さるすべり

さるすべり

               一
 子の刻をだいぶ過ぎたころ、山城屋半左衛門は花街の柳町から、自宅のある飯田町へと帰路についていた。二月の終わり頃ではあるがあたたかな晩であり、また料理屋の藤多津が提灯を貸してくれたため、足もとが暗くて困るようなこともなかった。半左衛門は通いなれた夜道を、提灯で仄かに照らされた足もとを見つめながら、ほとんど顔を上げることもなく、ぶつぶつと恨みごとを呟きながら歩いていた。
 山城屋は半左衛門の代で五代目となる老舗の材木商であり、曾祖父の代からは藩の御用商となった裕福な商家であった。また半左衛門の祖父の代になってからは、回船問屋と手を組むことによって江戸の材木商との取引を可能にし、さらに巨額の財をたくわえるようになっていた。いまは半左衛門の父もすでに隠居しており、半左衛門自身も歳は四十を数え、いまちょうど男盛りの時期をむかえていた。その半左衛門が、
「ちぇっ、吉原ならもう大引けの時刻だよ。こんなことなら文吉を帰すんじゃなかった」そう呟きながら、暗闇の中でしばし立ち止まり、虚空を睨みつけた。酔いもだいぶ醒めてきたし、ついでに分別も戻ってきたため、この時刻に家の者を起こさなければならないことを考えると、しぜんと足取りもだんだんと重くなってきた。
 今日こそはお志乃(しの)をものにするはずだったのだ。この日のために大枚の金を費やしてきた。半左衛門はこれまでにもたくさんの遊女を相手にしてきたが、それにも飽きてしまい、ふと眼にとまったのが藤多津の座敷に出ていた芸妓のお志乃だったのだ。お志乃は中背で、とくにこれといった特徴もない地味な顔立ちの女だったが、ひとたび踊らせると抜群にいい女へと様変わりした。それだけでなく、立ち居振る舞いや身ごなしがとても美しい女だった。そのことに気がつくと、お志乃のことが気にかかってしようがなくなった。藤多津にもお抱えの遊女は幾人かいるが、そんな女はもう目に入らない。上っ調子な女遊びにももう飽いた、きっと自分もああいう女を囲い者にする歳になったのだ、そう思うようになってきた。すると、意外にもお志乃には、たくさんの男が目を付けていることも次第にわかってきた。「他の男に取られる前に、この自分が落としてみせる」その一念で、時間も金もかけて藤多津に通いつめてきた。
 そして今晩、ようやっと願いが叶うはずだったのである。しかし思わぬ邪魔が入り、あげくにお志乃が気分が悪くなったと言い出し、寝屋をともにすることはできなかった。酔っていたせいもあったが、振られたとわかった時にはこちらのほうが本当に気分が悪くなるほど落胆し、しかしそれを気取られるのもしゃくであったために、「明日は朝が早いのを思い出した」などと云いわけをして、ぷいと藤多津を出てきてしまったのだ。
 むろん、お志乃は女郎ではないのだから、客と寝る必要はない。振るのも勝手だ。しかし、こっちの気持ちや立場も少しは考えてくれてもよさそうなものではないか。これでは自分の顔に泥を塗られたも同じだ。今夜は泊まりのつもりであったから、供に連れてきた手代の文吉は早々に家に帰してしまったし、お志乃にも、彼女に目を止めるようになったきっかけの出来事──踊りの途中でお志乃が誤って扇子を取り落としてしまい、それを拾い上げるときに彼女が見せた含羞みの表情にひと目惚れしてしまったこと──まで話してきかせたことなど、思い返すとすべてがしゃくに思えてならなかった。半左衛門は、幅六間ほどの運河にかけられた橋を渡る途中でふたたび立ち止り、大きくため息をついた。橋を渡った対岸の飯田町には、河岸に隣接して山城屋の材木置き場と貯木場があり、その向こうには半左衛門の屋敷がある。いまそちらを見やると真っ暗で、犬一匹歩いている気配がない。いったいどんな顔をして家に帰ればいいのだ。半左衛門はまた大きな嘆息をもらした。
 しかし何度考えてみても、今夜のことはたんにお志乃に振られたというだけではなく、ほかの誰かに意図的に邪魔をされたとしか思われなかった。まさにこれからというときに、ほかの座敷から声が掛かってお志乃は出ていった。あんなにぴったりの間でよそに呼ばれるというのは、こちらの魂胆を知ったうえでのことだとしか考えられない。そして半刻ほど後で、お志乃が青白い顔で戻ってきて、「とつぜん気分が悪くなってしまったので、今夜は休ませてもらえないだろうか」と半左衛門に告げたのだ。しかしいったい誰だろう。お志乃には自分以外にも、商家の旦那衆や侍客なども付いていると聞いている。だが誰であろうと、いまや藩きっての商人である自分をこけにしたのだ。このまま黙っているわけにはいかない。
 橋を渡りきり、目をつむっていても歩ける自分の店の材木置き場のわきを歩いているときに、ふと半左衛門は後ろを振り返った。いましがた自分が渡ってきた橋のたもとの辺りに誰かの人影が見える。そして真っ暗ななかを提灯も持たずにこちらに向かって歩いてきているようだ。その人影は、半左衛門の提灯が自分のほうへ向いたのを見るや、歩を早めて向かってくるように思われた。半左衛門は全身に冷や汗が出るのを感じた。考えるまでもなく、逃げなければいけないのが分かった。思わず何歩か小走りで自宅のほうへ走り、ふたたび振り返ると、その人影はもうぐんと近付いてきていた。途中で履物は脱ぎ捨てたらしく、足音も立てずに足袋裸足でひたひたと非常な早さで駆けてくる。半左衛門は喘ぎながら走り、不安と恐怖のあまりまともに呼吸すらできず、何度も後ろを振り返った。笠を被ったその男は腰に大小を差しているのもわかった。理由はわからないが、侍がこの真夜中に自分のほうへ向かって走ってきているのだ、斬られる、そう思って半左衛門はとにかく必死で自宅のほうへ走って逃げた。
 すぐに山城屋の屋敷の勝手口のあたりが見えてきた。そこで半左衛門がいま一度振り返ると、その人影はもう一間あまりまで間を詰めてきており、右手には抜き身の大刀を手にしていた。そして半左衛門がおのれの屋敷のほうへと向き直るまえに、大きく一歩踏み込んで、構えた大刀をはすに振り下ろした。それまであらく息をしていた半左衛門は斬られた瞬間、「あっ」といって息を大きく吐き出した。さらに、もんどりうつようにして背を向けた半左衛門の左の頸筋を、男は今度は横に払うように斬りつけ、半左衛門は横ざまに倒れ込んだ。
 その男は、このあいだひと言も口をきかなかった。走ってきたためにやや呼吸を乱していたが、右肩のほうを下にしてうつ伏せに倒れた半左衛門を見つめながら、何度か深く息を吸ってすぐに呼吸を整えた。そしてひとつ大きく息を吐き出すと、右足で半左衛門の躯を軽く蹴り、半左衛門がすでに絶息していることを確かめた。男は、それからもしばらくの間、半左衛門の死骸を見つめ続けた。
 やがて、どこか遠くで犬が吠えたのをきっかけにふと我に返ったように周囲を見渡し、ひとっ子ひとりいないことを確かめると、男は懐から懐紙を出して刀に拭いをかけ、もはや半左衛門の死骸には目もくれずに踵を返すと、足早に来た方向へと歩み去っていった。

               二
「菓子はいらないよ、茶だけもらうから、こっちは下げてくれ」
 茶菓を運んできた藤多津の年増の女中に阿部八十朗はそう告げ、茶たくに載った湯呑みだけを盆から取ると、残りを女中に向かって押し戻した。一緒に連れてきた下役の若い同心は不満そうな目で阿部のほうを見たが、彼はそんなことには気付かないというふうに知らんぷりをしていた。
「それでも主人に怒られますから」
 女中はそう言ったが、阿部はくどいことは言うなとばかりに片手を振ってみせたので、女中はそれ以上はなにも言わずに盆を持って部屋を出ていった。
「うまそうな菓子でしたよ」と小声で未練そうに言う同心の鳥居又次郎に、阿部はまたも聞こえなかったふりをして、そっぽを向いて、開け放たれた障子の向こうに見える庭の景色を眺めた。庭では椿が枝に赤い花をつけているのみで、ほかの木々には色はなく、冬木立ちのままの景色であった。ただ、ひと月前と比べれば空気は明らかに暖かく柔らかくなっており、火鉢があればこうして障子を開けていてもさほど寒くは感じられなかった。
 鳥居に言われるまでもなく、切り米取りの若い与力である阿部にとってみれば、藤多津が出した練り菓子はめったに食えぬような代物であったから、包んで家に持って帰ってやれば、妻もたいそう喜ぶだろうなどと、はしたない考えも思わずちらりと脳裏をかすめた。阿部家は親代々の町奉行支配の与力であるが、暮らし向きはけっして楽とはいえなかった。また八十朗は昨年妻を娶ったばかりであったが、妻帯したからといって祿が増えるわけではないので、生活はむしろ厳しくなっている。それゆえに、さきほどのような考えも頭をちらつくのである。
「阿部さんは固すぎますよ。なにも菓子ぐらい食ったっていいじゃないですか。べつにまいないをもらうわけじゃないんですから」
「うるさい、鳥居は今日は書き役で来ているんだろう。喋り役じゃないぞ」と、しつこい鳥居に阿部はそう言い、大きな眼でぎょろりと睨みつけた。そうしてこの話はもうこれで仕舞いだと表情を変え、「もう一度訊くが──」と言って、死んだ山城屋半左衛門について鳥居に尋ねた。
「目明かしの貞吉のいうのには、さほど商売敵もなかったようです。まぁ、山城屋くらいの商人であれば、そうかもしれません。わが藩の材木商の元締めでしたし、ほかの商売には手を出していませんでしたから、殺されるほどの恨みを買うようなことはあまりなかったでしょうね」
「鳥居はあれをただの辻斬りだと思うか」
 鳥居又次郎はしばし考えて、「下手人は、相手が山城屋半左衛門だとわかって斬っていますね。でなけりゃあ、わざわざ当人の屋敷の前で斬らないでしょうし、もし刀の切れ味を試したいだけなら、もっとどうでもいいような奴を斬るでしょう」と言葉を選ぶように慎重に答えた。
「そうだな、おれもそう思う」
「それにもうひとつ、死体の斬り口を見ても、斬った奴はそこいらのならず者じゃあない、浪人かそうでないかはわかりませんが、明らかに侍のしわざです。だとしたら、あれはたんなる辻斬りじゃあなくって、山城屋に恨みを持つ侍が斬ったか、あるいは恨みを持つ奴が誰か浪人者にでも斬らせたか──」
 鳥居はそこまで言うと、阿部の顔をじっと見やった。阿部八十朗は、眼と同じく大きな口をへの字にすると、「勘が冴えているじゃあないか」と言った。
「まじめに言っているんだか、そうでないんだか」
 そう呟いて頭を振る鳥居に、「むろんまじめさ」と阿部は至極まじめな表情で答えた。「ただ、ひとつ付け加えるなら」と、火鉢の上にかざした両手を揉みながら阿部は言った。思い出そうと努力するまでもなく、彼の脳裏には、今朝がた見たばかりの半左衛門の無残な亡きがらが鮮明に焼き付いていた。
「下手人は、山城屋を殺せればそれでよかったんだ。もし激しい恨みでもあったのなら、どうせ本人の屋敷の前で斬ったんだ、首を落として門前にさらすとかなんとかするだろう。あれは斬りっぱなしだったからな。だからちょっと解せないんだ」
「そうですね」と相づちを打って鳥居が腕を組んだところへ、お志乃が「お待たせしてすみませんでした」と言って、座敷へ入ってきた。
 お志乃をひと目見て、阿部はおやっと思った。会うのはもちろん今日が初めてなのだが、初めて会うような心持ちがしない。むかしどこかで会ったことがあるような、そんな印象を受けたのである。お志乃は髪こそ島田に結っていたが、黒襟をかけた綿入れを着た上に縞の羽織をひっかけた姿で、ぱっと見は女中かと見誤るほど目立たない女であった。しかし目鼻の小さな丸い顔は、じっと見ているとむしろとても好ましく感じられ、まるで懐かしい人と久し振りに会ったような感じがした。
 お志乃は裾をはらって阿部の前に座ると、
「山城屋さんのことでいらしたんですね」と自分からこちらの用向きについて切り出してきた。
「そうなんだ、なにしろ、ここからの帰りに誰かに襲われたもんでね。だから、山城屋の旦那と最後に会ったのは、お志乃さん、あんたってことになるんだ」
 そう言って阿部八十朗はお志乃の顔をじっと見つめた。お志乃の表情に表れるどんな小さな変化をも見逃すまいと、彼は特に彼女の眼をまっすぐに見据えた。
「ゆうべ、山城屋の旦那に変わったことはなかったかい」と、阿部が彼女から眼を逸らさずに尋ねると、お志乃はしばし彼の眼を静かに見返したあと、そっと眼を伏せた。それから、やや青ざめた面持ちでふたたび顔を上げ、「どんなふうに殺されたんですか」と訊き返してきた。
「二太刀で斬られたよ。たぶん即死だったろうよ」阿部はそう言い、「おれの質問には答えてはもらえないのかな」と重ねて訊いた。
「変わった様子はなにもありませんでした」と阿部の問いにちいさな声で答えたあと、「ただ──」と言いかけてお志乃は言葉を切った。
「なんだね。なんでもいい、どんな些細なことでもいいから聞かせてくれないか」
「あたしの口からはちょっと言いづらいんですが」そう言って、お志乃は顔を上げて阿部を見た。
「じつは、あたし、しばらく前から山城屋の旦那さんから口説かれていたんです。いえ、べつに、こんな商売ですから、珍しいことじゃありません。ただ、ゆうべはその……」
「旦那は泊りがけのつもりで来ていたんだろう」
 阿部がそう言うと、お志乃ははっと息をのんだ。
「自分は泊まるつもりで手代を先に帰したんだろう、それくらいのことは調べてあるさ。むろん、宿屋でも女郎屋でもないのに客を泊めるのは御法度だ。だが、今日はそんなことの詮議をしに来たんじゃあないから安心してくれ。それより、ゆうべの山城屋半左衛門の様子が聞きたいんだ、先を続けてくれないか」
 お志乃は決心したような面持ちになると、ゆっくりと先を続けた。
「ずいぶんと熱心に通われてましたので、断りきれなくなってしまっていたんです。ですから、ゆうべはあたしも覚悟を決めていたんですが、いざお引けという時に、急に気分が悪くなってしまって──いえ、ほんとうのことなんです。ほんとうに気分が悪くなってしまったものですから、そのまま旦那さんにそうお伝えしたら、無理しなくてもいい、あたしはまた来るからって」
「帰ってしまったんだね」
「はい。ただ、はたから見れば、約束をしたのに旦那さんを振ったことになります。そのあげくにあんなことになって……」そう言いかけてから、お志乃はうつむいて「旦那さんの家の方に申しわけがなくって。とても顔向けができません」と呟くような声で言った。
「もう一度訊くが、おまえさんとの約束はべつとして、そのこと以外で、山城屋の様子に変わった様子はなかったのかね」
「はい」
「わかった、質問を変えよう。ゆうべに限らずだが、山城屋はあんたに、誰かに狙われているとか、あるいは誰かの悪口をしきりに言ったりしたことはなかったかね。よく思い出してくれないか。大事なことなんだ」
 お志乃はまだ青ざめた顔のままで「いいえ、そういうことはなかったと思います。旦那さんはとてもいいお客さんでした。酔って騒ぐようなこともありませんでしたし、酔った勢いで何かを言ったりしたりすることはありませんでしたから」と答えた。
 阿部八十朗はそれまでずうっとお志乃の様子を見守ってきたが、後ろを振り返って、鳥居又次郎に「じゃあ、もうお志乃さんに訊くことはないかな」と言った。二人のやりとりを、黙ったまま下を向いて帳面に書き写していた鳥居は、ふっと顔を上げて阿部の顔を見た。阿部は一拍子だけ鳥居の顔を見てから再びお志乃のほうへ顔を戻して、なにげない調子で「そうだ、ひとつ訊き忘れていたよ」と言った。
「ゆうべ、おまえさんが相手をしていたのは山城屋半左衛門だけだったのかい」
 お志乃はいったん「はい」と答えたあと、すぐに「いいえ」と言い直した。
「遅くになってから座敷に入ったお客さんが一人いました。ただ、あたしはほんのちょっと相手をしただけで、じきに帰られたようです」
「ひとり客かい」
「ええ」
「馴染の客かね」
「馴染というほどではありません。あたしは二度か三度お相手をしたことがあるだけの方ですから」
「名はなんという客だね」
 お志乃は答えるのをやや躊躇した。
「言わなければいけないんでしょうか」
「もし知っているのならね」と阿部は言い、「人がひとり殺されているんだ、おれは関わりのありそうなことをすべて知っておく必要がある」と、お志乃の眼をじっとのぞき込みながら付け加えた。
「山崎さまという名のお侍さまです」
「御家中のひとかね」
「たぶん、そうだと思いますが、詳しいことは知りません。静かに呑んで帰られる方ですし……ご自分のことはほとんど何もおっしゃらない方なんです。もし詳しくお知りになりたいんでしたら、下に行って訊いて下さいまし。あのお客さまは大事にしろよって、いつだったか主人に言われたことがありますから、きっと知っていると思います」
 阿部は「そうか」とだけ短く言った。
「その方になにかご不審でもあるのでしょうか」
「いや、まだわからないがね──山城屋は、自分の屋敷の方を向いて倒れていた。勝手口に向かってこう、手を伸ばしてだ。もし、賊に家の前で待ち伏せられていて斬られたのなら、半左衛門はたぶん反対側を向いて倒れていたはずだ」
 鳥居はなるほどという顔して眼を上げた。
「それに、半左衛門は着物の前をずいぶんと乱した姿で斬られていた。まるで、誰かに追いかけられて必死で走って逃げたみたいにね」
 お志乃はまた息を呑んで、無意識のうちに顔の下半分を両手でおおった。
「走って逃げたあげくに、家の前で斬られて死んだんだ。ということは、半左衛門はゆうべ、どこかから後をつけられていたというふうに考えられる。もっとも、これはおれの推量にすぎないがね」
「では、山城屋の旦那さんは、この藤多津から後をつけられていたと……そういうことですか」
「そんなこともありうるという話だ」
 阿部八十朗はそう言うと立ち上がって、鳥居に「帰るぞ」と声をかけ、お志乃には「また来るからな」と言って、部屋を出た。
 藤多津からの帰り道、鳥居又次郎が阿部に「お志乃は何か知っていると思いますか」と尋ねた。
 阿部は懐手をしながら歩いていたが立ち止って、ぼそっと「どうだかな」と言った。
「おれの見た感じでは、関わりはなさそうに見える。殺しに関わるようなたぐいの女とも思えん。だがお志乃にはちょっとひっかかるものがある。一見地味に見えるが案外客がついているというのも頷ける気がするんだ。何か男を引きつけるものがあるんだな。そこが気になる」
 鳥居は興がなさそうな口ぶりで「そうですか」と言った。阿部は今度は笑顔になって、
「鳥居にはわからないんだろう。なにしろお前はまだ恋をしたことがないからな」とからかうような口調で言った。
 鳥居はあからさまにむっとした表情になり、黙り込んでしまった。
「それはそうと、お志乃のひいき客については調べておいてくれ。山城屋がお志乃にのぼせあがっていたことは事実だし、ひょっとすると色恋沙汰のあげくに殺されたっていうこともありうるからな」
 ふたたび歩き出した阿部に、「山崎慎一郎という名の侍についてもですね」と鳥居は後ろから声をかけた。二人は藤多津を出る前に、店の主人にいくつかのことを尋ねていた。そして、ゆうべお志乃が相手をしたというもう一人の客についても詳しく聞き出していた。店のあるじは、むしろ阿部らがその山崎という名の侍について知らないのを意外そうにしていた。
「そうだ、それにお志乃がひいきにしていた客はすべて、どこの誰だか調べておいてくれ」
 鳥居は阿部の後を追いながら、「さっき阿部さんがお志乃に語った推理は見事でした。たしかに、わたしも阿部さんの言うとおりだと思います」と言った。
「そうか」
「しかし、わたしだって恋のひとつやふたつは知っています」と、鳥居は憮然とした口調で付け加えた。
 阿部はからからと笑い、前を向いたまま「そうか、それはすまなかったな」と愉快そうに応えた。しかし阿部は鳥居とそんなやりとりを交わしながらも、先ほどお志乃に初めて会った時の印象──まるでむかしどこかであったことがあるような印象を受けたことについて、ずうっと考えていた。ほんとうにどこかで会ったことがあるとは考えられないだろうか。どうもそのことが気になって仕方がないのである。
 考え事をしながら歩いていた阿部は、通りに面した油屋の店先で、丁稚が柄杓でまいていた水をあやうくかけられそうになった。「おっと、あぶねえな」と言ってひょいとよけた彼の姿を見て、今度は鳥居がくすくすと笑った。
 しかし阿部はそんなことにも気付かずに、「山崎慎一郎か、そういえばどこかで聞いたことがあるような名前だな」と呟いた。

