*星空文庫

腕さがし

冬夜 流治 作

  1. ラウンジ
  2. 寝室
  3. 屋上
  4. 寝室
  5. クローク
  6. 街路
  7. 護送車
  8. 寝室

執筆中。16年もののTomintoulとレディオヘッドのOptimisticとともに。

ラウンジ

オニキスによる光り輝く箱の内奥へと閉じ込められた女の瞳は違って暗い。

暗い女の瞳には紫雲がくゆっている。葉巻の(いぶ)すスパイスの薫りに満ちた黒い部屋は、煮詰めたインキのように艶々としながら、気怠いデカダンスのなかを流れてゆく。男たちに腰を寄せる女たちの白い脚が、深海の烏賊(いか)の群れのように揺れて、掻き混ざる白い砂煙の中にゆらゆらと泳いでいる。

それは女が頭を回すにつれて、瞳の中を横滑りしてゆく。ゆっくりと、まるで粘液のなかに封じ込められたように、女の動きは緩慢としている。

琥珀色の揺らめく吐息は、長い螺旋状の下降とともに彼女の胸口を滑り落ちる。

「どこかひしゃげて」

モヒートを飲む細い咽喉が、水族館の海豚(いるか)のように滑らかに泳ぐ。

ボヘミアンガラスのように輝く気泡が微音をたててつぶれ始める、その小さな反響にわたしは耳を澄ます。棘が放つ焼けるような痛みが、エレキショックのようにがくがくと鎖骨の付け根にある小さな筋繊維の末端をひくつかせる。

「ここにその応力が」

瞼の外側をそっと指で圧しながら、そう、彼女はぽつりとつぶやいた。

ボーイが通り過ぎるたび、シャボンの沫泡や水に滲む重油の描き出す虹色の紋様にも似た輝きが、壁を滑ってゆく。彼女は心音をひそかに調弦する。箱の中のなにごともが、砕いたピースをばらまいたような酩酊の混乱に沈んで見える。ボーイの銀盆からシェイクアイスの入ったグラスを女は敏捷に盗んだ。

額の熱をグラスに吸わせながら、わたしはやや熱に潤んだ瞳を横へそらした。

男はそっと、女の指先を口に含むと、その先を口腔の底にまだ泡を立てるシャンペンの液体中へと滑らかに滑り込ませた。

「なんの遊び?」

女は尋ねるが、男は答えない。そっと彼女の指に乗せた歯茎の奥に力をかけると、息をのむように女は静かになった。

「私を食べてくれるの?」

男は口にわたしの指を飲み込んだまま、じっとこちらを見ていた。その希薄なオゾンのようなヴェールが明滅する瞳の底は、色もなくまるでオニキスのように艶々としていた。

寝室

鎖骨の連なりがありありと浮かび上がる背中を、二本の指先がてくてくと散歩してゆく。痩せた男…と女は思う。まるでエゴンシーレのように淫らで細く、自分自身への不安を埋め込んだ黒い瞳の奥底から、じっとじっとこちらを眺めている。

「君はエゴンシーレを知っている?」

女は尋ねる。白い頬は水洗いしただけで、ローズヒップのようなチョークの名残りが、頬の奥に薄く色づいていた。そして微笑むたびに、それは柔らかく歪んだ。その裸を舐めながら、男はずっとひとつの心象(イメージ)に捉えられていた。まるでナプキンにかかれ、踏みつけられて歪み擦れた素描のように、判別がつかないように思えたが、唐突にはっきりとした輪郭を帯びたり、また不明瞭な塊へと戻ったりした。それはなぜか男を焦らし、必死にさせた。泉と皮の印象を重ね合わせながら、男はくまなく女のチョークをなめ尽くした。その薄い皮膚の底から、こんこんとわき上がる血潮のようなチョークの残渣を、男は激しく愛撫した。部屋は暗かったが、それらはまるで夜陰を舞う蛾の鱗粉ように、ぼんやりと発光していた。

