけだ、神が沈黙を守り、死が永遠の謎である以上、私たちは精神の解放を模索し続けなければ鬱(これこそパンドラの匣)という魔物にいつか憑かれ、そこから逃れることができなくなるかもしれない
もちろんだからこそやがてグレートターンが訪れるのであろうと私は予想するのだが………

もしこの地球以外に人類が生存していく活路を求めることができないのであれば、私たちは神の理想の中にこそ自分たちのアイデンティティーを求めていくしかないのである
そしてその神の理想を人間のヴァージョンとして具現化したものが正のプライドである

この正のプライドには当然過去3つの章で述べてきたことのすべてが含まれる
つまりこの21世紀初頭を特に経済的、科学技術的な面でのひとつの頂点として認識し、そこから先は大きく迂回しながら新たな精神的な目標を見定めていくという「拡大」から「循環」へ、そして「効率性」から「多様性」へという人類史の一大転換期としてこの現在、つまり2020年前後を捉えるということである
正のプライドはまったく新しいプライドの形としてこれまでのプライドの認識とは一線を画す、これまでのプライドは便宜上負のプライドと書くがこれまでのプライドの概念そのものが間違っているというわけではない、ただ新時代のプライドを強調したいがために負のプライドと記すだけであるから、そのあたりのところはどうか諸君、正確に認識していただけると有り難い
正のプライドは信仰を第一条件とするためストイックであるということはすでに書いた
もうひとつあるとすればそれはやはり博愛であろう
ストイックであること、博愛的であること
ストイックは勤勉を博愛は多様性を担保している
また正のプライドとは人類の精神を神の名のもとにもう一段階引き上げるためのものであるため、誰か一人の絶対的なリーダーではなく個々の権利を持つ主体の切実なる理性的な、そして個別的な行動規範によって維持されるものとなる、当然人間というものはそれぞれの判断のための価値基準を有しているために、すぐに正のプライドがこの世に遍く浸透することはないと考えられる、しかも私は信仰は理性に先んじるものではないという考え方に依っているために、あくまでも理性に先んじた信仰を強いる人(組織)や、信仰そのものに距離を置く人にはこの正のプライドというものを理解することはもしかしたら最後まで難しいかもしれない
そのように考えると、この正のプライドが多くの人々によって理解されるには多くの時間が必要であり、またグレートターンが必要であるということになる
グレートターンについてはこの書の最後に述べるが、多くの時間という点ではそれは膨大な量になるということが予想される、というのもグレートターンは最初の一周ですべてが完結してしまうのではなく、何度もトライしては、その度に反動を受け、それを何度も繰り返しながら進行していくと考えられるので、最終的に正のプライドが私たちホモサピエンスの間でおおよそ多数派となるのは、31世紀以降であるかもしれない

渦巻き状に進行する私たちの歴史は、中央にあるゴールに達するころには、一周の周期がかなり短くなっているのであろうが、私はそのゴールに到達して初めて人類はゼロへの回帰を終了し、新たな段階へと突入していくと考えている
つまり相異なる役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動の最初の期間が終了するということである
そこからはおそらく再び拡大が始まるのであろうが、しかしだからこそこの21世紀は循環に向かうのであろう、そのように拡大と循環を繰り返しながら人類史はゴールに向かって渦巻き状に進行する、それが極限にまで達すると今度はその反動で、それまでに来た道を逆に進行するようになる、果たしてその時人類がどのような選択をするのかは私にも皆目見当がつかないが、おそらく帰郷した人類は再び都市を目指すようになるのであろう、だがそれはこの21世紀までの人類が経験したものとは酷似しているであろうが、まったく同じというわけではあるまい

かなり長大な時間の話となっているが、しかし未来人は過去の教訓を踏まえながら近代から現代までの私たちとやや異なる道を行くのであろう
なるほどここでは螺旋階段説の方が適当であるのかもしれない、私は人一人の人生においては螺旋階段説をとらないとすでに表明しているが、人類史全体では二周目に入った人類は過去から多くの教訓を得ていると考えられることから、一段高い次元を目指していくものと考えられる、そして前回の周回では十分に達成されなかった正のプライドを一周目よりは高い次元で実現させていくのであろう、そして二周目が終われば次の人の番となり、つまり三周目に入っていくというわけだ
これらのサイクルは一周がおおよそ2000年くらいの周期で行われるのであろうか、このあたりはやや恣意的になるが2000年をひとつの周期とみることはそれほど的外れではないように思える、何れにせよ、火星に一旦行った連中も結局は地球へ戻ってくる、そして二周目が始まるとまた千数百年後に火星に行きたいと考える人々が現れ、前回よりはうまくやろうと様々なアイディアを巡らせていくのであろう、そして何周目かで何かの大きな変化が起き、人類史に何らかの転換が訪れるかもしれない、ただホモサピエンス以外の霊長類が現れても、おそらくは私たちと同じように渦巻き状に文明を進化させ、相異なる役割を担う二つの要素の間の飽くことない永遠の往復運動を繰り返すのであろうから、結局多くは変わらないということなのかもしれないが、だがさすがに一万年後というと私たちが、そしてこの地球という惑星がどうなっているかは誰にもわからないであろう

さて正のプライドから少し論点がずれてしまったようだ
正のプライドとは人類にのみ感謝される功績を上げることに必死になるのではなく、神そのものから感謝される功績を上げることに砕身の努力をするということである
キーワードは「より普遍的に」である
「私」の対象は「神」
「私たち」の対象は「未来」
では「地球」そのものの対象は?
それはおそらく「永遠」
正のプライドを持って、地球の対象を模索するときに永遠は訪れる

すべてに終わりがある
だが誰もそれを確認した人はいない
私たちが見た「終わり」はすべて人類の内側にあるものだけだ
確かにこのように考えると22世紀において火星に結果的には暫定的に移住した連中が持ち帰る情報というものがもしかしたらものを言うかもしれない
「この世の終わり」という劇的ではあるが、確認不可能な過度に人間的な推論はコロンブスがついに巨大な滝に遭遇することなくヨーロッパに戻ってきたように実質杞憂に終わるのかもしれない
神の意志というものは冷酷ではあるがそれ以上に理性的なのである

さて私はこう考える
この世には終わりがあったとしてもその瞬間次のサイクルが始まる、と
私はその瞬間を神の交代と名付けよう
その瞬間から攻撃をしていた神が今度は守備に回り、守備をしていた神が攻撃に回る
攻守交替である
その一つのサイクルにどれだけの時間がかかるのかはここでは述べる必要はあるまい
その答えはただこの言葉の中にあるのみである

永遠

なるほど、ならば私たちはあまり現世の様々な出来事に一喜一憂する必要はないのかもしれない、この世に滅びはなくあるのはただ救済と再生のみである
だが実はそれではあまりロマンティックではないのだ
神が死後の世界を人間に明らかにしないのは、それでは人間の特に男女間の愛という至高の美徳に何らかの負の影響が出ると判断したからではないのか
愛はヒューマニズムへと続き、さらに多くの紆余曲折を経た後、正のプライドへと最終的に至る、もし神が死後の世界を人間に明らかにしたら自ら命を絶つものが増えると同時に、男女間の愛の形も変質するかもしれない
事実死という人間にとっての絶対がもしなければ、男女は恋愛にロマンを見出すであろうか?
逆説的だが死という一見終わりを色濃く漂わせるものがあるからこそ、男女は愛し合うことができるのではあるまいか?
私はこの21世紀における人類の愛に関する定義はそれほど神の期待と相違していないように思える、おそらく神が永遠がそこにあることを人間に告げないのはそうすると愛のためのロマンが失われてしまうからであろう、そして愛のロマンが失われると人間は愛に目覚めることがなく、ついに究極の善も、ヒューマニズムも、そして正のプライドもすべてが儚く散ってしまうというわけだ
私たちは永遠なのかもしれない、だがそれについては今は伏せておくべきであると神は考えているのであろう
然るべき時が来るまでは

神の期待に副う

神の期待に副う

さて前章では正のプライドについて述べた
これは「理性の最上級の働き」、「究極の善」、「ヒューマニズム」と続いてきた私のこの私論の核心の最終章にあたるものであり、後はこの書の結びにあたる「グレートターン」を残すのみとなった

前章では正のプライドを以下の疑問に答える形で論じた

もしすべてが救われるのなら私たちは一体何を理想として生きればよいのか?

つまりこれまでの宗教観では、すべての人類が救われるわけではない、良い行いをした人は救われ天国へ召されるが、悪い行いをした人は裁かれ地獄へ堕ちるというものであった、したがって救われたければ善い行いをしなさいというものであった
だが私はこれとは全く違う考え方をしているということを過去4つの章で書き連ねたのだ
すべては救われる
だから私たちは「愛」と「善」と「ヒューマニズム」を重んじ、そして最終的に正のプライドを獲得し神の期待に応えられるようにならなければならない
つまり神はすべてを創った、故にすべてを救う、である

正のプライドとは一言でいえば人類に感謝されることをするのではなく、神そのものに感謝されるべきことをしようということである、ということは神が創り給うたすべてを慈しもうではないかということである

さてこの章では前章で書いたことを踏まえながら書き漏らした部分を補てんするという形で論を進めたい
前章ではかなり壮大なスケールで、これからの人類史について私なりの予想を大胆に述べた
一サイクル2000年で私たちは行ったり来たりを繰り返すであろう、と
「行ったり」とは都市へ向かうを意味する、「来たり」とは帰郷を意味する
したがって行ったり来たりを繰り返しながら私たちはゴールへと向かうことになる
このように考えてくると、イエス・キリストの誕生がおおよそ2000年前であるから、この一サイクル2000年とは多分に恣意的ではあるが、もしかしたら人類史は今第二段階に入ろうとしているのかもしれない

人類のゴールとはつまり故郷のことである、だからこそ一時的に火星へ向かうことはあっても結局はここへ戻ってくるのであろうと書いたのだ、もちろん科学技術の飛躍的進歩によって地球からの「脱出」を強く望む者も出てくるであろうが、おそらくそれは多数派にはならないのではないだろうか
少なくとも最初に正のプライドに目覚めた一握りの人々は、「愛」、「善」、「ヒューマニズム」故ある種修道士的な生活を始めるかもしれない
つまり「グレートターン」の先兵的な役割を果たすのである、都市ではなく地方を好み、都市に暮らす人々から見れば明らかに質素倹約に映るであろう静かな生活を送ろうとするのである
彼らの脳裏にあるのは人類ではなく神である、だがすべてが救われるということが認識できている彼らは特定の宗教に帰依するのではなく、主観的な神によって規律された世界というものを普遍的な価値を持つものに昇華させたうえで他との協力を図ろうとするであろう
ここでは強い理性が必要になる、そういう意味ではこのような人々は実に長い間孤立に近い孤独を味わう羽目に陥るのであろうが、彼らが理解されるのは早くても31世紀頃ではあるまいか
信仰が主観的であるが故に、大組織を持たず、したがって神の代理人を名乗るような不届き者が現れるリスクを最小限に抑え込むことができるのであろうが、当然そこではヨーロッパ中世において何度も繰り返されてきた正統と異端との戦いに似た様相が同じように繰り返されていくのであろう、しかし信仰が主観的であれば聖地は「個別」にしか存在せず故に戦争のリスクは軽減される
権威を欲する者はそれでも従来の価値観に固執するのであろうが、そして「共通」は「個別」におおよそ勝利し続けるのであろうが、グレートターンが起きるたびに様相は変わっていくかもしれない
だが人間の存在の「根幹主題」は「個別」の中にしか存在しない、「私」の唯一の対象が「神」であるという認識に立てば、そこには「共通」の入り込む余地はない、そこに一万人いればそこに一万通りの幸福の形があるように、そこに一万人いればそこには一万通りの信仰の形があるのである
そしてそれら一万人をつなぐのが組織ではなく、正のプライドである

確かにそこには膨大な時間の経過が必要とされるのであろう、またそこには絶対的な指揮者はなく個人は個人の判断によって事態を切り開いていく、故に適時コンサートマスターのような人が現れて然るべき対処をする必要があろう、そしてそこにあるのは説諭ではなく議論である
個々人が独立した精神を持ち外国人とも自由に議論を行う、情報も理念も一方通行ではなく双方行通行となる、おそらく未来においては日本人によって開発された携帯言語翻訳機が威力を発揮することになるであろう、バベルの塔を作ろうとしたが故に人は神によって言語を分かたれ共同作業を行うことが不可能になったが、それも今や昔の話、間もなく現れるであろうこの携帯言語翻訳機は特に日本人などの外国語に疎い人々によって忽ちのうちに世界中に普及し(日本人のセールスマンはきっと南太平洋の島々はもちろん、アラスカやグリーンランドにまでも赴くであろう)、将来的にはこの文明の利器によって間違いなくこの正のプライドにおける議論は活発化するものと思われる
論理的思考を無視した不確かな言い伝えによる物語の中から救済のヒントを見つけ出そうとする時代はもう終わり、人々は言語の違いを克服し活発な議論の中から論理的に救済を部分的には科学とも合体させるような形でその結論へ到達させることができるよう努め始めるであろう、そこに奇跡はなくまた復活もない、あるのは人間としての当たり前の姿と、この世にはすべて終わりがあり故に次がある(夕闇の後には必ず夜明けが待っている、闇は永遠ではない)という実に単純な思考の中から導かれる、つまり権威を無視した「個別」だからこそ到達できる主観的ではあるが容易に解明できる素朴な真理である

確かに私たちはイエス・キリストの誕生から数えても2000年という歳月を要した、その結果が極めて単純なものであったとしたらきっとこの2000年間において権威を常に必要としてきた人々は驚愕すると同時に、その現実をまずは否定しようとするであろう、しかしそれは至極当たり前の話である、2000年の間において「共通」を重んじる人々が大組織のために払ってきた代償というものは、おおよそこの書で論じきれる程度の量ではない、遅かれ早かれ露見するであろう「共通」を重んじる人々の頑なな姿勢はしかし裏を返せば、このミレニアムの世紀に一大変化が起こりうるということを予感しているからこそであり、またこの2000年間において彼らのしてきたことの中には十分歴史の厳しい検証に耐えうるものも少なくないがために、新しい波に抗せざるをえないというのもそれは感情的には理解することの容易な当然の反応でもあるのである

神は敢えて人間を不完全に造り、そして人間に大組織を構築させ真理の発見に到達するうえでわざと遠回りをさせた、神以外この世には権威は存在しないのに人間に知恵を与えたが故に当然の如く生じた神の代理人を名乗る者たちの一部に見られた讀聖的な行為にも神は目をつぶった
だがすでに2000年が過ぎた
まだ道半ばなのであろうが、この2000年は実に真理への到達のためには貴重な時間であった、敢えて言おう、もしかしたらこの2000年間に繰り返してきたことは人類にとっては「大いなる無駄」であったのかもしれない、だが「大いなる無駄」なしに果たして不完全な人間たちは真理への前進を果たすことができるのであろうか?
人類の期待にではなく神の期待にこそ副う
この数百年のうちに人類は初めて主観的な、そして「個別」的な価値観に基づくまったく新しい神の姿を知ることになる、この世の真理は「相異なる役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」であるから、神は人類が「共通」と「個別」の間を行き来してこそその姿を具体的に現すことになる、「共通」が一先ず終わり、これからは「個別」である、だが神を信じる者にとってはこれは明らかに真理のための第二ステージの最初の一歩(おおよそ大切なものは二回目のチャレンジの中にこそある)であり、一回目が終わりすでに自分は何かを知っていると考えている人々は、まさかこれまでの試みのすべてが実は「大いなる無駄」であったことに気付いているはずはなく、第二ステージを経験することによって初めて真理が「大いなる無駄」の代償として与えられるものであることに時間をかけて気付くことになる
この数行の数えられないものの価値の発見だけで数百年であろう
振り子は今大きく一方の極からもう一方の極への動きを始めた、0.5が終わり、0.51が始まろうとしている
きっと41世紀の人々は、20世紀の人々の倍真理に近づく
ならば私たち21世紀を生きる人々は、今を生きる人々のためにではなく次のつまり未来を生きる人々のためにこそ尽力しようではないか
彼らのためにこそ何かを取っておこうではないか、今世紀でそれを使い切るなどということは絶対にせず、また22世紀以降の人々が納得のいく形で、今私たちが直面する諸問題を解決していこうではないか
それこそが人類のではなく神の期待に応える行為
今日が人生最後の日などと思ってはならない、今日が人生の始まりなのである
新しい継続、そう、継続だけが力なのだ
今日が人生最後の日なら人は人のためにしか動かないであろう、だが今日がすべての始まりであると考えれば人は神のためにも動くであろう、命よりも大切なものはこの世にはなく、故に命をこそ与えてくれた神のために何かできることはないかという模索が始まるのでる、きっとこの延長線上に民主主義を超えるものがある、だがそれまでにはまだまだ時間がかかりそうだが………

大喪失

大喪失

さて前章では、神の期待に副うと題してこれから人類はどうあるべきかについて論じた、かなり大所高所からの意見になったが、この書自体がすべて私論によって構成されているものでもあり何卒ご理解いただきたい

