*星空文庫

汚宅殺猫耳地獄 ~おたくころしにゃんこのじごく~

バニラダヌキ 作

  1. 第一話 おはようございますの猫又さん
  2. 第二話 愛と死を煮つめて

第一話 おはようございますの猫又さん

 
 
     1

 まずはじめに、はっきりと申し上げておきたい。
 三十過ぎのニート、三十過ぎの引きこもり男、三十過ぎのロリおた野郎などに、もしあなたが嫌悪感を抱かれるなら、今すぐこのブラウザを閉じていただきたい。他のタブが開いているなら、このタブだけ閉じてもよろしい。あるいは『戻る』のアイコンをクリックしてもらってもいい。
 もっともあなたが、なにひとつ取り柄のない無価値な己の存在を他者に対する狭隘な優越感によってかろうじて粉飾しながら死ぬまで無駄に生き続けるタイプの方であるなら、他者への嫌悪感すら己の優越感に誤変換できるであろうから、このまま読み進めても問題ない――と思ったら大間違いである。そのような方々に対しては、三十過ぎて定職もなく親の家の二階に引きこもっているロリおた野郎、つまり俺のほうが多大な嫌悪感を抱いてしまうので、これから力いっぱい嫌がらせ級にアブナい話を披露してやろうなどと画策したりもしている。
 であるからここはやはり速やかに袂を分かち、今後たまたま路上やネット上ですれ違っても、お互い知らんぷりしとくのが世界平和のためだろう。EUうんぬんの国民投票で無理矢理白黒つけてしまった英国や、黴臭い了見と無節操な胴間声をもって万事に白黒つけないと気の済まない能天気親爺を大統領に据えてしまった米国の大騒ぎなどを見てもわかるように、世の中、ドドメ色のまま棚上げしといたほうが無難な局面は多々ある。個人も国家も全人類も、どのみち滅びるまではドドメ色、トワイライトゾーンに他ならぬ現実世界の中で右往左往するしかないのだ。
 などと大仰に見得をきってはみたものの、老朽化した木造家屋から一歩も外に出ず、雨戸を閉ざした二階の六畳間と階下の風呂場を行き来するだけの生活をだらだらだらだら半年以上も続けていると、いかに閉塞的な俺だって、パソコンのモニターを介さないナマな世界が恋しくなる。よくよく考えてみれば、モニター越しの情報世界はトワイライトゾーンですらないのである。古来この日本には『たそがれ』=『誰そ彼』、『かわたれ』=『彼は誰』、そんなふたつのトワイライトがある。つまり現実の天然世界は、ほっといても明るくなったり暗くなったり、ドドメ色の濃淡がおおむね一方向に変わるものなのだ。半刻後の明暗さえ知れぬ個人の宿世やら国家の命運やら全人類の行く末やらは、まあとりあえずちょっとこっちに置いといて。
 
 
     2

 雨音も久しい六月半ばの未明、正月からつけっぱなしの液晶モニターの前で椅子に座ったままふと目覚めた俺は、なぜか半年ぶりに窓の雨戸を開き外を覗いてみようという気になった。このところ眠るのも起きるのも同じジャージのまま椅子の上で済ませ、いいかげん腰にガタが来ていたので、気持ち以上に腰のほうが、風呂場より遠い何処かへの移動を希求していたのだろう。寝こむ前にネットで見かけた胡乱な都市伝説もどき――俺の家の近所を流れる掘割沿いの遊歩道に近頃化け猫が出没する、それは尻尾がふたつに割れた猫又らしい、いや体長三メートルに及ぶ人面の猫だ、いやいや夜明け前や日没後に堀端をランニングしていると猫耳の生えた黒ニーソのゴスロリ娘が四つ足走行で横を追い抜いてゆくのだ――そのような愚にもつかぬ与太話を信じたからでは絶対にない。いかに現実から遊離している俺だって、現実と虚妄の間には常に液晶画面やスクリーンや印刷物やネジの緩んだ脳味噌――他人の脳味噌であれ自分の脳味噌であれ――が挟まっているくらいのことは理解している。
 雨戸の隙間から空を見上げると、街並みの彼方に聳える朧なスカイツリーの首から上を覆う濁った厚い雲は、濁ったなりに早暁の気配を帯びはじめていた。
 外に少しでも雨脚が窺えたら、ガタのきた椅子から崩壊寸前のベッドへ寝床を移すだけで済ませるつもりだったのだが、連日の雨は幸か不幸か小休止らしい。俺は「あーうー」などと呻きながら固まった腰をぼきぼきと伸ばし、伸ばしついでにちょっとふんぞりかえったまんま、安普請の階段をぎしぎしと下りていった。
「お……」
 台所で朝飯を作りはじめていたお袋が目を丸くし、「お」のまんまの縦に細長い唇を引きつらせて、それこそ化け物でも見たようにつっぱらかった。「お、お前」と絶句するつもりだったのか「お風呂は沸いてないよ」と言おうとしたのか、無学な俺の知るところではない。いずれにせよここ半年、深夜の入浴以外はいっさい階段を下りてこなかった馬鹿息子を早朝に階下で視認してしまったのだから、「お」だけでつっぱらかるのも無理はないのである。
「お……」
 まだそれ以上言葉が続かないらしいので、俺はさすがに2トン積みトラック満載級の罪悪感にとらわれながら、
「お散歩」
 ぶっきらぼうにそれだけ言って玄関に向かった。
 玄関の三和土には、当然ながら俺の足に合う履き物などひとつも出ていない。俺は親父のデカ足サンダルを裸足に突っかけて家を出た。背後の屋内から、お袋がどどどどどと奥の親父を起こしに走る足音が響いてきた。無為徒食かつ大飯喰らいの馬鹿息子を養うため早朝から深夜までタクシーを転がした上、いつもより早く叩き起こされる親父の災難を思い、俺の罪悪感は4トン積みトラック満載級に倍加したが、引きこもりはじめた頃と同じ言い訳で、己の心を閉ざすしかなかった。
 俺が悪いんじゃないもんね。世間のほうが悪いんだもんね――。
          *
 実際、悪いのは世間なのである。
 馬でも鹿でも入れるような高校を出て合格率九五パーセント超の四流五流大学すら一校も受からず泡沫企業の正社員の座にもことごとく落ちこぼれた俺だって、去年の冬に自室に引きこもるまでは、せめて自分の食い扶持とロリおた関係の掛かりとアキバ通いの電車賃くらいは自力で稼がねばと思い、せっせと各種のバイトに励んでいた。とくに長く勤めた隣町のコンビニでは唯々諾々とブラックなシフトに応じ、事実上の店長代行を任されていたほどである。それがある日突然、故なくして鬼畜の汚名を着せられ、御町内はもとよりマスコミやらネットやら、ありとあらゆる公の場で四方八方から石をぶつけられる羽目に陥ってしまった。俺が隣町の女子小学生A子ちゃん(仮名・当時十一歳)を言葉巧みに騙くらかし、ひと晩連れ回したというのである。
 冗談はULTRAヨシ子デラックス。
 俺にそんな革命的偉業を達成するほどの克己心があるなら、ネットで拾いまくったアレな実写画像でパンパンになったハードディスクを自●法の適用条件が広がったとたんに泡を食って物理フォーマットしたり、数十枚の裏DVDを延々と叩き割ったり、関東一円あっちこっちのアヤしげな古本屋で掻き集めた昭和なら合法の写真集を泣きながら一冊残らずシュレッダーに突っこんだりするものか。なのに派出所のお巡りやマスゴミの下衆記者どもは、やれ『COMICエルオー』を創刊号から最新号まで欠かさず揃えているだの、昭和遺産『漫画ブリッコ』を全巻収集しているだの、エロゲーのパッケージが部屋の壁面を埋め尽くしているだのランドセルしょったボークスのドールが棚に一ダース並んでパンチラしてるだの、違法でもなんでもない無害な趣味をあたかも鬼畜の所業のごとく囃し立て、半月以上も俺を拘置所に幽閉したのである。で、大山鳴動して鼠一匹、その鼠すら容疑者の俺ではなく女子小学生自身であり、単に親と喧嘩して発作的にプチ家出を試みただけ――そんな事実が判明してようやく釈放されたとき、すでに俺は一般世間から、今のところ罪人ではないが近日中に犯行必至のロリペド変態野郎、そんな烙印を押されていた。
 隣町のA子ちゃん(仮名・当時五年生)に恨みはない。親に怒られるのが嫌で、つい優しそうなコンビニのお兄ちゃんを悪役に仕立ててしまうなど無邪気の楽園、たわいないものではないか。この世のすべての女子小学生を大らかに許す度量が俺にはある。お巡りにも恨みはない。まあ勾留中には脅されたり突っつかれたり泣かされたり、ひとり残らず薪ざっぽで撲殺しまくりたいような思いもしたのだけれど、しょせんそれは奴らの定形業務つまり飯の種に過ぎず、釈放時には全員ちゃんと平身低頭して謝ってくれたからである。見ず知らずの俺に対する世迷い言をネット上で垂れ流し続けた無数のカオナシどもにも恨みはない。真偽も正邪も己の好悪でしか仕分けできない衆愚など相手にするだけ時間の無駄だ。しかしマスゴミの下衆どもや御町内の皆様だけは生涯許せそうにない。後から謝罪記事を載せてくれた新聞や週刊誌など皆無だし、それらマスゴミのインタビューに「そんなことをする青年には見えなかった」と答えてくれた町の衆は、向こう三軒両隣、ただのひとりもいなかったのである。
 これでも悪いのは世間ではなく俺のほうだとあなたが言うなら、俺がわなわなと震える手で力いっぱい振り下ろす図太い薪ざっぽによってあなたの頭蓋骨が凹状に変形し眼窩から眼球が突出し耳鼻口から脳漿と汚血が噴出するのを覚悟していただかねばならない。
          *
 庭も塀もない長屋同然の門口から前の道に出ると、たまたま通りかかった超高級ブランド上着の老人が、歩く屍でも見たように、すざ、と後ずさりした。
 老人が散歩させていた、もとい上機嫌で老人を引きずっていた秋田犬は、いきなり首を後ろに引っぱられて怪訝そうに振り返ったが、俺の姿を認めると即座に緊張を解き、懐かしげに挨拶してきた。
「ぉわぉぅ」
 いかにも秋田生まれらしい律儀な顔で、ちゃんと「おはよう」が言えるこの犬とは、筋向かいにある大豪邸の瀟洒な柵越しに、かれこれ十年近く親交を深めている。ただし豪邸の主である老人は、俺のような得体の知れない雑種など保健所で薬殺したほうがいいくらいに思っている。
「おはよう轟天号!」
 俺はしゃがみこんで犬の頭や顎の下をわしわし撫でながら、飼い主に対する咄嗟の報復を画策していた。そもそもこの爺さんが「そんなことをする青年には見えなかった」とは真逆のコメントをマスゴミ相手に漏らしたあたりから、俺の受難の本番が始まったのだ。
 俺は凍結状態の老人を振り仰ぎ、本性とは無慮百億万光年を隔てた純真無垢な笑顔を浮かべ、力いっぱい朗らかに挨拶した。
「おはようございます!」
 老人はつっぱらかったまんま、もごもごと口元を蠢かせた。
「お……うぅ」
 たぶん「おはよう」と発音したつもりなのだろうが、犬よりも滑舌が悪い。
「いやはやご無沙汰しましたどうもお久しぶりです!」
「お……おお」
 老人の引きつった顔面筋肉は、依然として歩く屍に対峙している。
 俺は長年のコンビニ勤めで体得した、ゼロ円スマイルならぬ絶対零度スマイルでとどめを刺した。
「かわいいお孫さんはお元気ですか?」
 ハイソ系女学院初等部の入学祝いに老人がどでかいグランドピアノを買い与え、そのたどたどしくも可憐な音色をときおり風に乗せて俺の部屋まで届けてくれる稚いとけない孫娘に他意はない。しゃっちょこばった老人の足元でふるふると尻尾を振っている純朴な秋田犬にも恨みはない。しかし町内一の大豪邸でこれ見よがしにふんぞり返っている政商あがりの此奴だけは断じて許せない。
「じゃあ、お先に! かわいいお孫さんによろしく!」
 老人は自分自身が歩く屍と化したように青ざめ、ひくひくと痙攣した。
 俺は明朗快活な笑顔のまま、内心に邪悪この上ないジョーカー笑いを浮かべ、凍死寸前の爺さんを残して掘割方向に歩を進めた。
 ――よし、予期せぬ再起試合は、俺の完封勝利。
 
