あの人を訪ねて、神戸編

昨年、2.016年。自立して独りで暮らす。友達1人・1人を訪ね歩き。1人暮らしの良い所や大変な事を垣間見て揺れ動く自分の気持ちと格闘する。自分の気持ちと還暦を過ぎたジジーイの変な話しです。読んでみて下さい。

私が外に出る事でなにかが変わるかも、、、

(1,)

 『私が外に出る事で何かが変わるかも』

作:森下 善和

 幕末に興味のある。 私は、(元祖。男前・土方歳三が命をかけて戦った。五稜郭と殉死した場所を訪ねて見たいと、  一本木。(限、老松町) を一度訪ねて見よう。土方歳三の “生きざま”をもっと知りたいと考えていました。
 ところが、昨年の暮れに35年間も家族・兄弟以上の友。兄弟のように生きて来た。 Kさんがこの園を出て、新しく神戸垂水に開設した。 障害者マンションでヘルパーさんを雇い、【自立生活をする。】と突然に打ち明けられました。
 昨年の暮れ、 夢に胸をふくらませて旅立って行きました。彼とは、兄弟以上の関係でした。 (障害)と言うハンディを持った者同志が施設と言う特殊な場所で35年間(自立と言う夢を語りながら励まし合い、競い合いながらも共に生きて来ました。)    彼は、彼なりに悩み。苦しんで出した。答えだろうと思います。
(これから寂しくなるけど仕方ない、 頑張れ、応援するよ。)
自分の人生だ。 後で、後悔だけはしてほしくない、 
彼が居なくなってから。
 (私の頭の中でどうしているのか、元気で暮らしているのか気になって仕方ありませんでした。)
 彼とは、入園してから。青春を謳歌した。ライバルで競争相手。 そしてかけがえのない仲間です。
35年間の暮らしの中には、いろんな出来事がありました。悩みを話したり、打ち明けたり、相談したり、      (2、 )                        女の子の事から障害者の恋愛・結婚・セックスの悩みなど。いろんな話しをして一晩中過ごした事もあります。   
 星を眺めて将来の夢を語り明かした夜もありました。  私の、イヤ人生の良き理解者であり、いろんな意味でのライバルで好敵手で大切な仲間です。  私は、彼と(亡き、丁君・Kさん・Yさん)4人がいたから。この友達に負けたくないと思い、励まし、 競い合って、 頑張れました。 生きて来ました。(本当です。)丁君が一番。年下で、冷静沈着。(私より8才も年下でした。)早くに亡くなり、Yさんは、理論家で情熱家。今回出会う予定のHさんは、同じく利用者のN,Mさんと障害者同士が結婚して、神戸で自立生活をしています。昔からの友がみんな居なくなり、 最後の友。  一番重度のK君まで居なくなるとは思いもしませんでした。
 新しい年が始まり、 結婚して、 神戸で自立生活している。N.Mさんから。  今年の正月に電話で話して、

【春になったら。 我が家に訪ねて来て下さいよ。今度の家は広いから。 安心して泊まって下さい。楽しみに待ってます。】

 (5年前に、 宿泊した時は、 部屋が狭くて、 台所に布団をひいてもらい、 寝た事を思い出します。)

(3. )

【奥さんも、 『私の家には、狭いから。 泊まりたくないと言うのか、 今度は、 広いから。 安心して宿泊出来るよ。』】

と言われて、 

 【実は、 今年は、 北海道へ旅したいと考えている。】                                と言うと

【では、北海道の帰りに来なさい。? Mさんも、じゃー旅行の帰りに立ち寄れば良いよ。 お土産は、 北海道での話。】

と言われ、   【今度の旅行の帰りに、 お邪魔して一晩お世話になります。】    と約束して電話を切りました。

 そして、お正月3が日も終わった。  ある日。 
私がこの園で一番迷惑をかけて、お世話になっています。
入園して以来35年間にわたり、 食べる事から。 総てお世話して頂いている。 この園の元祖。 お局のYさんがお正月早々に膝を骨切。(全治3ヶ月間起き上がる事も車椅子に、いつ乗れるか不明の重体?)ベッドに寝たきりになり、 車椅子は、愚か私の世話など、 無論出来ません。    《こりゃーコマッタ。神様。誰かーァ私をお救い下さい。》
今までのように、定番で毎日3時過ぎに、 お茶を飲んだり、おやつを食べたり、 園の献立が(嫌いな物、)の欠食時の世話を、、、。その他・諸々のお手伝いをやってもらえなくなりました。 

(4. )

《それは私にすれば大変な事件です。》

 (でも神様は、私をお見捨てには、なりませんでした。)  
Yさんに変わる人が、私の為に現れました。 (救い主。)その人は、両手が完全に健康な人です。   
思い出します。 幼い頃。50数年前の話しですが、    『近所のおじさんに言われた事を思い出します。』 

【君は、自分の事が出来ないけど。君の事をお手伝いしたり、助けてくれる人。 そんな人と必ず出会えるし、 現れる。君は、そう言う星の下に生まれているんだよ。 】                                (君には、人を引き寄せる特殊な力があるんだ。)と、、、。

そう言えば、この園に入所した当時は、Kさん丁さんそして、Uさん。それから。Yさんと35年間。 自分の事は、なにも出来ない。私が生きてこれたのは、 周りの人達に守られて助けられて、 お手伝いして頂いたお陰で生きて来れた。 と 思います。 外に出て旅をしている時も周りの人や その土地・町・村の人やそこで出会った人達に助けてもらい旅が出来ました。
 足を骨折してコーヒーも欠食時の世話も出来ない、  Yさんに代わり、今度はKさんと言う親切な男の人に欠食時の食事のお手伝いから。毎日の日課のコーヒーを入れてもらい、  安らぎの一時に、おいしいコーヒーを飲んでいます。  《Kさんありがとう。感謝をしています。》


(5. )

 私は、重度で不自由で何も出来ませんが、 (幸福者です。)
4月20日。(水曜日)7:20分タクシーで和田山駅まで行きました。 まだ早いので、駅員さんや乗客の人と話します。
 改札に行き。車掌さんに、  【お早うございます。】

 車椅子の背中に 《車椅子旅行中と書いた。 ワッペンを見て》

【叉、 何 処 へ 。お出かけするのですか、】 

【今回は、神戸方面に友達を訪ねて旅をします。 友達が昨年。自立したので、様子を見て、そして、亡くなった友人の慰霊にお参りして来ます。 今回は、5泊6日の旅です。】

【ご不自由なのに、怖くないですか、不安は、ないですか、】
                          【始めは、不安で怖かったです。でも現在では、平気です。周りの人達に助けてもらい、お手伝いして頂いています。私の周りに人ががいるから。  一人で何処へでも行けます。】

 話していると、 駅員さんが迎えに来てくれました。  

 【じゃー気をつけて、お元気で楽しいご旅行を】 

 【ありがとうございます。  行って来ます。】

(6.)
 と別れました。

【で、今回は、何処へ出かけるのかナー。気を付けて、】

【今回は、近くで、神戸の友達を訪ねて5泊6日の旅です。】

【森下君。北海道に行かないのか、北海道新幹線が開通したよ。行かないと、 俺。家内と2人で一足先に行ってくるよ。】

【今年。行こうと決めていたのですが、 友達が急に亡くなったり、35らいの親友が神戸で自立を始めたので、それが気になり、様子を見に出かけて来ます。】 
 
  【そうか、気をつけて】     と話していると、

 列車が入って来ました。 駅員さん2人で列車に乗せてもらい、出発進行です。 《急行はまかぜ2号》の入り口の席で車椅子は、 隣の座席に乗せてもらいました。  
鳥取発ーー大阪行きの(はまかぜ2号)まだ。 朝、早いので乗客は少なく、7割近くの席が空いています。 
 マイカーで移動する人や自転車で通勤する人ばかりですが、 朝は、学生さんや会社勤めの人が多いようです。  
それに、特急には通勤する人や学生さんは乗らない、   近くにいる人と車掌さんで車椅子から。 私を座席に座らせてくれました。さあ、出発進行です。(はまかぜ2号)は、和田山駅には、2分の停車をします。その2分停車した。時間内に乗らなければ大変なのです。  暫くすると、この列車に勤務する車掌さんが現れて、 (綺麗な女の人です。)
(7. )

 【お客様乗車券を拝見します。】と、見てくれました。

 綺麗な人なので、 私は、デレ-としていました。

 【このカバンの外側のポッケにあります。】と差し出す。

 とカバンを空けながら。 話します。  

 【森下様。 今回は、どちら方面にお出かけですか、】 

 【ハイ、神戸の友達を訪ねて、5泊6日の独り旅に出かけて来ます。】

 【へーェ。 昨年は、確か長崎?、今年は、近いんですね。】

【今まで、お世話になった。友達が亡くなり、お悔やみに、】

 【そうですか、行ってらっしゃいませ。お気をつけて、】

 【ハイ。ありがとう。ございます。 行って来まーす。】

 私の旅を祝っているのか、 少し肌寒いけど。良いお天気に私は、ご機嫌です。鼻歌が出ました。
巡回に来られた。  車掌さんが、 

【お客さん何処まで行かれますか、】 と聞かれて、 

 【神戸の垂水に行くのですが、明石で降りたいのです。】
(8. )

かれこれ30年余り、 昔になりますが、 1人暮らしを目指してMさんと言う人が実家の方で挑戦していたのですが引っ越して、現在は、明石駅の近くで自立生活をしている。Mさんに久しぶりに会って食事をして、その後。2人で今回。私が行く予定のKさんのマンションを訪ねる約束をしていたのですが、 Mさんの都合が悪くなり、会う事が出来ず。 今回は、私1人で行く事になりました。 Mさんは、(身体の調子が悪いようです。)叉の機会に訪ねましょう。
 そんなで訳で私、1人で行きます。結局。明石の大久保駅には降りずに直接垂水に行こうと思い、 駅長さんに相談すると、

【君の行きたい場所に行くには、垂水の駅には、降りず。乗り越して、 須磨駅で降りて、タクシーで行くのが一番早いと教えられ、電車に乗り換え須磨駅へ。】

 須磨の駅で降ろしてもらいまして、前に道路が見えるのですが、階段があり、私、1人車椅子で降りるのは無理です。降りられません。(周りに若い人達がいれば降ろして下さい。と頼むですが、?現在の時間は、お昼前の11時過ぎです。 
 前を通り過ぎるのは、手押し車を押した。今にも倒れそうな老人の人ばかりで、頼める状態ではありません。2・3人の老人の人が、
(9. )

【お手伝いしましょうか、と聞いてくれましたが、】  
【ありがとう。ございます。  大丈夫です。】

とお断りしました。(なぜ?)と言われると思いますが、何年か前に岡山県に旅した時です。  駅か・デパートのエスカレーターだったと記憶していますが、

《お 手 伝 い し て 貰 う の も 大 変 で す 。》

 私は、下りは足で踏ん張り、車椅子で前向きにエスカレーターを降りるのですが、 中年の奇抜なドレスを着た。      おばさんが、親切に、

【あなた。大丈夫。私がお手伝いして、下の階に降ろしてさし上げますわ。】

 と車椅子の後ろについてエスカレーターを降りた。 瞬間に。  《ワーッと言って。おばさんは、ひっくり返りました。》      
 私は、ビックリして、振り返ると長いロングスカートの服を着ていた。おばさんは、下に降りて、平らな場所でロングスカートの裾を階段が交差する。部分に巻かれて仰向けに倒れ込んでしまいました。
 私は、ビックリして、 我を忘れ大きな声で、 
(10, )

 【アッ。危ない、大丈夫ですか、】

 とビックリしました。 そんな出来事がありました。 《運悪く事故でもあればと反省しまして、》 旅に出る時は、保険をかけて行くようにしています。
そんな事が、あってから。自分もですが、対人対物・物損・お手伝いしてくれた人や私の為にケガをしたり。不幸があった時は、社会人として、賠償出来るように自分と対人対物・物損には、損害賠償保険少し高めに賠償保険を賭けるようにしました。(それが、エチケット、)ですから。社会人としての、     
 今回も保険を賭けて行きます。 自分が楽しく気持ちよく旅行したいから。 私に接する人達を安心させて優しい気持ちにさせなければ、、、。  
駅の右側入り口に、 車椅子用のスロープがあります。と聞いて時間が、かかりますが、大回りします。  駅を出ると、どっちに行けば良いのかナーと迷いました。 右側が賑やかそうなので、車椅子を漕いで進んでいると、前から中国人の団体が近づいて来ました。 私を見て挨拶するので、適当に笑顔で挨拶を返します。後ろの方から。手押し車を押して70代前半のおばあちゃんがついて行く姿を見かけたので、
 【コンニチワ。】   と挨拶を交わします。

すると、日本語で【御旅行ですか、頑張るねーェ。】
(11. )

【日本の方ですか、お伺いしますが、タクシーに乗ろうと思うのですが、乗り場を、ご存じありませんか、】

【この前の道路を渡り。右側の路地に入り、倉庫の狭い道が続く場所を左に?、私が、案内してあげるよ。】

 と車椅子を押して連れて行ってくれました。 

【お連れの皆さんと、別行動をさせてしまい、すみません。】

【いいんだよ。話しも通じないから。 私は、お兄ちゃんといる方が話も出来るから。楽しいよ。】

 私が、説明しますと、おばあちゃんは、中国残留孤児だそうです。《1歳の時に戦争が終わり、両親は、日本に帰る事を許されて、帰化出来たそうですが、  中国で生まれた。子供は、日本人の子でも出生が中国だから。中国人で帰国は、許されなかったそうで、両親は、強制退去させられ、1つ上のおねーえさんと従兄も日本に帰る事を許されなかったんだ。と聞かされました。子供の頃のおばあちゃんを育ててくれた。中国の養父母がとても良い人らしく、おばあちゃんを自分達の子供にする以上は、

(12. )                                          (実子と比べるから?)と自分達の子供は、誕らずにに、大切に。大事な。宝物のように育ててくれたんだと、本当の親子以上だよ。と涙を流し泣いていました。 今。中国の人は、日本人を悪く言いますが、若い人は、(学校の教育で)日本の悪い所。 日本人が野蛮で血も涙もなく、冷酷で凶悪な所ばかり教育されていて、悪い印象しか教えられていません。それが日本に来て正直で道理を守り、外人・日本人関係なしに悪い事は悪いと怒り、良い所は、誉める。分け隔てのない考え、それに遭遇して日本に対する考え方が変わったよと中国人の知り合いが話していましたが、 
 中国で習った。日本の印象と自分で日本を見て体験した事との違いは、自分の眼で見て、『自由の国日本に気づくんだ。』と、例えば(侵略戦争で植民地・奴隷・慰安婦問題)といろ・いろ難しい問題は、あります。それは、過去の過ち。国民の代表である。総理が謝罪した筈です。(私の親戚のおじさんは、兵隊でもないのに、中国人に殺されました。) でも、それは戦争ですから・仕方がないと割り切って、忘れて生きて来ました。 戦後も70年が経過してみんな過去の事です。 (イヤな事や悲しい事は忘れて未来に進むのです。悲しい過去を引きずっていたら。何も始まりません。)《日本だって先の戦争で広島・長崎に原始爆弾を投下され、何万もの人が亡くなりました。 その9割以上は地元の人や市民や村民そして5割以上が
(13. )                                         女の人や子供や老人です。》でも広島・長崎の人達も黙祷に来られる。アメリカもイギリスも関係なく弔問に来られた人達に感謝して迎えているのです。
 旅行で来る。中国の人達は、日本を見て触れて感じて自分の身体・心で体験して日本の良さ。日本人の心に触れて中国の教育で教えられた日本と自分の眼で見た日本との違いを分かって欲しいと思います。 
 日本と言う国。興味あるんだけど、悪い印象がありました。自分の目で見て、触れて、感じて体験する。日本に来て下さい。考えも印象が変わると思います。
 現在。日本の常識を教える人や日本人で尊敬する人物がいません。中国の人達は、日本の『仕来たりや・風習・常識・当たり前。』を知らないだけなのです。どれが人の常識でなにがダメなのかを誰かが教えてあげなければと、 おばあちゃんは、言いました。

【私は、中国の両父母に育てられました。(言葉は、総て日本語でした。)で中国の両親が亡くなり、《私達が、死んだなら。日本に帰れ、日本で生きろ。》とそう言う遺言で6年前から。日本の神戸で生活をしていますが、日本は、良い国で良い場所です。友達も沢山出来ました。今回。私の孫が初めて日本。神戸に来たので、神戸の名所を案内しているのすが、 私は、中国語は、出来ません。孫達は、日本語が分からないから。なにもしてあげられない、神戸の町を案内するだけです。】(14. )          

