フラジュエルの箱庭

フラジュエルの箱庭

2016年11月23日の文学フリーマーケット東京で販売させていただきました、合同誌『仮想人外綴本~廃墟』に載せた作品の長編です。
性的表現を含みますので、苦手な方は自己責任での判断をよろしくお願い申し上げます。
「***」のマークがついているのもには性描写を含みます。三段階でお知らせいたします。

序章 世界の片隅、ふたりきり。

 噂がある。森の奥に放置された廃屋敷に何者かが住んでいるという、どこから出たのか曖昧な話だ。
男が出入りを繰り返し、少女の人形が奥の部屋にあるのだそうだ。
その姿を目にしようと入った者の中に、正常のまま戻ってきた人間はいないという。


 人が群れ、小綺麗な建物が並び、喧噪と賑わいを象徴する大都会。
新しいものに溢れ、古いものは忘れられていく。
忘却されたものはただひっそりと、人々の知らない場所で呼吸を続ける。記憶から消える。
長い年月をかけてゆっくりと、擬態しながら根を張り、蔓延っていく。

 大都市から外れ、住宅街を抜け出し、山の奥へ深く進んだ先に大きな建築物がある。
外壁は緑の蔦に覆われ、屋根には穴の修繕痕が見られた。
庭の雑草や草花は無造作に空を目指し、煙突は煤け、窓は白く曇り、扉まで蔦と苔が覆う。
建物を取り囲む錆ついた赤黒い柵には有刺鉄線が張り巡らされ、生き物を拒んでいた。
 幻のように儚く、そこに〈在る〉ことすら夢のようなそれは、人工物でありながら最初から自然と共存してきたように呼吸する。
絶妙なバランスを保ち、独特で幻想的な空間を作り出していた。
何者も寄り付かせないそれは、廃墟と呼ぶに相応しい。
 蔦の這った重厚な扉の向こう側は灰色の空間が広がっていた。
吹き抜けのそこは広々としていて、壁や床には外から侵入した植物が緑色に根を伸ばし、玄関から直階段にかけて敷かれた赤いカーペットが鮮やかに映えている。
頭上は淡い色のステンドグラスが幾何学模様にはめ込まれた天窓から差し込む光がシャンデリアの代わりを果たす。
階段と地上を照らし、宙を舞う埃のダイヤモンドダストが煌めくと神秘的な景色を作り出していた。
 階段を上り、大きな両開きの扉を開ければ螺旋階段が現れる。
ぐるぐると回る階段は素朴だが艶やかな木目が生かされ、見上げると異界に繋がる道のようだ。
しかし、実際に上ってみると案外短いもので、五階まであるそれぞれの階に難なく辿り着ける。
 どの階の廊下も埃っぽく、蜘蛛の巣が張り、どこまでも灰色だった。
電球は切れ、そのすぐ下に割れた電球のガラスが散乱していた。
人どころか生き物の熱すら感じられない。ひんやりと冷たく、奇妙な生ぬるさがあった。
 中でも最上階は明らかに他の階とは違っていた。
埃や塵など一つとしてなく、壁に取り付けられている照明はどれも新しい。
どの廊下も灰色一色だったにも関わらず、ここだけは真っ赤な絨毯が敷かれ、廊下の端から端まで鮮やかだ。
 一番奥の部屋からは気配が感じられた。
いわゆる非科学的な存在のように寒気を催す気配ではなく、生きているもの特有の息遣いにも似た、
吸う空気にどこか重みを感じる気配。
他の部屋の扉より、繊細で豪華な模様が施された扉は威圧感があり、開けることを躊躇う。
金色に塗られた繊細なデザインのドアノブを回せば、重量を感じさせながらも予想に反して簡単に開く。

 部屋の中は広々としていた。廊下の様相から一変、他の廊下と同じように灰色の空間だった。
入ってすぐの壁沿いに真新しい猫足クローゼットがいくつか並べて置かれ、窓に近い場所に天蓋付きのベッドが置かれている。
その横には真っ白な化粧台があるものの、櫛以外に物はなかった。
色味のない部屋の中央には菓子や果物を置いた猫足のローテーブルと共にくすんだ金色に縁どられた赤いアンティークソファが置かれ、それが最も存在感を放っている理由は色だけではない。
 幅広いソファに仰向けで横になりながら、新鮮なサクランボを口に含む小柄な少女。
窓から差し込む陽の光が、ソファから零れ落ち垂れ下がった白く長い髪に反射する。
伏せられた目、髪色と同じ色の濡れた睫が小刻みに揺れていた。
シーグリーンの薄いドレスを身にまとい、病的に白い肌は空気に触れる面積が多く、温かな日差しの中だというのに見ているだけで寒さを覚える。
サクランボを味わいながら、すらりとした脚を宙に伸ばし、再びソファの上に戻す。
自由奔放で、それでいて囚われの身のように怠惰で無気力な姿は、アンバランスで絶妙な均衡が保たれていた。
揃えられたすべてがたったひとりのために存在し、少女を含めたその空間はおとぎ話のような幻想さと妙な現実感を漂わせた。

「ジュナお嬢様、お食事の際はお座りいただくよう、何度もお伝えしているはずですが」

 いつの間にか扉の前に黒いスーツの青年が直立不動で立っていた。
白い肌と三つ編みに編まれた黒髪に、微かに赤く見えた黒い瞳。整った顔立ちは涼しげで、笑みを浮かべながらもどこか冷たさを孕んでいた。
ジュナと呼ばれた少女は伏せた瞼をゆっくりと上げ、青年を見る。
その目は白く、宝石のように輝き煌めいていた。……いや、宝石そのものだった。
遊色効果により様々な色に変わる様子からしてオパールのようだ。
オパールの瞳を一度瞬かせたと思うと、青年に微笑む。

「サイ、貴方はわたしのなぁに?」

「従者でございます、お嬢様。それとも、その年で私のことをお忘れですか?」

 サイというこの青年は、従者と言いながらも主人に対しての口の利き方は失礼極まりなかった。
しかし、ジュナは気にすることもなく横目に彼を見ながら目を細め、艶を帯びた笑みを向ける。

「貴方よりも十は若いから安心してちょうだい。貴方が呆けても、気が向いたら覚えておいてあげるわ」

「そのご心配は無用です。お嬢様とは頭の出来が違いますゆえ」

 返す言葉は主人に対するものとは思えないほどに不躾だ。
ジュナはそれを当たり前のように聞き流し、テーブルに置かれたチョコレート菓子を手に取ると口に含んで転がし始める。
指についたチョコレートを舐めとり、サイを挑発した。

「何か、言いたいことでも?」

「ええ。とても、見苦しゅうございます」

 そう言いながら、寝そべりながら菓子を口にするジュナに近づく。
素早く取り出した白いハンカチで彼女の口端についたチョコレートを拭い、再びハンカチを畳んだ。

「お嬢様は上品さの欠片もございませんね」

「あら、失礼ね。こんなにも愛らしいと言うのに」

「それはご自身で決めることではございません」

「貴方、わたしを醜いとでも?」

「心は濡れた泥猫のよう」

 ジュナは不機嫌に頬を膨らませ、体を起こした。
座ったまま、近くに立つサイの足を靴の上から裸足で踏みつけ、彼の上着を掴んだと思うと自身に引き寄せる。

「最近、少しお口が過ぎるわよ……?」

「私は事実を言ったまで、でございますが?」

「わたしに不満でもあるの?」

「ないと思っていらっしゃったことに驚きです」

 ジュナの眉間に皺が寄る。
それでも美貌は保たれたまま、精巧に作られたビスクドールのように人間味が薄かった。
対称に、サイは始終済ました顔で冷笑を浮かべる。
 しばらく宝石の瞳と、黒い瞳は見つめ合っていた。
そのうち飽きたジュナが視線を逸らし、興味を失って再びソファに横になる。

「もういいわ。貴方に不満を与えるのもわたしの楽しみ。
ガラクタみたいな執事を扱えるのは、わたしだけだもの」

「扱われた覚えもございませんけどね」

「貴方は黙ってわたしに仕えていればいいの」

「はいはい。承知いたしました」

 サイの適当な応答に、ジュナはつまらなそうに息を吐いた。
少しして背伸びをし、小さな口からあくびが漏れた。長い睫が繊細に揺れ、目に涙が溜まる。
その涙が、ふっくらとした頬を伝って曲線を描き、宙に零れ落ちた。
零れて空気に触れた涙は煌めきながら、乾いた音を立てて床に転がった。
サイは落ちたジュナの“涙”を拾うと、よく観察をして吟味する。

「……真珠、でございますね」

「ええ。ただのあくびですもの。それとも、血を流して赤い宝石にすれば満足かしら?」

「お嬢様が怪我をされると、治りが遅いですからね。
いちいち気に掛けなくてはならなくなりますから、どうか怪我だけはなさいませんように」

「少しも身を案じてはくれないのね。冷たいヒト」

「私に身を案じられて、お嬢様はお喜びになるのですか?」

「考えただけで吐き気がするわ。頭のほう、診てもらったほうがいいわよ」

 ジュナは再びあくびをするとまた涙が零れ、それはジュナの体を離れて宙に落ち、空気に触れた途端、白い真珠となって再び床に落ちた。

 体液が本人の体から離れて空気に触れると、宝石と化す原因不明の奇病。それが、ジュナを巣食う病だ。
生まれたときから、ジュナの身から出た体液は彼女の体を離れ空気に触れた瞬間、宝石となり零れ落ちる。
体から離れると宝石化する、それは他人の体に体液がついた場合でも同じだった。
ジュナ以外の人間が彼女の体液に触れるとその上で宝石化してしまい、しばらく取ることができなくなる。
 ジュナの体液が宝石化したものは質がよく、時には天然のものより高値になることがある。
それを目当てに命を狙う者も少なくない。それらを理由に自らを世界と隔て、ひっそりと暮らしている。
 唯一、ジュナの体液が体についても宝石化しない人物が死んだ母親ともうひとり。それが、執事のサイだ。
彼がジュナの体液に触れても、それはサイの上で宝石となることなく終わる。
その理由が何故なのかは、サイ以外は知らない。
 ジュナの体液はそれぞれ決まった宝石となって零れ落ちる。
中でも涙は感情によって様々な色の宝石に変わる。怒りであれば赤い宝石。悲しみであれば青い宝石。
あくびや感情の伴わないものは白い真珠など、その時によって違う。
 宝石化した体液はサイが外で資金に変え、現在、彼らはこの廃墟で十分な生活を送っていた。
主がひとりと従者がひとりの、たったふたりには大きすぎる屋敷。
外から見ればただの廃れた場所であるはずのこの場所も、ジュナとサイという歪ながらも欠けることの許されない存在がいることによって廃墟として息づいている。

 しばらくして機嫌を直したジュナは、サイの腕を掴むと再び引っ張り寄せた。
仕方なく、ソファで横になる主人に引かれるまま、彼女に覆いかぶさる。
サイはその煌めくオパールの瞳を見つめ、そこに映る自身の姿を捉えた。
大人びた色を出す彼女の整った唇が薄く弧を描き、囁く。

「今夜も、楽しませてくれるのでしょう?」

 幼くも色気を纏った声に、サイは彼女の目に映る自身の口元が同じように弧を描いたことを知る。

「仰せのままに、お嬢様……」

 サイの後ろ首に両手を回したジュナと、微かな笑い声と共に息が重なった。
広い部屋にはふたりの存在の息遣いと、微かな吐息が響き渡った。

 街から外れた山の奥深くに、人を寄せ付けない、入った者を狂わせるという、廃墟と化した屋敷がある。
そこには、黒髪の男が出入りし、屋敷の奥の部屋には、人形のような少女が暮らしているのだという。
 世界の片隅に追いやられた、ふたりきりの存在は、今日も変わらず、息を潜めて過ごしている。

Ⅰ.臆病少年-カーネリアン-ⅰ

 薄暗い雲が空に広がっていた。遠方から響く雷鳴とともに、暗がりを加速させていく。
日の出はとうに過ぎ、太陽はまだ遥か頭上に留まっている時間だというのに暗雲はその存在を増す。
それはやがて豪雨となった。大粒の雫は触れるものすべてに叩きつけられ、霧と雨しぶきで辺りを曇らせた。
 一人の少年が、そんな豪雨の中をひたすらに駆け抜けていた。
加減なく降り注がれる雨が、少女と見紛うほど華奢な身体を打ちつけ、少年が纏う衣服を重く湿らせる。
丸く大きな目とくるりと跳ねた睫、ふっくらとした頬、線の細い輪郭、日焼けのない白い肌は少年を余計に少女に思わせた。
きっちり着こなされた金のエンブレムが刺繍された黒のブレザーにズボンという出で立ちは学校の制服のようで、少し緩んだ紺色のネクタイで締められていた首元には、しっかりと喉仏が存在していた。
疲労に満ち、途方に暮れた顔に、赤みがかった茶髪が汗や雨で濡れて張り付く。
少し開いた口から洩れる息は荒く、走る足取りもおぼつかなくなっていく。
体力は限界を迎えており、もつれる足を動かそうとすると雨水を吸ってぬかるんだ地面に捕らわれ、その場に倒れ込んだ。

「はあ、はあ」

 顔は泥にまみれ、口の中は錆びた鉄と土の味が広がる。
心臓は文字通り破裂するような感覚に襲われながら鼓動を続け、足は疲労で感覚が麻痺し、動けという脳の命令を無視して泥の上で休息を貪った。
うつ伏せになりながら、ふと自身の掌に目を向けた。細い手は泥で汚れ、爪の間は黒い。
地面に手をついた拍子にできた小さな擦り傷に土がこびりつき、僅かなはずの痛みは激痛に感じる。
 少年は途方に暮れた。泥に足を捕られただけで立ち上がることも出来ず、小さな掠り傷で痛みに顔を歪める。
雨はただ無機質に少年にも降り注がれ、その勢いを止まることなく、一粒一粒の雫が重力に従って打ち付けられた。
辺りは雑木ばかりで、こんな豪雨に入り組んだ獣道同然の一帯を通る物好きなどいるわけもなく、倒れている少年を発見して救助するといった状況になるはずもない。
雨宿りができるような休憩所もなければ、寒さを凌げる都合のいい洞窟もない。
体温は奪われ、体力も底を尽き、元来た道を戻るなどという選択が少年にあるはずもない。
彼は泥にまみれてそこに這い蹲っている他なかった。
不安や恐怖、寒さと空腹への苛立ち、悔しさや惨めさからか、あるいはそのすべてか。
少年は雨と泥、自身の汗の臭いが入り混じる中、鼻で大きく息を吸い、顔を伝う雨水と共に口へ流れ込んできた塩辛さにまた情けなくなり、固く目を瞑る。
歯が擦れ合う音が聞こえるほど噛みしめた。

「あぁぁぁぁぁ!!」

 駄々をこねる幼い子どものように、意味をなさない音を何度も叫び出した。
自身への負の感情すべてがモヤのように胸の内を曇らせ、吐き気を催した。
 少年は今朝の自分の判断を後悔した。
すべてから逃げ出したくて、本気だという覚悟を示したくて、いつもの送迎の車には乗らず、通学路とも違う方向へと朝から小降りの雨の中を駆け出した。
行く当てもなく進む道に、最初は高揚感を覚えた。
今、自分は家からも学校からも外れた道をただ真っ直ぐに走り、迷いも躊躇いもなく社会の荒波に逆らっているという自覚に英雄にでもなった気分だった。
これから自由を手にし、誰にも指図を受けない自分だけの楽園を目指すのだと疑いもなく信じて走り続けた。
しかし雨足が予想以上に強まり、もともとない体力が底を尽き始める頃になって、ようやく自身の甘さと愚かさに気がついた。何も持たずに身一つで何が出来るというのだろう。
当てにする場所も、人も、物もなく、ただの思い付きと勢いですべてを置いて出てきた。
出た後にどうするのかも決めず、ただ窮屈なあの場所から出ればすべてが上手くいくと思い込んでここまできた。謎に湧き出た自信に根拠などないのに。
だからこそ、戻るという選択は頭の隅に追いやった。
戻るということは、自身の甘さも愚かさも認めるだけでなく、周囲にも一生そのレッテルを貼られ、今まで以上に日々を過ごしにくくなる。
何よりも、レッテルを貼られて馬鹿にされ続けることに耐えられそうになかった。
なけなしのプライドが意地でも戻るなと囁きかけ、少年をそこに踏み止まらせていた。
これ以上に落ちこぼれるほどの名誉はないはずなのに、それでも矜持が囁いてくる度に想い人の顔が浮かんだ。そう、これ以上彼女を失望させるわけにも、迷惑をかけるわけにもいかない。
もう後戻りのできないのだ。だが、まさかここで今までの人生をこれで終わらせることになるとは思いもしなかった。
 一通り叫び終わった少年はようやく体を仰向けにし、空を見上げた。
雨は弱まってはいるが、当分は止みそうになかった。顔の泥は雨に当たって洗い流されていく。
少年は大の字になりながら、これからのことを考えた。
何もしなければいずれは死に、静かに終えることができる。
だが、奥にある本能が未だに生きようともがき、出来る限り頭を働かせ今後のことを考えている。

「どうしろって……」

 いつまでも濃い灰色に覆われた空。
視界が歪んで見えたのは、降り注がれる雨のせいだけではないことは知らないフリをした。
再び拳を握り、固く目を瞑る。
頭の中はまとまらず、底のない沼のように考えれば考えるほど深みにはまり、すべて振り払うために勢いをつけて起き上がった。

「もうわっかんないって!」

 そこでふと気がつく。森の奥から古びた屋根が顔を出しているのが見えた。
こんなところに建物があるなど思いもしなかった。
長らく人が踏み入った様子などないこんな場所に建物とは、どう考えても人など住んでいないだろう。
しかし、今の少年にはどちらでもよかった。人がいなければ雨宿りだけでもそこで過ごせる。
仮に人がいたとしても、泊めてもらえるよう頼めばいい。
その人物が危険な人間かもしれないなど、そんな心配は隅に追いやりなかったことにする。
今はとにかくこの状況から抜け出したい。この先どんな危険があろうと知ったことではなかった。
少年は気が変わる前に重い体を起こし、屋根の見える方向へとよろめきながら向かった。

 辿り着いたのは鈍い輝きを放つ有刺鉄線が張り巡らされた柵と、名前も知らない緑の植物や蔦に覆われた古びた建物だった。
屋敷とも呼べる大きさで威厳のあるそれは、最初から自然とともに生まれてきたように辺りと同化しており、異様な気配を漂わる。
雨のせいもあって灰色の背景に薄らと浮かぶ緑と人工物の景色は見惚れるほど幻想的だった。
長らく時代から忘れ去られたものを美しいと思うなど夢にも思わなかった。
少年はその場からしばらく動くこともかなわなかった。

「……すごい」

 ようやく一言、声を発することができた。少年は辺りを見渡し、入り込める隙を探す。
柵をぐるりと一周するが、廃墟だというのに錆びた様子もないそれは穴一つ存在しない。
管理をしている者でもいるのだろうか。
柵は肝試しや土地荒らしを防ぐために最近設置されたのかもしれない。鉄壁の守りに少年は途方に暮れた。

「雨宿りくらいさせてくれたって……」

 ぼやいていると一カ所だけ隙間のできた場所が目に留まった。
近づいてみると、そこだけ扉のように開閉できる作りになっており、それが緩んで半開きになっていたのだ。
少年は思わず満面の笑みになる。

「これなら入れる! よかったぁ、助かったぁ」

 早速、扉を開けて中に入ると駆け足で建物に向かった。玄関と思われる場所で足を止め一息つく。
 玄関の扉は蔦で覆われ、随分と大きさを感じさせた。
見ただけでも重厚だと分かるそれに少年は固唾を飲む。

「だ、誰もいない……よね」

 自分に言い聞かせながら、重い扉の取っ手に手をかける。
ゆっくりとノブを回し、両手で踏ん張りながらゆっくりと扉を開ける。

「お、お邪魔しまーす……」

 申し訳程度の声でそう言いながら少年は中に入った。
するとそこで体が強張り、立ち止まる。目は大きく見開き、目の前の光景に背を向けることもできなかった。
 吹き抜けのそこは広々とした空間で、床や壁には外からの植物が緑の根を張り、内側からも生まれた命が大半を埋めていた。
部屋は四方八方が灰色と緑の壁に囲まれているというのに、玄関から直階段にかけて敷かれたカーペットは目に痛い程の赤色だ。
吹き抜けの遥か頭上は淡いステンドグラスが幾何学模様にはめ込まれ、僅かな光も反射させ辺りを仄明るく照らしていた。
未だ雨は続いているというのにどこからも雨漏りの音はせず、響くのはステンドグラスに当たる雨粒と少年の息遣いだけだった。
普段は息苦しくさせるだけの埃さえもダイヤモンドダストのように煌めき、空間を美しく彩っていた。
 少年は吹き抜けを見上げ、辺りを見渡し一歩ずつ中へ進んでいく。
建物は古びているはずなのに老朽化した様子はなく、床もしっかりとしていて軋む音は聞こえなかった。
階段の前までやってくると、一段ずつ踏み外さないように上り始める。
大きな両開きの扉の前で再び慎重になりながら片側の扉を開けた。
現れた螺旋階段に少年は目を見張り、しばらくそれを眺めていた。
デザインは素朴だが上まで続いている螺旋は、頂上で異界へ飛ばされてしまう錯覚さえ覚える。
 ごくりと唾を飲み込む音がやけに大きく辺りに響いた。
自身の発した音に少年は驚き後ろへ仰け反るが、それが唾を飲み込んだ音だと気づくと恥ずかし気に俯き、駆ける勢いで螺旋階段を上る。
二階、三階とそれぞれの階へ通じる踊り場に辿り着いても、ざっと見るだけで最上階を目指した。
上から順に調べようと考えたのだ。
しかし、どの階も似たり寄ったりで、埃っぽく、蜘蛛の巣と灰色だけが広がり、廊下を照らすはずの電球は割れていて散策する気分にはなれなかった。
廃墟なのだからそういった場所なのは当たり前なのだが、今までこういった古い場所とは縁もなく育った少年にとっては不気味な光景でしかない。
期待もせず、ようやく最上階に着く。そこで最上階である五階の様子に再び目を見開いた。
 他の階では割れて使えなくなっていた照明は新品で少年が辿り着いた瞬間に次々と灯り出し、廊下を明るく照らした。
大きな窓から見える外が曇天で暗いからか、余計にその明るさが目立った。
突然のことに少年の体は強張り、震え出す。
丸い目は左右に泳ぎ、かさついた唇がプルプルと震えていたのは寒さのせいだけではない。
何より、この階だけは生暖かさを感じ、自分以外の「何か」がいることを体で感じた。
廊下に敷かれた真っ赤な絨毯も手入れをされた跡が見受けられ、生き物の舌のような生々しさを感じた。