神の期待に副うとはつまり正のプライドの獲得のために尽力するということであり、正のプライドのためには究極の善を知る必要がある、究極の善は負の肯定と対をなすものであり、また負の肯定は「私」の唯一の対象が「神」であるという認識に立たなければならない、なぜならば万物は対象を求めるからである、この世に単体でのみ存在しうるものは何一つない、したがって神も二人いるのであり、それぞれの神が異なる役割を演じ、定期的(それは永遠に近い、具体的な数字を挙げるとしても一サイクルは何百億年かそれ以上であろう)に攻守交替しながら天地創造に励んでいるのであると
そして神の期待に副うとは、人類のために尽力するのではなく、神そのもののために尽力するということである、なぜならば神はすべてを救うからである、神はこの世の創造主であり、またこの世の唯一の権威である、神はすべてを創り給うたが故にすべてを救うのである

この世のすべてに終わりがある
なぜか?
「次」があるからだ
そしてすべてが終わる時、すべてが犠牲になる
神が犠牲をやむなしとするのは、犠牲がなければ「次」もまたないからだ
これは神の残酷さを意味するものではなく、むしろ神の寛大さを意味するものであろう、神は必ず次を用意し、そして犠牲を強いる、すべては救われるがそれを知恵あるものに告げると、深刻な混乱が起きることが予想される
神にとって自ら決断したこの世の秩序は絶対に守られなければならない、なぜならばこの世は二人の神の相互関係によって成り立っているため、つまり神は一人ではないために、そこには約束事が成立するが故に秩序は絶対なのである
因みに神がこの世に設定したサイクルは以下のとおりである
① 創造
② 終焉
③ 救済
④ 再生(④と①は結果的につながっている)
したがってひとつでも秩序が狂うとこの世は神の想定通りには行かなくなるのである、ならば知恵を被創造物に与えなければよいではないかと思われるが、それでは神の理想とする世を創ることができなくなる、だから神は知恵ある者が不安に駆られることを承知の上で死後の世界を明らかにしないことを自身でお決めになったのである、さらに自ら死を選ぶものが増えることは善に反する、神の存在は善そのものなので神は人間のみならずすべての被創造物が善に反しないように、つまり命をこそ尊重させるために、救済については敢えて沈黙を守っているのである

さて前章での最も重要な部分はこの世は一サイクル2000年(これはかなり恣意的)で「行ったり来たり」を繰り返す、したがって新しい時代が始まる時にはその直前のサイクル(ここでは2000年としている)に起きたすべてが「大いなる無駄」に思えるのである、だが真理とはこの大いなる無駄の代償であって、大いなる無駄なしに私たちが真理に近づくことはないと述べている点にある

この章ではその「大いなる無駄」つまり大喪失について述べようと思う
最初に述べておこう、この大喪失はイコール(何らかの信仰への)「目覚め」のことなのだ、

人類の歴史は戦争の歴史である
これは否定しがたい事実である、それほどまでに私たちは何万年も前から争いを繰り返してきた、その結果であろうか私たちホモサピエンスだけが生き残り、そしてそのホモサピエンスの間でも自らが正統であるという主張のもとに、様々な人々、民族による争いが繰り返されてきた、現時点では人類と呼べるものはホモサピエンス以外いないのになぜ戦争が終わらないのか実に不思議であるが、しかしそれ以上に不思議なのは神がなぜこの期に及んでも沈黙を守っているのかである
きっと誰もがこう思っているに違いない
神がこの期に及んでも沈黙を守っているということは神は永遠に語らない存在なのであろうと
または神などこの世には存在しないと結論付けている方も多くいるかもしれない
神は永遠に語らないと考えている人々は、それを神は私たちに実は全権の委任状を付与しているのだと一方的に解釈して、人間に与えられた特権を自身に都合のいいように拡大解釈しているかもしれない、あれもこれも赦されるのだ、私たちのこの行為は神により与えられたマニフェスト・デスティニーである、だから何も悪びれることはないのだ、と
おおよそこのように考えている人々によって負の歴史というものは創られていく、神が人類に強いる犠牲というものは100%(この世には100%というものはないと考えているが、敢えてそう言わせていただく)神により創造された知恵ある存在が真理に今以上に近づくためにこそあるのであって、特定の人々や民族を利するために神がお赦しになっているものでは決してない、そして一サイクル2000年(重ねて申し上げるがこれは恣意的であり、またイエス・キリストの誕生から2000年という時の経過も偶然の一致であり、キリスト教徒に故意に味方しているわけではない、もう争いをやめなければならないという私自身の思いというものも何卒ご理解いただきたい)が経過し、第二サイクルに入った今、私たちは特に資源の消費の「拡大」から「循環」へ、富の「追及」から「分配」へと方向性を大きく変えていかなければならない、なぜならば、そうしないと22世紀以降の人々の取り分がなくなってしまうからである
すべての犠牲は、犠牲となられた方々に対する哀悼の誠を捧げたうえで、このためにこそある

つまり犠牲とは未来のためにあるのだ

彼らの死はすでにその時点において無駄ではない、無駄なのは彼らの死ではなく、それまでの道程に確かにあったであろう瀆聖的な人々のすべての行為のことである
だが不思議なことにそのような驕慢な人々こそが権力の中枢に位置し、そのような社会構造は今後も数百年は続いていくのであろうと思われるということだ、これは民主主義という制度の欠陥ではなく人類がまだ精神的に十分成熟していないからなのであろう、そういう意味でも私たちは歴史をこそ学ぶ必要があるのだ、そして今を生きる私たちも次の世代のためにこそ記録を残し続けていかなければならない、だから言論の自由は侵されてはならないのであり、然るに「自由」の反意語は「権威」なのである
神の存在は善であるとすでに繰り返し述べた、犠牲者は皆天に召される、そういう意味ではこの世に永遠の別れというものはないのかもしれない、すべては救われるが故にいつか必ず再会する時がくる、したがって私たちは人生を決して諦めてはいけないのであり、その時のために自らのその時々の事案に対する処し方というものを自身で決定していかなければならない
神が人類に与えた知恵というものはおそらくこのホモサピエンスで最後というわけではないであろう、この後もこの地球という惑星の生命が尽きない限り、やがてホモサピエンスに代わる霊長類が現れ、私たちホモサピエンスの意志というものを私たちが経験したのと同様の大いなる紆余曲折を経て結果的にせよ継続させていくのであろう、神こそ俯瞰する人、その思いというものを推し量ることなど到底できはしないが、想像することはできるであろう

神=善ならば、私たちの終着駅も善のなかにある、もちろんそうであるべきだと考えるならば、やはり「私」の唯一の対象は「神」であるという認識に立つべきであろう、おそらく無神論では対象が不明確であるが故に善を優先させるという考えには必ずしも至らないのではないだろうか?
「この世のすべてにおいて善と悪は混在している」そう考える方もいるようだ、ならば必ずしも人類の最終到達点は善に非ずということになる、だがそれはこの世の美しさと矛盾していないであろうか?
私は思う、この世の美は完璧であると、おそらくブラックホールでさえそうであろう、なぜすべて神が創り給うたものは美しいのか?
それは必ずそこには次があるからだ
すべては美しくまたすべては再生する
花々もそうである、彼らは実をつけ彼ら自身はいつか枯れるがその子孫がまた次の季節において同じように美しい花々を咲かせる
そう、美しいものはこのように循環していくのである、拡大であれば先代のものも枯れずに生き残るということになる、だが実際には先代のものは枯れ、その後継者(やや大袈裟かな?)がまた先代と同様美しい花々を咲かせる、そしてその営みが延々と繰り返されていく
美とは循環のことである

確かに私たちホモサピエンスは薔薇や椿のように美しくはないのかもしれない、だから循環ではなく拡大を望むのであると
なるほどそれもあながち間違いではないのかもしれないが、しかし永遠とは循環の中にある、それがそのままの形で永続していくわけではない、そこにあるのはバトンであり、そのバトンを引き継いだ後継者が先代の意志を継ぎ、知恵ある者はさらなる挑戦をし、そうでない者は先代と同様の役割を果たす、バトンなしに永遠はない、私たち一人一人はどのような天才であれ、その時々において自らに(神によって)課せられた役割をただ淡々と果たしていくだけである、人生はあまりにも短く、迷っている暇などない、ならば最初から循環で行くべきだ、もし永遠の生を神により特別に与えられる可能性が0.1%でもあるならば、それに賭けてみるのもよかろう、だがいつか私たちは皆死ぬ、またたとえ私たちが死ななくてもこの地球という惑星はいつか死ぬ、そして神は善である、ならば死とは私たちにとって忌むべきものではないのかもしれない、だが生あるものが死を恐れないと神の理想は達成されない、なるほど善のためにはジレンマもまた是なのだ

神は二人いる、一人はプラスを、もう一人はマイナスを担っている、つまり力の働きが逆である、しかし二人とも同じだけの力を有している、したがって最終的には神が行う行為のすべてがプラスマイナスゼロになる、おそらく一神教ではこのプラスマイナスゼロの考えには至らないであろう、甚だ僭越ながらこの最終的にはすべてプラスマイナスゼロになるという考えがなければ循環という選択肢は生まれない、おおよそすべて拡大や成長という言葉のもとに非善の循環が繰り返されていくことになる、格差は拡大の一途を辿り、やがてやり直すこともできなくなるであろう、神はすべてを救うがホモサピエンスに自らの理想を託すことはそのうち諦めるかもしれない、猶予の時間がないと言い切ることはできないが、しかしポイント・オブ・ノーリターンの時は迫っているのであろう、それでもよいと言い切る人々もいるのであろうが、私はとてもそういう気分にはなれない、幸福を追求する権利はすべての生命に与えられなければならない、故に動物の肉を食べざるを得ないのだとしてもその命だけは決して無駄にはしてはいけないのである
おそらくいつの日か動物慰霊教会が必要になるのであろう、また菜食が励行される必要もあるのであろう、動物慰霊教会は人間のために祈るためのものではなく、人間のために身を捧げた動物たちのために祈るためのものである、実はこれに似たものが既に築地市場の近くにある、教会や寺院ではないが、慰霊塔または慰霊碑のようなものである、私はテレビで見ただけだが、大袈裟なものではなく質素なものである、しかし築地市場を出入りする人々は日々必ずここで祈りを捧げているという、そうして人間たちのために身を捧げた魚類の魂が安らかであらんことを願っているということである
このような精神の働きがあくまでも拡大を志向する人々の心の奥深くに届いてくれるとよいのだが、この21世紀においてはまだ難しいようである

さて美は循環するとすでに書いた
そして美は善に似ているともすでに書いた、何れも神によりこの世に与えられた美徳である、美しい行為は誰がそれを行っても美しいのであり、善もまた同様である、そして美は循環する、ということは善もまた然りであろう
神は善である、そして神は徳を有している
その善であり、有徳である「神」をもし私たち一人一人が「私」の唯一の対象として認識することができればこの世は今後どうなるのであろうか?

再び正のプライドである、正のプライドが私たちホモサピエンスのすべてにおいて習得されることはあるまい、だが最初から諦めるのではなくいくらかでもチャレンジすることはできるかもしれない、確かに善と悪とは明確に区分できるものではなくそこには想像するよりも広いグレーゾーンがある、だが理想とはそれでも尚追求するということではないのか?
31世紀、私たちはグレートターンを何度か繰り返しそのたびに都市ではなく故郷により深く想いを馳せるようになる、諸君は故郷と聞いてまず何を思い浮かべるであろうか?
もちろん都会の真ん中で生まれた人も多くいるため故郷=海そして山河、緑の風景ということには必ずしもならないが、しかし故郷とは心安らぐ場所と定義することは可能かもしれない、若い日々閑散とした街並みを嫌って大都会へ出奔した男女も、たそがれの扉を開けるころには考えが変わっているかもしれない、私たちはどこへもいかない、ただ回帰していくだけだ、私はそう思っている
ではどこへ回帰していくのか?
それはきっと大地であり海であろう
どんなに時代が移り変わろうとも、回帰の終着点がコンクリートで固められた隙間のない街であるとはやはり考えにくい
では回帰した後はどうなるのか?
どのような形になるのかはわからないが、これまでの論理からいえば再生である、ということは私たちホモサピエンスもまた花々と同様長い年月をかけてではあるが循環していくのではないのか、私たちホモサピエンスは必ずしも美しくないが美しい行為を繰り返すことによって、それだけこの世の真理に近づくことができるかもしれない、犠牲者を弔い、にもかかわらず報復に走らない
おそらくそれができるのはこの地球上で私たちホモサピエンスだけであろう、ならばこの「犠牲者を弔い、にもかかわらず報復をしない」は神により私たちに与えられた美徳のうちの一つではあるまいか、弔うとは祈るということである、そして祈るとは信じるということである
では一体何を信じるのか?
犠牲者たちが天国で幸福に暮らしていることをである
この行為は明らかに美しくまた善である
では「信じる」の対象は何か?
それが神であり、故に救済である
信じるは感情の動きによって始まるが、その成熟は理性によってこそ為される
そして信じるは正のプライドへと続く長い道程のいわゆるパスポートの役割を果たす、そして信じるは最後に神の思し召しに至る
そして神の思し召しとは、つまりこういうことである

そうか、そういうことだったのかという悟り

ここになぜ神はそれでも沈黙を守り続けているのかの一つのヒントがある
獲得したものは与えられたものよりも数倍強い
然るに苦難に遭遇し、犠牲を払った者こそ、この言葉を知る

確信

犠牲者の遺族はまず目覚め、そして多くの負の変遷を経て確信する、だからこそ祈る、そして確信を知る者にこそ神は痩せた旅人に姿を変えてふとした言葉を発する、それは犠牲を払った者だけが理解できる秘密の暗号
そしてその秘密の暗号を解読できる者こそ正のプライドへの到達可能者であり、その伝道師である
喪失の対象は再生でありそれは循環を意味する
おそらくそうなのであろう、この世に永遠の別れなどない
だがそれを知るのは犠牲を知る人々だけであろう
悲劇こそが価値ある言葉をそれを知る者だけに告げるのだ
それは単純であるにもかかわらず確信なき者には決して理解できない言葉
おそらくそれは以下のようなものであろう

再会の時のために恥ずかしくない生き方をそれでも選択する

そういう意味では犠牲者、そしてその遺族とは真に神に選ばれた人々と言えるのかもしれない

拡大と循環、そして数えられるものの価値と数えられないものの価値

拡大と循環、そして数えられるものの価値と数えられないものの価値


さて前章では、神の期待に副うと題して、神の期待に副うとはどういうことか、そしていかにすれば神の期待に副うことができるのかについて論じた
確かにこの書の後半の後半は、私論とはいえややスケールの大きすぎる話になっている、諸君の中にはやや戸惑いを覚えていらっしゃる方もおられようが、だが序に述べてある通り、この書は元々、人生はなぜこんなにも辛いのかというミクロの疑問と、神はなぜ人間を造ったのかというマクロの疑問の二つを「神」または「信仰」をキーワードに私論の形で解き明かしていこうというものである
したがって僭越ではあるが実はこの論の進行において矛盾はない、やや誇張はあるかもしれないが神や信仰を題材として扱う以上、論が膨らむということはある程度致し方ないことである、ここまで読んでいただいた方にこのような文言を述べるのは申し訳ないが、何卒ご理解の上読み進んでいただきたい

前章における論点は果たして悲劇が私たちに語りかけているものは何かということである、神の沈黙は実は故あってのことであり、神の残酷さまたは不存在を意味するものではないということである、もし私が特定の宗教に帰依しているのであれば、おそらく前章の内容は読者諸君に何らかの現世的な意図をもって書かれたものと映るに違いない、なぜならば宗教というものは概ね組織を持つものであり、組織の一員である以上は果たさなければならない義務というものが必然的に生じるからである、組織にはその長がおり、当然何らかの権限を有している、したがって組織というものに属したその瞬間において発言というものはいくらかでも制約を受けるのであり、そのように考えると特定の宗教に帰依していないからこそこのような私論を展開することができるともいえる
私はこう考えている
悲劇、いやすべての負こそが神によって人類に付託された期待と、なぜ神がそのようにしたのかという疑問の答えにつながる多くのヒントに直接結びついているものであると、神は目覚めた者にこそ試練を課す、だから一念発起して今日から人生をやり直そうとする者にこそ負の経験をさせるのである
僭越ながら神は以下のように考えていると私は考える
目覚めない者に期待をかけるのはこの21世紀においては時期尚早であり、また負の経験こそが真理に最終的につながる道であるため、それに耐えうるのは目覚めた者かまたはそれが可能な者だけであるので、それを十分知っている神は最初からそれに耐えられない者には負の経験さえもさせないのである
したがってある意味こう結論付けることも可能であろう

正の経験しか知らない者は不幸である

正の経験とは誰もが進んで経験したがる経験のすべてである、団体旅行やテーマパークのパンフレットやHPなどに列挙されているものがそれである
多くの人はこういうであろう
人が最も輝くのは笑顔の時であり故に喜びは善であると
私はこれを完全否定するつもりはない、だが正直に言えば以下のような疑問が生じるのも事実だ

私たちは生きているのか、それとも生かされているのか?

