*星空文庫

汚宅殺猫耳地獄 ~おたくころしにゃんこのじごく~

バニラダヌキ 作

  1. 第一話 おはようございますの猫又さん
  2. 第二話 愛と死を煮つめて
  3. 第三話 白っぽい巨塔とか
  4. 第四話 ロシアより他意をこめて
  5. 第五話 魔の山へ飛ぶかもしんない(前編)

第一話 おはようございますの猫又さん

 

     1

 まずはじめに、はっきりと申し上げておきたい。
 三十過ぎのニート、三十過ぎの引きこもり男、三十過ぎのロリおた野郎などに、もしあなたが嫌悪感を抱かれるなら、今すぐこのブラウザを閉じていただきたい。他のタブが開いているなら、このタブだけ閉じてもよろしい。あるいは『戻る』のアイコンをクリックしてもらってもいい。
 もっともあなたが、なにひとつ取り柄のない無価値な己の存在を他者に対する狭隘な優越感によってかろうじて粉飾しながら死ぬまで無駄に生き続けるタイプの方であるなら、他者への嫌悪感すら己の優越感に誤変換できるであろうから、このまま読み進めても問題ない――と思ったら大間違いである。そのような方々に対しては、三十過ぎて定職もなく親の家の二階に引きこもっているロリおた野郎、つまり俺のほうが多大な嫌悪感を抱いてしまうので、これから力いっぱい嫌がらせ級にアブナい話を披露してやろうなどと画策したりもしている。
 であるからここはやはり速やかに袂を分かち、今後たまたま路上やネット上ですれ違っても、お互い知らんぷりしとくのが世界平和のためだろう。EUうんぬんの国民投票で無理矢理白黒つけてしまった英国や、黴臭い了見と無節操な胴間声をもって万事に白黒つけないと気の済まない能天気親爺を大統領に据えてしまった米国の大騒ぎなどを見てもわかるように、世の中、ドドメ色のまま棚上げしといたほうが無難な局面は多々ある。個人も国家も全人類も、どのみち滅びるまではドドメ色、トワイライトゾーンに他ならぬ現実世界の中で右往左往するしかないのだ。
 などと大仰に見得をきってはみたものの、老朽化した木造家屋から一歩も外に出ず、雨戸を閉ざした二階の六畳間と階下の風呂場を行き来するだけの生活をだらだらだらだら半年以上も続けていると、いかに閉塞的な俺だって、パソコンのモニターを介さないナマな世界が恋しくなる。よくよく考えてみれば、モニター越しの情報世界はトワイライトゾーンですらないのである。古来この日本には『たそがれ』=『誰そ彼』、『かわたれ』=『彼は誰』、そんなふたつのトワイライトがある。つまり現実の天然世界は、ほっといても明るくなったり暗くなったり、ドドメ色の濃淡がおおむね一方向に変わるものなのだ。半刻後の明暗さえ知れぬ個人の宿世やら国家の命運やら全人類の行く末やらは、まあとりあえずちょっとこっちに置いといて。

     2

 雨音も久しい六月半ばの未明、正月からつけっぱなしの液晶モニターの前で椅子に座ったままふと目覚めた俺は、なぜか半年ぶりに窓の雨戸を開き外を覗いてみようという気になった。このところ眠るのも起きるのも同じジャージのまま椅子の上で済ませ、いいかげん腰にガタが来ていたので、気持ち以上に腰のほうが、風呂場より遠い何処かへの移動を希求していたのだろう。寝こむ前にネットで見かけた胡乱な都市伝説もどき――俺の家の近所を流れる掘割沿いの遊歩道に近頃化け猫が出没する、それは尻尾がふたつに割れた猫又らしい、いや体長二メートルに及ぶ人面の猫だ、いやいや夜明け前や日没後に堀端をランニングしていると猫耳の生えた黒ニーソのゴスロリ娘が四つ足走行で横を追い抜いてゆくのだ――そのような愚にもつかぬ与太話を信じたからでは絶対にない。いかに現実から遊離している俺だって、現実と虚妄の間には常に液晶画面やスクリーンや印刷物やネジの緩んだ脳味噌――他人の脳味噌であれ自分の脳味噌であれ――が挟まっているくらいのことは理解している。
 雨戸の隙間から空を見上げると、街並みの彼方に聳える朧なスカイツリーの首から上を覆う濁った厚い雲は、濁ったなりに早暁の気配を帯びはじめていた。
 外に少しでも雨脚が窺えたら、ガタのきた椅子から崩壊寸前のベッドへ寝床を移すだけで済ませるつもりだったのだが、連日の雨は幸か不幸か小休止らしい。俺は「あーうー」などと呻きながら固まった腰をぼきぼきと伸ばし、伸ばしついでにちょっとふんぞりかえったまんま、安普請の階段をぎしぎしと下りていった。
「お……」
 台所で朝飯を作りはじめていたお袋が目を丸くし、「お」のまんまの縦に細長い唇を引きつらせて、それこそ化け物でも見たようにつっぱらかった。「お、お前」と絶句するつもりだったのか「お風呂は沸いてないよ」と言おうとしたのか、無学な俺の知るところではない。いずれにせよここ半年、深夜の入浴以外はいっさい階段を下りてこなかった馬鹿息子を早朝に階下で視認してしまったのだから、「お」だけでつっぱらかるのも無理はないのである。
「お……」
 まだそれ以上言葉が続かないらしいので、俺はさすがに2トン積みトラック満載級の罪悪感にとらわれながら、
「お散歩」
 ぶっきらぼうにそれだけ言って玄関に向かった。
 玄関の三和土には、当然ながら俺の足に合う履き物などひとつも出ていない。俺は親父のデカ足サンダルを裸足に突っかけて家を出た。背後の屋内から、お袋がどどどどどと奥の親父を起こしに走る足音が響いてきた。無為徒食かつ大飯食らいの馬鹿息子を養うため早朝から深夜までタクシーを転がした上、いつもより早く叩き起こされる親父の災難を思い、俺の罪悪感は4トン積みトラック満載級に倍加したが、引きこもりはじめた頃と同じ言い訳で、己の心を閉ざすしかなかった。
 俺が悪いんじゃないもんね。世間のほうが悪いんだもんね――。
          *
 実際、悪いのは世間なのである。
 馬でも鹿でも入れるような高校を出て合格率九五パーセント超の四流五流大学すら一校も受からず泡沫企業の正社員の座にもことごとく落ちこぼれた俺だって、去年の冬に自室に引きこもるまでは、せめて自分の食い扶持とロリおた関係の掛かりとアキバ通いの電車賃くらいは自力で稼がねばと思い、せっせと各種のバイトに励んでいた。とくに長く勤めた隣町のコンビニでは唯々諾々とブラックなシフトに応じ、事実上の店長代行を任されていたほどである。それがある日突然、故なくして鬼畜の汚名を着せられ、御町内はもとよりマスコミやらネットやら、ありとあらゆる公の場で四方八方から石をぶつけられる羽目に陥ってしまった。俺が隣町の女子小学生A子ちゃん(仮名・当時十一歳)を言葉巧みに騙くらかし、ひと晩連れ回したというのである。
 冗談はULTRAヨシ子デラックス。
 俺にそんな革命的偉業を達成するほどの克己心があるなら、ネットで拾いまくったアレな実写画像でパンパンになったハードディスクを自●法の適用条件が広がったとたんに泡を食って物理フォーマットしたり、数十枚の裏DVDを延々と叩き割ったり、関東一円あっちこっちのアヤしげな古本屋で掻き集めた昭和なら合法の写真集を泣きながら一冊残らずシュレッダーに突っこんだりするものか。なのに派出所のお巡りやマスゴミの下衆記者どもは、やれ『COMICエルオー』を創刊号から最新号まで欠かさず揃えているだの、昭和遺産の『レモンピープル』や『漫画ブリッコ』や『ホットミルク』を全巻収集しているだの、エロゲーのパッケージが部屋の壁面を埋め尽くしているだのランドセルしょったボークスのドールが棚に一ダース並んでパンチラしてるだの、違法でもなんでもない無害な趣味をあたかも鬼畜の所業のごとく囃し立て、半月以上も俺を拘置所に幽閉したのである。で、大山鳴動して鼠一匹、その鼠すら容疑者の俺ではなく女子小学生自身であり、単に親と喧嘩して発作的にプチ家出を試みただけ――そんな事実が判明してようやく釈放されたとき、すでに俺は一般世間から、今のところ罪人ではないが近日中に犯行必至のロリペド変態野郎、そんな烙印を押されていた。
 隣町のA子ちゃん(仮名・当時五年生)に恨みはない。親に怒られるのが嫌で、つい優しそうなコンビニのお兄ちゃんを悪役に仕立ててしまうなど無邪気の楽園、たわいないものではないか。この世のすべての女子小学生を大らかに許す度量が俺にはある。お巡りにも恨みはない。まあ勾留中には脅されたり突っつかれたり泣かされたり、ひとり残らず薪ざっぽで撲殺しまくりたいような思いもしたのだけれど、しょせんそれは奴らの定形業務つまり飯の種に過ぎず、釈放時には全員ちゃんと平身低頭して謝ってくれたからである。見ず知らずの俺に対する世迷い言をネット上で垂れ流し続けた無数のカオナシどもにも恨みはない。真偽も正邪も己の好悪でしか仕分けできない衆愚など相手にするだけ時間の無駄だ。しかしマスゴミの下衆どもや御町内の皆様だけは生涯許せそうにない。後から謝罪記事を載せてくれた新聞や週刊誌など皆無だし、それらマスゴミのインタビューに「そんなことをする青年には見えなかった」と答えてくれた町の衆は、向こう三軒両隣、ただのひとりもいなかったのである。
 これでも悪いのは世間ではなく俺のほうだとあなたが言うなら、俺がわなわなと震える手で力いっぱい振り下ろす図太い薪ざっぽによってあなたの頭蓋骨が凹状に変形し眼窩から眼球が突出し耳鼻口から脳漿と汚血が噴出するのを覚悟していただかねばならない。
          *
 庭も塀もない長屋同然の門口から前の道に出ると、たまたま通りかかった超高級ブランド姿の痩せた老人が、歩く屍でも見たように、すざ、と後ずさりした。
 老人が散歩させていた、もとい上機嫌で老人を引きずっていた秋田犬は、いきなり首を後ろに引っぱられて怪訝そうに振り返ったが、俺の姿を認めると即座に緊張を解き、懐かしげに挨拶してきた。
「ぉわぉぅ」
 いかにも秋田生まれらしい律儀な顔で、ちゃんと「おはよう」が言えるこの犬とは、同じ町内にある大豪邸の瀟洒な柵越しに、かれこれ十年近く親交を深めている。ただし豪邸の主である老人は、俺のような得体の知れない雑種など保健所で薬殺したほうがいいくらいに思っている。
「おはよう轟天号!」
 俺はしゃがみこんで犬の頭や顎の下をわしわし撫でながら、飼い主に対する咄嗟の報復を画策していた。そもそもこの爺さんが「そんなことをする青年には見えなかった」とは真逆のコメントをマスゴミ相手に漏らしたあたりから、俺の受難の本番が始まったのだ。
 俺は凍結状態の老人を振り仰ぎ、本性とは無慮百億万光年を隔てた純真無垢な笑顔を浮かべ、力いっぱい朗らかに挨拶した。
「おはようございます!」
 老人はつっぱらかったまんま、もごもごと口元を蠢かせた。
「お……うぅ」
 たぶん「おはよう」と発音したつもりなのだろうが、犬よりも滑舌が悪い。
「いやはやご無沙汰しましたどうもお久しぶりです!」
「お……おお」
 老人の引きつった顔面筋肉は、依然として歩く屍に対峙している。
 俺は長年のコンビニ勤めで体得した、ゼロ円スマイルならぬ絶対零度スマイルでとどめを刺した。
「かわいいお孫さんはお元気ですか?」
 ハイソ系女学院初等部の入学祝いに老人がどでかいグランドピアノを買い与え、そのたどたどしくも可憐な音色を、道行く俺の耳にときおり風に乗せて届けてくれる(いとけな)い孫娘に他意はない。しゃっちょこばった老人の足元でふるふると尻尾を振っている純朴な秋田犬にも恨みはない。しかし町内一の大豪邸でこれ見よがしにふんぞり返っている政商あがりの此奴だけは断じて許せない。
「じゃあ、お先に! かわいいお孫さんによろしく!」
 老人は自分自身が歩く屍と化したように青ざめ、ひくひくと痙攣した。
 俺は明朗快活な笑顔のまま、内心に邪悪この上ないジョーカー笑いを浮かべ、凍死寸前の爺さんを残して掘割方向に歩を進めた。
 ――よし、予期せぬ再起試合は、俺の完封勝利。

     3

 俺の町を流れる幅三〇メートルほどの堀割は、町の北端を悠揚と蛇行する荒川から分流し、四キロほど南でなぜかまた荒川に合流している。過去の水運の変遷によって、そんななんだかよくわからない配置で残されたらしいが、どのみち関東平野を流れる大きめの川は、荒川にしろ江戸川にしろ利根川にしろ隅田川にしろ、徳川家康の時代から人為的にあっちこっち切ったり貼ったりされており、こうした水運目的の堀割が、昔は縦横無尽に存在したのである。
 もっともその大半は、戦後の高度経済成長期にモータリゼーションや土地不足解消のため暗渠化してしまったが、俺の家あたりはそもそも由緒正しいゼロメートル地帯、親父が子供の頃には台風が来るたんびに地域まるごと床上浸水していたような奈落の底だから暗渠化も後回しにされ、本流である荒川の土手や水門がちょっとテコ入れされただけだった。映画『日本沈没』の昭和版――あの純アナログ特撮映画で、真っ先に堤防が決壊し水没する老朽家屋だらけの下町、あれを想像してもらえばいい。ところが俺が子供の頃、突如沸騰したバブル景気でイッキに風向きが変わり、本流の護岸は直下型地震対応級に再整備され、ドブのような堀割もあっという間に浄化整備され、成金好みの高層マンションや邸宅が建ち並ぶ都会の住宅街へと変貌したわけである。
 そんな街並みに我が家のような三丁目夕日物件が混じっているのは、ベンツのショールームにオート三輪が紛れこんだようでいささか世間に申し訳ない気もするのだが、いかに無敵のバブル景気とて、江戸開府以来の由緒正しい貧乏人を根絶やしにしてくれなかったのだから仕方がない。
          *
 長梅雨の湿気をじくじくと含んだ仄暗いかわたれどき、俺は厚い雲の垂れこめる堀割沿いの遊歩道を、あんがい爽快な気分で闊歩していた。
 今の俺の視神経や脳味噌には、よほど目を凝らさないと周囲のあれこれが何物であるか何者であるか判別できないくらいのトワイライトがちょうどいい。もともと密林の雨蛙のように澱んだ性格だし、ここ半年まったく太陽を拝んでいなかったのだから、下手に晴れわたると失明や錯乱の恐れがある。
 しばらく見ないうちにまた増殖した高層マンションと、そこに移り住んだ数多の勝ち組におもねるように、遊歩道も街灯も様変わりしていた。真新しくなったわけではない。逆に似非江戸情緒とでもいうべき小賢しい渋味演出が施されているのだ。行燈っぽいデザインに変えられた街灯など、以前より明らかに照度が落ちている。路傍には不審者が身を潜められそうな茂みもあるのに、薄ぼんやりとした橙色の光しか発していない。
 まあ、それだけこの国は平和なのだろう。堀割に映る灯を江戸っぽくするため、公共の散策路をわざわざ暗く変える国の治安が、昔より悪化しているはずはない。勝ち組と負け組の格差こそ広がりつつあるとしても、日本開闢以来昭和戦中まで連綿と続いた厳然たる階級社会を思えばまだ可愛い程度だし、他の経済大国とは格差の桁が違う。強盗は少ないし暴動も起こらない。
 そんな静まりかえった舗道の先、こっちの微かな橙色とあっちの橙色の間あたり、高層建築の陰となって未だ夜を残す暗がりに何やらちっぽけな蠢きを認め、俺は歩を進めながら目を凝らした。
「なー」
 弱々しい哀訴の響きに、俺は思わず声を上げた。
「おお、にゃんがいる!」
 そう口にしてしまってから、驚かして逃げられてしまっては元も子もないと、慌てて息を潜める。
 姿勢を低くし、そろそろと近づく。
 薄明かりに慣れた目で、相手に逃げるそぶりがないのを確かめ、その鼻先に人差し指を近づけてみる。
「なー」
 逃げないのも道理、その猫は、もう立ち上がれないほど衰弱していた。
 しぼんだ風船のように痩せ細っているので丸くなっても丸く見えず、背骨の浮いた、舗道の敷石ほども硬そうな背中が痛々しい。白だか黒だか斑だか、汚れすぎてほとんど判別できないが、なにがなし若い三毛らしい感じは残っている。さほど寒い朝ではないのにぷるぷる震えながら、俺の指先を慕って鼻を寄せた顔の両眼は、目脂でガビガビになっていた。典型的な栄養不良、重病あるいは餓死寸前だ。ふと見ればヨレヨレの尻尾が途中から二叉に裂けている。昨夜ネットで見かけた噂話が記憶に蘇った。先天的な奇形か幼時の裂傷か、いずれにせよこれが猫又呼ばわりされる由縁となり、忌避や虐待に繋がったのかもしれない。
「死ぬな、にゃん」
 俺はほろほろと落涙しながら言った。
「お前が死んだら俺も死ぬ」
 俺にとって生物界のヒエラルキーは五階層に集約される。
 上から順に、
  (一)女子小学生
  (二)女子中学生
  (三)猫
  (四)犬と俺
  (五)その他の生物
 つまり、その個体がいかなる状態であれ、猫は俺より偉いのである。
 まず体温を維持しなければ――俺はジャージを脱いで舗道に敷き、幻のように軽い猫を抱き上げ、そろそろと包みこんだ。大飯食らい対応のXXLだから幾重にも包めたが、あちこち擦れて繊維感を失った着古しのジャージだけでは心許ない気がしたので、おろしたてのTシャツも重ねて巻いた。
 猫はぐったりとして為されるがまま、それでもときおり緩慢に首を動かし、俺の顔色を窺っていた。ガビガビの瞼の奥に、あんがい透き通った緑色の光が見えた。まだ青信号、そう思えた。
「よし、生きろ」
 次は栄養補給である。
 今の容態だとカリカリも猫缶も食えそうにないが、猫スープや猫ミルクなら飲めるだろう。ここから堀割を逸れて地下鉄駅方向に数百メートル走れば、かつて俺が勤めていたコンビニがある。住宅街の片隅のちっぽけなコンビニに、そんな結構なアイテムが置いてあるのか――置いてある。俺が置いた。
 たまに店に顔を出して余計な口を挟む本部のウスラバカや気の弱いフランチャイズ店長は、マニュアルにない品揃えに首を傾げていたが、猫だって人だって、夜中など腹にもたれない軽いものが欲しくなることはままある。猫自身は買い物に出られなくても、飼い主を使いに出すのは簡単だ。猫は人より偉いからである。現にスープもミルクも固形食に劣らぬ回転率だったのだから間違いない。
 俺は膨らんだ猫包みを、舗道脇の植えこみの奥に隠した。抱えてダッシュしたりしたら、かえって中身が弱りそうな気がしたのである。そこならカラスや犬は近づけない。トリップ状態の早朝ランナーに撥ね殺される心配もない。
「待ってろ、にゃん」
          *
 自動ドアをこじ開けるようにして店に飛びこんだ上半身裸の俺に、痩せこけた店長は虚ろな笑顔を向けて言った。
「いらっしゃいま……おお、ちょうど良かった」
 その声は笑顔以上に虚ろだった。
「ちょっと午後まで入ってくれないか」
 俺が半年も前に辞めたことを忘れてしまっている。今どき流行らないヒッピーじみた蓬髪はなかば白髪と化し、アラフォーにして歩く屍さながらだ。ことほどさように昨今の終日営業小売店舗はブラックなのである。従業員を廃人にする度胸のない店長は自らが廃人になる。美意識のためならあえて廃人化も恐れぬ俺のような逸材を、あれから見つけられなかったのだろう。
「すみません、話はあとで」
 俺は籠を持って雑貨コーナーに走った。
 案の定、品揃えは変わっていなかった。いっぺん定番に設定しておけば、売れたぶんだけPOSが自動発注する。歩く屍はPOSに逆らわない。
 適当な紙皿なども籠に入れ、レジに運ぶ。
「これください」
 店長は十八世紀のオートマタのようにバーコードリーダーを動かしながら、
「……午後からでもいいんだが」
「考えときます」
 店長の虚ろな瞳に浮かんだ微かな希望の光――はかない生のなごりを俺はあえて振り切り、スマホ精算して踵を返した。
 この店長に恨みはない。例の誘拐騒動で店が被った大迷惑を忘れてくれるほどの大雑把な性格もありがたい。しかし彼はすでに過労死に値する幸福な人生を送っている。まだ強気だった青年時代、バックパッカーとして世界を放浪中に某国で未成年の少女を妊娠させ現地の法律によって強制結婚、妻子を連れて帰国した後も年子をふたり作っている。最初の出産時、奥さんは十四歳だったという。
 ときとして人は愛のために死ぬべきである。たとえその愛が、今は離婚後の海外送金に化けているとしても。
          *
「待たせたにゃん」
 疑似猫語でウケを狙ったわけではない。途中に読点を入れるのがもどかしいほど焦っていたのである。往復の疾走で息が切れてしまったためでもある。
 俺は植えこみの前から例の猫包みを透き見して無事を確かめ、コンビニ物件をそそくさと舗道に広げた。
 とりあえず紙皿に猫ミルクを注ぎ、三つん這いになって茂みに潜りこむ。
「ほーらご飯だにゃん」
 しかし茂みの奥の地べたには、俺のジャージとTシャツが、くしゃくしゃと丸まっているだけだった。肝腎の中身が消えている。
「にゃん!」
 俺は紙皿を放り出し、四つん這いになって辺りを探った。
 まさかカラスや散歩中の駄犬に――いや、残された衣類に血痕はない。しかしこの世には、狂信的野良猫駆除主義者という無差別テロリスト同然のならず者も多い。奴らは生物界の最下層に位置しながら、上層の俺を差し置いて、さらに上層の猫を保健所に拉致したりする。
 いやいや過度の悲観はよろしくない。あのジャージは俺が着ていたからこそ俺にとっての『ジャージ』であっただけで、客観的にはただのくっせーボロ布でしかないから、いかに零落した身とはいえ元来貴族に他ならぬ猫様のお気に召さなかっただけかも――。
 枝々で小傷を負いながら這い回ることしばし、俺の後ろ頭に、真上から声がかかった。
「なーご」
「……にゃん?」
 それにしては、記憶にある声よりも妙にドスが効いている。デジタル音源再生ソフトで、速度と周波数と音程をそれぞれ半分に落としたような「なーご」である。つまり虎やライオンではなくあくまでにゃん、しかし音源の体格は推定数倍増し――。
 気圧されて地べたを向いたままの俺の目前に、ずん、と前足が下りてきた。とってもかわゆい猫の足、ただしサイズは俺の掌といい勝負である。
「えと、あの……」
 恐る恐る顔を上げると、案の定、あの噂話の第二弾――体長二メートルに及ぶ人面の猫が、雀を狙う飢えた野良猫のように瞳を光らせていた。
「うななーご」
 なんだ、人面猫なんて言うからてっきりグロな化け猫かと思ったら、これはこれでちゃんと高貴じゃないか。確かに顔一面ほわほわの柔毛に覆われて髭も生えてるけど、目鼻立ちは美猫と美女のいいとこどり、いやむしろこの造作だと三毛猫っぽい美少女――。
「……怖くない」
 俺は全身全霊をもって現実逃避していた。それはそうだろう。猫好きであればあるほど、あのちっぽけな爪や牙がどんだけ狩猟向きのシロモノか、己の流血をもって熟知している。それが数倍に膨張中なのだ。あまつさえ爛々と光る瞳の色が、緑から黄色に変化している。信号のように判りやすい。
 三毛猫っぽい美少女にしてはずいぶんはしたなく大口を開けたその下顎、ずいぶんトンがった牙の間から、獲物を咀嚼し嚥下するための生暖かい唾液が、ぽとりと俺の鼻の頭に垂れた。
 そして――がっぷし。
 視界を覆った暗黒の中、濡れてもざらざらの猫舌を顔一面に感覚しながら、俺は自分に言い聞かせ続けた。恐くない恐くない。これは単なる甘噛みだ。その証拠に、俺の後ろ頭にも喉笛にも牙が突き刺さってこない。そうそう甘噛み甘噛み。咥えた獲物の頭がでかすぎて口を閉じられないだけ、なんてことは絶対にない――。
 はぐはぐぶんぶんと、激しく首を揺さぶられることしばし、
「うなあ」
 不機嫌そうな唸り声とともに、視界の夜が明けた。
 新しい朝がきた。希望の朝だ。
 俺は人面猫の唾液でべとべとになった顔に、風の谷の笑顔を浮かべて言った。
「……ほらね、恐くない」
 未だ食欲丸出しの相手を前に、ナウシカ級の慈顔を保ちつつ、
「ねっ、おびえていただけなんだよね」
 キツネリスもとい巨大人面猫は、じりじりと後ずさりしながら、俺の清らかで優しい心をようやく感じとってくれた――らしい気配は微塵もなく、後ずさりで溜めこんだ猫科特有の瞬発力を、次の瞬間、一気に解放した。
「ぐなおう」
 猫は犬より馬鹿だなどと言う俗説があるが、それはまったくの誤謬である。その証拠に今度はちゃんと、獲物の首筋を狙っている。
 幻想や虚妄もまた現実に浮かぶバブルに過ぎない――そう悟りながら、俺は猫のイキオイをまともに受けて舗道を飛び越し、堀割の水に背中から倒れこんだ。
 どでかい猫は、どでかいぶんだけモフモフだった。
          *
 喉笛を食いちぎられて即死したにしては、やけに冷たくて苦しい。
 ばっくり裂けた傷口から堀割の水が出入りする感触もない。
「がばげべごぼ」
 俺は肺に流れこもうとする水を懸命に排出しながら、石垣もどきの護岸ブロックにすがりついた。
「げへごほ、がは」
 見た目に浄化されていても、都会の流水はしこたま生臭かった。
 俺は堀割を振り返って、モフモフの安否を探った。たいがいの猫は水に放りこむと溺れ死ぬ。
 ちょっと先の水面に盛大な泡が立っていた。
「そこかにゃん!」
 俺は泡を食って手を差し伸べた。さっさと逃げろよお前はアホか、などとツッコむ向きもあろうが、猫は俺より偉いのだからしかたがない。
 そのとき梅雨空の雲が間合いよく流れ、一条の逆光が堀割の対岸から降り注いだ。
 泡立つ堀割の水面に、黒い影が浮かび上がった。どでかい猫の影ではなく、あくまで小柄な人影である。
 対岸の石垣もどきと墓石群のような高層建築を背に、人影はゆっくりと浮上を続け、やがて水面に佇む形で静止すると、ふわりと翼を広げるように両腕を開き、左右の手それぞれに携えていた大判の書物を光に晒した。
「――あなたがこの川に落としたのは、この『ニンフェット 12歳の神話』ですか? それとも、この『12歳の神話 デラックス版』ですか?」
 影自体は輪郭のみに逆光を宿した漆黒だが、その声は暁の光に浮かぶ左右の書物同様、未だ処女懐胎を迎えぬ聖母のごとく清らかだった。
 両方とも俺が落としました!
 そう叫びたかった。
 神々しく輝くそれらの大判書籍は、まだ児●法の適用が甘い時代に俺が神保町や池袋や新宿やアキバの裏通りを数年かけて漁りまくっても、ついに入手できなかった最古の聖典である。もっとも表紙だけなら、当時俺が師匠と呼んでいたぶよんとしてしまりのないアキバ系老人が住む四畳半一間の安アパートで、押し入れの奥から大事そうに取り出した真空パックの両面を見せられたことがある。しかし俺が万金を積むから開封してくれと懇願しても、老人は「いや、この前世紀が遺した唯心論的な『禊ぎ』の蕾たちは、断じて今世紀の唯物論的な『穢れ』に晒してはならない」と最後まで拒絶した。ちなみにそれらを含めて老人が真空保存していた大いなる遺産の山は、近年、嫉妬に狂った他のハンパなおたく野郎に密告され、愚直な官憲の手によってことごとく押収されてしまった。以後、誰ひとり老人の姿を見た者はない。風の噂では、書類送検を待たずに自ら富士の樹海に旅立ったと聞く。
「――あなたが落としたのはどちらですか?」
 再度、若々しいなりに厳かな声が響いた。
「両ほ――」
 叫びかける俺の中の黒い俺に、俺の中の白い俺が右フックを叩きこんだ。
〈馬鹿者! 発作的欲望に身を任せるな! マジに書類送検くらう気か!〉
 黒い俺も黒い血の涙を流しながらぷるぷると自制した。
〈そう、口では多様性を謳いながらひたすら非寛容に傾くこの平成社会において、あれらはすでに失われた古代の美しく大らかな夢。国会図書館さえ一般蔵書検索から除外した今、いかようにもがけどせんなかるまいに……〉
 おりしも、ビルの谷間の似非江戸空間を、朝の斜光がゆっくりと移ろった。
 その移ろう光の中、両の翼に古代の夢を抱えた黒い影は、やがて一幅の聖画へと姿を変えた。
 ……いや違う。
 近頃のアキバに溢れかえっているような、コテコテの萌えキャラへと姿を変えた。
 あの噂話の第三弾――猫耳の生えた黒ニーソのゴスロリ娘である。ただし四つん這いになって駆け出す気配はない。黒を基調にしたゴシック・ロリータ衣装の、白いフリルに縁取られた襟元の上には、柔らかそうな三毛色のウェーブヘア、その左右でミルキーピンクの内側を覗かせている可憐な猫耳、そして予想よりも遙かに幼い顔があった。ぶっちゃけ(一)女子小学生(二)女子中学生(三)猫、それら俺より上層の生物すべてを融合した『萌え』が、虹色のオーラを纏って浮遊していたのである。
「――さあ、どちらですか?」
「――――」
 己の真実を貫くことに、逡巡が無かったと言えば嘘になる。
 なんとなれば、三毛娘が湛える浮き世離れした微笑の奥に、なんじゃやら「にんまし」っぽい(よこしま)な成分が、しこたま含まれているような気がする。のみならず瞳の輝きが、今は明らかに赤っぽい。どう見ても赤信号だ。
 白い俺が言った。
〈止まれ〉
 黒い俺が言った。
〈やめとけ〉
 白黒いっしょに、こう言った。
〈なんかアヤしい〉
 しかし俺は、俺の中の黒い俺と白い俺よりも正直だった。
「――どっちでもない」
 俺はきっぱりと言った。
「俺が落としたのは君だ」
 三毛娘は言った。
「ぴんぽーん!」
 いきなり声が軽くなっていた。まるで『このゲームに登場する人物は全員18歳以上です』と銘打たれたエロゲーに登場する小中学生にしか見えない最低頭身のキャラを担当する舌足らずな声優の声だ。
 三毛娘の両手を離れた写真集が、古新聞に化けて、はらはらと堀割の水に散った。
「おめでとうございます!」
 三毛娘は水面を蹴ってしなやかな弧を描き、そのまんま俺の首っ玉にかじりついてきた。
「おじさんみたいに優しくて大らかで正直な変質者は見たことがありません! 今日からあなたの私が御主人様です!」
 一部ずいぶんな仕分けをされていることや、後半の文脈が微妙に乱れていることに、俺はちっとも気づけなかった。
 すりすりすり――。
 はぐはぐはぐ――。
 こーゆーイキモノに懐かれて、あまつさえ耳たぶを甘噛みされながら正気を保てるおたくがいるとしたら、そのおたくはすでに死んだおたくである。
 正気を失っているくらいだから、俺はまだ死んでいないおたくである。死んでいないからこそ、ああそっちの耳たぶばかりはぐはぐされるといかに甘噛みとはいえ牙がチクチクして流血してるみたいだからそろそろこっちの耳たぶをはぐはぐキボンヌ、などと、古おた特有の死語をもって切望しながらふるふると身悶えたりもする。そして正気を失ったからこそ、かくもアブナい非実在キャラによる爪先立ちの愛咬を実在レベルで幻覚できるとすれば、この発狂をもたらしてくれた長期の引きこもり、そしてその要因となった隣町のA子ちゃん(仮名)、のみならず陰険なマスゴミどもや薄情な御町内の皆様さえも、実は俺という憐れな子羊に天がもたらした大いなる福音なのかもしれない。
 ともあれ俺はすでに発狂している。これだけは厳然たる事実である。しかし発狂したにせよまだ死んでいない以上、俺はなお常人を装って一般社会に有り続けたい。ここで下手を打ったら、留置所とはタイプ違いの檻に入れられてしまう。
 俺は今さらながら、周辺に人目がないのを慎重に確認した。
 幸いにして、見渡す限りの舗道に俺以外の人影はない。建物のベランダも大丈夫そうだ。それでも脇道あたりから、久しぶりの太陽に誘われた近隣の住人が、ひょっこり散歩に出てこないとも限らない。俺は「いや私ちょっとひとりで散歩中にちょっとひとりで休んでるだけなんですひとりですよあくまで私」と全身で擬態しつつ、独り言のように小声で言った。
「……なあ、おまえ」
 こーゆーありがたい幻覚を『おまえ』呼ばわりするのはいささか気が引けたが、名前を知らないのだからしかたがない。お互いのサイズ差を思えば『あなた』や『きみ』では違和感がありすぎる。
 三毛娘は俺の首っ玉から腕を解き、まんまる目玉で見上げてきた。
「あたし今日からオマエなの?」
 爪先立ちをやめてしまうと、その頭は俺の肩にも届かない。まさに(JS+JK)÷2=の立ち位置である。そんな望ましい眼下から、萌えるようなルビー色の瞳で己の濁り目を直撃され、俺は思わず言葉につまった。
「いや、その……」
 三毛娘は、とくに不興を覚えた様子もなく、
「オマエでもアナタでも、ニャンでもニャオでもなんでもいいよ。ちゃんと召使いになってくれたら」
 呼称に対する認識の甘さは理解できたが、後の言葉が腑に落ちない。
「……おまえが俺に仕えるんじゃないのか?」
「なんでしょそれ」
「さっき自分で言ったぞ。今日からあなたが私の御主人様です、とか」
「ちがうよ。あなたの私が御主人様だよ」
 三毛娘は胸を張って断言したのち、
「あ、ごめん。ちょっとバッテン」
 てへ、などとわざとらしく小首を傾げ、
「じゃあ、もっぺん。えーと、『今日から私があなたの御主人様です!』」
「…………」
「今のがマル!」
「……そうか、それが丸なのか」
「うん、ハナマル!」
「……花丸なのか」
「うん!」
 なるほど、そうとあってはしかたがない――。
 俺はあっさり腹を据えた。悩むまでもない。それが当然なのである。俺の脳味噌から涌いた金・銀・銅のトリプルメダリストが、万年四位の犬や俺に仕えてくれるはずはない。
「……それでは、御主人様」
 俺はこの種の主人に仕える下僕として、正しかるべき忠義の念を表明することにした。
「こちょこちょこちょ」
 これくらい人慣れした御主人様なら、そのあったかくてやーらかい顎の下の皮膚を通して、下僕が指先にこめた全幅の忠義心を、なんの疑問もなく受け入れてくれるはずだ。
 案の定、御主人様は糸のように目を細め、
「ごろごろごろ」
 喉の鳴る音に合わせて、猫耳頭が微かに揺れたりする。さらに見下ろせばショートスカートの背後で、三毛色の尻尾が二本、もとい二叉一本、こっちからそっちへ羽箒のようにゆらゆらと行き来している。
 ――うん、完璧。
 これで主従関係が確定したからには、部屋に連れ帰ろうが風呂場で洗ってやろうが、すべては忠義の為せる業である。

     4

 コンビニ時代の常連さんに、外出中は常にMIBに監視されているという老婦人がいた。MIB、いわゆるメン・イン・ブラック――UFOや宇宙人の存在を一般市民に悟られてパニックが広がるのを防ぐために政府が設けた秘密機関の回し者であるとか、いや地球人になりすました宇宙人そのものであるとか諸説あるが、彼女を監視しているのは後者であった。
 顔見知りになって半年ほどたった頃、「あんたは秘密を守れそうな人だから」と常ならぬ表情でそれを打ち明けられたとき、俺はてっきり軽いジョークだと思った。ふだんの彼女にアルツやデンパの兆候は皆無だったし、「ほら今も五六人でこっちを見張ってるでしょ」などと耳打ちされて店の外を眺めても、黒ずくめの集団など無論いるわけがない。
 しかしその後も老婦人は、店に俺と彼女しかいないときを見計らって、地球におけるUFOとMIBの活動状況を、晩のおかずのレシピのように微に入り細に入り報告してくれるのだった。俺もすなおに相槌を打っていた。SFなど無縁の老婦人が語る宇宙人地球侵略の実態は、妙に地道な生活感に溢れていてトンデモなりに面白かったし、何より老婦人の人品骨柄、とくに金離れが上等だったのである。聞けば、人混みに出るとドサクサにまぎれて何をされるか判らないので、ほとんどの買い物を近所の個人商店やコンビニで済ませているらしい。そのくせ正月には浅草寺の初詣土産を店まで持ってきてくれたりもする。春には四国遍路土産、夏には伊勢参り土産、秋には奈良京都土産をくれた。それぞれ大層な人出だったはずだが、神社仏閣は地球土着の精霊が頑張っているから、宇宙人も遠慮して出てこないのだそうだ。特に観音様が苦手らしい。
 閑話休題。
 いや、閑話ではない。俺もあの老婦人のように常識をわきまえた、秩序ある狂人にならねばならぬ。
 老婦人が見ていたMIBは、俺から見れば、ただの空気だった。ならば、これから俺がなんかいろいろお仕えしようとしているこのちっこい御主人様は、他人様から見ればそも何者であるか。湿気をはらんだ梅雨時の大気の一部にすぎないのか、衰弱した子猫か巨大人面猫又か、あるいは俺の認識どおり猫耳の生えた黒ニーソのゴスロリ娘か――肝腎のそこんとこが、狂ってしまった下僕には判別できないのである。
 とりあえず空気にしとこう――。
 俺はそう決めた。第二候補が子猫あたり。まあ空気っぽい子猫、そんな感じで世間を取り繕うしかあるまい。
 空気猫、もとい御主人様は、ひとしきりごろごろと喉を鳴らしたのち、
「おなかすいた」
 猫らしくころりと気を変えて、とことこと元の茂みに分け入った。
「いい匂い」
 さっき俺が放り出した猫ミルクの皿を、四つん這いになって嘗めようとしている。
「お、おい」
 俺はあわてて紙皿を引っさらった。いかに正体は空気であれ、現状、とても看過できるビジュアルではない。その体勢だと、後ろから下穿きが見えかねないのである。ファッション相応の古風なフリフリとかならまだいいが、万一アキバ好みの極小下着など覗かせてしまったら、たとえ着エロでも摘発されてしまう。その点に関しては、ロリおたズブドロの俺だって、近頃の官憲を支持するにやぶさかではない。『萌え』と『媚態』の混同が行き着く先に、真のロリはいない。ロリおた野郎また爾り。ちなみに俺の部屋のドールたちは、みんなランドセルに相応しいグンパンあるいはズロースを穿いている。
 四つん這いのまんま「むー」などとゴネている御主人様に、俺はコンビニ袋をちらつかせて見せた。
「こっちにもっと旨いのがあるぞ」
 新人下僕の忠義をイマイチ信じきれないのか、御主人様は、さらに低い唸り声を喉の奥から発した。
「ぐぅうぅう」
 爪出し猫パンチの予兆である。
 俺は猫スープの外袋を破り、スティック状に小分けされた内袋の一本をつまみ出すと、
「ぷちっとな」
 御主人様の鼻先で袋の先端を開封し、粘液状の中身を、ちょっとだけ押し出した。
「むにっとな」
 思わせぶりに、その黄金色の香ばしい粘液をちらつかせ、
「ほれほれ」
「……うにゃあ!」
 この商品選択には自信がある。血統書付きの深窓猫から札付きのドラ猫まで、どんな猫でもにゃーにゃー鳴きまくりながらCMさながらに慕い寄ってくるという、無敵のトロトロスープである。実際、俺はこれを使って、荒川の河川敷に巣くっていた喧嘩傷だらけのボス野良に、猫じゃ猫じゃを踊らせたことがある。
「ほれほれ、ほれほれ」
「にゃあにゃあ、にゃあにゃあ」
          *
 御主人様を踊らせながら、堀端の小公園のベンチに誘導したところで、いよいよ散歩やランニングの人々が頻繁に行き交いはじめた。
 俺はスマホのイヤホンを耳に掛け、いかにも通話中のように装っていた。こうしておけば、会話の相手が空気でも子猫でも、俺を狂人と判じる通行人はいないはずだ。ありがたい世の中になったものである。近頃はちっぽけなインナーイヤータイプにもマイク機能があるから、ひとりで路上会話している常人が珍しくない。
 並んで座った御主人様は、猫スープの大袋を膝に乗せ、小袋ぺろぺろに夢中である。
「どうだ、旨かろう」
「うん!」
 余談になるが、何年か前に池袋のおたくエリアを訪ねたとき、サンシャインの前で、缶コーヒーを耳に当てて賑やかに商談している背広姿のおっさんを見かけたことがある。あれが過労による発狂だったのか大道芸人だったのか、それとも缶コーヒー型の携帯を使っていたのか、今の俺には昔の俺より判断が難しい気がする。早朝の小公園、上は泥だらけ下は絞り雑巾状態のジャージ姿で長電話している三十過ぎのニートと、摩天楼の狭間、缶コーヒー相手に路上会話している中年ビジネスマンは、アヤしさにおいてどっちが勝つだろう。
 ともあれ、俺はわざとらしく堀割の(さざなみ)を眺めたまま、隣の御主人様に訊ねた。
「――で、おまえ、ほんとに名前はないのか?」
 細かい身の上話は人目のない部屋で聞きたかったが、御主人様のちまちまぺろぺろが思いのほか長引きそうで、どうにも間が持たない。
「ミケとかチビとか、なんかあったろう」
「いっぱいあったよ。召使い、いっぱい変わったから」
 なるほど、下僕が変わるたんびに御主人様のほうが改名する、そんな認識らしい。これはやっぱり猫式だ。
「じゃあ、最近の名前――前の家での名前とか」
「エグランティーヌ」
「……フランスから来たのか?」
 俺の好きな古いフランス映画に、そんな名前の女性が出ていた記憶がある。あちらでは野薔薇を意味する人名らしい。しかし御主人様の毛色はともかく御尊顔そのものを拝見するかぎり、ちゃきちゃきの和猫にしか見えない。
「ううん、横浜だよ。そんときの召使いが、フランスの人だったの。アンドレさん。とってもスマートで、イカしたおじさん」
 自称エグランティーヌは、遠い目をして言った。
「若い頃に死んじゃった奥さんが、エグランティーヌだったんだって。だから私もエグランティーヌ。きっと、どうしてもエグランティーヌの召使いになりたい人だったんだね」
 朝の空が明るくなったぶん、御主人様の赤い瞳も細っこい猫目になっており、それもまた異様というより、むしろかわいい。
「とっても優しい召使いで、すっごく大きなお屋敷で、お庭が広くて、木もいっぱい生えてて、ご飯はお肉とかお魚とか、おいしいものいっぱいくれて」
 どうやら金満家の異人館に住んでいたらしい。もしかして現在のファッションも、実はアキバ系ではなく、おフランス系の古衣装なのだろうか。
「でも、だんだんシワシワになって、死んじゃった」
 もとエグランティーヌは、逆ペットロス症候群のように沈んだ声で言った。
「お屋敷もヘンになっちゃった。知らない人がいっぱい、行ったり来たり」
 おおかた相続税対策で、ホテルにでも改装されたのだろう。
「召使い、みんな先に死んじゃう。お家もなくなっちゃう」
 なるほど、太古から深山に棲息したという怪猫や唐渡りの怪猫など生粋の妖怪は別状、家猫の尻尾が二つに割れて人語をしゃべったり化けたりするまでは、長い歳月が必要と聞く。まして猫又となれば寿命は半永久、どうしたって下僕(かいぬし)のほうが先に亡びる。
「俺は見てのとおり栄養満点だから、たぶん長生きするぞ」
 御主人様は頼もしげにうなずいた。
「うん。血も濃くって、おいしいしね」
 俺はぎょっとして耳たぶに手をやった。あれは愛咬ではなく味見だったのだろうか。それでも、メタボは早死に確実などという最近の俗説に染まっていないのがありがたい。肥満が美徳とされていた、古き良き時代に育ったのだろう。
「じゃあ、その前は? やっぱり横浜の近所か?」
「えーと、京都ってとこ」
 ほう、西から東海道を下ってきたのか。
「京都にいるときは、シノブと呼ばれたの」
「ほう」
「神戸じゃナギサと名乗ったの」
 これはなんだか盗作っぽい気がする。いつも親父がカラオケで歌いまくっている演歌と同じだ。
「……マジか?」
「うん」
 ウケ狙いではなさそうだった。
 まあ考えてみれば、どのみち俺の脳味噌から生まれた幻覚なのだから、キャラ設定に小林旭の懐メロが紛れこんでも不思議はないのである。本来なら横浜(ハマ)ではヒロミになるところを、フランス人のネーミングにヒロミはおかしいから、俺自身が無意識の内に好きな洋画でカバーしたとか。
「あと、決まった召使いがいないときは、ニャンコ、ネコチャン、ニャンニャンとか、オマエ、キミ、あとソナタとか、なんかみんな色々」
 ソナタだけ違和感があるが、これもまあ幻覚の言うことだから、やっぱり俺自身の記憶の欠片が、何かのはずみで紛れこんだのだろう。無学な俺だって、音楽用語の『ソナタ』くらいは知っている。
「でも、いっとー好きだったのは、やっぱり生まれて初めてもらった名前かなあ」
「ほう、初めはなんてった」
「タマ」
「そうか、ミケじゃなくてタマだったのか」
「うん、龍造寺さんちのタマちゃんだよ」
 ほう、化ける前は、ずいぶん立派な姓の家で飼われていたらしい。
 待て――龍造寺?
 俺は自問を含めて反復した。
「……龍造寺?」
「うん」
 竜造寺家といえば、古典怪談おたく御用達の超有名化け猫伝説――いわゆる鍋島猫騒動――あれの立役者ではないか。
「……おまえ、いったい今いくつなんだ?」
「やっぱりオマエよりタマがいいなあ」
「タマは今年でいくつだ?」
「知らない」
「いや、大ざっぱでいいから」
「忘れた」
「龍造寺又七郎さんとか知らないか?」
「マタシチロウ? 知らない」
 おっと、言われてみれば又七郎は、講釈ネタの非実在青年だったような気がする。
「じゃあ、えーと――高房さんは?」
 おぼつかない記憶をたどって訊きなおすと、タマは満面の笑顔で、
「うん! いっとー最初の召使いだよ。おじさんも知ってるの?」
「南の国の殿様だよな」
「うん、とっても偉い人!」
 とゆーことは――もしかして先の発言にあった『ソナタ』は、『冬のソナタ』とかの『奏鳴曲(ソナタ)』ではなく、時代劇とかの『おまえ』や『あなた』――その『そなた』?
 