 
     3

 俺の町を流れる幅三〇メートルほどの堀割は、町の北端を悠揚と蛇行する荒川から分流し、四キロほど南でなぜかまた荒川に合流している。過去の水運の変遷によって、そんななんだかよくわからない配置で残されたらしいが、どのみち関東平野を流れる大きめの川は、荒川にしろ江戸川にしろ利根川にしろ隅田川にしろ、徳川家康の時代から人為的にあっちこっち切ったり貼ったりされており、こうした水運目的の堀割が、昔は縦横無尽に存在したのである。
 もっともその大半は、戦後の高度経済成長期にモータリゼーションや土地不足解消のため暗渠化してしまったが、俺の家あたりはそもそも由緒正しいゼロメートル地帯、親父が子供の頃には台風が来るたんびに地域まるごと床上浸水していたような奈落の底だから暗渠化も後回しにされ、本流である荒川の土手や水門がちょっとテコ入れされただけだった。映画『日本沈没』の昭和版――あの純アナログ特撮映画で、真っ先に堤防が決壊し水没する老朽家屋だらけの下町、あれを想像してもらえばいい。ところが俺が子供の頃、突如沸騰したバブル景気でイッキに風向きが変わり、本流の護岸は直下型地震対応級に再整備され、ドブのような堀割もあっという間に浄化整備され、成金好みの高層マンションや邸宅が建ち並ぶ都会の住宅街へと変貌したわけである。
 そんな街並みに我が家のような三丁目夕日物件が混じっているのは、ベンツのショールームにオート三輪が紛れこんだようでいささか世間に申し訳ない気もするのだが、いかに無敵のバブル景気とて、江戸開府以来の由緒正しい貧乏人を根絶やしにしてくれなかったのだから仕方がない。
          *
 長梅雨の湿気をじくじくと含んだ仄暗いかわたれどき、俺は厚い雲の垂れこめる堀割沿いの遊歩道を、あんがい爽快な気分で闊歩していた。
 今の俺の視神経や脳味噌には、よほど目を凝らさないと周囲のあれこれが何物であるか何者であるか判別できないくらいのトワイライトがちょうどいい。もともと密林の雨蛙のように澱んだ性格だし、ここ半年まったく太陽を拝んでいなかったのだから、下手に晴れわたると失明や錯乱の恐れがある。
 しばらく見ないうちにまた増殖した高層マンションと、そこに移り住んだ数多の勝ち組におもねるように、遊歩道も街灯も様変わりしていた。真新しくなったわけではない。逆に似非江戸情緒とでもいうべき小賢しい渋味演出が施されているのだ。行燈っぽいデザインに変えられた街灯など、以前より明らかに照度が落ちている。路傍には不審者が身を潜められそうな茂みもあるのに、薄ぼんやりとした橙色の光しか発していない。
 まあ、それだけこの国は平和なのだろう。堀割に映る灯を江戸っぽくするため、公共の散策路をわざわざ暗く変える国の治安が、昔より悪化しているはずはない。勝ち組と負け組の格差こそ広がりつつあるとしても、日本開闢以来昭和戦中まで連綿と続いた厳然たる階級社会を思えばまだ可愛い程度だし、他の経済大国とは格差の桁が違う。強盗は少ないし暴動も起こらない。
 そんな静まりかえった舗道の先、こっちの微かな橙色とあっちの橙色の間あたり、高層建築の陰となって未だ夜を残す暗がりに何やらちっぽけな蠢きを認め、俺は歩を進めながら目を凝らした。
「なー」
 弱々しい哀訴の響きに、俺は思わず声を上げた。
「おお、にゃんがいる!」
 そう口にしてしまってから、驚かして逃げられてしまっては元も子もないと、慌てて息を潜める。
 姿勢を低くし、そろそろと近づく。
 薄明かりに慣れた目で、相手に逃げるそぶりがないのを確かめ、その鼻先に人差し指を近づけてみる。
「なー」
 逃げないのも道理、その猫は、もう立ち上がれないほど衰弱していた。
 しぼんだ風船のように痩せ細っているので丸くなっても丸く見えず、背骨の浮いた、舗道の敷石ほども硬そうな背中が痛々しい。白だか黒だか斑だか、汚れすぎてほとんど判別できないが、なにがなし若い三毛らしい感じは残っている。さほど寒い朝ではないのにぷるぷる震えながら、俺の指先を慕って鼻を寄せた顔の両眼は、目脂でガビガビになっていた。典型的な栄養不良、重病あるいは餓死寸前だ。ふと見ればヨレヨレの尻尾が途中から二叉に裂けている。昨夜ネットで見かけた噂話が記憶に蘇った。先天的な奇形か幼時の裂傷か、いずれにせよこれが猫又呼ばわりされる由縁となり、忌避や虐待に繋がったのかもしれない。
「死ぬな、にゃん」
 俺はほろほろと落涙しながら言った。
「お前が死んだら俺も死ぬ」
 俺にとって生物界のヒエラルキーは五階層に集約される。
 上から順に、
  (一)女子小学生
  (二)女子中学生
  (三)猫
  (四)犬と俺
  (五)その他の生物
 つまり、その個体がいかなる状態であれ、猫は俺より偉いのである。
 まず体温を維持しなければ――俺はジャージを脱いで舗道に敷き、幻のように軽い猫を抱き上げ、そろそろと包みこんだ。大飯喰らい対応のXXLだから幾重にも包めたが、あちこち擦れて繊維感を失った着古しのジャージだけでは心許ない気がしたので、おろしたてのTシャツも重ねて巻いた。
 猫はぐったりとして為されるがまま、それでもときおり緩慢に首を動かし、俺の顔色を窺っていた。ガビガビの瞼の奥に、あんがい透き通った緑色の光が見えた。まだ青信号、そう思えた。
「よし、生きろ」
 次は栄養補給である。
 今の容態だとカリカリも猫缶も食えそうにないが、猫スープや猫ミルクなら飲めるだろう。ここから堀割を逸れて地下鉄駅方向に数百メートル走れば、かつて俺が勤めていたコンビニがある。住宅街の片隅のちっぽけなコンビニに、そんな結構なアイテムが置いてあるのか――置いてある。俺が置いた。
 たまに店に顔を出して余計な口を挟む本部のウスラバカや気の弱いフランチャイズ店長は、マニュアルにない品揃えに首を傾げていたが、猫だって人だって、夜中など腹にもたれない軽いものが欲しくなることはままある。猫自身は買い物に出られなくても、飼い主を使いに出すのは簡単だ。猫は人より偉いからである。現にスープもミルクも固形食に劣らぬ回転率だったのだから間違いない。
 俺は膨らんだ猫包みを、舗道脇の植えこみの奥に隠した。抱えてダッシュしたりしたら、かえって中身が弱りそうな気がしたのである。そこならカラスや犬は近づけない。トリップ状態の早朝ランナーに撥ね殺される心配もない。
「待ってろ、にゃん」
          *
 自動ドアをこじ開けるようにして店に飛びこんだ上半身裸の俺に、痩せこけた店長は虚ろな笑顔を向けて言った。
「いらっしゃいま……おお、ちょうど良かった」
 その声は笑顔以上に虚ろだった。
「ちょっと午後まで入ってくれないか」
 俺が半年も前に辞めたことを忘れてしまっている。今どき流行らないヒッピーじみた蓬髪はなかば白髪と化し、アラフォーにして歩く屍さながらだ。ことほどさように昨今の終日営業小売店舗はブラックなのである。従業員を廃人にする度胸のない店長は自らが廃人になる。美意識のためならあえて廃人化も恐れぬ俺のような逸材を、あれから見つけられなかったのだろう。
「すみません、話はあとで」
 俺は籠を持って雑貨コーナーに走った。
 案の定、品揃えは変わっていなかった。いっぺん定番に設定しておけば、売れたぶんだけPOSが自動発注する。歩く屍はPOSに逆らわない。
 適当な紙皿なども籠に入れ、レジに運ぶ。
「これください」
 店長は十八世紀のオートマタのようにバーコードリーダーを動かしながら、
「……午後からでもいいんだが」
「考えときます」
 店長の虚ろな瞳に浮かんだ微かな希望の光――はかない生のなごりを俺はあえて振り切り、スマホ精算して踵を返した。
 この店長に恨みはない。例の誘拐騒動で店が被った大迷惑を忘れてくれるほどの大雑把な性格もありがたい。しかし彼はすでに過労死に値する幸福な人生を送っている。まだ強気だった青年時代、バックパッカーとして世界を放浪中に某国で未成年の少女を妊娠させ現地の法律によって強制結婚、妻子を連れて帰国した後も年子を二人作っている。最初の出産時、奥さんは十四歳だったという。
 ときとして人は愛のために死ぬべきである。たとえその愛が、今は離婚後の海外送金に化けているとしても。
 