【お孫さん達に神戸の町を案内中ですか、 お忙しいのに、私の為に。  ゴメンなさい。 ありがとう。】

 お孫さん達に、何かを伝えると引っ返して来て叉、車椅子を押してくれ、タクシー会社まで送ってくれました。 私が乗るタクシーが見えなくなるまで手を振って見送ってくれました。
 テレビで良く言う(中国人観光客の爆買い、とかマナーが悪いとか言ってるけど、日本に来られる。中国観光客のお陰で、観光地もデパートも有名になり、日本の経済が潤っているのだから。少しぐらい大目に見て上げなければと思いますが、)それもダメですか、
 常識のある人がどんどん発展登上国に行き。
これからは、発展するであろう国へ日本人が行き。 人の常識・日本の当たり前を教える事が大切なんだと思いますが、違いますか、???
 本題に入ります。神戸垂水近くに来たのですが、場所が、 障害者マンションは、どこにあるのか分かりません。汗ブルブル。靴は、破れて1時間余りかけて、尋ね当て、目的のマンションを探し当てたのですが、Kさん。 今日は、デイ・サービスで入浴に行っていて留守でした。 昨夜電話したけど(連絡がつかなくて、詳しい打ち合わせが出来なかった。) 玄関で出迎えてくれた。  ここの所長さんに訳を話して、30分ほど中を見学させて頂きました。
(15. )                                          昨年。日本初の終身型介護付マンションが神戸に完成しました。 そこへ私より重度の親友が入所してヘルパーさんを使って自立生活を始めました。   (スゴイです。お主は、何者?くせ者?イヤ開拓者!。)
 実は、2年前にケアー付きのマンションが神戸にオープンすると聞いて気になっていたのです。 
駅からは、少し距離がありますが、4階建てのマンションで1階と2階は、作業所になっています。   職員も利用者も作業している。 今までの作業所の上の階に障害者用のマンションがある感じです。
 3階と4階が居住スペースで総ての利用者は、個室対応。そこで働いている人もいれば、通いの人もいる住み込みで、ヘルパー派遣の時間報酬制度を利用して1人では生活が出来ないので、ヘルパーさんに来て貰い、部屋を借りて、掃除洗濯・身の回りの介助・買い物・病院の付き添い。 その他。出来ない事を総てをお手伝いしてもらえう。お風呂は、デイサービスを利用して週に3日だそうです。勿論。ヘルパーさんも介護保険の算定に合わせて派遣して貰える。 Kさんの場合。介護保険での報酬サービスは、1日4時間だそうです。 それ以上が必要なら自己負担で賄う。  ヘルパーさんは、朝.9:40分過ぎから。1時間。洗面・着替え・排便・排尿・時間があれば掃除・洗濯。お昼1時間とPM7:30分から1時間。  最後は11:30分から1時間と、  合計1日4時間でした。
(16. )

 そして、一週間に3日。デイサービスでお風呂に入れて貰うそうです。 ちなみに(お風呂の料金は、リフト付きの車で迎えに来てもらい、 (送迎代は、聞きませんでしたが、)昼飯を食べて、個人負担は、1日。200円だそうです。) 《私には、お風呂。週3回が、魅力でした。》ここでの生活より、大変だと思いますが、Kさん頑張れ。俺は、離れていても応援しているよ。

《留 守 な の で 、 又 来 ま す 。》    本人は、居ないけど、他の部屋を見せて貰いました。玄関を入るとトイレ・洗面所・小さなロッカーがあり、1ルームの部屋。ベランダ(物干し場。畳み2・5ぐらいの広さです。)ありました。
 別の部屋にコインランドリーがあり、洗濯機も乾燥機も設置してありました。 食事も申し込めば、作って貰えて食べられるそうです。朝は、パンか御飯でお昼は、定食。夜も厨房さんが決めたメニューが出て食べる事が出来る。(食事代は、自己負担です。)1日。3食で1500円強だそうですが、(ここと同じです。) マンションを利用している人で、 仕事が出来て働ける人は、ここで働く、私のように、働きたくても働けない者。働く事や自分の事も出来ない人も安らぎの人生を求めて、1人・ひとりが目標持って自分らしく自分の人生を選択して生きる。
(17. )                                         1時間ほど見学させて頂いたのですが、時を忘れて説明を聞いていましたが時計を見ると、お昼前の11:30分過ぎです。Kさんは、デイが終わる。16:00時にならないと帰って来ません。 仕方がないので、夕方に、叉。 お邪魔しますと、 車を呼んでもらい、 次の目的の場所。神戸の某施設に向かいます。 
 3年ぶりになります。毎年神戸に、遊びに行くとお世話になります。某施設に友達の顔を見にお邪魔します。 運転手さんに行き先を聞かれましたので、

    【某施設までお願いします。】

   【神戸の何処へ行けば良いのですか、】                       
 と聞かれましたが、ど忘れしてしまい住所が場所が思い出せません。 (ボケたのかなー。)     

  【えーと。須磨区の某中学校の近くです。】

  【お待ち下さいと、 と ナビで確認します。
   分かりました。 ???ですね。】 
  
【ど忘れして、??が出てこない、便利ですね。    ナビゲーションと言うのは、】 

(18. )                                      
【そうですよ。ナビがあるから。僕らでも運転手   が出来るのです。】 と 笑っていました。 

 カーナビは、便利ですね。と話していると、目的地に着きました。  友達が暮らす。療護施設に行き、 
中に入ると、私。1人で訪ねたので、みんなビックリしていましたが、 笑顔で迎えてくれました。
 丁度。お昼ご飯で利用者の皆さん食事中でした。 

   和田山竹田の真生園を旅立つ前の夜に、

【お腹が空いたら。列車の中で食べなさい。】

とKさんが持たせてくれた。 クリームパンにかぶり付きます。 
                       【某。施設の友達数人が、パンだけでは、お腹が空くだろうと、 みんなコロッケ・ハンバーグ・卵焼き。と いろんな物を差し入れしてくれました。】
 
 もう食べて・食べて、見るのもイヤです。(総て平らげましたが、) 職員・利用者の人達に挨拶したり、今回の旅の目的や真生園の様子などを話して、一休みしてから。
                       
(19. )                                         昔。『白山』に、山登りに連れて行ってもらった事のある。 Yさんが、この近くに勤務しているので、 『何は、さておき。』     挨拶に行きます。

  【Yさんお久しぶりです。お元気ですか、】 

 驚いたような顔をして、

【あーっ森下はん 神戸になにか用で来たのか、】

【Mさんのお悔やみと、12月に施設を出て1人暮らしを始めた。Kさんがどんな暮らしをしているのか、気になり訪ねて来ましたが、入浴サービスに行き。夕方まで帰らないので、こちらに訪ねて来ました。】

【あの飯。食べたんか、まだなら。食べに行こうか、】

 【向こうの園で頂きました。ご馳走を。 某。   園の人達と一緒に食べて来ました。】 

【ワシ、今から。食べて来るから。 少しそこら辺に、 待ってなさい。】

と言われて事務所の中へ。  暫くすると出て来て、

(20. )                                         【叉。神戸にアンタ1人で来たのか、 元気もんじゃ】

【私は、いつでも1人です。私には、付いてくる人など、誰もいませんから。  何処へ行くにも独りです。】

【アンタは、1人で出来るから。良いじゃないか、なんでも出来る。 (ニャッと意味ありげに笑う。) 】

【私は、なにも出来ません。みんなにお世話になっていますから。   本当に、なにも、、、。】 

【アンタは、役得じゃ。(笑う)でKさん元気なのか、】 
【午前中にお邪魔したのですが、入浴サービスで出かけて留守だったので、 先に、ここに、お邪魔して、夕方に叉、行こうと思います。 部屋を見学したけど、狭いので、もし泊まる事が出来なければ泊まれる。 場所をお世話して貰えないかと訪ねて来ました。】                        【どうしても、 泊まる場所が無ければ、 ワシの部屋で良ければ、 泊めてやると約束してくれました。】 

【ありがとう。その節は、宜しくお願いします。】

                       (21. )                  
 と交渉は、成立して。  神戸の某施設は、ウチと同じく療護施設で利用者が喫茶店を開き。 職員・利用者に、密かな(憩い)の一時を作っていると聞いて見学したり、協力させて頂きました。
 利用者の人が注文を聞き、メモに記載してボランテアの人に指示をする。コーヒー・紅茶・カルピスを入れるのは、外部の人達で(それも3人も)うちの園とは、大違い。 真生園では、喫茶を35年間も利用者だけで営業しています。 [女性マスターのYさんアンタは、凄いよ。] 本当に、(頭が下がります。) 
私の園のように、コーヒー・紅茶を制限されている利用者は居ないようでした。 某施設は、喫茶で飲む人は、皆。(マイカップを持参して、)それに入れてもらい飲む。(お客さんだけは、店のカップで頂きます。) そして、利用者が飲んで汚れた。カップは、夕方の配茶をする時に、洗ってそのカップかタッパーに配茶をする。(コーヒーも自分が飲みたい時に、ゆっくりと自分で飲めます。) そんなで、美味しいコーヒーをご馳走して貰いました。(真生園は、ママが骨折して休業してるけど、近い内に叉、営業します。)
 喫茶も終わり。 私は、自分の家みたいに動き回ります。座敷便所を借りたり、喫煙所を探してウロ・ウロしていました。 多目的ホールの横にある建物などを見て周り、最後に、デイサービスで利用が出来る建物などを見て、 違う施設で小さな冒険です。  

(22. )     

 『久しぶりの再会に思わず涙!』

 Kさんが、もうデイサービスのお風呂から帰る時間です。そろそろ会いに行きます。今日は、宿泊させて貰います。(狭い部屋で男同士寝るのも良いかも、)
某施設に、明日。来ますと伝えて、タクシーでKさんを訪ねる為、障害者マンションへ向かいます。道に迷いながら。探し回り、見つけました。(午前中に、お邪魔したのですが、道を覚えていませんでした。)部屋は、確か?3階で(順繰りに見て)部屋は、奥から2番目の??号室です。ドアを足でノックして中に入ると、Kさんがいました。園にいた頃と同じく苦虫を噛み潰したような渋い顔です。(少し痩せたのか、頬がかけて見えましたが、)元気そうで何よりです。  
 (5ヶ月ぶりの再会を祝してコーラーで乾杯です。)
Kさんの部屋は、3階の奥から2たっ目の部屋でした。まず入ると手すりの付いた便器があり、(K君用に、)便座のフタは、ありません。(取り払っています。)自分の部屋です。「自分の使いやすいように使うのが、1人暮らしの常識です。」洗面所と小さな物置。ローカ。1DKの部屋。(これが彼の城です。)壁際にベッド。その横に人が1人眠れます。(私が宿泊しました。)ベッドの頭の方のスペースに少し大きめの冷蔵庫。上には、1人暮らしには、必需品の電子レンジ。

(23, )                                         この2つは、1人暮らしでは、最少減の生活必需品です。 そして、物置。『タンスの中は、冷凍食品を沢山備蓄していました。』 彼は、ここの食堂では、食事はしません。ヘルパーさんが、1日。(確か合計で4時間だと、聞きました。)が、朝は、9:40分から1時間・お昼に1時間・夕方1時間・夜11時半頃に着替え介護。1時間と一日。合計4時間だそうです。  お風呂は、火曜・木曜・土曜日の一週間にデイで入浴3回。(無論、入浴の日は、お昼に来られる。ヘルパーさんは、来られません。) 入浴に行った日には、デイで食事を食べさせて貰い、16:00分頃までデイで過ごすそうです。
 (デイでは、そこの職員。)が基本。帰れば、介護ヘルパーさんが介護しますが、マンションには、職員が常時いるので、少しの用事ぐらいは、頼めるそうです。
 自慢そうに話す。Kさんの顔には、長年の夢。彼の思いが、半分ですが達成出来た。   思いで輝いて見えました。
 その顔は満足そうで輝いてました。 彼の誇らしい自慢話を聞きながら。 『私は、(こんな事していて良いのかなーと、)と感じました。』 《余計な事だけど大丈夫か、生活出来るのか、》と聞くと、 年金と生活保護・その他で贅沢をしなければ、普通の生活が出来ると断言した。 彼の言葉を聞いて、 私は安心しました。(頑張れよ。俺の自慢の人なんだから。アンタは、)
 Kさんの自信に満ちた話を聞いて、私はモヤモヤしていた物が晴れました。  2人が出会った当時から。 2人だけの約束がありまして、 

(24, )                                                  【どちらかが、自立をして、園を出たら。 そこを、一番先に訪ねて宿泊するのは、森下さんで、 新居に、一番先に訪ねて来るのも森下だと2人の間では暗黙の約束でした。】

 私は、自分の事のように嬉しい、(そうでしょう。35年間共に、苦しみ。悩んで励まし合い、負けるものかと競い合い、 時には、団結・協力して共に生きて来た。 彼が旅立ち、自立したのです。  固い絆は、夫婦・兄弟・家族以上だと思います。
 その日の夜。布団の中でいろんな思い出話をして朝方まで過ごしました。翌朝、6時に目覚めた私は、下の階のトイレまで出張です。(トイレは、Kさんが使いやすいように、改造している為。 私は、使う事が出来ないので、)下の階まで出張して来ます。時間がかかりましたが、無事にトイレも終わり、時計を見るとam6:20分。玄関のドアを開けてもらい、駐車場奥の喫煙場所でたばこを一服。(ああ気持ちいいなー。少し肌寒いけど良い気持ちです。)  少し散歩して、部屋に帰ると、Kさんは、まだ寝ていました。
 朝のヘルパーさんは、am9:30分にヘルパー派遣会社に集まり、利用者の自宅や在宅やマンション・アパート・その他。 派遣場所に行くには、最低でも5分か10分かかるそうです。 
 ヘルパーさんを利用されている人は、毎朝。9:40分頃に来られるそうだから。 来なければ起きる事出来ません。 (私には、来るのを待つなんて出来ません。) 6:40分。部屋に帰って見ると、Kさんは、まだ寝ていました。               
(25, )                                     ヘルパーさんが来なければ、何も出来ませんから。(私は、昔から。介護する人がいなければ、何も出来ないくせに、)と言われるのが一番ムカつきます。介護ヘルパーさんが来なければ何も出来ない、介護者が来るのを待つ人。私は、それがイヤなのです。我慢が出来ません。だから。私の性格。人がやってくれるのを待つ事など出来ません。(幼い時から自分に出来ない事は、違う考え方を見つけて、やり方を変えて、自分で工夫してやる。)それが自分の信念として生きて来ました。 《自分の好きな人に、頼むのは、別ですが?、》 (私は、頑固です。スンマセン。)
 朝は、9:40分頃にヘルパーさんが来られて、洗面・排便・排出・着替え・食事の介助とスケジュールは決まっています。  中年の男の人でしたが、テキパキ仕事をこなす。後ろ姿に見とれていました。  派遣されたヘルパーさんで、一日の生活が決まる。(1日が決まるんだ。)と言われましたが、 考えて見て下さい。 仕事が早く出来る人。逆に仕事が遅くて出来ない人。いろんな人が派遣されて来られますから。《見抜く事も大事だと、》ある地域では、(ヘルパーも指名出来るようです。)自立すると言うのは、大変です。施設で暮らす人もそれなりに大変だけど、
                     (26. )                                     自立して、1人で暮らし始めた。Kさんも障害者・健常者関係なしに生きるって大変ですが、地域で・地元で1人暮らし、 自立生活をしている人は、みんな当たり前に、大変なんですね。  
【やはり外で自立生活している人は、 大変な苦労してスゴイなーと、私は関心していました。】

 4月21日。10:40分過ぎに。又、必ず。遊びに来るから。と叉の再会を約束して、  Kさんのマンションを後にしました。

《 叉、来年ようす見と遊びに来ます。 》

 タクシーで須磨区の昨日尋ねた。某施設に行き。  そこで今回の旅でお世話になる。Hさんと待ち合わせをしているのです。 
午後3時頃に来ますと約束してます。まだ午前中です。こちらに来たのが少し早すぎたようです。時間つぶしに散歩して近くの食堂でお昼をしたいと考えていたら。  友達のSさんが

【この施設の食事も1度食べてみなさい。】と

イわれて頂く事にしまして、 お昼御飯を
(27. )               

 頂きましたが、《遠慮しないのが私の主義です。》(人と付き合う極意です。)美味しく頂きました。某。施設は、(私が、住んでる施設と同じですが、利用者の数が少ない分だけ、職員さんも少なく、昼食は、11:30分から。全員一斉に食堂・ホールで食べる。 食事が終わった人は、食堂から立ち退いて次の利用者に席を譲る。
職員は動く事なく次から。次へと食堂に来られる。他の利用者の介助に入る。職員さんは、みんなが食べ終わるまで利用者をベッドに上げたり、トイレ等に連れて行きません。《ルールです。》みんなの食事が終わるまで用事があっても待つ、職員も日替わりでトイレ専門の人が居て、食事の終わった。利用者も食堂以外の場所に行き。食堂にはいませんでした。(私が、見えなかった。だけかも知れませんが、?)早く食べ終わった。利用者も部屋に帰らず。他の利用者が食べ終わるまで待っていました。職員も利用者介助も、ゆったりと食事が出来て、介護も出来る。世間話をしながら。余裕を持って、会話もしながらお互いにコミニュケーションを取りながら。楽しんで微笑ましく食事をしていました。職員さんも少ないのに、どうしてあんなに余裕を持って、楽しく食事が出来るのか、よく良く見ると、
別に、食事介護だけされる人が4人おられ、
(28. )                                     15:00になると、配茶・ゴミを集める。 洗濯物を配る人。日替わりで、排出・排便専門の勤務もあるそうですが、叉、お会いしましたと言うほど同じ職員を何度も見ました。 大変お世話になった事のある。 M施設長に挨拶に行くと、