 
 
 

第二話 愛と死を煮つめて

 

     1

 龍造寺タマ様がちまちまぺろぺろしている間、俺はスマホをつるつるして、自分の記憶を再確認した。
 鍋島騒動とは、肥前の国、現在の佐賀県と長崎県あたりを舞台に、豊臣秀吉の時代に端を発し徳川家康の時代に本番を迎えた、佐賀藩誕生をめぐる根深い権力闘争である。最終的には、もともと主君だった竜造寺家を家臣の鍋島家がなんかいろいろ凌駕して、初代佐賀藩主の座に着いた。
 そうしたズブドロのお家騒動が起こると、判官贔屓の日本では、敗者の怨念が勝者に祟るという怪談話が、もれなくオマケでついてくる。鍋島騒動においては、龍造寺家の亡者連中がイマイチ迫力不足だったのか、その家の飼い猫が、堂々代打に立つことになった。それが鍋島猫騒動――今に伝わる怪猫伝説の代表格である。
 当然ながら、実在した鍋島家や龍造寺家のごたごたと、そこから派生した怪猫伝説と、その両方を混ぜこんだ創作物には、それぞれ大きな差異がある。しかし又七郎さんが非実在青年であり、実際に非業の死を遂げたのが高房さんであることは間違いないようだ。もちろん史書には猫など登場しないし、巷間の伝説でも怪猫自身の呼称は定かではないが、後世の芝居や講談や怪談映画では、たいがい龍造寺家の愛猫『たま』が、鍋島家に忍びこんで壮絶に化けまくっている。『たま』自身にしてみれば、龍造寺家の誇り高き主として、忠実な召使いを奪った宿敵に、きっちり白黒つけたというところか。
 うわ御主人様すげえ――俺は感服してしまった。思えばあの老婦人が見ていたMIBも、細部の造りこみがハンパではなかった。ロズウェル事件に関わった米軍がCIAを通じて日本の内閣調査室に渡りをつけ、総理大臣の密命を受けた陸自の別班がMIBの行動を密かに追跡したりしていた。基本のトンデモを細部のリアリティーでいかに糊塗するか、そこに正しい幻覚者としての資質が問われるなら、俺もまんざら捨てた狂人(もの)ではない。
 とまあ、夢中でスマホをいじりながら我と我が身に感嘆していると、
「むー」
 隣の御主人様が、猫スープの最後のスティック袋をあぐあぐとしがみながら、ごきげん麗しからぬ声を発した。
前菜(オードゥブル)がなくなりました。おじさん、主菜(プラ)魚料理(ポワソン)を出しなさい」
 おお、おフランス方向も完璧だ。
 ここまでリアルな幻覚様には、俺も正しく名乗らねばなるまい。
「俺は太郎だ。荒川太郎。太郎と呼んでくれ」
 お前は区役所の記入見本か、とツッコまれそうな姓名だが、本名なのだから仕方がない。
 御主人様は、やっぱり不機嫌そうに、
「セバスチャンがいいなあ」
 それがアルプスの少女ハイジ級のクラシックな召使いを意味しているのか、それとも近頃の黒っぽいイケメン執事なのか、新旧ともに親しい俺には判断できない。御主人様のファッションと同じ次元の謎である。
「太郎でがまんしろ。家に行けば、ちゃんと魚が出るぞ」
「お魚!」
 タマ様はこだわりのカケラもなく破顔すると、俺の背中にがしがしよじ登り、肩車状態になって、びし、と前方を指さした。
「さあ太郎、お魚めざしてレッツラ・ゴー!」
 いやそれは猫のセリフじゃないぞ、と俺は思った。
 でもまあ同じ赤塚先生のキャラに猫のニャロメがいるから、ギリギリ許容範囲ということで。
          *
 幼稚園児くらいなら肩車するのも楽だろうが、(JS+JK)÷2だとさすがに重たい。
 しかし公共の場において幻覚を持ち運ぶには、うってつけの体勢である。猫と手を繋いでルンルン散歩したり、空気を優しく胸に抱いて歩いたりしたら、なんぼ「いや私ちょっとひとりで散歩してるだけなんですひとりですよあくまで私」と主張しても、常人扱いされない恐れがある。
 また同時に、タマが「♪ おっ魚、おっ魚~~ ♪」などといいかげんなメロディーの魚賛歌を口ずさみながらむにむに体を揺する手応え、いや首応えは、常々ロリのまたがる自転車のサドルになりたいと願っていた俺にとって、なかなか得難い感触である。
 しかし――。
 我が家方向に遊歩道を遡るうち、その首筋の感触が、俺にはなんだかとっても不可解なものに思えてきた。やたらむにむにするのみならず、予想以上に生暖かい。この蒸れ具合は、どうも布の感触ではない。猫皮でもない。まして空気の感触でもない。
「……おい、タマ」
「お魚?」
「いや、そうじゃなくて……あの……おまえ、パンツ穿いてるよな」
「パンツって何?」
「いやその……穿いてるだろう、ふつう。えと、その、スカートとかズボンの下に」
「あ、知ってる知ってる」
 知っていればいいという問題ではない。
「でも龍造寺さんちじゃ、男の人しか穿いてなかったよ」
 うわ時代考証がとっちらかってる――俺は愕然として棒立ちになった。
 いや、ウスラボケっと突っ立っている場合ではない。
 とり急ぎ、人目につかない木立の陰に身を隠し、
「……下りろ」
「やだ」
「いいから下りろ」
 俺は両腕を上げてタマの腰を掴んだ。
「やだやだやだ」
 ご存じの方も多かろうが、下僕の肩や膝でくつろいでいる尊大な御主人様を下僕側の都合で無理に下ろそうとすると、しばしば下僕の体表に甚大な被害が及ぶ。
「あだだだだだだだ!」
 抵抗するタマをようやく地べたに据えたとき、俺の顔には無数の細傷が縦横斜めに走り、推定二十本以上の髪の毛が毟りとられていた。
「むー」
 ジト目で俺を見上げているタマ自身に、責任がないのは明らかである。俺の幻覚の不備なのだから、すべては俺のハンパな脳味噌が悪い。しかしそれでもやっぱり腑に落ちないのである。確かに俺はロリのまたがる自転車のサドルを常々憧憬していたが、力いっぱい自己弁護させてもらえば、望んでいたのはあくまでロリのショーツやホットパンツやスパッツやジーンズの感触であって、萌えはじめたばかりの密やかな和毛の感触などでは絶対にないし、ましてタマのごときツ●マ●など言語道断である。裸で自転車にまたがるロリを、俺の美意識は断じて容認しない。しかし――現にタマがパンツを穿いていない以上、もしや俺の深層心理は、ロリの裸エプロンのみならず裸チャリンコまで認めてしまうほど腐りきっているのだろうか。
 俺は自己の実存に関わる根源的な懐疑から目をそらすべく、虚ろな笑顔を浮かべて言った。
「……買ってやろう、パンツ」
「いらない」
 タマはそっけなく返した。
「お願いだから穿いてくれ」
 俺は涙ぐみながら懇願した。
「めんどくさい」
 あくまで乗り気薄のタマだったが、俺の頬をつたう熱い涙を見上げると、さすがに憐憫の情を浮かべ、
「――ま、いいか」
 ゴスロリ衣装の腰回りを、なんじゃやらぱふぱふと整えたのち、
「これでいい?」
 そう言って、いきなりスカートをまくり上げた。
「はい、パンツ」
 俺は反射的に数歩すざざざざと後ずさっていた。
 こ、これは……これはもはや……ふ●どし祭りの女児!
「違ーう!」
 俺は絶叫し、がっくりと地べたに膝をついた。
 頭の中で、あの樹海に消えたアキバ系老師の声が、俺の魂を怒濤のように翻弄していた。
「前世紀が遺した唯心論的な『禊ぎ』の蕾たちは、断じて今世紀の唯物論的な『穢れ』に晒してはならない」――ならば今、思わず(よこしま)な方向で激しくときめいたりしてしまった俺自身もまた、大らかな昭和の祭りを唾棄すべき平成の不寛容で貶めようとする『穢れ』の一員にすぎないのか――。
「――違う!」
 俺は両の拳で地べたを乱打しながら慟哭した。
「違う! 違うんだ!」
 頭上から『禊ぎ』の声が聞こえた。
「あーもうこのおじさんなんかめんどくさい」
 でも使えそうな召使い、他に見つかんなかったしなあ――そんなぼやき声ののち、
「がっぷし!」
 いきなり視界を覆った暗黒の中、覚えのある顔面べろべろ感と首ぶんまわし感を再体験しながら、俺は思った。ああやっぱり俺みたいな寸足らずはまともな発狂さえかなわず自らが産んだイドの怪物に丸かじりされる定めだったのだ――。
「はぐはぐはぐはぐ」
 今回はやけに味見が長いが、どうですべては俺の自業自得、今さら何をも恨むまい。どうぞこのまま彼岸に引導よろ――などと死による免罪を希うことしばし、
「ぺ」
 俺の目に、ふたたび朝の光が戻った。
 一瞬、あの巨大人面猫が眼前に立ちはだかっている気がしたが、改めて目を瞬けば、俺の前に立っているのは、あくまでゴスロリのタマだった。
「なるほど太郎の言わんとしている意味がだいたい見当がつきました」
 タマは厳かに言って、スカートをまくり上げた。
「はい、パンツ」
 豊かなフリフリに縁取られた、ドロワーズだかズロースだか判然としない丈長の純白物件が、そこにあった。
「おお……」
 これこそが俺の正しい幻覚――。
 そう、ゴスロリスカートの内部にあるべきは、グンパンやブルマーではなく、ざーとらしい白水着やヒモパンやTバックでもなく、まさにこの提灯型物件なのである、かてて加えて、さっきは見受けられなかったフリフリのペティコートまで、スカートと一緒にまくり上げられているではないか。
 俺は思わず合掌していた。
「なまんだぶなまんだぶなまんだぶ」
 なんだかよくわからんが、とにかく俺は此岸の生を許されたのだ――。
 そのとき背後から、
「ひ!」
 と甲高い声が響いた。悲鳴を上げようとして上げる前に飲みこんでしまった、そんな悲鳴だった。
 うわしまった、いつのまにか第三者が――。
 仰天して振り向くと、木立の向こうの舗道からこちらを窺って立ちすくんでいるのは、赤いランドセルのボブショート娘――忘れもしないA子ちゃん(仮名・当時小学五年生・十一歳)だった。いや正確にはA子ちゃん(仮名・現在推定六年生・十一歳か十二歳か訊かないと判らない)である。両の拳を口に当て、ヤダヤダウッソーとふるふるしている姿は、まるで昭和のブリっ子のようだ。
 俺は対処に窮し、合掌ポーズのまま首だけそっちに向けて、A子ちゃん(仮名)の澄みきったまんまるお目々を、自前のニゴリ目で阿呆のように直視するしかなかった。
「あ――」
 とりあえず「あの」と声をかけようとした瞬間、A子ちゃん(仮名)は弾よりも速いエイトマンあるいは加速スイッチをONにしたサイボーグ009島村ジョーのごとく、びゅん、と消失した。
「うぁぁぁぁ!」
 長い悲鳴とランドセルのかたかた揺れる音が、超加速から生じるドップラー効果によって周波数を低めながら、彼方の推定小学校方向に遠ざかっていった。
「……なんでしょあれ」
 パンツ丸出しのまま、タマが言った。
「あ、いや、ちょっと……」
 俺は言葉を濁した。
 思えば俺の幻覚をA子ちゃん(仮名)が共有できるはずはない。彼女が目撃したのは、あくまで忘れてしまいたい過去の遺物が、なぜか植えこみの奥の地べたにひざまずいて泣きながら虚空を礼拝している姿なのである。いつもの通学路でいきなりそんなシロモノに遭遇したら、俺だって即行トンズラこく。
 ――ま、いいか。
 俺はここまでのアレコレを、脳内で強制初期化することにした。
 ――うん、今後の予定に問題なし。
「肩車していいぞ、タマ」
 タマはなんの屈託もなく、がしがしと背中によじ登ってきた。
「♪ おっ魚、おっ魚~~ ♪」

     2

 前述したように、俺の家はバブリーな住宅街の片隅に残された戦後復興期遺産である。直下型が来たらすぐさま倒壊炎上し、周囲に残った真新しい耐震耐火建築物の狭間、そのちっぽけな焼け跡にだけ三丁目の夕日が沈む。
「ほう、今日からここが私の家ですか」
 タマは玄関口を眺めるなり、もぞもぞと自分から俺の肩を下りた。なにしろ軒が低い。客を肩車したまま中に案内したら客の腰骨が折れる。赤ん坊だと首がもげる。
「……とりあえずマル!」
 同じ木造でも大名屋敷級と思われる竜造寺家や、横浜のハイカラ異人館に比べれば犬小屋に等しいであろう弊屋に、タマは意外なほど動じなかった。まあ元が猫ならば、どれほど広壮なお屋敷であれ、わざわざ物陰に潜りこんで丸くなるのを好むはずである。
「黙って俺についてこい」
「ラジャー」
 上がってすぐ横にある台所を覗くと、安食堂のようなちっぽけなテーブルで、お袋がぽつねんとお茶をすすっていた。親父はとっくに出かけたはずだ。お袋のパートは九時からだから、まだ少々の間がある。
 俺は、ちょと待て、と背後のタマを制し、ひとりで台所に入った。
「ただいま」
 半年ぶりに俺からその言葉を聞いたお袋は、なかなか腫れの引かないできものからやっと膿が出た、そんな微妙な笑顔で言った。
「おかえり」
 テーブルの上には、伏せられた空の飯茶碗と味噌汁椀、そして小ぶりの蠅帳を被せた朝のおかず一式が、人待ち顔で並んでいた。お袋も親父も、根っからの下町育ちなのである。もちろん世間並みに電気炊飯器や電子レンジも使うが、今どき折りたたみ式の蠅帳がある家は珍しい。
「あとで食う」
 俺は蠅帳を上げ、皿から鯵の干物をつまみ上げた。親父の好みで、特に薄塩の干物を近所の魚屋に調達させているから、猫に食わせても問題ないはずだ。
「これだけ先にもらう」
 そのままあっさり踵を返しては、なんだかお袋に申し訳ない気がしたので、
「あと……俺、また仕事探すから」
 幻覚のくせに餌だけはしっかり消費する御主人様を家に連れこむ以上、今後は自前で向き向きの餌を調達しなければならない。
 お袋の顔に、小学校の入学式で保護者席から俺に向けていたような、混じりけのない微笑が浮かんだ。
 俺がついうるうるしそうになっていると、
「お魚?」
 いきなりタマが横から顔を出した。
「おう、アジの干物! 久しぶり!」
 それでも苦労猫らしく、しっかりお袋に頭を下げて、
「これはこれは太郎のお母様でいらっしゃいますか。わたくしタマと申します。今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。わたくしけして贅沢は申しません。でも味噌汁ご飯とクサヤだけはご勘弁くださいね」
 いやどうせ見えないし聞こえないから――。
 俺が思わず苦笑していると、お袋の手から湯飲み茶碗が抜け落ち、ごとばしゃ、とテーブルに転がった。
「………………」
 なぜかお袋は、さっきのA子ちゃん(仮名)の倍以上、両目を見開いていた。
「………………」
 まさか――見えてるのか?
 しかし、いかに血を分けた親子とはいえ、幻覚まで同調するはずは――。
 お袋は目をむいたままゆらりと立ち上がり、生きる屍のような足取りで、こちらに歩み寄ってきた。
 あわてふためく俺をやりすごし、
「……ごめんなさいね、お嬢ちゃん」
 そうつぶやいて、タマの両肩にそっと手を添え、
「……あなたは、あなたのお家にお帰りなさいな」
 今は優しく細まったお袋の目頭から、ひと筋の涙がこぼれ落ちた。
 タマはきょとんとして、ふるふる頭を振っている。
 次の瞬間、お袋は俺を振り返り、眼窩から目玉を半分以上も露出させて、鬼のように咆哮した。
「――お前って子は!!」
 俺は、わしっ、と頭髪を鷲掴まれ、そのまま台所の流しまでぐいぐいと引きずられた。
「あだだだだだだ!」
 お袋は片手で俺の後ろ頭を流しに押しつけ、
「死んでこの子にお詫びしなさい!!」
 横の包丁立てから手近な一本を引き抜くと、その柳刃の鋭い切っ先を、真正面から力いっぱい俺の眉間に振り下ろした。
「どわ!」
 俺は反射的にお袋の手首を掴んだ。
 ズブリの直前で、からくも刃先が止まる。
「待てお袋! 俺の話を聞け!」
「問答無用!」
 お袋はぎりぎりと手首を震わせながら、唸るように言った。
「十年前に殺せばよかった……」
 賽の河原の奪衣婆もチビりそうな形相で、
「よもや生身の子には手を出すまいと……信じた私が馬鹿だった!」
 十年前――それは俺が最初のボークスにランドセルを背負わせた頃である。
「お願いだから待ってくれ!」
 眼前に迫った切っ先の、最後の数ミリを満身の力で堪えながら、俺は言った。
「この柳刃は雲州の作だろう。大事な結婚記念だろう」
 伊達に三十何年も親子をやっていたわけではない。お袋の弱点は知りつくしている。
「刃こぼれしたら研ぎだけで何万だぞ」
 瞬時、お袋がためらった隙を突き、俺はお袋を払いのけ、台所の床をワニ化したカバのように這って逃げた。
 間髪を入れずお袋は、ずん、と俺の背中にまたがり、
「お前を殺して私も死ぬ!」
 俺はお袋の左利きの軌跡を察し、思いきり左っ側に首をひん曲げた。
 右耳すれすれの床に、無印良品の文化包丁が、どす、と突き立った。老朽化した床板ゆえ、柄の根元まで刺し貫いてしまったのが、今はかえってありがたい。
 うんうん唸りながら包丁を引き抜こうとしているお袋の下で、俺は懸命に脱出を図った。しかし半年も引きこもりっぱなしの筋力では、長年パートで鍛えた中年主婦の底力に抗いきれない。
 包丁がぎしぎしと刃元を現しはじめ、俺の耳たぶをちりちりと掠った。
「うわ死ぬ」
 焦って刃元に目をやれば、そのすぐ先にタマがしゃがみこみ、鯵の干物をはぐはぐ囓りながら、骨肉の死闘をのほほんと観戦している。
「……何をしている」
「いや、次は太郎の活け作りが出るのかなあ、とか」
「召使いを食うのかおまえは」
「うん、ときどき」
 そうだった。こいつはそーゆー猫なのだ。龍造寺家で飼い主の死骸の血を啜った前科がある。
 ああ、飯より風呂を先にすればよかった――。
 俺がほとんど絶望しかけたとき、玄関口の方から、慌ただしく戸を叩く音が響いた。
「荒川さん! 荒川さん!」
 なんじゃやら聞き覚えのある男の声も聞こえる。
 俺はここを先途と張り叫んだ。
「助けてくれ! 殺される!」
 世間様参入の予感に、かえって逆上したお袋は、
「観念しなさい!」
 ついに、みしずぼ、と床板から包丁を引き抜き、
「母さんもすぐに逝きます!」
 背中の上で、お袋が、ひゅう、と息を吸い、文化包丁を振り上げる気配がした。
 俺も、ひゅう、と息を呑んだ。
「殺してはいけません!」
 間近で例の男声が響いた。
「刃物を放しなさい、お母さん!」
 台所の戸口に、近所の交番のお巡りが立っていた。
 黒光りする拳銃を、びしっ、とこちらに向けて、
「何があったか解りませんが、人を殺してはいけません。まして実の息子さんを殺してはいけない。どんな事情があったとしても、後には禍根しか残りません」
 異議なし!
「人を殺していいのは刑務官だけです」
 ……ちょっと異議あるけど異議なし。
 まあこの若いお巡りは、正直すぎて失言の絶えない公僕なのである。お袋や親父とは配属以来の顔なじみだし、俺も半年前の騒動で少なからず顔を合わせた。
「ふう……」
 お袋は肩を落とし、包丁を床に放り出した。
「……お上の裁きにお任せします」
 力なくお巡りに頭を下げ、
「懲役にでも……死刑にでも」
 いや司直丸投げも困る。本来そーゆー事態ではない。
 でもまあそこんとこは追々申し開きすればいいか――ひとまず死線を脱した俺は、お袋の下からずりずりと這いだした。お巡りも安堵して拳銃を腰に戻す。
 そのとき、
「逃がしちゃだめ!」
 お巡りの後ろから、なぜかA子ちゃん(仮名)が飛び出してきた。
「そのおじさんは変態です! 少女の敵です! すぐに射ち殺してください!」
 ア●ネス・●ャンばりの金切り声に、俺は仰天してしまった。お巡りもお袋も反応に窮している。今現在の俺が変態であるかどうかはともかく、少なくともA子ちゃん(仮名)がらみの一件において、俺が純粋な被害者だったことは関係者全員が納得しているはずだ。
 お巡りはA子ちゃん(仮名)をなだめるように言った。
「だから、とりあえず交番に、ね?」
 A子ちゃん(仮名)は一歩も引かず、
「さっき言ったでしょ! そのヘンな子にヘンなことしてた! 現行犯だよ! おまけに家まで連れこんで!」
 おお、とゆーことは、やっぱりタマは実在キャラだったのだ。誰にでも見えるのだ。ならばA子ちゃん(仮名)が学校ではなく交番に駆けこみ、お巡りが泡を食って被疑者宅に飛んでくるのも道理である。
 お巡りはちょっと逡巡したのち、横で鯵の尻尾をカリカリ囓りながら日和っているタマに、あらたまって訊ねた。
「えーと、お嬢ちゃん」
 いわゆる猫なで声だが、あくまで一般の女児に対する猫なで声だった。タマのリアルな猫耳や二叉尻尾も、コスプレの一部くらいに思っているのだろう。
「お嬢ちゃんは、この太郎君に、その、何かヘンなことされたかな?」
 タマは、のほほんと答えた。
「ううん。美味しいものもらった」
「でも、えーとその、その後でスカートめくられた、とか」
「ううん。あたしがめくった」
「じゃあ、なんか、騙されてここに連れてこられた、とか」
「ううん。あたしが案内させた」
 相手が児童であるかぎり、それらの行為も今どきは大人側の犯罪になってしまうが、まあ初犯ならせいぜい書類送検止まりである。俺のほうから「幻覚だと思った」などと非常識な弁解を――いや事実なんだが、とにかく下手を打たないかぎり、事態はこれ以上紛糾しない。
 俺はタマを見習って、のほほんと日和ることにした。
 それにしても、タマが正真正銘の実在キャラだとしたら、世の官憲は、この事態にどう対処するのだろう。なにせ猫耳も尻尾もモノホンの、いわゆるUMAなのである。戸籍や住民登録だって、佐賀にもどこにも存在しないはずだ。おまけにときとして化けたりもする。
 これは今世紀の文明社会にコペルニクス的転回をもたらす大事件かもしれんなあ――などと、ほとんど他人事モードで日和っている俺に、
「……許せない!」
 A子ちゃん(仮名)が叫び、あろうことかあるまいことか、お巡りの隙をついて腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。もとより拳銃はランヤードでお巡りのベルトに繋がっているが、カールコードと同じで子供の力でもびよんびよん伸びる。
「うわこらうわ!」
 とっちらかって奪い返そうとするお巡りを、A子ちゃん(仮名)は刑事アクションなみの迫力でびよんびよんと威嚇しつつ、
「……信じてたのに……荒川さんだけは信じてたのに……」
 つぶやきながら、びし、と銃口を俺に向け、
「この浮気者!!」
 なんなんだそりゃいったいどーなってんだ――。
 真っ白いウニとなった俺の脳味噌めがけ、A子ちゃん(仮名)は、ぐい、とトリガーを引いた。
 俺はもう覚悟も絶望もせず、ただA子ちゃん(仮名)の理解不能な言葉を、なぜか無性にありがたく反芻していた。
 ここで念のため、別に命が惜しくないから余裕こいていたわけではない。このお巡りくらい律儀な公僕だと、拳銃をホルスターに収める前に必ず安全装置をかける。
 案の定トリガーを引ききれず、かちかちくいくいと焦りまくるA子ちゃん(仮名)の手から、ようやくお巡りは拳銃を引ったくった。
「ほんまにもうエラいこっちゃコレモンやがな」
 実は関西出身らしい。
 A子ちゃん(仮名)が、わっ、と泣き出した。
 そのままわあわあ泣き続けている。
 俺はA子ちゃん(仮名)のわななく肩に、そっと手を置いて言った。
「……信じてもらっていいぞ。俺は絶対に君を裏切らない」
 なんだかよくわからない思いこみや偶発的な勘違いで殺されかけたにせよ、女児の涙を看過できる俺ではない。女子小学生は無条件で俺より貴いからである。
 女子小学生には、いや女子小学生にも女子中学生にも、そしてたぶん猫にも、それぞれの重い荷物がある。何かと思いつめそうなこの子が半年前に家出を決行したのだって、誰にも言えない荷物が重すぎたからだ。だから俺はあのとき、いっさいこの子を責めなかった。もっとも相手が男児や大人だったら、陰に日向に死ぬまでネチネチいじめ続けるだろうが――。
 なんだかよくわからないまま、もっともらしく自己完結している俺のジャージを、タマが横からつんつんと引っぱった。
魚料理(ポワソン)がなくなりました。おかわりを出しなさい、太郎」
 そう、このタマにだって、きっと重い荷物が――まあ昔はあったはずだ。今はないかもしれないが。

     3

 交番の壁の時計は、もう十時を回っている。
 受付の奥の机で番茶を啜りながら、A子ちゃん(仮名)が言った。
假名暎子(かりなえいこ)です」
 並んで番茶を啜りながら、まんまやないけ、と俺は言わず、
「どういう字を書くの?」
「えーと、ちょっと説明しにくいんで――」
 A子ちゃんはパイプ椅子の背に掛けていたランドセルから一冊の学習帳を取り出し、裏の名前欄を示した。
 なるほど、これまで『A子ちゃん(仮名)』だとばかり思っていたのは粗忽な俺の勘違いで、実はとっくの昔に、どこかで実名を耳にしていたのかもしれない。そして暎子ちゃんは去年の騒動以前から、俺の姓名を知っていたそうだ。コンビニ従業員はフルネームの名札を付けているし、実在の女児に手を出す度胸はない俺も、相手が店の客ならなんとかマニュアル以上の会話を交わせたのである。
「これから登校したんじゃ、もう二時間目の途中くらいかな」
「いいんです。どうせ学校の授業なんて、塾より何週も遅れてるし」
 おお、と俺は目を見張った。俺なんかインフルエンザで小学校を五日休んだだけで、それっきり全教科、卒業するまで落ちこぼれ続けた。あらためて見れば暎子ちゃんの顔立ちにも、まるまっこい髪型に似合わぬ知性の光が感じられる。無論それは子供なりの狭い知性であり世間知とは別物なのだろうが、俺はこーゆー『いいんちょ』タイプの女児にも惹かれるたちなのだ。とくに、ふだんクールないいんちょが、ある朝に限ってなぜか泣きはらしたあとのはれぼったい瞼などしていたら、無条件で生涯の忠誠を誓い、命を張ってやりたくなる。ただし男の委員長だと、泣こうが笑おうが知ったことではない。
 ところで現在、なんで俺と暎子ちゃんが、交番の机で水入らずのデート状態になっているのか。
 それは、ここに配属されているふたりのお巡りが、奥の一室で、タマの取り調べにかかりきりだからである。
「うにゃにゃにゃにゃあ!」
 明らかに苛烈な爪出し猫パンチを伴ったタマの怒声も、扉越しに聞こえてくる。
 暎子ちゃんが眉をひそめて言った。
「……ほんとに猫なんですね。近所の野良猫が、ときどきあんな声でケンカしてます」
「うん、化け猫なんだ」
 俺はしみじみと番茶を味わいながら言った。
 奥の様子は気になるが、公僕の職務に一般市民が四の五の口を挟んでもしかたがない。そもそも不特定多数の猫を扱ったことのない素人が、不用意に猫に接するのは自殺行為なのである。いわんや猫又においてをや。
 まあ最悪、ふたり揃って巨大人面猫に屠られたとしても、警官ならば立派な殉職である。あの若いお巡り――椎名巡査は独身と聞いているから、それなりの弔慰金が親御さんに渡るだろう。中年の上司――田所巡査長は妻子持ちらしいから、けっこうな遺族年金が残された奥さんに支給されるはずだ。
 やがて奥のドアが開き、その上司、田所巡査長が悄然と現れた。顔面の皮膚が(ささら)のごとく切り刻まれ、顎から胸まで血塗れになっている。それでも頸動脈が無傷なのを見ると、タマの変身巨大化は回避されたらしい。
「荒川君……」
 田所巡査長は、交番の床にぽたぽたと血を滴らせながら言った。
「……アレは本当に堀割で拾ったのか?」
「はい」
「……実はショッカーの秘密基地から連れてきた、とか」
 前言撤回、やっぱりタマは変身したらしい。
「俺は確かにおたくですが、そこまで古くありません。そもそもジャンル違いですし」
「……そうか」
「椎名さんは無事ですか?」
「弁当の身欠き(にしん)を献上して、なんとか懐柔してる。しかし、いつまで保つことやら」
「チャオちゅ~る、とくにボーノスープのカツオだしが効きますよ。このあたりでは、俺がいたコンビニにしか置いてありませんが」
 そう、チャオちゅ~るシリーズなら、なんでもいいわけではない。汎用性に差があるのだ。猫も個体によってずいぶん食性が違う。野良猫懐柔歴の長い俺は、そのスープがマタタビよりも強力であることを知っていた。
「ありますよ、カツオだしボーノ」
 暎子ちゃんが言って、ランドセルから例の袋をつまみ出した。
「どうぞ、使ってください」
 まさに俺が品揃えしたアイテムである。
「ありがたい! あとで必ず返すから!」
 田所巡査長は暎子ちゃんを拝むようにして袋を受けとり、勇躍、奥の部屋に戻っていった。
 ほーら猫ちゃん、おいしいペロペロちゃんだよう――そんな猫なで声が何度か聞こえ、修羅場が再開する気配はない。
 俺は感心して暎子ちゃんに訊ねた。
「アレいつも持ってるの?」
 暎子ちゃんはそれに答えず、なぜかスマホをつるつるし、呼び出した画像を俺に向けて言った。
「こーゆーのが趣味なんです」
 液晶画面では、あの荒川河川敷の凶悪野良ボスが、みごとに腹を上にして大の字に寝そべっていた。別人、いや別猫のようにくつろいで目を細め、虎縞とも斑ともつかぬ腹一面には、舶来菓子を彩る粉砂糖のように白いナズナの細花が散りばめられている。
「……おみごと」
「今年の春に撮りました」
「俺なんか、あいつを陥落(おと)すのに一年かかった」
 暎子ちゃんは、さらにスマホをつるつるすること数秒、
「あと、こんなのも」
 今度の画像は、一見平凡な遠景写真だった。大都会にしては葦原の多い長閑な川原、青空を映してきらめく水面、その向こうに延々と続く首都高の高架、さらに彼方で異物のようにトンガっているスカイツリー。東京の下町写真としてお膳立ては整っているが、画面全体が傾いているし、構図もてんでんばらばらである。ただシャッターを押しただけの素人写真にしか見えない。
 でもやっぱりここは褒めてあげたほうがいいかな――などと日和っている俺に、暎子ちゃんは悪戯っぽく頬笑んで、写真の片隅に写りこんだ土手の上あたりを、つるりとピンチアウトしてみせた。
「去年の秋に撮りました」
「……あ」
 俺は言葉につまってしまった。
 めいっぱい拡大された荒いジェイペグ画像の中央で、ぶよんとしてしまりのない青年だかおっさんだかが、同じボス野良に猫じゃ猫じゃを踊らせていた。引きこもる前の、万年非正規労働者らしからぬシヤワセそうな俺の顔は、混じりっ気なしのウスラバカに見えた。
「……ごめんなさい」
 暎子ちゃんが、消え入りそうにつぶやいた。
 見れば暎子ちゃんはもう笑っておらず、なぜかまた泣き出しそうな気配である。
 つまり彼女は、そんな開放的なウスラバカを自分の嘘で閉塞的なウスラバカにしてしまったことに、ずっと心を痛めてくれていたのだろう。あのボス野良につきあってくれたのも、姿を見せなくなったウスラバカの代理、そんな気持ちがあったのかもしれない。
「いやいやいやいや」
 俺はぶんぶんと頭を振った。
 やはり暎子ちゃんは俺より貴いのである。まだ俺の半分も生きていないのに、愛の本質が主体ではなく客体にあることを知っている。ここ半年、全ての現実から目をそらし、あの野良ボスのことなど一度も思い出さなかった俺のほうが、イキモノとしてなんぼ未熟か知れたものではない。
「ありがとう」
 俺は、解き放たれたウスラバカの笑顔で言った。
「あの野良、ほっとくとすぐ荒れるんだ」
 幸い暎子ちゃんは目頭をちょっと潤ませただけで、きわめて慎ましやかながら、子供らしい陰りのない笑顔を浮かべてくれた。
          *
 やがて奥の部屋のドアが開き、タマが姿を現した。先刻までの唸り声や咆哮とは別状、人面猫モードではなく猫耳娘モードで、その表情は弥勒菩薩のごとく安らかである。
 いっぽう続いて現れた公僕コンビは、この世の不幸をことごとく背負った聖骸布のような顔をしていた。
 タマはゴスロリ姿のまんま四つん這いになって、前足もとい両手を床に投げだし、うにゅう、とそっくりかえった。
「うにゅうううううう」
 おお、伸びる伸びる――。
 俺は思わず見とれてしまった。
 隣の暎子ちゃんも、うわやっぱ猫、と感嘆するようにつぶやいた。
 この『猫伸び』のポーズ――腰から先が際限なく伸びるにつれて腰から後ろが際限なく丸く盛り上がってゆく動作は、猫が猫であることの最たる美点ではないかと俺は常々思っている。
 長く平和な午睡の後の『猫伸び』、あるいはなんらかの欲求不満を晴らすため真新しい青畳をヤケクソでばりばり引っ掻いているうちに欲求不満であった事実そのものを忘れてしまったときの「とりあえずやるこたやったような気がするのであとはもう伸びられるだけ伸びてみるだけです」みたいな『猫伸び』は、他のイキモノが真似しても、鈍磨あるいは下品にしか見えない。いや、ウン十年前の中森明菜嬢とか、暎子ちゃんのような現役ロリならOKか。いずれにせよ猫と少女にしか許されない、高貴なる無我の表出である。
 タマは心ゆくまで伸び終えたのち、ふと俺たちを見上げ、妙に婆くさい声で言った。
「……おやおや、おふたりさん。ちょいと私が目を離した隙に、ずいぶんハッテンしたご様子で」
 暎子ちゃんは古い俗語に疎いのか「ハッテン」の真意がつかめず、ただきょとんとしている。
「まあ、召使いがツガって増えるのはいいことです。どんどんサカって兎のように増えなさい」
 ここで言う「ツガう」や「サカる」の意味も、幸い暎子ちゃんは理解できないようだ。
「ただし誰が御主人様なのか、それだけはくれぐれも忘れないように」
 タマはそう釘を刺してから、部屋の隅に立てかけてあった予備のパイプ椅子を広げ、俺と暎子ちゃんの間にごそごそと割りこませた。
 田所巡査長が無念そうに言った。
「これはもう我々の管轄ではない。とりあえず本署の指示を仰ぐしかあるまい」
 椎名巡査は安堵を露わに言った。
「SRIあたりの出番でしょうか」
 身欠き鰊の霊験か、椎名巡査は田所巡査長ほど流血していないが、やっぱりかなりの爪出し猫パンチを食らっている。こんな物騒な生き物は、早いとこ余所様に丸投げしたいに違いない。
 SRIと聞いて、俺は思わずときめいてしまった。
 Sience Reseach Institute――通称『科学捜査研究所』。ときどき『警視庁科学捜査研究所』とごっちゃにされてとっちらかる場合があるが、要は親方日の丸の科捜研では真面目に取り合えないトンデモ系の怪奇事件が起きると勇躍出動し、何が何でも科学的に白黒つけてしまうという、ときとして事件そのものより奇っ怪な民間組織である。『散歩する首』事件だの『かまいたち』事件だの『幻の死神』事件だの、設立当初の担当事件が一見オカルト寄りだったため、いっときは昭和レトロなイロモノとして一般世間から閑却されかけたが、実は昔も今も、なかなか侮れない人材を擁している。パソコンはおろかマイコンすら存在しない時代――コンピューターといえばビルの一室を占有するメインフレームを意味した昭和の中頃から、3DCGによるVRを駆使した殺人事件など、最先端科学がらみの怪事件を数多く解明しているのだ。平成も深まった現在では、遺伝子操作によるブキミな生物が湧いて出たり、やたら他人を溶かしたがるクローン人間が跳梁したり、トンデモとハイテクの境界がますますとっちらかってきて、「なんだかよくわからないアヤしげな事件はとりあえずSRIに回しとけ」、そんなノリで再び活況を呈しつつあるらしい。
「いや、SRIは事件性がないと動かないだろう」
 田所巡査長が難しげに言った。
 椎名巡査は、ちらりとタマに目をやって、
「いるだけで大事件だと思いますが」
 ちなみにその大事件の主は、今は大人しく椅子に腰掛け、香ばしく炙られたソフト身欠き鰊に例の猫スープを塗りつけながら、ちまちまとデザートを楽しんでいる。
「事件性の意味が違う。今のところ被害者もいなければ加害者もいない」
 田所巡査長は、そう断じた。さすがに年の功、自分たちの流血被害は公務上の失策と割り切っているようだ。
 若い曽根巡査は腑に落ちない様子で、
「しかし佐賀藩の侍や腰元を、片っ端から歯牙にかけたそうですが」
「何百年も昔に時効が成立している。そもそも猫のやったことだ」
「……確かに」
「変幻自在の猫娘、生まれは自称江戸時代――そんな話、下手すりゃ本署だって取り合ってくれんぞ」
「桜田門に直接連行してはどうでしょう」
「出血多量で死ぬ覚悟があるか」
「…………」
「その前に、こっちが精神病院送りになるかもしれん」
 もとより六法全書の埒外、公僕や司直の手に負える物件ではないのである。
「強いて言えば保健所――田舎なら猟友会の仕事かな」
 それも巨大人面猫オンリーの話で、女児モードのタマを檻に入れる保健所や銃殺する猟友会があったら、そっちを先に駆除しなければならない。
「あのう」
 俺は試しに言ってみた。
「よろしかったら、とりあえず俺んちで預かっときますよ」
 どのみちそうする予定だったのである。
「空腹時には外に出さないようにしますから」
 タマも「苦しゅうない」とうなずいている。
 暎子ちゃんはちょっと微妙な表情だが、俺とタマの同居を心配したのか、それとも自分の家で飼いたいと思ったのか、未熟な俺の知るところではない。
「……とりあえず、そうしてもらうか」
 田所巡査長が不承不承言った。
「保健所もUMAは嫌がるだろうしなあ」
 そのとき交番の外から、殺気だった男の声が響いた。
「お巡りさん、お巡りさん!」
 作業服姿の中年男が、泡を食って駆けこんできた。
 男の蒼白な顔には、俺も見覚えがあった。確か週に一度くらい、(いかだ)とも(はしけ)ともつかぬ小船を堀割に浮かべ、不法投棄されたゴミなどを浚って回る清掃業者のおっさんである。
 おっさんは重たそうなポリバケツを、でん、と交番の受付に乗せて、
「堀の底からエラいもんが!」
 そう叫んでから、奥に小学生がいると気づき、あわててまた引っこめた。受付の卓面には、ドドメ色に濁った液体が飛び散っている。なんじゃやら女子供には見せたくない性質の『エラいもん』を引き揚げてしまったらしい。
 おっさんにちょいちょいと手招きされ、受付から身を乗り出した田所巡査長は、むう、と呻いて腰を引いた。往年の天知茂を思わせる、苦虫を百匹まとめて噛みつぶしてしまったような顔だった。
 続いて覗きこんだ椎名巡査は、どひゃあ、と両手を挙げて後ずさった。それはもう絵に描いたような「どひゃあ」っぷりであった。
 田所巡査長の口元が、清掃業者に向かって、無音のままぱくぱくと開閉した。
 ――NA・MA・KU・BI?
 清掃業者はこくりとうなずき、その口元を、田所巡査長とまったく同じ形でぱくぱくと開閉させた。
 ――NA・MA・KU・BI!
 それぞれ四音節、あくまで発語してはいないが、口元の動きと呼吸音でなんとなく見当がつく。
 正直すぎる椎名巡査などは、御丁寧に『コレモン』のジェスチャーまで披露しているので、ますます見当がついてしまう。
 ――な・ま・く・び!?
 俺は仰天しつつも、いよいよときめいてしまった。
 大都会の堀割から生首――バラバラ事件、あるいは轢断死体――UMAやSRIよりも遙かに現実的でありながら、多くの一般人には生涯無縁な猟奇的物件である。そーゆー滅多に見られない物件は、たまたまその場に居合わせた大人のおたくとして、しっかり見ておかないと今後のツブシがきくまい。
 何事ならんとビビっている暎子ちゃんと、何事よりも身欠き鰊を優先しているタマを机に残し、俺は公僕コンビの後ろから背伸びして、ポリバケツの中身を覗き見た。
「……うわ」
 やめときゃよかった――俺は心底から後悔した。
 正しいおたくは、やはり軽々しく己のジャンルを踏み越えてはいけない。俺はあくまでロリ系&猫系のおたくであって、グロ系おたくではないのである。長く水に浸かっていたためか、あるいはもとからぶよんとしてしまりのない顔だったのか、青膨れに膨れあがった男の首は、この世の何物よりも見たくないタイプのナマモノであった。
「…………」
「…………」
「…………」
 三人揃って目を点にしている俺たちをよそに、
「――あ、これはこれは、わざわざすみませんねえ」
 いつのまに出て行ったやら、タマがおっさんのすぐ横で、ポリバケツを覗きながら言った。
「やっぱり食べ残しは、ナマゴミの日に出さないとバッテンですか?」
 あくまで「ああ、見つかっちゃった」程度の軽い口調である。
「でも顔肉って、あんまし美味しくないんですよねえ」
 確かに魚類のカブトとは違い、畜類のカシラは好悪が別れる。俺も豚のカシラが苦手だ。たいがいの猫は魚以外の獲物の頭部を食い残す。放置された鼠や雀の頭は市中でもときどき見かけるし、河川敷の草叢で野良猫が残したらしい鳩の頭を見たこともある。ヒトの頭は初めて見るが――たぶん残すのだろう。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 清掃業者のおっさんも含め、四人揃ってメガテン状態の俺たちを尻目に、
「でも、これさえあれば、きっとハナマル」
 タマは例の猫スープのスティックを取り出し、ちゅるちゅるとポリバケツに注ぎこんだ。
「いただきまーす」
 お手々のしわとしわを合わせてしあわせ、なーむー。
 それからのそりと首を伸ばしたとき、すでにタマはゴスロリ姿から、例の人面猫モードへと変貌していた。俺も初めて目の当たりにするリアルタイム変身は、一秒一四四コマの最新3DCGに匹敵するような、ショッカーの低予算怪人など裸足で逃げ出すクオリティーであった。さすがはモノホンの猫又である。
「……は……はは」
 清掃のおっさんが、虚ろな笑い声を漏らした。
「はははははははは」
 巨大人面猫が手元のポリバケツに鼻先を突っこんでも、おっさんは微動だにせず、どこぞの古寺の境内で名物化した松の古木のように、ひねこびた四肢を硬直させるばかりだ。
「食っちゃいかん!」
 田所巡査長が我に返り、反射的に拳銃を抜いた。
「食べちゃだめ!」
 いつのまに立ってきたやら、俺と田所巡査長の間で暎子ちゃんがハモった。
「そんなもの食べたら、おなか壊しちゃうよ!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 確かに消費期限を半月も過ぎた色合いだ――いや、そーゆー問題ではないよーな気もする。
「こっちのほうがおいしいよ、タマ」
 暎子ちゃんは、受付に置いた赤いランドセルから、ずる、と何かを引っぱりだした。
「ほうら、カンパチだよ」
 さすがに鮮魚ではなく、真空パック品である。
「活け締めの一夜干しだよ」
 新鮮アピールが効いたのか、巨大人面タマはポリバケツから鼻面を離し、暎子ちゃんを振り返って、
「……なおん?」
 猫語なので何を訊ねたのか定かではないが、『?』が付いたのは確かである。
 暎子ちゃんは、しっかりうなずいて言った。
「にゃおん!」
 何と答えたのか定かではないが、明らかに肯定、あるいは断定である。
 タマは再度、何事かを質した。
「うなあ?」
 暎子ちゃんは繰り返しこくこくとうなずきながら、ぴ、とパックを開封した。
「にゃおにゃおん」
 ふたり、いやひとりと一匹の間にいかなる意思の疎通があったのか、無学な俺の知るところではない。A4サイズのランドセルに、いかなる技巧で数十センチ超のカンパチのヒラキを収めていたのか、それもまた定かではない。
 ともあれ猫又と女児、微妙に視線を交わすことしばし――。
 タマはおもむろに受付に取りつくと、暎子ちゃんが程良いサイズにむしって差し出したカンパチを、束の間くんくんしたのち、
「ばくっ!」
「ほいっ」
「はぐはぐ、はぐはぐ」
「なでくりなでくり」
「うみゃうみゃうみゃ」
 元気な食いつき、適度なスキンシップ――昼下がりの動物園を思わせる、和やかな餌付け風景であった。
 