女のいたいけな細い腕を白い蛇のように自分の体に巻きつけて、男はまたもや、気圏の限界をちらつく薄い層雲のようにもみえる瞳で、長いあいだこちらの顔を見つめた。わたしは自分の腕に力を込めながら、男をじっと見返した。男は女の目に、予期せぬ獰猛な気質が浮かび上がるのを感じた。それは彼を喜ばせた。

ルージュもチョークも、すべての赤を男は舐めつくし、素地の見えた肌や唇を、今はゆっくりと指先でなぶっていた。そうやってからやるのが男の流儀なのだ。少年の細い指で、果たして、その女の華奢とはいえ弾力のある長い首を締めきれるのか、男には自信はなかった。でも、それは今なにか大切なことのようには思えない。ここで必要なのは、すっかり自分をほどいてしまって、広大な水の表に力を抜いて浮かぶように、女の体の上に浮かぶことだけだった。燈る小さなランプ。スイッチを押したのは女。バターナイフでネオンのライトを切り抉ったみたいに、それは奇妙に歪んでいた。湿った手でグラスを取ると、カスタードプディングみたいな甘苦い酒を口に含み、男は女の髪をかき分けて、その顕わになった顔に鼻づらを近づける。あのナツメグのような香りのする女の髪。男は自分の肉体に針のような鋭い思念を送りながら、なんとか女に挿入しようとあがいていた。それはスムーズにいくはずだった。今まで、男はそれに失敗したことがなかった。しかし、今晩は男の背中に得体のしれない影がぴったりとくっついて、すべての動作に重苦しい抵抗力を加えているような気がするのだ。それは男を動揺させた。そして行為の間中ずっと、男はアスファルトの煮えるような黒に焼き付いたあの影法師を思い出していた。それは敏捷な豹のように、男に組み付き、男をにらみ返した。そうだ、俺はまだあの瞳を覚えていたのだ。

屋上

「ターンバックルをしっかり締めておけよ」
管理人はそう一言いうと、そそくさと階段室へ通じる扉へと歩き去ってしまった。ヴィンセントは屋外空調機を固定する張線の張りをみながら、ひとつひとつのターンバックルを丁寧に締めていった。それはうんざりするほど退屈な作業だったが、すでに夜陰に捕らえられた都市の夜光虫のような輝きが、そんな彼の気持ちを紛らわしてくれた。

気が付くと、コムセルに着信が何件も入っていた。
「エスティベン?!」
ヴィンセントがメッセージ画面をスワイプする前に、階段室の扉が耳障りな音を立てて開き、ハンドルにぶら下がっていたさびた鎖が落下防止柵の支柱にぶつかって派手な音を撥ね散らした。ヴィンセントは反射的に身構えたが、そこに飛び出してきたのは金髪の痩せた少年だった。
「エスティベン!!」
ヴィンセントは驚いたように首を傾け、まじまじとその灰色の瞳で人影を見つめた。

寝室

「いま、ちがうこと考えていたでしょう」

男が射精を終えると、女は少女の顔に戻って言った。

「私ではない誰かを、頭の中で押さえつけて犯したでしょ…そう、たぶん。」

少女の瞳は溜まったランプの光で揺れていた。その瞳を見ているうちに、男は自分が組み伏せようとしていたものが、この少女の中にもあることをはっきりと悟った。ついに青紫の焔が広がり出て男の両眼を焼き尽くした。疑念の怒りが少女の瞳の中で突然に燃え上がり、男は困惑した。まってろ…男は心の中で呟いた。もうすぐ楽にしてやる、と。不思議だ、この女を見ていると、俺にはどうもマスクがかぶれなくなる。少女の一体何が、訓練と経験により皮膚の表と裏のように一体として存在する俺の偽善的な優しさと、職務的な憎しみを破って、その奥に埋め込んだ素地をむき出しにするのか……。少女は猫のように敏捷に立ち上がり、男に美しい尻の線を向けた。声もなく震えるその後ろ姿は、ベッドからまっすぐクロークルームへと歩き去っていった。