「なんだ、これ……廃墟じゃ、ない?」

 動揺が隠せず、少年は自身の体を抱くようにして腕を組み、恐怖心にも勝る好奇心に駆られ、ゆっくりと五階に足を踏み入れた。
ふわふわとした絨毯の毛先を靴越しでも感じ、決して不快でも歩きにくいわけでもないその感触を心地よく思い、歩みを進める。
五階にはいくつもの部屋があり、どの扉も似たり寄ったりだった。
どうやら、この建物が全盛期の頃は客室に使われていたようだ。
少年の住んでいた家でもいくつか来客用の部屋があるため、すぐにそうだと分かった。
この場所の異質さや不気味さ、それでいて不思議と心地よくなる安心感に飲み込まれながら、少年の足取りは軽くなる。違和感なく奥へ奥へと吸い込まれていった。
そしてついに絨毯の終わり、廊下の行き止まりで少年は我に返る。
いつの間にか奥まできていたことに驚きながらも、その部屋の前に立っていた。
他の部屋とは明らかに違い、扉には繊細で豪華な模様が施されていた。
金のドアノブは人を選ぶように威圧を放っていた。
扉全体から、他の扉とは比べ物にならない威厳と重圧を感じる。
しかし、奥から漂う空気は危険を匂わせながら甘い香りを放ち、少年を招いていた。
その危うい甘さに抗えず、少年はドアノブに手をかけ、細い輪郭の頬に汗を伝わせながらゆっくりと回した。

 扉は思いのほか簡単に開いた。少しだけ力を入れて押せば、難なく部屋に入れる。
雨が窓を打つ音が響く中、部屋には甘い砂糖の匂いと、それとは別に香水にも似た花の香りが充満し、少年は思わずホッと息を吐く。

「良い匂い……。廃墟って、こんな匂いするもんなんだなぁ」

 独り言を呟き、改めて中を見渡す。広々とした空間は廊下とは違い灰色だった。
真新しい猫足クローゼットがいくつか並べて置かれ、窓の近くには天蓋付きの大きなベッド、その横には真っ白な化粧台があった。
モノクロの部屋の真ん中に目を向ければ、猫足の白いローテーブルが、くすんだ金色縁の赤いアンティークソファと共に置かれていた。
テーブルの上には菓子やケーキが整然と飾られ、並べられていた。
そしてソファの上には、よく見ると人型をしたものが横たわっていた。

「なんでお菓子がこんなところに……というか、人形?」

 肌は陶器のように白く、ふっくらとした頬は微かに赤味を帯びている。
長く煌めいて見える睫は伏せられ影を作り、整った薄桃色の濡れた唇は半開きだ。
白く長い髪は薄光を反射させ、幅広いソファから垂れ下がる。
開いた胸元から覗く胸の膨らみは幼さの残る美貌とは不釣り合いなほど主張していた。
完璧、美、妖艶、幻想……それらの言葉は彼女のためにあると思われる目を惹くその存在は、シフォンの淡い紫の下着のようなドレスに身を包んでいた。
 少年はゆっくりソファに横たわる存在に歩み寄る。近くで見ると吸い込まれそうな圧倒的存在感。
どんな最高の褒め言葉も、彼女を表すことはできないように思えた。少年は恐る恐る、彼女に顔を近づける。
すると、伏せられた瞼がおもむろに開かれた。

「うわあ!」

 すぐさま彼女から飛び退くように離れ、少年は体を震わせ尻餅をつく。

「ににに、にんぎょ、人形じゃない!」

「失礼なヒト……」

 大人びていながら、艶のあるソプラノの声は眠気を帯びていた。
上体を起こし、人形のような少女は口元に弧を描き、開かれた不思議な色の目を細め、少年を捉えていた。

「レディのお部屋に勝手に入って、無礼にも顔を近づけて、挙句に叫んで〝人形〟だなんて」

「しゃべ、しゃべった!」

 未だ震え腰を抜かす少年に、何一つ歪みのない少女の額に皺が寄った。
弧を描いていた唇を少し尖らせ少年を睨む。

「貴方、先ほどから失礼ね。わたしはこの城の主。人のお家に入ったら、礼儀というものがあるでしょう?」

 ようやく少年は落ち着き始めたのか、改めて少女を凝視した。
生きている人間であることは間違いなかった。しかし、この世の存在には思えないことも確かだった。

「ご、ごめんなさい! その、雨宿りできる場所を探していまして、
それで、この廃墟が目について、ちょっとの間だけ、雨宿りさせてほしくて、それで、だから、その」

「ふーん? こんな大雨の中、わざわざこんな場所まで来て、雨宿り……ね」

 少女は少年をじっくりと観察し、それからまた笑みを浮かべた。

「貴方、お名前は?」

「ぼく、瀬朱(せあか)久瑠海(くるみ)、です」

「瀬朱久瑠海……見た目も女の子みたいなのに、名前も女の子みたい」

「はい、あの、その、よく言われます……」

 久瑠海は俯き、その目には自虐と諦めの色が見えた。
少女は「面白いものを見つけた」と言いたげに唇を僅かに舐めて濡らし、ソファに座り直した。

「わたしはジュナ。このお屋敷で、執事とふたりで暮らしているの」

「あ、あの、暮らしてるって?」

「そのままの意味よ。ここに、ふたりで住んでるの」

 背を仰け反らせ、腕を上げ、それから一気に力を抜く。
その一連の動作がやけに色っぽく、背をのけぞらせたときに胸を張った際のその膨らみに、思わず目がいってしまった久瑠海は赤面する。
それを知ってか知らずか、ジュナはゆっくりとした動作で脚を組み、座っている隣を軽く叩いた。

「とても汚れているのね。ちょうど退屈していたところなの。貴方のお話、聞かせて?」

「え、あ、あの、はい……」

 久瑠海は立ち上がり、言われるままジュナの隣に腰掛けた。それから、ここにいたるまでの話を始めた。

「ぼくの家、瀬朱って結構有名な企業の社長で、ぼくはその後継者……なんだけど……」

 久瑠海の家である瀬朱家は有名企業の創設者であり、現在父親がその三代目。
久瑠海はその跡継ぎとして教育を受けてきた。
いわゆるお嬢様やお坊ちゃまと呼ばれる子どもが通う学園の高等部一年に通っており、運動は人並みより下だが、勉強は常に学年トップの成績を誇る。
しかしながら、父親には「人を率いるだけの強さも人望もない」と認められず、学校でも容姿や名前が女子のようであることから嫌がらせや、優れた家柄や成績への嫉妬から時に暴力も受けていた。
決められた許嫁もいるが、明るく活発な彼女と自分は釣り合わず、強気な彼女にはいつも怒られてばかりいた。
下に出来のいい弟もおり、父親も弟ばかり気にかけ、弟からも兄である久瑠海はいないものとして扱われている。
家の窮屈さや学校の居場所のなさから、耐え切れなくなった久瑠海は今朝、思い立って家を出たのだ。

「それから、当てもなく走り回ってて、それで、気づいたら知らないところまできてて、森の奥深いところにいるって気づいたときには、帰り道も分からなくなってて。
道がぬかるんでたから、転んだり……。もうどうにでもなれって思ってたら、遠くからここの屋根が見えたんだ。だから、雨宿りにいいかもって思って、柵も開いてたし、入ってきました……勝手にすみません」

「そう。ところで、あなたのお母様は? お話に出てこなかったわ」

「母さんは、優しい人だよ。こんなぼくにも、すごく優しくしてくれて。
でも、やっぱり、弟のほうが可愛いみたい」

 ジュナは目を細め、隣で諦め半分に笑って俯く久瑠海を眺める。

「ところで、ジュナちゃんは? どうしてこんなところで暮らしてるの? 
すごく不思議な容姿だし……ハーフとか? ご両親は? 兄弟とかいるの? 
こんなに広い場所に、本当に二人だけで暮らしてるの?」

「質問ばかりのヒトはキライ」

 呆れ気味に言われ、久瑠海は口を押える。

「ごめん、つい……。だって、ジュナちゃん本当にお人形さんみたいで、なんか、同じ人間とは思えないくらい綺麗なんだもの」

「あら、ありがとう。わたしのママは海の向こうの生まれなの」

「へえ! え、じゃあ、髪色とか目はお母さん譲り? 
向こうの人って随分不思議な色の髪と目してるんだね」

「いいえ。ママの目は茶色よ」

「え、じゃあ、お父さんの色?」

「冗談はやめて。この目はわたしだけの特別なものよ」

 そう答えたジュナの視線はどこか冷たく、しかし感情も読み取れなかった。
よくよく見てみるとジュナの目は白いだけでなく、キラキラと時おり色を変えていた。

「ねえ、その目、もしかして、オパール……?」

「ええ。よくご存知ね」

「母さんのネックレスが同じ宝石だったから。
でも、ジュナちゃんの目のほうが、全然綺麗だよ! だけど、目が宝石……なの?」

 微かに声を震わせ、眉をひそめる久瑠海にジュナは笑った。

「どうかしら? 夜になるとブラックオパールになるの。ちゃんとした目よ。
わたし、少し変わった病気を持っているの。それで目も宝石のように見えるだけ」

「びょ、病気って……こんなところに住まなきゃいけない病気って、もしかして、感染病とか? 
それ、人に感染するの? じゃあ、ぼくにも!」

 怯えきった久瑠海はソファから立ち上がるとジュナから距離を取る。
体から何かを振り払うように服を払い、手を拭く。

「貴方、失礼にもほどがあるわ。感染なんてしないし、別に死ぬようなものじゃない。
貴方みたいな弱虫が気にすることじゃないわ」

「弱虫って、ぼくは弱虫なんかじゃない!」

 言い切ったものの、ジュナから向けられる冷たい視線は背筋を凍らせた。
冷や汗が止まらず、見られていると体の芯まで凍らされる気がして目を強く瞑った。

「ごめんなさい、傷つけたなら、謝るよ」

 その言葉にジュナも多少は落ち着いたのか、久瑠海に興味をなくしたように目を離した。

「いいわ。行く当てもないのでしょう? 失礼で弱虫だけど、思い切りの良さは嫌いじゃないわ。
しばらくここにいなさいな」

「え、いいの?」

 意外な言葉に久瑠海も驚きを隠せなかった。
さっきまでの冷たい視線のあとに続く言葉とは思えなかったが今の久瑠海にはありがたいことだ。
これでしばらくは寝床に困らない。
ここにいられる間に、これからどうしていくかを考えていこうと薄ら思った。
それに一つ屋根の下で、稀な美貌を持つ似た年頃の少女と一緒にいられることは満更でもなかった。

「そういえば、ジュナちゃんはいくつなの? 学校通ってる?」

「質問が好きね。学校には行っていないわ。もし通っていたとしたら、貴方と同じ学年よ」

「そうなの!? 全然、同い年に見えないや」

 気の抜けた声を上げ、瞬きを繰り返した。
ジュナは久瑠海に構わず、テーブルに並べられた菓子の中からケーキの皿を手に取る。
ふんわりと焼き上げた卵色の目のきめ細かいスポンジは、皿の動きに合わせて小刻みに揺れる柔らかさと弾力を見せ、周りを覆う白く濃厚な生クリームは見ているだけでなめらかな舌触りを感じさた。
カスタードクリームの塗られた二枚のスポンジの間に挟まる苺は瑞々しく、賽の目に切られ、ベリージャムを混ぜたソースがたっぷりと絡んでいた。
チャービルと大きな苺を載せたショートケーキはプロのパティシエが作る高級菓子に見えた。
 ショートケーキに載った苺をつまみ上げると、舌を出してその表面についているクリームを舐めとる。
苺の表面を舌先で撫で、そのまま小さな口には大きすぎた苺を咥える様子を凝視していると、苺を味わいながら横目にジュナが久瑠海を見ていた。
久瑠海は視線に固まり、慌てて視線を逸らすと耳まで赤くさせながら俯いた。

「そうだ、執事さんってどこにいるの? 全然、見かけないけど」

 目を細めたジュナは半分だけ食べた苺を口から離した。
皿の隅に食べかけの苺を置き、添えてあった小さなデザート用の銀のフォークを持つとケーキの先端を切り落とす。
一口大にしたケーキに改めてフォークを突き刺し、ジャムが零れないようにしながらたっぷりとクリームをつけ口に運んだ。
その際に口端にクリームがつくが、ジュナは気にせず、ふわふわなスポンジをフォークの先で突いて遊ぶ。

「さあ? わたしの無能な役立たずは、一体どこに行ってしまったのかしら」

 ジュナの独り言のような言葉を聞きながら、一体どんな人なのだろうと間抜けな顔で宙を見ていた久瑠海は口を開こうとした。
 その瞬間、喉元から急に圧迫され呼吸ができなくなる。
突然のことに立ったままだった自分の体に一体何が起こっているのか理解できず、気づいたときにはジュナは遠ざかり、後ろには固く冷たい壁があった。
優雅にケーキを食べ続けるジュナの様子を見ながら声にならない声で助けを呼び、久瑠海はようやく目の前の人間に気がついた。いつからそこにいたのかは分からない。
霞む視界には長身で、黒い長い髪を胸の前で緩く三つ編みにしている女とも男ともつかない顔をした人間が立っていた。冷めた視線と微笑を向けられながら、その人物によって首が締め上げられていると理解するのにひどく時間がかかった。
ようやく喉元を掴むその手に自身の両手をかけるが、振り払うなど到底できない。
このままでは本当に死ぬ。そう悟り、意識も遠のいていく中、「……イ、離していいわ」と微かにジュナの声がした気がした。
その声と共に息苦しさは一瞬にして消え、再び脳まで酸素が行きわたり始める。
滞っていた生命活動が一気に動き出したせいで、久瑠海は吐き気と眩暈にその場でうずくまり、しばらく咳き込み続けた。
 辛うじて顔を上げる。
見上げたその人間は中性的な顔立ちと胸の前で結べるほどの長髪をしていたが、凛々しい輪郭からはっきり男だと認識できた。
黒色の、心を見透かしてきそうなその目は一筋の赤色を帯びた気がして目を瞬く。
怒りや恐怖よりも先に、息苦しさを覚える緊張と動きを止められているような錯覚に陥る支配力で押さえつけられ、久瑠海は汗が止まらず、ごくりと固唾を飲む。
 男は久瑠海を一瞥し、踵を返してジュナの元へ歩み寄った。
その歩き方は洗練されており、無駄を感じない。

「只今戻りました、お嬢様」

「遅かったのね、サイ」

「雨風がひどいものですから、予定より遅くなりました」

「そう」

 ジュナも、サイと呼ばれた男も、まるで先ほどのことはなかったように会話をしている。
ようやく動けるようになった久瑠海はふらつきながら立ち上がり、掠れた声で問う。

「ジュナ、ちゃ……そのひと、は?」

 ローテーブルに置かれていたティーポットから紅茶を注がれたジュナは、カップに口を付けてから答えた。

「わたしの執事」

「その人が、執事?」

 先ほど久瑠海にしたことは、執事ではなくとも、初対面に対して行うものとは到底思えなかった。
一般常識的に考えれば言葉も交わしたことがない、顔も合わせたこともなければそもそも認識すらしていなかった相手に首を絞められ、殺されそうになるなど、久瑠海の人生の中ではあり得るわけがない。
しかし、そんなことを平気でやってのけ、今では久瑠海をいないものとして声をかけることも謝罪もしないこの男には、抗議することも常識を説くことも無駄にしか思えなかった。

「サイ、その子に貴方の紹介でもしてあげて」

「何故、私がそのようなことを?」

「命令よ」

 無気力で、面倒そうに言うジュナの言葉にサイは頭を下げ、改めて久瑠海へ体を向けた。
きっちりと角度を付けて頭を下げたあと、再び姿勢を戻し微笑んだ。

「執事のサイと申します。お嬢様の身の回りのすべてを任されております」

「あ、瀬朱、久瑠海……よろしく、お願いします」

「瀬朱様……ですか」

 久瑠海の名前を聞いた途端、サイの目が細く、探るような目に変わる。
何か粗相をしてしまったのかと、青ざめた久瑠海は思わず数歩退いた。
何時間にも感じる数秒、二人の間は居心地の悪さを生み、肌を刺す痛みを感じる。
 そんな雰囲気を知ってか知らずか、先ほどまでショートケーキをフォークで突いては遊び、紅茶を味わい、苺を味わっていたジュナがケーキの最後の一口を食べ終えると、悪戯な笑みを浮かべた。

「サイ、その子、しばらく置くことにしたの」

 その言葉にサイの張り付いたままの微笑が動いた気がした。
久瑠海から視線を外してジュナを振り返れば、少し前までの気まずさは消え、代わりに冷たさが押し寄せてきて久瑠海は身震いした。

「失礼ですがお嬢様、理由をお聞きしても?」

「貴方が失礼なのはいつものこと。前置きなんて、気持ち悪い」

 ジュナは食後の紅茶に口をつけ、再び話しを始める。

「その子、気に入ったの。ちょうど退屈していたところだわ。それに、しばらくは帰る家もないみたい」

「そうですか。私には関係ありません」

 爽やかな笑みを浮かべて言い切ったサイに、久瑠海は傷ついたように顔を歪め、目に涙を溜める。

「サイ、わたしは貴方のなぁに?」

「ええ、頭の弱い主人でございます」

 悪気もなく言い切るサイの言葉をジュナは気にすることもなく、紅茶の入ったカップをすぐ足元の床に向けて裏返した。
すると、紅茶は床に撒き散らされ、埃一つなかった床に茶色い溜まりができる。
ジュナの白く細い、それでいて肉付きの良い柔らかな素脚にまで紅茶は飛び散り、雫が太腿や脹脛を伝う。

「綺麗になさい」

 一言、意地悪で挑発的な艶やかさを含んだ声でジュナは命じる。
先ほどまで怠惰で無気力な少女は、威厳ある女主人の顔をしていた。
サイはそんな主人にため息を吐き、彼女に歩み寄ると跪いた。
何も言わずに白いハンカチを取り出し、ジュナの脚を片手で丁寧に持ち上げると、脹脛に飛んだ紅茶を綺麗に拭いていく。

「本当に、品などあったものではございませんね。乳児ではないのですから。
折角磨き上げた床が台無しでございます。もっと気を付けていただけますか?」

「そんなことより、主人の心配をまずすべきではないかしら? 心配の言葉一つかけられない無能な執事ね」

「ここに心配をすべき尊いお方など居りませんから」

 流石にその言葉には反応したのか、ジュナは脹脛を拭くサイの紐ネクタイを引っ張ると顔を上げさせ、自身も前のめりになりながら互いの息がかかるほど顔を近づける。

「貴方は黙ってわたしのために動いていればいいの。貴方が尊ぶべきはわたし、仕えるべきはわたしよ。
わたしに使われて、わたしに跪き、わたしが死ぬときは貴方も死ぬの。分かっているでしょう?」

「……御意のままに」

 返事に満足をしたジュナはサイを下に見ながら微笑み、手を離すと腕を組んでソファの背もたれに背中を預けた。
サイは睨むような視線をジュナに向けながらも笑い、主人の脚を綺麗にしていく。
その様子に久瑠海は呆然とし、次には急な気まずさから顔を真っ赤にさせた。

「ぼ、ぼく、外で待ってるから!」

 それだけ言うと、足と腕の振りが一緒になりながら扉へと向かい、外に出た。久瑠海の後ろ姿を見送り、扉が閉まったところでサイはジュナに視線を戻す。

「本当に、あの者をここに留めるおつもりですか?」

「ええ」

「瀬朱の人間だと分かっていながら?」

「……関係ないわ。たまたま来たのがあの子で、たまたま気に入ったんだもの。
少しは退屈凌ぎになるでしょう?」

 ふふふ、と笑うジュナを見るサイの目は無感情だった。
拭いていた主人の片脚を持ち上げながら、捲れたドレスから露わになった白い太腿に飛び散った紅茶はハンカチでは拭かず、サイは赤く柔らかな舌でそれを舐めとった。

Ⅰ.臆病少年-カーネリアン-ⅱ

 部屋の外に出たものの、久瑠海はその場に立ち尽くした。
鈍感な彼でもあのふたりが主従というだけの関係ではないと察する。サイと名乗る執事も若く美しかった。
年齢もまだ二十代といったところか。そんなふたりが廃屋となった屋敷で生活を共にしている。
思春期の只中にある久瑠海は、興味をそそられずにはいられない。
他人の色恋沙汰には大して惹かれるものはないが、容姿端麗なあのふたりは別だ。
謎の美少女にその執事、久瑠海の頭に甘酸っぱい妄想が繰り広げられる。
 ぼんやりとふたりの関係について考えていると、部屋の扉が開いた。出てきたのはサイだ。
一度、部屋の中に深く頭を下げ、音を殺して扉を閉める。
その後、初めてそこに久瑠海がいたことに気づいたような冷ややかな視線を送った。

「まだ居らしたのですね。何か御用ですか?」

「え、あ、あの、ぼく、ジュナちゃんに、しばらくここにいてもいいって言われて……」

「……あぁ、そうでしたね。お部屋にご案内致します」

 サイは微笑みながらも、久瑠海に敬意も親しみもない目で淡々と言葉を吐き、案内のため歩き出す。
久瑠海はその態度に苛立ちや怒りよりも恐れを感じながら、刺激しないよう無意識にそっと歩き、音を立てないようにする。
自分でも馬鹿なことをしていると分かっていながら、動きの一つ一つ、五感に気を配って歩き、息を潜めなければいけない気になる。