 
 
 

第三話 白っぽい巨塔とか

 
 
    1

 いわゆる『報道』という奴は、くれぐれも鵜呑みにしてはいけない。
 有料の報道が利益というフィルターで漉されているのはもとより、無料でも広告収入の絡んだ報道なら常にスポンサーの影がつきまとう。オゼゼに不自由のない公共放送だって一日が二十四時間しかない以上、報道できるのは全世界における無限の事象のほんの断片にすぎないし、どんな事象のどんなカケラを選んで報道するかは、やっぱりどこかの誰かさんのフィルターによって決まるのだ。
 以上、形だけでも義務教育を受け終えた方々ならとうに悟っているはずの事柄だが、一流大学を出たお利口なはずの方々の中にも、ハンパな報道を鵜呑みにしてとっちらかった言動に走る与太郎がしばしば混じっているようなので、念のため言っておく。
 たとえば『先日東京都内○○区の堀割で男性の遺体の頭部が発見された』という報道、これは事実である。『発見者は堀割を清掃中の業者で、さらに警察が堀割を捜索したところ、同じ男性のものと思われる白骨化した遺体の各部が次々と発見された』――これも事実。しかし、この一見凄惨なバラバラ死体が、実は鼠の頭の同類、単なる猫の食い残しであった――そんな事実を報道したメディアはいっさいない。
 さらに数日後『SRIが行った厳密なDNA鑑定によって、遺体頭部のDNAが、四年前に××市で発生した少女誘拐殺人事件の現場に残された毛髪や体液のDNAと、完全に一致することが判明した』――これも事実。四年前の事件は、そうした容疑者の検体がてんこ盛りであったにも関わらず、それがどこの誰のものであるかはまったく掴めていない状態だったから、警察にしてみれば、今回の死体発見はまさに漁夫の利だったのである。
『堀割周辺で捜査を進めた結果、近所のアパートに住む男性会社員が先月から行方不明になっており、その部屋からDNAの一致する毛髪や体液が多数採取され、警察では彼が四年前の事件の容疑者であると同時に今回の事件の被害者であると断定、引き続き堀割周辺と彼の交友関係を捜査中である』――これは大半が事実、ただし最後の件だけは、皆さんご存じのとおり大嘘である。正直に『誘拐殺人犯が化け猫に食われた』などと発表する警察や、まんま『先日都内○○区の堀割で発見された男性の遺体は化け猫が食い残した誘拐殺人犯の一部であると警察関係者からの取材で判明しました』などと報道できるメディアは、今どきの文明社会に存在しない。もしあったら俺だって困る。その化け猫が、ずっと俺の家で寝起きしているからだ。
 ちなみにここで、SRIにおけるタマ語録の、ごく一部を抜粋して紹介すると――
〈いやあ、あのぶよんとしてしまりのない変質者も、太郎のようないい召使いになると思ったんですけどねえ〉
〈卑屈な笑顔に騙された私が馬鹿でした。まさか召使いの身で、御主人様とサカろうとするとは〉
〈銀座でお寿司を奢らせた帰りに、堀割の藪でいきなり押し倒してきたんで、万やむをえず返り討ちにしました〉
〈まあ、おっしゃるとおり客観的には、鼠みたく(なぶ)り殺しにした、とも言えますね〉
〈鼠と違ってガタイだけはでかいんで、ずいぶん嬲りがいがありましたよ。半日くらいは死にきれず、すすり泣きながらのたうち回ったり、ピクピク動いたりしておりましたね〉
〈はい、鼠も変質者もやっぱり躍り食いがハナマルですから、モモとか肩ロースは、生きているうちに美味しくいただきました〉
〈カシラだけ肉付きのまんま捨ててしまったのは、今でも申し訳ないと思っております〉
〈食べ物を粗末にしてはバッテンですよね〉
〈ましてナマゴミの日でもないのに、こっそり堀割に捨てるなんて……てへ〉
 ちなみに、移り気なタマからそれらの真実を根気よく引き出したのが、SRIの牧史郎氏である。白面の貴公子っぽい御尊顔の顔色ひとつ変えないで、タマの容赦ない補食模様を賞賛するそぶりさえ見せながら聴き取りを進める様は、さすがにSRIきっての学識と分析能力を誇る切れ者――いや正直、切れ者すぎてしまいにゃマジにキレてんじゃねえかこの人――そんな端倪すべからざる人物なのであった。

     2

 召使いになって半月ばかり過ぎた朝、目覚まし時計に叩き起こされた俺は、「あーうー」などと呻きながら寝袋から這いだし、ベッドの御主人様を揺り起こした。
「おいタマ、時間だ」
 タマはベッドに丸まったまんま、ゆるゆると尻尾を立てた。二叉の根元が衣装の下に隠れているので、同じ三毛色の尻尾が二本、並んで揺れているように見える。ただし、それぞれの尻尾は別々に制御できるらしく、片方の尻尾の先はくいくいと俺の顔を示し、もう片方は、しきりにドア方向を示していた。
 言いたいことは、おおむね見当がつく。今日は俺一人でSRIに行ってこい――そう命じているのである。
 しかし俺は、あえて曲解することにした。
「そうか。召使いに運んで行ってほしいんだな。肩車がいいか? お姫様抱っこか? それとも首根っ子つまんで、ぶら下げてくのがいいか?」
 二本の尻尾はぶんぶんと拒絶の意を表したのち、理髪店のサインポールのようにくるくると縺れあって一本化し、つんつんと俺を指し示した。見ればその先端部分だけが、二本それぞれ別方向に数センチほど折れ曲がっている。
「……矢印?」
 三毛色矢印の先端がこくりとうなずき、ドア方向に、びし、とつっぱらかった。
 だからお前だけ行けとゆっとるのだ――。
 猫又とは便利なものである。尻尾だけで、ここまで明確に方向や意志を表示できる。
「呼ばれているのは御主人様だ。召使いだけ行っても埒が開かない」
 螺旋模様の矢印が、脱力したようにほぐれながら、寝姿の下に潜りこんだ。もともと丸いタマの寝姿が、さらに念を入れてもふもふと円形化した。まるで巨大なゴスロリの丸餅である。この人間体型で、よくぞここまで丸くなれるものだ。
「おいタマ、起きろ。ぼやぼやしてると迎えが来るぞ」
 俺は丸餅の真ん中あたりを、つんつん突っついた。
 ご存じの方も多かろうが、丸くなっている猫の真ん中あたりに指を沈めると、温血動物として至高の感触が得られる。ただし突っつかれた猫の反応は、あくまでケース・バイ・ケースである。
 ゴスロリの丸餅が、不機嫌そうにつぶやいた。
「……しまいにゃ血を見ますよ、太郎」
「多少の瀉血は歓迎する。俺は血圧が高いからな」
「……召使いとして御主人様に対する忠義が足りないと思いませんか、太郎」
「忠義と甘やかしは別物だ。俺の御主人様には、きっちり御主人様としての務めを果たしてもらう。それを補佐するのが正しい召使いというものだ」
「……あーもう、この召使い、なんかめんどくさい」
「今日の昼飯は鯛めしを用意しておくと、SRIの牧さんが言ってたぞ」
 タマの猫耳がぴくりと動いた。
「……鯛めし」
 ここ半月SRIに日参し、身上調査や生物学的な精査を受ける過程で、昔、東海道を下る間に静岡の駅弁屋が恵んでくれた鯛めしの思い出を小一時間も披露したのは、他ならぬタマ自身である。
「……東海軒のモノホン?」
「牧さんのことだから、いっさい妥協はないだろう」
 タマはごそごそと、丸餅から猫伸びの体勢に入った。
「うにゅうううううう」
 おお、伸びる伸びる――。
 いつもながら驚嘆すべき伸びっぷりである。
 伸びる過程で、例のパンツがスカートの後ろから露出してしまったが、俺はすでに微塵も動じなかった。なんとなれば、そのパンツのみならず黒ニーソやゴスロリ衣装のすべてが、実は着衣ではなくタマ自身の毛皮の一部であると、SRIによって解明されていたからである。なんぼ変態的な俺でも、猫の毛皮に劣情を催すほど人間をやめてはいない。
 そもそもタマの女児形態そのものが、俺の願望を反映した姿ではなかった。俺と出会う前に、別のぶよんとしてしまりのない鬼畜をはぐはぐと味見したとき、変質者を召使いにするにはゴスロリ猫耳娘姿が最適、そんな偏った脳内情報を読んでしまった結果なのである。事実、あの青膨れした首の主の部屋からは、ゴスロリの猫耳ドールがいくつも発見され、あまつさえそのことごとくがノーパンであったという。パンツと褌の違いも気にしていなかったタマが、勘違いしたのも無理はない。
 そんな事実をSRIから聞かされたとき、俺は心の底から安堵した。やはり俺は、あの老師の弟子にふさわしい『十二歳の神話』の使途であり、着衣のロリのパンツだけ脱がせるほど腐ってはいなかったのだ。今にして思えば当然の話で、もしタマが俺の脳味噌を読んで変身したのなら、抜かりなく赤いランドセルを背負い、吊りスカートの下にグンパンあるいは提灯ズロースを穿いていたはずである。
 ともあれ猫伸びを終えたタマは、すとんと床に降り立ち、身繕いの体勢に入った。
 猫とまったく同じ仕草で洗顔のみならず全身の身繕いまで済ませてしまう女児というのは、詳細に描写すればそれだけで一席語れるほど興味深い見物(みもの)なのであるが、ここではあえて省略させていただく。御主人様の名誉を守るためではない。それを語ろうとすると、その光景を見慣れる以前の召使いの心理までうっかり語ってしまう恐れがあり、俺自身の名誉が瓦解しかねないからだ。猫を飼ったことのあるロリコンの方なら、それがどれほどアブない光景か、きっと解ってくれるだろう。
          *
 身繕いを終えた御主人様に付き従って階段を下りていくと、台所から、お袋の声が聞こえてきた。
「――うん、わかるわかる。あたしも実は、後妻の連れ子だったんだわ」
「そうなんですか?」
 なぜか暎子ちゃんの声も聞こえた。
「うん。ほんとの父親は、小学生の頃に死んじゃってね」
「……あたしとおんなしですね」
「でも暎子ちゃん、別に新しいお父さんに虐待されてるとか、なんつーかその、暎子ちゃん可愛すぎて変な目で見られるとか、そんなんじゃないんでしょ?」
 いつもなら親父も起きだしている時刻だが、今朝はまだ夜勤から帰っていないらしく、女ふたりの水入らず、なかなかシビアな話題で盛り上がっているようだ。
「逆ですね。もうお母さんにべったりで。あたしにもふつうに話してくれるんですけど、やっぱりなんか確実に邪魔にされてるかなあ、みたいな感じで」
「うわ。ほんと他人事とは思えんわ」
 お袋の実母と義父は俺が物心つく前に亡くなっており、現在、そっち系の親戚づきあいは、お袋がひとりで冠婚葬祭に顔を出す程度だ。まだまだ義理人情の意識が強かった昭和の下町に育ちながら、そうした他人行儀な親戚関係になってしまっていること自体、お袋の幼少期の家庭環境が一筋縄ではいかなかったことの証である。そしてどうやら暎子ちゃんの家庭も、なかなか微妙な状況らしい。
 俺としては廊下で立ち聞きを続けたい気もしたが、御主人様は人間社会のアレコレにまったく無頓着だから、そのまんまとことこと台所に入って行く。
「お早うございます、お母さん」
「はいタマちゃん、お早うさん」
「やっほー暎子」
「やっほ、タマ」
 当然、俺も正しい大人として、きっちり朝の挨拶をするべきである。
 しかし暎子ちゃんのいでたちを目にしたとたん、挨拶が喉の奥に引っこんでしまった。
 飾り気のないベージュのショートパーカーと、デニムのホットパンツ。ちょっと見どちらもユニクロっぽいが、パーカーの胸にさりげなく配されたペイネの恋人たちは安手のプリントでなく細密な刺繍、推定おフランスあたりのハンドメイドである。ホットパンツの風合いもハンパではない。わざとらしい偽退色や偽ダメージを排しつつ、発展途上の女児の絶妙な曲線と弾力をここまでしなやかに表現するには、手織りの高級デニム、そして熟練の縫製が不可欠だろう。つまりラフな普段着に見せて実はバリバリの勝負服、そんないでたちなのである。あまつさえ清楚な白のニーハイが、いわゆる絶対領域の素肌を殺人的なまでに際立たせている。タマの黒ニーハイに勝るとも劣らないインパクトだ。
 こ、これはもはや、ロリ野郎直撃の誘蛾灯、あるいは歩くロリコン・ホイホイ――。
 そんな俺のビビリを知るや知らずや、暎子ちゃんは力いっぱい元気よく、
「お早うございます!」
「……暎子ちゃん、学校は?」
「今日は創立記念日でお休みです」
 なるほど、どうりでファッションが、いつもと違うわけである。
 俺は動揺を隠して訊ねた。
「……で、なんで俺んちに?」
 暎子ちゃんはきょとんとした顔で、俺ではなくタマに目をやった。
 タマは、ぽん、と手を打って、
「あ、ごめん。忘れてた。今日は暎子と花やしき。んでもって、お昼はシマアジの干物のお弁当!」
 そういえばタマは、ときどき俺のスマホを勝手に使って、暎子ちゃんに連絡を入れていた。タマが言うには予備の召使いの管理、客観的には猫にありがちな複数の餌場の確保である。
「ぴんぽーん」
 暎子ちゃんはにこやかにうなずいた。猫好きであればこそ、もともと猫の記憶力などあてにしていなかったのだろう。
「おいおい御主人様、ダブル・ブッキングかよ」
「太郎の落ち度です。召使いとしてスケジュール管理がなってません」
「そもそも聞いとらんわ」
 しかしこうなると、俺自身、しかつめらしいSRIより、浅草の昭和レトロ遊園地『花やしき』のほうが捨てがたい。まさに両手に花の休日になる。とはいえ、タマをきっちり自宅管理して毎日SRIに通わせるのが、現在の俺の仕事でもある。口止め料コミで日給二万のとっぱらい、金主はSRIではなく桜田門の公安課。つまり日雇いの公僕、期間限定の勝ち組なのである。
 暎子ちゃんが俺に訊ねた。
「私もいっしょに行っちゃだめですか、SRI」
「いや、一般見学コースとかあるから、たぶん大丈夫だと思うけど」
 折衷案としては願ったりだが、ペイネ好みの少女にとってSRIの怪奇大作戦が面白いかどうか、甚だ疑問である。
「いっぺん見てみたかったんです、SRI」
 暎子ちゃんのくりくりお目々の奥に、なんじゃやら異質な光が浮かんだ。
「『人食い蛾』とか『青い血の女』とか」
 確かに前者は研究用としてうじゃうじゃ飼育されているし、後者は、有機物なんだか無機物なんだか判然としないビスクドールに似た何物かの残骸が、解析不能のまま標本化されている。
「あと『呪いの壺』とか、いろいろ保存してあるんですよね」
 暎子ちゃんの無邪気な笑顔に、ニコヤカを上回るニタ~リの成分が含まれている気がして、俺は思わずときめいてしまった。
 実をいえば俺は、いいんちょタイプの女児のみならず、黒っぽい方向で底の知れない女児にも、たいそう惹かれるたちなのである。ちょっと古いが『エコエコアザラク』の黒井ミサ、あるいは『地獄少女』の閻魔あい――もし彼女らがまだ小中学生の頃、俺の学級に転校してきたりしたら、俺は率先して忠実な下僕と化し、黒っぽい使命のために日夜暗躍しただろう。思えば暎子ちゃんだって、俺を銃殺しようとしたり、青膨れした生首を前に「そんなもの食べたらおなか壊しちゃうよ」と言いきったり、かなり黒っぽくて底が知れない。
 まあ実際に食ってしまうタマに比べたら、ほんの隠し味程度の黒さではあろうが。
          *
 俺が風呂場の横の洗面所で髭をあたっている間にも、台所では、お袋たちの茶飲み話が続いていた。
 さっきの家庭環境がらみのアレコレが、洗面所まで聞こえてくる。
「――でも今になって思うと、どうせ実の父親じゃないんだから、それで良かった気がするんだよね。つまり年増女が大好きなエロ親父で。だってほら、男だって色々いるわけじゃない。マジに連れ子に手を出しちゃうロリコン親父とかさ」
 こないだの柳刃包丁の件でもわかるように、俺のお袋はとにかく直球派だ。
「そうですね」
 そのド直球を、暎子ちゃんはあんがい易々とキャッチしていた。
「ま、なんかクサクサすることがあったら、いつでもうちにおいでよ。あたしが相談に乗るからさ」
「はい」
「でも、あの馬鹿息子には、間違っても相談なんぞしちゃいけないよ。人生をドブに捨てるだけだから」
「……そうでしょうか」
 暎子ちゃんの声は、ちょっと不本意っぽかった。ありがたいことである。
「太郎なら大丈夫だよ」
 タマが口を挟んだ。
「……ほう」
 お袋は懐疑的に言った。
「アレのどこを大丈夫と?」
 その懐疑は、けしてタマ自身に向けられた懐疑ではない。あくまで俺に対する懐疑である。
 タマとお袋の仲は、きわめて良好だ。正直にしか生きられない猫と正直に生きたい人間は、たいがい平和に同居できる。ただし、正直にしか生きられない息子と正直に生きたい母親の間には、ときに柳刃が一閃する。
「召使いに選ぶとき、よっくと味見したから」
 タマは自信たっぷりに言った。
「人生をドブに捨てそうな女の子とかいたら、太郎は迷わず身代わりになって、自分をドブに捨てるタイプだよ」
 召使いを弁護してくれるのはありがたいが、ドブに捨てる以外の選択肢はないのだろうか。
 俺がカミソリを滑らせながら内心でツッコんでいると、
「でも……大人の女の人だったら?」
 暎子ちゃんが、おずおずとタマに訊ねた。
「…………」
 タマは言葉につまったらしく、少なからぬ間を置いて、
「……そこまでは、ちょっと」
 こうなるとドブどころか墓穴、下手すりゃメルトダウンである。
 俺は、水蒸気爆発以前の段階で事態を収拾するべく、髭剃りの手を早めた。
「うぉっと!」
 出血寸前の横滑りを何度か回避したのち、シェービングフォームをばしゃばしゃ洗い流していると、
「いんや、あいつの執念深さはハンパじゃねえぞ」
 意外な声が台所会議に参入した。夜勤シフトを終えた親父が、いつのまにか帰宅したらしい。
「なあ母さん、あいつのパソコン、こっそり覗いたことがあったろう」
「覗いたからこそ希望を捨てたのよ」
「でもな、たとえば鰐淵晴子のフォルダとか」
「……そういえば」
「そう。他にも上田みゆき、松島トモ子、小鳩くるみ、松井八知栄、高見エミリー、津山登志子――みんな子役や少女モデル時代から可愛いんで有名だったが、あいつより遙かに年上、俺らみたく三丁目の夕日世代だ。人によっちゃあ、もうすっかり婆さんになってる。それをデビュー前から成人そして熟女時代、しまいにゃ後期高齢映画――そんな写真や動画を、もれなく時系列で収集整理してんだぞ」
 そこに至って、ようやく俺は台所に駆けみ、めいっぱい快活に叫んだ。
「お帰り親父! お勤めご苦労様! 今日はしっかり稼げたか!?」
 我ながらわざとらしさの極みだが、とにかくこの流れを止めねばならぬ。
 幸い親父は、お袋に輪をかけて江戸前のスッコヌケ野郎なので、
「おう、上々至極って奴よ。錦糸町から越後湯沢までの客にありついて、帰りにゃ今度は越後湯沢から渋谷だぜ。同じイベント会社の役員とか言ってたが、まるでバブルなみの羽振りじゃねえか。おまけに俺の走りっぷりと語り口がいいとかで、次の予約も入ったりしてな」
 しがない歩合制のタクシー運転手としては、臨時ボーナスに匹敵する話である。お袋もそれが解るから、嬉々として朝飯の支度に立った。
「今夜はスキヤキにしましょうか」
「いいねえ。いやまったくタマちゃんが来てから、(うち)の運気は上がりっぱなしだ」
 親父がタマの頭をくしゃくしゃすると、タマはすかさず、くいくいと招き猫の手つきを真似てみせた。苦労猫だけに、そこいらは卒がないのである。
 お袋も流しからこっちを振り返り、
「鼠もゴキブリもいなくなったしね」
 どうやらこれでロリコン談義は中断、水蒸気爆発阻止――そう思った俺が甘かった。
「お父さん、さっきの話が途中です」
 暎子ちゃんがきっぱりと話題を元に戻した。
「お、おう」
 俺の親父だけあって、親父は女子供や猫に弱い。
「つまりこの馬鹿は、いっぺんお気に入りのロリとやらに入れあげちまえば、毛が生えようが小皺が増えようが婆さんになろうが、おかまいなしってこったな」
「おい親父!」
 俺は思わず声を荒げた。
 まさに毛が生えるか生えないかの女児を前に、大人として言っていいことと悪いことがあるだろう。たとえそれが一面的には正鵠を射ているとしても。
「お? なんだ? なんか文句あんのか?」
 親父は自信たっぷりに言った。
「ちゃんと知ってるぞ。お前、去年の暮れに、なんかNHKに仕掛けてたよな。いわゆるサイバー攻撃って奴な。あっちこっち経由して、何万通もメール送りつけたろう。『なんできゃりーぱみゅぱみゅを紅白に出さない』とか『きゃりーを出せ。これは命令だ』とかなんとか」
 俺は絶句した。親父のIT能力を侮っていたらしい。
「あのきゃりーって子も、お前、小学生の頃から目え付けてたよな。スクール水着の写真とか動画とか、妙な有料サイトで残らず集めてたろう。まあ、今もあんなお菓子みてえなナリで子供みてえな歌歌ってるが、ありゃもう立派な大人の女だ。それでもお前はマジに入れあげてる」
 親父はにやりと笑って断言した。
「世間様がなんと言おうと、お前はロリコンとかじゃねえ。たまたま先物買いが好きなだけだ。ぶっちゃけ筋金入りの女好き、隠れストーカーってとこか」
 うわ結局、別方向にメルトダウンしちまったよ――。
 俺は反論する術もなく、ちらりと暎子ちゃんの顔色を窺った。
 意外にも暎子ちゃんは嫌悪のカケラも浮かべておらず、なんじゃやら夢見るような瞳を宙に向けて、独り言のようにつぶやいた。
「……光源氏と紫の上……」
 無学な俺も、ロリ関係でさえあれば古今東西の物語に目を通しているから、かの有名な古典小説『源氏物語』が、一部とんでもねー女児調教設定であることは知っている。
 うわ。どーゆー世界が展開してんだ、この子の頭ん中では――。
 そんな暎子ちゃんの横で、タマは召使いの話題などとっくに興味を失い、朝飯のおかずのシャケが焼ける匂いに鼻をひくひくさせながら、二叉尻尾をぷるぷる震わせている。
 謎多き多感な女児と、存在自体が謎のわりには実に解りやすい猫娘――。
 ――ま、いいか。
 俺はもう、きれいさっぱり成り行きに任せることにした。どのみち下位の存在である俺が、あれこれ悩んでも仕方がないのである。
          *
 で、遅ればせながら、我が家の朝食タイムが始まったわけだが、
「はい、お父さん」
「ささ、おひとつ」
 夜勤明けゆえ晩酌ならぬ朝酌で日本酒の盃を傾ける親父に、お袋のみならず、なんでだか暎子ちゃんまで、かいがいしくお酌していたりする。お袋は自分も食いながらのお酌だからそうそう身が入らず、自宅で朝飯を済ませてきた暎子ちゃんのほうが、むしろお酌専業になっている。
「はい、もひとつ」
「お、かっちけねえ」
 親父はめろめろと相好を崩し、
「いやあ、こんなむさ苦しい(せがれ)ばっかしじゃなくて、かわいい娘もひとりかふたり、こしらえときゃよかったなあ」
「俺もそう思う」
 もし俺に暎子ちゃんのようなかわいい妹がいたら、俺も兄として、ちょっとはまともな人間に育っただろう。まあ、ますますヤバい方向、いわゆる『妹萌え』に走った可能性もあるが、俺の美学だと、実の妹に対する背徳的な感情を胸の奥に滾らせながらもあえて謹厳実直な兄を装い続け、やがて美しく成長した妹がそれなりの男に嫁ぐ日、表向きには大いに祝福しながら、婚礼の宴の物陰でひと筋の涙を流す――そんなのが『妹萌え』の王道である。
「しっかり者の(かかあ)がいて、巣ごもりしてた倅もようやくのたくりだして、お人形みてえな招き猫が住み着いて――これ以上贅沢言っちゃ、罰が当たるか」
「そんなことないですよ」
 暎子ちゃんは、親父の盃に徳利を傾けながら言った。
「その節は、よろしくお願いします」
「……あ?」
 お袋も親父といっしょになって、ハテナ顔をした。
「えーと……少なくとも、あと六年ちょっと、先になりますけど」
 暎子ちゃんは、あくまで真面目な顔で、
「私は今すぐでもOKなんですが、ほら、今の法律だと、太郎さんがほんとに捕まっちゃいますから」
 親父が、ぶ、と酒を吹いた。
 お袋が、がらばしゃ、と味噌汁をぶちまけた。
 俺は鉄人28号のごとく両手を天に掲げ、背中にしょったロケット・エンジンから壮絶な炎と煙を噴出して天井をぶち抜き二階の屋根もぶち抜き、瞬く間に成層圏を離脱してそのまんま月面を直撃しそうになったがなんとか軌道修正に成功、月の周囲を三べん回ってから地球をめざし屋根の穴と天井の穴を通過、台所の椅子に大地を揺るがせながら帰還した。手にしていた飯茶碗は、ロケット・エンジンの噴射に煽られて窓から路地裏まで弾け飛んでいた。ちなみに右手の箸に挟んでいたシャケの切り身は飯茶碗と反対方向に飛んだので、すかさずタマが自分の箸で、はしっ、と受け止めてくれた。
「人間ってヘンだよね」
 タマは俺のシャケをちまちまとついばみながら言った。
「サカリがついたら、すぐツガっちゃえばいいのに」
 暎子ちゃんは上から下まで真っ赤になった。
「いやそのそーゆー意味じゃなくて……」
 勉強熱心な子だから、それらの単語の意味も、交番から帰った後でしっかり調べたのだろう。
「じゃあ、どーゆー意味?」
 タマは、あくまで率直にたたみこんだ。ちょっと見は女児でもやっぱり猫、気の早い牝猫なら生後半年で恋期を迎えるし、猫の恋において主導権は牝にしかない。
 親父とお袋は、もはや顔面蒼白であった。俺は手元に鏡がないので自分の顔色を見られないが、たぶん赤・黄・青の三色に、バクバクの不整脈に合わせて点滅していたのではないかと思われる。
 親父が唸るように言った。
「……将来あるお嬢さんを、下手にこのウスラバカに近づけちゃいかんと思って、さっきは、わざとズバズバ言ってみたんだが……ふつうなら、愛想尽かして逃げ出すとこなんだが……」
 お袋は、おずおずと暎子ちゃんに訊ねた。
「……あのさ」
「はい」
「もしかして、暎子ちゃんの亡くなったお父さんって……力いっぱいメタボの人だった?」
「はい!」
 暎子ちゃんは、晴れやかにうなずいた。
 お袋は暎子ちゃんをまじまじと見つめながら、しばし沈黙した。
 やがて、これまでの幸薄い自分の人生と、目の前の女児の将来を秤にかけるように、ゆらゆら頭を振りながら言った。
「……とにかく六年後……たとえ明日(あした)首都圏直下型が来ても、明後日(あさって)世界が亡びようとも、六年以上たってからの話ね」
「はい!」
 暎子ちゃんの返事は、あくまで晴れやかだった。
 お袋は、俺に鬼のような視線を流した。もしこの子の気の迷いに乗じて児●法をないがしろにしたりしたら今度こそトドメ刺すからね――そんな視線である。
 俺は、おもむろにうなずいた。無論、一抹の異議もない。児●法などという曖昧かつ不合理な建前以前に、現実社会のほうがけっこうキツいのである。
 ぶっちゃけ俺だってただの男だから、今ほどロリおた道を究めていなかった成人前、高校二年のコスプレ娘とナニな仲になったりしたことがある。しかし彼女は半年もたたないうちに未熟な俺を見限って二回りも年上の担任教師に乗り換え、結果、俺は精神的&肉体的な部分でちょっと不幸に、その教師は精神的にも肉体的にも経済的にも社会的にも不幸のどん底まで堕ちた。気力や体力以上に、世代差を埋め世間体を繕うだけの金が続かなかったのである。ちなみにそのコスプレ娘当人は、成人後、金回りのいい芸能ゴロとくっつき、今もアキバあたりでヒラヒラしている。
 俺は内心に渦巻く波濤を隠して奈良の大仏のように半眼を保ち、六年後、三十代も後半に至った非正規労働者がいかにして世間様から後ろ指をさされずに十代の妻を娶るか、深慮遠謀に耽っていた。
 ――なにはともあれ、タマを死守せねばならぬ。
 そう、今現在も手取り日給二万という高収入をもたらしてくれているこの御主人様が、実は今後の文明社会において無限の可能性を秘めていることを、俺はSRIの牧さんから聞かされている。体細胞レベルで瞬時に変身するという一点のみを生物学的に解明するだけでも、iPS細胞やSTAP細胞など及びもつかぬ医療革命が期待できるのだ。
「……このシャケ、しょっぱい」
 御主人様が言った。
「お茶を淹れなさい、太郎」
 タマのぶんのシャケはあらかじめ生を焼いているが、俺からせしめたぶんは、ふつうの塩ジャケなのである。
「うーんと、濃いの」
「おう、まかっとけ」
 俺は張りきって、茶筒の葉をばさばさと急須に振りこんだ。

