身実の限り
アルカ=ヤクトパライゾ
どうもしない。どうもしないわ。
庭のどんぐりの根元に栗鼠が冷たくなって落っこちていても。
その閉じた眼が二度と開かなくても、もう鳴かなくても、以前のように時折ナッツを強請りに来なくても。
どうもしないの。
どうかするような心はもうずっと昔に凍らせて眠らせてしまった。それが必要だったの。
かあ様とおばあ様の教えなの、強大な力は平静の心に傅くと。
代々クリムソンの家に魔力と共に伝えられてきた約束事は多い。
眠る前の月の呪まじないを欠かさぬようにとか、屋敷から出る時には右足からだとか、占いに使った水晶は砕いて水に還すこと、だとか。
幼い頃から沢山、教えられてきた事を息をするのと同じくらい自然に、無意識のうちにできるようになってもうどれくらい経つんだろう。
魔族でも、人間でも無い曖昧な所に立つ魔法族。
何かあれば人からも魔族からも一番に切っ先を突き付けられるのはいつも私たち。教えられたことは、身を守る術が一番多い。
森の中で眠る時は榛の木の根本で、梟に許しを請うてから。
魔人に会えば契約をするな、相手の意図を読み深慮して言葉を交わす事。
湖の水を分けて貰う時は祈りと共に硝子の石を投げ込んでから。
俗におまじないと呼ばれるものを大真面目にやらなくちゃいけないのは、少し面倒なのだけれど。
小さな頃はかあ様によく聞いた。
人間は何故、私たちのようにまじないをせずに水を得、森に眠るのか。
答えはいつも、優しい微笑みだけで、納得は出来なかったけれど。
知らぬ間に冥府へと旅立ってしまった小さな友の為、芝生を削って木の根の柔らかい土を素手で掘り返す。
刺繍の入った手巾でそうっとくるみ、金貨を置いて、大事に土の布団をかけてあげる。
おやすみなさい、よい夢を。
ぽんぽんと土を均していると、ぽとぽとと私の帽子に小さな衝撃が走った。
見上げれば、木の実を抱えた他の栗鼠達が枝に集まっていて、私と共に友の眠りを見届けていた。
削った芝生がもう一度根を張るようにきれいに戻し、樹から離れると、栗鼠達は枝から降りて来てそこに木の実と木の葉の山を作った。
そよそよと緩やかに風が吹いて、木漏れ日が地面をまだらに染めている。
穏やかな、温かい、春の日。
「態々埋めて遣らなくても土に還るんじゃないのかな」
「憐みを忘れたら、私は人間じゃなくなるわ」
「元々どっちつかずなんだから、構わないでしょう」
「良くないわ。魔法族は人であるべきだもの」
「難しいな、君たち」
唐突な自然さで、まるで先程からずっとそこにいたのかのようにあらわれた黒猫が、栗鼠達を見ていた。
だけどその口振りから、見ているのは栗鼠ではなくて、かつてこの庭の世話をしていた代々のクリムソン達なのだという事は、なんとなくわかった。
彼は、魔族でなく人でもない、けれど人と同じだけしか寿命を持たず、傷付けば血を流しそれによって死にも至るとても弱い私たちを、どんな気持ちで見葬みおくって来たのだろう。
そして当代のこの私を、どのような気持ちで見葬っていくのだろう。
もう馴れたものかしら。
もう何人も、何十人も、揺らぎもしない平坦な心持ちでみとって来たのかもしれない。
彼もまた、魔族でなく人でも無い、そして魔法族でもない曖昧な召喚獣の一族だから。
それは、本当に、長い寿命を持つ魔族にすら一応の死が存在するこの幾つかの世界で、唯一、限りなく死から途追とおい存在で。
その孤独は、誰と共に居ても、何をしていようとも、癒える事も無くなる事も慣れる事も無いのだと幼い頃、今と髪の長さくらいしか変わらない見目の彼は教えてくれた。
召喚獣には唯一、望まれなくなった結果の消滅だけがある。らしい。
それは死と同じじゃないかしら、と短くしか生きられない私は思うけれど。
偶に遊びに来るあの南瓜の魔人でさえ「魔族に厳密な死は無い。それでも、召喚獣よりはまだ近くにはあるのかもしれない。存在を始めた時から物質として存在するだけ、その分くらいは」と(あれでも人の世にして何百年も生きて考えてきていることの答えとして、)言い放つのだから、魔人の生も難しい。
彼は彼で、学者という立場で何を思っているのかしら。
人が「何故生きるの?」と、答えを探して考えるのと同じように「魔人には何故明確な死が存在しないか」の答えを今もずっと探して考えている。
死と消滅の違いは何なのかしら。
今度来た時憶えていたら、聞いてみよう。
黒猫は、こういうことを聞いてもいつもはぐらかすだけだから。
あの気儘な南瓜の方が幾らかマシな答えをするでしょう。
「憐みを持とうと、悲しみを忘れてしまっては、人ではないと僕は思うけどねえ」
「良いのよ、悲しみなど無くても。忘れたわけじゃない。無くしたわけでも。それに、私が私を人であると信じる為に必要な事だけ、揃っていれば、それで充分なのよ」
人とは。人と魔法族の差異とは。
何故魔力を隠して生きられないか。