 
     4

「待たせたにゃん」
 疑似猫語でウケを狙ったわけではない。途中に読点を入れるのがもどかしいほど焦っていたのである。往復の疾走で息が切れてしまったためでもある。
 俺は植えこみの前から例の猫包みを透き見して無事を確かめ、コンビニ物件をそそくさと舗道に広げた。
 とりあえず紙皿に猫ミルクを注ぎ、三つん這いになって茂みに潜りこむ。
「ほーらご飯だにゃん」
 しかし茂みの奥の地べたには、俺のジャージとTシャツが、くしゃくしゃと丸まっているだけだった。肝腎の中身が消えている。
「にゃん!」
 俺は紙皿を放り出し、四つん這いになって辺りを探った。
 まさかカラスや散歩中の駄犬に――いや、残された衣類に血痕はない。しかしこの世には、狂信的野良猫駆除主義者という無差別テロリスト同然のならず者も多い。奴らは生物界の最下層に位置しながら、上層の俺を差し置いて、さらに上層の猫を保健所に拉致したりする。
 いやいや過度の悲観はよろしくない。あのジャージは俺が着ていたからこそ俺にとっての『ジャージ』であっただけで、客観的にはただのくっせーボロ布でしかないから、いかに零落した身とはいえ元来貴族に他ならぬ猫様のお気に召さなかっただけかも――。
 枝々で小傷を負いながら這い回ることしばし、俺の後ろ頭に、真上から声がかかった。
「なーご」
「……にゃん?」
 それにしては、記憶にある声よりも妙にドスが効いている。デジタル音源再生ソフトで、速度と周波数と音程をそれぞれ半分に落としたような「なーご」である。つまり虎やライオンではなくあくまでにゃん、しかし音源の体格は推定数倍増し――。
 気圧されて地べたを向いたままの俺の目前に、ずん、と前足が下りてきた。とってもかわゆい猫の足、ただしサイズは俺の掌といい勝負である。
「えと、あの……」
 恐る恐る顔を上げると、案の定、あの噂話の第二弾――体長三メートルに及ぶ人面の猫が、雀を狙う飢えた野良猫のように瞳を光らせていた。
「うななーご」
 なんだ、人面猫なんて言うからてっきりグロな化け猫かと思ったら、これはこれでちゃんと高貴じゃないか。確かに顔一面ほわほわの柔毛に覆われて髭も生えてるけど、目鼻立ちは美猫と美女のいいとこどり、いやむしろこの造作だと三毛猫っぽい美少女――。
「……怖くない」
 俺は全身全霊をもって現実逃避していた。それはそうだろう。猫好きであればあるほど、あのちっぽけな爪や牙がどんだけ狩猟向きのシロモノか、己の流血をもって熟知している。それが数倍に膨張中なのだ。あまつさえ爛々と光る瞳の色が、緑から黄色に変化している。信号のように判りやすい。
 三毛猫っぽい美少女にしてはずいぶんはしたなく大口を開けたその下顎、ずいぶんトンガった牙の間から、獲物を咀嚼し嚥下するための生暖かい唾液が、ぽとりと俺の鼻の頭に垂れた。
 そして――がっぷし。
 視界を覆った暗黒の中、濡れてもざらざらの猫舌を顔一面に感覚しながら、俺は自分に言い聞かせ続けた。恐くない恐くない。これは単なる甘噛みだ。その証拠に、俺の後ろ頭にも喉笛にも牙が突き刺さってこない。そうそう甘噛み甘噛み。咥えた獲物の頭がでかすぎて口を閉じられないだけ、なんてことは絶対にない――。
 はぐはぐぶんぶんと、激しく首を揺さぶられることしばし、
「うなあ」
 不機嫌そうな唸り声とともに、視界の夜が明けた。
 新しい朝がきた。希望の朝だ。
 俺は人面猫の唾液でべとべとになった顔に、風の谷の笑顔を浮かべて言った。
「……ほらね、恐くない」
 未だ食欲丸出しの相手を前に、ナウシカ級の慈顔を保ちつつ、
「ねっ、おびえていただけなんだよね」
 キツネリスもとい巨大人面猫は、じりじりと後ずさりしながら、俺の清らかで優しい心をようやく感じとってくれた――らしい気配は微塵もなく、後ずさりで溜めこんだ猫科特有の瞬発力を、次の瞬間、一気に解放した。
「ぐなおう」
 猫は犬より馬鹿だなどと言う俗説があるが、それはまったくの誤謬である。その証拠に今度はちゃんと、獲物の首筋を狙っている。
 幻想や虚妄もまた現実に浮かぶバブルに過ぎない――そう悟りながら、俺は猫のイキオイをまともに受けて舗道を飛び越し、堀割の水に背中から倒れこんだ。
 どでかい猫は、どでかいぶんだけモフモフだった。
          *
 喉笛を食いちぎられて即死したにしては、やけに冷たくて苦しい。
 ばっくり裂けた傷口から堀割の水が出入りする感触もない。
「がばげべごぼ」
 俺は肺に流れこもうとする水を懸命に排出しながら、石垣もどきの護岸ブロックにすがりついた。
「げへごほ、がは」
 見た目に浄化されていても、都会の流水はしこたま生臭かった。
 俺は堀割を振り返って、モフモフの安否を探った。たいがいの猫は水に放りこむと溺れ死ぬ。
 ちょっと先の水面に盛大な泡が立っていた。
「そこかにゃん!」
 俺は泡を食って手を差し伸べた。さっさと逃げろよお前はアホか、などとツッコむ向きもあろうが、猫は俺より偉いのだからしかたがない。
 そのとき梅雨空の雲が間合いよく流れ、一条の逆光が堀割の対岸から降り注いだ。
 泡立つ堀割の水面に、黒い影が浮かび上がった。どでかい猫の影ではなく、あくまで小柄な人影である。
 対岸の石垣もどきと墓石群のような高層建築を背に、人影はゆっくりと浮上を続け、やがて水面に佇む形で静止すると、ふわりと翼を広げるように両腕を開き、左右の手それぞれに携えていた大判の書物を光に晒した。
「――あなたがこの川に落としたのは、この『ニンフェット 12歳の神話』ですか? それとも、この『12歳の神話 デラックス版』ですか?」
 影自体は輪郭のみに逆光を宿した漆黒だが、その声は暁の光に浮かぶ左右の書物同様、未だ処女懐胎を迎えぬ聖母のごとく清らかだった。
 両方とも俺が落としました!
 そう叫びたかった。
 神々しく輝くそれらの大判書籍は、まだ児●法の適用が甘い時代に俺が神保町や池袋や新宿やアキバの裏通りを数年かけて漁りまくっても、ついに入手できなかった最古の聖典である。もっとも表紙だけなら、当時俺が師匠と呼んでいたぶよんとしてしまりのないアキバ系老人が住む四畳半一間の安アパートで、押し入れの奥から大事そうに取り出した真空パックの両面を見せられたことがある。しかし俺が万金を積むから開封してくれと懇願しても、老人は「いや、この前世紀が遺した唯心論的な『禊ぎ』の蕾たちは、断じて今世紀の唯物論的な『穢れ』に晒してはならない」と最後まで拒絶した。ちなみにそれらを含めて老人が真空保存していた大いなる遺産の山は、近年、嫉妬に狂った他のハンパなおたく野郎に密告され、愚直な官憲の手によってことごとく押収されてしまった。以後、誰ひとり老人の姿を見た者はない。風の噂では、書類送検を待たずに自ら富士の樹海に旅立ったと聞く。
「――あなたが落としたのはどちらですか?」
 再度、若々しいなりに厳かな声が響いた。
「両ほ――」
 叫びかける俺の中の黒い俺に、俺の中の白い俺が右フックを叩きこんだ。
〈馬鹿者! 発作的欲望に身を任せるな! マジに書類送検くらう気か!〉
 黒い俺も黒い血の涙を流しながらぷるぷると自制した。
〈そう、口では多様性を謳いながらひたすら非寛容に傾くこの平成社会において、あれらはすでに失われた古代の美しく大らかな夢。国会図書館さえ一般蔵書検索から除外した今、いかようにもがけどせんなかるまいに……〉
 おりしも、ビルの谷間の似非江戸空間を、朝の斜光がゆっくりと移ろった。
 その移ろう光の中、両の翼に古代の夢を抱えた黒い影は、やがて一幅の聖画へと姿を変えた。
 ……いや違う。
 近頃のアキバに溢れかえっているような、コテコテの萌えキャラへと姿を変えた。
 あの噂話の第三弾――猫耳の生えた黒ニーソのゴスロリ娘である。ただし四つん這いになって駆け出す気配はない。黒を基調にしたゴシック・ロリータ衣装の、白いフリルに縁取られた襟元の上には、柔らかそうな三毛色のウェーブヘア、その左右でミルキーピンクの内側を覗かせている可憐な猫耳、そして予想よりも遙かに幼い顔があった。ぶっちゃけ(一)女子小学生(二)女子中学生(三)猫、それら俺より上層の生物すべてを融合した『萌え』が、虹色のオーラを纏って浮遊していたのである。
「――さあ、どちらですか?」
「――――」
 己の真実を貫くことに、逡巡が無かったと言えば嘘になる。
 なんとなれば、三毛娘が湛える浮き世離れした微笑の奥に、なんじゃやら「にんまし」っぽい(よこしま)な成分が、しこたま含まれているような気がする。のみならず瞳の輝きが、今は明らかに赤っぽい。どう見ても赤信号だ。
 白い俺が言った。
〈止まれ〉
 黒い俺が言った。
〈やめとけ〉
 白黒いっしょに、こう言った。
〈なんかアヤしい〉
 しかし俺は、俺の中の黒い俺と白い俺よりも正直だった。
「――どっちでもない」
 俺はきっぱりと言った。
「俺が落としたのは君だ」
 三毛娘は言った。
「ぴんぽーん!」
 いきなり声が軽くなっていた。まるで『このゲームに登場する人物は全員18歳以上です』と銘打たれたエロゲーに登場する小中学生にしか見えない最低頭身のキャラを担当する舌足らずな声優の声だ。
 三毛娘の両手を離れた写真集が、古新聞に化けて、はらはらと堀割の水に散った。
「おめでとうございます!」
 三毛娘は水面を蹴ってしなやかな弧を描き、そのまんま俺の首っ玉にかじりついてきた。
「おじさんみたいに優しくて大らかで正直な変質者は見たことがありません! 今日からあなたの私が御主人様です!」
 一部ずいぶんな仕分けをされていることや、後半の文脈が微妙に乱れていることに、俺はちっとも気づけなかった。
 すりすりすり――。
 はぐはぐはぐ――。
 こーゆーイキモノに懐かれて、あまつさえ耳たぶを甘噛みされながら正気を保てるおたくがいるとしたら、そのおたくはすでに死んだおたくである。
 
