いのち

 きのう、ねむりました。
 ねむったのは、半年ぶりでした。ぼくは、いつも、ねむるときに、呼吸のしかたを、わすれてしまうことをおそれて、ねむることが、できないのでした。たまに、あることですが、息を吸って、吐いていることが、なんだか、ふしぎなことのように思えて、ぼくはいったい、どうやって息を吸って、どうやって息を吐いているのだろうかって、息を吸うときになにを考えていて、息を吐くときになにを想っているのかって、そういうことで頭の中がぐるぐるしはじめると、もう、ねむれなくなるのでした。
 ねむる前の日に、しろくまの親子と、はなしをしました。ニンゲンの年齢で数えると今年三十八歳になるしろくまのおとうさんと、十七歳になったばかりの息子でした。おとうさんの方は、ピンクいろの大きな花がちりばめられた、はでなシャツを着ていまして、息子の方は、なにやらとても、頭のよさそうなめがねをかけて、めがねを、くいっ、と指で持ち上げるしぐさも、とてつもなく頭がよさそうにみえましたが、正直いって、すこし、ばかっぽいとも思いました。二匹はぼくが住んでいるアパートの部屋の、下の階の住人でした。ぼくが二階で、しろくまの親子が一階で、ぼくたちの部屋はアパートの角で、左の部屋にはさいきん、若い女の人が引っ越してきて、その女の人の恋人らしき男はすこしだけ、雄ライオンに似ていますが、ぼくとおなじニンゲンなのでした。
 ぼくは呼吸のしかたについて、しろくまの親子にききました。おふたりも、そういうことありませんか、と。しろくまのおとうさんは、ない、ときっぱり、息子は、そんなことよりもあなたにはもっと頭をつかわなくてはいけないことがあるんではないですか就職活動とか、と、あきれながらサラダ味のおせんべいをぱりぱりたべました。おせんべいのサラダ味、というのも、そういえばなんで、サラダ味なのか。しろくまの親子に、呼吸のしかた、についてたずねた翌日に、ぼくは半年ぶりに睡魔を、むかえたのでした。
 そういえば、ねむれないあいだ、さいきんは、となりの部屋の声や、物音に、聞き耳をたてていた。
 女の人が引っ越してくる前は、空き部屋でした。女の人の恋人の、すこし雄ライオンに似ている男は週に三日、女の人の部屋をたずねてくるようでした。ぼくが大学や、アルバイトでいない時間にも、もしかしたら来ているのかもしれませんが、ぼくが知る限りでは、夜、曜日は決まっていませんが一週間のあいだに三日は、女の人の部屋で、女の人と、逢瀬を重ねているようでした。(逢瀬を重ねる、ということばをつかったのは、しろくまの息子でした。それをきいたしろくまのおとうさんは、ヤってることヤってるだけだろ、と吐き捨てたのが、なんだか印象的でした)
 実際に、ふたりは、ヤっていることをヤっているようでした。ベッドがきしむ音と、女の人の、ちいさな悲鳴のようなそれが、厚くもなく薄くもない壁の向こうから微かに、きこえてきましたから。でも、女の人はときどき、吐息をふくんだ艶かしい声ではなく、なにかこう、恐怖に怯えるような声を、刃物を目の前に突き出され、がたがたと震えながら、刺されるか、刺されないかという瀬戸際を耐えるような、声にならない声を、女の人は発しているので、ぼくは、もしかしたら、すこし雄ライオンに似ているあの男は、すこしでも、似ているのでもなくて、ほんとうに、ほんものの雄ライオンで、ニンゲンの姿は仮の姿なのかもしれないと、想像したのでした。それで、女の人は、雄ライオンに首筋を、噛まれるか、噛まれないかの瀬戸際で、鋭い爪でお腹を、切り裂かれるか、切り裂かれないかの紙一重のところで、息をして、汗を流して、涙も流して、震えて、感じて、生きているのかもしれないと、考えたのでした。となりの部屋で、ころされそうになっている、女の人。しかも、ライオンに。
 ぼくはねむりから、ますます遠ざかり、それでやっと昨夜、半年ぶりに、ねむることができたのでした。
 きのうの夜は、女の人がいませんでしたから。
 恋人の雄ライオンに似た男も、いませんでしたから。
 ついでに下の階のしろくまの親子も、留守のようでしたから。
 だれも、なにも、いませんでしたから。

いのち

いのち

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-22

CC BY-NC-ND
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