コンビニで働く二人のフリーターと一人のSVの話

コンビニで働く二人のフリーターと一人のSVの話

コンビニで働く二人のフリーターと一人のSVの話
読むのにかかる時間:三十分くらい
    
 岩田の話

「おーい、岩田。ちょっとカネ貸してくれよ。昨日スロットでスっちまってさあ。たのむよ、二千円でいいからさ、彼女の家に行くまでの電車代だけ」
「こないだ貸したの、まだ返してもらってないですよ。それに大丈夫なんですか?彼女さん、既婚者って聞きましたけど」   
「ウソっ、誰から聞いた!?まあ、大丈夫だって。旦那はシゴトシゴトでめったに帰ってこないしよ、それに不倫は文化とか言うじゃんか、バレなきゃみんなハッピーなんだよ。だから、あんま言うなよな」
結局森崎は強引に岩田に二千円を借り、その金で500mlのビール缶を一本買って店をあとにした。

 今朝はいきなりいやなスタートをきった。
借金というのは人に頼むのも、頼まれるのも嫌なものだ。森崎のように平気で借金の申し込みをする人間も世の中にはいるのだが。
 岩田は学生時代からこのコンビニで働き始めて約十年、いつのまにか正社員とかわらない勤務時間をこなしていた。なぜ岩田が就職しないのかというと小説家になりたいという夢のせいだ。本来ならば、週二、三回働いて小説の執筆に打ち込みたいところだが現実はそう甘くはなかった。大学と大学院の奨学金の返済が重く彼の背中にのしかかっている。それに加え大学院を出てすぐに母が脳梗塞で亡くなってしまい、今は集合住宅で年老いた無職の父とふたり暮らし、生活はギリギリだ。金は必要だが夢も捨てたくない、加えて大学院時代にとった文学コンクールの入賞が未練にもなり彼をコンビニに引きとどまらせるのだった。

 「いらっしゃいませこんにちは~、からあげサンおひとついかがでしょうか~」 
レジに立ち、次から次へと客をさばいていいく。師走になって年末に向けて人が動いているようだ。まるでゾンビのようにひっきりなしに客がやってくる。岩田は客という存在にいつも怯えていた。レジ側からみると客というのは自分を神様と思っている怪物、彼の目にはそのようにうつっているのだった。もちろんそうでない人がほとんどなのだ。頭では分かっている。小学生からおじいさん、おばあさんまで、老若男女問わず店にやってくる。なかにはありがとう、とひとこと言ってくれる人もいれば、なにもいわない人、軽い世間話をする人、いつもポイントカードを後だしする人、いろいろな客がいる。しかしこのいろんな客に紛れ込み、人間に見えていた客が突然怪物に変身して無茶な事を言い出したら、こちらに非はなくてもこちらに難癖をつけて大事になったら、なんてことを考えながら些細なミスさえも絶対にしないように、わずかでも機嫌を損ねないように、ポーカーフェイスの笑みを浮かべつついつも手を汗でしめらせながらレジをこなしているのだった。

「岩田さん、よかったらお昼ご飯食べてきてくださいね」
十三時をすぎた頃、岩田はもう一人のパートさんから声をかけられ事務室に戻り腰をおろした。
「昼飯なんて、食べたくないんだよなあ」
ぽつりとつぶやき、タバコに火をつけ真っ白な煙を低い天井に向かって吐いた。二十四時間ついてる事務室の蛍光灯がタバコの煙で少しくもり、淡い光になって岩田を照らしている。高級品になりつつあるタバコだが、これだけはやめることができない。フッと吐いた煙を見つめているとほんのわずかに心が安らいだような気持ちになり、また自分が世間に認められてはいなくとも才能あふれる駆け出しの芸術家のように感じられるのだ。

 「レジヘキテクダサイ!レジヘキテクダサイ!」
コンピューターの冷たい音声が岩田を容赦なく呼び出す。休憩時間といえど、こんな呼び出しはいつもの事だ。レジから戻ってタバコを口にくわえ、スマホで今日の仕事のあとのスケジュールを確認する。

十二月十日 十八時~ 八木心療内科

 そうか、今日は病院の日だった。
岩田はうつや精神病、という診断を受けていたわけではなかった。だがもうすぐ三十歳という時分、突然深夜に目が覚め無意識ながら冷蔵庫の中の食べ物をあさってしまうという症状が出始めた。はじめのうちは週に二、三回程度であったのだが日を追うごとに症状は悪化し一年もすればほぼ毎日真夜中に中途覚醒し、無意識に冷蔵庫をあさってしまうのであった。医者に相談すると、慢性的な睡眠不足や不規則な生活、過度のストレスなどでこういう症状が出たりするらしい。岩田はストイックすぎたのだ。大学時代から一日五時間は執筆の時間と決めており、忠実にそれをこなしていた。プロの作家になるにはそれくらいはやらなくてはいけない。しかし仕事をしながら毎日、一日五時間というのは本当に厳しい。仕事以外の時間はギリギリまで削らないといけない、もちろん睡眠時間も。そんな彼のストイックさはいつしか病的な習慣となっていた。心療内科に通って睡眠薬をもらって、症状は半減したが完治したとはいえない。だが岩田はこの症状をさほど気にかけてはいなかった。一日五時間の創作の時間さえ守られれば、睡眠時間や健康のことなんてたいしてどうでもよかったのである。

 休憩時間を終え、レジに戻る。もう店内はさほど混んでいなかった。
もう一人のパートさんを休憩に行かせてしばらくすると嫌な客が来た。
高岡だ。
五十前後のこの男、クレーマーというわけではないのだが、やたらと従業員にからんでくるのだ。連絡先教えろ、という彼の要望を断りきれなかった一人の従業員のおかげで芋づる式にほぼすべての従業員の連絡先を知っている。もちろん岩田も断りきれずに連絡先を教えてしまったクチだ。
「おい、お前なんでLINE返信しねえんだよう」
「だから言ってるじゃないですか。夜は勉強してるって」
「連絡が来たら返信するのが礼儀だろ!」さらにすごむ高岡。
はっきり言ってこいつは大嫌いだ、いつも自分に都合のいい正論ばかりふりかざす。
昨晩、たしかにこの男から岩田にLINEが来ており、内容は店の従業員と忘年会を開こうというものだった。以前にもこういう事があり、岩田は心底うんざりしていた。
言い出しっぺは高岡なのに幹事としての役回り、しかも年長者という事で支払いも高岡と折半させられたのだ。
「高岡さん、悪いですけどもう忘年会は開けません」
「はあ?なんでや?」
「ぼくが夜勉強してるのは知ってますよね、それにお金もないんですよ」
「そんなことやない!なんで返信せんのやってことや」
高岡の目は血走って充血している。
「おまえ、俺を馬鹿にしてるんか!店長、店長呼べや」
「店長は今日はお休みです!それにこういうことは僕と高岡さんの問題で店長を呼んでも仕方がないですよ!」
「そんなことは関係ない、早く呼べ」
店長を呼べというクレーマーのお決まりの文句に一瞬ギクリとした。岩田の手はもう震え始めている。しかしこれはこの面倒男とケリをつけるいい機会なのかもしれない、とかすかに頭をよぎった。
「わかりました。電話してきます」
「待ってるからな」
店長に連絡したらオーナーに電話しろ、とのことだった。オーナーに電話をかける岩田。オーナーはSVに電話しろ、と言う。SVに電話をしたらすぐ行く、とのことだった。
「外で待っとるからな、来たら呼びにこいや」
だれでもいいから早く来てくれ、事務室で岩田は震える左手を震える右手で握り込んだ。

 三十分ほどしてSVが到着した。
四十くらいの隅SVの顔は青ざめている。ほぼクレームの呼び出しだ、無理もない。
「お客様、お待たせ致しました。SVの隅と申します。いかがされましたか?」
「おう?俺は店長を呼べって言ったやろ」怒りのおさまりきらない高岡。
「申し訳ありません。本日当店の店長は休日でして」
さらに顔を青くした隅が言った。
「まあ、ええ。この岩田いう店員なあ、接客態度が悪いんや。それに客の俺にレシートも渡しよらへん。おかげで家計簿つけれへんやないか、どないしてくれるんや?今までのレシート、ここでもらえるか?」
隅SVが来たとたん、ころりと発言を変える高岡。岩田は胸に怒りがこみあげてくるのを感じる。だが彼には思いあたる節もあった。たしかに忙しくなってくると、レシートを渡さないという事は少なからずある。そこをつつかれると岩田にはかえす言葉もなくうつむき、ただ床を見つめていた。
「岩田君、お客様が言ってらっしゃる事は本当ですか?」
いつもはタメ口の隅が敬語で岩田に聞く。
「はい」
「それはいけません。接客のマニュアルにもあるでしょう?レシートは必ずお客様にお渡しすると。早く謝ってください」
「ですが……その……」
「あん?なに言ってるんかよく聞こえんなあ?はやくレシートくれや、今すぐに」
「お客さま、いつ買い物されたレシートでしょうか?それを教えていただかないとレシートの再発行は難しいです」
「いつの買い物?そんなん忘れてしもたわ。それにレシートよこさへんそっちが悪いんちゃうの、客がいつ買い物したかなんて覚えとかなあかんの?」
高岡の怒声に気付き、立ち読み客もこちらをチラチラと確認している。
岩田の手は氷のように冷たくなり何も考えられない。今すぐに、なんて無理に決まっている。
「早く、早く謝ってください」隅SVも焦った口調で隅もたたみかける。
もう無駄だと悟った。それよりもはやく終わらせたい、高岡や隅SVに早く帰ってほしいという感情に岩田は支配されていく。客という怪物にはどうあがいても太刀打ちできないのだ、たとえ怪物に非があろうとも。なぜならこの怪物は神様の格好をしている。
「なんや、はよう謝れや。こっちも暇やないんやで」
「……すいませんでした……」
「なにい?よう聞こえんなあ?それとも今すぐレシートくれるんか?ん?」
「申し訳ありませんでした。以後気をつけます」
「お客様、大変申し訳ありません。本部としましてもきちんと指導いたしますので」
「おう、わかったんならもうええわ。きっちり教育しとけや。あ、あとな、夜勤に森崎ってやついるやろ。あいつにも言いたい事あるし、俺の電話に連絡するよう言うといて。できるだけ早くな」
勝ち誇った高岡が捨て台詞を吐き、店を出て行った。
隅SVが到着してからものの十五分ほどのできごとだった。
高岡としても従業員の連絡先を聞くなどという都合の悪いところが露呈する前に立ち去りたかったに決まっている。それにレシートの件だって本当に買い物していたかどうかなんて、もう岩田の記憶にもない。
 岩田は隅SVに今回の一件がなぜこのような事になったのかを話した。
だが隅SVは個人の連絡先を教えた方が悪いのだ、なぜ断らなかったのかと取り合わない。それよりマニュアルに沿った接客をするようにしないといけない、と岩田を諭すのだった。たしかにその通りなのは岩田もわかっていた。だが断りきれずに相手の言うがままになってしまう事もあるじゃないか、と言いかけて岩田は口をつぐんだ。
「ところで夜勤に森崎さんっているの?さっきの高岡さん、だっけ?
 なんか電話させろとか言ってたけど」
「います。森崎さんは高岡の連絡先教えて攻撃をはっきりと断ったことがあるんです。
 きっとまだ根に持っていて、難癖つけてくるんじゃないでしょうか」
「急いで森崎さんに連絡とって。岩田君。」
急いで森崎にも電話をかけた、しかし何度かけても森崎は電話に出る事はなかった。
「もうこれ以上どうしようもないしぼくはこれで帰るけど、また時間おいて森崎って人に電話してもらうよう言っといてね。もしどうしても電話に出なかったらメモして伝えて。多分森崎さんが電話さえかければ解決するはずだから。あと、今回は緊急で僕がきたけど本来は本部ではなくお店で解決することだから、もし高岡さんがまた騒ぐようならオーナーか店長に処理してもらってください。」
隅SVは手早く処理できてよかった、安心感すら漂わせた安堵の表情をマスクで隠し店をあとにした。