果たして前者を選ぶのかそれとも後者を選ぶのか、それによって喜びの意味は180°変わる
だから神や信仰が出てくるのだ
私は「私」の対象は「神」であると書いた
また、「私たち」の対象は「未来」であると書いた
では人間以外の被創造物すべての対象は何か?
実はこれが「喜び」なのだ

太陽と水、それらは無論人間を育むがそれ以上に私たちの食料となる動植物をこそ育む、彼らに喜びがなければ人類は間違いなく滅ぶ
確かに夜間に花を咲かせる植物もある、また蝙蝠やふくろうのように昼間は活動しない動物もいる、だが太陽ではなく月を拝むものであったとしても、喜びなしに成長することはあるまい、なぜならば彼らには知恵がないからだ
彼らには想像力と創造力とが完全に欠けている、だから彼らは信仰を持たず進化はあっても進歩はないのである、したがって彼らが文明を築くことはない、そのような彼らが成長するには喜びこそが必要なのだ
だが人間は違う、人間には知恵がある、つまり想像し、創造することができる
私たちの喜びは知恵の中にこそあり、それ以外はすべて単なる瞬間熱に過ぎないのである
かつて人類は常に死の恐怖に怯えていた、人生を楽しむという選択肢はそこにはなくただあるのは祈りと明日の糧を得るための労働だけであった、だが彼らには知恵があった、知恵は文明を誕生させそれを発展させた、言葉が生まれ、道具が生まれ、貨幣が生まれ、技術が発展した、すべては便利=富=幸福という定義のもと、いつしか人々は神そのものではなく人類のためにこそという暗黙の合言葉を私たちの大多数が分かち合えるその心の拠り所とするようになった、すべての生産の目標=最大公約数の幸福がいわゆる「共通」の認識となり、そしておおよそ人類はその挑戦に勝利し、この21世紀私たち人類はかつてない繁栄というものを手に入れている
しかしにもかかわらず私たちがあらん限りの知恵を振り絞っても克服できないものが一つだけある
それが悲劇である
いくら文明が進歩しても悲劇がこの地球上から消えてなくなることはない、人間の為すことが大規模になればなるほど悲劇も大きくなる、死が遠くなっても死が消え去るわけではない、また肉体が疾病を避けることができたとしても、私たちは常に「パンのみにて生きるにあらず」である、悲劇はついに私たちを解放することはない
ならば私たちはどうすればよいのか?
悲劇こそが価値ある言葉を告げるならば私たちはどうすればそれを聞き取ることができるのか?

さてこの疑問に答える前に、おそらく諸君が以下のような疑問を抱いているのではないかと私は考えている
私は限界への挑戦が新たな価値の創造を生むのであり、そしてそれが「次」の人々、つまりこれから生まれ来る人々のための道になるのだと何度も述べた
だがこれは「拡大」から「循環」へという論理と矛盾しているのではないか、と

この答えを述べる前に、私が前章ですでに述べた言葉をここに引用する必要があろう
それが数えられるものの価値と数えられないものの価値の違いである
数えられるものの価値とは概ね経済の範疇に入る
数えられないものの価値とは概ね芸術と宗教の範疇に入る
芸術と宗教の最も対照的な所に存するのは株式相場である
火曜日から土曜日までの新聞の朝刊の中ほどのページに必ず掲載されている日々の株式相場は、芸術または宗教に身を捧げた者にとってはおおよそ価値を持つものではなく、例えば修道士などはまったくそれに関心を示さないであろう
数えられるものの価値を理解するうえでのキーワードは、「効率性」、「追求」、「拡大」、そしてオリンピックである
数えられないものの価値を理解するうえでのキーワードは、「多様性」、「分配」、「循環」、そしてパラリンピックである
両者とも人類の文明の発展のためには欠かせないものだが、だがここにも一つのキーワードが出てくる
「拮抗」である
両者は拮抗している必要があるのだ
拮抗して初めてお互いがお互いの意見を真摯に取り交わすことができるようになる、どちらかが明らかに優位に立っている時にはおそらく最終的にはどちらかが譲歩を迫られることになる
だが19世紀世界中で産業革命が起こり、労働する人々が資本家(ホワイトカラー)と労働者(ブルーカラー)に分かれるようになってからは、明らかに数えられるものの価値がそのライヴァルを上回るようになっている
ホワイトカラーは政治的には保守党を支持し、数的には下回るがにもかかわらず社会における発言権は、相手を上回っている、ブルーカラーは政治的には多くは中道左派政党を支持し、数的には上回るが資金力がないために社会における発言力は低い、前者が上回れば数えられるものの価値が増大し、後者が上回れば数えられないものの価値が増大する

さて両者の力が拮抗している場合、社会はどうなるのであろう?
実はここにもう一つのキーワードが存在する、この言葉がこの書に記されるのはこれが初めてである
それは「分立」である
この両者は交じり合ってはならない、お互いがお互いを尊重し、互いの取り分を譲り合い、時には勝ち、時には負け、最終的にはすべてを50対50に可能な限り近づけていく必要がある
資本主義と社会主義もかつては拮抗し、また並走していた、だが互いが互いの領分を侵し続けたがために、常にどこかで争いが生まれていた、そこには分立がなかったのだ、だが分立にはルールがいる、またそれ以前の段階で人類全体がより理性的になる必要がある、私たちには知恵があり、故に同じ悲劇が繰り返されてはならないのだから、いつか人類は精神的に新たな段階に入る必要がある、だがこの2016年において、数えられるものの価値と数えられないものの価値が同じになり、両者が互いを尊重し合えるような状態には残念ながらなってはいない、だが希望の灯は見える、先のリオ・デ・ジャネイロパラリンピックにおいてもパラリンピック競技は少なくとも我が国日本においてはかなりの注目を集めていた、また我が国日本がこのリオパラリンピックにおいて金メダルゼロに終わったのも一日本人としては残念なことではあるが、それだけ世界のパラリンピアンの実力が向上していることの証でもあろう、パラリンピアンの活躍できる環境は少しずつではあるが整いつつある

ここには明らかに漸進が見られる、少なくとも後退はしていないようだ、ラディカルな思想を持つ人々はきっとこれでもまったく足りないと不満を訴えるのであろうが、だが私たちの責務はその時点での限界までの挑戦をし、新しい価値の創造を行い、次の世代のための道を作ることにある、ならば後退しないことこそが重要なのであって、前進のための最低限の不文律を社会的に遍く行き渡らせていくことに最大限腐心すべきということになる
現時点においては劣勢に立たされている数えられないものの価値もそれが見直されることによって、人類の精神的な部分に何らかの肯定的に捉えることのできる傷跡を残すのであるまいか

あの時は失敗した、だから今回は成功しなければならない、と

「私たち」の対象は「未来」である、また未来を読み解くうえでの一つのキーワードとして「平等」が「自由」や「繁栄」と伴にあげられるであろう、おそらく諸君もこれには異存はあるまい
ならばこの私論に矛盾はないということになる
私たちには物質が必要だ、また時に優越感も必要だ、そして煌びやかさを求めることをやめられないという人も多くはないが存在するであろう
自由こそ優先順位No.1という人もいれば、贅沢こそそうであるという人もいるであろう
そしてそういう人々は皆少なくとも現時点においては必要な人々なのだ
富の分配はその追及と不可分であり、また才能のある人々には何らかの栄誉が授けられるべきだ、平等とは分立と不可分であり、すべての人々が一つの屋根の下に暮らすことはおそらく2000年後においても難しいであろう
敢えて言うが人類の社会は二つあってよい、そうすれば片方の社会でうまくいかなかった人ももう片方の社会で再起を期すことができる、世界が一つになったら、失敗した人は人生のやり直しを一体どこで始めればよいのか?
分立はその矛盾を解決するおそらく唯一の考え方であろう

私とあなたは違っていてよい、だからお互いがお互いのためにルールを守り、また理性的に互いの挑戦を互いの意志を尊重しながら続けよう

すでに書いたが私はオリンピックとパラリンピックの共同開催には反対である、この両者はお互いがお互いを尊重し合う関係でい続けるべきだ
常識的に考えてオリンピックの方が大規模である、故に両者が混合すればパラリンピックがオリンピックに飲み込まれてしまう可能性がある、それでは一部のパラリンピアンだけにチャンスが与えられ、多様性の実現が難しくなってしまう、なぜパラリンピアンだけでパレードを行うことができないのか?メダルの価値が同等ならばパラリンピアンだけの催しも成立しなければならないはずだ

「効率性」と「多様性」は50対50であるべきだ、したがってお互いがお互いを尊重し合える「分立」がやはり望ましいのである

さてこの章の最後を飾る文言は以下のものが相応しいであろう
よくラグビーの中継などで聞かれる言葉だが、21世紀以降の世界を考えたときにこの言葉は実に重要な意味を持つことになるであろう

曰く、One for all、all for one.
一人は皆のために、そして皆は一人のために

さて前章では、拡大と循環、数えられるものの価値と数えられないもの価値と題して、以下の二通りの考え方に矛盾はないということを述べた
つまり、①限界への挑戦による新しい価値の創造が「次」の世代のための道を作ると、②この21世紀においては「拡大」から「循環」へと考え方を変えていかなければならない、の二通りの考え方に矛盾はないと述べたのである

おそらくは産業革命以降であろう、数えられるものの価値が増大し、故に社会に明確な階級が生まれ、おおよそ労働者はホワイトカラーとブルーカラーに分かれた、またブルジョア(中産階級)が生まれ、このブルジョアが現在においても社会における繁栄の基となっている消費の牽引役となっている、ブルジョアが増え、彼らが経済的に豊かになればそれだけ景気は良くなり、社会は繫栄する
逆にホワイトカラーのうちセレブリティと呼ばれる人々が増えると格差が増大し、それが社会の不安定化の一因となる、しかしブルーカラーの人が増えても、彼らはブルジョアほどには消費の牽引役となれないため、景気の浮揚は弱含みとなる
経済、つまり数えられるものの価値の増大は確かに好景気を生み出すが、過度な上昇志向は、本来拮抗して然るべき「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」のバランスを著しく損なう結果にしかならず、故にいくら文明が進歩しても私たちを解放しない悲劇から私たちが得なければならない永続的な肯定的要素(教訓)を見え辛くしてしまう、私はすでに一個人の人生においては螺旋階段説をとるべきではないと述べたが、つまり上を意識すると上へ行ける人と行けない人との間に少なくとも精神的な格差が生まれ、てっぺんまで行ける人を除いて幸福の天敵である、「比較」の呪縛に憑かれてしまうのである
したがって私は人生螺旋階段説をとらず、その代わりに比較を無視した「個別」の価値観を重視した
「自分が何を好きで何をやりたいか」を発見することによる限界までの挑戦をこの書において提示しているのである、ここにおける比較の対象は他人ではなく常に昨日の自分であり、もちろん勝負に勝つことは重要だがそれ以上に重要なのは自己ベストを出すことであるといえるのかもしれない

この書は神に関する私論であると同時に、私的幸福論でもある、幸福の形とは無論一様ではなく、そこに一万人の人がいたらそこには一万通りの幸福の形があるのである、そして幸福とは数えられないものの価値のその筆頭に来るもののうちの一つであり、人はなぜ生きるのかという存在の根幹主題に人が直面するときに、幸福について考えることはおそらく長期的には必ずや何らかの精神的果実を生み出すことにつながるのではないかと思う、特に悲劇に見舞われた人の場合、それは顕著であろう、なぜならば悲劇に遭遇するとは幸福を追求する権利を侵害されることであるからだ、家族の死、友人の死、または予期せぬ自分自身を見舞った大病、大怪我、そしてそれらの後遺症、または原子力発電所の事故や自然災害において故郷を奪われた人などもこの範疇に入るのであろう、誰でも幸福について考えるが、しかし悲劇に遭遇した人ほど深くそれについて想いを巡らせることのできる人はいない、つまり悲劇に遭遇した人こそ幸福とは何か、転じてそれでも私は生きなければならないのかという存在の根幹主題を知る人であり、故に次の世代に価値ある言葉を残す資格を有する人であるといえる
確かに成功=幸福であると考える方もいるであろう、成功とはかなり高い確率で数字による裏付けを必要とする(そうでなければただの自己満足である)が、そのような人はおそらくは存在の根幹主題に思いを馳せることなどはないのだろう、もちろんそういう生き方が間違っているというわけではないが…….

諸君もすでにお気づきのように私自身は「数えられないものの価値」をより重視するという立場に立っている、無論、この2016年において数えられないものの価値の方が劣勢に立たされていることは明らかなので、正と負は拮抗して然るべきという立場をとっている私としては「数えられるものの価値」もまた重要であることを認めながらもそちらの側に立つということは憚られるのである
だが理由はそれだけではない
数えられないものの価値には幸福だけでなく、この21世紀以降、私たちが今以上に真剣になって考えなければならないであろう重要な言葉がそこに内包されているように感ずるからである
「幸福」、「平和」そして「人権」
何れも数値化できないものばかりである
これらはいわゆる利益という言葉では表現しきれないものであり、また民主主義と切り離せないという共通点がある
だがこれとは対照的な言葉もまた切り捨てることのできないものだ
「成功」、「正統」そして「権力」
成功とは富の追求である、そうでない場合もあるがおおよそそうであろう、しかし富の追及なくして富の分配はない、したがってここで必要なのは倫理ではなくルールである、他人よりも多くの汗を書いた者が平均以上の財を築くのは当然であり、ルールに違反していない以上、支持不支持はともかく彼の権利は守られなければならない
正統とは覇権(ヒエラルキー)のことである、覇権をめぐるものでない戦争はなく、戦争とはつまりそこにある利権の分捕り合戦である
そして権力とは本来は選挙により主権者である国民の負託を受けた者にのみ与えられる有期の特権であるが、ここに世襲が入り込むと新しい価値の創造が起こりにくくなり故に「次世代のための」が減退し、「今の世代のための」政治になってしまう、つまりバトンの引継ぎが多かれ少なかれうまくいきにくくなってしまうのである、だが直接普通選挙を実施している以上、たとえそこに権力の腐敗が生じたとしても主権者である国民一人一人が権力への監視能力を高めていくより他はないのである

私は数えられるものの価値が数えられないものの価値よりも下に来るとは考えていない、だがすでに述べた三つの言葉を超えて数えられないものの価値の筆頭に来るものは言うまでもなく命である
果たして誰が命の価値を量ることができるというのであろうか?
命とはただそれだけで幸福を追求するための選択肢を得られ、言論または表現の自由を保障され、また何者にも個人の平和を脅かされない生活の権利を有しなければならない、つまり移動の自由、信条の自由、そして日常的平穏の自由である
命とはこのように私たちにとってもっとも重要なものであり、故に理想と現実の間が乖離し何らかの変化が必要になった時にも、まず念頭に置かなければならないのがこの命である
命を価値の最高位に置くことによって以下の定義が成立することになる

命の価値の平等=継続による力

なぜこのような定義になるのか、以下それについて述べよう
私がなぜここで継続という言葉を用いたか、それは一つの命を育んでいくためには、今日が人生最後の日ではなく、今日が人生最初の日であると考えなければならないと思うからである
命とはそこに継続があって初めて力を得るのであり、今日が人生最後の日と仮定した場合継続が失われてしまうため命は力を得ることができなくなる
また命よりも重要なものがあるという考え方も以上の論理に反する、命よりも重要なものがあるとすればそれは神との生前の約束に反するばかりでなく、命よりも重要なもののために本来は平等であるべき命の価値が相対的な価値を持つものに変化してしまう可能性があると私は考えるからである、大義のために命を捧げた人は無論讃えられるべきだが、だからと言ってそれと同じことが他の人々にも事実上強制されるようなことがあってはならない、大義に身を捧げた人の方がその命の価値において大義に身を捧げなかった人よりも上位に来てはいけない、また言うまでもなく戦争が繰り返されてはならない、戦地に散った若者たちは英雄ではなく戦争の犠牲者である、ここを取り違えると将来に何らかの禍根を残すことにもなりかねないであろう

