希望のハイリゲンシュタッド

第一章
         1

 私はいつもの通り彼の家へ仕事の依頼に来ていた。彼はクラシック音楽の評論家。私は出版社の音楽雑誌編集部門に所属している。今回は先日行われたオペラについての評論原稿を確認しにきた。この原稿は来月号に載る予定だ。更に今回は、特集についての打ち合わせも行われたため、私はいつもより長く家に留まっている。だが、いい加減帰れ、などと言われない。いつものことだが、仕事の話が終わっても私はなかなか帰らない。毎回音楽の話で盛り上がるのだ。
 彼と私がここまで心を許せているのも、おそらく年がそんなに離れていないからだろう。それに音楽の趣味も似通っている。
 我々の話題は本当にまとまりがない。言いたいこと言いたいときに言いまくる。
 「だから私はモーツァルトが嫌いなんだ。あれは貴族の機嫌取り音楽だよ」
 「ですよね。この前、別の評論家が、『モーツァルトが音楽を完成させた、以後の作曲家はすべて彼の真似事だ』とか言ってましたよ。個人的にあの原稿、ボツにしたかったですよ」
 音楽はモーツァルトが完成させた、か。バカバカしい。それならベートーヴェンはどうなのか。オーケストラには本来トロンボーンは扱われていなかった。それを交響曲第五番に取り入れたのがベートーヴェンだ。彼は聴力に問題がありながらも、新しい音を探求していた。その結果、教会音楽では使われていた、トロンボーンに目を付けた。中音の金管の音が加わったことで音に芯ができたように思う。のちにトランペットに並ぶ金管の花形となる。
 モーツァルトはおそらく、トロンボーンが加わった音を知らない。そんな男が、音楽の創設者と言えるのか。
 ベートーヴェンは最後の最後まで、音楽の探求・・・いや、音の探求に命を燃やした。耳が聞こえなくなったその後も。
 「そうだ」と彼は軽い足取りで隣の部屋へ向かった。一度だけ入ったことがあるが、その部屋は彼の音楽知識の全てが収納されている。多くのCDや楽譜、専門書が納められている。
 「ラフマニノフのコンチェルト二番、三番の自作自演のCDを手に入れたんだよ。今まで聴いたことがないくらい早いし、それでいてまとまりがある演奏でしかも・・・」
 ここまで語りだしたらもう止まらない。彼はその演奏の素晴らしさを早口に喋りだした。彼の言っていることは理解できる。聞いていてとても面白い。だが彼は私がいることも忘れて喋り続けている。
 「一音目が奏でられた瞬間に全て持っていかれてしまう。あの重々しいが、軽やかに奏でられるシンプルな調べ・・・。なぜ、あの曲をあんなに早く弾けるのだろうか。やはりあの人一倍大きな手のお蔭なのか・・・そう言えば、小さい手ながらも素晴らしいベートーヴェンを演奏したピアニストがいたな。彼女、まだ学生だって?」
 「そうなんです。今月、また演奏会を行うみたいですよ」
 やっと話が落ち着いたのでホッとする。
 「それは楽しみだ。たいして才能も技術もない輩がよく演奏会のチケットを送り付けてくるんだ。困っている」
 「先生の評論は音楽界では信用されていますからね」
だが、彼は自分が本当に認めた演奏には心からの愛を示すが、そうでない演奏にはことごとく酷いことを言う。それ
に、一つ困ったこともある。
 インターフォンが押される。彼は立ち上がって玄関に向かった。茶封筒を手に戻ってくる。それを後方にある机の引き出しにしまった。さっきまでと打って変わって彼は暗い表情だ。
 「また、例の仕事を受けたんですか」
 「お前には関係ないだろ」
 もうこんな時間だ。帰ろうと思って立ち上がると電話が鳴った。彼は電話に出ると、眉間に皺を寄せ、電話を元に戻した。
 「最近あるんだ。無言電話だよ」
 それは少し怖い話だった。彼は面倒くさそうにため息をついている。
 私は別れを告げ、家を後にした。

          2

 彼と一緒に仕事をやり始めて何年になるだろうか。彼の音楽を愛する気持ちは充分に分かっているつもりだ。評価も適格だし、言葉による表現方法も素晴らしい。しかし、一か所だけ理解できない点がある。
 お金が絡むと、彼はその素晴らしい表現方法に制限をかけてしまう。半年前、日本で本当に素晴らしい演奏をした指揮者がいた。彼も初めはその印象通り原稿を書く予定だった。だが、その指揮者に嫉妬した他のベテラン指揮者が、原稿が世に出る前に手を打った。彼に大金を渡したのだ。その代り、原稿の内容を変えろというのだ。しばしば、彼はその手の依頼を受ける。
 だがそこは音楽を愛する評論家。嘘偽りは書かない。それでも、本来その指揮者が受けるべき評価は得られなかった。
 「あなたが嘘偽りを書いたと言っています」
 彼は呆れたように鼻で笑った。
 「私は嘘を書いていないよ。細かなミスを細かく、少し多く指摘しただけだ。彼が本当に才能のある指揮者であれば自分でそのことは分かっているはずだ」
 「訴えると言っているようですよ」
 「私の知るところではない。たかだか雑誌の評価なんかを気にしているようでは、これからの活躍は期待できないな」
 それに、と彼は付け足した。
 「原稿は別の出版社に送ったはずだぞ。なぜ、お前が気にするんだ」
 彼はこれで話は終わりだとばかりに私に背を向けた。
 お金を受け取るようになっても、彼は全然変わらない。ただただ、音楽を愛している。それがクラシック音楽だけ、というのが気になるところだ。音楽を愛しているなら、もっと沢山の音楽と触れ合うべきだと思う。ポップスもなかなかいい。
 今日も彼の家を訪れた。最新刊の特集の打ち合わせだ。
「この前、最悪の客が来たよ」私が持参した企画書に目を通しながら彼は言った。「ポップスなんていう汚れたものを志す輩だよ」
 私は頭を掻いた。彼はクラシック音楽以外のものを音楽とは認めていない。ポップスやロック、ジャズといったジャンルは彼にしてみたら邪道としか言いようがないようだ。
 「バッハやベートーヴェンも知らずに音楽を語るとは、論外もいいところだ。この前の女はグレゴリオ聖歌も知らなかった。それでよく、ハーモニーを奏でようなんて思えるな」
 彼は企画書をこちらに返した。
 「なかなかいい企画だ。『音楽の生まれるところ 世界の名門ホール』か。内容も悪くない。大阪のいずみホールを大きく紹介してくれ。大阪に住んでいながら、あのホールの存在を知らない輩が多すぎる。あと、この題名は検討した方が良い」
 彼は『音楽が生まれるところ』というところを指さした。
 そこは私も気にしていたところだ。別に音楽はホールで生まれる訳ではない。それはわたしも同意見だ。
 「音楽はどこにでも存在している。この部屋にも、町中にも、トイレの中にもだ。それを見る目を持っていたのが、偉大な作曲家たちだ」
 彼は立ち上がってオーディオシステムに近付いた。
 「何を聴きたい? 私はバッハの気分だ」
 私は申し訳なさそうに立ち上がる。あいにく、こちらは仕事中なのだ。
 「今まで、君はそんなこと気にしなかったのにな」
 彼は残念そうに肩を竦めた。
 私が帰り支度をしていると、使用人の女性が顔を出した。別のお客さんが来たようだ。彼は不機嫌そうに「またあの女か?」と聞いた。使用人は一言「いえ」と答え
「あぁ、あの人か。そういえば、来ると言っていた」
使用人の言葉を遮って彼は立ち上がった。
 私と入れ違いに訪れた客は初老の男性で、音楽界では名の知れたヴァイオリン奏者だ。世界各国でソリスト、ゲストコンサートマスターとして活躍している人物だった。
 「申し訳ない。お客がいたようだな」
 「いえ、私はもう失礼しますので」
 私は使用人に見送られて外に出た。

          3

 「君に原稿の依頼に来た」
 俺は遠慮することなく椅子に座った。
 「今度、ベルリンのオーケストラにゲストコンサートマスターとして招かれた。君もベルリンに来て、演奏を聴いてくれないか」
俺は傍らに置いていたトランクをテーブルに置いた。
 「旅費を引いても、もう一軒家を帰るくらいの金が入っている。よろしく頼むよ」
 彼とはデビュー当時からの付き合いだ。父親の金を使って悪い内容は書かないように依頼した。そうしたら仕事が増え、今の地位まで上り詰めることが出来た。当時彼は今ほど有名な評論家ではなかったが、彼にだけ演奏評価を依頼し続けた結果、今の様になった。こいつが今の生活が出来ているのもいわば俺のお蔭だということだ。だからこいつは俺の頼みは断れないはずだ。
彼はいつものように無言で頷いた。
「今の客は出版社の人間か」
彼はまた無言で頷いた。俺と話すときはいつもそうだ。あまり言葉を発しない。演奏家と評論家なんだから音楽の話でもしてもいいようなものだが。
「最近、目立った動きのある演奏家はいないか」
「いないな。最近の学生もあなたのせいでクラシック界には来なくなった」
最近クラシック界で新たに登場するヴァイオリン奏者が少なくなってしまった。多くの者がポップスの方面や二人でコンビを組むなどして、こちらからは理解できない活動をしている。
ここにいても面白くないので俺は帰ることにした。
「お前が音楽の最後の砦になってくると信じているよ」
俺は足早に出て行った。

          4

 「ホールの開館三十周年記念演奏会ですか・・・」
 ぼくは初めて来る先生の家だったので少し緊張していた。来年ぼくが制作担当をしているホールが開館三十周年を迎える。その記念演奏会の演目の相談に来たのだ。
 「めでたい行事だからねー。祝典序曲で華々しく幕開けなんてどうだろう。そうだ、チャイコフスキーの『1812年』がある。ということはオールロシアプログラム・・・『1812年』の後だからコンチェルトはやりにくい。では『弦楽セレナード』は・・・いやいや、そうすると一曲目と二曲目の間で転換が必要になる。三十周年だから司会を入れれば・・そしてメインプログラムにはストラヴィンスキーの『火の鳥』・・・そうだ、それだ!」
 先生は一人で盛り上がって、隣の部屋に行ってしまった。広い部屋に取り残されて心細くなる。部屋には自分が座っている応接用と思われる椅子とテーブル。奥には一人掛けの机。先生が執筆するために使っているのだろうか。部屋の真ん中、オーディオシステムが置かれている棚の側にオシャレな椅子がポツンと一つ置かれている。
 先生はブツブツ言いながら戻ってきては再び隣の部屋へ入っていくしばらくそれが続いた。先生が考えるのは曲目だけ。それを誰に演奏してもらうかまでは考えてくれないらしい。それはこちらで考えるからいいのだが、その演奏家にするなら、と曲目を変更されることもしばしばある。この前は、こちらが選んだ演奏家が気に入らず、怒り始めて手が付けられなかったこともあった、と先代の担当者から聞いたことがあった。
最終的にもうしばらく考えてさせてくれとの返答を得た。先生の考えでは、ホールのすぐ外にある広場でも演奏したらどうかとのこと。ホール周辺でその日一日音楽祭を開いたらどうか、との提案があった。
先生は音楽の話となるといつも一生懸命だ。音楽のことしか考えられないというのが正確な言い方かもしれない。だから彼は人間について考えるのは苦手だ。
何日かしたらまた来よう。そう考えて帰路に就いた。

