雪辱

             「雪辱」  


 変な時間に目が覚めて、飲まずに寝れなくてコンビニへビールを

買いに行こうと家を出ると、外は雪だった。寝る前には降ってもい

なかったが、寝てる間に足首が埋まるほど積もっていた。部屋に戻

ってコートと毛糸の帽子を身に着け足してブーツを履いて雪が降り

頻る中を出掛けた。足下の新雪が踏み締める度にギュッギュッと鳴

った。街灯が所々を照らす狭い裏道には俺の足跡だけが残された。

足元を気にしながら歩いていると、独りの男がこっちへ向かって歩

いて来た。まだ眠気が残っていて、雪には堪えることができても、

他人と出会うのは偶然であるが故に気が滅入った。

 動物の本能というものは知らないものと出会った時に好奇心より

もまず恐怖心が先行する。怪しいものではないかと疑いながら相手

を探る。動物にとって生きるとは不安の中を生きることである。動

くことのできない植物などは不安を感じても逃げることが出来ない

ので恐怖心は無用である。無用な感情は淘汰され、植物は不安を

知らないから憂いのない美しい花を咲かすことができるのではない

だろうか。彼女らは折られようが切り倒されようが恨まない、無いの

だから。それはひとつの諦観である。なまじっか動ける動物はすべ

てが自己責任である。警戒心を解いて襲われた後には逃げなかっ

た悔恨が残る。だから、動くものは常に後悔と共に生きている。か

と言って、四六時中不安の中で生きるには身が持たない。そこで

共同体が生まれ、それぞれが互を認知し合って不安を少なくしよう

とする。他者を知ろうとするのは自分の不安をなくすためなのだ。

猫は猫の本能に従って、犬は犬の本能に従って、不安を減らすた

めに他者を知ろうとする。賢しい知性とは好奇心からではなく恐怖

心から生まれるのだ。

 俺は、向こうから来る男がどんな奴なのか見た。この裏道で二人

の大人がすれ違うには狭かったし、積もった雪がさらに狭くした。

奴は別に変な恰好をしているわけではなかったが、頭と肩には雪

が積もっていたが気に掛ける様子もなかった。すると、奴も俺の方

を見たので目が合った。俺はすぐに目線を逸らした。まったく出会

ったことのない男だった。

 人は不安から逃れるために共同体を作ると言っても、都会の生活

は度を越えている。かつては、向こう三軒両隣の晩御飯の献立さえ

も知るほどの付き合いだったが、ま、それはそれで鬱陶しいことだ

ったが、人々が密集して然も多様化して無関心にならざるを得なく

なると、突如としてその無関心が不安を呼び覚ます。すると、急に

街までがよそよそしく感じられて不安の妄想が止まらない。もはや

都会は不安から逃れるために相応しい共同体ではなくなった。それ

どころか反対に、「大都会の中の孤独」に苛まれ無縁社会の無関

心こそが人々を不安に陥れる。我々は遠い社会にばかり関心がい

って、身近な生活への関心が薄れてしまった。

 二人はあと十歩も歩けばどちらかが道を譲らなければならなくな

るだろう。別に俺は道を譲ることにこだわりはなかったが、それで

も奴とすれ違うほどに身体が近付くことが鬱陶しかった。そして、

奴はいったい何者かと思った。

 たまたま道ですれ違う者が何者であろうと、たとえば大通りで行

き交うだけならば気にも掛けないことが、袖擦り合うほどの狭い道

で出くわしたことが煩わしい因縁を生む。つまり、俺が奴を不安に

感じるのはこの状況こそが原因ではないのか。見知らぬ者とのこの

距離感こそが不安をもたらすのだ。他者のことは知れば知るほど不

安は減り、従って、不安は情報に反比例し、そして、近付けば近付

くほど不安は大きくなるので、距離にも反比例する。つまり、他者へ

の不安が増大する状況とは、知らない者が近寄ってくる時、つまり、

「未知との遭遇」の瞬間である。

 そんなことを思いながら歩いていると、いよいよどちらかが道を

開けなければならなくなった。俺は道を譲ろうと身を除けると、奴

も同じ側らへ身を交わした。それでは行き交えないので再び俺が反

対側へ移って道を開けようとすると、奴も同じようにそうするでは

ないか。「馬鹿かっ」と思いながら、互いにそんなことを繰り返して

いては埒が明かないので譲らずに前に進もうとすると、あろうことか、

奴と正面同士でぶつかってしまった。

「痛ってえ!」

一気に怒りが込み上げてきて、奴の顔を睨み付けると、何と!奴と

は花屋のショーウインドウに映った自分の姿だった。俺は積雪に惑

わされて道を誤っていたのだ。

 奴がガラスに映った自分自身だと知って、俺はぶつけた鼻に手を

当てながら、情報量は距離に反比例するのだと付け加えた。相手を

知るには近寄らなければならないのだ。しかし、それでは不安が増

大する。何とか近寄らずに知る方法はないものか・・・。

「あっ、それでインターネットが生まれたんか」

俺は思わぬ発見に気を良くした。ただ、そこからコンビニまでの雪

道には鼻面をショーウインドウに思いっ切りぶつけて流れ出した鼻

血が点々と続いたが、この恥ずべき出来事は降り積もる雪が雪(そ

そ)いでくれることだろう。                                                                             
                                  (おわり)

雪辱

雪辱

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-24

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