               三
 数日後のよく晴れた昼さがりに、阿部八十朗は役宅の居室で調べものをしていた。
 いっときあまり根を詰めていくつかの調書とにらめっこをしたあとで、阿部は大きくうしろに反り返って伸びをした。すると、狭い庭に面した障子を開け放しているために、彼の位置からも庭の隅に植えてある木蓮や柘植の木が眼にはいってきた。「もう木蓮のつぼみがあんなに大きくなってきたな」と思い、彼は満開に咲いた白木蓮の姿を心の中で思い描いた。昨年の早春に彼の妻が嫁してきてから、初めてたわわに花をつけたこの木を見たときに、「まあっ」と思わず声を発したほど、小さいながらも見事な枝ぶりの木であった。その妻が、勝手の方で下女となにやら言葉を交わしながら笑い声を上げたりしているのを、阿部はぼんやりと聞いていた。
 鳥居がまとめた調書には、お志乃のひいき客の姓名や、その人物についての覚え書きが細かに書き記されていた。
 町人では殺された山城屋半左衛門のほかに、太物屋の大坂屋清之助、侍客では小普請組の山田巳之助、徒組の槙彦右衛門などの名が記してあった。その他にも数人の客はついているようではあるが、いずれもひいき客というほどでもないということであった。そして事件の当日お志乃が相手をしたもう一人の客の山崎慎一郎は、槙彦右衛門と同じく徒組の侍であった。鳥居が調べたところによると、太物屋の大坂屋清之助は実直な商人で、いかにお志乃に惚れているとはいえ、殺しをたくらむような人物とは考えられず、徒組の槙彦右衛門も小身の出でこれまでに悪い噂など立ったこともないが、小普請組の山田巳之助だけはいろいろと噂のある人物なので、いま身辺を調べている最中とのことであった。
 阿部家は親代々の町方与力であるため、父をふくめた先祖が藩内の多くの家についての調書を残しており、なにか事件が起こるたびに、八十朗はそれらを参照することができた。それによると山田家は代々藩内に知行地をもつ重職の家柄で、巳之助の父主水も現職の家老であり、阿部自身も山田主水の顔を見知っていた。しかしその次男である巳之助はごく若いころから放蕩癖があり、あちらこちらで問題を起こしているようであった。また山崎慎一郎の父数馬は、留守居役の津島隼人の下役であったがすでに他界しており、いまの当主の慎一郎は、その津島隼人の庇護のもとにあるためか、若い藩士の間では出世頭との噂があるようであった。しかし阿部八十朗の父が遺した調書によると、山崎家の跡取りは夭逝しているため、当主の慎一郎はどうやらあとから養子に入ったものらしかった。
「茶をおいれいたしました」と言って、ふいに八十朗の妻のさとが廊下から声をかけてきた。「ありがとう」と言って彼が盆を受け取っても、さとは畳の上にぺたりと座ってすぐに立とうとはせず、熱い茶をすする八十朗の横顔をしばしおっとりとしたまなざしで見つめた。
「どうした」と尋ねる夫に、さとは「明日、城東町の幼なじみのところへ出かけてきてもよろしいでしょうか」と言った。
「借りていた本を返しにゆくのです。長い間お借りして写本をしていたのですが、それがようやっと終わったものですから」
「ああ、ずうっと写していたあれか。いいよ、行ってきなさい」
 それから八十朗は庭の木蓮の木のほうを見やり、「さと、もうすぐ花が咲くね」と言った。
「はい」とさとはそちらを見もせずに笑顔で答え、「あなた、わたしが誰から本を借りていたか、覚えておいでですか。しのぶさんという名のお方なんですけれど」
 八十朗は突然の問いにややうろたえ、「そんな名のひとだったかな」などと曖昧な返事をした。
「覚えていらっしゃらないんでしょう、やっぱり。でも向こうはあなたのことをよく覚えておいでなのよ」
 そう言ってさとはいたずらっぽい笑みを目許に浮かべ、
「当家にも二度ほどいらしているわ。もちろんあなたのいる時に」と言った。
「そうだったかな」と、八十朗は生返事をくり返した。
「男のかたって、どうしてこうなのかしら。妻の友達のことなんか、ちっとも興味がないのね。わたしの父も、母に同じことを言われてました」
 八十朗が閉口して苦笑いをしていると、さとは「しのぶさんのお父上とわたしの父が同僚で、子供のころからわたしたちは往き来をしていたんです。ですからわたしたちは、男の方でいえば、子供のころにいっしょに相撲を取った間がらのようなものなんです。おわかりになりましたか。あなた、このあいだしのぶさんがいらした時に、初めましてなんておっしゃったのよ。もう二度目にお会いになるっていうのに」と言った。
 そう言われて、八十朗は思わず頭のうしろに手をやって、「まいったな」と小さく言った。
「こんど会ったときは初めましてなんておっしゃらないで下さいまし。向こうはあなたのことをよく思っていらっしゃるようなんですから、不公平ですわ」そう念をおして、さとはようやっと腰を上げた。そして部屋を出る前に、思い出したように八十朗を振りかえり、「木蓮が咲くの、楽しみですわね」と言った。
 それから首をややかしげて思案する表情になり、
「ほんとうなら、花が咲いたらお母さまのところへ持っていってあげたいところですけれど……木蓮の花ではそういうわけにもいかないわね」とつけ加えた。
「いいさ、母はこれまで毎年見ているんだ──なんなら、手紙に書いてやれば喜ぶんじゃないか。もし気にかけてくれるのならね」
 さとは再び笑みを浮かべ、「そうですね、そういたします」と答えてから、部屋を出ていった。
 ふたたび独りになった八十朗は、湯呑みを口に持っていきかけて、ふと眉根を寄せて庭のあらぬほうを見つめた。さとの言ったことで、何か引っかかることがあったらしい。なんだろう。経験上、こんなときには重要な何かを連想していることが多かった。彼は妻の言った言葉を思い返しながら、いったいどんな重要なことがらがその中に隠されているのか、言われた言葉を反すうしてみた。しかしさとの言葉をどれだけ入念に思い返してみても、自分が何に引っかかったのか、よくわからなかった。そして隠居して山里で暮らしている父母の姿を思い出し、かるく溜息をもらした。
 さとが八十朗のもとに嫁に来るすこし前から、彼の母親は脚を病んで寝たり起きたりをくり返すようになり、そのせいもあって両親ともに田舎にうつり住むことになったのだった。さとの言葉は、彼の母の病のことを気遣ってのことだった。この正月に八十朗らが両親のもとを訪ねたときには、二人がほんの短い間にあまりに老け込んでいたので、驚いたものだ。とくに父はなりも百姓のようななりをしていたために、よけいに驚いた。正月は必ず裃を着けて家族の者みなに年始の挨拶をしたひとだったのに、今年の様子ではまるで山家の知り合いの家でも訪ねたようだった。
 八十朗は思い出すことはあきらめて、ふたたび鳥居又次郎のつくった調書に向き合った。山田巳之助が悪評のある人物だということは知っているし、また彼の顔も見知っているので、そっちは鳥居にまかせるとして、それ以外の会ったことのない人物──大坂屋清之助、槙彦右衛門、山崎慎一郎の三人は実際に顔を見てやる必要があるな、と考えた。なんとなく、山城屋が殺された原因は、お志乃の周辺にあるような気がしてしょうがなかったからだが、そのためにはやり方を考えなくてならなかった。場合によっては、こっちの動きを気取られないように注意しながら陰から観察するよりも、直接ぶつかったほうが収穫が得られることもあるためだ。だがまずはじめに誰から当たってみるべきだろうか。八十朗は、顔のところが空白になった三人の人物のうち、彼の直感でいちばん気になった人物──まずは徒組の山崎慎一郎に会ってみることを考えた。

 同じ日の夜おそく、藤多津の暖簾をくぐった一人の侍客の姿があった。一重まぶたで顔立ちのすっきりと引き締まった男で、袴は着けずに袷の上に羽織をはおっただけの姿だった。先日阿部八十朗のもとへ茶をはこんだ古株の女中のおもとが「あらっ」と声をかけると、男は刀をはずしながら「上がらせてもらうよ」と言って微笑んだ。黙っていると冷たい印象の顔立ちが、笑うと人好きのする顔へと変化した。おもとが上目遣いに「お志乃さんですよね」と問うと、男は黙ったままうなずいて、「もしも今日座敷がたて込んでいるようなら出直すがね」と言った。
「いいえ、大丈夫ですよ。二階へ上がっていて下さいまし。いま声をかけてまいりますから」
 おもとはそう言って逃げるように帳場へと引っ込んだ。男はそんなおもとの様子には関心のない様子で、ゆっくりと階段を上がっていった。
 半刻ほどのちに、男の入った座敷へとお志乃がやってきた。せんだって阿部の相手をしたときとはうって変って、島田に結った髪にべっ甲の櫛笄や銀の飾りかんざしを挿し、綸子地に藤の花の模様を裾まわりに散らした打ち掛け姿で、いかにも芸妓らしい出で立ちであった。辞儀をして「いらっしゃいまし」というお志乃に向かって、男は手酌で飲んだ酒ですでにやや赤くなった顔で、「もうしばらくはここへも来られなくなるから、いとまごいに来たんだ」と言った。
「お嫁さんをおもらいになるんでしょ」
 殊勝らしい顔でお志乃にそう言われ、男はあきらかに驚いた表情で顔を上げた。
「驚いたな、お志乃さんのところにまで、もう噂が伝わっているのか」
「はい、江戸の津島さまのご息女をおもらいになるっていうお噂ですわ。山崎さまとならお似合いの夫婦だって、山崎さまのことをご存知のかたなら皆そうおっしゃってます」
 お志乃に山崎と呼ばれた男は、少しうつむいて杯の底を見つめた。
「お似合い……か。お志乃さんもそう思うかい」
「わかりません。わたしなどは津島さまの娘さまがどんなお方か存じ上げませんし……でも、いいえ、お似合いだと思います。山崎さまなら、きっと」
「わたしは本来は足軽の家柄だ、だから、正直を言うと、ちと荷が重いんだがね」
 山崎は笑顔をお志乃にむけた。問いかけるような笑顔だった。
「では、お噂はほんとうだったんですね。お受けになるんですか」
 今度はお志乃も笑顔になって、そう山崎に問うた。
「ああ、噂は本当だし、わたしもこの縁談を受けるつもりでいる。断る理由はなにもない」
「そうですか……では、それでわたくしのところへいとまごいにいらしたというわけですね」
 目許に微笑を浮かべてそう言うお志乃に、山崎はかぶりを振った。
「なに、そういうわけじゃないさ。たんに、これから忙しくなるから、しばらくは来られなくなるだろうと思って、それで今日来たんだ。他意はないよ。むしろ、縁談のことなどはこうして訊かれるまで、考えもしなかった」
「そうですか」
 そうゆっくりと言ってから、「どうぞ」とお志乃は酌をした。それからしばらくの間、二人は黙ったままでいた。お志乃がふっと黙ってしまったために、山崎は少しばつの悪そうな様子でいた。そうして杯を口へ運ぶあいまに、何度かちらりとお志乃の顔を見やった。
 やがて、「わたくし、このあいだ恐ろしい話を聞きました」と、お志乃がまじめな表情で山崎にこう切り出した。
「先日、ちょうど山崎さまがお帰りになられたあとに、帰宅途中の山城屋さんの旦那さまが──」
「誰かに斬られたんだろう。その話ならわたしも聞いているよ」
 こともなげにそう言う山崎の顔を、お志乃はまじまじと見つめた。
「わたし、あの晩、酔って山崎さまに言ってしまったでしょ。今夜は山城屋さんと約束があるってこと。それで、山崎さまはこう言って下さいました。もしもそんな気になれないのなら、気分が悪いと言って断ってしまえばいいって。なにも遠慮することはないって。わたし、自分がおしゃべりだったことを本当に後悔したんです。いえ、山崎さまがああ言ってくださったことは感謝しているんですよ。ただ、あんなことを山崎さまに相談するべきじゃなかったと、そう思ったんです。そしたら、そのあとにあんなことになってしまって──」
 山崎慎一郎は、赤くなった目でお志乃をまっすぐに見据えて、「だからといって、お志乃さんが山城屋の旦那にもうしわけなく思うことはないさ」と言った。
「山城屋が誰かに斬られて死んだことと、お志乃さんが山城屋を振ったこととは、無関係な話だ。なにしろ山城屋は手広く商売をやっているからね、商売敵は多藩にもいるくらいだろう。お志乃さんと山城屋の旦那の死とはまったく無関係だ。断言してもいいさ」
「そうでしょうか」
 問いかけるようなまなざしで、上目遣いにおのれを見やるお志乃に、山崎はにっこりと笑ってみせた。
「ああ、お志乃さんはなにも気に病むことはないよ」
 そう言われてからも、しばしのあいだお志乃は山崎の顔を見つめていたが、やがて、やっと肩の力を抜いた様子で、「そう言っていただいて、安心しました」と言った。
 それから山崎は機嫌良く酒を飲み、途中で他の者に三味線を弾かせてお志乃に踊らせもした。また、これまでにないほど饒舌に、となりにお志乃を座らせて江戸の町の様子などを語って聞かせた。山崎が藤多津を出たのは、夜の四ツをとうに過ぎた頃だった。

