*星空文庫

潮の降る町

天野橋立 作

  1. プロローグ 海上都市
  2. 第一章 ファースト・コンタクト
  3. 第二章 姫と歩く島
  4. 第三章 急を告げる風雲
  5. 第四章 潮が降る
  6. 第五章 漂流、青松島

プロローグ 海上都市

 彼女を乗せたバスは午後九時ちょうどに、終点の旅客船ターミナル前へと到着した。島に帰る最終の船が出るぎりぎり五分前の時刻だったから、彼女はあわただしくバスを降りて乗船口へと急いだ。もちろんバスの乗客全員が乗換えを終えるまでは、船は出ない。彼女もそれを知ってはいたが、自分のために船の出航が遅れることになるのは、気が進まなかった。
 老人や子供連れもいるバスの乗客が、全て乗換えを完了するには時間がかかり、実際に船が出港したのは予定時刻の七分遅れになった。定員百名と比較的小ぶりな旅客船は、浜津の町との別れを惜しむかの如くゆっくりと桟橋を離れ、それから沖合に向かって徐々に速力を上げ始めた。もう明日の朝まで、この船がここに戻ってくることはない。

 船が去ったのを見届けるかのようなタイミングで、桟橋に並ぶ灯りが沖側の端から順番に消えて行き、最後にターミナルビルのネオンが落ちた。ターミナル前に佇むバスの、黄色いウインカーの点滅だけが、港の位置を示していた。後部のデッキでその様子を眺めながら、今日もちゃんと間に合ったなと、彼女は安堵のため息をついた。
 海面にキラキラと映っていた町の夜景が次第に遠ざかり、頭上の青白い蛍光灯だけでは足元が薄暗く感じられるようになってきた頃、彼女はデッキを離れて客室へと入った。島までは、まだ三十分はかかる。アルバイトの立ち仕事で疲れた体を休めたかった。
 間接照明で落ち着いた雰囲気の二階客室内は人もまばらで、座席は座り放題だった。少し眠ろうかと、騒がしい野球中継を映しているテレビから離れた席へ向かって歩き出した彼女の背中に、誰かが声を掛けた。
「郁代!」
 振り返った彼女は、そこにTシャツ姿の佐山理奈を見つけた。島から同じ大学に通っている数少ない友人で、朝は時々一緒に登校しているのだが、帰りの船が同じになるのは珍しかった。
「相変わらず、帰るの遅いじゃない。今日もバイト?」
 理奈は、屈託のない笑顔を浮かべて言った。顔がいくらか赤らんでいるようだ。
「うん、バイトの帰り。理奈は飲み会だったっけ、今日は?」
 郁代はそう言って、理奈の隣に腰掛けた。ソファーのようなふわふわの座席に、体が沈み込む。
「そうだよう。法律学科の男の子達と合コンさ」
「楽しかったみたいね」
「うーん、微妙ねえ。盛り上がったことは盛り上がったんだけど、何かちょっと距離があるって言うか。やっぱり真面目な奴ばっかりなんだよね、うちの学校の男どもは。勉強ばっかしてきたからああなるんだ。ま、一応メルアドだけはゲットして来たけど」
 ひとしきりぼやいた後、理奈は郁代をにらみつけた。
「あんただってそうよ、真面目すぎるんだから。大体、わざわざバイトなんてする必要ないじゃない。何て言ったって、あんたは炭鉱長のお嬢さんで……」
「もう、理奈ったら飲みすぎじゃないの。わたしに絡むのやめてよ」
「誰が酔っ払いだって?」
 理奈はぷはーっとばかりに、郁代に息を吹きかける。
「うわ、酒臭いよ」
 彼女は思わず、苦笑いを浮かべて体を反らした。

 船の緩やかな揺れ具合の心地よさが眠気を誘ったのか、やがて理奈は郁代の体にもたれかかるようにして眠ってしまった。逆に寝ることができなくなってしまった郁代は、仕方なく窓の外を眺める。真っ暗な海の向こうにわずかに見えるのは、あちこちに点在する小島の集落の灯りだけだった。
 ガラスに映る自分の横顔に、幼いときに見た母親の顔を思い出して、郁代はふと懐かしいような気持ちになった。自分の肩で寝息を立てているショートヘアの理奈が、まるで子供のようにも思えて来る。
 テレビの野球中継が終わり、ニュース番組が始まった。東北地方での水害の映像や、十二党連立政権の支持率急落についての解説をぼんやりと眺めていた彼女だったが、アナウンサーが三つ目のニュースを読み上げ始めた途端、その表情が硬くなった。炭鉱業大手の北洋炭鉱が事実上倒産したのだという。
 十数前の坑内爆発事故以来、徹底した経営合理化を行い、安価な輸入炭との競争を続けてきた北洋炭鉱だったが、政府の援助が打ち切られたこともあって、ついに閉山せざるを得なくなったのだった。地域経済に深刻な影響が出ることになるため、緊急の対策を行うことを検討しているという知事の声明を、アナウンサーは神妙な顔で読み上げた。
 いよいよ次は、と郁代は思った。私たちの島の番かもしれない。もしそうなれば、あの場所に住む人々の生活は一体どうなってしまうのだろうか。
 今この船が向かおうとしている先、彼女が住む青松島は、二十世紀も終わりに近いこの現代において、日本最大の海底炭鉱の拠点として知られていた。島の経済はそのほぼ百パーセントを炭鉱に、つまり炭鉱長である彼女の父の会社の収益に依存している。もしその炭鉱が閉山するようなことがあれば、島の暮らしはたちまちのうちに全面崩壊することになるはずだった。

 立ち込めてくる暗澹たる想いを振り払おうと、もたれかかった理奈の体を慎重に押しのけて、彼女は席を立った。通路を、今度は船の前部デッキへと向かう。そこからは、もうかなり近づいて来ているだろう島の全景が見えるはずだった。
 ドアを開いて外に出ると、潮の香りがする風が、彼女の長い髪をくしゃくしゃに乱した。船の進む前方には、暗い海。そしてその向こうに、島の姿があった。
 いくつもの高層ビルが、海の上に寄り集まって建っている。その数は二十を下らないだろう。無数の窓には煌々と灯りが点り、海面を照らし出していた。まるでどこかの都会を一部切り取ってきてそのまま海の上に浮かべたような島。それが彼女の島だった。青松島とは皮肉な名前だ。遠い昔はその名の通り、岩山の上に松の木が青々と繁る風景が見られたのだろう。しかし今や島の本来の地面は、全て建物に覆いつくされ、松などどこにも見当たらない。
 まさに海上都市とでも呼ぶべきそのビル群のほとんどを、集合住宅の建物が占めていた。そこには炭鉱関係者を中心に七千の人間が暮らす。人口密度は東京二十三区の十倍、島を一つの町と考えれば世界一の密度を誇っていた。
 この暮らしが、全て消え去ってしまう。そんなことが本当に起こり得るのだろうか。彼女は信じられない気持ちで、海の真ん中に幻のように浮かぶ街の夜景を見つめた。

「ほら、理奈起きなよ。もう着くよ」
 間もなく船内に戻った郁代は、理奈を揺すぶり起こした。
「うーん、あと五分だけ」
 理奈は目を閉じたまま無邪気な笑顔を浮かべて、座席のふかふかの背もたれにほおを押し付けて見せる。
「家で寝てるんじゃないんだから」
 笑いながら、郁代は複雑な気分になる。理奈はさっきのニュースを見ていない。いや、見ていたとしても何とも思わなかったかも知れない。島の人達は、「大鍋炭」――鍋島炭鉱株式会社の安泰を信じていた。他の炭鉱が閉山になっても、ここだけは違う。世界一の品質を誇る無煙炭を産出し、対岸には大規模製鉄所群や火力発電所が立地する人口七十万の一大工業都市、浜津市という大消費地がある。何より、鍋炭のバックについているのは帝国・鍋島の二大財閥をルーツとする日本最大の企業集団である、帝国鍋島グループだ。閉山など、考えられない――。
 しかし郁代は、父から断片的に聞く話によって、実態がそんなに甘いものではないことに気づいていた。倒産した北洋炭鉱だって、元々は住菱財閥系の名門企業だったのだ。

 郁代たちが乗降船口から短いタラップを渡って桟橋に降り立つと、目の前には島のシンボルとでも呼ぶべき、縦坑櫓の巨大な鉄塔がそびえ立っていた。地下六百メートルまで降りるリフトの昇降を、この櫓が支えているのだ。櫓は広告塔を兼ねていて、「帝国ルームエアコン」という文字のネオンが輝いていた。
 本来、石炭の積み出しが主な目的である港の周辺には炭鉱関連の施設が集まっているため、社員以外の一般住民は立ち入ることが出来ない。そのため、船を下りた乗客たちは、地下道を通って炭鉱施設エリアの下を潜り抜け、住宅ブロックへと向かうことになる。郁代と理奈も、他の人たちと一緒に照明もまばらな階段を降り、アーチ状の天井とコンクリート打ちっぱなしの壁がむしろ「トンネル」と呼ぶほうがふさわしいような地下道を歩く。ぞろぞろと歩く顔ぶれはいずれもどこかで見かけたことのある人ばかりだ。郁代の顔を見て、会釈する人も多かった。彼女も丁寧に頭を下げ返して挨拶する。子供の時から身についた習慣だった。
 さすがにこの時間にはシャッターが下りているが、一応この地下道内にはラーメン屋や喫茶店、靴屋などの店舗も幾つかあって、「港通り地下街」というしゃれた名前も付いていた。浜津駅前辺りの本物の地下街とは比べるのも馬鹿馬鹿しいほどの規模だが、それでもこの狭い島の中では貴重な商業地だ。これも、限られた場所を最大限に使うための知恵であった。
「島にもさ、せめてモスバーガーとかミスタードーナツくらいあったらいいのにね。こんなしけた商店街じゃなくてさ」
 ハイヒールの硬質な靴音をトンネルに響かせて歩きながら、理奈が言った。
「無理だよ。ミスドなんて、浜津にだってそんなにお店無いじゃない」
「それにしたってさ、ここなんか子供の時からずーっと同じ店ばっかだよ。いい加減飽きちゃうよ」
「贅沢言わないの。わたしたちなんか、まだ恵まれてるんだよ。毎日浜津市内に行けるんだから」
「だから言ってるんだよ。島にずっと居る子たちからしたら、やってられなくない? これじゃ、みんなここを出て行っちゃうじゃない」
 理奈の言うことにも、一理はあった。実際、最近は高校を出ると、浜津を飛び越して東京や京都の大学に出て行ってしまう子も増えている。しかし郁代には、たかがミスタードーナツ一軒で彼らを引き留められるとも思えなかった。
 地下道内に幾つかある出口の一つの前で、理奈が立ち止まった。アーチ型をした出口の横には、ペンキで「十一」と書かれた白いアクリル板がはめ込まれていて、背後の電球の灯りでぼんやりと光っている。彼女が両親、それに高校生の妹と住む集合住宅は、ここから階段を登った上に建つ十一号棟、通称「事務屋棟」だった。ここには、主に炭鉱管理の事務に従事する、ホワイトカラー寄りの社員が住んでいた。
「それじゃ郁代、また明日ね」
 理奈は案外しっかりとした表情で、手を振った。船で眠ったおかげか、酔いも醒めかけているようだった。
 これなら一人で階段を登らせても大丈夫だろうと、郁代もじゃあねと手を振り返し、再び暗い地下トンネルを歩き出した。

 通路の突き当たりの階段を登ると、地下道はお終いだった。ここからは、島のメインストリートになる。しかしメインストリートとは言っても、両側をビルに挟まれた、細い路地のような通りに過ぎない。日光が差し込むのも、正午に近いわずかな時間の間だけだ。もちろん車は通れないから、島内では屋根つきの三輪バイクが輸送手段の主力となっていた。
 山側に建つビルとビルの間には、上方へと伸びるいくつもの狭い階段があった。岩山の上にビル群が密集して建っている、と言うのがこの島の本来の地形だから、その麓にあるこの通りを外れようとすればどこへ行くにも階段を登ることになるのだ。それが嫌なら、反対側にある海に落ちる外はない。
 その階段の一つ、ひときわ真っ直ぐに街の高みへと続く階段を、彼女は上り始めた。階段沿いには、ビルへの出入り口がいくつも並んでいた。岩山の斜面に重なり合ったビルとビルの関係は複雑だ。下のビルの4階が上のビルの1階とつながり、そのビルの5階がさらに上のビルの2階とつながっている。雨の日でも、そんな迷宮のような建物の中を上へ上へと登って行けば、濡れずに頂上へとたどり着くことも可能なのだ。しかし初めてこの島を訪れた者が、つながり合った建物の中にもし一歩でも入れば、自分が今果てして何号棟の何階にいるのか、たちまちのうちに分からなくなるに違いなかった。島に慣れた郁代であれば、もちろん道を迷うようなことはなかったが、それでも窮屈で歩きにくい建物の中にわざわざ入ろうとはしなかった。ビルの壁面に取り付けられた街灯と、無数の窓から漏れる明りで、足元も暗くはない。
 息切れしてくるのを我慢しながら登り続けるうち、やがて郁代は全てのビルを見下ろす、島の頂上部まで登り切った。階段は終わり、そこにはごく狭い平地があった。頑丈な石塀で囲まれたその平地に、彼女の住む家である炭鉱長社宅は建っている。島に着いてから、ずっと人工物の上を歩き続けてきた彼女の足は、その玄関の前で初めて自然の地面を踏むことになった。
 誰もがビルの一室に住む島において、炭鉱長社宅は唯一の完全な一戸建てだった。神社やお寺でさえもビルの屋上に建てられているというのに、この家だけは地面の上に直接建っている。特権階級と見ないでくれ、と言うほうが無理と言うものだ。郁代はこの社宅に象徴される自分の立場を常に意識しながら、島に来てからの十五年間を生きてきたのだった。

 引き戸をガラガラと開いてただいま、を言うと、住み込みのお手伝いさんである「婆や」が割烹着姿で玄関に出迎えに現れた。
「お帰りなさいませ、郁代お嬢様。遅くまで、お疲れになったでしょう」
「うん、今日は結構大変だったんだ」
 スニーカーの紐を解きながら、郁代はうなずく。
「お客さんも多かったし、ほら、店長。あの店長が無理ばっかり言うのよ。トロピカルフェアの期間だから、ハワイアンハンバーグの注文一人でも多く取って来い、とか。あれはとっても不味いのよ」
「まあ、まあ、それはさぞかし大変だったでしょう。すぐにおでんを温めなおしますからね」
「また、おでんなの。もう夏なのに」
 彼女は吹き出した。
「お父さんたら、ほんとにおでんが好きなんだから」
「『姫路ガード下』でしたか、あのおでんが懐かしいというお話を、今日もまたされましてねえ。何度目でしょうかね、あれをお聞きするのは。それで旦那様はやはりおでんがいいと」
ちょっと困ったように、「婆や」は微笑む。
 
 婆やの名は(きよ)と言い、郁代の母が亡くなった翌年、十三年前からこの家に住み込んでいた。今年で七十五になるはずだ。元々は、島で唯一の宿泊施設である「青松荘」で仲居をしていたのを、郁代の父がお手伝いさんとしてスカウトしてきたのである。郁代にしてみても、元号も昭和から変わったこの時代に「家には婆やが奉公しておりまして」などというのはあまりにも時代がかった話だとは思っていたが、それもやはり「大鍋炭の炭鉱長様」の威光の名残であると言えそうだった。

「やあ、今日も遅かったじゃないかね」
 郁代がただいま、と言いながら居間に入っていくと、飴色のソファーに座った彼女の父、取締役炭鉱長の真田善三博士が振り返った。応接セットの向こうに置かれた大型のブラウン管テレビは、まだあまり普及していないアナログハイビジョンテレビだ。画面に映し出されているのは、博士のお気に入りの番組である「世界遺産紀行」だった。
「おでんがあるから、婆やに温めてもらうといい」
 彼はにこやかにそう言うと、再びテレビに向き直った。
「これは、どこ? すごい町ね」
 父の銀髪越しに画面を見ながら、彼女は訊ねた。砂漠の真ん中に、古びた土色をした無数の高層建築がぎっしりと寄り集まって建っている風景が、映っていた。
「イエメンの『シバーム旧城壁都市』だよ。このビルは全部泥のレンガでできているらしい」
「ちょっとこの島と似てる気がするね」
「砂漠の真ん中と海の中、正反対みたいだけども、隔絶された場所に集まったビル群という点では似ているかもしれないね」
 博士はテレビを見つめたままうなずいた。
「もっとも、あちらの歴史は二千年以上、古代から連綿と続いてきた街だという点が全く違うがね」
「この島の歴史は連綿と続いてはいかないかしら?」
「どうだろうかね」
 博士は軽く首を傾げる。
「ねえ、お父さん。北洋炭鉱のニュースを見たわ。とても不安になったの。この島も、そのうちに駄目になってしまうんじゃないかって。お父さんの炭鉱は、大丈夫なの?」
 博士はしばらく黙り込み、ややあって口を開いた。
「それはなかなか難しい質問なのだよ。もちろんお父さんの会社は、炭鉱を閉山するつもりはない。会社の基幹だからね、閉山は即ち会社の終わりということになってしまう。しかしグループ本社は、恐らく炭鉱業などは危険で時代遅れだと思っていて、手を引きたがっているだろうね。採れる石炭の質の良さも、私の誇りである世界一の保安技術も、本社は興味が無い。そしてうちの会社は、グループ本社の意向に逆らい続けることはできない」
「じゃあ、やっぱりこの島も……」
「もちろん、今すぐにどうこう、と言う話は無い。郁代が心配するようなことはなにもないよ」
 島田博士は再び振り返り、目じりにしわを寄せて微笑みながら、力強くうなずいた。
「さあ、晩御飯を食べておいで。今日の婆やのおでんは、絶品だよ。あれなら姫路のガード下にも負けないな」

 遅い夕食を終えた彼女は、自分の部屋へと戻った。ドアを開いて、照明の消えたままの室内に入ると、正面の窓から島の夜景を見下ろすことが出来た。夜景とは言っても、急な斜面にあまりにも建物が密集しているために、眼下に街の灯が広がって――という風にはならない。足元にごちゃごちゃとビル群の明るい窓が折り重なり、そのすぐ先はもう暗い海という感じで、窓から思い切りジャンプしたら、街を越えて水面に飛び込めそうな気がするほどだ。
 そしてその海のずっと向こう、ほとんど水平線近くに並んで見える光点の列、あれが浜津市の市街地だった。あの町の灯が消え去ってしまようなことは、まずあり得ないだろう。それに比べて、この島の地盤の何と脆弱であることか。
 でも、今わたしが色々と思い悩んだところで、それが何になるだろう。とにかく今は、わたしにできる精一杯のことを続けていくしかないのだ。
 そう思いながら彼女は、彼方で眠りにつこうとしている都会、明日もそこで過ごすことになるはずのその町の灯りが、かすかに揺らめくのを見つめていた。

第一章 ファースト・コンタクト

 いつもと同じ時間にベッドで横になると、駅の方角から列車の警笛が聞こえてくる。浜津駅を出る、最終の列車。その悲しげな音色を耳にすると、自分が遠い町にいるのだということを、克利は改めて実感させられるのだった。
 あの列車に乗り、さらに新幹線に乗り継いだその先に、彼が生まれ育った大都会がある。不夜城のようなあの町の繁華街では、こんな時間になってもまだ、無数の人々が街角を行き交っていることだろう。
 今住んでいるこの浜津市だって、決して小さな町ではない。人口七十万を数える、地域の中核都市だ。暮らしていて、特に不便を感じることはない。ただ、町が眠りにつく時間は、本物の大都会に比べるとやはりずっと早かった。日付が変わる時間が近づくと、市内はすっかり静まり返ってしまう。
 だから、ベッドの中であの警笛を聞く瞬間、彼は改めて思うのだ。自分が、はるか遠い町に、一人暮らしているのだということを。

