どこかの木漏れ日

          〇

 見慣れた景色、嗅ぎ慣れた匂い、聞き慣れた音、感じ慣れた空気。
 そのはずなのに、どうしてこんなに不安が付きまとうのだろう。きっと、闇雲に走って自分がどういう道順でここまでやってきたのか分からないからだ。何年も来なかったから、森との関わり方すら、忘れてしまっていたのかもしれない。
 太陽が沈みかけた夕方の森は、既に暗闇に呑まれようとしていた。夜はよっぽどの理由がない限り、森に入ってはいけない。そう教えられていた。自分の足音も、息遣いも、動物の鳴き声も、全て森の沈黙の中へ吸込まれてゆく。
 今、ぼくは完全に独りきりだ。人間はぼく以外に誰もいない。
 ぼくはまるで幽霊にでもなった気分だった。ぼくがここにいるからといって気にする者はおらず――いやいや、木々や動物たちはものすごく気にしているかもしれないけれど、ぼく自身は感じない――変な目で見られることもなく、声も掛けられない。ぼくの想像する限り、幽霊はこんな気持ちだ。
 この場所も以前通ったことがあるはずなのに、今日の印象は今までと全く違う。いつもは優しく包んでくれるのに、今日はそっけなく突き放されている。敵意は全く感じない。攻撃はされていないけど、無視されているような感覚だ。いいや、無視というよりは、攻撃前の静けさなのか? 狙いを定め、息を潜めているのか?
森は大きな集合体だ。木々一本一本という単純な集合ではなく、その場にいる生き物全ての魂まで含んだ集合体。もしくは、地球そのものの鼓動さえ含まれているのかもしれない。ライオンやクマよりも大きな生き物がぼくのことを狙っているのかもしれない。
 そう考えると、急に鳥肌が立った。今まで何も感じていなかったのに、急に何かに見られているような感覚になる。ここにいるのは、明らかにぼく独りではない。
 ぼくは独りになりたかったのに・・・
 どこへ行っても、何かがいる。どこにも、ぼくが独りになれる場所はない。
 それは、とても幸せなことなんだと思う。独りじゃないということは、なんて幸せすぎる空間なんだろう。