「普段通りにして頂けませんか? 背後の気配が気になって仕方ありません」

 前を行くサイに言われ、久瑠海は思わず背筋を伸ばし、その場に立ち止まる。

「ご、ごめんなさいっ!」

「謝罪は結構です。そのような歩き方が流行りなのですか? 
それなら、もっと上手くやっていただけないものでしょうか。とても不快です」

 一切、久瑠海を振り返ることもなく、柔らかな口調で棘のある言葉を吐くサイは歩みを止めずに進んでいく。
このままでは見失うと久瑠海は反射的に駆け出し、ぴったりと彼の後ろにつき、先ほどのような動きを止め普段通りに歩みを進める。
しかし、優雅にゆっくりと歩いているはずのサイに普段の速さでは引き離されてしまう。
決して速くはないはずのサイに追いつくのが必死になるほど困難なのか、久瑠海には分からなかった。
どうにか駆け足で彼の黒い背中を見失わない距離を保つ。

「ところで、えっと、あの、その……執事さん」

「口にしたいことがおありでしたら、堂々としていただけませんか。
貴方様を取って喰うなど意味を成さない事は致しませんのでご心配なく。
そうやって無駄な気を遣われるのも、それ故にうだうだとされるのも癇に障ります」

 少しばかり問いかけようとしただけだというのに、こちらも見ずまくしたてられるように言われた久瑠海は言葉に詰まってしまう。
初めてサイに対し不機嫌を込めた声で問う。

「じゃあ訊きますけど。ジュナちゃんとはほんとにただのお嬢様と執事ってだけの関係なんですか? 
ずいぶん、仲が良いように見えましたけど」

「貴方様の目は随分と、汚れ腐った節穴でございますね」

 さらりと澄んだ声で言い放たれた言葉に、久瑠海はすぐに何を言われたのか理解が出来なかった。
「ヨゴレ クサッタ フシアナ」を頭の中で単語ごとに区切り、「汚れ 腐った 節穴」と理解できた頃には既に怒りを表すには遅すぎた。
次の言葉を考えている間にも、サイの言葉が再び耳から流れ込んでくる。

「私はお嬢様の執事、仕えて差し上げている身です。
そしてお嬢様は、私を使わせて差し上げている主でしかありませんので、
無駄な詮索で私の手を煩わせないようお願い申し上げます。こちらが、貴方様のお部屋でございます」

 久瑠海が言葉を発する間もなく、いつの間にかいくつもの階段を下り、辿り着いたのは埃と蜘蛛の巣だらけの一階の部屋だった。
最上階の華やかさ、清潔さとは打って変わり、灰色と濃い闇に支配された不気味な廊下の奥の角部屋。
未だに降り続ける大雨の影響で窓の外は薄暗く、その気味の悪さが際立っていた。
案内された客室の扉はそれなりに頑丈で、見たところ腐った様子も錆び付いた様子も見られない。
廊下は埃被っているが中はきちんと整えられているはずだと、怯みそうになった久瑠海も気を取り直した。サイはそれほど印象に残らない部屋の扉を開けた。扉は軋むことなくすんなりと口を開き、二人を中へ通した。
 最初に久瑠海の目に飛び込んできたのは、灰色の壁と雨が流れ伝う大きな窓だった。
カーテンもなく、ジュナの部屋のように豪華な家具が置かれているわけでもない。
部屋の隅に古びたクローゼットが整然といくつも並び、その前にはベッドフレームがいくつも積まれている。
ソファは継ぎ接ぎだらけ、埃被ったテーブルが上下に重なっていた。
一見して、とても人が住むような部屋ではないことは確かだった。
まるで物置のような乱雑さに呆然とし、噎せるようなカビ臭さが肺に重く圧し掛かる。
仮にも客人である自分が連れて来られるような部屋ではない、案内される場所を間違えられたとしか思えなかった。

「あの、ここは?」

「その両耳はお飾りでございましたか? 先ほど、貴方様のお部屋だと説明させていただいたばかりですが」

「ここが部屋って、ただの物置じゃないか!」

 流石の物言いに久瑠海も思わず声を荒げた。サイは冷え切った、鋭い蔑みの目を向ける。
それが強気だった久瑠海をまた臆病な小動物へと変えてしまう。

「ご不満でしたら、今すぐここから去っていただいてもよろしいのです。
それが困難だというなら、私がわざわざ、直々に貴方様を放り出して差し上げても構いません。
それも嫌だと仰るのでしたら、どうぞこちらをお使いください」

 久瑠海に選択肢などあるわけがなかった。
自らの意志で去ったとしても、ここにいるサイという男がただで帰してくれるとは限らない。
サイに直々に追い出されることを選んでも、生きて帰ることを保証されているわけではない。
そう思わせるほどの威圧と、得体の知れない寒気がそれを物語っていた。
久瑠海に残された道はこの物置を借りてしばらくこの廃墟の世話になることだけだ。
最も今更この雨の中で帰り道を探してまで、家出をしてきた場所にわざわざ戻ろうとは思えない。
どんな威圧に晒されようとそのプライドだけは譲れず、そんな自分が情けなくもなけなしのプライドは辛うじて守れていることに少しだけ安堵した。
しかし、そのプライドはここにいる限り守り通せるほど強固なものではないことも薄々気がついている。

「……ここでいいです。ありがとう、ございます」

 それ以上の言葉など返せるはずもなく、久瑠海は俯いた。
サイは自身より二十センチも低い相手を上から一瞥し、そのまま久瑠海を置いて階段の方へと歩き出した。

「文句がないのなら、最初から素直にそう仰ってください。気難しい〝お客様〟ですね」

 鈍感な久瑠海にも分かるほど、隠す気のない悪意に拳を強く握りしめた。
しかし、後ろから殴りかかれるほどの勇気も体力もあるはずもなく、下唇を噛み、言葉も飲み込む。
久瑠海は晴らせないモヤを込め、一面埃だらけの床に足を踏み入れた。

 着けている腕時計の針が夜の七時を示していた。
物置と大差ない部屋に案内された久瑠海は、せめて今夜眠る場所だけでも確保しようと他の家具とは離れた場所に置かれたシングルベッドの埃を叩いていた。
幸いそのベッドだけ埃避けの布が被せらていた。
布を取り除く際に埃が舞うと咳き込み、同時に呼吸を整えようと深く息を吸う。
それが再び肺に取り込まれ、吐き出そうと咳き込むことを繰り返す。
未だに降り続ける雨のせいで空気を入れ替えるために窓を開けることも許されない。
一度この終わらない呼吸の攻防から抜け出そうと、久瑠海は部屋を出た。
今いる部屋がある一階の踊り場まで小走りで向かい、ようやく息がしやすい場所に来ると深呼吸をした。
埃っぽさからは抜け出せないが、少なくともあの部屋にいるよりもずっと新鮮な空気を取り入れることができた。
 咳払いをしながら改めて辺りを見渡す。見上げれば、本当に見事な螺旋階段が続いていた。
相変わらず最上階である五階は異世界への道に見えた。
あの場所だけが世界から切り離され、時が止まっているようだ。
そして主であるジュナも、あのまま年を取らずに何百年と時を過ごしてきた人形のようで、そのジュナに仕えるサイは人形に心を奪われ時を止められた一人の青年なのか。
それとも、人形に命を吹き込んだ魔術師か。どちらにせよ、あの二人がこの世界とは別の時間を生きていることは明らかだった。
その間に誰かが入り込む隙がないことも、日を見るより明らかだ。入り込んではいけない。
それがこの廃墟の、世界の暗黙の了解であり、禁忌であり、絶対的なルールだ。
 吹き抜けの天窓に大粒の雨が当たり、窓に伝う雫が影を作っていた。
影は螺旋階段を見上げる久瑠海の顔にも降りかかり、雫が流れると影は同じように久瑠海の顔を伝った。
上から風が吹き抜け、久瑠海は身震いする。

「寒いな……。お風呂、借りられないかな?」

 思えばここへ来るまで雨の中を走ってきたのだ。
雨と、汗と、泥の汚れで全身はベタつき、服は乾いたことで雨の生乾きと土と汗が混ざり合った臭いを放っていた。
ここに来たときには気にも留めなかったそれに気づいてしまった今、久瑠海はいつから、どこまでこの臭いが続いていたのか気が気でなくなった。
ひょっとしたら、ジュナやサイはこれに気がついているかもしれない。
しかし、あえてそれを口に出さなかったのかもしれない。なぜ? 気遣いだろうか? 
自分が思っているよりも、二人は優しいのかもしれない。
 俯きながら考えていると、どこから出てきたのか分からない長身の男が目の前に立っていることに影で気づいた。
驚いた久瑠海は顔を上げ、体を仰け反らせ数歩後ろに下がる。

「うわぁ! って、サイさん?」

 立っていたのは冷めた目をして微笑むサイだった。
口元は人の良さそうな笑みを浮かべているというのに目は全く笑っていない。
そのアンバランスで、しかし整った表情は久瑠海の背筋を凍らせる。

「こんな所で、呆けたように立っておられたのですね。出口はすぐそばでございます」

 そう言いながら、白い手袋をはめた手で雨音が聞こえてくる大きな扉を示した。
この建物の最初の扉だ。少しでも「思っているより優しいのかも」と思った自分が情けなくなった。

「……少し、考え事をしていただけです」

「左様でございますか。どうぞお部屋にお戻りになってからお考えください。
こちらに長々立っていられると、階段の通り道を塞がれてしまいますので」

 要約すると「邪魔だから部屋に戻れ」と言われていることは久瑠海にも理解できた。
反論できるほどの言葉も持ち合わせず下唇を噛み、ぎゅっと掌を握り、部屋への道を戻るためサイに背中を向けた。
一歩前に足を踏み出そうとした瞬間、サイは思い出したように久瑠海に声をかけた。

「瀬朱様。その嗅覚を刺激するものを故意に発しているわけではないのでしたら、
今お使いいただいている物置に浴室がございますので、そちらをご利用ください。
タオルは後ほどお持ちいたします。石鹸類をご所望でしたら、浴室の棚にいくつかございますのでご自由に」

 足を止めていた久瑠海は何から言えばよいのかわからなくなった。
浴室やタオルや石鹸が使えることに礼を言うべきなのか、遠回りに臭いのことを言われたことに腹を立てるべきなのか、使っている部屋を「物置」と明言されたことを悲しむべきなのか。
頭の中はぐるぐると回り、今ある知恵を絞って導き出した答えは、すべて一つずつ言うことだった。
早速、久瑠海は順を追って言葉をかけようとサイを振り返った。

「あの!」

 しかし、そこにサイの姿はなかった。久瑠海があれこれと考えている間に、颯爽といなくなってしまった。
彼は久瑠海の返事など端から待っていない。分かっていたことなのに、情けなく途方に暮れた。
とにかく、今は自身を綺麗にすることを優先しなくてはならない。
久瑠海は頭を抱え、髪を掻きむしり、両頬を叩いて気をとり直した。

「向こうがその気なら、ぼくだって!」

 意地でも次を見つけるまで、ここから離れないと決めた。
サイが音を上げて、久瑠海をきちんと客として扱い、敬うまでここにいてやる。
あの涼し気で冷めた表情を崩してやる。それが久瑠海の一つの目標となった。

 部屋に戻り温かなシャワーを済ませると、久瑠海が懸命に埃を叩き落としたシングルベッドの上に真っ白でふんわりと膨らんだ、高級だと分かる白いタオルが置いてあった。
ベッドの下には黒いサンダルも用意されている。
ずぶ濡れのままで行けという意味で故意にベッドの上に置かれているのかどうかはさておき、タオルはまともなものを置いてくれたことにこの時ばかりは感謝した。
久瑠海はタオルを取ると、その下に着替えも置いてあった。
着替えを見るまで、自身が制服以外の洋服を持っていなかったことを忘れていた。
親切なのか辛辣なのか、鞭の比率が多い気がする。久瑠海はありがたく着替えを借りることにした。
 少しダボついた白いシャツと黒いスラックスに着替えた久瑠海はようやく落ち着き、水気をよく吸うタオルで髪を乾かした。
少し湿った毛先を指先で遊び、ベッドに腰を下ろす。軋む音が響くが気になるほどではなかった。
大きな窓の外は嵐だ。手首に巻き直した腕時計は八時半を差している。
今更になって空腹を覚え、久瑠海の腹が響いた。
着替えまで用意してもらったが、果たして食事も用意してもらえるのだろうか。
あの|(サイ)がそこまで親切にしてくれるとは思えない。
しかし、空腹に気づいてしまった体は食事を求めていた。
困り果てた久瑠海は大きなため息をつき、背伸びをする。

「……ジュナちゃんに、頼んでもらおうかなぁ」

 思いつくと早速ベッドから立ち上がる。少しだけ髪を整えて、シャツの裾をスラックスの中に入れた。
ボタンもシャツの一番上だけを外してすべて留めていることを確認し、体の埃を叩き落とす。
用意されていた合成ゴムで出来たサンダルは少しブカブカだが歩きやすい。
床と靴底が擦れる度に摩擦で音が鳴る中、ジュナの元へ向かった。

 螺旋階段の最上階まで行き、息を切らしながら一番奥、ジュナの部屋の扉をノックし中に入った。
ジュナはシャンデリアの明かりの下、赤いソファの上にうつ伏せで寝そべり、退屈な顔をして本を読んでいた。
いつの間に着替えていたのか、背中の開いたワインレッドのイブニングドレスに、団子に纏まった白銀の髪がよく映えていた。

「まだ、入っていいなんて言っていないわ」

「ご、ごめん……」

 見惚れていた久瑠海は、本から目を離さずにいるジュナに声をかけられると慌てて返事をする。
区切りのいいところまで読み終えたのか、ジュナは寝そべりながら久瑠海に目を向けた。
最初に見た時は白く煌めいていたはずの瞳は、今は黒く時おり色を変えている。

「じゅ、ジュナちゃん、目が!!」

「……最初に説明したはずよ? 夜になるとブラックオパールになるの」

 呆れた顔をして、間抜けに驚く久瑠海にため息をつく。ジュナは起き上がると、ソファに座り直した。
片方の太腿が露出するスリットのあるドレスのようで、彼女の白くすらりとした肉付きのいい脚が顔を覗かせた。
それに顔を真っ赤にさせ、顔を背けながらも時おり横目で盗み見る。

「そ、その、お、お願いがありまして、来たんだけど」

「わたしにお願いに来るなんて、久瑠海はおもしろいのね」

 久瑠海の様子が新鮮で面白いのか、それとも滑稽で可笑しいのか、ジュナはコロコロと笑い声を上げた。
笑われて流石に不機嫌になった久瑠海は未だに耳を赤くしながらも、しっかりとジュナに目を向ける。

「夕食のこと、なんだけど」

「それならサイに言えばよろしくてよ」

「あの人、ぼくのこと嫌いみたいだし、怖いし……」

「ええ、そうでしょうね。サイはよそから来る人間に厳しいもの」

「なんで、そんなに厳しいの?」

「決まっているでしょう? あの子はわたしを守る道具だから」

 ジュナの目には蔑みと嘲笑と、何かが浮かんでいた。
サイもそうだが、ジュナには仕えてあげているだけだと言っていた。仲が悪いのだろうか。
しかし、仲の悪さ独特の嫌な空気は感じない。
それよりも、もっと何かまとわりつくような、よく分からないもの。
ふたりだけの何かがあった。未だに関係が掴めない。

「その……。ジュナちゃんは、サイさんと付き合ってるわけじゃない、の? 
付き合ってなくても、恋してるとか……」

 先ほどまで余裕の顔を浮かべていたジュナから表情が消えた。
真っ直ぐに久瑠海を見つめ、首を傾げる。
人形的なその動きと表情に冷や汗が吹き出しながらも、久瑠海は続ける。

「だ、だって、ふたりとも美人だし、こんな閉鎖的なところで男の人と女の人がふたりきりで、
恋しないわけないし……」

 ついにジュナの小さな口から、先ほどよりも大きな声が溢れ出た。

「あっははははは! 貴方、本当におもしろいヒト。
うふふふ。わたしが? サイに? ふふふ、おかしいわ」

 馬鹿にしたような笑いと視線に腹が立った。
今までずっとそういったものを浴びてきたが、なぜだかジュナから浴びせられるものには悔しさを覚えた。
下唇を噛んだ久瑠海は拳を握る。

「何がおかしいんだよ!」

「何もかもよ。貴方の何もかもがおかしいわ。
もしかして、わたしもサイも互いを想い合っている仲だと思って? 
サイが|お姫様(プリンセス)に一途な|騎士(ナイト)だと思っているの? 
うふふふ、おかしいわ。おとぎ話みたい」

 怒りが徐々に得体の知れない恐怖に変わっていく感覚を味わった。
始終笑うジュナに腹が立つ、しかしその表情と笑い声には愛らしさと美しさがあって。
宝石が煌めきで笑うようで。一番おとぎ話の住人のような存在である彼女の口から「おとぎ話」と言われたことが、この得体の知れない少女が現実に存在していることを証明しているようで。
宝石の目を持ち、笑い続ける、執事とふたりきりで住む、目の前の少女は本当に存在している生き物なのだろうか。
 そんなことを考えながら、ジュナに畏怖の目を向けていると耳に乾いた音が届いた。
気のせいかと思ったが、不規則に、コロン、コロ、コロンと音がして辺りを見渡す。
何かが落ちているようだ。しかしどこにも何かが落ちている様子はない。
ジュナは気付いているのだろうかと見ると、彼女の目尻が光に反射し、次の瞬間、零れたものがコロンと音を立てて床を転がる。
それが久瑠海の足元で止まった。転がって来たものを手に取ると再び立ち上がる。
掌の上にシャンデリアの光を受けて光る宝石があった。
未だ笑い続けるジュナから、笑うあまり零れる涙が地に着く瞬間、乾いた音が鳴った。
いくつか光を浴びて反射し、存在を知らしめる。

「水晶?」

 ジュナの涙が零れる度に水晶が現れる。それは、久瑠海にとって魔法以外の何ものでもなかった。

「ジュナちゃん、この水晶、なんで……」

 ようやく笑い収まったジュナは久瑠海をブラックオパールの目に映す。
その目に捉えられた久瑠海は見て分かるほどに肩をびくつかせ、数歩後ろに下がった。
それにまたおかしそうに笑う彼女は口を開く。

「言ったでしょう? わたしには変わった病気があるの。それが、これ」

 そう言って自身の足元に転がった小さな水晶を拾い上げ、親指と人差し指でつまみながら見せる。
きらりと輝くそれは、やはり本物だと分かった。

「わたしの体から離れた体液が宝石になる病気。涙もそう。
わたしの血や汗も、わたしの体を離れて空気に触れると宝石になるの。キレイでしょう?」

 それが、ジュナの患う奇病。体液が彼女の体を離れ、空気に触れた瞬間に宝石と化す。
世界でただ一人、ジュナだけが持つ特別な病。
うっとりと眺めてしまうほど美しい宝石が少女の液体で出来てしまう。魔法のような病。
 久瑠海は持っていた水晶を床に落とした。今、自分の目の前に座る少女がとうとう人間に見えなくなった。
濡れた笑みを浮かべ、こちらを覗くその瞳は人間ではなかった。
恐怖で顔は引きつり目が離せず、そのまま震える足で後退る。
地上で無抵抗な魚のように何度も口を開けては閉じることを繰り返し、ようやく掠れた声を絞り出す。

「ば、ばっ、ばけっ……!!」

 後に続く言葉を出すより先にジュナの笑みが消え、表情がなくなったのを最後に視界は黒に遮られた。
驚いた久瑠海は更に距離を取り、目の前に立ちはだかった黒の正体、こちらを見下ろす赤い目を見た。

「ヒッ!」

 冷笑を浮かべるサイだった。いつの間にか音も気配もなく目の前にいた。
久瑠海を見るその目は汚いものを見るような蔑みが込められていた。
その場から動くことも出来ずにサイを見上げ続けている。

「瀬朱様、お嬢様に何か御用でしたか?」

 尋ねる声は変わらず、穏やかで物腰は柔らかいが冷たい。
赤く見えた目も、もう一度見るといつの間にか見透かされるような黒に戻っていた。
多少なりとも、落ち着きを取り戻した久瑠海は固唾を飲み、乾いた口で言葉を発する。

「ジュナちゃん、に、食事のこと、頼もうかと、思って……」

「ならば此処から動こうともしない怠けたお嬢様ではなく、私に聞くようにお願いします。
二度手間な上、食事の提供をするのは私です。お嬢様を通すだけ時間の無駄であり非効率的で無意味。
この部屋来るまでにそれくらい考えられませんでしたか?」

「え、あ、あの、ご、ごめんなさい……」

「瀬朱様のお食事でしたら一階の食堂にてご用意しております。
わざわざ用意をし、わざわざ物置までお呼びしに行きましたが、
まさかわざわざ五階のこの部屋にいらっしゃるとは、貴方様は本当に活発な方でいらっしゃいますね。
お食事が冷めますので、お早目にお召し上がりください。
ご心配なく、わざわざ貴方様に毒を盛るような遠回りな手段は用いませんので、お心行くまでどうぞ」

 混乱する頭でも「手を煩わすな、さっさと食いに行け」「殺すことは造作もないから毒は入れていない」と言われたことは分かった。
サイの言葉を信じるべきか迷ったが、彼なら自分を毒などの方法で殺したりはしないだろうとは信用できたため大人しく従うことにした。
微かに震えながらも部屋の扉へ向かい、最後にサイとジュナを振り返ると頭を下げた。
静かに扉を開けて出るとゆっくり扉を閉め、足音を響かせながら階段の方向へ廊下を戻る。

 久瑠海のいなくなった部屋でジュナはつまらなそうに肘掛けで頬杖をつき脚を組む。

「貴方、つまんない」

 頬を膨らませ、拗ねた子供のように言う。

「私はただの執事ですから。お嬢様を楽しませる道具ではございません」

「わたしの道具よ」

「おやおや、人間と無機物の区別も付けられなくなりましたか? 可哀想に」

「冗談でも貴方から〝可哀想〟なんて言葉、気持ち悪くて聞きたくないわ」

 いつものように言葉を交わし、互いを嘲笑する目を送り合う。
それからまた飽きたようにジュナは目線を外し、ため息をついた。

「せっかく、おもしろいところだったのよ」

「その様ですね。お嬢様の下品な笑い声が扉の隙間から聞こえました」

「貴方の品のない姿が見えた途端につまらなくなったわ」

「それはそれは。お嬢様の楽しみを潰せたことを誇りに思います」

「あの子、可愛いの。おとぎ話を信じて、飽きなくて楽しいわ。遊んであげたいもの」

 その言葉にサイの口元は笑みを浮かべながらも目は笑うことなく、刺すような冷たさを全身に浴びせる。
それに素知らぬフリをして妖しげな笑みを浮かべるジュナは目を細め、下唇を舐めた。
久瑠海の出て行った扉を見つめ、小さな笑い声を洩らす。