男は仕事着に着替えるように、自分のなかに獣のような憎しみをとぐろのように巻きつけ始めた。そろそろ、この仕事を片づけるときが来たようだった。それには情け容赦のない完璧さがもとめられた。鋭いかぎづめの突き出た有刺鉄線で男は自分の心臓を固くしばりつけた。酔いが男を掴んでいたが、それがすべての理性を沈黙させるわけではなかった。獣性と理性のつり合いを取るため、天秤に乗せる重りとして、男にはそれが必要なのだ。

クロークルームにいると、わたしは爪先で調光器の銀の小さなつまみを回して、ごくわずかにあたりを浮かび上がらせた。わたしは寝室に背を向けて衣装掛けまで柔らかい絨毯の上を歩いて行った。たぶん、男は寝室からこの部屋にいるわたしを見ているだろう。はだしの足裏をくすぐる起毛の絨毯は、わたしの膝頭から張線を引き抜こうとする。そのたびに、恐ろしさからくる莫大な弛緩が無数の羽虫のようにわたしの体を包み込んだ。わたしは背中からひりひりとする殺気を感じて、思もわず涙ぐんだ。こうなるとわかっていた。しかし、こうなるしかなかった。でも、女は思った。酷い、せめて最後の瞬間くらい、わたしだけを見て、その顔にしてほしかったのに。彼は想像上の誰かとやるときのように、わたしを転がして、乱暴に終えてしまったのだ。

クローク

少女はゆっくりと下着を身に着けた。狭くてヴァイオリンのように華奢なくびれた腰を目で追いながら、指一本触れることなく、必要な部分を男は切り落とした。宙を泳ぐ腕も指も爪の真っ白い先も、まるで肉体と結びついたままのように美しく、床に落ちていった。まるで一ポンドの肉を血抜きせずそこらへんにばらまいたように…鉄の香りを含む真っ赤な液体がビロードの帯となって絨毯にくるくると泡立つ渦のように広がった。不毛な砂嵐に立ち尽くすサボテンのように、二対の影は微細な粒子に彩られた暗い部屋の中で固まってままだった。

街路

サイケデリックな提灯の揺れ踊る通りを、繰り出す群衆が埋めている。屋台にくゆる煙と、空けられた酒瓶とが空しい狂騒にゆだねられた人の波を見つめている。ヴィンセントとエスティベンがその酔いどれイワシの群れをかき分けて、光のほうへ、走ってくる。黒くてぬめぬめとしたジャケットを雨に踊らせて、男たちは道に溢れだした酒臭い群衆を肉厚な掌で押しのけながら、走り続けた。髭の黒い毛先が、あらかた棘を切り取られてしまったハリネズミのように……それは痛々しい剃刀の傷跡と共に拳銃のように光った。

「ヴィンセント」
エスティベンが後ろを顎で指示しながら叫んだ。やばいぜっと。地獄のような轟きがして、ヴィンセントのすぐ傍らで人が弾き飛ばされた。樽のような腕が伸びてきて、男のジャケットの端に触れようとする。ヴィンセント、そう呼ばれた男はまえしかみていなかった。泳ぐジャケットの先は幾度も、突きだされるその筋肉質な巨腕をすり抜けてゆく。銃弾が飛び始め、イワシたちは半狂乱になってうろこをまき散らす。それは夜に見る虹のように、この世の幻のように、どこか美しかった。今までにない激しい音が、まるでプラスティックの板をかみちぎるような音を立てて大気にこだまし、突然、怒声をけたてて雨があたりに滝のように流れ落ちた。

すぐ隣を、蒼い眼をした少年が走っていた。エスティベンだ。ヴィンセントは目を見張る真似をして笑った。南国のようなスコールが、あっという間にあたりを白乳色の靄と飛沫に包んでいく。こりゃ、命拾いするかもしれん、とヴィンセントは思った。半狂乱になった群衆と激しいスコールのせいで、奴らを俺たちを追いかけるのをやめるに違いない。そうすると、彼の体には急に力がこみあげ、息の上がる寸前だった肉体に、雨水を介して温かい霊気が吹き込まれるのを感じた。