 旧制第九高校以来の歴史を持つ名門である国立津州大は、決して悪い大学ではない。しかし、その入学者の大半は浜津市民を始めとする、この地方の出身者で占められていて、わざわざ遠方からこの大学に進学する者は、ごく珍しかった。
 だから、入学からしばらくの間、克利は何人もの同級生から、「なぜ津州大に来たの?」と繰り返し訊ねられることになった。国立でも私立でも、全国的に名の通った大学がいくらでもある都会から、どうしてわざわざこの町にやってきたのか、と。
 彼の成績でちょうど入れる国立大法学部が他に無かったから、というのが一応の答えではあった。しかし、センター試験の点数だけで言えば、わずか三十分で通える隣県の公立大法学部という選択肢もあった。こちらも戦前からの名門で、全国的に名も通っている。そこを敢えてこの津州大を選んだのは、独りで知らない土地で暮らすと言うことに、彼がいくらかの憧れを感じたからなのは間違いなかった。
 とは言っても、せっかくの学生生活である。誰とも人付き合いをせずにひたすら孤独を通すというのもつまらない話だから、彼も彼なりに周囲との付き合いはこなすようにしていた。
 ただ、今日の飲み会、あれは駄目だった。友人に半ば無理やりに誘われて出席したその飲み会は、人文学科の女の子たちとのコンパというやつなのだった。彼女たちはみんな結構かわいくて、場はそこそこに盛り上がったが、彼自身はそういう空気にどうもなじめなかった。もちろん、一人で白けていては悪いから、適当に調子を合わせてはしゃいで見せたりはしたのだが、無理したせいでかなり疲れてしまった。何事も経験だとは思うから、出席したことを後悔はしていないのだが、次回からはごめん被りたいというのが正直なところだった。
 明日は、一人で本でも読んで過ごそうと、彼はそう思った。きっとこんな繰り返しでバランスを取りながら、僕の大学生活は進んでいくのだろう。
 枕元のスイッチに手を伸ばし、スタンドを消した。もう列車の音も聞こえない。そして間もなく、彼は眠りに落ちた。

 梅雨明けの見事な夏空が広がった翌日の午後、彼はショルダーバッグに本を詰めて、海辺へと出かけた。
 海辺とは言っても、そこは「海浜都市」と呼ばれる人工の埋め立て地で、本来なら臨海工業都市・浜津の象徴たるウォーターフロントの新都市として、ビルが建ち並ぶはずだった場所だった。市当局の計画の下、海を埋め立て、企業誘致がスタートしたのだったが、空前の不景気の到来と共に計画はとっくに頓挫していた。
 地下鉄の終点である海浜都市駅の出口から外に踏み出すと、途端にぎらぎらと輝く太陽の光が克利の頭上から降り注ぐ。綿の切れ端のような小さな雲が青空の所々にぽっかりと浮いてはいたが、太陽を遮る役に立ってくれそうにはなかった。
 赤信号の横断歩道の前で立ち止まり、彼は頭上に目を遣った。四車線の道路を挟んだ向かい側には、巨大な超高層ビルがそびえ立っていた。高さは四十階を数え、この町では最も高い建物だ。壁一面に貼られた無数のガラスがそれぞれに青空や太陽を映し出していて、鏡でできた塔のようだった。
 大失敗に終わったベイエリア開発計画の中で、シンボルタワーとして最初に建てられたこの超高層ビルだけがその名残として、一面の空き地の中に孤立して佇んでいた。ビルの隣には水族館もあって、こちらはイルカショーなどでそれなりに人気がある。それらの施設の裏手は、人工の砂浜になっていた。
 ビル正面の広場は、今は無人だった。いつもなら、ベンチでくつろぐ人たちの姿も見られるのだが、今日はさすがに日射しがきつ過ぎるのだろう。
 回転ドアを押して建物の中に入ると、途端に冷気が彼の体を包んだ。一瞬で、汗が引く。彼はほっと息をつきながら、三階分をぶち抜く吹き抜けになったエントランスを歩いた。最上階へと向かうエレベータに乗り込んだのは、克利だけだった。階数のボタンを押すと、エレベーターは地上百五十メートルを目指して一気に上昇を開始する。
 数字がちょうど四十になったところでエレベーターは静止し、ドアが開いた。外からの光のまぶしさで、克利には室内にいる人間が全てシルエットに見えた。そこは展望フロアで、部屋を取り囲む壁はガラス張りになっているのだった。
 目を細めながらエレベーターを降り、彼はガラスの壁のそばへと近づいて行った。眼下には、浜津市の市街地が広がっている。ひときわ目立つ一棟の超高層ビルを中心に、高層ビルがいくつか集まっているあの辺りが、この町の中心部だ。都心を取り囲むように無数の低・中層ビル群が建ち並び、その向こう側は住宅地、さらに彼方には田園地帯がはるかに続いている。都市の構造がこうして一目で見渡せると言うのは、いかにも地方都市らしい。
 町が見えるのとは反対側、海に面した窓に向かって置かれたソファーに腰掛けた克利は、ショルダーバッグから本とウォークマンを取り出し、しおりを挟んだページを開いた。平日の展望フロアはがらがらに空いていて静かだったから、ゆっくり本を読むには最適なのだった。眺めは申し分ないし、下界から切り離されたような浮遊感も心地良い。もし飲み物が欲しければ、自動販売機で買うこともできる。この町に来て間もなく、たまたまここを訪れた彼は、すっかりこの場所が気に入ってしまったのだった。
 文庫本の細かい字を追うのに疲れると、彼は窓の彼方に視線を向けた。どこまでも広がった海は、夏の太陽を映してきらきらと輝いていた。水平線の近くには、黒っぽい船の姿も見える。遠くの船は、動いているのかどうか全く分からなくて、ずっとその場所にとどまっているように見えた。ヘッドホンから聴こえる曲の歌詞のような、ペパーミント・ブルーだとまでは言えないが、夏の海の明るい青さは気持ちまで明るくしてくれるような気がした。今度ここに来るときは、愛用のカメラを持ってくることにしようかと彼は思った。
 ウォークマンの音楽が三周するうちに、太陽は海へと向かって次第に高度を下げ始めた。今日はこの辺にしておくかと克利は本を閉じ、鞄にしまい込む。海の彼方に目を遣ると、水平線の近くに相変わらず船のシルエットが見えた。
 さて、とソファーから立ち上がろうとしたその時、めまいのようなふらつきを感じて、彼は慌てて再び座り込んだ。集中して本を読みすぎただろうか。そう思いかけて、いやこれは違うぞと彼は気づいた。揺れているのは彼の方ではなく、この展望フロアのほうらしい。地震だ。他の人たちも、周囲を見回している。
 浜津に来てから、すでに何度かの地震を経験していた。彼の生まれ育った町では、体に感じるほどの地震は年に数回あるかどうかだったから、最初はちょっと怖い思いもした。この地方ではこれが当たり前なのだと言うことに馴染みつつはあったが、高いビルの上で遭遇する地震というのは不安感が違う。
 まるで大型船に乗っているような、ごくゆっくりとした揺れが、しばらく続いた。その間彼は、体を固くしてじっとソファーに座っていた。揺れが完全に収まるのを確認してから、彼はやっと立ち上がった。海の反対側、市街地に面したガラスの壁から地上を見下ろしてみたが、特に混乱は起きていないようだった。夕陽に照らされたビル群が作り出す濃い影が、ただ地上に落ちているだけだ。
 もしかすると、こんな高いビルの上ででもなければ、あまり感じ取れない程度の地震だったのかも知れない。とにかく今日は帰ろうと、彼はエレベーターのほうへと歩き出した。窓際に並んだソファーには、外を眺めたり本を読んだりと、各々に寛ぐ人たちの姿があったが、先ほどの地震に動揺しているような気配は全くなかった。やはり驚いたのはよそ者の僕だけか、そう思いながら歩いていた彼は、一つのソファーの前で、ふと立ち止まった。
 長い髪をバレッタでまとめた、細身の若い女性が本を読んでいた。確か、一般教養の講義で見かけたことがある。同じ津州大生のはずだ。
 彼の視線に気づいたのか、彼女は顔を上げて克利の顔を見た。軽く会釈する。向こうも彼に見覚えがあるようだった。彼も会釈を返しながら彼女の前を通って、そのまま黙ってエレベーターへと向かった。こういう時に「さっきの地震、怖かったですね」とか親しげに声を掛けられれば、と思わないでもなかった。そういうのが苦手だから、ガールフレンドの一人もできないんだろうな。

 高速エレベーターで再び地上へと降り立った彼は、ビルの玄関に向かって歩き始めた。吹き抜けのエントランス・ホールの中に作られた階段のそばを通りがかった時、今度は一枚の張り紙を目にして足を止めた。
 スタンド看板の上に貼り付けられた、ワープロ打ちらしいその紙には「浜津フォトサークル・作品展示会/2Fギャラリールームにて」という文字が並んでいた。写真の展示会か、と彼は思った。面白そうだ。ちょっとのぞいて行こうか。
 矢印の指し示すほうへと階段を上り、廊下をいくらか進むと、すぐにそのギャラリールームは見つかった。ガラス張りの壁から見える室内の壁面には、さまざまな写真が展示されていた。部屋の片隅には円形のテーブルが置かれていて、周囲に座った数人の人たちが何か会話を交わしている。恐らく、彼らがその「浜津フォトサークル」なのだろう。克利は、遠慮気味にガラス戸を静かに押し開いて、室内に入った。特に誰かが話しかけて来たりすることもなく、みんなそのまま和やかに会話を続けている。そのまま部屋を横切り、彼は写真の展示された壁面の前に立った。
 最初に目に留まったのは、どこかのお寺の風景らしい写真だった。石段の上に建っている立派な山門を、見上げて撮った構図である。ところがこの写真、何とも不思議な写り方で、まるでコンピューターグラフィックのような荒いモザイク調なのだ。写真と言うよりはビデオの静止画像のようにも見える。
「面白いでしょう」
 ふいに話しかけられて、克利は振り返った。そこには、五十代くらいと思える白髪の男性が、にこやかな表情を浮かべて立っていた。銀縁眼鏡を掛けたその雰囲気はいかにも知的な感じで、大学の先生のようだ。
「え、ええ。変わった写真ですよね。どうやって撮ったのかって考えてました。ビデオから切り出したんじゃないかって」
「なかなか鋭いですね。実はこれはね、開発中のデジタル・スチルカメラって奴で撮影したんですよ。見せて差し上げましょう、持ってきてますから」
 そう言って教授風のおじさんが持ってきてくれたそのカメラは、一見小型のコンパクト・カメラのようだった。しかし、手にとって裏返してみると、背面にはポータブルテレビのような液晶画面がついている。おまけによく見れば、レンズ部分は独立してボディーの端っこにくっついていて、上下に回転するようになっていた。超小型のビデオカメラ、と言ったほうが良さそうだったが、あまりに小さすぎて、ビデオテープなどは入りそうにない。
「これは……フィルムとかは……」
「ああ、未来にフィルムは必要ないのですよ」
 そう言って笑うと、おじさんはデジタル・カメラのスイッチを入れて、手渡してくれた。液晶画面に、室内の風景が写し出されている。やはりビデオカメラのようだ。
 レンズを廊下の方に向けてシャッターを押すと、その風景が画面の中で音もなく静止する。もう何枚か撮ってみてくださいと言われた彼は、さらに何度かシャッターを切ってから、おじさんの説明通りにモードスイッチを再生側へと切り替えた。つい今ほど撮影した風景が、静止画像として画面上に表示される。さらにボタンを押すと、先ほどから撮影した何枚もの風景を、順番に再生することができた。しかも、失敗した写真は消去ボタンで簡単に削除できるという。
「面白いですね!」
 僕は思わず声を上げた。
「これは現像というか、プリントというかは……」
「パソコンにつないで、プリンターで印刷できるんですよ。画像のデータは、このカメラの中にある半導体メモリーに記録されてるわけです。もちろん、パソコン側のハードディスクに移して残しておくこともできます」
「すごいなあ。いつ頃発売されるんですか? 高いんでしょうね、きっと」
「いや、実は私もその辺りは。これを作ったメーカーに友人がいましてね、実際に使って試して欲しいって頼まれただけなので。いい写真が撮れたら、カタログ用として採用してくれるとも言ってるんですが……」
 おじさんはそう言いながら振り返ると、ラウンド・テーブルの周りに集まったメンバーたちに向かって話しかけた。
「壮太君の写真がやっぱり一番いいよね、もし使ってもらうなら」
「ええ、わたしもそう思います」
「賛成。あれ良く撮れてるよ」
「会長の浜津東照宮も悪くはないですがな、どれか一枚というなら壮太君のほうでしょうな」
 とみんなが口々に言う中で、学ランの上に青いブルゾンを羽織った中学生くらいの男の子だけが、照れた表情で俯いている。彼がその壮太君なのだろう。
「どんな写真なんですか? 僕もぜひ見たいですね」
 と克利は言った。彼自身も写真を少し撮るから、これだけみんなが誉める写真なら、参考にしてみたかった。
「ほら、出番よ」
 壮太君の隣に座った、黒髪ストレートロングのお姉さんが、そう言って彼の肩をつついた。彼はますます照れた顔になりながら椅子から立ち上がり、写真の並んだ壁面のほうへと歩いて行った。
「あの、この写真です。良かったら……」
 頬を紅くした彼はそう言って、一枚の写真を指さした。
 思わず克利は、息を呑んだ。デジタルっぽい、モザイク状に荒い感じは先ほどと同じだったが、そこに写った風景は異様だった。
 それは、ビルが建ち並んだ都会の夜景写真だった。いくつもの窓の灯りが、闇の中に浮かび上がっている。その手前は水面であるらしく、ビル群の放つ光を映してきらきらと輝いていた。それだけなら海辺の都会の写真、と言ったところなのだが、その風景が特異なのは、そのビル群の左右もまた水面であるらしいという点だった。つまり周囲が全て水面なのだ。恐らくは海の上に、ビル群だけが一かたまりとなって、ぽっかりと浮かんでいるということになる。これは、島なのだろうか。こんな島が、果たして実在するものなのだろうか。世界遺産で有名な、フランスのモン・サン=ミシェル島というのにちょっとだけ似ているようだけど……。
「これは、一体……」
 彼は壮太君の顔を見た。
「ええ、青松島です。船の上から撮ったのですが、このデジタル・スチルカメラというのは感度がいいので、こんな夜景も撮れたのですよ」
 そう言って彼は、はにかむように微笑んだ。いやそうじゃなくて、と言いかけて、克利は黙り込んだ。
 青松島。彼は当たり前のようにその名を口にした。もしかしたら浜津では良く知られている場所なのかもしれない。知らない、とか言ったら驚かれてしまうのではないか。
「浜津へは、ご旅行で?」
 戸惑っている様子に気付いたのだろう、先ほどのおじさんが、彼にそう訊ねてくれた。
「あ、いえ、津州大の学生なんです。実はこの四月に浜津に来たばかりで……」
 と、克利は自分が遠くの都会からやってきたことを説明した。
「ほう、それは珍しい。うちの学生はほとんどがこの地方の出身者で……いや、これはいかんな。自己紹介がまだだった」
 おじさんはポケットから名刺を取り出して、彼に渡してくれた。そこには、こうあった。
[津州大学理工学部 教授 工学博士
 神代 京介]
「こちらこそ失礼しました」
 と彼は慌てて頭を下げた。教授風のおじさん、ではなく、本物の教授だったのだ。
「法文学部法律学科の堅上(かたかみ)克利と言います。うちの先生だったんですね。すみません、全然気付かなくて」
「いやいや、気にしないでください。法文なら、知らなくて当然ですよ。キャンパスからして離れてるんだから」
 神代教授はにこやかにそう言った。
「しかしなるほど、それでは青松島のことはあまり知らないわけですね」
「あまりというか、実を言うと全く知りませんでした。すみません、勉強不足で」
「ははは、最近は社会科の教科書でも取り上げられることが、すっかりなくなっているようですからね、青松島は。やはり斜陽なんでしょう、採炭業は」
「採炭業? じゃあ、この島では石炭が採れるんですか?」
 こんな小さな、しかも建ち並んだビルで覆い尽くされた島のどこから石炭が出るんだろうと、彼は不思議に思いながら訊ねた。
「この島、と言うか、島から地下へとずっと掘り進んだ海底から、石炭を採ってるんですよ。その基地になっているのが青松島で、この建物はみんな、炭鉱で働く人が住んでいる住居なわけですね」
「そうなんですか」
 と目を丸くしたのは克利ではなく、壮太君のほうだった。
「知らなかったです。何であんなに人がたくさんいるのかって、ずっと思ってました」
「おいおい、君のお父さんは確かTNスチールの社員だったろう。お父さんの製鉄所でも、島から採れた石炭から作ったコークスを使ってるはずだよ」
 教授はそう言って笑った。
「最近は、市内の学校でも教えないんだろうかなあ。今度教育委員長にでも会ったら、ちょっと言っておくか」
「いえ、その、ごめんなさい。僕も、あんまり社会科は苦手だから」
 壮太君はまた顔を赤くした。
「じゃあ一度、青松島で本格的に撮影会でもやろうかな。あそこの炭鉱長は科学部の大先輩だから、お願いしたら色々見学させてくれるかも知れない」
 神代教授がそう言うと、背後の人たちからも「いいですね!」「ぜひやりましょう、会長」と声が上がった。
「あの」
 克利が、おずおずと言った。
「僕も行ってみたいです、もし構わなかったら」
「もちろん、いいですとも」
 教授はにこやかに言った。
「浜津フォトサークルへ、ようこそ」
 テーブルの周囲のみなさんが、一斉に拍手した。

 こうして彼は、全くの成り行きでフォトサークルに入ることになってしまった。しかも、「一応、僕も写真撮るんです」とつい口にしてしまい、おかげで次回の例会に参加する際に、写真を持って行かなければならないということになってしまった。
 これはちょっと真面目に作品撮らないと、と思った克利は、愛用の小型一眼レフカメラを手に、翌週再びベイエリアへとやってきた。高層ビルの上から見た、あの真っ青な海を撮ろうと思ったのだった。
 展望台に着いて、さてとばかりに海のほうへカメラを向けてみた彼は、一つの発見をすることになった。水平線の辺りに船らしきシルエットが浮かんでいたのだが、その場所には、この前来たときも全く同じような船影があったはずなのである。あれから何日も経っているのに、少しも動かないというのはおかしい。
 望遠レンズに変えてファインダーを覗いてみると、それはやはり船では無かった。島である。しかしただの島ではなく、無数の高層建築物が密集して建っているために、全体がまるで人工物であるかのように見えるのだった。船と見誤ったのはそのためだ。これは――例の青松島に違いない。
 すごいぞ、と思わず彼は興奮した。こんなに早く、その姿を目にすることができるなんて。あの島とは、何か不思議な縁があるのかも知れない。
 残念ながら35ミリ換算で140ミリ、いわゆる四倍ズームの最大望遠クラスのこのレンズでは細かいところまでは写りそうに無かったが、それでも彼なりに構図を工夫しながら、何度もシャッターを切った。夕方まで粘ったために、予備のフィルムカセットも含めて二十枚以上もの写真を撮ることになり、克利は大いに満足しながらビルを下りた。
 帰り道、フィルムを現像に出そうと、彼はさっそくカメラ屋に立ち寄った。店内には、中古カメラがずらりと陳列されていて、目移りしそうになるほどだ。本当は、もっと望遠の効くレンズがあれば、さらにアップで色々撮ることができたはずだ。今のカメラではこれ以上の望遠レンズは使えないから、いずれはもっと本格的なカメラにステップアップも考えようかなと思いながら、彼は店を出た。
 この町最大の繁華街である紺屋町のメインストリートは、週末の夕方と言うことで大変な賑わいを見せていた。ようやく陽は完全に沈み、空は紫から紺までのグラデーションを描いていたが、足元のコンクリートが蓄えた熱気を放射し続けているらしく、まだ蒸し暑さは相当なものだ。
 これだけの数の人が歩いていても、知り合いに会う可能性はごく少ない。大学の同級生数人と、この前知り合ったばかりのフォトサークルの人たち、それ以外にはこの町に知り合いなどいないのだ。しかし彼には、まだまだ馴染みのないこの街角で、知っている人間が姿を現す可能性があるのだということのほうが、むしろ不思議に思えるのだった。もはや全くの異邦人というわけではない。わずかずつではあるが、彼もこの町に根を下ろしつつあったのだ。