          一

 ぼくには両親の記憶がない。両親はぼくが幼い時に死んでしまった。今の歳までぼくを育ててくれた叔父さんは、ぼくの両親は〝大きな人間の群れ〟に殺された、と言った。〝大きな人間の群れ〟それは『社会』と呼ばれたり『世の中』と呼ばれたりもするらしい。幼いころ、ぼくはその〝世界〟に暮らしていたようだが、全く覚えていない。テレビで見る限り、その〝世界〟は『鉄の森』であり、『人間の森』だった。でも、ぼくが知っている森よりも明らかに流動的で、なのに温かみが全くなかった。学校の同級生の中には、この世界に憧れる奴がかなりいた。「高校を卒業したらこの村を出る」それが決まり文句だ。
 あんな世界に、一体何があるのか。何を得られるのだろう。
 「あの世界に行って思い知らされるのは、自分は独りきりだということだ」
 叔父さんはそんなふうに言っていた。あの世界に憧れはなかった。そう思っていたのに、きっと心のどこかでは行きたくて仕方がなかったのだと思う。叔父さんと暮らしていた頃は、絶対に連れて行ってくれなかった。ぼく自身行く気もなかったから、夏休みとかに友達から誘われても、行こうとはしなかった。
ぼくが叔父さんと今の集落で暮らし始めたのは、ぼくが二歳になるかならないかの頃だったらしい。両親が死んですぐに、父親の弟である叔父さんが引き取ってくれたみたいだ。叔父さんはいつも優しかった。いつもぼくの側で微笑んでくれていた。その優しい笑顔はいつまでも忘れないだろう。
 この小さな集落において、叔父さんは有名人だった。それも超が付く。今考えれば、集落という小さな集団の中では別段おかしなことではなかった。特に叔父さんは、集落のみんなから慕われる存在だった。機械いじりは出来るし、木があれば何でも作れた。民間の林業会社で働いていた時期もあるらしく、森や木の知識はたくさん持っていた。今は森林組合の作業班にいて、集落のために働いている。隣町に遊びに行ったとき、そこの人たちも叔父さんのことを知っていた。そのときはなんだか誇らしい気持ちになったのを覚えている。自慢の叔父さんだった。
 叔父さんは誰にでも親切で、誰からも慕われていた。
 その分、集落のみんなのぼくへの期待も高く、かなりプレッシャーだった。叔父さんみたいになるように勧めて来る人がいれば、叔父さんは苦い顔をしていた。
 「俺みたいにはならない方がいい。この子にはこの子の人生がある」
 叔父さんは未来について、ぼくに何の強制もしなかった。頑なに都会に連れて行ってくれなかったこと以外は。
 叔父さんと二人で、よく森の中を散策した。そこで叔父さんは木の枝を切っていた。これは『枝うち』という作業らしく、林内を明るくして地面の植生の生育を助ける為の作業らしい。このような作業をしなくてはならないのは、人工林と呼ばれる森で、植林をしてから何十年も段階を経て作業をして行かなくてはならない。思った以上に大変な仕事みたいだ。本当に自然の力でできた森であるなら、人が手を加える必要は全くないらしい。
 そんな森を相手に仕事をしている叔父さんの横顔はいつもかっこよかった。とても誇らしかった。そう思うと、手も、腕も、その背中も、全てが凄く見えた。存在も何もかもが大きくて、ぼくは子供ながらに圧倒された。同級生にも自慢してやった。ぼくは叔父さんと暮らしているんだぞ。ぼくは叔父さんの息子みたいなもんなんだぞ。叔父さんは・・・ぼくの・・・誇りなんだぞ。
けれど、そんなものは所詮強がりで・・・。道を歩いていて家族連れを見かけたとき、思わず涙がこみ上げてきそうになるようになった。中学に進学してからのことだ。親がいることの有り難さ、楽しさなんてこれっぽっちも分からないけど、どうしてか涙がこぼれた。叔父さんがいるから自分は大丈夫だと思っていたけど、どうやらそうではなかったみたいだ。ぼくの周りの友人たちは、ぼくが持とうとしても持てないものを持っている。そう考えると、急に羨ましくなって・・・そして、とてつもなく怖くなった。そんな沈んだ気持ちで家にいたら、叔父さんが側にいてくれた。側にいて優しく抱きしめてくれたんだ。
 「君のお父さんとお母さんは、君をとても愛していた。一緒にいれた時間はとても短かったが、確かに愛していたんだ」
 叔父さんは、そう言って僕の背中を撫でてくれた。
 お父さん・・・お母さん・・・ぼくの口からは出ることのない、言葉の響き・・・。
 この言葉で呼ぶ人と、呼ばれる人は、一体どんな感情なのだろう。自分の名前以外では呼ばれたことのない自分にとって、それは未知の世界だ。
 名前とは一体何なのだろう。モノに与えられたその名称は、そのモノを支配し、そのモノを決定づける。そのモノの人生までもが、名前一つに現れることがある。
 では、ぼくの人生は・・・? この名前から、ぼくのどんな人生が現れる?
 この名前を何度両親は呼んでくれたのだろう。何度、ぼくを見て笑ってくれたのだろう。そしてぼくは両親の顔を見て、何を考えていたのだろう。
 ぼくには知る由もない。