          5

 もうすぐ演奏会から帰ってくると聞いたので、いつもの部屋で待っていた。使用人の女性が紅茶を入れてくれた。
 「君はここに来てどれくらいでしたかね」
 「二ヶ月になります」
 まだそれくらいしか経っていないのか。なら、まだ彼のこともちゃんと分かっていないだろう。一応、彼女は使用人ということになっているが、本来は音楽の勉強に来ているのだ。音楽と言っても、楽器のレッスンに来ている訳ではない。ちなみに彼はピアノも何も弾くことは出来ない。
 「彼と何か話はしたのかな」
 「全く何も。あたしがいることも知らないんじゃないかと・・・」
 思わず私は笑ってしまった。確かにそうだろう。彼は音楽以外のものに興味を示さない。以前ここで使用人をしていた人も彼との人間関係に耐えられなくて辞めたほどだ。しかし、前回の使用人はそうではなかった。
 「掃除中にウォークマンで音楽を聴いていたんだ。確か、『ゆず』だったかな。それを知って彼が怒っってね。追い出してしまったんだ」
 だから君も気を付けろよ、と忠告しておく。
 「君はどうしてここに?」
 「あたし、楽器は何も出来ないんですけど、音楽が大好きで制作の仕事がしたいなと思って。そのためには音楽の知識を貯めこんでおきたいなと思いまして」
 「んー、彼にいろいろ教えてもらうのは一苦労だと思うぞ」
 彼女は向かい側の椅子に座った。
 「あの、先生はどうして使用人を雇うんですか? あたし、一度も扱き使われたことないし・・・」
 彼は仕事以外で人と関わる際、ほとんどうわの空だ。今ここにいる彼女の名前を憶えているかも疑問だ。雇う時は早く話を終わらせることしか考えていないと思う。だから、顔も名前もちゃんと見ずに雇ってしまうのだ。
 「たぶん、君が勝手にサボっても彼は気付かないよ。無理をしないようにね。掃除も毎日やる必要はない」
 「でも・・・」と彼女は口籠った。
 「君の方から鬱陶しく質問をしていけばいい。音楽のことなら彼は全力で答えてくれるはずだ」
 まぁ、最終的には夜も遅くなってこっそり帰ることになるだろうが、そのことはあえて言わないことにする。
 「いいんですか。なんか、普段先生には話しかけちゃいけない気がして」
「いいんだよ。言っとくが、クラシック音楽以外の話はするなよ。怒るから」
そんな話をしていると、見るからに不機嫌に彼は帰宅した。招待状が来たからわざわざ足を運んだのに、演奏は散々なものだったようだ。
 「なんなんだ、あの演奏は! あいつらは本当に楽譜を見て演奏していたのか。どういう解釈でチャイコフスキーがああなるのだ!音量だけ出してバカスカ好き勝手吹きやがって・・派手で雑な演奏だ!」
 それから数分間機嫌は収まらず、喚き散らした挙句、やっと落ち着いた。愛用の椅子に腰かけ、チャイコフスキーの交響曲第五番を聴いている。
 そんな彼を見ながら、今日は仕事の話はできないな、と思った。彼は一度頭に血が上るとなかなか手が付けられない。音楽を聴いている時間だけが、彼を心から落ち着かせてくれる。
 第四楽章まで聴き終え、彼はその余韻に浸っている。とても幸せそうな顔だ。
 「お茶を入れましょうか」
 ノックとともに使用人の女性が入ってくる。彼は少し驚いた顔をした。そして視線を私の方へ向けた。
 「なんだ、まだいたのか」
 「私の仕事が終わっていません」
 ドアの前で使用人が彼の言葉を待っている。
 「紅茶をお願いします」
 妙に余所余所しく彼は言った。彼女が出ていくのを確認すると、私の近くまで寄ってきて「彼女、誰だ?」と聞いてきた。
 「新しく雇ったんでしょ? 忘れてたんですか」
 彼はそんなこともあったかな、と頭を抱えた。
 「ここに音楽のことが知りたくて通っているんだそうですよ」
 彼は「ほう」と感心しながら、「演奏家志望か?」と聞いてきた。
 「オーケストラの制作の仕事がしたいそうですよ」
 なぜ、私が説明しなくてはならないのか、と思いながら答える。この人はもう少し人間に興味を持った方が良いと思う。それにしても、二か月も家を出入りしているのに、誰かも知らないなんて、この人は普段どういう生活をしているのだろうか。
 紅茶が運ばれてきた。彼はたどたどしくお礼を言いながら紅茶を飲んだ。
 その時、電話が鳴った。すぐに使用人の女性が取る。しばらく「もしもし」を繰り返した後、首をかしげながら受話器を置いた。
 「誰だ?」彼が聞く。
 「分かりません。何も喋ってくれませんでした」
 また無言電話だったようだ。


 第二章

          1

わたしは彼の家のインターフォンを押した。噂通り、使用人の女性が返答する。
 「先生にお話があり、お伺いしました」
 「ご予約はされていますか」
 予約はしていなかった。数時間前に突然思い至り、ここへ訪れたのだ。
 「ご予約のない方は・・・・」
 「では、ここで歌います」
 わたしは背負っていた鞄からアコースティックギターを取り出した。自作した曲の前奏を引き始めようとすると、突然扉が開けられた。テレビや雑誌で見たことがある顔が出てきた。
 「先生ですね? 私の歌を・・・」
 「君は知らないのかね? 私は音楽評論家だよ。君のような・・」
 「わたしがやっていることは、音楽ではないと・・?」
 彼はあからさまにため息をついた。「では聞くが、グレゴリオ聖歌を知っているか」
 わたしは知らなかった。黙っていると、彼は「帰りたまえ」と言って扉を閉じようとする。「今、ストラヴィンスキーの『春の祭典』を聴いていたんだ。途中で邪魔しやがって」
 と言葉を吐き捨て、扉は閉められた。
 いきなり歌を聞けと言っても無理だったか。徐々に攻めていくしかないようだ。クラシックの話でもして、機嫌を取ってみよう。
インターフォンを押す。時刻は午前六時。彼はまだ眠っているのだろうか。しばらくしてインターフォンから聞こえてきた声は、あの評論家のものだ。
 「こんな朝早くから、何の用だね」
 どうやら使用人もまだ来ていない時刻らしい。
 「わたしの音楽を聴いてほしいんです」
 「言っただろ、君のは・・・」
 「グレゴリオ聖歌について調べました。主に九世紀から十世紀にかけて、西欧から中欧のフランク人の居住地域で発展し、後に改変を受けながら伝承したもので、教皇グレゴリウス一世が編纂したと広く信じられたが、現在ではカロリング朝にローマとガリアの聖歌を統合したものと考えられている。グレゴリオ聖歌の発展とともに教会旋法が成立し、グレゴリオ聖歌は八つの旋法で体系づけられることとなった・・・」
 彼は捲し立てるわたしのことばを遮った。
 「待て待て。ウィキペディアの丸暗記では、理解したことにはならないぞ」
 ズバリ指摘されてわたしは落ち込んでしまった。ウィキペディアの内容は難しいことばかりで、暗記するしかなかったのだ。
 失礼しました。と言って、わたしは帰ることにした。

 作戦失敗。やはり知ったかぶりで話してもダメみたいだ。流石、有名な評論家だ。ただただ威張り散らして音楽を語っているだけではないらしい。今度は実際にオーケストラのコンサートに足を運んだ。久しぶりのコンサートだったが、まぁ、楽しめた・・・と思う。曲の印象はちゃんと頭に残っているし、プログラムの解説も読んできた。生の体験がある分、前回みたいに丸覚えの印象にはならないだろう。
 インターフォンを押す。時刻は午前六時。再び使用人ではなく、評論家本人が顔を出した。
 「先日ベートーヴェンの交響曲第三番を聴きに行きました。情熱的な素晴らしい音楽でした。ナポレオンに献上される予定だったんですよね。それを、皇帝になったナポレオンに失望したベートーヴェンは当時『ボナパルト』と題されていたこの曲の表紙部分を破り捨てたんですよね? この曲は、前作の交響曲第二番とは比べ物にならないほど充実した内容で・・・」
 ここまで言って、彼に言葉を遮られた。
 「君は、交響曲第二番も聴いたのかね?」
 わたしは黙ってしまった。聴いていないのである。
 「聴きもしないでそんなことを言ってはいけない。それは、プログラムの曲紹介を暗記したものだね?」
 図星だったので黙ってしまった。
 「交響曲第二番を低く評価するものは大勢いる。私はそうは思わない」
 彼は扉を開けたまま、中に入っていった。入れ、という意味だと思い、わたしは中に入った。
 中は流石、お金持ちの部屋と言った感じだった。彼は立派なオーディオにCDを入れた。突然、大きな音でドドーンと音楽が流れる。すぐに木管楽器による綺麗な美しい旋律が奏でられ、再びドドーン。そして今度は先程の木管の旋律を弦楽器が奏でる。あまりに有名な『運命』とは印象が全然違う。
 「ベートーヴェンはこの曲を完成させる前に遺書を書いた。『ハイリゲンシュタットの遺書』と呼ばれるものだ。死をも考えた絶望を乗り越えて書き上げた曲で、この曲の中には後の交響曲第九番のモチーフが使われていたりと、なかなか興味深い内容なんだよ」
 聞いていても良く分からない。
 「あの・・・何で遺書なんて書いたんですか」
 先生は呆れたようにわたしを見た。
 「君は、ベートーヴェンが難聴に苦しんでいたのを知らないのかね」
 そう言えば、聞いたことがある。
 「この頃から、難聴が酷くなってきていたんだ。まぁ、この遺書は自殺をほのめかしていたらしいんだが、私の解釈としては心のリセットの為に書いたんではないかと思うんだ。それは、この曲を最後まで聴けば分かる」
 その後、たっぷり三十分間この曲を聞かされた。先生は椅子に座りながら熱心に聞いているかと思ったら、突然立ち
上がり、隣の部屋から本を持ってきたりした。見ると、それは楽譜のようだった。「なるほど」とか呟きながら机に置いてあるメモ帳に何やら書き込んでいる。
 四楽章まで聞き終えると、先生は楽譜をマジマジと見つめた。
 「これを機会に、この前手に入れた新しい音源で聴いてみたが、今まで聴いていたカラヤンとベルリン・フィルとはまた違う解釈があって非常に面白かった。そうか、あそこを滑らかに演奏してしまうとベートーヴェンらしくないと思っていたが、この小節を強調させるにはとても効果的か・・・ベートーヴェンの初期の作品は逆にこうだったのかもしれない。いい意味でも悪い意味でもベートーヴェン像が確立されてしまった五番に影響を受け過ぎなんだな・・・」
 わたしはもう、ここにいないかのように一人で喋りまくっている。「あの」と二、三度声をかけたが無視された。四回目、一際大声で呼ぶと、やっとこっちを向いてくれた。
 「なんだ」
 非常に怒った表情をしている。なぜ、そんなに不機嫌なのだ。こちらはそっちの説明待ちなのではないか。
 「聴いたかね、あの堂々たる始まりの二音を。この時点で強い決意を感じないか」
 急に近付かれてこちらは少し引いてしまう。
 「まぁ、音楽を知らない君に話しても無駄だな」
 わたしは慌てて去ろうとする先生を呼び止める。
 「じゃぁ、先生がわたしに音楽を教えてくれませんか」
 クラシックについては嫌になるくらい知っている。教わりたいとはちっとも思わなかったが、このまま見下されているのも癪に障る。それにここで感心を失われては、わたしの負けだ。
 「私は音楽を知っている訳ではない。今ある音楽を知っているだけだ」
 意外な言葉にわたしは拍子抜けしてしまった。こういう輩は音楽を知っているから仕事しているのではないのか。
 「今ある?」とわたしは聞き返した。
 「先人たちが残してくれた数多くの音楽の存在を知っているに過ぎない。音楽とは何か、それは私も知りたい」
 先生の目はどこか遠くを見ている。
では、と自分の歌を聴いてくれと再度お願いする。先生の返事はやはり「NO」だった。
 「ベートーヴェンの曲を聴いたのに分からないのか。君たちのやっていることが、どれ程低レベルなことなのか・・・そうか、低レベルだから分からないのだな」
 すぐに言い返そうとしたが、先生はどこかへ行ってしまった。
 仕方がないので今日は帰ることにした。

