*星空文庫

砂漠の果涯

山城よる 作

  1. メレーシュキネー
  2. ファヴルーシュギルー
  3. イスラ

メレーシュキネー

 やさしく、やさしく、いとを、紡いでいます。
 微笑む太陽があたためた大気から、粒子を縒り取って。
 それはまるで真珠の表面のように、まろく光る。
 淡い虹色の粒子が表面でゆるゆらと緩慢に波を描くのがとても美しい、宝玉です。
 紡いだいとはまるく転がって、そうしてふつりと一通りを終えるとまるでさぼんの泡のようにふうわり、空へと舞い上がって、母なる太陽へ還るかのように輝きの中に浮かんでいって、消えてゆきます。
 それを延々と繰り返すのが、わたしの仕事…なのです。
 仕事といっていいのかはわかりません、何故なら、これが出来るのはこの世でたったひとりわたしだけ。
 だけどこれで金銭を得ているわけではないのでした。

 何よりこの穏やかで、やさしく、平和に満ち充ちたこの世界では、与え合うことが最大の慶びであり人々は与え合い支え合うことで、つましく、しかしだからこそ豊かに生きているのでした。
 豊饒は、こころの中にあるのです。
 たくたくと静かに、冷たい水を湛え続ける泉のように、ゆたかさは穏やかな優しさという愛に宿るものなのです。
 そうして、つましいながら豊かに暮らす彼らがわたしはとても好きでした。
 瞼を閉じれば、彼らの平穏な生活が見えるような気さえしてきます。

 おもうほど、胸の底がじんじんと熱くなるほど愛しい。
 神よ、これが愛なのですか。
 わたしは、これを、どう人々にお返ししてゆけばいいのでしょう。
 わたしに出来るのは、紡ぐこと。
 天へと昇るあのさぼんの泡の宝玉を、延々紡ぐことしかできないのです。
 ああ、だけど、わたしを訪ね来る人は殆どおりません。
 わたし達が住まうのは、人里からは遠く途逐(とお)く離れていて、道といった道もなく、広大で残酷な熱砂の海に浮かぶ小さな島のような緑の小山の中なのです。

 ここはとても、ひんやりとしている洞窟の中で、ごつごつと露出した赤茶の岩壁はずうっとずうっと高くまでのびていて、その天辺はまあるい窓になっています。
 まあるく切り取られたあの濃く青い空のある所まで出てしまうと、わたし達は灼熱の日射しに焼き殺されてしまうかもしれません。
 暑さと、熱にとても弱いのです。
 遠くに眺めるだけの青い空は、それでも涙が出る程美しいものですが…。

 ふわん、と紡ぎ終えたいとが赤茶の岩壁で出来た煙突をゆるゆら昇ってゆくのを、見えなくなるまで、見送りました。
 あの青に融けたあと、あのいとが何になるのかは知りませんが、わたしに出来る唯一のこと、これは、きっと神がわたしに与え給うた役なのでしょう。そう思います。

 わたし達はきれいな水さえあれば、他には何も要りません。
 凍てつく程の冷たい水がとても好きなのです。
 人々が、わたし達の事をどう呼んでいるのか、知りません。
 わたし達は、彼らのように食事や水はもとより、睡眠や休養も必要としないモノで、ひとと似たなりかたちはしておりますが、きっと、存在としての根本的な理は異なっているものだと思います。

 旅をする人々が居ます。
 滅多にないものですが、それでも時折、何年か何十年かに一度くらいは、この砂漠の山に辿り着く人々がおりました。
 彼らは揃って衰弱していて、渇いて、憐れでした。
 生きていれば水をやり、彼らの持ち物の中から食べられそうなものを食べさせてやるのですが、砂漠を渡ってきた人間達はその半数以上が、わたしの腕の中で息絶えてしまうのでした。
 折角、この灼熱の砂漠の中にオアシスを見つけても、辿り着いた時には大抵が、手後れになってしまっているのです。
 彼らにどんな事情があって、砂漠を渡らねばならなかったのか、あまり知りませんが、亡骸は山を囲う木々の間に眠らせてきました。
 そしてその人々の為に、わたしは祈りを捧げましょう。
 彼らのお陰で、小山の周りは少しずつ、緑を殖やすことが出来ます。
 ありがとう、ゆるりと眠って下さい。そして共に、この山と水と生きましょう。

 その中で、衰弱していても水を飲み、食べる事が出来た人々は、時間をかけてどうにか元気を取り戻してからまた砂漠をゆきます。
 町へ戻っていくのでしょう。これまで話す事が出来た彼らはとてもいい人たちばかりで、口を揃えたようにいつか御礼をと言って砂漠に戻ってゆきますが、二度会えた方は一人としておりません。いてくれなくて、いいのです。
 熱に弱いわたし達は、彼らよりもとみに、あの熱砂の海が残酷なことを知っていますから、こんな危険な場所に、お礼などの事で踏みいるのは賢明ではないことは明らかです。

 この洞窟の中は彼らには気温が低すぎ、しかし洞窟の外はわたし達には暑すぎるため、彼らを助け、様子を見、世話をしてあげられるのは決まって夜のことでした。
 夜になれば、わたし達は洞窟の外へ出られます。砂漠の夜は、寒くなるからですが、しかし人間は夜眠る、というのが生活の流れなので、やはり共に居られる時間はそれだけ短いものでした。
 彼らが語ってくれる人間の世界の事、家族や仕事の事はとても興味深く感じます。
 わたし達がみているのは、人々の姿ではなく概観なのでありました。
 詳しくは知らず、このようであろう、という姿を想像しているに過ぎません。
 とりわけ、家族というものは、わたし達ひとならざるモノにとっては未知のものですから、わたしは、回復した旅人には決まって、子供はいるのですか?と聞いています。
 その子供の生まれる時の話を聞くのが、とても好きなのです。
 逆に人々がわたしを指す時は、必ず女神というので、不思議です。
 わたしは女性を見たことがないので知らないのですが、きっと、わたしの容貌は人間でいう女性に近いのだと思います。
 わたし達は性別という概念がないですし、人間のように生殖能力もないモノなので、一個体で成り立ち終わるモノだと思うのです。