          〇

独りになりたくて森へやってきたのに、逆に独りじゃないことに気付かされるなんて、ぼくは本当にばかだな。森がどういう場所かということは、よく知っていたはずなのに。自分の都合のいいように森を扱ってはいけない。そう教えられていたのに。そもそも、都合よく扱えるほど、森という生き物は弱いものじゃない。そんなこと、既に知っていたはずなのに。
 ここは叔父さんとよく散歩した森だ。ここへ来ると、いつも心が安らいだ。風で木々が揺れる音・・・木漏れ日・・・匂い・・・。全て覚えている。高校を卒業して、役場の事務仕事をするようになってからは、少し足が遠のいていた。集落のみんなからは、叔父さんの仕事を継ぐように強く勧められていたが、ぼくにそんな大役が務まるとは到底思えなかった。それに叔父さんはぼくが進む道について強く言ったりはしなかった。自分でよく考えて実行すればいい、と言ってくれていた。
 叔父さんの息子同然に扱われていたぼくは、どこか嫌気がさしていたのかもしれない。高校の担任も叔父さんのことを知っていて、ぼくが何かをしたら「さすがあの人の息子だ」と言われた。小学生の頃はその言葉がとても嬉しかった。親がいないぼくにとって、誰かの息子でいられることは、たまらなく嬉しかったんだ。
 それなに、いつからだろう。その言葉がぼくの重荷にしかならなくなったのは。
 叔父さんとぼくは違うんだから、ほっといて欲しい。なんで、叔父さんが出来ることは、ぼくも出来なきゃいけないんだろう。なんで、みんな叔父さんみたいに生きることを押し付けてくるのだろう。ぼくはどうして叔父さんと暮らしているのだろう・・・。
 そんな疑問で頭が一杯だった頃もあった。中学から高校にかけてだったと思う。叔父さんは何も悪くないのに、叔父さんからは何も言われたことなかったのに、ぼくはちょっと叔父さんを避けたりした。今考えると、どうしてそんなことをしたのか分からない。全く無意味なことだった。悪いのは、いろいろ言ってくる集落の奴らだったのに。
 それがいけなかった? そんなことをしたぼくが間違いだった?
 だから叔父さんは、いなくなったの?
 事務職で働いていたとき、小さな嫌がらせをよくされた。大事な連絡を聞かされていなかったり、コーヒーが不味くされていたり、机の中のものがなくなっていたり。その程度のことだ。そんなことをして何の意味があるのか分からない程度の嫌がらせだ。ぼくが叔父さんを無視して、叔父さんの仕事をバカにするような態度をとっていたからかもしれない。それがきっと気に入らなかったんだ。ぼくも対抗して、日に日に、ちゃんと態度に出していくようになっていったし。
 その頃からだったのかもしれない。『都会』という世界に憧れを抱き始めたのは。ぼくは救われたかった。こんな小さな頭の固い、どうしようもない世界じゃなくて、もっと広くて、様々な可能性に溢れている大きな世界へと飛び出していきたくなった。
 叔父さんがいなくなり、周りからの風当たりは更に酷くなった。ぼくのせいで叔父さんがいなくなって、みんなが迷惑しているんだ、という話を何度も聞かされた。叔父さんのことが心配なのはぼくも同じだった。何度も森に入って探した。けれど、見つからなかった。
叔父さんがいないなら、こんなところにいても仕方がない。そう思って、右も左も分からないまま集落を飛び出し、ぼくのことを誰も知らない、叔父さんとことも誰も知らない世界に足を踏み出した。
 飛び出した先の世界は本当に大変だった。集落とは時間の動き方が全く異なっていた。『都会』という場所の〝時間〟というものは本当に貴重で、何にも代えがたいものであるようだ。何とか働き口を見つけても、時間を無駄にすることは、命を無駄にする以上に罪なことみたいに怒られた。時間を無駄にしたことに対する「死んでしまえ!」という怒号の意味をぼくは最後まで理解できなかった。
 ぼくを知っている人はおらず、ぼくを知ろうとしてくれる人もおらず、ぼくが生きられる場所は、この世界のどこにもないような気がした。ぼくはあの集落で叔父さんによって生かされていたんだ。そのことを思い知らされた。
 そんなときでも、ぼくを支えようとしてくれる人はいた。彼女との出会いは道を見失ったぼくに希望を与えてくれた。彼女のためなら、何でもできると思った。あんなに嫌だった仕事を頑張ることが出来た。稼いだお金で彼女へのプレゼントを買った。喜ぶ顔が見たくて、ただそれだけだった。本当にただそれだけだったのに・・・。
 変な夢を見た。彼女がぼくを見つめている。でも、彼女はぼくだとは気付かない。彼女が向けている笑顔はぼくではない、別の人に向けられている。彼女はその人の方へ歩いていく。それは真っ白な世界で、何もない世界だった。
 ぼくは本当にバカだったんだ。自分が幸せになることばかり考えて生きていたから、誰かを幸せにするなんてこと、考えたこともなかった。幸せは叔父さんからもらってばっかりだったから、自分からも与えられるものだなんて、思いもしなかった。そもそも、幸せは与え、与えられるものなのか? それすらも分からない、何も知らない、ただのバカだったんだ。
 だからぼくの幸せは、ぼくに認識してもらえないことに嫌気をさして、知らない間にどこかへ行ってしまうんだ。
 あの夢は、ぼくへの警告あり、予言だったんだ。
今日の森はぼくが慣れ親しんだ森とはかなり違うようだ。
 すでにぼくは方向を見失っている。たぶん、今来た道を正しく戻ることはできないだろう。もう、帰れないだろう。
 ぼくがいなくなって、最初に気付いてくれるのは誰だろう。同僚だろうか。上司だろうか。彼女だろうか・・・? あんなことがあった後だから、しばらくは誰もぼくのことを気にかけないだろう。気付かれるのにはしばらく時間が掛かるかもしれない。
 あんなことと言ったって、今こうして森の中に入ると、とてつもなくちっぽけなことに思えてくる。あんなに悩んでいたぼくがバカみたいに思えてくる。森のような大自然に比べれば、ぼくのことなんか、本当にちっぽけな存在でしかないんだ。だからといって、更に落ち込むわけではない。自分の気持ちも大きくなった様な気がして、変にポジティブな気持ちになる。
叔父さんが言っていた、この森の奥の一番美しいところを見たいと思って今日は森に入った。そこに行けば、叔父さんに会えるかもしれないと思ったし、そこを見られたら、暗い気持ちなんて一瞬でなかったことにしてくれると思った。
 でも、そんな必要はなかった。わざわざ奥へ行く必要もなかった。ぼくはこの森を分かっているつもりで、全く分かっていなかった。この森はこんなにも美しかった。どんなに絶望的で、救いようのない人生だと思うことがあっても、心の奥底の小さな希望をずっと暖めておくことが出来たら、きっと大丈夫だ。叔父さんみたいな立派な人間になれそうな気がする。
 急に涙が溢れてきた。情けないくらい嗚咽がこぼれる。
 やっと泣ける。泣いてもいいよね。もう何年も、何十年も、泣いていなかったのだから。
 こんなことはしていられない。早く帰らないと。何もかも忘れて、一からやり直そう。ぼくは大丈夫だ。叔父さんがいなくなってから今日までも頑張ってやってきたじゃないか。
 帰ろう。ぼくがいるべき、あの場所へ。
 辺りはすでに闇に覆われている。今日のところはシェルターを作って休まないと。夜を超せるように準備をしなければ・・・
 考えていたら、足を滑らせた。数十メートル転げ落ちる。しまった、足元の注意を怠った。頭を打ったみたいで目の前が真っ白だ。このまま死ぬのか? と思ったときは、ほとんどの場合大丈夫だ。本当に死ぬときはそんなことも考える暇もないだろう。
 最悪なことに、少し足をくじいたみたいだ。ちょっと、今すぐは立てそうにない。少しやばい。
 すると視線の隅に何かの影が見えた。動物か? クマだったらどうしよう。
 視界がはっきりとしてきた。どうやら人のようだ。
 ・・・人? こんなところに、こんな時間に?
 叔父さんだ。もう一度辺りを見回したが、人影は消えていた。確かに叔父さんだった。叔父さんの背中だった。約束通り、帰ってきてくれた・・・ぼくはここだよ。迎えに来たよ。
 叔父さん、ぼくだよ。どこへ行くの?
 ぼくは痛む足のことなんか忘れて立ち上がった。耳を澄ませても、静寂という名の音しか聞こえてこない。けど、どこかに叔父さんはいる。絶対にいる。
 ぼくは足を引き摺りながら、歩き出した。