          2

 あたしの仕事は毎朝八時に先生の家に行き、まず、郵便受けに入っている物を整理する。その後は掃除をして、食材を買って冷蔵庫に入れておく。ちなみに、料理はしたことない。後は庭の掃き掃除。要するに、ほとんど掃除をしているだけだ。
以上のことは先生と面接をしたときに言われたことだ。一応、その通りにしながら二か月が過ぎた。まだ先生とは一度も音楽の話をしていない。というか、彼はあたしが出入りしていることを知っているのだろうか? 先生は家にいる時間、雑誌の打ち合わせや音楽家の訪問がない限り、いつも同じ部屋にいて、音楽を聴いている。ここに来出した頃、一度だけ音楽を聴いている最中に部屋に入ったことがある。その時、ドアを強く締めてしまって、ものすごく怒られたことがあった。それ以来、音楽を聴いているときは邪魔しないようにしよう・・・しよう、しよう、と考えているうちに、言葉を交わさず二か月も過ぎてしまった。
 先日、ギターを持った女の人がこの家を訪れた。いきなり玄関先で歌いだそうとしたので驚いてあたふたしていたら、先生が出て行って追い返してしまった。その時も、先生は音楽を聴いている最中だった。不気味な曲だった。
 でも、先生のところにクラシック以外の人が来るのは珍しい。余程の理由があるのだろうか。この家に来るのは、音楽家らしからぬ悪そうな顔の人たちだらけだ。先生にお金を渡して都合の良い原稿を書いてもらっているらしい。それを知ったとき、すぐにここを出て行こうとした。でも、出版社の人と話して思い留まった。というより、分かっていたことを改めて認識したに過ぎない。
 先生は音楽を愛している。
 それは変わらない。先生がお金を受け取って書いている原稿も決して嘘ではないらしい。ただ、言葉を上手く用いて、ある事柄を強調したりしなかったりしているだけのようだ。それに・・・。
 「彼は、お金で頼まれて書いた原稿を絶対にうちには持ってこないんだよ」
 と、ここによく来る出版社の人は言っていた。そこが、なんだか憎めない。
 「先生、先生」
 あたしは先生の仕事を邪魔する勢いで質問をした。初めの方は面倒くさそうにされたが、時間が経つにつれて答えてくれるようになった。というより、勝手に一人で話し出した。音楽の話というより、音楽の歴史の話だ。
 「J.Sバッハが活躍した時代は、スペイン継承戦争、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争、があった時代だ。この国際戦争の影響や余波が彼が活躍したザクセンにも及んでいた。あの『ブランデンブルク協奏曲』が作曲された時代はルターの宗教改革の時代だ。この曲を本当に理解するためにはその時代の歴史背景を知る必要があるんだ。その曲を作曲した当時の作曲家の思いを知るためには歴史を知らなければならない。出来事が起こり、曲が生まれた。それはその時代にしか有り得ないことなんだ。作品を演奏するにはそのことも理解しなければ、本当のその曲には出会えない。つまり・・・・・・・」
 話は永遠と続けられたが、気が付くと時刻は夜の九時を過ぎていた。帰る時間を一時間も過ぎてしまった。先生は相変わらず話通しだ。申し訳ない気がしたが。こっそり出ていくことにした。
 先生の音楽にかける熱意は尊敬するが、このままでは何も学べそうにない。一体どうしたらいいだろう。大学を卒業して一年。就職に失敗して、普通の企業に勤めようかとも考えたが、どうしても夢をかなえたかった。オーケストラの演目に関わる制作の仕事をするためには音楽の知識がもっと必要だと思った。それで駄目元で電話をしたらあっさりOKされて今日まで部屋の掃除などしてきたが・・・。アルバイトでもしようかな。
 でも、先生のことは嫌いじゃなかった。もっと彼を知りたいと思うようになっていた。どうしてあそこまで音楽が好きになれるのか。どうしてクラシック音楽以外は音楽と認めていないのか。確かに、今日聞いた歴史の話から推測するに、音楽はその作曲家自身の人生であり、歴史の記録なのだ。その・・重みが今の音楽にあるのかと言われれば、首をかしげてしまう。逆に言うと今のいい意味での〝軽さ〟が近代の大衆音楽、つまりポップスなどのジャンルが愛されている由縁だろう。クラシック音楽が「つまらない」や「眠くなる」と言われてしまうのは歴史背景にある〝重さ〟が原因なのかもしれない。
 先生の家に来ていたヴァイオリニストが言っていた。「君が音楽の最後の砦になってくれよ」
 あの意味は一体何だろう。あの二人の間には音楽に対するどんな思いが交錯しているのだろうか。
 それが知りたい。とあたしは思った。

          3

わたしは、クラシックが嫌いだ。あんな法則だらけで自由もないものが音楽だなんて認めない。音楽は自分の感情を爆発させるものであり、それを他者に伝えるものではないのか。なら、過去の音楽に何の意味がある。それにクラシックなんて、楽譜があって、その通りに演奏しなかったら怒られる。ちょっとでも違う解釈で演奏しようもんなら「下手くそ」と蔑まれる。
 わたしの父は作曲家。母はピアニストだ。それが理由でわたしはクラシックまみれの家庭で育った。ピアノだって習わされた。有名だかなんだか知らないけど、そこそこ偉い先生が家までレッスンに来ていた。母は演奏旅行でほとんど家にいない。父は書斎に籠りきりだ。
 レッスンのせいで友達には会えないし、手を怪我するからと、何もやらせてもらえなかった。
 だから、わたしはクラシックが嫌いだ。死ぬほど嫌い。大っ嫌いだ。
 クラシックが音楽の全てだ、と公言している人も嫌いだ。
 あの評論家はそのタイプの人間だった。父や母を絶賛する彼の文章を見たのは数か月前だ。父も母も喜んでその雑誌を読んでいたな。でも、そんなの意味がない。作曲家が全部決めたことをそのまま演奏しただけだ。それを評価されたって何の意味があるんだ。
 高校に入学すると同時にわたしは家出した。ピアノなんて辞めてやった。
 それから二年。何度か親から学校に電話があったそうだが、近頃は少なくなった。多分、母親は演奏旅行、父親も仕事に専念しているんだ。子供なんかほったらかして。わたしが出て行って二人も気が楽になったんだと思う。
 わたしは自分がやりたい音楽をやってる。自分が伝えたいことを表現してる。それが音楽の全てだと思う。
 どうすれば、あの頭の固い評論家にわたしの音楽を認めてもらえるだろうか。

 いつもは高校に行く前に彼の家に寄った。使用人の人に門前払いされるのは嫌だったからだ。お金持ちってのは本当に気に食わない。今日は作戦を考えるために行くのをやめておいた。
 次に、先生の家を訪れたのは一週間後のことだ。その間に何かしたかといえば、特に何もしていない。クラシックのCDを聞こうとも思ったが、やっぱり無理。生理的に受け付けない。
 インターフォンを押す。今日はバンドの練習はサボって夕方五時に訪れた。今回は使用人の女性が出た。粘った末にやっと先生に取り次いでもらえた。
 「何の用だね」
 まるでわたしのことを覚えていないような表情だ。この前通された部屋に入ったが、応接用の椅子を勧められることもない。先生は自分の机に座ったままだ。
 「その背中の物は、ギターか」
 明らかに軽蔑の眼差しである。
 「それで何をするんだ」
 「歌を歌います」
 わたしはギターを下ろし、演奏しようとした。すると先生は慌てて立ち上がった。
 「止めろ。ここで汚れたものを聴かせるつもりか」
 「どうして『汚れた』なんて言うんですか」
 先生は答えるまでもない、という風にまた椅子に座った。眉間に皺を寄せたまま何も言わない。
 「どうしてですか」
 わたしが更に聞くと、先生はため息をついて話し出した。
 「音楽は聖書の内容を伝えるところから始まり、宗教音楽として発展していった。神様の言葉を伝えるためのものだったんだ。それから貴族のたしなみになり、ハイドン、モーツァルトを経て音楽が大勢化されていった。その後ベートーヴェンにより音楽は更に進化し、一つの現状と化した。この時代に純粋音楽と呼ばれるものも誕生する。またベートーヴェンは音楽を庶民のものにしてくれた・・・・」
 この話はわたしの質問に関係があるのだろうか・・・?
 「要するに、音楽はそれだけで完成されているんだ。音楽だけで自然、哲学、恋愛までも表現できる。言葉では表現できない領域にまで達していったのだよ。それに対し、君たちがやっていることはなんだ」
 わたしたちがやっていること・・・人によって違うだろうが、わたしの場合はギダーでメロディーを作り、歌詞をはめていく。音楽に・・・言葉を乗せている。
 それは、自分の想いを表現するためだ。間違っているとは思えない。
 「私は忙しいのだ。帰ってくれないか」
 わたしは暫く目の前の分からず屋を無言で睨み付けた。
 「じゃぁ、オペラってなんですか。あれも歌でしょ」
 分からず屋の彼は不愉快だとばかりに片眉を吊り上げた。まずい、スイッチが入ってしまったかもしれない。
 「一緒にするな。オペラは立派な音楽作品だ。君たちの音楽は自画自賛が過ぎるんだよ。そんなのは芸術とは呼べない。オペラ成立は・・・」
 「芸術なんて呼ばれなくていいです」わたしは透かさず言い返す。「そんなことじゃないんです。もっと身近で、自分の気持ちを表現したいんです」
 「なら、それを音楽とは呼ぶな」
 「そんな堅苦しくして、何が楽しいんですか」
 分からず屋の彼は眉間の皺を更に深くして黙り込んでしまった。すると、ドアがノックされて使用人の女性がお茶を持ってきてくれた。
 「どうしたんですか?」
 使用人の女性が能天気に聞いてきた。この空気の中でよく口が利けたものだと思う。多分、年齢はわたしより上だろう。まだ学生だろうか。なぜここで働いているんだろう。
 「ねぇ、先生。こんな可愛い子いじめちゃ駄目ですよ」
 「いじめていないよ。音楽について討論しているんだ。まぁ、このお嬢さんは素人さんだけどな」
 言っとくが、わたしは素人じゃない。ピアノを習っていたからモーツァルト、ベートーヴェン、ショパンは一通り演奏した。演奏者として彼らを理解しているつもりでいる。ただ、仲良くは出来なかった。音楽を共有するまでには至らなかった。だから今のようになっている。
 「すみません、この人頭固いから・・・」
 この女性はどういう立場で話をしているのだろうか・・・。分からず屋の彼とかなり親しげだが。それ以前にこの先生が誰かと親しくすることなんてあるのか。玄関で迎えてくれる時とは打って変わって砕けた喋り方をしているが、この人も何か目的があってこの家にいるに違いない。
 「何で君にそんなことを言われなきゃいけないんだ」
 「まぁ、まぁ、先生落ち着いて」
 言いながら、使用人の女性はオーディオセットに近付いて再生ボタンを押した。ドビュッシーのベルガマスク組曲第二番が流れ始める。わたしも弾いたことがある、通称『月の光』という曲だ。
 「おぁ、ドビュッシーか。『月の光』は・・・・」
 先生は興奮気味に語り始める。今の隙に、と使用人の女性は部屋から外に出してくれた。
 「ごめんね。でもさ、何でわざわざここに来てるの? あたしのいない時間にも来てたみたいじゃない」
 玄関先で彼女は聞いてきた。もちろん、話すつもりはなかった。この人には関係ないことだ。何も言わずに黙っていると、「まぁ、いいけど」と言って扉を閉めた。

          4

 一日の業務を終えて、ぼくは帰路に就いた。三十周年記念演奏会の宣伝チラシを貼ってくれる場所を探して一日中歩き回っていた。いつもうちのホールの宣伝に協力してくれる近隣の駅とコンビニは了承してくれた。その他電車の車内、近隣のマンション、自治会の掲示板などにもお願いしに行った。今回は近隣の方々と一緒になって楽しめる催しを企画している。先生が提案してくれたホール前広場での演奏会だ。これが上になかなか好評で是非開催しようという話になっている。
 外回りを終えてこのまま直帰することになっている。時刻は午後五時。このまま先生のところに行ってみようか。企画の話だけが進んで、曲目など具体的な内容は決まっていない。
 先生の家に着いたのは六時を回っていた。アポイントメントもなしに尋ねたら失礼かもしれない、という思いに今更苛まれる。
 それでもインターフォンを押すと女性の使用人の方が迎えてくれた。訪問の旨を伝えると、彼女は申し訳なさそうに「すみません、只今出版社の方と打ち合わせされています」と言った。しかし「お待ちになりますか」と聞かれたので、そうさせてもらうと答えた。待っている間、彼女はお茶を出してくれた。
 打ち合わせを終えて出てきた出版社の方に挨拶をして入れ違いに部屋に入った。先に使用人の方が入って先生に取り次いでくれた。
 「突然申し訳ありません。先生にご提案して頂いた、ホール前広場でも演奏会が実現しそうなので、そのご報告に伺いました」
 先生は満足そうに頷いた。
 「それは良かった。では、曲目を考えなくてはいけないな・・・・よく知られている曲が良いだろう。そもそも編成はどうしようか・・・」
 ここまで来たら、もう自分の出番はない。先生は人の意見は一切聞かずに頭の中で構想を巡らせていく。
 「そうだ、地元の学校の吹奏楽部を呼ぶか。近くにあるよね、マーチングが全国レベルの学校が」
 突然話を振られたので、返事をする声が裏返ってしまった。
 「いいと思うんですが、どうでしょうか」
 先生がこちらに視線を向けてくる。どうしてだろう。緊張する。先生と会話をしようとしている。
 「分かりました。明日提案してみます」
 胸ポケットからメモ帳を取り出して書き込む。
 「ありがとう。紅茶を入れよう」
 先生は立ち上がって使用人の女性にお願いしに行った。こんなことは初めてだった。もちろん、先生の家に来るのは二回目だ。先代の担当者からの引き継ぎの際にも言われていた。「先生は一人でひたすら考える」と。
 紅茶が運ばれてくる。先生は既に持っていて、ぼくの向かい側に座った。
 「どうしますか。曲目は向こうに任せたらいいと思う。だが、こっちで考えることもできる。大ホールでやる演奏会と関連付けたいなら、考えるが。まぁ、地域住民との交流が趣旨だから、お任せしてもいいと思うよ」
 確かにその通りだ。こちらが考えるより向こうの方がこういう催しは慣れているだろう。しかし、どうして今日の先生はこんなに会話をしてくれるのだろう。
 すると電話が鳴った。先生は詫びてから立ち上がる。先生が取る直前で電話が切れた。おそらく、隣の部屋で使用人が取ったのだろう。
 ノックの音がして使用人の女性が入ってくる。
 「先生、あの・・・」
 「無言電話か」
 女性は頷いた。
 先生の話では、最近よくあるそうだ。改めて急に来たことを詫び、失礼することにした。先生はにこやかに「いつでもどうぞ」と言ってくれた。