 フォトサークルの例会は、津州大の正門近くにあるカフェで開かれる。というのも、メンバーの一人がその店のマスターなのだそうで、例会の日は店を閉めて貸し切りにするのだとのことだった。灯台下暗しと言うか、しかし学校の前にそんなカフェなんかあったかな、と克利は首を傾げながら例会へと向かったが、判らなかったのも無理はない。「ボン」というその店は、カフェという流行の呼び方をするのはかなり無理のある、二十世紀中期の趣を湛えた、古びた喫茶店だった。
 木製の重たそうなドアを開けて、カランコロンカラン、と懐かしげなベルの音と共に店内に入ると、カウンターの向こうに立ったマスターが「やあ、いらっしゃい」と声を掛けてくれた。口ひげをたくわえたその顔には、なるほどあの展示会場で見覚えがある。しかしそれにしても、白いシャツの上に黒いベストを着た出で立ちは、あまりにも絵に描いたような喫茶店のマスターで、これも今時珍しい。
「来たね」
 そう言って神代教授、つまりはフォトサークル会長が、立ち上がって入り口のほうへと歩いてきた。店内を見ると、二つくっつけた四人掛けテーブルの周りには、やはり先日見かけた面々、壮太君やら謎の美女やら作務衣を着た老人やらが集まっている。
 あれ、と彼は思った。この前と全く同じ顔ぶれということは、結局これで全員なのだろうか。他にもっと会員がいるのかと思っていたのだが。
 改めて自己紹介をと言うことで、克利は出身地や、大学で専攻している事などについてしゃべった。続いて、各メンバーが自己紹介をしてくれる。トップバッターは壮太君だが、彼のことはもう知っている。津州大の近くにある学校に通う中学生で、写真部のエースなのだそうだ。もっと広い世界で作品を見てもらおうと、このサークルを立ち上げたのだということだった。
「立ち上げた?」
 と思わず克利は聞き返した。
「そうなんですよ」
 サイフォンのフラスコから、カップへとコーヒーを注ぎながら、マスターが言った。
「彼のお父さんが元々この店の常連でしてね、壮太君も良くこのお店に来てたんですが、一度彼の写真展をここでやることになりましてね。それを見に来てくださった、同じくうちの常連の神代先生や、ご隠居、ミス・小西六なんかのみなさんと彼がしゃべってるうちに意気投合しまして、それで写真サークルやろうってことになったんですよ。壮太君が発起人、ってことでね」
「じゃあ、もしかして新規の会員ってのは」
「あなたが初めてなのです」
 作務衣姿の老人が、にこやかにうなずいた。
 そうだったのか、と彼は思った。道理で会員が少ないはずだ。でも、何だか面白そうな人たちではある。
「じゃあ、次は私から自己紹介をしましょうかな」
 と老人は言った。
 サークルの副会長で本名、鮒村一平。しかし誰も名前では呼ばず、ご隠居とかおやっさんとか呼ぶそうだ。元は県警の敏腕刑事で、「落としの鮒さん」と呼ばれたそうだ。しかし今は、好々爺然とした老人で、特に目つきが鋭いと言うことも無かった。
「次は、わたしね」
 と言って髪を掻き上げながら立ち上がったのは、色白ロング黒髪、露出の多い赤いワンピースという服装をした、謎の女スパイ風の女性だった。
「ここでの名前は、関谷愛子、ってことにしておくわね」
 と始まった自己紹介によると、結局名前は謎、年齢不詳、職業不明、住所不定と何から何まで謎なのだった。ニックネームは「ミス・小西六」。かつて愛用していた「さくらカラー」というフィルムが大好きで、そのメーカー名から自分で付けたとのことだったが、ならば――そんなに若くはなさそうだ。
 最後に、マスター。この人はそのまんま、「マスター」と呼ばれているそうで、一応本名は桜井弘一だが、やはり誰もその名前では呼ばないらしい。職業は聞くまでもない。
 さあ、ではみやげの写真をとみんなにせっつかれて、克利はカメラ屋の名前が入った封筒をショルダーバッグから取り出した。そしてプリントの束から、一番気に入っている一枚を取り出し、テーブルの上に置いた。
 それは、縦構図で撮った、夕暮れの青松島だった。空は夕焼けで赤く染め上がり、水平線に沈みかけた夏の太陽、そのそばで小さなシルエットとなっている島の姿は、まさに船のように見えた。
「いい、ですな。これは」
 ご隠居が、腕組みしたまま唸った。
「まさに『長門島』だ。見事なもんです」
「長門島?」
 克利は思わず聞き返す。違うのか、これは青松島とは。
「そう呼ぶのですよ、青松島のことを」
 と隣から神代会長が言った。
「昔、旧日本海軍の『長門』という戦艦がありましてね、この島のシルエットがその戦艦に似ているという事らしいのです。実は地元では、『青松島』という呼び名はあまり使われません。みんな、むしろ長門島と呼びますね、この浜津では」
「何だかこれ、不思議な写りかたですね。昔の写真みたい」
 と壮太君が、キラキラと輝く瞳を克利のほうへ向けた。粒子の粗い、ポケットフィルム独特の写り方がそんな風に感じられるのかなと思いながら、彼はジーンズのポケットから愛用の一眼レフカメラを取り出して、これで撮ったんだよと言った。
「小さい! 何ですか、これは」
 彼は目を見開いた。
「ワンテンか、なるほど、なるほど」
 ご隠居はさすがに知っているようで、目を細めてうなずく。
 110フィルム、別名ポケットフィルムとも呼ばれるカセット式の小型フィルムは一九七○年代に大流行して、どこの家にもそのフィルムを使うポケットカメラが一台くらいは転がっていた。ブームの末期には、110フィルムを使ったレンズ交換式一眼レフというものまで登場したが、克利の家に転がっていたカメラというのがまさにその一眼タイプのものだった。
 物心ついた頃から、彼はこのミニチュアのようなカメラが大のお気に入りで、結局今でもこうして愛用しているという訳なのだった。何せ、手のひらに二、三台並べて載せられるくらいに小さくて、名前の通り胸ポケットにだって入るのに、レンズを交換することまで可能なのである。こんなカメラは、他には無かった。フィルムが小さい分、写りは少々ざらっとした仕上がりだが、それはそれで彼は気に入っていた。
 ふふふ、と謎の美女が笑った。
「ワンテン使いなんて、面白いじゃないの。わたしも使ってたことあるわ、修学旅行に持って行ったわね。にっくきフジカの350ズームって言うのだったけど、せめてフィルムは、とサクラカラーⅡにしたわ」
 そう言って、妖艶に微笑むミス・小西六ではあったが、克利にもさすがに何のことだかよく分からない。恐らく、富士フイルムと小西六フィルムはライバルだった、ということなのだろう。
「これは、どこから撮ったんですか?」
 と壮太君が訊ねた。
「実は、この前みんなが展示会をしていた、海浜都市のビルから撮ったんだよ。あの時はカメラ無かったから、もう一度あそこの展望台に出かけて撮ってきたんだ」
 と克利は説明した。
「しかしそれにしても、青松島に随分と興味が出てきたようですね。わざわざまたあそこまで足を運んで、こんな見事な写真を撮ってこられたとは」
 神代会長が感心したように言った。
「いえ、実はこれは偶然なんです。眺めがいいから海がきれいに撮れるだろうと思って、レンズ向けたらちょうど島が見えて、こんな風に撮れて」
「縁がおありのようですな、長門島と」
 湯気の立つコーヒーカップを手に、ご隠居がにこやかな表情でうなずく。
「その青松島撮影会ですが」
 と会長は続けた。
「炭鉱長をされておられる、私の高校時代の先輩にお願いしてみたところ、娘さんに島の中を案内していただけることになりました。私も知らなかったのですが、実は法文学部の一回生らしい。人文学科の真田郁代さんと言うのだけど、もしかして知ってるかな、堅上君」
「いえ……多分知らない人だと思います。人文のほうに特に知り合いはいないので」
「そうですか。ともかく、その郁代お嬢さんが、我々を案内してくださるそうです。それでは、日程の検討に入りましょうか」
 みんなの都合を調整した結果、撮影会は二週間後の土曜日でどうだろうかということになった。神代会長が確認したところ、炭鉱長の娘さんもその日でOKだということで、撮影会の日程が決定した。

 青松島上陸に向けての予習程度のつもりで、克利は大学の図書館で炭鉱業についての本を探して読んでみた。
 神代教授が言っていた通り、炭鉱業はまさに斜陽産業で、戦後の一時期には国内に千箇所近くもあった炭鉱も、今やわずか数十箇所程度にまで減少しているとのことだった。ただ、花形産業だった当時であっても労働条件は劣悪そのもので、数年に一度は大事故が発生しては何十、何百の労働者が死亡したらしかった。何かというと火災や爆発が起こったり、海底炭鉱の場合は落盤によって海水が流れ込んで大量の溺死者が出たり、もうめちゃくちゃである。彼が生まれた1980年代になってもなお、百人近くが亡くなるような大事故が数回起きている。
 戦後間もなくの頃は労働者の生活環境も劣悪で、特に中小の炭鉱では、餓死寸前の状況で半ば奴隷同然に働かされ続けた坑夫たちの話も、ごろごろ転がっているようだった。大手炭鉱と違って労働組合もなく、経営陣への反抗など、力が違いすぎて到底無理だったのだろう。
 これはもしかすると、単に面白い変わった島、程度のつもりで行くような場所じゃないかもしれないぞ、と克利は思った。事故現場の古い白黒写真を見ていると、まさに地獄絵図そのものだ。青松島においては、少なくとも何百人も亡くなるような大事故は起きていないようだったが、死地へ赴く人々が暮らす場所であることには違いないだろう。もしかするとそこは、世紀末的に殺伐とした場所なのかもしれない。
 それでもなお、彼は撮影会を心待ちにしていた。やはりあの島には、どうしても行ってみたかった。それに、あのユニークなサークルの面々と一緒に出かけること自体も、楽しみになっていたのだった。今年の夏休み、唯一最大のイベントになるはずだ。
 図書館で一人本を読みながら、ワンテンで撮った島の写真を時折ショルダーバッグから取り出し、眺める。彼はもう、独りではなかった。

 撮影会当日、早めに家を出た克利は、地下鉄に乗っておなじみの海浜都市へと向かった。青松島への船が出ている浜津港旅客船ターミナルは、海浜都市駅からは離れた場所にあり、市内からはバスで直接行くほうがずっと便利だ。しかし彼は、駅から海沿いの道をぶらぶら歩いて港へと向かうことにしたのだった。
 埋立地の上だけに、コンクリートで固められた殺風景な海岸線ではあったが、潮風を浴びながらの散歩は気持ちよかった。こんな外れに港があるのは、あくまで中心はフェリーのほうだからだ。車で来る分には、駅から遠くても別に不便はないわけだ。しかし、青松島へのフェリー航路というものは存在しなかった。そもそも島には車を下ろす場所がないから、フェリーが立ち寄っても仕方がないのである。そう言うわけで、青松島の人たちにとっては、不便な場所から船が出るということになってしまっているようだった。
 旅客船ターミナルに着くまでは、結局一時間近くも歩く必要があった。ターミナルビル自体は彼方に見えていて、それほど遠いとも思えなかったのに、広大な人工の土地ではスケール感が狂ってしまうらしかった。予定の集合時刻には間に合ったとは言え、炎天下を歩き続けた克利はすっかり汗だくになってしまっていた。やっぱりこれに乗って来たら良かったな、と入り口の前に停まっているバスを横目に見ながら、彼はターミナルビルのドアを開いた。
 途端に、妙に存在感のあるグループが目に入ってきた。フォトサークルの面々だった。みんな同じバスで来たということで、克利以外の全員が既に勢揃いしていたのだが、みんなそれぞれにこだわりのある服装で来たらしく、ほとんどコスプレ集団に近いような、インパクトのある見た目になっていた。
 ベージュのスーツにカーキ色のソフト帽をかぶった神代会長は、映画に出てくる考古学者のようだし、副会長のご隠居は薄紫のちゃんちゃんこと黄色い頭巾がまるで水戸のご老公である。壮太君はいつもの詰襟姿だが、なぜだか身長ほどもある巨大な登山用の赤いリュックを背負っていて、伸び気味の髪をポニーテール風に細いヘアバンドでまとめている。ミス・小西六はやけにつば広の白い帽子に、同じく白いワンピース型のドレスで、もしこれから乗り込むのがクイーン・エリザベス号なら良く似合いそうだ。そしてマスターはまるっきりいつも通りのマスタースタイルで、普通と言えば普通だが、場の雰囲気からは明らかに浮いている。白いTシャツにジーンズという流行りのオーソドックスな服装で来てしまった克利だったが、もしかするとこんな格好じゃ駄目だったのだろうかと、軽く悩んでしまうほどだった。
 船賃は、片道わずか百円という破格の安さだった。船を運航しているのは島の持ち主である炭鉱会社で、一種の福利厚生みたいなものだから、採算は度外視なのだろう。会長の話では、青松島では店も施設も何もかもが炭鉱会社の経営で、格安で利用できるらしいということだった。社員は結構大事にされているようで、それならば殺伐とした悲惨な状況の島、というわけではなさそうだ。炭鉱事故の、あの恐ろしい白黒写真が頭に焼き付いていた克利は、少しほっとした。
 やがて乗船開始時刻になり、プラットホームのような屋根付きの桟橋を、船客たちがぞろぞろと歩き始める。思った以上に、客の数は多いようだった。個性あふれるフォトサークルのメンバーも、ひとかたまりとなって小さな旅客船に乗り込む。船室内も結構な混雑ぶりだ。会長と副会長、それにマスターの三人は三人掛けの座席に並んで腰掛けたが、少々窮屈そうな様子だ。
 克利と壮太君は、船室内には入らずに、後部デッキの上に出た。ミス・小西六も二人についてくる。窮屈な船室内よりも、こちらのほうが開放的で気持ちが良さそうだった。簡単な屋根もついているから、陽射しをまともに浴びたりはせずに済む。
 リュックを下ろした壮太君は、例のデジタル・スチルカメラを手にして、デッキの上を嬉しげにうろうろしている。つば広帽子のミス・小西六は手すりにもたれ掛かり、憂いを含んだ目で浜津の町を見つめているが、これはなかなかさまになっている感じで、後で一枚写真を撮らせてもらおうかと克利は思った。
 汽笛の音が鳴り響いて、間もなく船はゆっくりと桟橋を離れ始めた。約四十分の船旅のスタートだ。港が遠ざかり、段々速度が上がり始めると、最初は優しくほほを撫でる程度の感じだった潮風が段々強くなってくる。こりゃ涼しくていいやと思いながら、船の後ろに伸びる航跡を眺めていた克利は、背後の「あっ!」という大声に驚いて振り返った。
 ミス・小西六が、手すりから身を乗り出すように、海に向かって手を伸ばしていた。指先が示す方向、その彼方に、例の帽子がひらひらと宙を舞いながら遠ざかって行くのが見えた。
 しまった、と克利は思った。こんなに絵になる瞬間はそうはない。しかし、今からカメラを取り出しても間に合わない。
「はいはい、何とかちゃんと撮れましたよ」
 と言ったのは壮太君だった。
「確認しますか」
 彼はそう言いながら、ミス・小西六にデジタル・スチルカメラを手渡す。
「ありがとう。これでいいわ、良く撮れてる」
 液晶画面を確認した彼女は、にっこりと微笑んだ。
 何が何だか分からず、怪訝そうな顔をしている克利に、浮かない顔をした壮太くんが説明してくれた。彼女は、最初から風で飛んで行くだろうことを分かっていて、ああいう帽子を被ってきたのだということだった。しかも、飛んでいくその瞬間を撮影してもらうように、壮太くんに頼んでいたらしい。
「それが、小西六さんの表現活動、なんだそうです。だけどもったいないですよ、帽子。とっても高い、イタリア製の高級品なんですよ、あれ」
「いいのよ、そんなのは。どうせ自分で買ったわけじゃないわ。飛んで行ってしまってくれたほうがいいの、あれは」
 と彼女は涼しい顔で言った。まあ、何か訳ありなんだろう。壮太くんは、もったいない、もったいないよと繰り返したが、しかし彼が撮ったという写真を液晶画面で見せてもらうと、これがなかなかの出来だった。失った帽子を見つめるミス・小西六の横顔からは、驚きと悲しみが入り交じった感情がありありと感じられて、実にドラマチックだ。ぼんやりした画質も、古い映画のようにむしろ味になっている。要らない帽子一個と引き替えにこれが撮れたなら、悪くはないかもしれない。
「ひもを付けておいて、引っ張って戻せば良かったんですよ」
 と壮太君はなおも舶来の帽子にこだわるが、それじゃまるでコントである。
 ミス・小西六自身が手にしているカメラは、黒と銀色のカラーリングがクラシカルな感じの小型カメラだった。「旅行(ジャーニー)のお供に最適っていうキャッチフレーズで売り出された人気商品なのよ」と彼女は言うが、これが人気だった時代というのは相当昔のことだろう。ピント合わせは手動と言うことで、その点は克利のポケットカメラと同じだ。
 浜津の町が彼方に遠ざかると、そろそろ青松島が見えてくるはずと言うことで、三人はそれぞれカメラを手に今度は船の前方デッキへと向かった。
 島は、前方の海のただ中に、独りぽつんと浮かんでいた。その無骨な姿は、なるほど戦艦に良く似ているようだ。初めて間近で島を目にすることになった克利は、嬉しさで思わずシャッターを切りまくってしまい、たちまちのうちに十枚以上ものフィルムを使ってしまうことになった。予備はたくさん持ってきているとはいえ、上陸前からこんなペースで撮影していては、さすがに枚数が足りなくなってしまうだろう。普通のネガフィルムなら島の売店でも買えるという話だったが、マイナーなポケットフィルムが手に入るとは思えない。
 三人各々に写真を撮り続ける間にも、高速な旅客船はどんどん島に向かって進んで行った。さすがに外海だから、それなりに波やうねりはあるものの、特に荒れているわけではなく、航海は順調なようだ。
 ものの十分もすると、島はすぐ目の前にまで近づいて来た。船室内にいた会長たちもデッキに出て来て、それぞれに写真を撮り始めた。会長と副会長はニコン、キヤノンの正統派高級一眼レフカメラに、バズーカ風とまでは言わないまでも、かなり立派な望遠レンズを装着している。マスターは赤バッジが誇らしげなライカで、こちらはコンパクトサイズだ。
 この距離まで近づくと、青松島はもはや船のようには見えなかった。小なりとは言え島だから、そもそも大きさが全く違うのだ。見上げるばかりの高さにまで折り重なったビル群は大変な迫力で、まるで城とか要塞のようだった。その手前には、こちらも相当の高さがある、鉄骨製の櫓がそびえ立っていた。
 そのビル群の麓から、海上に向かって伸びた橋の先には、円形の舞台のような形をした桟橋が浮かんでいた。旅客船は速度を落としながらその桟橋にそろそろと近づいて行き、大きな衝撃もなく横付けする。到着だ。
 一斉に下船する乗船客に混じって、フォトサークルの面々も桟橋へと降り立った。そこから狭くて傾斜の急な橋を渡ると、いよいよ青松島に上陸である。
 橋の向こう側で銀髪の紳士と、細面で髪の長い、ワンピース姿の女性が並んで佇んでいるのを目にした克利は、あれっと思った。あの女の子は知っている。教室で見かけたこともあるし、シンボルタワーの展望室でも会ったことがある。もしかすると炭鉱長の娘さんというのは……。
「浜津フォトサークルのみなさん、ようこそ青松島へ」
 と、銀髪の紳士は挨拶してくれた。この人が、鍋島炭鉱取締役炭鉱長の真田善三博士だった。神代会長が通っていた高校の、先輩に当たる人だ。そして隣の女性が、今回島を案内してくれるという、津州大生の真田郁代さんなのだった。
「今日は一日、大変お世話になります」
 と挨拶する神代会長に、彼女は上品に微笑みながら、
「不慣れで至らない点もあるかもしれませんが、本日は精一杯、案内役を勤めさせていただきます」
 とお辞儀を返してくれた。その様子は、まるで国賓を迎えるお姫さまのようにも見える。炭鉱長令嬢ともなると、こういう場面にも慣れているのかも知れないな、と克利は思った。
 こんな小さな離島にも関わらず、ちゃんと電波は入るらしく、取り出した携帯電話に向かって何やら指示を出してから、「それでは、参りましょう」と真田博士が歩き始めた。その後に郁代さんが続き、さらにフォトサークルの面々がぞろぞろとついて行く。前方のコンクリート壁にはトンネルの入り口が開いていて、ここから地下道を歩いたその先に、島の中心部に当たるメインストリートがあるのだということだった。これは最初からいきなり、ちょっとした冒険ムードではないか。克利は、はやる気持ちを抑えながら、ゆっくりとみんなの後ろを歩いて行った。