 その後の岩田の心持ちは穏やかであるはずがなかった。
屈辱と怒りの入り交じった感情を胸にレジをこなし続ける。
情けないのは高岡との一件が一応なりともすぐに終わってよかったと感じている。
隅SVも感じていたであろうこの安堵感を岩田は許せなかった。しかし彼は隅SVがマスクで顔を隠すのと同じように取り繕った笑顔で業務をこなすのだった。
 業務終了十分前、店の電話が鳴った。岩田は凍り付いた。
まさか高岡か?それとも別のクレームだろうか。
震え始めた手で岩田は受話器をとった。
電話は次のシフトの高校生からのもので、補修授業があるので遅れますとの用件だった。
「またか」
岩田はひとりごとを壁に向かって言い、レジに戻った。

「おつかれさまでした。今日はこれであがります」
結局一時間半後に業務が終了し、岩田はすぐさま病院に行けなかった謝罪と次の予約の電話をかけて店を出た。帰宅ラッシュで行列している車を横目に岩田はとぼとぼと歩いていく。
空を見上げても曇っていて月も星も見えない。
 岩田の自宅は巨大な集合住宅の十七階にある。ポストを確認し、中のチラシを備え付けのゴミ箱に捨て、エレベーターに乗りこんで十七階のボタンを押した。エレベーターが到着して扉が開くと薄暗く長い長い廊下が続いている。この廊下の一番奥からひとつ手前が岩田の自宅だ。自宅扉の前の消えかかっている蛍光灯はいつまでたっても交換されることはない。長い廊下の右手にはドア、給湯器、小さな小窓がきっちり等間隔に並んでいる。コの字型の集合住宅なので左手にも鏡に映したようにまったく同じ光景。ミツバチの巣、岩田はこの集合住宅のことをそう思っていた。
 自宅の扉を開けてリビングに入ると父が焼酎を飲んでテレビを見ている。
「おやじただいま。またお酒?」
「お、おお。おかえり」ゆっくりと振り返り父が言った。
テーブルの上にはもう三分の一ほどしか入っていない四リットルの大きな焼酎のペットボトルと父が食べ残した賞味期限が二日も切れた弁当が残っていた。自分は高岡の一件もあり、夕食も食べれそうにない。
 岩田は自分の部屋に戻った。岩田の部屋は執筆に必要なもの以外はなにもない六畳一間、中くらいの本棚がふたつ、机がひとつ、壁にかかっているバスキアの絵の小さなポスターが一枚だけ。ただ部屋には本が散乱し、埋め尽くされている。本をかき分け引きっぱなしの布団に寝転がる。少し休んだらすぐ執筆だ。もちろん執筆なんて無理な精神状態であるのは岩田本人が一番わかっている、だがなんとしても一日五時間の執筆ノルマを達成しなくてはならない。眠かろうが体調が悪かろうが、書けなかろうが、五時間は机の前に座らなければプロになどなれっこない。

 パソコンを開けて電源を入れ、しばらく待つ。ブラウザを立ち上げるとメールチェックをする、いつもどうりamazanからの商品紹介やスパムメールだらけだ。その中の一通に『××文学賞事務局』からのメールが届いていた。一ヶ月ほど前に応募した文学賞だった。文学賞といってもマイナーなもので入賞したとしても賞金もなにもなく、応募した作品が書籍化されるだけで、応募者も小説家を夢見る高校生から定年を迎えた物書き気取りの年配者まで多岐にわたるのだった。きっと通っているはずだ、ひと呼吸してメールを開ける。

『このたびは当文学賞にご応募いただき誠にありがとうございます。
厳重なる選考の結果、落選となりました旨通知いたします』

 だいたいこのような事が書かれていた。文学賞なんて落ちて当たり前、いつものことだ。次また頑張ればいい。休んでなんかいられない、すぐに取りかかろう。
メールを閉じ、小説を書き始める。だが一時間、二時間と時間ばかりが経過するだけで書けない。アイデアはあるが文章としてまとまらない。
岩田はイライラし始めていた。執筆を初めて三時間が経過しようとした頃、何も書けぬまパソコンを閉じた。

 大学院時代、彼はスターだった。二流の大学、大学院だが文学部はじまっての文学コンクールを受賞し学生たちの岩田を見る目は変わった。岩田を担当していた文学部の教授からも卒業して非常勤講師の空きが出たら連絡する、なんて話も頂いた。
だが今の自分はどうだ。毎日客に怯え、もはや無意味といっていい執筆活動なんかを続けている。非常勤講師の話をしていた教授も四年前に退官、大学にも戻れそうもない。小説のために自分は人生を台無しにしてしまったのだ。自分のこれまでの努力や文学コンクール受賞なんて何の価値もなかった。後に残ったのは奨学金という名の借金と底辺フリーターという現実だけ。とにかくもう今日はやめよう、岩田は部屋を出て父に気づかれないように冷蔵庫から焼酎をとりだす。父は背中を丸めたままテレビを見続けている。テレビのバラエティ番組のタレントの笑い声が小さな音量で流れていた。
 部屋に戻りまず一杯。酒というのはなぜこうもまずいのだろう、岩田は酔うためだけのために一杯、また一杯と飲み干してゆく。このまま今日は寝てしまおうと睡眠薬をコップに残った焼酎で流し込んだ。布団に入り横になると小説がいっぱいにつまっている本棚の上に大学時代に文学コンクールを受賞した時いただいたトロフィーが蛍光灯の光を受けてキラリと輝いている。近くにあった本をトロフィーめがけて思いっきり投げた。こんな文学コンクールさえとらなけば……いつのまにか彼の目から涙がこぼれ落ちていた。
 二時間ほどたった頃、頭痛と激しい吐き気に目がさめ、トイレへかけこんで吐いた。吐いたものを流して床に座り込み、壁にもたれかかる。吐き気が強くなってくると指を喉の奥まで突っ込んで嘔吐した。だいぶ長い間、トイレにこもっていた。
「もう死にたい」
岩田は小さな声でトイレの壁に向かってつぶやいた。
誰にも聞かれてはいけない独り言だった。

 朝八時、スマホのアラームが鳴り岩田は出勤のために準備をはじめた。ほとんど寝ていない。まだ酒が残ってはいたが仕事に行けないほどではなかった。
シャワーを浴びながら歯磨きをして服を着る、そして十五分前に玄関のドアを開けて出勤するのだった。
 集合住宅から店へ向かう。車道は変わらず朝の通勤ラッシュの車で今日も渋滞している。黄色くなった街路樹の葉っぱがチラチラと落ち、それをいつものおばあさんが箒で集めている。
 岩田は昨晩、ふとつぶやいた独り言について寝不足の頭で考えていた。小説家なんていう夢なんて見なければよかったのだろうか、これからも小説家として大成することなんてきっとないだろう。そしてもう普通の人生に戻るには難しい年齢なのかもしれない。大学院卒の高学歴ワーキングプア、手に汗をかきながらレジをこなす毎日。
「そうだ、やっぱり死んでしまおう」
誰にも聞かれないように今度ははっきりと口にした。
芥川も太宰も、自分の尊敬する三島由紀夫も自ら命を断った、芽が出なかったとはいえ自分も文学に向き合った人間だ。彼らと同じ最後を迎えるのは自分にはふさわしいことなのかもしれない。毎日机に向かった、文壇から認められなかっただけで自分には小説家としての誇りがある。
 どんよりとした曇り空だったがはっきりと死を決意した瞬間、ほんの少し心が穏やかになった。

 十七時、その日の業務が終わり彼はホームセンターに寄り、中くらいのロープを買った。休憩時間にスマホで調べに調べると、どうやら首をくくるのが一番苦しむ事なくいけるのだという。首つりに苦痛なし、は医学界では定説らしい。窒息ではなく脳への血流を遮断することで苦しむことなく、それどころか気持ちよくなってくるらしいのだ。
もちろん集合住宅にはロープをかける場所などないのだが、うまくやればドアノブにロープをくくってそれに首をかけ体重をのせると一瞬で意識がとび、死ねるらしかった。
ネットは便利だ、誰に聞かなくともこんな情報はたくさんアップされている。そして自分と同じく死にたいという人間、同志は思った以上に多かった。
いつもの部屋に帰宅し真っ先にロープを机の引き出しに入れ、さらにその上にバスタオルをのせ隠した。
 決行日は大晦日の二十三時。
父が寝静まってからでなくてはならなかったし、新年が始める前にケリをつけたっかたのだ。ただひとつ怖いのは首つりは失敗すると重大な障害が残る事もあるらしい。脳への血流を遮断するのは人体にとって大変なことなのだ。これだけは絶対にさけなければならない。大晦日までのあとの二十日間は首つりの情報収集と、予行演習、そして同志である自殺願望者たちの声を聞きながら過ごそう。岩田はそう心に決めた。

 大晦日、朝。
「おやじ、今日の夜は店で頼んであるおせち持って帰るから。一緒にたべよう」
「お、おお。珍しいな、いつだって帰ってくるなり部屋にこもるのに」
「まあ大晦日くらいはね」
いつもどおり八時四十五分に部屋を出る。
テレビも自分の周りも新年へ向けてお祭り気分だった。普通の人生を送っている人は仕事も終わり休日で、昼間から酒を飲んだり子どもと遊んだり、部屋の大掃除をしているようだった。
 集合住宅を出て店へ向かう。もう通勤ラッシュの車は一台もなく、ガランとしている。街路樹もすっかり枯れ果てて丸坊主になり落ち葉もなく、いつも掃除しているおばあさんももういない。
「おはようございます」岩田は夜勤の森崎に声をかけた。
「おう、岩田。おはよう」森崎はいつも明るい。
「あ、そうだ。俺新年明けてしばらくしたら店やめるから」
「えっ、嘘でしょ。突然すぎますよ。なんでやめるんですか?」
「まあいいからいいから。そのうちまた話すわ。あ、お金は……」
「……お金はもういいですよ。餞別ということにしておきます」
「え!いいの!?いや~悪いなあ~三万くらいだったかな、ごめんごめん」
(積もり積もって五万だ。でもその“また”はもうないんだ)
「おまえ結構いいやつだった…いや…いいやつだと思ってたけど…サンキュな」
森崎がビール片手に店を出て、最後の仕事が始まった。
心持ちは軽く、手に汗をかくこともない。もうなにが起こっても怖くなんかない。
岩田は死を決意しても退職する意思を店長に伝えなかった。人間、死を決意したところで習慣化された行動を変える事はできないものだ。仮に退職したとして部屋にこもって今更生きる希望でも湧いてきたら、と思うと習慣化された日常の方が決意が揺らぐ余地がなくていい。それに自分が突然いなくなって店が多少なりとも混乱するのを想像すると、どこか少しおかしく、してやったりな気分になるのだった。