          5

 リハーサルを終えて俺は劇場を後にした。明日はここで演奏会がある。曲目はリムスキー・コルサコフの『スペイン奇想曲』、ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第三番』、チャイコフスキー『交響曲第六番(悲愴)』オールロシアプログラムだ。いかにもあいつ好みだ。だが、今回あいつは来ない。どこそのホールの三十周年記念演奏会の打ち合わせだとかなんとか。評論家風情が演目にまで口出ししてどうする。評論家は音楽だけ評価しておけばいいんだ。
 あいつと俺は長い付き合いだ。俺が音楽界でここまでの地位を築けたのは、半分はあいつのお蔭でもある。しかし、初めて金を渡したとき、あそこまで簡単に引き受けてくれるとは思わなかった。それから、自分たちは共犯として手を取り合い、音楽を守っていこうと誓った。世間の認める音楽が腐る一方の現在、クラシック界は有りもしない非難を浴びている。「眠くなる」「つまらない」「意味が分からない」「古い」こんなことが言えるのは、そいつがこの音楽の偉大さについて行けないからだ。偉大過ぎて、その力に圧倒されているのだ。ポップスやロックなどという汚れたものに飛びつくのは、ただ自己に陶酔しているだけだ。自分の気持ちを代弁してくれていると。本来音楽はそんな低俗なものではない。簡単に理解できてしまうものなど、芸術ではないし、美でもない。追及に追及を重ね、その結果辿り着いたものこそ、真に美しい芸術と言われるべきだ。
 この世界にこのことを分かっている者は一人しかいない。あの評論家だ。彼は音楽を守る最後の砦になってくれるだろう。彼が音楽を深く知り、文章にしている限り音楽は廃れることはないだろう。今メディアに引っ張りだこな背が高く、派手な棒振りをする指揮者もロック好きで有名だ。大衆受けはするだろうが、音楽家としては失格だ。その指揮者が明日の演奏会の指揮者だから、うんざりする。指揮は分かりにくし、興奮するとやたらと曲の速度を速める。そんなの音楽理解と言えるのか。
 イライラしてきた。電車に乗る前にあの評論家の家に電話をする。使用人の女にこれから行ってもいいかと尋ねる。暫く待たされた結果、今日は駄目だと言われた。理由を聞くと評論家本人が電話に出た。
 「今日はこれから来客がある。申し訳ない」
 ベルリン行の話を再度念押しし、電話を切った。
 あいつに来客・・・。出版社の人間だろうか。しかし、あいつの声はどこか弾んでいた。変わったな、と素直に思う。あいつは変わった。きっとそれは悪いことだ。



第三章

          1

 彼の原稿が載った最新刊の仮刷りを持って、彼の家にやって来た。
 最近の彼はどこか様子がおかしい。決して悪い意味ではない。いい意味でだ。毎度の音楽の話でも、いつもより幅が広い気がする。今は、なぜか映画音楽の話をしている。
 「あの作曲家は低音ばかりを強調しすぎて、曲のバランスが悪くなっててあまり好きではなかったんだがな、よくよく聴くと実にいいんだ。時折大切な場面では低音を一切使わない、高音だけでメロディーを奏でる曲があってね。あれには驚かされた。映画音楽は映像とのバランス、更にどのようにスピーカーを駆使し、客席に聴こえさすかという音響デザインにも拘る。実に奥が深いよ。主役はあくまで映像とその物語、登場人物だからね。音楽ばかりが目立ってもいけない。絶妙なバランスを保っているんだ。あれを家庭用のテレビで見るのは、製作者に失礼だよ・・・」
 そもそもどうして映画の話になったのだろう。そうだ、先生がこの前、ある人と映画に行ったらしい。誰と行ったのかが知りたくて仕方ないが、音楽の話をしている彼に、今は何を言っても無駄だ。大方使用人の女性だろうが、一体どういう風の吹きまわしだろう。彼はよっぽどその映画が気に入ったらしく、パンフレットを大事に持って内容を読んでいる。いつも彼が楽譜を見るような仕草だ。お蔭で仮刷りの方には全く目を通してくれない。
 使用人の女性がお茶を持ってきてくれた時に「彼と映画に行ったの?」と聞いてみた。
 「違うんですよ。高校生くらいの女の子と行ったんですよ、あの人。なんか、バンドやってる子ですよ」
 これには改めて驚いた。一体どこでその子と知り合ったのだろう。
 「最初は、彼女が突然訪ねて来たんです。そして、わたしの音楽を聞いてください!、とか言って、先生の前で演奏し始めようとしたんです」
 それは・・・彼は怒ったのではないだろうか。しかし、一緒に映画に行く仲ということはそうでもないのだろうか。
 「先生は嫌がりました。そして、音楽の話をネチネチネチネチ・・・」
 この表現は正しい。
 「女の子の方もムキになって、訪ねてくるようになって、いろいろ言い合いしている間に、先生の方が、そんなに言うなら聴かせてみろ、と・・・」
 「その子の歌を?」
 「いえいえ。その子が愛する音楽を聞かせてみろ、と。私が原稿を書いてやる、とも」
 「シンセサイザーとオーケストラの融合・・・面白い」
 彼はそんなことを言って、いつの間にかその映画のサウンドトラックをオーディオセットに入れて流し始めた。よく見ると、彼の机の上にはいくつかDVDが置かれている。
 確かに、流れている曲は低音がかなりと強い。シンセサイザーを利用しているのはよく分かった。なぜ彼が気に入ったかは謎だ。曲が終了し、彼はCDを入れ替える。今度は別の映画のサウンドトラックのようだ。先程のとは違い、綺麗なオーケストレーションだ。
 「この曲は打って変って、映画の世界観を全力で表現している。映画を邪魔しない、現象のような音楽、世界そのものの音楽・・・この二つは全く別の試みで書かれているが、映像に収まると、全く同じなんだ。映画音楽とは一体何なんだ」
 彼は完全に私がいることを忘れてしまったらしい。「スコアが欲しい~」と子供みたいな声で喋っている。
 本当にどうしてしまったのだろう、彼は。
 「でも、いい事じゃないですか」使用人の女性が言った。「この前、劇場の人が来たんですけど、打ち合わせでちゃんとその人と会話してたんですよ」
 打ち合わせで会話することを驚かれるのも一つの才能だと思うが、実際、彼は変わった。もともと変わっていたが、更に変わった。
 目の前の彼は、本当に楽しそうだ。

          2

 彼女はまたやって来た。
 最近はあたしのいる時間によく来る。朝来ることはなくなったようだ。先生も彼女には変な敵対心を抱いているらしく、彼女がアポなしでやって来ても、すぐに部屋に入れろという。来客中で彼女と会えなかった日には、悔しそうな顔をする。
 先生と彼女の音楽論議が白熱したのは、彼女が映画音楽の話題を出したときだ。それまでポップスやロック、ジャズの批判ばかりしていた先生もそれには黙ってしまった。先生も映画音楽には触れたことがなかったらしい。そもそも、先生が映画を見るところなんて想像出来なかった。
 「映画音楽・・・映像に音楽を付ける、あれか」
 「何も知りませんよね。音楽オタクのあなたも、知りませんよね、語れませんよね」
 睨み合いが続く。先生は参った、と両手を挙げた。
 「じゃぁ、今度映画を見に行きましょうよ。課外授業です」
 そこで無理矢理、映画の日程を立ててしまった。

 数日後、彼女は学校を終えて家を訪れ、そのまま先生を連れだしてしまった。とても嫌な予感はしたが、楽しみではあった。これは先生にどんな影響を与えるのだろう。特にすることもなかったので、勝手にリビングのテレビを見ていた。ある音楽家が裏で暴力団と繋がっていて、多額の金をもらっていたことが警察の調べで分かったそうだ。その音楽家は所属していたオーケストラを解雇されたらしい。ふと、先生のことが脳裏をよぎる。先生はもちろん暴力団となんて繋がっていないだろう。だが、お金をもらって原稿の内容を変えている。これは、罪になるのだろうか。ならないにしても、いつか大きな事件に繋がりはしないだろうか。
不吉な予感は頭から除外して、先生の家を探検することにした。一番行ってみたいのは、やはりあの部屋だ。先生が一日を過ごす部屋の隣にある〝巣〟だ。いつもこの部屋からCDや楽譜を持ってきている。おそらく、資料庫になっているのだろう。ここは初日に先生の方から掃除は必要ないと言われているので、入ったことがない。
 してはいけないことをする子供の様にドキドキしながらゆっくりとドアを開ける。
 部屋には大きな本棚とCDラックしかなかった。そこには大量の楽譜とレコードまである。一枚手に取ってみる。ベルリン・フィルとカラヤンの録音だ。ウィーン・フィルとカーム・ベームの録音まである。その他音楽の専門書、雑誌、DVDもある。音楽関係の物しか置かれていない。
 本当に好きなんだな、とつくづく思う。しかし、その愛が音楽全体に向いてくれればいいのに・・・。
 映画鑑賞がきっと先生を別の世界へ導いてくれる。そんな気がしていた。
 電話が鳴った。
 急いで受話器を持ち上げる。以前、自分の家の名字を言ってしまって相手を怒らせたっけ。今日はミスはない。

「・・・・・」

 再び、無言電話だった。

          3

 ひょんなことから、分からず屋の彼と映画に行くことになってしまった。同年代の男子とも二人で映画なんか行ったことないのに、どうしてあんなオジサンと行かなければならないんだ。
 そんなことはどうでもいい。もう約束しえしまったことだ。それに、分からず屋の彼は映画になんか行ったことがないらしいので・・・今まで何をして生きてきたのだろう?・・・わたしが段取りを決めて連れていく羽目になった。取り敢えず、近場の映画館へ・・・いやいや同級生に見られることだけは避けたいので、もっと遠くへ行こうか。それだと、分からず屋の彼と長く一緒にいなければならない。あんな人と長い間一緒にいれる自信がない。話が続くわけがない・・・どうしてわたしはデートをするような気分になっているんだろう。なんてバカな・・・音楽の話を振ってやれば勝手に一人で盛り上がるだろうし、だが、放っておかれるのも癪に障る。
 考えている間に授業は終了し、下校の時刻になった。バンド仲間に謝って、彼の家に向かう。自然と足取りは重たくなる。ところで、何の映画を見るんだっけ。分からず屋の彼は何も知らないので、それもわたしが考えるんだった。
 あの人の好きな映画は何だろう・・・あの人映画知らないんだった・・・何が好きだっけ・・・音楽か。そんな映画やってなかったし。今更になって映画の話をしたことを後悔した。興味を示してくれたのは嬉しいが・・・。
 結局、男の人が好きそうな海外のアクション映画にした。続編らしいが、まぁ、大丈夫だろう。

 「何なんだ、あの音楽は!」
 映画館を出るといきなり先生は言った。
 「あの機械仕掛けの音楽はシンセサイザーというのか」
先生は歩きながら買ったばかりのパンフレットを読んでいる。
 「低音が無駄に強調され過ぎだと思ったが、それが映画の雰囲気によく合っていた。そうか、映画音楽はあくまでもBGM、バックグラウンドミュージックという訳か。映像の邪魔をしないようにしているが、映画の雰囲気作りにも大きく関わる訳か・・・なるほど」
 相変わらず一人で話し続けている。すると、いつの間にはCDショップに入り込み、今日の映画のサウンドトラックを購入し始めた。しかも、見もしない映画で同じ作曲家のサウンドトラックも一緒に購入している。そしてそのままレンタルショップへ。DVDを三枚も借りた。
 駅前で先生と別れた。と言っても先生は興奮していて、わたしのことなんか忘れて歩いて行ってしまった。
 まぁ、これで分からず屋の彼思考回路に亀裂を入れることが出来ただろう。