【M施設長は、4月に、転勤して、 この園には、もういませんと、新しく転勤して来られた。指導課長のKさんに教えられて、】 

【何、  そんなの聞いてないよー。】  

 私の友達や仲間。知り合いが、ひとり・ひとり遠くに、離れて行く、天に召されて逝く、何人かの友が死んでしまいました。永遠に消えて行く友。その存在さえも、生きていた。 実在した事さえも、そこに居ない、消える。亡くなり、私の中では、永遠に生きていますが、何か寂しいです。悲しいです。(独りになると夜眠れず。眼を覚まして布団の中で泣く事も、)独りぼっちの自分。(寂しい、)昔、(おばちゃんが良くボヤいていました。 神様。早く私を迎えに来て下さい。)と呟いていました。 その気持ちが分かる年に私もなりました。午後.3時30分過ぎ、待っていた。 
 Hさんが訪ねて来ました。
(29. )                                     私が施設に入所した時の寮母さんで(初代園長夫人)聖母マリア様のような人です。35年以上の知り合いで、 35年前初めて親元を離れて、食べる事も着る事も出来ない私が施設と言う特殊な場所で生活する。35年前は、施設職員・寮母さんは、親。家族のような存在でした。 実の母も父も他界した現在。 母と呼べる人は、親父の姉で本家のおばさんとこのHさんが母そのものです。
 昨年。和田山に久しぶりに来られてお合い出来たのですが、1年ぶりです。 今回は、一緒に一泊して、(Hさんには、悪いけど。出来なかった。)天国の母に、親孝行の《まね事》が出来ればと思います。(何年も昔になりますが、母と神戸の六甲の宿に宿泊したのを思い出します。) 午後15:30分過ぎHさんが訪ねて来てくれました。(顔を見て、懐かしくて、嬉しくて、なにを話したのか覚えていません。)本当の親子のようです。《26才で、初めての社会生活した。それも特殊?、療護施設で排出・排便・食べる事さえ出来ない私が家を出て知らない世界で知らない人達と生活する。》と言う事を考えて見て下さい。(大変でした。純な性格ですから?)5ヶ月が経過して施設の生活にも慣れて、 今までと違い。 珍しく、 楽しく生活していたのですが、  (30. )                                     昭和57年の2月の初めの寒い朝。《寒いのに、冷や汗が出て瞼の中に星が光る症状が3・4日続いていました。(慣れない団体生活に疲れたのかナー。)と軽く考えていました。》

《 若 年 性 脳 梗 塞 で す か ?》

 ある朝。トイレに行き。(パンツ・ズボンを降ろしてもらい、 手すりを掴んで立ち上がり、自分で排尿する事が出来ましたから。でも、(大事なモノを出す事が出来ませんでした。 後始も?、)当時は、《寮母さん》に、頼んでいました。(今だから。言えますが、大変な事ですよ。他人の人に?それも若い女の人です。)私、その頃。まだ若い男です。異性にして貰う。若い女性の寮母さんです。《想像してみて下さい。》その恥ずかしさや屈辱があったからこそ、今の自分に目覚めた。意地でも自分でやろうと思い、訓練して(排尿)が出来るようになりました。(2年かかりましたが、)もう30年も昔になります。夜。ベッドの上でパンツをずらす訓練をしたり、お尻を拭く練習をしていたら。 深夜勤務で見回りに来た若い寮母さんに見られて《好意を寄せる人でしたから。噂になり、死ぬほど恥ずかしかった事を思い出します。》 そんな事も今は、笑い話です。
(31. )                                     大変な思いもしました。(淡い思い出です。)現在。1人旅が出来るようになったのは、そんな時代も生きて来たと言う事なのかナーと今。思い出しています。幼い時から。目標や自分がやりたいと思うなら。出来ない分だけ、努力も訓練も練習もしろと、祖父に飼い慣らされて大人になりましたから。自分の事。自分の好きな事や目標の為だったら。どんなに辛い事も苦しい事でもガマン出来るし努力もします。 でも、15・16・17才の頃。女の子や同級生・知り合い・みんなの前で(付き添いで祖父が居たのですが、料理が来ると、祖父は居ません。)私は、自分で食べる事が出来ません。(お腹は、空いてペコペコです。)お客さんの一番多い昼食時の食堂で食べ物を目の前にして、お腹の空いてる。私が食べずには、いられません。恥ずかしいとか、カッコ悪いより、お腹が空いてたのです。 そして、私の食べられる方法。『犬食いです。』考えて見て下さい。両手の仕えない者が食べる方法は、口しかありません。(人だから。おかしいけど、犬にまで負けたくない、)と思い、 自分で食べました。 お昼時のお客さんが多い、デパ-トの食堂で(好きな物を注文させて、食べる時には、居ないのです。)手が仕えない私は、仕方なく皿にカブリついて、口で食べました。
(32. )

 みんながジロジロと覗き込んで見ています。4・5人の人が私を見て呟いています。忘れもしません。死ぬほど辛かった。哀しかったです。お腹が空いていたから食べる事が出来ました。
 そんな出来事があったから。1人旅に出ても自分で食べる事が出来ます。(祖父は、私の未来の事を考えてくれていた見たいです。) 感謝しています。 

 《 今 晩 の 宿 泊 場 所 へ 。 》

 本題に戻ります。 4月22日の15時40分に車で今晩の宿。須磨国民宿舎「シーパル須磨」にタクシーで行きました。ツインの2人部屋に車椅子で利用出来るようにトイレ・お風呂・洗面台が設備された部屋が10階にあります。そこが予約した部屋です。窓を覗くと須磨の町が水墨画のように鮮やかに見えて、遠くを見ると白く青い海が水平線の向こうまで続いています。
左側には、六甲の山々が聳え立ち本当に最高の景色です。ここに保養荘を建てたのがわかる気がします。 スゴイ景色に見とれていました。食堂は、3階です。エレベーターで下に降りて食事を食べに出かけます。今回の旅行も付き添いは、誰も居ないので、Hさんを独り占めです。(33. )

 (今回は、私が独り占めです。)35年前。私が26才でした。故郷・家族と別れ、親の反対をも押し切り、和田山の真生園に入所。その時の寮母さんで(介護員)私の第2の母です。(母亡き今は、お母さんです。)食事の介助から始まり、夜。休むまでの時間お世話やお手伝いをして、(まるで親子です。) 母。 いえ、 それ以上です。 施設に入園してからの35年と施設での思い出を(言語に障害がある事を忘れ、)無が夢中で話していました。(嬉しくて・懐かしくて何を話したのか覚えていません。)気づくと夜の11時を過ぎていました。もう寝ます。お休みなさい。

《 イ ル カ シ ョ ー に 興 奮 。 》

 翌日。AM:9:20分。須磨保養荘シーパルに21日・22日と2日間宿泊。Hさんと(1泊2日の親子になります。)今日は、楽しい一時を過ごす事が出来ます。私が外に出ると言うのか、親元を離れて暮らす。それは、初めての経験でした。自分の事は排出も食べる事さえ出来ない私です。考えてみて下さい。《総て人の世話になる。》他人の初めて会う人達に、(下の事まで自分で出来ない私です。) そして、今回。宿泊してくれる人は、その時の寮母さんで、 前園長の奥さん
(34. )

 25年前神戸に転勤されて、和田山で3年間お世話になりましたが、神戸に新しく施設が開園し、そこの初めての園長夫人で兼寮母さんでした。 26年前夫婦で神戸に移動され、ご主人の園長は、5年前に亡くなりましたが、遠く神戸に行かれても、亡き園長と2人で時々こちらに来られると声かけてくれたり、励まし、応援して話しを聞いてくれました。永久に私の中での、最初の園長は、Hさんです。  今、私がお母さんと呼べるのは、この人だけなのです。恐れ多くも今回。お世話になるのは、初代園長夫人で元寮母さんです。 (マリア様のような人。)真生園では、母のような人でした。翌日は、am 6:00に目覚めて、隣の部屋には、障害者トイレ・お風呂・洗面所があります。 朝早くから。隣のトイレで悪戦苦闘していました。(朝早くから七転八倒で眼を覚まさせてしまいました。着替え、(お手伝いして貰いまして、無事終了。)8:30分エレベータで移動、2階の食堂に向かいます。

《35年と言う 時 間 が 過 ぎ た。》

食べる事も忘れて、叉。思い出話に花が咲き朝食タイム終了の10:30分頃まで話しました。

(35. )

 私が園に入所した時の事から始まり、当時の私の気持ち。逆に、職員さんから見た私の様子などを聞いて、(期待されていたのだナー、)と懐かしい思いを2時間かけて語り合い、朝食を食べていました。
 食事を済ませて、  近くにあると聞いた。水族館に出かけます。ここ「シーパル須磨から。」歩いて5分の場所にある。 須磨水族館。行く道中Hさんに車椅子を押してもらい、話しをしながら。親子連れのように見学をしました。  (一生忘れられない時間です。)
 6年前に亡くなった。母と旅行しているような気持ちになりました。《苦労や心配ばかりかけて、親孝行など出来なかった。障害者の私を産んでくれた事を感謝してるけど、お母さんは、後悔していませんか、》 と数年後私が天国に行けたら。一度母に聞いてみたいと思います。

《もうすぐに私も逝きますから。お待ち下さい。》

 もうすぐ逝くつもりですが、(いつ死ぬのか、私には分かりませんが、いつ。死ぬ事が分からないから。人は、生きて行けるのかナーー。)   歩道を50メートル程進むと広い駐車場があり、水族館の看板を見つけて入ります。
(36. )

 午前中にも関わらずスゴイ人です。 大型バスが何台も止まり、団体の列・幼稚園の園児や小学校の生徒達。 あの子供達は、保育園の園児か、ちっちゃくてカワイイなー、親子連れ・アベック同士で訪れていて中に入ると、薄暗い通路の左右に小さな窓があり、深海コーナーです。除くと見た事もない、目玉のない、魚や深海の川底に住むグロテスクな魚などが数百匹。それを見て回り、ペンギンやアラザシ・ラッコ・イルカ・アシカなどの暮らし。 やはり一番人気は、イルカのショーでした。飼育員のお兄さん・お姉さんの合図に答えてジャンプ・右回転・左回転・宙返り・立ち泳ぎなど思わず。その姿に拍手を贈ります。  今日の記念に写真を撮ろうとカメラを取り出して写そうと構えるのですが、構えたらシャッターが押せません。 写真が撮れずに困っていたら。子供会で付き添って訪れていた。 女の先生に写真を写してもらいました。(ありがとうございました。) 次は、イルカの運動会です。バトンレース・ボール運びリレー・立ち泳ぎ・大ジャンプとスゴイ迫力に場内のお客さんも立ち上がり拍手喝采です。 前の席の人達は、青いナイロンのカッパを着ていましたが、イルカがジャンプする度。水しぶきがかかり頭から水浸し、 頭からビショ濡れです。
(37. )

 (ビショ濡れで可愛そう。離れた席で良かった。) イルカがジャンプした瞬間の写真をお願いして、3枚ほど撮してもらいました。
 (自分でシャッターが切れません、) 隣の席で見学していた。子供のお母さんが写真を撮ってくれました。

 《 代わりに撮してもらい、ありがとう。 》 

 イルカショーも終わり。お昼にするには、 まだ早いので周りのパビリオンを見て回ります。 ペンギン広場。岩場の窪み。みたいな所に家を造り、大勢で、叉、群れを作り住むそうですが、 側にイルカの訓練用の大きなプールがあり、そこでの訓練・調教の様子などが見られてイルカも結構大変なんだと、(イルカの気持ち?)一応。見て回りました。その間、Hさんは、私の車椅子を押しっぱなしです。 

  (後で疲れが出ないかナーと心配です)   
 食堂を見付けて、お昼にします。昼時は、お客が多いので早めに食べようと食堂に入りました。水族館内に、おしゃれなファミリーレストランがあり、中に入りますと、 
(38. )

まだお昼前なので6割強の席が空いています。左側の窓際の席に座り、 焼き飯と肉うどんを注文しました。
 食べたと記憶にありますが、詳しくは、覚えていません?、 覚えてないと言う事は、美味くなかったようで記憶にありません。
そこでもこれまでの独り旅で気ずいた事や感じた事。園での生活の話しなど2時間あまり話して、ご飯を食べました。           pm:3時過ぎ。シーパルに帰って来ました。 楽しい時間は、早い。Hさんとお名残り惜しいですが、又の再会を約束して別れました。  

《 横 断 し た い け ど 。 》

 1人になりました。気分転換に近くを散歩して、町をウロウロしていると、突然のどしゃ降りです。急いで横断歩道を渡ろうと早足で車椅子を漕ぐと突然。 履いていた靴が脱げました。 
 スゴイどしゃ降りです。(焦りますと、上手く動けません。)すると、小学生の女の子がトッゼン疾風のように現れて車椅子の私を歩道から。連れ出して傘を差し掛けてくれました。

 【おっちゃん大丈夫。濡れちゃったね。】 (39. )

 【ありがとうございました。と私は、お礼を言いましたが、こんな親切で優しい、子供がそれも女の子です。 ポニーテールの髪型が似合う。笑顔がカワイイ。(芦田愛菜ちゃん。)のようなオシャメな女の子です。】愛菜ちゃんに似ている。

【おっちゃん気をつけて、行きなさいよ。 安全に元気で行ける。《おまじない、》をしてあげると、背中を2・3度さすって気合いを入れてくれました。】

背中を擦ると言う。初めてのおまじないに、勇気をもらい、雨の中。須磨荘に帰って来ました。まだ時間があるので食堂を覗いたり、トイレに行き、タバコを吸いに行ったりして、中に入り、売店で美味しそうな食べ物を見つけ買います。部屋に戻り、時計をみるとpm:3時過ぎです。
まだ。夕食には、まだ早いし、それに汗臭いので、これから。 1人でお風呂に入ります。
(時間は、かかりますが、何とか自分で入れます。この宿には、障害者用の浴槽がありますから。)
まず浴槽に、お湯を汲もうとしたのですが、初めて使う浴槽で要領が分からずに10分かかり、お湯を汲む事が出来ました。 部屋をドタン・バタンと転げ回り、服を脱ぎます。
(40.)

 (まず大事な所に、お湯をかけて洗います。滑らないように気をつけて浴槽にゆっくりと浸かります。熱いけど、良いお風呂。気持ちよい、
3日ぶりのお風呂で、疲れていたので気持ちの良い事。余は、満足じゃ、)          
さっぱりして着替えも終わり、6:30分過ぎ2階の食堂に行きました。 
「テーブルに名札があり、森下様。2名と書いてあります。」               
4月より、ウチの園から。神戸に転勤した。職員さんに(お世話に、なった人なので、)時間が合えば食事でもと考えていたのですが、連絡すると、家。(和田山に)帰られたようです。 で、2名と予約していたのですが、1人をキャンセルします。 付き添いもいない、私が独りだと知り、 支配人さんと主任さんは、女の人ですが、

【お客さんで満杯にならない。今、お召し上がり下さい。 私達で良ければお手伝いします。】

 と言われて、夕食を食べる事が出来ました。
助かりました。(渡る世間は、女神ばかりです。)私は、お手伝いしてくれたウエイトレスの主任さんに食べさせてもらいご機嫌です。
食事も食べ終わり、喫煙室でタバコを一服して
(41. )

 叉、今度。神戸に旅をしたなら。宿は、神戸須磨区にある。国民宿舎『シーパル』須磨荘に決めました。『本当に美味しい料理と心遣いのおもてなしは、最高でした。』部屋に帰る途中で、お土産を買おうと売店を見て回ります。 
明日。お邪魔する。『S療護園。』のH,Mさんに、一昨年まで25年間毎年。叉は、2年に1回は、 個人でも同窓会と題して出かけても、私と同じ部屋に宿泊してくれまして、着替え・食事の介助や話し相手から。愚痴を零したり、総てお世話・寝る前の準備等お世話になりました。
 H,Mさん。私が毎年神戸に行けたり、旅の帰りに呼んで神戸で休めたのは、『あなたがいたからです。 安心して旅が出来ました。生きて来れました。』と言っても過言ではない人です。
《私の何人かの恩人の1人です。》ありがとう。
翌日。シーパル須磨荘でタクシーを呼んでもらい、【お世話になりました。】と叉。宿泊出来る日を誓って別れを告げました。 4年前に、新しく立て替えられた。『S療護園』にお邪魔しようと向かいます。道と場所が分からないので目的の場所をナビで調べて訪ねて行きます。立て替えられて、場所も移転した。と聞きましたが、 訪ねて見ると居室は、総て1人部屋で新しく、明るく広い2階建ての建物でした。
(42. )