          二

 高校に入学してしばらく経った頃、ぼくはある疑問に取りつかれてしまった。叔父さんはいつから独りなのか。叔父さんには家族はいないのだろうか。ぼくは叔父さんと一緒に暮らしていながら、叔父さんのことを何も知らなかった。集落の人にはいつも頼りにされて、毎日働きに出ている叔父さんは、一体どんな人なのだろう。我慢できなくて、聞いてしまったことがある。忘れもしない、あれは急に気温が下がった十月十六日のことだ。あの日、聞いてしまったことを後悔している。叔父さんのあんな顔は、あの日まで見たことがなかった。
 叔父さんの家族について尋ねたとき、すごく驚いた顔をしていた。ぼくからそんなことを聞かれるなんて、思いもしなかったみたいに。結局、叔父さんは何も答えてくれなかった。
 その日から、叔父さんの表情は曇り始めた。遠くを見ることが多くなり、口数も少なくなった。今までぼくと競り合うように食べていたごはんもあまり食べなくなった。若々しかった叔父さんが、急に歳相応の、初老の姿になっていった。
 十一月三日。この日は叔父さんの誕生日だ。これは叔父さんについて、唯一知っていることかもしれない。ぼくは叔父さんがよく家でしているように、叔父さんの仕事の過程で出た、いらない木材――間伐材というらしい――を使って、お箸を作ってあげた。叔父さんに隠れてやる作業は正直骨が折れた。でもこれでまた食べることを楽しんでくれたらいい。そう願った。
実際に渡してみると、叔父さんは呆然としていた。お箸を見つめたまま、何も言わなかった。そしてしばらくしてから、静かに泣き始めたのだ。今度はこちらが驚く番だった。叔父さんが泣いている姿など今まで見たこともなかった。ぼくはどうしていいか分からず、その場から離れることしかできなかった。どうすればいいか分からないけど、とりあえず、叔父さんを一人にしてあげることしかできなかった。
その日の夜。ぼくが布団に横になった頃、叔父さんがやってきた。
「ありがとう。嬉しかったよ」叔父さんは静かに、ゆっくりと話した。「君のお父さんとお母さんは、本当に素晴らしい人たちだった。こんな俺にも優しくしてくれた」
 それから叔父さんが話してくれたことは、今でも信じられない。嘘みたいな話だった。