 「あがります、どうもありがとうございました。」
とうとう最後の仕事が終わった。予約していたおせちとウイスキーを買って店をでる。
交代したバイトの学生たちがヒソヒソと岩田の事を話す。
「ありがとうございましたって、違和感ありまくりだよね」
「まあ岩田さん、変わってるもんね。あとから入ってきた高校生にも敬語だし。それに最近帰り際お酒買って帰るんだよ、気づいた?」
「へえ、そうなんだ。なにか悩み事でもあるんじゃないっすか。あ、大学でてコンビニバイトだしありまくりか」
「大学院だよ、だから余計にね。でも最近岩田さん、なんかおだやかなんだよね~。ちょっと話しかけやすくなったっていうか。私はめっちゃ稼いでるやなヤツより、優しいフリーターの方がいいな」
アルバイトの学生たちの感じていた事は半分当たっていた。岩田の心はとてもおだやかだった。死への決意はゆるぎないものだったがもう半分は日に日に迫り来る失敗への恐怖、不安。ネットで仕入れた情報でほんとうにうまくいくだろうか。だがそこさえ乗り切れば……。

「おやじ、ただいま」
「お、おお。おかえり。」
飲みかけの焼酎をそっと手で隠しつつ父が言った。
「おせち持って帰ってきたよ。それと……」
岩田は父の手からコップをとり、焼酎をコップギリギリまで注いだ。
「お、おお。ありがとう」
「さあ、食べよう」
おせちをひろげ、皿にうつした。
母の遺影も仏壇から持ってきてテーブルに置いた。家族三人の忘年会、岩田にとっては最後の晩餐だった。

 午後十時前、父はテレビの前で寝息をたてていた。
「おやじ、いや、お父さん。ありがとう。いろいろとうまくいかなくてごめん」
岩田はそっとつぶやき寝ている父に布団をかぶせ、テレビの音量を少しだけさげた。タレントたちの年末の大騒ぎがかすかに聞こえる。母の遺影を父の枕元に置いて、部屋に戻りドアに鍵をかけた。
 二十二時からの一時間、まだやることが残っている。
机に向かいスタンドライトをつけ、パソコンをたちあげる。書きかけの作品のタイトルの最後に未完とつけネットにアップし、机から便せんを取り出し遺書を書き始めた。
明日朝には父は自分が死んでいる事に気づいたら警察と救急車を呼ぶはずだ。そのとき万が一にでも父に疑いがかかってはいけないのだ。

『葬式も、戒名も、お金のかかることはなんにもいりません。
 大学時代から毎日机に向かい続けた事だけが自分の唯一の誇りです。
 自ら死を選ぶのは悪い事ではないと思っています。
 おやじ、おふくろのところで待っています。』

おふくろのところで待っています、だなんて岩田は死後の世界などわずかも信じてはいなかった。しかし父の悲しみが少しでもまぎれるなら、と思いそう書いたのだった。
 ウイスキーの残りをグイッと一気に飲んで、ベランダに出てタバコに火をつける。フウーと吐いた煙の向こうに街の明かりが見える。きっと下では間もなく明ける新年のためににぎやかなのだろう。だがこの高さからはいつもどおりの景色だった。酔っぱらいの歌声が聞こえ、チョロチョロと人が動いてるのが見える。人間の大きさなんてたかがそんなもの。ちょっと見る位置が変わればを変えれば地位や年収なんて関係ない。
吸い終わった煙草を手に部屋に戻ってカーテンを閉めた。
 除夜の鐘が聞こえ始めてきた。
よし、やるか、とつぶやいてドアノブにロープをかけた。結び目はもう作ってある。高さもばっちりだ。ギリギリでお尻のつかない高さ。何度も練習した。絶対にうまくいく。うまくいけば十分後には自分はもういない。ロープを首にかけ、しゃがみこむ。目の前には捨てきれない夢の為に向かい続けた机。スタンドライトが空になったウイスキーのミニボトルと自分の最後の言葉が書かれた便箋を照らしている。自分が死ぬ為に使った経費、ロープ代とウイスキー代合わせて千五百円弱。
まるで自分の命の値段のような気がして笑えてしまう。
 深い深呼吸を二、三度して少しずつ体重をかけていった。
苦しい、息ができない、ネットの情報なんてやっぱり嘘だったのか、と思った瞬間目の前が真っ白になった。
なにもない、真っ白の空間。
ただひとつのシミさえない。
ここには白しか存在していない。
真っ白い宇宙の中に自分だけがいる。
自分の体が浮いていくような、もしくは沈んでいるような感覚。
キーンという音が聞こえだし、どんどん大きくなってくる。そしてだんだんと白から黒の宇宙へと変わっていく。
(…もう終われるんだ…これで、全部終わり…)
 
 ふと気がつけばうすい琥珀色の光が差している。ゆっくり目をあけてみると、カーテンが風でふわふわと揺れていた。すこしだけ開いているカーテンの隙間から朝日が突き抜け、右目を照らす。
 気がつけば激しい頭痛。そして吐瀉物が胸元を汚して、ツンとした香りが鼻をつく。両手足が少ししびれている。ロープを首から外して振り返ると、ドアノブがわずかに下向きに曲がっていた。ドアノブが曲がり、お尻が床について首を締めるロープがゆるんでしまったとしか考えられない。
カーテンを開けると初日の出が雲や山々を照らしていた。
初日の出だなんて、なんだこんなの。いつもの日の出と何が違うっていうんだ。
岩田は遺書になるはずだった便箋とロープを机の奥の方へと隠し、布団に倒れ込んで眠った。

 元日午前九時過ぎ、スマホの着信音が鳴って、目を覚ます。映るのはいつもどおりの天井だった。ハッと気がつけばもう九時をまわっている。急いで店からの着信に出た。
「はい、はい。すみません。寝坊しました。すぐに参ります」
岩田は部屋を出た。テレビの前に父も母の遺影もない。どうやら部屋に戻って寝ているようだ。まだ頭痛も吐き気も続いている。首つりの後遺症か?と不安になったが二日酔いのようだった。詳しいところは病院で検査してみないとわからない。病院で検査してもわからないレベルでなんらかの障害が残っている可能性だってある。だが今日は元旦、どこの病院も閉まっている。それに首を吊ったのでCT撮ってください、なんて言う度胸は岩田にはない。自覚する範囲では頭痛と吐き気以外はなにもなさそうだ。小説を書くのは問題ないだろうか、不安がよぎる。
 大急ぎでシャワーを浴び、服を着て靴を履き、ドアを開け集合住宅を飛び出した。
明け方とは違い空はどんよりと曇って、今にも雨が降り出しそうだ。集合住宅に目をやると何事もなかったようにそびえたっている。うまくいっていれば今頃あの集合集宅の十七階の一室は立ち入り禁止の黄色テープがたくさん貼られているはずなのに。
 急いで出てきたせいか、集合住宅を出たところで耐えきれず街路樹に吐いてしまった。体調は最悪だ。街路樹にもたれかかっている岩田を初詣に向かう着物を着た大学生そこそこのカップルが気持ち悪そうに見ていた。二人でひそひそとなにかを話している。
車道には車が渋滞していた。ほとんどがファミリーの初詣、帰省による渋滞のようだ。
仕事となれば一斉に出勤し大渋滞、正月になったら一斉に動いてまた渋滞。
みんな同じように、同じ場所へ向かうからこの道はいつも混んでいるのだ。
同じような毎日、似たような人生。
街路樹にもたれかかりながら渋滞している車に顔を向けて言った。
「ぼくには……大きな夢があるぞ」
岩田は店へと急いだ。

  森崎の話

「おーい、岩田。ちょっとカネ貸してくれよ。昨日スロットでスっちまってさあ。たのむよ、二千円でいいからさ、彼女の家に行くまでの電車代だけ」
「こないだ貸したの、まだ返してもらってないですよ。それに大丈夫なんですか?彼女さん、既婚者って聞きましたけど」   
「ウソっ、誰から聞いた!?まあ、大丈夫だって。旦那はシゴトシゴトでめったに帰ってこないしよ、それに不倫は文化とか言うじゃんか、バレなきゃみんなハッピーなんだよ。だから、あんま言うなよな」
結局森崎は強引に岩田に二千円を借り、その金で500mlのビール缶を一本買って店をあとにした。

 今日は天気もよくて気持ちがいい。ビールを飲みつつ軽い足取りで地下鉄へ向かう。店を出れば森崎はとてもコンビニ店員には見えなかった。手足は長く背も高い彼は黒のムートンブーツに明るめのダメージジーンズ、黒と黄色のチェックシャツに灰色のダウンベストを着て黒ぶちの伊達眼鏡をかけ、ニットのハンチング帽をかぶり歩きながら左耳にピアスをつける。
 そしてピッタリ九時三十分、既婚の恋人ミヨからLINEが入る。ミヨからの連絡は集合時間と場所の連絡のみ、その連絡以外はしない約束になっていた。今日は十一時に京都駅に直結してるホテルグランビヤ503号室に部屋に直接来てということだ。
 地下鉄の入り口でビールの空き缶を捨て、エレベーターでコンコースへ。岩田に借りた金で切符を買い駅構内に入った。
午前十時前後にもなると通勤、通学の乗客もガクッと減って京都市営地下鉄はガラガラだ。二分ほど待つと電車が来て、乗り込む。山科駅で降り、駅構内の売店で二本目のビールを買って早速口をつけJR山科駅の改札をひらりとくぐり抜ける。ホームにあがるとベンチには新聞紙をひろげたおじいさん、あっちにはベビーカーをしっかりとつかんでいるお母さん、こっちには遅刻して焦っている表情のブレザー姿の高校生、いろんな人がそれぞれの理由で京都方面の電車を待っているのだった。電車の到着アナウンスが鳴ると、あわてて一気にビールを飲み干しゴミ箱に捨てて電車に乗り京都駅へ向かった。