 
     5

 正気を失っているくらいだから、俺はまだ死んでいないおたくである。死んでいないからこそ、ああそっちの耳たぶばかりはぐはぐされるといかに甘噛みとはいえ牙がチクチクして流血してるみたいだからそろそろこっちの耳たぶをはぐはぐキボンヌ、などと、古おた特有の死語をもって切望しながらふるふると身悶えたりもする。そして正気を失ったからこそ、かくもアブナい非実在キャラによる爪先立ちの愛咬を実在レベルで幻覚できるとすれば、この発狂をもたらしてくれた長期の引きこもり、そしてその要因となった隣町のA子ちゃん(仮名)、のみならず陰険なマスゴミどもや薄情な御町内の皆様さえも、実は俺という憐れな子羊に天がもたらした大いなる福音なのかもしれない。
 ともあれ俺はすでに発狂している。これだけは厳然たる事実である。しかし発狂したにせよまだ死んでいない以上、俺はなお常人を装って一般社会に有り続けたい。ここで下手を打ったら、留置所とはタイプ違いの檻に入れられてしまう。
 俺は今さらながら、周辺に人目がないのを慎重に確認した。
 幸いにして、見渡す限りの舗道に俺以外の人影はない。建物のベランダも大丈夫そうだ。それでも脇道あたりから、久しぶりの太陽に誘われた近隣の住人が、ひょっこり散歩に出てこないとも限らない。俺は「いや私ちょっとひとりで散歩中にちょっとひとりで休んでるだけなんですひとりですよあくまで私」と全身で擬態しつつ、独り言のように小声で言った。
「……なあ、おまえ」
 こーゆーありがたい幻覚を『おまえ』呼ばわりするのはいささか気が引けたが、名前を知らないのだからしかたがない。お互いのサイズ差を思えば『あなた』や『きみ』では違和感がありすぎる。
 三毛娘は俺の首っ玉から腕を解き、まんまる目玉で見上げてきた。
「あたし今日からオマエなの?」
 爪先立ちをやめてしまうと、その頭は俺の肩にも届かない。まさに(JS+JK)÷2=の立ち位置である。そんな望ましい眼下から、萌えるようなルビー色の瞳で己の濁り目を直撃され、俺は思わず言葉につまった。
「いや、その……」
 三毛娘は、とくに不興を覚えた様子もなく、
「オマエでもアナタでも、ニャンでもニャオでもなんでもいいよ。ちゃんと召使いになってくれたら」
 呼称に対する認識の甘さは理解できたが、後の言葉が腑に落ちない。
「……おまえが俺に仕えるんじゃないのか?」
「なんでしょそれ」
「さっき自分で言ったぞ。今日からあなたが私の御主人様です、とか」
「ちがうよ。あなたの私が御主人様だよ」
 三毛娘は胸を張って断言したのち、
「あ、ごめん。ちょっとバッテン」
 てへ、などとわざとらしく小首を傾げ、
「じゃあ、もっぺん。えーと、『今日から私があなたの御主人様です!』」
「…………」
「今のがマル!」
「……そうか、それがマルなのか」
「うん、花マル!」
「……花マルなのか」
「うん!」
 なるほど、そうとあってはしかたがない――。
 俺はあっさり腹を据えた。悩むまでもない。それが当然なのである。俺の脳味噌から涌いた金・銀・銅のトリプルメダリストが、万年四位の犬や俺に仕えてくれるはずはない。
「……それでは、御主人様」
 俺はこの種の主人に仕える下僕として、正しかるべき忠義の念を表明することにした。
「こちょこちょこちょ」
 これくらい人慣れした御主人様なら、そのあったかくてやーらかい顎の下の皮膚を通して、下僕が指先にこめた全幅の忠義心を、なんの疑問もなく受け入れてくれるはずだ。
 案の定、御主人様は糸のように目を細め、
「ごろごろごろ」
 喉の鳴る音に合わせて、猫耳頭が微かに揺れたりする。さらに見下ろせばショートスカートの背後で、三毛色の尻尾が二本、もとい二叉一本、こっちからそっちへ羽箒のようにゆらゆらと行き来している。
 ――うん、完璧。
 これで主従関係が確定したからには、部屋に連れ帰ろうが風呂場で洗ってやろうが、すべては忠義の為せる業である。
 
 
 
 

第二話 愛と死を煮つめて

 
 