継続とは命ということを脇に置いたとしても私たちの日常において間違いなく価値を有する言葉である
命は継続によってのみ輝くが、この継続という言葉は新しい価値の創造にもそのまま当て嵌めることができるといえよう、すでに前半において述べているが新しい価値の創造とは個々の限界までの挑戦によって生まれるのであり、またそのためには「自分が何を好きで何をやりたいか」が明確にわかっていなければならない、だからこそ少なくとも青春期においては自分探しが必要なのであり、万が一その時には自分がほんとうに何をやりたいのかが明確にわからなかったとしても、たそがれの扉を開けた後、またはいつか生を振り返ったときに見つけるであろう負の連鎖の中から何か価値あるものや言葉を見つけることができるかもしれないのである
継続とはただそれだけで「諦めていない」ことの自他伴への確認及び発信であり、故に誰にでも与えられている夢、または目標への挑戦権を放棄しないことの意思の表れである
確信を知る者は、たとえその時点で他の後塵を拝していたとしても然るべき時間の経過後は少なくとも彼自身の幸福につながる何かを獲得し、そして最終的には自信漲る言葉を「次の人」に残すであろう
財産を残すことは確かに意義あることであろう、また後継者のプライドにつながる何かを残すこともまた意義あることであろう、だが次の人に残すべきものの筆頭に来るものは言葉でありノウハウである、つまり答えではなくヒントである
人生の答えは自分で探すよりほかなく、そこに一万人いれば一万通りの幸福の形があるのだから最後は模倣でも踏襲でもなく、また誰も経験したことのないものであったとしても、それが自分自身を投影させたものであると確信できるのであれば臆せずそれを世に問うべきである
確かに真に新しいものは多くの場合、むしろ反発を招く、だがすでに述べているように支持率100%の中から新しい価値が生まれてきたことはないのである、だから確信がそこにある限り継続をやめてはいけない
そういう意味では継続とは派手なものではなくそれどころか淡々とした将棋の駒でいうところの歩のような、下ばかり見ている人々なら気付くことができないようなそんな小さな努力の積み重ねなのかも知れない

さて「最上級の理性の働き」以降、すでにこの書の核心に当たる内容を持つ文章を多く書き連ねてきたにもかかわらずなぜまだグレートターンに達しないのかといえば、「感じる力」の章で述べた命こそが私たち生ある者たちにとって最も重要なものであり、故に命を「感じる力」こそ、「信じる力」や「考える力」より上位に来るのだと書いておきながら命そのものについて触れる機会がこの書全体を通してやや少ないように感じられたからだ
もう一度触れなければなるまい
今日が人生最後の日などと決して思ってはならない、また命よりも価値あるものがこの世にあるなどとも思ってはならない、何れも「私」の唯一の対象は「神」であるという考えからあまりにも大きく逸脱したものであり、確かにこのように考える人は「私は生きているのであり、生かされているわけではない」という考えに依っているのかもしれないが、私の考えとは大きく異なっている
私はすでに人間以外被創造物すべての対象は「喜び」であると書いた
ということは私たち人間はそのような人間以外の被創造物の喜びを摂取することによって生きながらえているのである、彼らが人間に食されることを自ら望んでいることの確証が得られない以上、私たちは何らかの罪の意識をいうものを持っていわゆる「食」に接するべきである
そういう意味では日本人の「いただきます」という食前の呟きは賛美されることはあれその逆はあるまい
言うまでもなく食は幸福に通ずる、しかし同時に食は罪に通ずる
私たちの喜びは何かの犠牲の上に成り立っている、命に敏感であってこそこの結論は深い意味を持つ、なぜならば命をいただいている以上そこには人間としての当然の責務が生じるからである
無論、食べ物を粗末にしないことは当然だが、それ以上に彼らの命を無駄にしないということを考えるべきである
命を無駄にしないとはどういうことか?

私はすでにこう書いている
育むということは待つことであると
久しぶりに登場するこの言葉がこの答えを導くヒントとなるであろう
命とは育むものであり、育むとは「待つ」ということである
そこに命はもちろんそのかけらのようなものが見える場合、おそらく私たちはすぐに決断すべきではあるまい、命が姿を変え食膳に供されるとき、私たちはしばしの間それに手を付けることを待ってもよいのではないのか
待つとは思いを馳せるということだ、無論私たちは空腹を抑えきれない動物である、だが私たちは食物連鎖の頂点に君臨しているとはいえ、がしかし同時にこういう存在であるとも仮定できるのである

生かされている存在

その対象によって生かされている存在、その対象とは神であり、また人によっては愛する人であり、また時に夢であろう
だが私たち人類は偉大であったとしても絶対ではない、価値ある創造を行っても王にはなれない、私たちは相対的な価値しか持ちえない存在なのだ
贅沢を敵視するつもりはない、だが善というものが目覚めた人を敢えて華やかな舞台から遠ざけようとすることはあるだろう
私たちは命をいただく、しかしそれは私たちがその姿を変えた動物たちよりも遥か上を行っているからではない、それは最低限の一ヒューマンとしての礼節でありまた神の理想をこの世において実現するための実は日々の緊急的措置
命の価値は普遍的に平等
なぜならば命は明日には今日とは違う姿を見せることがあるからだ、現時点では期待に適うものでなくとも明日には、また来年の今頃にはまったく違う姿を見せているかもしれないからだ、私たちは悟ることによって贖う、そして贖うことによって変化する
いったい何を贖うのか?
存在しているが故の罪である
存在そのものの罪、だからこそ私たちには信仰が必要であり、命を前にしたとき宗派を問わず敬虔な気持ちになるのである、死刑を支持する者とて執行書に署名することはできまい

私たちは肉を食うがしかし血を飲むことはない、それは私たちが命に対する何らかの畏れを抱いているからに他ならないであろう、だがこの畏れこそが神との契約の証
次章ではその生前の約束について触れる

生前の約束

生前の約束

さて前章では命について述べた
命とは継続によってのみ輝くものであるということがその論旨であるが、同時に人間とは命をいただく存在であるから命そのものに対する一ヒューマンとしての礼節、または「生かされている」という敬虔さが必要であろうと書いた
また久しぶりに「待つ」という言葉を用いて、命とは育むものであり、育むとは待つということであると書いた
だが前章で私が最も強調したかったことは、今日を最後の日と思ってはならないということと、命よりも大切なものがあるとも思ってはならないということである
なぜか?
神との生前の約束に反するからである

さてそこで神との生前(生まれる前という意味)の約束である
この生前の約束という言葉はすでに前半において数度登場している、しかしなかなかそこに到達することができずにようやくここで触れることができることになった、諸君の中でこの言葉が気になっていた方には随分と到着が遅れたことをまずお詫びしたい、そのうえで論を進めたいと思う

またもこの表現の繰り返しになるのであるが、「私」の唯一の対象は「神」である、万物は対象を求めるものであるから、対象なしにこの世に存在するものはない、さて「私」の対象が「神」ならば神はおそらく私という存在のすべてにかかわっているものと考えられる、ということはもちろん記憶はないが、私が生まれる以前の段階においても神は私に関わっていたと推論することができる、故に神は私の死後においても関わることになるのであろう
また私はすでに神はすべてを救うと書いた、だから私たちは正のプライドを最終的には獲得し、神の期待に副う存在にならなければならない、だがそれまでには膨大な時間の経過が必要であろうと

さて神は私に生を授ける時果たして無条件にそれを授けたのであろうか、それとも何らかの条件を付けて命を与えたのであろうか?
さてこの問いの答えを出す前に、私たち人類の中に眠るつまり習得する努力なしで必然的に備わっているであろう善について考えてみたい
私は性善説の立場を必ずしもとっていない、だから信仰が必要なのだと言っているのである、しかし多くの人々の言動の中ににもかかわらず善の萌芽のようなものを見て取ることはできる、事実私が以前鍵入れをなくした時(しかも二度)、何れも数日のうちにそれは戻ってきた、交番に届けられていたのだ
悪意ある者であればおそらく交番には届けないであろう、そのような経験は多かれ少なかれ誰にでもあるのではないだろうか?
無論、これは日本人だからであって日本人以外の人ならばこうはいかないという意見が諸君らの中にあったとしてもそれはそうおかしくはないのかもしれない、だが私たちの中に非合理的なものとしてではあるが善を期待する気持ちというものはある、外国へ行った場合でもさすがに盗まれた物は戻ってこないが、道に迷った時などに好意的な対応を期待する気持ちはある、もちろん向こうから日本語で話しかけられた時には用心しなければならないが、私も地下鉄の切符の買い方が分からないときに現地の人に親切に対応してもらったことはある
善意とは100%ではないが少なくともこちらに悪意がないことが相手に伝わったときには、意外な対応を見せられたりもするのである、だから海外に旅行する人はバックパッカーも含めて減少することがないのである

このように善意というものは決して強くはないが人間の奥底に眠っていたりするものだ、それはおおよそ共通な意識であり、確かに時に酷い目にも遭うのだが、しかしその負の思い出が多数派を占める例はそう多くないようにも思える
私は海外で物を盗まれたことはない、また騙されたこともない、たとえばウランバートルは治安が悪いと聞かされていたが不安を感じることはほぼなかった(無論夜間は外出していない)
善意というものはそれを相手に期待したときにはしばしば裏切られるものだが、善意を自分に課されたものと解するときには意外な人の意外な反応を見られたりするものだ、それは国内外をおそらく問わないであろう、「この人はこの街が好きなんだな」という人の反応というものは誰が見てもすぐにわかるものであり、実際に接触を試みるか否かはともかく何かしらいい気分になったりもするものだ
さてこのような生来多くの人間に取りあえずは備わっているであろう善意のようなものをどのように呼べばよいのであろうか?
うまい言葉が見つからないが、ここでは生理的善意とでも呼んでおこう、特に心がけているわけではないが自然発生的な、そして意思とはおおよそ無縁の反応だからである
この生理的善意というものが僅かに例外は認められるにせよ、おおよその人間にはあると推測される以上、おそらくここに生前の約束の第一歩を認めることはできるかもしれない、確かに知恵の最初の仕事は嘘を覚えることであるが、しかし嘘というものは結局バツの悪い思い出にしかならない、あの時嘘をついておいてよかったということは私の五十年の人生でも一度か二度である、したがって知恵の中に潜む悪意を計算に入れたとしても私たちは神とこの生理的善意だけは少なくとも約束の上、この世を生きる権利を得たと考えられるかもしれない
生理的善意のように習得の努力をすることなくすでに備わっているものは、おそらく他にもあるのであろうがここでは善ということにのみ焦点を当てて論を進めたいと思う、ご了承いただきたい

私たちの知人などが死を迎えたとき、人は必ずと言っていいほどこういう表現を使う
彼は旅立ったのだ
この表現は間違ってはいないのであろうが、私は時々こう考えることがある
人は生を受けたときに飛び立ち、死をもって着地する、そして土に帰り、今度は生の逆の死の世界へと再び旅立つ、人生とはきわめて不安定なものであり、明日は見えず、安息の日々など訪れはしない、なぜならば私たちは生の間ずっと飛び続けているからだ、しかも時に大海原の上を飛ぶことさえある、そんな時はしばし岩礁に休息を求めたりもするが結局はまた羽ばたかなければならない
生が苦しいのは死が待っているからではなく、生前の約束を守らなければならないから苦しいのである
しかも神は誰に対しても救済を保障しない
それは神が自身の創り給うたすべてに対して完全に平等であろうと考えているからだ
したがって私たちは保障のないまま約束を守り続けなければならず、また当然生じるであろう心の不安にも不完全な知恵を持って対処するしかなく、しかも神は永遠に沈黙するものであるから、いつしか信じることよりも疑うことによって心の中心が陣取られるようになってしまう、だがすでに述べたように命とは継続によってのみ輝くものであるから、命を重んじればこそ人は懸命になるのである

さてここでやや深刻な領域に論を進めなければならないであろう
言うまでもなく神は神によって生命を与えられたものが自ら命を絶つことを歓迎しない、それは生理的善意を認める人であれば本能的に感知できるものであろう、ではなぜ神は人が自らの命を絶つことを禁じているのか?人生がいかに辛いのかを最もよく知るのは神御自身であるはずなのに

生前の約束にはおそらく自他伴に命の尊重が含まれていたのであろう、また労働の奨励もあったかもしれない、さらに言えば知恵を与えておきながら偽りの言葉を弄することも禁じたはずだ
では生を諦めることは神との生前の約束に含まれていたのであろうか?
神はすべてを救う、故にどのような人であれ人はすべて救われる、したがってここでの論点は神が「過程」と「結果」の不一致をどのように裁定されるかにある
最悪の結果であったとしてもそれに至る過程において神の評価に十分耐えうる要素がそこにあったと看做すことができるならば、神は果たして天国への直通切符を彼、または彼女に与えるであろうか?
そう、ここにあるのは「過程」と「結果」の関係である
過程が結果を上回ると考えれば彼は非難の対象とはならない、だがそうなると彼に追随する者が現れる、それは神の理想に反する、だから生前の約束になるのだが、しかし現時点ではこのように結論付けるより他あるまい

自ら命を絶つことは悪である、だがそれ以上の悪は彼に現世的救済の手を差し伸べなかった彼の周りの人およびその社会である、したがって現世的救済に踏み切ることができなかった第三者は誰か(遠くの他人でもよい)を一人救う義務を負うことになる、故に神との生前の約束には間違いなく以下の言葉があったであろう

扶助の義務

だがここで素朴な疑問が生じる
もし生前の約束に扶助の義務が記されているならば、なぜ神はかくも多くの言語によって人類を隔てたのか?
扶助の義務というならばもっと言語の数も減らすことができたのではないか?
この問いに明確な答えを用意することは難しいのかもしれない、神の本質は善であり、そこに悪意はない以上、おそらくは扶助の義務を生前の約束としたことは明白である、だが多数の言語を人類の中に散りばめるという、いってみれば意思疎通の障壁を置いたことで、神の意図というものが単純なものではないということが推測される
言語の統一を阻害したというのは言うまでもなく神の代理人を名乗る者が跋扈することを防ぐためだが、扶助の義務においては人間の善意というものが言語を超えたものでなければならないと神が考えたからなのかもしれない
これはむしろ消去法による考え方だが、このように考えるのが一番しっくりくる、もちろん携帯言語翻訳機が間もなく登場するであろうから、現状のような不都合な状況も少しずつだが改善されていくのではあろうが……

さて扶助の義務とはいってみれば「にもかかわらずの行為」である、常識的に考えて目や肌の色も違う、もちろん国籍や話す言語も異なる、また同じ職場、学校といった共通する項目もない、そのような人物を無条件に信用することなどできるはずはないのである、だが明らかに困っている、それは間違いないという確信が得られるとき、果たして私たちはその人に対してどのような対応をとるべきなのであろうか?
すでに見も知らぬ人がこちらの理解できる言語で話しかけてきた時は要注意と書いた、この言を撤回するつもりはない、したがってこちらが親切にしても逆に訝られる可能性もある(日本人同士の場合はこのようなことはまずないが)、そのようなときには正直親切にしなければよかったとも思うであろう、では扶助の義務とは具体的にどのようなことなのであろうか?
おそらくそれは習慣の中にあるのであろう
突然思い立っても他人に親切にすることなどできるはずはない、だが日常においてそれを少なくとも心がけていれば、結果は自ずと変わってくるのではないだろうか?
やや楽観的な意見と受け取られかねないが、日頃の心がけというものは得てしてその態度や表情に現れるものだ、金銭にこだわる生活を送っている人の顔はやがてそのようになり、その瞳の識別は若い人であれ、外国人であれ、難しいことではない、だが日頃から善の行為というものをにもかかわらず実践している人の表情というものは、もちろんすぐにではないが生理的善意を理解できる人であれば早ければ数秒のうちに区別はつくのではあるまいか?
嘘というものはまず顔に出るものだ、それは言葉よりも正直であり、また扶助に利を求める人はたとえ一時的にうまくいってもやがて利を損なうことになり自らそこから離脱していくであろう、人は皆生前の約束を神と交わしこの世に生を受けているのであるから、同じ人間(ホモサピエンスしか生き残っていない)であれば言語は通じずともおおよそ互いの瞳が語るものは理解可能である、だがここで注意しなければならないのは、扶助の義務を絶対的なものと捉えないということである、そこに「強制」が僅かでも顔を覗かせると利の追及に長けた偽善的な集団がモラルを拡大解釈して裕福だがしかし気の小さい者たちから時に継続的に財を奪うであろう
扶助の義務は少なくとも精神的に余裕のあるものにこそ、まずはその実践が求められる、人を助ける、または導くということは余裕のある人がまず行うべきことである、無論、これを突き詰めれば再び正のプライドへと至るのであるが、それ以前の段階で精神の余裕が必要になる
前章では「待つ」という言葉が久しぶりに登場したが、この章ではこの言葉が久しぶりに登場することになる

隙間

私はすでにクリエイティヴな精神は隙間から生まれる、そしてそれが新しい価値の創造をなし得る、と書いたが、善である「にもかかわらずの行為」(善は常ににもかかわらずだ)もまた隙間から誕生するのであろう、したがってスケジュール帳が休日以外すべて朝から晩まで埋まっている人は、ビジネスという観点からすれば望ましいのであろうが、私がこの書で述べているような観点からすれば望ましいことではない
私は思う、オリンピックやパラリンピックのようなイヴェントが行われている時は、人は皆相対的に見て優しくなるのではないかと
もちろん外国の人が多く訪れるのだから当然ともいえるのだが、オリンピックやパラリンピックの競技というものは心に余裕がないとおおよそ面白いものではない、もちろん自らのビジネスにそれらが直結しているのであれば、または自分が元アスリートであるならば話は別だが、オリンピックやパラリンピックの大々的な成功によっても自らの日常に数字で明示されるプラスの結果をもたらさないことが確実である時には、世界的な一大イヴェントであっても心に余裕がなければ楽しむことなどとてもできないものだ
しかし多くの人は、特に地元の人はオリンピックやパラリンピックを楽しみたいと思っている、だからこそそのために少しだけ優しくなるのである