 (Hさんと、5年ぶりの再会です。)顔を見ると元気そうで安心しました。 施設は、立て替えらレ。 移転して4年前に新しく生まれ変わりました。(昔の真生園を思わせるような起立台や平行棒・訓練用階段などの機能訓練の為の機械が設置され、広いホール。別の部屋には、パソコンやコピー機。スキャナなどの機械が2・3台並べて設置してありましたが、興味のある利用者は、空いていれば自由に使う事が出来るそうです。 個人の部屋にもビデオ・パソコン・コンポや電化製品。テレビゲーム・携帯電話・カメラ。ゲーム機などいろんな物が設置してありました。 マッサージ器が部屋に置いてあったのが、印象的でした。(みんな1人部屋で広いので羨ましいなー。)そして、 裏庭に、読売ベルデイーの宿舎がありまして近くのグランドで練習した後に帰って来た。若い選手に会えますよ。(三浦知・ラモス・北澤・武田・柱谷と往年の選手もここで練習したそうです。運が良ければ、若い2軍の選手に会えて,サインもして貰えるかも知れませんよ。静かで緑に囲まれた避暑地のような場所でした。 名残尽きないけれど、午後16時を過ぎたのでHさんに別れを告げてそこを後にしました。 次の目的地に向かいます。  確かこの辺に、住んでいると聞いたけど、  (43. )

 この前会ったのは、3年前に旅行先の金沢の香林坊東横innまで来て、意気投合して仲良くなり、メールで交流をしている。 女の子が近くに住んでいるので訪ねて見ます。その娘は、三ノ宮で1人暮らしをしています。3回目。昨年長崎で出会って、同じく兵庫県から遊びに来ていた。車椅子の不思議な女の娘いる。?(良く見ると、可愛いいのかナー。)三ノ宮で自立生活を2年前からしていると聞いていたので訪ねて見ました。駅の近くにマンションを借りて、1人暮らしをしていると聞いて来たのですが、尋ねるのは始めて、 家族や友達。それに週に5日一日3時間の訪問介護ヘルパーさんを利用して、駅の近くの2階建てマンションで1人暮らしをしているからと聞いてたので、 一度訪ねてみたいと思っていました。 M、Kと言う彼女は、(電動車椅子使用の女の子)で私と同じで、自分を障害者だと思ってない、(女番。森下、)と言うような変な女の子です。(性格が似ているから。)気が合うのでしようか、4年前に東京で初めて出会い、昨年。私が長崎に旅行した時に、原爆資料館を見学中に3回目の出会い、(縁がある。)いろんな話をして意気投合し仲良くなり、 時々メールで連絡を取り合い、  『変なおじさんとケッタイナ子は、メール友達になりました。』     (44. )

 今回。近くまで来たので驚かそうと連絡せずに突然尋ねて来ました。タクシーを家の前に横付けして玄関のベルを押します。  中から。女の人の声が聞こえます。

【どちら様ですか?】と女の子が出て来ました。                     【お久しぶり、生きてますか、】  と言うと、 
【なに、おじさんどうしたの?、】 と驚いた顔。  
【今回は、神戸の友達数人に逢いに来たので、 アンタの顔を見に来たよ。】  と言うと                       【来ると連絡をくれたら。駅まで迎えに行ってあげたのに、何も教えてくれないんだもの、】                      【3日前から。神戸方面を旅しているんだけど、近くの場所に来たから。君に会いたくて訪ねて来たよ。住んでいる場所を見たいと思い、連絡しなかったんだ。】                      
【訪ねて来る事を知ってたら。一晩ぐらい、泊めてあげたのに、  連絡下さい。】  

(45. )

 
【ヘルパーさんに迷惑をかけるし、アンタにも迷惑を賭けるから。 君に内緒で来たんだよ。】

【私が駅まで車で迎えに行ってあげたのに、】

【有難う。 三ノ宮駅に何時に来られるか、 分からないから。 連絡しなかったんだよ。】

【ここが、私のお城・蒹・事務所。そして、仕事場ですと、 中を案内してくれました。】

お邪魔します。と中に入り見ると、広いマンションでした。部屋が4っつあり、寝室・応接間・仕事をする部屋・台所兼食堂。トイレ・お風呂場総て車椅子のまま利用が出来ます。     

【スゴイ。 家賃は、月幾ら。この辺だと、高いやろ?稼ぐよりも家賃の額が、、、まあ頑張れよ。】
                     【事務所を開くなら。家賃を出してやるから。親の眼の届く場所で生活しなさいと、 親の意見を聞かないと、1人暮らしは、許さない。  とお父さんに言われて、  まあ、良いかなー。】

(46. )

 この事務所蒹マンションを借りて、家賃は、親が払う。 

【と言う事は、自分で自立生活など、やってない。唯、ワガママで生まれた家とは別に、部屋を借りて、自分の好きに生活しているだけじゃあないか、唯の自己満足。 少ない年金でいろんな物をガマンしたり、福祉サービスを駆使して苦しい生活をしている人が聞けば怒るよ。 俺が、偉そに言えないけど、 おじさんは、怒るよ。 甘えるんじゃない、】 笑 う ? ? ? 、

【私もそんなのは、自立じゃないと、 拒否したけど、始め1年だけは、家賃を払ってやるから。親の眼の届く場所で生活を最初だけ、親の言う事聞かないと、 稼げるようになれば、 別よ。】

と笑ってました。(強かな娘。オヤジさんカワイそうに。) 最新のパソコンや印刷機・コピーなどが置かれた事務所蒹部屋の中はピンクで統一された。おとぎ話に出てくるような部屋。カーテン・ベッド・ジュータン・テーブル・シンク・冷蔵庫・布団まで女の子らしく総てがピンク一色です。(何だこれはと、ビックリ女の子らしい部屋に私は、ポカーンと開いた口が閉まりません。(47. )

【めぐちゃんアンタは、 スゴイよ。偉いよ。 元気で生活していて、安心したよ。 頑張れよ。】                     【おじさん私。100%じゃーないけど、自分で人生を選んで好きに生きているから。幸せだよ。】

【僕達。障害者は、自分の好きに生きてる人は、少ないのに、めぐちゃんもオレも例え5%でも自分の好きに生きていると言う事は、幸せだと思う。    挫けないで頑張ろうな。】 

★《  彼 女 の 紹 介 を し ま す と、》

  M、Kと言う彼女は24才で、(女優の菅野美穂)によく似た。綺麗な女の子です。(子供の頃交通事故で片手切断・両足マヒの事故に会い、障害者ですが、車椅子で1人暮らしをしています。養護学校を16才で卒業して、(人に負けたくない、)と家で猛勉強して、とある。有名な進学高校に主席で合格。)通信教育で経営学・建築・デザインを学び。車椅子で家族・友達・周りのみんなに助けられながら。建築関係の大学に進学するが、



(48. )

 1年で自主退学して、2年前から。家を借りて、1人暮らしをしています。家族や友達。ヘルパーさんに助けてもらいながら。三ノ宮駅の近くに、家を借りて1人で生活している。少し不思議で変わった。女の子です。小学校4年生の時。下校途中で車にはねられる事故で障害を受けて、 障害の程度は、下半身マヒ車椅子使用で左手は、ヒジより切断。(義手を使用されています。)下半身不随で歩行が困難なので、普段は、手動の車椅子を片手で動かして生活しています。外での移動は、電動の車椅子を使い、車の運転も出来ます。(自分の車がない為。現在は、兄の車を借用しています。) 給料が安定したら。いずれは購入するそうです。(頑張れ。)部屋蒹事務所には、パソコンが2台。印刷機。スキャナ。その他。見た事もない機械や道具が部屋中にゴチャ・ゴチャと足の踏み場もないくらいに散乱していました。(なんだコリャー、)

【ごめんなさい。おじさんが来る事を知ってたら。少しは、片づけたのに、、、。ガマンして、】 

 彼女は、普段は車椅子に乗ってますが、部屋での移動は、スケート・ボードで滑り移動します。

(49. )

 部屋で仕事をする時は、床に座り。 片手は、使えますから。時間かかりますが総ての事を自分でやれます。(見た。感じは、弱々しいけど、腕の力は、スゴイです。片手で120キロまで持ち上げる事が出来るそうです。) パソコン・印刷機・コピー機・電話機・ファクシミリ・スキャナなど。 いろんな物を自分が取りやすく使いやすいように自分の手の届く場所に工夫して置いていました。(散らかしているように見えますが、自分が使いやすいように置いてあるのです。)

【今日は、どうして、三ノ宮へ来たの? 叉、旅行してるの、  おじさんヒマだよねー。遊べる時間とお金があるんだ。 羨ましいナー。】 

【俺。自慢じゃないけど、お金なんか無いよ。 年金だけ。必要な額は、施設利用料として納めて、後。電話料金とネット代その他を支払えば、2万と少し残るぐらい、それを貯金して旅行するんだ。1年に1度。一週間から。10日ぐらい、自分の行きたい場所に行くんだ。それが、今の生きがい、旅での出来事や自分が感じた事。自分の気持ちなどを原稿に書いて発表する。】

旅行した時の様子を原稿にする為に、
(50. )

 電話やインターネットで詳しい事を調べるから。時間が、かかるし、電話代・プロバイザー代・原稿を印刷するのにプリンターのインク代・コピー紙代とお金がいる。  でも旅したら。いろんな人に出会えるし、楽しいよ。 アンタのようなカワイイ娘にも会える。】   笑う。?

【旅先で初めておじさんに声かけたのが、切っ掛けで良く会うよね。『偶然ですか?、』あれから3年間いろんな悩みや相談を聞いてくれて、有難う。いつもムリな質問してゴメンナさい。】

【昨年、旅行先長崎駅の前で車椅子のケッタイナ女の娘がウロウロしているから。いつものように声かけたら。  叉、メグちゃんでビックリしたよ。 俺の追っかけをしているのか、?】 

【まさか、偶然なんですけど、】

 話していると、チャイムが鳴り、【ハーイ】と彼女は、スケボーに飛び乗り出て行きましたが、(その早い事、。) 私は、部屋の中を(珍しい物でも見るように見ていました。  暫くすると、

【失礼します。】と部屋に初老の男の人が入っ(51. )

 て来ました。初めましてと挨拶したのは、S出版社と言う出版社の社長さんでした。

【お友達ですか?、 彼女には、頭が下がります。根性ありますよ。 その生き様に感動してます。お話しますが、昨年。私の会社に、突然車椅子の女の子が現れて、《私に、お仕事をさせて下さい。と訪ねて来ました。それも歩けない、女子で片手が不自由な女の子です。私は、びくりしました。《例え、身体は不自由でも自分で生きようとする。この子の根性とやる気に教えられました。》そんな身体で仕事をしなくても、年金で食べる事が出来るのに、無理に仕事をしなくても生きて行けるでしょう、】  と私は、訪ねました。

【その問いに、この子は、 誇るように言いました。 《年金ではなく、貧乏でも良いから。自分で稼いだ。お給料で生活したいです。 自分で普通に生きて行きたいです。私にしか出来ない仕事がしたいんです。》自分の人生を自分の力で生きて行きたいのです。】 

と言われた。 その言葉に感動して、(惚れ込み。)仕事を、 こちらの方から。 お願いしました。 
(52. )

【こんな無邪気で子供のような女の子が車椅子で、そして義手で不自由な身体で、真面な仕事など出来ない、《世の中を舐めるんじゃない、》と追い返しました。その時外は、突然のどしゃ降りで、車椅子が転倒その娘も泥濘の中に放り出されて、泥塗れでびしょ濡れです。私は、気になり、窓から見ていたのです。そして店の者をお手伝いに行かせたのですが、断わられました。その子は、雨の中。びしょ濡れで、泥まみれになりながら。悪戦苦闘。20分もかけて雨で濡れた書類を広い、自分で車椅子に乗り、《私の家に、一例。頭を下げて、去って行く姿に、》私は、仕事など出来なくても良いと思いました。感動しました。この子を雇う事にしました。 すると、仕事が出来るんですよ。スゴイいんですよ。  8と言えば10でなく12で帰って来ます。 頭の回転が早く完璧なのです。 言う事なし、】

 良い子を雇いました。と社長さんは、自分のように喜んで誇らしげに自慢していました。 

【孫のようで、休みの日など、仕事抜きで私が、お手伝いと言うのか、 遊びに来ていますよ。】

と、自分の孫でも見るように。微笑ましく笑って
(53. )

 いました。

『 変 な 娘 と 変 な お じ さ ん 』

 【あのーっ。 社長さんこちらのお部屋に。
 おいで下さい。】

 と呼ばれて、向こうの部屋に行かれました。 彼女も彼女なりに、一生懸命頑張っている。 私も自分の人生。例え、障害があろうと悔いのないように生きなければ、、、。

 《 何 年 か 前 に な り ま す 。 》

◆何年か前に、風の噂で聞いていました。◆

神戸の町に、【君のように、1人車椅子で独り旅をしている。『女番。森下』がいると聞いていましたが、偶然に(この子。)に、5年前旅行先浅草で出会う。 子供。それもカワイイ女の子でした。仲良くなり、2年前からメールでいろんな事を話し、相談したて、疑問を聞いてあげて交流をしていますが、実際に彼女が自立して生活してる。 家を訪ねたのは、今回が初めてでした。 】

(54. )

 やっぱり自立している。人はスゴイ同じ障害者でも何処かが違います。  変わっている私がそう思うのですから。間違いありません。
周り。関わる人達は、迷惑ですが、良い意味で拘(こだわ)りを持ち頑固。自分の意志は、間違っていても曲げません。 何故、そんな事に拘(かだわ)るのか、と思うほど拘(こだわ)りを持っています。 そう言う私も変な事に拘(子だわ)る。と言われます。(要するに、他の人から見ればアホなんです。)それが男なのです。?

 『回 想。私が、施設に入所して、やりたいと思った事は、旅行がしたい事。『本を読んでも、映画・テレビドラマ等でも』旅をすれば、人は変わる。新しい自分に気づく、自信が付く、未来が決まる。と書いてありましたが、施設に入所して5年が過ぎて、生活に変化はなくマンネリ化で毎日同じ暮らしの繰り返し、(変化もなく、)このままで終わりたくないと毎日悩んでいました。『私にも出来る事がある筈だ。このままで死にたくない、』と悩んでいました。 
 悩んで・悩んで苦しみ抜いた末。テレビで坂本龍馬の生地を訪ねる。と言う番組が放送され、高知城とかはりやま橋・龍馬の生地。 同じ武士でも、上士と下士の位(くらい)に悩んだ龍馬達。 それを知った。私も障害者・健常者で悩んでいました。(55. )

 例えは違いますが、 龍馬達・当時の若者の気持ちが少し解る気がしました。 そして宿命を変えるには、自分が行動を起こさなければ何も始まらない、 で、私に何が出来るのか??、
『尊敬する。龍馬の銅像に問いかけて見たい、』と高知県の桂浜に行きたい。と考えるようになりました。 独りでは、何も出来ない重度の障害者です。 おまけに施設に入居しています。
 (ダメな事は、火を見るより明らかです。)  毎日。悩み・苦しんでアキラメようと考えましたが、諦める事が出来ません。(私の性格。ダメ、無理と言われたら。意地になります。)桂浜に行き。龍馬さんの銅像に、(自分は、これからどう生きれば良いのかを問いかけてみたい、)と思いました。でも、重度の障害を持ち。療護施設で生活する私が外出など、世間は愚か親も施設も周り総てが許してくれません。悩んで苦しみぬいて死ぬ覚悟で考えました。私の弱い頭で考えて思いついた筋書きは、こうです。『友達の1人が地元の新聞社に勤めているので頼み込んで、《車椅子の施設で暮らす。重度障害者の青年が(その頃は、まだ青年です。)車椅子単独で海外旅行(四国も日本の海外ですから。)に出かける。》『 療護施設で初めての試みです。』  ▼施設暮らしの重度の障害者独り車椅子で四国へ。▼  (56. )

 と言う見出しで、某。新聞の但馬版に、大きく載りまして施設も私の地元も大変な騒ぎです。《新聞に載せました。これが私の作戦です。》知り合いでその当時の浜坂町長さんその他から。実家の方に、餞別とお祝い、励ましの祝電が何通か届きました。 新聞に載り一種のヒーローです。 反対していた。両親や家族は、渋々賛成したようです。施設の方も新聞に載り、《利用者思いの園だ。》と公になったものだから。 今更反対は、出来ません。 作戦大成功ですが、(怖い、命がけです。) まず。行く場所四国。訪ねて見たい所と桂浜の龍馬像に問いかける事を決めて、 旅館選び。(30年前ですから。電話です、)予約して乗車券も知り合いにムリに頼みました。 旅する。それも初めて車椅子で出かける外出です。 1人で、死ぬ思いでした。(大袈裟ですが生きて帰れると思っていませんでした。)その証拠に出かける日。園の玄関で職員・利用者が、私を見送ってくれるのですが、《気をつけて無事に帰って来い、と手を振り、見送るのですが、 顔を上げて答える事が出来ません。  これが最後になりそうで、》涙で後ろを振り向く事が出来ませんでした。  本当は、涙で顔を上げる事が出来なかったのです。 (不安に負けて旅を止めたかも、)         (57. ) 

 園から。駅まで電動車椅子で利用者と寮母さん達がお昼ご飯も食べずに、駅まで見送って付いて来てくれて無事に出発する事が出来ました。  思い出します。そこから。私の変なおじさんのオカシナ旅。変な人生が始まりました。 これが私の人生。旅の始まりです。

【おじさんも苦労して自分の人生を自分で開拓しているスゴイ。私も社長さんやその他。周りの大勢の人達が協力して助けてくれているので頑張らないと、 ところで、おじさん。何しに来たのですか、 私に逢いに来てくれたのですか、アタシを好きになっても辛いだけなんですよ。】