 駅に着くとどこからかクリスマスソングが聞こえる。さすがに京都駅は人が多い。ここ数年感じている事だが本当に外国人客が増えた。見渡すと目に映る欧米人は一人や二人ではなかった。アジア系の人もいれると結構な数の外国人がいることだろう。
 ホテルに着いてロビーのソファに腰掛けて十一時までの時間をつぶす。普通ならロビーで待ち合わせるところだろうが相手は既婚者だ。できるかぎり人目に触れない方がいい。窓から京都駅を眺めながら高校の同窓会で再会したミヨともそろそろ一年、お互い割り切った気楽な関係だけどそろそろ潮時かな、なんて考えていた。
 
503号室に着いてチャイムを鳴らす。ほどなくしてミヨが出てきた。
「あっ、モリサキ。よく来たね!」
「お前、その顔、その格好…」
高校の時の制服だ。そういえば以前、どこから手に入れてきたのかナース服やチャイナドレスの時もあったな。ベッドのところに大きなキャスターが見える。わざわざキャスターに入れて持ってきたのか。そこまでコスプレ好きなのか、この女は……
「どう?そそるでしょ~」
ぎりぎりまでミニにしたスカートに細くて長い足が伸びている。当時流行っていたルーズソックスに胸元を極限まであけたブラウスに大きめの紺のカーディガン、パーマをあてた明るめの長い髪を高めのツインテールで結っている。そして濃いとかいうレベルをはるかに超えたガッツリギャルメイク、ファンデを塗りたくって真っ白な顔に真っ赤な口紅を大きく塗り、体をくねっとさせながら笑っている。
本人曰くハロウィンでやりそこねたハーレイクインjk版の設定で仮装らしい。
「……実にエロいな……そしてイイ」
「ギャハハ」大きな口を開けてミヨが笑う。
 思えば高校時代からミヨは相当男子から人気があった、それも学校で三本の指に入るほど。なにがどうなって不倫なんかしてるのやら。
「それにしても今日はなんでこんな高級ホテルなんだ?いつもはラブホテルなのにさ、高いだろう?ここ」
「いや、なんかね、不倫してる友達が教えてくれたんだけど、最近はこういう高級ホテルも昼間は休憩みたいなカタチで安く提供してるんだって。こんな高級ぶっててもラブホとなんにもかわんないよね~。値段もたいして変わらないし。でもなんかこういうところで密会してるとスパイ大作戦みたいだよね」
「まあ出てくるとしても完全に悪役の方だけどな」
「ギャハハハ」
笑いたいときに思いっきり笑うのがミヨのいいところだ。
「とりあえず、お風呂はいってきなよ。今日は三時には出るよ、
 保育園のお迎えがあるからね」
「はい」素直に森崎は従った。

 キングサイズのベッドに寝転がりながらミヨは森崎の左胸にあるタトゥーを見ている。ミヨはこのワンポイントのタトゥーが好きだった。小さく描かれた太陽の中に葉巻をくわえたおじいさんの顔がくちゃっと笑っている、その太陽の下『HOPE&hope』。
小文字のhを花瓶に見立てて小さな向日葵が一本さしてある。大きな希望と、小さな希望というような意味なのだろうか。小さな希望こそ花開くというメッセージなのだろうか。森崎は大学を中退して世界中を見て回っていた。このタトゥーは友人と二人でタイ旅行に行った際自らデザインして彫ってもらったものらしい。特に意味はない、とのことらしいが森崎のセンスのよさを感じる。ちなみにもう一人の友人は現地の人に言われるがままLOVE&PIECEと入れたらしい。今頃泣いてるだろうな、と森崎は笑っていた。
 タトゥーを見つめながらミヨが尋ねる。
「ねえ、モリサキ。あんた、なんであんないい大学行ったのに今はコンビニバイトなの?」
「なんだよ突然」
ごろんと寝返りをうって森崎は窓の外を眺めながら応える。
「気になるじゃん。だって京大でしょ、誰だって不思議に思うよ。しかもあんた、高校時代あたしと違って授業はちゃんと出てたけど放課後はいつも友達と遊んでたじゃん。いつ勉強してたの?」
「勉強なんて学校の授業と教科書さえあれば誰にだってできるさ。授業の時だけ集中して聞いて、あとは遊びの時間だよ。だらだらと方向性も決めずに勉強頑張ってもムダムダ。それに京大っていってもな、学科によって倍率に差が随分あるんだよ。全学科が難関ってわけじゃあない。オレが行った哲学科は倍率の面から言うとそこまで難しいわけじゃないぜ」
「要領いいよね、モリサキは」
「それに大学ってのは就職するためのところじゃない。大学ってのは学問をおさめるためにあるんだと思うよ」
「じゃあなんで哲学科に行ったの?」
「ハイデガーていただろ」
「え?なに?ドラクエの呪文?」
「ばーか、ハイデガーだよ。高校の倫理社会の教科書にのってただろう?」
「まったく覚えてない」
「まあ授業に出てないミヨなら仕方ないか。安平高校の代返女って呼ばれてたくらいだもんな。言っとくけど、先生みんな気付いてたからな。感謝した方がいいぞ」
「感謝って、ジョーダン。先生も問題児のあたしに留年されたらこまるんだよ。だから気付かないフリしてただけ。で、そのハイなんとかって?」
「ハイデガーってのはドイツの哲学者だ、簡単に言うともし死に直面したらどう生きるか?みたいな事を言った人。オレはこの人の研究がしたくて大学に行ったんだ」
「なんか難しそうだね。それでなんでコンビニ店員なの」
「大学で哲学を勉強すればするほど、すべてが無価値に思えてきたんだよ。出世も結婚も必要以上の金も名声も、生きる意味も全部な。だったら人生一度っきりなんだ、どう生きたっていいんじゃないか。そう思って大学をやめた。親は猛反対したけど。オレは自分の身の丈に合った生活をしてるだけなんだ。コンビニは家から近く、時間の融通がきく。それに時給だって夜勤ならそう悪くないからな。ただそれだけの理由で選んだ。もしオレが大会社の社長でコンビニ店員の百倍の年収でもうまいものは百倍もたべれるわけじゃあないだろう?それにオレは一流のシェフが作ったフランス料理よりアルバイトが作った牛丼つゆだくの方がいい。今は金、土、日の夜十時から翌朝九時まで働いて、あとは遊んでる」
「よくわかんないいけど、モリサキが哲学者なのは理解した」
「そんなことより、こっちもひとつ聞いていいか?」
「なに?」
「高校三年の夏休み、ミヨって一部で援交疑惑出てたよな。ミヨがオヤジっぽいのとホテル入っていったてのを見たヤツがいて噂になってた」
「そんな事実は微塵もございません。……てのは警察と親向けのセリフで、モリサキなら言うけど正直、まあまあやってた。援交全盛期だったしね。でもやってたのは学校ではあたしだけだったみたい」
「当時のテレビの少年犯罪の煽りは異常だったからな、ドラマもそんなのばっかだったしちょっと狂ってたよ。でもなんで?」
「その時付き合ってた彼氏がクスリやってて、金くれってせがまれて出会い系に登録したってわけ」
「またすごいのと付き合ってたんだな。いやじゃなかったの?援交」
「それがね、はじめはいやだなあって思ってたんだけど。いざ会ってみるとね、すっごい緊張してて、ご飯もすごいいいところ連れてってくれるんだよ。別れ際なんて汗かいた手であたしの手を握ってうすい頭さげてどうもありがとうとか言ってくれんの。なんか会った時はきもいオヤジに見えたのが帰る頃にはかわいい熊さんに見えたりして。あたしっていう存在がひとつの思い出になってるのかなあって思うとそう悪くなかったかも」
「よくわかったし、ミヨが哲学者なのも理解した」
「意味わかんない」
 森崎のスマホの着うたが鳴る。
「あっ、B’zのEasy come Easy Goだ。懐かしいなあ。
 ねえモリサキ、電話鳴ってるよ」
「なんて出てる?」
「モーソン区役所裏店」
「ほっとけほっとけ。どうせたいした用事じゃあねえ。たいした用事でもほっとけ」
「ねえ、もしかしてモリサキの働いてるコンビニってモーソンなの?」
「あ、言ってなかったっけ。そうだよ、モーソンだよ」
森崎は電源を切って眠りに落ちた。
 
  ……モリサキ、起きてる?
  あともう少しでアラームが鳴る…家に帰りたくない
  わけもなくイライラして
  ちゃんとしなきゃって思えば思うほど些細な事で怒っちゃう
  素直に笑えるの、あんたの前だけなんだ
  ピエロみたいなこのカッコも、一体どっちが仮装なんだろうね

 アラームが鳴って目を覚ました森崎。ミヨは専業主婦の格好に戻るから先に出て行ってと言った。見られるのは恥ずかしいのだという。女ってのはどこまでいってもよくわからない。どちらにしても同時に出るのは危険なのでいつも別々に部屋を出るのだが。
「じゃあいつものやろうか」スマホを取り出して森崎が言う。
二人はLINEの送信履歴を消去した。
「一番まずいのはこのスマホだからな、これさえ押さえておけば大丈夫」
「百戦錬磨のあたしがばれるわけないじゃん」
「百戦錬磨って。もしかして今他にも付き合ってる人いるとか?」
「それは内緒。次はやっぱりラブホにしよっか。こういうとこだとイケナイ事してる感なくてちょっとつまんない」
森崎はホテルグランビヤを出るとパチンコ屋へよろうとして自分がスカンピンなのを思い出し、コンビニに寄ってまたビールを一本買って仕方なく自宅に帰った。

 自宅へ戻るとまだ五時前だというのに父と母がいる。
二人は何もする事がないのかリビングに座ってただぼうっとテレビのワイドショーを見ていた。
「あれ、仕事は?」
「残ってる有給を使って半休にしてもらった」
父は役所に勤める公務員だ。ブラック企業と過労死の問題から役所も数年前からサービス残業や有給の未消化は減らしていく施策をとっていた。やっと日本の世の中も正常な労働環境に向けて第一歩を踏み出したというところか。
「なるほどね」
「それよりお前、いつまでフリーターでふらふらしてるつもりだ?」
「そうよ、ママもとっても心配」
「あ、ああ。ちょっと今夜も仕事だし寝ないと。その話はもた今度ね、おやすみ~」
またその話か、というような顔をして森崎は逃げるように自分の部屋へと向かう階段をあがっていった。この話に決着がつくことがないのは森崎にはわかってる。話をするだけ無駄なのだ。父母を安心させたい気持ちがないわけではないが、じゃあ就職すると言っても給料が少ないとか福利厚生がなってないだとか話はいつも平行線にしかならないのだ。結局のところ、人になにかを意見する人間は自分の思うようにいくまで折れない。
 森崎は部屋に戻ってまた睡眠をとった。