 次の日、先生の家に行くと、映画の話ばかり聞かされた。レンタルショップで借りてきた映画を余程気に入ったらしい。
 「この映画はファンタジーだったんだが、セットや登場人物の姿で世界観が創られていたのはもちろんだが、音楽も大きく力を発揮していた。エンディングの歌も実にいい。エンヤと言ったかな・・・昨日見た映画も映像の邪魔はしていないが・・・」
 語り始めたら音楽のときと同じだ。手が付けられない。でも、何だか楽しそうだ。
 「次は何の映画を見に行こうかな。新しい音楽との出会いが楽しみだ」
 先生は満足そうにパンフレットに目を落とす。部屋の中では昨日見た映画のサウンドトラックが流れている。
 「先生、なんか嬉しそうだね」
 使用人の女性が話し掛けてきた。確かに、こんな先生は今まで見たことあったが、見たことない気もする。
 次は、邦画でも見に行こうかな。そしたら、主題歌のポップスを聞かせられる。
 いやいや、それはさすがに無理かもしれない。でも、これだけ映画音楽にはまっているのだから・・・。
 「もうすぐ、世界でも有名な監督のアニメ映画が始まりますよ」
 「知ってる。〝森の妖精〟の映画を撮った奴だろ。その音楽担当者を批判したことがあるよ」
 その音楽担当者は言ったそうだ。「最近の映画音楽は効果音の延長に過ぎない」それに対して先生は言ったそうだ「映画のことは知らないが、私の聴いたあなたの音楽は壮大で実に完結に書かれている。しかし、単調だ」と。
 少なくとも、わたしは大好きだ。
 「なんだ、その映画を見に行こうというのか」
 わたしは頷く。
 「止めてくれ。今回映画音楽を聴いてみて学習したが、奴の音楽は駄目だ。一つの色でしかない。音楽が流れた瞬間に奴の顔が現れる」
 それに比べて今回見た映画は、その人の批判通り効果音の延長でしかない部分が多数だが、しっかり映像の世界を描き切っているのだそうだ。ちなみに、DVDで見た映画音楽も音楽は壮大だが決して映像を邪魔しない、まさに画面から聴こえてくる音のようだ、だそうだ。
 「あいつは一つの顔しか持たない。だから単調なのだ。あのアニメでしか成功しないよ」
 どうやら、先生はあのアニメが嫌いなようだ。
 「なんだ、あの映画を見に行きたいのか」
 わたいは首を振っておいた。
 「じゃぁ、次は何の映画かね」
 「邦画はどうですか」
 先生は眉間に皺を寄せた。「映画の後に全く関係のないポップスを流すんだろ。勘弁してくれ」
 「関係ないとは思いませんけど・・・」
 「奴らはシングルとして売り出すために曲を書いてる。映画の内容なんてどうでもいいんだ」
 そういう決め付けもよくないと思う。でも、ここまで語れるということは、先生も多くの邦画を見ていたということだろうか。
 「じゃぁ、わたしの曲を聞いて、ポップスに慣れますか」
 先生は即座に首を横に振った。「止めてくれ。言葉に音楽を載せたものなど聴きたくない」
 「でも、あの映画のエンディングの歌は気に入ってたじゃないですか・・・」
 先生はバツが悪そうに黙り込んでしまった。わたしはふと、さっきの先生の言葉が気に掛かった。
 「あの、オペラは音楽に言葉を載せたってことですか?」
 先生は嬉しそうな顔をした。「君にしてはいい考察だ。しかし、少し違う。あれは音楽そのものだよ」
 わたしはどうすればポップスがそれに近付けるかを尋ねた。すると、先生はしばらく黙って考えていた。
 「難しい質問だ。君もようやくここまで来たか」
 さらに考え、先生は一言「何もしなければいい」と言った。
 わたしは少し腹が立った。
 「これを聞いてからにしてもらえませんか」
 わたしはテーブルの上に自分が影響を受けた海外アーティストのCDを置いた。アヴリル・ラヴィーンとブリトニー・スピアーズのCDだ。
 「何だ、これは」
 わたしは答える前に、オーディオにCDを挿入した。
 「聞いといてください。また感想を聞きに来ます」
 わたしは家を出た。

          4

 今日もあいつの家を訪れたが、来客中とかで、入れてもらえなかった。たまたま重なっただけかもしれないが、何かおかしい。
 ふと、家の中から何か聞こえてきた。いつもみたいにあいつが音楽を聞いているのかと思ったがよく耳を澄ませてみると、どうやら違うようだ。
 俺は信じられなかった。あいつの家から、音楽ではないものが聞こえてきている。何の曲かは分からない。だが、明らかに我々が崇高しているどの作曲家のそれとも似ても似つかない。怒りが込み上げてきた。あいつの頭はいつからイカれてしまったのだ。
 信じていたのだ。あいつが、音楽を守っていってくれると・・・。真の音楽の素晴らしさを伝え続けてくれると・・・。
 ・・・・裏切り者め。
 足早に帰ろうとすると、家の前に誰かが立っているのが見えた。男だ。今の俺もなかなかの形相だろうが、そいつはそれ以上だ。人殺しの目というものを見たことがないが、あれがそうなのではないか、と思ってしまうほど、そいつの目は尋常ではなかった。
 あちらから俺の姿はおそらく見えないだろう。あんな奴に関わったら、きっと良いことはない。
 しばらくして、男は立ち去った。それを確認して俺も敷地の外へ出た。
 あの男は何者だろう。どこかで見たことがある顔だった。思い出せない。

          5

 最近彼の興味はクラシックから大きく外れてしまったようだ。今日も打ち合わせで訪れた。いつものように彼は自慢のオーディオで音楽を流す。
 「いやぁ、驚いた。あの漫画家はこんなに歌が上手かったのか」
 流れている音楽はあろうことか、海外アーティストの曲だ。歌詞の内容はなかなか過激な内容だ。確か、ブリトニー・スピアーズの曲だったはずだ。しかし、漫画家とはどういうことだろうか。見ると、オーディオシステムの横には、他にも海外アーティストのCDが置かれていた。誰だ、この男にこんなものを与えたのは。
 「聴いてみるとなかなか興味深いんだよ。なんか、熱いものを感じるねぇ。お前、これを知っているか?」
 彼はCDを変えた。別の曲が流れる。アヴリル・ラヴィーンの曲だ。
 「これらは一体どうのようにして産まれるのだ? 歌詞の内容は実に単純だ。恋人やら家族やら自分のことをありのまま話している。それが音楽に乗って、心の中に入ってくるのだ。言葉などという低俗なものを使っているくせに、使っているからこそ、染み込んでくるのだ。何なんだ、これは」
 これを聴いてそこまで語るあんたが何なんだ。
 クラシック以外のものをあんなに嫌っていたのに、一体どうしたんだ。机の上にはバンド譜まで置かれている。
 「この作曲家は自分の人生を振り返りながらこの曲を書いたに違いない・・・ベートーヴェンと同じではないか! このコード進行から感じ取れるのは・・・悲劇、悲しみ、・・・」
 クラシック音楽と同じように彼は新しく出会った音楽と向き合おうとしている。理由はどうであれ、素晴らしいことが起こっているのではないだろうか。
 「それより、原稿の方を・・・」
 「そうだ、この感動を原稿にしたためよう。そうなると企画変更を提案しなければ・・・私が出会った新しい音楽を紹介するコーナーを作ろう」
 あなたにとって新鮮でも、世間にとっては既に過去のことなのだが・・・。
 「映画音楽についても紹介したい。ハンス・ジマーというドイツの作曲家は音楽を現象の域にまで高めている。ベートーヴェンのようだな。ハワード・ショアは音楽そのものに人格を与えているようだ。生きた音楽を作っているよ。彼の作るテーマはまさに・・・」
 「先生!」透かさず割って入る。「申し訳ありませんが、やり掛けの企画を形にしてからお願いしますね」
 「あぁ、そうだな。ところで、中森明菜という歌手を知っているか?」
 今日はいつも以上に帰れそうにない。
 電話が鳴る。彼は全く気付かない。
 「先生」使用人の女性が入ってくる。「また、無言電話でした」
 彼は音楽を止めた。
 「本当に多いな、最近」
 彼はどこか遠くを見て言った。



第四章

          1

 今日こそはあいつに会ってやろうと思った。この前の家から聞こえてきたものについて問い詰めてやる。
 俺はインターフォンを押した直後、扉を叩いた。
 はい、と怯えた声がインターフォンから聞こえたきた。
 「あいつは。いるんだろ」
 扉が開いて、あいつが顔を出した。扉を無理矢理押し開け、俺は中に入った。迷惑そうな顔をされたが気にはしない。いつもの部屋のいつもの椅子にどっかりと腰を下ろす。
 「どういうことなのか、説明してもらおうか」
 彼は眉間に皺を寄せて首を傾げた。とぼけるつもりか、こいつは。
 「汚れたものを聞いて楽しいか。頭でもおかしくなったのか」
 「私はそんなつもりはない。一つの研究材料として・・・」
 「冗談じゃない!」俺は声を荒げた。「お前は、偉人たちが残してくれた音楽をドブに捨てる気なのか。どうしてだ。どうしてなんだ。答えろ!」
 俺は立ち上がって、彼の胸ぐらを掴んだ。
 俺は許せない。この世界に汚れたものを蔓延らせることが。汚れたものを音楽と思い込む低能な奴らが大勢いることが。モーツァルトの音楽を知らずに音楽を語る奴らが。
 「私たちは、音楽を知らない。過去には過去。現在には現在の音楽があるんだ」
 俺はこいつを殴りたい衝動に駆られた。そんな事をこいつの口から聞くとは思わなかった。
 使用人の女が俺の腕を掴んできた。止めてください、と喚いている。それを払い除ける。
 「お前は嫌いだっただろ。偉人が残した音楽を一切無視したものが誕生してきていることに。それを食い止めるために俺が外へ出て演奏活動を続け、お前が日本で良い演奏家だけが生き残るようにしてくれていたじゃないか」
 目の前の裏切り者は何も言わない。どうして何も言わないのだ。
 「なぜなんだ。理由はなんだ」
 「出会ったからだ」評論家は言った。「新しい音楽に出会ったのだよ。今も昔も変わらない。作曲家たちは、ただ音楽を通して何かを表現したいんだ」
 「あんなのを音楽と呼んでいいのか」
 「では、お前は楽譜を見て、今の音楽と向かい合ったか。どうしてそんなに嫌うんだ」
 そんな事、考えなくても分かるだろう。あいつらが音楽と呼ぶものは全く違うんだ。一緒にしてはいけないのだ。
 「音楽を決め付けてどうする。それこそ、君が言う偉人たちが一番望まないことじゃないのかな」
 もう、この男とは仕事は出来ないと思った。ベルリンには別の評論家についてきてもらおう。もっと音楽を分かっている奴に。今から探すのには時間が掛かるだろう。いや、若い評論家をこいつみたいに育てればいい。それでもいいんだ。大丈夫。音楽はまだ守れる。俺がちゃんと頑張れば、大丈夫。
 俺は、今では何の価値もなくなってしまった人間を床に投げ出した。そして何も言わずに立ち去った。