「あの子、気に入ったわ。どこまで楽しめるかしら。ねえ、サイ?」

 サイに向けて手を差し出す。サイはジュナの前に傅き、その手を取ると唇を這わせ手首にキスをする。
呼吸のような一連の動作を気に掛ける様子もなく、ジュナは真っ直ぐに扉を見つめたままだった。
サイは彼女の手首に唇を付けたまま、横目で同じように扉を見つめる。
細められた黒目は光の反射で赤を見せた後、静かに伏せられた。

 食堂に向かう少年は静かな恐怖と魅せられる幻想に想いを馳せ、最初の夜を過ごした。

Ⅰ.臆病少年-カーネリアン-ⅲ ***

 朝。正確には朝だと思われる時間に久瑠海は目を覚ました。
付けたままだった腕時計を寝ぼけ眼で確認すると針は八時を示していた。平日に起きるにはいつもより遅い。
周りの空気は埃っぽく、窓は雨粒が叩きつけられる音がする。
見慣れない天井は灰色で、部屋は布団を被っていてもひんやりと肌寒く、久瑠海は身震いした。
雨は未だ止まず、空を黒く淀ませていた。
 体を起こし、息を吸いながら背伸びをした。座ったまま背中を反らせ、両腕を上に伸ばす。
全身の力を抜き、両腕を下ろすと同時に一気に息を吐く。まだ覚めない頭は昨日の出来事を思い出させた。

 ジュナの奇病について知り、突如現れたサイに促され一階まで下りた。
焼きたてのパンの香りに釣られて辿り着いた部屋の扉を開けると、赤く分厚いカーテンに閉ざされた大きな窓と、白い布がかけられた長机が目についた。
長机には等間隔に燭台が置かれ、蝋燭の火が灯されたそこは映画や本の中で見る食堂そのままだった。
シャンデリアは明るく部屋を照らし、料理はその中でより各々の色を主張して食欲を促す。
何より、部屋に充満した料理の匂いが急激に久瑠海の腹の音を響かせた。
上座にはジュナの部屋で彼女が寝そべっているソファと同じ色や装飾の一人椅子が収まっている。
左右に等間隔で客人用の椅子が並び、下座には左右の椅子と同じ椅子が置かれ、その席に食事が置かれていた。席に着くと目の前に並ぶ料理に目を見開く。
 きのこクリームスープ、隣の小皿にはクッペと小さなパン切りナイフが用意されていた。
温かな湯気が立つスープと香ばしいバターの香りが体を芯から落ち着かせる。
早速スープを銀のスプーンで一掬いし、口を付ける。
クリームの滑らかなとろみと程よいトリュフの香りが口いっぱいに広がる。
しめじとマッシュルーム、玉ねぎの旨味と甘みがじっくりと溶け出した味は濃厚で、調味料は少量の塩と胡椒のみであることが久瑠海でも分かった。
スープを飲む手は止まらず勢いで平らげてしまった。体は未だにスープを欲した。
自分の家と同じような仕組みであるなら、下座に近い場所にある出入り口とは別の扉の先は厨房に繋がっているはずだと踏み、皿を持って扉へ向かった。
開けた扉とは別に厨房へ行くための扉があった。心を躍らせ、中に入ると広い厨房があった。
部屋や廊下とは変わって一つの埃もないその厨房は、サイがよく使う場所として整え、衛生と清潔を守っているのは容易に想像できる。
反対にあのサイがモップや雑巾を使って掃除をしている様子は全くと言っていい程に想像はできなかった。
 数あるコンロの上に、輝くほど磨かれたスープ用と思われる寸胴鍋が置かれていた。
近くには長いレードルもあり、それがスープの入った鍋であることはすぐに分かった。
鍋の蓋を開けて中を覗き見る。湯気と共にきのことクリームとコンソメの匂いが立ち込めた。
おかわりをよそい、席に戻った。クッペをパン切りナイフでスライスすると、外の皮がサクサクと音を立てて切られ、中の柔らかくモチモチとした白い生地が見えた。
バターの香りと小麦粉の香ばしさが鼻孔をくすぐった。切った一切れのクッペでスープを掬い、口に運ぶ。
サクリとした音とともにバターとクリームの濃厚さが一気に口の中へ広がり、もっちりとした生地が口の体温で溶けた。
久瑠海は教え込まれた行儀の良さも、弁えるべき客人としての振舞いも忘れ、ただ本能のまま食に飢えた獣のようにパンとスープにむしゃぶりつき、鍋の底が尽きるまで貪った。
礼儀知らずだと、下品であることも承知で最後の一滴まで残さず皿に舌を這わせ、舐めとるまでした。
そうまでして満たした食欲を恥じ後悔もしたが、舌に残る味わいや感触、鼻を通る匂いを前に着飾った品性は無意味だと自身を肯定した。
胃が満腹を訴え、突如襲ってくる睡魔を感じると久瑠海は最後に残った力で使った食器を洗い、業務用と思われる大きな水切り台に置くと部屋に戻った。
そのまま倒れるようにベッドに身を預け、眠りに落ちた。


 食事の味を思い出すと幸福を覚え、自身の振舞いを振り返り落ち込んだ。
幸い誰もおらず、ここでの最初の食事が一人だったことに感謝した。次からは己を押さえて食事ができる。
少なくとも、いつも通り行儀良く食べることは出来るだろう。
 そしてジュナの奇病。未だに体液が体を離れ空気に触れると宝石になるというのは信じ難いが、実際に目で見て結晶に触れている。信じないわけにはいかない。
最初に出会ったとき、ジュナは変わった病気のためにこの廃墟でサイと二人暮らしをしていると言っていた。
それが感染するものでもないとも。つまり、実質ジュナの体液が宝石になる病というのは久瑠海には何の害もないのだ。
ジュナももともと人間離れした容姿をしている。違和感はない。
今更ここで魔法のようなことがあろうと、理解に時間を要することが起きようと、動じる必要はどこにもないのだ。

「今日、ジュナちゃんに謝らないと」

 久瑠海は決心して起き上がり、顔を洗ってうがいを済ますと服装を整えた。
髪の寝癖も水で直し、少し不安になりながら部屋を出る。
そのまま埃と塵と蜘蛛の巣にまみれた廊下を歩き、螺旋階段までやってくると五階へ向かった。

 五階のジュナの部屋までやってきた久瑠海は深く呼吸し固唾を飲む。
ドアノブに手をかける前に思い直し、大きく厳格な扉をノックする。
少しするとジュナの「入りなさい」という微かな声が外の雨音と混ざって聞こえ、聞き間違いだったらどうしようかと迷いながらも扉を開けた。

「し、失礼します」

「入るなら、早くお入りなさいな」

 言われるままに久瑠海は部屋に入ると扉を閉める。
昨日と変わらずジュナは出来立ての香りを漂わせるクッキーと湯気の立つ紅茶が並べられたテーブルの前に長く白い脚を組み、赤いソファの肘掛けに頬杖をついていた。
胸元の開いた長袖のフィッシュテールドレスを身に纏い、長い白銀を三つ編みのハーフアップに結び、深海を照らすサファイアのように澄んだ青いドレスのアクセントに帯のような黒いリボンを結ぶ。
昨夜と違って目はまたホワイトオパールの色をしていた。
 久瑠海はテーブルを挟んで座るジュナと立ったまま向き合った。
必然的に少し目線を下げることになり、豊満な胸の谷間に目がいって顔を真っ赤に目を逸らした。

「そ、その、おはよう、ジュナちゃん」

「ええ、おはよう」

「あの、昨日はその、びっくりしちゃって。それで、なんか、ごめんなさいっ!」

 久瑠海にできる精一杯の謝罪を口にしたが、思ったよりも言葉が出ず耳まで赤くさせながら頭を下げた。ジュナはそんな彼を観察するように見ていたが、ふと笑みを零すと口を開く。

「許してあげる」

 その言葉に久瑠海は一気に顔を上げ、目を輝かせて笑った。

「ほんと!?」

「ええ。今後一切、わたしから目を逸らさないこと。いい?」

「もちろんだよ!」

 そう言いながら久瑠海はまたジュナの開いた胸元に目がいく。
冷めたはずの頬の熱さが再び熱を取り戻し、手で目を覆い隠した。

「ご、ごめんなさい! ほんとに、あの、見るつもりはなくて!」

「目を逸らさないと、言ったはずよ? 久瑠海」

 ジュナに呼ばれた名前には、不思議な心地よさと有無を言わせない威圧、獲物を捕らえて離さない絡みつく静かな恐怖があった。
それと同時に懐かしさも覚えるが、今の久瑠海には一体それが何だったかは思い出せない。
目を覆っていた手はいつの間にかだらりと体の横に垂れ、しかし意識がある脳は自由の利かない体に焦り、冷や汗が吹き出す。
妖艶な笑みを浮かべるジュナの細めた宝石の瞳に抗うことはできず、彼女の手が隣に座るよう誘導すると素直に応じる他なかった。
隣に座った久瑠海は体が強張ったまま動くこともできず、徐に白い手が膝に置かれても避けることはしなかった。
顔の火照りが最高潮に達しても目を背けることは許されなかった。ジュナの顔が迫る。
濡れた艶のある薄桃色の唇は近くで見ると少し厚い。睫が長く、瞬きをされると頬に微かな毛先を感じることができた。
整った人形の顔は真っ直ぐに久瑠海を捉え、猫のように円らで大きなホワイトオパールの瞳にキラキラと久瑠海の顔が映り込む。
膝に置かれた手が撫でるように太腿へ、それから今触れられてしまうと一生の傷を負うことになるであろう場所へゆっくり上がっていく。
全身でジュナの手の体温、そして顔に迫る生温かで甘い吐息を感じ、腕には想像以上に柔らかな彼女の胸が押し付けられ、心臓が飛び出てしまう錯覚を覚えながらやっとの思いで目を瞑った瞬間。
耳元で笑い声がくすぐった。

「ねえ、貴方、ヴァージンでしょう……?」

 思いがけない言葉にようやく久瑠海は我に返ると、勢いに任せてジュナから離れた。
ソファの肘掛けに背中を殴打し目に涙が浮かぶ。

「いき、なり何だよ!」

 背骨を伝わってくる痛みに辛うじて耐えながら、未だ赤いままの顔でくすくすと笑い続けるジュナに目を向けた。
また蔑むような、人を嘲笑う目をして久瑠海を見ている。
それが悔しくて堪らず、久瑠海は初めてジュナを睨みつけた。

「あら。意外」

「ぼくだって男だ!」

「そんなに怒らないでちょうだい? 大きな声は頭に響くの」

 ジュナは肩をすくめ、少しだけこめかみを押さえて見せた。それに久瑠海は口を閉じ、俯く。

「ご、ごめん……」

「さっきの答えを聞かせて」

 いつの間にかまた近くまで顔を寄せていたジュナの手で顔を上げさせられ、見つめ合う。
大きな目には鏡のように自分の姿がはっきり見えた。間抜けな顔をしていて、慌てて居住まいを正す。

「何のこと?」

「貴方、ヴァージンでしょう?」

「そんなこと! 関係ないだろっ?」

 思わず声が裏返り、目を泳がせたことで質問に対し肯定を示した。ジュナはまた面白がり、コロコロ笑う。

「かわいい」

「やめてよ……」

「ねえ、貴方、意中の人はいないの? 
おとぎ話を信じるくらいなのだから、当然、ひとりふたりはいるのでしょう?」

「そんな、ふたりとか浮気性じゃないか! 好きな人はひとりに決まってるだろ! ……あっ」

 言うつもりのないことだった。うっかり口を滑らせてしまった。
そんな意図などなかっただろうと理解しながら、上手く言動を誘導されたようで妙に腹が立った。
久瑠海は一文字に口を閉じ、これ以上は何も言うまいと努めることにした。
 そんな彼の様子がおかしくてたまらないのか、ジュナはずっと笑い続ける。

「貴方、本当に正直なのね。ウソも吐けない、臆病なヒト」

 言い方がいちいち気に障るが、久瑠海は固く口を閉ざした。
それがつまらないのか、ジュナは少しだけ拗ねて見せた後、ため息を吐いてまた最初と同じようにソファの肘掛けに頬杖をつく。テーブルのクッキーに手を伸ばす。
大判でしっとりと柔らかく、バターの香りが漂うそれは小さな口に咥えられ、その唇の柔らかさでクッキーの一口分が口に入り込み、舌の上でチョコレートチップと共に溶けだす。
甘く柔らかなクッキーを味わいながら、固く口を閉ざしたままの久瑠海を横目で見た。
先ほどまでは揺るぎない意志を持って自信に溢れた顔をしていたのに、今は弱々しく泣き出しそうな目をしていた。
そのうち沈黙に耐えかねたのか、久瑠海は口を開いた。

「許嫁……いるんだ。同い年の、可愛くてしっかり者の女の子」

 ジュナはクッキーを頬張ることをやめないが、話を聞いているようだった。久瑠海は話を続けた。

「ぼく、その子のこと許嫁とか抜きに好きで、いつかは結婚する相手だから嬉しいんだけど。
その子は、ぼくのこと嫌いだからかな。ぼくがいじめられたり、うじうじしたりするとすごく怒るし、学校で声をかけることも許してくれなくって。
あ、でも、許嫁のよしみでクラスも同じなのもあって、係は一緒になってくれたんだ。生物管理係。
ぼくたちは、うさぎの飼育と何棟かある温室の一棟を任されてて、その時だけは怒らないで接してくれる。
まあ、怒らない代わりに話しもしてくれないんだけど……。
こんなに嫌われてるのに、ぼくはその子のこと大好きなんだ。
だって、あんなに怒ってくれるの、あの子だけなんだもの。ダメなぼくを怒ってくれるのは……」

 そう語る久瑠海の表情は少し和らぎ、同時に瞳を曇らせた。
それは諦めにも似た色で、その潔さは吐き気を催すほど純粋だった。
ジュナは伏目で久瑠海を横目で見ながら、チョコレートの絡んだ舌を出し、退屈と不満を隠すことなく顔と態度で思い切り表に出す。
それに気づいた久瑠海はまた哀愁に満ちる。

「やっぱりぼく、弱いよね。かっこ悪いし、ジュナちゃんの言う通り臆病で。ぼく、本当に」

「マゾヒストね」

「そう、マゾヒスト……え?」

 至って真面目な顔をして情けなさに身を委ねて語っていたにも関わらず、唐突に場違いな言葉を挟まれ、思わず間抜けな声を上げた。
その原因を作った本人はつまらなそうにあくびをしてクッキーを頬張り、その欠片が胸に零れ落ちるのも構わずにいる。
舌を使って溶けたチョコレートを唇に塗り、胸元まで砂糖が降りかかる。

「貴方の言う、その愛らしくて強気なレディに毎日のように罵られて喜んだり、
自虐して笑ったりなんて、そういうのがお好みのヒトにしか思えない。
そんなにイジメられることにエクスタシーを感じるのなら、毎日が幸せでしょう」

「えく、ちょ、ジュナちゃん?!」

 久瑠海は顔を真っ赤にさせ、ジュナに抗議の目を向ける。
甘いもので満たされている少女から出る言葉は苦いものばかりだ。

「なあに?」

「ぼくはいじめられることに興奮なんて覚えないし、別に罵られるのが好きなわけじゃないよ!」

「そう? サイに罵られているときも嬉しそうな顔をしていた気がしたのだけど、気のせい?」

「気のせいだよ!!」

「つまんなぁい」

 間延びした調子で言われ、久瑠海は掌を固く握る。
精一杯、反抗の意思を込めてジュナを睨みつけるが、ふとクッキーの欠片が零れ落ちている胸元に目が行く。
バターと砂糖が絡み合ったキャラメル色が胸の谷間に留まっているのを見て、ごくりと喉を鳴らした。
その豊満で柔らかな、白い二つの果実の谷間に挟まれそうな砂糖の塊から目が離せず、知らず前のめりになっていく。
ジュナの胸に載った欠片の行方が気になり、顔が近づく。息を潜め、凝視する。上下する度に揺れ、クッキーが転がる。
瞬きも目を逸らすこともなく見つめ続けていると、突如盛り上がり欠片が上がった。
その動きに目が離せず更に顔を近づけた瞬間。

「熱い視線。触りたい?」

 ジュナの声で初めて瞬きをした。いつの間にかジュナの胸に息がかかるほど顔を近づけていた。
それだけでも顔を真っ赤にしているというのに、ジュナの細い指が谷間に落ちそうで落ちなかったあの欠片をつまみ、久瑠海の口に押し込んだ。
先ほどまでジュナの胸の体温で溶けだしていた欠片が、口の中で消える。甘さが程よく、欠片でもしゃりっとした食感を味わう。
勢いで唾を飲み込むのと同時に味わったものの、自分のしていたことに羞恥が最高潮に達して息ができなくなる。

「ご、ごめ、そんな、みるつもりじゃ」

「いいの。ほら、手を出してごらんなさい?」

 そう言いながら久瑠海の震えている手を取り、そっと自分の胸に押し当てる。
手から伝わる柔らかさ、肌の露出している胸元から伝わる体温は熱いほどに高く、肌のきめ細かさとみずみずしい張りと滑らかさで掌に吸い付いてくる。
すぐに手を引っ込め、後ろに両手を隠す。言葉は詰まって出てこなかった。
そんな久瑠海に構わずジュナは再び迫り、とうとう膝の上に跨り乗った。
もう言葉など失い、されるがままに圧倒され、金縛りにあったように動けなくなる。
ジュナはチョコレートのついた唇を舐め、久瑠海の顔を上げさせる。
戸惑いと狼狽えと隠れた期待を読み取り、笑いが零れた。

「ねえ、久瑠海? わたしの相手をして? 安心して、痛い思いはさせないわ……」

 顔に添えられていた手が、ゆっくりと顎の輪郭をなぞり、首元をすり抜け、きちんと留められたシャツのボタンを一つ一つ撫で、ズボンのチャックに指を載せた。

「瀬朱様、またこちらにいらしたのですね。朝から手のかかるお方で、とても関心です」

 既に聞き慣れた声が雷と共に部屋に響き、久瑠海はようやく息を思い切り吸うと、首を左右に振った。
ジュナが顔を横に向け、その目は少し後ろを見ていた。
ホワイトオパールにははっきりとサイの姿が写り込む。

「サイ。ノックが聞こえなかったわ」

「ええ、お嬢様のその遠いお耳では聞き取れなかったことでしょう。可哀想に」

 未だ久瑠海の膝に跨りながらジュナは不満な声を上げ、余裕の表情を浮かべていた額には小さな皺が寄っていた。
人形のように美しく不思議な少女が、膝の上に跨り、十センチもない距離にいる。
それを理解すると急に体温は上昇し、一刻も早く離れなくてはいけないと理性は警告を出し、久瑠海は暴れ出す。

「ジュナちゃん降りて! 今すぐに!」

「その反応、随分と遅かったわね」

「いいから早く!!」

「もう、暴れないでちょうだい」

 暴れ始めた久瑠海の上にいることを嫌がり、ジュナは渋々降りてソファに座った。
久瑠海はジュナが離れた瞬間にソファから離れ、彼女から距離を置き、背を向けないように後退る。
サイはそんな久瑠海に鋭く突き刺す視線を送りながら微笑んでいた。

「瀬朱様のお食事は不本意ながらご用意させていただきました。
昨夜と同じお席をご用意しております。
早々にお召し上がり早々に退室してください。
片付けは不要です、貴方様は何もお触りにならないでください。
貴方様は鈍間ですか? そうでないなら、今すぐに、食堂へどうぞ」

「は、はいっ! すみませんでした!」

 捲し立てられるように言われ、何も悪いことなどしていないはずなのに謝罪をし、久瑠海は急き立てられるように部屋の扉へ向かった。

「あぁ、そうでした」

 既に扉を開けて出ようとした瞬間に再び声をかけられ、体はビクつき、外に出ようとした一歩が躓く。
立ち止まると顔だけサイを振り返り、次の言葉を待つ。

「昨夜お出ししたスープが底を尽きておりました。
余程食い意地の張った生き物が紛れ込んでいたようで。
瀬朱様、何かお見かけしませんでしたか? 
とても、お行儀が良いとは言い難い不躾な生き物が居るとなれば、
お客様に危害を加えない保証はございません。
早めに見つけ出し処理したいと考えておりますので」

 その目は既に久瑠海のしたことであることを見透かしていながら、あえて問い質していた。
隠すことなど無意味だと知りながら、久瑠海が絞り出すようにして出した答えのほかに選択肢などなかった。

「知らない、です……」

 すぐに目を逸らし、その場から一刻も早く離れたいと去った。
その後ろ姿を部屋にいる屋敷の主とその執事は追うこともなく見送る。

「かわいい。弱くて、臆病で、ウソつきで、純粋。
おもしろいほど単純で、つまらないくらい真面目なの。
せっかく、たくさん遊んであげようと思っていたのに」

「お嬢様」

「なぁに、サイ?」

 サイはジュナを振り返り、ソファに座っている彼女を見下ろす。
その目から主人に対する敵意と殺意にも似た冷たさが隠すことなく発され、雷が鳴り続け部屋を明るく照らす度に煌めく赤には深く濃厚で絡みついて離さない熱と欲が見え隠れする。
その視線を水浴びする天女のように全身で受け止めながら、ジュナは見せつけるように舌なめずりをして艶のある笑みを浮かべ、挑発と蔑みを込めた視線を返す。

「先ほど、何をされていたのですか?」

「貴方に関係があるの?」

「駄々をこねる幼児のような受け答えしか出来ないのですね」

「嫉妬? 自信がないのね」

「お答えください」

 変わることのない視線と笑みを浮かべながら、サイはまた一歩ジュナに近づき、上から舐めまわす目で見ていた。
それを隠すこともなく、彼女も分かっていて、既に冷めた紅茶の入ったカップを持ちわざと零すようにして飲み干す。
零れた紅茶は唇を濡らし、首筋をなぞり、開いた胸元を伝い、谷間に垂れた。
紅茶を溢れさせながら飲むジュナをサイは軽蔑しながら、同時にねっとりと見つめる。

