*星空文庫

夜光つらぬきて

山城よる 作

うしないびと

 死よ、鎮座してあれ。平穏であれ。すべてを許してあれ。
受け容れて、あれ。
 ゆるしてあれ。()は、沈黙してあれ。其は、降り注ぎたるもの。
受け容れて、あれ。

 静謐で、唐突で、つめたい。それは、夜に似ている。
夜、そして光。
 それは、ある、美しさだとか、おそろしさをひそやかに孕み、つめたくなった(かばね)から、煙のように、或いは咲く花の芳香のようにほうほうと立ち上るもの。
 彼が生まれてから二年、正式に生涯を彼に捧げ彼の為に生きる事を誓い犠殻(ぎかく)となった。それから十年以上、(めしい)の彼に離れず(とも)に存在した。いつか来たる、彼の死を怖れながら。

 俺を兄と呼び慕ってくれた十離れた実弟。十も離れているというのに、彼の方が先に天へ召し還されるとわかっていることは、とても惨酷なことだと、思っていた。無邪気に笑い、見えない目で俺を探す幼い彼を見ていると、それだけで、永遠を感じられたというのに。そんなものは存在しないと現実が突きつけられる。
 もう数日生きてくれたら、十七の彼の誕生を祝えたのに。
 森外界(そと)から戻って来た者から、彼の好きな干し果物を少し分けて貰ってユルトに戻ってきた。それを手渡すより先に、弟は、ふっと俺に微笑みかけ、それきり目を閉じた。眠るようにぱたりと横になって、挨拶のように深い息をふうっと吐いて、…静止して。眠るように、静かに。何もの気配もなくして。
 弟は一人で静かに死んだ。

 彼の死を悼むようにざあざあと強い雨が降り出した。雨が、木の骨組みに布と革をかけてしばりつけただけのユルトの薄い壁をばたばた叩いてひどく耳障りで煩いのに、まるで唐突にみづうみの底に放り出されたみたいに、視界は、あを昏く、痛むほどの静寂(しじま)も感じる。
 ぞっと心根が冷えるよな静謐が体中を舐り付けてくるような感覚がして。手足の先から熱が逃げていく。

 皮膚が空気のつめたさに同化して溶けてなくなり、肉体という感覚がなくなり、とけて、とけて、無くなる。
 そこでは、何も聞こえない。何も見えない。何もわからない。
 何も。一切の何をも、すべてが、なくなって、只管に同一になって。
 ただひとつ。
 まろくゆるやかで、目の奥がツンと痛むような、安堵。
 死とは、かくも、平静に穏やかなものなのか。
 悲しみよりも、寂しさよりも、何より先に、こころが。
 すうっと鏡のように静まり返った水面のように均され、おそろしく思う程、現実的であった。

 ゆるやかに、無音で、ユアバロの身体から精気が()けていくのが見えるような気がして、その温度が脱けていくのを止められもしないのに、静止してまださほども経たない温かい弟を抱いて、抱いて、強く抱き締めた。
 力なく横たわる死が、何もかもの時間を止めてしまったように、何も考えられなかった。

 犠殻は、犠殻にしか定められぬ、と決められていて、俺を犠殻にしてくれた犠殻の面影を唐突に思い出した。まるでそれが天子(あまつし)の死後、当然思い出すよう決められていた流れのように。
 否、実際そうなのだろう。犠殻は犠殻足るべくして成るというから、きっとどの犠殻も、天子を喪って暫くもしない内に同じように、思い出すはずだ。
 俺を犠殻に定めてくれた彼の面影と共に、犠殻が犠殻にしか伝えない、天子の葬送を思い出していく。
 外の雨はますますひどく強くなっていっているようだった。

 ただ眠っているだけのような永い沈黙を得た弟、ユアバロの衣服をきちんと整え、濡れても平気な外套を着せ付け、同じように自分の身支度をも整え、同い年の少年たちより華奢で軽い、だけど既に生綱(いのち)がこと切れて土のように重たい遺骸(いがい)を背負い、布の帯で括り付けてユルトを出た。
 強い雨は数歩先をも遮って、もともと無い道はさらによく見えなくなっている。
 雨音以外聞こえない木々の茂る山道を(むら)の方へ下り、常に絶やさないよう焚かれている神火(かむび)(しんび)もどこかのユルトへ避難したあとの何もない広場を突っ切っていると、天から落とされる雨粒に直接頬や肩を叩かれ、痛いほどに雨脚は強まっていた。
 ごうごうと聞こえる。雨が降る音、空を切る音、何かに当たる音、弾ける音、踏みつけた地面に溜まった音、その水面を叩く音、あらゆるみづのおとに、今宵が支配されていた。
 麻痺したように感じない喪失の悲しみや、寂しさは、あとからあとからやってくるのだろうか。
 今、自分の胸の内をさらけ出して誰かに見せられるとしたら、このあまりの静けさに薄情者と罵られても仕方ないと思う程、感情が排斥されているような感じがする。俺は一体、何だったのかと、ぼんやり考えた。

 その生命を天へお還しした天子のむくろは、同じように天に還さねばならぬ。と、耳が痛い程静かな夜に、かの犠殻は教えてくれた。
 それが何故なのか、理由は知らない。天子に墓はない。
 その肉体はわれわれと同じ人の身ではないのだと言う。
 弟の犠殻となった時、俺は十二。理由がないのに納得できないまま、しかし真剣にかの犠殻の言葉を聞いていた。冷酷さが滲むような、冷たい声だったと思う。しかし、犠殻になる以上、己よりも先の天子の死が、必ず来たる宿命であると本能的にわかっていたから、その言葉のひとつひとつまで鮮明に記憶していた。
 犠殻が何故存在するのか、ひとりの天子につき何故必ず一人の犠殻がつけられるのか、そういった事も聞いた。表向きは天子と、その他の群人たちとの緩衝役であるということだったが、長く天子と過ごすうち、俺は俺なりの答えを既に持っていた。

 彼らは目が見えずとも、或いは耳が聞こえすぎるとも、常人に劣ることなど何一つ無い。
 むしろ常人に理解し難い特異な力を持つ分、通常よりもあらゆることに長けていたと思う。犠殻というのは、そういう天子の力を抑え、或いは放出させ、かれらをヒトの身丈に合わせておく、そういう役目があったのだと。
 弟は、未来を言い当てることが出来た。けれども、それは誰の為にも出来なかった。
 犠殻という役目、それに対する俺の答えはユアバロの為だけの答えでしかなく、他の犠殻の他の天子の為の答えはまた違うのだろうけれど。知る術はない。会えるところに、犠殻も天子もいなかった。
 
 雨に打たれすっかり冷え切った弟を背負ったまま山を登る。
 道のない斜面で、そんな時期でもないのに唐突に降り始めた強い雨は一切の流れを止めることなく川のようになっていた。木々が伸ばした枝葉のお蔭で、頬や肩を叩く雨粒の勢いは少しだけゆるい。しかし足元はぐっしょり濡れて衣服が水を吸い、流れる雨水に足をとられて思った以上に歩も進まない。
 何もかもすべてが、重たかった。ユアバロの死も、その遺骸も、濡れた衣服も、灯りの無い真っ暗闇の山道も、頭上の木を叩き付ける雨のおとも。

 息が上がる。
 すべての重みが自分の肩ひとつに架かっているのだなという現実がやけに生々しく感じられ、疲れるにつれより重たく感じるだろうと思われた背の遺骸は、その予想に反してどんどん軽くなっていくような気がした。
 その華奢な肉体に、一体どれほどたくさんの、ユアバロという人物が詰まっていたのか、思い知らされるようだった。軽くなるにつれ、それが喪われていくのを実感する。軽く、なっていく。
 血液も何もかもが肉体の中にまだ残っていても、その遺骸を彼足らしめていたすべてが脱けきってしまったら、コレは一体何なのだろう。こんなにも早く、喪われてしまうのに、弟は一体何の為に存在したのであろう。
 答えのない疑問が、胸の底で(もた)げては萎れていった。