               四
 三月に入ってからしばらく経ったある日の夕刻、阿部八十朗は池のほとりに建つ茶屋の一室で、そぼ降る雨を眺めながら約束の人がやってくるのを待っていた。雨が穏やかに叩いている池の水面は、ひと月もすれば蓮の葉で覆いつくされるだろうが、いまはまだ柳の若葉が池のほとりに彩りをそえているくらいで、池には他に生命の気配はなく、鉛色の水を静かにたたえているのみであった。さほど広くもない池を横切って、カイツブリが一羽池のはしにある葦原のほうへと泳いでゆくのが見えた。
 鳥居又次郎は目明かしに命じて山田巳之助の身辺を探らせていたが、どうやら空振りに終わったようであった。彼にまつわる悪評自体は根も葉もないものではないらしい。遊女屋にはよく泊まりにいっているようだし、賭場に出入りをしているのも鳥居自身の目で確認してもいた。ただ山田の女ないしは彼が目をつけている女はなにもお志乃だけではないらしく、山城屋が殺された夜も、どうやら別の女のところへ泊まりにいっていたようであった。「たしかなのか」と問う阿部に、鳥居は神妙な顔でうなずいてみせた。
 また鳥居の報告を受けるよりも前に、阿部は鳥居に手引きをさせて山崎慎一郎の顔を陰から確認していた。すたすたと歩いて下城する山崎の横顔を見て、阿部ははっとさせられた。目や口の大きな阿部とちがって、山崎の顔は派手さのない顔立ちではあったが、よく見ると端正に整った顔をしていた。そしてその静かな目もとに、阿部は記憶の底に沈んでいたある少年の姿を重ね合わせた。それから「──なんだ、やつは小沼じゃないか」と呟いた。
 山崎慎一郎はもとの名を小沼栄太郎といい、阿部とは少年時代にともに藩校に通ったなかだった。移り気でせっかちな阿部と違って、小碌な家の子ながら努力家の小沼は、学問でも剣術でもめきめきと頭角を現し、次第に大人たちからも噂される存在になっていった。とにかく何をやっても小沼にはかなわなかった。少年時代の阿部はいつしか小沼栄太郎に対して、負けん気な少年らしい激しい対抗心を燃やすようになっていた。しかし途中から小沼少年に関する記憶は途切れてしまっていて、その後どうなったのかを思い出すのは骨が折れた。阿部が思い出せない部分、わからない部分は町奉行所の資料を当たって調べるほかなかった。
 奉行所の資料によると、山崎慎一郎──小沼栄太郎の本当の父親は、彼がまだ少年だった頃に切腹して死んでいた。阿部はこのことをまったく知らずにいた。おそらく阿部の父は、息子の朋輩の父親が腹を切らされたことを、あえて黙っていたのであろう。奉行所にあった、阿部の父自身がまとめた資料によれば、小沼の父はつまらぬことが原因で同僚から面罵され、かっとなって思わず刀を抜いてその同僚に斬りかかり、死なせてしまったとのことであった。そのつまらぬこととは、小沼の父が徒組の組頭に上げられたとき、祝いの酒席を自らが催すのだが、そのときに用意した酒肴や手みやげ用の菓子折りなどが、慣例となっていた高価なものではなかったと同僚から指摘されたことに始まっていた。小沼の父は、藩公から財政緊縮のためにぜいたくを慎むよう達しがあったことを理由に挙げ、決して自らの吝嗇のためにそうしたのではないと説明したのだが、その後もことあるごとに同僚からそしられ、ある時ついに刀を抜いてしまったようであった。
 このことにより小沼の父は切腹、家禄は召し上げられて、小沼の母は藩内にある尼寺に預けられ、小沼栄太郎とその妹はそれぞれ違う家の養子になったと資料には書かれていた。板敷きの床にぺたりと座り込んで、こよりで綴じられた資料をていねいに繰っている阿部のうしろから、通りかかった鳥居がのぞき込んできたので、阿部は「くだらぬことで腹を切らされたものだ」と言った。
 その後のことは奉行所の資料にもなにも書かれてはいなかったので、小沼栄太郎がどういったいきさつで山崎家の養子に入ったのかなどは知るよしもなかった。ただ阿部が当時のことを思い出すと、小沼はとても目立つ利発な少年だったので、良縁にめぐまれたのだろうと推察するよりほかなかった。
 阿部が小沼のことを思い出したときに、まっさきに脳裏に浮かんだ出来事がある。それは、剣術道場での手合わせで、阿部がどうがんばっても十本中八本は小沼に取られてしまうため、ある日かんしゃくを起こした阿部が道場からの帰り道に、防具なしの草試合を小沼に求めたことに始まる。小沼は冷ややかな目で阿部を見つめ、先生から道場の外での試合は禁止されているからそれはできぬとだけ言った。
「逃げるのか」
 かつてそう言ったことを阿部は鮮明に思い出した。逃げるつもりはない、できないものはできないだけだと言う小沼に阿部はなおも食い下がり、
「ほんとうは防具なしでは怖いんだろう、もし怖くないっていうんなら、竹刀を取れ」と言い、人気のない空き地で、自分はさっさと竹刀を取り出して小沼に向かって青眼に構えた。小沼の白い顔がさらに白くなり、諦めたようにゆっくりと竹刀を取り出してから、彼も阿部に向かって構えた。
 どのように打ち合ったのかは覚えていない。とにかく最後には阿部の面撃ちが決まって、小沼栄太郎はよろけて倒れそうになり、かろうじて踏み止まった。しかし彼の額は大きく割れて、前髪の下から目もとのほうへと血が流れた。そのあと小沼は流れる血を拭きもせず、ものも言わずに身支度をすると、阿部を一人置いて先に帰ってしまった。
 後日、ことが露見してから阿部八十朗は父親にこっぴどく叱られた。
「この馬鹿者め、きさまは勝ちをゆずってもらったことがわからないのか。むこうは防具なしで本気で打ち込んでは危ないと思ったから、あえてお前に打ち込ませて、この馬鹿げた草試合を終わらせたんだぞ」
 そう父にはっきり言われるまで、阿部少年は小沼に勝ったことをひそかに自慢に思っていた。本気の試合では、おれは勝ったんだくらいに思っていたので、父に実際のところを指摘されると、まさに打ちのめされる思いだった。
 もうこいつには敵わない、そう思ってからは、阿部八十朗の小沼に対する対抗心は急速にしぼんでしまった。そしてそれから間もなく、小沼は阿部の前から姿を消してしまったのだった。

 山崎慎一郎は、大刀を右手に持って部屋へはいってき、開口一番に「やはり阿部だったか」と言った。
「なんだ、おれのことを覚えていたのか」と、思わず阿部も答えた。
「町方の同心から、町奉行所の者で貴殿と会って話したい者がいるのでこれこれの場所に行ってほしいと言われたときに、ははあ、これは阿部だなとすぐに気がついたよ。座っていいかね」
 阿部は居ずまいをただして、「どうぞ」と言った。山崎は刀を背後に置き、落ち着いた様子で阿部の正面に座った。
「それでは不意打ちにならなかったわけだ。当てが外れてしまったな」
「阿部が親父さんの跡を継いで町奉行所の与力になったことは知っていたからね。べつに驚きもしなかったが……国許に戻ったとき、いつかは阿部と会って話すときもあるだろうとは思っていたけれども、まさかこうして呼び出されるとは思わなかったな」
 阿部はまじまじと、笑い顔を自分に向けている山崎慎一郎──かつての小沼栄太郎の顔を見つめた。少年時代の頃のほうが潔癖らしい顔をしてたな、というのが第一印象だった。あれから十年以上の年月が経過している。小沼も世間並みに歳を食って、人物が丸くなったということか、と思った。
「山崎さんはどうしてその……山崎家の養子に入ることになったんだ、なにしろほら、突然におれの前から姿を消してしまったから、前後のいきさつをまったく知らないもんでね」
「おれのことはもう調べたんじゃないのか」
 そう言われて阿部は、「まさかね」とだけ言って苦笑してみせた。
「おれの父が──というのは実の父親のことだが──切腹したことは知っているか」
 阿部は黙ってうなずいてみせた。
「そうか、それなら話は早い、山崎の父がおれを拾ってくれたのは、どうやら山崎家は小沼家の遠縁にあたっていたかららしいんだ。父は──今度は山崎の父のことだが、当時跡継ぎを病気で亡くしたばかりだったらしくてね、それで運良くおれは山崎家に拾われたというわけなんだ」
「そうか」
「それから、頼むから山崎さんはやめてくれ、呼び捨てでたくさんだ。子供の時分には一緒に相撲を取った仲じゃないか」
 再び阿部は苦笑をした。今度は心からの笑顔だった。
「どうした、なぜ笑う」
「いやなに、これには笑い話があってね……おれははじめ、迂闊にもそこもとが小沼だとは気がつかなかったんだ。誰かから山崎慎一郎という人物については聞いていたはずなんだが、うっかり忘れてしまっていたんだな。それで先日、藤多津で山崎の名を聞いたとき、どこかで聞いた名だとは思ったんだが──」
「藤多津で、とは、例の山城屋が斬られた件でのことか」
 平然と山崎が訊くので、阿部は少々拍子抜けした気持ちで、あとを続けた。
「そうだ、ところが後日、妻とまったく関係のない話をしていたときに、妻が自分の友達との関係のことを、男なら子供時分に一緒に相撲を取った間がらのようなものだ、と評したんだよ」
「おれがさっき言ったようにか」
「そうだ、おれはそのときになってもまだ、山崎慎一郎が誰なのかは思い出せずにいた。だが、妻のその表現になんとなく引っかかってはいたんだ、そうして山崎が誰なのかは実は喉元まで出かかっていた」
「なるほど」
「そうしたら今日、当人のお前さんがまさに妻と同じ表現をしたものだからね」
「そういうことか」
 山崎は屈託なく笑った。すると、とても魅力的な顔になった。阿部は一瞬、自分が事件の被疑者の一人と会っているということを忘れそうになった。なつかしいな、と阿部は素直に思った。そうか、おれは小沼のこの顔が見たかったんだ、それがついに見られないままに、小沼はおれの前から姿を消してしまったんだ。ちょうど喉に刺さった小骨が取れたような心持ちだな、と阿部は感じていた。
「……山崎はいま、藩内でも一番の出世頭だと噂が立っているそうだな」
 そう言われて、山崎の眼差しが曇った。
「なに、くだらないただの噂話さ」
 山崎は阿部八十朗から目を逸らし、窓の外を眺めた。雨はまだ静かに降り続いていた。
山崎の表情から笑みが跡形もなく消えてしまったので、阿部はなにか意外な発見をしたように感じた。
「しかし若い藩士の間では、もっぱらそういう噂だぞ。藤多津でも、町方のおれが山崎慎一郎のことを知らないので意外そうな顔をされたし、ちかぢか徒組の組頭に上げられるという話も出ているそうじゃないか」
「まだ決まりじゃないさ」
 そう言う山崎の口調は、まるで不当に自分のことを非難されたことに怒っている、というふうであった。
「──ときに、結婚するという話は本当なのか」
「ああ……それはほんとうの話だ」
「相手は留守居の津島さまのご息女だそうだな」
「ああ、最近はどこへ行ってもその話で、少々うんざりしているところでね、もし役目上訊いているんじゃなかったら、その話はやめにしてもらいたいところなんだがな……さっき妻と言っていたが、おれのことより阿部こそ、結婚したんだろう」
「ああ、去年の春にね」
 山崎慎一郎が話題を変えたがっているのは明らかだった。本来ならば、めでたい話なのだから、そこまで嫌がることもないはずなんだがな、と阿部は思った。そして、阿部はくすくすと笑ってみせた。
「女というのは面白いものだ、さっきの相撲を取った間がらという話のように、たまに思わぬところで正鵠を突くようなことを言う。そうは思わないか、山崎」
「──そうだな、不思議ないきものだ、女というのは」
 そう言う山崎の顔を見つめながら、その眼差しの先にいる女は誰だ、津島の娘か、お志乃か、それともほかの女か、と阿部は考えた。途中から山崎の表情ががらりと変ったことにはなにかあるように阿部は感じていた。組頭に上げられる噂について話したときには、こめかみの辺りが僅かにひくひくと引きつったのを、阿部は見逃さなかった。今回の山城屋の殺しの件とはひょっとすると関係ないかもしれないが、山崎の身辺はもう少し探ってみたほうがよさそうだな、と阿部は思った。
 それからも二人は半刻あまり会話をし、窓の外が暗くなってきて、店の女中が行灯に火を入れましょうと言ってきたのを断って、それをしおに腰を上げた。
 部屋を出るとき、池のはしの葦原のなかから、カイツブリがケレケレとけたたましく鳴くのを聞いて、二人はともにそちらのほうを見やった。
「カイツブリだよ。これからきっと巣作りをするんだな」
 阿部がそう言っても、山崎は「そうか」となんの関心もなさそうに答えるのみであった。二人は茶屋を出てから、「また会おう」とお互いに言って別れた。

               五
 六月のある暑い昼下がりに、阿部八十朗は正徳寺の本堂へとつづく長い石段を、左手に持った手ぬぐいで汗を拭きながらのぼっていた。梅雨はまだ明けきってはいないものの、ここ三日ほど晴れて暑い日がつづいていた。
 山城屋殺しの犯人はまだ捕まってはいなかった。というよりも、決定的な証拠がなにも見つかってはおらず、被疑者もしぼり込めないままに、いたずらにただ日数が経ってしまったといったほうが正しかった。阿部は三月の山崎慎一郎との再会ののち、人を使って彼の身辺を探らせていたが、なにも出てはこなかった。山崎はしごく真面目な男であり、上からの評判もとても良かった。状況だけ見れば、将来を嘱望され、すぐ先に藩の有力者の娘との婚礼もひかえ、なにもこの期に及んで一人の芸妓なんぞを誰かと取り合ったあげくに人殺しをする必要などあろうはずもなかった。山崎の同僚のなかには彼のことを悪く言う者もなくはなかったが、それも彼の幸運を妬んでのものといえばそれまでのことだった。山崎を調べたところであまりにも何も出てこないので、さすがに阿部八十朗も自分の見当が違っていたかと思うようになってきた。
 そこへ山崎の母が亡くなったとの知らせが入ってきた。山崎の養父数馬は数年前に他界しているため、慎一郎はこれまで母親と二人で暮らしてきており、息子の婚礼話を母親もとても喜んでいた矢先の死であった。慎一郎のことを本当の我が子のように思い育ててきた母であると、山崎家のことを知る者は口をそろえてそう言った。
 正徳寺は藩内でも屈指の古刹で、歴代藩主の墓こそないが、檀家には藩家の一族や、家老をつとめるような旧家が名を連ねていた。
「そのぶん石段も長いというわけか。これは、上に着く頃には手ぬぐいを絞るほどの汗をかくぞ」
 そうぼやきながら阿部は一段づつゆっくりと上っていった。途中、石段の上にはカエデなどの広葉樹が枝を伸ばしていて、秋になればさぞかし紅葉が美しかろうと思わせた。「秋になれば──」と阿部は想像をめぐらした。カツラの黄やカエデの紅の落ち葉が、このいまいましく長い石段を美しく彩るんだろうな。そして下を向いて石段を上っていた阿部八十朗は、ちょうど石段を上がりきる頃に、紅葉した落ち葉のかわりに紅い花びらが足もとを彩っているのを目に留め、上を仰ぎ見るとそこにはさるすべりの老樹が石段に向かって大きな枝を斜めに伸ばしていた。
「もうさるすべりが咲いているのか」と阿部八十朗は一人で呟き、足もとに落ちている小さな花弁をひとつひょいとつまみ上げた。そしてしばらくそれを指先で玩びながら本堂へとつづく砂利の上を歩いていった。
 正徳寺の本堂は応永年間の創建ということだから、建ってから四百年ちかくも経っていることになる。正面に大きな破風をもった伽藍は、こういうことにあまり興味のない実際家の阿部の目から見ても立派なものに見えた。少なくとも阿部家代々の墓のある小さな寺よりはよほど格式のある由緒正しい寺のように思われた。
 葬式の喪主はとうぜん山崎慎一郎が勤めていたが、ずらりと居並んだ山崎家の親族のなかで、ときおり目を閉じてしんと静かにしている慎一郎は、阿部の眼から見てもすこし浮いた存在として見えた。跡取りとして養子にはいり、まだ若くて役もつかないうちに両親をともに失ってしまったわけだから、彼の感じているであろう疎外感と周囲からの重圧は、阿部にも容易に想像がついた。山崎の背後に座っている親族の者たちは、まるでそのまま慎一郎の両肩に乗った重しのように見えた。「さぞ辛いことだろうな」と、思わず阿部も同情する光景だった。
 これで山崎慎一郎は本当の両親のみならず、育ての親もふた親ともに失ってしまったことになる。尼寺に入った彼の本当の母親も、夫の死の一年ほどのちに後を追うように亡くなっているはずだから、彼はこれでほんとうに独りぼっちになってしまったわけだな、と阿部は僧侶たちの読経を聞きながら考えた。そこまで考えをめぐらした時、阿部は「いやまてよ──」と心の中で呟いた。山崎には子供のころに生き別れた妹がいたはずだった。奉行所の資料によれば彼の妹のしづは江戸の商家へ養子に入ったことになっていた。どんな妹だったか──阿部が記憶をたどろうとすると、当時八つか九つだったはずの小沼しづの面影は、いつしか別の大人の女の顔へとすり替わってしまった。
「そうか──」と、おもわず阿部八十朗は声を上げそうになった。
 藤多津のお志乃は、小沼しづに似ているのだ。初めてお志乃に会ったときに、すでに会ったことのある人のような印象を持ったのも、きっとそのせいだったのだろう。阿部や山崎慎一郎が歳を取ったのと同じように、しづがそのまま歳を取れば、お志乃のような顔立ちになっているのに違いない。そう阿部には思われた。山崎とお志乃の関係が、これでかなりわかった気がした。山崎はこのことに気付いているのだろうか。気付いていないとも考えられた。気付いていないがゆえに、彼はお志乃にひかれているのではないだろうか。山崎と妹が生き別れてから、会う機会をまったく持たなかったのかどうかはわからない。山崎家は江戸と国許とを行ったり来たりする職に就いていたから、会おうと思えば会えたに相違ないが、実際のところどうだったのかはわからなかった。
 阿部はおよそ葬式というものが苦手であったが、この発見をしたことで、わざわざ長い石段を上って葬式に来たかいがあったというものだ、と思った。