          ●

 俺の父親は、トラックの運転手をしていた。俺が大学四年のとき、居眠り運転で家族が乗った車に激突し、その命を奪った。混乱した父親は、自暴自棄になって、自ら車道に飛び出した。ちょうどやってきた車は、急いでハンドルを切って、父親を轢き殺すことなく、ガードレールに激突した。車の運転手は死亡した。事故を起こしたこと、更にはその後の行動のせいで俺たち家族は、人殺しのレッテルを貼られ、いろいろなところで罵られるようになった。もちろん、父親は服役した。
 不幸はそれで終わらず、職場でいじめにあった兄が、同僚をカッターナイフで刺して殺した。母親もこんな生活に疲れ、ベッドで寝ていた俺の首を絞めた。だが、なんとか逃げ出して、保護してもらった。
 それから一人で暮らし始めたが、犯罪者家族というレッテルはどこへ行っても、なかなか剥がれてくれない。そんなとき、路頭に迷って道路にうずくまっていたときに、手を差し伸べてくれたのが、君のお母さんだった。君のご両親はね、俺たち家族の近所に住んでいたんだ。俺は当時挨拶くらいしかしたことがなかったが、俺のことを覚えていてくれていたんだ。
 家に上げてもらった。君の家はパン屋さんで、とてもいい香りがしていた。売れ残りのパンから始まり、夜も遅かったのに、わざわざ焼き立てまで出してくれた。とても美味しかった。
 仕事が見つかるまで、俺は君の家でお世話になった。客の中には俺の顔を覚えている奴もいて、怪訝な顔をしたが、君のご両親は気にせず、俺に店の手伝いをさせてくれた。そのとき、お母さんのお腹にはすでに君がいた。そんな資格ないはずなのに、俺は君の名付け親にしてもらった。
 君が生まれて少し経って、俺は家を出ることになった。働き口が見つかったからだ。出発の日、俺は二人からプレゼントをもらった。お箸だった。お箸は家族の証だと、彼らは言った。同じ模様の入った色違いのお箸を君を含め、みんなで分けた。
 君からお箸をもらったとき、その日のことを思い出した。言葉が出なかった。本当にありがとう。
 ご両親の死を知って、俺はすぐに君を探した。その頃俺は結婚しいて、この集落で暮らしていた。君を引き取り、育てることで、ご両親への恩返しになればと思った。俺なんかがいなくても君は立派に育ったな。これからはどこへでも、好きな所へ行ったらいい。好きなものを見て、聞いて、感じて、自分のものにしていったらいい。
 こんな俺だけど・・・そんな資格ないとは思うけど・・・君は俺の息子同然だと思っている。もし俺のことを父親同然だと思っていてくれたら、とても幸せだ。そうでなかってとしても、俺の君への想いは絶対に変わらない。心の底から愛してる。これからもずっと、愛しているよ。
 でも、君がいつかここを出て行って、結婚して、子供をつくって、家庭を持って・・・そんなことを想像していることが今は一番幸せなんだ。その場所に俺がいること。すぐ側で誰よりも祝ってやること。それが今の夢なんだ。
 その夢はどうか、叶って欲しい。その夢を叶える前に、俺は妻に会いに行くよ。森の奥の、一番美しいところにいるんだ。必ず帰ってくる。そしてまた、楽しく暮らそう。当たり前のようにね。


 叔父さんは最後に、ぼくの頬を撫でた。あんなに大きいと思っていた手が、小さく感じた。
 ぼくは部屋から出ていく叔父さんの背中を何もせずに見つめていた。追いかけようとは思わなかった。いつも通り、颯爽と仕事に向かうように、叔父さんは森へ行くだけなんだから。
 叔父さんだと思っていた人は、叔父さんではなかった。血は繋がっていなかった。血は繋がっていなくても、ぼくたちはきっと家族だった。誰も文句は言えない、家族だ。叔父さんは、ぼくの、お父さんだ。