 三時間程歩いただろうか。
 雨は次第に弱くなり、厚い雲間に月が少し見え始め、幽かだが、その月明かりのお蔭で目的の場所にはなんとか辿り付けそうだった。
 どうどうどう。止んではいたが、強い雨のせいで増水した川が石の河辺を覆い尽くし土色の濁流となって滝に向かっていく。普段ならきれいに澄んだ豊かな水がとうとうと流れている、緑の美しい場所である。
 この川で、今濁流に覆い隠されてなくなっている河辺で、何度弟と過ごしたろう。
 湧き上がる感傷もある一定でぴたりと止まって。意を決して水の中へ入った。
 少し遠くでは滝から流れ落ちた膨大な水がつくる爆音が絶え間なく聞こえていた。泥混じりの土色の水でも、白く美しい水しぶきがあがり、滝壺では見たこともない大きく強靭な魚が泳いでいるのかもしれないと、馬鹿なことを考える。強い顎と、牙とをそなえ、何かが落ちて来るのを待っている・・・なんて、下らない。

 激しい濁流に足を取られそうになりながら、流れの強い本来の川がある辺りまでやってきて、背に負うた弟を己が身に括りつけていた紐を解き、腕に抱く。
 血の気が失せ、すっかり真っ白になった弟はやはり、起きないのだとわかっていても、安らかに眠っているような死に表情(しにがお)をしていて、胸がぎゅうっと詰まって、喉のあたりが熱くて、滲みるように痛んだ。
 月が顔を出し、こうと照らされる。天が、ユアバロを迎えに来たのだろうか。
 抱えた弟をぎゅうっと強く抱き締め、禱りながら。弟の生涯を示し守った天子の(ぎょく)を預かり、急かすようにどうどうと身体に当たるみづの流れに奪われるのに任せて、その遺骸を放った。
 身を斬るような静寂の中、激しいみづのながれが、ユアバロを押し流していった。

 
 天子の葬送は、その生まれの血族によって始末が異なるという。
 俺とユアバロはウェナアトの生まれだ。ウェナアトの葬送は血族の者によって森の中の石墓へと葬られるということは知っていたが、ウェナアトの出自の天子は河へ流すのだと、かの犠殻に教わった。
 天子の遺骸の葬送は、犠殻だけが任され、その時も、場所も、全て群や血族には秘されて行われる。

 他の血族はそれぞれデアリク、ファレ、ナクレツクと名があるが、群はそれぞれの血族の者が混ざりあって小さくまとまっているので、誰かが亡くなるとその血族の者が集まり葬送の儀を執る。
 別の血族の者同士が婚姻関係にあっても、友人としてどれ程親しくしていようと、葬送の儀は血族の者しか出られない決まりだ。間に生まれた子は、その身体的特徴によってどちらの血族かはっきりとする。混ざっても混ざらないものが、必ず表出するようになっている。
 そして、出自こそいずれかにあれど、天の子として生まれた天子は、天子の玉を身に纏ったその時から、血族から独立したものの扱いとなり、誰の立ち合いもなく、犠殻だけが葬送を行うよう、いつの頃からか決められているらしかった。

 水に抱かれたユアバロはあっというほどの間もなく見えなくなって、滝の音に消えた。
 彼を背負ったまま河へ寄る時には何度も濁流に足を取られたというのに、岸へ戻る時は不思議なことに、するすると帰れた。
 戻った岸で、今やっと思い出したようにどっと疲れていたのが思い出され、泥のように重たい身体ごと、膝から崩れ落ち地面に伏せ蹲ったそのままの体勢で、どうか弟が、ユアバロが安らかに眠れますようにと天に願った。

 孤独でありませんように。満ち足りていますように。
 平穏で、幸福でありますように。
 恵まれてありますように。
 思いつくだけの幸福が全部、彼に降り注ぎますように。
 思いを尽くして、手に残った天子の玉に縋り付いて願った。

 厚く空を覆う雲から漏れる強い、月光。夜のひかり。厚い雲のその端を虹色に染めながら、煌々と降る。
 嵐のような豪雨が愛すべき弟を奪って行ったのか、俺が失くしてしまっただけか、天が召し還しただけなのか、ただ決められた死に弟が従っただけなのか、全てが混同してわやくちゃに混ざって、混ざって、混ざって。混沌して、調()して、混ざり合ってはなれなくなって。“だから”痛かった。



***


 「力」というのは、いのちと、こころと、その二つを繋ぐ張力のようでいて、ばねのように強くしなり、いのちとか、こころとか、そういう概念をも超越し得るものではないだろうかと思うのです。
 それは、肉体という俗な入れ物でも、ありのままを許して包み込んでくれる。
 湖畔に打ち付けるやわらかい波のようでいて、その実、そのみなもとは苛烈ではげしい、あいなのだと僕は思うのです。ひたひたとやはく打ち寄せては還る。
 みづ。湧き出でて生まれくる。そして死なば土に還り、更に生まれ、循環しそれは永遠に続く。潮流。そのちから。どんなに細かな流れでも、世界中はひとつなぎにつながっている。
 見たことがないかもしれませんが、そのながれは、壮大で美しい光の虹なのです。大きく、強く、雄大で、身をくねらせながら巨空を()くもの。われわれの住まう世界は、すべてあの力によって押し流されていきます。

 兄さん、僕から手が離れたのちは、どなたか、別の方のお世話をして差し上げてくださいね。どうかどうかお願いいたしますね。だれかいい人がいれば、捕まえて逃がさないでおくんですよ。愛して差し上げてくださいね。それが、僕と違って次の世代へと何かを遺せる、あなたのお役目だと思うのです。
 あなたの時間は、あなたのもの。誰にとっても、人生は一度きりの、一本の細い道を作ってゆく旅なのです。
 僕の旅は生まれながら短いものだと決められていたようですが、それが不幸なのではありません。長さは、関係ないのです。短いなりに僕はとても、とてつもなく沢山のものものに恵まれて、しあわせだったと思います。兄さん、あなたがいてくれたおかげです。
 森外界からのお土産だと、僕に干した果物をくれましたね。耳の後ろのやわらかいところがツンと痛むほど甘い、あの果物の味、きっと僕は忘れません。

 あなたにとっての人生は、どこにありますか?肉体でしょうか。魂でしょうか。それとも・・・僕でしょうか。犠殻だからといって、僕にすべてを捧げるのでは、何かが違うと思います。その人生をどのように僕に尽くし捧げてくれようと、僕は兄さんより先に死んでいなくなってしまうのに。僕の人生は、兄さんの心の中にのこります。
 だけど、兄さんは?兄さんの人生は、どこに刻まれ、どこに遺されていきますか?
 僕は天子なので、あなたの中にさえ僅かにでも遺されていたら、それだけで、身に余るほど幸福に生きた、と思うでしょう。だから、兄さんは、兄さんの為の人生を生きてくださいね。

 僕がいなくなっても、あなたが、胸を張って生きていってくれることを、願います。
 これが、僕の為に全てを捧げてくれる覚悟のあるあなたにとってどれほど惨酷なことか、わかっているつもりです。だけど、願わずにいられないんです。僕は死に絶えますが、兄さんは違う。
 僕の魂が、いつかまたここへ戻ってくる時、待っていてほしいと思うのです。その血を絶やさずにおいてほしいのです。生命は連なるもの、いつかまたお会いできると信じていますし、流れを止めてしまうのはいけません。
 わがままでしょう、ごめんなさい。でも、兄さんのことを、本当に心から想っています。ですから、幸あれかしと思えばこそなのだと、わかってくださいね。