          2

 あのヴァイオリニストが出て行ったあと、あたしは慌てて先生に近付いた。
 「大丈夫ですか」
 先生は「大丈夫、大丈夫」と言いながら差し出したあたしの手を払った。
 「いやぁ、酷い目にあったよ」
 なぜか先生は笑っている。警察に連絡しましょうか、と言っても拒否された。先生曰く、特に困ったことにはなっていない、とのことだ。あのヴァイオリニストはあたしでも知ってる有名人だ。あの人が有りもしない先生の噂を流して、仕事が無くなってしまうという可能性もある。それに、今音楽界は暴力団との関係についてただでさえ警察の捜査を受けている最中だ。今疑いをかけられたら、悪いとられ方をされかねない。
 「もうすぐ出版社が来るだろ・・・服がクシャクシャだ」
 先生は隣の部屋に入っていった。最初はそのまま放っておこうと思ったが、やっぱり部屋に行ってみることにした。
 先生は本棚を背もたれにして座っていた。急いで近付いてみると、とても疲れた表情をしている。
 「・・・反省したよ、自分がやってきたことを」
 今の先生はいつになく悲観的になっている。今、何を考えているんだろう。現役の演奏家からあんな風に言われて、傷付いていないわけがないんだ。今までも時折訪れていた、あのヴァイオリニストを先生は避けていた。居留守を使ったりしていた。今日も会わなければよかったのに・・・。
 出版社の人がやって来て、まずあたしはさっきあったことを説明した。出版社の人は酷く心配そうな顔をした。先生の所在を聞かれたので、資料室だと答えた。
 出版社の人はゆっくりとした足取りで部屋に入っていった。先生は本棚にもたれ掛ったままの体制で項垂れていた。出版社の人は先生と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。すると先生は顔を上げて弱弱しく微笑んだ。
 「オシャレな格好をしていますね」
 「そうだろ」先生はまた弱弱しく笑った。
 出版社の人が自分の方に先生の腕をかけて立ち上がらせる。先生は支えられながら、応接用の椅子に移動した。
 「この子から聞いたが、散々な目にあったな。後悔してるのか」
 今日の出版社の人は軽い話し方をしている。
 「いや、覚悟の上だったよ。どうせ、私に存在価値を与えるのも、仕事を奪うのも、あの人だと思ってたしね」
 「今日は帰ろうか。それとも、ここに居ようか」
 「音楽を・・・」と先生は言った。「音楽をかけてくれ・・・あれだ」
 「分かった。あれだな」
 先生の指が指をさすもの待たずに、出版社の人は立ち上がった。どうやら何のことか分かっているらしい。慣れた手つきでオーディオ機器を操作して、CDを挿入する。
 流れてきた音楽は、どこかで聞いたことがあるような、ないような、そんな声楽曲だった。女の人の綺麗な声が部屋に充満する。物悲しいようで、明るい。感情を付けにくい音楽だった。
 先生は眠ってしまったように動かない。出版社の人に目で合図されて、あたしたちは隣のリビングに移動した。すぐに紅茶を入れ、二人でテーブルに向かい合って座る。最近はこうして先生と二人で食事をすることもあった。最近の先生は、あたしのことを見てくれたし、本当に優しかったんだ。もともと優しかったと思うけど、関係をしっかり築いてくれたんだ。
 「迷惑を掛けたね。大丈夫」
 「あたしは、全然問題ないです」
 「だいぶ落ち込んでいるな、彼」
 ここからは見えない先生を見るように、視線を壁の方に向ける。
 「以前、オーディオシステムが壊れたことがあった。その時くらいの落ち込み方かな」
 それは・・・そこまで心配することでもない、ということだろうか。
 「大丈夫だ。彼に仕事が無くなったとしても、音楽がある」
 また明日来るよ、と言って、出版社の人は帰って行った。先生の部屋からは同じ音楽が流れ続けている。



          3

 わたしたちのバンドのライヴが行われることになった。
 しかも、学校の体育館ではなく、有名なアーティストも時折使用するライヴハウスで。
夢のようだった。バンド仲間でアルバイトしてコツコツお金を貯めていたお蔭だ。こんなに嬉しいことはない。ふと、両親に連絡することも考えたが、辞めた。どうせわたしのことなんか娘だと思っていないだろうし、そもそもそんな暇なんてないだろう。
まずは先生に報告しよう。まだ、わたしの音楽は聞かせたことないが、今の先生なら聞いてくれるに違いない。今まで関わってきて分かったことだが、先生は本当に音楽が好きだ。今日までまず、映画音楽、その後洋楽を聞かせた。初めは難色を示したが、楽譜と一緒に見せると興味を示してくれた。アーティストの出生を話したら更に興味を示してくれた。
初めは、頭の固い分からず屋だと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。ただの音楽バカだ。それも超が付く。彼から『音楽』が無くなったら、何も残らないんだろうな。
ライヴが決まったことにより、練習練習練習の日々で先生の家に行けなくなってしまった。今頃どうしているだろうか。
 ライヴまであと一週間。チケットを持って訪ねてみようか。しかし、練習が終わってからでは夜の十一時を過ぎてしまう。朝行くにしても最近は朝練までする真面目ぶりなので朝五時ということになる。手紙と一緒にポストに投函するか。
 でも、どうせ来てくれないんだろうな・・・・。なにせ彼はクラシックの評論家だ。
 時刻は深夜一時。ようやくベッドに潜り込む。練習で疲れているはずなのに目ははっきりしていた。これでは眠れそうにない。超格安で借りているアパートは隣の音がかなり聞こえる。今、冷蔵庫を閉めたな。ベッドの横のテーブルにはカップヌードルのゴミが散乱している。こんな生活してたらいつか体を壊しそうだ。「おかえり」がない生活は以前と変わらないはずなのに・・・。両親の顔が頭に浮かんで非常に不愉快なので、自分の世界に浸ることにした。ウォークマンを取り出し、イヤフォンを耳にはめる。ブリトニーやアヴリルのどれかの曲にしようと思ったが、ふと思い至り、J.Sバッハ作曲の『ゴルドベルク変奏曲〝アリア〟』を選択した。大っ嫌いだったクラシックの曲にするなんて・・・。
 静かな調べが心を浄化してくれる。ウォークマンに入っているのはグレン・グールドの演奏だ。彼の息づかいまでもが録音さえている。昔はよく弾いた曲だ。今はおそらく全然弾けなくなっているだろう。何故だろう、涙が出てきた。この曲は、今のこの部屋とわたしの心にマッチしすぎてる・・・。
 クラシック音楽ってこんなに美しかったっけ・・・?
 駄目だ。今日のわたしは悲観的過ぎる。今の状態だとアンパンマンの歌でも泣いてしまいそうだ。
 ピアノが弾きたくて堪らなくなった。あんなに嫌いだったピアノを。あの澄み切った綺麗な音を、自分の指先で奏でたい・・・。
 次の日、わたしは学校をサボって先生の家を訪れた。バンドの練習時間にさえ間に合えば大丈夫だ。
 インターフォンを押して、使用人の女の人に取り次いでもらう。玄関の扉が開けられて、いつのも女の人が、どうぞ、と招き入れてくれた。先生はいつもの部屋にいた。「やぁ、君か」と笑う先生はどこか元気がなさそうだった。眠れていないのか目の下には、はっきりと隈が出来ていた。
 部屋は既に音楽に満ちていた。なんと、タイトルは分からないが洋楽のバラードが流れている。
 「このCDは何度も聴いたから、今日返すよ」
 「あの・・・この曲」わたしは差し出されたCDを受け取りながら聞いた。
 「デミ・ロヴァートという歌手の曲だよ」
 わたしの知らない間に、先生は新しい音楽に出会っていたようだ。しかもわたしでも知らない歌手だ。確かにいい歌のように思う。
 使用人の女性がお茶を持ってきてくれた。
 「そうだ、今から昼食なんだよ。君も一緒にどうだい」
 驚いて、つい使用人の女性の方を見てしまう。
 「あたしが作るんじゃないのよ。先生が」
 そういう意味で彼女を見たわけではないのだが、それはそれで驚きだ。先生は「食べていきなさい」と早々と立ち上がって、部屋を出て行ってしまった。
 「いいんですか?」
 「いいんじゃないの。最近、あたしじゃつまらないみたいだし」
 彼女はよく先生と食事をしているのだろうか。それを尋ねると、
 「一緒に食べ始めたのは最近。最初はいつ食べてるのかも知らなかった」
 一日中この家にいて、そんなことが有り得るのだろうか。彼女はお茶の入ったコップを持って、部屋を出ようとして「あ、リビングこっちね」とついでの様に言っていく。部屋には曲が流れたままだ。わたしはそのままにしてリビングに移動した。部屋の奥にキッチンがあり、先生が立っている。シャツの袖が捲られた姿はなんだか男らしい。
 「料理は音楽に似ている」先生は下ごしらえをしながら急に話し始めた。「と言っても、音楽が料理に似ているのかもしれない。それは分からない」
 使用人の女性が来て、椅子を勧めてくれたので席に着く。彼女も隣に座った。
 先生の話は続く。料理は、数多くある食材を、ある料理法を施すことで、美味しい〝味〟が生まれる。世界のありとあらゆる場所にある音を掛け合わすことで、素晴らしい〝音楽〟が生まれる。似ていると思わないか? モノを創り出すことの素晴らしいところは、沢山の命あるものを使って、新たな命を創造出来ることだ。大袈裟な言い方かもしれないが、私はそう思っている。私自身、作曲も演奏も出来ない。どんなに偉そうに音楽を語ることは出来ても、音楽家が創り出す〝輪〟の世界には足を踏み入れられない。
 「〝輪〟って何ですか?」わたしは聞いた。
 音楽家、特に演奏家は演奏の中で独自の繋がりを創り出す。もともとある曲を演奏する場合でも、そこにいる演奏家によって、また新たな命が吹き込まれる。その中に私は入り込めない。音楽を趣味にしていて、そこが一番辛いところだ。音楽に耳を傾けられても、音楽と一体にはなれない。
 先生は話をしながらも、手をせっせと動かしている。見たところ、スパゲッティのようだ。
 私のような、演奏の出来ない音楽大好き人間の仕事は、人と音楽を繋げてあげることでしか、音楽に貢献出来ない。でも、それも自己満足だがね。私を通さなくても、音楽を聴きさえすれば、それで事足りる。
 よし、出来た。と先生はお皿を三枚、器用に腕に乗せたりして持ってきた。
 「ツナとアスパラガスの和風パスタです。召し上がれ。そうだ、こんな時は・・・・」
 先生は駆け足で隣の部屋に入っていった。微かに聞こえていた曲が消えた。暫くすると、別の音楽が流れてきた。これは確か、ショパンの『三つのマズルカ』第二番だ。これも、昔弾いたことがある。全然上手く弾けなかったけど、お母さんが演奏会でよく演奏していたから、憧れだったんだ。
 お母さんは、ショパンが大好きだ。ショパンを弾かせたら右に出る者はいない、とか世間では言われてたっけ・・・。ショパン国際ピアノ・コンクールでは五位という輝かしい経歴がある。お父さんも沢山、賞をもらってた。お父さんの曲の初演は必ずお母さんだ。オーケストラの曲だったとしても、必ず演奏会でお母さんに演奏させてから編曲していた。二人の関係は結婚前からだった訳ではないらしい。以外にもお見合い結婚だった。その後、二人の仕事の仕方が出来上がっていったらしい。音楽家同士なのに、どうして結婚前にお互いの音楽性を理解しようとしなかったんだろう。わたしの最大の疑問だ。
 「ショパンの曲はどれも好きだが、弾く人によったら、本当につまらない曲になってしまうんだ。このCDはいいよ」
 先生がテーブルに置いたケースを見てわたしは驚いた。ジャケットは母の写真だった。まだ若い。コンクールに出ていた頃だろう。
 「彼女の日本での公演がほとんど無くなってしまって寂しいんだよ。まぁ、演奏したくない気持ちも分かるがね」
 「先生が演奏者について話すなんて珍しいですね」パスタを口に含んだまま使用人の女性が言った。「いつも音楽のことだけなのに」
 先生は心外だとばかりに眉間に皺を寄せる。「音楽と演奏家は表裏一体だ。音楽が素晴らしくてもそれを奏でる演奏家が居なければ、意味がない」
 「え~、なんかいつもの先生と違うんですけど~・・・この前まで死にそうにしてたのに」
 あ、分かった、可愛い女の子が二人もいるからだ! と軽口をたたく彼女を先生は完全に無視している。
 わたしは先生から目が離せなくなっていた。そう、今になって、お母さんとお父さんがよく読んでいた雑誌の記事が鮮明に思い出された。そうだ、お母さんたちが読んでいたのは、いつもこの人の記事だった。この人以外の人は読んでいなかった。この人の書いたことに影響を受け、また音楽活動に励んでいた。音楽しか見ない、分からず屋だとばかり思っていたけど、そうじゃなかった。本当に彼は音楽を観ていた。音楽を聴いていた。ちゃんと、演奏家を見ていたんだ。だからお母さんはこの人の記事はしっかり受け止めていたんだ。この人のことだから、きっと書かれたことは良い事だけじゃないだろう。でもこの人なら、ちゃんとお母さんの音楽を観てくれる。そう、思ったんじゃないだろうか。わたしがお母さんたちから教えられていたのは、確かに曲の解釈の仕方だとか、演奏の仕方だとか、作曲家のことだった。でも、それはその通りやらなければ駄目だということじゃない。その事実をどの様に捉えるか。そこに演奏者の音楽性が出るんだ。決められた音楽をただ弾いてるんじゃない。やっぱり、音楽なんだから・・・。
 急に、今まで自分がやって来たことが恥ずかしくなった。何も知らないのに、ただクラシックを否定して、自分勝手な解釈で音楽してた。表現、なんてそんなに簡単なことじゃない。しっかり自分と音楽を見つめなくてはいけないんだ。
〝創造する〟ことが最大の目的じゃない。〝共有する〟ことが目的なんだ、音楽って。そうですよね、先生!
 「どうしたんだ、美味しくないか」
 先生がキョトンとした顔でわたしを見つめている。
 いえ、美味しいです、と慌ててスパゲッティを口に運ぶ。
 その時、電話が鳴った。使用人の女性が立ち上がろうとしたが、先生が自ら取りに行く。
 そして、眉間に皺が寄る。
 「・・・・どなたですか・・・・いきなりそんな事を言われてもね・・・・」
 先生は電話の相手と深刻な話をしているようだ。
 「今までの無言電話も、あなたが・・・?」
 使用人の女性の表情が強張る。

 ―――償わせてやる!