               六
 山崎の母の葬儀から半月ほどたったある日の昼過ぎ、阿部八十朗はふたたび一人で藤多津を訪れた。「いらっしゃいまし」と言いながら帳場から姿をあらわした女中のおもとは、阿部の顔を見ると思わず「またか」という顔をした。
「やあ、またちょっと上がらせてもらうよ」
 笑顔でそう言う阿部に、おもとは「お志乃さんなら今日は気分がすぐれないとかで床をとってますよ」と言った。阿部は一瞬眉根を寄せておもとの顔を見つめたのち、「まずはおもとさんに話を聞きたいんだが、いいかね」と言った。
「ようございますが、──じゃあちょっと帳場に断わってきますから」
 そう言って帳場へ戻ろうとするおもとを阿部は引き止めて、「すぐに済むから一緒に来てくれないか」と、おもとを急き立てるようにして二階へと階段を上がっていった。
「どこでもいいから開いている部屋へ入ってくれ」
 おもとは不審そうな顔で阿部を振り返り、それでも小さめな部屋をひとつ選んで、先に立って襖を開けて中へと入った。阿部はおもとを座らせてから自分もその前へ座り、「二三訊かせてくれ」と言った。
「このところお志乃の様子に変わったところはなかったかね」
「……薮から棒にそう言われても」
 おもとは本当に困惑した様子で阿部の目を見返した。
「具合が悪いのはいつからだ」
「ゆうべからだと思います」
 阿部はおもとの表情を油断なく観察していたが、何も隠している様子もないと判断すると、「最近、お志乃のところへ山田巳之助が来はしなかったかね」と尋ねた。
「山田さまというと、老職の山田主水さまの御次男のことですか」
「そうだ、来たかね」
 阿部にそう問われておもとは思い出す表情になり、「──二度ばかし続けていらしたように思います」と答えた。
「ここひと月うちのことか」
「ええ、そうだと思います」
「泊まっていったかね」
「……いいえ、たぶん、そういうことはなかったと思いますが」
「そうか」と言って阿部はしばし黙っていたが、「──山崎慎一郎はどうだ、山崎は最近ここへは来なかったかね」と尋ねた。
 おもとはふたたび思い出す表情になり、「……いいえ、山崎さまはここしばらくはお見えになってません」と答えた。
「たしかか」
「たしかです。もし来ていればあたし覚えてますから」とおもとははっきりと言った。
「そうか。じゃあお志乃をここへ連れてきてくれないか」
「さっきも申し上げましたが、具合が悪くて寝ているんですが……」
「どうでも連れてきてくれ。大事な話があるんだから」
 そう言う阿部の表情に気圧されて、おもとは「はい」と言って立ち上がった。それから「お志乃ちゃんはまだ寝間着姿だと思いますから、着替えるのに少し時間をいただけますか」と阿部に問うた。
「構わないが、なるべく急がせてくれ」
 おもとは、「こういう男はどうして女が支度するのが待てないんだろう」という顔になりながらも、口では「いまお茶だけお持ちしますから」とだけ言って部屋を出ていった。阿部はおもとの後ろ姿を見やりながら、「さぞかしお茶だけ持ってくるんだろうよ」と呟いた。
 約半刻ほどのちに、お志乃は赤地の小花柄の襲の上に無地の単衣を着て姿をあらわした。髪は簡単に結っただけであるし、顔色はまっ白でたしかに気分がすぐれない様子であった。
「気分が悪いというのに無理を言ってすまなかったね。しかしとても大事な話があったもんだから」
 そう言う阿部に、お志乃は「いいえ、大丈夫です」と答えて、力なく笑ってみせた。
「さっきおもとさんにいろいろ尋ねたんだがね──」
 そう前置きして、阿部はお志乃に、さきほどおもとにしたのとほぼ同じ内容の質問をしてみた。しかしお志乃の答えはおもとのものと同じものであった。ただ、ときおり伏し目がちになるお志乃の青白い顔を見つめながら、阿部八十朗は、お志乃はうそはついてはいないものの、何か黙っていることがあるのを確信した。
「山崎慎一郎はほんとうに来ていないんだね。もしあんたがうそをついていたり、隠し事をしていたことがわかったら、奉行所に来てもらうことになるんだがね」
 表情を変えずに低い声でそう言う阿部を、お志乃はすこし恐怖のまざった眼差しで見返した。
「……ほんとうに山崎さまはここしばらくいらしていないんです。ただ……」
「──ただ、なんだね」
「以前に阿部さまがここへ来てから、四五日あとですから二月の終わりころでしょうか、山崎さまがあれから一度だけここへ来ているんです」
「ほう」
「その時にはあたしに向かって、いとまごいにきたんだ、なんておっしゃってました」
「──それで、ほかにどんな話をしたんだね」
 阿部がそう尋ねても、お志乃は言いづらそうにもじもじしているので、阿部は「お志乃さん、話したくなくっても、あんたには必ず答えてもらうことになるよ」と言った。阿部のその口調に何かを感じ取ったのだろう、お志乃は目を大きく見開いて阿部を見つめ、「なにかあったんですか」と尋ねた。
「山田巳之助がゆうべ殺されたんだよ」と言って、自分の言葉の効果を確かめるように阿部八十朗はお志乃の目をまっすぐにのぞき込んだ。

 同じ日の早朝、阿部八十朗のもとに奉行所から使いの者がやって来て、小普請組の山田巳之助が斬られて死んだらしいのですぐに来てほしいと伝えていったのであった。阿部が急いで身支度を整えて現場へ駆けつけると、すでに鳥居又次郎が来て検分をしていた。
 鳥居は阿部の顔を見るなり、すぐに「やられました」と口惜しげに言った。
「この先に山田がよく出入りをしていた賭場があるんですが、どうやらその帰りにやられたようです」
「遺体は山田巳之助にまちがいはないのか」
「もう確認済みです」
 鳥居と並んで遺体の脇にしゃがみ込んで話していると、血の匂いが立ちのぼってくるのがわかった。阿部は顔をしかめて立ち上がり、「抜き合わせたあとがあるな」と言った。山田の遺体の脇には当人のものと思しき大刀が転がっていた。家老の息子でもなければ差せないような、ぜいたくな拵えの差料だった。
「しかしまったく刃こぼれもしてませんし──」と鳥居が答えた。「刃もまったく汚れてませんから、抜くには抜いたけれども勝負にはならなかったようです」
「ずいぶん出血が多いようだが、致命傷はなんだ」
「見てください」
 そう言って鳥居が被せてあったこもを剥ぐと、顔を横に向けて倒れている遺体の喉元がざっくりと抉られていた。
「ひと突きか──どうやらほかに斬られた跡はないようだな」
 鳥居は黙って頷いたあと、声をひそめて「知らせをやりましたから、もうじき山田家のひとも来るはずです」と言った。
「そうするとこれはひと騒動だな……しかしそれにしてもすごい形相だな、こもを被せてやってくれないか」
 阿部八十朗はそう言って周囲を眺めまわした。もう日の出まで間もない時刻であり、町なかでのことなので人も多くなってきていた。巳之助の父親は現職の家老なので、手を焼いていた放蕩息子のこととはいえ、何者かに殺されたということになると、阿部らの上役をも巻き込んでひと悶着あることが容易に想像がついた。
「山城屋殺しと同じ奴でしょうか」
「まだわからん……このところの山田の動きは押さえてあったのか」
 鳥居又次郎は顔をしかめて首を振り、「山城屋の一件からはだいぶ間があいていますし、それに山田は被疑者からは外れていましたから」と、いかにも口惜しそうに言った。
「じゃあそこから始めないといけないな」
 阿部は山田巳之助の遺体をじっと凝視しながら、慎重な口ぶりでそう言った。
 阿部八十朗が想像したとおり、二人が検分を済ませて奉行所へゆくと、町奉行の蒔田健吾がすでに出仕していて、阿部らが戻ってくるのを待ちかまえていた。そうして山城屋殺しの件との関連などを問いただした。阿部があいまいな返答を始めると、蒔田は首を振ってみせて阿部の話をさえぎり、とにかくはやく犯人を挙げること、そのこと以外に自分が言うことはない、と低い声で強く言った。
 あとでいっしょに控え所で朝飯を食いながら、鳥居は「蒔田どのは朝すでに山田主水どのと会われたようですね」と阿部に向かって小さな声で言った。蒔田は裃姿であったし、さきほどは強い口調で阿部をきめつけたが、その口調も常ならぬ厳しいものであったために、鳥居の言うとおり、蒔田は朝すでに家老の山田主水と面談をしており、かつ山田から圧力を受けていることは阿部の目にも明らかであった。さきほどは巳之助の遺体も山田家の家来が強引にさっさと引き取っていった。
 茶漬けを食い終わってから阿部はこれからの予定について、まずは山田巳之助のここ十日ばかりの足取りを追ってみてくれるよう鳥居に話をした。それで何も出てこなかったら、さらにひと月さかのぼって調べてみるようにとも言った。
「おそらく、普段とは違う行動を取っている日があると思うんだ。ことに、そこに藤多津のお志乃がからんでいないかどうかを、注意して調べてくれないか」
「やはり、阿部さんはこの件もお志乃がらみだと思いますか」
 阿部は「む」とひとこと言ったきりしばらく黙っていたが、やがて「はっきりしたことは言えないが──」とあとを続けた。
「おそらく少なからずはお志乃が関係していると思う。たとえ、お志乃が直接殺しとは無関係だとしてもだ」
 まだ茶漬けをかき込んでいた鳥居が箸を止め、ぽかんとした顔で阿部の顔を見つめた。
「お志乃の知らないところで、お志乃を取り合いになっているということだってありうるだろう、おれの言っているのはそんなような意味だ。鳥居が山田の動きを追っている間に、おれは藤多津に行って、直接お志乃に当たってみるとしよう」
 山田巳之助とお志乃との間には、ごく最近なにかがあったに違いない、だから山城屋のように殺されたのだ、阿部はそのことに確信を抱いていた。彼の直感があまりにはっきりとそう告げているために、むしろ阿部は強いて慎重にことを進めようと考えていた。結論がさきに出てしまっているときこそ、ほかの可能性を丹念に調べていかなければ、そう阿部は思った。しかしそう時間をかけているわけにもいかない。すぐに次の誰かが殺されないともかぎらないのだから。
「おい、はやく飯を片付けろ、お前食うのが遅いぞ」
 そう言って立ち上がった阿部は、「あとで藤多津で落ち合おう」と付け加えてから控え所を一人で出ていった。

「山田……巳之助さんが殺されたんですか」
 そう言ったきりお志乃はしばし絶句した。そして彼女の目の奥で、すぐに何かの考えのようなものが閃き、目まぐるしく想像を巡らしていることが阿部には手に取るようにわかった。
「そうだ。で、もう一度訊くが、そのとき山崎慎一郎とはほかにどんな話をしたんだ」
 お志乃は阿部から目を逸らし、あきらかにうろたえた様子で、眉根を寄せて必死で考えをまとめる様子を見せた。お志乃の中では複数の考えがせめぎ合っていて、そのどちらかに絞って思考をまとめることができない様子だった。
「あたしが覚えているのは、山崎さんに縁談の話があって、それを受けるつもりだと言っていたことと、あたしまでが縁談の相手を知っていたことに山崎さんが驚いていたことです……あとは山崎さんは機嫌が良さそうに飲んでいって、江戸のことをいろいろと話して──」
 しかし阿部は途中でお志乃の話をさえぎり、「もっと大事な話をしたんじゃないのか」と強い口調でお志乃に詰め寄った。
「山田巳之助はするどい突きの一手で殺されていた。二月の山城屋の件にしろ、どっちもお志乃さん、あんたの得意客が無惨に殺されているんだよ。この二つの殺しにあんたが無関係だと考えるほうが無理なんじゃないかい、そうは思わないか」
 見るとお志乃は額にあぶら汗をかいていて、口許を押さえながら、「ちょっと──」と言って小走りで部屋を出ていった。
 阿部八十朗はその後ろ姿を目で追いながら、「吐きに行ったか──考える時間を与えてしまったな」と呟いた。
 しかしすぐにお志乃は阿部のところへ帰ってきて、蒼白ながらもしっかりとした顔つきで、「真っすぐに座っていられないんですが足を崩してもよろしいですか」と尋ねた。そして阿部が「いいよ」と答えると、お志乃はすぐに話し始めた。
 お志乃は阿部に、山城屋が殺された晩、そんなに好きでもない客に言い寄られていて困っていることなどを山崎に相談してしまったこと、そうしたらその晩に山城屋半左衛門が何者かに殺され、しかもそれが山崎慎一郎が帰ったあとの出来事であったかもしれないため、お志乃自身も山崎のことを疑って考えたことなどを語った。
「一度はあたしも疑って考えたんですが、でもまさか山崎さまがそんな無法なことをなさるなんて、どうしても信じられなかったんです」
「誰が殺しをやったかやらなかったか、それを考えるのはあんたの仕事じゃない、それはおれ達町方の仕事だ」
 そう言ってから阿部はこめかみを右手の指先で押す仕草をして、「──しかしわからないな、そもそもあんたと山崎慎一郎とは、ぜんたいどんな関係なんだ」と言った。
「……べつに、どんな関係でもありません」
「あんたの得意客だったんだろう」
「ほんとうにそうなんです。そりゃたしかに好ましい方だとは思っていますし、とても大事ないいお客さんなんですけど……でも、ただそれだけなんです」
「男と女の関係じゃあなかったと言うのか」
「はい」と、お志乃は真面目な顔で答えた。「男と女だなんて──違います、あたしはむしろ、初めて会ったときから山崎さまのことは、まるで実の兄のような人だって」
 そう聞いて、阿部八十朗は少なからず驚いた。すると、ことによると山崎とお志乃は双方ともに相手のことを兄妹のように思っていたかもしれないことになる。それなのに殺しにまで発展した、そんなことがあるのだろうか。
「ちょっと待ってくれ。じゃあ、山田巳之助とあんたはどんな関係だったんだ」
 山崎がお志乃のことをどんなふうに思っていたにせよ、もし今回の二件の殺しの犯人がともに山崎だったのだとすれば、ちょうど山城屋の時がそうであったように、山田とお志乃との間にも、やはりごく最近何かあったと考えるほうが自然だ。
「山田巳之助はここ最近続けてここへ来たそうだが、ただ飲みに来ただけじゃなかったんだろう。あんたと山田との間にも最近何かあったんじゃないのか、ええ」
 そう阿部に訊かれて、お志乃は長いあいだ下を向いて黙り込んでいた。見ると、ぺたんと座り込んだお志乃はもはや疲れきったという顔をしており、初めて会ったときの好ましい印象は消え去り、まるで阿部よりも年上の、生活に疲れた中年増の女のように見えた。ざっと結っただけの髪の左右の鬢から、ほつれ髪が幾筋かはらりと下へ落ちていて、こんな商売をしている女の辛さはかなさがあからさまに表れているように感じられた。
「……巳之助さんとは、愛宕山へ行きました」
 突然に、お志乃はぽつんとそう言った。
「続けてここへお見えになって、口説かれたときに、嫌とは言えなかったんです」
 そう言ってから、再びお志乃は黙り込んでしまった。愛宕山へ行くとは、この城下に住む者たちがよく使う表現で、温泉宿へ泊まりに行くという意味なのである。藩の北方に、愛宕神社をふもとに抱える山があり、この山を地元の者たちは俗に愛宕山と呼んでいる。そしてこの山の中ほどの渓流沿いに温泉宿が三軒あり、そこへよく恋人同士や芸者とその連れなどが忍びで泊まりに行くのである。しかし温泉の俗名や宿の名をそのまま言うのは野暮なので皆、たんに「愛宕山へ行く」という表現を使うのだ。
「しかし、山崎は三月以来ここへは来ていないと言ったな。巳之助とあんたが愛宕山へ行ったのを、山崎は知っていただろうか。それともあんたが山崎にもらしたのか」
 お志乃はすぐに顔を上げて「いいえ」とかぶりを振った。「巳之助さんと泊まりに行ったことはごく身内の人にしか話してませんし……山崎さんがこのことを知ったかどうかは、あたしにはまったくわかりません」
「──わかった。とにかく、あんたと山田が外泊した日を教えてもらおうか」
 阿部八十朗はお志乃から必要なことを聞き出すと、「じゃあ、ご苦労だったな」と言って部屋を出ようとした。するとお志乃はふいにすがるような目を阿部の背中に向け、
「あの、今回のことは、山崎さまが犯人なのでしょうか。阿部さんはどう思ってらっしゃるんですか」と問うた。
「誰が犯人かは、まだわからんよ──しかし、おれも三人目の死体は見たくないんでね」そう言って阿部は振り返った。「あんただってそうだろう」
「……もし、山崎さまがまたここへ来るようなことがあったら、お知らせしたほうがいいのでしょうか」
「その必要はないだろうな」
 阿部はそうゆっくりと言うと部屋を出た。
 藤多津の玄関で、阿部はいま草履をぬいだばかりの鳥居又次郎と会った。鳥居が目顔で何か収穫はあったかと訊いてきたので、阿部は階段を下りながら、黙って頷いてみせてから、「これから愛宕山へ行くぞ」と言った。

               七
 阿部八十朗は役宅の居室の文机を前にして日記を書いていた。日記というよりも覚書きといったほうがいいのだろうか、内容は仕事に関連したことと私的なことの両方を、べつだん分けへだてなく書いていたし、誰に見せるつもりで書いているものでもなく、自らが考えをまとめるために書いているようなものだった。今日は昼から出仕すればよいので、午前のうちに昨日までの出来事をまとめて書いておきたかった。
 六月に山田巳之助が殺された日から、山崎慎一郎の行動には常に見張りが付けてあり、山崎の周辺で起こった変化は逐一阿部のもとへと報告されていて、阿部はそれを自宅の日記にも書き記していた。そして黙ってずっと筆を動かしていた阿部はその手をふと止めて、庭のほうを見やった。正午にはまだ一刻ほども間があるというのに、開け放した障子の外からはあるかなしかの微風が僅かに吹いてくるばかりで、座っていてもじっとりと汗が出るのが感じられた。七月に入ってまだ間もない日の午前であるが、阿部の役宅の狭い庭ではこの時期には咲く花もなく、外を見やっても気持ちが涼しく感じられるようなものは何もなかった。するとぼんやりと外を眺めていた阿部の眼前に、まるで本当にそこに存在しているかのように、目深にかぶった網笠の中から思いつめた眼差しをこちらに投げかけている一人の侍姿の幻影が、はっきりと浮かんできた。