     1

 コンビニ時代の常連さんに、外出中は常にMIBに監視されているという老婦人がいた。MIB、いわゆるメン・イン・ブラック――UFOや宇宙人の存在を一般市民に悟られてパニックが広がるのを防ぐために政府が設けた秘密機関の回し者であるとか、いや地球人になりすました宇宙人そのものであるとか諸説あるが、彼女を監視しているのは後者であった。
 顔見知りになって半年ほどたった頃、「あんたは秘密を守れそうな人だから」と常ならぬ表情でそれを打ち明けられたとき、俺はてっきり軽いジョークだと思った。ふだんの彼女にアルツやデンパの兆候は皆無だったし、「ほら今も五六人でこっちを見張ってるでしょ」などと耳打ちされて店の外を眺めても、黒ずくめの集団など無論いるわけがない。
 しかしその後も老婦人は、店に俺と彼女しかいないときを見計らって、地球におけるUFOとMIBの活動状況を、晩のおかずのレシピのように微に入り細に入り報告してくれるのだった。俺もすなおに相槌を打っていた。SFなど無縁の老婦人が語る宇宙人地球侵略の実態は、妙に地道な生活感に溢れていてトンデモなりに面白かったし、何より老婦人の人品骨柄、とくに金離れが上等だったのである。聞けば、人混みに出るとドサクサにまぎれて何をされるか判らないので、ほとんどの買い物を近所の個人商店やコンビニで済ませているらしい。そのくせ正月には浅草寺の初詣土産を店まで持ってきてくれたりもする。春には四国遍路土産、夏には伊勢参り土産、秋には奈良京都土産をくれた。それぞれ大層な人出だったはずだが、神社仏閣は地球土着の精霊が頑張っているから、宇宙人も遠慮して出てこないのだそうだ。特に観音様が苦手らしい。
 閑話休題。
 いや、閑話ではない。俺もあの老婦人のように常識をわきまえた、秩序ある狂人にならねばならぬ。
 老婦人が見ていたMIBは、俺から見れば、ただの空気だった。ならば、これから俺がなんかいろいろお仕えしようとしているこのちっこい御主人様は、他人様から見ればそも何者であるか。湿気をはらんだ梅雨時の大気の一部にすぎないのか、衰弱した子猫か巨大人面猫又か、あるいは俺の認識どおり猫耳の生えた黒ニーソのゴスロリ娘か――肝腎のそこんとこが、狂ってしまった下僕には判別できないのである。
 とりあえず空気にしとこう――。
 俺はそう決めた。第二候補が子猫あたり。まあ空気っぽい子猫、そんな感じで世間を取り繕うしかあるまい。
 空気猫、もとい御主人様は、ひとしきりごろごろと喉を鳴らしたのち、
「おなかすいた」
 猫らしくころりと気を変えて、とことこと元の茂みに分け入った。
「いい匂い」
 さっき俺が放り出した猫ミルクの皿を、四つん這いになって嘗めようとしている。
「お、おい」
 俺はあわてて紙皿を引っさらった。いかに正体は空気であれ、現状、とても看過できるビジュアルではない。その体勢だと、後ろから下穿きが見えかねないのである。ファッション相応の古風なフリフリとかならまだいいが、万一アキバ好みの極小下着など覗かせてしまったら、たとえ着エロでも摘発されてしまう。その点に関しては、ロリおたズブドロの俺だって、近頃の官憲を支持するにやぶさかではない。『萌え』と『媚態』の混同が行き着く先に、真のロリはいない。ロリおた野郎また爾り。ちなみに俺の部屋のドールたちは、みんなランドセルに相応しいグンパンあるいはズロースを穿いている。
 四つん這いのまんま「むー」などとゴネている御主人様に、俺はコンビニ袋をちらつかせて見せた。
「こっちにもっと旨いのがあるぞ」
 新人下僕の忠義をイマイチ信じきれないのか、御主人様は、さらに低い唸り声を喉の奥から発した。
「ぐぅうぅう」
 爪出し猫パンチの予兆である。
 俺は猫スープの外袋を破り、スティック状に小分けされた内袋の一本をつまみ出すと、
「ぷちっとな」
 御主人様の鼻先で袋の先端を開封し、粘液状の中身を、ちょっとだけ押し出した。
「むにっとな」
 思わせぶりに、その黄金色の香ばしい粘液をちらつかせ、
「ほれほれ」
「……うにゃあ!」
 この商品選択には自信がある。血統書付きの深窓猫から札付きのドラ猫まで、どんな猫でもにゃーにゃー鳴きまくりながらCMさながらに慕い寄ってくるという、無敵のトロトロスープである。実際、俺はこれを使って、荒川の河川敷に巣くっていた喧嘩傷だらけのボス野良に、猫じゃ猫じゃを踊らせたことがある。
「ほれほれ、ほれほれ」
「にゃあにゃあ、にゃあにゃあ」
 
 
     2

 御主人様を踊らせながら、堀端の小公園のベンチに誘導したところで、いよいよ散歩やランニングの人々が頻繁に行き交いはじめた。
 俺はスマホのイヤホンを耳に掛け、いかにも通話中のように装っていた。こうしておけば、会話の相手が空気でも子猫でも、俺を狂人と判じる通行人はいないはずだ。ありがたい世の中になったものである。近頃はちっぽけなインナーイヤータイプにもマイク機能があるから、ひとりで路上会話している常人が珍しくない。
 並んで座った御主人様は、猫スープの大袋を膝に乗せ、小袋ぺろぺろに夢中である。
「どうだ、旨かろう」
「うん!」
 余談になるが、何年か前に池袋のおたくエリアを訪ねたとき、サンシャインの前で、缶コーヒーを耳に当てて賑やかに商談している背広姿のおっさんを見かけたことがある。あれが過労による発狂だったのか大道芸人だったのか、それとも缶コーヒー型の携帯を使っていたのか、今の俺には昔の俺より判断が難しい気がする。早朝の小公園、上は泥だらけ下は絞り雑巾状態のジャージ姿で長電話している三十過ぎのニートと、摩天楼の狭間、缶コーヒー相手に路上会話している中年ビジネスマンは、アヤしさにおいてどっちが勝つだろう。
 ともあれ、俺はわざとらしく堀割の(さざなみ)を眺めたまま、隣の御主人様に訊ねた。
「――で、おまえ、ほんとに名前はないのか?」
 細かい身の上話は人目のない部屋で聞きたかったが、御主人様のちまちまぺろぺろが思いのほか長引きそうで、どうにも間が持たない。
「ミケとかチビとか、なんかあったろう」
「いっぱいあったよ。召使い、いっぱい変わったから」
 なるほど、下僕が変わるたんびに御主人様のほうが改名する、そんな認識らしい。これはやっぱり猫式だ。
「じゃあ、最近の名前――前の家での名前とか」
「エグランティーヌ」
「……フランスから来たのか?」
 俺の好きな古いフランス映画に、そんな名前の女性が出ていた記憶がある。あちらでは野薔薇を意味する人名らしい。しかし御主人様の毛色はともかく御尊顔そのものを拝見するかぎり、ちゃきちゃきの和猫にしか見えない。
「ううん、横浜だよ。そんときの召使いが、フランスの人だったの。とってもスマートで、イカしたおじさん」
 自称エグランティーヌは、遠い目をして言った。
「若い頃に死んじゃった奥さんが、エグランティーヌだったんだって。だから私もエグランティーヌ。きっと、どうしてもエグランティーヌの召使いになりたい人だったんだね」
 朝の空が明るくなったぶん、御主人様の赤い瞳も細っこい猫目になっており、それもまた異様というより、むしろかわいい。
「とっても優しい召使いで、すっごく大きなお屋敷で、お庭が広くて、木もいっぱい生えてて、ご飯はお肉とかお魚とか、おいしいものいっぱいくれて」
 どうやら金満家の異人館に住んでいたらしい。もしかして現在のファッションも、実はアキバ系ではなく、おフランス系の古衣装なのだろうか。
「でも、だんだんシワシワになって、死んじゃった」
 もとエグランティーヌは、逆ペットロス症候群のように沈んだ声で言った。
「お屋敷もヘンになっちゃった。知らない人がいっぱい、行ったり来たり」
 おおかた相続税対策で、ホテルにでも改装されたのだろう。
「召使い、みんな先に死んじゃう。お家もなくなっちゃう」
 なるほど、太古から深山に棲息したという怪猫や唐渡りの怪猫など生粋の妖怪は別状、家猫の尻尾が二つに割れて人語をしゃべったり化けたりするまでは、長い歳月が必要と聞く。まして猫又となれば寿命は半永久、どうしたって下僕(かいぬし)のほうが先に亡びる。
「俺は見てのとおり栄養満点だから、たぶん長生きするぞ」
 御主人様は頼もしげにうなずいた。
「うん。血も濃くって、おいしいしね」
 俺はぎょっとして耳たぶに手をやった。あれは愛咬ではなく味見だったのだろうか。それでも、メタボは早死に確実などという最近の俗説に染まっていないのがありがたい。肥満が美徳とされていた、古き良き時代に育ったのだろう。
「じゃあ、その前は? やっぱり横浜の近所か?」
「えーと、京都ってとこ」
 ほう、西から東海道を下ってきたのか。
「京都にいるときは、シノブと呼ばれたの」
「ほう」
「神戸じゃナギサと名乗ったの」
 これはなんだか盗作っぽい気がする。いつも親父がカラオケで歌いまくっている演歌と同じだ。
「……マジか?」
「うん」
 ウケ狙いではなさそうだった。
 まあ考えてみれば、どのみち俺の脳味噌から生まれた幻覚なのだから、キャラ設定に小林旭の懐メロが紛れこんでも不思議はないのである。本来なら横浜(ハマ)ではヒロミになるところを、フランス人のネーミングにヒロミはおかしいから、俺自身が無意識の内に好きな洋画でカバーしたとか。
「あと、決まった召使いがいないときは、ニャンコ、ネコチャン、ニャンニャンとか、オマエ、キミ、あとソナタとか、なんかみんな色々」
 ソナタだけ違和感があるが、これもまあ幻覚の言うことだから、やっぱり俺自身の記憶の欠片が、何かのはずみで紛れこんだのだろう。無学な俺だって、音楽用語の『ソナタ』くらいは知っている。
「でも、いっとー好きだったのは、やっぱり生まれて初めてもらった名前かなあ」
「ほう、初めはなんてった」
「タマ」
「そうか、ミケじゃなくてタマだったのか」
「うん、龍造寺さんちのタマちゃんだよ」
 ほう、化ける前は、ずいぶん立派な姓の家で飼われていたらしい。
 待て――龍造寺?
 俺は自問を含めて反復した。
「……龍造寺?」
「うん」
 竜造寺家といえば、古典怪談おたく御用達の超有名化け猫伝説――いわゆる鍋島猫騒動――あれの立役者ではないか。
「……おまえ、いったい今いくつなんだ?」
「やっぱりオマエよりタマがいいなあ」
「タマは今年でいくつだ?」
「知らない」
「いや、大ざっぱでいいから」
「忘れた」
「龍造寺又七郎さんとか知らないか?」
「マタシチロウ? 知らない」
 おっと、言われてみれば又七郎は、講釈ネタの非実在青年だったような気がする。
「じゃあ、えーと――高房さんは?」
 おぼつかない記憶をたどって訊きなおすと、タマは満面の笑顔で、
「うん! いっとー最初の召使いだよ。おじさんも知ってるの?」
「南の国の殿様だよな」
「うん、とっても偉い人!」
 とゆーことは――もしかして先の発言にあった『ソナタ』は、『冬のソナタ』とかの『奏鳴曲(ソナタ)』ではなく、時代劇とかの『おまえ』や『あなた』――その『そなた』?
 