 さて、わたし達といいましたが、この冷たい洞窟に住まうモノは実はわたし以外にもう一人いるのです。
 彼はわたしのようにいとを紡ぐモノではないのですが、同じ存在です。
 というのは、どうしてみても離れがたいモノ同士、ということがお互いにわかっておりますし、それに、この洞窟の外は昼は出られず夜出てもその周りは広大な砂漠…わたし達は暑さや熱に弱い水のモノですから、共にいる他ないのです。
 とはいえ、それだけではないのも確かですが。
 それは置いてもわたしは彼をあいしていますし、彼もそうでしょう。
 人々が話す家族、それに近いのではないかと考えています。きっと。
 人々は血によって連なり、繋がっている。
 では、わたしと彼は何で繋がっているのでしょう。
 何かがきっと、あるのです。きっと。
 彼は泥土のモノ、わたしは水木のモノ、どちらも水に棲まうモノ。
 ひとならざるモノ。
 それでも誰かに害されることもなく、永く生きてまいりました。
 旅人を助け、時にはその亡骸を抱き、緑を増やして…。
 深く眠る彼らを種とするように森は熱砂の海を退け、瑞々しい森を少しずつ、とても長い時間をかけて広げて行きます。
 森が深くなるにつれ、わたし達もその行動範囲が広がっていくのですが、それは少し、おそろしくもありました。

「大丈夫だよ、何かあっても、僕たちなら」
「そうでしょうか」

 木立の作る濃い影に身を隠しながら、砂の海に沈んでゆく太陽を眺めた時は、思わず泣いてしまった程こころがうち震えたものでした。なんて美しい。そして、なんておそろしい。
 息を詰めたわたしに、彼はそう言いました。
 何を根拠にするでもなく、こまかく震えるわたしの身体をそうっと抱いて、大丈夫、と繰り返す。
 そうですね、きっと、そうなのでしょう。
 わたし達は二人きり。
 まだまだ熱砂の海は残酷なまま、わたし達の山を囲っているのですから。
 あの熱の海の向こう側で賑やかに暮らしているのだろう人々には興味がありますが、近付くということは、わたし達の領域に彼らが踏み込んで来るということでもあります。

 人が多ければ多い程、その意志は大きなうねる力となって、弱いものを虐げてゆくでしょう。
 数の力というのは、おそろしいものです。わたしはその予感に震えました。
 広がる豊かな森の木々を、次々となぎ倒して木材へと変えていってしまう姿がみえてしまっているのでした…それはもっと、もっと、悠久にも代わる時間が掛かった先のことでしょうけれど。
 世界は、成長し、姿かたちを変えてゆくもの…わかってはいるのですが、変わらないわたし達は、その中でどう生きていけばいいのでしょう…。
 熱砂の海はわたし達を閉じ込めて、しかしそれでいて護ってくれているものです。無くなれば寂しい。
 あのひりつくような、肌がじりじりと焼ける感覚は、わたし達に、世はそれほど優しくないということを教えてくれます。
 そのおそろしさを、その残酷さを、その中の優しさを。注意深く、慎みながら生きなさいとでもいうように…。

「メレー…、怖い?」
「貴方は怖くないのですか」
「さあ、よくわかんないな。どうにしても、何があっても、僕らをどうか出来るようなイキモノはこの世にはいないよ。だから、大丈夫」
「シュギルー、貴方は強いから」
「どうかな」
「そうですよ」
「でも、メレーはきれいだよ。コワイくらい」
「貴方でもこわいと思うものがあるのですか」
「どうしたの、今日は質問ばかりだ。そりゃコワイもののひとつやふたつ、僕にもあるよ」
「そうですか」

 ぎゅち、と彼の手が蛇をくびる。
 そのままみちみちと引きちぎる音が、耳が痛い程の静寂にうるさいくらい響きます。
 ぽきぽきとかすかな音をたてて骨の関節が外れ、それを支えていた筋が伸び繊維が弾けるように千切れていく音。千切れた所から、ふしっと赤い血や体液を溢して。
 灰青色の彼の手を濡らしていく。
 灰青の肌に垂れる血は黒く見えた。幾つかに千切って分けたそれから鱗のある皮を剥いで、露出した淡い桃色の肉に歯をたてる様を、離れた定位置の岩の上に腰かけたまま見ている。
 彼もわたしと同じ、水のモノなので食事は必要ないはずですが、時折、彼はああして蛇を好んで食すのでした。
 人々のように腹が減るのかと問えば空腹ではない、というし、しかし、命を頂くことをわたしは悪いことだと思いません。
 生命は、何かしらの犠牲の上に成り立つもの。
 彼が欲してそうするのであれば、わたしはそれを受け入れるだけ。
 同じ水のモノとはいえ、わたし、と、彼、という二個体があるということは、同一ではないのです。当たり前ですけれど。
 そして、そのままで、いいのです。自然でいることは、自然とあることは、とてもとても大事なことです。

 ふわん、とわたしの手元からさぼんの泡の宝玉がまたひとつ飛び立ってゆき、二人で青の丸い窓へ昇っていくそれが見えなくなるまで、見送りました。
 今彼が手に握るその蛇の肉のような、淡い桃色を多く含んだちいさめのいとでした。どうか幸福でありますように。