     3

 親父が酔っぱらって寝床に這いこんだ頃、玄関にSRIの送迎車が着いた。外観は古びた七人乗りのミニバンだが、実は強化ガラスやら特殊鋼板やら、装甲車なみの仕様らしい。運転しているのは椎名巡査で、田所巡査長も同乗している。ふたりとも成り行きでタマの特命警護官とやらに任命され、SRIに出向しているのだ。もっとも仕事は今のところ朝夕のタマ送迎だけなので、あとは日がな一日、SRIの一室で将棋をさしたり碁を打ったりしている。
 稀少かつ危険なUMAを、そんな野放し状態にしといていいのか――心配は無用である。
「お早うございます。ご苦労様です」
 俺は車内の公僕コンビに挨拶してから、往来を見渡して言った。
「なんか、また人が増えてませんか?」
 ふだんは見かけぬゴツい体型の通行人たちが、昨日の朝より明らかに多い。こないだ突然始まった道路工事の作業員も今朝は倍に増え、昨日はいなかった電気工事用の高所作業車まで、あっちこっち三台もリフトを伸ばしている。
「昨日までは公安と特機の連中だけだったからね」
 田所巡査長が、他人事のようにのほほんと言った。
「今朝から内調と陸自の別班も動いてるらしい。まあ表向きは、どっちも別班なんてないことになってるから、あくまでここだけの話だがな」
 つまりタマは、もはや歩く国家機密なのである。タマ本人のみならず、タマの正体を知っている関係者すべてが、一般人を装ったあっち方向のプロたちによって、十重二十重(とえはたえ)に護られているのだ。
 現内閣総理大臣の矢倍(やばい)さんは、当初、タマの身柄をしかるべきアレな組織のナニな施設に拘束するよう命じたらしいのだが、いかに強権を誇る右寄りのお坊ちゃまでも所詮は平和ボケ国家日本の総理、この国の官憲や軍事組織に骨の髄まで染みついた先例主義――『先例なき懸案はとりあえず棚上げする』『棚上げできない懸案は余所に回す』『どうしても余所に丸投げできない懸案は適当に細かく散らして責任の所在を曖昧にする』『どうしようもなくなったらとにかくみんなで竹槍持って特攻する』――そんな大原則を突き崩す力はない。これがもし海千山千の某合衆国や某人民共和国や某連邦だったら、関係者全員がアレでナニな組織によって拉致監禁あるいは抹殺され、怒り狂ったタマが国家的怪猫伝を繰り広げたかもしれない。
 俺が召使いらしく車の後部ドアを開けてやると、
「やっほー、お巡りさん」
 タマが軽いノリで真っ先に乗りこんだ。
「はい、お早う」
 公僕コンビも、すっかり化け猫慣れしている。
「お早うございます。よろしくお願いします」
 続いて乗りこんだ暎子ちゃんにも、公僕コンビは機嫌良くうなずいた。
「や、お久しぶり」
 すでにSRIには電話で一般人見学の了承を得ている。
「じゃあ、お願いします」
 続いて乗りこんだ俺の後から、
「や、毎度お勤めご苦労さん」
 パート支度を終えたお袋も、当然のような顔で車に乗りこむ。
 公僕コンビは、ちょっと微妙な笑顔で会釈した。
「……どうも」
 お袋を毎朝パート先のスーパーまで便乗させるのは、さすがに服務規程違反のはずである。
 しかしお袋のような押しの強い一般市民についつい頭を下げてしまうのも、ここいらの公僕の習性なのである。憲法が改正されようが共謀罪を制定しようが、下町のお巡りはパート主婦に勝てない。
          *
 俺がてっきり昭和以来の老舗民間組織だと思っていたSRIは、いつのまにやら文部科学省の外郭団体に出世しており、東都大学医学部付属病院の一角に、小綺麗な事務所と研究室を一フロアあてがわれていた。上野の不忍池と本郷の三四郎池の間あたり、俺の家から車で三四十分、都心の渋滞や信号待ちがなければ二十分弱で着きそうな立地である。
 もともとは警視庁OBが退職後に起こした民間団体だが、その後なんじゃら色々あって、今は主に文科省OBの偉物(えらぶつ)たちが、名ばかり所長の座と法外な高給を順繰りに受け継ぐという、典型的な天下り団体と化しているらしい。もっとも民間時代から勤務している牧さんたちは、そっちをうまくヨイショしていれば一流大学の最先端機器を好きなだけ使えるし、親方日の丸だと住宅ローンも車のローンも審査が甘いので、かえってルンルン気分だそうだ。
 地下の職員専用駐車場から、間借り先を目ざして外科病棟内を辿っていると、ふだんは耳にしたことのない、やや緊張した女性声のアナウンスが響いた。
西吾妻(にしあずま)教授の総回診が始まります。西吾妻教授の総回診が始まります」
 彼方の医局方向から、白髪の老医師を先頭に、白衣の医師たちが隊列を成して進んでくる。
 廊下の両側に並ぶ病室のすべての扉が、内外にいた看護師たちによって一斉に開け放たれた。
 うわ白い巨塔名物・教授総回診――俺の頭の中で、昭和版ドラマの重厚なテーマ曲が鳴り響いた。
「おお、中村伸郎さんみたいな(あずま)教授が」
 田所巡査長が目を見張って言った。
「それに続いて田宮二郎さんみたいな財前(ざいぜん)助教授も山本學さんみたいな里見助教授も……ここは幽霊病院か」
 俺もかなり気圧されていたが、いちおう正確を期して言った。
「山本學さんは今でも元気に活躍してます。そもそも里見助教授は内科だったような記憶が」
 近くにいた女性看護師が、俺たちの声高な私語を窘めるように小声で言った。
「第一外科教授の西吾妻先生と助教授の善哉(ぜんざい)先生、それから里芋(さといも)先生です。幽霊ではありません。当院(ここ)に出るのは患者さんの幽霊だけです」
 正直な看護婦さんらしい。
 椎名巡査がつぶやいた。
「まるで総監観閲式みたいですね」
 若い椎名巡査だと、中村伸郎や田宮二郎と言われてもピンとこないのだろう。キャスティングが石坂浩二や唐沢寿明だったら、同調してくれたかもしれない。
 ものものしい医師の行列に、タマも暎子ちゃんも緊張していた。とくにタマは、ゴスロリの背中や二叉尻尾をざわざわと逆立てている。
 医師たちが最初の病室にって入っていくとき、推定ナンバー2の田宮二郎、もとい善哉(ぜんざい)助教授だけが、ちらりとこちらに視線を流した。そのニヒルな視線は、俺や公僕コンビではなくやや下方、タマあるいは暎子ちゃんに向けられていたようだ。
 年増好みの渋いルックスに似合わず、あんがいロリコン仲間だったりするのだろうか。
          *
「ようやく望ましい機材が揃ってね」
 SRIの牧さんが、知性派そのものの顔と声で言った。
「今日はタマちゃんの味蕾(みらい)を検査したいと思う」
 さっきの善哉(ぜんざい)助教授から感じた現世的な知性――やや脂ぎった世俗的な知性ではなく、純粋に『知る』ための透徹した知性、そんな感じである。
「未来……」
 SRIフロアの最奥の研究室、病院の診察室っぽい椅子にちょこんと腰掛けたタマは、あくまで真面目に言った。
「……とくには夢も希望もありませんが」
 後ろに突っ立っている俺は、そうだろうなあ、とうなずいた。タマが刹那刹那の即物的な本能のみで生きていることは、いっしょに暮らしていればよく解る。なにせ猫のこと、基本、毎日だらだら食って寝て遊んでいればオールOKなのである。
 ちなみに現在、この部屋には俺とタマと牧さんしかいない。暎子ちゃんは、SRI所員の紅一点・小川さおり嬢に案内され、公開展示物の見学に回っている。本来なら俺も部外者なのだが、常に召使いがかしづいていないとタマがゴネるので、特に入室を許されているのだ。
「いや、そっちの未来じゃなくて、舌――ベロとか口の中にある味蕾、つまり味見するための器官のことだね」
「ほう」
「じゃあ、はい、あーんして」
「あ~ん」
 牧さんに初めて会ったときから、タマは一貫してすなおである。どうやら一目置いている節もある。牧さんのちょっと人間離れした雰囲気が、人外のイキモノには好ましいのかもしれない。
「はい、ベロ出して」
「んべ」
 ちょっと見は小児科の診察風景だが、牧さんが使っているのは喉頭鏡でも額帯鏡でもなく、なんじゃやらファイバースコープに似た最先端のスグレモノであり、横の卓上のモニターに、拡大映像のみならず、俺には理解できないなんらかの分析結果がリアルタイムで英語表示されたりもする。
「……完璧に人の舌だね」
「れろれろれろ」
「じゃあ、次は変身しよう。まずは本来の三毛猫モードで」
「はーい」
 タマの全身がゴスロリ衣装ごとドドメ色に渦巻きながら縮小し、次の瞬間、二叉尻尾以外はどこにでもいそうな若い三毛猫が、ちょこんと前足を揃えて座っていた。
「にゃおん」
 以前聞いたタマの自己解説によれば、これが初めて化けたときの姿、つまり尻尾が二叉になった当初の姿、言うなれば猫又の第一形態である。俺と初めて出会ったときは、これをベースに痩せたり弱ったりして見せて、俺の反応を探っていたわけだ。
「はい、ベロ出して」
「な~ん」
「……完璧に猫の舌だね」
「ぺろぺろぺろ」
「……スコープの先、嘗めないで」
「んぺ」
 タマはすなおに舌を収めた。単に美味しくなかったのだろう。
「じゃあ、今度は大型モードでいこうか」
 タマは、あまり乗り気ではない様子で、長々と鳴いた。
「にゃあ、うにゃうにゃにゃお、にゃおにゃお、にゃんにゃにゃにゃん」
 上司に面倒な仕事を命じられた無気力社員のような、言い訳じみた鳴き声だった。
 牧さんは、おもむろにうなずいた。
 すげえ。この人は猫語も解るのか――感服している俺に、牧さんは無表情のまま、
「……通訳してくれないか」
 ああ、やっぱり――。
 まあ俺も堂々と通訳するほど猫語に自信はないが、召使いとして、タマ語ならそれなりに習得しつつある。
「アレをやるのはけっこうしんどいんで、大物をナニするときしかやりたくない――そう言ってますね」
 牧さんは、なるほど、とうなずいてタマに向き直り、
「やってくれたら、あとで鯛めしを御馳走するよ」
 タマの瞳がきらりと光った。
「にゃおにゃ、にゃんにゃなな、にゃんなななん?」
 俺は気を利かせて同時通訳した。
「『それは東海軒のモノホンですか?』」
「もちろん」
 牧さんは断言した。
「それも、ただのモノホンではないよ」
 ふだんはまったく感情を表さない牧さんの白面に、珍しく自尊心が透けて見えた。
「――君の思い出話を詳細に分析すると、君が静岡を通過したのは第一回東京オリンピックの前年、昭和三十八年の夏と特定できる。その頃の東海軒の『鯛めし』は、確かに明治時代に生まれた名物駅弁『鯛飯』の流れをくむ元祖的な製品ではあったが、当時は国鉄の官僚主義的な規定によって、一般的な駅弁の価格は百円、多種の料理が入る幕の内弁当は百五十円、鰻など高価な食材を用いる特殊弁当は二百円、そんな厳しい上限規制があった。鯛のそぼろをご飯に敷きつめただけの『鯛めし』は、いなり寿司や鶏飯と同じ最低ラインの一般弁当、すなわち百円で売らねばならない。元祖『鯛飯』の頃に使われた駿河湾の甘鯛を原料にするのは、すでに原価的に不可能だ。したがって、君があの暑い夏の旅の途上、飢えと渇きでへろへろになっていたとき親切な駅弁屋さんに振る舞われ、涙と涎を垂れ流しながらはぐはぐうにゃうにゃ賞味したという『鯛めし』のそぼろは、遠洋漁業がもたらした南洋の鯛の仲間に、各種の白身魚を混ぜこんだ製品だったのだよ。しかしたとえ原料に雑魚が混じっても、元祖を謳う東海軒として『鯛めし』の味そのものを落とすわけにはいかない。すべての物価が十年で三十パーセントも上昇した昭和三十年代、お上の命によって同じ百円のまま納得のいく『鯛めし』を作り続けるためには、その調味料や調理法の改善過程において、想像を絶する大変な苦労があった」
 こっくし、とタマが力強くうなずいた。
「――無論、今日の君のお昼ご飯に、駿河湾の甘鯛を用いた本格的な鯛飯を供するのも、SRIとしてはたやすいことだ。しかしそれでは、四百年以上もこの国に生き続けてきた君という歴史の旅人に対して、かえって敬意を欠くのではないかと思われる。少なくとも僕としてはそう思う。そこで今日は、僕が綿密な調査と分析によって完璧に再現した昭和三十八年夏の東海軒謹製『鯛めし』――原料や調理法はもとより掛紙のデザインまで、その夏の日の、君の昼食そのものを用意させていただいた」
 ごっくし、とタマが喉を鳴らした。
「――じゃあ、協力してくれるね」
 ぬお、とタマは変身した。
 ふつうサイズの三毛猫から、ある意味優雅ではあるがやはり面妖な巨大人面猫に変身する有様は、女児モードからの変身よりも、かえって異様なインパクトがあった。
 それでも牧さんは顔色ひとつ変えず、
「はい、ベロ出して」
「ぐなあ」
 卓上のモニターに、人や猫とはずいぶん違った舌の表面が大写しになった。
 ベロの表面などというものは、愛らしい女児でも三毛猫でも拡大すればかなりグロなのであるが、そこに散らばる無数の味蕾そのものは、上皮の下に隠れているので判然としない。しかし今回の画像では、ざらざらした巨大猫の舌のあっちこっちに、なんじゃやらイソギンチャクの触手のようなシロモノが、微小ながらも判然と覗いて見えた。
「……これは面白い」
 牧さんの頬が、ぴくりと震えた。
「予想どおり、ただの味覚器官ではないね」
 まあ、味見と同時に人の記憶や願望まである程度読んでしまうわけだから、多少妙ちくりんなのは当然であろう。
 牧さんはファイバースコープを卓上の機器に収め、別のスイッチを入れた。
 ぐいんぐいんと重々しい音が響き、天井から数本のアームが下りてきて、それぞれの先端に取り付けられたスキャナーっぽい機器が、俺たちをぐるりと取り囲んだ。
 牧さんが卓上のキーボードをぽちぽちして位置調整すると、モニターの中心に、牧さん自身の頭部のスキャン画像が3D表示された。牧さんが動くたびに、数個のスキャナーも自動追尾する。タマの鼻先も、常に画角に入っている。
「タマちゃん、そのまま私を味見してくれたまえ」
「ぐな?」
「遠慮なく、がっぷしと」
 俺は念のためタマに言った。
「食うんじゃないぞ。味見するだけだ」
 タマがこくこくとうなずいた。
「にゃんにゃがにゃん、ぐなお、にゃおにゃご」
 鯛めしが後に控えているのに、人のカシラなんて食べるもんですか――そう言っているのである。
 そして――がっぷし。
 さらに、はぐはぐ、ぶんぶん、はぐはぐぶんぶんぶん――。
 タマが牧さんの頭をくわえてぶん回すたびに、周囲のスキャナー群も滑らかに追尾し、モニターには常に牧さんの頭部とそれをくわえたタマの頭部が、ほぼ同じ構図で3D表示される。
「うわ……」
 俺は思わず呻いた。
 タマの舌から、微細な糸のような無数の光の筋がにゅるにゅると伸びて、牧さんの目や鼻や口や耳から潜りこみ、すみやかに脳味噌まで侵入した。俺もこないだ同じ目に合ったはずだが、痛くも痒くもなかったのは、その糸が鍼術で使われる鍼よりも細く、自在に曲がりくねるからだろうか。あるいはなんらかの麻酔っぽい成分を分泌しているとか、その両方の相乗効果とか。
 息を呑んで見守ることしばし、
「ぺ」
 タマが牧さんを吐き出した。
「く……」
 牧さんはよろよろと床に膝を落としかけたが、気丈に立ち直り、胸ポケットから取り出した純白のハンカチで顔を拭いながら言った。
「さて、僕はどんな味がしたかな、タマちゃん」
 ふと見れば、タマはもうゴスロリ猫娘モードに戻っていた。
 いつになく厳粛な顔をして、
「――若くしてお亡くなりになったお姉様は、ほんとうに優しいお姉様だったのですね」
 俺があの堀割で初めて聞いたときのような、天使を思わせる清らかな声であった。
「しかし――あの事故は、不幸な偶然だったのです。けして牧さんが悪かったわけではありません」
 は、と見開いた牧さんの目が、やがて多感な少年の瞳のように、震えながら潤みをおびた。
「お姉ちゃん……」
 うつむいて独りごちる牧さんに、タマは続けて言った。
「そして――数年前、かなりアレな最期を遂げられたお母様は、ほんとうにとんでもねーお母様だったのですね」
 は、と顔を上げた牧さんの目には、最前から一転、どす黒い憎悪が透けて見えた。
「母さん……あんたって人は……」
 虚空に向かってつぶやく牧さんに、タマは続けた。
「しかしそれもまた、不幸な一種の精神疾患だったのです。歪んだ母の根深い独占欲もまた、根深い愛の裏返し――すべては牧さんの心ひとつ」
「…………」
 牧さんはしばしの沈黙ののち、ふ、と苦い諦念の笑みを浮かべた。
 タマは聖母のごとく微笑んで、
「そして今、あなたがドのつく年増趣味――お姉様のようにアマアマで母親ほども年上の大年増しか愛せない青年に育ってしまったとしても、それでよろしいではありませんか。相手が誰であれなんであれ、真摯に慈しめるならばそれは愛、なんら恥ずべき性癖ではありません。太郎のような真逆方向の変質者とは別状、法にも触れません」
 おいおいおいおい――俺としては力いっぱいツッコみたかったが、牧さん当人は、なんじゃやら憑かれたようなまなざしをタマに向けている。宗教的な恍惚さえ窺えるほどだ。おそらくあのときの俺と同様、聖処女マリア様の幻でも見ているのだろう。
 えーと、あんまし深く考えないほうがいいですよ牧さん――俺はそう言いたかったが、根が真面目な理系の人ほど、宗教的な錯覚に囚われやすいのも確かである。たとえばNASAの宇宙飛行士の多くが、引退後、スピリチュアルな世界に身を投じたりしている。
 牧さんは、漉きたての和紙のように白々(しらしら)とした顔で言った。
「……どうして僕は、こんな星の下に生まれついたのでしょう」
 タマも淡々と答えた。
「きっと前世の因縁でしょうね」
「前世?」
 牧さんの顔に、奥深い影が浮かんだ。
「前世ってなんのことです」
「鏡です」
「あなたはそう信じているのですか」
「だって前世がなかったら、私たちは生きていけないではありませんか」
「なぜ生きていけないのです」
「だって前世がなかったら……」
 ――えーと、ここで念のため、外野からパクリを指摘される前に、俺から言っておく。「きっと前世の因縁でしょうね」に続く会話の流れは、かの天才漫画家つげ義春氏の代表作『ゲンセンカン主人』の一シーンの、ほぼ丸パクリである。俺は氏の漫画、というか全芸術作品を繰り返し読んでいるから、作品中の会話もほぼ暗記しているのだ。
「だって前世がなかったら……」
 タマは、牧さんの深すぎる視線に、少々気後れしたような思い入れを見せ、
「私たちは、まるで……」
「まるで」
 牧さんは畳みかけた。
「まるでなんだというのです」
 穏やかでありながら、妥協を許さぬ声だった。
 タマは、すざ、などと後ずさりしたのち、
「ゆ…………」
 言い淀み、その『ゆ』で始まる忌み言葉を己自身が畏れるように声を震わせ、

「……湯たんぽ(ヽヽヽヽ)ではありませんか」

 違う! キメ台詞が違う! そこは『幽霊(ヽヽ)』だ!
 俺が呆れてツッコむより先に、
「どわはははははは!」
 いきなり牧さんが呵々大笑した。
「きゃはははははは!」
 タマも大笑いしながらVサインを出しまくった。
「いやあ、お見事」
 牧さんは、笑い涙をハンカチで拭いながら言った。
「見事に僕の記憶や嗜好を読んでいるよ、タマちゃん。それにしても、いい流れだったねえ。まさか湯たんぽ(ヽヽヽヽ)にオトしてくるとは」
「ふっふっふ、まかせなさい」
 ひとり取り残されてしまった俺は、呆然とつぶやいた。
「わからん……」
 タマはパロディーに入る前の厳粛な顔に戻って、窘めるように言った。
「芸術作品に意味を求めてはいけませんよ、太郎。ただ在ることの意味と在らねばならぬことの無意味、それらのはかない境界(あわい)にこそ芸術は成り立つのですから」
「……それと湯たんぽが、どう重なるのだ」
「ですから意味を問うてはなりません。強いて言えば――芸術とは人の(いしずえ)そのもの。そして人の血が暖かいからこそ、湯たんぽもまた暖かい。ならば物言わぬ湯たんぽそのものも、人や芸術の礎となれない謂われがありましょうか」
「……言ってることが支離滅裂だぞ、タマ」
「意味を問うてはいけないものに、論理を求めてはいけません」
「つまり……とくにはなーんも考えてない、とゆーことだな」
「てへ」
 あくまでナンセンス系のアドリブだったらしい。

     4

 そして昼休み、暎子ちゃんと小川嬢、それに公僕コンビも合流し、SRIの応接室でミニ駅弁大会が始まった。小川さおり嬢は、不二家の店頭で首を振っていそうな童顔だが、実はIT関係のエキスパートであり、SRIのそっち方向を一手に仕切っている才媛である。名ばかり所長の的矢垣(まとやがき)さんや、主に対外捜査と外部資料収集を担当する男性所員たちは、それぞれの用件で昼前から出払っていた。
 音量を落とした大型液晶テレビから、浅薄なバラエティー番組の笑い声が微かに響いてくる。
 牧さん謹製の復元版『鯛めし』は、保育園前に昭和を抜けてしまった俺にとって、正直、やや前時代的なクドい味に思えた。何年か前、デパートの駅弁大会で買った小田原の『鯛めし』を家族で食ったとき、親父が「いやあ、なんか近頃の駅弁は、ずいぶんお上品な味になっちまったなあ」などとボヤいていた記憶があるが、俺としてはそっちのほうが好ましい。ちなみに親父もお袋も、ホウレン草のおひたしにまで味の素を振りかけるのを好む。そうしたクドさもまた、昭和の風味なのかもしれない。
「この頃は、もうオーストラリア産の鯛が日本に水揚げされていたんだねえ。まさに高度経済成長期の味といっていいだろう。戦後占領期に遠洋漁業を制限していたマッカーサー・ライン、あれが廃止されてから十年、海など縁のない山奥の旅館でマグロの刺身が幅を利かせるようになったのも、ちょうどこの頃だ」
 牧さんの解説を、暎子ちゃんも小川嬢も感心して聞いているが、味覚そのものは「まあこんなもんか」なのが見え見えである。牧さん自身も、たぶん完璧に復元したという満足感を賞味しているのであって、そう旨がっているようには見えない。タマだけがうみゃうみゃはぐはぐと、追憶の美味を無我夢中で掻っこんでいた。
「おいしいねえ、おいしいねえ」
「お気に召してなによりだ。午後は二叉尻尾の神経系を分析させていただくが、なにとぞご協力のほど、よろしくね」
 二叉尻尾、ふるふるふる。
          *
 俺たちが食休みに入ってからも、タマは三折りめの駅弁を掻っこんでいた。
「はぐはぐはぐ」
 食後のコーヒーをいただきながら、暎子ちゃんが牧さんに訊ねた。
「あの『青い血の女』って、やっぱり、魂を持ったお人形だったんですか?」
 昼前に見学した、アヤしげな展示物の話である。
「いや、物理的に見れば、生物と機械の融合体としか言いようがないね。あれが自律的に殺人を犯していたのは確かだが、それが生物としての自由意志だったのか、機械的なプログラムが製作者にも予想外の判断を下してしまっただけなのか――いずれにせよ壊れてしまった以上、もう判断の下しようがないのさ。仮に、あの頃の初歩的な集積回路だけでAIを実現していたとしたら――製作者の老人はニコラ・テスラを凌ぐほど時代を先駆けていた――そんな解釈もできる」
 おたくの俺はかろうじて話についていけるが、公僕コンビなどはただ首をひねっている。それでも暎子ちゃんは満足げにうなずいた。いよいよ侮れない女児である。
 余談になるが、小学六年生の女児が『源氏物語』のみならずニコラ・テスラの氏素性――発明王エジソンと同時代に生き、エジソンよりも遙かに先駆的な天才でありながら、時代との乖離によってカルト扱いされてしまった不遇な科学者――を熟知していること自体は、ちっとも不思議ではない。たとえば今どきの少女漫画が、どれほど広範な世界を深々と突っついていることか。少年漫画だけ読んでいる少年はいつまでたってもガキのまんまだが、少女は少女漫画を読むだけでも大人になれてしまうし、少年だって、なんぼかは人心に聡くなれるだろう。
 牧さんは言った。
「時代離れしているという意味では、タマちゃんも同じだ」
「うみゃ?」
「時代がかった妖怪変化、という意味ではないよ。現在の地球環境では考えられないほど進化した知性体――今のところ、あくまで僕の私見だが――十中八九、タマちゃんは地球外生命体だと思う」
 俺はやや戸惑いながらも、さほど驚愕しなかった。
 ある種の妖怪変化を宇宙生物に見立てたSFや伝奇物は昔から数多く存在する。中には客観的にかなり信憑性がありそうな、主観的にはほぼ異議がない例もある。早い話、夜道で唐傘小僧がばふばふ飛び回りながら長い舌で俺の顔をぺろぺろなめてきたら自分の正気を疑うだけだが、山奥で河童や天狗が「いやほんと地球ってなんか住みにくかったわ」などと愚痴りながら迎えのUFOに乗りこんでいくのを見たら、「いやどうもお疲れ様でした」と手を振ってあげたい気がするではないか。
 俺以外の一同も「まあそんなもんかもしんない」みたいな顔をしている。
 もっともタマ自身は、ハテナと首をひねり、
「……遙かな宇宙から虹を越えてやってきた記憶はありませんが」
 そう言いつつも、口の周りにくっついた鯛のそぼろをなめとって、思わず威儀を正したりしている。
「龍造寺さんに拾われる前は?」
 牧さんが訊ねると、
「そんな大昔のことは、忘れようとしても思い出せません」
「物心つく前に拾われたのかもしれないよ。タマちゃんの寿命自体が法外に長いのだから、物心つくまで何十年、いや何百年も生きていた可能性だってある。明らかに流星や球電現象とは違う形態の『光り物』――いわゆるUFOの目撃例は、日本の文献でも中世まで遡れるからね」
「……なーる」
 俺は思わずつぶやいていた。
「つまりタマは、たまたま地球上の猫に似ていただけで……」
「たまたまタマ」
 すかさずボケてみせるタマに、牧さんはツッコまず、
「すべての形態が、実は擬態とも考えられる」
「いずれにせよ、俺たちには想像もつかないような別世界の……」
「そう。力いっぱい夢を見れば異世界、宗教に逃げればあの世(ヽヽヽ)――まあ現実的には、どこか未知の星から来たとしか考えられないわけだ」
 小川嬢がつぶやいた。
「地球外生物……」
 牧さんが訊ねた。
「君もそう考えていたのかい?」
「いえ――ちょっと気になることが」
 小川嬢は言った。
「所長には報告しておいたんですが、この一週間で十回ほど、うちのシステムに外部から不正なアクセスを試みた形跡があって」
「まさか君が組んだ防御壁(ウォール)が破られたわけじゃないだろうな」
「はい。それはありません。ただ――侵入経路が複雑すぎて完全な特定は不可能なんですが――二回はNASA、三回はペンタゴンの可能性が高いんです」
 アメリカ航空宇宙局とアメリカ国防総省――トンデモ話に耐性のある俺も、さすがに驚いた。もしや今回の趣向は、鍋島怪猫伝とXファイルのコラボ伝奇なのだろうか。
「……ありがちですね」
 そうつぶやくのが暎子ちゃんだったりすると、ますますもってホタテ貝、意味不明(C)筒井康隆である。
 一同てんでんばらばらに、とっちらかったり呆れたり黙考したり、鯛めしの残りを食い続けようか迷ったりしていると、
「いやあ、ただいま、諸君」
 名ばかり所長の的矢垣(まとやがき)さんが、廊下側のドアから、元高級官僚らしいリア充そのものの顔と姿を現した。
「そして牧君、突然なんだが今日の正午付けで、タマちゃんの研究担当は、こちらの方々に移ったから」
 的矢垣さんの後ろには、ぞろぞろと白衣の一群――白い巨塔名物・教授総回診っぽい隊列が続いていた。ただし先頭に立っているのは、老齢の西吾妻(にしあずま)教授ではなくニヒルな善哉(ぜんざい)助教授である。
「やあ、牧君」
「善哉さん……」
 見交わすふたりの視線の間に、なんじゃやら冷たい火花が散って見えた。かなりワケアリの間柄らしい。
 牧さんは言った。
「解せない話ですね。今回のような特殊な事案に、天下の東都大、それも第一外科が関わってくるとは」
「そこはそれ、文科省からの指示だから、私もそれに従うしかないのさ」
 善哉助教授は牧さんを鼻であしらい、
「さあタマちゃん、広くて立派なお部屋にお引っ越しだよ」
 タマは朝方の外科棟で善哉助教授を見かけたときのように、二叉尻尾をざわざわと逆立てた。
「……変ですよ牧さん」
 小川嬢が、童顔を強張らせて言った。
「モニターを見てください」
 壁際の大型テレビに写っていたお笑いコンビの顔が、ぱ、と別の画像に切り替わった。左右二分割、同じ人物らしい男の顔が並んで表示される。片側は僅かにブレを伴った動画、もう片方は静止画の顔写真である。
 善哉助教授の後ろに続いていた医師のひとりが、微かに頬を引きつらせた。テレビ画面の半分は、明らかに彼のリアルタイム動画だったのである。そして静止画の下方には、なんじゃやら英文のテキスト情報が、ずらずらと流れている。
 俺にはとても理解できないアルファベットの行列を、牧さんがすかさず読み取って言った。
「――なぜ第一外科の医師に、日系のCIA関係者が?」
 画面が切り替わり、別の医師が映し出される。同時に切り替わった隣の静止画に、新しいテキスト情報が流れる。
「――内閣調査室――別班?」
 全員が緊張する中で、公僕コンビ、とくに田所巡査長の表情は険しかった。
「……そんな話は聞いていないぞ」
 田所さんが属する警視庁の長は警視総監であり、それを任命するのは国家公安委員会だが、さらにその一番上にいるのは内閣総理大臣である。そして内閣調査室も総理大臣の配下だから、この場合、矢倍(やばい)総理が警視庁をつんぼ桟敷に置いて内調を動かし、あまつさえCIAの同道まで許したことになる。
「どうやらSRIの実力を見損なっていたらしい」
 善哉助教授が、ふてぶてしく笑った。
「私の秘書に転職しないかね、小川君。その情報収集能力なら、給料が一桁上がるよ」
「お断りします」
 小川嬢の顔は、さながら怒れるペコちゃんであった。
 俺はそのとき初めて、小川嬢が腰の後ろに回している両手の動きに気づいた。つまり彼女は総回診っぽい行列が姿を現した直後から、腕時計型のウェアラブル端末を操作してSRIのシステムにアクセスし、どこかにある監視カメラの映像を、SRIのデータバンク――おそらくは天才的なハッキング技術によって自ら築いたデータバンクと照合していたのである。
「そんな話は聞いていない!」
 田所巡査長が、繰り返し声高に言った。
「えーと、その、ちょっと待ってください」
 あくまで実直な椎名巡査は、専用回線の通信機を取り出し、ぴぽぴぽとどこかを呼び出した。
 龍造寺タマの身柄がどうのこうの移送命令がどうのこうの、しばしどこかの誰かと通話した後、
「やはり現状、そんな指令は出ておりません」
 田所巡査長がうなずき、善哉助教授に断固として告げた。
「したがって我々としては、上司の直近の指示どおり、タマちゃんをSRIエリアで保護し続けねばならない」
 すでに面の割れたふたりの偽医師が、その場に立ったまま、不穏な気配と微動を見せた。善哉助教授や他の医師たちとは違い、ふたりは白衣の前ボタンを止めていない。抜こうと思えばいつでも抜ける――そんな気配が窺えた。
 同時に公僕コンビも、気色ばんで身構えた。こないだまで腰にぶら下げていた飛び道具を、慣れない脇の下からいつでも抜けるように体勢を整えた――明らかにそんな動きであった。
 あっちのふたりは一見そこまで緊張していないようだが、感情を見せないがゆえに、なにか冷たい禍々しさが際立つ。公僕コンビが柳刃を構えたお袋だとすれば、相手は物言わぬ柳刃の切っ先そのものである。
 これがいわゆるプロの殺気というやつかもしんない――。
 俺は反射的にタマと暎子ちゃんを背中に回した。俺くらいハバがあると、女児のふたりくらいはすっぽりカバーできる。
 善哉助教授が不敵に言った。
「この国のお上は、警官に厳しいですよ。まあ確かにこちらにも多少の部外者はおりますが、大半は私の年来の部下、私も含めて一般市民です。流れ弾でも当たったらどうします」
「ご心配はありがたいが、あいにく我々が受けた命令は、あくまで龍造寺タマの身柄を死守することだ。一般市民とはいえ暴徒は暴徒、必要とあれば発砲も辞さない」
 緊張感MAXの中、牧さんが淡々と言った。
「それから善哉さん、学生時代からいつも僕を見下していた賢いあなたならお判りでしょうが、この状況は、そっくり録画録音されておりますよ」
「承知している」
「ほう、それで得心しました」
 牧さんは公僕コンビに目配せし、
「どのみちタマちゃんを含めて、最終的にはこの出来事自体を無かったこと(ヽヽヽヽヽヽ)にする――そうおっしゃっております」
 公僕コンビは、ますます臨戦の気配を強めた。
「そんな話は聞いていない……」
 的矢垣(まとやがき)所長が、田所巡査長と同じ言葉を、ずいぶん心細そうにつぶやいた。
「……あ、そうだそうだ。ちょっと大事な用事を思い出した」
 さすがは丸投げや頬被りに長けた元高級官僚、
「すみません皆さん後はよろしく」
 立つ鳥跡を濁さず、そそくさと退出してゆく。
 総回診軍団の大半も、こりゃもう一般市民としてはえんがちょえんがちょとばかり、所長に続いてわらわら逃げ出してゆく。
「そうでしたそうでした」
「じゃあまた」
「よろしく」
「お任せします」
「失礼」
(わたくし)やっぱり故郷(くに)に帰って親父の医院を継ぎますのでお世話になりましたさようなら善哉先生」
 善哉助教授は舌打ちしながら、残ったふたりの背後に回った。
「今ならまだ間に合うよ、牧君、タマちゃん」
 突っ張ってはいるが、さすがに片頬がピクついている。
 こうなると事実上、あっちのプロふたりとこっちのプロふたり、ドンパチ勝負の流れである。
 牧さんと俺は、それぞれ小川嬢や子供たち――片方は猫又だが――をかばいながら、そそくさとソファーの陰に這いずりこんだ。SRIフロアには、廊下を除いて直接外に逃げ出せるような窓がない。あったとしても、ここは最上階なのである。
 公僕コンビは、すかさずテーブルを盾にして膝立ちで陣取り、
「覚悟はいいな椎名君」
「はい――人を撃つのは初めてですが」
「ただの的と思え。死して屍ひろう者なし、そんな連中だ。その点こっちは立派な殉職だ」
「どっちもやだなあ」
 暎子ちゃんは俺の背中に張りつき、ぷるぷる震えている。多少は底知れなくとも、やっぱりいたいけな女児なのである。暎子ちゃんが握ってくる手を、俺もしっかり握り返した。
「太郎さん……」
「暎子ちゃん……」
 タマが、俺のTシャツの裾をつんつん引っ張った。
「なんだか私の影が薄くないですか、太郎」
 確かにもはや主役というより、ラグビーのボール的な立場である。
「ふたりくらいなら、まだ食べられますよ」
 しかし相手は丸腰ではない。
 俺は牧さんに訊ねた。
「タマが巨大化したら勝てますかね」
「いや、ぶ厚いとはいえ、あくまで毛皮だ。鉄砲玉は跳ね返せないだろう」
 確かに大概の化け猫は、しまいにゃ斬り殺されたり撃ち殺されたりしている。
「だそうだ。食うのはあっちが死んでからにしろ」
「躍り食いがいいんだけどなあ」
 そのとき銃声もなにも響かないまま、公僕コンビが盾にしているテーブルが、びしびしと揺れた。消音器を装着した自動拳銃の弾がめりこんだのである。
「ええいプスプスと屁のような弾を!」
 田所巡査長が応戦を開始した。こっちは公明正大な警官用のリボルバーだから、それはもう派手に銃声が響き渡る。
 椎名巡査も「うわやだこわい」などと言いつつ、ガンガン撃ちまくる。
 前のプロたちは扉の外に退き、プスプスと撃ち返してくる。
 俺の背中で暎子ちゃんが言った。
「やっぱり六年も待てません」
 ぷるぷる震えたまんま、両手で俺の腕にすがり、
「命があったらふたりでどこかに……」
 ものすごく嬉しいが、この状況では、駆け落ち前に命をなくしそうだ。
 タマが言った。
「そんなに私の影を薄くしたいのですか暎子」
 本気なんだかボケなんだか解らない。
 あーもう、なにがなにやら、一介の日雇い労働者にどうせいっつーねん――。
 直前のソファーにも、敵の弾が何発かぼすぼすと着弾した。
「荒川君、これを!」
 銃声の中で牧さんが叫んだ。
 牧さんの手には、なんじゃやら折りたたんだ百均のレインコートのような物件が握られていた。
「SRI謹製の防弾コートだ。ペラペラに見えて、マグナム弾も貫通しない」
 それはすごい、と感心しかけた俺だが、落ちこぼれたとはいえ義務教育の理科くらいは学んでいる。このペラペラそのものには穴が開かなくとも、ペラペラを引きずった弾丸が中身を直撃するのではないか。
 賢い牧さんは俺の疑問を察し、
「大丈夫! 衝撃もちゃんと分散する!」
 賢いだけでなく正直な人だから、
「まあアバラの二三本くらいは折れるかもしれないが」
 ――そ、それをなんで俺が?
「君がいちばんハバがある!」
 ――えとそれはつまり俺が先頭に立ってみんなの盾になっていっしょに逃げるみたいな?
「そのとおり!」
「…………」
 ……上等やないけ、と俺は腹を据えた。
 リアルロリとロリっぽい地球外生物とペコちゃんっぽい女性のためなら、アバラの二三本くらい惜しくはない。
 俺は暎子ちゃんや小林嬢の熱い視線を浴びつつ、ばさばさとコートを着こんだ。タマの「まあ召使いが御主人様の盾になるのは当然ですね」みたいな視線は想定内である。牧さんのあくまで冷静な表情はちょっとムカつくが、いざとなったらこの牧さんをひっつかんで盾にする手もある、などと考えてしまったのはナイショである。
 ぱっつんぱっつんになったコートは、顔まで覆うフードも含めて、どう見ても百均のビニール製であった。せめてハイテクっぽい模様くらいはプリントして欲しかったところだ。
「しっかり俺の後ろに!」
 横の一同、そして前方のテーブル陰にいた公僕コンビも、こくこくとうなずく。
 俺の頭の中で、某舶来特撮番組の勇壮な主題曲が鳴り響いた。
♪ じゃんじゃじゃじゃ~ん、じゃじゃじゃんじゃ、じゃんたららった、じゃんたららったんた~~~ん ♪
 サンダーバード――
「――ア、ゴー!!」
 俺は雄々しく発進した。
 まず公僕コンビが直後に続き、俺の両横からバンバン前方を撃ちまくる。他の一同も、その後ろに続いているはずだ。
「たたたたたたたた!」
 まさか真正面から突進してくるとは思わなかったのだろう、入り口の連中は一瞬ひるんだ。しかしそこはそれプロらしく瞬時に気を取り直し、扉から廊下へと後ずさりしつつ、俺の心臓と頭と両脚を確実に狙ってくる。
「あだだだだだだだ!」
 幸い骨まで砕けはしないが、青タン確実ひょっとしたら骨にヒビ、そんな衝撃があっちこっちに走った。
 公僕コンビの弾も、たまには連中の胸や腹に当たっているのだが、あっちも上着の下に防弾チョッキを着こんでいるらしく、応戦の手を緩めない。
 ――上等やないけ!
「どどどどどどどど!」
 自慢になるが、アドレナリンだだ漏れのおたくに常識を期待しても無駄である。おたくにとって自分の生死は嗜好対象の下位でしかないのだ。
 ――ああ、俺はもうロリおた人生のてっぺん、今ここで死ぬべき!
 前の連中に微妙な隙が見えた。ぱっつんぱっつんのビニールデブに怯えたわけではないだろう。医師に変装していただけに拳銃はそれぞれ一丁、お互いの弾倉交換をカバーしながらの応戦なのである。
 ならばお巡りもいっしょやないけ、とツッコむ向きもあろうが、
「わははははははは!」
 田所巡査長は、三丁め四丁めのリボルバーをあっちこっちから手品のように引っ張り出し、
「特命警護官に銃刀法は通用せんぞ、このゴキブリども!」
 こないだまでの穏健なお巡り顔が嘘のようだ。
 椎名巡査などは、ブチ切れたつまみ枝豆氏のように――いやネットで噂に聞いただけだが――ウラナリ顔を引きつらせて、
「タイホするタイホするタイホする!」
 もはや目ん玉つながりのお巡りさん状態である。日本の警官が多く溜めこんでいるという就職以来の発砲願望を、一気に発散しているのだろう。
 カミカゼ特攻の気合いに負けて、日系CIA野郎のほうが両手を挙げた。いや単に弾倉が尽きたのかもしれない。
 俺はカミカゼ対カミカゼのイキオイで、内調別班野郎にぶち当たった。
「どっせーい!」
 あっちも百戦錬磨のプロなのだろうが所詮ミドル級の人間、突進してくるカバには抗えない。まして防弾仕様のカバである。俺の腹の下敷きになった内調野郎は、ぐえ、と呻いて失神した。三十余年蓄え続けた皮下脂肪と内臓脂肪の勝利である。
 公僕コンビがCIA野郎を取り押さえる。
 逃げだす善哉助教授を、牧さんが後ろから「ていっ」と突っ転ばす。
 これにて一件落着――。
 と思いきや、廊下の彼方から、またぞろ白衣の一団がどどどどどと姿を現した。今度の総回診は全速力、肉弾戦のイキオイである。
 善哉助教授がわたわたとそっちに手を振り回し、ひいひいと這いずって助けを求める。
 こ、これはなんぼなんでも多勢に無勢――思わず怯んだ俺たちの後方から、
「ぐなおう!」
 巨大人面猫が頭上を飛び越し、着地しながら前足で、べん、と善哉助教授を押さえつけた。
「ぐえ」
「ぐるるるる……」
 うわ主役を張りたい気持ちは解るが無謀だぞタマ――。
 追加の一団にも、明らかに飛び道具を手にした奴が混じっている。
「元の部屋へ!」
 俺は焦って後ろのメンバーに叫んだ。
「椎名君、その子たちを!」
 田所巡査長の命に従い、椎名巡査が女子供を応接間に退かせる。
 俺はタマに駆け寄った。
 田所巡査長は内調野郎に銃を突きつけたまま、俺に追随していた。牧さんもいっしょである。
 白衣の一団が立ち止まった。
「ぐるるるる……」
 連中とタマ、間合いを計るように対峙することしばし、
「……大丈夫、僕たちは君の味方だよ、タマちゃん」
 そう言いながら、先頭の白衣がひとり、ぬい、と歩を進めた。
 善哉助教授が、苦々しげにつぶやいた。
「里芋君……」
 山本學さんみたいな里芋助教授は、善哉助教授に冷ややかな目を向けて、
「善哉さん、こんな暴挙が許されると思いますか」
「いや、僕だって、まさかこんな事態になるとは思わなかったんだ。単に研究対象を委譲してもらうだけのはずだった」
「しかしSRIから東都大に移して、なんの意味があるのです。生物物理の分野なら、むしろ牧さんのほうが経験豊富じゃありませんか。私が知る限り、学内にそれらしい動きもない。その代わり、なぜかハーバード大に在籍する私の知人――分子生物学の研究者から、妙な噂が流れてきております。近々、非常に興味深い検体が国外から届く――そんな噂です」
「……否定はしない。そもそも今回の件には、高度に政治的な外交上の判断が絡んでいるのだ。この化け猫いやタマちゃんを、すみやかにハーバード大学の生物学研究班に委ねる――それが矢倍(やばい)総理のご意向なのだよ」
「そして仲介者のあなたは、ハーバードの医学大学院(メディカル・スクール)に教授の座を得る――そんな段取りだそうですね。あくまで私の聞いた噂ですが」
「……それも否定しない。しかし、けして私利私欲のためじゃない。研究のためだ。我々学究の徒が、より良い研究環境を求めるのは当然じゃないか。同時にタマちゃんの研究環境だって、SRIや東都大よりも格段に向上する。そして君自身にとっても、けして悪い話じゃないはずだ。僕が東都大を去れば、第一外科の次期教授候補は君しかいなくなる」
 タマに押さえつけられながらも整然と釈明する度胸は、さすがに田宮二郎っぽいキャラである。
「米国に委譲することが問題なのです」
 凜とした声でそう発言したのは、里芋助教授ではなかった。
 里芋助教授の後ろから、ひとりの男が歩み出た。壮年の風格と青年の精悍さを兼ね備えた、適度に屈強そうな体躯の、かなり渡瀬恒彦さんっぽい人である。
 おや、と田所巡査長が首を傾げた。俺も男の顔に見覚えがあった。今朝方、俺んちの前で、電気工事用のリフトに乗っていた高所作業員と同じ顔である。
 男は田所巡査長に、力強く敬礼して言った。
「陸上幕僚監部運用支援別班、元1等陸尉の富士崎(ふじさき)と申します。ご存じのとおりいないはず(ヽヽヽヽヽ)の立場ですので、現在は階級の外におりますが」
 富士崎さんの背後の白衣たちも、一斉に、ぴん、と背筋を伸ばした。どうやら全員が富士崎さんの配下らしい。
 田所巡査長が、うむ、とうなずいた。内調野郎を抱えていなかったら、きっちり敬礼を返すところだろう。
 富士崎元1等陸尉――俺はまたまた激しくときめいてしまった。映画版『白い巨塔』と同じ山本薩夫監督の『皇帝のいない八月』、あれでクーデター計画を主導したバリバリの皇道派の人にそっくりではないか。もしかして奥さんも吉永小百合さんにそっくりだったりするのだろうか。
「里芋君……君は確か、全共闘上がりだったな」
 善哉助教授が怪訝そうに言った。
「そんなコテコテ左巻きの君が、なぜ陸自などの手先に。そもそも陸自は内調と同根、総理の意向で動くはず」
「私はけして左巻きではありませんよ。そしてこの方々は、まあいわゆるコテコテの右巻きではあるのでしょうが、それゆえにこそ深く思うところがあるのです」
 富士崎さんが言葉を引き継いだ。
「我々は矢倍総理のおっしゃる愛国――他国の国益を優先するがごとき愛国には、必ずしも同調しません。つまり米国の傀儡であることを潔しとしません。それが、ないはず(ヽヽヽヽ)の部隊の総意であるとお考えください」
 牧さんが、軽くぱちぱちと拍手してみせた。
「僕はノンポリそのものだけど、少なくともタマちゃんが秘めている生物学的な無限の可能性は、とりあえずストレートにこの国の国益に繋げたいね。体細胞の意図的制御、生得的なアンチエイジング、他の個体からの記憶抽出――そのひとつでもメカニズムを解明すれば、国際社会において核をも凌ぐ切り札、それも平和的な切り札になる」
 おお、なんかこれはすでに伝奇を越えた、社会派ポリティカル・フィクションの世界――。
 脳内麻薬の自家中毒状態で突っ立っている俺に、巨大人面タマが顔を向けた。
「……ぐな?」
 かなり困っている顔だった。
「ぐな、ぐななあ、ぐななぐなぐな? ぐな」
 ――この人たち、いったいなんの話をしているのかなあ、太郎。
「いや、あとで教えてやるから」
 タマは前足の下で蠢いている善哉助教授をしげしげと見下ろし、
「ななあ、ぐななん、ぐおなーご? ぐな」
 ――とりあえずコレは躍り食いにしていいよね、太郎。
「それもあとでな」
 タマはご機嫌ななめな声で、
「うなななな、うなななご、ぐな」
 ――おなかすいた、なんかくれ太郎。
 巨大化すると、やたら腹が減るらしいのである。
 そんなタマ語を、まさか理解したわけでもなかろうが、
「それではタマちゃん、お近づきの印に――」
 里芋助教授が言って、富士崎さんに目配せした。
 富士崎さんが配下の連中になんじゃやら手振りで促すと、一団の中から、さらに屈強そうな男が歩み出た。
 男は白衣の背中に片手を回し、ぬい、と何物かを引き出した。
 見事なマグロであった。
 推定体長一メートル半、推定重量百キロ超の、黒光りするホンマグロ。それも冷凍物や解凍物ではない。男に尻尾を掴まれたまま、びっちんびっちん跳ね回っている。
 里芋助教授は言った。
「昼前まで太平洋を泳いでいた上物だよ」
 富士崎さんが付言した。
「おかわりが欲しければ、すぐに海自のシンパが調達してくれる」
 巨大人面タマは、母猫に全幅の信頼を寄せる子猫のように、緊張感のカケラもない声で鳴いた。
「……うにゃ~~ん」
 俺は思った。
 できれば大トロを少々――それが無理なら、せめてカブトだけでも食い残して召使いにくれまいか、御主人様――。