 その声は完全に漏れ聞こえていた。前の会話が分からないので、どういう意味かは分からない。でも、嫌な予感がした。

          4

 あの日の一件から彼のことが心配だった。今日も打ち合わせで家を訪れたが、やはりいつもより元気がない。流れている音楽は暗い曲だ。ショパンの『ピアノソナタ第二番』第三楽章。この曲は《葬送行進曲》の名で有名だ。形式的に仕事の話を終え、私は隣のリビングでお茶を頂くことにした。
 「先生、ずっとあの調子なんです」使用人の女性がお盆を胸に抱えて向かい側に座った。「あたしって、何も出来ませんね」
 「音楽の質問は?」
 「あの状態の先生には何も言えませんよ」彼女は困り顔だ。
 「今すぐ行きたまえ。今流れている曲について質問するんだ」
 彼女を無理矢理立ち上がらせて、ドアの方へ促す。最後まで彼女は渋ったが、最終的に彼女は自分からドアを開けた。

          5

 出版社の人に無理矢理先生に話し掛けるように言われた。もう部屋の中に入っている。先生は「何だ?」という顔でこちらを見ている。改めて耳を澄ますと、本当に暗くて重々しい曲だ。
 「この曲、何ていう曲ですか」
 先生は、曲名と成り立ちを教えてくれた。話していくうちに勢い付いてきて、いつもの先生の口調になる。
 「今はこんなに重々しい旋律が続いているが、しばらくすると・・・」
 突然、旋律は今までのことが嘘だったみたいに綺麗になった。優雅で優しさに満ちていた。
 「この第三楽章は非常に評価が高い作品なんだ。しかし、第四楽章は多くの批判を浴びた。あまりに独創的なんだ。未だに、このソナタ全体の私なりの解釈が出来ていない。非常に興味深い作品だよ」
 この演奏は日本人の女性がしているらしい。その名前には聞き覚えがあった。ただ有名というだけではない。もっと最近どこかで聞いた気がした。
 「私の打ち合わせの時も、それくらいイキイキしてて欲しかったです」
 後ろから編集社の人が割り込んできた。
 「そんなつもりはない。私はいつも通りだ」
 そう、先生は何があっても変わらないと思う。だって、ただ音楽が好きなだけなんだから。そりゃ、ちょっとは間違いも犯すかも知れないけど・・・。
 「あ、そうだ忘れてた。あのチケット手配してくれたんだろうな」
 先生があたしの後ろに視線を飛ばして言う。
 「あぁ、久しぶりに日本で演奏会を開く彼女のチケットですか? 確保出来てますよ」
 なぜ、すぐ渡さない! と怒る先生はやっぱり子供みたいで笑ってしまう。でも、この演奏会はホールの三十周年記念に行われるものだそうで、出演者も演目もまだ未決定のものだ。先生は先行予約の先行予約をしてしまったらしい。聞くところによると、今流れているピアノを弾いている女性の演奏会だそうだ。先生はその人のことが大好きらしい。
 「彼女の音楽が好きなんだ」
 先生が透かさず言葉のニュアンスを訂正している。先生は有名な評論家で演奏家には沢山の知り合いがいる。しかし、彼女とは知り合いじゃないらしい。どうしてか聞くと、
 「話し掛ける勇気がない」らしい。
 もちろん、これは編集社の人が言ったことで、先生がすぐに訂正した。
 「そんなんじゃない。それに彼女は結婚して子供もいるぞ」
 完全にずれた回答だけど。
 「たまには、この人と食事をしながらゆっくり音楽の話でもしてあげたらどうだ」編集社の人は後ろからあたしの肩を掴んだ。「一応、勉強しにここに来ているんだから」
 「そうか、音楽について勉強しに来ているのか。演奏家志望か?」
 あたしたちはため息をついた。



第五章


          1

海外の有名な指揮者コンクールで第一位を獲得した。その後各国のオーケストラを客演指揮し、ようやく日本で演奏会を行えるようになった。言わば凱旋公演だ。日本で僕が初めて振ることになったオーケストラは、僕が子供のころから憧れだった楽団だ。これは何としても成功させたい。そう思って一生懸命リハーサルに励んだ。オーケストラともいい関係を築けたと思う。曲はコンクールで演奏した曲でもある。暗譜も出来てる。大丈夫だ。いつも通りやれば。
そして、いつも通り指揮をし、会場は大歓声に包まれた。大成功だった。
それなのに・・・・・。
あの評論家は、嘘を書いた。あの演奏会がダメなものみたいに書きやがった。コンサートマスターにも記事を読んでもらった。
「細かいミスを指摘されてるね。でも事実だろ、これ」
何なんだよ、それ。そうさ、事実は事実だ。少し振り間違えがあって、オーケストラにフォローしてもらったさ。ホルンの音程が少しずれてたよ。楽譜の解釈も少し変だったかもしれない。でも、いいところも沢山あったはずなんだ。どうしてそれを中心に書いてくれないんだよ。そうしてくれたら今頃日本でもどんどん演奏依頼があって、沢山舞台に立てているはずだったのに。あいつのせいで、仕事は一切来なかった。
全部あいつのせいなんだ。指揮の先生もあの評論家の記事を信用したし、日本中の音楽家が信用してる。そんなに偉いのかよ、評論家って。
文句を言ってやろうと思って、駅前の電話ボックスに入った。あいつの家の電話番号はお覚えてるんだ。何度も何度も電話しようとして辞めていたから。今日は、掛けた。あいつは電話に出た。いざ、掛けてみると何を言ったらいいか分からない。何も言えずに黙っていると、いつも間にか電話は切れている。
たまに女が出た。家族はいなかったはずだ。噂の使用人か。金持ちめ。
でも、結局僕は何も言えない。あいつへの恨みだけが積もり続ける。海外からの依頼も少なくなった。次第に生活のお金は失われていった。売れない僕を見限って、婚約者も姿を消した。
全部、あいつのせいなんだ。あいつが、嘘の記事を書いたからだ。
家にも行ってやった。毎日音楽が漏れ聞こえてきた。あいつに音楽の何が理解できるのだろう。楽器も何も出来ない奴が偉そうに音楽を語りやがって。若い女とイチャイチャ遊んでるような中年に、僕の音楽が理解できる訳がないんだ。
生活が苦しくなった僕は闇金に手を出してしまった。指揮者としてデビューする前も借りたことがあった。その時はコンクールで優勝したのですぐに返せた。今回は返せるはずがなく、今は怖い男に追われる毎日だ。
全部、あいつのせいなんだ。僕がこんな生活をしているのも、全部。
・・・・殺してやりたい。
そんなことを思い始めたのはいつからだっただろうか。自分でも気付かないうちにそんな恐ろしいことを考えていた。そして懇意にしてる暴力団の人に頼んで拳銃まで手に入れてしまった。
あいつに電話をするのは、これが最後だ、と自分に言い聞かせて、僕は受話器を持った。これであいつが出なければ、こんな恐ろしい考えは捨て去ろう。自分が消えればいいんだから。その方が簡単なんだから。でも、あいつは出てきた。今までの恨み辛みを全部吐き出した。そして最後に言ってやった。

―――償わせてやる!

 僕は受話器を叩きつけた。
殺す動機も道具も揃っている。後は、行動するだけだ。
全部、あいつのせいなんだ。僕はあいつの玄関の前に立った。右手には拳銃。ゆっくりとインターフォンを押した。

 聞こえてきたのは女の声だ。あの使用人だ。あんな男に扱き使われて、気の毒な奴。「あいつはいるか」と僕は尋ねた。いるのは分かっている。今日は一日この家の前で見張っていたんだから。
 「いらっしゃいますが、ご用件は何でしょう」
 生真面目にそんな事を聞いてくる。仕事の依頼をしに来たと伝える。すると、しばらく待たされた後「どうぞ」と扉が開けられた。いよいよだ。女は僕をリビングへ通した。あいつは出版社の人間と仕事の打ち合わせをしているらしい。すぐに終わるから待てと言う。これも計算通りだ。出版社の人間が来ていることも分かっていた。あいつの家によく出入りしている奴だ。僕の記事を載せた出版社の奴に違いない。この二人を葬ることが、僕の目的だ。
 あいつらがいるであろう部屋からは、バッハの『ピアノ協奏曲第二番』第二楽章が聞こえてきている。これが僕の指揮した曲だったりしたら、頭に血が上っていたかもしれない。まだ落ち着いてあいつらに罰を与えられる。使用人の女が紅茶をテーブルに置いた。
 この後のことは特に考えていなかった。だが、自然に体が動いた。台所へ向かい、僕に背中を向ける女を背後から掴み掛り、こめかみに拳銃を押し当てる。女の体が小さく悲鳴を上げ、凍り付くのが分かる。
 「ドアを開けろ。あいつのところへ行け」
 女は震えながらも体を反転させ、ドアの方へ動き出した。女の首に回した腕から震えが伝わってくる。この女には悪いが、協力してもらうぞ。
 ドアをノックさせる。中から「どうした」という声が聞こえてくる。僕は女を捕まえたままドアノブを掴み、ドアを少し開けてから、思いっきり蹴り開けた。編集者らしき男が驚いて立ち上がる。あいつは椅子に座ったまま呑気に片眉毛を吊り上げたりしている。
 「動くな! 両手を見えるように挙げろ!」
 拳銃を二人の方に向けて声を上げる。二人はおとなしく従った。あいつは立ち上がる。拳銃を再び女のこめかみに当てる。
 「君は・・・」
 ほう、出版社の人間は僕のことを覚えているようだ。そうだろう、嘘の記事を雑誌に載せてしまったがために僕の活躍の場が消えたことくらい、自分が一番よく分かっているはずだ。評論家の方は、僕を微塵も覚えていないようだ。つくづくおめでたい奴だ。こんな豪邸にも住みやがって。部屋には高そうなソファーに、装飾の入ったテーブル、ドラマで官僚が使っているような机、金持ちがガウンを着てワイン片手に座るような椅子、見た目だけ派手はオーディオセット・・・僕が路頭に迷っている間、こいつは使用人まで雇って贅沢三昧、という訳か。
 「何が目的なんだ」
 さっきから口を開くのは出版社の男だけだ。あいつは黙ったままだ。目的なんて、この二人を殺すこと以外なにもない。だが、何も知らないまま死んでいくのも腹が立つ。僕があの記事のせいでどんな惨めな思いをしたのかを教えてやってもいいだろう。
 「僕は、半年前日本で初めて演奏会を開いた指揮者だ。お前が書いた嘘の記事のせいで、仕事も、婚約者も友人もみんな居なくなった。あんたが奪ったんだ!」
 憎き評論家を睨み付ける。奴は相変わらず無表情だ。身に覚えがないことを言われて困っているのか? 笑わせるな。そっちは記事を書いて終わりかもしれないが。こっちは人生が破滅したんだ。
 「僕を陥れた、あんたと、出版社のあんたを殺す」
 「待て」評論家野郎が立ち上がる。「こいつは関係ない。あの原稿は他の出版社から出したんだ」
 ようやく口にした言葉がそれか。まず、僕への謝罪じゃないのか! 仲間を庇いやがって。やっぱり、こいつは反省なんてしてなかった・・・殺してやる!
 「だから、こいつと、その子は外に出てもらおう・・・な?」
 自分だけは残る、ということか。そうはいかない。ここに居る奴全員殺してやる。僕を陥れた奴らと、その結果の産物を。
 「嫌だ。全員殺すんだ!」
 「ここに居る者で、悪いのは私だけだ。だから・・・」
 叫んで黙らせる。悪いのは自分だけ? そんな白々しいことがよく言えたものだ。今すぐ殺そう・・・まずは出版社の男に拳銃を向ける・・・撃つ・・・女に戻して・・・撃つ・・・最後が、あいつだ。
 頭の中で描いたことを実行に移す・・・・。