【好きになるか、おじさんにだって好きな人ぐらい、いるよ。】                          

 【ええーッ。 好きな人いるのおじさん。】

【恥ずかしいけど、この年で好きな人がいる。出来たんだ。片思いだけど。おじさんには、もったいないような人だよ。】

【どんな人ですか、 勿論。綺麗な人でしょう。】

(58. )

【地味なんだけど、さり気なく咲いている。可憐な『すずらんの花』のように綺麗な人だよ。】                     
 【ステキおじさんカッコいい。  さすが車椅子に乗った。  変なオジサン。 最 高 。】

【障害者の君なら。解ると思うけど、好きだ。 《愛している。》は、誰でも言えるけど、本当に好きな人には、後の言葉は言えない、どうする事も出来ないんだ。悩み・苦しみ・藻掻いて、私は、歩けない、手が使えない、言語障害もある。それが、個性だと割り切った筈なのに、好きな人が出来ても連いて来て下さいと言えない事。それが一番辛い、障害者の恋で一番辛い事なのです。例え、好きと言えても自分に障害があるから。諦めるのが普通で現実だけど。 私は、好きなら。愛してるなら。 例えダメでも諦めたくない、
『自分が幸せになりたいから。 自分が幸せに、ならなければ、 人を幸せには出来ない、』 
 そして、私には、重度の障害がある。   叉、63と言う年にもハンデイがあるけど、 (障害者で還暦も過ぎた爺が、40も年の離れた娘を好きだなんて何を考えてんだ。)  100%狂気かと言われるけど、自分に正直に生きて行きたい、

(59. )

 私も苦しくて恥ずかしくてカッコ悪くて人には、言えない、(4ヶ月も悩んでガマン出来ずに、告白した。恥ずかしい、)でも私は、アキラメたくない。】

涙ぐんで、【カッコいいよ。おじさん。 世間一般に、いい年して、障害者のくせに?、 とか言われるだろうけど、障害者だから。 自分を主張して自分らしく生きたいと思う。 やっぱりおじさんは、スゴイよ。   私。尊敬する。】

【ありがとう。やっぱりアンタは、変な子です。】

 1時間ほどお邪魔していましたが、次から次へと仕事の依頼や訪問者客が次々に訪れ、忙しそうなので、叉の再会を約束して、今晩の宿泊場所の東横inn三ノ宮に車椅子を漕いで汗ブル・ブルになりながら向かいます。   途中でタクシーを拾い、駅方向へ1キロぐらい行くと
 東横innの看板が見えました。車から降りて、

【こんにちは、今晩予約した。森下と申します。】

【いらっしゃいませ。 森下様。森下様。本日では、なくて、30日の日付で宿泊予約を頂いて
(60. )

 おります。】

【30日ではなく、今日4月24日の間違いです。今日は、空いていませんか、空いてるなら。30日は、キャンセルして、今晩の宿泊をお願いします。と変更して、なんとか宿泊が出来ます。 アアーと、一 安 心 。 】         

ホテルに、荷物を預けて、 コンビニに夕食の買い出しに出かけます。右側の信号を左に曲がると、ローソンの看板が見えると教えられて進みます。前から。自転車を漕いで遊び人ふうの若いおにいさんが、近づいて来て、声をかけて来ました。

【何処へ行くの。車椅子を押してあげる。】と

向こうのコンビニまで連れて行ってくれました。入り口に行くと階段があり、ドアも自動では開きませんから。 空けてもらいました。 弁当に缶ビール・おつまみ・アイスクリームと買い込み。お兄さんがホテルまで送ってあげると車椅子を押して宿まで付いて来てくれました

【独りで旅行してるのかい、 車椅子で大変だ。】
(61. )

【皆さんが助けてくれますから。独りで何処でも行けます。自由に、行けて感謝しています。】
   
【今晩は、すぐそこの三ノ宮東横innに、 今晩宿泊しますので、 そこまで車椅子で行きます。】

【この通りの向こうで、 すぐそこ、見えるよ。車椅子で1人で大変だよ。 俺達。五体満足でも1人では、行けないよ。 頑張るから。 僕が車椅子を押して東横innホテルまで案内してあげるから。 遠慮しないで足を上げなさい。】

と車椅子を押して、道路の向こうにある。   ホテルへ。 玄関の段差を上げてくれて、前までまで行くと中に、入りませんで、 じゃ-ぁここでと、言って???、 

【危ないから。気をつけて行きなさいよ。】

と別れました。   そして、中で見ていた。
                   【フロント係りの支配人さん(女の人ですが、スゴイ形相で、) こちらに来ました。  お客様。 大丈夫でございますか、?】 
(62. )

 と聞いて来ました。私は、ビックリして、

【どうかしたのですか、あの人は、どなたですか、】    と 聞 く と 、     

【あの方は、関西山口組。某会。組長の息子さんで4代目なんです。】

        と教えてくれました。

【車椅子を押して、買い物のお手伝いをして貰い、このホテルの道順が分からなくて教えてもらい、荷物を持ってもらいまして、このホテルまで案内してもらいました。】

【ああ言う方は、他のお客様に恐怖心を与える方の来館は、ご遠慮させて頂いています。大浴場・温泉・サウナ等。宿泊所・ホテル。公共の場所の入館をお断りしています。お客様。ああ言う方とは、あまり お付き合いなされない方が宜しいのでは、?】

それを聞いて、私は、悲しくなりました。 人は、何処で判断をするのですか、と私は、(63. )

 聞いてみたいです。車椅子の私が汗かきながら。通行しています。(車椅子を足で漕いでバックで後ろ向きに進んでいます。)行き交う途中には、大盛の人。若者も男の人も女の人も私が汗かきながら。車椅子を漕いでいるのに、擦れ違う人。通り過ぎる人は、顔を見るだけで、(声をかけて励ましてくれる人もいましたが、)親切に車椅子を押してコンビニまで付いて来て、買い物のお手伝いしてくれました。そんな親切で優しい気持ちの人をお父さんが、暴力団の組長と言うだけで息子を判断するのは、間違っています。おかしいです。ヒドイです。声を大にして言いたい。間違ってます。私は、車椅子の重度の障害者です。私も宿泊が出来ないのですか?、

【宿泊出来ます。当。ホテル・チェーンには、《ハートフル・ルーム》と言う部屋を設置してございますから。 ご利用下さい。】 
【車椅子の私達でも宿泊が出来るのに、 暴力団で刺青をしていると言うだけで宿泊が出来ない、それは《変です。》障害者なら。見れば分かりますが、ヤクザ・刺青をし(64. )

 てるかしてないか、どうして調べるのですか、その人の心に問いかけたり、服を脱いでもらうのですか、】        

 と私は、聞きました。 納得出来ません。

【そう言われると困りますが、国の決まりですから。】と言葉をはぐらかされました。

 私は、思います。(世の中どこか間違っています。) 部屋に入り。買って来た。お弁当と缶ビール・おつまみのチーズ鱈を平らげ、寝るには、まだ。早いので有料ビデオでも見ようとスイッチを入れました。始めは、期待して興奮して、頭がギンギンに興奮して観賞していました。40分ぐらい拝見すると、何時もですが、(男の性ですか、哀しいです。)空しくなり、寂しくなり、悲しくなりました。 もう寝ます。
 夜中に目が覚めて考えます。今回。訪ねた仲間達は、皆1人暮らしをしています。それぞれ一生懸命に(不自由な身体を駆使して、)1日・1日を力一杯に生きているのに、私は、これで良いのか、いったい私は、何をしているのだろう。と
(65. )

 悩み。朝まで眠れませんでした。(素直な。私は、想像すると、)結局。眠れませんでした。 人は、悩んでもお腹は空くのです。
朝食です。東横innの朝食は、地元のおばさん達が家庭料理の朝御飯を(無料で、)食べさせてくれます。(私は、いつも利用しています。美味いし、おふくろの味ですから。) 

【和食でお願いします。私。手も不自由でよそうことが出来ません。 よそって来て頂けませんか、】 と お願いしました。  

 すると、御馳走を乗せた。ワゴン車を運ぶおばさんが、朝食のおむすびを持って来てくれました。

【ハイ。待って来たよ。  お兄ちゃん。おむすびは、梅と鰹と昆布の3っつ。どれにします。お汁は、スープと味噌汁。好きな方。】

【梅と昆布をお願いします。後は、味噌汁と茄子の漬け物をお願いします。】

【昆布と梅のおむすび。それに、味噌汁と

(66. )

 茄子の漬け物。それだけで良いんかい、持って来て上げるから。 このテーブルで、待ってなさい。 運んで来てあげるから。】

 窓際のテーブル席に案内されて、周りのお客さんを見ていると、《結構面白いです。両手で食べ物を掴み。 口。一杯にほおばり慌てて食べる人。一点だけを見て黙々と食べる人。話しているのか、食べているのか分からないぐらいに、唾を飛ばして、一心不乱に、食べてる人。》いろんな人がいます。周りを見ていると、 結構面白いです。  私も、人から見れば、面白いだろうなと思います。(手も足も言葉も不自由な私が車椅子で旅して、犬食いで食べる。不思議です。)ワゴンに山のように食べ物を乗せて、

【お兄ちゃん食べられなければ残せば良いと、】

お皿一杯に、バイキングの食べ物をよそって来てくれました。   頂きます。 

【皿にかぶり付いて食べている。】と

(67. )

【私で良ければ、お給仕してあげるよ。】と

【お兄ちゃん手も仕えないのか、自分で出来ない事を頼むのは、勇気のいることなんだよ。遠慮しないで、食べさせてあげるよ。】

と介助してもらい食べる事が出来ました。

【日本各地を旅しているのかい、スゴイね。知らない土地でいろんな人と会い。 自分を知ってもらう。『自分を生きている。』価値がある事だよ。五体が満足でも人を泣かせて、人に嫌がられる人もいる。 お兄ちゃんのように五体が不自由でも自分の人生を精一杯に生きている。 その姿に感動を与えて、人を引きつけるから。私は、お手伝いがしたくなる。それで良いじゃないかナーア。】

【そんな。カッコ良くないです。お金無いから。サポートする人なんか雇えないし、行きたい所に行きたい、訪ねたい、それだけの気持ちで何も考えていません。 自己満足でみんなに甘えて旅してるだけです。】


(68. )

 【例え自分が出来なくても 自分の出切る事を一生懸命やる姿に感動するから。 周りの人は手伝いたくなる。でも、無理せずに自分の出来ない事は、誰かに頼むんだよ。恥ずかしい事でも、カッコ悪い事でもないんだよ。 勇気のいる事なんだ。 お兄ちゃんは、共に生きると言う事を実践しているんだよ。 出来ない事で遠慮するな。】

 30分程で食べ終わり、 教訓になる。お言葉を頂き、為になりました。 ありがとう。

【お世話になりました。ご馳走さん有難う。】

【じゃーァ、気をつけて行きなさいよ。】

 朝食も無事に食べ終わり、ホテルの人や朝御飯のお手伝いをしてくれた。地元のおばさん達に挨拶をしていると、 最初。私の担当で(今は、神戸にいる。)友達のS君が迎えに来てくれました。 (会うのは、久しぶりです。)
 タクシーを呼び。2人で自立生活をしている。友達夫妻を訪ねます。 昔は、2人共。園に入所していたのですが、結婚して自立(69. )

 生活を神戸で初めて15年近くなります。
突然。死んだ彼。 正月に電話で4月に会いに行くと約束したのに、亡くなったと聞きました。 逢いに来たのです。直ぐにでも駆けつけたかったのですが、 不自由な私が行けば余計な迷惑をかけると思い、
 今日まで行けませんでしたが、今回は、ゆっくりと話しに来ました。 (遅すぎたけど、)遙々但馬から来ました。
現在。妻のHさんがヘルパーさんを利用して1人で暮らしています。奥さんの様子も気になるし、旦那さんのお参りもしていないので、  ここ神戸のマンションまで訪ねて来ました。 

【そば屋前の道を左に曲がり、団地へ行き手前一階の101号室だと聞いて来ました。部屋を見つけて玄関のブザーを押す。】と

【空いてますから。お入り下さいと聞こえ、】

挨拶もしないで、祭壇のMさんの写真を見つけて、 座ると恥も外聞もなく、ワン・ワンと泣き崩れました。『2人で飲もうと約束したのに、何故。俺より先に死んだのだ。』(70. )

 まだ。アンタは、死んではダメじゃないか、 Mさんには、やる事がある。守らなくては、ならない人もいる。 死ぬのはまだ早いよ。と我を忘れて大泣きしました。
奥さんもHさんS君。派遣されて来ている。ヘルパーさん全員が私の涙に、貰い泣きです。 何故?、(神様は、不公平だ。悲しいよ。)
10分以上は、泣いていたのかなー。 
生前のいろんな事を思い出し、 『Mさんとは、施設で2年間同じ部屋でした。(それも2人部屋です。 両手が不自由な私に比べて、Mさんは両手が自由に動くので、殆ど私はお手伝いを頼んで生活していました。  そんな時。《利用者同士で恋が生まれて、薄・々は気づいていましたが、》施設で初めて利用者同士の結婚です。 療護施設で初めての結婚です。  最高です。 そして、
神戸の方でマンションを借りて、ヘルパーさんの力を借りながら。夫婦2人で自立生活を始めました。(私も、お邪魔しましたが、羨ましい程です。自慢の2人・自慢の夫婦です。何度か宿泊させてもらい、お世話になりました。毎年。出会う事を楽しみに神戸に行くのです。)今年も春になったら。今年は、北海道に旅を計画しているから。  (71. )

 旅行の帰りに神戸で列車を降りて、1晩お世話になりますから。 宿泊させて下さい。と約束していました。
 今年も、1月の4日に電話で話したばかりでした。それが3月に、亡くなるなんて、、
彼は、一生懸命。真剣に、人の為に。愛する人もいて、守るものもあり、夢も・目標もある。相手への気持ちや優しさ、思いやりもある。その彼が、 私は、悔しいです。代われるものなら。代わりたい、と その時。本当に思いました。 なりふり構わず泣き叫びました。守らなければならない物がある。大切なパートナーもいる。 目標もある。夢も 愛する人を1人残して逝くなんて、神様は酷いです。人は、何を信じて生きれば良いのか、 私は、神様に聞いてみたいです。
『これが、あなたが与えた試練なのですか、』と、《どんな人にも間違いは、あるので、神様も間違えたのでしょう。》よかれと思い、人間に与えた試練なのですか、? それは、あまりにもMさんが可哀想です。
Mさんの写真を見るなり、 
 私が、大泣きしたものだから。周りの人も、もらい泣きです。 泣くだけ泣いたら。お腹が空いたので、
(72. )

 まだ。11時を過ぎですが、(お腹が空いたと、その場の空気を変える為。) 歩いて近くに買い物蒹食事に出かけました。 大通りを横断して、100メートル程行くと大きな百貨店がありました。 中に入り、ウロウロしてシャツと下着を買いました。(宿泊するので、着替えを買い求めました。)買い物も済んだので、 今度は、食道を探します。
 近くにうどん屋さんが、先月開店した。そこは、美味しいとスゴイ評判の店です。行きましょうと行きました。 行くと《行列が出来て多くの人が並んでいます。》 食べるには、迷路のような場所を食べたい物を自分でよそい、 順繰りに進みます。
1,食券を買い。2,ドンブリ・お茶碗を選ぶ。3,目当てのうどんを入れる。具材エビ・ちくわ・玉子・カマボコ・ネギ・あげ・その他自分が食べたい、具を自由に自分で選び。最後に、スープ。(お汁、)を入れてもらいます。 ちなみに私は、エビ天とちくわ・玉子を入れて頂きました。 付き添いの人もそれぞれ自分の食べたい物を食べています。ところが、奥さんを見ると、素うどんを食べています。 《昔から。食べる事が生きがいのHさんが、?》それを見た。私は、
(73. )

 【食べたい物を食べて、頑張らないと、 エビでも玉子でも食べなさい。】と言うと

【外で自立生活をすると言うのは、食べたくてもガマンする。やりたくても出来ない、自立生活するって簡単な問題ではない、 食費は、1日。1,500円で食べる。 1500÷3=500円。1食500円以内で食べないと、年金で暮らす者は、生活が出来ない、】

と教えられれて、外で生活するのも大変なんだ。と改めて感じました。 すると、S君がご飯を食べながら。

【森下さん。なぜ、アンタは、自立を、1人ぐらしをしないんだ。アンタの障害と性格なら施設にいるのは、おかしいよ。自立したいと言う気持ちはないのか、】

【自分の好きな事をして、気分転換に旅行する方が楽だし、楽しいよ。】

【アンタが施設にいるなんておかしいよ。 変だ。 ずっこいよ。】 と言われました。

(74. )

 【私も。悩んで・苦しんで、いろいろと考えて、自立をしている。友達の家に、年に1泊か2泊して、独り暮らしを体験しました。
園でマンネリカした生活の気分転換や気持ちの入れ替え、(一息付く、)単独旅行の行きや帰りに。 1泊お邪魔して、友達が自立生活をしてる姿に触れますが、みんな疲れているように見える反面。  輝いています。
 でも。生きて行くのに一生懸命で、その日・その時を食べて生活するのが精一杯に生活してる。 辛そうな姿を見るのです。 誰もが自立して独り暮らしをしたいと決めた時は、目標や夢を持っていた筈なのに、出来てないのが現実です。100%とは言いませんが、 家。施設。養護学校を出たその日から。介助・食事・居・住の総てが介護まで考えなければならないのです。すると、自分の考えていた。 やりたい事や好きな事は、 暮らして行く事に消耗して、自分がしたい事など出きっこない、と言う現実を見たのです。
 私達障害者は、着・食・住と介護の基本を優先すれば、自分のしたい事もやりたい事も出来ない。だとすれば、したい事やりたい事を諦めて暮らしに重点を置く事。
(75. )