 午後九時半にアラームがなって森崎は飛び起き、店へ向かった。
「おはよー」
「あ、森崎さんおはようございます。今日の入荷の荷物ものすごい多いですよ」
「おはようございます。ちょっと遅刻してますよ」
夕方勤務のアルバイトの二人が軽く会釈する。
一人のアルバイトが顔をあげ口を開いた。
「あ、なんか森崎さんあてに重要って書いてあるメモが事務室に貼ってあります」
「へえー、いったいなにかなあ」
森崎が事務室にはいるともう一人の夜勤の専門学生、佐々木がいすに座っている。
「おはようございます、これ、なんですかね」
『重要!森崎さん』と書かれた大きな封筒を大学生が差し出す。
開けてみると岩田の字で昼に高岡とトラブルになったことと、すぐ高岡に連絡してほしいと書かれている。
「高岡?ああ~みんながLINE聞かれて困ってるあの高岡さん?そういえば昼間にオレのスマホがなりまくってたな。すぐ電話しろって、今かな?」
「高岡といったらその人しかいませんね。電話したほうがいいんじゃないですか?ぼくレジやってますから」
「めんどい、ほっとくわ」
「えっ、ちょっとやばくないすか?SVもからんでるみたいですよ」
「今のSVってだれだっけかな?こんなのヘーキだって。それより今日の仕事の説明するぞ。いつもどおり客がまだ来る二十二時から二十四時まではお前はレジでオレはカウンター内の整理と掃除、二十四時から二時までは二人で入荷した荷物の品出し、客来たらお前がレジに頼むな。んで二時でお前はあがり、店内の掃除はその後オレ一人でやる」
森崎は仕事の前に必ず今日やる事を説明した。入荷した荷物はほったらかしだがすぐには片付けようとはしない。役割分担と適切なタイミングで無駄なく動く、相方のバイトが二時きっかりにあがれるのは森崎と組んだ時だけだった。森崎以外の人と組むと、二十二時からすぐに品出しにとりかかるのにレジを確認しつつ客が来たら二人して走り、を繰り返し結局すべてが終わるのは三時を過ぎてしまうのだった。そして森崎はバイトが帰った後は店内清掃をササッと終わらせ、あとはスロットの雑誌を読んだりスマホゲームをしたりして時間をつぶす。六時になって客が増えてくるとレジに立って九時になると仕事は終了、森崎にとってはコンビニは少し働いたらあとは座っていれば給料がもらえる楽な仕事だった。
「じゃあ、レジ頼むな」
二人の夕勤のアルバイトが帰って仕事が始まった。
「わかりました、でも年末のせいか今日すっごい荷物多いですよ、早くやりはじめた方がいいんじゃ……」
「いや、だめだ。やみくもに動くな、お前は今はレジに集中。もし二時になっても終わらなければ明日にまわす」
「そんなことする人、森崎さんしかいませんよ」

 二十三時三十分をまわった頃、入店チャイムが鳴ると同時に怒鳴り声が聞こえる。
「こらあ、森崎!」
顔を真っ赤にして怒っている高岡だ。店内にいる数人の客が一斉に高岡の方を向く。
「あ、高岡さん。お久しぶりっす」まったく動じていない森崎。
「お前、いったいどういうつもりなんや。電話してこい言ってたはずやが、連絡いってへんのか!どうなっとるんや」
「実は今からしようかな~って思ってたんですよ」
「嘘付けや!お前オレを馬鹿にしてるんか!」
「いや、そんなことないです」
作業の手を止めない森崎に高岡の怒りはエスカレートしている。佐々木がハラハラしながら見ている。
「で、どういう用件なんですか?」
「お前の接客態度が悪いから一言いいたかっただけや!でも無視しやがって、絶対許さん!!本部に電話してやる」
「接客態度がどう悪いんです?」
「どうって……悪いもんは悪いんや!早く謝れ!こら」
「だからどう悪いんですか?悪いもんは悪いと言われても謝りようがありません」
「……そや!お前レシート客に渡してへんやろ!!」
「渡してますよ」
「ほんまにちゃんと渡しとるんか!ただの一人も漏らさず全員に渡しとるんか!
 ああ?」
「すべてのお客様に確実にレシートをお渡ししています」きっぱりと森崎が言い放った。
(あんたレシートどころか釣りさえ渡し忘れてる時あるじゃないか……)
完全に怒り狂っている高岡を横目に佐々木は心の中で思った。
「嘘付け!!話にならん、昼のSV呼べや!早く呼べ!!」
高岡の怒鳴り声にもう収集がつかない事を察知した佐々木は受話器をとろうとした。
「今電話機の調子が悪くて電話かけれないんです」
血の気がひいた相方の頬を汗が落ちた。完全にブチ切れた高岡。
「お前……お前お前!!殴るぞ!」
もうダメだ、そう思った佐々木。森崎は胸ポケットからスマホを取り出し
「あっ、なんか録音ボタンがONになってる。」
「へええ?」拍子抜けした声を出す高岡。
「なんかいつのまにかスマホの録音アプリが起動してました、スマホっていつのまにかポケットの中で動いてたりしちゃうからいやなんだよなあ」
高岡も佐々木も、完全に固まっている。
「高岡さん、オレ大学で法律の勉強もしてたんだけど、今の発言はアウトだと思いますよ」
「いや……その……」
スマホの録音アプリをOFFにして胸ポケットにしまい森崎が高岡の顔の近くまでスッと寄って小さな声で言う。
「高岡さん、この店に来たりここの従業員に連絡したりすると、この録音警察に持っていくからね。たしか親と同居してるって聞いた事あるけど、困るんじゃない?あんたの仕事がなくなったりするとさ。あんたはよかれと思ってたかもしれないけどみんな本当に迷惑してるんだ、大人ならわきまえなよ」
高岡は二度と店には来なくなった。高岡が店から帰った後、森崎は警察に連絡した。
この人だけは敵に回してはいけない、佐々木は強く思った。
「あいつはたぶん、自己愛性型の人格障害かもしれないな。馬鹿にされてると思い込んで人に当たりだすのは自己愛性人格障害の人の特徴。店員のLINE聞くなんて異常だろう?でも人と関わっていたいがために脳がそうさせてしまうんだ、本人も苦労してるだろうな」
「ところで森崎さんて本当に大学で法律の勉強してたんですか?一体どこの大学を出たんです?」
「いやー法律の勉強なんて嘘ついちゃったよ。多少してたのは本当だけど。それにオレ高卒だよ、安平高校。だからプログラマー目指してるお前にはかなわないよ」

 翌々週の二十一日水曜日、九時三十分にミヨから連絡が入る。いつもなら毎週金曜日に会う事になっているが先週ミヨは体調を崩して病院へ行ったらしい。そして今週の金曜日はクリスマスイブ、二十三日は天皇誕生日で祝日だ。イブは家族サービスがあるから、というのと今はちょうど旦那が法事で三日ほど田舎に帰っているらしい。水曜日にLINEがきた。
 今日も十一時にホテルグランビヤに集合のようだ。あれ?今日はラブホテルにするんじゃなかったかな?森崎は先週と同じくグランビヤへ向かい十一時を少し過ぎた頃ミヨの待つ部屋のチャイムをならした。
「よく来たねモリサキ」
「おう、今日はまたここなんだな。こないだ次はラブホって言ってなかった?それにコスプレも今日はしてないんだな。ちょっと楽しみにしてたのに。もしかしてまだ体調悪いんじゃ」
「実は話したいこともあって」
「ん?どした?改まって」
「実は……妊娠したみたいなんだ」
「えっ、それはおめでとう。」
「うん……」
「じゃあオレたちの関係もこれで終わりだな。ミヨと会えなくなると寂しくなるな」
「それが、モリサキの子どもなんだ」
十数秒の沈黙。
「オレ?」
「うん。病院に行ったら妊娠してるって言われた」
「旦那は?」
「旦那とはそういうの、子どもできてからしてないんだ」
「他に彼氏は?」
「今はモリサキだけ」
また十数秒の沈黙。
「カラオケでも行くか、ミヨ」
「はあ?ちゃんと話を……」
「いいからいいから。ここで二人塞いでても仕方ないし、話はここじゃなくてもできるだろ」
森崎はミヨの手を引っ張ってホテルを出た。
「外はまずいんじゃないの?」
「いいからいいから」
駅近は便利だ。カラオケ屋なんてそこら中にある。駅前のジャンカラに入る森崎とミヨ。
 森崎はB’zのEasy Come Easy Goをひたすら予約送信している。
マイクをとり、深呼吸をしてから歌いだす森崎。

 踊ろうよRADY やさしいスローダンス
 笑われても あくまでマイペース 
 まだまだまだ もりだくさんLIFE
 幸も不幸も Easy Come Easy Go
 
 森崎のスマートな見た目とは裏腹に調子はずれのメロディ。お世辞をいれてやっと音痴というレベルの歌声。外のお客さんが部屋の前を通るたびにクスクス笑っているのが見える。ビールとウーロン茶を持ってきたボーイも吹き出すのをこらえている。
何度も何度も同じ曲を歌い続ける森崎。
 そういえば、この曲は……ミヨはハっと気づいた。
高校最後の文化祭の時、つまらなそうにしている私の手を引っ張って学校から連れ出してカラオケでこの曲を歌っていたっけ。みんな同じじゃない、みんな違って当然なんだ。お前のその素直な感情は何も間違っちゃいない、とかなんとか言って。
思えばモリサキは他の男たちとは違った。不良グループにいてバイクを乗り回しているのに万引きやいじめはしない。それどころかいじめっ子をぶん殴っていたっけ、そして友達の少ない子たちにもみんな同じように接していた。
いつも一人ぼっちだったあたしにも。
Easy Come Easy Go、簡単に手に入れたものは簡単に出て行く。今まで私はいろんな男を簡単に手に入れてきた。この結婚も、この家庭も……だけど幸せだけが簡単に出て行った。まわりからは幸せそうに見えても、現実にはそうとは言えない。
モリサキはその事にも気がついているはずだ。
私とモリサキはLOVEじゃなくLIKEな関係なのはお互い分かってる。きっと歌い終わると別れを切り出すだろう。このおなかの子もおろせと言うかもしれない。それでも私はモリサキを嫌いになれない。

「なあミヨ」
「なに?」
「お前なに泣いてんだよ」
「泣いてなんかない」
「お前の旦那に頭下げにいくぞ。近いうちに三人で会えるか?」
「えっ……どうするつもりなの一体?」
「決まってんだろ、お前と一緒になるんだよ。クズ男とプッツン女、相性ばっちりじゃねえか」
「意味わかんない」
こぼれそうな涙を右袖でゴシゴシ拭いてミヨの目のまわりはアイシャドーとマスカラで真っ黒になった。
そしてミヨは思った、LOVEよりLIKEの方がきっと強い。