 ひ・とん、どこかの壁から、足元の水面へ飛び込む滴の音がしました。
 ゆっくりと瞬いて、それからその音の出所に目を向けます。
 あの青い小さな窓から差し込んで来る強い光。
 一ヶ所だけ強く丸く照らされる、昏い水面がるうるうと揺れながら波紋をうたっていて、それがおさまり、水面の揺れが停まるまで、そこだけを見つめていました。
 水に反射した光のおかげで、この洞窟の中は程よく明るく照らされています。
 静止している水面、岩壁のきわには夜になると淡く発光する苔がむしていて、わたし達はそれぞれに好きな所に腰をおろし、それぞれに過ごすのです。
 射し込む光が弱まり、苔が淡く光を吐き出す頃、ようやっと外はわたし達が出ても焼かれないくらいの気温に下がっているので、そうしたら自然と、そうするのが当然といったふうに、二人で外へと出掛けるのでした。
 枝葉を伸ばして繁る木々の隙間から、月明かりが柔らかく射すのを見るのがわたしは大好きで、いつかの旅人が教えてくれた、暑い雲の隙間から射す柱のような光のことを、天使の梯と呼ぶのだと、それを見ていたら、生まれて来たことを祝福されている気になるのだと懐かしむように話していた彼のことを思い出すのです。
 寒さを耐えて、わたし達の洞窟へわざわざ足を寄せて別れの挨拶をしに来てくれた。冷たい泉の水を、わたしは彼の水筒いっぱいに汲んで差し上げました。
 無事に砂漠を抜けて、家族のもとへ帰れたのでしょうか。
 帰れたのだとしても、もうその命も絶えて久しいくらいの時間が経っているのですが。
 そうして、今までに会えた少しの人々をそれぞれ思い出し、わずかに咲く花を摘んで、この砂漠で無念のうちに息絶え森に眠る人々に捧げ、祈り、瑞々しく繁る草木の間を縫うように小山のまわりを一周して、夜が明け太陽が顔を覗かせるのを見て、その光が熱をはらむ前に足早に洞窟の中へと戻るのでした。
 わたしはとても、充たされて、幸せです。
 灰青の筋張って大きな手がわたしの手をとって引いてゆきます。
 ああ、少し、足をとめ過ぎてしまいました。
 ざうざうと足元高く伸びた草葉を掻き分けるように進む彼のあとをついて歩き、大きく長い葉が落ちていれば、それを拾って編んできれいな形にして、彼の腰紐に提げてあげました。
 彼が、毛のような樹皮を持つ背の高い樹の葉を手繰り寄せ、一枚とると、思いのほか太いその茎を折って差し出してくれます。
 ぷくりと丸く飛び出してくるその露に唇を寄せれば、ほんのり甘く喉を通ってゆきました。
 食事や飲み水を必要としないとはいえ、わたしがこの葉の滴が好きなのを、彼はよく知っているのでした。
 毎日、こんな風に、穏やかに生きられることを、神よ、感謝します…。

「メレー?どうし、」
「あ、あ……シュギルー、む、ね、が、痛い…」

 いつか、いつか…こんな日がくるのではないかと考えたことがありました。
 人より長く生きるとはいっても、人のように寿命が無いもの、永遠に生きるモノだとは、思えなくて。
 せいぜい何百年のこと、と…しかし、この胸の痛み、物理的な肉体の痛みではない気もします。
 シュギルーがさらさらと彼の衣を引いてわたしに歩み寄り、胸を押さえ、いつも座っている岩の側でちいさく丸くなっていたわたしを抱えるように、覆い被さるように、まもるように、抱き締めてくれました。
 彼の好む蛇の冷たい鱗のような、ずっしりと見た目より密度のある冷たい重みを感じて如何程か痛みは軽くなったような気がしました。
 森はもう、何百年とかけて大きく育ち、その裾野は人々の生きる街から多くの人が歩みを寄せる程になっていました。
 街も灌漑を整え、砂漠を征して大きくなり、わたし達の森も広がって、両者が歩み寄ることとなったのでしょう。
 きっと、いつか、恐れていたようなことが。起こる。と、予感しているのでした。
 胸の奥底がズキズキと痛むのは、わたしがこわがりなせいなのでしょうか。
 これだけは、どれほどシュギルーが共に居て心強いとは思っても、おそれがなくなることはなかったのでした。
 ああ、ああ、昔はあんなに愛していた人々が、今はこんなにおそろしい………。



(メレー、大丈夫、僕といよう。何でも二人なら。こわがらなくてきっと大丈夫)
(ああ、ああ、知っています。二人いれば何でも、大丈夫なことは…大丈夫、だと……)
(…………………………眠ったの?メレー…おやすみ、佳い夢を…)
(……………………………………………………………)

ファヴルーシュギルー

 僕は、おそろしい程うつくしいものをよく知っている。それは、僕の半身。
 あのコはもうずうっと昔から、いとを紡ぐ、そのために生きている。
 僕は、あのコを守るために存在する。
 あのコが恐れるものすべてを退ける、それが役。
 いとを紡ぐ姿は、まるで、カミサマのよう。

 あの子が紡ぐのはただのいとではなくて、ヒトの魂になるものだということは、僕だけが知っているコト。
 僕らは、ずっと二人で。
 時々紛れ込んで来る旅人を介抱するのはあのコのシュミで。僕はやらない。
 よくまあ生きてここへ辿り着いたモノだな、と思うくらいで。
 その幸運くらいは誉めてやっててもいい。
 けど、僕はあのコの為に存在するモノだから、あのコが愛するもの迄守るコトはない。
 世の中そんなに甘くないよね。

 あのコは特別なマモノで、その半身が僕。
 世には他にもマモノはいるんだろうけど、僕らは知らない。
 何故なら、あのコはこの洞窟から遠くへは離れられないモノだから。
 清く、冷たく、凍てつくような澄んだ水がないと生きられないモノ。
 僕は違う。
 同じ水のモノだけど、僕は水なら何でもいい。
 泥水の方が嬉しいくらいだ。何たって僕は、泥土のマモノだからねえ。