          2

 突然の訪問者はあろうことか拳銃を所持していた。彼がベテラン指揮者に金で頼まれて結果的に酷評してしまった、あの指揮者だ。使用人の女性を人質に取り、部屋に乗り込んできた。
 彼が私と彼女を外に出して欲しいと懇願しても、相手は聞き耳を持たず、弱に逆上したように私に銃口を向けた。
 背後の彼が動いたのはすぐのことだ。私を突き飛ばし、自分は銃を持った相手の方へ突進して行った。相手は撃つつもりだった私が視界から消え、一瞬怯んだのだ。その隙を彼は見逃さなかった。相手は完全に戸惑い、「来るな」と叫ぶだけだった。彼と揉み合いになる。使用人の女性はすぐにその場から離れ、私の方へ走って来た。彼は相手の手首を掴んで拳銃を奪おうとしている。しばらく揉みあった末、銃声が轟いた。弾みで発砲してしまったのだ。彼が苦しそうに顔を歪めている。まさか、当たったのか・・・。しかし、血は流れていなかった。彼はようやく拳銃を奪い取り、こちらに投げて寄越した。私が受け取る。それを彼女に預け、私も一緒になって訪問者を抑え込んだ。
 私たちがそうしている間に、彼女が警察に連絡。訪問者は銃刀法違反の現行犯で逮捕されることになった。警察からの事情聴取から解放されると、外は真っ暗になっていた。仕事場には連絡していたものの、想定外の出来事に編集長も相当困った様子だった。私が今日やる予定だった仕事を、他の同僚に代わりにやってもらうことにもなった。明日は嫌味の嵐になるだろう。
 気になったのは、事情聴取の間にこの部屋の主がいなくなっていたことだ。警察の話だと、病院に運ばれたとのことだった。発砲が一回あったが、彼が怪我をしていないこと確認済みだった。じゃぁ、どうして病院に? 使用人の女性も心配そうにしていた。しかし、今日はもう時間も遅い。私が病院に行くことにして、彼女は帰すことにした。初めは渋っていた彼女も、説得の末納得してくれた。
 「先生のことが分かったら連絡してもらええますか」
 彼女はそういって、連絡先を教えてくれた。戸締りを彼女に任せ、私は外に止めていた車に盛り込んだ。警察から聞いていた病院に急いで向かった。

          3

 帰りはタクシーを使った。いつものように電車で帰れる自信がなかったから。今日は本当に恐ろしい事が起こってしまった。車内であたしは、以前あの女の子にもらったライヴのチケットを握りしめていた。一緒にお昼ご飯を食べた日にもらったのだ。その表情は今でも忘れない。まるで、好きな男の子にラブレターを渡してくれと友達に頼むような雰囲気だった。そりゃ、そうだろう。今まで散々ポップスを批判し続けた、しかもクラシックの評論家にライヴのチケットなんて。
 でも、先生はきっと見に行ってくれると思った。最近気付いたことだが、先生に対するイメージは周りの人が勝手に築き上げたものでしかなかった。先生は、決して全てのポップスが嫌いなわけじゃない。クラシックしか愛さないわけじゃない。周りが、先生をそういう人だと決め付けて、その話題を避けたりしていただけだったんだ。
 先生を自分勝手にそういう人だと決め付けて接していたから、あの家に通うようになって二ヶ月が経つのに、一度も食事をしたことがなかったし、先生のことも何も知らない。知っているフリをしていたんだ。
 今、先生はどうしているだろう。凄く心配だ。
 あたしは自分の耳を触った。
 鉄砲ってあんなに大きな音がするんだ。ビックリした。聞いた瞬間はキーンと耳鳴りがして、耳が聞こえなくなってしまった。今はもう聞こえるようになったが、まだ少し詰まったような感覚がある。
 夜の街はいつも通りだ。様々な音で溢れている。



          4

 ぼくは久し振りに先生の家に来た。
 先日ご提案頂いた、吹奏楽部に出演のオファーをしたら快く引き受けてくれた。大ホールでの演奏会の出演者もおおよそ決まっている。今回は、日本で滅多に演奏会をやらなくなった女性ピアニストが出演してくれることになった。その女性はホールがある町の出身だった。
 このことを先生に伝えた上で、また曲目を考えてもらおうと思ってやって来た。
 今日は事前に訪問することを電話で伝えていたのだが、時間がないとかで電話口で今日の用件を全て伝えてあった。おかしなことに、その電話の相手は有名な音楽雑誌の出版社の人だった。今日の打ち合わせにはその人も参加するらしい。様子が変だなとは思ったが、深くは尋ねないことにした。
 インターフォンを押すと、いつもの女性が出迎えられ、いつもの部屋に通された。
 応接用の椅子には出版社の人だという男の人が座っていた。立ち上がってぼくに名刺をくれた。先生は自分の机の方にいたが、応接用の椅子に腰を下ろした。
 「連絡を頂いて、考えてみました」先生が話し始めた。所々詰まり気味で、話しにくそうだった。「彼女が出演するなら、ショパンで決まりでしょう」
 出版社の人がA4の紙をホッチキス止めしたものをテーブルの上に置いた。用紙には『三十周年記念音楽祭 演目案』と書かれていた。失礼します、と用紙の内容を確認する。
 案①という欄には一部をピアノ演奏だけにして、二部をショパンの『ピアノ協奏曲』の二曲が選択されている。一部の方の曲目は演奏者に任せるということだ。
 案②の欄には、一部にラフマニノフの『パガニーニの主題による変奏曲』、そして『ピアノ協奏曲第二番』。二部はショパンの『ピアノ協奏曲』の二曲。
 案③はオーソドックスな序曲、ピアノ協奏曲(ショパンの第一番)、二部に交響曲という流れだ。
 案①と②は先生らしからぬ選曲だ。これ程のことを頼める自信もないし、演奏者への負担も大きいだろう。それを伝えると・・・。
 「やっぱり駄目か?」先生はわざとらしく、泣きそうな顔で喋った。「だって、滅多に日本で演奏してくれないんだぞ、これくらい聴きたいじゃないか。案③が一番いい、とか思ってるんだろ。嫌だからな。いくらショパンだとしても一曲だけなんて、嫌だからな」
 その喋り方が面白くて笑ってしまいそうになる。
 「じゃぁ、大ホール何かで演奏しなくていい。小ホールで一日中ピアノ・コンサートだ。そうしよう!」
 「実は、先生この演奏家のファンらしい」
 ハイテンションで喋る先生の口を塞ぎながら、出版社の人が言った。すると先生その手を押しのけて「公私混同とか言うなよ」と言い返した。
 「どの案でもいいから、ショパンは必ず加えてくれ! あ、ピアノ・コンチェルトの一番は外せないからな!」
 頼む! 先生は顔の前で手を合わせた。
 その後、広場での公演の話を少しした後、ぼくは失礼することにした。終始、ぼくの質問に答えたりするのは出版社の人だったというのが気になったが、先生も元気そうに喋っていたし、そこまで気にすることでもないかな。
 帰ろうとすると、先生に呼び止められた。
 「今、私の世話をしてくれている彼女だが、オーケストラの制作の仕事がしたいらしい。そのために音楽の勉強がしたいと、私のところに来ていたのだが・・・どうだろう。いろいろ教ええやってくれないか」
 確かに、うちの部は少し人手不足だった。先生が他人のことを気にするなんて珍しいな、と思った。
 「上に相談してみます」と言って、ぼくは部屋を出た。
 使用人の女性は玄関まで見送りに出てくれた。そこで、名刺を渡しておくことにした。すると彼女は凄く喜んでいた。「ありがとうございます!」と大きな声で叫ぶ様子は、まるで女子高生みたいだった。いつもは礼儀正してしているから分からなかったが、この子はもっと子供っぽい性格なのかもしれない。

          5

 朝、彼の家を訪れた。早い時間なので使用人の彼女もまだ来ていない。私は、ポケットから鍵を取り出し、扉を開けた。病院で彼から受け取っていたものだ。
 いつもの部屋に入ると、彼はお気に入りの椅子に腰かけていた。オーディオシステムからはベートーヴェンの『交響曲第二番』が流れている。
 私を見ると、彼は「やぁ」と手を挙げた。その表情はとても寂しそうで、今にも泣きそうな顔をしていた。
 「やっぱり、駄目なのか」
 「駄目だな。しばらく医者には通うがね」
 しばらく間が空いてから彼が言った。私の表情から言葉の内容を読み取ったようだ。喋り方もスムーズではない。
 「心配しないでくれ。医者によると一時的なものである可能性もあるらしい」
 私は何も言えなくなってしまった。病院で聞かされたときから信じられない気持ちで一杯だった。何か言ってやりたかったが、今の彼には届かない。それでも彼は、いつもの様に音楽に耳を傾けている。
 「今日はこの後客が来るんだ」彼は言った。「仕事については、打ち合わせ通りに」
 私は、彼に聞きたいことが沢山あった。長い付き合いなのに、こういう時に何の役にも立てないことが腹立たしかった。本当に・・・申し訳ない。
 彼は立ち上がって隣の部屋へ入った。私も付いていくことにした。彼は沢山ある本棚の内のから一つから、クリップ止めされた原稿を引っ張り出した。かなりの量のように思えた。
 彼は無言でそれを渡してきた。ざっと目を通してみる。この家にもよく出入りしていた、あのヴァイオリニストの演奏についての原稿だった。かなり酷評した内容だ。
 「これが、彼に対する本当の私の評価だ。君の雑誌に載せてもらいたい」
 どうして、という言葉が出て来ない。彼はそんな私の気持ちを察して話してくれた。
 「もう、辞めることにした。音楽を正しく伝えることにした。金でどうこうされることは、もうない。これからは、映画音楽やポップスに対することも原稿にすることにした」
 彼は言った。自分は未熟だったと。自分は、自分が知っている音楽だけで満足してしまっていたと。『音楽』のことをまだ全然理解できていないと自覚しつつも、新しい音楽を拒絶していた。これからは新しい音楽との出会いを楽しみに生きていく。
 「この前、あの女の子のライヴに行ってきたんだ。素晴らしかったよ。音楽のあるべき姿は、あれだな」
 彼は先程とは打って変わって、とても清々しい表情をしていた。
 「ありがとう。君には世話になるな」
 「らしくないことを言うなよ」
 インターフォンが鳴った。彼は気付かない。私が指差すと彼は玄関に向かった。
 使用人の女性がやって来た。私がいることに少し驚いたようだ。彼は部屋に戻り、私と彼女はリビングで向かい合った。
 「どうして連絡くれなかったんですか。心配してたんですから」やはり彼女は怒っていた。「まぁ、先生は元気そうですから良かったですけど」
 でも、先生最近変なんですよ、と彼女は続けた。
 「ボーっとしてるというか、一日中音楽聞いてるっていうか・・・聞いてても寝てるというか・・・」
 今日まで彼女に気付かれていないのは、なかなか凄いことだと思う。これからは私が付き添えるから、まぁ、大丈夫だろう。
 「この前、あの子のライヴに行ったんですよ。あたしは超楽しかったんですけど、先生は案の定、黙り込んじゃって。刺激が強かったかな」
 言って彼女はクスクス笑った。

          〇

 先生の家を訪れると、いつものように使用人の女性が出迎えてくれた。リビングに出版社の人がいて驚いた。二人で仲好くお話し中だったみたいだ。「先生あっちだから」といつもの部屋を指差される。何か、身内の家に来たみたいで心地いい。ノックしてドアを開ける。先生はお気に入りの椅子に腰かけていた。わたしの顔を見ると「やぁ」と手を挙げた。
 「先日はお疲れ様。とても楽しそうにしていたな。まさに、音楽と一体化していた。凄く素晴らしかった」
 先生は物凄く早口で、それでいて所々詰まりながら話した。
 「ありがとうございました」お辞儀をする。「来てくださってたんですね」
 「ステージ上の君たちは輝いていた。音楽を聴くお客さんの表情もだ。君たちの音楽により、あの空間が一体化されていた」
 やっぱり、早口なのに全くスムーズじゃない。話し掛けようとしても、その間を与えてくれなかった。様子が変だな。
でも、先生は褒めてくれている。それが本当に嬉しかった。
 「お、ギターを持っているじゃないか。やはり、こんな機械で聴くより、音楽は生が良い」
 先生は立ち上がって、もともと流れていたクラシック音楽を止めた。忘れもしない、ベートーヴェンの『交響曲第二番』だ。
 そして、「聴かせてくれ」と先生は言った。
 わたしは、自分が一番気に入っているバラードを歌うことにした。ちなみに、ライヴでは歌わなかった。
 心と愛を込めて歌う。いつもの様に、部屋の中が音楽で満たされる。おそらく、隣にいる使用人の女性や出版社の人にも聴こえているだろう。
 先生の表情はいつもより晴れやかだ。
親には結局、ライヴのことは話せなかった。でも、クラシックの素晴らしさは、この家に通う間に改めて思い知らされた。だから、いつか聴いてもらえるように、これからも頑張りたい。家族はまだバラバラで、ハッピーエンドとは言えないけれど・・・。

今、この瞬間、わたしの作った歌を誰かが聴いてくれている。それだけで救われた気がした。

希望のハイリゲンシュタッド

希望のハイリゲンシュタッド

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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