このような考えは楽観的だがしかし扶助のための何らかのヒントにはなる、他人に「ありがとう」と言われて腹が立つ人はいない、「こんにちは」《Hello》で始まり、「ありがとう」《Thank you》で終わる、これをもし人間として当たり前のことだと思えなくなったら確かに恐ろしいことである、しかし隙間がその都市にある限りそれが失われることはあるまい、だから帰郷が重要な概念になるのである、故郷を離れれば離れるほどふとテレビなどで目にした故郷の風景がひどく懐かしいものに思えたりする、そんな時人は皆柔和な表情をしている、自ら望んで故郷を離れたはずなのに、地元が同じというただそれだけの理由で親近感を覚えたりする、そして海外に旅すると故郷が街ではなく国になり、例えば日本人として恥ずかしくないように振る舞おう、と思う、まかり間違ってもペットボトルなどを河に放り投げるようなことはしない、そのように考えると扶助とは矜持のなせる業
「こんにちは」も「ありがとう」も立派な扶助の精神のひとつの表れである、勇気ある一歩にランクなどない、小さな行為でもそれは立派な褒め讃えられるべき勇気である
扶助とはいってみれば一歩であり、一言である
生前の約束を信じることでそれが可能になるのならば、ただそれだけで人生は昨日までよりも豊かなものになるのではあるまいか

万物は対象を求める

万物は対象を求める

さて前章では、生前の約束と題して前々章で述べたところの①今日を人生最後の日とは思ってはならないと②命よりも重要なものがあると思ってはならないという二つの私見を強調する意味で諸々のことを述べた
私たちは生前の約束を神と交わしてこの世に生を受けたのだから、命というものを自他伴に重視しなければならないのであり、まかり間違っても命を粗末にしてはならないということが前章の中心の論旨である、これは最終的には言うまでもなく戦争の否定につながるのであるが、ここではそこまでは踏み込まずにもっと社会的、または個人的な部分まででその表現を留めた
それは生理的善意と前章では表現した私たち人間の心の根底に眠っている、つまり習得しようとする努力なしにすでに備わっている能力であり、美徳であるところの善意をうまく活用することによって扶助の義務を果たしていくべきであると書いた、そして扶助の義務は神との生前の約束に含まれているのであると

前章で最も強調したかったのは戦争の否定もあるがそれ以上に自殺の防止である
これは明らかに悲劇であり、善ではなく、また神の意志にも反している、そこに様々な事情があることは容易に推測できるがそれにしてもこれだけは何としても減らしていく努力を続けなければならない、たとえどんなに経済が発展しても物の豊かさという点で、また数字に明示されうる数多の項目の点で世界の筆頭に立ったとしても、自ら命を絶つものが多い国や社会は絶対に未来においてよい模範とはならない、これはここで強く協調しておかなければならない
すでに序でも述べているようにこの書はなぜ人生はこんなにも辛いのかを一方では論理的に追及するいわゆる私的幸福論の意味合いも濃く持っているために、幸福に暮らしている者が自ら命を絶つわけはなく、そういう意味でも私は経験上の根拠はまったくないにもかかわらず、この生前の約束だけはこだわらざるを得ないのである

そういう意味でも私たちは扶助の精神というものが神によって自らに課せられたものであることを認識して(だから信仰が必要なのだ)、勇気ある一歩である行為(小さなものでよい)をその矜持によって日々実践していくべきである
そのためにも社会には空間的にも時間的にも隙間が必要である、なぜならば隙間がなければいわゆる精神のシェルター(特に感受性豊かな人々にとっての)の確保が難しくなり故に人々は忙しくなりすぎ、したがって数値化できるものに重きを置くようになってしまうからである

さてこの章では、万物は対象を求めると題して、なぜ「私」の唯一の対象が「神」なのかについて述べたいと思う、実は数日前よりこの書全体の見直しをしているのだが、そこでこの「万物は対象を求める」についてまだ記述していないことに気付いた、前半では後に詳述すると書いたのだがまだ述べていない、諸君らの中でこの言葉が気になっていた方にはこのように私論の展開が遅れたことを申し訳思うが、なにとぞご容赦願いたい

さて万物は対象を求めると私が書くときそれはとりもなおさず以下のことを意味している

「私」の唯一の対象は「神」である

この唯一の対象というくだりは読者諸君の中にはやや違和感を持って受け止められている方もおられると思うが、ここの辺りはこの次の章で詳細するつもりである
神を絶対であると受け止めることによって、悩みなどつまり自ら命を絶つその原因となっているものの相対化を図ることができるために、やはり「神」は「私」の唯一の対象であるとここで強調せざるを得ないのである

さて「万物は対象を求める」であるが、これは元を辿れば「神は一人だけである」という仮定に立つとどうもしっくりこないのではないかという、個人的な論理的というよりもむしろ直感的な考えに立脚した仮定の結論であった
だがよく考えてみると私たちは日々、例えば時間などをその対象として行動や思考の整理をしていることに気が付いた、事実日常において最も不安なのは何もやることがないということであり、故に封建時代の王のような絶対的な権力を握ると、無論他国にも王がいるので王というその座が唯一絶対のものではないが、かなりの鬱を伴った戦々恐々とした被害妄想に陥るのではないかと考えたのである、つまり自分には相対的な力しかなくしたがって日々やらなければならないことに追われているからこそ、精神のバランスを保つことができるのではないかと
王になりたがる者は実はこの「万物は対象を求める」を知らない者であり、故に絶対者の孤独を知らない者である、だが絶対者こそ後戻りできない者であり、また悩みを他と共有できない者でもある、絶対者は常に、もしかしたら死後においても絶対者として君臨しなければならず、したがってそこに被支配者に対する何らかの、または幾通りもの、強制力と直接には関係のない事柄については本人の意思にかかわらず関わりを持ってはいけないのである、したがって絶対者は芸術に心酔することはあっても道徳に過剰なこだわりを見せることはないのである、なぜならば芸術が権威にプラスの貢献をすることはあっても、道徳がそのような働きを見せることはないからである、芸術の対象に「私心」が含まれることはあるが、道徳の対象にそれが含まれることはない、なぜならば芸術とはある面技術のことなので技術を強調しすぎると精神的な部分が後退し、したがって権威などの現実的に大きな作用をもたらしうるものに結果的にしばしば利用されてしまうことになるからである、だが道徳に技術は関係ない、したがって道徳を説くものは概ね権威から睨まれることはあってもその逆はないのである
これは最終的には究極の善、そして正のプライドとも関連することなので、ここでは幾分か強調させていただく

言うまでもなく人間とはきわめて不完全な動物である、人間の中から絶対者を出さないことがその目的とはいえなぜ神はここまで人間を不完全に造ったのかとつい思いたくなるほどだ
だがそれもまた神の計算のうちの一つと想定することができないわけではない
点と点をつなげば自然線になる、またもう一つ点があれば今度は面ができる、一つの点をいくら濃くしても小さな面ができるだけで、果たしてそこから何か肯定的な要素を引き出すことができるか甚だ疑問である
対象はまず線を作る
私の対象が神ならば私と神との間に一本の線ができる、欲を言えばもう一つ点を作り面にしたいところであるが、まずは点を線にすることが真理の探究のうえで重要といえるであろう、これで二元的に物事を捉える考え方をすることができるようになる
そしてこれで論理的思考の第一歩である「自」と「他」を区別することができるようになる、この世の真理は「相異なる役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動である」から点が二つになったことは実に重要な意味を持つ、王になりたがる人にはこれはできないであろう
このように考えるとこの世の認識可能な最小単位は「二」《2》である
すべて一から始まるのではなく二から始まる、まだ書いていなかったかもしれないが、リーダーも二人いる方が望ましい、政党であれ、企業であれ、その他の共同体であれ、組織というものはすべてリーダーが二人であることが望ましい、さらに言えばそれが男女各々一名ずつというのが良いかもしれない、そうすれば最低限の多様性を確保できると伴に、独裁を排除することができる、効率性には反するが、時代は今大きく変わろうとしている、私は幸福の追求という点では効率性よりも多様性に分があると思っている、このように考えることで人々は「待つ」ことができるようになり、正直に言えばだが、その方面の能力がやや劣る者でも幸福への切符を掴むことができるようになる、「最大多数の最大幸福」とは民主主義の原点でもあり、そういう意味でも多様性に今大きく舵を切るべき時が近づいているのである、おそらく行き過ぎた能力主義は新たな格差を生むだけであり、短期的には全体のパイ(需要及び供給の合計の数値)を押し上げるであろうが、結局は少数の者の幸福にしか結びつかないため、それを導入することに躍起になっている数人のエリートがこの世を去ればいつしかそれは消えてなくなってしまうであろう、新しい価値の創造に失敗したものは、短期的にはともかく決して長続きはしないであろう、つまり人は優しいのかもしれないが社会は厳しいのである

新しい価値の創造の連続の先にあるものが普遍である、人間は不完全であるので果たしてどれほどの普遍を築き上げることができるのかは私にもよくわからないが、たとえば以下のフランスの有名な哲学者の言葉などをここで引用することは、その一端を垣間見るという点では実に有効であろう

私は君の発言に賛同しない、しかし君に発言する権利があることだけはこの命を懸けて守る

この言葉には実は民主主義の基本理念に極めて近いものが内包されている、第一にこの言葉には嘘がない、そしてこの発言者は明らかに遠くを見ている
おそらくこの哲学者は歴史にも詳しいに違いない、彼の知性はフランスだけではなく世界、いやもしかしたら宇宙(universe)までも視野に入れていたかもしれない、嘘の排除は概ね愛の定義の際に使われるが、しかし嘘の排除が普遍の利益に基づく思想に昇華するとき、それは神憑かったものとなり永遠に近い生命を得る、そういう意味ではやはり最初にあったものは言葉であり、それに続き存在が生まれたのかもしれない、だが私たちホモサピエンスがその範疇に入っているかどうかは議論が分かれるところであろうが……

嘘の排除は特定の思想などを神憑かったものにするだけでなくもう一つの側面を持つ、どうやらこの言葉もこの書では初お目見えということのようだ

それは誠実(sincerity)である

この言葉は個人の人柄を説明するときなどにしばしば用いられるが、人間が創造したものにもこの言葉を引用することは可能だ
さて誠実の対象は何であろう?
これはやや難しい質問だ、誠実の反意語は愛の場合と同様嘘であり、また裏切りでもあるだろう、だが誠実と同一線上にあるものが何なのかをここで特定することは難しいかもしれない、だがこういうことはできるであろう
誠実は真実の親戚であると
ここにも「嘘の排除」を見て取ることができるが、つまり「万物は対象を求める」とは、この世の真理である「相異なる役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」のその要素の性質をうまく言い表しているともいえるのではないか?
その要素においてそこに嘘はなくしたがってきわめて真実に近い
つまりそこに嘘がある限りにおいて、それは上記した真理の「相異なる役割を担う二つの要素」の要素足り得ないのである、明と暗はいずれも真実である、出会いと別れもまた真実である、そして生と死もまた同様である
真実である二つの要素は互いに同じだけの能力を有し、したがって永遠の往復運動を繰り返すことが可能なのであると
ということは人間の為しうる行為はしばしばそこに偽りが混じるため、永遠の繰り返しのための要素にはなりえないということか?
では愛はどうなる?
愛は永遠足り得ないのか?
おそらくその答えはこうであろう
愛で永遠足り得るのは神の愛のみである

どうやらこの章の結論はやや自分でも意識していなかったところに落ち着きそうだ
「万物は対象を求める」
そしてこの世の真理は「相異なる役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」
この二つを足して出てくるものは、
人間は皆救われるが、そこに永遠を見出すことができるのは神の愛を知る者だけである

諸君、この結論については暫定的なものとしてご理解いただきたい、この「曇天の日には収穫が多い」の後にも続編を記すつもりなので、そこでもこの問題についてはもう一度取り上げようと思う
だがそれでも結論は同じかもしれないが

万物は対象を求める Part2

万物は対象を求める、故に「私」の唯一の対象は「神」であり、その関係以外の脈絡によって語られるものすべては相対的な価値しか持ちえない

さて前章では、「万物は対象を求める」と題し、この書の前半より繰り返されてきたこの文言の解説にようやく及んだ
万物は対象を求めるとはつまり神さえ二人いるということである、そしてその二人の神がそれぞれ異なる役割を担い、いわゆる天地創造に日々努めているということである、一方の神が引けばもう一方の神は押す、一方の神が押せばもう一方の神は引く、一方の神が光を司る存在であるならば、もう一方の神は闇を司る存在である、この二人の神は自分たちが二人で一つであることを十分にわかっていて争うことをせず、いってみれば黙々と自分の果たすべき労働に勤しんでいる、またこの二人の神は労働が尊いということをよくわかっており、したがって多くの被創造物にも労働の義務を課す、ライオンやトラは狩りをする、牛や鹿はリスクを冒して子育てをし、また水を飲むのにも周囲に気を配りつまり楽をすることはない、それは神によって特別に造られた人間(ホモサピエンス)も同じであり、この人間たちは食物連鎖の頂点に少なくとも現時点では君臨しているため、他の動物に食されないがしかしそれ故のリスクを背負うことになっている、まず人間たちは労働しなければならない、また人間たちは出産のリスクを負わなければならない、そして人間たちは様々な悩みの中を生き抜いていかなければならない(人はパンのみにて生きるにあらず)
もちろん二人の神を男性的女性的と分けることも可能であるかもしれない、男性的な神は創造を司り、もう一方の女性的な神は救済を司る、いや子を産むのは女性であるからもしかしたらこれは逆なのかもしれないが
いずれにせよ、神もまた対象を求めるのであり、したがってこの世もそのように創った
つまりこの世の認識可能な最小単位は二であると

また最後にはこのようにも書いた
この世の真理「相異なる役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」の要素足り得るためにはそこに嘘の排除が必須条件であると
では人間の愛はどうなるのか?
すべては救われるが、神の愛を知る者だけが永遠を知る

この結論は当初は私の脳裏にはなかったものだが、論を進めるにしたがって意識上に現れ出たものである、ただこれについても更なる検証が必要なのであろう

さてこの章のタイトルであるがやや長いものとなった、だがこの書において「私」の唯一の対象が「神」であると書いている以上、また愛とはつまり神の愛であるとも書いてある以上このような結論に達せざるを得ないのである

というわけでこの章を「万物は対象を求める、故に『私』の唯一の対象は『神』でありその脈絡において語られるもの以外のものはすべて相対的な価値しか持ちえない」と題することになったのである
この章では一つの仮説が語られることになる
曰く、「私」の対象は「神」だけであるから、それ以外に対象は存在せず、故にその脈絡以外の部分において語られるものすべては如何なるものであれ、相対的な価値しか持ちえずしたがってそれらは悩み足り得ない
これがこの章の仮説の結論である
以下、その検証を試みようと思う

確かに上記した仮説の結論(よく考えてみればこの書自体がすべて私論なので仮説などと前置きする必要は厳密にはないのではあるが、私自身に現時点ではまだ若干の迷いがあるためここはこのような表現に留めたいと思う)にはやや恣意的な趣がないわけではない、ただこのように「私」と「神」との関係のみを唯一絶対的なものと捉えそれ以外を相対的な価値しか持たないと考えることは、悩みの軽減とともに他にも諸々の精神的収穫があるように私には思えるのである

ここで私たちの悩みというものについて言及したいと思うが、私たちの悩みというものは大別して二種類あるように思う
一つは負の連鎖が続きその出口を見つけ出すことができないときの悩み
もう一つはひとつの負が精神的に固定され相対化していかないがために精神的にパニックに陥ることによって生ずる悩み
いずれもそれらに苛まれる人々にとってはちょっとした日常生活にも影響を与えるような深刻なものだが、共通しているのは精神的な意味での「孤立」である
「孤立」とは「孤独」とは違い自分から求めたものではないという性格が容易に見て取れる、無論、結果的にそれで助かったという場面もあるのであろうがそういう例は決して多くはあるまい
私は上記した二つの例のうち後者の例については神経医学的な要素も含まれていると思うので神経科医でも精神科医でもない私がここで多くを述べることはもしかしたら不適切なのかも知れない、なぜならば読者諸君の中の一部に誤った認識が生じる虞があるからである、だがそれでも論を進めざるを得ないのは私自身信仰というものに目覚めて以降、特定の宗教に帰依していないにもかかわらず明らかにひとつの精神的な意味での進化を実感できていることを明確に認識しているからである、これは明らかに個人的な体験であるにもかかわらずそこにある種の普遍性を見出すことができるように私は思う、なぜならば悩みが深化する時、最終的にそこからの離脱、脱却を可能にするものは明確化された絶対的な対象とそれ以外の相対的な対象との意識上における区別であると思われるからである、そして私の場合、明確化された絶対的な対象は「神」を相対的な対象は日常における「個々の事象」を表していたのである、そして神が普遍と結びついたとき個々の事象の相対化は決定的になる、それ以前は精神の救済はある風景であったりあるメロディであったりした、だが信仰への目覚めはそれまで抽象的なものでしかなかったものに具体的な形を与えることに成功する、それはそれに引き続き夢や「自分が何を好きで何をやりたいか」を発見することでより強固になり個々の事象の相対化以前はしばしば滞りがちであった時間の流れというものを一気にスムーズなものとする、つまり信仰とは悩みからの脱却の始点にすぎないのだがにもかかわらず普遍を実感することでそこに広がりや深みをその主体は感じ取ることができる、それはいってみれば「自」と「他」の理想的な結合でもあろう、もちろんこの過程には多くの偶然的な要素が入り込んでいたのは言うまでもないが、苦悩の除去に信仰が何ら役割を果たさないのであればこの書を書く意味もなく、そういう意味でもここで「より良い」明日のための望ましい精神の動きを規定するのはそのような状態にいる人々のためにも僭越ながら有効ではないかと考えるのである