 外だって実は平気だ。
 水はあれば勿論嬉しいけど、無くったって生きていける。
 だけど、それをしないのは、あのコがここにいるからだ。
 それしかない。
 つまらないな、と思うのは、驚くコトに、一度もなかった。
 あのコがいれば、僕はそれで充分。
 守るべきモノがそこにある、それだけで良かった。

 あのコが外へ出るなら僕が道になる。
 あのコが洞窟へ戻るなら傍に居る。
 僕は、それだけで。
 あのコのように、特別なマモノではないから、僕は自由だった。
 あのコよりずうっと、広く、自由に生きられる。
 行こうと思えば砂漠さえ越えられるけれど、そうしないのは、あのコがいる、から。だけ。
 長く生きれば生きる程、つまらなくなって、飽きてしまうのかと思っていたし、長らく本当に、それを恐れていた。
 生きるのに飽きてあのコごと死んでしまう選択肢だって僕にはある。
 あのコが紡ぐマモノなら、さながら、僕は弑すマモノだ。
 この力の帰結は、いつも、破壊。
 だけどそれをしないのは、僕が、あのコを、あのコが愛するこの世界とヒトビトを、愛しているからだと。
 認めたくはないけれど、知っているんだ。

 もしも誰かがあのコを傷付けるなら、僕は容赦しない。
 全部破壊するし、殺してやる。
 それが許されている。だから、僕は、弑すマモノ。
 そして、あのコは、尊い……。

「シュギルー、甘い匂いがする。どうしたの」
「アア、戻ってくる時に摘んだ花かな。ほら」
「…きれい」
「あげるよ、はい」
「本当?ありがとう」

 イラつく程純粋で、ウザったい程無垢で、真っ白な。
 あのコはきっと、人間共の前ではカミの様に扱われるだろう。
 その予感がする。
 嫌だな、僕のこういう予感って、こういうのだけは、よく当たるんだよねえ。
 まあ、砂漠がこの洞窟を含む小さなオアシスを囲んで、隔離している限りはまだもっとずっと先のコトだろうけれど。
 何百年か経った頃には、あのコも人間が今知っていて思っている程イイモノでないことくらい知ってしまっているだろうし。
 僕らが、どうしても離れ難いのは、ひとつの魂を二人で共有しているからだと、それさえもあのコはしらない。
 別に、知らなくていいとも思う。僕ら互いに、否、僕が一方的に依存している、その原因とか、理由とか、言い訳とか、そういうのは。
 僕は愛して欲しいだけかもしれない。
 メレーに、メレーと僕が魂なんて繋がってなくったって、僕を僕として見ていて欲しい。僕を僕のまま許して欲しい。僕が僕だから愛して欲しい。
 求め過ぎだということはなんとなくわかっているけれど、どうしようもなかった。
 あのコ、メレーに比べて僕は、とても…穢きたなくよわいモノだ。
 だから、あんな形に生まれた。

 …それはさておき、メレーはいつかヒトビトになる魂を紡ぐけど、そうしたら、僕らマモノの魂は誰が紡ぐのだろう。
 どうやってこの世に生まれたのか、僕ら二人共よく覚えていない。
 気が付いた時には、ここで、この冷たい洞窟にいた。それが一番古い記憶。
 ちいさな手、凍えているワケじゃないのに、震えていた。
 あの時、僕は、あのコに守られていた。

 あのコが紡ぐいとのよう、淡く発光するような、粒子が表面でかすかな虹を作ってゆったりと緩慢に踊っているような、まろい真珠の肌に抱かれて。
 肩に掛かる髪は直視した太陽みたいな、つよいましろ。
 瞳は奥に濃い金色を隠して、植物を閉じ込めたような水晶を嵌め込んで。
 僕は、あのコよりうつくしいモノを知らない。
 自然界のすべてがあのコの前ではひれ伏すだろう。
 天文学的数字の奇跡すら、あのコの前では頭を垂れて色褪せるだろう。
 凄絶な、やさしいけれど鋭利な、強い、ひかり。
 あのコは、それ。絶対的な、守るべき、僕の半身。

 時折たどり着く旅人達は口を揃えてあのコを女神と呼ぶ。
 そんなのじゃないのに。そんな俗っぽいモノと同じにされるのは、ヘドが出る程気分が悪い。
 量産的で、ヒトビトに都合のいいだけの、そんな偶像とは根本的に違うモノ。
 だけど、ヒトなんかにそれがわかるはずもない、とも思った。
 わからなくて別に構わない。
 僕は、あのコがこの世から消える迄、その姿を見失うコトはない。
 あのコを囲い、守り、アイし、その為にすべてを退ける為に存在する弑すモノ。
 消える時、死ぬ時はきっと一緒だ。

 意識を持った時、まだちいさな僕ら。
 あのコが、まだ爪もやわらかいちいさな手で、それよりもっと小さくて脆弱な僕を抱き締めていた。
 今とは逆、僕が守られて。

 僕は、本当は、生まれくるモノではなかったのかもしれない。
 曖昧で、形もブヨブヨで、泥のまま、足りないものがあり過ぎてそれ以上の形にさえなれず、ただ、消える間際にたゆたいながら、あのコに抱き締められていた。
 僕は、間違えて生まれてしまったのだと思う。
 或いは、うっかり命ノヨウナモノを持ってしまっただけ。
 この洞窟の中、低いところでとうとうと湧き出す泉の真ん中で。
 冷たいあのコの弱い腕につよく抱き締められて。
 ぼんやりと、意識だけがあった。
 ちゃんとした形になれず、本当なら、そのまま、ひとりで、この冷たい水に溶けて消えるだけだった。
 命の形を明確にする前に溶けて。