     隅SVの話

 十二月十日、隅は七時に目をさました。近頃よく眠れない。
別室で美代と四歳のナオはまだ眠っている。昨日は夜中に帰ってきてまた喧嘩になってしまった。子どもを産んでから美代はいつもイライラしている。産後クライシスもここまでくるとうんざりだ。スーツを着てネクタイを締め、鏡を見ながら髪をセットする。今朝も体が重たく感じる。満面の笑みを浮かべている顔写真の貼ってある名札を首からさげ、隅はテーブルに置かれているパンをかじって行ってきますの一言も言わないまま家を出た。
 この家のローンもあと二十年、先はまだまだ長い。このローンを払い終わる頃には自分は六十か、そう考えると気が滅入ってくる。あと二十年は今の会社と付き合っていかなければならない。
 会社までは車で片道一時間弱、通勤ラッシュに巻き込まれながら職場へ向かった。
 
 「おはようございます」
自分より後に入社してきた二歳年の若い部長がそこにいた。
「お、隅か。朝の会議が始まるぞ。早く会議室へ行ってくれ」
「はい」
会議室は他のSVたちでいっぱいになっていた。数分すると部長が姿を見せ上座に座った。
「みんな、おはよう」
「おはようございます」
「声が小さいな、朝飯食ってきたのか?」
「おはようございます!!」
「よし。それでは話に入ろう。株式会社モーソンの業績は年々悪化の一途をたどっている。半年前、ファミリーマータとシャークルKが合併し業界二位に躍り出た事はみんな知ってるな。それに加え業界一位のセブントゥエルブのさらなる急成長、この一年はモーソンにとって危機といっていい。そして来年も勝負の年になる事は間違いない。まずはこの年末商戦だ。みんな心して仕事にとりかかるように」
「はい!!」
部長はいつもと変わらぬ檄を飛ばした。具体的な指示などなにもない、ただ頑張って仕事に励んで売り上げをあげろ、という根性論。隅はいつもの部長の言葉に辟易していた。昔から体育会系のこの会社はこうなのだ。だれが上に立っても結局は同じ、この体質はまるで宗教団体のようだ。
「隅、お前に話がある。このあとちょっと来てくれ」
「わかりました」
他のSVたちが席を離れ散ってゆく中、隅は部長のデスクに向かう。
「おい、お前クリスマスケーキとおせちの予約、全然とれてないじゃないか。
 一体どうなってるんだ?」
「それは、今から挽回します」
「今からって、お前ちゃんと店舗の従業員に声かけてるのか?SVになりたての島ノ坊はもう五十件もとってるぞ」
「申し訳ありません部長、ですが島の坊SVは自らのポケットマネーで買い足しているとか……」
「そんな事は関係ない、どういうやり方であれ件数の多い者が勝者なんだ。言ってる意味わかるな?買い取りができないのなら店舗にしっかりプレッシャーかけてこい」
「……はい」
「わかったなら早く行ってこい」
「では行って参ります。それと、非常に言いにくいんですが年末の二十一日から三日間有給を頂けないでしょうか?実は母の法事がありまして、地元の秋田まで帰らなければならないんです。」
「お前、今の状況が分かっているのか?……よしわかった、クリスマスケーキとおせちの予約件数が四十件を超えたら許可してやる。今半分くらいはもうとれてるからあと二十件弱、隅なら余裕だろう?」
この会社はどうかしている。いや、会社だけじゃない。この小売業の世界では必要としている人に物を買ってもらうのが重要なんじゃない、誰であろうと売りつける事が重要なのだ。必要としている人を探したって、見つかるかどうかなんて分からない。ところかまわず売りつけていくのだ。そこを理解している人間が評価され、昇進する。いつまでたってもこの業界の体質が変わらないわけだ。

 車を飛ばして店舗の巡回をする。隅の担当店舗は七件、今日は午前に一件まわって午後に二件まわって発注担当者と話をする。話と言っても実際は営業だ。新商品をできるだけ多くとらせるのだ。それに加え今日からは従業員に声をかけてクリスマスケーキやおせちの予約もいれてもらわなければいけない。
 店に着いてレジに立っているパートさんに声をかけた。
「おはようございます、SVの隅です」
「おはようございます」
「ちょっとからあげサンや揚げ物系が少ないですね、もう少し作ってもらえますか?」
「それが朝はあまり売れなくて」
「作らないから売れないんです。あと少しでいいから作ってください」
「わかりました」
「ところでオーナーは?」
「事務室で待ってます」
「じゃあちょっと失礼しますね」
隅は事務室に入る。そこには気の弱そうな五十代半ばくらいのオーナーが待っていた。
脱サラしてコンビニ経営をはじめたらしい。大学生の娘が二人いる。
「オーナー、おはようございます」
「ああ、隅さん。お待ちしてました」
「来週の新商品の話に入る前にひとつ。
 クリスマスケーキの予約ちょっと少ないですよ。
 パートさんやアルバイトに声かけてますか?」
「ええ、かけてます。」
「この店舗は他の店よりケーキの予約とれてないですよ。
 オーナーは予約いれてますか?」
「はい、二件いれてます」
「他のオーナーは家族や親戚の分もいれて五件から十件はとってますよ、
 もうすこし頑張ってください」
「はい」
「では来週の新商品にはいりましょう。次週の新商品は年末からあげサンごろごろ弁当と業界初のピザまんおにぎりです。そうだなあ~、この店舗のポテンシャルだと一日あたり弁当十五個とおにぎり五十個くらいですかねえ」
「それが……最近廃棄がたくさん出てて、もう少し減らしてもいいですか?ほら、ここにもこんなに廃棄が」
オーナーは事務室の端に山積みになっている賞味期限切れの弁当、おにぎり、パンを隅に見せた。
「なに言ってるんです。次週の新商品は本部でも一押しなんですよ。このくらいの投資は経営者として当然だと思いますが。それにあんまり少ないと本部からの評価も下がりますよ」
「ですが、最近廃棄金額が大きすぎて収入がだいぶ減っています。もうすこしだけでも減らしていただけないですか?」
「まあ、発注するのはオーナーですから。じゃあこうしましょう。おにぎりは四十個に減らして、弁当は少し増やして二十個にしましょう。ピザまんおにぎり、もっと売れると思うけどなあ~もったいないなあ~」
「……わかりました。入れておきます」
「今入れてください。うっかり発注を忘れたりすると本部から努力していないと判断されて、評価が下がっちゃうかもしれませんよ」
「……わかりました」
(本部からの評価が下がるんじゃなくて、お前の成績が下がるんだろう)
オーナーはSVの提案数の弁当とおにぎりの注文をいれた。
「じゃあ私はこれで失礼します。それと表のレジのパートさんたち、元気がないですねえ。もっと声を出してセールストークをするよう指導してください」
「はい」

 隅は店を出て車で昼食をとり、二件目に向かった。運転しながらオーナーが見せたあの廃棄の山の事を考えていた。あのオーナー、今は大学生の子ども二人をかかえて大変だろう。本当は自分だってあんな無理な提案はしたくない。だけど自分にもノルマがある。生活もかかっている。どうかわかってくれ。
 二件目の店舗について車を止めた瞬間、電話が鳴った。ドキリとする隅。
「はい、隅です。ああ、区役所裏店の岩田君?どうしたの?えっ。お客さんが騒いでるって…どういうこと?」
クレームと聞いて隅の額から汗が流れ落ちる。しかしLINEがどうとか、意味が分からない。
「とりあえず、すぐ向かいます」
隅はエンジンをかけ、区役所裏店へと車を走らせた。

 「お待たせいたしました、お客様」
そこには五十前後の男がわめきたてている。どうやら岩田がレシートを渡さなかった事に激高しているようだ。岩田からの電話ではLINEがどうとか言っていたけど、どういうことだ?だが今はそんな事より早く岩田に謝らせてこの男の怒りを沈めなければ。今日中に解決できないとこっちもつらい。
「岩田君、早く謝ってください」
「ですが……その……」
「あん?なに言ってるんかよく聞こえんなあ?はやくレシートくれや、今すぐに」
「お客さま、いつ買い物されたレシートでしょうか?それを教えていただかないとレシートの再発行は難しいです」
「いつの買い物?そんなん忘れてしもたわ。それにレシートよこさへんそっちが悪いんちゃうの、客がいつ買い物したかなんて覚えとかなあかんの?」
(まずい、この客タチが悪い。なんでもいいから早く謝ってこの場をおさめてくれ、岩田)
「早く、早く謝ってください」
「……すいませんでした……」
「なにい?よう聞こえんなあ?それとも今すぐレシートくれるんか?ん?」
「申し訳ありませんでした。以後気をつけます」
(よし、よく言った岩田。このまま畳み込んで終わらせてしまえ)
「お客様、大変申し訳ありません。本部としましてもきちんと指導いたしますので」
「おう、わかったんならもうええわ。きっちり教育しとけや。あ、あとな、夜勤に森崎ってやついるやろ。あいつにも言いたい事あるし、俺の電話に連絡するよう言うといて。できるだけ早くな」
 高岡が店を後にし、岩田が隅に事情を説明する。
(なるほどそういうことだったのか。あのタチの悪い客だ、無理に聞かれて断れなかったのだろう。だが……)
「岩田君、お客様と従業員での連絡先の交換というのは別に法律で禁止されているわけじゃない。もし嫌なら、きっちり断るしかないんだよ。お客様個人と従業員個人の事だからね。またこういう事になりたくなかったら次からは断りなさい」
何か言いたげだが口をつぐんで下を向いている岩田。
「ところで夜勤に森崎さんっているの?さっきの高岡さん、だっけ?なんか電話させろとか言ってたけど」
「います。森崎さんは高岡の連絡先教えて攻撃をはっきりと断ったことがあるんです。きっとまだ根に持っていて、難癖つけてくるんじゃないでしょうか」
(まずい、またこっちに火の粉が降り掛かるかもしれない)
「急いで森崎さんに連絡とって。岩田君。」
急いで森崎にも電話をかけた、しかし何度かけても森崎は電話に出る事はなかった。
(これだから夜勤の人間は嫌なんだ、コールに気づいているのに面倒だから出ないのだろう。でも電話に出ないのなら仕方がない。万一、森崎で収集つかなくてもあとは店長とオーナーに丸投げだ)
「もうこれ以上どうしようもないしぼくはこれで帰るけど、また時間おいて森崎って人に電話してもらうよう言っといてね。もしどうしても電話に出なかったらメモして伝えて。多分森崎さんが電話さえかければ解決するはずだから。あと、今回は緊急で僕がきたけど本来は本部ではなくお店で解決することだから、もし高岡さんがまた騒ぐようならオーナーか店長に処理してもらってください。」
 クレームの処理が終わり、二件目三件目の店舗へとまわった。やることは一件目と同じ。今日はクレームのせいでいつも以上に体がずしんと重い。心と体はつながっているのだなと実感する。
 十一時すぎに会社を出て自宅へと向かう。出勤時と違い、この時間だともう車はたいしていない。行きは一時間もかかるのに帰りは二十分で帰宅できるのであった。