私は一体何を成す為に、この生命を授かったのかしら。
一体何が起こるのかしら、これから、この世界で。
どこか、絵本の一頁を眺めているような感覚のこの穏やかで優しい日常は、明日は戦火の中かもしれない。
寿命で死んだのだろうあの栗鼠は幸福だとため息が出る位、焼け焦げた他の栗鼠達を見るかもしれない。
生命の為の命があるかしら。
この日常を、人の世の平和を守るために私たちのような魔法族がいるのかしら。
それがノブレスオブリージュなのかしら。
魔人の攻めに遭えばひとたまりもないような、力無き人間達を守っていけるかしら。
彼ら人間に、守る必要が、価値が、あるかしら。
そんな夢物語のようなことが、起こるかしら。
…起こるのかしら。嘘みたい。
「アルカ、君の名を君が体現する頃には、この世に平和は無くなっているよ」
世界に関係しない人間はいない。魔族もいない。召喚獣だけが本質的に関係無く、故に自発的に関係する。
Argha、授けられたこの名は、仏に捧ぐ水の意を持って。
だったら、この名を私が体現する頃には、祈りではなく力の支配の元に、戦火を退けよう。
どのような事があったとしても、私は、人である私を愛いつくしむ。
その為の世界を守るわ。
各々の世界があるのに、この人間の世を乱す魔物を、私は許さない。
「…、煩いのが来たよ。君が彼の事を考えたりするから」
「あら、都合がいいわ。何故生きるのか聞いてみましょう」
「彼の答えは当てにならない」
「参考にするだけよ」
「下らないな」
「いいのよ、下らなくて」
「紅の!先日こちらの世界から持ち帰ったこの石なのだが困っているんだ、包みを解いたら溶けてしまってベタベタする!」
「それは石じゃないわ、キャンディよ。食べ物なの」
「何、これが噂に聞くきゃんでぃだと!? 何故溶ける?」
「砂糖で作っているからよ。舐めて溶けないと無くならないでしょう」
「無くなる必要があるのか? ずっと甘くて美味しい方が良いじゃないか…いやそれより早く湯をもて!手がベトベトで気持ちが悪いんだ!」
「ここに貴方の下僕はいないわよ。布巾でいいならそこにあるのを使いなさいな」
「魔界でも私は下僕なぞ飼っておらんぞ。大義として我が頭上には魔王のみ、他は一なりと決まっている。魔王以外は皆平等だ」
「でも仕事としてお世話をする人は必ずいるわよね。世界に地位や職業もあるのでしょ」
「地位など職業上の付属物に過ぎぬ。好きで傅く者も居るが…便宜上必要な上下関係を明確にする為だけに存在するのが地位や役職であって、それらは存在の尊卑には関係ない」
「それは心と身体は別々に存在すると言っているのと同じでないの?」
「そうだ。心も身体も全く別個の物だろう。何故なら心が身体を生かしているわけでも、身体が心を生かしているわけでも無いのだから。ただ同時に共存していないと存在が成立しないという関係性なだけで」
「人間はそこまで割り切れないのよ」
いそいそと濡れ布巾で己の手と衣の袖口をぽんぽんと叩くようにして溶けたキャンディの跡を消す彼は、今日もまた風変わりな帽子を被っていた。
彼はいつも全身に数えきれない程多くの飾り房を着けていて、今日はベレーに似た小さな帽子から所狭しとそれらが垂れている。
「気になっていたのだけど、その房飾りは何の意味があるの?」
「学院のしきたりのようなものだ。発表し、学会に認められ評価された論文の数だけ与えられる。軍人が勲章を胸に着けるだろう、あれと同じだな。学者は勲章の代わりに房飾りを衣服に着けるのが習わしなのだ」
「ふうん、そうなの」
「譲渡したり出来ないように、学位に在る者の衣には何を着ようと勝手にくっ付いて来る呪まじないが掛けられているのだ。個々の力では外せない」
「貴方、一応高位学者なのでしょ、本当に出来ないの」
「無論、やれる。然し別に隠す物でも無いしな。呪物なので物理的な重さも然程無いし、やるだけ無駄というもの」
「煩い南瓜め、早くお帰り、畑が待ってるよ」
「むっ、ジノ、お前…私は畑産まれではない!」
「でもお仲間が茂っているでしょう?所狭しと」
「そりゃ…ごろごろと…ポピュラーな食物であるし…土壌があって種から芽さえ出ればほぼ放任で立派な実をつけるし…」
「共食いするの?魔人って」
「元は同じ南瓜でもただの食物と魔人とを同列にしないでくれないか。植物魔人の食す物が無くなるだろう」
「無くなっても良いじゃない、水さえあれば光合成で生きられるんでしょ?」
「お前は一体何歳なのだジノ…魔人は水も光も要らぬ。常識だ。同じ植物が元でも地に根を張るものと魔人は一切の別物だぞ!」
ぷんすか怒って南瓜が黒猫を追いかけ回すものだから、聞こうと思っていたことの機を逸してしまった。
まあいいか、と二人ならぬ二物ならぬ一魔と一匹の攻防戦を終わるまで眺める、またいつもの日常にくすりと笑みをこぼした。
身実の限り