 だけど、あのコが。
 その命が溶けて消えてしまわないように、大事に抱いていた。
 僕が沈んで溶け消えてしまわないようにと全身を使って、マモノにすらなれないままの泥の塊(ぼく)を抱いて、ずっと祈っていてくれた。
 まだ言葉さえうまく使えなかった頃の話だけど、僕は何故だか鮮明に覚えている。
 あのコはずっと、あの時は、僕の為だけに祈ってくれていた。


 …………この命が、この命であるように、祈ります。
 力が必要なら、わたしが分け与えます。
 この命であるように、祈ります、神様。
 すべてを愛して喜びます。
 この泥にすら宿った愛すべきものを、消えなば絶えねとおっしゃるのですか、それは間違いです。
 命は、すべて、喜ぶべきものです。
 お願い、この命をわたしは離しません。
 例えこのまま沈んだとしても、それなら、共に死にましょう。
 この命は、この命のもの。
 泥のひとつにも、色鮮やかに灯るでしょう、焔が。尽きない焔が。
 強かにきっと、強くひかるモノになるでしょう。
 わたしが共にいる、だから、わたしは、離しません。この命を。
 神様、わたしからこれを取り上げるのですか。
 それは、許しません。許しません…絶対に。
 足りないものがあるのなら、わたしが分け与えます。
 この命が、この命であるように。魂なら、魂を半分。命なら、命を半分。
 身体なら、身体も半分。分け与えます。ですから、神様。
 この命が、この命であるように。祈ります……………。


 そうして、本当に。
 十月十日、ヒトの子が育つのと同じ時間、ひとときも離さずに、祈りながら、抱き締めていてくれた。魂も分けてくれた。
 だから、命は溶けずに残って、僕は形になれた。
 だから、僕は生まれた。あのコのおかげで。あのコの為に。
 あのコが生きるから僕も生きる。
 あのコが望むならすべて叶える。
 カミサマは僕はダイキライなんだろうけれど、あのコが愛するものならば、まあ悪くはないとも、思う。
 僕は、あのコがとても好きだと思う。
 きっと、だから、根拠はないけど。死ぬ時は一緒だ。

「メレー」
「何ですか」
「僕が死んだら、どうする?」
「? どうもしませんが…」
「え」
「シュギルーが死ぬのは、わたしよりあとだって決まっていますから」
「決まってるんだ」
「そうです。まあ、万が一、わたしがあとだったとしても、きっとどうもしないと思いますけど…眠るように、きっと一緒に死んでしまう」
「キミって、そうだよね」
「知っているくせに、何故きくのですか? シュギルー、半身を喪ってなお生きていたら、きっとそれは、扼災しか生まないと思います…」

 シュギルー、わたしだけがこの世にとり遺されてしまったら、きっとわたしは。と、本人は知らずおそろしい表情をしてゆったりと言の葉を吐くメレーを見た。
 とても、嬉しそうな、どこかりるりらと鋭く抉るように光るような凄絶な笑い方。
 そうだ、僕らは危うい存在だ。
 だから、離れない。
 魂はひとつなのに、身体は二人分。
 ひとつの魂に身体がふたつあるということは、ひとつの魂にひとつの身体を持つモノの倍、危険を背負って生きているというコト。
 身体の片方が壊れたら、どうなるんだろう。
 残された方はそれでも生きるのかな。
 身体を共有している訳じゃないから、不安定でも生きてはいけるのかな。
 もし、僕があのコの言うように。
 メレーより後に、遺されてしまったら、どうなるだろう。どうするだろう。
 メレーは僕の方が後だと言うけど、ソレって、つまり、僕はあのコを守りきれなかったという事であって、そんなのは、あり得ない、と思った。
 だって、僕は…。
 ねえシュギルー、と話しかけて来たメレーの手元から緑色のさぼんの泡の宝玉がぼんやりと輪郭を暗闇に滲ませて飛んでいくのが見えた。

 空はすっかり暗くなって、きらきらと星が沢山瞬いている。
 そろそろ泉の境界にある苔が淡く光を吐き出すだろう。
 暗闇の中で、いつもの定位置の岩の上に座っているメレーは、色素が薄いから、遠い星の弱い光を受けなくても光っているかの錯覚を覚えるくらい、はっきりとそこにいるのがわかる。
 お約束のように、二人でその泡を黙って見送って、それが見えなくなったあと、どうしたの、と聞き返した。

「わたしが先に死んでしまったら、シュギルーは、生きてくださいね」
「…………それは、ズルくない?」
「うん。ズルいかも。でも、そうして欲しいんです」
「ヤダ」
「…ふ、そう言うと思いました。でも、覚えておいて下さい。わたしは、一緒にじゃなくても、生きていて欲しいと思っているってこと」

 何も言えなかった。
 僕ら、何をするにも、いつでも一緒で。
 僕は、僕が死んだら、メレーもきっと死んでしまうんだろうと思っていたし、きっとそうなるし、そうなるってメレーも思っているんだろうと思うけど。
 もし、メレーが死んだら、…死んだら、きっと、僕は、僕が死んだあとのメレーのように"死んでしまう"ことはないだろうと思っていたけど、いたから、きっと自分で死ななきゃいけないのは多分痛くて大変だろうなアとぼんやり思っていた。
 当然に、そうあるように、あとを追うのが、僕らの在り方だと、思っていた。
 思っていたけれど、メレーは、遺されても生きて欲しいと、それはつまり、僕が自分で死のうとするのを嫌がるというコトに他ならなくて。
 メレー、本当に、それは……ズルいし、とても、残酷、な……。

 眩しかった。
 メレーはいつもこうだ。弱そうに見えるのに、ずっと強かで。
 まるで、太陽みたいだ。
 その陽射しは強くも弱くもなるのに、本体の熱量はいつも同じで弱まることなんて知らなくって、眩しさは全く変わらない。
 その強さは、僕には……眩しすぎる。
 ああ、いいなあ…僕がメレーで、メレーが僕だったら良かったのに。
 いっそ同一でも良かったのに。
 僕が選んで来た道がまるで最初から、本当は、メレーには必要なかったみたいに…或いは、僕の選択が全部間違いだったみたいに……その望みは、とても、惨酷だよ…。