さてここでのキーワードは「相対的」である、しかも「『私』と『神』との絶対的関係の脈絡において語られるもの以外のすべては相対的な価値しか持ちえない」という仮説を立てているのだから、実に明快な理論でもある

たとえば雨を取り上げることにしよう
「ここぞという時は必ず雨だ」
この発言者には明らかに負の認識がある、つまり後は負の肯定が備わればこの発言者の意識は大きく変わることになる、明らかに些末なことなのにそれにくよくよしたり、また時にパニックになったりするのは、第一にその対象が自分の中で最優先順位になっているということが挙げられる
それはサッカーであろうか、テニスであろうか、コンサートであろうか、それとも恋愛に関することであろうか、それともビジネスに関することであろうか?
優先順位一位は期待を膨らませるが、一方で緊張を高めうまくいかなかった時の衝撃が大きい、そしてその主体者はそれを熟知しているがために時に過度に神経質になるのである
だがその悩みの対象とはそもそも自分が今置かれている立場や自分に期待されている能力等にまったく関係なく、それが生じた時点においてすでに相対的な価値しか有していないと仮定したらどうであろうか?
いまそこにある貴殿のこだわりは貴殿がそれに対して実に神経質になっているにもかかわらず、相対的な価値しか持ちえないものだ、それが貴殿の期待に反しその予想に見事に反する形で失われたとしてもそれは貴殿にとっては大したことではない
なぜならば絶対的な価値とは「私」とその唯一の対象であるところの「神」との関係の脈絡において語られるものすべての中にのみあるのであって、それ以外のものはすべて優先順位一位にはなりえないからだ、これは25歳以下の若者であれば理解することさえ容易ではないのであろうが、35歳を超えた者であれば納得がいかなくても理解はできるであろう、無論私にとっての普遍は幸福のためにこそあるものであり、この前提に私と読者諸君との間で齟齬が生じているのであればこの章で語られていることの説得力はその割合に応じて減少するであろう

負(ここでは悩み、またはその原因となるもの)はどのようなものであれ、それに似たもう一つの負、つまり対象を見つけることによってその姿を変える
点が複数になることで線が生まれる、そして点と線が増えることでそこに彼にしかわからない法則が生まれる

一昨日はナイフで指を切った、今日は火傷をした、しかしこの二つの負の間には関連性がある、何れもそれが苦手だというそれだけの理由で消極的にそれに臨んでしまった、つまりリスクを恐れて消極的になったことで傷口をむしろ広げてしまった、そして私は思った、なるほど、苦手なものにこそチャレンジ、積極性が必要なのか

点が一つであればおそらく誰も気付かないであろう、だがもうひとつの点が生まれ、二つの点が線でつながることによって知恵に活躍の場が与えられる
ここには実はもう一つのキーワードがある
なかなか記すことができなかったがようやくここで登場ということになった
その言葉とは「工夫」である

工夫は「ない」から生まれる
それは「足りない」であり、「持ってない」であり、「できない」であり、「知らない」である
満ち足りた環境の中からは工夫は生まれず、また工夫を知れば人はどのような環境にあったとしても、一筋の希望の光、そして当初は僅かではあるがひとかけらの勇気を得ることができる
したがって「工夫」は99.9%「負」から生まれる
故に「有り余る」は新しい価値の創造には結び付かない、新しい価値の創造の結びつくのは、99.9%「足りない」である

工夫の可能性=「~ない」である

この書ではここに来るまで一度も顔を見せていないにもかかわらず幸福を考えたときにこれほど重要な言葉もそうはないかもしれない
また工夫とはそれが相対的な価値しか持たないと認識することによってさらに幅を利かせることに成功する、なぜならば数値化できる価値の上昇は知的好奇心を満足させることよりも十代にして早くも結果の重要性を認識させることにしかつながらず、故に真に才能ある人は結果ばかりを云々する友人たちをしり目に「工夫=にもかかわらずそれをやる、私自身の知的好奇心を満足させるためにこそ」となるからである
結果にはこだわらない、さらに言えば勲章など要らない、ただ私自身の知的好奇心を満足させるためと、私自身の可能性を限界まで追求することのみが目的である、結果はその努力についてくるものだけでよい
実はこの範疇には昆虫学者ファーブルが入るようである、彼は日本では有名だが母国フランスではそうでもないようだ、関連書がたくさん出版されるような人々が素晴らしくないというつもりはないが、最も素晴らしい生き方をした人とは自分が「何が好きで何をやりたいか」が明確にわかっている人のことであり、したがって結果にはおおよそ無頓着な人のことである
「工夫」はそれを教えてくれる
つまり結果ではなく過程、だから自分が「何が好きで何をやりたいか」をできるだけ早く見定める必要があるということになる

これは絶対が「私」と「神」との関連のみという極めてシンプルな構造を持つ思考(idea)に端を発している、悩みが消えないのは自分ではなく社会を変えようとしているからであり、もし社会に変化を求めずに自らにのみ変化を求めることができるのであれば、現実はそれまでとはまったく違った横顔を貴殿に見せることになるであろう
だがそのためにはシンプルな構造による考え方の小革命が必要である

こだわりのすべては相対的である、常に

実はこれは前半で述べた「熱いものは全部嘘である」(スポーツだけは唯一の例外)にその背後で結びついている考えでもある、この世に神との関係以外重要なものなどあるはずがないと考えることでこれ以下(ひどい状態)はないというシンプルな精神の構造に到達することができる、そしてシンプルであることによって以下のことを実現させることができる

360°の対応力

つまりどのような状況に対しても尻込みせず対応することができるようになる

これはもちろん人生そのものにクールになるという考え方にもつながるであろう、たかが人生、だからこそ結果は二の次であろう
このような考え方は「『私』の唯一の対象が『神』である」という考えを受け入れることができるか否かによって大きく変わる、さらに言えば「諦め」が「潔さ」に変化する、この違いは実に大きい、なぜならば「諦め」には必ずしも「次」の概念はないが「潔さ」には何かしら「次」への期待が感じられるからである
「次」は未来であり、そこにはバトンがある、潔い行為はその後継者の魂を時に奮い立たせることさえあるかもしれない
事実「潔さ」を実践できる人は何かに挑戦している人だけであろう、逃亡中の人にどのような結果に達するにせよ果たして「潔さ」を感じることができるであろうか?
確かに一方で「こだわりの喪失」はドラマの衰退でもある、限界までの挑戦が相対的に見て減少し、そこにある現実をただ受け止めるだけのクールな姿勢が目立つようになる、それでは次の人のために道を作ることが難しくなる、だからこそ「工夫」することが重要であり、自分が「何を好きで何をやりたいか」の発見が必要になるのである
今のままでは結果にこだわることによってのみ生じるドラマのために必ずしも興味を持てないもののためにも奔走するということになり、したがってそれはしばしば幸福と一致しないであろう(しかし数字は残す)
「私」とその唯一の対象である「神」との関係以外の脈絡で語られることのすべてを相対的な価値しか持たないものと看做すということがもたらすものは精神の余裕とそれに続く自由に扱える時間の増大である、効率性は減じるが、結果は伴わなくとも面白いからそれをやるという人が増え多様性は増大する、確かに幸福のためにはある程度の収入が必要であるため、現実との妥協点は最低限維持しなければならないが、しかしハイリターンを求めることのハイリスクが時に深刻な鬱を生じさせるという現実を鑑みたとき、私自身は豊かさの限界のようなものも感じるのであるが、諸君、いかがであろうか?
我が国日本は今や押しも押されもせぬ一等国である
では、貴兄は今幸福であると自信をもって宣言できるであろうか?
ここでの質問はたった一つでよい

Are you better life?
あなたは幸せですか?

この質問にYesとためらうことなく答えることができるのであれば何も問題はないのであるが…….
私はすでにこの世に地獄を作り出すのは神ではなく人間であることがヒロシマ、ナガサキによって証明されたと書いたが、もし人間を滅ぼすのが他ならぬ人間自身であるのだとしたら私たちが今採るべき選択肢というものはそう多くはないのかもしれない
富が目指すものは明らかに「足りない」ではなく「有り余る」である、人、モノ、情報の多様化、高速化がそれを一層加速させるであろう、二時間前に注文した靴がドローンにより庭先に運ばれてきた、そしてスマートフォンのチャイムが鳴る
この究極の利便性を現代人は幸福の範疇に加えるのであろうが、生まれながらにしてその利便性を享受できる、つまりそれが当たり前のものとなっている未来人はそれをどのように受け入れるのであろうか?
多くの人は私たちと変わりはあるまい、だが便利なものには副作用がある
その副作用となんであろうか?
鬱、メタボリックシンドローム、引き籠り、不眠、そしてED
私はすでに私たちの「次」の世代に対する責務のひとつは利便性の向上によるリスクの発生を最小限に留めることだと書いた、何かあった時に「次」の人々がそこから引き返すことができるようにと
そういう意味では核は要注意である、核の事故は最悪の場合引き返すことができなくなる

言うまでもなく科学技術の落とし前は科学技術自身でつけなければならない、だからこそ科学者はノーベル賞の栄誉に浴することができるのである
しかしノーベル賞にはなぜその正反対の価値を持つものが現れないのであろうか?
1960年代、カウンターカルチャーと呼ばれる主に若者を対象とした大衆文化の一大潮流があった、ビートルズやボブ・ディランがまさにその代表的存在であったわけだが、彼らはいわゆる古典と対照的な関わり方を社会に対してすることで、いわゆるアンチテーゼを社会に突き付けた、彼らの語る理想は実は資本主義社会をはみ出るものではなかったが、彼らの理想はその後継者たちに受け継がれ、ジョン・レノンの理想は彼が亡くなった後もほぼ同様の価値を有したまま現在に至っている、カウンターカルチャーはおおよそ直線的であったが彼らが遺した果実はいつしか曲線的なものとなり、“Imagine”も、”Blowin’ in the wind”もいまやオルゴールのメロディや壁掛け時計の正時のチャイムになっている
私がここで言いたいのはただ次の言葉のみである

Opposite

“opposite”とは反対勢力のことであるがこれが存在することによって正と負の拮抗を実現させることができる、ノーベル賞を受賞するような方が科学の扱いを誤るわけはないと私も考えているが、問題はその時々の為政者がその果実をどのように判断するかである
ロス・アラモス研究所所長のオッペンハイマーは核戦争を避けるために核の技術を米ソで共有すべきと発言し米国から追放されたが、このように為政者は科学者とはまったく違う判断をすることもあるのである、したがって正しい扱われ方をしなければならない科学技術が正反対の扱われ方をする恐れも常にそこにはあるということである
そのようなときにこそ必要なのはこのoppositeの勢力である、彼らは基本的に社会の中心からやや逸れたところに定住するため、1960年代でいうところのヒッピーのような印象を人々に与えるかもしれないが、そのようなはみ出し者が実は一強他弱のような状況においては、そのときはともかく「次」の人々にとって結果的にかもしれないが有り難い行動をすることがあるのである

マハトマ・ガンジーは英国に対するoppositeではなかったのか?
米国の公民権運動の象徴的存在、マーチン・ルーサー・キングJr牧師はoppositeではなかったのか?
また「沈黙の春」を記したレイチェル・カーソンもまたそうではなかったのか?

もちろんoppositeはまず善でなければならない、また権威というものの衣を纏ってはならない、oppositeは自由であるが故に権威に抗い、しかしあくまでも平和的手段によって社会の覚醒を促す、そのような存在でなければならない
もちろん一強他弱ではなく望ましい拮抗状態がそこにすでにあるのであればそれほどの問題はないかもしれないが、もしそうでないのであれば、oppositeなしで健全なる社会の実現は難しいかもしれない
そういう意味では理性ある人々、「負の肯定」と「究極の善」の拮抗の意味を知っている人はやや無理をしてでも他弱の側に立つべきである、つまり敢えてoppositeの立場をとるのである
すべてのはみ出し者を歓迎するわけではないが、上記した内容に明確に賛同することができるのであれば明らかに歓迎であろう
この世はすべて二つで一つ、私たちの呼吸も「吸って吐いて、また吸って吐く」すべてのサイクルがほぼ同じ力でなされるべきである、吸う力が強く、吐く力がそれに比べて極端に弱いのであれば人はきっと何らかの呼吸障害を引き起こすであろう、バランスがとれているとはつまり拮抗しているということだ
そういう点では常に両者が拮抗している4年に一度のアメリカ大統領選などはやはり健全であると結論付けられるのであろう
もし国政選挙において投票日以前の段階ですでに結果が分かっているという状態が何度も続いた場合にはその国、地域の民主主義はかなり重大な危機的状態に瀕していると断言できるであろう
「正」と「負」の拮抗は最終的には「善」へと向かう、お互いがお互いの力をある面では尊重し、またある面では競合するからこそ最終的にはそこに生じた緊張感(健全なる緊張感)によって生み出されたより良い知恵がその国、組織を少なくともその時点で最も望ましい状況へと導くのである、果たして一強他弱でこのような望ましい状態が現出するであろうか?

Oppositeとはそのように理想を知るからこそ選択しなければならない普遍性ある知的階級(知識層)を自他伴に認める人々の責務

そういう意味ではイグ・ノーベル賞というものがあるのは喜ばしいことである

グレートターン

グレートターン

さてようやくグレートターンである、つまりこの書の最終章である
随分と時間がかかったような印象があるがしかしその一方でまだ記すことのできていない言葉も多数ある、それらについてはこの書の続編である「行ったり来たり、そして次の人」において述べられることになるのであろうが、この書に関してはこのグレートターンで終わりである

ただその前に前章のまとめを行っておきたい
前章のタイトルは以下のとおりである

万物は対象を求める、故に「私」の唯一の対象は「神」であり、その関係以外の脈絡によって語られるものすべては相対的な価値しか持ちえない

随分と長いタイトルであるが、「万物は対象を求める」と前々章で題した以上前章はこうならざるを得なかった
前章で述べたかったのは実はたった一つ

悩みはどのようなものであれ、その多くは相対化することが可能である、ということである

確かにこのようなシンプルな結論に達するためには、「万物は対象を求める」のであり、また「私」の唯一の対象は「神」であるということを認識しなければならないが、それができていれば、悩みのすべてではないにしても、悩みそのものに対する認識に昨日までとは違うアプローチができるのではないかということである、だが前章では全体のバランスを重んじたが故についに記すことのできなかった言葉もある
それは「逃避」である

この「逃避」もこの書の前半で述べた「豹変」同様あまり良い印象のない言葉であるが、しかし前章では明確にこの世の絶対は「私」と「神」との関係によるその脈絡でのみ語られることのすべてだけであり、それ以外はすべて相対的な価値しか有し得ないと書いてあるのだから、いってみれば現世的なものはおおよそ相対的な価値しか持ちえないと結論付けることができるであろう
ただここで問題なのは、特にビジネスにおいては自分にも他人にも良かれと思ってしたこと、または選択したことがその後になって知らなかった事実が数多く露呈し、当初の予定、構想が大きく狂う事態が生じることがあるということである、だが社会人である以上自分に任されたその責任だけは全うしなければならない、しかしその一方で悩みは日々増大し、鬱は底知れぬ深淵を不眠に苦しむその当事者に容赦なく見せつける
さてこのような時、人はどうしたらよいのか?