第二章 姫と歩く島

 炭鉱長令嬢である彼女は、この島においては特別な存在であるらしかった。地下道の中ですれ違う人たちは例外なく一度は立ち止まり、彼女に会釈した。そして彼女は、にっこりと微笑んでは「こんにちは」「いいお天気ですね」などと挨拶を返すのだった。やはり、島のお姫様という感じである。
「それでは私は仕事に戻りますので」と言う真田博士と地下道の出口で別れ、そこからはその郁代さん一人の引率で、フォトサークル一行は島内を歩くことになった。
 最初に案内された、島のメインストリートだという通りは、軽自動車一台分くらいの幅しかないごく狭い道だった。両側は建ち並ぶ高層ビルに挟まれ、頭上には細長く切り取られたわずかな青空が見えるだけだ。しかし、ここには各種の商店やレストランに喫茶店、銀行の出張所など一通りのものが揃っていた。パチンコ屋や、キャバレーまでちゃんとある。驚いたことに浜津市内にさえ店が無い、帝国百貨店のミニ支店までがあったりした。こんな一流デパートの店があるのは、この島を所有する鍋島炭鉱株式会社が帝国鍋島財閥傘下の企業だからであるらしかった。もっとも、その店舗の場所は高層アパートの1~2階を間借りしただけのもので、他の商店などとそこは同じである。
 物珍しさから入ってみた店内には、有名ブランド服飾品がずらりと並んでいて、克利にとっては居心地の悪い場所だった。しかしミス・小西六と壮太君は、それらの品物について嬉しそうに語り合っている。なぜ壮太君がブランド品にこんなに詳しいのかは謎であるが。
「でも、こんな高い物を買う人、そんなに沢山いるもんなのかなあ、この島に」
 首を傾げる克利に、
「いや、それが案外良く売れるそうですよ。この島の住民の平均所得は、浜津市全体の平均に比べて二倍以上らしいですからね。それにこういう狭い島で、お金を使う機会も限られるだろうから」
 と神代会長は言った。
「二倍以上、ですか。お金持ちの島なんですね、ここは」
 克利は目を丸くした。
「島民のほぼ全員が、大手企業の社員ということになるからね。安定した給与収入があるし、住居費もみんな社宅だからほとんどかからない。昔カラーテレビが登場した時、全国での普及率が五十%も無かった頃に、この島ではすでに全世帯に行き渡っていたそうですよ。最近だと、インターネットの世帯普及率が全国一らしい。そうでしたね、確か?」
 会長は、真田郁代さんのほうを振り返って、訊ねた。
「はい、その通りです。高速回線が無料で使えるので、島ではインターネットがブームになっています」
 彼女はにこやかにうなずく。
「島の若い子たちにはICQのチャットなんかも人気で、でもすぐに直接会いに行ける距離なんですけど、こんな狭い島なのだから」
「あの……やっぱり君も、こういうブランド品とかたくさん持ってたりするの?」
 と克利は聞いてみた。白いワンピースに青いデニムのデッキシューズ姿で、一見派手なところは全く見あたらない彼女だが、実はそれらも高価な有名ブランドだったりするのかもしれない。
「いえ、わたしのバイト代ではこんな高い物、とても……」
 と郁代さんは笑った。
 バイトをしてるのか、と克利は意外に思う。お嬢様っぽい彼女に、バイトなんて似合わないように思えるのだが。
「おや、アルバイトをされているのですか?」
 と訊いたのは、しかし克利ではなく神代会長だった。
「はい。浜津駅南のファミレスで働いています」
 と彼女はうなずく。
「もしかして、そのファミレスって『ロイヤル・シャロン』?」
 克利は思わず訊ねた。
「そう、そうです。もしかして、来店されたことありますか?」
「実は、そのすぐ近くのマンションに住んでるんだ。何度か、晩ご飯食べたことあるよ」
「ほんとですか! ぜひ、また来てください。決まりがあるので、特別なサービスはできませんけど、精一杯おもてなししちゃいますよ」
 胸の前で手を組み、郁代さんは嬉しげにそう言った。彼女の話では、帰宅の都合で早めの時間にシフトを入れてもらうことが多いらしく、逆に彼はいつも日付が変わるくらいの時間に店に行くから、それで顔を合わせたことがないらしかった。今度はもっと早い時間に行くよ、と彼は約束した。
 そんな話をしているうちに、帝国百貨店のマークが入った紙袋を手にした壮太君とミス・小西六が、上機嫌な顔でレジから戻ってきた。
「買っちゃいました、つい」
「栄町まで買い物に行く手間が省けたわ、また来ようかしら」
 と各々嬉しげに口にする二人を見て、「君たちは何をしに来たんだね」と神代会長は呆れたように言った。
「何を買ったの?」
 と克利は壮太君に聞いてみる。ミスのほうはともかく、彼が一体何を欲しがったのかが不思議だった。
「……内緒です」
 と彼は照れたように小声で言った。視線を足下に落としてはいるものの、瞳がキラキラしているのが分かる。もしかするとこりゃ一人前に、ガールフレンドへのプレゼントだったりするのかな、と克利は思った。
 少し早いけど、店が混み始める前にお昼にしましょうということで、フォトサークル一行は百貨店のすぐ隣にある「ドルフィン」という食堂に入った。この食堂は洋食の担当ということで、島内には他に中華や和食の店などもあるらしかったが、いずれにしても人口の割には店が少ないので、お昼時にはどこも大混雑するのだということだった。
「さあ、この後はいよいよ、本格的に島内探検ですな」
 ケチャップがたっぷりかかった、かわいらしいオムライスをスプーンで掬いながら、鮒村老人が言った。隣の壮太君と同じものを頼んだのだが、案外違和感がない。
「迷宮みたいなものですからね、この島の建物の中は。登りも多そうだ」
 マスターがうなずく。わざわざ喫茶店のモーニング風のサンドイッチとコーヒーをオーダーしたのは、研究熱心ということなのだろうか。
「はい。せっかくですので、島の頂上まで皆さんをお連れしようと思っています」
 と、テーブルの一番端っこに座った郁代さんが言った。
「ちょっとした登山みたいで、少し大変かもしれないですけれど、ぜひ島の全景を見ていただきたいなって思います。絶景スポットがあるんですよ」
「それは、楽しみだ。新調した20ミリ広角の出番がありそうですな」
 ご隠居が、嬉しげに微笑む。
 向かいに座った克利は、手元の紙ナプキンをじっと眺めていた。そこには「潮降町一番街・洋食亭『ドルフィン』」という文字が印刷されていた。
「堅上さん、どうかされましたか?」
 郁代さんが、彼に声を掛けた。
「あ、いや、何でも」
 彼は慌てて顔を上げる。
「ただ、『潮降町』って何だろうって……」
「潮降町というのは、この商店街の愛称です。島の北側が一番街で、南が二番街。どちらも、すぐ近くなんですけど」
「この名前というのは、もしかすると本当に潮が降って来たりするのですか?」
 神代会長が訊ねた。
「そうなんです。この島では、海沿いに並んでいる建物が防波堤代わりになっているのですけど、海が荒れたりすると、ビルにぶつかった波しぶきが屋上を越えて、霧雨みたいになって降ってくるんです。そういう日は、海側の窓を開けることはできませんね」
「通り沿いのビルは、先ほど私が見たところでは六、七階くらいはあったはずだ。波は、それを越えてくるというわけですな」
 そう言って、ご隠居が感心したようにうなずいた。
「台風が直撃したりすると、もうしぶきなんかじゃ済まなくて、まともに波がビルを越えて滝みたいに流れ込んできます。年に一度くらいはそんなことがあって、とっても怖いんです。地下のお店に降りるための入り口にある防水扉が壊れて中が水浸しになったり、大きな被害も出ます。品物を運び出そうとして逃げ遅れた若い店員さんが、亡くなってしまったこともあって……」
 郁代さんは悲しげな顔になった。壮太君はオムライスを食べるのも忘れて、彼女の話に聞き入っている。ミス・小西六も何だか神妙な顔になっていた。
「人工物で固め切った堅牢な海上都市も、自然の猛威が相手ともなれば、やはり破れ去る時もある、ということですね」
 神代会長が、重々しくうなずいた。
「元々ここは海底炭鉱の島、自然の中に攻め込んでいく最前線基地のようなものですから、危険とは常に隣合わせなのです。父が改良を進めて、坑内事故は大幅に減りましたが、やはりいつ何が起こるか分からないという気持ちは島の人みんなの中にあると思います。でもその分、助け合おうという気持ちも強い気がします」
 郁代さんは、最後には笑顔になった。この人は島のことが本当に好きなんだな、と克利は思った。
 正午にならないうちに昼食を終えてしまい、一行は再び出発した。いよいよ島内見学の本番、郁代さんの言う「ちょっとした登山」である。海側の通りを離れて、山側の斜面を登って行くコースに入って行くのだ。
 しかしそれは、普通に思い浮かべる登山とは、全く違うものだった。ビルとビルの間を縫うように伸びる階段を上がり、その途中で建物の中に入って通路を歩き、さらに上階へとビル内の階段を上がる。隣のビルとの間をつなぐ空中回廊を渡り、そこから廊下を歩いて外へ出て、さらに斜面の階段へ。まるっきり立体迷路で、郁代さんの案内がなければ、たちまち道に迷ってしまうだろう。どこを歩いても、足下はコンクリートやアスファルトで固められた人工の地盤で、広々とした空間というものもほとんど存在しなかった。
 しかし、三つめのビルに入って階段を上りきり、扉を開いて外に出ると、途端に視界が広がった。そこは高層アパートの屋上で、花壇や小さな農園が作られたミニ空中庭園のような場所になっていた。その向こう側には、青い海がどこまでも広がっているのが見える。
「うわあ、すごい!」
 壮太君が歓声を上げながら、屋上の周りを囲む鉄柵のそばへと走り寄った。巨大なリュックを背負ってここまで登ってきたというのに、さすがに元気だ。
「なるほど絶景ですな、これは」
 そう言ってご隠居が、広角レンズを取り付けたキヤノン機を構える。
「あの、まだ、この上がありますので」
 郁代さんが慌てたように声を掛けた。彼らが振り返ると、屋上庭園の向こう側には島の山頂部に当たるのだろう、釣鐘型の岩塊がそびえていた。見上げるとその天辺には、島の雰囲気にそぐわない感じもする、檜皮葺の建物が乗っかっている。どうやらここが、島唯一だという神社らしかった。スペースが足りなかったのか、岩を取り囲むように立てられた何本もの柱で支えられた社殿の様子は、清水の舞台の小型版という趣だ。
 さらに階段を上ってコンクリート製の鳥居をくぐり、岩塊の上に被さる人工地盤に足を踏み入れると、そこが島内の最高地点となる男山八幡社の境内だった。もはや頭上の太陽を遮るものは何も無く、強い日射しがまともに照りつける。
「みなさん、お疲れさまでした。ここが青松島最大の絶景ポイント、八幡神社です」
 郁代さんが言った。
「ぜひ、たくさん写真を撮っていただければと思います。ただその前に、この神社の由来について少しだけお話しさせてくださいね」
 彼女の説明によると、この神社は島の守り神として、京都の石清水八幡宮から神霊の勧請を受けて建立されたのだということだった。拝殿の前で振り返ると、夏の太陽を映して輝く海が広がっているのが鳥居越しに見えるが、その海底遥か数キロ先にまで、坑道のトンネルが続いているのだと彼女は言った。海底炭鉱を見守るように、この神社は建っているわけである。
 まずはちゃんと参拝を済ませてからにしよう、と手を合わせ、それからみんなで境内を囲む玉垣の前に立った。見下ろすと、足元にごちゃごちゃと重なり合うように建ち並んだビル群の、すぐ向こうがもう海だ。もしここで、あのミス・小西六のように帽子が風で飛ばされたりしたら、そのまま海面に落ちるんじゃないかと克利は思った。それほどまでに傾斜がきつく、海が近い。
「さあ、じゃあそろそろ始めましょうか」
 ミス・小西六の声がした。
 克利が振り返ると、壮太君が巨大リュックの中から何か、布をぐるぐる巻きにしたようなものを取り出すところだった。
「申し訳ありません、このような場所で。どうしても撮りたいというものでして」
 神代会長が郁代さんに頭を下げ、
「いえいえ、大丈夫ですよ。神様も、案外お喜びになるかも」
 と彼女は笑顔で答えている。
 何だ、何が始まるんだと思いながら克利が見ていると、広げられた布の塊は、人の背丈ほどの高さがあるテントに形を変えた。これは海水浴場などで使われる、着替え用テントだ。壮太君はその中に入ると、何やらもぞもぞとやりはじめた。
「力が入っていますな、今回は。このようなものまで用意して来るとは」
 ご隠居が呆れたような、もしくは感心しているような、何とも微妙な表情を浮かべている。
「小西六さん、ちょっと見てもらえますか?」
 テントの中から声がして、彼女がどれどれと中をのぞき込む。
「うん、いいんじゃない。似合ってる。OKよ」
「ですか。それじゃ……」
 そう言いながらテントから姿を現した壮太君の姿を見て、克利は絶句した。
 彼は浴衣に着替えていた。それも、薄いピンク地にピンク色の花びらが散っているという、見事なまでにかわいらしい柄の浴衣だった。軽くまとめた髪には、これもピンク色の花飾りまで付けてあった。化粧こそしていないが、もはやどこからどう見ても女の子にしか見えない。
「普段は恥ずかしくて、部屋でしか着ることのできない女の子の服。それを今彼女は、こうしてお陽さまの下で着ているわ」
 ミス・小西六が、なぜだか分からないが勝ち誇った調子で言った。
「さあ皆さん、思い切りかわいく、彼女を撮ってあげて」
 神代会長と鮒村老人の二人は、真面目な顔をして彼女にレンズを向け、何度もシャッターを切った。一方、マスターは妙にノリノリで、「いいねえ、その表情。目線お願いね」とか言いながら、自慢のライカで嬉しげに彼女の姿を激写している。ひげをたくわえた口元も緩み切って、どうも中年おやじのオーラがにじみ出ている感じだ。
 どうしたものかと困惑していた克利だったが、しかしここは撮らないとむしろ失礼なのかも知れない。被写界深度の深いポケットカメラはあまりポートレート向けとは言えないのだが、それでも一応構図をちゃんと考えて、何枚か彼女の写真を撮った。
 壮太君ははにかみながらも、片足をちょっと上げたり、しゃがんで頬杖をついてみたり、可愛らしいポーズを取ってみせている。下手なアイドル顔負けだ。
 ミス・小西六はそんな彼女の姿をデジタル・スチルカメラで撮影しては、画面をモデル本人に見せて「ちょっと表情硬くない?」とか「このポーズはさすがにあざといんじゃないかしら」などと熱心にアドバイスしている。なるほど、便利なものである。
 そんな彼らを郁代さんはにこやかに見守ってはいたが、その上品な笑顔からはほんのわずかに、ゆで過ぎた卵程度の硬さが感じられる。「フォトサークルのフォトってこういうのだったんですね」という困惑が混じっているようだった。
 その思いは克利も同じで、こういうフォトのサークルじゃなかったはずなんだけどなあ、ちょっと勘弁して欲しいなあと内心逃げ腰になっていた。浴衣姿の壮太君がかなりかわいい、という点にも何だか困ってしまうのだった。
 しかし、克利にとってはありがたいことに、「みなさん、僕の個人的な趣味にお付き合いいただき、どうもありがとうございました」という壮太君の挨拶をもって、モデル撮影会は間もなく終了した。会長たちはレンズを取り換えて島の風景を撮り始め、壮太君も浴衣姿のままながら、真剣な顔で社殿にデジタル・スチルカメラのレンズを向けたりしている。ただ独りマスターだけが、そんな彼女の姿をライカのファインダー越しにしつこく追いかけていた。
 克利もほっとしながら、24ミリ標準レンズを付けた110カメラを周囲の風景に向けた。どの方角を向いても、ぎっしりと建ち並ぶビル群と、すぐその向こう側に広がる海が見える。それら一つ一つの建物にそれぞれ何十もの窓があり、つまりはその数だけの暮らしがこの小さな島に詰まっているのだった。
「……すごいなあ」
 彼は思わずつぶやいた。
「すごいでしょう?」
 いつの間にか隣に立っていた郁代さんが、そう言って両腕を広げた。
「こんな場所は、世界のどこにも他にはありません。七千もの人が暮らす、極小の海上都市。生まれてから、亡くなられた後まで、全てが完結する、それだけの機能をここは全て持っています」
 彼女は、克利の顔をのぞき込む。
「美しい、と思いませんか? わたしは美しいって思うんです、この島の、この風景が。すごく美しいですよね?」
「う、うん」
 彼女の勢いに気圧されそうになりながらも、克利はうなずいた。確かに、この島の景色には無駄なものがほとんど省かれた、極限の機能美とでも呼ぶべきものがあった。
「ごめんなさい、困っちゃいますよね、いきなりそんなこと言われても」
 ふふっ、と彼女は空を見上げて少し笑った。
「でも、そう思うんです」