 ぼーっとしていたら、ひやっと手が僕の頬に触れて、輪郭をなぞるようにしてから髪をすいた。
 水に沈んだ木のモノ、メレーからはいつもふうわりとやさしくて、清冽な甘い香りがする。
 それは僕の最も古い記憶のひとつでもあって、いつでも、これからも、ずっと好きな匂いだと思う。
 そうっと、そうっと、世界中の何より大事なもののようにやさしく引き寄せられて、その薄い胸と華奢な腕の中に収まる。
 生まれた時みたいだ。
 もうあの頃とは違って、僕はその腕の中の力無き存在じゃないし、大きくなって、収まりきらないけど。
 メレーはその胸に、いつも何かのために祷りをぎゅっと抱いている、神聖な。
 触れがたいそれはもう、あの時のように皮膚を通って伝わるように聞こえては来ないけど、僕はメレーの願いや祈りは全部、本心から、ほんとうに、すべてその願いや祈りのまま叶えばいいなとずっと思っている。
 そうしたら世界はもっときれいで、もっと平和で、変わらず、穏やかなまま争いなんて一切ない完全世界でいられただろう。
 だけど。
 あのコは、カミサマではないし、人間というのは、泥の僕よりもっと穢いイキモノだから、争いは避けられない。
 えげつない、下らない理由の争い事を目の前にしたら、メレーはどうするんだろう。
 何と言って、治めようとするんだろう。
 叶うなら、カミサマ、僕をダイキライなように僕もカミサマが大嫌いだけど、叶うなら、そんな時が少しでも遅くくるようにと、祈るよ。

「メレーがそんなコト言うから、急に息苦しくなってきた」
「いやだ、死なないで下さいね」
「死なないけど…。でも、いつかは、いつか、くるんだよね」
「そうですね…いつかは、必ず……」

 わたしたちは、不死ではないですから。と、目を伏せて、うまく笑えずに曖昧に口元を歪めたメレーの背中をぽんぽんと叩く。
 それを合図にしたようにほろりと華奢な腕の牢がほどけて僕はやさしい囲いの中から再び残酷な世界へ戻ってきた。
 たった二本の華奢な腕、そこに抱かれるだけで、世界中の何もかもから隔離された安全地帯だと思える。
 それ程その腕は、やさしく、尊いのだということを、多分世界中で僕しか知らない。
 僕は、僕じゃない形なき世界すべてをその両腕でかき抱いて守ろうとする、メレーをアイしてる。
 僕は、そこに甘えていてはいけないんだ。
 一番外側で、きっと、メレーはそれなりに強かに闘えるのだとは思うけど、その微笑みには小さな瑕疵きずさえいらない。
 宝玉というのは、完璧で、キズがないからこそ玉なんだ。
 僕は、メレーのひかりを守りたい。守る。やさしいきみを、やさしいままで。

 いつか、メレーが僕の為に祈ってくれたおかえしに。



(あいしてくれて、ありがとう)

イスラ

その人たちを見掛けたのは、花片国巴蓙(かへんこくはざ)の町だった。
夜闇に紛れてちいさな町に宿をとった三人組。二日と滞在せずやはり夜闇に誘われるように次の町へと出ていった。道のりが同じなのか、その人たちはおれの道中でたびたび視界に入った。数度みかければすぐに覚えてしまう、奇妙な三人組。クロとシロとそれから銀色。まるでおとぎ話の吸血鬼のように陽射しを怖れるようなクロとシロ、それから、いかにも砂漠の民といった褐色の肌色に、まるで夜が流した涙のような、水銀色の短い髪の男。ヘンだった。見た目も、動きも。確かに砂漠の移動は夜の方が涼しいし、距離も動ける。けれど、どこか、ヘンだったのだ。怪しい旅装以上に何かが。奇妙で、だから、いつしかこの街でも見掛けるのじゃないだろうかと目で探してしまうようになっていた。砂漠のど真ん中、どころかもっと端と言って差し支えない巴蓙から、大陸の反対端、海の方へと向かうにつれ街が大きくなって、だから、よく見掛けて目立っていたあの三人組を見掛けることは、なくなった。それでも、砂漠の凍えるような夜を街のなかにある暖かい宿で過ごす時、ふと、思い出してしまうのだった。彼らは何故、夜に移動をするのだろう。クロとシロは何故あんなに、厳重に顔や肌を隠すのだろう。どこへ、向かって、いるのだろう。海へ向かう程、人も物も街も増えその規模は増すばかり、それに伴って行程は複雑になっていった。流されないよう気をつけているうちにそんなことはすっかり忘れていたのに、大陸へ渡る為に選んだ船舶に、彼らはいた。

「兄さん…」
「ああ…彼らも、」

言わなくともわかった。彼らが何者なのか、それは、この船に乗る、ということだけで。この船の主は海を航る魔物で、そして、自分たちは人だけれど、その関係。やはり、と思う気持ちと、でもどうして、という気持ちと、何故だか複雑な気持ちだった。あれほど気になっていたシロとクロと銀が、今は声を掛けられる距離にいる。手を伸ばせば触れられる、すぐそこに。トン、と陸から船へ渡した長い階段から軽く飛び降りた音にはっと顔を上げる。ふっと揺らいだフードの奥、陰で濃く濁る灰色の肌から、どろりとした緑色の瞳が一瞬見えた。