 暑い昼下がりの田舎道を、阿部八十朗と鳥居又次郎の二人は、腰にぶら下げた手拭いで時おり汗を拭いながら歩いていた。歩きながら阿部は、お志乃から聞き出したことをすでに鳥居に語り終えていた。
「それで、鳥居のほうはどうだったんだ。山田のことで何か目新しい話はあるのか」
「いいえ、──ただ、山田巳之助はお志乃とのことはべつに隠してはいなかったようで、とくに例の愛宕山へ行った日の前後には、幾人かに吹聴していたようです」
「たとえば、誰だ」
 鳥居は山のふもとの愛宕神社の鳥居の前を通りすぎる時に、立ち止って黙礼をして、再び歩き出した。ごく自然に行なわれた行為だったが、それを阿部八十朗はまるで珍しいものでも見るように眼を細めて見た。
「律儀な男だな」
 鳥居又次郎は阿部の方を見て、「なんですか」と尋ねたが、阿部は頭を振って、「いや、なんでもない」と断わってから、さきほどの問いの答をうながした。
「──山田がよく顔を出していた居酒屋があるんですが、そこでの飲み仲間には自慢げに話していたそうです」
「そうか、ならもし山崎慎一郎の耳に入っていたとしても不思議はないわけだ」
「そういうことになりますね」
 お志乃と山田巳之助が泊まった仲田屋という宿の女中は、はじめ山田らのことを尋ねられると「さあ」と言ってしらばっくれたが、こちらが町方の者だと分かると急に態度を変え、「またですか」と言った。
「また、とはどういうことだ」
 そう鳥居が訊くと、「だって、今日で二度目ですから。いったい何があったんですか」と、右目の下に黒子のある、はしっこそうな顔をしたまだ若いその女中は不審そうな眼で阿部らを見た。阿部と鳥居は思わず顔を見交わした。
「二度目なわけがあるもんか、ふざけたことを──」と鳥居が言いかけたところを阿部が制し、「初めに来たのはどんな男だ、そいつは一人で来たんじゃないか」と、女中に尋ねた。
「町方を名乗って初めに来た奴はどんな奴だったのか、顔や背格好、着ていた物、覚えていることならなんでもいい、全部話してくれ」
「じゃあ以前に来た人は町方の人じゃなかったってことですか」
「そうだ、そいつはどんな奴だった、ここでどんなことを喋っていった」
 女中は眉をひそめてから、まるで内証の話をするように声を低めて言った。
「……わたしおかしいと思ったんです。役人だというのに網笠なんか被って、ばかに陰気な顔をしてましたし。でもきちんとした身なりのお侍から町方の与力だと言われれば、そう信じちゃうじゃありませんか。まあ、そちらさまも腰に手拭いなんかぶら下げてますから、見ようによっちゃあ怪しいもんですけれど」
 阿部八十朗は苦笑しながら、「悪いが急いでいるんだ、おれの質問に答えてくれ」と言った。
「なんでも凶状持ちを捜してるんだっていうことでした。口の端の、この右のところにあざのある男で、芸者風の女を連れて泊まりにきたはずだって言ってました。わたし答えられませんって言ったんですけど、町方の人だっていうんでつい答えちゃったんです。だって、その人が来たのは、まさにそんな風な二人連れが泊まりにきた二日後くらいの出来事でしたから」
 鳥居が阿部の耳元で、「たしかに山田には口の端にあざがあるんです」と囁いた。
 阿部は頷いてから、女中に町方と名乗った男の服装や体格などの詳しい特徴を尋ねた。すると女中の返答は、山崎慎一郎の特徴とぴったり合うように思われた。しかしもともと山崎はこれといって目立った特徴のないような男だったため、厳密に考えるとその男を山崎と断定するのは難しかった。
「……そういえば変な人でしたよ。だって、捜していたのは男のほうだったはずなのに、女と泊まっていったかどうかをずいぶん気にしてましたし、その芸者風の女の特徴もわたしにしつこく訊いてきましたから」
 それを聞いて、阿部らはふたたび顔を見合わせた。
「町方が犯人について聞き込みに来たっていうよりも、まるで女房の浮気を確かめにきた男みたいでした──いえね、そんな男や女がたまに来るんですよ、ここには」
 阿部は宿の玄関口へと振り返り、やや逆光気味となる戸口のところに立った、侍姿の男を想像してみた。すると、その男の顔はまさしく、真剣で思いつめた眼をした山崎慎一郎その人のものとなった。あまりにもありありと想像出来たため、阿部自身びっくりするほどだった。
「それで、けっきょく、その二人連れはなんだったんですか」
 女中がそう尋ねても阿部は答えず、礼を言ってからその場を辞した。
 帰りの坂道を歩きながら、阿部はうつむき加減でむっつりと黙り込んだまま、しばらくは口をきかなかった。しかし道がふもとに差しかかり、愛宕神社の鳥居が見えてくる頃になると、阿部は顔を上げて前を見つめた。陽は西に傾いてきていて、小石混じりのよく踏み固められた道の端では、むくげの花が斜め上からの光を浴びて、きれいに咲いていた。
「今回の犯人が誰であれ、そいつは、たとえば芸妓の仕事から落籍せるとかしてまでは、お志乃を手に入れるつもりはないようだな」
 阿部の話し方は、語りかけているのか独り言なのかよく分からないようなものだったが、鳥居は「はい」と答えた。
「それなのに、誰かほかの奴がお志乃を手に入れるのだけは我慢ができないらしい──ところで、鳥居には妹はいるか」
 そう言って阿部は隣を歩いている鳥居又次郎へと振り向いた。
「いいえ、兄と弟がいるだけで、妹はいません」
「そうか……今回の犯人のお志乃に対する感情は、まるで妹に対する歪んだ愛情のように思えるんだがな」
 そう言って阿部は言葉を切った。
「おれには嫁に行った姉がいるが、正直言って実感として分からないんだよ、そんな感情がどんなものなのか、おれのようないい加減な男にはね。鳥居は生真面目で律儀な男だから、分かるかと思ったんだがな」
 鳥居は切れ長の眼をさらに細めて、「まあ少しは分かるような気もするんですが」と言ってから先を続けた。
「それよりもわたしには、お志乃の行動がよく分かりませんね。もし山崎慎一郎が犯人だったとして、お志乃は少なからずは山崎に好意を持っているんでしょう、なのになぜ、お志乃は山崎の感情を逆撫でするようなことを繰り返すんですか。わたしには、お志乃という女はただの尻軽な女にしか思えませんがね」
 阿部は、「ああ」と嘆息をもらして頭を振った。
「鳥居にはまだよく分からないかもしれないが、ああいう商売の女には、複数のひいき客が必要なんだよ。複数のひいき客をうまくあしらって、それで商売として成り立ってるんだ。お志乃はまず山城屋という大きな客を失っただろう、これだけでも相当な痛手だったはずなんだ。山崎は好ましい客だったかもしれないが、お志乃にとってはひいき客というほどではなかったらしい。まあ家格はともかくとしても、あいつにはお志乃に入れあげるほどの金があるはずもないしね。ここまでは分かるだろう」
「はい」
「だからお志乃には、悪い言い方をすれば、山城屋のような金になる客をつなぎ止めておく必要があったんだ」
「それが山田巳之助だったということですか」
「そうだ、ところが今度はそいつも殺されてしまった。犯人は、お志乃の商売のことなんかちっとも分かっていないし、そんなことはどうでもいいらしいな」
「……嫌な話ですね」
「しかし、色恋沙汰だけではすまされないんだよ。お志乃のような商売の女はね」
 そう言って、阿部はまた溜息をもらした。
 その翌日、阿部八十朗は町奉行の蒔田健吾に途中経過を報告したのち、目付役の浅沼喜十朗の立ち会いのもと、あらためて山崎慎一郎を町奉行所へと呼び出して聴取を行なった。奉行の蒔田は同席をせず、阿部が書記をともなっただけの略式のものであった。
 犯人と思われる男は、山田巳之助とお志乃が仲田屋に泊まった日の二日後に二人のことを訊きにきている。そして山田が殺されたのはさらに四日後の深夜から未明のことである。阿部は形式どおりにこの二日間のことを山崎に尋ねた。
 山崎によると、まず仲田屋に男が訪ねてきた日については非番だったため、午後はずっと家士と碁を打っていたという。ただこの家士はいまは実家に帰ってしまっていて山崎家にはいないので、なんなら訪ねてみるがよかろう、とのことだった。また山田が殺された日については、「その時刻ならとっくに床についていたが、おれが深夜に家を抜け出してはいかなかったと証言してくれるような者は、残念ながら一人もいない」ということだった。
「しかしまだ妻もいないわけだから、おれのような立場の男なら、誰だって似たようなものだろう」
 そう山崎は言ったが、阿部と対座した山崎の表情や口調は形式張ったものであるうえにとても硬いもので、先日会ったときとはまるで別人のようだった。
「──山崎は最近、家人をみんな里へ帰しているようだが、これはどういうわけだ」
「母が亡くなって家にはおれ一人になってしまったからね、母の世話をしてくれていた者なども、もう役がなくなってしまったから、これを期にみんな暇をやってしまったんだ。いまはもう、昔からいる下男と下女の老夫婦がいればそれで十分なんでね」
「しかし山崎は喪が明ければ妻を迎えるんだろう、そうしたら人が足りないんじゃないか」
 こう阿部に問われると、山崎は口を引き結んだまま眼を細めてしばらく黙ったのちに、「そしたらまた雇えばいいだろうし、それに、きっとむこうが幾人も連れてくるだろう」と、関心のなさそうな口調で言った。
 阿部は山崎の表情を油断なく観察していた。眼を細めて伏し目がちに話をする目の前の男は、かつての小沼栄太郎とはまったくの別人物のように見えた。かつて阿部が草試合を挑んだとき、小沼少年は阿部に対して冷笑してみせたが、その眼の奥には熱い炎が燃え立っているのがはっきりとわかった。そしていま、刀こそ構えてはいないが、阿部からすればこれが斬るか斬られるかの真剣勝負のつもりだった。しかし意外にも山崎は終始如才なくふるまい、最後には「母が亡くなってまだ四十九日も過ぎていないんだ。いつから見張りをつけているのか知らないが、おれがなるべく外出しないようにしているのは、阿部だって承知のことだと思うんだがな」と言った。

「あの日、あっさり山崎は罪を認めるかとおれは思っていた」
 日記を前にして、そう阿部は自室で呟いた。たしかに山崎が犯人であるという証拠はまだない。しかし、阿部と草試合をしたときの小沼栄太郎と山崎慎一郎とが同一人物であるなら、認めるはずだった。そうして自らの行動のけじめをつけるはずだった。
「これ以上長引かせてどうするつもりなんだ」
 町方が山城屋殺しと山田巳之助殺しの両事件を追う過程で、ある程度は山崎慎一郎に目星を付けて動いていることが目付の知るところにもなったところで、今度は留守居役の津島隼人が阿部の上役の蒔田健吾に圧力をかけてきていた。はっきりとした証拠があって取り調べをしたのであればいたし方がないが、もしそうでないのなら見張りを付けたり犯人扱いするのはいかがなものかと、はっきりと山崎慎一郎を擁護する姿勢を打ち出してきたのである。山崎に対する目付の吟味があっさりと終わってしまったのも、おそらくは津島の奔走の影響によるものなのではないかと思われた。
 背景には当然、津島隼人が山崎に自分の娘を嫁にやろうとしていることがあるのだが、理由はどうやらそれだけではないらしい。どこの藩でも国家老と江戸家老、または国家老と留守居役は仲が悪いものだが、この藩もやはり同様で、津島隼人と山田主水が互いの面子をかけて張り合っているところがあるようであった。山崎慎一郎が津島に泣きついたのかどうかは分からない。小沼栄太郎ならけっしてそんな女々しい真似はすまい。しかし結果的には津島が阿部らの前に立ち塞がる格好となったのである。
 阿部八十朗には、山崎がどこへ向かっているのかがよく分からなかった。ただひとつ分かっているのは、もうこれ以上ひとが殺されてはならない、ということだけだった。
 日記を前にして腕組みをしていた阿部は、胸や脇の下にじっとりと汗をかいていることにふいに気づき、肩の力を抜くと襟元をあけて扇子で風をいれた。すると妻のさとが廊下に立ち、「あなた」と声をかけてきた。
「お義父さまが山女を送ってきて下さいました」
 振り向いて見ると、さとが笊を両手に持って立っていて、檜の青葉を敷いた上に一尺はありそうな見事な山女が五尾のっていた。
「見事な山女だな」
「お義父さまが釣ったそうですよ」
「父が」
「はい、義助がそう言っていました」
 父はそんなに釣りが上手くはなかったはずだがな、と阿部八十朗は思った。田舎に引っ込んで、気が長くなったのだろうか。もっとも、釣りは気が短い者のほうが向くともいうから、よくは分からなかった。
「木蓮の花が今年もきれいに咲いたことを手紙でお知らせしたでしょう。そのことをことのほかお義母さまがお喜びになったみたいで、そのお礼にということです」
 さとにそう言われて八十朗も、手紙をかいてやればいいと自分が言ったことを思い出した。すると、あれからもう四月も経っていることになる。八十朗はさとに「水を一杯持ってきてくれないか」と頼み、日記の最後の行に、「──近日中に、山崎慎一郎は徒組組頭に上げられる予定である」と書き加えた。
 本来は役替えがあるような時期ではないのだが、前任の組頭の一人がわけあって罷免され、その後任に山崎があたることになったようだ、と昨日阿部は上役の蒔田健吾から聞かされたのである。山田主水を除く重職たちは、町方が人殺しの被疑者として考えている山崎慎一郎を組頭にすることに、何らの問題も感じていないようであった。もっとも、山崎家の家格からすれば、いまの山崎の年齢で組頭に上げられることはべつに大したことではない。しかしかつて阿部が山崎の出世に関する話題に触れたとき、山崎が見せた表情の変化のことを考えると、山崎自身がこのことをどう考えているのか興味があった。阿部八十朗には、山崎がだんだんと狭まってゆく道──そして最後には道そのものが消失してしまうような道──をひた走っているように思われて仕方がなかった。他の者からすれば、それはむしろ広がりを持ってゆく道であるのに違いない、なのになぜ山崎にとってはそうなのか──その問いを解く鍵を握っているのがおそらくお志乃であり、また山崎からすれば、お志乃の存在がこの世で息をつける唯一のものであるのに相違ない、そう阿部には思われた。
「水をお持ちしました」
 さとが持ってきた水を八十朗はひと息に飲み干し、まだしばらくは物思いに耽っていた。やがて、さとが少し離れたところから団扇で風を送ってくれているのに気がつくと、「気づかなかったよ、ありがとう」と言って、暑さでやや紅潮した顔でこちらを見ている妻に八十朗は微笑んで見せた。
「義助はもう帰ったのか」
「いえ、坊ちゃんの顔を見てから帰るんだって言って、いまは台所でおのぶの仕事を手伝ってくれています」
「坊ちゃんか──そんな歳はもうとうに過ぎたんだがな」と苦笑いをする夫に、さとは笑顔を向けて、「義助にとっては、あなたはいつまでも坊ちゃんなんでしょ」と言った。それからふふっと笑ってみせて、「じいは坊ちゃんのお子を抱くのを楽しみにしているんだから、早く子をもうけて下さいってまた言われましたよ」
「義助からすれば孫のようなものだからな」
 古くからの阿部家の下男である義助は、八十朗の両親が田舎に移り住んだときに一緒に付いていったのであるが、ときどきこうして魚や山菜などを八十朗らのために届けてくれるのであった。「じゃあ義助に顔を見せてくるとするか……」と言いかけた八十朗はふと真剣な表情になり、「たしかさとには幼い頃に亡くなった兄がいたな」と、立ち上がりかけていたさとに問いかけた。
「どうしたんです、とつぜん」
 きょとんとした顔を向ける妻に、八十朗は「亡くなったのは、さとがまだ八つの頃のことだったと言っていたね、いまでもその兄さんのことを思い出すことはあるのか」と訊いた。するとさとはべつに思案する様子もなく、
「思い出すもなにも、兄はいまでもここのところにずうっといますわ」と、帯の上の辺りを左の手でそっと触ってみせた。
 その様子を見て八十朗はかすかな衝撃を受けた。そして「そうか」と言ってからも少し黙っていたが、やがて「義助には、すぐに行くと伝えてくれ」と、眩しそうな眼を妻に向けながら言った。