 八幡神社での撮影を終えたフォトサークルの一行は、今度は青松島の南端を目指して、島の背骨に当たる岩山の尾根を歩き始めた。稜線から見下ろすと、山を境に西側がビルが建ち並ぶ居住区で、東側が炭鉱関連の施設が集まる作業エリアとなっている様子が、左右の対比としてはっきりと見て取れた。作業エリアには、島のシンボル的な存在である縦坑櫓がそびえ立っていて、その高さは山の標高を凌いでいた。青松島の真の最高地点はこの鉄塔の頂上、巻上装置の巨大なリールが鎮座している辺りなのだということになる。
「昔の戦争でどこかの潜水艦が、この島を本物の戦艦と間違えて魚雷を打ち込んだ、っていう笑い話があるんです。そんな話が伝わっているほど、戦艦に似ている島なんだってことだと思いますけど、この縦坑櫓がちょうど船のマストに見えるんですね。空からの爆撃があった際には、標的にされたりもしたみたいですけど」
 ちょうど櫓が正面に見える幼稚園の園庭で、郁代さんがそう解説してくれた。もっとも、園庭とは言ってもやはりビルの屋上なのである。幼稚園自体が、園児たちが住む社宅の最上階に作られているのだということだった。便利といえば、便利だ。
 教室の中の園児たちに郁代さんが手を振ると、みんな大喜びで手を振り返してくれた。彼女はここでもなかなか人気のようだ。鮒村副会長も、目を細めながらちびっ子たちへ手を振った。
 宇宙ロケットの発射台にも似た、武骨な縦坑櫓が屹立している姿はいかにも炭鉱らしくて、みんなはここでもカメラを構えた。デジタル・スチルカメラで熱心に撮影している壮太君はまだ浴衣姿のままで、もう今日は一日これで通すつもりらしい。壮太君の代わりにあの巨大リュックを背負ったマスターも、相変わらずしつこいくらいに彼女の写真ばかり撮っている。
「ねえ、ねえ」
 壮太君のそばに近づいて、克利は小声で話しかけた。
「なんかさ、マスターさすがにちょっとアレだよね。大丈夫? ちょっと、言ってあげようか?」
「ああ、僕は何ともないです。て言うかマスター、ポトレ写真の腕前すごいんですよ。元々、アイドルの追っかけやってたみたいで、雑誌に写真投稿したり」
 彼女はそう言うと、彼の顔を見つめて、にっこりとほほ笑んだ。
「でも、ありがとうございます。心配してくださって」
「い、いや、いいんだ。君が平気なら」
 克利は、ぎこちなく笑いながら、110カメラの望遠レンズを慌てたように櫓のほうに向けて、シャッターを切った。これはダメだ、これは危険だ。
 フォトサークル一行はさらに稜線の道を先へ進んだ。途中には、珍しく一戸建ての家屋もあって、これは恐らく最高幹部級の住まいなのだろう。その周辺に集まる長屋状の家屋も、小さな庭があったりする辺り、団地の部屋に比べると贅沢な感じで、やはり上級社員向けの住宅だと思われる。島の高級住宅街、と言ったところかも知れない。これも島には珍しく、数本の樹木が道沿いに並んでいたりもして、一応は並木道のつもりなのだろう。ひたすら照り付ける日光を遮る、貴重な木陰を提供してくれていて、根っこでは猫が昼寝していたりもした。
 住宅街を通り抜けると、そこは岩山のほぼ南端になる。斜面には「青松荘」という保養所が建っていて、ここは島で唯一の旅館でもあるということだった。あくまで炭鉱の関係者向けの旅館だが、会社が認めた場合に限っては一般客が泊まることも可能らしい。彼らも炭鉱長の客扱いということで、ここで一休みさせてもらえることになった。
 エレベーターに乗って案内された二階の部屋は、十畳ほどもの広さがあるゆったりした和室で、おまけに角部屋だった。何よりも土地が貴重だというこの島においては、かなり上等な部類に入る客室だろう。部屋の南側と西側に作られた縁側からは海が一望できて、開け放たれた窓からは爽やかな風が吹き抜ける。ちょっと一休み、程度ではもったいなくなるような素晴らしいロケーションだった。
 その上等な部屋で、みんなはそれぞれにくつろぎながら、午後のひと時を過ごした。
 会長と副会長は畳の上に置かれた座椅子に座って、仲居さんが淹れてくれたお茶を飲みながら、郁代さんと話をしている。会長が面白おかしくしゃべる、学生時代の真田博士のエピソードに、彼女は笑い転げていた。
 壮太君とミス・小西六は西向き広縁のミニ応接セットに座り、窓の外を眺める。白いドレスと浴衣姿の二人が向かい合っているさまは、これもなかなか絵になっていて、さっそくマスターはライカのレンズを向ける。
 克利は南向きの縁側に立って、窓の向こうに広がる風景を何枚か撮影した。そこから見えるのは島の南端方面、船で言えば艦首に当たる方向だった。眼下にはやはりいくつものビルが建ち並ぶが、あまりの密集ぶりにまるで、複雑な形をした一つの巨大な建物が建っているようにも見える。全ての屋根がデコボコとしながらも、海のそばまで切れ目なくつながっているのである。
 そしてその向こう側、ほぼ艦首の辺りには小さなプールがあるのが見えた。周り全部が海なのだから、いくらでもそこで泳げそうなものだが、外洋の真っただ中だけに海流が速すぎて、海での水泳には危険が伴うらしかった。結局のところこの島においては、海は共に暮らす仲間というよりも、外敵そのものなのだった。島の外周をがっちりと固めた防波堤は、言わば城壁なのである。ただ、魚釣りには絶好の場所で、ここへ船で遊びにくる一般人の大半が釣り客なのだと郁代さんは言った。
「なるほど、ここなら大物が上がりそうですな」
 と鮒村老人がうなずく。
「マダイとかチヌ、スズキなんかも釣れますよ。石炭とお魚だけは自給自足ができますね、この島では」
 郁代さんがにこやかに言った。
「そうか、私もレンズばかり持ってこないで、釣り道具を持参すれば良かったか」
 老人は残念そうな顔をした。
「そうそう釣りと言えば、あなたのお父さんと一緒に緑川に出かけた時のことですがね」
 と神代会長が郁代さんに向かってしゃべり始めたその時、
「ちょっと待った」
 という声が背後からした。会長は驚いたような顔で振り返る。
「その話は無しだよ、神代君」
 そこには、真田善三炭鉱長が微笑みながら立っていた。
「おや、お仕事は終わりですか」
「終わってはいないが、少し時間が空いたものでね。お客様をあまりにほったらかしのままでは、失礼というものだろうから。どうですか、郁代の案内ぶりは」
 真田博士はそう言って、娘の顔を見た。
「いや、本当に助かりますよ。我々だけなら、あのコンクリートの迷宮で、とっくに迷子になってしまっているでしょう。それで、お礼に真田先輩の愉快な思い出話を色々とお聞かせして差し上げていたわけです。そうですね?」
「まさか、お父さんがそんな……」
 郁代さんは真田博士の顔を見ながら、吹き出した。
「ちゃんと青春時代があったのね、お父さんにも」
「おい、神代、お前何しゃべったんだ」
「大したことじゃありませんよ、ただ須賀川のフォークジャンボリーで、カルメン・ギンザ似の娘が……」
「それを、しゃべったのか」
 真田善三炭鉱長は、穏やかな風貌に似合わぬ悲鳴のような声を上げた。そんな二人の様子を、周囲のメンバーたちはにこやかに見守っている。例え何歳になっても、地位がどんなに高くても、学生時代の仲間同士というのは変わらないものらしい。
「あれはだな、郁代。決して私はそういう邪な気持からではなくだね、ただ純粋に形而上的なというか、言わば芸術的側面から……」
 と、真田炭鉱長が難しい言い訳を始めたその時、電子音のベルが辺りに鳴り響いた。
「おや、これは少々失礼します」
 そう言って炭鉱長はポケットから携帯電話を取り出し、フリップを開いた。
「はい、私です。うん。うん。何? 本社が?」
 ふいに、炭鉱長の顔から表情が消えた。
「わかった、すぐ行く。うん、それでいい。チケットの手配は任せる。では」
「何かあったの?」
 郁代さんが、心配そうに訊ねる。
「いや、大したことではないのだよ。ただの事務的な打ち合わせなのだが、緊急で鍋島本社まで行かなければならんようになってしまった。二日ほど、家を空けることになるが、婆やをよろしく頼む」
 真田炭鉱長はそう言ってうなずくと、「それでは皆様、失礼いたします」とフォトサークル一同に向かってにこやかに一礼し、「じゃあ、またな」と神代会長の肩を叩いて、部屋を出て行った。
「お父さんも相変わらず、なかなかにご多忙なようですね」
 会長が、郁代さんに微笑みかけた。
「はい、そうみたいで」
 彼女は、不安げな顔をしている。緊急の、事務的な打ち合わせ――。
「格好いいなあ。うちのお父さんもあんなだったらいいのにな」
 壮太君が憧れるような目をして、暢気にそうつぶやいた。

 部屋を出て、ふすまを閉め終わるか終わらないかのうちに、真田博士の表情はすっかり変わっていた。険しい顔でエレベーターの前に立ち、それから思い直して階段へと向かう。上がってくるのを待つ時間が惜しい。
 グループ本社で開催されるというカンファレンスには炭鉱会社社長のみならず、帝国鍋島HD最高執行責任者(COO)までが臨席するのだという。ということは、いよいよグループ内の動きが本格化したと見て良いだろう。博士が本社内に確保している情報網には何も引っかかって来ていない。完全な情報統制下で全てが動いている、ということだ。
 ニス塗りの階段で足を滑らせないように注意深く、しかし足早に下階へと駆け下りながらも、博士の頭の中ではあらゆる状況への対応プログラムが全速力で走り始めていた。そして、さすがに前方への注意力が下がったのだろう。一階の廊下に出たところで博士は、黄色い着物姿の若い仲居さんに激突しそうになり、慌てて真正面から彼女の両肩を掴んでしまった。
「きゃあ」と声を上げた彼女に、すまんすまんと謝りながらも、博士はそのまま玄関へと向かう。すまん、急ぐのだ。あなた方のためにも、急ぐのだよ。


     *      *     *


 しばしの休息を終え、快適そのものだった客室を出た彼らは、再びエレベーターに乗って階下へと降りた。二階までしかないこの旅館に、わざわざちゃんとエレベーターがついているのが克利には不思議だったが、階数表示を見ると「1F」の下には「BF」「GF」とあって、意味はよく分からないが、どうやら地階があるようだった。これも土地の有効利用なのだろう。
「青松荘」を後にした一行は、海沿いの通りへと向かって斜面を下り始めた。ビル群の間を縫うように続く、長い階段をひたすらに降りてゆけば、今度は割合と簡単に岩山の麓へとたどり着くことができた。下山した先は青松島の南端、艦首に当るエリアで、一行はそこから島の東側をぐるりと回りながら、再び北端へと戻ることになった。
 東側は炭鉱の作業場となっているエリアで、西側のような巨大建築物はなく、目立つ人工物と言えば例の縦坑櫓を含む二基の巻上櫓だけである。それ以外は、古びた煉瓦造りの建物がいくつかと、後は黒い石のようなものが積み上げられたわずかばかりの平地が広がるばかりだった。あれが石炭なのだろう。
 平地の向こうには、険しい岩山がまるで巨大な城壁のように長々と横たわっている。海沿いの道から見上げると、つい先ほどまで彼らが歩いていた稜線にいくつもの建物がずらりと並んでいるのが見て取れた。そして反対側に目を遣ると、こちらも頑丈な城壁のような護岸の下方に、波が激しくぶつかっている。山と海と、その荒々しい自然の間、ごくわずかな隙間のような場所にのみ、人間の居場所があるのだった。
 汗をぬぐいながら歩き続ける一行の前方から、一人の男が歩いてきた。プロレスラーのような巨体でひげ面のしかめ面、いかにも恐ろしそうな見た目に、彼らは思わず足を止めた。何せ道がごく狭いので、譲り合わなければすれ違えそうにないのだ。
「委員長!」
 しかし、郁代さんは笑顔で声を上げた。大男も、「おお」と声を上げて嬉しげににこりと笑う。そんな顔をすると、途端に人の好さげな印象になった。
「今日は、お客さんの案内ですか。大変ですな、嬢ちゃんも」
「だからその『嬢ちゃん』、そろそろやめてくださいな。わたしだって、もう大学生なんですからね」
「嬢ちゃんは、嬢ちゃんだなあ。大学生? なあに、まだまだ子供と変わらん」
 大男は、ガハハハと笑った。
「いや失礼、失礼。ところでそちらのご一行さんは?」
「こちらの皆さんは、『浜津フォトサークル』さんとおっしゃって、写真家の方々なんです。会長さんが、父とお友達でいらっしゃるの」
 そう言った郁代さんは、その「写真家の方々」の方に向き直って、今度は大男のことを紹介してくれた。
「この方は、労働組合の委員長をされている、団さんです。島で働くみんなのお兄さん、みたいな人なんですよ」
「青炭労組委員長の、団東平と申します」
 団委員長は改まってそう言うと、お辞儀をした。神代会長も自己紹介して、頭を下げる。
「しかし写真家のみなさんが、こんなに集まってこの島へ。ありがたいことです」
 感慨深げな声を出す委員長に、いやちょっと待ってくれ、と克利は言いたくなった。会長くらいの腕前ならともかく、僕なんかアマチュア写真家の域にさえ達していない。写真家と呼ばれるのは、かなり恥ずかしかった。
「ここでお会いしたのも何かの縁だ。よし、折角だから、普段は立入禁止の場所まで私が特別にご案内しましょう」
「ちょっと待って、まさか坑内へ? 危険だわ、父だってそれは」
 郁代さんが、慌てたように声を上げた。
「ははは、心配なさるな。地底の危険さは、鉱長以上にわしらが一番良く知っておる。そこまではもちろん連れて行けないが――」
 委員長は、前方にそびえ立つ縦坑櫓を指さした。
「あいつの足元に潜り込むくらいまでなら、まあ大丈夫だろうよ」
 巻上櫓、とも呼ばれる巨大な鉄塔は、つまりは地下深くの坑道まで昇り降りするために使われるエレベーターのロープを巻き上げるための装置なのだった。数十メートルの高さにまで鉄骨を組み上げて、その上に直径五メートルという馬鹿でかいリールを戴いたその姿は、すいぶん大がかりな感じもする。しかし、地下数百メートルから重い石炭を高速で持ち上げてくるためには、これくらいの仕掛けがどうしても必要なのだと委員長は説明してくれた。
「こいつは、島のシンボルだ。わしらの誇りでもあるんだが……」
 そう言いかけて、団委員長は困り顔になった。
「どうもあの、『ルームエアコン』という奴がなあ、あれはいかんよ。まるで広告塔だ」
 委員長が口にしたのは、櫓の海側に貼り付けられた、「帝国ルームエアコン」という巨大なネオン文字のことだった。実際、この鉄塔は広告塔も兼ねていたのである。
「父の話では、あれは大阪の帝国本社の意向らしくて、どうしようもないみたいなんです。大阪では、ああ言う目立つ塔には広告を出すのが当たり前でおま、とかで」
 郁代さんが申し訳なさそうに言った。
「いや、嬢ちゃんを責めようとか思っとるわけではないんだ。ただ、昔はあんなものは無かったわなあ。鍋島が、帝国などと一緒になるからいかんのだ」
 団委員長は嘆いた。
「いや、失礼。それでは、見学にお連れしましょう。みなさん、わしについて来てください」
 櫓の足元に建っている、煉瓦造りの古びた建物を目指して、一行はぞろぞろと歩いた。海沿いの道には、陽を遮ってくれるようなものは何もなく、海風が気持ちいいとはいえ、陽射しを浴び続けることになるのはかなり辛かった。何でもいいから、とにかくあの建物に入って涼みたい、と克利は思った。すぐ前を歩く壮太君など、首筋まで汗でびっしょりで、襟の辺りに汗が染みてきそうなくらいだった。
 天井の高い、がらんとした感じの建物の中は、涼しいとまでは言い難かったものの、とにかく直射日光が当たらないだけ暑さはましだった。ようやく一息つくことができた一行を、巨大な円筒状をした機械の周りに集まった作業服姿の人たちが、不審そうな顔をしてにらみつける。
「ああ、すまん。見学の皆さんだ。気にせんと作業を続けてくれや」
 団委員長の大声が、天井に反響した。
「ドラムの調子が、良くない。お遊びの相手などしてる場合じゃないと思うがな」
 鋭い目つきをした小柄な男が、険のある言葉を委員長に投げた。
「お遊びじゃないぞ、五条次長。写真家のご一行だ。島の宣伝をしてくれるんだと、鉱長のお墨付きも付いとる。真田のお嬢さんも、こうして一緒だ」
「物好きなことだ。せいぜい作業の邪魔にならんようにお願いしますよ」
「おう。後で、わしも手伝うぞ」
 委員長はそう言うと、恐縮している克利たち一行に、室内に置かれた器具や装置一つ一つについて、「あの、調子の悪いやつがYFフィルター」「これがコールピック」「こちらが圧気装置の操作盤です」などと説明をしてくれた。正直なところ、説明されても良くわからないのだが、「ええと、これはあのネオンの配電盤です。いまいましいので、電気ももったいないから、時々わしが勝手にスイッチを切ってやります」と言い出した時には爆笑が起きた。
 隣の建物には、三百人が一度に入れる大浴場もあるということだった。作業を終えて上がってきた鉱員が一斉に入浴することができるらしい。
「私たちも、お風呂入りたいわね。こんなに汗びっしょりなんだもの」
 ミス・小西六の言葉に、壮太君やマスターも激しくうなずいたが、
「残念ながら、ここは男湯だけですわ。あんたらみたいな別嬪さんが入ってきた日にゃ、全員ぶっ倒れちまうわ」
 と委員長は笑った。
 そして、建物の一番奥にあるタラップ状の階段を上った先に、縦坑の底へと降りるエレベーターの乗り場があった。つまりはそこが、櫓の足下だということになる。
 エレベーターと言っても、そこらのビルにあるような平和なものではない。剥き出しの鉄骨でできた檻のようなケージが高速で昇り降りするという荒々しい代物で、こちらも巨大な鉄骨で組まれた乗降ゲートから乗り込むその雰囲気は、まるで宇宙旅行のような大仰さである。ゲートの上方へそびえる櫓の内部では、ケージを吊す鋼索やら、釣り合い重りやらの各種装置が動作しているのも見えて、エレベーターが上下する度に、地下鉄が疾走するような轟音が鳴り響くのだった。
「こいつは、縦坑の底、地下六百メートルまで一分少々で降りちまいます。そこいらの楽天地の乗り物よりもずっとスリラーだが、残念ながらみなさんに乗ってもらうわけにはいかんので、今日はここまでです」
 委員長はそう言って、郁代さんのほうを見た。
「嬢ちゃんは乗ったことがあったな、確か昔」
「はい。でも、もう充分です」
 彼女はそう言って、困り顔で笑った。
「ええ、この底深くからは、何キロも何キロも海底坑道が続いとります。そこは、この地上とは別の世界だ。炭鉱長のおかげで事故は随分減りましたが、しかしやはりあっちは命がけの地の底、いつ何が起きて命を落とすことになるかわからん。だから、みなさんを連れていくわけにはいかんのです。見学はここまでだが、この昇降機だってそうそう普通は見られん貴重なもんですから、ぜひカメラに撮っておいてください」
 さあどうぞ、と団委員長は右手を高く挙げて、鋼鉄の神殿のようなエレベーター装置を指し示した。みんなが一斉にレンズを向けて、シャッターを切る。マスターだけは、例によって壮太君の姿ばかりを撮っている。
「先ほど委員長は、命がけの地の底とおっしゃいましたが、やはり昔は大きな事故も?」
 と神代会長が訊ねた。
「幸い、この島じゃ他所のヤマみたいに何百人も死ぬような大非常事故、そういうものは起こしておりませんがな。それでも特に戦争前には、人死にが出ることも一度や二度ではなかったようです、残念なことですがな」
 委員長は、暗い表情でうなずいた。
 貴重な見学の機会を与えてくれた団委員長にみんなでお礼を告げて、浜津フォトサークルの一行は再び外へ出た。相変わらずの陽射しに、たちまち汗だくになりながら歩き始めてすぐ、彼らは見覚えのある浮桟橋の前へとたどり着いた。最初に上陸した場所で、ここから地下道を通れば「潮降町」に出られる。帰りの船の時間まではまだしばらくあるので、一行は一旦メインストリートに戻ることにした。
 涼しい地下道に、みんな喜んで入って行ったのだが、壮太君だけはトンネルの入り口に立ち止まって、目の前にそびえる岩山をじっと見上げている。思わず「どうしたの?」と訊ねた克利に、
「いえ、ごめんなさい。何でもないんだけど……ただ、これ登ったら面白いだろうなって」
 と彼は答えた。
「これを?」
 克利も、岩山を見上げる。斜面というよりほとんど垂直の崖で、これを登るとなるとロッククライミングの技術が必要なのではないか。
「ええ、そうなんです。僕、クライミングもやってて。いい崖ですよ、これは。今日はこんな格好だから、登れないですけど」
 ふふふ、とピンクの浴衣の袖を口元に当てて、彼女は笑う。あの登山リュックは伊達ではなかったようだが、そんな壮太君の姿を見ていると、克利の脳内は何度目かの混乱状態に陥り始めた。これはいかん、危険だとまた思いながら、彼は110カメラのレンズを壮太君に向けて、ピントリングを動かす。ファインダー越しだと、落ち着いて姿が見られるような気がしたのだった。スプリットイメージの上下の半円がぴったりとくっつくと、彼女の微笑みがファインダー内にくっきりと浮かび上がった。