「ただいま」
「おかえり」
帰宅すると美代がすでにイライラしている。なにやらナオがテレビばかり見ていてごはんをちゃんと食べなかったのだという。だがそれでも金曜の夜だけは美代のイライラもほんの少しだけマシだ。いつもならおかえりの一言もない。土日の前だから多少機嫌がいいのだろうか。
「ナオは?」
「もう寝かしたわよ」
「そうか」
「あたしお風呂はいってくる」
「うん」
二人の会話は必要最低限だ。美代の笑顔を最後に見たのはいつだったろう。
付き合っていた頃は愛されていた実感があった。真夜中でも会いにきて、なんて無茶を言う女だったが。冷蔵庫からウイスキーを取り出し、炭酸で割って飲んでナオの寝顔を見に美代の寝室へ入る。廊下の間接照明がナオを照らす。気持ちよさそうに眠っているようだ。
(あれは、なんだ?)
隅はキャスターを見つけた。ナオが目を覚まさないようにゆっくりと部屋に入り、キャスターを開けてみる。中には服らしきものが入っている。明かりをつけるわけにはいかないので部屋から出て確認する。高校の制服だった。なぜキャスターに制服が?理解できない隅。
何か不審なものを感じた隅はナオの寝ている寝室に戻って充電器がささっている美代のスマホのLINEをチェックする。LINEを開くと一番目に自分とのやりとり、二番目はモーリーという人間とやりとりしていたようだ。だがこのモーリーという人間とのトーク履歴はない。美代がLINEのトーク履歴を消去したことに数秒かかってやっと気付いた。
 風呂場からカラカラと扉を開ける音がした。美代が風呂から出たようだ。とっさにキャスターに制服を戻す。美代がパジャマ姿で髪をタオルで拭きながら出てきた。
「お、出たか」
「うん」
「ところで今日はどんな日だった?」
「え?珍しいね。あんたがそんなこと聞いてくるなんて。今日はナオを保育園に送った後、高校時代の友達とランチしてきた」
「おまえ、高校時代には友達いないって言ってたよな」
「いないって言ったって一人二人くらいいるわよ」
「まあ、そうだな」
「それと帰ってからナオがお正月に着る子供用の着物、ネットで頼んだから」
「買ったって……着物って高いだろう。去年の七五三の着物じゃだめなのか?」
「子供の成長って早いの。一年たったらもう着れないわよ。それにナオも着たいって言ってたし」
「そうか、わかったよ。それに買ってしまったのなら仕方ない……あ、そうだ。十二月の二十日から母さんの法事があるんだけど」
「あたしはいけないわよ、ナオの保育園も休ませるわけにはいかないし。悪いけどあんた一人で行ってきて。もう眠いから寝るね」
「ああ、わかった。二十一日から三日ほど休みをとって行ってくる。二十三日には戻るから。おやすみ」

 髪を乾かした美代はナオの寝ている寝室へ。隅はもう一杯ハイボールを作って飲み、風呂へ入り自分の寝室で横になった。もしかしたら美代は不倫しているのか、それこそ次から次へといろんな男と付き合ってきた女だ。それに今の自分たちのこの関係、ありえない事じゃない。LINEの消去されたトーク履歴はかなりあやしいが決定的とも言えない。『モーリー』というネームは名前からとったとは考えにくい。名字からだとすれば森田、大森、盛岡、森崎……
 そういや夜勤の森崎という男は高岡に連絡をとってクレームの件は解決しているだろうか、うまくいっているといいが。あれこれと思いを巡らし寝付けないまま夜が更けていった。

 数日後、七時きっちりに目をさましスーツに袖を通しネクタイを締める。
(夜は寝付けないのに朝は起きれる。だが今日はいつも以上に体が重い気がする)
テーブルに置かれているパンを見てもおいしそうに見えない、食べたいと思えない。なんとか一口だけはかじったがおいしくない。寝ている美代とナオをチラリと確認して家を出た。早くケーキかおせちの予約をとらなければ……あと五件だ。ノルマという圧力が隅の胸を締め付ける。
「ブブー!」
あぶない!!隅はとっさにハンドルを切り、対向車との接触を免れた。今日はなにかおかしい。いつもと同じ通勤の景色が少し違って見える。世界がほんの少しだけ色を失ったように感じる。心臓の鼓動もいつもより大きい気がする。

 会社につくと部長がもう来ていた。今日は会議もない、ゴルフか野球だかわからないが素振りをしている。
「おはようございます、部長」
「隅か、いつもギリギリだな。ところでケーキとおせちのノルマ達成できそうか?」
「いけそうです、あと五件です」
「あ?なに言ってるんだ?島の坊はもうさらに五件とってきたぞ、だからお前もあと五件上乗せして計四十五件だ」
「何をおっしゃっているんです、この間四十件だと言っていたじゃないですか」
「だから島の坊がさらに五件とったんだって、あと十件とってこいよ。隅なら余裕だろう?ほら、さっさと店舗巡回行ってこい」
部長は隅との会話が終わるとまたゴルフだか野球だかわからないスイングを始めた。
「あの、部長。あと十件、達成できなくはないかもしれないのですが有給の件は許可していただけますよね?」
「ああ?だからそれはちゃんととれればの話だ」
「もう法事の準備は進んでいます、許可していただかないと困ります」
「それはお前の都合だろう、早く巡回にいけよ」
部長はスイングをやめてめんどくさそうな顔をしながらデスクに座った。もちろん有給申請書にハンコはついてある。有給は労働者の正当な権利だ、管理している人間が勝手に握りつぶす事はできない。だがそう易々と隅の希望を認めてしまっては隅や他のSVたちの士気が下がる、そう考え隅にプレッシャーをかけているのだった。
(なんてことだ……あと十件、もう買い取るしかない)
そんな部長の思惑を知らない隅は追いつめられていた。そんな隅に島の坊が話しかけた。
「隅さん、おはよっす。ケーキとおせち、とれました?オレなんか二十件買い取っちゃいました。んで知り合いに配りまくるんですよ。もう件数とるにはこれしかないっすよねえ。セブンもファミマも同じ事やってるし、デパートやスーパーでもやってるから難しいですよねえ。あ、でも結婚して子どももいる隅さんには自爆営業は厳しいか」
青い顔になった隅はそうだな、と言って巡回に出た。結局担当店舗で自分自身でケーキ七件、おせち三件の予約を入れた。

 十二月二十日午後三時、伊丹空港から秋田空港へ到着し温泉街へ向かう送迎バスで生まれ故郷、乳頭温泉郷へ向かっていた。冷えるバスの車内には温泉に向かうカップルやファミリーが乗っている。みんな楽しそうに話をしていた。一人客なのは隅ひとりだ。ほどなくしてバスは乳頭温泉に到着し、カップルやファミリーはそれぞれの旅館に散っていった。隅は美代から借りたキャスターバックを転がしながら旅館へ向かい、旅館の門をくぐる。
「いらっしゃいませ」
「予約を入れた隅ですが」
「あっ隅さんの息子さん!お久しぶりねえ、前会ったのは……えーと」
「前の三回忌からだから四年ぶりになりますね」
「そうね、もう四年か。隅君、ちょっと大人になったかな」
「女将さんはお変わりありませんね」
「そう?上手ね。ありがとう」
六十代くらいの着物を着た女将は生前母が仲居としてこの旅館に勤めていた時から世話になっていた。隅も高校生時代の冬休みはこの旅館でアルバイトをさせてもらっており、法事の時は必ずこの旅館に泊まる事にしていた。  
「部屋はこっちよ、食事は部屋へ運ぶから。何時くらいがいいかな?」
「じゃあ温泉に入ってゆっくりしてから食事にしますね。七時くらいがいいかなあ」
「わかった、ゆっくりしてね」
隅は部屋へ着くと障子を開け、椅子に腰掛けた。外を見ると隅がアルバイトしていた時と何も変わらない真っ白の景色。一面銀世界だ、雪もチラチラと降っている。すぐそこには川が流れ、葉の落ちきった木々には雪が積もっている。
(やっぱりこの景色はいいな、懐かしい。今年も腰くらいまで積もってる)
隅は缶ビールを開け、一杯飲んで風呂へ入り女将と仲居が運んできた食事を食べてゆっくりと過ごした。

 翌日昼過ぎ、隅は黒のスーツを着て旅館から歩いてすぐ近くの寺へと向かう。隅が幼い頃、両親は離婚しており母の法事に集まったのは隅と母の弟夫婦の二組だけだった。広い部屋にストーブがふたつ、すこし肌寒く感じる。
 住職のお経が始まり、みんなじっと聞き入っている。
読経が終わるとみんなで母の墓まで移動し、積もっている雪を振り払って墓前に一人ずつ手をあわせていく。
(母さん、今年は家族で来れなくてごめん。結婚して子どももできて幸せだよ。ナオももう四歳、美代に似てきっと美人になるよ。仕事は忙しいけどなんとかやってる。つらい時もあるけど心配しないで。次はまたみんなで来るから)
隅は母の墓に水をかけ目立つ汚れを拭いてもう一度手を合わせ、寺をあとにした。
 
 隅と弟夫婦は旅館に戻り、夕食をとる。
「それにしても立派になったなあ、もう四十だっけ?」
「はい、四十になりました」
「たしか三回忌の時、美人の嫁さん連れてきてたな。その時おめでたって言ってた気がするが。無事産まれた?」
「四年前に女の子が産まれました。ナオと言います」
「へえ、それはいいね。うちは……」
「あなた、その話は」
妻が話に割って入った。
「まあいいじゃないか、親族なんだから」
「どうしました?」
「うちは結局子どもができなくてね。結婚した頃は妻に問題があると思っていたんだけど、どうやら僕に問題があったみたいでね。長い間悩んでいたんだけど、四十半ばを過ぎた頃やっと吹っ切れた。子どもがいる人生も、いない人生も、もちろん独身の人にだって幸せになる権利はあるんだからね。今は二人で旅行したりして仲良くやってるんだ」
隅にはその言葉が胸に突き刺さる。
「たしかに、その通りです。自分に合った幸せを見つけるのが一番大切です」
「それにしても姉さん、あの世で安心しているだろう。君がこんな立派になって、結婚して子どももいるんだから。あんなヤクザみたいな男と結婚してすぐ離婚して働き詰めだったもんなあ」
「でも母から父の愚痴を聞いた事はないです」
「まあ、姉さんはそれでも幸せだったのかもしれないな」
「はい」
「そういや、明日帰るんだろう?明日、大雪らしいよ。大丈夫かなあ」
食事が終わり隅は旅館の外まで二人を見送った。真っ暗な夜道を二人は身を寄せ合い歩いて帰っていった。もう雪がちらついてきている。これからふぶいてくるのだろうか。
 部屋へ戻りスマホを確認すると美代からLINEが着ていた。明日大事な話がしたいから必ず帰ってきて、との内容だった。隅の脳裏に悪い予感がよぎる。大事な話とは離婚話ではないか?だが今は年末、クリスマスでなにかやるつもりなのかもしれないし、もしかしたらナオの進学とかそういう話かもしれない。隅は冷蔵庫からビールを取り出し缶を開けた。
 横になっても眠れないので仕方なく障子を開け、ふぶいてくる外の景色を見ながら夜を過ごした。どこからかポーという音が聞こえる。最近ではこんな夜中まで電車は走っているのだろうか。
 