     5

「――は?」
 SRIの応接室に戻り、直属の上司と通信を交わしていた田所巡査長が、きわめておまぬけな声を上げた。
 病院からの通報で駆けつけた所轄署の警官や刑事が右往左往する中、
「『そんな犯人はいない』とは、一体どういうことでしょう。現に二名、現行犯逮捕しておりますが」
 当惑して通信を続ける田所巡査長を横目で見ながら、富士崎さんが俺たちに言った。
「どうやら警視庁にも、どなたかの根回しが届いたようですね」
 その表情は苦笑に近かった。
「死して屍ひろう者なし――もっともらしく潔いように聞こえますが、要は生きている間も人にあらず、ただの傀儡(くぐつ)なのですよ。存在を認める上層部などおりません」
 死して屍ひろう者なし――田所巡査長や富士崎さんが引用したフレーズは、懐かしの連続テレビ時代劇『大江戸捜査網』で、隠密同心とやらの心得を説くナレーションの、キメの一節だったと記憶している。昭和レトロなワンパ時代劇ながら未だに根強い人気を保ち、平成に入っても新シリーズが制作されたり、つい二三年前にも単発の特番が放送されたりしたが、それらの新作でも同じナレーションが流れていたかどうか、俺は見ていないので判らない。俺がそのフレーズを知っているのは、子供の頃に元祖の昭和版が何度も何度も再放送されていたのを、かっけーかっけーと感心して見ていたからだ。でもまあ、あれがかっこいいのはあくまで架空の職制だからであって、現実の秘密捜査官や諜報員などというシロモノは、かっこよく目立ってしまったら、その時点でアウトなのである。
 田所巡査長は、憮然として通信を終えた。
「……『暴力団がらみの発砲事件、被害者はなく容疑者は全員逃亡』……だそうだ」
 まあ世の中そんなもんだろう、と俺は思った。俺が総理やCIA長官だとしても、そんなもんで済ませるだろう。もともといないはずの連中が展開した騒ぎなのだから「私ら、そんな方々は存じ上げません」だけで充分なのだ。口封じの必要すらない。あえてしつこくツッコまれたとしても、「え? 私らの命令で龍造寺タマさんを拉致しようとした? なんですかそれ。その方々、頭おかしいんじゃないですか」とか「え? データベース? どこのデータベースですか? ウチのデータベースにはそんな人いませんよ初めっから」とか、てっぺんレベルでバックレてしまえば無問題だ。
 当初は張り切って現場検証を進めていた所轄署の連中も、いつの間にやら、明らかに証拠隠滅的な挙動を見せている。ちなみに善哉(ぜんざい)助教授と里芋(さといも)助教授は、とうに西吾妻(にしあずま)教授に呼ばれて姿を消している。
 刑事のひとりが、自前の通信機を懐に収めながら近づいてきて、田所巡査長にぺこぺこと頭を下げた。
「えと……なんか、その……後はよろしくお願いします田所さん。いや上からの指示で、我々は銃弾や薬莢の回収が済みしだい、全員引き揚げますんで。後はその、的矢垣(まとやがき)所長がすべて心得ておられると……いや上からの指示なもんで」
 田所巡査長はうんざりした顔で、へいへいとうなずいた。
 富士崎さんが刑事に意地悪くツッコんだ。
「そういたしますと我々は? よろしければ暴力団を代表して、そちらに同行いたしますが」
「あ、いや、えとその……皆さん、事実上すでに逃亡されておりますんで、実はもういらっしゃらない、とまあ、そーゆーことで……あ、いやえとその、上からの指示なもんで」
 所轄署の連中は、ものの数分で現場から引き揚げていった。
 田所巡査長は、ふんじばったCIA野郎と内調野郎を前に、本気で悩んでいた。
「……どうしたもんかねえ、この連中」
 椎名巡査も同様、首を傾げるばかりである。
 俺は、はい、と元気よく手を上げて提案した。
「スマキにして不忍池に沈めましょう。身元不明の土左衛門にすれば、区役所で焼いたり埋めたり、それなりに始末してくれます」
 半分はイヤミだが、半分は本気だった。なにせ体中を青タンだらけにされた恨みがある。その種のダメージは、後からどんどん痛みがひどくなるのだ。現に体中がズキズキ疼きまくっている。
 ふたりの隠密は、何を聞いても顔色ひとつ変えなかった。逃げる機会があれば逃げるし、駄目なら人生そこでアガリ――そんな顔である。プロらしい達観にせよ諦念にせよ、傀儡(くぐつ)とは哀しいものである。
「いないはずの連中は、いないはずの方々にお任せしましょう」
 牧さんが言った。
「どっちもみんな、すでに逃亡してるわけですから」
「お任せください」
 富士崎さんは敬礼して言った。
「いない者同士なら、いくらでも使い道はあります」
 田所巡査長が、渋い顔で訊ねた。
「しかし、そちらの上のほうにも、その、どこぞから根回しとやらが届くのでは?」
「ご心配なく。我々は総理とも防衛相とも一線を画しておりますから」
 富士崎さんが言いきった。
「我々は、この国の民草の下で働いております」
 つくづくキメてくれる人である。
 退却間際、富士崎さんは言い残した。
「国内の各勢力は当面静観に回ると思われますが、米国の出方は楽観できません。特にタロット大統領は未知数です。元来の来し方が場当たりな上、国内的にも国際的にも切羽詰まっておりますから。我々も陰ながら目を光らせておりますが、皆さんご自身、充分にお気をつけください」
          *
 すべての部外者がSRIフロアから姿を消すと、牧さんは奥のオフィスに声をかけた。
「おーい、お嬢様方、もう大丈夫だよ」
 ドアの向こうのオフィスでは、なぜかホンマグロの解体ショーが展開していた。
 いやもちろん基本的には小洒落た机や事務機器が並ぶ一般的なオフィスなのだが、机のひとつは解体専用台と化し、小林嬢がなんじゃやらレーザーだか超音波だかハイテクっぽいメスを振るって大まかに下ろしたマグロを、暎子ちゃんが出刃包丁でせっせとサクどりしている。もしここに俺のお袋がいれば、いつもスーパーの鮮魚売り場でやっているように、得意の柳刃で刺身パックを量産するところだろう。
 タマは巨大猫モードのまま隣の机の上にどーんと陣取り、暎子ちゃんが皿に盛って差し出すサクの山を、ただひたすら食らいまくっている。
「がふがふ、がふがふ」
「……躍り食いがいいんじゃなかったのか?」
 食うのに夢中で反応しないタマの代わりに、暎子ちゃんが答えてくれた。
「マグロやカツオは切り身のほうがいいそうです」
 鼠や人間ほど(なぶ)りがいがないからだろうか。
 小林嬢が言った。
「すごいですよ皆さん。大トロや中トロが、こーんなに沢山! とうぶん食べ放題!」
 確かに解体台の大皿には、見るからにトロトロのサクが、てんこ盛りに残っている。隣でタマがかっ食らっているのは、なぜか赤っぽいサクばかりだ。
「ぐみゃぐみゃ、ぐみゃぐみゃ」
 口元から赤い涎を垂らして咀嚼する様は、俺から見れば野獣のようでかなり腰が引けるが、暎子ちゃんは小猫でも見守るように目を細め、
「大きくなると、好みも野性化するみたいですね。生のお魚は、赤っぽいところが一番だそうです。血合い肉なんか、真っ先に全部食べちゃいました」
 なるほど、さすがは元野良育ちの御主人様、生きるための血肉に直結する部位を、本能的に優先するのだろう。そういえばあの河川敷のボス野良も、お上品なツナ系より、特売の赤黒くて生臭い猫缶を好んでいた。
 ならば――満腹して食べ残すのは、白っぽい皿のほう?
 タマは横目でこっちを睨み、
「ぐおがお、ぐなおう、なんなななん」
 下僕はそっちのアブラ身で我慢しなさい――そう言っているのである。俺の物欲しげな気配を誤解したらしい。
「……わかった」
 俺は内心の歓喜を隠し、せいぜい悔しそうに言った。
「召使いは残飯で我慢することにしよう」
 そこに、ようやく的矢垣(まとやがき)所長が姿を現した。
「いやあ、お待たせしました諸君。なんか色々、用件が長引いてしまってね」
 などと言いつつ、肩にぶら下げていたクーラーバッグをどーんと卓上に置いて、
「タマちゃんや」
「ぐみゃ?」
「ちょっとお裾分けをもらえないかな、アラやカブトでいいから」
「ぐななん、ぐななんなん。がふがふがふ」
 赤身以外は好きにしなさい――気前よく応じて食い続けるタマは別状、俺たちは、かなり呆れていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 この天下り爺さんの根性だけは計り知れない――そんな視線を一身に浴びた的矢垣所長は、なんら悪びれることなく、視線の主たちの中から牧さんを選び、訳知り顔で言った。
「牧君」
「……はい」
「君も現在は、立派な文科省外郭団体職員のひとりだ」
「……はい」
「今は専門職だが、君の実力なら、いずれ管理職の座につく日がくるだろう」
「……はい」
「そのための心得を、ここで、みっつほど伝授しておこう。専門知識以上に、管理職には不可欠な心得ばかりだ」
「……はい」
 的矢垣所長は老狐のように微笑し、
「ひとつ、己の属する組織の上層から下層まで、すべてを熟知した上で、そのことを徹底的に韜晦(とうかい)する」
「……はい」
「ふたつ、上層と下層のバランスを保つため、あくまで懸架装置(サスペンション)あるいは防振機構(インシュレーター)として、徹底的に自己欺瞞を固持する」
「……はい」
「みっつ、つつがなく退職金を受けとって無事に天下ってしまえば韜晦も欺瞞もハイサヨウナラ、後は野となれ山となれ――以上だ」
「……わかるような気がします」
「と、ゆーわけで」
 的矢垣所長は老狸のように破顔し、
「タマちゃん研究に携わるSRI職員の今夏のボーナスは、基本給プラス各種手当の十ヶ月分、そう決まったからね。いや、私も試しに吹っかけてみただけなんだが、文科省がすんなり受けてくれてね」
 牧さんと小川嬢の顔が、ドン前のピカのように白閃した。
 うわすげえいいなあいいなあ――複雑微妙な顔をしている公僕コンビに、的矢垣所長は続けて言った。
「特命警護官の方々も、タマちゃん専任として、警視庁からほぼ同等の処遇が期待できるはずだ」
 公僕コンビの顔も、リトルボーイ級に白閃した。
「あの、えと、俺は……」
 今どき正規雇用の方々と互角に張り合う気はないが、現場で体を張って3Kに甘んじる非正規労働者にも、なんらかの見返りがあってしかるべきなのではないか。
「荒川君にも、公安がそれなりの考慮を払ってくれるはずだよ」
 的矢垣所長は、ちょっと申し訳なさそうに言った。
「せめてSRI(うち)の契約君たちと同額、時給千六百円相当を進言しておいた」
 あれ? 確かに無資格フリーターとしては破格の時給だけど、それだと残業入れても日給二万より減っちゃうような――。
「ただし荒川君は自宅でも終日タマちゃんに仕えているわけだから、一日二十四時間計算で残業分は当然二十五パーセント増し――そんな線で提案してみたんだが」
 浅学な俺は、電卓を叩かないと正確な金額が判らない。それでも、とてつもなくシヤワセな予感がした。
「一日四万四千八百円ですね」
 算盤塾に通っている暎子ちゃんが、即座に暗算してくれた。
「ひと月三十日だとして、百三十四万四千……あれ?」
 さしもの成績優秀いいんちょタイプも、一般庶民の金銭感覚とかけ離れた数字に、自信なさそうに首をひねった。
「御名算」
 牧さんがきっぱり言った。
「年中無休で一年三百六十五日お仕えすれば、年収一千六百三十五万二千円――僕より遙かに勝ち組だね。まあ所長には叶わないだろうが」
 俺は思わず暎子ちゃんに向かって、ぱあっ、と両腕を広げていた。
 I'm the king of the world! ――来なさい!
 暎子ちゃんも、周囲に赤い薔薇の花を散らしながら両腕を広げ、ダッシュの体勢に入った。
「えーと、荒川君」
 田所巡査長が言った。
「そのまま続けると現行犯逮捕だよ」
 そうだった。まだ六年早いのだ――。
 賢い暎子ちゃんはくるりとダッシュの向きを変え、タマの首っ玉にしがみついた。
「うな?」
「なでくりなでくり」
「うみゃうみゃうみゃ」
 俺は力いっぱい広げた両腕の始末に困り、数瞬迷った末に、
「……はい、それでは皆さん、お手を拝借」
 幸い誰からも異議は出ず、
「よーおっ」
 ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱんぱん。
「ありがとうございました!」
          *
 ちなみにこれは後の話になるが、里芋助教授は翌年無事に教授に昇進し、退職した西吾妻教授に代わって、長く第一外科の中核を担ったという。いっぽう善哉助教授は、懲戒免職になって尾羽うち枯らして行方知れず――と言いたいところだが、そこはそれ親方日の丸、遠方の某国立医療施設に左遷されただけで一件落着、田舎なりの名声やら野望やらを、生涯ニヒルに追い求め続けたという。
 
 
 

第四話 ロシアより他意をこめて

 
 
    1

 しかしまあ世の中に労働基準法という立派なんだかザルなんだかよくわからない法律が存在する以上、非正規労働者である俺は、同一の雇主と一日二十四時間年中無休で時給契約を結ぶわけにはいかない。雇用者側の責任で過労死する権利は、正規労働者にしか付与されない特権なのである。
 結局、俺は公安の日雇い公僕を辞し、文科省と新たな契約を結ぶことになった。特殊な生物を専門に飼育し研究用としてSRIに貸し出す個人事業者、そんな立場である。貸出料は年間契約で一千万、契約締結日に半金の五百万が支払われ、満了後に残り半金と各種の特別手当が精算される。月収百万越えはさすがに夢と消えたが、正直に青色申告しても牧さんより勝ち組なのは間違いない。ただしぶっちゃけ水商売、芸達者な猫タレントが一匹とマネージャーがひとりしかいない自称動物プロダクションみたいなものだから、タレントさんの人気が落ちたら、次年度も契約更新できる保証はない。
「まあ大丈夫だろう」
 と牧さんは言う。
「一年や二年で終わる研究じゃないし、そのうち研究結果が経済効果に繋がったら、荒川プロダクションも当然権利を主張できる。十年後には億単位の歩合だって望めるかもしれないよ。ただし肝腎のタマちゃんにゴネられたら、それまでだけどね」
 幸いにして、タマは今のところ荒川プロの待遇に不満がないようだ。それどころか、俺がわざわざ立派なベッドやフカフカの布団を買ってやったのに、いつのまにか俺の寝床に潜りこんでいっしょに寝ていたりする。尊大な御主人様としては、気が向いたらいつでも召使いを湯たんぽにしたり、引っ掻いたり噛みついたり肉球でサンドバック代わりにしたり、災害時には非常用食料にもできる環境ほうが、豪邸や羽毛布団より好ましいのだろう。
 犬は人に付き猫は家に付く、などという一般論があるが、犬だって猫だって、要は最もストレスの少ない環境を望むだけの話である。それが彼ら彼女らにとっては、人で言う『愛』なのだ。
          *
 年間契約のメリットは、梅雨が明けて夏本番が近づいた七月なかば、てきめんに現れた。
 それまでは、社畜ならぬ研畜の牧さんに請われて土日祝日も休まずSRI通いをしていたのが、各種細胞の検体や生物学上のデータが揃ってくると、牧さんはそっちの培養試験やら解析やらに時間を割き始め、タマ自身は必ずしも毎日SRIに顔を出す必要がなくなってきたのである。それに筋金入りの研畜である牧さんも、たまには私用で休んだり、過労で二三日ぶっ倒れたりするから、そんなときにはこっちも丸っきりフリーになる。日雇い用語でいうアブレ(ヽヽヽ)、日銭が一銭も入らない。その点、年間契約なら一定の年収は確約されているわけだ。
 とはいえ、いつなんどき検体の追加や情報の補填を求められるか判らないので、そうそう勝手に遠出はできない。タマ自身も根が家猫だから、基本、餌場や縄張りを離れたがらず、おおむね荒川プロダクション、つまり俺の家で俺といっしょにゴロゴロしている。
『明日から、もう夏休みだよ』
 ある晩、そんな暎子ちゃんのメールをスマホで受けたタマは、
『夏休み? 何それ、おいしいの?』
 などときっちりボケをかましたのち、ちょいちょいと送受信を繰り返してから、俺に訊ねた。
「明日の土曜、スケジュール空いてるよね、太郎」
「おう。牧さんが実家の法事とかで連休とったから、こっちも土日連休だ」
「じゃあ連チャンで、お出かけ決定!」
 暎子ちゃんと合議の結果、土曜は花やしきをメインに浅草見物、日曜は東京名所観光ミニツアー、そんな日程が組まれたようだ。
 メールの行き来が終わると、タマは俺のタオルケットの胸元に、「ほい」とスマホを返却した。それまでずっと、床の煎餅布団で寝ている俺の腹をクッション代わりにして、スマホをつるつるしていたのである。
「せめて夏場はベッドでくつろいでくれ。暑っ苦しくてかなわん」
 ちなみにタマの猫娘モードでの毛皮、もといゴスロリ衣装は、梅雨明けあたりから涼しげなリネンっぽい薄地に衣替えしている。大小の猫又モードでも、サラサラの夏毛に変わっている。だから以前ほどにはモフモフしないのだが、そもそも猫の体温は年中無休で人間より高いから、俺にとっては夏場に湯たんぽを抱かされるようなものである。
 タマは俺の腹にべったりと体をあずけ、
「やだ。太郎の肉布団がいい」
 一度お気に入りの定位置を見つけた猫は、あくまでそこに固執する。
「あっちの布団は、なんか匂いが薄くて物足りない」
 新しいベッドにも、タマ自身のマーキングは済んでいるはずである。ということは、俺の汗や唾液も馴染ませてやらないと、あっちに寝てくれないのだろうか。
「スマホだって、お前専用のやつを、ちゃんと買ってやったろう」
 芸達者な御主人様の稼ぎに報いるべく、最新のハイエンド端末を見繕ってやったのに、タマはベッドの枕元に放りっぱなしだ。
「設定とか、なんかめんどくさい。それに、やっぱり太郎の匂いがしない」
 俺のスマホは、そんなに匂うのだろうか。
「ふああああ」
 ともあれタマは、一般の女児には不可能な大あくび――顔面の八割を口にしたのち、ごそごそと俺のタオルケットに潜りこんできた。
 えーと、ここで念のため。
 良識ある方々の顰蹙や、アグ●ス・チャ●の超音波攻撃を避けるために明言しておくが、俺と同衾するときのタマは、常に一般サイズの三毛猫モードになる。なにせ俺自身のハバがハンパではないから、寝袋にせよタオルケットにせよ、そうしないと一緒の寝具に収まれないのである。したがって、俺と近似した趣味嗜好の方々がわくわくと心待ちにしているようなR18系のイケナイ読者サービスなどは、残念ながら、ちっとも展開しないのである。
 まあ、ここまで根気よく読み進めてくれるほど奇特な方なら、サラサラの三毛猫と添い寝するだけで、ある種のエクスタシーに達してくれるかもしれないが。
          *
 しかし翌朝、俺はとんでもねー不吉な夢に魘され、寝汗ならぬ冷や汗にまみれて目を覚ました。寝ている俺の胸元を、血まみれの水子が恨めしげに咽び泣きながら這い上がってくる夢だった。原因は目を開けてすぐに解った。タマが俺の胸の真上で丸くなっている。
 飼い猫を寝室から閉め出さずに眠ると、胸に乗っかられて悪夢を見るのは、愛猫家にとってさほど珍しい経験ではない。俺もついこないだ、頭に手拭いを被った猫又の群れが盆踊りしながら俺の胸の上を次々と踏み越えてゆく夢を見、思わずタマごと払い落としたことがある。そのときは逆上したタマに猫又数匹ぶんの折檻を受け、大いに流血した。
 幸い今回は、身じろぎする前に目が覚めたが――それにしても、なんで水子。
 直前まで紛れもなく実感していた陰鬱な水子の蠢きと、その種の鬱屈から無慮百億万光年は隔たった能天気なタマの寝姿の狭間で、俺は、過去の俺自身の中道に感謝していた。
 前述したように、こんな俺でも僅かながら生身のJKとにゃんにゃんした経験がある。その頃の俺は体重や体積に比例する理性、あるいは反比例する蚤の心臓の持ち主だったので、にゃんにゃん時には常にコンちゃんの着用を遵守していた。しかし、やがて俺を見限って中年教師に鞍替えしてからの彼女は、一度ならず人工中絶の世話になったと噂に聞く。そのせいかどうか定かではないが、さらに別の小金持ちに乗り換えて正式に結婚してから、彼女が子宝に恵まれたという噂を聞かない。
 この国の女児たちの発育がなんぼ早くなったからといって、女性という高等生物の妊娠出産適齢期は、時代時代の結婚年齢や平均寿命とは関わりなく、やはり生物学的に二十代なかば以降なのである。
 しかしそうなると、無事に六年を持ち堪えて暎子ちゃんをGETしたとしても、とうぶん子作りは先になってしまうなあ。でもまあ形だけの繁殖行為なら、コンちゃんがあれば無問題だわなあ。六年たったら、今の暎子ちゃんのつつましやかな胸も、ずいぶん膨らんでいるのだろうなあ。大人の事情で曖昧に表現せざるを得ないある部位に、ある種の体毛が現在生じているかいないかは目視したとたんに現行犯逮捕されてしまうので今の俺には確認できないが、六年後には確実に以下十七文字自主規制。ロリおた野郎としてはちょっと残念な気もするがそれもまた天然の摂理、芝生にしろ密林にしろそれなりに以下八文字自主規制。
 などと、起きがけのまどろみの中でついつい鬼畜に堕ちかけながら、ふと俺が薄目を開けると、
「おはようございます」
 目の前に暎子ちゃんの顔があった。
 夢ではない。現状のリアルJS暎子ちゃんが、すぐ横に正座してにこにこ笑っているのである。
「うわああああああ!」
 俺は反射的に上半身だけ飛び起き、すざざざざと背後の壁際まで瞬間移動していた。
 煽りを食らって、丸まったまんま宙に舞うタマを、
「ほいっ」
 暎子ちゃんが、すかさず腰を浮かしてキャッチしてくれた。
 それはもう流れるがごとくナイスなキャッチだったので、タマは何が起きたのか自覚できなかったらしく、
「うみゃ? ……すりすりすり」
 目を細めたまんま暎子ちゃんの胸にすりすりしたのち、すみやかに二度寝に就いた。
「くーくー」
 暎子ちゃんはよしよしとタマを撫でながら、俺に微笑みかけ、
「まだ寝てて大丈夫ですよ。お父さんもお母さんもお仕事に出かけちゃいましたけど、花やしきは十時からですから」
 俺は壁際の本棚に背中をめりこませたまま、ぎくしゃくとうなずいた。
 ふと気づけば俺の周囲の床には、本棚から転げ落ちた吊りスカート&ランドセル姿のドールたちが、パンチラ状態で散乱している。
 俺は挙動に窮してしまった。
「…………」
 あわてて掻き集め、タオルケットの下に隠蔽してしまうのがいいか――いや心なき人形とはいえみんな俺の美意識のカタマリなのだから、ちゃんとスカートを整えてランドセルもきちんと背負わせて、元どおり本棚に淸く正しく美しく整列させてやるべきか――。
 大いに懊悩する俺とは別状、暎子ちゃんはちっとも動ぜず、
「気にしなくていいですよ。太郎さんの趣味は解ってますから」
 言いながらタマを布団に寝かせ、すっ、と立ち上がり、
「だから私も、今日は、こっち方向でキメてみました」
「おお……」
 なるほど、本日の暎子ちゃんは吊りスカート姿――正確にはサスペンダー付きのセミショートスカート姿であった。
 柄はシンプルな白と黒のチェック――と思いきや、よく見れば細密な千鳥格子、シックな英国風のハウンドトゥース・チェックである。半袖の白いブラウスも、一見質素ながら胸のあたりにはきっちりペイネの刺繍が施してあり、袖にはやや大人っぽい、エレガンスなフレアが揺れている。そして子鹿のようなおみ足には、いつもの清楚な白いニーハイ。まだ大人じゃありませんけど、もう子供でもないんですよ――そんな、処女性を強調すればするほど蠱惑感が募る女児美の発露においては、こないだのホットパンツ姿よりも、奥ゆかしいぶんだけ遙かにグレードアップしている。
 なまんだぶなまんだぶなまんだぶ――。
 脳内念仏会状態の俺に、暎子ちゃんは悪戯っぽく笑って、
「でも、さすがに遊園地で、お子様ショーツは危険ですよね」
 ちらりとめくって見せたスカートの下には、長めのインナーパンツの裾が見えた。
 俺は思わず、グッジョブ、と親指を立てた。こんだけキュートの限りを尽くした上、遊園地や児童公園に少なからず跳梁する不逞の輩にきわどいパンチラを披露するなど、天が許しても俺が許さない。まあ俺の目にだけなら許すんだけども。
 暎子ちゃんは手品のように、ひょい、と片手を翻し、丸まっこい麦藁帽子を頭に乗せた。
「帽子はタマちゃんに対抗してみました」
 そんなアイテムをどこで見つけてくるやら、涼しげな麦藁の丸みの両側には、ちんまりした猫耳っぽいトンガリがふたつ、ちゃんと同じ素材で編み上げられていた。安手の縫い付け物件などで鼻につきがちな『萌え』の強要が微塵も感じられない、年季の入った匠の手仕事である。どこか老舗帽子店のオリジナル品だろうか。
「確かに、その耳はスグレモノです」
 いつのまに目を覚ましたやら、女児モードのタマが、ぬい、と暎子ちゃんの横に立った。
「でも、パンツなら負けません」
 がば、とゴスロリ衣装をまくり上げ、夏物のショート・ズロースを見せびらかす。
「見なさい。これが正しいパンツです」
 確かに正調ゴシック様式の典雅な下着ではある。あくまで主役を張りたい気持ちも解る。しかし自分から丸出しにした段階で、すでに敗北している。今どき丸出しで勝てるのは幼稚園児までだ。
 俺は厳かに言った。
「『秘すれば花』――そんな言葉を知っているか、タマ」
 タマは丸出しのまま首を傾げた。
「……パンツは観世流?」
 さすがは徳川時代から武家社会に生きた猫又、能楽の嗜みもあるらしい。
「ちょっと違うが、心得はいっしょと思え」
 タマは居住まいを正し、軽くうなだれてつぶやいた。
「……お許しください、天国の世阿弥先生」

     2

 暎子ちゃんの世代を思えば、なんで夏休み初日にディズニーランドやディズニーシーではなくわざわざ浅草の花やしきなのか、そのいかにも昭和っぽい白壁に黒瓦の門をくぐってからも、実は甚だ疑問であった。なにせ世界一小さい遊園地などと揶揄されることもある、下町の小規模高密度遊園地である。
 しかし、そこそこ華やかな回転木馬に跨がってくるくる回りながら、
「まだお父さんが元気だったころ、なんども家族で来たことがあるんです」
 そうつぶやく暎子ちゃんの横顔に、ふと浮かんだ憂愁の色と、
「お父さんとお母さんと私だけで、ちっちゃな乗り物がいっぱいいっぱい――そんなのが、シンデレラ城とかエレクトリカルパレードより、ずっと楽しかったんですよね」
 そう続けながら隣の俺に向ける天真爛漫な笑顔に、そうかやっぱりそーゆーことなんだよな、と改めて己の立ち位置を自戒したりする俺なのであった。
「おやおや、名高い江戸の花屋敷といえば、牡丹や菊を愛でながら茶菓を楽しむ風流なところと耳にしておりましたのに、これではまるで百貨店の屋上遊園地を地べたに貼りつけたようではありませんか」
 などと古ネタ全開でボケてみせるタマにとっても、花やしきのごちゃごちゃ感は、あんがい居心地がよさそうだった。
 まだ俺の両親が元気だったころ、いや今でも必要以上に元気なんだが、とにかく俺も子供のころ、なんどかここに連れてこられたことがある。一家でディズニーランドに行く金はなくとも、ここなら一日遊べたからだ。ところどころ園外の建物に激突しそうなローラーコースターの立地条件を逆手に取って、実際に民家のセットをコースに設けて突入させるなど、狭さやセコさを洒落っ気に変えてしまう下町っぽい居直りが、俺も当時から嫌いではなかった。見渡す限りを夢の国にするために外部の現実を遮断してしまうのが、本当の遊びとは限らない。俺が思うに、遊戯の本質は主観の客観化にある。
 幼稚園時代から俺のお気に入りだった『人工衛星塔』は、残念ながら、いつのまにか姿を消していた。古色蒼然としたネーミング相応、半世紀前の高圧線鉄塔をカラフルに塗り直したような代物の周囲を数台のゴンドラがのんびり回りながら上昇するだけの遊具だったが、狭い敷地の中に「でも垂直方向の空だけはタダですから!」とばかりどーんと突っ立っている様は、俺にとって、ここのシンボル的な存在だったのだが。
 いっぽう、小学校高学年のころに突っ立ったと記憶する『スペースショット』は、武骨で馬鹿高い鉄柱状の雄姿を未だとどめており、「あくまで垂直方向の空をめざしてまだまだ頑張っております!」とばかり、まあ宇宙(スペース)にはほど遠いもののスカイツリーの一割くらいは空高く、人々をぶん投げつづけていた。
 ただし敷地が狭いぶん、いわゆる絶叫系の遊具には限りがある。俺の感覚だと、ストレートに風を切って絶叫できるのは『スペースショット』と『ローラーコースター』くらいだ。他にも運営側が[スピード&スリル]を謳うアトラクションはいくつかあるが、ぶっちゃけ[スピード]より[遠心力]、[スリル]より[ヤケクソ]が先に立つ。つまり遊具そのものがやたらぶんぶんぶん回り、あの手この手で盛大に客を攪拌するから、客はヤケクソで絶叫するのである。
 もっとも、休日の遊びにマジなスピードやスリルを求める客は初めから浅草になど出てこないわけで、タマがいみじくも例えた百貨店の屋上遊園地、あのユルさを臆面もなく湛えまくったナゴミ系のアトラクションにこそ、花やしきの真髄がある。
 自力でペダルを漕がないと前進しないヘリコプターに乗って、地上よりちょっと浮いているだけの軌道上をキコキコと飛行したり、礼儀正しい白鳥さんやお馬さんやお船に乗ってくるくるのんびりくつろいだり、なんぼなんでもこれを『観覧車』と主張するのは無謀なのではないかと思われる『ちびっ子観覧車』で、高度数メートル弱から見下ろす地上の景観に大笑いしたり――。
 そんな人肌のユルさが、当節の若者にもかえってウケるらしく、夏の土曜の花やしきには、若いカップルやヤング・ファミリーの姿が、昔より明らかに増えていた。
          *
 ひとしきり露天の遊具を楽しんだのち、俺たちは適当な屋外テーブルに腰を据えた。
 ディズニーランドと違って、昼飯どきにそこいらのテーブルやベンチで持参の弁当を広げても、花やしきならツッコミは入らない。
 暎子ちゃんが「えっへん」などと胸を張りつつ、大ぶりのランチバッグを開陳する。
 中にはカラフルなタッパーや竹編みの小箱が、幾層にも詰まっていた。
 のみならず暎子ちゃんは、どう見てもバッグの丈より倍は細長いラップ包みを、ぬい、と引っ張り出し、
「はいタマ、約束のシマアジ。三崎直送の一夜干しだよ」
「おう、これはこれは、またご立派な」
 タマは、かねてより念願のシマアジの干物を、横咥えにしてはぐはぐと賞味しつつ、
「次は潜水艦に乗りたいなあ、太郎」
「潜水艦?」
 そんな大それたアトラクションは、さすがにディズニー級の大資本でないと無理だろう。
「横浜のドリームランドにはあったよ。美味しそうなお魚やイルカが、窓の外をいっぱい泳いでた」
「マジか?」
「マジだよ。召使いのアンドレに連れてってもらったもん。まだエグランティーヌだったとき」
 暎子ちゃんが、へえ、と感心し、スマホをつるつるしたのち、さらに驚いた声で言った。
「ほんとだ。横浜ドリームランドの潜水艦――一九六一年に開業してから二〇〇六年に廃業するまで、ちゃんと水の中に潜ってたんですね」
 まさか遊園地でモノホンの潜水艦を航行させるはずはないから、たぶんカリフォルニアの本家ディズニーランドをパクって、プールの底の軌道を走らせたのだろう。
 ううむ、三丁目の夕日、侮れず。ちなみに浦安の分家ディズニー潜水艦は、平成バリバリのくせに実際には水に潜らず、潜ったように見せるだけである。
「いつかアメリカのモノホンに乗せてやろう。今日は無理だけどな」
「はぐはぐはぐ」
 言い出しっぺのタマは、あくまでシマアジに夢中で、潜水艦の件は別段どうでもいいようだった。単に一夜干しのシマアジから、活きのいい魚が泳いでいる海中を連想しただけなのだろう。
 暎子ちゃんが、おかずの詰まったタッパーのひとつを手にして言った。
「これは、お巡りさんたちに」
 ちょっと離れたベンチでは、一般人を装った田所巡査長と椎名巡査が、もそもそと持ち込みの弁当を食っている。推定それぞれワンコイン以下、けして貧相な弁当ではないが、あまり旨そうでもない。暎子ちゃんが立って行ってタッパーを差し出すと、ふたりは大いに喜んだ。
 ちなみに現在、花やしきのどこにも、キナ臭い気配などは漂っていない。しかし俺の推測だと、タマを中心に直径百メートル圏内にいる大人客の何パーセントかは、一般人を装ったどこぞのアレな方々、つまりナニ方向のプロである。その証拠に、俺んちの近所でしばしば見かける通行人や工事関係者と同じ頭が、一見ラフな下町観光ファッションの上に、ちゃっかり乗っかっていたりする。
 テーブルに戻ってきた暎子ちゃんが、あら、と言うように目を見開き、俺とタマの背後に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、富士崎さん」
「や、暎子ちゃん」
 振り返って見ると、あの渡瀬恒彦、もとい陸自別班の富士崎さんが、柄シャツにチノパンのおっさん姿で、別人のように人なつっこい笑顔を浮かべていた。
「タマちゃんも荒川君も、お久しぶり」
 俺も釣られてにこにこと、
「お久しぶりです。でも実はあれからあっちこっちで、けっこうお見かけしましたよ。いつもずいぶん感じが違いましたけど」
「おやおや、君に見破られるようじゃ、秘密諜報員は失格だな」
 冗談めかして笑っているが、要はタマが常に陸自の厳重な監視下にあることを、内外の別勢力に対して故意に顕示しているのは明らかだった。ベンチの公僕コンビも、しっかり富士崎さんに敬礼している。
 タマが富士崎さんの柄シャツをつんつんと引っ張った。
「ホンマグロはどこですか」
「ごめん。今日は、お土産はないんだ。というか、今日は私も非番なんだよ。いわゆる家庭サービスってやつでね」
 なるほど、富士崎さんのちょっと後ろで、奥さんらしい女性がこちらに会釈している。その手にちょこんとつかまっているのは、幼稚園くらいの男の子だ。ちなみに奥さんは吉永小百合さんにも大原麗子さんにも似ておらず、むしろ庶民派の佳人であった。
「苦しゅうありません」
 タマは鷹揚に会釈を返し、
「衛士や兵士にも、家庭の安らぎはハナマルです。それでこそ武士(もののふ)としての矜持が定まりますからね」
 もっともらしく女帝を気取っているが、食いかけのシマアジを抱えたまんまなので、ちっとも説得力がない。富士崎さんが苦笑して猫耳頭を撫でると、思わず猫っぽく目を細めたりするので、いよいよ威厳がない。
 俺は念のため富士崎さんに訊ねた。
「次に何か動くとしたら、牧さんの研究が一段落してから――そう考えていいでしょうか」
 富士崎さんがうなずいた。
「ああ。十中八九、そう見ていいだろう。あの善哉(ぜんざい)さんの抜け駆けは、かえってありがたかったよ。あの件のおかげで、今は米国の連中も、遠巻きの様子見に回っている」
 あのCIA野郎たちを、うまく手駒に使っているらしい。
「ただし油断は禁物だよ」
 富士崎さんは、やや声を潜め、
「具体的な動きはまだ確認されていないが、どうやら中国やロシアも、タマちゃんの存在に目を付けはじめたようだ」
「うわ」
 周囲には日本人以外にもアジア系の観光客が多いし、白人だってけっこう混じっている。
「だから荒川君も油断しないで、せいぜい大っぴらに、タマちゃんと遊び歩いてくれたまえ」
 そうなのである。頭の茹だった愉快犯や無差別テロと違って、目標を特定した誘拐や拉致は、人混みのほうが防ぎやすい。
「あと、もうひとつ忠告を」
「はい」
「ここのお化け屋敷には、まだ入っていないね」
「はい」
 屋内アトラクションは、午後に回る予定である。
「あそこには入らないほうがいい」
「なにか怪しい連中でも?」
 俺が思わず身構えると、
「いや、中に化け猫が一匹いるんだが、これが、うちの坊主も怖がらないくらい気の抜けた奴でね」
 富士崎さんは破顔して、
「あんなのをタマちゃんが見たら、歯痒すぎて、思わずお手本を見せたくなるんじゃないかと思ってさ。こんなところで巨大化したら、さすがに人目につきすぎる」
「ご心配には及びません」
 タマは干物の骨をしゃぶりながら言った。
「気が抜けているのが猫又の本態ですから」
 まあ化け猫に限らず家猫も野良猫も、浅草界隈に棲息する以上、そうそうツッパって生きるのは難しいだろう。なにせ各国の諜報員が寄り集まって虎視眈々と牽制しあっていても、どうしたって和やかに見えてしまうような土地柄である。これでISや北朝鮮まで出張ってきたら多少はムードも変わるかもしれないが、あれらの国情を鑑みるに、人間同士の淘汰に精一杯で、地球外生物を相手にしているバヤイではなさそうだ。
          *
 午後から回った各種の屋内アトラクションは、富士崎さんの忠告どおり、心の凝りをほぐすのに最適なユルさであった。元々ここの『お化け屋敷』や『スリラーカー』は、昔からツッコミ型ではなく、ボケてツッコまれる路線を狙っていた気がする。
 そんなポリシーは新しめのアトラクションでも徹底しており、パンフレットに[花やしきにだって、いまどきの設備はあるんです。リアルな映像で、異次元の世界へトリップ!]などと麗々しく謳われていた『3Dシアター・立体キネマ館』とやらを覗いてみたら、学校の視聴覚室よりも狭苦しいレトロ空間で、小学生の暎子ちゃんでさえ「うわあ懐かしい!」と感嘆するような3Dアニメを上映していた。その設備自体は、俺も暎子ちゃんも初めて見たわけだから、確かにいまどき(ヽヽヽヽ)導入したデジタル物件には違いないのだが、画面から飛び出してくる魔法少女たちは、明らかに四代も前のメンバーなのである。
 それでもタマだけは仰天するかと思いきや、やっぱり「おお、飛び出す活動写真、懐かしや懐かしや」などとあくまで懐旧ノリで、飛び出してくる魔法少女OBたちに、スカスカと爪なし猫パンチを試みるばかりあった。
 聞けばタマは横浜時代、趣味人のアンドレ氏が撮影した8ミリ映画で、自分自身の飛び出す映像を見ていたそうだ。すでに昭和の中頃には、アマチュア用のアナログ8ミリフィルムカメラにも、3D用のオプション機器が発売されていたのである。それどころか、この世に写真技術が誕生する以前から、タマは竜造寺家が所蔵していた西洋渡りの双眼式立体絵画鏡など、しっかり覗いていたらしい。さすがはアラフォーならぬアラフォーハンドレッドの旧家育ちである。