 過ぎた時間は既に戻ることはありません。ずっとずっと先へ伸び、ひとは進んでゆくしかないのです。どうしようもなく押し流されるより、自ら望んで己の足で先へ進む方が、ずっと楽しいと思いませんか?
 時間というのはどんな価値観や、世界や、人をもってしても抗えません。一定で、平等で、絶対なのです。老若男女、どんな人種でも、血族でも、二度とは帰れないのです。だからこそ、それは一層きらびやかに輝いて、まぶしいのでしょうね。
 僕の人生は短さを定められていても、とてもとても、恵まれて、きらきらしくて、鮮やかであると思います。いずれ僕を訪なう死を、憎まないであげてくださいね。それは、ひとつの門出なのです。すべては進んでいくしかないのですから。僕は喜んでそれを迎え入れましょう。次の世界へ、旅立つだけなのです。
 兄さんも当然ご存じのように、ウェナアトは水と夕闇の民とされています。すべてはそこからはじまり、終わりなどなく、水のように姿を多様に変え天地を循環し、清浄で、とわにめぐりめぐるものなのです。
 同じように、肉体の旅を終えた魂もめぐりめぐってゆくのです。僕は空にとけ、風となり世界中をめぐるつもりです。あこがれたかれの背に乗って、どこまでも。見たこともない世界が、人が、そこにはあるでしょう。
 兄さん、あなたの頬を時には撫ぜているかもしれません。叶うなら、兄さんの愛した女性だとか、子供だとか、みなさんのまわりを巡っていたいと思います。だから、あなたは、あなたをつなげていってくださいね。

 随分と長くなってしまった。未練がましくていけません。
 いつか、僕のいなくなった世界で兄さんが涙することがあったら、その時この思いがあなたへ届きますように。



マーネルクスへ。ユアバロより、あいをこめて。


 天子の葬送を終えた後、犠殻としての役目を終えたら、自分を犠殻と定めてくれた犠殻へ会いに行こう、と思い立った。俺を犠殻として定めてくれたゼアトファルは、群から歩いて4ヶ月程の最も遠いところの群に住んでいる。イスウォルという瞽の天子の犠殻。
 独り群を出て、十四年前に辿った道を行くのは、十四年前に比べればとても楽だった。当然だ、あの頃より背も伸びたし、もう俺は少年ではない。彼の住まう群の入口を示すように連なるイチイの樹を越え、群の中央を目指せば、どこの群も同様に焚いている広場の神火の傍に、やわらかな白い衣を纏い、異質な空気を持った青年が目についた。
 彼は、さほどの足音も立てずにたどり着いた俺に振り向いて、目は閉じたままにこりと口元を綻ばせる。

「いらっしゃい。あなたが、マーネルクス?」
「えっ…はい。貴方は?」
「わたしはイスウォル。わたしがまだ七つ位の時に、ゼアトを訪ねて来た時の事、よく覚えていますよ」
「天子の?」
「はい。待っていました」

 小さく、幼く、とても聞いた年齢には見えなかったあの幼子は、線の細い、今にも消えそうな繊細な雰囲気の麗人に成長していた。片手分年下だとかつて聞いた時もあまりの小ささに目を剥いたけれど、今は別の意味で驚く。
 異質さが、常人の比ではない。同じ天子であった弟よりもっと、何かが、人でないなにかがある。
 まるでその周りには生き物の存在を拒む程の清浄で冷たい水のような空気があり、近寄るのを躊躇う程で、天子には慣れているはずなのに、自然身体が強張って、唾を飲んだ。

「イスウォル、誰?それ」
「ルル。彼は…ゼアトの犠殻です」
「そうなの。初めまして、俺はルルレスカ。イスウォルの従兄弟にあたる」
「…天子?」
「そうだよ」

 俺が来た方とは真逆からやってきた、やはり白い衣の麗人。
 硬質な、まるですきとおる針の鉱晶のようなイスウォルと、ルルレスカと名乗ったその人は面差しはかすかに似てはいるものの、雰囲気は全然違った。かれはまるで、森の奥深く、湿って苔生し噎せ返る程濃い緑のにおいのするよな、密度の高いやはらかさのある。
 ルルレスカの方は色鮮やかな金色(こんじき)の瞳をあらわにし、髪はゆるく波打つ淡い月光。イスウォルは目は閉じていて見えず、髪は真っ直ぐ射す朝の光のような(しろがね)であった。二人ともあわく注ぐひかりのよな髪色から、ファレの出自の天子なのだろうとわかる。
 似て非なる二人が二人ともがその胸の中央に下げた金針(きんし)の入った玉は、弟と同じ天子にしか下げることを許されないそれと同じ。しかし。

「俺は耳の天子(じのあまつし)なんだ。そのせいで色々あったんだけどね。おいで」

 天子は目が見えないはずじゃ、と思った俺の疑問を聞くより先に答え、さくさくと近寄って来たルルレスカから、甘い花の香りがふわりと香って、それに気をとられた一瞬に抱き込まれていた。その足取りを追って歩いてきたイスウォルも、俺を抱き込むルルレスカごと、抱き締める。
 二人の華奢な腕の中にすっぽり収められて、ようやっと、とでも言うべきか、じわりと目頭が熱くなった。
 うまれた涙がほとほとと落ちて、地面に浸みていった。二人分の、天子の腕の中。弱い要塞。この中でだけ、泣いてもいいのだと何故だか思えた。声こそ上げなかったが、涙は堰を切ったように情けなくぼたぼた流れる。
 ルルレスカが髪に挿した白いリルウェの花から香る甘い匂いは、弟も好きだった。
 ぽんぽんと子供をあやすように、背を叩く手の指がとても細いのを感じるのに、今世界中のどこよりここで“ユルサレテイル”と、理解を超えて訴えかける本能が涙を滂沱とつくりだしているような気もした。

「何やってるのさ、いい大人が」

 どれ程の時間、そうしていただろうか。二人の白い衣に囲まれて時間を忘れていた。
 耳につく、棘のある声色は十四年前より低く響き、それでも忘れるはずのないその声の主の(くつ)(くつ)が、天子の白い衣の隙間からほんの少しだけ見える。

「マーネルクスですよ、ゼアト」
「へえ」

 抱き込まれて初めて会った天子の月光の髪に埋もれ好きなだけ泣いたら、泣けもせず、悲しみも感じないことで詰まっていた心の(おり)が流れたようだった。心持ちが少し軽くなった気がする。
 ほろりと二重の弱い要塞が解けて、恐る恐る二人の顔を見る。大の男が情けなく泣いたのだ、苦笑でもされるかと思ったが、そんなことはまったく無くて、二人とも穏やかな、慈愛すら感じる微笑みを浮かべていた。

「お久しぶり、です・・・・・・」
「死んだの、あの子」
「・・・・・・・・・・・・はい」
「随分早かったね」

 天子が死ぬのは早いというが、それでも、二十を数えずに死ぬのは、早すぎる。
 自分のせいかもしれないと、ここに来るまでの道中でどれほど悔やんだかしれない。だけど、何度考えても、どのように考えて己を責めようとしても、どうしても、心からそのようには思えなかった。だからこそ、己の冷酷さにユアバロへの申し訳が立たない気もしていた。
 述べられているのは事実だが、ずけずけと傷を抉るような言い方をする彼は相変わらずだった。
 嘲笑的な表情も、人を食ったような立ち姿も、年を経た分重みと凄みを増したくらいで、他は何も変わらない。悪意すら感じるのだが、その彼の天子が神々しささえ放つようなイスウォルであるというのは、どういうことなのだろう。いや、だからこそ、なのか。

「ルルちゃん、すぐにイオと群に帰んなよ」
「いや、数日世話になるよ。これを待ってたみたいだ、俺」
「キミ、面倒事が好きだねえ」
「天子は暇なんだよ」
「ルルレスカ」
「やだよ、帰らないからね」
「……………はぁ…」

 ルルレスカの犠殻なのだろうイオという人は、ゼアトの後ろに控えるように立っていて、闇色の肌にそれより暗い漆黒の瞳をしていた。髪まで黒くて、衣まで黒かったら、闇に溶け込んでしまいそうな感じがする。肌は青白いが、紫黒の髪のゼアトとこのイオという人は、ナクレツクの出身だろう。暗くて涼しい、陰の気配。
 年の頃は、俺と同じくらいか、少し上だろうか。したたかそうな、強い笑みで好きに振る舞うルルレスカに、夜闇を纏ったような犠殻二人はあからさまな溜め息を吐いて見せていた。