 翌朝、航空情報を見るとやはり飛行機は休航していた。
だが幸い新幹線は動いているようだ、時間はかかるが新幹線で帰るしかない。
隅はスマホで新幹線の指定席を予約し、女将さんにタクシーを頼んだ。
「今日は大荒れよ、もう一晩泊まっていったら」
「どうしても今日中に帰らないといけないんです。新幹線は動いているようですし陸路で帰る事にします」
「そう、次は十三回忌ね。またうちに泊まってね」
「はい、必ずこの旅館に泊まります。次は娘の顔も見せたいな。女将さんも元気でいてくださいね」
隅は旅館の外で待っているタクシーに乗り込み運転手に伝えた。
「田沢湖駅まで」
「お客さん、すみません。この大雪で田沢湖駅までは行けないんです。会社からも通行止めになっているとの情報が入ってます。電車は動いているようなのでできるだけ田沢湖駅に近い駅まで行きますので、そこから電車に乗っていってください」
「わかりました。だいぶ時間の余裕を持っていますが今日は何があるかわかりません。新幹線の予約があるので急いでください」
「では早速参ります」
タクシーが旅館を出て窓から外の様子を見てみる。本当に大雪だ、猛烈にふぶいている。前を見ても十メートルくらいしか見えない。そしてすれ違う車の姿はまったくない。唯一すれ違ったのは市の凍結防止剤をまいているトラックだけだった。こんな猛吹雪の日はだれも外にでない、住み慣れたこの街の事はよく知っている。
 数分した頃、天候の状況をスマホで見ていると着信を受けた。画面には島の坊とでている。
「もしもし、隅だけど。島の坊か?」
「もしもし、島の坊です。お休みのところすみません。今ちょっとよろしいですか?」
「ちょっと声が聞き取りづらいな。それで、どうした?」
「え?そうですか?こっちはしっかり聞こえてますよ。実はさっき部長と話してたんですけど来年度の四月の人事異動で部長は奈良の部署に行くみたいなんですよ。それで京都部署の次の部長は隅さんにほぼ決定なんだそうです」
「えっ、オレが部長に?昇進ってことだよな?本当なのか?」
「はい、二月末頃になると思いますが辞令が出るみたいです。おめでとうございます」
「ああ、ありがとう。部長になったとしてもよろしくたのむな、島の坊」
「もちろんですよ、こちらこそよろしくお願いします」
隅はスマホを切って胸ポケットにしまった。
「お客さん、昇進ですか?よかったですね。おめでとうございます」
「あ、聞こえてましたか。そうみたいなんです」
「私なんて職を転々として、五十を過ぎてタクシードライバーですからね。うらやましいなあ」
「なに言ってるんです。運転手さんがドライバーをしなきゃ誰がお客さんを乗せるんですか。みんなが動いて社会はまわってるんですよ。管理する人間だけで会社はなりたちません」
「たしかにそうですね。ここをまがったらもうすぐ着きます」
隅はタクシーをおりて運転手に礼を言い、駅へと入っていった。
無人の改札を通り抜け、駅構内の電光掲示板に目をやると一時間遅れで運行しているようだ。こんな大雪の中電車を待っている客は一人もいない。だが一時間遅れならまだ間に合う、なんとかなりそうだ。
 隅は島の坊からの電話の事を思い出していた。
春から自分は管理職、昇進という言葉に喜ばない人間は少ないだろう。自分だって今までの努力が認められた事はうれしい。しかし隅にとってこれからの事を考えると部長のポストは単純に喜べるものではなかった。SVたちにノルマを課し、店舗にも圧力をかけていかなければならない。店舗やSVたちが対処できないレベルのクレームにも対処しなければならない。
本社とSV、店舗の板挟み。
隅の体はまたズシリと重くなるのを感じ、構内にある自動販売機で日本酒のワンカップを二つ買ってホームに立ちながら一気に飲んだ。
ホームから見える猛吹雪、風もかなり強い。向こう側に見える山々はもう真白だ。
だがこんなに雪が降っているのに寒くない、寒さを感じない。むしろ暑いくらいだ。雪が頬に落ちてもまったく冷たくない。きっと酒のせいに違いない。
 またどこからかポーという音が聞こえてきた、昨日の夜中に聞こえてきたのと同じ音だ。線路の向こうの方から大雪をかき分け近づいてくる列車が見える。
まだ一時間たっていないはずだ、と思った瞬間ホームからアナウンスが流れた。
「まもなく貨物列車が通過いたします、白線の内側までおさがりください。繰り返します……」
なんだ、貨物か。自分が乗る電車の到着時刻まであと二十分くらいだろうか。
スマホを取り出し見てみると美代から何時くらいに帰って来れそう?とLINEが入っている。大雪で何時に帰れるかわからないが必ず帰る、と返信した。やはり美代の話というのは離婚の話だろうか?美代にはおそらく関係を持っている男がいる。離婚するつもりなら美代はその男と再婚するつもりなのだろう。だが離婚となれば不貞行為をしている美代には親権はいかないはずだ。これからは母がしてきたように、親ひとり子ひとりで幸せをつかむしかない。それにしても自分は何の為に二十年近くも会社や家庭に尽くしてきたのか。相手の不義理ひとつで簡単に意味をなくしてしまうものなのか。積み木は積まなければ、ただの木。また一から積んでいくしかない。
これからは美代という肩の荷が下りて、きっと楽になる。正直、自分はホッとしている。離婚したらナオのために頑張ろう。ナオを幸せにするには金が必要で、そのためには会社にいかなくてはならなくて、会社に行くには車が必要で、車に乗るには保険に入らなきゃいけなくて……
……あれもこれも必要なんだ……自分の人生はなんのためにあるのだろう……
 いつのまにかもうそこまで貨物列車が来ていた。列車がホームにさしかかろうという時、隅はホームのベンチから立ち上がって思い切り列車に飛び込み、貨物列車は緊急停車した。
 
 隅は救急車で病院に運ばれ死亡が確認された。事故と自殺の両面で警察は捜査を始めた。唯一の目撃者である貨物列車の運転手は大雪で視界が悪く、気がつけば男が近くにいて接触してしまったと証言した。ホームに男が飲んでいたものと思われるワンカップの空ビンが転がっていた事、すぐ帰ると妻にLINEをしていた事、泊まっていた旅館の女将にまた来ると話していた事から事故の可能性が強くなってきた。
そして男を田沢湖駅まで乗せたタクシーの運転手が車内で男が電話で昇進の知らせを聞いていたと証言した。
「あのお客さん、乗ってくるなり急いで田沢湖駅まで行ってくれというのでこちらもすぐに車を出しました。しばらくするとあのお客さんの電話がなって、昇進の知らせを聞いていたようなんです。なんか部長になるとかなんとか話してたなあ。でも電話切った後はうつむいてブツブツ独り言いってました。なんか管理職がどうとか社会がどうとか。自分の世界に入っちゃう人なのかなと思いました。えっ?……ええ。話しかけてはいません。お客さんのプライバシーに関する事は聞かないようにと会社から強く言われてますので」
これらの証言から警察は酒に酔っての事故死と判断した。

 元日、モーソン区役所裏店。
遅刻してきた岩田が事務室に入る。そこには森崎が椅子に座ってビールを飲んでいた。
「おい、岩田。珍しいな、お前が遅刻なんて」
「すみません、申し訳ありません」
「遅刻くらいいいけどよ、それにしてもお前顔色めちゃくちゃ悪いぞ」
「……はい。……えっと……昨日ちょっと飲み過ぎまして」
「へええ、お前飲むのか。知らなかった。ところでこないだの、オレが辞めるって話覚えてるか?」
「はい、なんで辞めるんですか?」
「実はな、結婚することになったんだよ。あの既婚の女とな。まさかのデキ婚だよ、いやー参った」
「ええええ!それマジなんですか!?相手の旦那さんとか大丈夫だったんですか?」
「うん。でもオレと彼女と旦那で話をしようとした矢先、旦那さん、地元の秋田で電車にはねられて亡くなってしまったらしいんだ。」
「それってまさか……」
「最初はオレも自殺かと思ったんだけどよく考えてみると彼女とオレの関係、まだ話してないんだよ。彼女が言うには警察は事故と断定したらしい。LINEにもすぐ帰る、ってきてたし結構飲んでたらしいんだ。お前も飲み過ぎには気をつけた方がいいぞ」
「でも電車にはねられたのなら賠償金とかすごい額なんじゃないですか?」
「それがはねた電車は貨物だったらしいんだ。客も乗せてないし、清掃費くらいのものだって」
「それでも結構かかるんじゃ」
「事故だから払う必要はないんだって。鉄道会社も保険入ってるだろうからそこからおりるだろ。それより彼女にも旦那の生命保険と死亡退職金合わせて四千万近くおりるらしい、 受け取りはまだまだ先だけどな。彼女、旦那が突然死んでオロオロしてたけど保険金の額聞いて冷静になってたよ。ネットで手続きのやり方調べたりして。まあ額が額だからな、誰だってそうだよな。旦那と言っても血のつながりもない他人だもんな。でもおかげで家のローンも一括返済する予定。オレ、しばらく遊んで暮らせるわ」
そういう方法もありか、岩田は思った。
「オレはもうすぐ辞めるけど、お前はどうするんだ?たしか小説書いてたよな。そのためにコンビニで働いてるんだろう?」
「ぼくはそう簡単に辞めれませんね。家のこともあるし……でも生きてるうちは小説は頑張っていこうかなって。みんなに笑われてるんじゃないかなって思うときついですけど」
「バカだなあお前。一生懸命やってるヤツを笑う人間なんていないんだよ、いたらオレがぶんなぐってやる」
モーソンのユニフォームに袖を通しながら苦笑いする岩田。
「それじゃあオレ行くからな。今日はとりあえず彼女の家に行って彼女の子どもに挨拶するんだ。産まれる前からいきなりパパだぜ」

森崎が店から出ると入れ違いにスーツ姿の男が入ってきた。元旦にスーツ姿の男は岩田の前に立ち、名札の写真と同じ満面の笑みを浮かべた顔で話しだした。
「新年あけましておめでとうございます!退職しました隅SVに代わり本日付けでこちらの店舗を担当することになりました、SVの島の坊です。前年はクリスマスケーキにおせちの予約、頑張っていただいてありがとうございました。次は恵方巻きですね、セブンやファミマに負けないようみんなで取り組みましょう!この店のポテンシャルなら、そうだなあ~三百本はいけますね。よろしくお願い致します!!」


     

コンビニで働く二人のフリーターと一人のSVの話

コンビニで働く二人のフリーターと一人のSVの話

コンビニで働いている夢見る青年と適当にバイトしてる青年、まじめに働いているコンビニSVのお話です。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-03

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著作権法内での利用のみを許可します。

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