               八
 山崎慎一郎はそっと視線を下に落とし、膝の上に置いていた両の手のたなごころを上に向け、ゆっくりと開いたり閉じたりを繰り返した。すでに酔いが回っていて体はかっかっと熱くなっているのだが、頭の芯のところが冷たく硬くなっていて、頭を振れば乾いた音がしそうな気がした。両の手のひらはぎゅっと閉じてから開くと、気味の悪いほど赤と白のまだら模様になった。山崎は唇をわずかに歪め、口の中だけで「……やっぱりだめだ、でもどうしたらいい」と充血した眼を下に向けたまま呟いた。
 山崎慎一郎は昨日、徒組の組頭の役を拝命していて、今夜はその就任祝いであった。すでに就任の挨拶も口上も済んでおり、師匠番や同僚らにも酌をして回るのも済んでいた。あとは歓談をしながら運ばれる料理や酒を楽しめばいいだけ、というところなのだが、山崎は心ここにあらずといった様子で、誰かから何か問われてもすぐには気がつかず、二度三度と訊かれてからようやっと硬い笑顔で問いに答える、といった様子だった。そんな山崎の様子を見て、十五人ほどの同席者たちは、座が白けて料理や酒がまずくなってはかなわないと思ってか、次第に山崎に話しかけることも少なくなり、酔いが回るにつれて数人ずつの単位で皆がてんでに話を始めるようになっていた。
 そもそも山崎はこの酒宴をここ藤多津でやるのは好ましく思っておらず、べつの料亭でやることを提案していたのだが、同じ徒組の槙彦右衛門が、
「やるんなら藤多津だろう、これまでだって就任祝いは藤多津でやってきたんだから、別のところでやるなんて言わないでくれよ」と当たり前のことだと言わんばかりの口調で何度も反対してきたため、しまいにはこちらが我を張るのが不自然なくらいの雰囲気になってしまい、やむを得ず山崎が折れるかたちになったのであった。
 やがて「よおっ」という歓声とともに手を打ち鳴らす音が聞こえたので、思わず顔を上げて声のした方を見ると、三四人ばかりの芸者衆が襖をあけて座敷に入ってきたところであった。そういえばさっき、山崎と同役で組頭の一人である佐倉新之助と、その隣に座っていた槙彦右衛門の二人が女中の耳元で何ごとか囁いているのがちらと見えたので、おそらくあの時に呼んだのであろう。山崎慎一郎は再びうつむいて、苦しそうにゆっくりと溜息を吐き出した。
「景気の良いのをひとつ弾いてもらおうか」と赤い顔で催促をする佐倉にこたえて、すぐに年増芸者が騒々しい三味線を弾き始め、踊り手が扇子をひろげ、足もとを定めてから踊りだした。
 芸者衆の奏でる三味線や唄、それから同僚らの手拍子や歓声とは別に、山崎慎一郎の頭の中ではさっきから耳鳴りのような音が響いていて、彼はそれを打ち消そうとするように手酌で続けてふたつ、酒を呷った。「おれはただ酔っているだけなのだろうか」とも考えてみたが、目の前のばか騒ぎははっきりと意識できるし、酒を呷れば呷るほど、頭ははっきりと冴えていくように感じられた。ただ、耳鳴りが耐え難いほどひどくなってきていて、じっと座っているのがやっとの状態になってきているのが自分でもわかった。
 と、ふいに「足軽ふぜいが」というひと言が喧噪に混じって、山崎の耳もとに届いた。彼はぴくりと体を震わせ、一瞬にして蒼白になりながら、誰がその言葉を発したのかと一同を見回した。しかし誰も山崎に視線を向けている者などおらず、みなが芸者の踊る姿を見上げて手を叩いていた。はっきりと聞こえたひと言ではあったが、しかし誰の声だったかというと誰の声ともつかないものだったために、山崎は視線を再び下に落として、腿の上で握りしめている両の拳を見つめた。
 たったいま聞こえたひと言が、さっきまで耐えられないほどに感じられていた目の前の喧噪を消し去って、彼はいま世界でただ一人になったように感じていた。そして彼は、もうすでに慣れっこになってしまっているあの感覚、常に複数の目から見つめられていて、様々な囁き声に囲まれているような感覚の中に捕われていった。
 どれくらい時間が経ったのかわからないが、左の袖を掴まれたので顔を上げると、佐倉新之助が目の前にきて赤い顔で山崎を見下ろし、「どうした、せっかくの祝いの席なのに、そんなに辛気くさい顔をするなよ」と言っていた。しかし、とっさに彼は目の前で何が起こっているのかが理解できず、焦点のはっきりしないぼんやりとした眼差しを上に向けただけでいた。そんな山崎の様子を見て、佐倉は彼がずいぶんと酔っていると感じたのか、これでは話にならんとでも言いたげに頭を振った。そして山崎がやっとのことで「……ああ、すみません」とかすれた声で答えるのを最後まで聞かずに、佐倉は「よし、今夜はめでたい山崎氏の祝いの席だ、おれも踊るぞ」と言いながら座の中央の芸者が踊っているところへとふらついた足取りで割って入っていった。
 山崎慎一郎はめまいを感じながら、呆然とした表情で目の前の光景を見つめた。頭の中ではさきほどの「足軽ふぜいが」という言葉が幾度となく波のように寄せてきていて、佐倉らの大騒ぎも、その波の調子に合わせて大きく聞こえたり弱く聞こえたりするように感じられた。
 座敷に運ばれてきた銚子の数が増えるにつれ、いつしか座もくずれて、みなの前に置かれていた蝶足膳もてんでの方を向くようになり、もう誰も山崎の様子を気にかける者などいなくなってきた。男たちは数人ずつの単位で勝手に話をするか、唄や踊りにだらしなく間の手をいれるかというふうだった。その中で上座に座っている山崎慎一郎だけが一人うつむき加減にしんとしていた。ひとしきり騒ぎが続いてから、やがて今度は槙彦右衛門が「お志乃を呼べ」と言い出した。
「山崎氏の就任祝いの席にお志乃が来ないという法はないだろう、なあ、おもと、お志乃をここへ連れて来てくれ」
 槙のひと言が座敷中に響きわたったとたん、心なしか騒ぎが一瞬静まったようにも思われた。数名の侍がまず山崎のほうを見、それから互いの顔を見合わせた。当の山崎慎一郎はうつむいたままじっとしていた。
「どうした、おもと、早くお志乃を呼んでこい。他の座敷に出てたっていいじゃないか、ちょっとぐらいは抜けてくることだってできるだろう」
 おもとはとまどった様子で、目を伏せたままの山崎と槙の顔とを見比べた。そしてなおも「何度も言わせるな」と言いつのる槙の様子に、芸者たちも三味線や踊りの手を止めて座は静かになり、やがて槙の正面に座っていた鈴木喜八郎という若い侍が「まあまあ」と言ってなだめにかかった。
 色白で座っていても体が大きく、細い眼をした槙はいまや顔を真っ赤にして、「なにがまあまあだ、ここで一番の芸妓はお志乃だろう。そのお志乃が、ほかならぬ山崎氏の祝いの席に来ないというのはおかしいじゃないか。貴様だってそう思うだろう、鈴木」と言っていた。周囲の男たちの多くは山崎慎一郎のほうをちらちらと盗み見ながら、「槙のやつ面倒なことを言い出したな」という顔になっていった。みな、言い出したらきかない槙の性格を知っているので、鈴木以外には槙をなだめにかかる者もなく、事態を傍観する格好になった。そして眼の据わった表情で鈴木喜八郎を見つめていた槙が視線を逸らし、大きな声で「おい、おもと」と言うと、彼女は弾かれたように立ち上がり、急ぎ足で座敷を出ていった。槙彦右衛門は、おもとの後ろ姿を見送ると、手酌で酒を飲み始めた。そして再び芸者が三味線を弾き始めると、少し気まずくなった雰囲気も元に戻ったようになった。
 四半刻もせずに、お志乃は着物の襟元を片手で押さえながら座敷へと現れた。部屋の中へと入りながら、お志乃はこの酒宴が誰の、またなんのための酒宴なのかを知っているはずなのに、正面に座っている山崎慎一郎のほうはちらりとも見ずにいた。
「ようよう、よく来たお志乃、まずここへ座ってくれ」
 そう言って槙彦右衛門はお志乃を自分の目の前に座らせて、膳の上にあった銚子を手に取って、「まずは山崎氏に酌をしてきてやってくれないか。お志乃は山崎氏と会うのは初めてじゃないだろう」ととぼけた顔で言った。皆が苦笑いをしているなか、先ほど槙をなだめようとした鈴木喜八郎だけが済まなさそうな視線を山崎慎一郎に向けた。お志乃は銚子を手に山崎の前までゆき、畳の上に手をついて辞儀をした。
「このたびはご昇進をなすったそうで、まことにおめでとうございます」
「ありがとう、お志乃さん」
 ずうっとうつむいていた山崎は非常にゆっくりと顔を上げて、そうかすれ声で言い、杯を手に取ってお志乃へと差し出した。その時山崎が見せたすがるような──それでいて哀れみやいたわりのこもった眼差しに、お志乃は一瞬どきりとした様子を見せ、少し震える手つきで酌をした。その時の山崎の表情は、お志乃はそれまで一度も見たことのないものだった。そしてお志乃が杯に酒を満たすと、二人はすこしの間見つめ合った。
 やがて山崎が視線を下に落として酒を一気に飲み干し、お志乃に向かって返杯しようとしたところで、槙が「よしお志乃、山崎氏のためにひとつ踊ってくれ」と大声で言い、お志乃は杯を受けることなく、やや取り乱した様子で座の中央へと戻っていった。
 それからは半刻あまりの間、お志乃は槙の求めに応じて踊り続け、それが終わると槙はお志乃を自分の脇にぴたりと座らせて離さず、ろれつの回らない口調で話をしたり酌をさせたりをし続けた。その間中ずっと、お志乃はほとんど山崎のほうを見なかったし、山崎もまたお志乃と槙のほうは見なかった。
 山崎慎一郎はその間、ひとり完全におのれの世界に閉じこもっていた。槙とお志乃の間にどういった会話が交わされているのかも聞こえていたし、佐倉新之助がだらしなく酔いつぶれて眠ってしまうまでの様子も見ていたし、数人の男が断わりを言って退席していったのもしっかりと認識していた。しかし大きくなったり小さくなったりするさまざまな囁き声に囲まれて、何が現実で何がそうでないのかよく分からなくなってもいた。誰と誰が部屋を出ていったのだろうか。また自分がいるのはいったいどこなのだろうか。自分の悪口をさっきからずっと囁き続けているのは誰なのだろうか。
 そしてふいに、またさっきの声が「親父とおんなじさ」と言うのがはっきりと聞こえて、山崎は絶望的な顔で前方へと視線を走らせ、同時に無意識のうちに右手が動くのを感じた。しかし刀の柄があるべきところで右手が空をつかみ、思わず視線が左下の腰のあたりに落ちた瞬間、刀は下に預けてあることを思い出した。しかしそんな山崎の様子を見ている者は、女中や芸者衆もとっくに出ていったあとだったので誰もいなかった。
 山崎慎一郎はものも言わずに立ち上がると、座敷を出て、ふらつく足取りで厠のほうへと歩いていった。その様子をさきほどから眠そうにしていた鈴木喜八郎が気付いて、お志乃のほうへ目配せをすると、お志乃も視線を山崎から鈴木へと向けて、「わかった」という表情で頷いてみせた。そして槙に「ちょっと失礼します」と言ってから、「ん、なんだ、どこへ行くんだ」と怪しい言葉づかいで槙が言うのを最後まで聞かずに、山崎の後を追うように部屋を出ていった。
 山崎慎一郎は廊下の柱に背をもたれて座り込んでい、ぼんやりとした視線を前方へと向けていた。お志乃がぴったりとそばに寄って片膝立ちの姿勢になり、「だいじょうぶですか、山崎さま」と声をかけてもすぐには返事をせず、ただすこし早い呼吸を繰り返すのみでいた。が、やがて左にいるお志乃へとゆっくりと顔を向け、「ごらんよ」と言って、階下の中庭で花を咲かせている一本の木を指差した。
「ずいぶんときれいに花を咲かせているじゃないか」
「さるすべりですわ」
「──あれはさるすべりというのか」
「はい」
 山崎はふと思い出すような表情になり、「そういえば──」と言った。
「うちにも同じ木があるよ。あれは……おれの養父が植えた木だった。虫が付くので手入れがたいへんだって言ってたっけ」
 そう言ってから山崎は、さっきからお志乃が背中をさすってくれていたのにいま気がついたというように、「すまない、ありがとう」と言った。
 お志乃はいたわりのこもった表情で山崎を見つめていたが、やがて「わたくし、今まで思い違いをしていましたわ」と言った。しかし山崎はまるでお志乃の言葉が聞こえなかったかのように、
「……けっきょく、お志乃さんには関係のないことだったんだ」とぽつりと言った。
「……どういうことですの」
 山崎慎一郎はお志乃の問いには答えず、「わたしはもうこれで帰らせてもらうよ。ばか騒ぎももうこれで充分だろう」と大儀そうに立ち上がりながら言った。「あの、いまおっしゃったのはどういうことですか」と震え声でふたたび尋ねるお志乃には振り返らずに、山崎は階段のほうへとふらつく足取りで歩き出した。お志乃は傍らに寄り添ってなかば山崎の体を支えながら階段を下り、「駕籠をお呼びいたしましょうか」と訊いた。
「駕籠も、提灯もいらないよ」と言って山崎は微笑んで見せた。
「今夜は十六夜(いざよい)だからね」
 そう言って、心配そうに見送りをするお志乃には構わずに、山崎は女中から大小の刀を受け取ると腰に差して、月明かりの下をふらふらと歩み去っていった。

               九
 あさ目が覚めたとき、山崎慎一郎は自分がどこにいるのか分からなかった。暁前のまだ暗い時刻ではあったが、夢とうつつの間をさまよいながら、彼はぼんやりと「ここはどこだろう」と思った。首を横に向けると、暗がりのなかで見覚えのある絵の描かれた襖と行灯が見え、足もとの方へと目を転ずると仄かに青い払暁の光が障子を通して差してきていた。やがて彼は「ああ、なんだ」と心の中で呟いた。ここはおれのうちじゃないか。
 そう気づいてからも、彼は今の状態を楽しむようにしばらくの間まどろみ続けた。ここがどこなのかよく分からないというよりも、自分が誰なのかさえよく分からないような状態であり、いまの彼はまるで子供のように、夢の世界からの誘いに身を任せようとしていた。それはほんとうに久し振りに味わう至福の状態だった。
 そんな時間がどれだけ続いたことだろう、しかしやがて時間が経つにつれ、欲求に反して次第に思考が目覚めてきて、彼は数日前の出来事を思い出して苦痛に顔を歪めた。そして槙彦右衛門が大声で「お志乃」と呼んだときの二人の様子を思い出し、彼は勢いよく起き上がって両手で顔をおおった。そんな不愉快なことを思い出したおかげで、もはや完全に目が覚めてしまった。
 山崎慎一郎は寝間着のままで障子をからりと開け、まだ日の出までには半刻以上もあるまだ薄暗い蒼い空を見上げ、しばらくはそのままでじっとしていた。いまはまだ老僕の夫婦も起きてはいないらしく、庭の一角に建てられた間口三間あまりの小屋からはことりとも物音が聞こえなかった。彼は家のなかを通らずに、縁側から下駄を突っかけて外へ出て、空を眺めながら庭をぐるりと回って勝手のほうへと歩いてゆき、水を溜めてある桶から柄杓で汲んだ水を飲み、顔を洗った。それから居室へと戻り、さっきよりはだいぶ明るくなった部屋の中で、刀掛けに掛けてあった大刀を手に取って、すらりと抜いて刀身を夜明け前の光にかざして見つめた。この間、彼の顔はまったくの無表情のままであった。
 やがて外で小屋の戸を開ける音が聞こえ、老僕の伊平が起き出してきたことが分かると、山崎は刀に拭いをかけてから鞘に戻して刀掛けに掛け、布団を自分でたたむと常着に着替えた。

「ええ、しかしそうしましたら、慎さまはどうなさるんで。慎さまのお世話は誰がいたしますんで」
 朝食を摂ったあと、山崎慎一郎が言った言葉に対して、伊平は困惑というよりはむしろ怒った顔つきでそう言った。さっき山崎は、庭で薪を割っていた伊平に、しばらく先祖の墓のある実家のほうに帰ったがよかろうと言ったのだった。
「先月おれの母が亡くなったこともあって、お前たちはここしばらく母親の顔を見に行っていないだろう、だからかわりに今月行ってきたらどうかと言っているんだ」
 そう言う山崎に、伊平は山崎のほうは見ずに薪割りを続けながら、ぶっきらぼうな調子でこう答えた。
「おっかぁの顔を見るぐれえの用事なら、朝早立ちすれば、いま時分はまだ日が長いから夕方には帰ってこれます」
「そうではなく、四五日ゆっくりしてきたらどうかと言ってるんだ」
「どうしてです」
 そう言って、初めて伊平は手を休めて顔を上げ、鋭い目つきで山崎のほうを見た。
「先月母が亡くなって葬式を出したときには伊平たちにもいろいろと苦労をかけただろう、それを労いたいという気持ちもある。だがそれだけじゃあない、おれの母よりも伊平の母御のほうがずっと年は上だろう、だから──」
 そう言う山崎の顔や話し方はなんとか相手をなだめようとするようなものだった。しかし伊平は山崎の言葉を最後まで聞かずに、頭を振りながら視線を元に戻し、「いやです」と短く答えた。山崎は伊平の横顔をしばらく見つめたのち、今度は否やとは言わせぬ口調でこう言った。
「おれの世話のことなら心配はいらない。女房と一緒にしばらく田舎に行っていてくれ」
「わっしは──」
 山崎の顔へと視線を戻し、今度は懇願するようにそう言いかけた伊平には耳を貸さずに、山崎慎一郎は「明日の朝早く発つといい、あとのことは心配するな」と言って踵を返すと振り返らずに母屋へと歩いていった。
 そして居室へと戻り、部屋の隅にある高さ一尺五寸ばかりの指物の小引き出しのいちばん上を開けると、彼は中から袱紗に包まれたものを取り出した。それを両手で持って、襖を隔てて隣の仏間に入り、袱紗を開いて三つの位牌を手に取ると、山崎の両親の戒名が書いてある位牌の隣に並べて置き、線香を上げてゆっくりと合掌した。合掌をやめてからも、彼はその五つの位牌をずいぶん長いこと見つめ続けた。仏壇の前に端座して、手を合わせるでもなく、目を閉じることもなく、少し惚けたような表情でただ見つめ続けた。