「満月は4日後でしょうか。いい時期に来てくれました。さあ、どうぞマーネルクス。長旅だったでしょうから、わたしのユルトをお貸しします。ゆっくり休まないといけませんよ」
「私は群長に泊まれるユルトをお借りしてきます・・・」
「イオ、僕も手伝うよ。二人はその子、頼むね」
「わかっています。そちらはお任せしましたよ、ゼアト」
「行ってらっしゃーい」

 何が四日後なのだろう。満月が何を意味しているのか聞くより先に、天子二人に手を引かれて山あいの坂道を上る。大柄なゼアトに合わせたのだろう、広いユルトに案内されて、柔らかい敷布と掛布を与えられた。
 旅装を解き、水を貰って飲んですすめられるまま横になれば、思っているより疲れていたのか、すぐに眠気にさらわれてしまった。話したいことが、何か、あったと思うのに…。


「あの二人に任せていいんですか」
「キミはいつも心配し過ぎだよ。僕らがいた所であの子達の心が傷つく可能性を無くせるワケじゃない」
「…そうですが」
「天子が早く死ぬなんて今更な事、皆わかりきってるさ。ほんとに早死にするんだって目の前に突き付けられて怖がるようなタマだと思ってるの?あのコ達が?」
「何か、出来ることがあるはずとは思います。私の犠殻としての役目は、あの方を守る事ですから」
「ルルちゃんなんかそうそう傷付いたりしないよ。イスウォルも。天子は…あのコ達は、僕らが守れる程弱くない」
「存じております。それでも、何かして差し上げられるはずと思っているだけです」

 あなたは違うんですか、と投げかけられた抑揚のないイオの言葉には答えず嘲笑した。
 犠殻であれば当然そうであろうと答えるまでもない。どうにも下らない問いかけだ。
 群長の所でユルトを借り適当な場所に二人で組み上げるのに然程の時間は掛からなかった。その足でユルトに戻ればマーネルクスは昏々と眠っていた。緩慢な呼吸から、随分と深くまで眠り込んでいるんだなと窺い知る。
 その寝顔を眺めていれば、疲れていたんでしょうねとほやほや微笑んで言うイスウォルに、苦笑が漏れた。

 犠殻として文字通り己の(すべ)てであった天子を喪った後、たった独りでいることがどれほど苦痛を伴うか、呑気な天子は考えもしない。この二人は、それでよかった。無邪気なまま、余計な心配なんかしないで、ただそのままであって欲しい。
 まだその天子がいる自分も、イオも、彼の痛みがどれほどのものか実感はないし、想像もつかないんだろうなとは思うものの、ただなんとなく息が詰まるような感覚はある。
 呼吸ひとつするのにも、罪悪感を感じたかもしれない。喪った痛みを感じられないほど深く、心のどこかが抉られてしまったかもしれない。自分の天子がいなくなった時のことを、考えさせられた。
 明日とはいわない。今この瞬間にも、ひと呼吸おいた後にでも、唐突に彼らはいなくなってしまうかもしれないのだと、まざまざと思い知らされる。彼らの笑っている今この瞬間がどれ程貴いか、疲れて眠りこける彼の寝顔が知らしめた。
 かすかな涙のあとに、天子の存在の重みを感じる。例え己の支えた天子でなくとも、他の天子が傍にいるというだけで、何か違ってくるのかもしれない。安心して眠れるほどには。

 群長に借りて別場所に組み上げたユルトの方へイオとルルが帰って行った後も、イスウォルは幼い子供がままごとでするような感覚で眠りこけるマーネルクスの肩へ掛布を掛け直したり、顔に掛かった前髪を払ってやったりしていた。見えないくせによくやるよ。本当に不思議だ。見えないくせに、どうして前髪が掛かっているのがわかるのか。
 そのイスウォルの手つきは見ているこちらが切ない程優しく、優しく、優しくて。案外、天子を喪った犠殻の痛みをわかっているのは、僕ら犠殻よりも、まだ生きている天子なのかもしれないと思った。

「…ゼアト?」
「…なに?」
「…いえ、何もなければいいんです。わたしたちもそろそろ休みましょうか」
「そうだね。まだ朝は冷えるからちゃんと掛布かけるんだよ」
「一緒に寝ますか。お布団一組、マーネルクスに貸してしまっていますし」
「僕は不寝番(ねずのばん)でもしてるよ」
「…一緒に寝ましょう?そうしてくれたら、昔みたいで、わたしは嬉しいんですが」

 掛布を羽織ってばっさりとくっついて来るものだから、横になって致し方なく華奢なイスウォルを抱え込んだ。
 確かに、昔みたいだ。イスウォルは同年代など比肩にならぬほど聡明で、言葉を喋り始めた三つの頃には僕を指さし犠殻にと言って、その時たまたま(いや、それも天の思し召しというやつだったのかもしれないけど)群へ来ていた他の犠殻が僕をそれと定めた。
 天子と犠殻が揃った時、天子の親のいる群から離れた群へ移り住むことが決められていて、犠殻の決定を下された僕は三つの幼子を抱えて群替えを余儀なくされた。
 幼児の世話などしたことがなかったけど、イスウォルは無駄に泣いたりすることもなく特に手間のかからない異様な子供だった。しかし、夜眠る時だけは何かをおそれて独りでは決して寝なかった。首に、胸に、汗ばむほど熱い子供の体温があるのは最初こそ慣れなかったけれど、次第に彼がおそれるのが何かわかるような気がして、甘えるのを許した。
 いつからか、抱えるのに苦労する程大きくなって共寝もしなくなったが、たまになら構わないだろう。見も知らぬ天子の死を報せに来たマーネルクスの存在に、僕も、イスウォルも、少なからず衝撃を受けていたかもしれないんだから。小動物のように腕の中で小さく丸くなったイスウォルは、すぐにスヤスヤと寝息を立てていた。

 翌日、マーネルクスは日が昇りきり傾き始めた頃漸く目を覚ました。
 イオとルルは満月の夜を待つための月明かりのよく届く良い場所を探しに行っていておらず、イスウォルは嬉しそうにマーネルクスに食事をすすめ食べさせている。ぽかぽかと晴れて、心地の良い穏やかな昼下がり。
 張り詰めていたマーネルクスも、気の抜けたようにされるまま、イスウォルの話し相手になっていた。

「満月に何かあるんですか」

 意を決したように、眉に力を入れて僕を真っ直ぐ見て問いかけてくるのに、視線を外して適当に壁を見た。
 手持無沙汰に紐を編み始めていたイスウォルが少しの沈黙を流したあと、聞かれた僕の代わりに答える。

「あなたの天子の玉を天に御返しするんですよ。とはいっても、花を集めて香木を焚いて、玉の紐を切って燃やすだけですが。天子のものは全て御返ししなければならない決まりですから」
「え」
「…教えて差し上げなかったのですか?ゼアト」
「忘れたねえ。十四年も前の事だよ」