それで男は横隔膜と腹筋を調整して、呼吸のリズムを整えながら、最後の人けりまで走り続けることに決めた。逃げ切ることに、迷いはなかった。まだ、ここで命を失うのは惜しい。ヴォラ、大声で叫ぶとハミングしながら大股で飛び跳ね、人ごみの中をめちゃくちゃに駆け抜けていった男が、ホテルのロビーに片腕のない状態で立ち尽くす少女を見つけたのは、午前二時半過ぎごろだった。

「ああネレイドっ!!」
エスティベンが叫んだ。ヴィンセントは閉まりかけた自動ドアに突入し、一枚のガラスを割ることもなく、彼は少女の手前に滑り込んだ。
「ああネレイドっ!!」
老いた婦人がそっと少女をかばうように手を伸ばし、男たちをにらむように一瞥した。エスティベンが一足遅れて駆け込んだとき、遠くからサイレンの響く音が近づいてくるのが聞こえた。

護送車

その切断面は既に止血帯と包帯で応急処置がされていたので、少女は青ざめてはいたが思いのほか冷静にしていた。ヴィンセントはしばらく空を見やり、茫然としていた。ずぶ濡れのジャケットから流れ落ちる水が、溶けた鉛のように床の上に広がった。エスティベンは髪を描き上げると、そっとネレイドの顔に指をあてて、その瞳をのぞき込んだ。
「もう大丈夫だ、ネレイド……」
発せられた自分の言葉があまりにも後手で、あまりにも無力なのにエスティベンはうなだれながら、彼は何度もネレイドの髪を撫でた。マネージャーが受話器を置くと、カウンターからかけ出てきて、ヴィンセントに向かって何事か尋ねていた。
「ああ、わたしが彼女の保護者だ」
とヴィンセントは答えた。ネレイドは青ざめた顔のまま、ちらっと彼のほうを一瞥した。
「すぐに保安部隊の護送車が到着するので、病院に向かってください。お荷物はコンシェルジュのほうが指定のご住所まで発送していおきますので、これに――」
といってマネージャーは書類挟みに挟まれたクリーム色の用紙を彼に手渡した。ヴィンセントはちらっと彼女に視線を送ると、彼女と目が合ったのを確認して、すぐに書面に顔を落とした。
「荷物はわたしの住所あてに送ってもらおう。必要な治療を受け次第、お前はわたしの家に来い。」
ネレイドは無言でロビーのソファに腰を落とした。
「今日は物騒な日です。真夜中に夜市で銃撃戦が発生したとか。厳戒令で救急車も出せないとかで、治安部隊が直々に」
マネージャーが話しているうちに、重々しい車輪の音が外で止まり、金属の扉を開けるくぐもった音がロータリーに響いた。エスティベンがヴィンセントに耳打ちした。
「アパートの住所じゃまずいんじゃないですか?もしかいたら、追手の奴らがすでにかぎつけてるかも。」
瞼をぴくりとも動かさずに、ヴィンセントは答えた。
「わたしの家じゃない、エスティベン、お前の家だ。」

寝室

アルテミス・シティは無垢な悪戯でできたカラメル色の夢だ。白い歯茎をめくれた唇からのぞかせながら、女がヴェルヴェットの敷物の上を転がった。男は端末に浮かぶ青い涙色の空を見ている。ここは真夜中だ。ギター調の陰鬱な呻きが、黒いメッシュをかぶせた磁石のぶるぶるとした痙攣に身を任せて、部屋をのろのろと満たしてゆく。咽喉の奥に鱗がびっしりと這えたようなおぞけが、たったままの男を包む。男はしばらくして端末をしまうと、そっと自分の上着を腕にかけて、椅子に腰かける。それからイームズのチェアに腰かけたまま、男は女の腕をそっと拾い上げた。

『腕さがし』

『腕さがし』 冬夜 流治 作

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日 2017-01-12
Copyrighted

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