 人が生きる。 住む・食べる・着る。の 3原則。それに、介護とい言う問題が付いてきます。
 人間本来の生活を優先に考えて、(障害者)が生活をする。イコールが施設だったら。 施設にいて自分の好きに生活するかを考えると、今の生き方がベストなのです。
ヘルパーさんの勤務時間から。事業所との相談。その他。いろ・いろと私には、分からない、難しい問題がありますから。

【森下さんのように、普段は施設で暮らして、気分転換に自分の行きたい場所に旅をする。そんな生き方も良いかも知れないなー。】    とS君に言われて、

【人は、それぞれ顔が違うように性格も障害の程度も感じ方も考え方も違います。自分の生きたいように、ハンディがあると大変だけど。自分の人生を自分らしく生きて行けばいいんです。障害者でも健常者でも1度きりの人生だから。100%でなく、例え75%でも自分で決めた。自分の人生を生きて行こうと決めました。だから今。自分に素直に生きていますから。 私は、幸せです。】
(76. )

 すると奥さんが一言。 呆れた顔で、

【アンタは、ナー。 勝手にしてーェ。】

 みんな昼食を食べ終わり。 今は、亡き。Mさんの思い出話に花が咲き。時間を忘れて思い出を話していました。 どの人の思い出も『あんなに優しい男の人は、いないよ。』と言うのが、統一した意見ですが、

【Hさん(奥さんが言うには、亡くなる前には、お酒が入ると、(かなり荒れていたよ。)と言われましたが、その気持ち分かります。奥さんを1人残して行く事に自分なりに苦しんでいたのではと想像しますと辛い気持ちが少しですが解る気持ちがします。】

 私は今晩。宿泊させてもらうので、一晩中付き合うから。夢にでも出て来てと、慰霊に向かい、心の中で念じて眠りにつきました。(すると、)その夜。Mさんが私の夢の中に出て来ました。(奥さんを残して逝った事を残念だと泣いていましたが、仕方ないと、そして私は、訪ねました。『Mさんの様に自立していて、やる事もあり、
(77. )

 守る人。愛する人がいる。逝っては、いけない人なんだ。』神様は、間違っているよ。)私のように、守る人も居ない、やりたい事も別にない、好きな人がいても片思いで、相手にされない、自分の好きな事をして、あっちにフラフラ・こっちにフラフラ生きている。 皆。食べる物もやりたい事も我慢して自立生活をしているのに、私はこれで良いのだろうか、と泣き叫びながら。問いかけました。 こんな答えをもらいました。 夢の中でMさんが私に、言った言葉は、

【森下さんは、それで良い。今のまんまで良いですよ。自立している友達や仲間の家を訪ねて、独り旅でいろんな場所に行き見て来た事や感じた事を話してくれたり、教えてくれたら良いんです。僕達独り暮らしや自立が出来ても独りで旅して森下さんのような出会い、触れ合いは、出来ない。 それは、あなたにしか出来ない事なんですから。元気な限り続けて下さい。そして、家に泊まりに来て、旅の話を聞かせて下さい。】

と言われました。単純な私は、その時は納得して眠りにつきましたが、悩んでいます。(78. )

 奥さんは、すべてをヘルパーさん任せで、自分では何も出来ないようです。(園にいる時は、私の方が重度でした。)すべての移動から。着衣着脱。食べる事。その他。 諸々を介助してもらっていました。(自立生活する。外で生きるって何??。)一日中。ヘルパーさんが付きっきりです。
(園にいる時は、歩行が出来て自分の事は、なんとか出来ていたのに、と独り言。) 私も頑張らなくては、(明日は、我が身だ。)ヘルパーさんが来られるからまだ良いけど、 Mさんが逝なくなった今。 この家に1人暮らしは、寂しいだろうな!
 私事ですが、年のせいもありますが、 《この頃。1人は、スゴク寂しいのです。》

【35年間共に暮らした。Kさんが居ない、丁君は死んだ。Yさんも、そしてMさんも、?】

 愚痴を言う友も悩みを聞いてくれる友。悪い遊びを一緒にする友も、 20年も前になりますが、《電動車椅子でサングラスをかけて近くの某高校に行き、女の子をナンパしたり、車椅子にカメラを取り付けて写真撮影に一緒に出かけた友も今は、居ません。(79. )

 ワイ談する相手も遊ぶ仲間も居ないのです。》 (寂しいです。これが年を過る。)と言う事なんですか。
 自立して私の前から去った人。私より8歳も若いのに病気に負けて逝った人。今年友達で天に召された人が6人もいます。(皆。私より若い。) なんで?と言いたくなります。ここ近年私の前から。去った人や会えなくなった人が沢山いますが、私は、今日も元気に生きています。 なんで?
まだ。あなたの側には、逝けないのですか、 神 様。 教 え て 下 さ い 。???

 AM6:00に目覚め。爽やかです。 トイレ・洗面を済ませて仏壇のMさんに挨拶。夕べは、夢の中で忠告有難う。と挨拶。7時40分まだ早いので、何もする事がなく、テレビを見ていました。

 深夜勤務の見守りヘルパーさんは、知らぬ間に帰られて、次の起床・着替え・洗面・トイレ・布団の上げ下ろしから。掃除・洗濯そして朝御飯の支度から。 食べさせる。食事の介助から最後は後片付けをして、 次のヘルパーさんにバトンを渡しました。 
(80. )

 そして、午前9:40分過ぎ。 別のヘルパーさんに、バトンタッチです。 若い高校生のような人です。 昨日の人もさっきの人も、今日の人も綺麗なヘルパーさん達に、お手伝いして貰えるなら。

【俺も独り暮らしをして綺麗な人に、介助して貰う方が良いかも、】  と言うと、

【アホ一と一言。言われて、このスケベ。 あんたは、何を考えてんだ。 男の障害者には、男のヘルパーさんが介助する。どうしても、男のヘルパーさんが行けない時は、仕方ないから。女性が行くけど、 怖い、おばさんが行くよ。 アンタのおかさんのような人が行くから。 可愛がってもらえるかも、身の回りの世話をするから。 同姓介助が基本だけど、 ワガママであの人は、嫌いだから。イヤだとかダメだとか、ヘルパーさんがなにか失敗をしたり、 利用者から直接事業所に苦情があったり、断わられたりとか、それは、対処するだろうけど、 アンタの様なスケベな気持ちや不純な動機は、認められないんです。    残念でした。】
(81. )

 【私は、炊事・洗濯・掃除・それに朝・晩の着替えの介護を頼めたら。なんとか生きて行けるよ。 介助の算定は、身体介護でなければダメなのかナー。 その人の介護の度合いで算定するから。 ダメなのかナー。】

【森下君の性格・障害の程度で自立生活をしないのは、おかしい、変だ。何故。アンタは独り暮らしをしないんだ。】 

   と問い詰められました。

【私は、Hさんよりも重度で1級1種と判定されてるけど、自分で工夫したり考え方・やり方を変えたら。重度でも旅が出来るし、楽しく生きる事が出来ました。工夫ですよ。固定観念にとらわれずに自分の出来る事から。メンツは、捨てる。?私のモットーは、やり方は、どうであれ時間かけても変でも普通の人に近づける事。1、手が仕えないから。(口で食べる。)2、歩けないから。(車椅子。)3、電話・エレベーターのボタン・自動販売機・パソコンのキーボードは、鼻で押す。)4、キャシュコーナーでお金を引き出す時は、割り箸か鉛筆・ボールペンを口に(82. )

 咥えて、手の代わり。(時間のかかる事やどうしても自分で出来ない事は、周りの人を頼み。)お手伝いしてもらう。 私、本当に重度で何も出来ないよ。 1年に1度。友達や知り合いを訪ねたり、メールで近況報告したり、愚痴や文句を言ったり、 自立生活をしている人を訪ねてみるのですが、皆。生活に追われて、 始めに想像していた生活の15%か20%ぐらいの満足度で暮らしている。   自立している人の75・80%以上は、始めに考えていた自分の生活が出来てないのが現実です。  
 施設で生活してる人は、衣・食・住は心配ない、自分で出来ない事は頼める。掃除・洗濯の心配・入浴の心配もしなくて澄む。 施設がイヤになれば気分転換に旅行する。 疲れて帰って来ても安心して介助を受けられる。 助けてもらえる。 障害の軽・重は、ありますが、 私は放任主義で自分の思いどうりに生活させて頂いています。  この年で今更。独り暮らしをしようとは思いません。 年か経てば、現在独り暮らしをしている人達も施設か病院にいると思うと?、 生きてるうちに、自分の思いどうりに生きられたら。  私は、満足です。】
(83. )

【森下君は、障害が軽度だし、自分で考えられるのに、何故。そんなに消極的な考え方しか出来ないのかナー。 どんなに重度の人でもヘルパーさんや周りの人に助けてもらいながら。一生懸命生きている。アンタは、なんとか自分の事が出来て、自分の考えもある人が、自立・独り暮らしをしないのはズルイ。重度で不自由な人も苦労して外で生きて行こうと努力して生活してるのに、自分だけ楽に生きて行こうなんて、ズルイよ。】

【どう思われようと私は、自立とか、独り暮らしとかじゃーなくて、自分の人生を自分らしく生きて行きたい、唯、それだけなんです。ズルくても、人にどう言われてもいいよ。 私の目標は、独り暮らしでも自立でもないんだ。『自分が稼いだお金で生活する事。生きる事なんだ。』           (100%夢だけど、目標なんだ。) 
 今年。某社の体験作文コンテストに、3年前東北に震災の慰問で旅した時の文書を3年かけて原稿に纏めて投稿したら。佳作に選ばれて、賞金をもらった。 自分の生きた証を活字に出来る。自分の思いが原稿に出来る。    それは、最高です。
(84. )

 それがスゴク嬉しかったし、自信がついた。自分が体験した事を活字に出来たり、発表出来ると言うのは嬉しい事ですよ。
(初めての自分で稼いだ最初のお金です。
貯金したけど。 次回旅の旅費にします。)これは私の夢ですが、自分で稼いだお金で生活する。 それが私の目標で夢なんだ。】

【そうか、森下君もチャラ・チャラして何も考えてないと思っていたけど、自分の事を考えているんだね。 いつもポケーとしてるけど、 考えいるんだ。アンタは、偉い。】

と言われて、喜んで良いのか、悲しんで良いのか、分かりません???。     

【私は、『旅行しか出来ない、車椅子の変なおじさんですが、』現在。日本の未来を考えていますよ。 どうすれば、みんなが幸せになれるのかを??? 真 剣 に 、 】

【大袈裟にアンタは、どこの総理大臣だ。】

 昨日もでしたが、ヘルパーさんが、Hさんと買い物に行き、Hさんの指図通り材料を(85. )

 買い求めて、調理をして・味付けも指示通りに、 料理が出来上がりました。今度は、Hさんを介助して食べさせて、 お客さんの私によそってくれて、食べて汚れた食器を洗い。 片付けて、時間が来れば、じゃー叉、明日と 次の派遣場所へ行かれました。 そして叉、Hさんの家には、次のヘルパーさんがバトンを受けて、睡眠の準備パジャマへの着替え・トイレ・洗面・お布団を敷いて寝る準備をする。就寝するまで大変です。 3月までは、旦那さんがいたので、ヘルパーさんも1日。数時間だったようですが、今は自分の事がなにも出来ないので現在は、12時間以上です。 午前0時には、別の(睡眠見守りヘルパーさん)が来られました。(こちらでは、2年ぐらい前から。自立生活している。重度障害者の人が睡眠中にお布団をカブリ、お布団を退かす事が出来ずに呼吸困難で亡くなった。ケースが増えているそうで、睡眠見守りヘルパー制度が施行されました。) 私が、夜。トイレに行くとドアが3分の1空いていたので除くと、眠っている。奥(H)さんの顔を覗き込んでいる人が居るので、ビックリしました。 

(86. )

 重度の障害者が、1人暮らしをする。 大変な事だと改めて感じました。 そんな事もあり、 いろ・いろ考えさせられました。
様々な暮らしがありますが、 みんな障害の軽・重。関係なく、一生懸命自分の人生を自分達で創作して、  国の制度やヘルパーさん達の力も借りて自分達の思い通りに生きています。 大変だけど、頼もしいです。

【私は、こんな事をしていて良いのか、私、よりも重度の人が、寝守りヘルパーまで利用して、 Kさんは、体が基本だと言って、オリーブオイルと紅茶の茶葉を毎日飲んで、夕食は食べずに健康維持に努めています。デイの入浴サービスで普通に食事を食べますが、行かない日のお昼は、インスタントのごはんに冷凍の餃子・かにクリーム・コロッケを食べていました。       叉、ある人は、ごはん代を1食。500円に切り詰めないと、年金では、自立生活なんか出来ないんだ。と言い、 一日2食に食事を切り詰めて食べる物も食べずに仕事をしている。介護費等は、始末出来ないから。食べる物を始末するんだ。 といいながら生活していました。
(87. )

 老いが身近に近づいて、電動車椅子の運転も怖いから外には出ないと自分に言い聞かせて、施設の中だけで生活している人。みんな自分におかれた運命と極限の世界で生きていました。  その人達は、みんな私より重度で不自由な人ばかりです。
 それに比べて、私は、毎日自由に食べたい物を食べて、行きたい場所に旅して、自由に生きている。なんだか、スゴク悪い気持ちになりました。 自暴自棄に陥り、この文を書きながら悩んでいます。
 らしくも無く。気が弱い私は、(いろ・いろと考えて悩みます。)これが本当の私です。
こんな事していて良いんだろうか、私よりも障害が思い重度の人達が不自由な身体を駆使してヘルパーさんの力を借りてですが、命をかけて生きている。私は、これで良いのだろうかと、思い悩み落ち込み。原稿が書けません。思い出して、悩みました。

【森下さんは、今のままで良い。自立するとか・独り暮らしをしようとかは、考えなくて良い、似合わないよ。 それに森下さんらしくない、 不自由で旅行も出来ない人達に、車椅子で旅する楽しさや苦しさ、   (88. )

 人との触れ合いや外の世界を知らない人達に旅の話しを教えて上げられる。それも立派な事だよ。 車椅子で独り旅が出来ると言う事は、自立する事よりも独り暮らしをする事よりも大変な事だと思うよ。
 僕達、独り暮らしが出来ても、独りで旅なんか出来ない、だから。あなたは、僕らが出来ない、 健康な人でもまして重度の障害がある人には絶対出来ない、難しい事を実践しているんだから悩む方がおかしいよ。もっと自信を持ち。 胸を張って自分の人生を生きたらいいと、僕はそう思う。】

と教えられ、単純な私は、納得した筈なのに半年が過ぎた今でも悩んでいます。

 《 施 設 で 働 く 職 員 さ ん も 》

 毎日。私が見ている施設で働く職員さんも大変な仕事だ。 と改めて知ると共に、 ヘルパーさんの仕事の大変さを垣間見た気がしました。 訪問ヘルパーの仕事は、派遣で1日に、派遣された場所に1時間から2時間の仕事で、1日に、3カ所か4カ所を掛け持ちするのは、当たり前だそうです。(89. )

(利用者との人間関係も大変みたいです。)
自立している人の食事。(私にすれば、 ヒッソナ食事でした。 自立をして独り暮らしをしている人達は、介護してもらわないと、何も出来ない、 老人の人は、自分で出来るから。危険なのです。)と聞きましたが、意味を考えてみて下さい。  
 食べる物を始末して、不自由な身体で自分で出来ていた事も出来なくなり、ヘルパーさんを頼み。機能が落ちる。特に障害のある人は、近い将来。今まで出来ている事が必ず出来なくなると思います。

 『 勉 強 に な り ま し た 。 』 

  一つ書いておきます。 介護度でへルパー派遣の時間が決まるのです。 私達障害者は、季節や気温・その日の状態・気分で自分で出来ることも出来ない事があります。『今まで出来なかった事が出来るようになれば、出来るとみなされ。介護報酬の時間を減らされてしまう。(変な話です。)自分で出来るなら。ヘルパーさんは、必要ないと介護報酬の時間を削られます。《これは、おかしいと思いませんか、
(90. )
 自分でやろうとする人などいませんよ。》自分でやれば介護度を削られますから。  例え。自分で出来ても出来ない事にしないと介護報酬の時間を貰えないそうです。
『今の算定は、変えない、』とこんな規則だから。出切る事でも出来ないと言って報酬時間をもらう。 障害者のやる気もなくなり、自分でやろうと言う気持ちもなくなるのだと言いたいです。』 現在日本は、介護を受ける人が増えて福祉は、パンク寸前です。何とかしなければ、私には、難しい事は分かりませんが、みんなで良い方法を見つけなければ、これからの若者は、大変だ。と人ごと見たいに言いますが、私が心配しなくても良いですね。  AM:10:00過ぎ。写真のMさんと奥さんのHさん。そしてカワイイヘルパーさんに別れを告げてタクシーで神戸駅に向かいます。 (叉、必ず来ますと、心の中で呟く、)帰りは、夕方の6時過ぎの列車です。『こうのとり』時間は、まだ沢山あります。 予定を考えます。1、買い物をして、 2、お昼の食事を食べて、 3、夕食にお弁当を買って帰ろうと思っています。 神戸駅ステーションデパート内のお店を車椅子で走り周ります。周りの人。すれ違う人は、不思議そうに見ています。 (91. )