     3

 花やしきを出て、隣の浅草寺を参拝するうち、そろそろ陽が傾き始めた。
「それにしても太郎」
 本堂から雷門に向かう仲見世通りの雑踏、タマは言った。
「日がな一日、そうやって大量の汗を垂れ流してるのに、なんで太郎はちっとも縮まないのかなあ」
 俺も不思議である。
 現在、仲見世通りはほぼ無風だが、両側の小店舗から若干の冷気が漏れてくるので、エアコンの室外機がずらりと立ち並ぶ裏通りほど暑くはない。それでも大汗かきの俺のこと、朝から今までこっそり絞ったフェイスタオルの汗は、飲んだ水の倍を超えているだろう。おまけについさっき、浅草寺境内のどでかい香炉から立ち昇る煙を健康祈願のため全身に擦りこんだりしたのだから、燻製状に濃縮されてもいる。なのにちっとも縮んだ気がしない。
「縮んだら困ります」
 暎子ちゃんが言った。
「お父さんも汗っかきでしたが、縮んだりしませんでした」
 白いハンカチで額の汗を拭いつつ、
「私も、こんなに汗っかきだし」
 それは無問題である。ロリの額に光る汗は、草の葉に宿る露と同じだ。
 まあ、今は俺自身、下手に縮まないほうがいいだろう。
 デブの容貌にも色々ある。膨らめば膨らむほど年嵩に見えるデブ、逆に膨らむほど童顔に見えるデブ、膨らんでも縮んでも単にぶよんとしてしまりのないデブ――俺はどちらかといえば、その前者に属する。まだ青年なのに中年太り扱いされるのは、ついこないだまで疎ましかったが、今となってはもっけの幸いである。当節、ヨレヨレの三十男がロリ盛りの女児を人前で連れ回したら、いきなり警察に通報されかねない。少なくともこれから六年は、まっとうな保護者を装うのが一番なのである。
 今日の俺の出で立ちも、いつものヨーカドーやユニクロではなく、かなり勝ち組っぽいブランド、それもあえて渋めのデザインを選んだ。こうしておけば道行く人々の目には、たぶん俺は負け組のアラサーではなく、ちょっと稼ぎのいいアラフォー親爺、すなわち暎子ちゃんやタマの父親世代に見えている。だからこそ、花やしきのちっこい遊具に三人ぎっしり詰まって、昂ぶったタマに爪を立てられたり、暎子ちゃんにきゃあきゃあとすがりつかれたりしても、アヤしまれずに済んだのだ。
「タマは、ちっとも汗をかかなくていいよね」
 暎子ちゃんが羨ましそうに、タマのサラサラ髪を撫でた。
「てゆーか、かきたくともかけない」
 そう、猫はどんなに暑くても発汗できないし、犬のように涎も垂れ流せない。いわゆる開口呼吸(パンティング)でしか体温を下げられないのが、夏の猫の弱味である。
「でも実は、陰でこっそり汗かいてたり」
「そうなのか?」
 俺は驚いた。大中小全モードにおいて、タマがシケっているのを見たことがない。
「主従のよしみ、太郎と暎子には教えてあげましょう」
 タマは改まって、二叉の尻尾を、ゆるゆると微風モードの扇風機のように回して見せた。
「こうやってシッポに水分を逃がし、蒸散冷却します」
 暎子ちゃんは感心して、タマの尻尾に指を近づけ、
「ほんとだ。ちょっとミストシャワーっぽい」
「くるくる、くるくる」
 猫又の尻尾には、どうやら種々の隠し機能があるらしい。
 人混みの中、ゴスロリ猫娘が不可思議な尻尾芸を披露したものだから、後ろの外人さんたちは「Oh!」とか感嘆して、スマホやデジカメを向けてくる。それでも思ったより騒ぎは広がらなかった。アニメとコスプレのクールジャパンだもの、テラやジンジャだってこんくらいのイロモノは見られて当然――そんなノリなのだろうか。まあアキバあたりで同じ芸を披露したら、ある種の日本男児の群れ――ぶっちゃけ俺のようなぶよんとしてしまりのないおたくの群れが外人観光客を押しのけてわらわらと押し寄せ、汗まみれの大撮影会を繰り広げそうな気がするが。
「でも人間に化けてると、ほとんど冷えない。せいぜいバッテン寄りのサンカクくらい」
 俺は忠実な召使いとして言った。
「そろそろガリガリ君なめるか?」
 御主人様の口がハアハアと開きっぱなしでは下僕としても外聞が悪いから、ときどきアイスキャンデーで冷やしてやっているのだ。
「苦しゅうない。いちごサワーとスイカ味を持ちなさい」
 二本イッキのカモフラージュ・パンティングをご所望である。やっぱり、かなり過熱していたらしい。
 土産物屋で調達したガリガリ君をみんなで囓りつつ、雷門をくぐる。
 仲見世通りの人混みは、門の外でもほとんど開けなかった。ジャパンのカタマリのごとき雷門を背景に、立ち止まって自撮りや互撮りに励む観光客が多いから、かえって人の流れが停滞している。雷門そのものだけでなく、そのど真ん中にどーんとぶら下がっているどでかい赤提灯や、両脇の風神雷神像も背景にして撮りなおさねばならず、ますます混雑する。
 すぐ横で囀っている北京語の集団の中に、富士崎さんが言った新規参入者が混じってはいまいか――。
 あっちで人力車の客引きを断っている妙にいかつい白人夫婦は、もしや寒い国から来たペア・スパイ――。
 などと、それなりに気を配ったりしている俺に、タマはガリガリ君を囓りながら言った。
「暎子みたく、ほどほどに汗をかければマルだけど、がりがり、太郎みたくズブドロになるのは死んでもバッテンだよね、がりがり」
「死なないためのズブドロなのだ、がりがり」
「きっと太郎はこのまま熟成発酵して、明日の朝には太郎のクサヤに、がりがりがり」
「そこまで言うか、がり」
「いやすでに太郎の方角から、なにやらそこはかとなくクサヤっぽい匂いが、がりがり」
 俺は少々心配になった。自分の鼻は、自分の匂いに気づきにくい。猫の鋭敏な臭覚を侮ってはいけないかもしんない、がりがりがり――。
「お風呂屋さんに行きませんか?」
 暎子ちゃんが言った。
 俺はますます心配になり、思わず自分の胸元を嗅いだ。
 ――あれ? 俺ってやっぱりすでにかなり匂ってる? がりがり。
 暎子ちゃんは、違います違います、と、頭を振って、
「この近くに、古いお風呂屋さんがあるんです。浅草で遊んだあとは、いつもお父さんやお母さんと寄ってたんですよ、かりかり」
 もとより俺に異議はない。汗を流してさっぱりしたい。
「ほう、お風呂屋さん――古式ゆかしき銭湯はマルですね」
 意外なことに、タマも乗り気らしかった。
「季節季節の薬湯など、とくに風流なものです。冬至には柚子湯、端午の節句には菖蒲湯――夏場なら荷葉(かよう)でしょうか、がりがり」
 ちなみに荷葉とは、漢方で蓮の葉を意味する。
「モノホンの温泉なら、もはやハナマル」
「……猫は苦手なんじゃないのか、風呂とか水浴びは」
「百戦錬磨の猫又を侮ってはいけません」
 タマは遠い目をして言った。
「――鍋島の不忠者に受けた矢傷は別府の湯で癒やし、夜の豊後水道を渡った疲れは道後の湯で癒やし、やがて本州をさすらう間にも、有馬、白浜、熱海、湯河原――思えば長い旅路でした、がりがり」
 後半は婆くさい温泉巡りに過ぎない気もする。
「カヨウは知らないけど、薬湯なら、日替わりで色々あったよ」
 暎子ちゃんが言った。
「あと温泉じゃないけど、えーと、鉱泉? そんなのにも入れるよ。お風呂屋のおじさんが、自分で掘り当てたんだって」
 そんな気の利いた銭湯が、浅草にあるとは知らなかった。タマも、ほう、と感心している。
「沸かし湯だとサンカク?」
 訊ねる暎子ちゃんに、
「鉱泉もハナマル!」
 タマは嬉々として、両手で花丸を描いた。
 同時に二叉尻尾まで花丸になったのは、意図的な強調だろうか。それとも条件反射か何かだろうか。
          *
 暎子ちゃんに案内され、浅草の賑わいを抜けて歩を進める。
 その銭湯は、すでに下町情緒も薄れた中層ビル街の路地裏で、ひっそりと営業していた。
 老舗の湯屋らしい、立派な宮造りの正面玄関を見上げ、俺は感嘆した。
「こりゃすごい」
 ただし四方のことごとくが薄汚れた雑居ビル、そんな立地である。表通りには看板も何もなく、細々とした路地の奥まで入りこまないと玄関自体が拝めない。これでは、ビルが密集する以前から地元に住んでいた人間か、ビルの裏窓からたまたまこの銭湯を見下ろした人間以外は、気づこうにも気づけない。
 玄関の暖簾をくぐると、三和土(たたき)も下駄箱も昭和レトロどころか明治大正を思わせる造作だったが、大都会で現役を勤める浴場(スパ)のこと、中身のサービスは今様に整っているらしかった。上がり框の奥の小高い帳場には、ちゃんと貸し出し用の入浴用品一式が用意してあるし、帳場の前に張られた各種浴槽の案内図と入浴心得には、英文や中国語の簡体字やハングル文字に加え、俺にはなんだかよくわからないうにょうにょした文字列まで添えてある。国籍問わず一見(いちげん)さん大歓迎、ということだ。近頃はネットを介して、地元の住人もほとんど知らない穴場が海外で先に喧伝されたりするから、ここもそんな隠れ名所のひとつなのかもしれない。
 帳場に座っていた老人に、暎子ちゃんがぺこりとお辞儀すると、
「おや?」
 白髪豊かな痩身の老人は首を傾げ、
「……違ったらごめんな。お嬢ちゃん、確か前になんべんも。確か父さん母さんといっしょに」
「はい!」
 暎子ちゃんは嬉しそうに笑った。
 老人も相好を崩し、それから俺とタマを見やって、
「叔父さんとイトコかい?」
 やはり他人が見ても、暎子ちゃんの亡くなったお父さんと俺は、その程度には似ているらしい。
「いえ、近所の知人なんですが――わたくし、こーゆーものです」
 俺が荒川プロダクションの名刺を差し出すと、
「ほう。と、ゆーことは……」
 老人は、名刺と俺たちを物珍しそうに見比べ、
「……そちらのコスプレ嬢ちゃんは、さしずめ、きゃりーぱみゅぱみゅのジュニア路線かい?」
 タマはすかさず、近頃ハマっているきゃりーの新曲『(いい)すた』を、軽く歌って踊ってみせた。
「♪ い~すた~~い~すた~~い~すた~と決めて~~~~ ♪」
 さすが海千山千の猫又、この程度には時代が読めるタマなのである。
          *
 古色蒼然とした外観に似合わず、中身はあっちこっち改築を繰り返したらしく、かなり風変わりな木造スパになっていた。
 そもそも女湯と男湯方向に別れたあとの廊下に、なぜだか『本格北欧風サウナ 冷水浴槽完備 男女混浴』などという、謎の横扉があったりする。扉の奥から、明らかに日本語ではないアルファベットの歓声が、男女入り交じって響いてきたりもする。どうやら女湯側の廊下からも繋がっているらしい。確かに北欧諸国では、タオルひとつの老若男女が同じサウナで蒸し上がり、直後に厳寒の湖やフィヨルドに飛びこんで歓喜の叫びを上げたりするから、看板に偽りはない。
 考えてみれば中身のみならず宮造りの外観も、おそらくは高度経済成長期以降の造作、つまり俺の家よりナウい可能性が高いのである。東京の下町は、太平洋戦争末期の大空襲で、ほぼ丸焼けになっている。浅草寺だって戦後八年もたってから、ようやく今の形に再建されたのだ。
 でも肝腎の鉱泉までナウい舶来風、テルマエ・ロマエっぽかったりしたらどうしよう――。
 やや不安になる俺だったが、幸いにして奥の男湯そのものは、男女双方を見渡す番台がないのを除けば、昔ながらの銭湯そのものであった。
 まだ時間が早いせいか、それともいつもこんなものなのか、脱衣所のロッカーはガラ空きである。脱いだり着たりしているのは、地元っぽい老人が二三人と、日本在住者と覚しい銭湯慣れした高齢の白人男性ひとり。他に、使い古した二台のマッサージ椅子で、湯上がり姿のいかにもマッチョな白と黒の若者が、なんじゃやら悶絶しながら笑いあっている。ふたりとも頭をきっちり刈り上げているところを見ると、いわゆるバックパッカーではなく、横須賀の海兵隊あたりから出張ってきた一見さんたちだろうか。
 濡れたガラス戸の横に置いてある体重計は平べったい安物ではなく、どーんと支柱のある丸形アナログだった。各種の牛乳瓶が詰まった冷蔵ケースも、当然のように勝手に開けて勝手に飲める。代金は横の木箱に勝手に放りこめばいい。
 うんうん、ほぼ完璧――。
 納得しながら半乾きの衣類を脱いで、嬉々としてガラス戸を引き開けると、夏場ゆえ洗い場の湯気も薄く、奥の壁には富士山と海と松原が、ペンキ絵の極彩色でスッコーンと抜けきっていた。
 うんうんうん、完璧に完璧――。
 とりあえず洗い場のカランで汗を流す。こうした公衆浴場のお湯に、俺の熟成発酵汁をちょっとでも混ぜては気の毒だから、先に体も頭も丸洗いしてしまう。それから、さほど混んでいない湯船の、熱めだが軟らかい、わずかに黒い濁りを帯びた鉱泉に身を沈め、「あーうー」などとナイル河の親カバのように――親カバや子カバがどう啼くのか定かではないが――弛緩した声を漏らしたとき、
「パーパ!」
 元気よくガラス戸を開ける音に続いて、そんな場違いな子供の声が背後から響き渡った。
 浴場特有の反響を伴っているので、やや不明瞭ではあったが、どうも日本語式の発音ではない。英語のパパともちょっと違うような気がする。何より場違いなのは、その響きがボーイ・ソプラノよりさらに澄んだ、女児の声らしかったことだ。それも幼児よりかなり育った、むしろ思春期ちょっと前くらいの――。
 俺は富士山を見上げたまま、暫時、硬直していた。
 児●法がらみでやたらキナ臭い昨今でも、下町界隈の銭湯だと、父親といっしょに平気で男湯に入ってくる幼女はまだ存在する。しかしあくまで赤ん坊に毛が生えたくらいの、いや毛が生えるのは遙か未来の、ほんのちみっこだけである。親父が子供の頃の銭湯だと、小学校高学年に至っても混浴へっちゃらの女児が稀ではなく、早めにイロケづいた親父などは、かえって往生したそうだ。しかし、こんだけアグ●スたちが喧しい現在、いかに下町とてそんな僥倖、いやいや椿事が起こりうるだろうか。
 仮に外国人だとしても、たとえばアメリカなんぞは、幼稚園前の娘を父親が自宅の風呂で洗ってやっただけで、通報されたり逮捕されたりするというではないか。いやしかし、性差におおらかな、むしろ性差を意識しまいとする文化圏も、この世界には多く存在する。たとえばさっき通りかかったようなサウナの本場あたりでは、ゲイのカップルが正式に結婚し、身寄りのない女児を養子にして家庭を営む、そんな人生すら合法と聞く。
 富士山の下の海に、もとい浴槽の向かい側に浸かっていた老人が、おや、というように首を傾げ、それからざっかけない(ヽヽヽヽヽヽ)下町人種らしく大らかに頬笑んで、俺のちょっと横に浸かっている別の客に声をかけた。
「あんたの娘さんかい?」
 その客は、老人の知人ではなかったらしく、俺には理解できない言葉で、老人に何ごとか問い返した。
 お湯の上には首しか出ていないのでそれまで気づかなかったが、俺の横にいたのは、俺より二回り以上も膨らんだ、中年の白人さんだったのである。
 しゃっちょこばって悩乱している俺をよそに、
「パーパ!」
 可憐な声の主は、もう浴槽の寸前、俺の背後まで近づいていた。
 落ち着け俺落ち着け俺落ち着け俺――。
 心頭滅却に努める俺の横で、白人さんが洗い場を振り返り、やっぱり俺にはなんだかよくわからない発音で、その闖入者に声をかけた。日本語で片仮名表記にすると「オイチパリシュロシュダ、マトリョーナ」、おおむねそんな感じであった。
 それから横と後ろで交わされた親しげな会話の中身も、俺にはさっぱり解らないが、たぶんアメリカや日本ほど性差や年齢差やメタボにこだわらない大らかな国から観光に訪れたお父さんと、その愛娘マトリョーナちゃん、そんな関係に思われた。
 推定マトリョーナちゃんは可憐に囀りながら、俺の肩のすぐ横に、とぷん、と足先を沈めてきた。
 その飛沫が、俺の顔にかかる。
「イズヴィニーチィェ」
 あ、ごめんなさい――そんな感じの声が、上からかかる。
 俺は「いや平気」と返しながら、ついつい声の主を見上げてしまった。
「…………」
 絶句するしかなかった。
 ――こ、これは……アリか? アリなのか?
 リアル十二歳の神話デラックス舶来版が、俺と混浴しようとしている。いや正確には、暎子ちゃんと同じ年頃の白人少女が、お父さんと並んで湯船に浸かろうとしている。
 大らかな昭和の内にかろうじて生まれながら、物心ついてからは常に狭隘な平成の気風の中で育ち、多く仮想でしかロリおた道を辿れなかった俺にとって、それはアブナいなどという低次元な認識から推定百億万光年を隔てた、清透なる無垢の極みであった。
 手垢のついた比喩で恐縮だが、天使、そう表現するしかない。
 ちょっと小首を傾げた、彫りの深い、愛らしい純白の微笑――膨らみはじめたばかりの乳房に、ちょこんちょこんとくっついている桜色の乳首――すべすべの薄いおなかを内側からちょっとだけつまんだような慎ましいおへそ――そして、もしこれ以上視線を落とせば、そこにはきっと生毛(うぶげ)さえほとんど認められないであろう以下数文字自主規制――。
 いかん、このままでは逮捕される。邪念はなくとも見ただけで、この邪念に満ちた国では現行犯逮捕されてしまう――。
 そう焦りつつ、多年積み重ねた夢の重さに抗えず、俺はついつい、その下にまで目を落とそうとした。
 しかし、このとき遅く、かのとき早く――。
 ぶしゅううう!
 なんじゃやら天井板のあっちこっちから勢いよく白煙が吹き出し、俺の視界を遮った。
〈ああっ! 天井裏を通っていた空調の配管が老朽化によって突然破裂し激しい冷気が男湯に!〉
 どこからともなく、そんな叫び声が聞こえた。銭湯の従業員だか、ア●ネスの使徒だか自主規制担当のメタキャラなんだか、とにかく帳場の老人でないことだけは確かだった。
 ……丁寧なご説明、どうも。
 続いて床のあっちこっちから、猛烈な白煙が吹き出した。
 ぶしゅううううう!
〈ああっ! 床下を通っていたサウナ用の配管が老朽化によって突然破裂し熱い蒸気が男湯に!〉
 ……重ね重ね丁寧なご説明、どうも。
〈ああっ! 極端な冷気と熱気が混ざり合って瞬時に濃霧と化し、あっというまに男湯全体がほぼ視界ゼロの状態に!〉
 ……はいはい、解ったから。
 まあ、この場の世界観が大人の事情(ヽヽヽヽヽ)を吹っ切れないかぎり、こんなことになるのではないかと、俺もなんとなく予感はしていた。しかしボカシが入って見られないとなれば、かえって目を凝らしたくなるのが人情というものである。
 濃霧の中で「ニンジャヤシキ?」とか「ウズマサ、キョート!」とかはしゃいでいる推定マトリョーナちゃんの朧げな姿を、俺が改めて視認しようとしたとき、
「……見ましたか?」
 後ろから、不穏な声が聞こえた。
 暎子ちゃんの華奢な左腕が、ぐい、と俺の首に巻きつき、
「……私を裏切りましたか?」
 右からは鋭い柳刃の切っ先が、顎の下にちりちりと触れてきた。
「こ、この柳刃は……」
「お母さんから預かりました」
 そこが知りたかったわけではない。そんなシロモノをどうやって浴槽に持ちこんだか、そのタネが知りたかったのである。
「……どうやって男湯に?」
「愛はすべてを越えるのです」
 あんまし愛っぽくない、陰にこもった響きであった。
「そして憎悪も」
 いやそれより暎子ちゃん、さっきからお湯の中で俺の背中に、君のささやかな胸やすべすべのおなかや、もしかしてちょっと生えてるかもしんない感じの以下数文字自主規制なんかが、やたらすりすりしてるんですけど――。
「……答えてください。私以外の女の子に劣情を催しましたか?」
 俺はふるふると頭を振った。
 暎子ちゃんは、さらに底知れぬ声で言った。
「……嘘をついても、すぐにバレるんですよ」
 いやもう君が万一それを自力で確認した時点できっと俺は裏切ってない方向の劣情を力いっぱい催してしまっているから――。
 などと口にしていいものかどうか悩んでいる俺の肩口に、
「がっぷし!」
 いきなりタマが深々と犬歯を、いや猫歯を立てた。
「うわだだだ!」
 マジに肩肉を食いちぎりそうながっぷし(ヽヽヽヽ)であった。
「なにをする……」
 俺が懸命にその頭を引き離すと、タマは女児っぽくない人面猫寄りの瞳を光らせ、
「私への忠誠に揺らぎが生じましたね」
 今度は俺の顔面を、左右双方の爪出し猫パンチでクロス状に折檻してきた。
「下僕同士の繁殖(サカリ)は別状、御主人様は、あくまでこの私!」
 ばりばりばりばり。
「うぎゃぎゃぎゃぎゃあ!」
 身悶える俺の喉元を、揺れ動く柳刃の先で追尾しながら、暎子ちゃんが叫んだ。
「邪魔しないでタマ!」
「邪魔してるのは暎子です!」
 タマは語気を荒げ、
「ちょっとばかしアソコに毛が生えてるからといって、いい気になってはバッテンですよ暎子! 私なんか本来もれなく全身びっしりと!」
 暎子ちゃんが声を呑んだ。
 理屈で反論できないからか、単に恥じらっただけなのか、無学な俺の知るところではない。
 顔面を流血で朱に染めつつ、俺は、いいかげん煮詰まっていた。
 ――あー、なんか、もうどうでもいいや。
 精神的に煮詰まっただけでなく、肉体的にも煮上がってしまい、痛覚も理性も煩悩も、ほとんど湯船に溶け出してしまったのである。
「……いい湯だなあ」
 朦朧とつぶやきながら見渡せば、男湯を覆っていた濃霧は、すでにまだらな霞へと薄まっており、
〈天井裏も床下も突然修理が完了しましたので、皆様、引き続き入浴をお楽しみください〉
 大人の事情の声が、自分で〈ぴんぽーん〉と付け加え、アナウンスを終了した。
 あの外国人親子の姿は、もうどこにも見当たらない。ニンジャヤシキの煙幕に飽きてしまったのだろうか。それとも異国語の騒ぎに辟易したのだろうか。
 湯船や洗い場に残った客たちは、俺を挟んで殺気立っているふたりの女児に、ほう(ヽヽ)やらへえ(ヽヽ)やらおやおや(ヽヽヽヽ)やら、珍しげななりに大らかな、生暖かい視線を向けている。まあ、昔は俺と同じ趣味嗜好だった老人が混じっている可能性もゼロではないが、どのみち今はパサパサの干物である。
「うひゃあ」
 暎子ちゃんが我に返って、あわあわととっちらかり、ハバのある俺の陰に身を潜めた。
 いっぽうタマは、しらばっくれて辺りを見回し、
「……お呼びでない?」
 さらにあっちこっち辺りを見渡し、
「お呼びで、ない」
 おお、もはや一般世間では十中八九ウケないだろうが、現在の客層ならきっと十中八九ウケるであろう、あの古典的ギャグを繰り出そうというのか――。
 俺が生暖かい目で見守っていると、あにはからんや、タマは恥じらいのカケラもなくざばりとその場に立ち上がり、悠々と洗い場に背を向け、薄霞の上に浮かんでいる富士山のてっぺんを見上げて言った。
「――やァ、いつのまに顔を出したかの」
 どこぞのジッさんを想定した声色とは別状、その後ろ姿は、まるっきりお子様であった。
 フヤけたハンペンのような脳味噌をもてあましながら、俺は思った。
 ――なんだタマ、その気になれば、尻尾もちゃんと隠せるんじゃないか。

     4

 そして、翌日の午後、皇居前広場――。
「ここが二重橋だ」
 青空と白い雲を映した(ほり)に架かる、明治以来の重厚な石橋を俺が指し示すと、
「ほう、ありがたやありがたや」
 タマは例によって婆くさく、拝むように手を合わせた。
 実のところマジな二重橋は、その眼鏡型石橋のさらに奥にある、昭和に改築されたイマイチありがたみの薄い鉄橋らしいのだが、今は手前の立派な石橋をひっくるめて二重橋と総称される場合が多い。
「記念の写真を撮りましょね」
 暎子ちゃんが、故・島倉千代子さんのように微笑みながらスマホを掲げた。
 浅草とは距離感が違うので、自撮棒などなくとも、スマホの広角レンズには堀も石橋も充分に写りこむ。
 タマは俺と暎子ちゃんの間に収まり、スマホに向かってぶいぶいと指を立てた。例によって婆くさいんだか子供っぽいんだか、よくわからない奴である。
 シャッター音の後、暎子ちゃんが確認する液晶画面を覗きこんで、俺はタマに言った。
「……で、この首輪は、いつになったら外してくれるんだ?」
 あえて主観的には意識しまいとしても、客観的な写真に写ってしまうと、鈴の付いた首輪をはめた俺というのは、まるっきり寄席のイロモノである。革の首輪から伸びたリードの先は、タマの片手にしっかりと握られており、タマがちょんちょん引っ張るたびに、ちりんちりんと鈴が鳴る。主従関係を表す仕様として間違ってはいないが、正直、鬱陶しい。ここに来る前に見物した赤坂離宮や靖国神社、復元された赤煉瓦東京駅舎そして日比谷公園、いずれにおいても俺は観光名所以上に衆目を集めてやまぬ、ぶよんとしてしまりのない生皮のゆるキャラであった。
 幸い今現在は、周囲にさほど好奇の視線を感じない。日曜の皇居前広場ゆえ内外の観光客は多いのだが、それらの頭数をものともしない、天皇御一家の住宅事情のおかげである。東京駅も霞ヶ関も程遠からぬ一等地のど真ん中、宮城広場は大都会の目まぐるしい変遷も知らぬげに、相変わらずただひたすらどーんとだだっ広く、おそらくは江戸城の昔よりも遙かに広大な空間的威厳を保っている。
「それは自分の胸に訊ねなさい奴婢」
 タマは冷ややかに言った。
「夜中にこっそり味見した感じだと、下手すりゃ死ぬまで縄付きです」
「いや俺は、そーゆー次元でやましいところなど、少しも」
「そーゆー次元でもどーゆー次元でも、あーゆー不遜な夢を見る奴婢は放し飼い不可!」
 俺は反論できなかった。
 やましい感情を抱かなかったのは確かだが、かつてない宗教的恍惚を覚えたのも確かである。
 夢の中の俺は、富士を遠望する三保の松原に横たわり、出血多量で死んでいた。ざっくりと食いちぎられた肩口からは骨が覗き、首筋からはぴゅうぴゅうと噴水のように血が吹き出し、砂浜に突き立った柳刃包丁の横で赤いランドセルをしょった吊りスカート姿の暎子ちゃんが泣き崩れ、巨大人面タマはぐみゃぐみゃと旨そうに俺の肩肉を咀嚼していた。そして俺の魂は、それら砂浜での事象を宙空から他人事のように見下ろしつつ、白い天使に手を引かれ、粛々と昇天しつつあった。見上げれば抜けるような蒼天、天使の姿を眩ませる一条の雲も霞もなく、ぶっちゃけボカシもモザイクも墨塗りもなく、下手すりゃ昭和でも発禁をくらいかねないアオリ構図のロリすっぽんぽん――。
「だからさっさとツガっちゃえばよかったんだよ」
 タマは暎子ちゃんを横目で見、
「こーゆームッツリスケベは、いっぺん生身にハマるとメロメロなんだから」
「……でもお巡りさんに捕まっちゃう」
「捕り方の十人や二十人、私がナニします。で、どっか山奥とかに隠れ住んで、子孫ともども末長く私を崇め奉ればオールOK!」
 おお、それもアリかもしんない、と俺は思ってしまった。山奥でも、野菜や穀物はなんとか自給自足できるだろう。動物性蛋白源は、タマが熊とか猪とかナニして――。
 無論、暎子ちゃんの同意がなければ不可能な話だが、そこいらも、まんざら脈がないわけではなさそうに思えるのだ。なんとなれば今日の暎子ちゃんのファッションが、柳刃なみにアブナい。まずは薄手の白いキャミソール、これがちっこい。かわゆいおへそがちらちら覗くほど短いのである。そしてやはり薄手の、黄色いランニングショーツ。ショーツ自体はゆったりとして体の線など窺えないが、その両脇のスリットが、かなり腰寄りにきわどい。ちらちらと覗く太股から骨盤にかけての素肌から察するに、インナーもビキニなみにきわどいはずだ。おまけにいつもの白ニーハイではなく素足にサンダルだから、露出度においては当社比五倍のイキオイである。これはやっぱり昨日のあの娘への対抗措置、つまり俺に対する精神的な拘束を意図しているのではないか。
 ちら、などと意味深な流し目を俺に向ける暎子ちゃんとは別状、タマの対抗措置は、あくまで即物的であった。
「次はいよいよ私のアキバデビューです。くれぐれも逃亡など企てないように太郎」
 ちりんちりん。
「へいへい」
 もとより叛逆など思いも寄らぬ。
 俺は御主人様の手綱と暎子ちゃんの色香に引かれるまま――いや正確にはタマを忠犬のように先導して、東京駅方向に引き返した。
          *
「……なんか違う」
 秋葉原の歩行者天国は、残念ながら、タマの御期待に添えなかったようだ。
「コテコテなのは看板ばっかし」
 ひと昔も前の噂を伝え聞きながら猫の歩幅で旅をしてきたタマのこと、ここに来れば生身の妖怪モドキがてんこもりだと思っていたのだろう。現在それを求めるなら、有明のコミケ、あるいは逆に東海道を上り直して大阪の日本橋あたりか。
 巨大かつディープな電気街としての側面はともかく、いわゆるサブカル方向のアキバは、すでに二次の街、あるいは樹脂製の三次の街である。ひと昔前までは傍若無人なコスプレ天国であった歩行者天国も、例の無差別殺傷事件による中断を経てからは、すっかり行儀がよくなってしまった。内外の観光客を中心に人出こそ多いが、うっかり派手なパフォーマンスなどキメると、すぐにお巡りが止めに入ってしまうのだから仕方がない。
 もっとも十数年前からアキバに入り浸っていた俺としては、あの事件などなくとも、遠からずこの『おたくの楽園』はいわゆる『経済効果』に飲みこまれ、画一的な商品ジャンルとしての『サブカル』に覆いつくされてしまうのではないか――そんな気が、ずいぶん前からしていた。
 そして案の定、何ヶ月ぶりかで再訪した秋葉原は、何がどれだか判然としない似たような萌え絵に埋め尽くされたビル街を、一見多様でありながら実は誰が誰であっても大差ない群衆がぞろぞろとそぞろ歩く、マニュアルどおりの一大消費地にすぎないように思えた。かつて表通りに群れをなしていたレイヤーたちの姿はなく、僅かに残ったメイドカフェの客引き娘たちでさえ、今は裏通りに引っこんでしまっている。
「――ま、いいか。しっかり目立ってるし」
 根が能天気なタマは、すぐに気を取りなおして、俺の首に繋がる手綱を引っ張りまくった。
「ちりんちりんちり~ん」
「……あのね、タマ」
 暎子ちゃんが微苦笑を浮かべて言った。
「こーゆーのは『浮いてる』っていうんだよ」
 そのツッコミと微笑が、ちっとも萎縮していないのを、俺は愛しく思った。
 ここは靖国神社でも宮城広場でもないのである。トンガリお耳と二叉尻尾を生やしたゴスロリ猫娘、その猫娘に首輪と紐付きで散歩させられているクマモンっぽいデブ、いつどこから眼の下一尺あまりの干物や九寸の柳刃を引っぱり出すか解らないちょっとサイコな可憐女児――そんな一行が和気藹々と闊歩できてこそ、俺のアキバなのである。
 戦後の闇市時代にたまたま電気製品や部品を商う小店舗が集い、なりゆきで高度成長期には日本有数の大電気店街に成長、そのうち箍の外れた電子機器おたくたちが寄ってたかって不可思議な磁場を生じさせ、結果、電気や電子を超えたデンパ系の変な奴まで、変なままに群れ集う街へと変貌した。アンダーグラウンドとオーバーグラウンドの境界が存在しない街、その場の空気など読んでも無駄なほど底の知れない空気が充満している街――少なくとも俺がハマりこんだ頃のアキバは、そんな街だった。
「あ、踊ってるよ、タマ」
 暎子ちゃんがホコ天の半ばを指さした。
「ほらほら、コスプレ」
 なるほど、はたち前後と覚しい正調ゴスロリ娘が八人ほど、それっぽい歌と踊りをノリノリで披露している。
 四人編成のバックバンドは手慣れたプロの技量だが、お嬢ちゃんがた自身は、若さと元気だけが取り柄の新人アイドルグループらしく、一糸乱れぬはずの振り付けを、二糸も三糸も振り乱している。盛んに声援を送ったりカメラを向けたりしているのは、明らかに先物買い好きの追っかけ連中、つまり自発的なサクラ集団である。
 それでも俺は、いよいよ嬉しくなった。原則イベント禁止の場であればこそ、たまにはこうした連中も湧いて出なければ、かえって寂しい。
 一曲終わると、リーダー格らしい娘が、息を弾ませながら言った。
「『団子坂2×4(ツーバイフォー)』のゲリラライブ、応援ありがとうございます! 春に発売されたマキシシングルから『あの素晴しい愛はもう二度と』でした!」
 追っかけ連中に如才なく愛想を振りまきつつ、遠巻きで様子見している人々にも笑顔を向け、
「なんかあっちのほうでお巡りさんたちがこっちのほうをツンツンしたりしてますが、見えないフリして踊り続けます! それではこの夏の新曲、できたてほやほや本日初公開――『伝統無視(でんとうむし)のサンバ』!」
 フォーク世代の親父が懐かしがりそうな、でもちょっとだけ違うタイトルの歌が続くのは、単なる偶然の不一致だろうか。それとも歌って踊れるイロモノグループとして、ヨシモトの線を狙っているのだろうか。
 ともあれ次に始まった陽気なサンバは、最前の型にはまったJポップ群舞より、よほどこの不揃いなお嬢ちゃんがたにマッチしていた。独特のステップさえ基本にしていれば、あとは何をやってもいいのが本来のサンバである。
 ままならぬ世間や退屈な日常がどうであろうと、踊っている今だけは、アタシが世界でいちばんハジけてるんだ――そんな当社比八倍のイキオイに感応したのか、
「確かに、この者らはスグレモノです」
 タマは、こっくし、とうなずいて言った。
「でも、腰のキレなら負けません!」
 俺の手綱を暎子ちゃんに渡し、たたたたたたと助走して、キャット空中三回転、お嬢様がたの真ん前に着地する。
「見なさい! これが正しいパシスタ・フェミニーナ!」
 何を言ってるんだかよくわからないが、たぶんサンバ系の女王様を意味するのだろう。
「♪ ちゃっちゃっちゃっ! ちゃっちゃっちゃちゃんちゃん! ちゃっちゃっちゃっ! ちゃっちゃっちゃちゃんちゃん!」
 確かに本場リオのカーニバルでも主役を張れそうな、見事な腰のキレであった。団子坂のお嬢ちゃんがたほどボリュームやイロケがないぶん、かえってアクロバティックなインパクトがある。一般の通行人たちから、ほう、と感嘆が漏れた。当初は面食らっていた他のお嬢ちゃんがたも、じきに面白がってバックに回り、タマを引き立ててくれたりする。ここいらは純平成育ちの鷹揚さで、昭和中期のハングリーな芸能界なら、十歳足らずで大ブレイクしてしまった美空ひばり嬢のように、同性の先輩からパワハラを食らうところだ。
「タマ、すごいすごい」
 暎子ちゃんが目を見張って言った。
 これはイケるかもしんない――俺も認識を改めていた。
 もし将来、生物学的な部分でタマの需要が減ったとしても、『荒川プロダクション』はマジな芸能プロとして存続可能なのではないか。事実、追っかけ連中の半数が、今はタマにカメラを向けっぱなしである。のみならず周囲を見渡せば、嵩を増した人垣のそこかしこから、なんじゃやらすっげー懐かしい風合いの、ぶよんとしてしまりのないシルエットが垣間見える。プロ仕様の一眼レフにどでかいレンズをくっつけた、大汗まみれの、垢抜けないロリおた野郎たち――。
 俺は懐かしさで胸が熱くなった。まだ生きていたのだ。やたら空気を読みたがる昨今のサブカル界に順応できず、もはや絶滅したかに思われたカリカチュア状の旧タイプおたくたちが、タマの猫耳オーラに惹かれて、どこかアキバの物陰から冬眠明けの地虫のように這いだしてきているのだ。
 タマの感化かサンバの魔力か、いいんちょタイプの暎子ちゃんまで無意識のうちにリズムに合わせて腰を振ったりすると、遙か彼方にいたぶよんとしてしまりのない若者が、すかさずその無警戒な姿をズームの望遠端でロック・オンし、高速連写しはじめる。そんなロリおたずっぷしの行為も、俺にはけして不快ではなかった。一般世間の方々は「この恥知らず」と吐き捨てるかもしれないが、彼らは恥を知らないわけではない。内外ともに己を偽れないだけなのである。偽装カメラやスマホ内蔵カメラで階段の下からこそこそとパンチラを狙うような日陰者とは根性が違う。
 ――いい。許す。今は心ゆくまでロリータ・スナイパーの血を滾らせたまえ。でも実はどっちも俺のもんだかんね。タマなんか毎晩いっしょに寝てるんだもんね。暎子ちゃんなんか殺意レベルで俺ラブだもんね――。
 などと俺が余裕をカマしている間にも、ゲリラ・ライブを取り巻く野次馬の頭数は、ロリおた野郎を遙かに凌ぐイキオイで増えていった。なにせタマのハジケっぷりに負けじと、本来主役のお嬢様がたも、トランス状態に近い腰のキレを見せている。やはり一般世間では、お子様体型の踊り子さんより、たゆんたゆんでばいんばいんな踊り子さんのほうがウケるのである。
 ふと気づけば、隣に暎子ちゃんの姿がない。人波に押されて手綱を放してしまったのだろうか。
 あたりを見回す俺の横下から、
「――ティ・モイ」
 聞き覚えのある愛らしい声で、そんな囁きが聞こえた。
 暎子ちゃんの声ではなく、日本語でもない。そもそも手綱の反対側からである。
 え? と顔を動かした俺の視線が、声の主に届くより先に――なぜだか俺の意識は、ぷっつりと途絶えた。
 意識を失う前に、なんじゃやらケミカルな臭気を嗅いだ気もする。
 見覚えのある中年白人男性のメタボ顔を、すぐ横で見たような気もする。
 ともあれ、それっきり俺の視界や脳味噌は白濁した濃霧に包まれ、以降数分の記憶が、俺にはまったくない。自分の記憶がないくらいだから、じきに暎子ちゃんが切断された手綱に気づいて「あれ? あれ?」ととっちらかったり、俺の失踪に気づいたタマが「うぬ! 逃がしませんよ太郎!」などと叫んで人前にも関わらず巨大人面猫化してしまったことなどは、後に聞くまで知る由もなかったのである。
 ちなみにこれも後で知ったのだが、「ティ・モイ」とは、ロシア語で「あなたは私のものよ」、そんな女言葉らしかった。