 ノクレクの紐は父母が子に、夫婦が伴侶に、生誕や婚姻など人生の大きな節目に手ずから編んで渡すもの。そのひと目ひと目に願いが、祈りが込められている特別なもの。
 犠殻と天子であれば、犠殻が天子に、天子が犠殻にとそれぞれの玉を預けて編んだはずだ。僕の首にあるものはイスウォルが、イスウォルの首にある者は当然僕が編んだものが下げられている。水浴びする時すら外さないこれを外すのは、紐を編み直す時だけ。それ以外では、死んだあとだ。
 主のいなくなった紐、或いは役目を終えて編み直され不要になった紐は満月の夜に燃やして天に返すのが通例。これは、天子も例外ではない。また、残った天子の玉は花弁で埋め月光でお清めをし、その紐を天にお返ししたそばにある群の長に納められる。
 そうして、ノクレクにある天子の玉は絶対数を保ちながら、それぞれの群長に保管され次の天子を待つ。
 玉は本来出自の血族をあらわす石を、その地位や血族内の家系によって定められた色や数で作るものだが、天子には天子の、犠殻には犠殻の石があり、それを得た後に血族の石に戻る事はない。
 だから犠殻は天子を喪った後も、死ぬまで犠殻でいる他ない。
 あまりに早く天子を無くした犠殻は、新たに生まれくる天子の犠殻に選ばれやすいと言われている。また、それが天意(かみのいし)なのか、天子を無くした犠殻の傍にこそ、新たな天子が生まれるともいわれている。
 そして、犠殻が死した後は、その犠殻の玉は砕いて共に葬る。その理由は知らない。犠殻の石は血族や天子のもののように純粋な石ではなく、種類に限りはなく、ただ、あらゆるものが交じり合った物を使っている。それだけが共通点。
 何かと何かが交ざり合った石を使っているのは、犠殻だけ。それになんらかの意味があるのだろう。

 僕の代わりにイスウォルがマーネルクスに謝っていた。結果的に、言っておかなくて良かったんじゃないかな、とぼんやり考えた。この子の顔を見ていると、どうも、唯一の遺品であるその紐を手離す気はないように見える。だが、それではいけない。
 知っていたなら、彼の天子を葬送したあと、ここには来なかったろう。僕が伝え漏らしたということにも、意味が存在する。それをこそ、天意というやつかもしれない。

「イオと話してくるよ」
「俺も行っていいですか」
「…好きにおしよ。僕がきみを制限する権利なんてないんだから」
「意地悪な事を言わないように。ゼアト、年長なんですから」
「知らないねえ」

 喉で笑って、ゼアトは出ていきました。行ってきます、と丁寧にわたしに断ってから、マーネルクスもゼアトを追って出ていき、ユルトの外で話す声が聞こえたあと、出て行った気配の場所を埋めるようにルルレスカがやって来てくれました。ルルレスカとイーオリーオの方でも、何かあったのでしょう。

「イスウォル、考え事?」
「いえ・・・犠殻は、忙しいなと思っただけです」
「・・・そうだね、いつも、そうだ」
「何かありましたか?」
「イオが傍にいるのに、“煩くて”ね。山が騒いでるの、感じる?」
「・・・はい。マーネルクスの持っている天子の玉を早く返して欲しいみたいです」
「満月まで静かにしてくれりゃいいものをさ・・・せっかちだよ、本当に」

 よく眠れなかったから、ここで寝させてねと言って、ルルレスカはその場で横になるなりすぐに寝息をたてはじめました。余程、煩かったのでしょう、森におわすものものが。聴こえる、というルルレスカの特質は、とても難しいと、思います。
 いつだか、わたしに、あなたもルルレスカのように耳の天子だったらよかったのにと言ったひとがありましたが、盲目であることより、聴こえ過ぎる彼の方がどんなにか辛いでしょう。特質を持たない者にはわかりかねることなのかもしれませんが・・・。
 わたしは見えないことで困ったことなど殆どありませんが、彼は聴こえ過ぎることで困ったことが山ほどあるはずなのです。わたしも視えすぎると言えばそうなのですが、それは眠りに就き意識を手放すことで退きますが、彼の耳に届くかれら山のものもの、或いは天のものもの、水のものもの、あらゆる自然のその(こえ)というのは、わたしの心の眼に視えるものと同様かたちなきものとはいえ、受け取る器官が物理的なものである彼の場合、受け取らないということができないのです。
 だから彼はあたりが騒げば騒ぐほど、賑やかであればあるだけ、我慢を強いられる。それらから彼を遮閉(かく)し護る為に、イーオリーオというとりわけ優秀な犠殻がいるのですが、あたりは騒ぎ立てるのに、それが機能していないルルレスカの苦痛を共感するのはひどく難しい。それでも、彼は微笑うのですから、彼が如何に強靭な心を持つか窺い知れようというもの。わたしは、それがとても好ましいと思います。

 それに、彼ら犠殻には平時何もなくともやることが沢山ありますし、それでない今やるべきこともまた山積しているのです。我々天子は無力だと、このような時にはつくづく思い知らされます・・・。羽虫ほどの力もないのが突きつけられ、己を憐れだと思うのです。だからこうして、やれることがなければユルトの中に座しているしかありません。禱りなど、現実の前ではいかほどの役にも立たないのです。
 ゆるりと眠っているルルレスカに掛布をかけてやり、柔らかくうねる髪を撫でてやりました。今、犠殻といるより天子同士いる方が、わたしにとっても静かなので、ゼアトもそれをわかって、マーネルクスを連れて出たのでしょう。
 犠殻同士話すことや、やるべきことがあるというのも天意なのでしょう。なるべくして、何もかもはたったひとつの道を選んでいるものなのです。すべては、天意のあるがまま。

「あの・・・聞いていいですか。俺が群へ来た時、イスウォルさまに待っていましたと言われたんですが、何か・・・報せでもあったんでしょうか」
「まさか」
「では、何故?待っていただなんて・・・」
「知らないねえ。なんせあの子、天子だから。何を見ているやら」
「・・・天意を感じ取っているのでしょうね。ルルレスカも、これまでそんなことは一度もなかったのに、用事もなくイスウォルさまのところへ行かなきゃいけないんだと言って出てきたんですから。・・・正直に言うと、気味悪いですよ。天意が、いえ、天意に、操られているのではと思うほど、あらゆる機期(きき)(きき)が、出来過ぎている気がしてなりません。そうは感じませんか?」
「若いねえ、イオちゃん。僕らが相手してるあれらは、天意の権化なんだよ。人間だと思ってたら疲れるのは僕らの方だ。あれは神代(かみのうつわ)、ヒトに似てヒトに非ず」
「天意・・・というものが、本当にあるのだとしたら、それがどういうものなのか、お二人はあの方たちに聞いたことはないのですか?不思議に思ったことはないですか?」
「聞いたりしないよ。聞いたって困らせるだけだし、そもそも僕は天に興味がない」
「私は聞いた事がありますが、聞いたところで無意味ですよ。ルルレスカは答えられない、といっていました。…我々にはない器官で見聞きしたものなど、やはり聞かれた方も困るだけなのでしょう。あなたは、聞かなかったのですか?弟君に」

 イオの意地の悪い問いに、マーネルクスはぐっと何かを喉に詰まらせたように押し黙った。聞いたことがないから、ひそかに胸に抱いていたその疑問の答えを知りたいから、僕らに聞いてみたのだろうけれど。そんなのはどうだってよかった。僕ら二人とも、彼の弱い胸中を慮ってやるほどの関係ではない。
 ぎし・と肩が軋む。マーネルクスが来てからずっとだ。数日の我慢だとわかっていても怠いものは怠い。こんなこと、誰にも言わないけれど。
 天子が視るもの、聴くもの、感じるものから最も縁遠いからこそ犠殻足り得る僕にわかるほど、山が、森が騒ぎ立てている。なにものかの気配が、そこかしこに残されてあるのを感じる。それが何なのか、何かであるという以上のことがわからない現状は非常に煩わしくうざったい。こんな感覚が常である天子というのは、本当にただの人の身ではないなと思った。
 早く満月がくるといい。この弱い若者の胸の中にある澱が消えたら、この煩わしさも消えるだろう。同時に彼の持つ天子の玉を浄めてしまったら、この何かの気配もやむのだろう。それが、わかる。これが、天意か。そう考えたら、くつくつと喉が鳴った。

「・・・天意ってあると思う?イスウォル」
「あなたの方が、より明確に受け取れるものではないのでしょうか」
「イオに、天意とはどういう風に聞こえるのか、聞かれたことがある。でも、聴こえるったって言葉じゃないから、言い様がなくて、何か説明しようとするんだけど、ぐっと喉が詰まったみたいに苦しくなって、どうしたって言えないんだ。それって、俺達が、天子だからだと思う?」
「・・・そうとしか、言い訳のしようがありませんね。犠殻と天意を共有する必要はないのでしょう。我々が言葉を交わしたとて、全く同じものを受け取ったわけではないのですから、何ともいえませんね・・・」
「だよね」