 すると、中で買い物をしていた。おばさんが、突然。話しかけて来ました。

【伺いますが、お兄さん両手に荷物を抱えているようですし、 電動車椅子ではない。見ると手動の車椅子だと思うのですが、 どうして動かして進んでいるのですか?、】

 と聞いて来ました。 

【足は、歩けませんので、座ったまま足で踏ん張り車椅子を動かして進みます。】 

【車椅子は、腕で漕がないと動かせない、と思っていました。見ると電動車椅子でもないし、 不思議に思い、 お尋ねしました。】

【歩く事が出来ませんけど。私は、足が動きますから。 足を踏んばって進みます。】

【車椅子は手で漕がないと動かないと、 腕が不自由な人でも利用する事が出来る のですね。 本当に大発見だわ。】


(92. )

 【手・足の不自由な人でも電動の車椅子をアゴで(操作して、)運転をして自由に、外に出て何処でも行ける人もいます。】

【実は、主人が4年前に交通事故で両手・両足切断と言う事故に会いました。2年間訓練して、私が手伝いをして趣味で写真を撮ったり、口に筆を咥えて(下手ですが、)絵画を書いているのです。私と車で写対や絵材を探しに行くのですが、私に、用事がある時は、行けません。自分の行きたい時。好きな時に。自分で車椅子を運転して好きな場所で好きな時に、見た風景を描いたり、好きな画像を心にしまって帰って画用紙に複写出来れば、自分の自信にもなり、誰にも遠慮しないで絵が描けて、写真が撮れると思うのです。例え腕が動かせなくても車椅子を操縦する事が出来ればと思います。】 で

あなたに、お話しが聞けたらと思います。

【詳しくは分かりませんが、福祉事務所に相談して見て下さい。 車椅子の業者と相談して申請してみて下さい。今は、本人のやる気があればなんでも出来ますから。】 (93. )

【主人に、会って頂けませんか、と車椅子を押して連れて行かれた。場所は、駅から。500メートルほど離れた住宅街でした。】

 某。百貨店の横の細い道を入ると閑静な住宅が建ち並びそこを進んで行くと、白いレンガに青い瓦が鮮やかに生える。 スロープの付いた。1件の洒落た家が見えて来ました。

【ただいまー。お父さんお客様をお連れしました。】

 と言うと50過ぎの(岩城滉一似)の中年の男性がスノーボード擬(もどき)きの乗り物に乗り、出迎えてくれました。

 遠慮なしに、家に上がり、書斎の部屋に案内されるとスゴイ部屋で中を見てビックリ。周りの壁には、自分で描いたらしい風景画や写真や似顔絵・書。が掛けられて小さな美術館のようでした。

【初めまして私、M、Kと申します。4年前に交通事故で頸(けい)椎(つい)と右手が不自由で左肘か(94. )

 ら切断。両足ヒザから下を無くすと言う事故にあいまして、 1年2ヶ月の入院と2年間のリハビリを終えて、家も改造してヘルパーさんにお世話になりながら。 現在は、妻と2人で楽しく毎日を送っています。 と言うより心配や苦労をかけて暮らしています。】

【羨ましいです。優しい奥さんがいて、こんな立派なお家に住み。ステキな趣味を持って生活してらっしゃる。羨ましいです。】

 奥さんが紹介してくれます。

【森下さんは、車椅子を足で漕いで各地を旅をしておられます。私が、お会いした時に両手に荷物を抱えていらっしゃるのに、
 車椅子が動いていたのでどうして進むのかなーと不思議に思い、声かけて、お連れしました。 お父さんが先日話していた。 1人りで、ブラーと絵の画材を探しに電動車椅子で散策が出来ればと話していたので、何か良いアイデアがあれば教えて欲しいと思い、お父さんに、アドバイスが聞けたら。と思いお連れしました。】 
(95. )

【私は、両手が不自由で動かせませんから。腕では、漕げません。 1、足で踏ん張り車椅子を漕いで進みます。2、ステップが(足を置く場所)がありません。足を踏んばり進むので、ステップがあると、邪魔ですから。3、ブレーキは、両サイドの低い場所に付けています。(足で踏んでブレーキをかけます。) 4、車椅子は軽く・最低限に小さく・両方のタイヤは、小さく(20インチ中心のボタンを押せば、)簡単に車輪が外せます。タイヤを付けたままタタンで車のトランクへ。叉、両輪を外せば車の前座席と後ろ座席の間に収納が出来ます。 列車でも折りたたんで座席の間に乗せます。 施設で生活していますが、 普段。施設で外に散歩や買い物・散策・チョットした。用事など電動セにアカーで、 1人旅や外出する時は、手動の車椅子を利用する。 散歩や趣味の写真撮影の時は、 電動の車椅子にカメラを付けて撮影します。 6時間充電すれば、かなり遠くへ行けますよ。
 市役所の健康福祉課に相談して、車椅子を選び。自分の操縦しやすい場所(身体の動く個所?)で動かす。 例えば、アゴでも足でも手首・肘でもその人の身体が動かせる。
(96. )

 個所を使い自分で工夫して、運転出来るよう考えて、 使う本人と相談して一緒に考えてくれますよ。障害者の基本は、動かせる機能は総て使う事です。普通の人と同じ事が出来ないので、自分で考え方。やり方を変えて健康な人が出来る事に、近づける事です。 誰でも出来ます。 自分に自信も付きます。    ガンバッテ下さい。 】

【今日は、帰りますが、叉。車椅子が出来たら使用している様子を見にお邪魔します。】

と、名刺交換をして駅に向かいます。  横断歩道で信号が(青なので、)車椅子で横断歩道渡っていると、叉。肩にかけていた。ショルダーバッグを落として、カバンのフタが開いてカメラ・携帯・財布・メモ帳・その他を落としてしまいました。 立ち止まり。拾おうとするのですが、なかなか拾う事が出来ません。雨が降り始めました。 ズブ濡れになりますが、拾う事が出来ません。焦ると、汗が出て来たり、慌てたり、靴も脱げました。雨の中頭から濡れています。仕方ないから。 どうにでもなれと濡れています。      すると、     (97. )

 月光仮面かスーパーマンか、(子供?イヤ少年です。)それも中学生ぐらいの可愛い男の子です。 カバンを拾い。どしゃ降りの中車椅子を押して近くの屋根のある場所まで連れて行ってくれました。

【おっちゃん濡れたね。1人で行こうとしないでで誰かに声をかけなきゃ。】

【有難う。ゴメン。誰も居なかったし、渡れると思ったんだ。 突然のどしゃ降りで慌てたんだよ。助かった。 本当に有難う。】

【気を付けなよ。おっちゃん。これから。何処へ行くのさ、】

【神戸駅まで行き。夕方の列車に乗ります。】

【駅まで送ってあげると、車椅子を押して神戸駅まで付いて来てくれました。】

【まだ・まだ時間があるから。近くで食事をしますけど、お礼に何か食べませんか、車椅子が入れる。 ハンバーガーショップまで連れて行ってくれました。】
(98. )

 そして一緒に、入った店は、学校帰りの学生や仕事帰りの人達でにぎあう今。人気のフード喫茶でして、

【ここ割と美味いと評判の店なんだ。と教えてくれて、 エビ・バ-ガーとコーラーを注文しました。やっぱり若者と学生さんが多いですね。】   と言うと

【今日は、日曜日なので、多いのかなー。】

と言いながら。私に食べさせてくれました。

【でも、おっちゃんスゴいなあ。自分で食べる事も出来ないのに車椅子で旅行するなんて、立派だよ。僕が不自由だったら。外に出ないで、家に閉じこもって暮らすと思う。】

【おじさんも若い頃は、悩んで・苦しんで文句ばかり言ってたけど。障害は、自分に与えられた。試練だと割り切ったけど、辛い事もあるし・悔しいよ。 何故俺がと悩んだ。】

ある日。祖母に、言われたんだ。

(99. )

【『お前の障害は、神様が与えたのだ。 この子なら。どんなに重い試練(障害)を与えても負けないで生きて行ける。』と神様は、選んだ。お前は、神様に選ばれた。子なんだ。】

【俺を選ばなくても?他の人を選べば良いのに、と神様を恨んだ事もあります。車椅子で旅をして、みんなに助けられて、(外に出て、困った時など。)知らない人が助けてくれたり、お手伝いしてくれ、 旅行から帰り。 お礼のハガキを出すと返事が来て、
《面倒を見て上げるから。》叉、遊びに来なさい。と手紙が来て、文通して友達になれるのです。車椅子で独り旅して毎日楽しく生きてるよ。】

【ふーん。スゴいなーぁ、おっちゃん。僕が障害者の人達をお手伝いしたいと思った切っ掛けは、子供の頃。ばあちゃんとデパートに買い物に行った時。(車椅子に乗った。おじさんが、ポロシャツを見せて欲しいと頼んでいるのに、店員さんが無視して結局そのおじさんは、なにも買わないで寂しそうな顔して帰ったんだ。)その事が僕の脳裏から離れない、 僕が助けて上げられないか(100. )

 と、ボランティアをしてるけど。障害者の人って身体が不自由な分だけ優しいと思うし、人の気持ちが分かるスゴいよ。素直になれる。気持ちが良い。自分に満足出来る。だから。自分の為に助けてあげている。】

【私は嬉しくなり、こんな少年が、同じ思いの若い人も沢山いるんだ。障害者自身が外に出て一生懸命に生きる姿を見せなければと思い、 なんだか嬉しくなりました。】

重度の障害者で私のように両手が仕えない、歩けない、 車椅子ですが日本各地に旅をする。 五体満足で歩ける。その気になれば、何処でも行ける。自分で好きな事が出来る。 私の旅は、人に迷惑かけるだけの旅行です。 人に、お世話にるだけの自己中な旅行ですが、 健康な普通の人より思い出や旅をした重さは、 私の方が障害が重度(重い)分だけ触れ合いが沢山出来たと思います。  (想い出の旅です。)   唯、  自己満足だけの旅ですが、

『 私 の 今 の 気 持 ち は、 』

(101.)

 人は、いろんな人がいる。 考えや思い。感じ方や考え方も様々で不思議です。   20数年前になりますが、 介護福祉専門学校に、車椅子で独り旅した話しを講演に行きました。 その時。事前に、生徒さん達に、《あなたが、この介護専門学校に進学した。動機・切っ掛けは、何ですか、》と事前に問いかけのアンケート採りました。  28人いた生徒さんの72%は、人を助ける。人の役にたつ仕事がしたい、(家族・知り合いに介護が必要な者がいる。)だから役にたちたいと思い、選びました。などが、ほとんどでした。 他にやる事ないし、 この仕事カッコいいから。16%  町で障害者の人やお年寄りの人のお手伝いをしたら。(ありがとう。)と言われた。 その日1日が、気持ち良かった。8%です。 中に1枚の気になるアンケート用紙が目に止まりました。それは、21才の女の子で3年前の事。 グレて不良でスケバン暴走族でリーダ的な存在の彼女は、 ある集会に参加しての帰り、 オートバイに2人乗りをしての帰りに、雨で滑りバイクが転倒2人共歩道に投げ出されて、(3日間意識不明の重体で気づいたら。 一緒に便乗していた妹分の女の子(102. )

 は即死しました。 自分は、生きていましたが、自分は助かりましたが、3ヶ月の入院で自暴自棄になり、何度か自殺未遂を繰り返したり、試みましたが失敗して死ねませんでした。 悩んで・悩んで死ぬ事を何度も繰り返しましたが、死ぬ事は出来ず。
 ある日。悩んでいる私の夢に便乗して即死した妹分の亡くなった女の子が夢枕に出て来て、こう言いました。

【私が死んで、姉貴が生かされたと言う事は、この世で何かをしなさい。と誰か人の為に奉仕しろ。生きろと言う事なんだ。 誰かの為に。人の為に生きる。それが姉貴に与えられた。 本気の命。  本気の人生。】

これからが私の人生です。本気の人生です。そんな訳で介護の道を選びましたと言う。アンケート用紙が、そしてもう。 1枚の用紙には、その人は、介護の専門学校に通っていましたが、卒業すると、不自由な人が便利に仕える。(自助具)障害を持った人が動かせない腕や手・足を応援する自助具を開発して応援するんだと、『僕の夢は、不自由な人に、その人が必要な自助具を考え、
(103. )

 作ってあげる事なんだ。』と、お年寄りや不自由な人・困っている人を助けるのは、 お世話する事だけではないと思います。
不自由な人が不便な所や障害を気にせずに暮らす事なんだと言って微笑んでいました
 ある人は、阪神大震災で家族5人と家を亡くして、自分だけ瓦礫の中から。地震が発生してから。2日後に助け出されて、(なぜ。自分だけが、)と悩んでグレた時期もあったようですが、 現在。結婚して家族と言う。(宝物)を掴み。 現在は、ヘルパー派遣会社で幸せに働いています。
 以上のように、《生きる。》って辛くて悲しくて苦しい事だけど。 生きて行くって、今を生きられるって、障害者でも健常者でも老人でも子供でも男でも女でも動物でも庭に咲いてる沈丁花だって幸せなんだ。 と私は、思いました。
 25年以上も前の事ですが、こんな出来事がありましたので、思い出して書きます。私。障害者施設で生活していますが、5月のある日。電動三輪車(セニアカー、)で散歩していました。すると、前から。親子連れと出会い、挨拶をしました。3才ぐらいの男子が、私が乗っている電動三輪車を見て
(104. ) 

【ああーっ、  スパ-カーだ。カッコいいなーと、】   と近づいて来ました。

 【おじさん。この車、 どうして走るの、】

と聞いて来ました。 

【電気でモーターを充電して走るんだよ。】

それを見ていた母親が、子供の手を引っ張るように、無理矢理に、

【近づくんじゃないよ。障害者の人。  病気が移るよ。 汚いよ。 その人バチが当たってるから。 歩けないんだよ。】

と子供の手を引っ張るように、連れて行きました。 私は、ワザと周りに聞こえるように。大きな声で

【アンタの考え方や根性の方が汚いよ。 アンタこそバチが当たるよ。そんな親を持った。 子供が可哀想だ。】

と叫びました。すると、決まり悪そうな顔(105. ) 

 をして自転車を漕いで逃げるように帰って行きました。
数日が過ぎて、今日も電動車椅子で散歩の途中で、 先日の男の子が1人で駅の前で縄跳びをして遊んでいました。

【こんにちわ。 1人遊んでいるのかい、 と声をかけると、】

【僕、1人なんだ。 友達は、みんな塾に  行ってる。だから。僕1人遊んでるんだよ。】

すると、急にその子供が聞いて来ました。。

【おじさんは、汚いの?、バチが当たったから。歩けないの?、 本当の事を教えてよ。】

【おじさんは、3日に1度だけど、お風呂に入る。清拭もしている。。悪い事しない人には、バチなんか当たらないよ。お母さんが言う事は、嘘だよ。 おじさんの病気は、お母さんのお腹の中で、 まだ。生まれる準備が出来ていないのに、(8ヶ月で早産。)生まれたから。歩く準備も手を動かす準備も出来ていないのに、早く生まれたんだ。だから。(106. )

歩けない、手が動かせないんだよ。上手に話せないんだよ。おじさんバチなんか当たっていないよ。悪い事しない、嘘もつかない】

【あのね。僕のパパも汚い、油で服もズボンも顔も手も汚れているんだ。ご飯を食べる時も汚れた服着て、お部屋に上がり、汚い手でご飯を食べるから。いつもママに叱られるんだ。可哀想なんだよ。 でも、パパ僕とキャッチボールするんだ。お散歩も魚釣りにも行く、パパは、スゴいんだ。大好きなんだ。お休みの日は、僕といつも一緒だよ。キックボールするよ。 優しいよ。】

【お仕事して油が付いて汚れているんだよ。お父さんは、一生懸命働いて、お仕事して汚れているんだ。  お父さんに有難うって感謝しないとダメだなー。】

【おばあちゃんが、教えてくれた。パパは、お仕事をして汚れているんだって、翼やママやおばあちゃん。車の病気やケガした場所を治してあげる為に仕事して汚れてるの
、 人を幸せにする人は、みんな身体も顔も服も汚れているんだって、
(107. )

 身体が不自由な人や目の見えない人。お年寄りの人達。車椅子の人。働く人達は、僕達。みんなを幸せにする為に、みんな汚れているんだよ。】

 それを聞いて私は、嬉しくなりました。感動さえ覚えました。

《 彼 は、 立 派 な 教 育 者 で す 。》

 丁.Y君。現在、彼は、28才で小学校の先生になり。福祉教育を子供達と共に考えて模索して七倒八転を繰り返して教える事。生きる事を実践しています。


 夕方の6:40分大阪発ーー鳥取行きの急行(はまかぜ)に乗る為。播但線のホームに行き。 列車に乗せてもらい、7日ぶりに和田山に帰ります。   
 今回の1人旅は、園を出発してから。 (一週間の旅でした。)自立生活を実戦して生活する。独り・独り考えも障害が違う特殊な生き方。(個性と言うんでしょうか、)障害者と言う人達の生き様。
(108.)