「おいシュギルー、何も言わずに乗るなって!まだ船長と話が……おいっメレーお前まで」
「大丈夫ですよ、シュラトー。船長さんも承知です。荒れるとは思いますが…」

クロに続いてシロが、そうっと足を伸ばして降りてくる。ちょっとした仕草だけでわかる正反対。ちら、とおれ達を見て、続いて積み込まれる荷を運ぶ者達の邪魔にならないように反対側の空いた甲板に移動した。びょうびょうと風が吹いている。それになぶられて彼らの外套の裾やフードが巻き上げられるけれど、こちらに背を向け水平線を眺める彼らの顔はやはり見えることはなかった。ぶつくさ言いながら、銀色が乗り込んでくる。先の二人と違って覆うものの何もない彼とはばちりと視線が絡んだが相手の方はおれを意に介すこともなく二人の立っている場所へ少ない荷物を背負って合流した。船の乗組員は皆、人に紛れる容貌をした魔物や、半魔物達で、やはり船長もそうであって、この船は、その渡航者の殆どが魔物なのであった。イズミルの港を出れば、待ってましたといった様子で風は強く帆を押した。暫く経ち、あっという間に港が見えなくなった頃、甲板に腰を下ろしていた彼らに船長が近付いていく。漏れ聞こえる会話に耳を済ませていれば、本当にいいのか、大丈夫なのかという重々の確認のようだった。

「にしても海ってのは、凄いな…水がこんなに……見渡す限りの青なんて、考えた事もなかった。空を進んでるみたいだ」
「美しいですね」

通る声が聞こえる。砂漠の民らしい銀は一面の大海原を見渡してはため息を吐いていた。

「脱がないのか?もういいんだろ?」
「…メレー、部屋が出来たって」
「ああ…シュギルーはともかく、私は…」
「メレー、早く」
「…。航海は長くなります。シュラトー、くれぐれも気を付けて」

クロに連れられてシロ…メレーというらしい…は船室へ降りる階段を降りていった。一人残されたシュラトーという名の砂漠の民は、よくわからないといった様子で首を傾げている。

「あの方は、水の魔物なのでしょう」
「…お前は?」

兄のクシャスラが声をかけ、訝しげに見下ろしてくる厳しい瞳をいなして、外套のフードをおろす。パッと見は人間と変わらないが、兄は宝石の眼をしていた。オレンジカルサイトの不透明な眼球。その特殊な眼を見て同胞だと悟ったらしい銀…シュラトーは、甲板の縁ふちに腰を下ろし、幾分か視線を和らげる。

「クシャスラと。こちらは弟のイスラ。交わりの末裔です」
「………俺はシュラトー」
「どうも」
「水の魔物がどうしたって?」
「真水と海水は似て非なるものです。海の水は多量に塩を含んでいるので、真水の魔物には太陽と同じくらい毒になるんじゃないでしょうか」
「………そうなのか」

海を初めて見たらしいので、真水も海水も同じに見えるのは仕方がない。しかし、彼は明らかに動揺していた。頭は良い方らしい。太陽のように夜になれば沈み姿を隠すものではない、海は次の島や大陸へ辿り着くまですぐそこに在り続け、自分達はその中にぽつねんと浮かぶだけの小さな存在であり、その危険にすぐに思い至ったようだ。日が強く照り付ける甲板に、びょうと心地好い風が吹く。潮を含んだ風はしっとりと衣を重くするけれど、灼ける暑さとは違う感覚だ。砂漠の民は吹き付ける風に目をすがめていた。

「シュラトー、海に落ちたら僕ら助けられないからね」
「…落ちねえよ!ガキ扱いすんな」
「そう。ならいいけど。その子供は?」
「交わりの末裔だってよ」
「ふうん。風が凄いね」
「お前は平気なのか、潮風」
「僕はね。正確には水に添うマモノだから」
「初めて聞いたけど」
「ウン、初めて言ったからね」
「…………………」

船室から上がってきたクロが、こちらを見やった。一瞬だけれど、先程見えた緑色の瞳を思い出してぞっと肝が冷える。この人は、魔物でも、魔物の中の魔物なんだと直感する。そして、メレーという名のもう一人も。交わりの者であるおれたちとは、やはり根本的に違うモノ。

「シュラトーさんは、交わりの者ですか?」
「違う。純粋な人間だ」
「どうしてそちらと共に?それも随分、砂漠の奥から」
「何を知ってる?」
「…すみません、不躾な言い方になってしまいました。性分なのでお許し下さい。ぼく達、巴蓙はざを経つ頃から、何度かあなた方をお見かけしていたので」

長い沈黙がおりた。少し離れたところでは船員がやいのやいのと声をかけあって仕事をしていて天気と同じように陽気で賑やかなのに、ここだけ海の底みたいにつめたい。沈黙を破ったのは、兄クシャスラではなく、シュラトーでもなかった。

「僕らも気付いてたよ。随分と半端で不安定な二人組だなって」
「そうでしたか。失礼を」
「別に。メレーが気にかけてただけだから、僕はどうでも良かったけど」
「お連れの方が?」
「子供が二人だけで危ないって。何ともなくってよかったね」

長い道中、互いに気にかけあっていたのだと思ったら少しおかしかった。こちらは遠目に見掛けていただけですれ違ったわけでもなく、子供二人、大人の影に紛れて彼らの視界に入ったことなどなかったはずだが、純粋な魔物なら、その感覚が違うのかもしれない。

「…お陰さまで、無事にここまで来れました」
「何にもしてないよ」
「はい、ありがとうございます」

兄は何をわかっているんだろう。目に見えない、聞こえないところで会話でもしているような感じだった。おれよりも、もっとハッキリした交わりの者である兄は、生まれたときから共にいるけれど、今も不思議だなと思うことが多い。人間だから当たり前なのかもしれないけど、人間なのに、人間じゃない見目をした兄は、おれの知らないことをずっとよく知っていて、沢山のことを諦めて…。