 再び帝国百貨店をのぞいたり、書店で立ち読みしたり、フォトサークルの面々は各々自由行動で時間をつぶした。
 書店に併設された文具店で、克利はポケットフィルムが売られているのを発見した。予想外にたくさん撮ってしまい、もう手持ちのフィルムは残り枚数がわずかだったので、彼はそのフィルムに飛びついた。割高な値段だったが、そんなことは言っていられない。
 残りを気にして抑え気味で撮影をしていたのが、一気に弾数が補給されて、彼は店を飛び出した。潮降町の頭上に見える細長い空を撮り、ビル群の合間にある公園でキジ猫と遊ぶ子供たちを撮り、そして長い階段の途中、アパートの三階にあった「浜津市役所青松島支所」の入り口にレンズを向けたその時、扉が開いて人が出てきた。
「あ、すみません」
 慌ててカメラを下ろした克利に、
「ああ、いや、どうぞ。お撮りください」
 と、白いワイシャツ姿のその男性はにこやかに言ってくれた。銀縁眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな青年だ。
「珍しいでしょう、こういう場所に役場があるのは。何せアパートの中ですからね」
「はい、初めて見ました、こういうの。もしかして役所の方ですか?」
「ええ、そうなんです。今日は閉庁日なんですけどね、ちょっと残務があったもので。こちらへは観光で?」
「そんな感じです。この島で、写真サークルの撮影会みたいなのがあって……」
「ああ、なるほど」
 その若手職員さんは納得したようにうなずいた。
「鉱長さんのお友達の皆さんですね。聞いてます」
 お友達なのは会長だけなのだが、写真家の皆さんと言われるよりはましなので、克利はそうですねと答えた。
「そうだ、役場の中を見て行かれますか? 今日はお客さんもおられないから。大して面白い場所じゃないですが」
 折角なので、ということで、克利は端島さんというその職員さんの好意に甘えることにした。
 窓口のカウンターがいくつか並ぶ、つまりは役所であって、確かに特に珍しいものではなかったが、各窓口の下にずらずらと列挙された「受付業務」の数はものすごいものがあった。
「すごく色々な業務をやってるんですね」
 と克利は感心したように言った。
「離島の支所だと、本庁まで行かなくても手続きが済むように、どうしても取扱い業務が増えますからね。特にここは七千人も住んでいて、普通の町役場が抱えてるのと同じくらいの人口がありますから。結構忙しいですよ」
 と端島さんは言った。今はひっそりとした室内だが、普段は様々な用事のお客さんがひっきりなしにやって来るのだろう。「犬を飼うときは」「国民生活基礎調査が始まります」などと書かれた案内掲示を見ながら、克利はそう思った。
「端島さんも、やっぱりこの島の出身なんですか?」
「いや、僕は違うんです。実は島に住んだこともなくて、今だって浜津市内から毎朝出勤して来てます。上の階に宿泊所があるので、泊まりこむことも結構ありますけどね」
「大変ですね」
 克利は驚いて言った。
「いや、そうでもないですよ。バスを合わせても、片道一時間ちょっとですからね。緑川とか、山の方の出張所に行くのとそんなに変わりませんから。まあ、インフラの揃った便利な島だし、ここに住むのも悪くはないんですがね」
 堅上さんは学生さんですか? と訊かれた克利は、津州大法文学部の一回生なんですと答えた。
「そうか、じゃあ僕の後輩なんだ。僕も、津州大の法文だったんですよ。一回生ということは、じゃあ真田郁代さんと」
「ええ、同じなんです。僕は法律学科で、あの人は人文学科ですけど」
「そうですか……」
 端島さんはそう言って、カウンターの横にある窓の向こうを見つめた。すぐ下方には隣接する建物の屋上が見えて、子供たちが楽しげにサッカーボールを追いかけていた。思い切り蹴ったら、すぐ向こうの海まで転げ落ちそうだ。
「お、そろそろ船の時間が近づいて来てますよ」
 端島さんがふいに、腕時計に目を遣った。
「僕はさらにその次の船で本土に帰りますが、みなさんは?」
「ほんとですか」
 克利は慌てた。
「すぐに戻らないと。すみません、ありがとうございました」
 どういたしまして、と手を振る端島さんと別れて、克利は階段を猛スピードで駆け下りた。もう一度、岩山の上から島の全景を撮ったりもしたかったのだが、仕方がない。十二分にあると思っていた滞在時間なのだが、本気でのんびりと過ごすには、たった数時間では全然足りないようだった。
 潮降町の通りにも、もうフォトサークルの面々は見あたらなかった。そのまま地下街をダッシュして船着き場の前に出ると、ちょうどみんなで桟橋への連絡橋を渡ろうとしているところだった。
「お、何とか間に合いましたな」
 振り返った鮒村副会長が、笑顔で言った。
「もう仕方がないから置いていこう、ってそう言ってたんですよ、みんな。ひどいですよね」
 嬉しげにそう言った壮太君は、いつの間にやら元の学ラン姿に戻って巨大リュックを背負っている。隣のマスターは、何だか残念そうだ。しかし、一度あの姿を目にしてしまっているので、克利にはむしろ女の子が男装しているようにしか見えなかった。
「旅客船、出航が遅れてるみたいです」
 先頭の郁代さんが、不安定な連絡橋の上で大きな声を出す。
「医療船に、症状の重い患者さんを乗せないといけないって。それが終わってからの出航だそうです」
 彼女が指さした桟橋の向こう側には、小さな赤十字マークが付いた白い船が停まっていた。旅客船は、少し離れた沖の方で待機している様子だ。
 島にももちろん病院はあるのだが、そこで手に負えないような重病の患者は、この医療船で浜津市内の病院まで移送するのだということだった。この医療船自体の中にも一通りの病院設備があって、医療機関が無い小さな島を定期的に巡っては、診療を行っているらしかった。
 医療船は慌ただしく桟橋を離れると、全力で加速しながら浜津方面へと出航していった。入れ替わりに、じっと待っていた旅客船が近づいてくる。
「それでは、皆さん」
 と郁代さんがにこやかに言った。
「今日は、青松島へお越しいただいてありがとうございました。きっと素敵なお写真をたくさん撮っていただけたと思います。本来なら、父からもご挨拶させていただくべきところなのですけども……」
「いやいや、お気になさらず」
 神代会長が手を振った。
「お父さんもお忙しいようですが、よろしくお伝えください。こちらで撮影した写真については、いずれ特別に作品展示会を開催しようかと考えています。その際には、ご招待差し上げます」
「いいですね!」
 壮太君が明るい表情で、会長の顔を見上げた。
「なるほど、確かにそれはいい」
 鮒村副会長がうなずく。
「展示会のタイトルは『海上都市』など、いかがかな」
「ありがとうございます。お招きいただけるのを楽しみにしています」
 郁代さんが、お辞儀した。
「船が、着いたわ」
 桟橋の向こうを見ていたミス・小西六が、そう言ってくるりと振り返った。白いドレスの裾が、ふわっと浮き上がる。
「郁代さん、どうもありがとう。とても楽しかったわ。フォトサークルのみんなを代表して、お礼申し上げます」
 彼女は右手を伸ばして、郁代さんと握手した。なぜミス・小西六が突然、全員を代表することになったのかは良くわからないが、様になっている光景なのは確かだった。
 船が出港する間も、デッキに並んで手を振るフォトサークル一行へと手を振り返しながら、郁代さんはずっと見送っていてくれた。島が、再び巨大な船のようにしか見えなくなるくらいに遠ざかるまで、彼女は手を振り続けていた。
「おや?」
 と、鮒村老人が声を上げた。
「ネオンサインが……」
 そう言って老人が指さしたのは、マストの如く屹立する縦坑櫓だった。まだまだ陽も高いというのに、櫓に取り付けられた「帝国ルームエアコン」の文字が、赤く光っていた。と思うと、不意にネオンは消え、そして再び点灯する。点いたり、消えたりを何度も繰り返していた。
「委員長。でしょう、恐らく。遊んでおられるのか、それとも我々への挨拶かもしれませんね」
 神代会長が、目を細めるようにして島を見ながら、そう言った。
「マタ・オイ・デ」
 ミス・小西六がつぶやいた。
「そうおっしゃってますわ、団委員長は」
「なるほど、モールス信号ですか、あれは」
 鮒村老人が、感心したような声を出した。
「粋なことをしますな、あの人も」
「ええ。素敵ですわね」
 ミス・小西六はうなずいた。
「私、きっとまたやって来ますわ、この島に」
「僕も!」
 と壮太君が声を弾ませる。
 そう僕も、と克利は思った。ビル群の夜景を見てみたかったし、あの旅館にも一度泊まってみたい。他にも、面白そうな場所がまだ色々ありそうだ。
 シルエットとなって遠ざかって行く青松島を見つめながら、次回の訪問はいつ頃にしようかと克利は考え始めていた。そんなに遠い将来にはならないことは、どうやら間違いなさそうだった。

第三章 急を告げる風雲

 元々は九州を発祥の地とする鍋島財閥ではあったが、今やその傘下に属する各社は全て東京の、それも一等地の中の一等地である麹町区の中心地にそのほとんどが本社を構えていた。それらの本社ビルは戦前からの建築物であることも多く、例え建て替えられる場合でも、表通りに面した側には旧本社ビルの一部を残してあるのが普通だった。風格ある高層ビルディングが並ぶ、その独特の雰囲気から、辺り一帯は「鍋島マンハッタン」と呼ばれることもあった。鍋島炭鉱株式会社の本社も、やはりこの地区にある。
 伝統を重視するその社風は、裏返せば非効率な面があるとも言えた。大阪を地盤とする帝国グループとの合併は、表向きは対等な経営統合であったが、実質は救済合併的な色彩が濃かったと言える。
 合併後の帝国グループ各社の本拠地は、そのほとんどが東京に移され、あっさりと大阪を見捨てた帝国系企業の関西での評判は、地に堕ちた。しかし、帝国本社にしてみれば、そんなのは全くどうでもいいことなのだった。
 取締役炭鉱長、という肩書も、真田博士の向かい側に座る帝国系幹部の面々からすれば、吹けば飛ぶような軽いものに過ぎなかった。たかが、現場の平取(ひらとり)だ。
 あくまで対等な関係ということで、そのテーブルには鍋島系の幹部も炭鉱会社社長を含めて同数の四人が座っていた。しかし、この場における決定権を握っているのが帝国側であることは、全員が知っていることだった。
「以上の分析結果の通り」
 と、帝国鍋島HD最高執行責任者(COO)の肩書を持つその幹部は言った。
「グル―プ全体における位置付けから考えれば、炭鉱会社(NCC)も今までのように、ただ現物商品を採掘するというあり方には限界があると我々は考えています。今後は、エネルギー資源系の総合商社的な存在へと、脱皮させて行かなければならない。グループ内における、より大幅な飛躍を我々は期待しているわけです」
「真田博士が、我が社における最大の功労者のお一人であることは、もちろん我々も認識しています」
 と、今度は社長が口を開いた。この人物は鍋島系ではあるが、あくまで旧鍋島銀行からの出向組であって、炭鉱会社の生え抜きではない。
「今後とも、引き続き我が社のために活躍していただきたいと考えております。具体的には、新設されるデリバティブ取引専門のチームを統括するポストを用意する予定です。金融工学程度の理論を扱うのは、熱力学に精通された博士にとっては造作もないことでしょう。ただしその前に、大きな仕事を一つお願いしなければなりませんが」
――ただの、事務的な打ち合わせ。
 このフェイタルな内容のどこをどう取ったら、そのような表現につながるのだろうか、と真田炭鉱長は思った。しかし、突然本社でのカンファレンスに呼び出された時から、このような話になるのだろうと予想はしていたのだった。もし、ここで私が拒否すれば、即時更迭されるだろう。上層部が、一度決めた方針を撤回するような見込みはほとんどない。ならば――。
「承知いたしました」
 と真田炭鉱長は頭を下げた。幕引きは自らの手で。ただし持てる権限をフルに使わせてはもらう。それが博士の決意だった。
 本社を出た炭鉱長は、しかし真っ直ぐに島へ帰ろうとはしなかった。この都心には、古くからの知り合いがいる企業が、日系・外資問わずいくつもあった。その人脈もまた、博士にとっての大きな財産であり、切り札となるべきものでもあった。

   *       *      *

 夏の暑さもそろそろ去りつつある九月の終わり近く、浜津フォトサークルの作品展示会「海上都市」が開催された。展示場所はいつもと同じ、海浜シンボルタワーのギャラリールームである。ところがこれが予想外に好評で、一日に百人を超すような観覧客が訪れる日もあった。これは今までの彼らの展示会では、考えられないことだった。
 島の方から見に来てくれる人ももちろんいたのだが、この盛況の最大の理由は、地元の人気フリーペーパーが取り上げてくれたからなのだった。小さな記事ではあったが、メディアに出るのと出ないのとではやはり違うらしい。
 浜津の住民には良く知られている長門島、とは言っても、島での暮らしがどのようなものであるのか、詳しく知っている人は少なかった。島民に対しても、「不思議な場所に住んでいる、不思議な人たち」という感覚を持っている人が多くて、普段の生活の中での関わりを感じることはほとんど無いらしい。そういうわけで、青松島の写真の展示会という内容に興味を惹かれた人たちが、少なからずいたようなのだった。
 展示会の準備に際しては、まず各々が展示の候補となる写真を持ち寄ったのだったが、克利が一番驚いたのが、マスターの作品を目にした時だった。それは、例の縦抗櫓を見上げる壮太君の姿を撮った全紙サイズの黒白プリントだったのだが、その横顔の美しさに彼は言葉を失うことになった。真剣な眼差し、軽く閉じられた唇、少しだけ後ろに反らした背中と、彼女が見つめる先に黒い影のように映る巨大な鉄塔。
 あれだけ熱心に撮っていたのだから、そりゃまあ壮太君のポートレートを持ってくるんだろうとは思っていたのだが、確かに素晴らしい出来栄えだった。他の写真も見事なもので、笑顔も憂い顔も、デジタル・スチルカメラの画面をのぞき込む表情も、ぼんやりとした後ろ姿でさえ、良くもまあこの瞬間を捕まえましたね、と言いたくなるような絶妙なタイミングで撮られていた。まさに壮太君が言った通り、マスター桜井はポートレートの名手だったのだ。
 その写真は、ギャラリー正面の一番目立つ場所に展示されることになった。しかし、そこに写ったモデルが実は、室内をうろちょろしている学ラン姿の少年なのだと、果たしてどれだけの観覧客が気付いただろうか。
 克利の作品も、以前シンボルタワーの上から撮った島のシルエットと、商店街頭上の狭い青空、それに市役所支所の室内を撮った写真などが展示された。島の風景写真も、神社や青松荘でたくさん撮ったのだが、ベテラン勢が本格的な機材で撮影したもののほうがさすがに出来が良く、採用されたのは島のプールが写った一枚だけだった。
 デジタル・スチルカメラで壮太君が撮った写真も、ミス・小西六が飛び去る帽子に手を伸ばす例のヤラセ写真を初めとして、何枚かが展示された。こちらは何せ写り方が独特だから、どんなものを撮っても個性的に見えてしまう。克利が島のことを知るきっかけになった夜景の写真も、前回の展示会に引き続いて展示され、こちらはやはり迫力があった。
 そんな壮太君のサポートばかりで、あまり熱心に撮影をしている風でもなかったミス・小西六の作品は、意外にも全て猫の写真だった。そう言えば島のあちこちで猫の姿を見かけたような気はするが、いつの間にそんな写真を撮ったのだろうと克利は不思議に思った。
 観覧客の一人として、真田郁代さんが姿を現したのは、展示会が始まって三日目の夕方だった。今日はバイトもないので、学校からの帰りに立ち寄りました、と笑顔で言う彼女は、女子アナウンサー風の白いブラウス姿だった。いつか克利がこのシンボルタワーの展望室で見かけた時と同じく、長い髪をバレッタでまとめている。その日は会長は不在で、ギャラリーにいたのは鮒村副会長とミス・小西六、それに克利と壮太君の四人だった。
「どうですか、みんなの写真」
 重なり合うビル群をアップにした写真を見つめる彼女に、壮太君が訊ねた。これは会長が八幡神社の境内から、大口径望遠レンズで撮影したものだった。
「素晴らしいです」
 彼女は感動の面持で答えた。
「普段の見慣れた景色が、こうして本格的な写真の作品になってるのを見ると、感激しちゃいますね。何て言ったらいいのか、映画のロケ地にでもなったみたいな、そんな感じで」
「確かにあの島を舞台にすれば、面白い映画が色々と撮れそうですなあ」
 鮒村老人が言った。
「郁代ちゃんとか壮太君が主人公で、ぜひ撮ってみたいわね」
 とミス・小西六がうなずく。
「それもいいが……そう言えばあなたの主演映画は、あれは何と言いましたかな、題名は」
 老人が訊ねる。
「何だったかしら。もう、遠い昔の話だわ」
 ふふ、と彼女は笑う。どうやらこの人は、女優をやっていたこともあるらしい。
 その時、ギャラリーのガラス戸が開いて、また一人お客さんが入ってきた。いらっしゃいませと言いかけた克利は、その顔を見てあっ、と思った。
「どうも、こんにちは。見に来ましたよ」
 と、にこやかに挨拶してくれた銀縁眼鏡の青年は、青松島の役場にいた、あの端島さんだった。
「あら、端島さん。こんにちは」
 克利よりも先に挨拶を返したのは、郁代さんだった。
「おや、誰かと思えば。あなたも見に来られたんですね」
「ええ、もちろん。素晴らしいですよ、みなさんの写真は」
「なるほど、そうでしょうね」
 端島さんは室内をぐるりと見渡した。
「あなたがモデルになった写真もあるのですか?」
「いえ、それは……」
 と言いかけた郁代さんを遮るように、
「あります、ありますよ。サークルで一番のポートレート名人、マスター桜井が撮った写真ですよ」
 と壮太君が大声で言って、一枚の写真を指差した。
 壮太君ばかりを追いかけていた印象のあったマスターだが、ちゃんと郁代さんの写真も撮っていた。展示されたのはその一枚で、八幡神社へと登る階段の途中で撮影されたものだった。本殿を指差しながら、笑顔で振り返った彼女の長い髪が風になびいているという、やはり狙いすましたような瞬間を撮った写真で、マスターの本領発揮と言ったところだった。
「これは……なるほど」
 端島さんは、感心したような表情を浮かべてうなずいた。
「わたしの写真なんかよりも、ほら、この壮太君の。すごくいいと思いません?」
 例の縦抗櫓の写真を指差して、郁代さんは端島さんを自分の写真から引き離そうとする。
「ああ、いいですね、こちらの写真も。……おや?」
 彼は写真と、その傍らに立ってにこにこしている壮太君とを見比べた。
「君ですね、これは。いやしかし、それにしても」
 またしても端島さんは、感心したようにうなずく。
「いっそ普段から、この格好でいればいいのに。ね?」
 郁代さんが、壮太君に向かって言った。
「ダメなんです、普通の世界では、僕は」
 壮太君は、寂しげな顔をした。
「だけど、あの島にいる時は、本来の姿でいても平気な気持ちでした。だから、僕はまた行こうと思います、青松島に」
「僕も、また行こうと思ってるんだよ。今度は泊まってみたいな、島に」
 克利が言った。
「じゃあ一緒に、僕も連れて行ってもらえますか?」
 壮太君がそう言って、期待に満ちた目で彼を見つめる。
「あ、ああ、いいよもちろん」
 克利はぎこちなくうなずく。
「ぜひ、いらして下さいね。連絡して下さったら、青松荘のほうにはお願いしておきますから」
 郁代さんが言った。
「どうもありがとう。お願いします」
 そう言って頭を下げながら、しかしどうも壮太君と二人で、というのはまずそうな気もするけどな、と克利は思っていた。

「いや、これは大変面白かったです」
 写真を一通り見終えた端島さんが、感心したような顔でそう言った。
「僕は島の人間ではないけれど、役場勤めの仕事柄、島のことはそれなりに知っているつもりでしたが。それでもこんな風景があったのか、っていう写真が何枚もありますね。さすがに、炭鉱長令嬢が直々に案内されただけのことは」
「その、『令嬢』ってのはかなり余計ですけどね」
 郁代さんが横から言った。
「しかし、しょうがないでしょう、令嬢なんだから」
「わたしがそんな大層なもんじゃないって、端島さんだって良く知ってるでしょ?」
「でも、あなたをただの島の子扱いするというのも。ほら、僕が着任して間もない頃。あなたが中学三年の時、南部プールで……」
「もう、いい」
 郁代さんは怒った顔をして、横を向いてしまった。
「ごめんごめん、もう言わないから。申し訳ない」
「それ言われるの嫌なの、端島さん知ってる癖に。ひどいよ」
「悪かった、ごめん。ほんとに」
 突然始まった喧嘩に、フォトサークル一同はぽかんとしている。
「でも、あの時の郁代ちゃんは、確かに輝いて見えたよ、僕にも」
「知らない、バカ」
 真っ赤な顔をした彼女は、昭和の女学生風の台詞を残して、早足でギャラリーを出て行ってしまった。
 これって、ほとんど痴話喧嘩じゃないのか、と克利は思った。しかし、あの郁代さんにもこんな一面があったのか。
「ちょっとあなた、追いかけなさい、こういう時は」
 とミス・小西六が端島さんを叱る。
「は、はい。すみません」
 彼は慌てたように、ようやく郁代さんを追いかけてギャラリーを出て行った。
「ほんとにバカだわね、あの娘が言った通りだわ」
 ミス・小西六は呆れ顔をしている。
「すごい、すごいな。素敵ですね」
 なぜだか知らないが壮太君も頬を染めて、瞳を輝かせている。
 郁代さんは間もなく、何もなかったかのような涼しい顔でギャラリーに戻ってきた。それからだいぶ経って、端島さんも戻ってきたが、どうやらあちこち走り回ったらしくて、激しく息を切らせている。すまし顔でラウンド・テーブルの前に座った郁代さんの姿を見つけた彼は、「あ」と一言だけ漏らしてそのまま黙ってしまったが、そんな彼の様子を見た彼女は、くすくすと笑い出した。壮太君は再び瞳を輝かせて、「素敵ですね」と繰り返した。