 生きる姿に遭遇して、訪ねて、触れて、私なりに感じた事・気づかされた事は、園を出て自由な生活を夢見て1人暮らしを始めた筈なのに。そこには、障害者が生きて行くと言う厳しい現実がありました。 
 それでも生きる為に、必死で頑張っていました。 旅も終わり、和田山が近づき、安心したのか、疲れたのか、列車の座席で眠っていました。  誰かの声が、、、、、、、。
森下さん・森下さん。久しぶり、お元気と言う声に、眼を覚ますと、
 昔、 何処かで見た事ある人なのですが、思い出そうとするのですが、名前が出て来ません。(年?ど忘れです。)

【時間が、かかりましたけど、思い出しました。 開園当時の職員さんで、Yさんです。お久しぶりです。お元気ですか、】

 【叉、 何処へ。 行ってたん1人で、】

【6日前から。神戸に、行ってた。 Hちゃんの主人が急に亡くなり。お参りして、K君が昨年の暮れに、神戸で自立を始めたので、 様子を見に???。
(109. )

 そして毎年お世話になっている。「某、療護園」のHさんに会って。これまで20年以上毎年お世話になりました。ありがとう。とお礼を言って、三ノ宮で自立している。友達を久しぶりに訪ねて、 H園長の(奥)A子さんに連絡していたので、 久しぶりにお目にかかり、一緒に宿泊してもらい、 お手伝いをしてもらったよ。】

【私が、働いていた時は、(園長は、)Sさんに代わっていたけど。 前園長の奥さんとは、(少しだけ)一緒に仕事した。 深夜勤務も共にした。 A子さん懐かしい(お元気、)園長の奥さんらしく無く気さくで優しい人だった。  本当に懐かしい。】

【A子さんに。 森下君は、 もったいなくもボランティアを頼み。 共に宿泊してもらうなんてアンタらしい、 他の人には、 出来ないよ。森下君だから。出来るんだよ。そして、K君とHちゃんは、ご主人が亡くなったんだね。まだ。若いのに可哀想に、、、で元気だった。   心配してるんだけど。】

【Kさんは、相変わらずで、 健康の為だと(110. )

 毎晩。夕食も食べないで、  毎朝。紅茶のパックの茶葉とオリーブオイルを飲んでいたよ。】  健康に勤めている。

【Hさんは、1食500円に納めないと、自立生活は、難しいんだと、始末出来る事は、始末するんだと言って食べる事を始末していました。】
 (食べる物しか始末出来ない、)と、、、、。

 私から言えば、自分の食べたい物やしたい事をガマンして何が自立だと思いますが、、、。 私は、そう思いますが、
 これも彼や、彼女夫妻が選んだ道だから。自分のやりたい事を例え0.5%でも出来て、自分が満足出来ればいいのかナー、 と思いました。 でも、私の気持は、なぜか複雑です。(完璧を求め過ぎるのでしょうか、)
 ある人は、言いました。   それぞれ自分達で選んだ。 自分の人生なんだ。と

【私達にも、いろんな生き方がある。大学を卒業して同期で同じ職場に配属されて、同じ福祉の仕事を目指して、共に目標を持って働いて来た同僚の彼女も家庭の事情・(111. )

 結婚・出産・子育て・夫の転勤・その他。 いろんな事情で、みんな違う場所で働いている。でも、みんな出会うと、始めに目指した。 福祉関係の仕事に就いています。 
話をすると話題は、園での事ばかり。真生園は、私達の原点なんだから。 いつも見ているよ。】 

 話していると。和田山駅に着きました。 

【叉、みんなに会いに行くわ。 丁ちゃんGちゃんに宜しく。 お邪魔したいけど。職員さんに、《この人。仕事中に邪魔しに来た。》と思われる。私も勤めていた頃は、利用者に会いに来ていた人に、いつも来られると、 この人なにしてる人。暇な人なんだなーと思ってたから。 職員にそう。思われたらイヤだもの、】

【そんな事。言わずにみんなの顔を見に来て下さいよ。 近頃は、実習生もボランティアさんも来なくなり、電動車椅子で散歩できる人も私とKさんの2人ぐらいだから。 外部との交流が殆どない、 寂しいよ。近年は、海外ボランティアも365のVも来ない、 丁君もKさんもYさんも居なくなり、元気な人。個性のある人が
(112. )

 居ない寂しいーよ。  何も刺激がないよ。 療護施設は、今。死んでいる。】

【私が、勤めていた頃は、毎日学生さんや見学の人・社協・老人会・その他。大勢の人や外人さんまで毎日来ていたのに、、。 古き良き時代?】

【そう。外人さんもアティー・ト-マス・カーラー・ジョバンナ?365Vも毎年若い子が来ていて、楽しかった。あの頃は、最高だった。】

【外人のボランティアさんも、半年ごとに来られてた。 青年海外奉仕協力隊からも外人の青年が1人づつ。 国際青年協力隊からも365Vが毎年代わる・代わるに来られて、 楽しかったナー。 30年前の真生園は、。】

【利用者も職員も若かったから。仕事が終わると裏の広場で、会費制でお金を集めて(課長・園長まで参加して、)主には、独身の人だけど。
 ジャンケンで買い出し係りを決めて、負けた人が材料を買い出し、ビール・ お酒を飲み。翌日早出勤務の人は、単身寮に雑魚寝した事もあった。 でも、若かったから。 シンドイなんて感じない、とにかく楽しかった事を覚えてる。】 (113. ) 

【昔は、僕達も職員さんも若いから。仕事が終わってからが、本番だった。早出の勤務を終えた職員さんにボランティアを頼み。】

 和田山のカラオケ101にもよく行った。 森下君とHちゃん・Y君が個人外出が1番多い、職員も人気のある人は、外出に付き添えるけど、人気のない人は、利用者から声がかからない、不公平だと言う事で、 年に、利用者何日。職員何日と、確か規則が出来たのを覚えてる。利用者だって偶に、外出するんだから。気の合う職員・面白い・若い人と出かけたい、そして、私達も若いんだもの美男美女の職員を選ぶ。(私も男だから。)頼むなら。YさんかSさんで寮母さんなら。KさんかAさんYちゃんと拘りがあった。  現在は、時代も変わり、園長も代わり、利用者も年を採り重度になり、誰も個人外出なんか出来ないから自然消滅。職員さんも利用者の介護に、今までの2倍いや4倍も費やして勤務がハードで時間になれば疲れて直ぐに帰宅する。もう一つは、残業禁止。職員ボランティアも中止。(園長が反対だから。)今の職員は、職員ボランティアがあった事も知らないと思います。 だから。私は、1人で旅行するんだ。単独でも旅が出来るように努力しました。】   (114. )

【仕方ない、 時代も考え方も変わったんだから。昔の事は良い思い出として頑張らないと、
今を生きているのだから。 お互い頑張ろう。じゃー叉、会う日まで?森下君は、昔から。頑張りすぎ、他の人達にも頑張れと伝えて、】

 列車の中で、久しぶりに。お会いしたのは、Mさんと言う最初の寮母さんです。開園当初から20数年間努め退職されて、今日が十数年ぶりの再会でした。(お年を召されました。)私も年を採る筈です。お元気でと握手して別れました。
 PM18:35分。無事。 和田山駅に着き、そこからタクシーで園に帰りますが、途中で車を止めて、 腹ぺこですが、帰園しても夕食を欠食しているので、途中でお弁当を買い求めて、久しぶり6日ぶりに帰って来ました。
 園に、着いたのは、 夜の9時過ぎでした。 『ああ疲れた。・お腹が空いたと買って来た。』駅弁を新館の食堂で 即、平らげました。  余は、満足じゃ?!

『想いが強ければ、気持ちは伝わる。』



(115. )

 私。事ですが、 今年3月の30日より、介助の都合で男子寮より、新館に私を含めて、4人の男子利用者が移動になりました。(部屋は、少し広めで、明るく、静かですが、)
 会話が出来ない、言葉が出せない、寝たきりで自分で移動が出来ない利用者が殆どです。   移動が自分で出来る人。言葉の話せる利用者は入り口のドアを締めて出て来られませんので寂しい新館です。
 新館には、立ち便器が無いので、 私は、毎日・毎晩。食事とトイレ。その他で800メートル程の距離を昼間。8往復から10往復。
 夜は、2往復しています。 ローカの途中に、夜勤勤務をする職員さんに、グチをこぼす事が増えました。 
 そのお陰か少しですが言葉が軽く話せるようになりました。(私の自己満足でしようか、)


 《 容(よう) 姿(し) 端(たん) 麗(れい) 明(めい) 朗(ろう) 活(かつ) 発(はつ) 》

『私の自己中心的な想いを書きます。』

初めて紙面に書きます。(4ヶ月悩みました。)私。63才になりましたが、『恋したようです。』
(恥ずかしい、と言ったら。相手に悪いですね。  いい年して、還暦を過ぎた。 ジジイーが恥ずかしい、年は関係ない見たい。)悩んだ末に書きます。

 『すずらんのような人』 花 言 葉 は、

 1、愛らしく。2、心の美しさ。3、純愛。4、素朴で輝いている。5、すべてが完璧で愛らしい。6、顔見ると心がときめく。 以上の言葉が本当に、よく似合う人なのです。(誉めすぎなのかナー、惚れた弱みか、)私にすれば、それほど魅力のある人。   地味なんだけど輝いている。
 あなたは、素敵。 私の性格ですから。 悪い事は、悪い、  ダメな事は、ダメだ。と言いますが、  何処を探しても悪い所もダメな所も見つかりません。 総てに完璧な人なんです。
用事を頼んで忘れても、失敗しても、 (ゴメンなさいと言われる。) と笑って許せるのです。 
いつも気になるのです。 あなたの存在。  あなたの事が、、、。 良い年をして、 なにを考えてんだ。 お前とは、次元が違う。ダメな事は、分かっています。 笑顔を見ると、ときめくのです。
自分が障害者だと言う事も還暦を過ぎたジジイだと言う事も忘れてしまっているのです。
 4ヶ月も悩み。苦しんで、疲れ果てました。辛くて苦しくて毎晩泣きました。  (25年ぶりです。こんな気持ちは、)
(117. 

 気持ちがモヤモヤして、心の中に灰色の霧が広がり、酸素が無くなり、呼吸困難で、毎日。胸が苦しくて大変です。
 苦しいけど、哀しいけど、昔の自分を振り返り、現在、自己満足しています。(好きな人がいる。) 顔が見られて、話が出来たり、会える事で、嬉しく楽しいですけど、切っなくて、 苦しい毎日です。
 仕事に来ている。 顔が見られると元気になれる。声聞くと気持ちが明るくなる。 声かけられると、一日が楽しく嬉しい、変です。おかしいです。
 恥も外聞もなくなる程。 あなたが好きなんです。 あなたと言葉を交わすだけで私は、元気になれる。顔見ると嬉しい本当に幸せな気持ちになるのです。
  (男は、単純でアホですから。特に、私は、) 
 時々腹の立つ事もありますが、笑顔を見たり、声を聞くと、『心がときめき』嬉しいのです。 幸を感じます。何も出来ない、自分が悔しいです。

 でも、哀しいです。 寂しいです。 辛いです。
私は、好きな人を守る事も支える事も出来ない、自分の好きな人の為に何も出来ない、 
 唯。想う事です。 見守る事です。 それしか出来ませんから。  私は、なんなのだろうと考えて、悩みました。 
(118. )

 好きな人がいる。   それは、あなた。   それだけでは、 ダメですか、 いけませんか、 顔が見られるだけで良いです。おなたに会える。介護して貰えるだけで、  今は、幸せです。
(単純ですから。)   何も考えていません。
あなたの為に何も出来ません。許して下さい。  今、一つ。言える事は、あなたを想う気持ちは、
誰にも負けません。これが正直な私の気持ちです。唯、好きでは、ダメですか、それは、反則ですか、


 友達の高知県仁井田の障害者マンションで自立
生活をしている。20年来の友達に、 先日。メールで私の悩み相談を聞いてもらった時に、聞かれた事を思い出したのでそれを書きます。

【森下君は、自分の好きな人に、好きだ。と言えるから。まだ良いよ。僕のように、重度で寝たきりで言葉も話せない、《まして好きだ。》なんて言えない、人達の事を考えた事があるのか、 俺は、重度の障害者で言葉も話せない、寝たきりなんだよ。】

 と聞かれました。 何もいえませんでした。


(119. )


 【今は、自分の事で悩んでいるから。人の事を考える余裕などない、ゴメン。今は、許して下さい。今度必ず相談をお聞きしますから。】

 と書いてあの日。メールを送信しました。 
その友達が昨年の9月。天に召されて行きました。(享年48才でした。)私は、まだ。彼に《答え》を答えていません。(天の国で直接会えたら。相談を聞きたいと思います。)私より若い人が、どうして、 ここ2・3年で、友達も知り合いも次から次へと亡くなり、天に召されて行くのです。なにか寂しいです。 
 現在ハンディを持って生まれた人は、 もし今度。生まれ代われる事が出来るなら。 健康な身体で生まれて、 芸能人の子供とか金持ちの息子に産まれなくても良いから。健康な身体で生まれて、普通の人生を生きて行く事を神様におねだりします。
 障害と共に生きて来た私に、こんな特典は、ありませんか、 神様。贅沢は、 言いませんから。 望みが叶うとすれば、(好きなあなたと腕を組み歩ける足と君を抱きしめる腕とプロポーズの言葉が話せる口が欲しいです。)

(120. )

 不自由でも自分のやりたい事が出来る身体と時間かけても何処でも行けるだけ森下君は、幸せなんだよと言われました。
家族のように、親・兄弟みたいに生活して来た仲間も知り合いも私の前から。自立したり、亡くなり、エッチ話も悪い遊びも出来なくなりました。  寂しいですよ。私。今年で(満)63才になります。 食べたい物を食べて、行きたい場所に旅をして、自分のイヤな事はしない、ムリな事でも考え方、やり方を考えて何事にも挑戦したいと思います。 障害は、私の個性ですと胸を張り生きています。でも、好きな人が出来ても『好きだ。愛してる。』と言う事は、言語障害の私が言えましたが、  
その先の言葉が言えません。 

 障害者でハンディがあり、健常者のようには、生きられない、それは、生まれた時から。物心が付いた時から分かっています。 自分でアキラメて、自分を殺して、これが私の人生だと諦めて生きて来ました。 恋。愛する。好きだと言う気持ちは、
押さえきれません。  自分で解かっていても 悩んでいます。 笑って下さい。 旅のお話しがこんな文書になりました。  許して。。。。、


(121. )

 親元を離れ、自分の事も出来ない私が、施設と言う特殊な世界で生活して自分を知り、なにも出来ない者が不自由な身体で車椅子で独り旅した事は、私にしか出来ない旅だと思います。 考えてみれば私は、幸せ。今日も『私の障害は個性だ。』と胸を張り生きています。

 《こ れ が 旅 の 総 て で す。》


  あ  と  が  き


 今回の旅。35年間共に生活してきた友。1番の親友の友。毎年旅行して1番にお世話をかけた友。私より重度の障害を持ちながら。ぎりぎりの生活をしながらも自立している友。 いろんな想いや考え・夢を持ち誰もが一生懸命(命を削りながら。)生きていました。私は。何をしているのかと、この文書を書きながら。自立している友達ひとり・ひとりの姿を思い出して(悩みました。) 悩んだ末に出た答えは、周りの人にどう思われようと自分の意志で自分の人生を真剣に生きている。  
私は、自分の人生を生きて行くだけそれだけです。

(121. )

 人は、人。 私は、私です。6ヶ月かかりやっと吹っ切れました。(悩みました。)バカみたいです。 自分の人生。私の考えどうりに、私のやり方で生きているから。    現在私は、幸せです。
恥ずかしいけど。この年で好きな人が出来て好きだ。と言えました。 あの人に出会うと自分の年も障害者だと言う事も忘れて、  唯の恋する男になれるのです。
 何度かの旅をした。経験から。ハンディは、私の個性ですと割り切る事が出来た。  現在自分の人生を楽しんで生きています。  自分なりに幸せな人生です。 悔いはありません。 良い人生でしたが、   でも心残りが、一つ。 あるとすれば、好きな人に俺が幸せになりたいから。    共に生きて下さい。と言えない事です。   私の一番の減点です。 

長い文章でゴメンナサイ。これが私の旅と気持ち おしまいです。  2,016年12月31日。
                                      

あの人を訪ねて、神戸編

施設暮らしの障害者ですが、同じ境遇の仲間達がそれぞれ夢や目標。夢を持って生きているのに、私は、自分の好きに生きて良いのかと、悩み。 叉。いい歳をして孫のような人に勝手に、恋したジジイーの変なお話しです。 読んで笑って下さい。

あの人を訪ねて、神戸編

何処にでもいる。 車椅子のおじさんの変なお話しです。

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更新日
登録日
2017-01-12

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