「なぁんにもしてないわ。ちょっとだけ、からかっていただけよ」

「そうですか。とても下品で見るに堪えない絵面でございました」

「貴方にも良くさせられているわ」

「お嬢様がケモノのように縋り付いて来るのをお相手して差し上げているのをお忘れですか」

「まあ、ひどい! 純粋な乙女を好きにしておいて、ケモノだなんて」

「まるで純粋な乙女がいるかのような物言いで。見境なしの雌猫しか居りません。
おまけに被害妄想が顕著でいらっしゃる」

「貴方は早く、その妄想癖をお医者様に診ていただいたほうがいいわ」

 一通り言い合い終えるとサイは跪くことなく、紅茶とクッキーで汚れたジュナの顔回りをハンカチで丁寧に拭い始めた。ジュナは彼を見上げて笑う。

「ねえ、サイ」

「はい」

 ジュナの指がそっとサイの唇に当てられる。サイは胸元を拭く直前で一度手を止め、嘲笑に顔を歪めた。

「仰せのままに」

 その返事に満足したジュナは作業を再開させたサイの、いつもとは違う隠れた色に気づかないまま目を瞑った。


 夜。未だに雨は降り続いていた。激しさを増し、再び嵐の夜となっていた。
雷も鳴り止まず、風は廃墟の城の窓を叩く。廃墟とは言っても、ここはあの二人の城だ。
建物自体は古いが窓が割れる様子はなかった。それもサイが内側から頑丈に、難攻不落の城を作っているのだろう。
人形と見紛う主を守るために。そんなことを思いながら久瑠海は部屋のベッドで横になっていた。
カーテンのない窓が雨風に激しく叩かれ、雷の光と音に晒され、眠れるわけがない。
夕食を終え、入浴を済ませ、寝る準備も出来た。
眠ろうと思い立ってから既に数時間が経っていることを肌身離さず付けている腕時計が教えてくれる。
夜は更け込み、午前一時を迎えようとしていた。

「今日は散々だなぁ……」

 朝にジュナの部屋で彼女に迫られる形になり、何を期待したのか熱く高揚を覚えた。
そのことを思い出すだけで未だに顔が火照り体も疼く。
いくら好きな相手がいても、あんなにも精巧な作りの少女があんなにも生々しくみずみずしい体を押し付けてきて、平静でいられるわけがないのだと言い聞かせる。
そうしなければ恥だと信じて疑わなかった。何度も急所に触れられそうになったことはいくら命があっても足りなかった。
クラスの男子の会話が耳に入る度、既に経験済みの同級生が多い中、自分だけが遅れていることをコンプレックスに持っているというのに。
小心者であることなど同じ年の異性に知られでもしたら、生きていくことなど出来るわけがなかった。
もしかしたら、あのジュナならば既にそんなことを見抜いているのかもしれない。
そう思うだけで気が気ではなかった。
結局その後はジュナの部屋を訪ねることもなく、今のこの部屋で必死に今日の出来事を忘れようと努力して一日を終えていた。
だが、そう簡単に忘れられるはずもなく今に至っている。

「眠れないし、忘れられないし……。今の時間なら、サイさんも流石に寝てるよね? 
なら、今のうちにちょっとだけ、軽く探索でもしようかな」

 独り言を呟きながら頭の中を整理し、心の準備が出来ると起き上がった。
ベッドから降り、サンダルを履くとちょっとした冒険の予感に心躍らせ、そっと扉を開けて部屋を出た。

 一階から順にすべての部屋をそっと覗くだけに留め、ゆっくりと探索していた。
久瑠海の部屋と同じく使われていないであろう場所は蜘蛛の巣が張り、埃被っていたが久瑠海の使っている部屋よりは随分整っている部屋ばかりだった。
そこからもサイは自分を相当嫌っているということが伺え、今この瞬間までよく生かされているなと怒りや悲しみよりも安堵を覚えた。
その調子で五階まで探索にやってきた。五階はやはりどの部屋も埃一つなく清潔に保たれ、この階だけは特別気を配っていることが素人の目からしても明らかだった。

「ジュナちゃん、やっぱり寝てるかな……」

 ほんの興味が湧いただけだった。あのソファ以外の場所にいる彼女を見たことがなかったから。
ベッドで寝ているであろう姿を見てみたくなってしまった。久瑠海の足は既に部屋へと向かっていた。

「そういえば、サイさんの部屋というか、サイさん自体を見てないかも。
どこか別の知らない部屋とかあるのかな……」

 そんな呑気なことを考えながら、ジュナの部屋の前に辿り着く。
そこで微かな吐息と共に少しだけ開いた重厚な扉という異変に気づいた。
ここに来てから感じたことのない空気を感じ取り、息を潜め、扉の隙間から部屋を覗き込む。
雷が鳴り、部屋が光で照らされた瞬間、久瑠海は目を見開いた。



**********

 広い部屋に熱の籠った甘くねっとりとした吐息が響く。大きなベッドの下に深海色の布と黒い帯が散らされ、ベッドの上から不規則な呼吸と微かな声が漏れていた。雷に反射する白銀の長髪がベッドに広がり、実った双丘が時たま大きく揺れ、上下に呼吸する。白く細い両腕は頭の上で縛られ、身動きが取れない。肉付きの良い脚の片方には丸まった下着が引っかかり、その両脚の間にもうひとり、白いシャツを乱し黒いズボンを履いた黒髪の男がいた。手が脚の間よりも奥に入り、指が何度も一点を責めている。その動きに合わせ、ジュナは甘い声を上げながらサイを睨んだ。

「サイっ……いつまで、そこ……ぁっ」

「お嬢様がはしたなく欲した顔をしておりますので、いつまでも」

「いぃ、かげ、やめッ……んっ……」

 ジュナが苦しそうな甘い声で、しかし強い口調で訴える言葉も虚しく、サイはただ愉悦の笑みを浮かべた。指を蕩けた合わせの間に喰ませながら、同時に強く、膨らんだ艶のある蕾を捏ね回した。ジュナが腰を浮かせ、その刺激に耐えながら、更なる動作を求める。

「あッ、ん、だめぇ……!」

「呆れた雌猫ですね。腰の動きが止まりません」

 自ら腰を上下に動かし押し付け、サイの指に擦られる感覚を味わおうとする。その様子を蔑みながらサイは笑っていた。ジュナが欲する様子を見ながら、一向に指は速くなることも遅くなることもなく、動作を増やすこともなく、淡々と一定の刺激のみを与え続けている。波のように押し寄せるそれは水音と共に膨れ上がった。

「そろそろでしょうか。さあ。惨めに、よがって、イってしまいなさい」

 そうジュナに囁いたと同時に、彼女の体は大きく痙攣し始めた。

「あぁっ」

 息が止まる甘いよがり声が、濡れた唇の間から洩れた刹那。サイの指が押し広げている柔らかな合わせの間から、透明な液体が零れ出したと同時にそれはベッドに落ちる間に結晶となり、床に転がると乾いた音を響かせた。サイはゆっくりと指を抜くと、絡みついた蜜を舌で舐め取る。支えを失くしたジュナの下半身はベッドに力なく横たわった。息を荒げるジュナの顔は上気して赤く、露な形の良い胸は張り、その頂点には赤い小さな実が熟していた。腕は相変わらず縛られたままで自由がきかず、サイは冷めた目で見下した。

「穢らわしいですね。お嬢様の雌は遠慮を知らないのでしょうか?」

 サイはひくつきながらだらしなく蜜が流れ出るジュナの窪みを再び指で撫でると、そのまま、今度は奥まで押し込ませ、中の蜜を掻き出した。

「うッ……ん……」

 緩く膣襞を擦りながら、徐々に動きが速く、強くなり、くちゅり、くちゅっと粘液が乱される音が聞こえてくる。溢れた蜜はジュナの体から離れる度に結晶となり輝く。

「んぁ、なに…んっ……このッ……へんた! あぁっ」

「お嬢様ほどではございません。生意気な口を叩きながら、こんなにも緩くされているのですから」

「もっと、やさしく、して……んンっ!」

「私には関係ございませんので」

 ジュナの両脚は無意識に逃げようとベッドのシーツを蹴るが、サイの手から離れることができない。頑なに声を上げないようにと精一杯の抵抗をし始めるが、絶妙な強さと刺激のタイミングで与えられる快楽に逆らいきれず、下唇を噛むように閉じた口から少しでも気を緩める度に吐息と共に短い声が洩れる。その様子をしばらくの間おもしろがっていたサイだが、飽きたのか唐突に指を抜いた。それに思わずジュナは切なげな声を上げるが、すぐにその事実をなくすために口を閉じる。涙に濡れたブラックオパールは憎らし気にサイを映すが、彼の口元は余裕な弧を描いた。

「お嬢様は十分、お楽しみいただきましたね。次は私を愉しませてください」

 低く艶めかしい声で囁いた。次の瞬間、ジュナの欲しがる口が勢いよく塞がれた。奥の小さな扉をその先端が押し上げ、ジュナは思わず呻いた。

「サイっ……あなた、いつもより野蛮……、下品で……気持ちが悪いわっ」

「どうとでも。何を言おうと、組み敷かれて節操もなく欲しているのは、ジュナお嬢様ですから」

 証明するようにジュナがサイを締め付け、微かに余裕を浮かべているサイの目が細くなる。それをジュナが指摘する前に彼は律動を始めた。動けないジュナの上で腰を動かしながら、器用に、サイの大きな手に収まらないほど豊満で柔らかな両胸を揉みしだいた。ジュナは抗えない快楽に身を委ね、両脚をサイの腰に巻き付ける。耐えていた声も次第に意味を成さなくなり、快感に喘いでいた。膣中がサイの滾った性器に掻き乱され、淫らな音を鳴らしながら体液が溢れると宝石となって散らばる。ぐちゅぐちゅ混ざり合う音が、雨と雷によってかき消されていた。次に大きな雷が鳴り、部屋を明るく照らしたときにはジュナの体が弓なりになり、痙攣したと思うとやがてベッドに身を預けた。サイの動きも止まり、しばらく彼女の腰を持って自身を押し付けていたと思うと、やがてゆっくり引くと仰け反ったままの狂暴なそれが糸を引いて抜かれた。彼のソレから伝った粘液が零れる。空気に触れた瞬間、確かな煌めきが混ざり合ったものの中に見えた気がした。

*********



 行為の一部始終を覗いた久瑠海はしばらくその場から動くことができなかった。
頭の中が混乱と困惑で何も考えることが出来ず、真っ白になっていた。
初めて見た男女の営みへの興味と驚き、美しいふたりの様子と体の造形、主と従者であるはずの関係、
恋人ではないと言っていたはずのふたりの言葉が一度に頭の中を駆け巡り、
それを久瑠海に処理する脳などあるわけがなかった。
我に返ると一目散に部屋へと駆け戻り、扉を閉めて鍵をかけベッドの中へ潜り込んだ。
未だに心臓は大きく、痛むほど脈打ち、先ほど見た光景が脳裏に強く焼き付き、興奮と動揺が最高潮に達していた。
結局その日、久瑠海は一睡もできずに腕時計を見た時には既にまた数時間経ち、針は朝の九時を指していた。

 雨は弱くなっていた。太陽があると分かるが、雨雲がどこまでも広がっているせいでその姿が見えることはなかった。
眠ることも出来ずに布団を被っていた久瑠海は、今になって思考がまとまってくる。
昨夜覗いてしまったふたりの情事。ふたりはただの主と執事の関係だと言っていたが、嘘を吐いたのだと知った。
だからと言って久瑠海には関係のない話なのだが、恋人ではないと嘘を吐くのに久瑠海を馬鹿にしていたことが今になって腹が立った。
節穴だの、おとぎ話だのと言って否定をしていたくせに、やることはやっていたのだ。
わざわざ「恋人ではない」という嘘を吐くのに久瑠海の自尊心を傷つけるほど馬鹿にする必要が分からなかった。余計に腹が立って仕方がなかった。
今まで馬鹿にされ続けていたが、ここまで馬鹿にされると今までの怒りが爆発し、その矛先があのふたりに向いた。このまま馬鹿にされて終わることから抜け出したかった。
 また新たに覚悟を決めた。久瑠海は勢いよく布団から出る。
いつの間にかクリーニングが終わって部屋の隅に畳まれていた、ここに来た時に着ていた制服と着てきた下着に着替え靴下と靴を履いた。
しっかり身だしなみと髪を整えた。自信に満ち溢れた顔をしていることが自分でも分かった。
今ならあのふたりに何だって言える。久瑠海はその自信を大切に抱えると部屋を出た。

 ふかふかな赤い絨毯の廊下を進み、この城で一番厳かな扉の前に立っていた。
姿勢を正し深呼吸をする。そして、扉を三回ノックした。
 すぐにジュナの声がした。昨日の情事を見ていなければ、いつもと変わらない声だった。
久瑠海はゆっくりと扉を開け中に入る。

 ソファに寛ぐジュナの姿がそこにはあった。
キャメル色の長袖マキシワンピースに白いレースがあしらわれ、フレアスカートがふわりとソファにかかっていた。
その傍には一瞬の隙のない身だしなみのサイが立ち、表情もなくこちらを見ていた。
久瑠海はテーブルを挟んでふたりと向き合った。

「おはよう、久瑠海。その恰好、ここから出ていくの?」

「おはよう。ぼくの質問に答えてほしくて、来たんだ」

 昨日とは少し顔つきが変わった久瑠海を興味深く、ジュナは観察した。
それから微笑み、彼を真っ直ぐに見つめた。

「いいわ。何を、聞きたいの?」

「……ふたりの、関係」

「それについてはもう答えたはずよ。わたしが主人で、サイはただの執事。それだけの関係だと」

「嘘つき」

 久瑠海は挑むような目を向け、拳を握った。

「ぼく……昨日の夜、見ちゃったんだ。ふたりの、その……そういうこと。それについては謝るよ。
見るつもりで見たわけじゃない。でも、ただのお嬢様と執事の関係だなんて、そんな嘘、もう通用しないよ」

 ジュナとサイは不思議な顔をして互いに顔を見合わせた後、同時に吹き出した。
サイは口に手を当てくすくすと笑い、ジュナも声を立てて笑った。

「あっははははは! 何を言うかと思えば、そう。見たの。
けれど、そういうことをしてるからって、愛し合ってるとは限らないことをご存知なくて? 
まったくの赤の他人と、遊びやお金の目的で交わるなんて、世の中よくあることでしょう?」

「だからって! その……ひ、避妊もせずに、なんて……無責任すぎるよ」

 ジュナは未だに笑いが収まらない様子で、久瑠海を嘲笑う。

「それは貴方の知ることではないでしょう? ところで、貴方はどうして、そんなことに拘るの? 
おとぎ話が好きだから? 真実の愛というものを求めているの?」

 また馬鹿にされた。久瑠海はとうとう怒りを露にした。

「そういうのだよ! そういうのが嫌で、そうやってぼくを馬鹿にして! 
なんでこんな、会って数日しか経たないきみに、きみたちに、こんなに馬鹿にされなきゃいけないんだよ! 
ぼくは馬鹿にされるためにここにいるんじゃないっ!!」

 初めて久瑠海が言い淀むことも、弱気になることもなく言い放った。
今しっかりとここに立っている。初めてそう実感することができた。

「だから?」

 それは一瞬の出来事でしか過ぎなかったのだ。
ジュナの顔から表情がなくなり、あるのは久瑠海を冷めた目で見る視線のみだ。
自分の言いたい事は言い切り、心地よかった久瑠海が予想しなかった一言に固まった。

「だから、なに? 貴方が馬鹿にされようとされまいと、わたしには関係がない。
ねえ。貴方、わたしたちをウソつき呼ばわりする前に、我が身を振り返ってはどう? 
ウソばかりで、臆病で、弱い、自分が大好きな貴方自身を」

 また久瑠海の頭の中は真っ白になってしまった。一体、自分は何を言われているのだろう。
そもそも一体何を期待して自身の主張をしているのだろう。

「貴方が許嫁に叱られるのは誰のせい? 貴方がイジメられるのは誰のせい? 
家から逃げ出したのは? 家族に愛されないのは、なぜ?」

 誰のせい? なぜ? その言葉が耳から入り、頭の中で留まり続け反響する。
自分のせいではない。自分のせいでは。これまで真面目に生きてきた。
そんな自分が馬鹿にされる理由はないし、愛されないのは出来ないことがあるからだ。
仕方ないことがあるだけだ。それを超えることは容易ではないだけで。

「誰の……? なんで、ぼくのせいじゃ!」

「そう、貴方のせいじゃない」

 意外にも肯定の言葉が返され、更に混乱し、その場で狼狽えた。一体ジュナは何がしたいのだろう。
久瑠海をどうしたいのだろう。意図が読めず頭の中は白黒し始める。

「逃げているのは、貴方のせいじゃないものね」

「に、にげ?」

 ここ一番、間抜けな顔をしていたように思う。いよいよ何を言っているのか理解が出来なかった。
そんな彼に関わらず、ジュナは淡々と続ける。

「貴方が弱くてフィアンセに怒られるのは、貴方に強さがないだけ。
貴方がイジメられるのは、その状況に心地よさを覚えているから。
家から逃げ出したのは、貴方に力がなくて、それを受け入れているだけ。
家族に愛されないのは、愛されたいと思っていないから」

 挑発するような物言い。責めるような言い回しはされていないからこそ、その肯定する言い方が心を抉る。
本当に強くないからなのか。心地よさなど覚えていない。力がないことを受け入れているのか。
家族に愛されたいと思っていないのだろうか?
 頭の中はぐるぐると廻り出す。先ほどまでとは違い、頭の中を様々なことが駆け巡る。
なぜ許嫁に怒られるのだろう。彼女は怒る度に目を悲しみに揺らしていた。
それを知っていながら気づかないフリをした。イジメられるとどこか安堵を覚えていなかっただろうか。
まだ誰かの目に留まっている。それだけで優越だった。
体の暴力も精神の暴力も痛みはあったが、その痛みに心地よさを覚えていなかっただろうか。
悲劇の身である自分がこれから成功者として成り上がり、復讐するのだという気持ちを持っていなかったか。
それを思うと笑みが零れなかっただろうか。家から逃げ出したのはなぜだっただろう。
思い立ちからここまで来たのは。出来のいい弟ばかりが持てはやされるあの場所から逃げ出しただけだっただろうか。
家族に愛されないのは、本当に愛される必要を感じていなかったからだろうか。
 違う。違う、違う。逃げたわけではない。物分かりよく現状を受け入れただけだ。
やり返さないのも誰かに相談しないのも、そんな小さなことで悩む暇などないだけだ。
自分は跡取り息子で、弟はその補佐でしかない。誰もまだ、自分の力を見ていないだけだ。
なぜなら、今まで本気を出したことなど一度もないからだ。

「違う、違う違う!」

「なにが違うの? 今、貴方がここにいる。それが答えでしょう? このままがいいのでしょう? 
だから、このままでいられる場所を探しているのでしょう? 貴方はこのままでいたいのでしょう? 
なにも変わる必要はないのでしょう? 好きなだけいればいいわ。それが、貴方の望みでしょう?」

「違う!! ぼくは、ぼくはまだ本気を出してないだけだ!! 
誰もぼくの力を知らないだけだ!! ぼくは、ぼくはっ」

「なぜ、貴方の言う本気を出さないの?」

 あ。問われる前から気づいていた。その言葉だけは、投げかけられたくはなかった。
分かっているのだ。本気を出さない理由も、逃げ出した理由も。

「ねえ、ウソつきさん。貴方、ここに来てなにがしたかったのかしら? 
ただの駄々っ子、子どもみたいなことして。ここは貴方の来る場所じゃないの。
ここはわたしの箱庭。貴方はここにいらないの」

 飽きた玩具を棄てるようにジュナは言い放った。
久瑠海はその言葉で、溢れ出した涙を止めることはできなかった。
最初から分かっていた。ここに居場所がないことなど。

「逃げてるだけの子、誰にも愛されないわよ。
かわいいフィアンセにも、大好きなママにも、こわーい父親にも。
力があるなんて、そのちっぽけな本気を出して認められてから言いなさい」

 既に久瑠海には興味を失い、自身の爪を眺めるジュナに久瑠海は何も言わず俯いた。

「……短い、間ですが……。お世話に、なりまし、た」

 嗚咽が声に出ないよう、絶え絶えにそういうと頭を下げた。くるりと背を向け、震える足で扉へ向かう。

「待ちなさい」

 呼び止められ、思わず立ち止まる。

「貴方には飽きたけど、少しくらいは楽しませてもらったわ。ありがとう」

 皮肉のようなものを感じた。それと同時に思い出し、振り返ることなく訊ねた。

「昨日……ぼくに、何するつもり、だったの?」

「本で〝抱っこ〟というものを知ったの。だから、貴方にそれをしてもらおうと思ったのよ。
まあ、誰かさんに邪魔されちゃったけど」

 ジュナはチラと傍に立つサイを見たあと、再び久瑠海の背中に目を向けた。

「そっか……」

 久瑠海はそれだけ返事をすると部屋を去った。階段を降り、踊り場を抜け、玄関へと足早に向かう。


 サイは開けられたままの扉に近寄り、外へ出ようとした。

「どこへ行くの?」

「ええ。お嬢様と違い、私には仕事がありますので」

「そう」

 それ以上は口を開かず、ジュナはソファに横になった。サイはそのまま部屋を出た。


 雨が止まない中、数日ぶりに思える外へと足を踏み入れた。空に顔を向けると顔に雫が伝う。

「……何、してたんだろう」

 本気を出さなかったのは、認められないことを恐れたからだ。
本気を出して死に物狂いで頑張っても、認められなかったときその結果を受け入れられるほど強くはなれなかった。
どうしようもないところまで否定されるくらいならば、最初から力を残していることにして普段の自分だけを否定されているほうがはるかにマシだ。
許嫁の叱りも、同級生からの暴力も、家族からの無関心も、甘んじて受け入れた。
本気になるよりも、このままでいるほうが優越に浸れた。しかし限界があった。だから、逃げ出したのだ。
すべてを否定されてから離れるよりも今のままでいられるように逃げ出した。それが久瑠海の出した答え。
それが、ここにいた理由だった。