          〇

 辺りは真っ暗。一寸先闇。言葉通りの状況だ。それなのに、ぼくは歩みを止めない。止めちゃいけない。叔父さんがいるところは、まだ先だと思うから。体力をかなり消耗している。足を引き摺りながら歩くのも、そろそろ限界に近付いている。気温もかなり下がってきている。
 叔父さん・・・どこにいるの? 叔父さんはもうぼくを愛してくれないの? ぼくにはもう家族はいないの?
 違う。叔父さんがぼくの家族だ。血のつながりはなかったかもしれない。でも、それ以上に長い時間をぼくたちは一緒に過ごした。その長い長い時間、長い長い人生の期間を共有した。それが証だ。家族であったことに、これ以上の証がいるのだろうか。
 二人で過ごした奇跡の日々をぼくは今も忘れていない。そこには多くの嘘と、お互いへの愛があった。とても幸せだった。幸せすぎて、思い出すだけでも泣いてしまう。あの楽しかった日々、愛に溢れていた日々。今は?・・・夢見た人生とは大違い。叔父さんの抱いた夢とも大違い。全部違う。叔父さんが側にいてくれないから。叔父さん、ぼくは変わったよ。もう、ただ甘えるだけの子供じゃないよ。今なら、ぼくも叔父さんを支えてあげられる。幸せを共有することが出来る。どれも完璧には無理かもしれないけど。
痛みと疲労と寒さで体がおかしくなりそうだ。何かを叫ぼうにも、この口は言葉を発してはくれなかった。声にならない声で、叔父さんを呼び続ける。
 ぼくと叔父さんはこの森で何かを探していた。二人で時間を過ごすことで、家族である証を見つけたかったのかもしれない。そんなもの、探す必要なんてないのに。それは、すぐに見つかるのに。昼間の木漏れ日のように・・・。でも、それはありきたりなものではないんだ。たくさんの木漏れ日の中の、どこかの木漏れ日が、ぼくたちの目的とする木漏れ日だったのだ。
行き先は見つかった。でも答えは見つからない。
 それに気が付いたときは、何もかもが手遅れで。本当にバカみたいだ。
 叔父さん、どこにいるの? 叔父さんはもうぼくを愛してくれないの? ぼくにはもう家族はいないの?そんなのは嫌だよ。耐えられないよ。お願いだから、戻って来てよ。また一緒に暮らしたいよ。
 足が何かに引っかかった。ぼくはバランスを崩し、地面に倒れこんだ。
 どう寝返りをうっても、落ち着ける場所などなかった。背中に感じる地面の感触は、家の布団とは比べ物にならない。布団の気持ちよさだけじゃない。家族と暮らす、その空間の、安心の中で眠るから、ぐっすりと休むことが出来るんだ。
 もう動ける気がしなかった。痛みを通り越して、足がおかしな感覚になっている。
 辺りの気温はどんどん低くなる。もう誰も抱いてくれなくなった体を自分で抱きしめた。少しでも安心したかった。ほんの、少しだけで良かった。




・・・・・・・・・・・・・

 凍える体を出来るだけ小さくしていると、何か温かいものがぼくの顔に触れた。目を開けてみると、目の前に小さな・・・極めて小さな木漏れ日が見えた。温かい光が、そこにある。どうやら木漏れ日は何かによって遮られている。だから小さいのだ。遮る何かは、黒い、人の形をしているように見えた。
 ――叔父さん? そこにいるの? 会いたかった。会いたくて仕方がなかった。どうしていなくなったの? ぼくはそんなこと、少しも望んでいなかったのに。叔父さんにはいつも側にいて欲しかった。もっといろいろ教えて欲しかったのに・・・
 小さかった木漏れ日が確かな光の筋になって、ぼくの顔を照らし始めた。黒い人の形をしたものが、だんだん大きくなる。
 ――叔父さん、ぼくはここにいるよ・・・ここだよ
 手を伸ばした。懸命に。そこあるものに触れたくて。そこにあるはずのものに触れたくて。叔父さんの優しい手を求めて。
 ――お父さん・・・
 光がぼくの体を覆う。満面の笑みを浮かべて、ぼくはお父さんを出迎えた。

 おかえり。

どこかの木漏れ日

どこかの木漏れ日

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-24

Copyrighted
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