 ヘンな話してごめんね、と欠伸の合間にぽつりとこぼして、ルルレスカは掛布をよけて身体を伸ばしているようでした。そして、わたしの手に籠を持たせ、もう片方の手を引いてユルトを出ました。満月の儀に使う花を摘みに、近くの丘へ行くのだと思いますが、二人だけで出歩くのはとても久しぶりで、楽しい。
 マーネルクスの天子には悪いですが、こんな時でもなければわたしたち天子は本当に、四六時中犠殻と共に過ごしています。それが苦なのではないですが、ゼアトはとてもよい方ですし、でもやっぱり時折、考えてしまうのです。わたしが彼を選ばなければ、彼の人生は他に生きようがあったはずだと。わたしがいなくなっても、彼が犠殻でなくなることはないのに。
 
 天子は、犠殻となるひとの人生をその選択ひとつで全て捧げさせるのに、何も御返しすることができない。それなのに、先に天に召されることがきまっている。それがただただ、心掛かりです。こんなことを言うと、ゼアトはきっと鼻で笑ってそれだけで済まされるのでしょうが、天子なら、皆が抱く感情だと思います。
 早くに死に迎え入れられることを決定されている身では、遺される方々の幸福を考えずにはいられないはずです。わたしも、ルルレスカも、マーネルクスの天子だった方も、その人生に最も重要で、最もいとおしく、最も天子にあいをして下さった犠殻のことを、絶対第一に考えていたと思うのです・・・だから、だから、“かれ”は。
 犠殻が我々天子をどのように思ってくれているのか、それはわかりません。天子と犠殻といえど、それぞれの事情や、立場や、性格や関係性はやはり様々ですし、中には仲の悪いものもある。それを知ってなお、ゼアトという方がわたしの傍にいてくださるのが、とても嬉しい。胸の底がぎゅっとじっと焦げるような、切なさを感じる程。

 籠いっぱいのリルウェの花を摘んだあと、二人で草原に寝転がっていました。ぽかぽかと陽が当たり心地よく、とてもいい気分です。籠いっぱいのリルウェの花からほんのり流れてくる甘い香り。わたくしたちが天子でなければ今頃は、伴侶や子供達の為に夕の食事を用意するのに忙しくしていただろうと思います。
 天子の手と口は、一族の中では特に神聖視されていて、生活の為の雑事をやってはいけないものだとされ、群の人とは滅多に口も聞きません。ひとの子は、手と口で最も罪を犯しやすいと伝えられているからだと聞いたことがあります。・・・本当でしょうか。
 ゼアトなんかは天子の事を神代だと言ったりもしますが、もし、本当に神代であれたなら、占いなどもできたでしょうし、託宣などもできたでしょう。天から与え賜うたものを人々に分け与えられたはずなのです。だけど現実は、
願わくば我が子が天子でありませんようにと祈られるようなものでしかないのです。
 天子に生まれるということは、瞽であることとほぼ同義ですし、血族から切り離され、敬われといえば聞こえはいいですが、実際は群の中にあるようでないもののように扱われ、生活は隔絶されてしまいます。
 母にとってしてみれば、胎内で育て痛みに耐えて産んだ子に、母としての情をかけることが許されないどころか、子であったとも言えないのです。犠殻を得、血族から切り離された天子は別の群へ移り、二度と親子として会うことはありません。確かに産んだ子が、我が子でなかったとされてしまう痛みや悲しみは、想像に難くないでしょう。

 それでも、天子は、天子であり、天子でしかあれません。そして、必ず、天子はノクレクに常に存在する。
 一族には常に何人かの天子と犠殻が、存在するようにされています。何故、天子が生まれるのか、わたしたちの役目は何か、わたしが知りたいくらいなのです。
 だから、マーネルクスには悪いですが、この度、天子の紐を還す満月の儀に立ち会えることを、わたしは少し、喜んでいます。天子の死があって、紐を御返しし、燃し無くなった時、何かが・・・わかるような、気がして。こんな考えはよくないとも思うのですが、そうとしか言えないものを、偽ることは、もっといけないと思うのです。

「ルルレスカ・・・何故、残ったのですか?」
「・・・イオが、俺が死んだ後の事を考えてくれる機会になればいいと思って。いつか、絶対、俺の方が先に死ぬんだって、知っててもわかってないはずだから。マーネルクスには悪いけど」

 色んなひとが、色んなことを考えるのだなと思いました。マーネルクスには悪いけど、と、考えているのは、何も天子だけでもないのでしょう。我々の犠殻も、きっと同じ。
 ひと方の天子の死が、広がる波紋のように静かに押し寄せて、わたくしたち四人に大きな影響を齎す。これが天意なのかもしれません。すべては流れるまま、たったひとつを選んで・・・未来を創造してゆくのです。
 世界をめぐる流のちからは果てしなく、すべてを押し進めてゆく。

「ここにいたの。大丈夫?」
「ゼアト、もう用事は終わったんですか」
「ウン。お腹空いちゃったよ、帰って食べよう」
「ルルレスカ。少しは眠れましたか?」
「ちょっとだけね。犠殻が三人もいるのに、役立たずだねえって話してた所だよ」
「・・・申し訳、」
「冗談だよ。ちょっと意地悪言ってみたかっただけ。こんなのは慣れてるから平気だよ。それより俺もお腹ぺこぺこ。イオその籠持ってきてね」
「ルルちゃんさあ、僕ら一日中働いてきたのによくもそんな風にイオちゃん使うよねえ」
「天子の為に働くのがあんた達の存在意義でしょ」
「ウワー、キミが僕の天子じゃなくて本当に良かったなあ」

 なんて軽口が聞けるというのは、ルルレスカの美徳だ。彼は立ち上がるなり、すたすたと歩いてきてマーネルクスの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。切なく、悲しげに天子を見るその目が、彼の中にまだ天子の死が生々しくあることをわかっていて、慰めるつもりなのかもしれない。
 ルルレスカは割と強気ではねっ返りだけれど、ひとの機微には特別敏い。聴こえるものと、見えるものから読み取れる事が多すぎて、彼は群に天子として隔離されるより早くから人を避けていたとも聞く。天子にされて、かえって気が晴れたくらいだ、と、言っていたこともある。
 早く帰ろう、とマーネルクスの手を引いて先導を切って群へ戻る背を、花籠を持ったイーオリーオが追い、僕はイスウォルの手をとり起こしてから、背や頭のうしろについた草きれや土を払ってやってから、ゆっくり歩き出した。


 マーネルクスが来て満月の夜までは、とても長い時間のように感じたけれど、実際はあっという間でもあった。
 犠殻同士でしか話せないような事を彼は沢山僕やイーオリーオに聞いたけれど、答えられたことは殆どなかったと思う。僕もイオも、まだ天子がいる。いなくなったあとに不思議に思う事の答えを、僕らが持っているはずがなかった、ともいえるだろう。
 彼を犠殻にしたのが、僕だということに意味があったのだとイスウォルは言ったけれど、そんなものだろうか。僕はイスウォル以外のことは割とどうでもいいから、犠殻だと定めた犠殻が、僕であったということは単に運がなかったんだなと思っているのだけど。

 数日前にルルレスカとイーオリーオが見つけてくれた拓けた小高い丘に、日が沈んだ頃に色々な物を持って五人で集まった。月はまだ低いがそれでも明るい、晴れたよい夜になるだろう。
 さわさわとぬるい風が吹いてくる。ほうほうと鳴く夜鳥のこえと、どこかで流れている小川のせせらぎも聞こえる。

「何か、手順などがあるのでしょうか」
「ないよ。まあ大まかに言えば、月が天辺まで昇ったら天子の玉をリルウェで埋めて、皆で禱り、紐切って、燃やして、火が自然に消えるまで待つだけ」
「・・・はい」