「……帰ろう」

 中途半端に生きる久瑠海に逃げ場などここにはないのだ。
あるのは元いた場所へ戻り、そこにしがみつき、這い上がるという選択肢だけだ。
少なくとも今回の家出には意味があったはずだ。
きっとこの先二度と出会うことのないふたりと、二度と経験することのない体験をほんの短い間だが味わった。
それがこの家出で得た一番大きなことだった。
同時に夢がいつまでも続かないように、現実に帰らなくてはいけない時間が来てしまったのだ。
次は逃げ出すことの許されない。心を決め、また前を向いて歩き出す。
家出をした言い訳を考えながら。そう、思った。
 息が出来なくなった。首を締め付けられる感覚、呼吸をするすべての器官を塞がれる。
脳に血が上り、のぼせる感覚と共に薄れゆく意識の中で首を絞める相手を見た。
赤い目に光る、黒い瞳。そういえば、最初に彼と知り合ったときもこんな風に首を絞められたっけと呑気に思い返しながら、死を薄ら思い始めた。
いつの間にか押し付けられている地面の冷たさが首元から伝わる。
打ち付けられた頭の痛みよりも息の出来ない圧迫感が彼の体を支配していた。

「瀬朱様。これが、もしも貴方様がこの場所を、私たちの事を、ジュナの存在を他言した時に味わう苦しみの一端でございます。
その回らない頭でも、分かりますね。貴方様がその軽く醜悪な口を開きこのことを話した瞬間、貴方様は二度と日の目を見る事はありません。
これは警告であり、必ず行われます。ただし、この事を墓まで……
いえ、もしも来世まであるのだとしたら、その先もずっと口にせず己の中に留めるのでしたら、関わる事はありませんのでご安心ください」

 既に体には力が入らずサイの言葉も途切れ途切れにしか聞こえないが、僅かに首を絞める力が緩められ、
息ができると再び意識が戻り、また首に力を籠められ、一切の呼吸を塞がれる。

「それでは瀬朱様。二度とこちらにお戻りになりませんようご理解ください。
万が一、戻って来られた場合においても、今度はこれだけでは済まされません。
骨の髄に刻み込んで下さいね。ああ、それと」

 とうとう久瑠海が意識を手放す瞬間に、サイは歪んだ笑みを浮かべた。

「瀬朱社長に、よろしくお伝えください」

 その後の記憶はなかった。




 晴れ。ここ数日は太陽が昇り、数週間前の嵐の連続は嘘のようだった。
あの後、久瑠海は病院のベッドの上で目が覚めた。
聞いた話によると、隣町の雑木林に続く道の真ん中で倒れているのが、山を管理する男に発見されたらしい。
久瑠海の制服の内ポケットに入っていた生徒手帳から身元と連絡先が分かり、すぐに家族と学校にも連絡がいった。
すぐに保護され数日は目を覚まさなかったらしく、記憶も一部曖昧になっていたり失っていることから数日入院させられたが、脳に異常が見られず会話もできたことで早々に退院ができた。
 母親は相当心配していたらしく、久瑠海が目を覚ますと泣いて喜び、横になる彼をなりふり構わず抱きしめた。
母の付き添いをしていた弟は僅かに残念だと言わんばかりの目をしたが、口では心配と目覚めたことに対する喜びの言葉を兄に掛けた。
父親は何も言わなかった。仕事を理由に一度たりとも見舞いには来ず、退院し家に戻っても変わらず厳しく、冷たく接していた。
そんな彼の姿を見る度に、最後にあの男に言われた言葉を思い出す。「瀬朱社長によろしく」と。
それを伝えることは久瑠海には出来なかった。その言葉を伝えるということは、あのふたりのことを、あの廃墟の存在を伝えるということだった。
そんなことをすれば、あの男がやってきてこの世で最も残酷な方法で存在を消しに来るだろうと容易に想像が出来た。
家から逃げ出した理由と、見つかるまでの間に何をしていたかを曖昧に、憶えていないように振舞うことで精一杯だった。
見つかるまでの数日は知らない山や森の中を彷徨っていたことにした。


 瀬朱久瑠海は、自分の身に降りかかった不思議と理不尽と甘い幻想を、
ただの妄想であると同時に、誰にも知られることのない秘密として生きていくことを選んだ。

箱庭日常‐アパタイト‐

 晴天。蔦が這り、朽ちた屋敷の息遣いが聞こえる。
鳥たちの囀りが辺りに響き、そよ風が伸びた草や野花を揺らす。
数週間前の嵐は嘘のように穏やかな陽がすべてを照らしていた。

 屋敷の中、最上階の一番奥の部屋。どの部屋も寒々しく廃れているのに対して、その部屋だけは体温が帯びていた。
微かな生き物の鼓動。部屋の中は広々として、赤いアンティーク調のソファが存在感を放つ。
ソファ前にあるローテーブルは食欲をそそる魚のバターソテー、洒落たガラス細工の小鉢にフルーツサラダ、その横には紅茶と艶やかな赤色のゼリーが並ぶ。しかし、それを食す存在はなかった。
 天蓋が張られた大きなベッドの上はシーツが乱れ、白い布が上下運動をゆっくりと繰り返す。
そこに眠る精巧なビスクドールのような白銀の少女は身じろぎする。
瞑られた目を縁取る長い睫が繊細な影を落とし、少女と言うには妖艶さを兼ね備えていた。
薄い布は彼女の身にまとわり、尻から脚にかけてのなだらかな曲線、細いくびれ、柔らかさと丸みのある形の良い豊かな胸を隠すことなく浮き彫りにする。
それらの持ち主も惜しげもなくそれを曝していた。

「お嬢様、お目覚めですか」

 呆れを含んだため息交じりの声と共に天蓋が開かれる。
既にカーテンの開けられた窓から陽の光が直接ベッドに差し込み、部屋の主はそっと宝石の目を開けた。

「レディの部屋に音もなく入ってくるなんて、悪趣味ね」

「ここにレディがいればの話ですが」

 いつもの嘲笑する物言いと共に天蓋のカーテンは素早くそれぞれの柱に括りつけられていく。
ジュナはベッドから上半身をゆっくりと起こした。体を隠す布はすべり落ちる。
肌を覆うのは白いレースをあしらったワンピース。
ホワイトオパールの目はキラキラと色の違う輝きを見せて遊び、薄らと笑みを浮かべ、蔑みの目を向けてくるサイに笑う。

「そこを退いて。ベッドから降りられない」

「先ほどまで起きる気もなかったというのに」

 サイはまた呆れのため息をつき場所を空けた。ジュナは降りる前にあくびをして背を伸ばす。
感情のない涙が零れ、それは肌から離れて空気に触れた途端に真珠に変わる。

「ほら、仕事よ。はやくわたしに着替えを用意して」

 その場でワンピースを脱ぐジュナに冷めた目を向けながら、サイはわざとらしい深いため息と共に複数あるクローゼットの前に立ち止まる。

「本日のご気分は」

「赤色」

 並んでいるうちの一つのクローゼットを開き、複数並ぶ赤い服の中から一つ選ぶと、サイはジュナにそれを運んだ。
何も言わずに下着姿で待つ彼女に素早く着せていき、ジュナもそれを拒むことなく纏った。

 ようやく着替えを終えたジュナにサイは頭を下げる。

「それではお嬢様、早急に食事を終わらせてください。片付きません」

「貴方の不味くて仕方のない食事をわざわざ食べてあげるのだから、もっと丁寧に頼んだらどう?」

 白いフリルとレースを重ねた赤いワンピースに身を包んだジュナは長い髪を胸の前で編み込み、黒いリボンで留めていた。
その出で立ちは清楚で大人しい印象を与える。まるで童話の赤ずきんのようだった。
 ジュナはそのままお気に入りのソファに腰掛け、ナフキンを二つに折ると膝にかけ、流れるような手つきでナイフとフォークを持ち、食事に手を付けた。

 食事も終わり、ジュナは紅茶をすする。
既に終わった食器などはサイが片付け終わり、今はただジュナの傍に立っていた。

「……退屈。久瑠海が来たとき以外、おもしろいことが何もないわ」

「あの者は瀬朱の者です。二度と関わる事はありません」

 ジュナは不満を隠そうともせずにカップを置くと、ソファに背中を預けた。

「偶然来るだなんて、窮屈な世界だこと」

「あなたの気まぐれのせいで、私の苦労が水の泡にされては堪りませんので釘は刺しておきました。
また来るような事があれば、今度こそ」

「随分と、血の気の多いこと」

 サイは笑顔のままだった。その言葉が嘘か本当か、それはふたりにしか分からない。
しかし、久瑠海が次に来たときに彼は保証されない。それだけは確かだ。

「……サイ」

「はい」

 サイは呼ばれ、ジュナの前に来ると傅く。そんな彼をふたつの白い宝石は揺れながら映していた。
口元には笑みも何もない。

「貴方はわたしの道具。わたしと生きて、わたしと死ぬの」

 答えず、ただそっと見つめ返す。

「わたしにすべてを捧げるの」

 熱い小さな掌がサイの頬に当てられた。
彼は笑うと頬に当てられた手を握り、その手の甲に唇で触れる。

「仰せのままに……ジュナお嬢様」

 ジュナは傅く彼に顔を近づけ、彼の唇と触れ合った。一度離れ、今度はサイのほうから重なる。
徐々に深く離れがたくなっていき、ふたりの手が絡まり合い、いつしかソファに雪崩れ込んだ。
いつもは激しいだけ、罵り合うだけの関係もこの時ばかりは儚く、寂しさを帯びていた。
柔らかな交わりに身を任せた。

 それはやさしい、やさしい誘惑。

箱庭日常‐カルセドニー‐ *

 無造作に伸びる草花が涼やかな風に揺れる。朝露を含んだ柔らかな雑草が陽を受けて煌めいた。
高い壁に張り巡らされた真新しい有刺鉄線に守られて佇む蔦の這った廃墟屋敷。
不思議と無秩序な生き物の気配はなかった。
 建物の裏、日影になっている庭を歩く足が濡れた草を踏みしめた。
重さを感じさせない動きで遊ぶように歩く。長い髪が靡いた。
息のような微かな笑い声が聞こえ、動きを止めてゆっくりとしゃがみ込む。

「あら、うふふ」

 澄んだソプラノの声が響く。
象牙色の陶器のようにしなやかで、どこか艶めかしい手が地面に蹲る生命を掬いあげる。
荒い呼吸を繰り返す小さな鳥だ。
白を基調とし、翼を青と黒のグラデーションで染め上げたそれは酷く弱々しく、小枝のように細い脚を僅かに痙攣させる。

「……弱っているの?」

 小鳥は鳴くことなく、ただ少女の手の上に埋まった。
柔らかく、人の熱よりも熱い掌は今の小鳥にはちょうど良いようだった。
少女は立ち上がり、ゆっくり陽の当たる庭へと移動する。
日影から一転、眩しいほど輝く空間に出ると少女はくるりと回った。
太腿ほどの長い白銀が少女を包むように纏わり、長い睫が人形のように精巧な顔に影を落とす。
淡い水色のシルクで出来た着物ドレスの合わせから白い脚が覗いた。
惜しげもなく太陽に晒しながら、清水が溢れ出るバードバスに向かう。
 バードバスから溢れる水に指を浸け、片手に抱えたままの小鳥に雫を飲ませた。
小鳥は僅かに嘴を開き、出来た隙間に水が入り込む。飲み下すため少しだけ首を上げ、また掌に体を沈めた。

「ふふふ。いい子」

 少女が小鳥の頬を撫でたところで、潜んでいた数羽のハトがバードバスめがけて飛んできた。
飛び込むんで上がった水しぶきを少女は避けることも出来ずに浴びた。
手の上の小鳥にはかからないよう、咄嗟に空いていた片手で包み込む。

「こんなところで水遊びですか? ジュナお嬢様」

 黒髪を三つ編みに結い、モーニングコートを着こなした長身の男が笑みを浮かべてジュナに歩み寄る。

「遅いのね、サイ。歳のせいで動きが鈍くなったの?」

「お嬢様が随分と嘗めた真似をされるものですから、少々今後の予定の調整をしておりました」

「わたしより予定の調整のほうが大事?」

「それより、こちらで何を?」

 口元には笑みを浮かべているにも関わらず、眼はジュナを睨んでいた。
普段は黒いはずの瞳も光の反射で一筋の赤を帯びる。
水で濡れた主人の髪から首元、そのまま少し乱れたドレスの胸元に視線を滑らせ、不自然に組まれた手に気づいた。

「……そちらは?」

 サイがようやく興味を示したことにジュナは笑う。
ゆっくりと被せていた手を退けると呼吸をして眠る小鳥を見せる。

「裏で見つけたの。かわいい子」

「それで、怪我をした鳥をどうするおつもりですか?」

「物置に鳥籠があったわね。出して」

「世話をするのですか? 何もできない、お嬢様が」

 嫌味な言い方にジュナのホワイトオパールの瞳はサイを捉える。

「ええ。わたしが見つけて拾ったの。それに、この子家族に捨てられたみたい」

 一瞬、表情を失くしたのをサイは見逃さなかった。
弱って眠る小鳥とそれを見つめるジュナを一度だけ順に見た後、深くため息を吐いて上着を脱いだ。

「治療いたします。お嬢様では出来ません」

 そう言いながら、脱いだ上着をジュナの肩にかける。
彼女の背に手を添えると有無を言わさず屋敷の玄関扉へと向かった。


 夜。サイによる脚の治療を終えた小鳥は白いクッションを敷いたバスケットに入れられ、ジュナの自室のテーブルに安置された。
脚に負担をかけないように丸まり、背中に顔を埋めて心地良くくつろいでいる。
 ジュナはそれを眺めながらソファに寝そべり、拗ねて頬を膨らませていた。

「いつまで醜い顔をされているのですか?」

 サイは紅茶のおかわりを注ぎ、カップをソーサーに置いた。
横目でそれを見ながら、ジュナはそれでも膨れ続ける。

「甘いものはまだなの」

「なぜご用意する必要が?」

「わたしは主人。命令よ、サイ。甘いものを持ってきなさい」

「お断りいたします」

 ジュナはさらに不機嫌になり、体を起こしてサイを睨んだ。
夜になりブラックオパールに変わった目は薄らと潤んでいる。

「用意しなさい」

「なくとも困りません」

 ジュナにとっては必要不可欠であることを伝えるのは屈辱で、サイもそれを知っていて楽しんでいた。
勝手に外出をしたジュナへの仕置きとして、いつも用意している甘いものを抜きにしている。
 こうなったサイが意地でも曲げないことを知っているジュナは、諦める他に選択肢を与えられていない。
怒りを表すが、そのうちただ長く深い息を吐いて座り直した。憂鬱な表情で不満を隠さずにいる。
 着物から片脚を出して伸ばし、両腕を上にして背伸びをした。
ゆっくりとその脚をソファに乗せ、腕を下ろす。腰で絞っていた帯が緩み、合わせが広がった。
豊満な胸の谷間が覗く。涙で濡れた宝石の目をサイに向けた。
弱々しい顔で見つめられ、サイは優越の顔を浮かべる。
甘いものを口にしていないからか嫌な感情で満たされているようで、それがまた不快感の元になり今にも泣き出しそうになりながら、彼に向けて両手を伸ばす。

「……サイ」

 呼ばれてジュナの目の前まで歩み寄る。
彼女から伸ばされた手の片方を握ると、引き寄せながら顔を近づけた。

「ん」

「言葉をお話しください」

「甘いの……」

「ご自分のしたことが分かっていらっしゃらない?」

 ジュナはサイに訴える目を向けるが、慣れない外や甘いものを抜かれたことによる疲れでそれ以上は口答えしない。
代わりにサイと額を合わせながら彼の首の後ろに腕を回す。

「ん……」

「きちんと、言葉に。お分かりでしょう?」

 低く艶のある声で囁きながらジュナの脚を撫で、めくれた着物の中へと移動する。
指がレースの薄い下着に掛けられ、ゆっくりと下ろされていく。
ジュナは抵抗することなく、下ろされるまま少しだけ腰を浮かせた。
脱がされたそれは脚から滑り落ち、彼女の座るソファへと放り出された。
 ジュナは熱の籠った呼吸を繰り返し、サイの耳に薄く柔らかい唇を這わせる。

「はやくして……?」

「仰せのままに」

 顔を見合わせたジュナはサイの唇に自分のを押し付け、舌が絡まるよりも前にキスを止めると、
彼の下唇を軽く甘噛みして引っ張り、離す。
妖艶で意地の悪い顔をしながら、ゆっくりと、今度は自身の下唇を舐め、再び重ねるだけのキスをして離れた。
 ジュナの反抗的な態度に苛立ちを覚えながらもサイは笑みを浮かべ、彼女を横抱きして持ち上げる。
ベッドまで運び、広々とした皺なく整えられた上に放った。
起き上がると緩んでいたドレスが着崩れ、一方の肩が露わになる。
張りのある瑞々しい胸が、誘うように突き出された。
 サイは何も言わずにジュナの肩を軽く押し倒し、横にさせる。
そのまま彼女に覆い被さり、息継ぎが出来ないほど濃密で、だが荒さのない舌の交わりを堪能する。
大きな手では包みきれない豊かな胸を持ち上げながら、硬く色を染めた蕾を撫でた。

「ぁ…、ん……」

 くぐもった甘い声が、口唇の交わりの間から漏れ出る。
息苦しさから零れた涙がシーツに落ちる頃には、愛らしさと優艶さを備えた小さなホワイトピンクパールとなって床に落ちていく。
衣擦れの音とともに、ドレスに合わせていた藍色の帯が落ちたパールの上に被さった。
間もなくいつもサイが着ているベストと革のベルトが落とされ、ぬらつく水音と幼さの残る色付いた声が微かな嗤い声と溶け合い、部屋を満たした。


 事を終え、裸体にドレスを羽織っただけのジュナが再びソファで寝そべっていた。
青い小鳥は未だバスケットの中で寝息を立てている。
ジュナはそれに微笑み、眠る小鳥の首元をそっと撫でた。
 そこへ服をきちんと着直したサイが、宝石を集めた白いハンカチをテーブルに置いた。
ホワイトピンクパールにローズクォーツ、白翡翠、クリスタル……どれも高品質で高価なそれらは、すべてジュナの体液から出来たものだ。
粒ほどのものや、雫ほどのものだけだが、ひとつひとつが自然から出てくることも珍しい良質なものばかり。

「その鳥は、本当に飼われるおつもりで?」

「ええ。たくさんかわいがるわ」

「左様ですか」

 ジュナがしばらく撫でていると、小鳥は目を覚まして顔を上げる。
黒い円らな瞳にジュナの姿を捉え、小さく囀り、撫でてくる彼女の指に頭を押し付ける。

「あら、もっと?」

 小鳥は自ら首元を晒し、そこを掻かれると気持ちよさげに目を細め、身を任せる。
それがおもしろくて堪らないジュナは小鳥が求めるままに撫でた。

「ふふふ、かわいい。サイもやって?」

 サイは感情もない目で小鳥を眺めていたが、ジュナに命じられると素直に応じ、小鳥に人差し指を差し出した。
小鳥は抵抗することなくサイの指に頭や頬を擦らせた。
喉の奥で囀り、甘える様子に彼もようやくいつものように微笑んだ。

「ロドン」

 ジュナは小鳥に呼びかけ、再び撫でる。サイは体勢を直し彼女を見た。

「それを名前にするのですか?」

「そう」

 深いため息をつき、サイは主人を見下ろす。

「理由をお尋ねしても? バラを意味する言葉を名前にするとは、思わなかったもので」

「自分で考えてごらんなさい?」

 ジュナが小馬鹿にして言うと、サイは睨むように笑った。
それから少し間を空け、目を瞑り、すぐに瞼を開ける。

「青いバラ、でしょうか」

 その答えにジュナは満足そうだった。

「いい名前でしょう?」

「お嬢様のセンスに良し悪しは求めておりませんので」

 サイの言葉にまた頬を膨らませる。
しかし、ロドンに目を向けるとそれも些細で、ただ新しくここに住む小さな子を愛でる。

「今日は許してあげる。ロドンに食事と水を用意して。怪我が治ったら鳥かごに移すわ」

「かしこまりました、お嬢様」

 そう返事をして、サイはすぐに言われたことに取り掛かった。
部屋を後にしたサイを見送り、ジュナはロドンに目を向ける。

「……ねえ。あなたが死ぬまで、わたしだけを見ていて」

 微睡み始めたジュナはロドンの囀りを聞いたのを最後に、静かな眠りに導かれた。


 結ばれる縁に、想い馳せながら。

Ⅱ.崇高少女-アメシスト-

 広大な敷地で真新しくも歴史を感じさせる。
城のような重厚な造り、高くそびえ立つ壁と建物を囲む太く頑丈な柵、遠くからもよく見える時計台と鐘。
見上げる程の門の横に「聖白蘭学園」と金字で彫られた仰々しい銘板が飾られていた。

 適温の教室、広すぎるほどの空間に三十人が席に着き、ほとんどの者が前を向いて教師の言葉に耳を傾けていた。
ブロンドのセミロングを編み込んでハーフアップに結った少女も例外なく、上質な紙が使われたノートに授業の内容を書き写していた。
時おり、斜め前の窓際で上の空の婚約者に目を向ける。

「瀬朱さん」

 教師が上の空の婚約者、瀬朱久瑠海の名を呼ぶと、彼は感情の読み取れない目で教師のほうを見た。

「この問題を答えてください」

 そう言われて久瑠海は立ち上がると、言い淀むこともなくすらすらと回答を並べた。
隙のない模範解答に教師は満足したようで、頷くと久瑠海を座らせた。

「結構ですよ。出来るだけ、授業には集中してくださいね」

「はい」

 久瑠海は愛想笑いを浮かべて返事をし、クラスや教師の視線から解放されると再び窓の外を眺め始めた。
少女、都万戸ニナは不安げな眼差しを送っていた。

 時計塔の鐘が鳴り、授業の終わりを知らせる。昼食のため各々が席を立ち、食堂へと向かっていく。
久瑠海は動く様子はなく、ただ呆然と空を見続けていた。

「ニナさん、行きましょ」

 迎えに来た友人がニナに声をかけ、反射的に立ち上がる。
同じ年頃の子よりも丸みがあり、痩身には肉付きのいい臀部が勢いよく椅子から上がったことに赤面する。

「あら、うふふ」

「ちょ、笑わないでよ……」

「ごめんなさい、かわいいものだからつい」

「かわいくないわよっ」

 コンプレックスを「かわいい」と言われることは居心地が悪かった。無意識にさすり、長めのスカートでしっかり隠す。
先ほどの痴態を周りに見られていないかと視線だけ辺りを見渡すと、一人で座っているだけだった久瑠海のもとに、
身なりを整えた意地の悪い顔のクラスメイト三人が声をかけていた。
内容は分からないが、一言二言会話をすると久瑠海は立ち上がり、三人について教室を出た。
 ニナはまた心配な目を久瑠海に向けた。しかし、自分にできることなどなく、俯いてしまう。