 展示会最終日の前日は、朝から激しい雨で来客も少なかったので、午後からは克利と鮒村副会長が二人だけでギャラリーの番をしていた。ご隠居は珍しく刑事時代の話をしてくれたのだが、話がいよいよ核心に迫ってくると「残念ながらこれ以上は話せませんな、守秘義務というものがある、我々には」とか「ここから先は、墓場まで持っていく話になりますな」などと言ってはぐらかしてしまうので、克利はその都度ずっこけそうになった。
 あまりに来客が少ないので、今日はもう閉めてしまいましょうか、と二人が話していた時、ガラス戸の前で一人の女性が立ち止まった。
 黄色いTシャツにショートパンツ姿で、髪を短く切り揃えた女の子は、高校生か、ぎりぎり大学生くらいに見えた。不安げにギャラリー室内をのぞき込んでいるその姿に向かって、ご隠居が「どうぞ、遠慮せずにお入りなさい」と手招きする。
「し、失礼します」
 彼女はおずおずと、ドアを開けて入ってきた。室内をきょろきょろ見まわして、そして「あれだ」とつぶやくと、郁代さんの見返り美人風写真めがけて、真っ直ぐに歩いて行った。
「アイドルかよ」などとぶつぶつとつぶやきながら写真を見ている彼女に、克利は「真田さんのお友達ですか?」と声を掛けた。
「え、ええ。まあ、そんな感じの」
 と言いかけた彼女は、「あ」と猫っぽい大きな目をさらに見開いた。
「君、あれだよね、法律学科の。ほら、紺屋町でオシャレ中華のお店で」
 そう言われて、克利も思い出した。この子、人文学科の学生だ。以前に合コンをした時に、斜め向かいに座っていた女の子だった。確か、佐山理奈とかいう名前だったはずだ。
「おや、お知り合いでしたか、お二人は」
 ご隠居が言った。
「お知り合いってほどでは……。ねえ、名前何だったっけ、君」
「ええと、堅上です。堅上克利」
「ああ、それそれ。何か遠くから来た人だよね、津州大に」
 理奈はにこっと笑った。名前は覚えてくれていないようだが、やはり定番の「なぜ浜津に来たのか」という話題で盛り上がったことだけは記憶に残っているようだった。
「へえ、郁代が言ってた、うちの学校の人っての君だったんだね、写真なんとかクラブの。島まで来たんだよね」
 彼女は一人納得してうなずいている。
「佐山さんも青松島の?」
「うん、そうだよ。郁代と一緒に登校してんの。毎日じゃないけどね。あの子ほら、バイトとか忙しいから」
 それから理奈は、ギャラリー内の写真を眺めて回った。一枚一枚、「ほえー、青っ」だの「これうますぎ」だの「こんなん撮るか普通」だのとぶつぶつ言いながら見るので、なかなか時間がかかったが、何にせよ熱心に見ていることには間違いない。ご隠居はそんな彼女の様子をにこにこと見守っていた。
 ご隠居が熱いほうじ茶を淹れてくれて、三人はラウンド・テーブルの周りに座ってしばらくのんびりとお茶を飲んだ。雨は降り続いている様子で、もう誰もお客は来そうになかった。写真はどうでしたかと訊ねるご隠居に、彼女は「面白い、いい感じ」と答えた。
「郁代も言ってたけど、いつもの島じゃないみたい。ドラマとかに出てきそうっていうか。郁代の写真なんか、そのまんま一場面みたい」
「あれは、ポートレートの名人が撮ってるからね」
 克利は言った。
「うん、そうだよね。うまい人が撮ってるんだと思った。あの子の場合、元々ちょっと存在が現実離れしてるんだけど、そこがちゃんと写ってるっていうか」
「現実離れ?」
「そうよ。小さい時からさ、ずっとあんなで。なんかヘップバーンぽいっていうか、真面目だし、かわいいんだけど、ちょっとだけ空中に浮いてるよね、ふわふわ。時々抱きしめて、地面に下ろしてあげたくなるもん」
「うまいことを、おっしゃるな」
 ご隠居が感心したようにうなずいた。やはりつまりは、島の姫ということなのだろう。
「あの兄ちゃんさ、役場の。あの人がうまいこと着地させてあげてくれればいいんだけどねえ」
 彼女はそう言って煎餅をかじり、お茶をすすった。
「それって端島さん? やっぱりあの人は、郁代さんのことを?」
 克利は身を乗り出した。
「どっちも認めてはないけど、丸わかりだもん。郁代はああだから仕方ないけどさ、兄ちゃんのほう、しっかりしてもらわないと。相手が御令嬢だし、何か腰が引けてるっていうか遠慮してるみたいな感じらしいけど、今時何それってね。鉱長だって何にもうるさいこと言いやしないって。思わない?」
「そ、そうだね」
 まくし立てる理奈の勢いに気おされたように、克利はうなずいた。
「一応、郁代がバイトしてるファミレスに来たりはしたみたいなんだけどね。食べてすぐ、帰っちゃったって。普通バイト終わるまで待たない?」
「ああ、『ロイヤル・シャロン』だね」
「そう言う名前の店なんだ。あの子言わないんだもん。知ってる? どこにあるか」
「実は、僕の家のすぐそばで……」
「行こう!」
 今度は理奈が目を輝かせて身を乗り出した。
「行こうよ、今日バイトしてるはずだよ、郁代。連れてって、今から」
「いや、いきなり行ったらそれは」
「いいのいいの、そんなの。大丈夫だから。私が言うんだから間違いないって。あの郁代がウエイトレスやってるんだよ、それ面白すぎるから」
 克利は救いを求めるように、ご隠居のほうを見た。
「ああ、ここなら構わんよ。私が番をしておくから、気にせず行くといい」
 ご隠居は、彼が期待したのとは違う方向へと背中を押した。
「ほら、おじいちゃんもいいってさ。行くよ!」
 椅子に置いた黄色いリュックを、さっと持ち上げて肩に掛けると、理奈は出口に向かってすたすたと歩き始めた。
「……じゃあ、ちょっと行ってきます」
 克利はご隠居に頭を下げた。
「どうぞ、どうぞ」
 目を細めて理奈の後ろ姿を見ながら、鮒村老人はそう言ってうなずいた。
 外はやはりまだ雨だった。しかし理奈は傘など差さずに、ビルの出口から、車道を横切った向かい側にある地下鉄の入口までを疾走した。出遅れた克利は赤信号に引っかかってしまい、彼方の理奈に睨まれることになった。
 海浜都市始発の地下鉄は、ラッシュアワーにも関わらず誰も乗っていなかった。克利と理奈はがらんとした車内に二人きり、並んでシートに座ることになった。
「ねえ」
 と彼女は言った。
「どう思った? 島のこと。青松島、あたしたちの」
「どうって?」
 克利が問い返す。
「変な場所だよね、きっと。あたしはずっと島から出たことないから、あそこしか知らないんだけど。浜津の人たちも、そう思ってるみたいで。昔は、あんな狭いところに集まって良く住めるもんだ、とか馬鹿にされたり、逆にお金持ちの島ってひがまれたり、色々あったみたいなんだ」
「そうなんだ」
 克利は、意外に思った。写真展に来た人たちの反応を見ていても、島への好奇心は持っているようでも、そういうネガティブな感情は全く感じられなかった。
「君は、克利君はよその人だからさ、先入観とか無しで、どう思った? やっぱり変わってるかな」
「うーん、それは良くわからないな。でも僕は好きだよ、青松島。不思議だけど、あの町にいると守られてるような、安心できる感じがした。また行こうと思ってるんだ、今度は泊まりで」
「良くわからなくても、でも好きなんだ」
 理奈は、嬉しそうな顔をした。
「じゃあきっと、また来てね。泊まるところは、郁代に言えばそんなのどうにでもなるからさ。あたしから言っておいてあげるよ」
「ありがとう。でも、今からその郁代さんに会うんだよね」
「あ、そうだったわ」
 彼女はそう言って笑った。
 浜津駅で、どっと乗り込んでくる乗客を掻き分けながら地下鉄を降り、南口から地下道を歩いて地上へと出た。北口が町の玄関なら、こちらは言わば裏口だ。雑居ビルやら小店舗が雑然と並んでいる。そんな町なかをさらに南へと少し歩き、国道64号バイパスに出ると、高いポールの上で回転する「レストラン ロイヤル・シャロン」の赤い看板が目に入ってきた。
 ドアを開けると、「とってもシャロン」というお馴染みのBGMと一緒に、「いらっしゃいませ!」と元気な声の挨拶が飛んできた。
「お二人で……」
 と言いかけて、そのウエイトレスさんは目を丸くした。
「そう、お二人。禁煙席お願いね」
 と理奈はにやにやしながら言う。
「わかりました。では、こちらへ」
 と、ポーカーフェイスに戻った郁代さんは、理奈と克利を店の奥へと連れて行った。
「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのチャイムでお呼び下さい」
 澄まし顔の郁代さんに、
「こちらのおすすめは何かしらね」
 と理奈がメニューを眺めながら訊ねる。克利は恐縮してしまって、首をすくめながらメニューをひたすらめくっている。
「ただ今当店では、北海漁業フェアを実施中でございまして、中でもおすすめは鮭の臓物(はらわた)のオムライスでございます」
「えー、はらわた? それあんまりおいしそうじゃ」
「でもそれがおすすめなのです」
「他におすすめは……」
「臓物オムライス一択でございます」
「あの、分かりました。じゃあ、それを一つ」
 見かねた克利が、二人のやり取りに割り込んだ。 
「あら、いえ……臓物オムライスは、理奈ちゃん、と言いますかこちらのお客様限定のおすすめでして、その、食通の方向きと申しますか……やめたほうがいいです」
 郁代さんが、急に小声になる。
「鮭なら、北海鮭とほうれん草のクリームシチューがおいしいですよ」
「何であたしは臓物オムライスで、堅上君はシチューなのよ」
 理奈が口を尖らせた。
 結局二人とも、そのクリームシチューを注文した。こちらは何の問題もなくおいしくて、理奈はすっかり機嫌を直した。
 幸い、今日は郁代さんは早上りと言うことだったので、シチューを食べ終えた二人は、仕事を終えた郁代さんと一緒に帰ることになった。店を出た二人が、くるくると回転する赤い看板の下で待っていると、私服に着替えた郁代さんが小走りで現れた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「さ、じゃ帰ろうか」
 理奈が歩き始める。
 旅客船ターミナルへ行くバスは、浜津駅の北口から出ている。克利の住むマンションは、この「ロイヤル・シャロン」のすぐ近くなのだが、折角なので彼も駅まで一緒に歩いていくことにした。
「で、どうして二人が一緒に?」
 郁代さんが、理奈に訊ねる。
「ああ、あんたの言ってたさ、写真展見に行ってきたのよ、海浜都市。そしたらこの人がいて、ほらこの前の合コン、あの時もいたのよこの人が。で、あんたのバイト先知ってるって言うからさ、連れてもらってきちゃった」
「そうなのね」
 驚いたような顔で、郁代さんは克利と理奈の顔を見た。
「不思議な縁ね、それは」
「そうそう、そう思うよ。運命の出会いじゃない? これもしかして」
 理奈が、克利の右腕にしがみついた。思わず克利は「うおわ」と声を上げる。理奈の胸が、思い切り彼の腕に当たっていた。
「何よ、文句あるの」
「いや、文句なんてそんな」
 しどろもどろの克利を見て、郁代さんはくすくすと笑いながら「仲がいいのね」と言った。
 結局なぜか克利も、港へのバスに一緒に乗って行くことになった。と言うか、「いいじゃない、だってまだ帰りのバスあるんだよ」と謎の理屈を言う理奈に、車内に引っ張って行かれたという感じなのだったが。
 バス車内の一番後ろのシートに、両側を女の子二人に挟まれて座り、左右から飛び交う会話にうなずいたり笑ったりしていると、克利は嬉しいような、恥ずかしいような、何とも言い難い気分になった。これじゃまるで、ドラマの一場面みたいだ。そう思いながら彼は、左右どちらにも向けることのできない視線を、天井の青白い蛍光灯にじっと固定させていた。
「あ、そうだ」
 と理奈が思い出したように言った。すでに旅客船ターミナルが近づいていて、バスは埋立地の真っ暗な道路を走っていた。
「今度島に泊まりに来たいって、克利君が。泊まるところ何とかなるよね、あんたなら青松荘でも何でも」
「そうそう、そうでしたね。大丈夫ですよ。いつ頃来られますか?」
「壮太君も行きたいって行ってたし、他にもフォトサークルの人が行くかも知れないから、一度みんなに聞いてみるよ。ほんとは夏休みのうちに行きたかったけど、もう終わっちゃうからね。せめてあんまり寒くなる前に行きたいな」
「冬になると結構欠航するからね、船。海荒れるから」
 理奈が言った。
「ま、でも秋は秋で台風来るんだけどね。何かと大変なのよ、島暮らしもさ」
 間もなくバスは、港に到着した。郁代と理奈は、急ぎ足で桟橋へと向かう。
「じゃあね、また連絡してよね」
 口の周りに手を当てて、デッキの上から大声で呼び掛ける理奈に、克利も大きくうなずき返す。隣の郁代さんが、にこやかにそんな二人を見守る。やがて時間が来て、彼女たちを乗せた船は桟橋をゆっくりと離れて行った。理奈と郁代さんは手を振って、船室に戻って行く。
 暗い海に去って行く船を見送るのは、克利ただ一人だった。まばゆく輝いているはずの海上都市も、この距離からは小さな光点ほどにも見えなかった。


    *        *        *


 次の青松島行の前に、一度帰省しておこうと克利は思い立った。夏の間、結局彼は全く故郷へ帰らなかったのである。実家からは特に何も言ってきてはいなかったが、学費と生活費のスポンサーである両親に、目下の学生生活について報告するくらいのことはしておかないと、義理が悪そうだ。一週間くらいなら講義をサボったって、そこは何とかなるだろう。
 実家に電話してから、最低限の荷物と110カメラだけボストンバッグに詰め込んで、彼は浜津駅へ向かった。帰省と言っても行き先は田舎ではなく大都会だから、風情も感傷も今一つである。ただ、この町にやって来た時以来の改札口を通り、ホームに立って和菓子やらホテルやらの看板が並んでいるのを見ていると、もう半年もここで暮らして来たのだと不思議な気分になってくるのだった。
 快速列車がうなりを上げて本線を走り始めると、市街地はたちまちのうちに去って行って、車窓に田園風景が広がった。住んでいる分には小さな町だと感じることなどほとんどない浜津だが、やはり大都会とは違う。
 さらに新幹線に乗り継いで約二時間。こちらも半年ぶりとなる、生まれ育った町の駅前に立った克利は、正面に伸びる大通りに立ち並ぶ超高層ビル群、それに途切れることのない人波を前に思わず立ちすくんだ。見慣れた街の風景。これが現実社会なのだ、なぜか彼には強くそう感じられた。足を踏み出した彼はその雑踏に加わり、現実へと復帰した。
 実家での彼は、想定外の歓待を受けた。半年ぶりに帰ってきた息子に、両親は大喜びなのだった。いつもクールなはずのロシアン・ブルーまでが、ソファーに座る彼の膝にわざわざ自分から乗って来て、さあなでろと指示を出すのだった。おかげでカメラに入った二十四枚撮りのフィルムには、不機嫌そうな顔で甘える猫ばかりが写ることになった。
 わずか一日で、彼の心はすっかり大都会へ引き戻された。迷宮のように巨大な、しかし歩き慣れた地下街で書店やカメラ屋を見て回ったりしていると、浜津の町やあの青松島のことがすっかり現実感を失って、まるで夢の中での出来事のような、遠いものに思えてくるのだった。フォトサークルの、不思議で面白い人たちと過ごす日々。さらには理奈と郁代さん、あんな素敵な女の子たちと親しくなることができて――
「なに、美女二人だと? 許さんぞ、この裏切り者め」
 と、彼を口々に罵ったのは、高校の元同級生たちだった。こちらの大学に進んだメンバー何人かが、久々に帰ってきた克利のために飲み会を開催してくれたのだった。ところが、彼の浜津での話を聞いた途端に、その集まりは糾弾集会に早変わりしたのだった。
「何だお前だけ、いい思いをしやがって」
「そうだ、その子二人のどっちか寄越せ。俺も浜津に行くぞ!」
「いやいや、そう言う関係じゃないから、あの子たちとは」
 と克利は慌てて否定したのだが、
「か、『関係』!」
「『あの娘たち』だってよ、『あの娘たち』」
 と火に油を注ぐようなことになっただけだった。困った克利は、反論を試みる。
「大体お前らだって、合コン三昧の毎日なんじゃないのかよ。女子大生にモテモテのはずだろ、お前らの大学なら。俺なんか、地方の大学に都落ちみたいなもんなんだから」
 進学校の卒業生なのだから、そもそもみんな難関国立大やら有名私大やらの、ブランド大学の学生ばかりなのである。浜津大生なんかに比べれば、都会の学生らしいきらびやかな毎日を送ることが可能ではないのか。
 ところが途端に、全員が俯いてしまった。
「そのはず、だったんだけどな……」
「何で俺らには、そういう声がかからんのだろうか」
「受験でのあの苦労は、何だったんだろう。まさか、入学半年で一度も女子大生と会話する機会がないとは……」
「いや、わ、悪かった」
 陰々滅々ムードに、克利はまた大慌てで謝罪することになった。実際のところ、キャンパスライフなんて現実にはそんなバラ色のものではなく、むしろ彼の浜津での生活が、出来過ぎなのである。
 話題を変えようと、青松島のことを知っているかと彼らに聞いてみたのだが、みんな一様に「教科書で見たことがあるような、無いような……」という反応で、やはり詳しいことは知らないようだった。彼らが首を傾げるのを見ていると、自分があの島に行ったということが、なおさらに夢のように感じられてくるのだった。
 そんなはずはない、こうして写真だってあるのだからと思いながら、持参してきた島での写真を彼らに見せてあげたのだが、これはまずかった。最初のうちは「おお、すげえなこの島」という反応だったのだが、壮太君のポートレートが出て来るやいなや、またしても糾弾集会が始まったのである。これは郁代ちゃんか、理奈ちゃんなのかと聞かれて、いやどちらでもなくてとか言ったものだから、「ふざけんなよ、三人目か」とまたもや大騒ぎになってしまったのである。いやこれは男子中学生でと説明しかけたものの、「こんな美少女が男のわけあるかボケ」と、彼らは聞く耳を持たなかった。とうとう克利は、無数の女の子を手玉に取る稀代の悪人ということにされてしまった。
 飲み会の解散後、元級友たちは各々密かに浜津大学入学試験の赤本を買って帰った。彼らにとって浜津市は、まだ見ぬ夢の町となったのである。もちろん克利は、そんなことは知らない。あいつらには参ったなあと思いつつ、でもやはり浜津に行ったのは正解だったのかな、という気持ちに満たされながら、大通りを一人歩くのだった。
 こうして、一週間の里帰りはあっという間に終わってしまった。両親と、面倒そうな顔をしながらも玄関まで出てきたロシアン・ブルーに見送られて、彼は浜津への帰途に就いた。延々と続くメガロポリスを新幹線が脱出して、車窓に海が広がったその時、今度はあの大都会が彼の中で遠い場所に変わった。