「にしても、これからどこへ行くのか、その目的がわかっててこの船に乗ってるんだろうね」
「はい。目的はあなた方と同じだろうと思います」
「ふうん。難儀だね」
「そういった生き物ですから」
「何の話してんだよ」
「…メレーが」
「ん?」
「きみに、砂漠の最後の街で何度も確かめたね。やはりついて来るのかって」
「当たり前だろ」

だったら何だよ、と、無垢な様子で。兄もおれも、切ないような、憐れなような気分だったと思う。純粋な人間で、何の関係もないのに、この先を共にするのかと思ったら。本当ならあのイズミルの港で別れるはずだったかもしれないのに、この人はまだ何も知らないんだと思ったら。ああ、魔物って怖いな。こんな風にひとを不安にさせて、自分たちはなんでも知っている風で、きっと事も無げに、言うんだろう。

「この先に待つのは大規模な戦争だよ」
「はあ?」

ああ、魔物って怖いな。ひとの死に痛みを感じないのかもしれないな。さらりと飛び出してきた聞き慣れない言葉に首を傾げたシュラトーの側で、兄が小さくちいさくため息を吐ついた。



夜、風の全くない凪の中。陸など微かにさえ見えない、水平線だけがある大海原のど真ん中でぽつねんと船は停まっていた。深さのわからない暗い海の上に、ただ浮いている。何百人もの魔物や、交わりの者を乗せて。その殆どが寝静まって、何人かの見張りがマストの天辺にある見張り台にいるくらいで、時折、低い波がざぶざぶと船の横っ腹を叩いていた。与えられた船室で、今頃兄は静かに眠っている。灯りも殆ど無く、月は薄い雲に翳っていた。薄暗闇の中、暑くも涼しくもない湿気た風がふわりとやわらかく吹いた。帆を揺らす程の風ではない。

「月の色が、砂漠とは随分と違いますね」

そよ、と風の吹くようにやわらかく唐突に届いた声。仰ぎ見れば、シロがそこにいた。甲板のど真ん中を独り占めして仰向けに寝転がっているおれのすぐそばまでやって来て、月を見上げそっと腰をおろす。自ら発光するような、淡く空気に滲むような、真白の髪と肌、透き通る瞳は草葉の模様のようなものが入っていて、一目で、異質だとわかる。だけど、柔和に笑む口元と優しげな眼差しから、親しみも感じる。不思議な容貌。降り注ぐ月の光がまるでそこにばっかり寄り集まっているようにも見えた。仰向けになって見上げた夜空はずっと遠く、水平線と共に消えていく。上を見ていなければ、まるでそらに浮かんでいるような錯覚が起きそうな程、海は静かに凪いで夜空の鏡になっている。砂漠では、地面は冷たく照らされた青白い砂がぼこぼこと風に作られた小さな山や丘が歪な地平線を作るだけで、空と地の境界ははっきりしている。滲んで融けてしまう海は、砂漠の夜を見慣れていると、少し恐ろしい様相をしていた。
そばに腰を降ろしたシロ…メレーといったか…からは、清冽な水の匂いがほのかに流れてくる。滔々と静かに湧き出いでるキンと冷えた真水の匂い。すっと鼻を通り、内腑に届いてシンと沁みていく。心なしか辺りの温度が下がるくらい、涼やかな様子だ。ちらりと何度か盗み見るが、相手は砂漠とは違う夜空をじっと見上げていた。何か話せばいいのに、聞いてみたいことがあったはずなのに、いざ本物を目の前にすると何もかもがすっぽりと抜け落ちてしまったように声がでなかった。おれは、やっぱり何も言えずにじっと空を見ていた。誰かといると…否、この人といると、とても心地がよくて、眠れなくて出てきたはずなのに、急に眠気が襲ってくる。だけど、せっかくなのだから、眠りたくはない…。なにか、話したいのに…。

「…御名を何というのですか?わたしはメレーシュキネーといいます」
「んっ……えっと…イスラ…」
「イスラ…そう、わたし達を気にかけて下さって、ありがとうございました。お礼が言いたかったのです」
「そんな。おれ達の方こそ…よくわかんないけど、兄さんがシュギルーさんにお礼を言ってたくらいだから、何かして貰ったんでしょ……」
「いいえ。あなた方が無事に目的地へ着くように、お祈りをしたくらいですから、大したことはしておりませんよ。それよりも…まだお小さいのに、行くのですか、この先へ…」
「…。行かなきゃ、いけないんだ」
「そうですか…」

一度立って、距離を詰めて、今度はおれのすぐ側に腰を落ち着けたメレーさんは、ひんやりして冷たい手でおれの頭と、額と、それからそうっと瞼を下ろすように優しく撫でてくれた。

「…眠ったの?」
「ええ。シュギルー、お部屋に運んであげて下さい」
「クシャスラが探してた」
「なら彼も探して、お部屋に送ってあげて下さい」
「メレー、潮風……」
「風が出てきたらきちんと戻りますから。ありがとうございます、シュギルー」

全くの無風ではないけれど、それ以上は何も言わなかった。メレーはイスラを抱き上げて船室へ降りる階段を降りていくシュギルーの背を見送ってから、甲板の舳先に立った。大海原のずっと先に、かれが待っている。ずっと昔、長い長いおとぎ話を聞かせてくれた。もう、滅多に聲こえが届くことがなくなってしまったかれが…。
弟を探していたクシャスラを回収して速やかに部屋まで送り届けて甲板に戻ってきたシュギルーは、半身の華奢な躯の中にある懸念や心配事を察しながら、しかし何とも言わず、そっと側に立っている。胸の前で左の手の甲に右の手のひらを重ね、その右の手の甲に額を預けるように頭こうべを垂れて祷りを捧げている、メレーの後ろ姿を、じっと、守っていた。

『砂漠の果涯』

『砂漠の果涯』 山城よる 作

砂漠に住まう人々でオムニバス(未完)

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-01-13
Copyrighted

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