「ニナさん?」

 呼ばれたニナはすぐに笑顔を保ち、顔を上げる。

「ごめんなさい、行きましょうか」

 二人は教室を出て食堂に向かう。雑談しながら向かう途中もニナは久瑠海のことが気がかりだった。
あの三人に呼ばれたあとの久瑠海は必ず怪我をしていた。暴力を受けているのは明らかだった。
久瑠海が失踪した日、自らの足で駆け出したという話は聞いている。
彼が家や学校、そしてニナから離れたいのだと思った。彼は「よく覚えていない」「また会えてよかった」と病院のベッドで笑っていた。
それを信じるほど、ニナは素直でいることができなかった。
 食堂でメニューを見ながら考える。久瑠海はあの日から一ケ月が経つとはいえ、今までのように体に無理がかかれば危ないかもしれない。
嫌な考えが脳裏を過り、ニナは友人との会話を切り上げた。

「あたし、ちょっと用事思い出したわ! すぐ戻るから、あたしの分も適当に選んでちょうだい!」

「え? あの、ニナさん?」

「ごめんなさい、よろしくね!」

 ニナは最後に「あとでお礼させていただきますからー!」と付け足し、久瑠海たちが向かった方へと急いだ。


 室内プールを完備した体育館裏、開いた大きな倉庫の中に四人はいた。ニナは気づかれないように遠くから中を覗く。
会話などは聞こえない位置だが、何かあったら近くの用務員室にいるであろう職員に助けを求めようと頭の中でシミュレーションする。
三人に囲まれていた久瑠海は俯いていた。

 久瑠海はいつもの三人の嫌らしい笑みを冷めた目で見ていた。

「何か用?」

「おいおい、そんな言い草はないだろう?」

 他の二人を従える身なりの整った男子生徒が笑う。
一番大きな生徒が久瑠海に近づき、胸倉をつかんだ。
見上げるほど身長差があり、久瑠海は少し浮く。

「瀬朱くんさぁ、ちょっと融資してくんない?」

 この男は何を言っているのだろうと考える。単純に考えればいわゆる「かつあげ」なのだろう。
つまらない理由とおもしろみのない嫌がらせに、久瑠海は大きなため息をついた。
 これまで久瑠海に反抗的な態度をとられたことなどなかった。怯えた様子も見せずにため息をつく久瑠海に目を見開く。
他の二人もいつもと様子が違うことに疑問符を浮かべていた。

「高倉くん」

 胸倉をつかまれながらも呼んだ二人のうち一人に久瑠海は目を向けた。高倉と呼ばれた男子生徒は自分を指差し、動揺する。

「お、おれ?」

「そう、君」

「なんだよ」

 気だるげな久瑠海の声が反響する。それから小馬鹿にしたように笑った。

「君のお父さん、脱税してるよね」

「え、あ、はっ?」

「ああ、君は知らないのか……。君のお父さんの会社が経営しているお店に何人も私服の捜査員が客として出入りしてる。
もちろん捜査のため。捕まるのも時間の問題だね。しかも、その脱税したお金、君を海外の大学に入れるためなんだって」

「何言って、なんでお前がそんなこと知って!」

「知ってるよ」

 久瑠海はそう言いながら、今度はもう一人の男子生徒に目を向けた。

「佐々木くん、君のお母さんさ……この前、若い男の人と腕を組んでいたよ」

「……は?」

「若い男の人の手を引いてホテルに入って、それから五時間は出てこなかったって。何してたんだろうね?」

「お前なに言って」

「君のお姉さんさ、最近結婚したよね?」

「……それがなんだよ」

「いや? 君のお母さんとホテルに入ったの、お姉さんの旦那さんだったから」

「……え……」

「君のお母さんと義理のお兄さん、仲良しだね」

 久瑠海の言葉に高倉も佐々木も言葉を失った。目を見開いたまま、理解できずにいる様子だった。高倉は頭を抱えて蹲る。
佐々木はその場で膝から崩れ落ちたが目を見開いたままだった。
二人の様子に久瑠海を掴んだままの男子生徒は動揺し、それから久瑠海に怒りの目を向けた。

「お前! いい加減な嘘ついてんじゃねぇよ!」

「須王くん」

 いつもなら怒鳴れば泣き出していた久瑠海は感情のない目で、須王と呼んだ目の前の男を見ていた。
今の久瑠海は今までと違い、恐怖や虚勢のない別人に見えた。

「本当のことだよ」

「いい加減にしろ!!」

 須王は拳を振り上げ、久瑠海の顔を殴った。手が離され、そのまま床に倒れる。

「へ、へへ、やっぱりお前は弱いんだ、役立たずだ」

 須王は笑うがすぐに動揺する。久瑠海が口の中を切ったのか血の混ざった痰を吐きだし、口端から流れたそれを指で拭いながら立ち上った。

「須王くん、君にも伝えないといけないことがあるんだ」

 久瑠海は顔を上げ、乱れた前髪を掻き上げた。そこには余裕の笑みを浮かべている。

「君の家の会社、瀬朱のものになったよ」

「……はぁ?」

「須王コーポレーションの社長が瀬朱に来たよ。土下座までして会社を買ってほしいって。
借金と大赤字ばっかりの会社だけど、立て直したら返すから安心して」

 須王は開いた口が塞がらず、次の言葉を発する前に久瑠海に視線を向けられると息を呑んだ。
ふわりと柔らかな笑みを浮かべた久瑠海は目を細める。

「そうだ、会社の立て直しね、ぼくに任されたから」

 その言葉に須王は剥きだすほど目を開き、再び久瑠海に掴みかかった。
大きく振りかぶり、再び殴ろうとしたところで手が止まった。

「どうしたの? 殴らないの?」

「うっ……」

「ああ、真偽? 本当だよ。父さんがね、ぼくに任せてくれるみたい。どういう風の吹き回しだろうね。
安心してよ、もう前のぼくじゃないから。必ず良くして返すから」

 久瑠海の仄暗い目が嘘を言っているようには見えなかった。
須王は振り上げたこぶしを震えながら下ろし、胸倉を離した。呆けている二人を連れると、何も言わずに去った。
残された久瑠海は埃を叩き落とし、無表情でその場を後にした。


 殴られずに済んだどころか、暗い様子で立ち去っていく三人と、弱虫だった久瑠海からは想像がつかないほどの落ち着きに、
ニナは何が起きているのか分からなかった。ただ分かるのは、久瑠海が変わってしまったということ。
午後の授業でも、彼は上の空だった。須王たちも暗い顔をして、久瑠海に近づこうともしなかった。

 午後三時の放課後。ニナと久瑠海は生物管理係の仕事で温室にいた。花に水をやり、枯れている箇所は剪定する。
久瑠海は以前のように声をかけてくることもなく、静けさが心地悪い。
ニナは竹箒で温室の通路を掃きながら、耐え切れず剪定をしている久瑠海を振り返る。

「ねえ」

「なに、ニナちゃん」

「……お昼の時間、須王たちと何話してたの」

 久瑠海の動きが止まる。しかしすぐにまた作業を始めた。

「見てたんだね」

「答えて。あの須王たちがあなたに何もしなかった。いつもみたいに先生や用務員を呼ぶことにならなかった」

「いつもニナちゃんが呼んでくれてたんだね。ありがとう」

「答えなさい!」

 久瑠海は少しだけニナに視線を向け、それからまた手元に目線を戻した。

「大したことじゃないよ。それぞれのお家の事情を話しただけ。ぼくが助けになれることを伝えただけ」

 明らかに、彼らは助けを喜ぶような反応をしなかった。
久瑠海に助けられることを何よりも嫌うはずの彼らが何もせず、怒りも表すことなく、ただ無表情にその場を離れるわけがない。
しかし、久瑠海の話が嘘だとも思えなかった。彼は普段抑圧してきている彼らに対して手を差し伸べ、彼らはそれを受け入れたことになる。

「どうして、あなたが彼らの家の事情を知っているのよ」

「調べさせただけだよ」

「何でそんなこと」

 久瑠海は光のない目でニナを真っ直ぐ見つめると、口元だけ柔らかな笑みを浮かべた。

「そうする必要があったからだよ。大丈夫、ぼくはもう昔のぼくじゃない。
父さんにもね、会社の運営を一つ任せてもらえるようになった。
これからはニナちゃんのことも守れるように護身術の稽古も付けてもらうからね」

 そこには以前のようにおどおどと泣いては逃げていただけの純真な少年は居らず、ただひたすらに力を求める男がいた。
子どもの頃から誰にでも優しく、虫一匹傷つけることもできなかった彼はそこにいなかった。
ニナはその堂々とした振る舞いに呆気に囚われる他なかった。

「久瑠海、どうしたのよ、あなた、そんな風に変わって……」

「どうもしていないよ。強いて言うなら、今までのぼくがぼくじゃなかっただけ。これからのぼくは、本気を出すだけだよ」

 そう言ってニナから目を離し、同じタイミングで帰宅を促すアナウンスが流れた。
今日は職員に定例会があるため、生徒や児童は早めの帰宅を促されている。

「もう帰らないと。さ、ニナちゃん、行こうか」

 ニナの手を取り、温室の出入り口の扉を開けて促す。
今までなら絶対にしないようなことに、ニナは思わず胸を高鳴らせた。
普段なら強気になってその手を叩いていたのに、今日はそれができなかった。
ただ久瑠海に導かれるままに温室から出ると、そのまま教室に送られ、帰宅の準備を終えると校門までエスコートされ、
自家用車に乗り込んだところで彼も自身の自家用車で帰路についた。

 頭がぼんやりとする。今までなかった彼の言動。
小さな頃以来、触れたことのなかった彼の手はいつの間にか大きく、力強くなっていた。
ニナは自身の手に残るその感覚を何度か握りながら確認した。

「お嬢さま、どうかなさいました?」

 付き人で世話係のメイドに声をかけられ、ニナはようやく我に返った。

「な、なにっ?」

「ご自分の手を何度も見つめられていたので……痛むようでしたら、このまま病院へ向かわれますか?」

 心底心配するような目で問いかけてくるメイド。ニナは先ほどの行動を見られていたことに赤面した。

「なんでもないわよ、ただ、見てただけっ!」

 慌てて言うことに不思議に思いながらも、思ったよりも元気な様子に安堵したのかそれ以上は何も言わなかった。
それ以上問われなかったことに息をつき、ニナは久瑠海の変貌について考えた。
彼が変わったのは、失踪して発見され、病院で目を覚ましてからだ。
失踪中に何かがあったのだと、ニナは思わずにいられなかった。
家へと向かっている車は、途中で久瑠海が見つかった森の入り口を通り過ぎる。

「あ、待って、停めて!」

 急な申し出に運転手は驚きながらも、近くで駐車できる場所まで来ると停車させた。

「お嬢さま?」

「ごめんなさい、二時間くらいで戻るから」

「どちらに? ご一緒いたします」

「お願い、一人で行かせて、すぐ呼ぶから。お父さまたちにもお咎めなしにしてもらうから」

「しかし」

「明るいうちにちゃんと戻ってくるから!」

 ニナは終わらない問答に語気を荒げて車から飛び出し、森の入り口まで駆け出した。
メイドも慌てて後を追おうと飛び出すが、ニナの足は速く、すぐには追いつけない。
ただ遠ざかる彼女の背中を見ながら、途中で体力を失うとそれでも追いかけた。

 メイドが後ろから追ってくる気配を感じながらもニナは走ることを止めず、
坂を一気に駆け上がると息を切らし、太陽に照らされて汗ばみながら久瑠海が辿ったであろう道を見渡す。
途中で見落としそうなほど狭い道を見つけ、そちらに逸れた。
それを機に、後ろから感じていたメイドの気配もなくなり、ニナは本当に一人になった。

「こんなところに、久瑠海は何をしに来たのかしら……」

 走るのを止め、辛うじて道になっている場所を歩く。
それも途中で立ち入り禁止の看板と真新しいバリケードに阻まれて行き止まりとなった。
バリケードには「クマ出没注意!」「この先道はありません」等ラミネートされた張り紙が複数貼られていた。

「通れないじゃない……」

 おそらく久瑠海の一件から通れなくなったのだろうことは予想がついた。
ニナはこれ以上進めないことからため息をつき、大人しく引き返そうと元の道を歩き始めた。

 しばらく歩いているが、元の通りに出ることが出来ずにニナは徐々に焦りを覚えた。
道を間違えた覚えはないが、どこも似たような景色で自信がなくなっていく。

「どうしよう……迷ったかしら……」

 一度立ち止まり、深呼吸をして落ち着くことにする。何度か息を吸って吐き、それからゆっくりと辺りを見渡す。
やはりどこも草木や花が生い茂るだけで、目印になるようなものはなかった。
それから目を閉じて耳を澄ませてみる。風の通る音、小鳥のさえずり、木々のざわめき、風とともに運ばれる青臭さは悪い気がしなかった。

……っ

 わずかに人の声が聞こえた気がしてニナは目を開けた。もう一度確かに聞きたくて、耳に神経を集中させて目を閉じる。

……っ、……。……ぃ

 今度ははっきりと、何か言葉を発する声が聞こえた。ニナは風の方向から乗ってきた声を辿って歩いた。

 近づくほどに人の声ははっきりとしてくる。
それが男女のものであることに気づくと、良からぬ想像が脳裏をかすめ、思わず足を止めた。
同時に落ちていた枝を思い切り踏んでしまい、派手に折れる音が響く。
音に気づいたのか男女の声は止んでしまい、微かに感じられていた人の気配も遠ざかった。
 ニナは慌てて声のしていた方向へ駆け出すが、辿り着いた先は開けた空間でそこには誰もいなかった。
自分が立てた音でこの場を去ってしまったのだと気づき、大きく落胆した。

「道聞きたかっただけなんだけど……」

 声の主たちが何をしていたのかは分からないが、こんな場所に来て逢っているというだけでニナは赤面する。
読んでいたロマンス小説では、愛し合う男女が人目を憚り逢瀬を重ね、背徳と外の解放感に身を委ねて情事に耽っていた。
その場面が思い出され、息をすると心臓の脈打つ音が聞こえるほど動悸がした。
ただの想像と本の内容と似ていただけで、彼女は頭がぼんやりとした。

「……あら?」

 木漏れ日できらりと草花の間で何かが輝いたのが見えた。きらきらと、どこか淫靡な輝きにニナは誘われるように近づく。
そっとつまんで持ち上げると、それが宝石であることに気づいた。

「きれい……」

 ピンクの色が濃いローズクォーツだ。木々から差し込む光によって艶めかしい輝きを発している。
ニナは宝石をハンカチに包んでポケットに入れた。
周りを見渡すと、他の場所よりも光が差し込んで見える場所があり、足早にそちらへ向かった。

 道を抜けるときに太陽の眩しさで思わず目を瞑った。瞼の裏から透ける光に徐々に慣れると、ゆっくりと目を開ける。
目を閉じた暗闇と開けたときの光の差に目が慣れ、景色がはっきりとすると、いつの間にか広々と整備された道に抜けていた。
戻って来たと分かり、長く深い安堵を吐いた。

「よかった……戻って来れた……」

 危うく久瑠海のように失踪して野垂れてしまうところだと思った。
帰り道が分からなくなる上に長くそこにいれば方向感覚を失うような気がしてくるあの場所で、久瑠海が失踪してしまうのも納得がいった。
しかし、未だに彼の性格があんなにも変わってしまう理由には納得いかなかった。
人は生命の危機を感じると強さを求めたりするのかもしれないが、彼の場合は何かが違うように思えた。
 道の真ん中で唸るように考えていると、どこからか視線を感じて顔を上げた。しかし近くに人影はない。
それでも感じる視線にニナは焦りを感じながら、ふと後ろを振り返った。森の少し奥に、二人の人影が見えた。
どちらも黒い服を着ていて、一人は執事の装いをしており、もう一人は黒い日傘に黒のスリットドレスを合わせ、
つばの広い黒い帽子で顔は隠れていた。遠くからでも分かるほど肌は白く、その存在は人とは思えないほどに無機質に思えた。

「あ、あの」

 思わず声をかける。ふと微笑まれた気がして、息を呑んだ。ふたりはそのままその場から立ち去る。

「あ、まっ、待ってください!」

 ふたりを追うように走り出し、再び森の中に入った。ふたりはそう遠くない場所で、近くにあるベンチにドレスの人物が座る。
執事のような青年はその傍に不動で立っていた。近づくにつれ、ふたりが若く、物語の中のような容姿をしていることに気づいた。
執事は黒い髪を緩く編み込み、痩身で身長が高く、おとぎ話のナイトのような気品を漂わせていた。
そして座っている女性は思ったよりも幼い顔立ちで、それでいて妖艶さをまとい、精巧な人形のように整っていた。
そしてその目は、時おり遊ぶように色を変えて煌めく。

「ねえ」

 突如、澄んだソプラノの声で呼ばれた。ニナは一気に緊張で体が強張る。

「お座りになってはいかが?」

 優雅で静かな声に誘われるまま、空いた隣の席に座った。
全体的に細くも女性としての線ははっきりとしていて、臀部から脚にかけてもバランスがよく形がよい彼女の隣に、
自身の丸く大きな臀部が座ることが恥ずかしく、ニナは俯く。

「貴方、お名前は?」

「に、ニナです、都万戸ニナ」

「そう」

 おもしろいものを見つけたときのような笑顔でニナを見つめてくることに耐え切れず、顔を逸らした。

「あなたは?」

「わたしのことはそうね、ヴィーナスとでもお呼びになって?」

 隣にいた青年が嘲るように笑い、それに彼女は睨みをきかせた。
ふたりの関係がよく分からないが、あまり触れてはいけないことのような気がしてニナはあえて何も言わなかった。

「じゃあ、そちらの方は……?」

「では、私はアレクサンドロスでアレクとしましょうか」

 柔和で色気の含んだテノールの声に、ニナは少し赤面する。
それが面白くなさそうに、ヴィーナスと名乗った少女・ジュナは帽子を脱いだ。
まとめてしまわれていたのだろう白銀の髪がさらさらと零れ落ちる。

「わ……」

 感嘆の声を上げるほど見事な髪だった。ジュナは髪を簡単にまとめ上げ、アレクと名乗った青年・サイに整えさせ、かんざしで留めさせた。

「それで、貴方はどうしてここにいるの?」

 問われたニナは我に返ると、どう説明したらよいか分からず俯く。
それからゆっくりと、順を追って説明することにした。

「あたしの幼馴染で婚約者の男の子がいるんだけど、彼がこの森で一度いなくなってしまったことがあって。
数日ですぐに見つかったんだけど、それから彼、別人みたいに変わってしまって。
この森で何があったのかと思って、見に来たの」

「そう。ずいぶん、その彼がお好きなのね」

「は!? ちがっ、そんなんじゃ!」

 ニナは顔を真っ赤にして否定しようとするが、否定しようとすればするほど肯定しているように思えて何も言えなくなる。
事実、彼のことは許嫁と関係なく好きだった。
優しく穏やかで、朗らかな久瑠海だが、優柔不断で女々しい彼に成長してほしい思いから強く当たっていた。
今の彼は確かに成長して強くなったが、ニナにとってはあの穏やかさのままそうなってほしかったという思いが強い。

「あたし、彼の穏やかで優しいところが好きだったの。
でも、ここで何かあってから、彼は強さだけを求めるような人になってしまった……。
もっと優しく接してれば、彼はこんなところに逃げ込んだりしなくて済んだかもしれないわ」

「そう」

 興味がないというような調子で返事をされ、ニナはジュナに不満げな態度を露にした。ジュナはそんな彼女に余裕の笑みを浮かべる。

「それで、あなたは何かわかったの?」

「何かって、それは、その、この森で迷っても失踪しても仕方ないくらいしか……」

「つまらないことしかわからなかったのね」

「つまらないって、あんたね!」

 耳元で大声を出されたことを嫌がるようにジュナは耳を塞ぐ。
それにニナはふてくされたまま少しだけ退き、そのうち悲しくなって俯いた。

「そうよ、それしか分からなかったわよ……彼が何でそんなに変わってしまったかなんて分かんないわよ……」

「ここにくればわかると思ったの? おもしろいヒト」

「手がかりくらい、見つかるかもって!」

 再び耳を塞がれたことでニナはしぶしぶ口を閉じる。少しの沈黙のあと、ずっと気になっていたことを訊ねることにした。

「それで、その、ヴィーナスさんはどうしてこんなところに?」

「お散歩よ」

 一言そう答えて終わった。何か続きを求め、ニナは助けが出ることを期待してサイを見つめる。
サイはその視線に気づきながらも、口を閉ざしたままだった。

「アレクさんだっけ? 何か言ってよ」

「お嬢様の言葉がそのままで御座います。それ以上もそれ以下も御座いません」

 このふたりでこんな森の中をただ散歩していただけとはニナにはどうしても思えなかった。
先ほど聞こえた男女の声についても、このふたりだったのではないかという疑念が浮かんでは消えることを繰り返す。

「その、さっき向こうの開けた場所で何かしていたりは……?」

「貴方たちの間ではそういう想像をすることが流行っているの?」

 どこか皮肉のこもった言葉に恥を覚え、恥は腹立たしさに変わった。

「さっき、男の人と女の人が向こうから聞こえたの! だからあんたたちなのかなって思っただけよ! 変なことなんか考えてないわよ!」

 図星のようなものだったからか、余計に怒りと恥ずかしさに顔を真っ赤に染めた。
からかって楽しんでいるのか、ジュナはただクスクスと笑っている。

「貴方もおもしろいわね。長く近くにいると似てくるものなのかしら」

「どういう意味よ」

「貴方には関係のないこと」

 明らかに自分のことを言われているのだから関係なくはないだろうと思いながらも、
これ以上はこの話題に答えてくれることはないと分かった。

「ところで、貴方はその婚約者が変わってしまった理由を知って、どうするつもりなのかしら?」

「え?」

「原因が見つかったところで、その彼が元に戻るわけではないでしょう?」

 初めて気づいたようにニナは目を見開いた。確かに久瑠海を変えてしまった元凶を知ったところで、ニナは何をしたかったのだろう。
そもそも、彼が強くなろうとしていることは悪いことではなく、自分を含め多くの人が望んでいたことのように思う。