 
     3

 龍造寺タマ様がちまちまぺろぺろしている間、俺はスマホをつるつるして、自分の記憶を再確認した。
 鍋島騒動とは、肥前の国、現在の佐賀県と長崎県あたりを舞台に、豊臣秀吉の時代に端を発し徳川家康の時代に本番を迎えた、佐賀藩誕生をめぐる根深い権力闘争である。最終的には、もともと主君だった竜造寺家を家臣の鍋島家がなんかいろいろ凌駕して、初代佐賀藩主の座に着いた。
 そうしたズブドロのお家騒動が起こると、判官贔屓の日本では、敗者の怨念が勝者に祟るという怪談話が、もれなくオマケでついてくる。鍋島騒動においては、龍造寺家の亡者連中がイマイチ迫力不足だったのか、その家の飼い猫が、堂々代打に立つことになった。それが鍋島猫騒動――今に伝わる怪猫伝説の代表格である。
 当然ながら、実在した鍋島家や龍造寺家のごたごたと、そこから派生した怪猫伝説と、その両方を混ぜこんだ創作物には、それぞれ大きな差異がある。しかし又七郎さんが非実在青年であり、実際に非業の死を遂げたのが高房さんであることは間違いないようだ。もちろん史書には猫など登場しないし、巷間の伝説でも怪猫自身の呼称は定かではないが、後世の芝居や講談や怪談映画では、たいがい龍造寺家の愛猫『たま』が、鍋島家に忍びこんで壮絶に化けまくっている。『たま』自身にしてみれば、龍造寺家の誇り高き主として、忠実な召使いを奪った宿敵に、きっちり白黒つけたというところか。
 うわ御主人様すげえ――俺は感服してしまった。思えばあの老婦人が見ていたMIBも、細部の造りこみがハンパではなかった。ロズウェル事件に関わった米軍がCIAを通じて日本の内閣調査室に渡りをつけ、総理大臣の密命を受けた陸自の別班がMIBの行動を密かに追跡したりしていた。基本のトンデモを細部のリアリティーでいかに糊塗するか、そこに正しい幻覚者としての資質が問われるなら、俺もまんざら捨てた狂人(もの)ではない。
 とまあ、夢中でスマホをいじりながら我と我が身に感嘆していると、
「むー」
 隣の御主人様が、猫スープの最後のスティック袋をあぐあぐとしがみながら、ごきげん麗しからぬ声を発した。
前菜(オードゥブル)がなくなりました。おじさん、主菜(プラ)魚料理(ポワソン)を出しなさい」
 おお、おフランス方向も完璧だ。
 ここまでリアルな幻覚様には、俺も正しく名乗らねばなるまい。
「俺は太郎だ。荒川太郎。太郎と呼んでくれ」
 お前は区役所の記入見本か、とツッコまれそうな姓名だが、本名なのだから仕方がない。
 御主人様は、やっぱり不機嫌そうに、
「セバスチャンがいいなあ」
 それがアルプスの少女ハイジ級のクラシックな召使いを意味しているのか、それとも近頃の黒っぽいイケメン執事なのか、新旧ともに親しい俺には判断できない。御主人様のファッションと同じ次元の謎である。
「太郎でがまんしろ。家に行けば、ちゃんと魚が出るぞ」
「お魚!」
 タマ様はこだわりのカケラもなく破顔すると、俺の背中にがしがしよじ登り、肩車状態になって、びし、と前方を指さした。
「さあ太郎、お魚めざしてレッツラ・ゴー!」
 いやそれは猫のセリフじゃないぞ、と俺は思った。
 でもまあ同じ赤塚先生のキャラに猫のニャロメがいるから、ギリギリ許容範囲ということで。
 