 月が天辺まで昇るまでには、まだ時間があった。山あいにぽかりと浮かんでいる月は、確かにまんまるで。
 今夜、あの月が頭上に昇りきった頃に、ユアバロの紐を還さなければならない・・・。
 この儀をするのに集まって下さったゼアトさんと、イオさんと、イスウォルさんと、ルルレスカさんは草の上に厚い敷物を敷いた上に履物を脱いで上がって寛いでいる。日中であろうが、夜だろうが、ユルトの中であろうが、外であろうが、この方たちには何ものもあまり意味はないのだな、とその姿を見ていて思った。
 ここに数日いる間に驚いたのは、何より天子が積極的に外を歩くことだ。あのお二方の性格に起因するところもあるのだろうが、それを、犠殻が許しているということに、俺は強い衝撃を受けた。ひとのいる群の広場までイスウォルさんがひとりで行くことは滅多にないのだと聞いたが、ユルトの周りくらいなら、目が見えずとも地の形をもう覚えているから一人で歩けるのだと笑っていた。
 俺は、護ってやらねば、囲ってやらねばと、ユアバロをユルトの中に押し込めてばかりだったと思う。目の届かないところに行かせなかった。ゼアトさんや、イオさんのように、外を連れ歩いたことも無かった。・・・だから、なのだろうか。俺が、ユアバロとの関係性を間違えたから、早くに死なせてしまったんだろうか。それなら、俺は、なんと言ってあいつに謝ればいい・・・。

 四人がいるところから離れた場所でじかに腰を下ろして、大事にしまっていたユアバロの玉をそっと取り出す。
 白い月明かりに照らされて、あわく光る、金針の玉。玉の中の金の針は、まるで、空気に(とお)陽光(ひかり)を切り取ったみたいに見える。鋭いが、とてもあたたかで、春の陽のような、やさしく穏やかな弟だった。
 天子というのは、自然と似るものなのだろうか。見目も少しは似ているけれど、清浄過ぎる程の空気感やその気配は、胸が詰まる程よく似ている。弟以外の天子に、会った事がなかったから、今更、俺と弟にも、会えるだけの近さに他の天子や犠殻がいたらよかったのに、と、無駄な望みばかりが腹の底を駆けていく。もしそうだったら、弟ももっと生きられたかもしれないのに。

「弟さんに編んで差し上げたものですか?」
「・・・っ!!!」
「きれいな夕陽色だね。汚れもないし、褪せてもない・・・凄く大事にしてたのがよくわかるよ」

 どのくらい、一人で考え込んでいただろう。左右から、ひょいと覗き込まれて飛び上がる程驚いた。
 イスウォルさんと、ルルレスカさんが俺を挟んで腰をおろし、持っていたユアバロの玉にそうっと、そうっと、とても大切に手を当ててくれて、じんわりとあたたかくなったような感じがした。

 群を出るころにとうとうと吹いていた風はすっかり和(な)いで、静かだ。深い森に囲まれたちいさな丘。
 月が高くなっていた。夜鳥の声すら聞こえなくて、一旦その静謐に気付いてしまえばあとは怖れが涌いてきた。ぶるりと身体が震える。
 この手の中に握れる程の僅かな玉と紐。これさえ、天へ還さなければならないのか。何かひとつでも手元に遺れば、心の穴も埋まらなくはないと思えるのに。そう思ったら、急に涙が出た。

 耳たぶのうしろのやわらかいところが痺れるように痛んで、眼のずっと奥はツキツキと疼く。涙なんてなくしたのだと思っていたのに、こんなに、優しい、天子ふたりに囲まれて。まるで護るように、俺を挟んで。それがいけない。
 俺はずっと気を張っているのに、このふたりがいるというそれだけで、ゆるされたような気になって。
 どうしてこんなにも、人の死は辛いんだろう。どうして死んでしまうのだろう。どうして、まだ、まだずっと先のあったはずの弟だったんだろう。何故天子なんだろう。何故、何故。どうして。天子なんて・・・天子なんて。
 天なんて、本当はいないんじゃないか。天意なんて嘘じゃないか。ただあるのは残酷な現実だけで、そんなのは盲信なんじゃないか。自然は現象であって生き物ではないんだ。調和なんてありえないんじゃないか。だって、俺には、もう弟は・・・ユアバロがいない。ユアバロはいないんだ。もう、どこにも。唯一家族であることを、許されていたのに、兄らしいことなど何もしてやれなかった。彼が死んだあとになって、後悔ばかりが募った。もっと、してやれたことがあったのに、と、考えて考えて、辛かった。
 
 
 名もない儀式は粛々と進められ、思いのほかあっさりと終わってしまった。燃えない葉の上で、紐とリルウェの燃え滓だけが残っている。煙のにおいが、風もないのに溶けて消えるようになくなって、満月は大きく朝へと傾いている。明日が、来てしまう。手元にもうユアバロの無い、明日が。
 言葉をなくしたように、何も話せなくなっていたんだと思う。目の前でほろほろと形を崩している紐の燃え滓をじいっと見つめたまま、いっそこの燃え滓もきれいに燃えてなくなってしまっていたら、こんなに心残りを感じなくて済んだのかもしれないのに。
 月が沈んで、朝日が昇って、そんな当たり前の明日がやってくるのが急に恐ろしくなった。まだ、自分が、この場所で、今、このときを生きているというのを唐突になまなましく感じて、気持ちが悪い。いきている、俺のような、人間が。

「・・・何も無くなってしまったとでも思ってるの?」

 長い、長い、沈黙を破った。
 耐えられなくなったわけじゃない。マーネルクスがその沈黙の上で納得して彼の天子の死に踏ん切りがつけられるなら、きっと朝まででも沈黙を守った。俺たち四人全員が、絶対にそうしていた。
 でも、違う。紐とリルウェの燃え滓を茫然と見つめているマーネルクスは、まだ心残りがあるようだったから、声を掛けた。言わないといけないと思った。
 傾いた月はとても明るく、昼間のようだけれどその周りに薄い雲が流れてきている。上空では風が吹いているんだろう。その音が聴こえる。月が、森が、ながれるすべてのものものが、わらっていた。頭が痛い。

「あなたの胸に、残っているでしょう」

 俺の言葉をついで、イスウォルが言う。

「胸に・・・?」
「え、本気で言ってるの?紐があるじゃん、弟君が編んでくれたやつでしょう、その夕闇色の」

 はっきりと言ってやらないとわからないらしい。
 茫然と燃え滓を見ていたマーネルクスが、自分の胸に手を当てた。イオのとも、ゼアトのとも違う、まるで夜の霧を閉じ込めたような、金色を反射する黒い玉をいろどる、うつくしいらせんの紐。紫のようにも、淡い暁色を孕んでいるようにも見える、不思議な灰色のらせんは、とみに丁寧に編んであるのが誰の目にも明らかなほど。
 犠殻の紐は、天子が編む。天子のものは全て天に還してしまうけど、天子が犠殻の為に編んだそれは残る。
 その紐の存在を、まるごと忘れていたのか、マーネルクスは、胸に当てた手で紐をぎゅっと握って、強く目を閉じた。びょう、と強い風が俺たちの間をすり抜けて、月にのぼっていく。
 呼ばれたように見上げた月の周りには、白虹(びゃっこう)(びゃっこう)が出ていた。月の周りに、ひかりの輪がかかって。

「・・・・・・ユアバロ、」

 引きつった声だった。しぼりだしたような、小さな声。マーネルクスが、月を見て呼んだその名こそ、死んだ天子の名前なのだろう。

「マーネルクス、いいですか。天子は、犠殻を遺してゆきますけれども、何も残らないというわけではありません。天子のものは全て天に御返しする決まりですが、天子が犠殻におくったものは、犠殻のもの。天が取り上げてしまうことはありません。その紐や、ユルトに帰ればもう幾つか、あなたの為にその方が残しているものが、見つかるでしょう。だから、縋ってはいけないのです。天子のものを全て天に御返しするのは、遺物に縋って遺された犠殻が己を生きられないようにしないためだとわたしは思います。あなたが、弟君に依存したままでは、天子も安心して天に帰れませんから、どうか笑って」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・いい夜だねえ」