「元に戻したいというか、あたしはただ、優しかった彼のままでいてほしかっただけで……」

「わがままなヒトね」

 ジュナの物言いにいちいち反応して腹が立ってしまうが、抑え込んで堪えた。

「元の女々しい彼にはなってほしくはないけれど、優しさだけは残してほしかったなんて、酷なお話だと思わないかしら」

「どういうことよ……」

「それは貴方がよく知っているのではなくて?」

 ニナは口をきつくつぐんだ。
ダブルの母と日本人の父の間に生まれたニナは、昔から両親の築き上げた事業のおかげでお嬢様と呼ばれるような生活を送って来た。
だからと言って、わがままばかりが許されてきたわけでもなかった。
「普通の暮らしも知りなさい」と短期間通った公立の小学校では、自身の容姿やコンプレックスになる下半身、
生まれが裕福なことで好奇の目にさらされ、下心と妬みに耐え切れず、一ケ月で今の学園の初等部に転校した。
それまではただ言われるままに過ごして来た少女だったが、それからは人を疑い、両親と一部の使用人以外には心を閉ざし、
冷めた目や粘着質な目で見られないように甘さを棄てた。甘さがあっては強くいるには苦しいからだ。
疑うことは疲れるし、厳しいことは本来の感情を閉ざすため心に重く圧し掛かり、隙を見せればいらない存在も寄ってくる。
 だからこそ、久瑠海の優しさや穏やかさはニナにとっては癒しであり、羨望であり、苛立ちの元だった。
それを失くして強くなろうとする彼に感心し、同時に優しさを求めるのは、
自分の棄てたものの埋め合わせをしてもらおうとしていることがエゴであると言わずに何だと言うのだろう。

「あたしがもっと優しくしていたら、彼も穏やかなままだったかな……」

「後悔なんて無意味よ。それに、その彼は今のほうがよくてそうしているのでしょう? 
貴方一人のために変わるくらいの決意ならないのと同じとは思わなくて?」

「あんた、なかなかひどいこと言うわね?」

 ジュナは疑問符を浮かべて首を傾げる。何について言われているのか理解していない様子だった。
ニナはこの本名も分からない少女の言動にため息をついた。

「どうせ、あたしはこんなことしかできないわよ」

「あら、そんなことはないはずよ」

 想定外の言葉に反射的に顔を上げ、ジュナと顔を見合わせた。
初めて、その目がホワイトオパールであると知るとまた息が止まる思いをしたが辛うじて悲鳴を飲み込んだ。

「ふふふ、貴方、本当におもしろいわ。少しは可愛く思えてくるものね」

 そう言ってジュナの手がニナの頬に添えられた。見た目に反して高い体温に、呼吸は短いものになる。

「ねえ、ニナ。そんなにその彼が大事?」

「だ、いじ、よ?」

「弱くて、女々しくて、ウソつきでも?」

「う、ん」

 ジュナの手がゆっくりとニナの首をなぞり、指が鎖骨を辿る。粟立つ感覚にニナは頭がぼんやりとし、喉が渇いて仕方がなくなる。
まるで久瑠海を知っているかのような物言いが気になるが、
そんなことも曖昧になってしまうほど、ジュナの熱と滑らかな動きがニナの思考を鈍らせた。
いつの間にか首元で遊んでいた手は太腿に移動し、ゆっくりとスカートの中に伸ばされる。
コンプレックスへの嫌悪感と、心地よさと、期待感と、同性にされていることの困惑と、
それでも振り払うほどの抵抗ができない思考に混乱する。

「ちょ、ヴィーナスさ、何して……」

「貴方、キレイな脚をしているのね」

「いや、あの、コンプレックスで」

「そう? 貴方のフィアンセが好きそうよ」

「あなた、彼のこと知って……?」

 しかし、その答えを聞く余裕もなくなった。ジュナの手がそっと太腿の内側を撫でてくる。
汗で湿ったそこを触れることは例え自分でさえ躊躇うというのに、初めて他人に、それも同性に触れられている。
ニナは震えが止まらず、しかし退くことも考えられないほど動悸が激しくなる。

「そ、そんなところっ」

「わたし、普通の女の子の体を知らないの」

「なにいって、だって、あなたも女の子……」

 すぐ近くでジュナと目が合う。そのホワイトパールの眼差しは、彼女がいわゆる普通ではないことを物語っていた。
感情が読み取れず、しかしどこか寂しげな視線にニナは完全に抵抗する意思を捨てた。

「ねえ、普通の女の子はここがどうなるの……?」

 薄い布越しにジュナの熱を帯びた指に触れられるぎりぎりを感じて、ニナは強く目を瞑った。

「まって、そこはだめ、久瑠海だけって決めてるの!」

 思わず声を大きく叫んでから言葉が頭の中で反響し、口を押えた。
目には涙が溜まり、顔はこれ以上ないほどに赤くなっていた。
 ジュナの手が止まり、ゆっくりとそこから離れていく。
薄目を開けて彼女を見れば、口元が美しいと思うほどの弧を描き、妖艶な笑みを浮かべていた。

「初心ね。きっとそれを聞いたらその人、泣いて喜ぶわ」

 ふふふ、と笑う。ゆっくりと彼女は体ごと離れていき、ようやく解放されたニナはそれでも熱は冷めなかった。
自身の口走った言葉に自らが一番驚き、羞恥していた。
どうしたらよいか分からず、サイが目に入るが、彼は紳士にもいつの間にか彼女たちよりも離れた場所に立ち、こちらには目も向けていなかった。
安堵でようやく呼吸が再開し、それでも荒いことには変わらない。

「あた、あたし……」

 どうしたらいいのかも分からず、聞く言葉も出てこない。
何をされたのか、何をされそうだったのかも考えられず、ただそこにいる幻想的な少女が恐ろしくもどうしようもなく心惹かれた。
恋や憧れとはまた違う高鳴りであることは分かっても、それにどんな名前を付ければいいのか分からない。

「お嬢さまー!」

 遠くから聞き慣れたメイドの声が響いた。ニナは我に返ると勢いで立ち上がる。

「あたし、もう行かなきゃ!」

 ニナが去ろうとしたところで、いつの間にか目の前にいたサイがニナの顔を掴んで無理矢理に目を合わさせた。

「ひっ……」

 声も出せない掴み方をされ、美麗な顔が、先ほどまで黒かったずの目が赤く光って見えるために魔物のように見えた。

「我々の事は他言無用で御座います。もしも口外した場合、あなた様は賢い方と御見受け致しましたので此れ以上の事は、分かりますね?」

 呼吸は塞がれていないはずなのに息を止められているように感じた。
言う通りにしなければ、おそらくニナだけではなく、話した相手にも何かが起こるだろうことは容易に想像ができた。
ニナはただ何度も小刻みに頷くことしかできなかった。
 満足げに微笑んだサイが彼女から手を離す。先ほどとは打って変わってどこか妖しい笑みで目を合わせてくる。

「私たちのことはお忘れください。もう二度と、此方に足を踏み入れませんように」

 頭の中で声が反芻する。視界がとろんとぼやけ、考えることもできず、ただ腑抜けた声で「はい」とだけ答えるのが精一杯だった。
何をされているのか分からない、何もされてはいないのかもしれない。
 解放されたニナは千鳥足で、ただ必死に呼ぶメイドの声を目指して歩いて行く。
回らない頭でも無意識に振り返れば、そこにいたはずのふたりはどこにもいなかった。
ニナは「ゆめをみているみたい……」と呟きながら少しして通りに出ると、メイドの焦った表情と「お嬢さま!」の声を最後に意識が途切れた。


 目を覚ましたときには自室にいた。何でも、脱水症の症状が出ていたのだという。
夏にはまだ早い時期のため不思議がられたが、慣れない森の中で水分補給もなく動き回っていたためだろう。
付き人のメイドはニナが目を覚ましたことに安堵した。両親には改めて自分で説明し、メイドと運転手へのお咎めはなしとなった。
だが不思議なことに、あの森の中で何があったかは曖昧にしか覚えていない。
誰か女の子が一緒にいたことと、言われた言葉の一部と、触れられた箇所の熱くらいしか分からなかった。
どんな人と、何を話していたのか、そこだけがすっぽりと記憶がなかった。そしてそれは思い出してはいけないことのような気もした。
夢だったのかもしれないほどに、曖昧で不確かだった。
 メイドにもそれとなく、自分の他に誰かいなかったが聞いたが、「いいえ、お嬢さまお一人でしたよ。本当に、危ないですから金輪際お止めくださいね」とクギを刺された。ニナはただ、夢を見ていたのかもしれないと思うことにした。
 しかし、一つだけ彼女の心を掴んで離さないことがあった。それが、女性同士の触れ合いだった。
なぜこんなにも心惹かれるのかは分からない。許嫁である久瑠海を好きだという気持ちも変わってはいなかったが、
柔らかな手の女性の手が太腿を這い、ソプラノの澄んだ声が耳元を撫でる感覚が体に残っていて、どうも熱が冷めなかった。
何度もその感覚を思い出しては、一人で心地よくなるようになってしまっていた。
ニナは新たにできた秘密に、少しだけ心の平和を作り出したのだった。



【崇高少女-アメシスト- 完】

箱庭日常-ゾイサイト- **

 鬱蒼とした森に薄らと木漏れ日が注ぐ。多くの樹木が立ち並ぶ中、小さく拓けたそこは迷い込まなければ辿り着くことが出来ない。
そしてそこには、赤い目の麗人と、宝石の目を埋め込んだ人形が時折、森の奥深くから現れるという噂がある。



******************




 妖しくぬらめくローズクオーツが木漏れ日を浴びて透き通り、短く生え揃った緑の上に薄い色を零して転がっていた。
捲れ上がった黒いドレスのスリットから覗く肉付きの良い脚は白く、陽を浴びると溶けて消えてしまいそうな色をしていた。
その脚を持ち上げている精悍で繊細な手の沈み具合が、柔らかさを知らせ、脚の主が生きた人間であることを物語っていた。
大樹に背を支えられながら、丁寧に編まれたレースの袖をまとう腕が執事服を着こなした青年の首に絡みつく。
男の動きに合わせ水音が鳴り、溢れた雫はローズクオーツとなってまた草花に降り注いだ。
男の体が押し付けられ、動きとともに体が揺れる少女は熱い吐息とともに端麗な青年と唇を離し、ホワイトオパールの目で見つめていた。
艶めかしい息とともに哂う。

「お外でもおさかんなヒトっ……」

「よがった顔で良く言えますね」

 律動は的確で奥を揺さぶるように突かれ、呼吸は短く、速くなっていく。
少女・ジュナの口から漏れ出る小さな喘ぎを煩わしいと言いたげに、青年・サイはまた唇を重ねて塞いだ。
無造作に落ちている黒い帽子がふたりのそばで風に揺れる。



******************





 今朝、ジュナがいつものソファで寝そべっていると、放鳥していた翼の青い小鳥が彼女の頭上を飛んでいた。

「ロドン」

 その名を呼ぶと、ロドンはジュナに無気力にも差し出された手に降り立った。
ホワイトオパールの目にロドンの青が映り、小さな彼は首を傾げる。

「あなたは飛べていいわね、退屈しないでしょう?」

 小さな囀りで返事をし、再び飛び立つ。ジュナは飛び続けた後に自ら鳥かごに戻るロドンを見届けると体を起こした。
前を細いリボンで留めていただけの、薄く上質な白いシルクレースのベビードールをその場で脱ぎ捨て、揃いのショーツも床に落とした。
穢れなく、血が通っているかも疑うほど白い肌、桜色が小さく咲く豊満な果実は柔らかに揺れ、白銀色の長髪を体に纏わせてその心地に笑みを零す。
規則正しく並んだいくつかの猫足クローゼットの一つの前に立ち止まり、ドアを開けた。
 黒や白、灰色などモノトーンの色合いのドレスやワンピースなどが整然と色ごとにグラデーションで並んでいた。
ジュナはその洗練された空間に目もくれず、スリットの入った黒のドレスを取り出した。
レースの編まれた袖が彼女の腕を彩り、首元まで隠しながらもくびれを見せ、太腿がスリットから覗く。
黒のヒール靴を履き、クローゼットの上の段からつばの広い黒帽子を取り、黒の日傘を持つとドアを閉めた。
 軽やかにヒールの音を響かせ、部屋の出入り口へ向かう。
いたずらをする無垢な少女のような笑みを浮かべ、ドアノブに手を掛けようとした瞬間、扉が先に開いた。
ジュナは自分よりも長身の存在を見上げ、先ほどの笑みとは変わり不満の表情を浮かべる。

「ノックもしないで開けるなんて、貴方、本当に執事なの?」

「ノックをしない非礼は認めて差し上げますが、良からぬ気配を感じたものですから」

 サイの普段は黒く澄んだ目に赤く鋭い光が差す。
部屋に入り鍵をかけ、ジュナの手を取り、肩を抱いてソファまで歩くと突き放すようにそこに座らせた。
それから開いたままだった鳥籠の扉を下ろして閉めた。
ロドンは何度も首を傾げてサイを見つめるが、彼は構わず、再びジュナの前に立つ。

「何方へ行こうとしていたのですか?」

「貴方に関係ないでしょう?」

「飼っている生き物は責任を持って管理しなければなりませんので、関係のない事など御座いません」

「飼い慣らしているオオカミなら目の前に居るわね」

「懐いているとでも御思いですか? 勘違いも甚だしいですよ、お嬢様」

 ジュナはそっぽを向き、見せつけるように脚を組む。
スリットから露わになるのも構わず、自分を抱きしめるように腕も抱えて座っている。
サイはソファと床に脱ぎ散らかされた下着に目をやり、更にジュナを下から上まで観察すると目を細めた。

「何方へ、行こうと?」

 再度、言うことを聞かない子どもを厳しく問い質すような声で訊く。
ジュナは機嫌を損ねたことを隠すこともなく、ため息を吐いた。

「お散歩に行くの。退屈なのよ」

「その様な恰好で歩き回ろうと?」

「何を着ようとわたしの勝手。お洋服もわたしに着られて幸せでしょう」

「お嬢様が何を着ようと同じですが、必要最低限の装いを御忘れでいらっしゃるのはお嬢様の頭が弱いからですか?」

 そう言うとジュナは目を細めて口元に美しい弧を描いた。スリットを自ら摘まみ上げ、肌を空気に触れさせる。

「だって、ランジェリーの凹凸があるとシルエットが崩れてしまうのだもの」

 サイを挑発するように脚を伸ばし、組み直す。長い髪を掻き上げ、放せば蜘蛛の糸のような柔らかな白銀がさらさらと空気を撫でる。

「少しくらい構わないでしょう? 貴方はいつも外に出てるのだから」

「私には仕事が御座います。手のかかる雌猫の世話の為に外に出ているだけです」

「わたしは素行の悪いオオカミさんの相手ばかりさせられてフラストレーションで気が重いわ。たまにはお外で気分転換したいの」

 背伸びをしたジュナは立ち上がり、閉ざされた扉に向かう。
サイはそんな彼女の手首を掴んで引き寄せると腰を抱く。

「邪魔をしないで」

「私がその様な事を許すと御思いですか?」

「貴方の許しなんていらないわ」

 サイの手に僅かに力が込められ、手首を掴んでいた手はジュナの顎を上げさせ、目を合わせる。

「私が居なければ何も出来無い分際で」

「わたしがいないと存在できないのは貴方のほうよ」

 ジュナは手を伸ばし、サイの頬に添える。彼はその手に頬を寄せ、唇に触れていた彼女の親指を甘噛みした。

「乱暴なオオカミさん」

 微笑んだジュナはそっと顔を寄せて口づける。仕返しのようにサイの下唇を食んだ。
今度は彼から重ねると、舌を絡めて離れる。

「その軽薄な御考えを変えるつもりも御座いませんか?」

「ええ、お散歩に行くわ」

「左様で御座いますか。では、私も御一緒致します」

「あら、オオカミさんのお散歩をわたしにさせる気かしら?」

「飼い慣らして居ると言うなら飼い主の義務です。お嬢様如きに扱える存在では御座いませんが」

「首輪を着けて歩かせてあげる」

 ジュナは笑みを浮かべると、サイの手を両手で包み、導くように部屋の扉へ誘った。



******************




 大樹の前で交わるふたり。零れた蜜が空気に触れ、いくつもの淫靡な宝石へと姿を変えていく。
抱えられているジュナはオパールの瞳を濡らし、艶やかな唇を震わせ、切なげな顔でサイを見つめる。
快いところばかりを攻められ、昇り詰めていく。ジュナは微笑んだ。

「いいこ、なかで許してあげるっ」

「あなたが欲しいだけでしょう」

 サイは蔑みと優越を交えて嗤い、彼女に口を塞がれると同時に大樹に押し付けるようにして動きを止める。
風がそよぎ、木々が揺れ、重なり合う葉の間から差し込む光が散らばった快楽を煌めかせた。
 しばらくしてふたりは離れ、ジュナは樹に背を預けながら座り込む。注がれた白濁が僅かに内腿を伝った。

「貴方にまた穢されたわ」

「お嬢様の御望みを叶えて差し上げただけです」

 装いを正したサイは散らばったジュナの宝石を拾い、上質なシルクのハンカチの上に集めていく。
色の濃淡に違いはあるが、どれも品質の高いものだ。

「こんなものでも欲しがるヒトがいるのね」

「此れは売り物にもなりません。お嬢様の装飾品になります」

「あら、売れないものがわたしに見合うと思って?」

「売れない物こそお嬢様には十分です」

 ジュナは拾っていくサイを見ながら、自身の傍にあったローズクォーツを摘んで転がす。
サイが全て拾い終わった直後、離れた所で木の枝が折れる音が響いた。
 サイは宝石を包んだハンカチをポケットに仕舞うと、瞬時にジュナを抱え上げる。
ジュナはその際に、持っていた一粒をその場に放った。
ふたりはそこから離れ、代わりに誰かが声をかけながらやって来る気配を感じていた。

「散策は此処まででございます。帰りましょう」

「わたしはまだ遊びたいわ」

「お嬢様は聞き分けの悪いお子様でございますか?」

「そのお子様に興奮して腰を振っているのはだあれ?」

「勘違いも甚だしい」

 被り直した帽子が風に吹かれて落ちた。立ち止まり、サイが帽子を取って再び立たせたジュナに被せる。

「ねぇ、サイ? さっきの子と遊ばせて?」

「寝言は寝て言うものです」

「あの子、きっといずれはわたしの親族になる子よ」

「ええ、そこまで分かっていて会うと言う事がどういう意味か分からないとは、お嬢様の頭は空っぽでいらっしゃる?」

「何でもできるわたしのオオカミさんなら、どうにかできるでしょう?」

 ジュナが本気で会おうとしていると分かり、サイは深いため息を吐いて冷めた赤い目を向ける。
彼を見上げるオパールには僅かにその赤が写り込む。
 サイはジュナの手首を掴み、エスコートするように歩き出した。

「早急に終わらせて下さい」

「ふふふ、はぁい」

 整備された大通りの中央に立つブロンドの少女・都万戸ニナを見ていた。
ニナは道に戻れたことを安堵した様子だったが、何かに気付いたように辺りを見渡す。
それから彼女はふたりに目を向けた。

「あ、あの」

 ふたりは誘うようにベンチのある場所まで向かった。ニナは誘われるままその後を追った。



******************


 
 ニナへ催眠を施し、記憶を曖昧にさせて帰した。
サイはジュナを抱えて黄昏時に屋敷に戻り、そのまま彼女の部屋に連れ込んでソファに座らせる。

「ふふふ。久瑠海のフィアンセ、かわいらしいヒトね」

「今後は余計な手間を増やさないようお願いいたします」

「あら、貴方も楽しんでいたでしょう?」

「そう見えていたのならお嬢様の目は節穴か、頭の中が花に埋もれて働いていないかのどちらかですね」

「獣みたいな目で見ていたくせに」

 ジュナはサイの服を掴んで引っ張り、顔を寄せさせる。睨むような目は日が沈み、ブラックオパールを輝かせた。

「サイ、貴方が目を向けるべきはわたしよ」

「存じております故、ご心配なく」

 サイはジュナを押し倒し、片手をその細く白い首にかける。

「誰にでも擦り寄る雌猫とは違いますので」

「あらジェラシーかしら? 女の子に触れたことがご不満?」

「戯言は聞き飽きました。それに、あなたはただの主ですので、私がそのような感情を向ける相手ではありません」

「そうね。それなら早く退いてくださらない?」

「お断りいたします」

 そう言って、首にかけていた手はジュナの太腿をスリットの間から触れ、柔らかな臀部を掴む。
ドレスが捲れ、ジュナはサイに両腕を回した。

「お昼にしてまだ足りないのかしら?」

 イタズラな笑みで問うその口を黙らせるようにキスをする。
ドレスは脱がされていき、ジュナも履いていたヒールを放るように器用に脱ぎ捨てた。
舌の絡みが増し、ふたりは交わりへと身を任せた。



 見えない矜持が響き合う。ふたりの息遣いが本心を霞めていた。


【箱庭日常-ゾイサイト- 完】

フラジュエルの箱庭

フラジュエルの箱庭

体から宝石を作り出す少女と、辛辣な執事の、廃墟での生活。 ふたりだけの世界のお話。 性的表現を含みますので、ご注意ください。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2017-01-20

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
  1. 序章 世界の片隅、ふたりきり。
  2. Ⅰ.臆病少年-カーネリアン-ⅰ
  3. Ⅰ.臆病少年-カーネリアン-ⅱ
  4. Ⅰ.臆病少年-カーネリアン-ⅲ ***
  5. 箱庭日常‐アパタイト‐
  6. 箱庭日常‐カルセドニー‐ *
  7. Ⅱ.崇高少女-アメシスト-
  8. 箱庭日常-ゾイサイト- **