「ちょいとちょいとで袖を引かれてぇ……立ち止ったが運のつきぃ……えぇと、その次はなんだったかな」
 ろれつの回らない口調でそう呟きながら、槙彦右衛門は往来をあっちに行ったりこっちに行ったりしながら家路を辿っていた。帰宅途中で夕立に遭い、帰れなくなったついでに居酒屋へ入ったらつい長居をしてしまった。そうして四ツの鐘を聞いてからしばらく経っているので、へたをすると今夜も女房から閉め出しを食うかもしれなかった。大人しい貞婦の顔をしていたのは始めのうちだけで、最近では酔って遅くに帰ると家中の戸を閉て切って、本当に家に入れてくれないようになってきた。元は町人出の、さっぱりとした気風に惚れて一緒になったのではあるが、子供が二人も生まれてからは、こうと決めたら梃子でも動かないようになってきて、最近では夫である自分にけんつくを食わせるようにまでなってしまった。
「……へっ、こうなっちゃあお仕舞いだな。冗談じゃねえ、飲まずにいられるかってんだ」
 槙はどんよりとした目で右の手を開いて見つめた。もともと家格の高い者や後ろ盾のある者ならいざ知らず、槙の家格ではさほどの出世も見込めないのだが、町人出の女房にはその辺りがよく分からないのか、最近は暇さえあれば勝手向きの悪いことをこぼすのである。徒組の扶持だけでは生活がとても厳しいために、槙は一年ほど前から藩の剣術道場の指南役も務めるようになっていて、その役は別に扶持をもらえるために、家計を支えるのにはとても役立っていた。しかしなんとか両方をこなしても、依然として生活は厳しいうえに体もきつく、こうして憂さばらしに飲んで帰る回数がだんだんと増えてきていた。もっとも飲んで帰るとはいっても、たいていは今夜のように、職人や小者が入るような居酒屋ののれんをくぐるのがほとんどであった。
「しかしつまらねえな、うん。つまらねえ──」
 そう言ってから槙彦右衛門は、お志乃の顔や形よく肉のついた腰の辺りをふと思い出して相好を崩した。居酒屋の親父や注文取りの不器量な田舎娘の顔を見ながら飲んでもつまらないが、この間の山崎慎一郎の就任祝いの時は気持ちよく酔うことができた。しかも勘定のことはいっさい気にする必要もなかったのだから。またあんな機会にありつきたいものだ、そう思いながら槙は、ふらふらと歩きながら端唄の続きをふしをつけて低い声で吟じた。
「──雨に降られて居続けのぉ、ええ、居続けのぉ……」
 と、通りの向こうで、やはり槙と同じように酔って帰宅する途中らしき二人連れが戸板にでもぶつかったのか、けたたましい音が聞こえて、続いて一匹、二匹と犬の鳴く声が聞こえた。「なんだ、びっくりさせやがる」そう呟いて彼は、川沿いに等間隔に植えられた柳の木のところまで歩いてゆくと、前をまくって木の根株へ小用を足した。ここまでくれば家まではあと二町あまりだった。
 そして再び歩き始めてすぐに、槙彦右衛門の顔が急に引き締まり、細い目がすうっとさらに細くなった。誰か後ろから付けてきている者がいる、そのことに突然気が付いたのである。
 槙は相変わらずふらふらと歩きながらも、全神経を背後の人の気配へと集中させながら足を運んだ。誰かが付けてきていることは間違いないようだった。「ははあ、ついに来やあがったな」声には出さずにそう呟いて、一気に酔いの覚めた体を思わずぶるぶるっと身震いさせた。追手は巧みに気配を殺して後を付けてきているらしかった。気付いてみると明らかに殺気を感じるが、燃え立つような熱い殺気ではなく、鬼火のような静かな殺気を感じた。槙はこっちが気付いたことを背後の相手に気取られないように、そのことのみに注意を払いながら、それまでと変わらない歩調で歩き続けた。さっき小用を足しているときになぜ襲われなかったのだろうか。おそらく、前を歩いていた二人連れのことを気にしていたために仕掛けなかったのに違いない。しかし今はもうあの二人連れも通りを右に折れて行ってしまったあとだから、いつ仕掛けてきてもおかしくはない。
 槙は高まる一方の動悸を抑えるのに苦労しながら、ふだん帰宅するときに曲がる四つ角まで変わらぬ歩調で歩いていって、いつものように右へ曲がるとすぐに履物を脱いで懐へ入れ、小走りに六間ばかり先の最初の路地まで駆けてゆき、建物の陰に身を潜めると目をつむってなんとか呼吸を整えて、音を立てないように注意しながら大刀を抜いた。そして軒下に積んであった粗朶に目を留めると、手頃な大きさの小枝を左手で取り、先ほどまで向かっていた方向へと勢いよく放り投げた。
 少し湿り気の残った地面に小枝が落ちる、ややくぐもった音を聞いてから、槙は目を閉じたまま心の中で「一つ、二つ、三つ……」と数をかぞえ始めた。そうして二十五までかぞえたときに、慎重そうな足音を間近に聞きつけた。槙が目を開けるのと、目の前に人影が現れるのとが同時だった。槙彦右衛門は通りへ勢いよく飛び出すと、左肩を前にして相手に力一杯の当て身を食らわせた。相手はそこから槙が飛び出してくることはまったく予想していなかったらしく、大きな体の槙に体当たりを食らうと、通りの中央へと二間あまりもふっ飛んでいった。
 自分自身膝をつく体勢へと倒れ込んだ槙はすばやく立ち上がると、荒い呼吸をしながら大刀の切っ先を相手に向け、うつ伏せに倒れている相手の姿を初めて見つめた。藍か黒の帷子に、やはり同じ色の袴を着けたその男は、槙の体当たりが相当にこたえたらしく、息もろくにできない様子で喘いでいた。刀はまだ抜いていなかった。そして頭部は、頭巾ですっぽりと覆っていた。
「起きろ、抜け」
 息を切らしながらしゃがれ声で槙はそう言った。
「貴様侍だろう、待ってやるから起きて抜け」
 しかしその男はただ喘ぐばかりで、手足を動かす様子はまったくなかった。
「起き上がる元気もないか」
 そう言って槙は刀を相手に向けたまま、しばらく黙って呼吸を整えた。そうして呼吸が整ったところで、「おれは──」と相手に声をかけた。
「貴様が誰だか知っているぞ」
 すると倒れている男は身動きをして、頭巾へと右手を伸ばしかけた。
「頭巾を取るには及ばないぞ、山崎」
 そう言っていったん言葉を切ってから、槙はあとを続けた。「どうした、立って抜かないのか」
「こうなったからには、立ち上がっておれを斬るしかないんじゃないのか」
 つづけてそう言われても、男は黙ったままで身じろぎもしなかった。
 槙はなおもしばらくの間、男の様子を眺めていたが、やがて「ふん」と鼻をならすと刀を鞘に納めて、「──貴様は情けないやつだ」と吐き捨てるように言うと、振り返ることもなく歩み去っていった。倒れていた男は、槙が歩み去ってからゆっくりと右手を動かして頭巾を取ると、左頬を下にしたままの状態で石のように動かなくなった。

               十
 山崎慎一郎は頬に地面の冷たさを感じながら、長いことじっとしていた。こんなにも頬が冷たく感じるのは宵の時間に夕立があったせいなのか、それとも知らぬ間に流れた涙のせいなのかよく分からなかったが、今はもはやどちらでも構わなかった。小石の混じった地面の冷たさをただ感じながら、頭の中が空っぽになってしまっている自分自身をどうしようとも思わなかった。
 そして長いこと時が過ぎて、ひたひたと足音が近付いてくるのを夢のようにぼんやりと聞きつけると、「ああ、やって来る。ついにやって来る……」と思い、今度ははっきりと左の眼から涙がひと筋流れ落ちるのを感じた。しかし足音とともに「……小沼、おい、小沼」と呼ぶ声が聞こえ、山崎は現実の時間へと引き戻された。
「小沼、おい、大丈夫か」
 そう言って阿部八十朗に揺り起こされると、山崎慎一郎は得心がいった表情で、「……そうか」と呟いた。
「なんだ、どうしたんだ」
「……阿部、お前か。お前が槙の奴に忠告したんだな」
 そう言われて、阿部は一瞬間とまどったのちに、「そうだ、すまなかった」と答えた。
「……なに、謝るには及ばんさ。おかげでこれでけりがつきそうだよ」
 夢見るような目つきでそう言う山崎に、阿部はまるで少し怒ったような表情を見せた。
「怪我はないのか、小沼」
「当て身を食わされてずっとぶっ倒れていたんだ。刀を抜くこともできなかったよ」
 そう言って山崎は阿部に微笑んで見せた。「──ところで、小沼と呼ばれるのは久し振りだな」
「どこも斬られてはいないのか」
 阿部八十朗は心配そうな顔でふたたび尋ねた。
「──当て身を食わされて、息ができなくなって倒れていただけなんだ。斬られるどころか……槙の奴に、貴様は情けない奴だって、そう言われたよ」
 そう言って再び微笑んだときの山崎慎一郎の表情を、阿部八十朗はその後ずうっと忘れることができなかった。それは、大事に守り続けていたものを、きれいさっぱりと、全て脱ぎ捨てたあとの男の顔だった。
「阿部、すまないが手を貸してくれないか。恥ずかしい話だが、槙のせいで腰が抜けてしまったらしい、立ち上がることができないようなんだ」
 阿部は山崎が立ち上がるのを助けてやり、山崎の左腕を自分の首の後ろに回して、彼の体を支えてやった。
「歩けるか」
「なんとか行けるだろう、すまん、このまま家まで送ってくれるか」
「もちろんだよ」
 そう答えながら、阿部は数日前に槙彦右衛門と会っていたときのことを思い出していた。さっき山崎に指摘されたとおり、そのとき阿部は「貴殿を斬ろうとする者があるかもしれないから、よくよく注意をするように」と槙に忠告していたのである。それは山崎の組頭就任祝いの晩の前日のことだった。槙はすぐに「それは誰か」と阿部に問うた。
「名は言わないが、よく考えてみればわかるだろう」
 そう阿部に言われて、槙は腕組みをしてしばらく考えたあとに、やがてしたりという顔をしてみせた。しかしすぐに思い直した様子で首を傾げて「まさか」と言った。
「まさかと思うかも知れないが、山田巳之助は実際に斬られて死んだんだよ」
「山城屋と山田を斬った奴が今度は俺を狙っているということなのか」
 そう言って言葉を切ったあと、槙はさも不愉快そうな顔で「まさか──馬鹿げた話だ」と言った。
「信じる信じないは貴殿の自由だ。しかし不意をつかれるよりはましだろうと思ってね」
 ──そうだ、襲われることが予めわかっているのとそうでないのとではやはり随分と状況が違っていただろう、山崎の体重を体で感じながらも、そう阿部は心の中で呟いた。槙はきっとうまく立ち回ったのに違いない。槙自身も武芸達者には相違ないが、阿部は山城屋と山田巳之助の死に様を目の当たりにしているので、やはり自分が忠告してなかったらどうなっていたかわからないな、とあらためて思った。
 また、だからこそ、さっき山崎らしき男が路の上で倒れているのを見つけたときには、阿部はてっきり山崎は死んでいるものとばかり思ったのだ。自分の忠告が槙にとっては功を奏して、山崎を返り討ちにしたのだ、とすぐにそう思った。しかし山崎が生きていることを知った時には、正直ほっとしたこともまた事実であった。
「お前の家は──ここから行くと、伊衛門橋の先だったな」
「しかしここからだと……三町ばかりもあるが、大丈夫か」
 大丈夫だよ、と阿部は答えた。「別にお前をおぶっていくわけじゃないからな」
 夜遅いせいもあるが、宵の刻の夕立のお陰で空気がすこしひんやりとしており、川沿いに植えられた柳の枝がそよそよとそよいでいた。とても静かな晩で、二人が歩く音以外には音もなく、二人はお互いに相手の息づかいを聞きながら黙って歩いた。
 山崎の家に辿り着くと、まるで空き家のようにしんとしていた。
「誰もいないのか」
「……ああ」
 山崎が玄関の戸に手をかけると、表門の戸と同じく、がらりと簡単に戸は開いた。
「不用心だと思うかもしれないが、もはや盗られるようなものは何もないんだ──ひとまずそこへ腰掛けさせてくれないか、もう一人でも歩けると思う」
 そう言っていったん上がり口に腰を下ろしたあと、履物を脱いでから一人でなんとか立ち上がると、「ついて来てくれ」と言って真っ暗な家の中を先へ立って山崎は歩いていった。そして部屋へ入って雨戸を開けてから、ちょっと待っていてくれないか、なにしろ誰もいないもんでね、と言って彼は暗い廊下へと姿を消した。
 しばらくすると、山崎は勝手の方で自ら火を起こしたらしく、手燭を持って部屋へと戻ってくると行灯に火を入れた。行灯に照らされて、あらためて阿部が部屋の中を眺めると、たしかにおよそ物という物がない、がらんとした部屋だった。茶でもいれてこようか、と山崎が言うのを断って、阿部は山崎に尋ねた。
「昔からいる下男にも暇をやったのか」
「ああ、昨日の朝早くに田舎の方へ帰らせたよ」
 そう言いながら大刀を腰から抜いて刀掛けにかけて、山崎は阿部八十朗の前へ座った。行灯の灯りのせいで片灯りに照らされた山崎慎一郎の顔をあらためて見ると、ここ数ヶ月の間の二度の会見とはまるで別人のような表情を湛えていた。
「……こんなことを言うと笑うかもしれないが」
「なんだ」
「おれはさっき路の上で倒れていたとき、とても良い心持ちだったんだよ……槙に体当たりをされて、ぶっ倒れて動けなくなったうえに、情けない奴だとまで言われたのに、なぜか良い気分だったんだよ……どういうわけだかわからないがね」
 分かるよ、と阿部は言おうとしたが、なぜかそう言ってしまってはいけないような気がしたのですぐに口をつぐんでしまった。
「──むしろ、槙に感謝したいくらいだ」
 そう言って山崎は静かに目を伏せた。そして一拍子おいてから、同じように静かに顔を上げて、「阿部はもう、すべて知っているんだろう」と言った。
 しかしそう言われて阿部八十朗は、「すべて」とは何だろう、と考えた。たしかに、二件の殺しの犯人は目の前にいる山崎慎一郎だった。だが、山城屋を、そして山田巳之助を手にかけて殺した男と、いまおのれが向き合っている男とが同一人物とはとうてい思われないのであった。阿部は、「おれが分からないのは」と言って相手を見つめた。
「──なぜ殺さなければならなかったのか、ということだ。いくら両刀を腰に差しているからといって、ひとを斬るということは普通のことじゃあない……いや、違うな。たとえ理由は分かったとしても、おれが本当に分からないのは、お前をそこまで突き動かしたものがなんだったのか、ということだ。想像するのと、実際に行動するのとではわけが違うからな」
「……不愉快だったからだ」
 山崎はひと言だけそうぽつりと答えたきり、黙り込んでしまった。しかし阿部はそんな山崎の顔を見つめたままあえて続けて質問はせず、相手が二の句をつぐのをじっと待った。
「……山城屋にしろ、槙彦右衛門にしろ、彼らには自分の家があり、家族もある。それぞれ自分の家族に不満はあるかもしれないが、さりとてその家族を捨ててまでお志乃と一緒になろうというつもりはない。山田巳之助にしてもそうだ、彼は妻子持ちではないが、情婦のような女は数人いる。べつにお志乃にそれほど惚れ込んでいたわけじゃない。しかし彼らはみな、お志乃に言い寄っていた。
 ……たとえば、もし山城屋がお志乃といい仲になって、やがてお志乃を芸妓の仕事から落籍(ひか)せて、妾にしたとしよう。しかしその後、お志乃が幸せになれるとはとうてい思われない。なぜなら、妾はしょせん妾に過ぎないからだ。一時の慰み者に過ぎないからだ。飽きられれば捨てられてしまうことは最初から分かっている、そうだろう。
 おれが耐えられなかったのは、山城屋も、それから山田巳之助も、そうしたことは全て分かったうえでお志乃を口説いていたことと、お志乃もまたそのことを分かったうえで口説かれていたことだ……お志乃はあんな商売の妓だから、口説かれるのも商売のうちだと高をくくって彼らは口説いていた、そうした関係ぜんたいが不愉快だったからだ」
「だから斬ったというのか」
 阿部八十朗は鋭い眼差しを相手に向けて尋ねた。
「そうだ」
 それきり、二人はしばらく黙っていた。山崎は視線を畳の上に落とし、阿部はそんな山崎を見つめ続けた。
「……しかし、山城屋が死んだあとにおれが藤多津に行ったとき、いとまごいに来たと言ったおれに対してお志乃は、お嫁さんをおもらいになるんでしょ、だからわたしのところにいとまごいに来たんですね、とそう訊いてきたんだ。おれはそのとき、そんなことは考えてもみなかったと答えたが、その時はたと気がついたんだ。おれ自身、お志乃のところへ通うことと、嫁をもらうことにはなんの矛盾も感じていなかったってことをね。おれはべつにお志乃を手に入れようとか、そんなふうには思っていなかったが、結局のところはおれも山城屋もさして変わらないんじゃないか、そう思ったんだ。
 ……しかしそのあと、山田がお志乃と愛宕山へ行ったことが分かったときには、自分でも自分を抑えることができなかった」
 その時、阿部八十朗はふっと笑いながら軽く頭を振ってみせた。
「おかしいか」
 少しばかりきっとした表情になった山崎に対して、阿部はなだめるような口調で答えた。
「そうじゃない、おかしくなんかないさ、ただ……まるで芝居のように出来すぎた話だと思ってね。まるで用意してあった答えを聞かされているような気がしたものだから、つい笑ってしまったんだ」
 それから阿部は表情を真面目なものへとがらりと変えて、あらためて山崎慎一郎に尋ねた。
「おれはそこもとのことをよく知っているつもりだ。小沼栄太郎という名だった頃から知っている。だから、お前がいまおれに語って聞かせたようなことをお前がまったく考えていなかったとは言わない、いましがたの言葉がつくりごとだったと言うつもりはないんだ。ただ、もしお前が、おれの知っている小沼栄太郎という名をかつて名乗っていた男ならば、斬るところまではいかないと思う。おれはさっき、お前に理由を尋ねはしなかった。おれは、お前をそこまで突き動かしたものがなんだったのかを知りたいと言ったんだ」
 そう問われて、山崎慎一郎は長いあいだ黙ったままでいた。まっすぐに自分を見つめる阿部の心を量ってでもいるように、山崎もまた阿部の顔を見つめ続けた。ほの暗い行灯ひとつに照らされた部屋のなか、しばらくは二人とも言葉を発することもなく、聞こえるのは行灯の中で灯心が燃えるときに発する微かな音だけだった。
 やがて語り出したときの山崎慎一郎の眼のなかには、かつて少年だった頃、空き地で竹刀を手に阿部と対峙したときに見せたものと同じ炎が燃えているように阿部八十朗には思われた。
「……狂人のたわごとだと思って聞いてくれ」そう前置きをして、ふたたび山崎は語り始めた。
「初めに山城屋を斬った晩、二階の座敷へ上がったおれは、廊下でおもとと──お前も知っているだろう、あそこに古くからいる年増の女中のことだが、そのおもとと出くわしたんだが、おれはその時におもとが運んでいた膳を見て、少しばかり驚いたんだ。
 その時おもとは、何かの鳥の肉を照り焼きにした肴を燗徳利といっしょに運んでいたんだが、おれはおもとに、それは何の肉だと尋ねた。するとおもとは、あら、山崎さま、お久し振りでございますわねと言ってから、これは雉の照り焼きですと答えたんだ。
 その言葉を聞いたときのおれはかなり狼狽していたはずなんだが、おもとはそのことに気付いたか気付かなかったか、続けておれにこう訊いてきた、山崎さまは酉年のお生まれですかってね。おれは違うと答えたが、おもとはそのあとこう言ったんだよ、酉年のお生まれの方は鳥を食べるのを好まないなんて言いますけれど、じゃあ山崎さまはそれとは関係ないんですね、とね。おれはその時、そんな話は聞いたこともないと言ったんだが、その時におれが感じていたことを他人に説明するのはとても難しい話なんだ」
 そう言って山崎はいったん言葉を切った。そして続きを話し始めた時の彼の眼の中には、異様な光がちらちらと燃えていた。
「おれがその時おもとと交わしたものとそっくり同じ会話を、それ以前におれは夢の中で経験しているんだよ。夢の中で言葉を交わしたのが誰だったのか──おもとだったのかそうじゃなかったのかは覚えていない。しかし交わした言葉の内容と光景はそっくりそのまま同じだった。お前はこんなことを体験したことがあるか」
「ない」と阿部は短く答えた。
「──常軌を逸した話だ、と阿部は思った。むしろさっき聞かされた青臭い芝居めいた話のほうがまだ現実らしい。しかし山崎の表情は真剣そのものであるし、こんな話をおれにしたからといって罪科が軽くなるわけでもない。ということは、この話は少なくとも、山崎本人にとっては真実の話なのだろう。
「──常軌を逸した話だ、ということは自分でも分かっているよ」と山崎は続けた。
「数年前から、おれは人が死ぬ夢や人殺しの夢を見て、夜中にうなされるようになった。夢の中で、おれは不吉な前触れが続くのを見て、ああ、このままではいけない、このままでは悪い結果になる、そう思ってなんとか最悪の結果にならないようにと願うんだが、いつもそれを止めることができない。しかも、目覚めている時に夢と同じ前触れが続いてしまうと、おれにはもうどこまでが夢でどこからが現実なのかが分からなくなってしまうんだ。そうして自分でも自分が何をやっているのかよく分からなくなってしまう。
 山田巳之助のときも、槙彦右衛門のときも、必ず前触れがあったんだ。甲、乙、丙と悪い前触れが続いたあとには、丁という結果がおれには見えてしまう。そうした前触れはおれに……丁という結果をもたらすよう強いるんだ。もう一度言うが、こうしたことの全てを分かってくれなどと言うつもりはない。おれ自身、自分の行動が理解できないんだから」
 ここまで語り終えた山崎慎一郎の表情は穏やかなものではあったが、眼差しには明らかに狂気の光が宿っていた。阿部八十朗は山崎の話を聞きながら、自分自身も暗い淵をのぞき込んでいるような感覚を持った。だが自分にはその淵へと下りていくことはできそうもない。ところが目の前にいる山崎は、その淵の中と外を行き来しているように思われた。そして阿部は、そこに二人の間には決して埋めることのできない溝があることを認めたのであった。腕組みをして考え込んでしまっていた阿部に、山崎は「──しかしな、阿部」と静かな口調で語りかけた。
「夢には続きがあるんだ。夢の中でその次におれが見たのは、先ほどの膳を前にして、見知らぬ男が女にしつこくからんでいる情景だった。女は嫌がっているのに、男はしつこく酒を飲ませたり、口を吸ったりしていた。夢で見たその女が誰だったのかもまた、おれは覚えていない。あるいは夢の中で顔は見なかったのかもしれない。ただとにかく、さらにその後におれは夢の中で、男の死体を見下ろしていたんだ」
 そう聞いて、阿部八十朗はぞっとして、思わず固唾を飲んだ。
「夢の中で、男の死体を足もとに見下ろしているおれは右手に抜き身の刀を握っていた。はっと気付いたら、死体を見下ろしていた、という感じなんだ。どう斬ったのか、また本当におれが斬ったのかもわからない。そんな夢を以前に見たことがあったんだよ。
 ところでその晩、おれがおもとと廊下で夢と同じ会話を交わしたあと、おれは一人で飲んでいたんだが、やがてお志乃が少し酔った様子でおれの座敷へやって来て、実は山城屋に口説かれていてとても困っている、とおれに言ってきたんだ。おれはそれを聞いて、もう何がなんだか分からなくなってしまった。正直を言うと、その後のことは、まるで夢でも見ているような感じで、いま考えてもまるで現実のことのようには思われないんだ。
 ……分かってくれなどとは言わない、おれはその晩のことをほとんど覚えていないんだ。ただとにかく、気付いたら山城屋の屋敷の前で、おれは山城屋半左衛門の死体を見下ろしていた」
「お前が槙におれのことで忠告をしてくれたおかげか、おれは槙を斬らずに済んだ。必然の結果がそうならずに済んだわけだ。だからおれは本当にお前に感謝しているんだ。それに、さっきも言ったが、おれは槙に当て身を食らって動けなくなっていたとき、とても良い心持ちだったんだ。信じてくれ、おれは……幸福な気分を味わってたんだよ」
 阿部は複雑な感情を体験しながらも、口では「そうか」とだけ短く答えた。そしてずうっと気にかかっていたもう一つのことを山崎に尋ねた。
「小沼には妹がいただろう、しづさんという名だったと思うが、しづさんは今も息災でいるのか」
 そう問われて、山崎の表情は曇った。
「阿部は知らなかったのか……もっとも、おれもしづも養子にやられたうえに、とくにしづは江戸の商家に引き取られたから、知らないのも無理はないな。江戸の人別に入ってからのことは、さすがに町方のお前でも調べようがないものな」
 そう前置きをしてから、まるで急いで言ってしまわなければならないことのように、山崎はぽつりと「──しづは死んだよ」と言った。

