燻る煙と落ちる灰

日々の穏やかな心情を綴る小説

 暇な日曜日の午後、あたしは最近ハマっているお香に火をつけた。
 特に何もすることがない、というかあったとしてもやる気はおきない。何だか身体全体、加えて精神自体が相当に疲れてでもいるのか、気だるくて動く気になれない。そんな時が最近のあたしにはよくある。大好きなロックもこんな時は聴く気にならないし、テレビをつけてもどうせこんな時間にやってるのはゴルフか競馬の中継ぐらいのものだ。そんなもの、さらさら興味はない。勉強なんてもってのほか。ついでに言えば今日は十時間近くも寝ていたから、眠気も残ってない。とすればあとはお香に火をつけることぐらいしか思いつかなかった。

 灰皿の上、火のともったお香を数秒見つめ、手で扇いでその日を消す。火が途端に煙に変わってあたしの頭を追い越していった。ちなみにあたしはタバコは吸わないが、この灰皿はお香のためにこの間百円ショップで買った。
 今日のお香はバニラの香り。匂いが少し甘ったるいと、よく遊びに来る友達からはいささか不評だがあたしは好きだ。甘い匂いは心を落ち着かせてくれる。こんな日でも、あたしを安心させてくれる。

「またお香やってんの?」
 流れる水の音と共に洗面所から出てきた一樹が言った。彼は付き合い始めてそろそろ半年になる、同い年のあたしの彼氏。週末になるとうちに泊まるのが最近癖になってきているのか、昨日もここに泊まった。でも正直、毎週はやめてほしい。あたしに週末の安らぎというものをちょうだいよ、たまには。
 一樹の問いに、あたしはとりあえずうん、とだけうなずいて答えた。また、なんて言われるとこのお香の良さを語る気もなくなる。それをどう感じ取ったのかわからないが、彼は何も言葉を続けることなく、あたしの背後にあるベッドにドサッと大きな音を立てて腰を下ろした。言っておくけど、そのベッド一人用だからね。あんたが泊まりに来る度にあたしは不自由な睡眠を強いられてるんだよ?
 あたしはしばらくゆらゆら上に向かって漂う煙を、ただぼんやりと見つめていた。

 煙って不思議だなぁ。こんなにはっきり姿が見えるのに、形はない。あたしが手を伸ばしてつかもうとしても、あたしをかわしてどこかへ、その先にはとりあえず味気ない天井しかないけれど、どこかへ行くんでしょう? もし煙に意思があったら、一度聞いてみたいことがある。そんな風にゆらゆらしてると、気持ちいい? あたしも一緒にゆらゆらなれたら、気持ちいいかな。ただぼんやりと、そんなことを思う。
 と、その時、あたしの鼻腔に異質な匂いが飛び込んできた。バニラの甘い香りとは程遠い、顔をしかめたくなるような苦い香り。あたしは反射的に後ろを振り返った。

 思ったとおり、一樹が後ろでタバコに火をつけていた。
「ちょっと、何吸ってんの!」
 叫ぶようにそう言うと、一樹は意外、とでも言いたげに目を丸くした。
「……タバコ」
「そういうベタなボケはいらない! 何でそんなもん吸ってんのよ」
「吸いたかったから」
「ダメ! うちは禁煙!」
 あたしははっきりと抗議の声を上げた。
「何でよ、もう部屋の中、煙だらけじゃん」
 納得がいかない、というように眉をひそめて一樹が反論する。
「タバコの煙と一緒にしないで! とにかく、うちにいる間は我慢してよ」
「スモーカーには無理な相談だよ」
「だったらせめて外で吸いなさい!」
 あたしの必死の猛抗議が功を奏し、一樹はしぶしぶながらも腰を上げ、ベランダに出て行った。あたしに背を向ける格好で、タバコを燻らせる。
 お香にとって、強烈な匂いを放つタバコの煙はまさに『天敵』だ。あたしはその『天敵』を追い出したことにホッとして、大きく息をついた。

 あたしは再びぼんやりとお香を見つめた。三角錐型をしたお香は、もう上半分が灰の山となっている。あたしは灰皿を軽く揺すった。灰の山が崩れて、こぼれ落ちた。その跡から、赤く輝く火の先端が見えた。
 あたしはどっちかって言うと灰の山だなぁ。形があるのに、ちょっと揺さぶられたら簡単に崩れて。後はもうそのまんま動けなくて。もし灰に意思があったら、一度聞いてみたいことがある。ねぇ、あんたも何かに疲れてるの? きっとそうだよね、だって燃え尽きてるし。またぼんやりと、そんなことを思う。

 あたしは大きく背伸びをして、その途中でベランダに目をやった。一樹はまだあたしに背を向けたままだ。その左手の人差し指と中指に挟まれたタバコが見えた。
 その瞬間、タバコの先端に長く固まっていた灰が、その重さに耐え切れずに崩れて落ちた。
「あーぁ……」
 あたしは見てた。落ちるタバコの灰も、それを見ている一樹の目も。
 まぁ結局、あたしも一樹も形のないものにはなれないわけで。ゆらゆら気ままにただ漂うことも、あたしを捕まえようとするものをすり抜けることもできないわけで。
 だとしたらあたしはもう少し形のあるものとして、この気だるい毎日っていう世界で燃え続けていくしかないんだろうな、きっと。そして最後まで燃え尽きてしまったら、その時は形のないものになってゆらゆら漂うこともできるんでしょ、きっと。全てのものを、すり抜けてさ。

 あたしは大きく深呼吸した。身体が、ようやく動く気がした。灰皿に目を落とすともうお香の火は底に達し消えかけていて、ほとんどが灰になっていた。
「お疲れさん」
 あたしは小声でそう言って、立ち上がった。
 とりあえず景気付けに飲もうかなぁ。
 何の景気付けなんだか、自分でもわからなかったけど。ただ何となく、飲みたい気分になった。それはたぶん、つまりはエネルギー。あたしが燃えていくための、エネルギーが欲しいのかも。
 あたしはベランダのドアを開けて、一樹に言った。
「ねぇ、今日はご飯の前に飲むよ。何かお酒、買ってきてよ」

 とりあえず、今はこれでOKということで。

燻る煙と落ちる灰

燻る煙と落ちる灰

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-28

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