 
     4

 幼稚園児くらいなら肩車するのも楽だろうが、(JS+JK)÷2=だとさすがに重たい。
 しかし公共の場において幻覚を持ち運ぶには、うってつけの体勢である。猫と手を繋いでルンルン散歩したり、空気を優しく胸に抱いて歩いたりしたら、なんぼ「いや私ちょっとひとりで散歩してるだけなんですひとりですよあくまで私」と主張しても、常人扱いされない恐れがある。
 また同時に、タマが「♪ おっ魚、おっ魚~~ ♪」などといいかげんなメロディーの魚賛歌を口ずさみながらむにむに体を揺する手応え、いや首応えは、常々ロリのまたがる自転車のサドルになりたいと願っていた俺にとって、なかなか得難い感触である。
 しかし――。
 我が家方向に遊歩道を遡るうち、その首筋の感触が、俺にはなんだかとっても不可解なものに思えてきた。やたらむにむにするのみならず、予想以上に生暖かい。この蒸れ具合は、どうも布の感触ではない。猫皮でもない。まして空気の感触でもない。
「……おい、タマ」
「お魚?」
「いや、そうじゃなくて……あの……おまえ、パンツ穿いてるよな」
「パンツって何?」
「いやその……穿いてるだろう、ふつう。えと、その、スカートとかズボンの下に」
「あ、知ってる知ってる」
 知っていればいいという問題ではない。
「でも龍造寺さんちじゃ、男の人しか穿いてなかったよ」
 うわ時代考証がとっちらかってる――俺は愕然として棒立ちになった。
 いや、ウスラボケっと突っ立っている場合ではない。
 とり急ぎ、人目につかない木立の陰に身を隠し、
「……下りろ」
「やだ」
「いいから下りろ」
 俺は両腕を上げてタマの腰を掴んだ。
「やだやだやだ」
 ご存じの方も多かろうが、下僕の肩や膝でくつろいでいる尊大な御主人様を下僕側の都合で無理に下ろそうとすると、しばしば下僕の体表に甚大な被害が及ぶ。
「あだだだだだだだ!」
 抵抗するタマをようやく地べたに据えたとき、俺の顔には無数の細傷が縦横斜めに走り、推定二十本以上の髪の毛が毟りとられていた。
「むー」
 ジト目で俺を見上げているタマ自身に、責任がないのは明らかである。俺の幻覚の不備なのだから、すべては俺のハンパな脳味噌が悪い。しかしそれでもやっぱり腑に落ちないのである。確かに俺はロリのまたがる自転車のサドルを常々憧憬していたが、力いっぱい自己弁護させてもらえば、望んでいたのはあくまでロリのショーツやホットパンツやスパッツやジーンズの感触であって、萌えはじめたばかりの密やかな和毛の感触などでは絶対にないし、ましてタマのごときツ●マ●など言語道断である。裸で自転車にまたがるロリを、俺の美意識は断じて容認しない。しかし――現にタマがパンツを穿いていない以上、もしや俺の深層心理は、ロリの裸エプロンのみならず裸チャリンコまで認めてしまうほど腐りきっているのだろうか。
 俺は自己の実存に関わる根源的な懐疑から目をそらすべく、虚ろな笑顔を浮かべて言った。
「……買ってやろう、パンツ」
「いらない」
 タマはそっけなく返した。
「お願いだから穿いてくれ」
 俺は涙ぐみながら懇願した。
「めんどくさい」
 あくまで乗り気薄のタマだったが、俺の頬をつたう熱い涙を見上げると、さすがに憐憫の情を浮かべ、
「――ま、いいか」
 ゴスロリ衣装の腰回りを、なんじゃやらぱふぱふと整えたのち、
「これでいい?」
 そう言って、いきなりスカートをまくり上げた。
「はい、パンツ」
 俺は反射的に数歩すざざざざと後ずさっていた。
 こ、これは……これはもはや……ふ●どし祭りの女児!
「違ーう!」
 俺は絶叫し、がっくりと地べたに膝をついた。
 頭の中で、あの樹海に消えたアキバ系老師の声が、俺の魂を怒濤のように翻弄していた。
「前世紀が遺した唯心論的な『禊ぎ』の蕾たちは、断じて今世紀の唯物論的な『穢れ』に晒してはならない」――ならば今、思わず(よこしま)な方向で激しくときめいたりしてしまった俺自身もまた、大らかな昭和の祭りを唾棄すべき平成の不寛容で貶めようとする『穢れ』の一員にすぎないのか――。
「――違う!」
 俺は両の拳で地べたを乱打しながら慟哭した。
「違う! 違うんだ!」
 頭上から『禊ぎ』の声が聞こえた。
「あーもうこのおじさんなんかめんどくさい」
 でも使えそうな召使い、他に見つかんなかったしなあ――そんなぼやき声ののち、
「がっぷし!」
 いきなり視界を覆った暗黒の中、覚えのある顔面べろべろ感と首ぶんまわし感を再体験しながら、俺は思った。ああやっぱり俺みたいな寸足らずはまともな発狂さえかなわず自らが産んだイドの怪物に丸かじりされる定めだったのだ――。
「はぐはぐはぐはぐ」
 今回はやけに味見が長いが、どうですべては俺の自業自得、今さら何をも恨むまい。どうぞこのまま彼岸に引導よろ――などと死による免罪を希うことしばし、
「ぺ」
 俺の目に、ふたたび朝の光が戻った。
 一瞬、あの巨大人面猫が眼前に立ちはだかっている気がしたが、改めて目を瞬けば、俺の前に立っているのは、あくまでゴスロリのタマだった。
「なるほど太郎の言わんとしている意味がだいたい見当がつきました」
 タマは厳かに言って、スカートをまくり上げた。
「はい、パンツ」
「おお……」
 豊かなフリフリに縁取られた、ドロワーズだかズロースだか判然としない丈長の純白物件が、そこにあった。
 これこそが俺の正しい幻覚――。
 そう、ゴスロリスカートの内部にあるべきは、グンパンやブルマーではなく、ざーとらしい白水着やヒモパンやTバックでもなく、まさにこの提灯型物件なのである、かてて加えて、さっきは見受けられなかったフリフリのペティコートまで、スカートと一緒にまくり上げられているではないか。
 俺は思わず合掌していた。
「なまんだぶなまんだぶなまんだぶ」
 なんだかよくわからんが、とにかく俺は此岸の生を許されたのだ――。
 そのとき背後から、
「ひ!」
 と甲高い声が響いた。悲鳴を上げようとして上げる前に飲みこんでしまった、そんな悲鳴だった。
 うわしまった、いつのまにか第三者が――。
 仰天して振り向くと、木立の向こうの舗道からこちらを窺って立ちすくんでいるのは、赤いランドセルのボブショート娘――忘れもしないA子ちゃん(仮名・当時小学五年生・十一歳)だった。いや正確にはA子ちゃん(仮名・現在推定六年生・十一歳か十二歳か訊かないと判らない)である。両の拳を口に当て、ヤダヤダウッソーとふるふるしている姿は、まるで昭和のブリっ子のようだ。
 俺は対処に窮し、合掌ポーズのまま首だけそっちに向けて、A子ちゃん(仮名)の澄みきったまんまるお目々を、自前のニゴリ目で阿呆のように直視するしかなかった。
「あ――」
 とりあえず「あの」と声をかけようとした瞬間、A子ちゃん(仮名)は弾よりも速いエイトマンあるいは加速スイッチをONにしたサイボーグ009島村ジョーのごとく、びゅん、と消失した。
「うぁぁぁぁ!」
 長い悲鳴とランドセルのかたかた揺れる音が、超加速から生じるドップラー効果によって周波数を低めながら、彼方の推定小学校方向に遠ざかっていった。
「……なんでしょあれ」
 パンツ丸出しのまま、タマが言った。
「あ、いや、ちょっと……」
 俺は言葉を濁した。
 思えば俺の幻覚をA子ちゃん(仮名)が共有できるはずはない。彼女が目撃したのは、あくまで忘れてしまいたい過去の遺物が、なぜか植えこみの奥の地べたにひざまずいて泣きながら虚空を礼拝している姿なのである。いつもの通学路でいきなりそんなシロモノに遭遇したら、俺だって即行トンズラこく。
 ――ま、いいか。
 俺はここまでのアレコレを、脳内で強制初期化することにした。
 ――うん、今後の予定に問題なし。
「肩車していいぞ、タマ」
 タマはなんの屈託もなく、がしがしと背中によじ登ってきた。
「♪ おっ魚、おっ魚~~ ♪」
 