               十一
「死んだ」
「ああ、そうだ。もうずいぶん前のことだ──おれとしづが養子にやられたのは、おれが十三、しづが九つのときだった。おれは山崎家に拾われて、しづは藩の御用商の江戸店にもらわれていった。はじめのうち、しづはそこで毎日毎晩、泣いてばかりいたそうだ。生き別れてから、おれは二度しか妹と会っていない。一度目に会ったときは、それぞれが新しい境遇になってからいくらも経っていない頃だったが、泣いてばかりいることを聞いたおれはしづに、いつまでも泣いていてはいけない、父のためにも自分たちが立派に成長して世間を見返してやらなければならない、そんなふうなことを語って聞かせたことを覚えている。いま考えれば、九つで独りぼっちになってさぞかし心細かったろうに、なぜおれはあんなことしか言えなかったんだろうと思うよ。
 その後も一二度手紙のやり取りをして、しかしなかなか会うことはできずに半年ほど経った頃に、尼寺に入っていた母が死んでしまった。おれもしづも葬儀に立ち会うことは許されなかったんだが、とくにしづにとっては母が死んだことはかなり応えたらしい。おれが手紙を書いても、返事がすぐには来ないようになったんだ。そうしてまた一年ほど経った頃に、おれが出した手紙が封をしたまま戻ってきて、しづは他家へもらわれていったので、今後はそちらへ手紙を出されたしと添え書きがしてあったんだ。しづが行った先は、永代寺の門前仲町にある茶屋だった」
 阿部は暗然とした気持ちでそれを聞いた。
「茶屋奉公へ出されたということなのか」
「ああ、もっともまだ十一かそこいらの小娘のことだ、べつに客を取らされていたとか、そういうことではなかったらしい。しかしおれが一番つらかったのは、しづがそこへやられた……いや、はっきりと言ってしまえば売られてしまった理由なんだ。
 しづが茶屋奉公に出されたことを知ったおれは、居ても立ってもいられずに、まずは元の養子先を尋ねたんだが、思いのほかしづの養父は良い人物で、まずおれに──まだ少年だったおれに養父としての役を果たせなかったことを詫びてくれたんだよ。つまりは、しづがよそへやられた理由というのは、しづ自身に問題があったからなんだ。
 しづは……盗みをはたらくようになってしまったというんだよ。初めは店のものや食べ物をくすねるという程度だったらしいんだが、母が死んでからは店の金にまで手をつけるようになってしまい、手に負えなくなってしまったそうだ。にわかには信じがたい話だったが、ともかくもおれは奉公先の茶屋へ行ってみたんだ。そうして妹に会うには会えたんだが、会った途端、養父の言っていたことが事実であっただろうことが分かった。しづはまるで別人のようになっていたんだ」
 そこまで話したところで山崎は言葉を切って、しばらく考える様子を見せた。次になにをどう話せばよいのかを考えている様子だった。どこからか部屋の中に少し風が吹き込んできているのだろうか、行灯の中の灯がわずかばかり揺れて、それにともなって襖に映った二人の影もまた揺らいでみえた。外では風が出てきたせいで戸板がかたかたいう音がして、夜空を五位鷺(ごいさぎ)が鳴きながら飛んでいく声が聞こえた。
「おれは山崎家へ養子に入り、ここの父母がとても良い人物だったせいもあったんだが、とにかく学問も武道もおれは必死でやった。死んだ実の父のことが引き合いに出されぬよう、そして養父や養母の顔に泥を塗るようなことにならないようにと、毎日そのことばかりを考えて、それこそ死ぬ気で生きていた。その甲斐あって、おれは十五のときには、少なくとも剣では同じ年頃の奴が相手であれば、絶対に誰にも負けない自信を持つようにまでなった。
 そんな頃におれは、茶屋奉公をしていると聞いて門前仲町までしづに会いに行ったんだ。そのときにはおれは以前に比べて体もずいぶん大きく逞しくなっていた。ところが、久し振りに会ったしづは体も小さいままで、やせ細っていて、おどおどとした目だけがせわしなく動く、そんな様子だった。きっとおれがまた意見をしに来たとでも思っていたんだろう、おれとろくに目を合わせようともしなかった」
 阿部は記憶をたどってしづの容貌を思い出してみたが、脳裏にあるしづの姿はむしろ頬のふっくらとした、小さな目がきらきらとした少女だった。しづはまだ幼かった頃には八十朗と呼ぶことができずに、「ああちゃん」と彼のことを呼んだ。そのああちゃんという声がいま彼には聞こえるような気がした。
「おれは……しづを救ってやることができなかった。口では、しづはこんなところに居てはいけない、必ずおれが迎えに来てやるからなどと言いはしたが、その実おれはしづの変わり果てた姿を見て、こんな妹じゃなかったと目を背けていたんだ。そうしてしづはその二年半後に疱瘡にかかって死んでしまった。その時しづはたったの十三だった」
 山崎慎一郎は膝の上に置いていた両の手をにぎりしめ、仰向いて目を閉じて、妹の姿を呼び覚まそうとしているように見えた。
「茶屋奉公をしている妹を見てから、おれはその妹が死ぬまで会おうとしなかったんだ。会えなかったんじゃない、会おうと思えば会えたはずなんだ。しかしおれは自分の中でなんのかんのと言い訳をして、会いに行くのを先延ばしにしていた。そして気付いたときにはもう死んだあとだったんだ。しづはおれに残された、唯一の血を分けた存在だったのにな」
 阿部には山崎がこれまでどれだけ己を責めて生きてきたのかがよく分かった。しかしどのような言葉をかけてやればよいのか分からなかった。
「世の中というやつは公平ではない。おれの父も、母も、それから妹も、くだらないことが原因でつまづいて、悩んだあげくに死んでしまっている。たしかにこんなことは珍しいことじゃないさ、世間にはいくらもあることだろう──だがなぜだ、なぜしづのように死んでいく者がいるんだ。おれには分からないよ、他にはいくらでも安逸な生涯を送る者もいるのに……なぜなんだ、お前にはわかるか、阿部」
 山崎の問いはまるで暗い奈落の底からの呼びかけのように聞こえた。それは、阿部八十朗の胸に刃のように突き刺さった。しかし阿部のなかには、山崎のこの問いかけに対する答はなかった。山崎はそんな阿部の心を見透かしているかのように、「答えなくってもいいよ」と声をかけた。
「もうこれでお仕舞だ。しづも、それからおれの父も母も、すでにこの世にはいない。もはや誰も苦しんではいないんだ。だからおれ自身ももう……彼らのことを思って苦しむのは止めにした」
 そして山崎慎一郎は阿部の顔をじっと見つめ、「──頼みがあるんだが」と言った。
「やり残したことが一つだけあるんだ。済まないが、夜明け頃にもう一度出直してきてくれないか。逃げはしないから安心してくれ」
 阿部には彼の言いたいことがよく分かった。刀を持って立ち上がり、ほんの一瞬山崎の顔を見つめたあと、「ひとりで大丈夫なのか」と阿部は声をかけた。
「そのほうがいいだろう」
 阿部の方を見上げながらそう言ったときの山崎の表情は、ほんのわずかに微笑んでいるようにも見えた。

 山崎の家を出た阿部八十朗は、家に帰る気にはなれず、なんとなく奉行所の方へとぶらぶらと歩いていった。夏ももう終わりなのだろう、今夜は少し風もあり、とても過ごしやすい晩だった。腕を組んで考えごとにふけりながら阿部は黙々と歩いていったが、時刻は深夜をだいぶ回っており、行き会う者は誰もいなかった。
 さっき阿部の目には、山崎はわずかに微笑んでいるように見えたが、それはひょっとすると泣き出しそうになっているのを堪えていたようにも思われた。じっさいのところはどうだったのか分からない。自分の目にはそう見えたというだけのことだ。山崎の独白を聞いて、彼が何をどう感じて生きてきたのかをある程度知ることはできたけれども、彼の思いの強さや深さまでは結局のところ、知ることができない。阿部八十朗はむかし父親が、「他人のことを理解したと言って簡単に感動して涙を見せるような奴は信頼するなよ」と言っていたことを思い出した。ひとが誰か他人のことを知るということはとても難しいことで、大抵の場合は分かったような気になっているだけなのだ。阿部はさっき山崎の話を聞きながら感じた二人の間に横たわる溝のことを考えて、あらためて己の無力さと、人というものが根本的に持っている寂しさを痛感した。
 奉行所のすぐ近くまで歩いてきて、門前で眠そうな様子で立っている番士の姿を見ると、阿部は踵を返して来た方へと歩を戻した。少なくとも山崎のもとへと帰るまでは、たとえ相手が誰であろうと話はしたくなかった。そして再び歩き始めた彼は、無意識のうちに少年時代によく遊びに来た産土神の社へとやって来ていた。もう十年以上は来たことのない場所だったが、子供の頃よくここで隠れ鬼をやって、楠の木や杉の木の太い幹の後ろで息を潜めて隠れたことを彼は鮮やかに思い出した。鳥居をくぐり、月明かりを頼りに参道を歩いてゆくと、普段はまったく思い出すこともないような少年時代の記憶が、不思議なほどに次々と思い出された。記憶の中ではずいぶんと広く感じていた境内も、いまこうして見るとさほど広くもなく、また子供の頃に隠れた杉の木もいま見るとそれほど幹が太くもないので、かえって驚いてしまった。
 阿部は本殿の前まで来ると階段に腰を下ろし、頬杖をついて再び考え事にふけり始めた。しかしここへ来て不思議と落ち着いた気持ちになった彼は、知らぬ間に眠りに落ちてしまった。
 どこか近くの空を二三羽の烏が鳴きながら飛んでゆくのが聞こえて、阿部ははっと目を覚ました。どれくらい眠ってしまったのかは分からないが、空はすでにやや明るくなり始めていた。急き立てられるようにして山崎の家へと向かう彼に、時を告げるようにどこか遠くの人家から鶏の声も聞こえた。
 そして山崎の家へとたどり着き、玄関から入って先ほど二人で話をした部屋の襖をすっと開けると、山崎慎一郎は前へのめるような格好で畳へと突っ伏しており、また畳の上は払暁のうす蒼い光のもとでは黒っぽく見える多量の血で染まっていた。阿部八十朗は山崎の脇で片膝立ちの姿勢になり、両手でわずかに山崎の顔を己の方へと向けてじっと見つめた。目はしっかりと閉じており、さほど苦悶の表情も見られなかった。念のために首筋に右手の人差し指と中指を当てて脈を探ってみたが、やはりすでにこと切れていた。死ぬまではおそらくさぞ苦しかったに違いない、それが死の瞬間にふっと力が抜け、こんな死に顔になったのに違いない、そう阿部には思われた。
 阿部はあらためて彼の体を抱き起こして、傷の箇所を確かめてみたが、脇差しの突き刺さった腹部以外には傷は見当たらず、おそらくはこの一箇所からの失血死と思われた。阿部はがらんとした部屋を見渡してみたが、書き置きのようなものはどこにも見当たらなかった。きっと自分がいちばん初めに来ることが分かっていたために、あえて何も残さなかったのだろう。遺書もなければ、まして辞世の句もなく、切腹に使った脇差しも普段から身に帯びていたものを使ったらしかった。「お前らしいな」と阿部は心の中で山崎に語りかけた。
 山崎慎一郎のなきがらを目の前にしても、不思議と阿部はそれほど悲しい気持ちにはならなかった。この部屋の光景全体が非現実的で、ひとの気配というものがまったく感じられなかったせいかもしれなかった。そのかわり、ふと隣の部屋に何かの気配のようなものを感じ、そう言えばさっき二人で話をしたときもこの襖はぴったりと閉めてあったなと思い、北隣のその部屋の襖を左手ですっと開けてみると、そこは三畳ほどしかない仏間で、仏壇には位牌が五つ並んでおり、その前では線香からまだ煙が一筋立ちのぼっていた。その五つの位牌がそれぞれ誰のものであるのか、考えてみるまでもなかった。
 山崎の遺体のある部屋よりも仏壇のあるこの部屋のほうが、人の気配を濃密に感じるというのは不思議な気がするとともに、背筋が寒くなるような思いもした。阿部は振り返ってもう一度山崎の遺体を見ると、今度は彼の死がとても現実的なものに思われた。五つ並んだ位牌を見て初めて、阿部は山崎が何によって生かされてきた男なのか、また何によって死への道のりを辿るようになったのかをはっきりと知ったのであった。
 もう空はかなり明るくなってきたようであった。これから奉行所へと戻り、宿直(とのい)の者へ事件のことを告げ、鳥居又次郎や奉行の蒔田健吾のもとへも使いをやらねばならない。目付にもすぐに山崎のことを知らせる必要があった。
 阿部八十朗は山崎の家を出て、角を過ぎたところで何とはなしに振り返ってみた。すると生垣の中から枝をのばしたさるすべりが、もう夏も終わりだというのに見事に花を咲かせて、路の上へと花びらをたくさん落としていた。来たときにもこの前は通ったのになと思い、そうか、まだ暗い時刻だったから気が付かなかったのかと思った瞬間、ふいにいましがた見たばかりの山崎の遺体や血で染まった畳のことを思い出し、阿部は軽い吐き気を感じた。さるすべりの花弁の色と血の色とではまるで違うのに、なぜそんなことを連想したのかよく分からなかったし、さっきは何とも思わなかったのに、なぜ今になって吐き気を感じたのかも分からなかった。折り目のついたような生活をしていた山崎なのに、なぜこんなに路上に花びらが落ちているのか、なぜ掃き清められていないのかとも阿部は思ったが、下男を昨日の早朝に里へ返したと山崎が言っていたことをすぐに思い出した。「ということは、いずれにせよ死ぬつもりだったんだな」と阿部は思った。そして、
「それにしてもあの咲きっぷりを見てみろよ。主を失ったことなんかまるで知らないようじゃないか」
 見事に咲きほころぶさるすべりを見ながら、阿部は山崎慎一郎に心の中でそう語りかけた。

さるすべり

さるすべり

  • 小説
  • 中編
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-21

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