 ゼアトの声が、肌寒い空気を切った。白虹を受けて、その眼はぞっとするほど赤く見えた。普段は殆ど黒なのに、冷たい光を受けたら、そんな色になるんだなと少し驚く。そういえば、俺もイオも、夜こんな風にゼアトといることなんて一度もなかった。イスウォルは見えないけど。
 何を言うのかな、とゼアトを見ていたら、白虹を見ていた赤い目が俺を見た。かちりと視線があって、ひやりとした。その眼は、とても冷ややかだ。彼がイスウォルの犠殻であることが、まさに天意だったのだとわかる。神がもし存在したのだとしたら、純粋過ぎる程のイスウォルを護る者は、その真反対の要素を逸脱して持っていておかしくない。必要悪というわけではないが、調和とは、そういうことだと思う。

「ナクレツクの古い言葉で、夜の霧をうたったものがあるんだけど、その中にユアバロって言葉が出てくるよ」
「・・・・・・うたに?」
「そう。まあ血族のものだからウェナアトのきみには言ってやれないけど。意味を知ってるかい」
「意味、なんて、あるんですか」
「あるよ。今、きみの為に射してる」

 きれいだね、と本当にそう思っているのかよくわからない冷たい声で言って、ゼアトはイスウォルに自分の羽織をかけてやっていた。いつもなら温かいユルトの中で既に寝んでいるはずの時間だ。儀式は終わったのだから、と群へ帰る気満々のゼアトは持ってきたものを早々に片付け始めていた。
 イオも暫くマーネルクスを見ていたけれどゼアトの片付けを手伝うのに加わって、羽織を貰ったイスウォルは俺の傍に腰を下ろす。

「ルル・・・何が射しているのですか?」
「ああ、ひかりだよ。今、月の周りにひかりの輪っかができてるんだ」
「そうですか。よるのひかり、だなんて・・・素敵な名前ですね」
「・・・・・・・・・・・・俺は、天子だから、本当は憶えてちゃいけないんだけど」

 ゼアトが、ナクレツクの古いうたに出てくるそれを教えてやるならいいんだろう。
 今夜、二組の天子と犠殻が集まって、デアリク以外の血族がみっつ五人で揃っているというのが天意なら。
 集まった天子のひとりが、俺だということが、天意だとするなら。

「・・・・・・ファレの古いうたには、マネルクシアって女神が出て来るよ」
「よく憶えてるんですね、ルル・・・?」
「だって、9つまで天子じゃなかったんだもん、俺。普通のファレの子だったんだよ。全部忘れろ、無かったことにしろだなんて、出来るわけないじゃない?」
「そうでした。その方は、何の女神さまなんですか?」
「朝になったら、皆に射すよ。・・・そろそろ帰ろうか。ゼアトとイオが片付けしてくれたから」

 血族ごとに伝わる古いうた。何の為にうたわれているのか知らないけれど、そのうたを思い出すのと同時に、父の声を思い出して。本来なら無かったはずの、親の記憶。ゼアトがイスウォルにそうしたように、俺にも羽織をくれようとするイオを止めて、立ち上がった。
 父の面影などもう忘れたのに、うたってくれたうたを憶えているなんて、変な話だ。
 白虹があわく融けるように消えてしまうのを見届ける前に、マーネルクスをその場に置いて四人で群へ戻る道をたどり始める。もう眠い。歩いているうちに眠気が消えるといいんだけど。

 紐を燃やして残った天子の玉はゼアトがリルウェと一緒に布に包んで持っていて、夜が明けたあとにでも群長へ持って行くんだろう。その天子の玉が、長く眠っていてくれることを願わずにいられない。
 マーネルクスは、ゼアトのいるこの群へ移ってくる権利がある。天子の玉はこの儀式のあと、犠殻を定めた犠殻のいる群の長が収め保管するから、手元にはなくなっても、そのそばにいることを許すという意味でもあるのだろう。
 
「マーネルクス・・・ちゃんと、帰ってくるでしょうか」
「帰ってこなきゃ、その時はその時ってやつじゃないの。僕は帰ってきてくれなくてもいいけどね」

 そんな話をしているイスウォルとゼアトに挨拶をして、群の広場で別れた。借りているユルトにイオと二人で帰って、寄り添って。紐が燃えてなくなったあと、煩かった聲が静まって、イオがいてくれるから殆ど聞こえなくなって、それで、ようやっとゆっくり眠れる。羽織を脱いで夜着に着替え、擦り寄ったイオからは淡くリルウェが香った。

 自然は、調和を何よりも重んじる。天子に犠殻が存在することは、朝には夜が、光には陰が伴に存在するのと同じ理由。調和の為の、ふたつでひとつ。ヒトの対角には、自然が存在する。しかしそれは調和といっても、不自然に傾いた調和だ。それはそれ、といえばそうなんだけれど、これはとても危ういことでもある。
 ヒトが自然から恵まれるもの以上を求め搾取し始めた時、ヒトはゆるやかに衰退してゆくだろう。謙虚でいなければならない。生かされているものだと、自戒しなければならない。ヒトとして生きるのは、存外大変なことだと俺は思う。天子のいない犠殻は、それこそ、想像を絶する努力で以てヒトでいなければならない。天子の死に引きずられ、召されるようではいけない。まあ、マーネルクスは、心配ないと思うけど。

「おやすみ、イオ」
「お休みなさい」

 祈っていた。あの月にかかる白虹が消えるまで。消えても。ずっと。祈っていたいと思った。
 ユアバロ、よるのひかり。俺は、弟の影だったのかと思ったけれど、ルルレスカさんの言葉でいえば、俺の名前はあさのひかり。ひかりとひかり。照らされていたのは、俺か、弟か。そんなのは、どうでもいいんだな、とすんなり納得できた。
 弟の死顔が記憶に焼き付いて離れなかったのに、あれほど執着した弟と一生を伴にした天子の玉と、弟の為に俺が編んだ紐を燃したあと、泣いてすっきりしたのより、ずっと自然に心が落ち着いて、平静を取り戻した、と実感がわいた。普段通りの、俺に戻った。弟の死によってどこかゆがんだものが、すっと真っ直ぐの線を引くように正されて。こころよい。
 目を閉じる度思い出した青白い死顔は、同じ笑みでも生きていた時の、ほうと赤みの差した楽しげな微笑みに変わって、唯一残っていた紐を俺が手放したことで、ようやく、弟は天に還れたんだろう。未練を持てば、あの優しい弟が心配してしまうことなんて、わかりきっていたことなのに。
 やっと、俺自身が最もユアバロの死を受け容れることができていなかったのだと、自覚ができて、できたからこそ、納得尽くで受け容れられた。そんな、とても、簡単で当たり前のことを今更。

 滲むように、とけるように消えかかった月暈(つきかさ)。それは白い虹。こうこうと照って、俺を照らす。
 ふうわりとまろく輝く、よるのひかり。その、優しい光。夜闇に歩み出ては、月の照るようすを見て弟を思い出すだろう。そして、これから何度だって祈るだろう。感謝するだろう。また、会えますように。幸せでありますように。

 よるのひかりが追いかける、あさのひかり。あさのひかりが追い縋る、よるのひかり。それが調和だったのだ。
 陰ではない。ひかりとひかり。弟と俺。それを、わかっていなかった。今更わかった。
 すまなかった、と思いはすれど、後悔をするのにはもう遅すぎた。あいしてた。ありがとう。



 祈り、頭を垂れるマーネルクスの上で、ひょうと吹いた風に身を寄せて、月暈が泳いで行った。




***了。

『夜光つらぬきて』

『夜光つらぬきて』 山城よる 作

既刊『花揺の雨』より。2015年京都にて開催、リュウの行商人展参加作品。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-01-11
Copyrighted

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