 
     5

 前述したように、俺の家はバブリーな住宅街の片隅に残された戦後復興期遺産である。直下型が来たらすぐさま倒壊し、周囲に残った真新しい耐火耐震建築物の狭間、そのちっぽけな焼け跡にだけ三丁目の夕日が沈む。
「ほう、今日からここが私の家ですか」
 タマは玄関口を眺めるなり、もぞもぞと自分から俺の肩を下りた。なにしろ軒が低い。客を肩車したまま中に案内したら客の腰骨が折れる。赤ん坊だと首がもげる。
「……とりあえずマル!」
 同じ木造でも大名屋敷級と思われる竜造寺家や、横浜のハイカラ異人館に比べれば犬小屋に等しいであろう弊屋に、タマは意外なほど動じなかった。まあ元が猫ならば、どれほど広壮なお屋敷であれ、わざわざ物陰に潜りこんで丸くなるのを好むはずである。
「黙って俺についてこい」
「ラジャー」
 上がってすぐ横にある台所を覗くと、安食堂のようなちっぽけなテーブルで、お袋がぽつねんとお茶をすすっていた。親父はとっくに出かけたはずだ。お袋のパートは九時からだから、まだ少々の間がある。
 俺は、ちょと待て、と背後のタマを制し、ひとりで台所に入った。
「ただいま」
 半年ぶりに俺からその言葉を聞いたお袋は、なかなか腫れの引かないできものからやっと膿が出た、そんな微妙な笑顔で言った。
「おかえり」
 テーブルの上には、伏せられた空の飯茶碗と味噌汁椀、そして小ぶりの蠅帳を被せた朝のおかず一式が、人待ち顔で並んでいた。お袋も親父も、根っからの下町育ちなのである。もちろん世間並みに電気炊飯器や電子レンジも使うが、今どき折りたたみ式の蠅帳がある家は珍しい。
「あとで食う」
 俺は蠅帳を上げ、皿から鯵の干物をつまみ上げた。親父の好みで、特に薄塩の干物を近所の魚屋に調達させているから、猫に食わせても問題ないはずだ。
「これだけ先にもらう」
 そのままあっさり踵を返しては、なんだかお袋に申し訳ない気がしたので、
「あと……俺、また仕事探すから」
 幻覚のくせに餌だけはしっかり消費する御主人様を家に連れこむ以上、今後は自前で向き向きの餌を調達しなければならない。
 お袋の顔に、小学校の入学式で保護者席から俺に向けていたような、混じりけのない微笑が浮かんだ。
 俺がついうるうるしそうになっていると、
「お魚?」
 いきなりタマが横から顔を出した。
「おう、アジの干物! 久しぶり!」
 それでも苦労猫らしく、しっかりお袋に頭を下げて、
「これはこれは太郎のお母様でいらっしゃいますか。わたくしタマと申します。今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。わたくしけして贅沢は申しません。でも味噌汁ご飯とクサヤだけはご勘弁くださいね」
 いやどうせ見えないし聞こえないから――。
 俺が思わず苦笑していると、お袋の手から湯飲み茶碗が抜け落ち、ごとばしゃ、とテーブルに転がった。
「………………」
 なぜかお袋は、さっきのA子ちゃん(仮名)の倍以上、両目を見開いていた。
「………………」
 まさか――見えてるのか?
 しかし、いかに血を分けた親子とはいえ、幻覚まで同調するはずは――。
 お袋は目をむいたままゆらりと立ち上がり、生きる屍のような足取りで、こちらに歩み寄ってきた。
 あわてふためく俺をやりすごし、
「……ごめんなさいね、お嬢ちゃん」
 そうつぶやいて、タマの両肩にそっと手を添え、
「……あなたは、あなたのお家にお帰りなさいな」
 今は優しく細まったお袋の目頭から、ひと筋の涙がこぼれ落ちた。
 タマはきょとんとして、ふるふる頭を振っている。
 次の瞬間、お袋は俺を振り返り、眼窩から目玉を半分以上も露出させて、鬼のように咆哮した。
「――お前って子は!!」
 俺は、わしっ、と頭髪を鷲掴まれ、そのまま台所の流しまでぐいぐいと引きずられた。
「あだだだだだだ!」
 お袋は片手で俺の後ろ頭を流しに押しつけ、
「死んでこの子にお詫びしなさい!!」
 横の包丁立てから手近な一本を引き抜くと、その柳刃の鋭い切っ先を、真正面から力いっぱい俺の眉間に振り下ろした。
「どわ!」
 俺は反射的にお袋の手首を掴んだ。
 ズブリの直前で、からくも刃先が止まる。
「待てお袋! 俺の話を聞け!」
「問答無用!」
 お袋はぎりぎりと手首を震わせながら、唸るように言った。
「十年前に殺せばよかった……」
 賽の河原の奪衣婆もチビりそうな形相で、
「よもや生身の子には手を出すまいと……信じた私が馬鹿だった!」
 十年前――それは俺が最初のボークスにランドセルを背負わせた頃である。
「お願いだから待ってくれ!」
 眼前に迫った切っ先の、最後の数ミリを満身の力で堪えながら、俺は言った。
「この柳刃は雲州の作だろう。大事な結婚記念だろう」
 伊達に三十何年も親子をやっていたわけではない。お袋の弱点は知りつくしている。
「刃こぼれしたら研ぎだけで何万だぞ」
 瞬時、お袋がためらった隙を突き、俺はお袋を払いのけ、台所の床をワニのように這って逃げた。
 間髪を入れずお袋は、ずん、と俺の背中にまたがり、
「お前を殺して私も死ぬ!」
 俺はお袋の左利きの軌跡を察し、思いきり左っ側に首をひん曲げた。
 右耳すれすれの床に、無印良品の文化包丁が、どす、と突き立った。老朽化した床板ゆえ、柄の根元まで刺し貫いてしまったのが、今はかえってありがたい。
 うんうん唸りながら包丁を引き抜こうとしているお袋の下で、俺は懸命に脱出を図った。しかし半年も引きこもりっぱなしの筋力では、長年パートで鍛えた中年主婦の底力にあらがいきれない。
 包丁がぎしぎしと刃元を現しはじめ、俺の耳たぶをちりちりと掠った。
「うわ死ぬ」
 焦って刃元に目をやれば、そのすぐ先にタマがしゃがみこみ、鯵の干物をはぐはぐ囓りながら、骨肉の死闘をのほほんと観戦している。
「……何をしている」
「いや、次は太郎の活け作りが出るのかなあ、とか」
「召使いを食うのかおまえは」
「うん、ときどき」
 そうだった。こいつはそーゆー猫なのだ。龍造寺家で飼い主の死骸の血を啜った前科がある。
 ああ、飯より風呂を先にすればよかった――。
 俺がほとんど絶望しかけたとき、玄関口の方から、慌ただしく戸を叩く音が響いた。
「荒川さん! 荒川さん!」
 なんじゃやら聞き覚えのある男の声も聞こえる。
 俺はここを先途と張り叫んだ。
「助けてくれ! 殺される!」
 世間様参入の予感に、かえって逆上したお袋は、
「観念しなさい!」
 ついに、みしずぼ、と床板から包丁を引き抜き、
「母さんもすぐに逝きます!」
 背中の上で、お袋が、ひゅう、と息を吸い、文化包丁を振り上げる気配がした。
 俺も、ひゅう、と息を呑んだ。
「殺してはいけません!」
 間近で例の男声が響いた。
「刃物を放しなさい、お母さん!」
 台所の戸口に、近所の交番のお巡りが立っていた。
 黒光りする拳銃を、びしっ、とこちらに向けて、
「何があったか解りませんが、人を殺してはいけません。まして実の息子さんを殺してはいけない。どんな事情があったとしても、後には禍根しか残りません」
 異議なし!
「人を殺していいのは刑務官だけです」
 ……ちょっと異議あるけど異議なし。
 まあこの若いお巡りは、正直すぎて失言の絶えない公僕なのである。お袋や親父とは配属以来の顔なじみだし、俺も半年前の騒動で少なからず顔を合わせた。
「ふう……」
 お袋は肩を落とし、包丁を床に放り出した。
「……お上の裁きにお任せします」
 力なくお巡りに頭を下げ、
「懲役にでも……死刑にでも」
 いや司直丸投げも困る。本来そーゆー事態ではない。
 でもまあそこんとこは追々申し開きすればいいか――ひとまず死線を脱した俺は、お袋の下からずりずりと這いだした。お巡りも安堵して拳銃を腰に戻す。
 そのとき、
「逃がしちゃだめ!」
 お巡りの後ろから、なぜかA子ちゃん(仮名)が飛び出してきた。
「そのおじさんは変態です! 少女の敵です! すぐに射ち殺してください!」
 ア●ネス・●ャンばりの金切り声に、俺は仰天してしまった。お巡りもお袋も反応に窮している。今現在の俺が変態であるかどうかはともかく、少なくともA子ちゃん(仮名)がらみの一件において、俺が純粋な被害者だったことは関係者全員が納得しているはずだ。
 お巡りはA子ちゃん(仮名)をなだめるように言った。
「だから、とりあえず交番に、ね?」
 A子ちゃん(仮名)は一歩も引かず、
「さっき言ったでしょ! そのヘンな子にヘンなことしてた! 現行犯だよ! おまけに家まで連れこんで!」
 おお、とゆーことは、やっぱりタマは実在キャラだったのだ。誰にでも見えるのだ。ならばA子ちゃん(仮名)が学校ではなく交番に駆けこみ、お巡りが泡を食って被疑者宅に飛んでくるのも道理である。
 お巡りはちょっと逡巡したのち、横で鯵の尻尾をカリカリ囓りながら日和っているタマに、あらたまって訊ねた。
「えーと、お嬢ちゃん」
 いわゆる猫なで声だが、あくまで一般の女児に対する猫なで声だった。タマのリアルな猫耳や二叉尻尾も、コスプレの一部くらいに思っているのだろう。
「お嬢ちゃんは、この太郎君に、その、何かヘンなことされたかな?」
 タマは、のほほんと答えた。
「ううん。美味しい物もらった」
「でも、えーとその、その後でスカートめくられた、とか」
「ううん。あたしがめくった」
「じゃあ、なんか、騙されてここに連れてこられた、とか」
「ううん。あたしが案内させた」
 相手が児童であるかぎり、それらの行為も今どきは大人側の犯罪になってしまうが、まあ初犯ならせいぜい書類送検止まりである。俺のほうから「幻覚だと思った」などと非常識な弁解を――いや事実なんだが、とにかく下手を打たないかぎり、事態はこれ以上紛糾しない。
 俺はタマを見習って、のほほんと日和ることにした。
 それにしても、タマが正真正銘の実在キャラだとしたら、世の官憲は、この事態にどう対処するのだろう。なにせ猫耳も尻尾もモノホンの、いわゆるUMAなのである。戸籍や住民登録だって、佐賀にもどこにも存在しないはずだ。おまけにときとして化けたりもする。
 これは今世紀の文明社会にコペルニクス的転回をもたらす大事件かもしれんなあ――などと、ほとんど他人事モードで日和っている俺に、
「……許せない!」
 A子ちゃん(仮名)が叫び、あろうことかあるまいことか、お巡りの隙をついて腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。もとより拳銃はランヤードでお巡りのベルトに繋がっているが、カールコードと同じで子供の力でもびよんびよん伸びる。
「うわこらうわ!」
 とっちらかって奪い返そうとするお巡りを、A子ちゃん(仮名)は刑事アクションなみの迫力でびよんびよんと威嚇しつつ、
「……信じてたのに……おじさんだけは信じてたのに……」
 つぶやきながら、びし、と銃口を俺に向け、
「この浮気者!!」
 なんなんだそりゃいったいどーなってんだ――。
 真っ白いウニとなった俺の脳味噌めがけ、A子ちゃん(仮名)は、ぐい、とトリガーを引いた。
 俺はもう覚悟も絶望もせず、ただA子ちゃん(仮名)の理解不能な言葉を、なぜか無性にありがたく反芻していた。
 ここで念のため、別に命が惜しくないから余裕こいていたわけではない。このお巡りくらい律儀な公僕だと、拳銃をホルスターに収める前に必ず安全装置をかける。
 案の定トリガーを引ききれず、かちかちくいくいと焦りまくるA子ちゃん(仮名)の手から、ようやくお巡りは拳銃を引ったくった。
「ほんまにもうエラいこっちゃコレモンやがな」
 実は関西出身らしい。
 A子ちゃん(仮名)が、わっ、と泣き出した。
 そのままわあわあ泣き続けている。
 俺はA子ちゃん(仮名)のわななく肩に、そっと手を置いて言った。
「……信じてもらっていいぞ。俺は絶対に君を裏切らない」
 なんだかよくわからない思いこみや偶発的な勘違いで殺されかけたにせよ、女児の涙を看過できる俺ではない。女子小学生は無条件で俺より貴いからである。
 女子小学生には、いや女子小学生にも女子中学生にも、そしてたぶん猫にも、それぞれの重い荷物がある。何かと思いつめそうなこの子が半年前に家出を決行したのだって、誰にも言えない荷物が重すぎたからだ。だから俺はあのとき、いっさいこの子を責めなかった。もっとも相手が男児や大人だったら、陰に日向に死ぬまでネチネチいじめ続けるだろうが――。
 なんだかよくわからないまま、もっともらしく自己完結している俺のジャージを、タマが横からつんつんと引っぱった。
魚料理(ポワソン)がなくなりました。おかわりを出しなさい、太郎」
 そう、このタマにだって、きっと重い荷物が――まあ昔はあったはずだ。今はないかもしれないが。



           第三話【白っぽい巨塔とか】に続く

『汚宅殺猫耳地獄 ~おたくころしにゃんこのじごく~』

『汚宅殺猫耳地獄 ~おたくころしにゃんこのじごく~』 バニラダヌキ 作

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • コメディ
  • 青年向け
更新日
登録日 2017-01-29
Copyrighted

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