その答えが逃避である、だがそこには条件がある
① まず彼は救難信号を社会に対して発しなければならない、私はネット社会に対しては批判的だがここに関する部分ではSNSが効力を発揮するかもしれない②また社会はそのための環境づくりに日々努めなければならない③そして最後に悩みの主体者は再生のためのスケジュールを自身の責任において作成しなければならない
そしてここが重要なのだが、その後においては絶対と相対の価値の住み分けを自身の中で明確に区切っていかなければならないということである、この世において命の問題よりも重要なことは何一つない、これがわかっていれば、後はその時々、その瞬間における的確な理性的判断が求められるだけである
したがって前章で出てきた、二つの言葉「工夫」と“opposite”になるのである
可能ならば20歳前後でこのことが理解されるのがよろしい
カードを引いた後でそれを無効にするのはやはり現実的には難しい、したがって日々の日常において自分が「何が好きで何をやりたいか」がわかっていることと、「喪失」の後においても失われない論理的一貫性を若いうちから身に着けておくべきだ
私はすでに前章でファーブルを例に出して、「工夫=にもかかわらずそれをやる、自身の知的好奇心を満足させるためにこそ」と書いたが、「結果を重視しないこと」という考えをそのヒントのようなものでもよいから育むことが実は14歳から21歳までの真に感受性豊かな時期においては重要なのであり、たとえそれがある種の保険であったとしても「数えられるものの価値」に重きを置くことは、特に若者のためには必ずしも有効ではないのである

なぜ勉強をするのか?______________それをやりたいから

実はこれ以外の答えというものはない、したがって十代においてそうでなかったと記憶する者は少し気を付けた方が良いかもしれない
「私は悩み多き人間」と自認する若者よ、いったい貴兄は何を工夫したのであろうか?
残酷な現実は貴兄が十九歳でも容赦しないであろう
私はすでに述べている、人生は螺旋階段ではないと
人生は螺旋階段の如し、この考えに屈する者は最上段まで行ける者を除いて「比較」の犠牲者となる
だが果たして最上階まで行ける者など全体のうち何パーセントいるのであろうか?
君よ、「共通」が「個別」を上回っていなかったか?
また「成功」が「幸福」を上回っていなかったか?
そして「数えられるものの価値」が、「数えられないものの価値」を上回っていなかったか、しかも時に大きく?
人生は過程がすべてである、そしてすべては救済され、善を奉じる者は最終的には神の愛を知る
「私」と「神」との唯一絶対の関係のその脈絡において語られるすべてのもの以外のものは相対的な価値しか持たないのだから、はっきり言おう、貴兄の成功は現時点ですでに相対的なものである

さて成功の価値を失った若者はいったいどこへ行けばよいのであろうか?
君よ、まず対象を見つけよ
たった一つだ、二つはいらない、そして点が見つかったら自分という点とその対象である点との間に線を引き、一度向こう側へ行って世の中を眺めてみるのだ、その手段としては、例えば文章を書いてみるのもいいだろう、私が今こうして文章を書いているように文章を書くということが自分の内奥に眠る小さな可能性という名の灯の存在を不意に気付かせてくれるかもしれない
いずれにせよ答えは自分で見つけるものだが、ここで強調しておかなければならないのは、成功には多くの種類はないが、幸福にはそこに一万人いたらそこには一万通りの幸福があるということだ、そこでは比較が成り立たないため優劣ではなく相違がその中心になる
相違とは何か?
相違とは個性である
では個性とは何か?
個性とは「共通」を排した命の輝きである
命の輝きは何を生むのか?
紆余曲折を経て「善」を生む
では「善」とは何か?
神の理想のことである
神の理想を知るためにはどうすればよいか?

まずは対象を見つけることである

対象は当初は相対的な価値しか持たない、だが二つの点の間を何度も往復するうちに対象を持たなかった時には決して見えてこなかったものが見えるようになる
対象とは夢である、抵抗である、自己実現である、そして未来の自分である
対象は個の成長を育み、促し、そして誰よりも明瞭に現実というものがどういうものであるかをその主体に告げる
では対象を見つけられないものはどうなるのか?
彼はまず反抗をしない、次に夢を見ない、そして最後に自己愛に陥る
自己愛に陥ると人はどうなるのか?
負けることをひどく恐れるようになる
負けることをひどく恐れるとどうなるのか?
決して負けないためにはどうすればよいかを考えるようになる
決して負けないようになるためにはどうすればよいのか?
公的に認められた被害者を装うようになる
なぜそうなるのか?
公的に認められた被害者になれば負けることは決してないからだ
自己愛に陥るとはいかなる手段を用いてでも「負けない自分」を実現させることである、したがって自己愛に陥る者はしばしば仮想敵を仕立て上げ、その敵のせいで自分は肉体的、精神的に追い込まれているのだと周囲に訴えるようになる、そして彼は常に被害者であり故に報復のための特別な権利を有していると考えるようになる
その彼はその後どうなるのか?
対象を見つけることができなかったために仮想敵を生み出した彼は最終的には絶対者を名乗る者の下へと走りテロリズムや極端な政治思想を信奉するようになる、彼は家族との再会を信じていない、したがって彼は譲歩をしない、そして被害者である自分がなぜ謝罪しなければならないのかと思うようになる
ではテロリストは自己愛者か?
かなり高い確率でYesである
だが対象を見つけることができない者は、いわゆる「行ったり来たり」ができないために「次の人」に遭遇することもない、しかし彼が対象を見つけることができなかったのは彼の能力よりはむしろその生まれ育った環境や彼が受けた教育などの影響が大きく、したがって自己愛者がテロリズムに走ったとしても彼だけを責めることはできない
自己愛に走らないためにはどうすればよいのか?
対象を見つけることである、できれば若いうちに、点が二つになればそこに線ができ、向こう側から自分を眺めることができるようになる
対象を見つけるためにはどうすればよいか?
二つ方法がある
一つは読書である
前半で述べた方程式を今一度思い起こしていただきたい

データ・インフォメーション+メッセージ・ストーリー=インテリジェンス・タクティクス

読書はこのうちインテリジェンスにあたる、つまり意思決定である
若く、様々な意味で未熟なうちはこの読書こそが対象を見つけるそのヒントを与えうるものであると看做すことができる、また読書とは100%、量ではなく質であるため、一年間で何冊本を読んだかということはほとんど意味がなく、これは今の自分には必要な書と思えるのであれば何度も読むべきであり、これは今の自分には不必要であると思えるのであれば、とりあえずそれ以上読み進める必要はない、また映画も読書に準ずるものと解釈できるであろう、映画とは小旅行であり、したがってここではないどこかへ手軽に短時間ではあるが逃避(これは豹変同様限定的に用いるのであれば問題はない)を行うことができ、それが精神のリフレッシュを時に効果的に呼び込むことができる、また読書は17~18歳くらいが一つのキーになる年齢ということができる、自分で何を読みたいかを主体的に判断することができ、また予定調和とは別の種類の感動を知ることが可能になるという点でもこの辺りの年齢は実に重要な年齢ということができる
前半でも述べているように、感受性というものは14歳くらいから上昇し、21歳くらいでその頂点に達し、その後25歳くらいまではある程度の高さを維持するが、20代後半では早くも下降局面に入るため、この17~18歳という年齢は読書という点では実に重要なのである
ただ我が国日本ではこの17歳とは大学受験が本格的にスタートする年齢であるため、必ずしも受験において役立つとは言えない小説などのいくつかの文芸書はそれを読むのを先送りされてしまいがちである、これは非常に残念なことである
文学だけではない、モーツァルトやベートーヴェンなどのクラシック音楽などもそうだが、それに触れる最初が17歳と19歳では実は雲泥の差である
19歳でも高い感受性は十分に維持されているが、大学生になると残されている時間は4年である、だが4年生になると就職活動で忙しくなるので実際には3年である、しかし17歳でそれに触れていれば3+2で5年である、この3年と5年の差は計り知れないほど大きい
文化的に優れた価値を持つものには多少無理をしてでも17歳くらいまでには最初の接点を作っておくべきである、優れた文化は大衆的なものと違い必ずしも他人と共有することができないが、優れた文化を味わうための孤独はその時はともかく必ず10年後、20年後に大きな果実となって戻ってくる、歴史の荒波に耐えた文化というものの価値は短時間で失われるということは決してない
そういう意味でも孤独を恐れずに17歳くらいまでに優れた様々な文化の果実にとにかく一度でいいので接しておくべきだ

そして今一つは旅である
これは先ほどの方程式のタクティクスにあたる、つまり意思決定に基づく行動ということである
これは17歳では難しいであろう、やはり20歳を過ぎてからということになるがそれは仕方がない
では17歳くらいでは何をすればよいのか?
映画を見ればよい、映画はいってみれば小旅行のようなものなので、SFでもよい、旅がまだ無理なうちは映画を見ることである程度の結果を得ることができる
旅の最も重要な点は実は帰国してから気付くのだが、読書が精神的な意味でのもうひとつの点であったとすれば、旅は物理的な意味でのもう一つの点であるということである、旅は故郷と旅した場所とを線でつなぎ、判断力の相対化を促進する、判断力の相対化は新たな対象を模索するうえでの最初の関門のようなものであり、これは絶対者を求める人にはおおよそ検討もつかないことであろう、幸福を考える上で他人との比較はご法度であるが、街の比較は逆に歓迎されるべきであろう
旅の重要な要素の一つは感動であるが、それだけではない、何気ない瞬間のようなものがその時はともかく数年後に振り返ったときにふと何かに気付かせてくれるというようなことがある、それはその地域のエスプリのようなもので、私もヨーロッパに旅行したときに帰国して一年以上たってからキリスト教文化のようなものにたいへん関心を持つようになり、キリスト教に関する書籍などを読むようになった、ここで重要なのは一年以上たってからという所である
確かに若く感覚的に敏感な人はもっと早く自分がその旅行において何を摂取したのかを理解できるのであろうが、私のように年老いて感覚の鈍った人間でも一年ちょっとで自分が何を経験しそこから何を学んだのかを抽出できたのである、ならば誰でも旅をすれば少なくともその一年ちょっと後には何か精神的に価値あるものをその一年ちょっと前の旅から得ることができるはずである、実はここでも考える力ではなく感じる力がモノを言う、旅から自分が得た価値あるものを記憶の中から抽出するのは感じる力のなせる業である、したがってその瞬間は突然やってくる、少なくとも私の場合はそうであった、その時テレビの画面にはウィーンの街並みと聖シュテファン大聖堂が映っていた、私はオーストリアは訪れなかったのだがしかしその瞬間自分が今何をすべきかを悟った、そして図書館へ行きキリスト教の書籍を見つけそれを読んだ
私はそれ以前はそれほど宗教には関心がなかったのだが、感じる力を重視することが何となくでもわかっていれば、いつかそれはふとした瞬間から何らかの精神的に価値あるものをその旅の経験から最終的に抽出するであろう、そういう意味では大人数で旅行するのもよいが少人数で行く方が良いかもしれない、またホテルの予約なども友人などに相談しながら自分自身でするのがよい、もちろん海外でなくともよい、国内旅行でも言葉が通じる分海外とは違う経験ができるはずである
旅は時に苦い思い出しか残さないこともあるが、チャレンジしない人間はおそらくかなり高い確率で旅をしない、旅は日常生活からわざと逸れるということなので数字を日々積み重ねることに汲汲としている人はあまり旅を好まないのではないかという印象がある、ここでもこの書の前半で述べた「感じる力」、「信じる力」、そして「考える力」の3つの美徳ともいえる人間の能力が思い出されることになる、この順序が十代にして早くも崩壊している場合、彼は大人になって以降も旅はもちろん文学にも多くの関心を寄せないであろう、旅と読書は自分の内奥に眠る何か精神的に価値あるもの、きっとそれは誰にでもある、それに気づかせてくれる最も有効な手段であろう、実利的なものが意味を持たないというつもりはないが、その発祥の地で味わう文化というものはやはり独特の味わいがあるというものだ、自己実現は自己発見の後に来るべきものだ、予定調和は瞬間的には精神の激しい高揚をもたらすが、一年後に何らかのインスピレーションに襲われるということはおそらくあるまい、真の精神的な価値の発見は対象を見つけることから始まる、その対象は自分の外側にあるものであるからこそ自分を導く、人生の師は自分の抱える疑問に対して言葉を発することはしない、なぜならば自分の抱える疑問の答えというものは自分で探すしかないからだ、故に君よ、絶対者を名乗る者の言葉に耳を傾けてはならない、私がこの書で「神」という言葉を多用するのは、それだけこの世には誘惑が多いと考えているからだ、だから言葉を必要とするときは古典に、まずその答えのヒントを求めるべきである、すでに亡くなっている人の作品であれば尚更のこと必ず何かが見つかるであろう、読書で大切なのはすでに亡くなっている人の作品をまだその人が存命していると思いながら読むことである、そして古典とは時代の荒波を潜り抜けてきた作品のことである、人間は不完全であるが故その言葉が時代を超えるのは容易なことではない、だからこそ古典に時に触れる必要があるのである

さてそろそろ本題のグレートターンに論を進めなければならない、この章がこの書の最終章であるため前置きが長くなってしまったようだ

私はすでに歴史はおおよそ2000年を一区切りとして振り子のように行ったり来たりを切り返していると書いた、そしてこの2000年間はいわゆる「追及」の時代であり、これからは「分配」の時代であると、もちろんその過程においては小さな揺れ戻しが何度も起きるのであろうが、おおよそ小さな反動を幾つも経験しながらも、しかし歴史はある一定の方向に進んでいくのであろうと、そのようなことを書いてきた
この2000年という区切りは確かにかなり恣意的ではあるのだが、このミレニアムの世紀、このような考え方をするのも正直な話、一興であろう

結論から先に言えば、私たちホモサピエンスはこの2000年間の「追及」の時代に行われた様々な試行錯誤の結果辿り着いた主に経済のシステムに神経的に疲れ果て、「都会へ向かう」から「故郷へ帰る」のモードに精神的に向かうのではないか、そしてその第一波は場合によっては今世紀中に起こるであろう、ということである
もしかしたらその回帰運動(グレートターン)はヨーロッパなどの敏感な人々の間ではすでにその兆しのようなものが起きているかもしれない
グレートターンはその都度至る所で起き、そして数百年を経てようやく大きな波となる、そのときグレートターンはグレーテストターンとなり、私たちホモサピエンスの回帰運動は終結する、つまり人生でいう所の渦の中心にあるゴールに到達するのである、人生はそこで終わりだが人類の歴史には続きがある
おそらくホモサピエンスは再び「追及」を始め都市を目指すのであろうが、それはおそらく41世紀頃であろうからこの書ではとても扱える話ではない
したがってここではその手前の時点までを推測して論を進めようと思う
つまりグレートターンとは私たち人類の未来の話である

ここからは未来人の話になる
私たちは歴史からしか学ぶことができないので、未来人も私たちと同様歴史から何かを学ぼうとするであろう、若者たちはその時々のモードにある程度身を委ねながら、そして40歳以上の者は自分自身の人生を客観的に見ることによって外にあるものと内にあるものとの間に共通する何らかのインスピレーションに普遍の価値を見出そうとするであろう、ただ数百年という単位でみても唯一変わらないのは、人間にとって、そして私にとって幸福とは何かということである
そこに一万人いたらそこには一万通りの幸福の形がある、ということは幸福とは多分に主観的である、情報量の少ない寒村に住んでいてもそれだけで不幸ということにはならない、幸福に主眼が置かれる限り、その判断は個々に任せられるべき問題であり、他がとやかく言うことではない、だからこそ自信のある者は自身の道を行き、自信のない者は数字の裏付けを必要とするのである、日々の数字の積み重ねが、それがたとえコツコツとした地道なものであったとしてもそこにこそ幸福の源泉があると確実に言えるのであれば、私たちの人生とは何とたった一種類であるということになる、だがそれは誤った考え方である、そこに一億人いたらそこには一億通りの人生があるのである、ならばなぜ幸福がたった一種類に限定されなければならないのか?
私が「個別」を「共通」よりもはるかに重視するのはここにその力点が置かれているからである、前半でも述べたようにこの地球上に、いや神が創造されたものの中に無駄なものはひとつもない、すべてが何らかの価値をもってそこに存在している、失われても構わないものなど一つもない、僭越ながらこれは重要な考えであり、だからこそ「信仰」が出てくるのだ、価値あるものは存在のための権利を有し故に「自由」の問題が出てくる、「自由」の問題は最終的には民主主義の問題であり、同時に「権威」の対象をどこに、またはどこにのみ見出すかということである、言うまでもなく権利は義務を伴う、自由を求めるのであれば私たちは義務を履行しなければならない、義務の履行、それは今を生きる私たちのためのものではない、これから生まれてくる人々のためのものである、だから限界への挑戦による新しい価値の発見が日々必要になるのである、だが私たちのこの地球上にもはやフロンティアと呼べるものはほとんどなく、また火星も果たして人類の移住に本当に適しているのかどうかはまだわからない、では私たちはどこにフロンティアを見出していくべきなのか?
ここでキーワードとなるのが「個別」と「精神的な価値」である、前者は正のプライドを会得することによって個の幸福(これこそ真の幸福)の模索へとつながり、最終的にはそこにあるべき信仰によって負ではなく正が勝利する
そして後者は「数えられるものの価値」ではなく「数えられないものの価値」を重視することによって都会ではなく地方の海、山、川、そして緑に新たな価値を見出すことに成功し、それがとりもなおさずグレートターンの第一歩となる

