涙の温度

涙の温度


 カーテンの隙間から薄く透明な光が差し込んでいる。閉め切られた窓の動きのない空気の中を、埃が光を受けて緩く舞う。
 物が余り置かれていないガランとしたキッチンのステンレス製のシンクの横にはプラスチック製のコップが置かれ、色違いの歯ブラシが二本、刺さっている。シンクの中には薄汚れたマグカップも二つ、揃いの物ではない。
 長く食卓として使われていないガラステーブルの上にはフォトグラフが数冊とライカのフィルム機とニコンの一眼、レンズは外されたままだ。
 クローゼットのドアの上からカーテンレールに張られた細いロープに、何枚もの写真が洗濯物の様に吊るしてある。煙草を咥えた老人の笑顔、芝生を駆ける大型犬、朝の見せる一瞬に境界線を失って空と溶け合った海、歓楽街の雑踏の夜。取り留めのない写真の向こう、部屋の壁には一枚だけ額に入れられた色褪せた風景写真。
 部屋の隅に置かれた狭いベッドで男と身を寄せあう様にシーツでくるまった女は、しばらく前からその写真を眺めていた。

 高校の時に、二人で授業を抜け出して男が家から持ち出して来た古いキャノンの一眼レフ。男のバイクの後ろに乗って海へ行くはずの二人が辿り着いたのは一体何処だったのか。古い町並みや通りすがりの猫にレンズを向けて夢中でシャッターを切る男を見ていたらそこが何処かなんてどうでも良かった。忍び込んだ廃屋でした口づけは冗談のつもりだった。
 その時に切り取った何でもない風景写真は二人の宝物になった。進学をしないと言った男と交わした約束は、大学を出て東京での就職が決まる前に色褪せた。時間と距離が遠く、想い出から二人を引き離した。

 女は男を起こさない様にベッドから降りると、足元に落ちていたTシャツを着て素足のままキッチンに立ち昨日からそのままのケトルのスイッチを入れ不揃いなカップを洗い出す。しばらくしてシーツの衣摺れの音と、ライターで火をつける音が聞こえると、煙草の匂いに女は振り返る事なく男に声をかける。
「コーヒー淹れるけど」
 一瞬の沈黙の後、「ああ、頼む」男が短く答えた。ドリップペーパーに載せた豆の上から沸いた湯を注ぐと、一杯分でケトルは空になった。
「淹れたばかりだから少し待って」
 そう言って男にコーヒーを運んで渡すと、特に洗う物などないキッチンに戻りもう一度湯を沸かしながら、シンクの掃除をし始める。あの写真が掛かる部屋の何処に居ていいのかが、もう随分と前から、わからなくなっていた。

 上京して二年が経ち、ようやく仕事にも慣れ、この場所で生きていくのだと薄く微かな実感が湧き始めた頃に、駅で男と偶然にすれ違った。男が夢を叶える為に渡った海外から帰って来ていた事も、都内で一人暮らしをしていた事も女は知らなかった。
 足を止め、振り返った女にゆっくりと振り向いて見せた男が、数年振りの邂逅にかけた言葉は、「久しぶり」でも、「元気にしてたか?」でもなく、「あの写真、憶えているか?」だった。女はその場で泣き崩れて見せた。

 お湯はまだ沸いていない。女は綺麗になったシンクの汚れを探してお湯が沸くまでの少しの時間を持て余していた。一体、あの写真の頃と今の私と何が違うのだろう。水道水で冷たくなった指先が行き先を失ったままシンクを行ったり来たりする。
「あのさ」
 背を向けた部屋のベッドから男の声がした。
「何?」女はやはり振り向かない。
「話がある」……厭。言葉には、出来なかった。
「コーヒー、まだ淹れてないから」
 口をついて出たのはいつもと同じ、時間を少し引き延ばすだけの他愛ない答えだった。
 あの頃から何も変わっていない。女はそう気付いて、シンクの上で止まった自分の指先を見つめている。

 壁に掛かる写真が、コンテストに入賞した事で二人の人生はすれ違い始めた。
 写真を撮った日の思い出は色褪せる事なくいつだって鮮明に思い出せた筈だった。帰り道がわからず二人で迷いながら、辿り着いたコンビニでたこ焼きを買って食べた。
 お金がなくて、缶コーヒーは一つを分け合って飲んだ。連絡をせずに遅くなった娘を心配して家の前で帰りを待っていた父親が、家まで送ってくれた男を殴った。家に帰ってから女も殴られ、翌日に学校でお互いの顔の痣を指差しあって笑いあった。男が現像して渡してくれた写真を見たときに、ずっと変わらないと強く信じる事が出来た。
 男が写真家になると言って、高校を卒業すると同時に貯めていたバイトのお金で単身アメリカに渡った。写真を捨てたのはその後のいつだったかは忘れた。引っ越しの時なのか部屋を模様替えした時か、見る事が辛くなり自らしまった事だけは記憶に残っていた。
 その後本当に捨てたのかなくしたのかはわからないが、大切に扱えなくなった事、その事が女には捨てたと同じに思えた。ずっと変わらない。その思いを嘘にしてしまった自分をいつもどこかで責め続けた。
 そうして失くしたものの大切さが胸に空っぽな部分を作り、その部分はいつも女を同じ場所に縛り付けた。いつしか失くした写真の記憶と共に、男との思い出が少しずつ失われて行ったことにだいぶ後から気が付いた。
 偶然の再開を果たした時に男が財布から取り出して見せた皺くちゃな写真は色褪せた記憶を鮮明に取り戻させた。二人が写真の頃の様に戻るのに時間は必要なかった。

「お湯、沸いてるよ」男の声がして女は自分の指にはめられた、男から貰った指輪に気が付いた。寝食も忘れ夢を追い続ける男が、二人で飲んだ帰り道に露店で見かけた指輪を、何の気なしに「可愛い」と言った女の言葉を真に受けて、初めて買ってくれた安いシルバーの指輪。
「……話って……何?」
 部屋へは戻れない、コーヒーをゆっくりと淹れる振りをして答えを待った。
「もう一度、アメリカに行く」
「……そう」女は俯いて指輪を見ている。
「前に話した一緒に仕事してた友達がさ、もう一度戻って来いって。また一緒に仕事しないかって」
「……いつ、帰って来るの?」
 女の背後でまた、男がライターを使う音がした。火をつけた煙草の、一口吸い終わるまでの気配は時間が止まったように長く感じさせる。
「わからない、此処は引き払う」
 男の声に迷いはなかった。
「わかった」そう言って女は、それ以上何も言えなくなって、男に気付かれないようにそっと指輪を外した。ステンレス製のシンクに置いた時に、思った以上に音がして、女の目から涙がこぼれた。

 気持ちは冷めていない。あの頃と何一つ変わってはいない。

 そう自分に言い聞かせても、頬を伝う涙が冷たいシンクに音もなく落ちて行く。
「一緒に来ないか」
 男に言われ、女の目にもう一度涙が溢れた。伝う涙の温度は頬を温めた。

涙の温度

涙の温度

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-23

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