     5

 やがて、やや霧が薄れ、微かに蘇った俺の視界には、電子部品の迷宮とエロ系のサブカル物件が入り交じる、雑然とした秋葉原の裏通りが移ろっていた。いや、俺自身がそこを移ろっているのだ。意識を失っている間にも、俺はちゃんと自分の足で直立歩行していたらしかった。
 そこに至るまでのただ白い霧の中では、「さあ、君は天国に行くんだよ」、そんな落ち着いたバリトンの男声をすぐ耳元で聞きながら、行く手のちょっと先を歩む清楚なミニドレスの白い天使を追って、ゆらゆら歩き続けていたような気がする。しかし霧が晴れてみれば、そこはあくまで俺の馴染んだアキバの裏路地であり、その方角に歩み続けると、天国ではなく上野や湯島に出てしまいそうな気がする。なんだか置き去りにしてはいけないものを、秋葉原寄りの中央通りに残してきてしまったような気もする。
 しかしそれらの意識は未だ曖昧模糊としており、傍らから耳に心地よいバリトンで「天国に行くんだよ」と言われてしまえば、現に天使が前を歩いているのだから、あえて歩を進め続けるにやぶさかではない。
 それでも置き去りにしてきた何物かに後ろ髪を引かれて俺の歩調につい乱れが生じると、先を行く白い天使が、ハンカチのような白い小布をはらりと路上に落とした。
 あら、と言うように天使は立ち止まって腰を折り、その布を拾う。ミニドレスで前屈みになるのだから、俺の目には、本来見えてはいけないものがドレスの裾からちらりと覗いて見える。
 下着ではなかった。
 まさかノー●ン――いや、やっぱり下着だ。
 しかしいわゆるTバック、背後から窺えるのは布地ではなく白い細紐にすぎず、それも縦方向の部分は幼げななりに丸みをおびた双臀の隙間になかば隠れてしまい、ほとんど何も穿いていないに等しい。
 俺は無意識の内に呟いていた。
「逮捕される……」
「大丈夫だよ」
 耳元でバリトンが言った。
 どうも聞き覚えがある声質だが――声質と言語体系が、俺の記憶の中でひとつに重ならない。
「天国では何もかもが無垢で自由なんだ。本当はドレスだっていらない。君も生まれたままの姿になって、生まれたままの姿の天使と、永遠に、楽しく遊んでいればいい」
 そうか、ロリ盛りの天使と、すっぽんぽんでなんぼでも遊べるのか――。
 しかし天使サイドはともかく俺サイドの場合、『自由』はしばしば『無垢』と真逆の方向にトンガってしまい、やっぱり一般世間から糾弾されそうな気がする。
「タイホ……」
 朦朧としながらも、なお躊躇する俺の鼻に、しゅっ、と、例のケミカルな臭気が流れてきた。
 アキバの裏通りが、ふたたび白い霧に包まれる。
 蘇りかけていた俺の良心、もといロリのTバックと現行犯逮捕を秤にかける姑息な打算は、その霧にあえなく溶けてしまう。
 前を行く天使は、よほどそそっかしい質なのか、またハンカチを地べたに落っことし、前屈みになって拾う。
「ちら」
 そんな悪戯っぽい声が聞こえた気もする。
 ともあれ俺は、その天使の小尻に惹かれるまま、ふらふらと霧の中を歩き続けるしかなかった。
          *
 ようやく脳味噌の霧が晴れると、そこは洋風の居間あるいは応接間で、古風な家具調度には勝ち組っぽい生活感が漂っていた。それらしい窓もあるようだが、窓枠ごと厚いカーテンに覆われており、外の光はまったく見えない。
「なんたる不覚……」
 典雅な肘掛椅子をがたがた揺らしながら、俺は呻いた。
 両腕はそれぞれ肘掛けに縛られ、両脚は椅子の前脚に別々に縛られているから、まったく身動きがとれない。無理に動いたとしても、前か後ろか左か右か、とにかくぶっ倒れるだけである。
「俺としたことが……」
 常々ロリの着エロ動画に悲憤していた俺が、なんぼ人間離れした超絶美ロリとはいえ、ヒモパンのヒップに釣られて易々と拉致されてしまうなど、あの樹海に消えたアキバ系老師に顔向けできないではないか。
 その美ロリ――推定マトリョーナ嬢は、向かいの長椅子で紅茶を啜りながら天使の笑顔で言った。
「でもタロウ・アラカワ、あなたは興味深い人ね。聞かされたデータとは、ずいぶん実像が違う」
 異国訛りはあるが、流暢な日本語だった。
「あの向精神薬の効果は、少なくとも一時間は続くはず。よほど意志が強くないと、途中で我に返ったりしないし、ちょっとでもペドの気がある男なら、私とふたりきりになったとたん、発情期のゴリラみたいにのしかかってくる。逃げようとする変質者なんて初めて」
 そこいらの経緯も俺にとっては判然としないが、確かに縛り付けられる前、複数の男を相手に抵抗しまくったような気もする。
「俺は道徳的な変質者なのだ」
「タロウ――そう呼んでいい?」
「おう。それでいい」
 立場状況問わず、ロリに苗字を呼び捨てにされるのは居心地が良くない。
「で、君の名は?」
「マトリョーナ・ベスパロワ」
 やはり苗字もロシアっぽい。
「マトリョーナ――そう呼んでいいかな」
「いいわよ、タロウ」
 その笑顔には、一抹の邪気も感じられなかった。
「君は日本で育ったのか?」
「いいえ。先週この国に着いたばかり」
「それにしちゃ日本語がうまい」
「少なくともG7の言葉くらい話せないと仕事にならない」
「仕事?」
 どう見ても暎子ちゃんと同じ年頃である。確かロシアも十五歳までは義務教育のはずだ。旧ソ連崩壊後の経済的混乱が治まらず、都会にはストリート・チルドレンなども多いと聞くが、数ヶ国語を操る浮浪児がいるとは思えない。とすれば、社会主義時代には国民の七人にひとりが秘密警察に通じていたという諜報国家のこと、今も国際スパイ向けの英才教育機関があったりするのだろうか。
「相手を間違えてるんじゃないか? 俺はただの民間人だ。何も知らないし何もできない」
「あのタマという地球外生物は、ガードが堅すぎる。自己防衛力も、周囲の監視体制も。その点タロウなら、私服のSPをふたりほど眠らせるだけで楽に拉致できた。そして事前調査によれば、タマはタロウに、ことのほか執着心が強い――」
 マトリョーナは意味ありげに頬笑みながら、大人びた仕草でティーカップを傾けた。
「日本に、こんなコトワザがあるでしょう。『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』。昨日は失敗したけど、今日はこうして馬を射た。将を射る算段は、これからじっくり考える」
 ドアが外からノックされ、あのメタボ白人――昨日の銭湯ではマトリョーナの父親に見えた男が顔を出した。今はカジュアルなスーツ姿である。
 俺はドアの隙間から、できるだけ室外の様子を窺った。この部屋相応の洋館っぽい廊下や隣室が見えるかと思いきや、どうやらただの雑居ビルの一室、ずらりと並んだ作業台で、日本人と思われる私服の若者たちが、せっせとタワー型パソコンを組み上げていた。小規模なオリジナル・パソコン工房――そんな感じである。
 ううむ、これはいかにもアキバ系を装った謎っぽいアジト――。
 男はすぐにドアを閉ざし、やはり肉親同士のように親しげな会話をマトリョーナと交わし始めた。その異国語の会話の中に、ワッカナイ、サハリン、それからサカイミナト、ウラジオストック、そんな地名が聞こえたので、俺は思わず口を挟んだ。
「俺をロシア行きの船に乗せるつもりか?」
「ほう、君はなかなか耳聡いな」
 マトリョーナ同様、訛りはあるが流暢な日本語で、メタボ親爺が言った。
「拉致は北朝鮮の専売特許ではない。しかし安心したまえ。偽装漁船の狭苦しい船底に君を詰めこんだりはしないよ。正規航路の観光フェリーで、楽しくツアーに出てもらおう」
「お断りだ。船は嫌いだ。船酔いする」
「大丈夫。あの薬は乗り物酔いにもよく効く」
 男は軽く笑って、
「それにマトリョーナの魅力が加われば、君が抵抗できないのは実証済みじゃないか」
 反論できないだけに、俺はかえってムカついた。
「恥を知れ。父親だか上司だか知らんが、子供にあんな真似をさせて情けなくないのか」
「父親? 子供?」
 男は面白そうに目を丸くして、
「確かに旅券ではそうなっているし、そう装ってもいるが――私はマトリョーナの弟だよ」
「は?」
「今後のつきあいもあるし、ここはきちんと名乗っておこう。私はセルゲイ・ベスパロフ。ロシアでは同じ家族でも男女によって語尾変化する苗字が多いのはご存じかな? ともあれ私は彼女と同じ両親から三年ほど遅れて生まれた、紛れもない実の弟だ。ちなみに現在、私は四十二歳」
「……なんの冗談だ?」
 唖然とする俺に、マトリョーナが言った。
「私が今の姿に育つまで、四十五年かかったのは確かよ」
 ふっ、と笑ったその顔は、子供の顔でありながら、確かに子供の表情ではなかった。
「ホルモン異常による成長障害、遺伝子レベルの突然変異――昔から色々言われたけど、本当の原因は、どんな病院でも解らなかった」
 まさかそんなナイスな、いや不可思議な障害や変異はないだろうと思いつつ、マトリョーナの表情を見ていると、感覚的に納得してしまう。仮に俺のパソコンの鰐淵晴子動画フォルダ内で例えれば、昭和三十年公開の倉田文人監督作品『ノンちゃん雲に乗る』に出ていた子役時代の彼女が、平成四年公開の坂東玉三郎監督作品『外科室』に登場する看護婦長さながらの臈長けた笑顔を浮かべている――そんな妖しくも蠱惑的な微笑なのである。
 自称弟のセルゲイが言った。
「いわゆる『ハイランダー症候群』だろうね」
「その病名はフィクションだぞ」
 俺は反論した。
 外見だけ子供のままの成人女性――そんなネット上のフェイク・ニュースと、不老不死を扱ったファンタジーのタイトル『ハイランダー』がくっついて生まれた架空の病名だが、ロリおた野郎の中には『合法ロリ』への憧れから実在の疾病と信じる輩も多い。
「確かに今のところ医学的には認められていない。しかし、それに類した『遅老症』という病気は実在する」
 セルゲイは臆せずに言った。
「ただし、それはあくまで病的な成長障害であり、心身のバランスを欠くケースがほとんどだ。姉のように健康に育ち続ける事例は今のところ皆無らしい。ならば唯一の『ハイランダー症候群』と言ってもいいわけだ」
「健康なんだか不健全なんだか微妙だけど――二十歳(はたち)の頃、今の職場にスカウトされて、もうずいぶん働いたわ」
 マトリョーナが大人の微笑を浮かべたままで言った。
「もちろん、始めから好きこのんでこんな仕事に就いたわけじゃない。こんな体に生まれついても、人としての倫理観は二十歳なりにあった。でも、時代がそれを許さなかった。私たちの両親には、遠くロマノフ家の血が流れていたの。ソビエト時代の社会主義政権下で、それがどれほど不利な出自だったか、タロウには想像できる? 父はなんの落ち度もないのにシベリア送りになって、それっきり音信不通。女手ひとつで私たちを育ててくれた母も、まともな仕事には就けなかった。ただ、母はとても美しかった。そのことだけを武器に、極貧から逃れるしかなかった。そんな母を、私たちは絶対に卑しいとは思わない。卑しいとすれば、それはむしろ私たちの家族の外にある世間や社会、そしてそれを動かす連中のほうだわ。だから私も、卑しい者たちを嘲笑しながら、それを弄んで生きる道を選んだ――」
 かなりヘビーな告白だが、あくまで淡々とした口調だった。
「――どんな国の、どんな分野の有力者にだって、タロウのように特殊な好み(ヽヽ)の人は必ず混じってる。女性問題におおらかな国でも、未成年者がらみのスキャンダルは致命的よ。まして相手が、ほんの子供だったりしたら?」
 うわ。なんてこった――。
 つまり、女スパイが得意とする色仕掛けの謀略行為、いわゆるハニー・トラップ。しかしこの娘、いや熟女の場合、今現在の外見年齢から四半世紀前の仕事姿を想像するに、ぶっちゃけロリおたコテコテの俺でさえ腰が引けそうな幼児型ハニー・トラップ――。
「ふつうなら、こんな種明かしは絶対しないんだけど、タロウは見かけほど卑しくないし、道徳的な変質者ですものね。私も久しぶりに大人の遊びができそう」
 マトリョーナは艶然と笑った。
 だから私に何をしてもいいのよ――そう誘っているのである。
「…………」
 俺は対処に窮し、セルゲイに訊ねた。
「……ケロリンはないか」
「ケロリン? 風呂屋にあった、あの黄色い桶のことか?」
「頭痛薬だ。ノーシンでもいい。頭が割れるように痛い」
「アスピリンなら手持ちがあるが」
「くれ」
 ただのアスピリンだと腹に悪いが、頭は確かに軽くなる。
「それより、こっちのほうが遙かに効くよ」
 セルゲイは何か点鼻薬のようなスプレーを手品のようにつまみ出し、俺の鼻先で、しゅっ、と押しつぶした。
 あのケミカル臭を感じ、俺は慌てて息を止めた。
「まあ気が済むまで堪えていたまえ。すぐに鼻の粘膜から吸収される。窒息する前に、生きたまま天国に行けるよ。念のため、催淫効果はさっきの四倍にしておいた」
 セルゲイは嘲笑するように言うと、さすがに実の姉の濡れ場に同席する趣味はないらしく、軽く手を振ってドアに向かった。
〈あとは任せた、マトリョーナ〉
〈了解。隠しカメラの録画ランプだけは確認しておいて〉
 最後の会話はロシア語だったので、その時点の俺には内容が解らない。
 懸命に息を止めている俺に、マトリョーナが顔を寄せた。
「もしかして白人の少女はきらい? それとも私が実はオバサンだから厭?」
 強いて言えば後者なのだろうが、むしろ合法ロリであることよりも、あまりのロリビッチっぷりが恐かったのである。どう見てもローティーンなのに、香り立つフェロモンだけは、昭和五十二年公開の牧口雄二監督作品『らしゃめん』に出ていた頃の鰐淵晴子さん以上だ。
「国外に拉致するなんて、セルゲイの冗談よ。ここで何があっても、あなたは今までどおりの生活をしていればいい。ただ、ときどき私と会って、こんなふうに仲良くしながら、色々な話を聞かせてほしいだけ」
 マトリョーナのちんまりとした唇が、俺の以下九文字自主規制。
 その軟らかい濡れた舌が、俺の以下十六文字自主規制。
 そしてあれよあれよと言う間に彼女は俺の目の前ですべての着衣を以下なんと六十三文字におよぶ徹底的な自主規制――。
「ここからは、タロウが主役。大の男が何も知らない少女を弄ぶ――そんな前時代的なシチュエーションが欲しいの」
 その頃になると俺の意識はもはや夢遊境、とっくに拘束は解かれているのに逃げ出すことさえ忘れ、すっぽんぽんになって前の長椅子に戻るマトリョーナを、ただ陶然と見送るばかりであった。いつの間にやら俺自身、トランクス一丁にされてもいる。今のところ怯えと自制心が勝ってテントを張るに至っていないが、しだいに血管を巡り始めた例の『ダメ。ゼッタイ。』っぽい薬液は、確実に俺の理性を蝕んでゆく。
 マトリョーナは長椅子に腰を下ろし、俺に向かって両脚を大きく広げ以下八文字自主規制、
「――さあ来て、タロウ」
 あまつさえさらに十二文字ほど自主規制、
「きちんと手入れさえ怠らなければ、女の子の大切なところは、いくつになってもちゃんとあなた好みの綺麗なままに保てるのよ」
 そう言いながら、しまいにゃ自分の指で、以下もはや計数不能のゲリラ豪雨のような自主規制――。
「……くぱぁ」
 ついに『くぱぁ』が発動されてしまった。二次ロリビッチの最終兵器、三次においては想像すら許されぬ禁断のオノマトペである。
 彼女が自賛したとおり、その大切な部分おいて、●●●はすでに失われているものの●●●にも●●●にもメラニン色素の沈着などはほとんど見られず、●●●●●●●で●●な●●●●の●●が●●●●●●――。
 そこに至って、俺の脳味噌は、ぶっつん、などと鈍い破裂音を響かせた。
 それはもう鼓膜を揺るがすほどの物理的なブッツンであった。
 刹那、道徳的な変質者としての俺はあえなく消滅し、
「まあまあまあまあ、あなたって子は!」
 俺の深層心理の奥底に隠れていた第二の人格が叫んだ。
「なんてはしたない格好をしているのマトリョーナ!」
 そう、俺は実は俺ではなく私だったのです。
「いくら日本の夏が暑くて蒸れるからといってそんな体の内側にまで風を通すのは淸く正しく美しい乙女としてとても許すわけにはいかないわマトリョーナ!」
 マトリョーナは目を丸くし、それから、うにい、と眉を顰めました。
「……なんの冗談?」
「それはわたくしのセリフですわマトリョーナ! すぐに服を着てちょうだい! 音楽会はもう来月なのですよ! ふたりして新しいストラディバリウスに慣れておかなければ!」
 マトリョーナは慌ててドレスを纏いながら、なぜか天井の一角に向かって大声をあげました。
「セルゲイ!」
 するとドアが突き飛ばされたように開き、マトリョーナのお父さんが駆けこんできました。
 マトリョーナがお父さんに何ごとかロシア語でまくし立てながら私をつんつん指さしますと、お父さんも何ごとか言い立てながら、うにい、と眉を顰め、首を傾げ、それから私に向き直って、
「……えーと、アラカワ君」
「アラカワ君? それはわたくしのことですの? 失礼ですがベスパロフ様、どなたかと勘違いしていらっしゃいますわ。わたくしは矢代、矢代悠子です」
 ……えーと、ここで念のため。
 この(くだり)に関しては、わたくしいや俺も後から経緯を聞かされたわけで、この時点ではあくまで俺ではなくわたくしなのであるが、ともあれ矢代悠子とは、昭和三十四年公開の佐分利信監督作品『乙女の祈り』に出ていた十四歳当時の鰐淵晴子が演じる汚れなき少女バイオリニストなのであった。
 などとわたくし以外のどなたかがナレーションを担当しているような甚だしい違和感はちょっとこっちに置いといて、
「それからベスパロフ様、わたくしも母がハプスブルク家の血を引いておりますからドイツ語は理解できますし、いちおうフランス語も嗜んでおりますが、ロシア語は学んでおりません。ですからマトリョーナとのお話も、できれば日本語でお願いできませんかしら」
「あ……ああ」
「ね、おかしいでしょう、セルゲイ。薬が多すぎたんじゃない?」
「いや、それでもこんな副作用が出るはずは……」
「クスリ? 副作用? あなたがたは、なんの話をしていらっしゃるの?」
「当人は女のつもりでいるらしいな」
「そうなのよ。まるで日本のテレビに出てるマツコ・デラックス状態」
「ですからなんの話をしていらっしゃるの?」
「えーい、さっぱわやや! こないしたろ!」
 ベスパロフ様はそう叫び、部屋の壁に掛かっていた大きな鏡を、えいや、と取り外し、真正面からわたくしに突きつけました。
「さあ、よっくと現実を見たまえ! ご覧のとおり、君はユウコでもヤシロでもない! マツコ・デラックスでもない! ぶよんとしてしまりのない三十過ぎのロリコン野郎、タロウ・アラカワなのだ! 正気に戻りたまえ!」
「…………」
 嗚呼……なんとゆーことでしょう。
 鏡に映ったわたくしは、お母様ゆずりの色白で細面の、淸く正しいドレスに身を包んだ少女のわたくしではなく、盛夏の貯水槽に三日三晩放置された溺死体のごとく不様に膨張しまくった、柄パン一丁のアブラ中年男――。
 嘘ですわ、こんなこと! これはきっと魔法の鏡が見せる悪意の幻――。
 でも、わたくしが可憐なはずの鼻筋や頬を両手で改めますと、鏡の中にいるアンコ型の相撲取りみたような男も、そっくり同じ仕草で、ぶよんとしてしまりのない顔面をぶよぶよと撫でまくるではありませんか。
 ――ぶっつん!
 なんだか頭の中でまた脳みそが破裂したみたいなので、俺やわたくしの奥底に隠れていた第三の人格が、ちょっとどもったりしながら口を開いたんだな。
「僕は東京市の浅草から来たのです。お父さんもお母さんも病気で死んでしまって、母おやの方は後で死んだので、母おやが死ぬ前、清や、もうじきお母さんが死んでしまうから、清はよそへ行ってつかってもらえ、東京は食べる物が少ししかないので田舎へ行って使ってもらえよ、腹がへったらばよその家でむすびを貰って食べろと言って居ました」
 僕より肥えた外人の男の人と外人の女の子は、なんだかこまったみたいな顔で僕を見ているので、外人だから外国語しかわからないんだろうかと思ったので、でも僕は日本語しかわからないので、やっぱり日本語で言うしかなかったんだな。
「おなかがすいたので、おむすびをください」
「……キヨシって何?」
「おむすびをください」
「……これはもう、薬が切れるのを待つしかあるまい」
「ずっとこんな調子だったら?」
「本国に連れて行き、様子を見るしか」
「そうね……それしかなさそう」
 そのとき窓ガラスがガシャンとものすごい音をたてたので、僕はびっくりしてそっちを向いたらば、なんだか聞き覚えのある、とっても懐かしい声が聞こえたんだな。
「させるもんですか!」
「ぐなおう!」
 揺れるカーテンの間から虎みたいに大きい化け猫が飛びこんできたので、化け猫の背中にはかわいい女の子がまたがっていたので、化け猫の咆える声にも聞き覚えがあったので、僕はおむすびをもらうよりずっと嬉しかったんだな。
「――暎子ちゃん! タマ!」
 俺は本来の俺に戻って叫んだ。
「太郎さん!」
 ポシェットから柳刃の柄を覗かせた暎子ちゃんが、アマゾネス初年兵のごとく頼もしい声で叫んだ。
「ぐな!」
 巨大人面タマは、見るからに御機嫌斜めな声で叫んだ。
「ぐなななな、ぐななん、ぐな!」
 半殺しの折檻を覚悟しなさい太郎――そう咆哮しているのである。
「ぐなぐなん、ぐなな、ぐなぐな!」
 そっちの泥棒猫たちも覚悟はいいですね――。
「……どうやって突入した。ここは六階だぞ」
 呻くように問うセルゲイに、暎子ちゃんが凜々しく返した。
「外の壁を駆け上がって来ました」
「ぐなあ!」
 猫又の非常識な身体能力を侮ってはいけないのである。
「……どうしてここが判ったの。タロウの匂いもGPSも攪乱したはずよ」
 マトリョーナが問うと、
「あの人たちが導いてくれました」
 暎子ちゃんは窓のカーテンを開け放った。
 向かいの中層ビルの裏階段に鈴生りになっていた無数のぶよんとしてしまりのないロリータ・スナイパーたちが、一斉に連写を始めた。どでかいストロボの閃光もあちこちで明滅する。
 そうか、と俺は納得した。あれらの中には、中央通りからタマと暎子ちゃんを追ってきた連中も混じっているのだろうが、ほとんどはマトリョーナ目当てのスナイパー、つまりタマたちの先導役なのである。向かいのビルは確か現在『まんだら穴』の末端支店、とすればここはまさにアキバ裏の極北に他ならない。
「アキバを甘く見たな、マトリョーナ」
 俺は不敵に言った。
「君がきわどいTバックを披露して俺を誘うたび、後の道では美ロリを見逃さぬ人蟻の群れが、わらわらと地中から湧き出していたのだ」
 折しも割れた窓から一陣の風が吹きこみ、マトリョーナのミニドレスを腰近くまで煽った。覗いた下着は逮捕レベルの極小物件、全裸より扇情的である。おまけに極薄で●●●●もくっきり見えている。向かいの裏階段のストロボ光がゲリラ豪雨のようにヤケクソで明滅した。身を乗り出しすぎて地べたに落下したロリおた野郎も何人かいるようだ。
「なんて国なの、ヤポニヤ!」
「姉さん、長居は無用だ!」
 セルゲイはいち早くこの場に見切りを付け、マトリョーナの手を引いてドアに走った。
「ぐなおう!」
 タマがバネのように跳躍した。
 俺も暎子ちゃんの手を引いて後を追う。
 隣のパソコン工房にいた若者たちに、セルゲイが叫んだ。
「先ほど捕らえたフリーメーソンの一味が地獄の獣を召喚した! 尊師の受難も奴らの陰謀!」
 いきなりトンデモの嵐である。
 若者たちは色を成して作業の手を止め、こちらを窺った。
「すみやかにポアしてやるのが世のため人のため、また彼ら自身のため、さらには獄中の尊師のためだ!」
 言い立てるセルゲイに、若者たちは、なんじゃやら仏様でも拝むように両手を合わせている。
「私ら親子はちょっとロシアに急用ができたんで、お先に失礼する! ポアした後は残りカスもしっかりシマツしとくように! んじゃ、そーゆーことで!」
 言いたい放題ののち、セルゲイたちは脱兎のごとく工房から逐電した。
 残った若者たちは、異形の巨大人面猫に臆する気配もなく、それぞれトンガった工具やギザギザのボード類を得物にして、じりじりとこちらに詰め寄ってくる。その目に邪気や狂気は微塵も窺えず、むしろ全員、迷いのない澄みきった瞳をしている。
 そんな洗脳済みっぽい瞳の群れを、俺は確かにどこかで見たような気がした。
 ――うわこれ『アウン定説教』のドキュメンタリー番組に出てきた、資金源のパソコン工房に激似!
 脳味噌の煮えすぎた教祖・浅墓焼香(あさはかしょうこう)が、一部の教団幹部を率いて毒ガスによる無差別テロを決行し逮捕され、教団自体は解散に追いこまれたものの、脳味噌が半ナマに茹だってしまった信者たちは『コレフ』やら『ドレフ』やら『ソレフ』やらに分家して、獄中の教祖様を今も拝み続けていると聞く。ちなみにポアとは、もともとは高次への転生を意味する宗教用語らしいが、アウン教の場合、自分の都合で他人をシマツするときの正当化にも使用される。殺すんじゃなくて高い次元に転生させてやるんだから功徳――そんな、いかにも脳味噌の煮えた世迷い言である。
 ――まだアキバでやってたんかい。そういえばアウン定説教は、本部に輪をかけてヤバげな支部がロシアにもあったんだよなあ。そこを元KGBか何かが利用して、対日工作の拠点にした――とか?
 ともあれ、そんな必要以上に澄みきりすぎた瞳の群れに、さしものタマも勝手が違い、挙動に窮していた。
「……ぐな?」
 のちに語ったところでは、旅の途中に夜の木曽山中で、狐の嫁入りに化けた狸の婿入りなどという意味不明の行列に出会ってしまったときよりも、ある意味ビビったそうである。
「ぐおなぐな、なおなおんななな、ぐな」
 ――こーゆーウロンなイキモノは、躍り食いも刺身もヤだなあ、太郎。
「いや別に食わんでいいから」
 俺は正しい大人として助言してやった。
「とりあえず力いっぱい(なぶ)り倒してあげなさい。顔面半分ふっとばすイキオイで」
 他人様の信心に、四の五の言えるほど俺は偉くない。しかし、なんぼ瞳を澄みきらせたところで、夜郎自大の言い訳にはならない。いかなる神仏も、ロリや猫の下位にあることだけは自明の理だ。
「でも女性には、爪なし肉球オンリーで」
 男より女性が尊いのも自明の理である。かつてロリでなかった女性はいないからだ。
 
 
 

第五話 魔の山へ飛ぶかもしんない(前編)

 

     1

 ひとり頭およそ一秒、全行程三十秒弱で工房中を阿鼻叫喚の折檻場に変えたのち、
「ぐなおう!」
 タマはノリノリのまま工房からビルの廊下に躍り出た。目と鼻の先にエレベーターがあり、階数表示の点灯は、ちょうど二階から一階に移ったところである。横手の小窓から外を窺うと、あの大小差の甚だしい姉弟が、眼下の裏通りに駆け出るのが見えた。
「ぐなな、うな!」
 タマが暎子ちゃんに咆え、
「ほいっ!」
 暎子ちゃんはひらりとタマの背にまたがった。
 小窓のすぐ奥に全階連続の階段室がある。暎子ちゃんを乗せたタマは、そのまんまだだだだだと階段を駆け下りた。俺もどどどどどと後を追う。まあ俺としては今さらマトリョーナたちを追いかけても仕方ないのだが、タマと暎子ちゃんが追い続ける以上、俺も追い続けるしかない。なにせ荒川プロダクションに所属する動物タレントはタマだけだし、俺の嫁になってくれそうなロリは暎子ちゃんだけである。
 タマたちが通りに躍り出ると、すかさずロリータ・スナイパーたちのシャッター音が響いた。ざっと見たところ、さっきの大群の六割方は超美形舶来ロリのTバック追尾に回ったようで、庶民派の和ロリを待ち受けていた穏健派は三割程度か。さらに少数派だが、もっぱら巨大人面タマを狙っている猛者もいる。おそらく変身過程を目撃した『猫娘萌え』の連中だろう。おたくによっては『変身属性』そのものも珍重される。
 彼らの背後の路上には、向かいのビルの外階段から落下したロリおた数名が、力なく横たわったり蠢いたりしていた。名誉の戦死あるいは負傷、いずれにせよ当人たちは本望のはずである。仮に危険な岩山の鎖場を登っている最中でも、前方にロリを発見すれば両手でカメラを構えてしまうのがロリータ・スナイパーの宿命である。俺も十年ほど前に妙義の観光登山路で三十メートルほど滑落し、アバラを二本折ったことがある。
 通りの彼方にマトリョーナ追跡組の後尾を認め、タマ&暎子ちゃんは、すかさずそっちを目指した。残っていた全てのおたくたちも後を追う。俺は、その群れの先陣を切っていた。
 逃げ回るベスパロワ&ベスパロフ姉弟を追って、俺たちは秋葉原の入り組んだ裏通りを延々と駆けた。まるでぶよんとしてしまりのないマラソン大会である。そのうち制服の警官や私服の警護官、あっちこっちのアレな方々、さらにはマスコミ関係者らしい連中まで自由参加しはじめた。なにせそもそもの発端は表通りの歩行者天国、公衆の面前でタマが変身爆走し、裏通りに姿を消していたのである。公安や特機の私服組に負けず劣らず、それまでタマの存在を知らなかった表の警官たちも、騒ぎを聞きつけたマスコミ連中も、血眼で探し回っていたはずだ。
 雑居ビルの谷間から見上げる空に、複数のヘリコプターが飛び交い始めた。警視庁のヘリもあれば、報道用ヘリもあれば、推定アレ関係ヘリもある。しかし今現在このあたりを暴走中だとヘリから見当がついても、狭い裏通りではカメラが捕捉できない。じきにカメラ付きドローンが投入されて雑居ビルの谷間まで入りこみ、俺たちの頭上にわらわら群がってきた。どれもちっこすぎてどこ所属のドローンか判然としないが、マスコミ系が混じっていれば実況中継されている可能性もある。
 その頃になると、暎子ちゃんを乗せたタマは、ほぼマトリョーナたちの背中に迫っていた。俺もバクバクの心臓を騙し騙し、なんとか併走していた。
「なんでこうなるの!」
 マトリョーナが悲鳴のように叫んだ。
「ヤポンスキーはみんなキ●ガ●だわ!」
「あ、いや、すまん」
 俺はつい謝ってしまった。
「これはもう君たちの問題じゃないかもしんない」
 タマにまたがった暎子ちゃんが、横でうなずいた。
「私もさっきから、ちょっとそんな気が」
 セルゲイが、青いんだか赤いんだかよくわからないドドメ色の顔で呻いた。
「し、心臓が……」
 お互い大デブ、心臓マヒで死ぬ時ゃ一緒である。
「ぐななぐなぐな、ぐななぐな!」
 タマが長々と咆えた。
「なんて言ってるの!」
「もう腹ペコなんでこの際アブラミのカタマリでもいいそうだ」
 セルゲイの顔がドドメ色から群青色に変わった。
「心臓が……」
 マトリョーナはヤケクソで叫んだ。
「えーい、さっぱわやや! こないしたろ!」
 しかしこの姉弟は、どこの誰から日本語を学んだのだろう。
「あっちよ、セルゲイ!」
 マトリョーナは無謀にも、次の角を大通り方向に折れた。いや、無謀ではなく得策かもしれない。このまんま表通りの歩行者天国に突入すれば騒動はさらに大増幅必至、先頭のロシア姉弟は一般外人観光客に紛れてバックレる機会が狙える。しかし異形のUMAを頂く俺たちは――どうすりゃいいのさ思案橋、などと青江三奈の長崎ブルースを歌っているバヤイではない。先に見えてきたのは長崎の思案橋ではなく神田の万世橋交差点、まさに歩行者天国の端っこである。
 マトリョーナたちは案の定、騒動の余波でいつもより混沌度を増している歩行者天国に、まともに突入して行った。暴動的マラソン大会の闖入に仰天した観光客たちが、モーゼを前にした紅海のごとくどどどどどと左右に割れてゆく。先頭グループに位置する俺は、ああ、ここが平和ボケ国家の日本で良かった良かったと胸を撫で下ろしていた。一般市民が鉄砲を持っていないから、いきなり鉄砲玉が飛んでこない。だから官憲も滅多に撃たない。銃砲規制の甘い国だと、街中で暴動が起きたり猛獣が暴れたりしたら、昂ぶった市民が思わずぶっ放し、官憲もそれなりに対処する、つまり寄ってたかってぶっ放すからとても危ない。
 頭上に有人ヘリが集い始めた。カメラ付きドローンも雲霞のごとく飛び交う。
 前方およそ百数十メートル、神田明神通りの交差点めがけて、中型ヘリが果敢に降下してきた。軍用機っぽい塗装なのに自衛隊のロゴも日の丸も見当たらないので、俺はいやあな予感がした。なにせ米国の現大統領はあの恫喝王タロットである。「友好国の安全のため」とか言いながら、ドサクサにまぎれてUMAの捕獲くらい平気で決行するのではないか。その証拠に、地上十数メートルでホバリングするそのヘリから何本ものロープが投げ出され、どこぞのアクション映画で見たような特殊部隊っぽい連中が数名、次々と降下してくる。遠目にも飛び道具を抱えた重装備、ロシアの二人組や日本のロリおた集団が目当てのはずはない。狙いはやっぱりタマだ。方向転換して逃げたいが、後続の大群に追いまくられて減速すらできない。
「忠実な下僕として御主人様に進言する」
 俺はタマに言った。
「ちっこいサイズになって暎子ちゃんと一緒にバックレろ。今さらこのふたりを追っても意味がない。どのみち俺は死ぬまでお前の下僕だ」
「ぐなな、ぐなぐな、ぐぐなぐな」
「なんて言ってるの!」
「そっちの件はもうどーでもいいけど、腹が減りすぎて変身できないそうだ」
 俺はマトリョーナたちに、今のうちに左右の群衆に紛れて離脱しろ、と手振りで促した。
 マトリョーナは感謝の色を浮かべ、セルゲイの手を引いて野次馬たちの隙を窺った。しかしセルゲイは突然「う」などと呻いて膝を折り、巨大な丸虫のようにうずくまった。俺より皮下脂肪や内臓脂肪が多いぶん、同じ走行距離でも心臓への負担が大きすぎたのだ。セルゲイは胸を押さえてわななきながら、姉さんだけ逃げろ、と顎の動きでマトリョーナに訴え、それっきり地に伏して動かなくなった。
「セルゲイ!」
 マトリョーナは、逃げ出すそぶりもなく弟にすがりつく。さすがに辛苦を共にした肉親の情、仕事の非情とは別扱いなのである。
 俺は周りで渦を巻くロリおた連中に叫んだ。
「AEDを探せ! この子の父親が心拍停止だ! AEDをすぐ持ってこい!」
 嘘も方便である。連中自身、いつ心臓が止まってもおかしくないBMI指数を誇っているから、それで話は通じる。ましてお目当ての超美ロリがすがりつくようなまなざしで懇願してくるのだから否やはない。ぶよんとしてしまりのない一団はわたわたと辺りを見回してから、AED設置表示のあるコンビニに向かって我先に駆けた。
 俺はセルゲイに、いわゆる胸骨圧迫を施した。俺だって伊達に半年もパソコン相手に引き籠もっていたわけではない。日常を黙殺していたぶん、非日常的なウンチクはYOUTUBEあたりでしっかり蓄積している。さすがに男同士でマウス・トゥ・マウスの人工呼吸を施す度胸はなく、そっちはマトリョーナが担当した。舶来超美ロリと中年親爺の接吻シーンに、六割方のストロボが光りまくった。じきに届いたAEDを暎子ちゃんが受け取り、てきぱきと電極パッドを差し出してくれる。女子小学生でも暎子ちゃんクラスのいいんちょタイプになると、使用手順を心得ているのである。そんな健気な和ロリの姿に、三割方のストロボ光が降り注いだ。
 俺たちがAEDの音声メッセージに従ってジタバタしている間、タマだけは傍らでだらりと寝そべり、大あくびをカマしていた。
「うなあぁぁぁぁ」
 根が移り気な猫のこと、この事態そのものに飽きてしまったらしい。巨大人面猫の常軌を逸した大あくびに、物好きな一割方の猫娘おたくたちが感嘆し、すかさずシャッターを切りまくった。
 周囲の人の渦のあっちこっちでは、なんじゃやら、むくつけき男たちの小競り合いが始まっている。例のヘリから謎の部隊が参入するに至って、タマを追っていたあっちこっちの非合法な連中が、各々トンガリ合っているのだ。部隊に与する勢力もあれば、断固阻止に回る勢力もあろう。そこに桜田門や永田町の関係者まで絡んで、もはや収集がつかない。そうこうしている間にも、推定特殊部隊の精悍な一団は隊伍を整え、辺りを牽制しながらこちらに迫ってくる。
 ようやくセルゲイが息を吹き返し、しょぼしょぼと薄目を開けた。
「……姉さん」
「セルゲイ!」
 マトリョーナがセルゲイに抱きついた。セルゲイの顔に血の気が戻ってくる。
 今後の展望はちょっとこっちに置いといて、まあとりあえずよかったよかった――俺も暎子ちゃんもロリおた連中も一緒になって、そんな微妙な吐息を漏らした。
 そこに例の特殊部隊っぽい一団が到着し、ずい、と俺たちを取り囲んだ。
 タマはおもむろに男のひとりを見上げ、舌なめずりしながら啼いた。
「ぐななぐな、うなな」
 男が俺に訊ねた。
「……なんて言っているのかな?」
 どでかいゴーグルで顔を覆っているので表情が判らない。ともあれ完璧な日本語である。
「赤身たっぷりで美味しそう――そう言ってます」
 俺は油断なく言った。
「俺がOKを出したら、兵隊の五人や十人、すぐ食い殺しますよ」
「ぐななん!」
 俺の台詞はハッタリだが、タマはマジに腹を減らしている。相手もプロの兵隊なら、作戦行動中に死ぬ覚悟はあるだろう。まあ化け猫に躍り食いにされる覚悟はしていないかもしれないが、ISに首チョンパされるのと大差はない。
「おいおい荒川君」
 後方から、聴き慣れた声がかかった。
「数少ない同志をタマちゃんの餌にしないでくれよ」
「……富士崎さん!」
 歩み出た富士崎さんは、ゴーグルの下の口元をにやりと緩ませ、抱えていた銃器っぽい得物を軽く掲げて見せた。
「暴徒鎮圧用のゴム弾や射出式スタンガン――タマちゃんを護る役には立つが、タマちゃん自身にはとても叶わない」
               *
 俺たちを回収したヘリコプターは、すぐさま交差点から秋葉原上空に舞い上がった。
 眼下に遠ざかるロリータ・スナイパーの群れは、いつまでも名残惜しそうに手を振っている。俺もなんだか胸が熱くなって手を振り返した。しつこくレンズを向け続けていた一部の猛者が、お前なんかどうでもいいからロリや猫娘の顔を出せ、と身振り手振りで抗議した。俺はしつこい奴が嫌いなので、そっちにはアカンベーを返した。他の一般の野次馬たちや、おそらくは上層部の指示で陸自別班の先制行動を容認した官憲の方々や、取り残されたあっちこっちのアレな方々が何を思っているか、それは定かではない。
 上昇しつつ、皇居や霞ヶ関とは逆方向、どうやら南東の方角に大きく旋回する。
 中型ヘリのキャビンは、戦争アクション映画で見るような物々しさはなく、むしろ観光用っぽいベージュが基本色の小洒落た造作だった。座席は前後三列左右四列、計一二席、大入り満員の盛況である。前列と中列が向かい合わせになっているのは、両横の扉からスムーズに出入りするためらしい。
 中列の左端にいる俺と差し向かいで、前列の富士崎さんが言った。
「なかなかいい乗り心地だろう。揺れないし、うるさくもない」
 確かに機内でふつうに会話できるヘリなど皆無だと、知り合いの飛彦(とびひこ)から聞いたことがある。ちなみに『飛彦』とは航空おたく、鉄道関係でいえば『鉄ちゃん』や『テツ』に相当する。
「某財界人の極秘商談専用機を、強引に拝借したんだ。我々の立場上、自衛隊の装備は使用できないからね。まあそれ以前に、そもそも予算が通らないわけだが」
 自嘲気味な上長の口調に、ミリタリー・ルックの部下たちは微妙な苦笑を交わした。
 中列には、俺の隣に暎子ちゃん、そしてマトリョーナとセルゲイも同乗している。本来なら逃亡したかったのだろうが、セルゲイはまだ朦朧状態、とても走れる状態ではない。
 向かいの富士崎さんの横には、なぜか田所巡査長と椎名巡査の公僕コンビも便乗していた。セルゲイが最初にスプレーで眠らせた私服のSPふたりというのが実はこのコンビであり、目覚めてからずっと俺たちを捜し回っていたらしく、離陸間際に飛び乗ってきたのだ。タマは座席に収まりきれず、俺たちの足元、つまり前列と中列の隙間に寝そべっている。
 そしてさらに意外なことに、
「やあやあ皆さん、ご無事で何より」
 コクピットの助手席だかなんだか、とにかくパイロットの横からキャビンを振り返って、SRIの牧さんが挨拶してきた。
「あれ? 実家で法事じゃなかったんですか?」
「山の墓地から、いきなり拉致された。いやあ、親戚筋にウケたのなんの」
 牧さんは上機嫌で言った。
「世界広しといえども、タマちゃん固有の生体反応を正確に追えるのは、今のところ僕だけだからね」
 いつのまに造っていたのか、なんじゃやらそれらしいモニター付きのハンドヘルド物件を見せびらかす。
「もっとも今回はすぐに見つかっちゃったんで、これは無用の長物だった。しかしあれだけ派手にマスコミ・デビューしちまうと、こんどはそっちの情報を、なんとかUMA以外の方向に攪乱する必要が生じるなあ」
「そんな離れ業ができますか?」
「なんとかするさ。そもそも離れ業じゃない仕事はSRIに回ってこない」
 どんな手段を講じるのか見当もつかないが、まあSRIのやることだから、たいがいの超常現象は科学の世界に引きずりこんで、世間を煙に巻いてくれるはずだ。
「それからタマちゃん、はいこれ、田舎のお土産。月の輪熊の内モモ肉だよ」
 牧さんが差し出したお土産を、富士崎さんがリレーして、タマの鼻先に届けてくれた。
 一~二キロはありそうな油紙巻きの肉塊に、空腹で御機嫌斜めだった巨大人面タマは、たちまち二叉尻尾をぷるぷるさせた。
「うにゃ~~ん!」
 そのまんま食いつこうとするタマをぺんぺんと制し、俺は熊肉の油紙を剥いてやった。
「あんまりツバ飛ばすなよ」
 コクピットのふたり以外は全員すでに汚れ放題だが、猫の涎や熊の肉汁の追加は嬉しくない。
「うなんうなん」
 タマは激しくこくこくうなずいて、両前脚で肉塊を抱えこみ、がふがふはぐはぐと咀嚼しはじめた。
「うみゃうみゃ、みゃおなんな」
 ああ、この懐かしき山野の赤身――。
 ご満悦のタマは別状、キャビンには一部不穏な緊張感が漂っている。ミリタリー系やエスピオナージュ系の緊張ではない。富士崎さんとその仲間たちは、むしろ休憩中の表情である。緊張感の元は、主に暎子ちゃんとマトリョーナが隣り合ってピリピリと散らすなんらかの精神的な火花、そして公僕コンビがダメゼッタイ系のセルゲイに向けている警戒のジト目、そこいらであった。
 しかし当のセルゲイは、呆けたような半眼でタマを見下ろしながら、
「……頭を撫でても、噛まないだろうか」
 誰にともなく訥々と、
「ずっと昔……子供の頃……母や姉といっしょに映画を見たんだ。アフリカのライオンの映画だった」
 いっぺん脳味噌の血流が滞ったせいか、精神が幼児退行しているようだ。
「……親を亡くしたライオンの子供を、狩猟監視官の夫婦が育てて、やがてサバンナに帰してやる……そんな話だった。確か、エルザというライオンだったな」
 マトリョーナが懐かしそうにつぶやいた。
「『рожден свободным』――」
 もはやカタカナ表記の不可能な発音である。たぶん英語の原題『BORN FREE』に相当するロシア語ではないかと俺は思った。
「『野生のエルザ』?」
 訊ねてくる暎子ちゃんに、俺はうなずいた。
 イギリス映画『野生のエルザ』は旧ソ連でも公開されていたらしい。イデオロギーとは無縁の動物映画だから大目に見られたのだろうか。それとも原作者の出身地が、当時の社会主義仲間チェコだったからか。
 周囲の声を聞いているのかいないのか、セルゲイは相変わらず独りごちるように、
「……今まですっかり忘れていたが……こーゆーどでかい猫の仲間を、思うさま撫でまわすのが、ずっと私の夢だった気がする」
「ライオンは知らないが、こいつは撫でても噛まない」
 俺は言った。
「とくに食事中は機嫌がいい。ただし餌には手を出さないように。餌ごと指を囓られるぞ」
「……私は熊の肉を盗らない」
 セルゲイは幼児のように頬笑んで、タマの頭を撫でまわした。
「なでなでなで」
 タマは熊肉に夢中で、頭の感触など意に介さない。
「ぐみゃぐみゃぐみゃ」
 セルガイがうっとりとつぶやいた。
「……プシスティ」
 ロシア語が解らず首をひねる一同に、マトリョーナが訳してくれた。
「……モフモフですって」
 その声は、すっかり和んでいた。
 しゃっちょこばっていた暎子ちゃんも、思わず頬を緩ませる。
 セルゲイが鼻歌を口ずさみはじめた。
 歌詞はロシア語らしいが、ジョン・バリー作曲の流麗なメロディーは万国共通だから、俺たちにも聴き取れる。『野生のエルザ』の主題歌『ボーン・フリー』――ドン・ブラックの英語詞を日本語に意訳すれば、こんな感じだろうか。