諸君、こんな経験はないだろうか?
遠くの街を旅した時などに、一度目に訪れたときにはまったく気付かなかったものに二度目に気付く、そしてなぜ最初の時は気付かなかったんだろうと思う
旅をするものであればこのような経験は多くあるはずだ、場合によってはガイドブックを持っていたにもかかわらず一度目は気付かなかったということもある、映画もそうである、強く感銘を受けた作品を後でDVDやブルーレイなどでもう一度見ると最初とはまた違った感動に出会えたりもする、特に洋画の場合は最初どうしても字幕を読むことに神経がいくので感動した場合はもう一度見る必要があるのだ
一度目は感動するために二度目は確認するために
では今2016年は一度目なのか二度目なのか?
まさにその端境期にあるということができるであろう
なるほど、やはり人類の歴史はおおよそ2000年が一周期ということなのであろうか

未来人よ、すでに22世紀に突入しているのであれば貴兄は間違いなく二周目を経験していることになる、ならば大切なのは経験ではなく感動、そして感動とは人によって異なるということである、無論、南太平洋の島々で見る夕焼けの美しさはほぼ共通しているであろうがその時々のシチュエーションは人によって異なるであろう、一人でもそれは美しく、また誰かと共有できればそれはまた違う感動であろう、何かを確認するための旅の途中で見る美しい風景は例えばショッピングに重きが置かれている旅で見る風景とはまたちょっと違う味わいがあるかもしれない、もちろん特に海外旅行においてはショッピングは外すことのできない要素であるのでそれをここで否定するつもりは毛頭ないが

未来人よ、歴史は貴兄に少なくとも二つのことをすでに告げているであろう
一つは「深追いに注意」、もう一つは「愛の表現の多様化」であろう
一代で莫大な財を築くことが最終的に何をもたらすかを、実は21世紀を生きる人はまだ知らない、いや中には気付こうとさえしない人もいる、だが未来人よ、すでに貴兄は承知しているであろう、一億ドルでさえ税によってあえなく失われていくということに
一億ドル、だがそれでいったい何を買えるというのであろうか、金は寿命を保証しない、また金は老いを遠ざけもしない、そしてそれ以上に金が生み出すのは多くの吝嗇家たちだけである、なぜならば破産するのは金持ちだけだからだ
私はすでに多大な労力の末に掴み取った金は汚くないと書いたが、綺麗な金でも税の対象にはなる、また深追いせずに一代で一財産築くのはよほどの幸運に恵まれた者でも難しいであろう、限界への挑戦とそれに伴う新しい価値の創造は繰り返し述べているようにこれから生まれてくる人々のための道を作るためのものである、ならば限界への挑戦が生み出すものは二つ、「言葉」と「ノウハウ(マニュアルのようなもの)」である、確かに美術館などの箱モノもレガシーとして肯定されるべきものだがそれは個人の仕事ではない、金持ちの愉しみというものは最終的には預金通帳の残高を確認することに落ち着くが、しかしその趣味の何と孤独で寂しいことであるか!
未来人よ、20世紀に生を受けた人間は知らないが、貴兄らはきっと知っていることが一つある、それは地球外に人類の活路を見出そうとした人々が数多くの曲折を経たうえで帰郷し、その末辿り着いた精神的な境地である、彼らは少なくとも一度は地球以外の惑星への移住を決断し実行した、だが概ねそれは失敗し結局彼らは戻ってきた、果たして彼らは何と言っているのだろうか?私はその言葉に非常に興味がある、22世紀、すでにグレートターンの第一波が世界の各地で起きるという現象が散見されているはずだ、地球に残ろうとする者と科学技術と人類の可能性を信じ最後のフロンティアと彼らが呼ぶ宇宙への脱出を試みる者、22世紀はその相克の時代、前者は私同様、回帰の中に未来を見ようとし、後者はこの2100年を超える人類の文明の歴史の延長線上に未来を見出そうとする、実は両者ともチャレンジという点では同じなのだが、方向性は真逆である、そして未来人よ、更なる高みを目指すものと天分を悟る者、世界は二つに別れそれぞれがそれぞれの道を模索するようになる、そしてそれはこの地球とほぼ同じ条件をホモサピエンスに提供してくれる惑星が宇宙の人類到達可能区域内に見つかるまで続くが、果たして見つかるであろうか?
だが二つの世界を人々が行ったり来たりすることでのメリットも多くあろうと思う、それは人生の相対化
そして最終的にはそれは愛の表現の多様化

なぜ高齢者は、障害者は、そしてすでに罪を償った者は愛の表現を制限されなければならないの?

愛は当然モラルの問題を伴う、だが愛は人を差別することはしない、いや、そうあるべきだ
愛の排他性は認めるが、だからといって高齢者が孤独に、障害者が引き籠りに、そしてすでに償いを終えた元咎人が社会的にノーチャンスに陥ることは健全なる民主主義という立場に立った場合、ついに再考されることはないのであろうか?
もちろん最後は個別の事案によって扱いは違うということになるのであろうが、愛の表現という主体的な行動が物理的な障害にもまた常識という社会的制約にも例外なく打ち勝つことができないという世界はやはり悲しい世界なのではないのか?
きっとこれは22世紀へ持ち越す問題なのであろうが、人間がどうあるべきなのかという人類の永遠の課題は、しかし「深追いをやめる」人と、モラルの問題が残るとはいえ最終的には「愛の表現は個々の判断に委ねられる」と考える人によって新たな局面を迎えるのであろう、そして「義」と「利」の間でこれまでと同様のしかしもう一歩進んだ議論が、地球に帰還した人々も含めて行われるのであろう
幸福とはやはり金ではなく愛ということなのか?
愛の表現の多様化は愛が理性の最上級の働きである以上、それが信仰と結びつかない限り普遍的な価値を有しないのではないかという印象があるが、しかし私はすでに「共通」ではなく「個別」、「追及」ではなく「分配」、「効率性」ではなく「多様性」と21世紀以降の人間社会を理想的に規定している、そのように考えるとここでもう少し踏み込んだ表現も必要になるのかもしれない

個の可能性の引き際

敢えてそれを試みずに判断を次世代に委ねる
だがこれは限界への挑戦=新しい価値の創造=これから生まれてくる人々のための道を作ること、に矛盾するかもしれない

このあたりのところは次の書「行ったり来たり、そして次の人」で論じていくことにしよう

とりあえずこの書に関してはここまででよいであろう、諸君、完読に感謝する

あとがき

あとがき

さてようやくこの書も終わりあとがきとなった、よくぞこのような回りくどい表現で彩られた、神に関心のない人々にはおおよそ価値を持ちえない書に最後までお付き合いしてくれた、心より感謝申し上げる
さてこのあとがきでは本来この書のおさらいをするべきであるが正直読者諸君はこの書を私がここで振り返ることを望んでいないのではないかと思う、ここまで実に苦労して辿り着いたのにさらにここで、「負の肯定」や「究極の善」の話を繰り返されるのは諸君らの喜びに通じるものではあるまい
したがってここでは諸君らへの感謝の気持ちを述べるとともに、この後、つまりこの書の続編であるところの「行ったり来たり、そして次の人」について簡単に述べさせていただきたいと思う

この世の真理は「相異なる役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」にあることはすでに何度も述べたが、この書の内容の多くは私が椅子に腰かけたまま書いた、つまり「静」的な論であると結論付けることができる
私はこの書をすでに私の頭の中にあるものを総動員する形で書き連ねた、私はほぼ手だけを使いそれ以外のものは使わずに、また新しい何かを能動的に模索することなしに、いってみれば昨日までの自分の精神的財産だけを頼りにすべての論を構成した、もちろんこの書に限定すればそれは間違いではない、「静」と「動」が混合すればおそらく書いている方は愉しいのであろうがそれを読まされる方はかなり複雑な面持ちになるであろう、この書を「静」に限定させたことは現時点では正解である
だがよく読んでみればこの書は受動的であり、一歩踏み込んだ決意のようなものはあまり感じられない、この世はすべて二つで一つなのだから「静」があるなら「動」もなければならない、またこの書では書き漏らしたが人生には時に勇気も必要である、そのように考えるとこの書はこの書だけで完結するのではなくもう一方の真理を描くこの書と対をなす書が存在することによってようやくこの書は完結するのであるということになる
私はこの書を書いているその途上においてそのことに気付いた、やや気付くのが遅かったのかもしれない、だが遅れた分この書と自分との距離感をむしろ上手に調節することができたように思う、この書を書く以前の段階でそのことの気付いていたならばその続編の方が気になってややこの書が客観的になり過ぎてしまっていたかもしれない
「攻撃は最大の防御」というが今日のことだけを考えることが結果的に明日への扉を開かせることにつながるというようなこともあるのではないかと思う
私にとってこの書は事業に失敗したことの精神的なショックから立ち直るためのそのきっかけにするために書き始めたものにすぎないが、だがこの後書き始めるこの書の続編が完成することによって両の翼が整い、何らかの未来へ向けての希望の一歩にこれらの私論(続編ももちろん私論である)が私自身はもちろん諸君らにとってもつながっていけばよいがとも思っている、そしてさらに言えばそれが結果的にせよ読者諸君の知的好奇心をいくらかでも満足させることができるのであればこれに卓喜びはない

さてこの書が手によって書かれた「静」の書とするならばこの書の続編である「行ったり来たり、そして次の人」は脚によって書かれた「動」の書となるのであろう、詳細はここで述べる必要はあるまいが、いずれにせよこの書では埋めることのできなかった部分をこの書とは異なる観点により補っていくものとなるであろう、ここでは一点だけ触れさせていただこう
私はこの書を書いている途上においてこう考えるようになった
それは人間の尊厳についてである
人間の尊厳というものは如何なる場面においても守られなければならないものなのか、それとも窮した場合は然るべき対応をその時点において取らなくてもそれは赦されることなのだろうか、と
つまり人間として許されるべきではないことをするくらいなら堕ちた方がましだ、と考えるのか、それとも人間は食っていかなければならない、したがってそのためには人間の尊厳に反する行いもまた時にやむを得ないと考えるべきなのか?
この疑問はこの書の序でも述べた二つの疑問(ミクロとマクロ)と同じほどではないにせよ、今私の中で急速に大きくなりつつある
この疑問は明らかにこの書を書いている過程において生まれた、すでに述べたようにこの書はやや受動的なのである
私はすでにヒューマニズムについて述べたが勇気に関してはその論考の展開においては明らかに語るべき部分が不足している、もちろんこの書は先ほどの二つの疑問を解く形で論述が行われておりそこに私の決意などの入り込む余地はないのであるが、一方で私は主観(個別的である)が大切なのだとも書いているのだから、やはりこの書におけるヒューマニズムの考察は実はやや物足りないものであるのであろう
おそらくこの世にはホームレスのような生活をしながらも、しかし理性的で人間の尊厳だけは失いたくないと考えてそれを現に実行している人が一定数いるに違いないと私は今考えるようになっている、彼らの手は汚れているであろう、また彼らの人生はメインストリートとは無縁であろう、だが私はすでに神の使者はホームレスがうろうろしているような所にこそいるのだと書いた、だから一方で必ずしも理性的ではなくまた人間の尊厳などには無頓着な人々が多くいることも十分承知の上で、上記したような思いに駆られずにはいられないのだ
果たしてホームレスは人生の敗者なのか?
たとえそうだとしても、彼らの中に人間の尊厳だけはどのようなぼろを纏うようなことになったとしても失うことはないと決意している人がいるのであれば、私はその人は敗者ではないと思う、いやそれどころか尊敬すべき人物でさえあると思う、ホームレスになってしまったのは社会的にチャンスに恵まれなかったなどの様々な理由が考えられるのであろうが、しかし「彼女は資産家の娘だよ」と聞かされて態度を豹変させるような男を貴女ならば信用するであろうか?

ハーレーダビッドソンというモーターバイクの有名なメーカーがある、彼らはアメリカではたいへんな人気を博しているが、だがなぜ四輪を作らないのだろうと私は時々思う、資本はあるはずだ、技術もある、確かに燃費はあまり期待できそうにないが彼らが四輪を作ればある程度は売れるだろう、ではなぜ彼らは四輪を作らないのか?
このように仮定すると納得がいく
「俺たちが作っているのはオートバイではない、アメリカの文化そのものだ」
そう、経済ではない、技術でもない、では何なのか?
文化である
ハーレーはつまりアメリカそのものなのだ
注)FordのピックアップトラックにHarley Davidson Editionがある

文化は数えられないものの価値に属する、したがってハーレーダビッドソンのモーターバイクは鉄の塊ではあるが同時にアメリカに生まれ暮らす人々のある種の精神的な故郷にもなっているのであろう
私はここに誇りのようなものを見る、アメリカはあまり歴史のない国であるので尚更そう思える
誇り、それはどのような状況に陥ろうとも人間であるのであれば失ってはいけないもの

そんなことやるくらいなら死んだ方がましだ、なのか
それとも食っていくためには仕方がない、なのか?

これは能動的な疑問である

文章を書くとは頭と手によってのみ為される作業ではない、むしろ脚ももちろん全身を使って行われるべき作業である、そういう意味ではこの書はここまで私論についてしつこく多くを語りながらしかし尚全体の二分の一以下でしかないのであろう
静と動のパフォーマンス、実はその両方が少なくとも新しい価値の創造には必要であり、そのどちらかだけではそこに普遍的な価値を見出すのは難しいのかもしれない、したがって作品を発表した作家はそれがどのような作品であれその後続作品を制作する必要がある、作品には一貫性が必要であるためあるひとつの作品に作家のその時点でのインスピレーションのすべてを注ぎ込むことはできない、おそらく無理にそれをやれば作品には「感じる力」のある人にしか分からないのであろうが何らかの亀裂が生じるであろう、それは時に致命的である
モーツァルトの晩年の交響曲もそうであるが、私たちはしばしば三部作とか四部作とかいう言葉を聞く、これは作家が優れた作家であれば尚更のこと無意識的にも連作を頭の中でイメージしているからであり、より芸術の真実に近づこうとすればするほど一ではなく、二または三、あるいは四という複数の選択肢が必要なのである、そしてそれぞれでそれぞれのパフォーマンスを実現させていく、したがって芸術は瞬間熱では完遂させることができず、場合によってはかなり長い時間をかけてその全体を完成させていくということになるのであろう
すでに書いたように芸術は作品が主であり作家はそれに準ずるものでしかない、作家はその作品群より目立つべきではなく、故に作家はひっそりと生き、ひっそりと亡くなるべきである、未完とはあくまでも作家を主とした場合の考え方であり、私個人は未完の作品とは作家が亡くなったその時点で神によって完成されたものであると考えているため、どのようなものであれその時点での作品を鑑賞すべきであると思う

芸術家はすべてを成就させ逝くのではない、それどころかその逆である、私たちはその芸術家の神髄の一部をのみ味わっているだけである、だからどのような芸術家であれ後継者が必要になるのである
さて誇りであるがそれについてはこの書でも少しだけ触れている、だが誇りとは決断と勇気のその両方を備えていることを最低条件としている、確かに善においては考えることが基本であり、すべてはそこに思いを馳せることから生じるのであるが、そのように考えるとこの書で述べられているような理想を完全にではなくある程度であったとしても実践していくには、何と語るべきことがまだ多く残されているということになるのであろうか
私はこの私論の完成をこの書の続編である「行ったり来たり、そして次の人」で試みるつもりであるが、もしかしたらそれでもまだ足りないということになるのかもしれない

理性とはバランスとも呼ばれしばしば天秤の図によって表される、つまり右の皿と左の皿、どちらが欠けても理性的ではないということになる、これは概ね私がいう所の「すべては二つで一つ」とも重なっている部分があるのかもしれないが、愛が理性の最上級の働きならば勇気はどうなるのか?
この辺りの所も含めて次の書では明らかにしていきたいと思う

諸君、もしよろしければ、この後もお付き合い願えれば幸いである

2016年11月10日
                           織部  和宏


この書「曇天の日には収穫が多い」は私織部和宏の全責任において書かれたものに相違ないことをここで確認する

曇天の日には収穫が多い

曇天の日には収穫が多い

  • 随筆・エッセイ
  • 長編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-30

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 神とは何か?
  2. 神とは何か?Part2
  3. 神はなぜ人間を造ったのか?
  4. にもかかわらず
  5. 負の定義
  6. 捨てることと待つこと
  7. 指揮者のいないオーケストラ
  8. 明日はいったい誰のもの?
  9. 限界への挑戦
  10. 神の時
  11. 感じる力
  12. 信じる力
  13. 考える力
  14. たそがれの扉
  15. メッセージという理念とストーリーという歴史
  16. 仮想現実と善
  17. ITと善
  18. 悲劇が語るもの
  19. なぜ人間は特別なのか?
  20. 神の法
  21. 神様、なぜ私なの?
  22. 前半のまとめ
  23. 怒りについて
  24. 理性の最上級の働き、究極の善について
  25. ヒューマニズムについて
  26. 正のプライド
  27. 神の期待に副う
  28. 大喪失
  29. 拡大と循環、そして数えられるものの価値と数えられないものの価値
  30. 生前の約束
  31. 万物は対象を求める
  32. 万物は対象を求める Part2
  33. グレートターン
  34. あとがき