  吹きわたる風みたいに
  気ままに生まれついたんだ
  草がすくすく伸びるみたいに
  君は気ままに生まれついたんだ
  だから生きたいように生きてればいい――

 セルゲイはもともとバリトンの美声だから、夢うつつの軽い鼻歌でも、なかなかの情感である。当のタマだけが我関せず状態なのは、ちょっと彼に気の毒な気もしたが、そうした勝手気まま自体が、すなわち『野生の猫科』なのである。
 ともあれ俺たちを乗せたヘリコプターは、行く先も成り行きも富士崎さん任せのまま、夏の青空を直進していた。

     2

 遙か眼下に、江戸川を渡る常磐線の鉄橋が見えた。隅田川や荒川はとっくに飛び越している。この方向だと、そこで東京上空を抜ける勘定だ。
 俺は富士崎さんに訊ねた。
「で、俺たちは、どこに向かってるんですか?」
 万事、成り行き任せで生きている俺も、気になるものは気になる。
「詳しくは教えられないが、チバラギの内陸部とだけ言っておこう」
 なるほど、その辺りなら、人知れぬ山間に秘密基地くらい設営できるだろう。チバラギの出身者は「そんなに田舎じゃない」と怒るだろうが、そこには人跡未踏の土地だって少なくない。航空測量のデータと、そこを実際歩いた住民がいるかどうかは、また別の話なのだ。
 眼下の都市部に田畑の間隙が生じ、やがて利根川の広々とした河川敷が見えてきた頃、パイロットが富士崎さんに言った。
「班長、ポイントCから緊急連絡が入りました。直接、通信を受けて下さい」
「了解」
 富士崎さんはヘッドセットのボタンを切り替えた。
「富士崎だ。どうした? ――オクレ」
『百里に妙な動きがあります。F―4が四機、緊急発進しました。内二機はこちらへ向かっている模様です。他の二機は、おそらくそちらへ。――オクレ』
「了解。思ったより早く動いたな。そちらは通常どおり、いっさい反応するな。貴様の判断でポイントCの放棄を許可する。こちらも通常どおり、野良に徹して先走る。今後はお互い、危急の変化が生じた場合のみ私物の衛星電話端末で連絡。以上。――オクレ」
『了解。そちらも、どうかご無事で』
 俺はミリオタでも飛彦でもないが、百里に航空自衛隊の基地があり、F―4が戦闘機の機種名であることくらいは知っている。
「それってタマがらみの話なんですか?」
 さすがにビビって訊ねると、
「ああ、ついに矢倍さんも腹をくくったらしいな」
 富士崎さんは、むしろ嬉しそうに言った。
「それならそれで、こっちは次善の策を講じるだけなんだが――」
 富士崎さんは、マトリョーナとセルゲイに目を向け、
「外国からいらしたお客様方にお泊まりいただく予定の宿が、どうやら塞がってしまったようだ」
 マトリョーナは、ツンとすました顔で、
「それじゃあ、成田の近くで下ろして頂けますかしら」
「いえいえ、我々の業界ではもはや伝説化しているおふたりに、お茶もさしあげずお帰しするわけには」
「……ならば、どこへなりともお供しますわ」
 マトリョーナは覚悟を決めたように言った。
「あなたがたに与するという意味ではありません。わたくし、今後、タロウと行動を共にさせていただきます」
「は?」
 俺は仰天した。
 隣の暎子ちゃんが殺気立ち、俺の腕にしがみついた。
「あの、えと、それはつまり、あくまでタマを狙い続けるって意味だよな」
「そっちの任務は、さっきの騒ぎで御破算よ。そして私自身は、ライオンにもオオヤマネコにも興味がない。もっともセルゲイは、ずいぶん御執心みたいだけど」
「もふもふもふ」
「ごろごろごろ」
 確かに臨死体験後のセルゲイは、幼児のごとく巨大人面タマを撫で回すのに余念がない。タマもメタボ下僕の新規参入を歓迎しているようだ。
「でもマトリョーナ、それでお前は大丈夫なのか?」
 映画や小説だと、任務に失敗したり国家を裏切ったりしたスパイは、なんかいろいろ制裁を受けたり、下手すりゃ消されたりするのではなかったか。こないだのCIA野郎みたいに富士崎さんに囲われたほうが、まだ安全な気がする。
「俺なんてヒトカケラの防御力もないぞ」
 暎子ちゃんが俺の腕をつねってきた。俺の自己卑下を窘めたのか嫉妬に駆られたのか、それとも両方か。
「……ほんとにタロウはお人好しね」
 マトリョーナは呆れたように苦笑した。
「私たちのことなら御心配なく。これでも四半世紀、こんな裏仕事で生きてきたのよ。上司も国家も、むしろ今では私たちを畏れる立場だわ。下手に私たちを敵に回せば、あっちが国際的な大恥をかくことになる。弁解も妨害もできないよう、幾重にも保険(ヽヽ)を掛けてある。送金を断たれたって、百年は遊んで暮らせる貯金もちゃんとある」
 マトリョーナは富士崎さんに意味ありげな視線を流し、
「そちらの方だって、ずっと別班でやってるからには、自分も家族も護れるだけの裏道を、きちんと整えてるはずよ。その程度の奸策も講じられない軍人に、とても国なんて護れない」
 富士崎さんは、にんまりと笑って言った。
「まあ、何ごとも清濁合わせ呑まなければ、長続きしないのは確かだね」
 愛国者という稼業も、なかなか複雑らしい。まあそれは当然のことであって、俺みたいな単細胞が右巻きを志しても、街宣車を転がすくらいが関の山だ。
「と、ゆーわけで、私は今日から無期限休暇に入ります。タロウを背徳的な変質者に()とすまで、タロウの側を離れません」
 超可憐ロリの瞳に、例の婀娜な年増の色香を浮かべ、
「なんとしてもあなたを堕落させてみせる。それが、私が私であることの(あかし)だから」
 俺の心臓は甘美なる恐怖におののいた。
「させるもんですか!」
 暎子ちゃんがポシェットに手を差し入れ、するりと柳刃を引き抜いた――と思いきや、
「ありゃ?」
 マトリョーナの鼻先に突きつけられたのは、カラフルな花束であった。つまり包丁の柄の先に、刃ではなく、手品のような造花の束が開いているのである。よく見れば木製の柄も、雲州の柳刃とは微妙に違っている。
「そうトンがらなくても大丈夫よ、エイコ。私は家庭とか妻の座とか、ちっとも望まないから」
 マトリョーナは、いつのまにすり替えたのか(さらし)巻きの柳刃を自分で弄びながら、
「日本語で言うと、えーと、オメカケさん? 週に一度とか月に一度とか、まあクリスマスには無理でもハロウィンの夜ならなんとか出張のフリして私の部屋に一泊するとか、たまには非日常的で隠微な情痴に思うさま溺れるのも立派な男の甲斐性、みたいな?」
 暎子ちゃんは晒巻きを引ったくり、鬼のような顔で叫んだ。
「正妻として絶対に許しません!」
 コクピットの牧さんがつぶやいた。
「修羅場だねえ」
 背中合わせの富士崎さんがうなずいた。
「修羅場ですねえ」
 向かいの俺は、困惑するべきか、すなおに脂下(やにさ)がっていいんだか、自分でも解らなかった。なにせこれまでの長い人生で、女ひとりを巡る男ふたりの三角関係に敗北を喫したことはあったが、俺ひとりを巡るロリ同士の三角関係――片方は外見だけのロリだが――が生じるなど、完全無欠の想定外である。
 足元でタマが啼いた。
「ぐなな、ぐななんなん、ぐぐなぐな」
 暎子ちゃんが肩を落として言った。
「……そうしとくべきでした」
 なになに? この化け猫、今なんて言ったの? ――そんな視線が俺に集中したが、俺は通訳を控えた。だからさっさとツガっちゃえばよかったんだよ、そう啼いたのである。
「さて、お取り込み中のところすまないが、みんなシートベルトを締めてくれないか」
 富士崎さんが言った。
「F―4の巡航速度はおおむね時速900キロ、じきに接近遭遇する。当機としては次善の策に向けて、少々無謀な対応をとらなきゃならない」
 富士崎さん一派は、もとよりベルト装着済みである。便乗組の俺たちも、泡を食ってベルトを整える。ただし現状のタマは着けようがない。
 俺は巨大人面タマを、どっせーい、と膝に抱え上げた。
「おいタマ、縮め!」
「ぐみゃ?」
「最小モードだ。省エネサイズ!」
「にゃおん」
 ぽん、と音をたてて――いや別に音はしないが、そんな感じで一瞬にふつうサイズの三毛猫と化すタマを、セルゲイは右端の席から、ちょっと残念そうに眺めていた。あくまでライオン級のどでかい猫科が好みらしい。
 富士崎さんがパイロットに命じた。
「南南西に進路変更」
「了解」
 中身の俺たちをまとめて斜めはすかいにしながら、ヘリが踊るように反転する。ちょうど180度、もと来た方角に逆戻りだ。
 俺は富士崎さんに訊ねた。
「逃げきれますか?」
「それは不可能だ。こっちの逃げ足は、どうがんばっても三分の一そこそこだからね」
「じゃあ……」
「そこがそれ次善の策さ。と言っても最後の手段、もうこの手しか使えないんだが」
 富士崎さんは胸ポケットから別口の通信端末を取り出し、ぽぺぺぽぴぽぱ、と、まるっきりガラケーのように数字キーを押した。
「――あ、どうもどうも、いつもお世話になっております。旭日物産の富士崎です」
 ほとんど営業社員の口調である。
「実は、お借りしていたヘリコプターの件なんですが――ほう、やはりテレビで回収作業をご覧になりましたか。いやあ、お恥ずかしい次第で。――はい。――はい――。すると他社の動きも、すでにお耳に? さすが会長、お耳が早い。――はい。できればこれから、回収物件を直接そちらに持参し、お預かりいただきたいのですが。――はい。会社や飛行場では他社の妨害が入る恐れがありますので、できれば会長の御自宅に。――はい、ありがとうございます。三十分ほどでお伺いできると思います。それでは、なにとぞよしなに――」
 通話内容も、ほとんど営業社員だった。
「――とりあえず降りる場所は確保できた」
 富士崎さんが俺たちにそう言ったとき、パイロットが叫んだ。
「F―4が二機、後方から接近中! 交信を求めております」
「無視しろ。いっさい反応するな。今後はこの衛星電話端末以外、当機の通信機器は全て故障中だ」
「了解」
 富士崎さんは俺に向き直り、
「これから頼る人物に後々迷惑をかけないため、お国の指示はいっさい聞かなかったことにするわけだ。なあに、無視しても威嚇を越える攻撃は受けない。なにせタマちゃんが乗ってるんだからね。まあ多少煽られて揺れるかもしれないが、遊園地のジェットコースターくらいのものさ」
 俺は念のため訊ねた。
「今のターンくらいですか? つまり花やしきのコースターみたいな」
 富士崎さんは、ちょっと首をひねり、
「いや、富士急ハイランドのド・ドドンパくらいは荒れるかな」
 暎子ちゃんが力いっぱい俺の腕にしがみついた。
 タマは何度もちょんちょんと右手、もとい右前足を振り上げて、元気いっぱいに啼いた。
「にゃんにゃんにゃんにゃん!」
 ――GO GO GO GO!
 俺の下腹をチャイルドシート代わりにして、人間の幼児とまるっきり同じ仕草ではしゃいでいる三毛猫の姿は、緊迫する機内の空気を一瞬で日向の縁側に変えてしまうほど能天気なビジュアルであった。しかしタマは富士急の平成遊具ドドンパ、およびその後継機ド・ドドンパの過激さを知っているのだろうか。昭和の懐メロで多用されたドドンパのリズムくらいしか知らないのではないか。
 いっさい通信に反応しない俺たちのヘリに業を煮やし、二機のF―4は、かなりド派手に両側から煽ってきた。こっちが墜落するほど至近距離ではないが、肝っ玉が小さい奴なら思わず緊急着陸を決意するくらいの衝撃である。追い越してはまた反転して両側を通過、それを何度か繰り返され、ヘリの内部は、もはや洗濯工場の超大型回転槽と化していた。
「にみゃみゃみゃみゃあ!」
「おい大丈夫かタマ!」
「おえ、おえ、おええ」
「顔の毛が青いぞタマ!」
「にゅみゅぶぶぶ」
 俺も数多の猫を見続けて三十年になるが、額に脂汗を浮かべて嘔吐(えず)きそうになっている寒色系の三毛猫を見るのは、生まれて初めてだった。
「……にゃみゃーにゃブっ殺しますよ!」
 タマは絶叫しながら、ぶわ、とゴスロリ猫娘モードに変貌した。
 その名状しがたい叫びをあえて詳しく解説すると、「しまいにゃ」を意味する「にゃみゃーにゃ」の「にゃみ」あたりまでが猫語で、「ゃーにゃ」あたりで瞬時に変身膨張し、続く「ブっ殺しますよ」は人型でのセリフである。
 しかし果敢な啖呵とは別状、顔面蒼白のタマは口元を両手で抑え、
「うぶ」
「わ!」
 苦悶するタマを腹に抱えつつ、俺は焦った。
「吐くなら猫で吐け!」
 小犬や猫の嘔吐は珍しくないし、量的にもそう見苦しくは感じない。あとで律儀に自分の吐瀉物を食い直したりもする。しかし人間のゲロは量が違う。あとで食い直す奴もいない。まして俺の膝の上だ。
「おぐ」
 タマは喉から吹き出しそうになる吐瀉物を根性で腹に戻し、
「おのれ不届き者めら……」
 戦前なら鈴木澄子さん、戦後なら入江たか子さんが演じた怪談映画の化け猫のように、恨みの形相ものすごく、
「……目に物見せてくれようぞ!」
 涙目を窓外に向け、なんじゃやら招き猫のように、くい、と両手を差し上げる。
 おお、と俺は刮目した。
 これはもしや、あの化け猫名物『逆・猫じゃ猫じゃ』をF―4戦闘機相手に試みるため、あえて人型化したのではないか。
 ちなみに『逆・猫じゃ猫じゃ』などという言葉は一般世間に存在しない。昔、夏場になると物好きな親父に必ず見せられた古い怪談映画のビデオで、猫耳を生やした鈴木澄子さんや入江たか子さんが猫の手つきでくいくい手招きすると、敵方の侍や腰元がマリオネットのように踊りだし、しまいにゃ集団でバク転しまくったりする恐るべき妖術――あの技を俺が勝手に『逆・猫じゃ猫じゃ』と呼んでいるだけである。
 折しもF―4の一機が、ヘリの右側を煽りながら追い越して行った。
 ヘリごと攪拌されつつ、タマは、くい、と猫手をスイングさせた。
「くいっとな!」
 前方に遠ざかる機影が、いきなり、ぐいん、と右上方にとっちらかった。
 続いて、もう一機が左側から煽ってくると、
「ほいっとな!」
 そっちのF―4は、いきなり左下方にすっ飛んだ。
「……われの寿命じゃ」
「うひゃあ」
 富士崎さんが、キャラに似合わず、ややおまぬけな声でつぶやいた。
 しばしの沈黙ののち、おずおずとパイロットが言った。
「……先行機は、ほぼ真西に上昇中。後続機は真東に下降中です」
「奥多摩方向と太平洋方向か」
「いえ、現在の角度ですと……先行機は間もなく成層圏を離脱、後続機は東京湾に真っ逆様です」
 さらなる沈黙ののち、
「……知ーらん」
 微妙な節回しを伴って、牧さんがつぶやいた。近所の家の窓ガラスめがけてホームランを打ってしまった草野球男児、そんな調子の声であった。
 ――知ーらん、知ーらん。
 他の草野球男児たちの微かな唱和が、ヘリのあっちこっちから聞こえたような気もする。
「……ま、どっちも航自の精鋭だからな」
 富士崎さんが楽観論を述べた。
「自力でなんとかするだろう」
 しかしタマは、赤い猫目を妖しげに光らせ、
「……いかようにもがけど、せんなかるまいに」
 だから妖怪変化を敵に回してはいけないのである。

     3

 やがて下降を始めたヘリから下界を展望し、俺は言った。
「……荒川ですね」
 富士崎さんがうなずいた。
「そうだよ荒川君」
 お互い洒落を言ったわけではない。
 眼下に限りなくごちゃごちゃと広がる大東京、その中をあんがい長閑(のどか)に蛇行している幾筋かの流れの内、最も間近に迫りつつあるのは明らかに荒川、それもスカイツリーとの位置関係から見て、俺とはずいぶんなじみ深い一帯だ。
 さらに下降を続けると、整備された堀割沿いの真新しい住宅街、そしてその中にぽつりと滴った貧乏汁の雫のような赤錆びたトタン屋根も視認できた。
「……俺んちですね」
「そうだね、あれは君の家だね」
 もちろん俺の家には、ヘリが着陸できる庭などない。近頃ハヤリのちっぽけなラジコン・ヘリすら、開いている窓を探して家の中に降りるしかないのだ。
「そして同じ町内の荒川寄りに広がる、あの広大な敷地――あそこがとりあえずの目的地だ」
 ――うわ、よりによって、あの爺さんの家かよ。
 顔をしかめる俺に、富士崎さんは悪戯っぽく笑って言った。
常磐兼成(ときわかねなり)氏とは、君も面識があるだろう」
「面識というか、腐れ縁ですが」
 梅雨明け前、俺が半年余の引きこもりから脱した朝、玄関先で鉢合わせした例のお散歩老人である。
「現在は息子さんたちに事業を委ねて表舞台から身を引いているが、かつては希代の政商と謳われた昭和戦後史上の黒幕(フィクサー)だ。その常盤氏が、故あって今回は我々に協力してくれる」
 俺にとっては天敵に近い人物、いかなる事情があっても助力を乞いたくはない。しかしこの際、奴の家くらいしか頼れないのも確かなのだ。河川敷や公園に降りたのでは、またすぐにあちこちから邪魔が入る。常磐邸の庭ならセキュリティーが完璧な上、中型ヘリどころかオスプレイさえ発着できそうな広さがある。そして何より、(あるじ)の富と権力がハンパではない。現総理の矢倍さんとどこまで張り合えるかは知らないが、富が勝っていれば権力も勝っていると見るのが資本主義社会の常識だ。
 ――ちょっと気が重いが、まあいいか。気心の知れた犬もいるしな。
 それに現在の俺はフリーターやニートにあらず、荒川プロダクションの社長なのである。隠居老人相手に萎縮する謂われはない。
 などと内心で虚勢を張ってはみたが、富士崎さんたちに続いて、いざその庭の広大な芝生部分に降り立つと、さすがに俺は呆れ果てた。
 そこはたぶん、マジに緊急時のヘリ発着を想定した芝生であり、ちゃんとした和風庭園や洋風庭園は、別あつらえでなんぼでも無節操に広がっている。そしてそれらを睥睨する豪邸は、池之端の旧岩崎邸ほど華美ではないが、音羽の鳩山会館あたりが相手なら、タイマン張っても楽に勝てそうだった。いかに現在この界隈が勝ち組メインの住宅街になっているとはいえ、海抜ゼロメートルの下町には、それなりに含羞に満ちた歴史や風土がある。そこにこんなシロモノをあつらえてしまう神経が理解できない。
 暎子ちゃんもビビって俺の腕にすがってきた。
「こんな迎賓館みたいなお屋敷が、町内にあったんですね」
「うん。俺も中を見るのは初めてだ。塀が高いし、庭木も多いし」
「庭木というか……すでに林? みたいな」
 思えば、かつて俺があの秋田犬の轟天号と柵越しの親交を結んだ一角は、ほんの裏木戸的な部分に過ぎないのだろう。そこから垣間見えた重厚な煉瓦造りの建物の壁も、たぶん本宅そのものの壁ではなく、北区の旧古河邸の裏側で見られるような厨房部分の出っ張り、あるいは使用人の住まう別棟――。
 寄り添ってビビる貧民と中流少女をよそに、タマが、あっけらかんと言った。
「でも龍造寺さんちの庭よりはセコい。池もちっこいし」
 そりゃ昔の殿様のお屋敷なら、土地だけは有り余っていただろう。
 マトリョーナも館を軽く一瞥し、
「典型的なプチブルの家ね」
 そりゃアナスタシアの実家に勝てる造作の家は、この国に存在しなかろう。
 騒々しい異物の着陸を聞きつけ、屋敷の裏手から轟天号が駆けてきた。
「ばうわう!」
 忠実な番犬として激しく威嚇するが、すぐに俺が混ざっているのを見つけ、ふるふると尻尾を振りまくり、
「ぉわぉぅ! ぉわぉぅ!」
「こら轟天号、もう『おはよう』の時間じゃないぞ。ちゃんと教えてやったろう。昼間は『こんにちは』だ」
 からかいながら頭をわしわし撫でてやると、轟天号はちょっと困った顔で、
「おん……おん……」
 さすがに犬は『こんにちは』の発音を真似られない。これが夜なら、ちゃんと「おんわんわ」と挨拶できるのだが。
「ほう」
 横からタマが言った。
「これはまた、赤身がおいしそうなワンコですね」
「食うんじゃないぞ」
「御主人様の軽い冗談を、いちいち真に受けてはいけませんよ太郎」
「確か、昔は食ったとか言ってたろう。山犬とかニホンオオカミとか」
「それは食うか食われるかの時代の話です」
 タマは轟天号の頭に、ぽん、と手を乗せて、
「あなたは私を食べますか?」
「…………」
 轟天号は、タマの猫耳や猫目をしげしげと眺め、たぶん人外の匂いもくんくんと嗅ぎ分け、しばし反応に窮したのち、
「がうっ」
 いきなりタマの頭を、がっぷしとくわえこんだ。
「わ!」
 慌てふためく俺たちをよそに、タマは穏やかに目を細め、
「ご心配なく。これは愛咬、いわゆる甘噛みです。この犬歯のチクチクが愛情の証し」
 しばしこりこりと頭を囓られたのち、
「――それではそろそろ、お返しを」
 轟天号の顎から頭を引き抜くと、今度は自分があんぐりと口を開け、
「がっぷし」
 がじがじがじ――。
 轟天号は身悶えしながら、子犬のように鼻で啼いた。
「くうん、くうん」
 細い声なので、哀訴に聞こえないこともない。
 田所巡査長が、不安そうに俺に耳打ちした。
「これは本当に愛咬なんだろうか」
「愛咬です」
 俺は自信をもって答えた。
「本気で噛んだら、あんなもんじゃ済みません」
 俺の流血を何度も目撃している暎子ちゃんが、こくこくと請け合ってくれた。
 マトリョーナがつぶやいた。
「なんだか痛そうな愛ね」
 やや離れたところから、それに同意する声が聞こえた。
「まあ愛というやつは、ときとして苦痛を伴うものだからな」
 久々に聞く、しわがれ声だった。
 いつのまにか常磐老人が姿を現し、タマと轟天号の噛み合いを眺めている。
 枯れ枝のような体型や皺だらけの顔に似合わぬ、これ見よがしのイタリア系高級ブランドずくめに辟易しつつ、俺はタマの下僕として、きっちりフォローした。
「大丈夫です。ただのじゃれ合いですから、そう痛くありません」
 常磐老人は、警戒感MAXの表情で俺を一瞥し、
「言われんでも、それくらい見りゃ判る。あれが問題の地球外生物か」
 不機嫌そうな声とは別状、タマや轟天号に向ける目は、存外、優しげであった。
「人間の子供らしく見えて、やっぱり猫の仲間だな。昔、田舎の実家で、犬といっしょに猫も飼っていたんだが、いつもあんな感じで仲良く遊んでいた」
 俺は常磐老人に対する認識を、ちょっと改めていた。
 人間に対する洞察力――ぶっちゃけ俺に対する予断に疑問はあるが、少なくとも猫や犬の気持ちは、きちんと読める爺さんらしい。
          *
 豪邸の内部は、思ったより渋い和洋折衷で、館の主の臆面もないファッション・センスより、遙かに好ましかった。設計者、あるいは表の事業を継いでいる息子さんの趣味が良かったのだろう。何度か道で見かけた(いとけな)い孫娘も、けしてこれ見よがしの出で立ちではなかった。叩き上げの爺さんだけが、功成り名を遂げた今も、コテコテの成金センスを脱しきれないのである。
 俺たちは応接間や客間ではなく、三階建ての三階からさらに隠し階段を上がった、いわば屋根裏部屋に通された。いっさい窓のない隠し部屋だが、空調も効いた昼光色照明の洋室で、むしろSRIの一室に似た、IT関係オフィスの風合いだった。
 富士崎さんの配下六人の内、五人はヘリや階段下など各所の警備に回っている。したがって入室したのは、俺とタマと暎子ちゃんとマトリョーナ、牧さんと公僕コンビ、富士崎さんとその腹心一名、そして常磐老人――以上十人ほどである。
「今どきの情報機器は、すべてこの部屋に備えてある。工科大でシステム・セキュリティーの助教をやってる書生に揃えさせたから、どこにどう繋いでも機密は完璧だ。好きに使ってくれたまえ」
「感謝します、御大(おんたい)
 富士崎さんは固く老人の手を握った。
 牧さんが、ざっとシステムをいじりまわし、新しいゲーム機を与えられた子供のようにシヤワセそうな顔で言った。
「これはありがたい。SRI(うち)以上に使い出がありそうです」
 常磐老人は満足げにうなずいて、
(わし)にはよく解らんが、少なくとも工科大の研究室よりは上等だと書生が言っとった」
 そのとき老人の携帯に着信があった。
「失敬」
 老人は二言(ふたこと)三言(みこと)通話したのち、
「あの紳士が、無事に病院に着いたそうだ」
 セルゲイは館に着いてほどなく、常磐老人が呼んだ救急車で病院に向かったのである。屋敷の周囲をうろつき始めた怪しげな民間車両たちや、特に怪しくはないけれどなんだかウロンな業務用車両たちも、さすがに救急車は邪魔できない。もし何かあったとしても、富士崎さんの配下一名と、それに負けずマッチョな常磐邸の警備員が付き添っているから、下手すりゃ返り討ちである。
「末の息子が理事長をやってる病院だから、余計な詮索抜きで最高の検査を受けられる」
 マトリョーナが深々と礼をした。
「なにからなにまで行き届いたお気遣い、まことに痛み入ります」
 外見年齢に似合わぬ完璧な淑女の物腰に、常磐老人は、かなり面食らっていた。すでに彼女の正体は伝えてあるのだが、この違和感には俺でさえ未だに戸惑ってしまう。
「礼には及ばない。すべてが富士崎君の采配なら、いずれ国益に繋がることだろう」
 富士崎さんに対する常磐老人の信頼は、盤石のようだった。聞けば富士崎さんの父親の代から、国士として繋がりがあるらしい。
「そちらのお嬢様方には、今後の進退が決まるまで、隣の休憩室でくつろいでもらおうか。甘い菓子でも飲み物でも、インターホンで下に伝えれば、すぐに運んでくる」
「柿の葉寿司を所望します」
 タマがインターホンも下も介さず、即行で老人にリクエストした。
「奈良の吉野か和歌山の伊都、できれば吉野の本場物がハナマルです」
 そういえば先週だったか、タマが柿の葉寿司を食いたがったとき、東京では有名な銀座の老舗の折詰を買ってきたら、お気に召さずに軽く折檻されたことがある。もっとも俺を折檻した後で、「なんと柿の葉寿司にマスを使うとは」とか「夏場にブリを使う神経が許せません」とか、ぶつぶつ愚痴をこぼしつつも残らず平らげていた。タマは山陰や北陸を旅したことがないので、同じ柿の葉寿司でも、そっち系のネタになじみがないだけなのである。
 常磐老人は即答した。
「吉野の平宗の柿の葉寿司でよければ、すぐに持たせよう」
「ぴんぽんぴんぽーん!」
 タマは老人を見直したようにこくこくとうなずき、
「あなたは一見お家転覆をもくろむ悪家老のような顔をしていますが、実は酸いも甘いも噛み分けた黄門様タイプですね」
 そうした褒められ方に慣れていないのか、常磐老人は大いに照れた様子で、
「あ、いや……好物だから切らさないだけなんだが」
 食い物の好みと正邪の関連性は定かではないが、昔はズブドロの悪役を得意としていた東野英治郎さんや西村晃さんが、テレビの水戸黄門では好々爺そのものに見えたのも確かである。
 ともあれタマと暎子ちゃんとマトリョーナは、連れだって隣室のドアに向かった。それぞれまったくタイプ違い、イキモノとしての属性や世代をまるっきり異にしながら、傍目には美空ひばり&江利チエミ&雪村いづみの元祖三人娘、あるいは全盛期のキャンディーズも一目置きそうな可憐ロリ三人組に見える。
 田所巡査長が椎名巡査に目配せし、椎名巡査は三人娘に随行した。公僕コンビの任務はあくまでタマの護衛だが、今後のタマの動きはこっち側の算段で決まることになるから、当然、田所巡査長も算段に与せねばならない。
 暎子ちゃんが、ちょっと心細そうに俺を振り返った。
 三人娘の中では唯一の庶民派一般ロリである暎子ちゃんも、あのアキバ大暴走が全国に生中継されてしまった以上、なんらかの社会的な辻褄を合わせないかぎり、ふつうの小学生には戻れないのである。いや初めっからふつうの小学生じゃないと思うぞ――そんな外野からのツッコミはとりあえずちょっとこっちに置いといて、俺が〈大丈夫、俺に任せとけ〉っぽくうなずいて見せると、暎子ちゃんも〈信じてますよ太郎さん〉とうなずき返してくれた。
 そんな俺と暎子ちゃんの無言の交情を流し目で認めつつ、マトリョーナは艶然と、余裕綽々の微笑を浮かべている。
 もとよりタマは、何ひとつ深く考えていない。
「よっ、よっ、よっしのの、かっきのっはずっしぃ~~~♪」
 作曲能力も猫レベルである。
          *
 そうして部屋には、むさ苦しい男たちだけが残った。
 牧さんと富士崎さんの腹心一名は、システムを相手に、なんじゃやらネットワークの構築に励んでいる。
 それ以外の四人は、とりあえず適当な空き椅子に座を定めた。
「それにしても富士崎君」
 常磐老人は、いかにも天下の副将軍っぽく上座に収まり、
「さる筋の情報だと、ちょっと前に首都圏上空で航自のF―4が二機、一機は空中分解、一機は海の藻屑になった。幸いパイロットは事前に脱出したようだが、君はいったいどんな手を使って、あの会議用ヘリで戦闘機を撃墜した?」
「そこは戦術上の秘中の秘、と言いたいところですが、それもまたあのタマちゃんの、新たに確認された特殊能力なのです」
「……まさか空を飛ぶのか?」
 富士崎さんは苦笑して、
「さすがに、それは」
 そこに牧さんが、こちらを振り向いて口を挟んだ。
「飛ぼうと思えば飛べると思いますよ」
 冗談かと思ったら、牧さんはあくまで真顔であった。
「化け猫や猫又といった妖怪変化が民間伝承上に現れた時期とタマちゃんの出現、その後先は今のところ定かではありませんが、まず民間伝承が先と思っていいでしょう。タマちゃんが初めから猫に似ていたかどうか、それもまた定かではないのですが、少なくとも猫又に化けた時点では、当時の人々が実在すると信じていた架空の猫科動物を人々の意識の中から具現化してしまったわけで、ならばもしタマちゃんがこの日本ではなく、たとえば古代中国に出現していたら、巨大化するときには神話上の窮奇(きゅうき)――翼のある虎を真似たかもしれません。あれは空を飛び回って人を襲います。インドの神話ならシャルベーシャ――翼のある獅子がいますね。エジプトのスフィンクスは飛ばないようですが、メソポタミアやギリシャのスフィンクスには翼がある。当然どっちも空を飛びます」
「なるほど――」
 田所巡査長がうなずいて、
「言われてみれば、私も思ったことがある。荒川君が巨大人面猫モードと呼んでいるあのタマちゃんの姿、あれを初めて見たときは、おお、これで翼があったらスフィンクスの子供じゃないか、とかね」
 なるほど、もし日本の猫又にも羽が生えていたら、F―4と有翼タマの空中戦が見られたのかもしれない。
「しかし、今のところは飛ばんのだろう」
 常磐老人が怪訝そうに言った。
「じゃあ、どうやってF―4を落とした?」
 誰も説明を始めてくれない。科学者も軍人も公僕も、『逆・猫じゃ猫じゃ』については説明しにくいようだ。
 仕方がないので、伝承上の化け猫にもモノホンの猫又にも明るい俺が、解説を引き受けた。
「えーと、常磐さんは御存知でしょうか。戦前から活躍していた映画女優で、鈴木澄子さんとか、入江たか子さんとか」
「おう。鈴木澄子は写真でしか知らんが、入江たか子さんなら、子供心に憧れておったぞ。華族の出だけあって、上品で楚々とした美人だったなあ。日本三大美人女優のひとり、そんな評価もあったくらいだ」
「でも、戦後は作品に恵まれず、けっこう苦労なさったでしょう。とくに大映に移ってからは、化け猫女優とか言われて」
「化け猫女優で何が悪い」
 常磐老人は言った。
「いわゆる大衆娯楽作品でもいっさい手を抜かないのが立派な女優だ。あの人の猫っぷりは大したもんだった。猫耳も似合ったし、猫招きの手つき、猫っぽい身のこなし――本物の池の鯉をナマで囓るなんぞ、今どきの女優の誰に真似ができる」
 そうそうそうそう――俺はかなり嬉しくなった。この爺さん、やっぱり話の解る爺さんだ。
「じゃあ、これも解ってもらえますよね」
 俺は席を立ち、それらしい猫手になって、怪猫映画のクライマックスを真似てみせた。
 猫招き、くいくい、くい。
 ほれほれ、こっち来い、こっち来い。
 んでもって突然、ひょい、とか横にスイングしちゃったりなんかして――。
 ぐりぐり、ぐりぐり。
 ほれほれ、(われ)が命じるままに、思うさまでんぐりがえりまくるがよい!
「……まさか、そうやって戦闘機を?」
 常磐老人が唸るように言った。
「そーなんです」
 俺はきっぱりとうなずいた。
「チャラい子供に見えて、タマも立派な化け猫ですから」
「信じられん」
 そう言いつつも、老人は期待を隠せない顔で、
「もしそんな技が可能なら――北朝鮮のミサイルだって迎撃できる理屈じゃないか。いや、逆に送り返すことだって」
「事前に飛行ルートを確認し、そこにタマちゃんを配置できれば、理論的には確かに可能ですね」
 富士崎さんが言うと、
「――見せてもらおう」
 常磐老人は立ち上がり、率先して隣室に向かった。俺たちも、仕事中の牧さんと陸自別班一名を残し、老人に続いた。
          *
 隣室は手狭ななりに、洋風の客間っぽい設えだった。
 テーブルに丈高く積み上げられた空折詰の山の前で、タマが柿の葉寿司の葉っぱを剥きながら言った。
「あ、水戸の御老公、遠慮なくゴチになっておりまする」
 食いかけの寿司折の横には、囓りかけの鰹節も置いてあった。
 横でペコリと頭を下げる暎子ちゃんの前には、折詰ひとつと緑茶の茶碗が並んでいるだけである。うん、さすがは未来の俺の妻、容姿以外は何事もふつうが一番だ。
 お上品に会釈するマトリョーナの前には、ロシアンティーと蜂蜜ケーキ。いつか旅番組で見たとおりの、絵に描いたようなロシア美少女軽食風景である。
 そして椎名巡査は、なぜかカップうどんをすすっている。こんな金満家の家で御馳走になるのだから遠慮なく老舗の鰻でも頼めばいいものを、わざわざ赤いきつねで済ませるところが、この若い公僕の美徳なのである。
 常磐老人は言った。
「えーと、タマちゃんや」
「なんでございましょうか御老公もぐもぐもぐ」
 敬っているんだかナメているんだか判らない。まあ悪気のカケラもないのが救いである。
 常磐老人はあらためてタマをとっくりとながめ、柄にもなく言い淀んだ。
「えーと、あの……」
 タマのリアル猫耳や赤い猫目は、慣れない人間から見れば、やはりかなりの異形に違いない。
 老人は、くいくい、と猫招きを真似て見せ、
「これで悪い奴らの飛行機をやっつけたというのは本当かな?」
「無念ながら最期までは見届けておりませんもぐもぐ」
「いや、両方とも、ちゃんと木っ端微塵になったそうだ」
「それはなによりでございますもぐ」
「……儂にも見せてもらえないだろうか。その、技というか術というか、コレの力を」
 くいくい、くいくい。
「ゴチになったお礼にお見せしたいのは山々ですが、アレはなかなか遊び半分ではできない、時と場所を選ぶ技なのですもぐもぐもぐ」
 確かに四六時中いっしょにいる俺でさえ、今日初めて見た芸である。
「そんなに根性がいる技なのか?」
 俺が訊ねると、
「根性というか瞋恚(しんい)(ほむら)、つまり怨念。――ごっくん」
 タマはようやく寿司を飲みこんで、
「ひと思いに引導を渡すだけではとても気が済まないんで、その前に力いっぱいコケにしてやって、しこたま惨めな思いをさせてから喉笛噛みちぎったほうが当猫比二倍はキショクいい――そんな感じ」
 なるほど、ただの根性ではなく、ババ色の根性がいるらしい。
 タマはぺろぺろと指をなめつつ、
「でも、このサバの見事なシメ具合とほのかな柿の葉の移り香に感謝をこめて、御老公様のために、ちょいと試みてみましょう」
 おう、と常磐老人がうなずいた。
 タマは思わせぶりにあたりを見渡し、ロシアンティーのカップをお上品に傾けているマトリョーナに目を止め、猫手を一閃させた。
「くいっ!」
 マトリョーナが、ひょい、と立ち上がった。
「え?」
 正確には、首の後ろをつままれた猫のように、己の意に反して宙に引っ張り上げられたのである。
「え? え?」
 タマは、にんまし、と邪悪な笑みを浮かべ、
「こまねちっ!」
 その猫手に操られたマトリョーナは、いきなり蟹股ぎみに足を開き、両の手で股間にV字型のキレコミを描いた。
「え? え? え?」
 ビートたけしの往年の一発芸『コマネチ』は、一見清楚な美女や美少女がやると、そのはしたなさがハンパではない。
 直後、呪縛を解かれたマトリョーナは、
「なにさらしてけつかんねんこのクサレ猫又!」
 どこでそんな日本語を教わったやら、真っ赤な顔で絶叫しながらソファーのクッションを振り上げ、フルスイングでばふんばふんとタマの頭を張りまくった。
 タマは、ばふんばふんと顔を揺らしながら糸のように目を細め、
「ふっふっふ、本性にふさわしいポーズを選んだまで」
 暎子ちゃんが、まあまあまあ、とマトリョーナをなだめる。マトリョーナと和解した訳ではなかろうが、同じ女として『コマネチ』の屈辱を見かねたに違いない。
 とまあ、彼女らを充分に知る俺たちにとっては、見事な『逆・猫じゃ猫じゃ』の一例であった。
 しかし常磐老人は、明らかに拍子抜けした顔で言った。
「……えーと、それでお終いなのかな?」
 タマは糞真面目な視線を老人に向け、しばししげしげと見つめ合ったのち、
「……なるほど、御老公の言わんとしている意味が、だいたい見当がつきました。あなたはこう言いたいのでしょう。イシャはどこだ」
 俺は内心で首を傾げた。タマが女児モードのまま他人の心を読んだことがあったろうか。たいがい行き当たりばったりで、己が意に任せているだけなのではないか。
「いや、まあ、別に医者を呼ぶほどの大技じゃなくても――」
 常磐老人が言い終わる前に、タマの猫手が、くい、と上がった。
「――フォーリーブスのコーちゃん!」
「は?」
 当惑した顔のまんま、常磐老人はいきなりたたたたたと部屋の隅に駆けていった。
「は? は?」
 外人とアラサー未満を除く俺たち全員が、同じ期待と不安におののいた。
 ――フォーリーブスの北公次!?
 それは昭和のアイドル界において、初めてステージ上でバク転バク宙を披露したジャニーズ系の寵児である。
 常磐老人は壁際で立ち止まり、おもむろに振り返った。
「は? は? は?」
 老人自身、おそらくこれからの展開を悟っており、期待以上の恐怖に顔を歪めている。当時の流行歌手やアイドルの知名度は、今のようにファンの世代やジャンル嗜好で細分化されない。ド演歌でもロックでもヒットチャートの上位を占めた時点で、日本全国老若男女、誰にとっても有名人なのである。
「うあ」
 めいっぱい当惑したまんま、常磐老人は力いっぱい前転に入った。
「うああ」
 その前転の途上で巧みに横転に流れたかと思うと、次の瞬間には、見事な弧を描いて後転に移行していた。
「うああああ」
 コーちゃんばりに軽やかなバク転を重ねること二転三転四転五転、
「うあああああああ!」
 最後はバク宙を一回キメて華麗に着地――とは行かなかった。
 ここは昔の日比谷公会堂でも紅白のNHKホールでもない。一般住宅よりも広めとはいえ、あくまで屋根裏部屋である。
 常磐老人は最後のバク宙に向けてでんぐりがえった直後、逆様のまんま顔面から壁に激突した。
 べん。
「ぐえ」
 ずるずるぐだぐだ、そして、ぴくぴくぴく――。
 ――こ、これは死んだか。
 部屋に精神的寒風の吹き渡る中、
「御大!」
 富士崎さんが駆け寄って、痩せこけたブランド柄の遺体を抱き起こすと、
「……何があっても、タマちゃんを確保せねばならん」
 さすが激動の戦後史を生き抜いた闇将軍、首もアバラも折れてはおらず、やや朦朧としながらも、
「……今後、あらゆる助力を儂は惜しまん」
 タマが、こっくし、と力強くうなずいた。
「御老公のお気持ちは、初めから解っておりました」
 嘘だ。適当こいて成り行きに任せただけである。
 常磐老人は、さらに朦朧と言った。
「しかし……その前に……イシャはどこだ」
 
 
 
 
 
                                        第五話・後編に続く
 


 
 
 
 

『汚宅殺猫耳地獄 ~おたくころしにゃんこのじごく~』

『汚宅殺猫耳地獄 ~おたくころしにゃんこのじごく~』 バニラダヌキ 作

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • コメディ
  • 青年向け
更新日
登録日 2017-01-29
Copyrighted

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著作権法内での利用のみを許可します。