 作品展示会の総括を兼ねた、次のフォトサークル例会で、二度目の青松島行きをそろそろ考えようかと思うんだけどと克利は壮太君に聞いてみた。
「行きます!」
 と彼は即答だった。再び島に渡るのを、心待ちにしていたらしかった。今回はどうしようかなあと考え込んでいるのは、やはり服装のことなのだろうか。
「私も行くわ。二人きりで行かせるわけにもいかないわ、さすがに」
 ミス・小西六もそう言って参加を表明したのだったが、どうも何か誤解されてるんじゃないかと克利は複雑な気分だった。もっとも、ミス・小西六が参加してくれてほっとしたのも事実だった。実際二人でということになってしまったら何だか困るような気もして、そうなってくると自分でも訳が分からない。見た目が美少女というのは、やはり大変まずいのである。
 他のみんなは今回は見送りとのことだったので、結局この三人で青松島に再上陸することが決まった。あんまり寒くなる前がいい、というのには二人とも賛成で、それじゃと克利はさっそく郁代さんに連絡を取ってみた。彼女に確認してもらったところ、十月後半から十一月にかけての週末ならどこでも、青松荘の部屋は空いているらしい。なぜか理奈まで含めたみんなの都合を調整した結果、上陸日は十月下旬の週末ということになった。
 出発の直前になって、小振りの台風が日本に接近して来たりして克利をやきもきさせたが、幸いその進路は西へとそれて勢力も衰え、ただの弱い熱帯低気圧へと変わってくれた。おかげで三人は、無事に浜津港を出発することができたのだった。
 元・台風の影響でまだ波は少し高く、船は時折大きく揺れることもあった。危ないからと言うことで、三人はデッキの上には出ず、二階客室内の座席で大人しく座っていることにした。しばらく欠航が続いていたせいか船は満員で、三人掛けとは言いながら少々窮屈な中央列のシートに、克利たちは身を寄せ合うようにくっついて座ることになった。
 今日のミス・小西六は前回のようなドレスではなく、地味目の白いブラウスと紺のスカートの、まるで昔の先生みたいな服装だ。対をなすかのように、壮太君は相変わらずの学ラン姿だったが、今回は巨大な登山用リュックではなく、普通のボストンバッグを持参している。二人とも体形はスリムだから、狭いシートでもそんなに苦しくはなさそうだ。
 窓から遠くて外も見られず、三人は客室前方のテレビ画面を眺めて過ごした。フレンチ・レストランを舞台にしたコミカルなドラマの再放送が流れていて、壮太君とミス・小西六は時々声を上げて笑った。多少揺れは大きくとも、それは平和で穏やかな船旅の時間だった。
 やがて船は、青松島の港へとたどり着いた。円形の桟橋に降り立った三人の頭上には、秋晴れの青空が広がっていた。
「おーい、こっちだよ」
 橋を渡った向こう、島の上から大きく手を振ったのは、ショートヘアの理奈だった。その隣では、郁代さんが微笑んでいる。
 今日の理奈は、マリン・ルックっぽい青と白のボーダーシャツに、アイボリーのスカートをはいていた。ショートパンツ姿だったこの前に比べると幾分よそ行き風で、清楚な水色のワンピースを着た郁代さんと並んでも、それほど違和感が無い。
 まずは青松荘に向かいましょうということで、一行は地下街を抜けて潮降町に出ると、島の頂上へと続く例の階段の一つを上り始めた。到着早々さっそくのプチ登山、という感じだが、残念ながらこの島の中ではこうしてひたすら歩く以外、交通手段というものはほとんどない。それは克利たちにも、良く分かっていた。
 階段の両側にはビル群が建ち並んでいて、その中への出入り口がいくつもあったが、彼らは建物には入らずに、屋外の階段を上り続けた。せっかくの好天である。振り返れば、急な傾斜の先に、きらきら輝く青い海が広がっているのも見える。三人はさっそくシャッターを切った。克利と壮太君はいつもの愛機だが、ミス・小西六はこの前のクラシカルなコンパクト機ではなく、新兵器らしい大柄なブラックボディのレンジファインダー風カメラを持って来ていた。ピカピカの鏡筒に「35mm F2.0」の文字が誇らしげだが、この陽当たりではさすがに、減光フィルターを用いなければ開放絞りは使えない。
 前回と同じく、岩山の稜線を南へとずっと歩き、並木道のある住宅街を抜けると、ようやく青松荘の建物が見えてきた。何の変哲もない、小振りな木造二階建ての保養所。しかし、どこもかしこもコンクリートで固められたようなこの島においては、逆に異彩を放っているようにも見えた。岩山の南端、ほとんど崖と言ってもいいような斜面に建っていて、ともかく眺望は文句なしだ。
 にこやかに迎えてくれた仲居さんに案内された部屋は、やはりあの時と同じ二階の角部屋だった。ただし、克利が泊まるのはその隣の六畳間である。「女性」二人と同じ部屋、というわけにはいかない。今日は彼ら以外に宿泊客はいないらしくて、どの部屋も使い放題のようだった。
「すごーい、かわいい!」
 と理奈が声を上げた。別室で「本来の姿」に着替えを済ませて来た壮太君が、姿を現したのだった。今日は浴衣ではなく、学生服を着ている。と言ってももちろん学ランではなく、スカートの裾が長めで、野暮ったい感じのセーラー服姿だった。ミス・小西六の話では、それは壮太君が実際に通っている中学校の、制服なのだということだった。せっかく買ったのに、やはり実際に着て通学することはできなかったらしい。まあ、それは無理もないだろう。髪型はやはり、シンプルなポニーテールだ。
 昭和の教師風ファッションのミス・小西六とセーラー服の壮太君が並ぶと、本物の先生と教え子のように見えた。制服にリアリティがあるから、コスプレという感じにもならない。
「このあたしよりもかわいいかも。ねえ?」
 理奈がそう言って、郁代さんを見る。
「それはまあ、そうね」
 そんなの当たり前、というような顔で郁代さんはおっとりうなずいた。
「ちょっと、否定してよ」
 そう言って怒った顔をしながらも、理奈は何だか楽しそうだ。
 それから彼女は、克利には聞こえないような小声で、壮太君に何やら質問をし始めた。壮太君は照れたように、しかし嬉しげな感じで理奈の質問に答えている。それにしても、どうして女の子と言うのは、女装だの男装だのが好きなんだろう。
「え、そうなんだ」
 理奈が驚いたような表情を浮かべた。
「逆なんだ、じゃあ。逆の逆?」
 何が逆なんだか、と思いながら理奈のことをぼんやり見ていた克利を、彼女が急ににらみつけた。
「駄目だからね」
 だから何がだよ、と訊き返したくなったが、克利は言葉を飲み込んだ。余計なことは言わないに限る。
 
 今回は前のようにコスプレ的に派手に振る舞うのは無しで、地味に普通にその服装のまま、島の中で過ごしたいというのが壮太君の気持ちのようだった。幸いと言うかマスターもいないし、克利はもともとポートレートは撮らないから、特に気を遣わなくても自然にそんな雰囲気になった。
 しばらく部屋で一休みしてから、それじゃランチでも食べに出かけようということになった。青松荘でも昼食を頼むことはできるのだが、夕食に海鮮中心の豪華なメニューが予定されていたので、お昼は違うところにしようということになったのだった。
 理奈がおすすめだと言う島内唯一のイタリアン&カフェは、メインストリートよりも少し高台に建つ、五十五号棟というビルの中にあった。高層階の部屋なのだが、岩山から降りる途中にビルへの入り口があるので、階段を上がったりする必要は無かった。
 ここはやはり坑内員の社宅なのだが、社員の奥さんが半分趣味で自宅の一室でカフェを始めて、今では人気の店になったのだということだった。入り口こそ他の部屋と変わらない、青ペンキで塗られた無愛想な鉄の扉だったが、一歩中に入ればモダンリビング調の、白壁と木製家具が並ぶ空間に改造されていた。
 海側に隣接して建つビルの屋上よりもさらに高い場所にある部屋で、視界を遮るものが無いから、眺望も素晴らしかった。窓の向こうは一面の青い海である。「こんなお店を島の人たちだけに独占させておくのはもったいないわね」とミス・小西六が口にするほどだった。
「でさ、この後どうするの? 晩御飯まではだいぶ時間あるけど」
 大盛りにした海鮮パスタをフォークにぐるぐる巻きつけながら、理奈が言った。
「あの……映画に行こうかと思ってるんです。この前来た時に映画館見て、いいなって」
 壮太君が、遠慮がちな声で答える。
「わざわざ? あのちっこい映画館?」
 理奈が目を丸くした。
「あら、レトロで素敵なシアターだと思うわよ。ああいう場所で映画見るのって、ちょっと特別な感じじゃないかしら」
 ミス・小西六が言った。
「うーん、そうなのか。良く分かんないな、そういうのあたし。まあいいや、それじゃ連れてってあげるよ。堅上君も行くの?」
「僕は、映画はパスでいいかな。ただ、そのレトロな映画館ていうの、中の見学だけでもさせてもらえると嬉しいんだけど」
「じゃあ、それはわたしから頼んでみます」
 と今度は郁代さんがうなずいた。
「郁代連れてると便利なのよ、どこでもフリーパスだからね」
 なぜか得意げな顔で、理奈が言った。
 島で唯一の映画館である「世紀座」は、潮降町の一番外れにあった。ビルの一室などではなく、小さいながらも独立した建物で、なかなか贅沢な扱いである。ネオ・ルネサンス風のデザインも、小学校の体育館程度の大きさには見合わない壮大なもので、克利は大阪の中之島公会堂を連想した。実際、この場所は映画の上映以外にも、各種の集会などにも用いられるという話だった。
 肝心の映画はというと、気象災害を調査する学者が主人公のスペクタクルもので、ポスターの真ん中には竜巻らしき禍々しい黒い渦巻きがそびえている。しかし「自然は人類の最大の敵」だとかいうキャッチコピーは、島の人たちにとっては当たり前というか、日常というか、今さらこんな映画を見るまでもなさそうだ。
「面白そうじゃないの」
 と、ミス・小西六があまり気のなさそうな声で言って、それでも彼女と壮太君の二人は、この映画を見ることになった。要するに内容はどうでも良くて、ここで見るという体験そのものが大事なのだろう。中だけが見たい克利も一緒になって、三人は劇場へと入って行く。
 天井が高くてがらんと広い館内は、二階席まである立派なものだった。花や果物などの緻密な漆喰細工が施された天井の真ん中辺りには、古びたシャンデリアが吊り下げられていて、その周囲で天井扇がゆっくりと回転していた。階段状に並んだ跳ね上げ式の座席は、木製にビロード張りという古めかしさだ。
 これはいいね、とみんなで写真を撮るのだが、何せ薄暗いからシャッター速度が遅くなってしまい、うまくぶれずに撮れたかどうかは怪しかった。ただ、壮太君のデジタル・スチルカメラだけは、ちゃんと撮れたことを液晶画面で確認することができる。便利なものだ。
 上映開始時間になり、近日公開映画の予告編が始まったところで、克利と島の二人は映画館を出た。
「さ、どうしようか。どこ行きたいの?」
 理奈が彼の顔をのぞき込む。
「もう一度、島の全景を撮りたいんだけど、やっぱり八幡神社かな」
 と克利は答えた。今回はそのために、新しく買った18ミリ広角レンズを持ってきている。
「また登るの? 降りて来たばっかなのに?」
 理奈は呆れ顔になった。階段の上り下りばっかちでデートっぽくない、とかブツブツ言いながらも、彼女はおすすめの撮影ポイントという場所へと彼を連れて行ってくれた。郁代さんは苦笑しながら、二人の後をついてくる。
 第十一号事務屋棟という建物の中をひたすら登り、屋上に出た理奈は、端っこにある柵を何の迷いもなく飛び越えると、隣の建物との間をつないでいる梁の上をすたすたと歩いて行った。幅五十センチほどの梁の下には何もない。転落したら、地上まで真っ逆さまである。
「ちょっと理奈、危ないわ」
 郁代さんの顔色が変わった。
「大丈夫よ、あたし子供の時からいつもここ来て、昼寝とかしてるんだから」
 理奈は梁の縁に座り込んで、足をぶらぶらさせる。その傍を白い子猫が、不思議そうな顔で彼女を見上げながら歩いて行った。
 柵の前に立った克利は、恐る恐る梁の下方をのぞき込んでみた。数十メートル下、ビルとビルの谷間を縫うように続く狭い通りを、島の人々が行き交っている。人工の渓谷とでも言った趣で、なるほど絶景と呼んでも良さそうだ。梁の上に乗ってシャッターを切れば迫力のある絵が撮れるかも知れない。しかし、彼にはそんな勇気は無かった。落ちれば死ぬ。しょうがないなあ、カメラ貸しなよという理奈に代わりに撮ってもらったが、これは少々情けない気分であった。
 もっとも、彼まで柵を乗り越えたりしようものなら、郁代さんは絶対許してくれなかっただろう。その後、三人で島内を散歩する間、郁代さんはずっと理奈に腹を立てていた。当の理奈本人は、平気な顔をしていたけども。
 夕方になり、そろそろ映画館の二人も帰ってくるだろうということで、克利たちは青松荘に戻った。夜はみんなで鍋を囲むことになっている。
 一旦家に帰って夕飯の準備を手伝ってくる、という郁代さんがいなくなってしまったので、克利と理奈は広い和室に二人きりになった。郁代さんの家はここからすぐ近くの、島で唯一の住宅街にあるということだった。
 広縁の応接セットに向かい合って座り、二人は開け放った窓から外の風景を眺めた。いつもにぎやかな理奈も、じっと黙って海を見つめている。
「……良くないよ、あれは」
 理奈がふいに口を開いた。
「え?」
 克利は、慌てて彼女の顔を見る。何か、まずいことをやっただろうか。
「良くない。あれは悪い雲」
 彼女は遥か沖合を指差す。そう言われて、克利は海の彼方に目を遣った。傾きかけた太陽に照らされた海、その水平線のすぐ上に、灰色の雲が巨大な壁のように立ちはだかっているのが目に入った。
「荒れるかも知れない、今夜」
「嵐が来る?」
「そう。あれは、そういう雲」
 しかし、台風は去ったはずなのに。ちょうど天気予報の時間が近づいていたので、克利は床の間に置かれた小型テレビのスイッチを入れてみた。昔の時代劇が終わるところで、悪人たちを退治た本物の御隠居が、高笑いを上げていた。CMの後、地元の葬儀社提供の天気予報が始まったが、「概況です」というアナウンスと共に映し出された天気図を見て、克利は目を疑った。消えたはずの台風第二十二号が、日本列島のすぐ南海上に堂々と鎮座していたのだった。一度消滅した台風が復活するなんて、そんなことがあるんだろうか。しかもまるでブーメランのように進路を変えて、こちらへ向かってきているではないか。
「ただいま!」
 元気な声がして、入り口のふすまが開いた。セーラー服姿の壮太君と、ミス・小西六が部屋に入ってくる。
「あ、お帰り」
 克利はそう言って、テレビの画面を指差した。
「ねえ、これ。台風が……」
「ほんとですね」
 壮太君が驚いたような顔をした。
「衰弱して熱低になったはずなのに。985ヘクトパスカルって、結構強くなってるなあ」
「壮太君、天気図分かるの?」
「はい。登山しますから、一応は」
「あら。明日、ちゃんと帰れるかしら」
 ミス・小西六が首を傾げた。
「お昼までに船が出ないと困ってしまうわ。パーティーがあるんだもの」
「もしかしたら、難しいかも」
 理奈がつぶやく。

 間もなく郁代さんも戻って来たので、和室の真ん中に置かれた立派な座卓を囲んで、お鍋が始まった。若い仲居さんが作ってくれたのは、醤油ベースのキジ鍋だった。克利と壮太君は初めて食べるキジ肉の、脂ののったうまさに驚いてしまった。元々は、関西の方から移って来た住民が持ち込んだらしかったが、スタミナがつくというので人気になり、今では島の定番料理になったということだった。味が濃いのにしつこくはない、というスープは雑炊にもぴったりで、用意された食材がみんな姿を消すに至るまで、食べ尽くされることになった。
 さすがの青松島にも地酒まではないらしく、ビール以外には、キジ鍋と一緒に島へ入ってきたのだという京都伏見の清酒と九州の焼酎が出て来た。ミス・小西六と理奈は芋焼酎のお湯割りを競い合うようにがぶがぶと飲み、しかしミス・小西六は顔色一つ変えずに平然としていたが、理奈の方はすっかり酔っぱらって畳の上に寝転がってしまっていた。スカートの裾が乱れて、折角の清楚系マリン・ルックが台無しだ。
「ちょっと理奈、大丈夫なの?」
 と、こちらは素面の郁代さんが心配そうに理奈の顔をのぞき込む。
「人を酔っぱらいみたいに言うなよお」
 理奈はケラケラと笑う。
「今日は、もうここに泊めてもらいなさい。わたしがお願いしておくから」
「そうしたいのは山々れすが、克利君たちと仲良くおねむしたいところでありますけど、今日は帰らないといけないのれす。嵐が来ますので、お母さんを放ってはおけないのです」
「困ったわねえ。じゃあなんでそんなに飲むのよ」
「飲んでないし。これマジ」
「何がマジよ。ともかく、顔でも洗ってきなさい」
「はーうぃ」
 理奈はそう言ってどうにか起き上がると、ふらふらと部屋を出て行った。
「台風、どうだろうね」
 縁側に近づいて外を見た克利は、思わず「おお」と声を上げそうになった。辺りはすっかり暗くなっていて、眼下に重なり合うようにぎっしりと建ち並ぶビル群が、無数の窓を輝かせていた。圧縮された夜景、とでも言った感じだ。
 しかし、感心している場合でもなさそうだった。窓のガラス戸が、時折ガタガタと音を立てながら揺れている。恐る恐る開いてみると、途端に生温い風が吹き付けて来た。雲が低い。街の光に照らされながら、足早に空を進んでいる。
「思ったよりも、進路が東寄りになってきてますね。速度も上がってる」
 壮太君が、静かな声で言った。いつの間にかテレビがついていて、台風の進路情報が映し出されている。
「この分だと、明日の明け方くらいには島のすぐ西側を通ります。『小型で並の台風』だから、勢力がそれほど強くないのは救いですけど。直撃、ですね」
 ガラガラと戸が開いて、理奈が入って来た。ぷはーっと息を吐いて「ああ、さっぱりしたかも」と言ってから、みんなが黙ってテレビに見入っているのに気付く。
「こっちに来るのね、やっぱり」
 彼女は、肩をすくめた。前髪がまだ濡れたままで、水滴がぽたぽた落ちている。
「さ、じゃあ家帰らないと。直撃二回目だよ、今年。全くやれやれ、だね」

第四章 潮が降る

 嵐が近づく中、まだ足がもつれがちの理奈を一人で帰らせるわけにも行かず、克利が送って行くことになった。送ると言っても道など分からないから、単に横を一緒に歩くだけ、というのに近く、そもそも帰り道をどうするんだという話もあるのだが、それでも克利が行くしかなかった。「たった一人の男の癖に、嵐の夜道を帰るかわいい女の子を送らないつもり?」と、自分を「かわいい」と主張する理奈ににらみつけられては仕方がない。私も一緒に行きましょうか、と郁代さんが言ってくれたが、克利は断った。さすがにそれは格好悪い。何でもいいからともかく山側へ登って、稜線の道をひたすら南へ歩けば戻って来られるはずだ。
 幸い、まだ雨は降っていなかったが、時折かなり強い突風が吹いた。一応傘も用意したものの、もし雨が降り出したとしても、差すのは難しいかも知れない。風に持って行かれてしまうだろう。
 彼女が住む十一号棟までは、稜線をそのまま歩いて行ったほうが近いようだったが、山の上は風がまともに吹き付けて危険ということで、理奈と克利はまず麓まで降りることにした。屋外の階段で真っ直ぐ降りることもできるらしかったが、そちらは避けて、斜面に並ぶビル群の中を通り抜けることになった。明るいし、雨にも遭わなくて済む。
 いざ歩き出すと、理奈は案外しっかりとした足取りで、先ほどまでの酔っぱらいっぷりとは打って変わった感じだった。ビルの中の階段を何階分か降り、一旦屋外の通路を渡って隣の建物に入り、廊下を右・左・右と曲がって再び階段を降り、という複雑なコースを、彼女は迷わず歩き続けた。克利がまっすぐ進みかけていた廊下を、突然理奈に手を引っ張られて右左折させられる、ということも何度かあった。
「ちゃんと覚えるのよ、帰り道」
 と理奈は笑うが、どの建物の中も同じような灰色をしたコンクリートの壁と床、そして等間隔で並ぶ青白い蛍光灯という同じ繰り返しで、とても覚えられそうに無い。
「最悪、屋外階段なら一本道で上まで行けるから大丈夫。でも、足元には気を付けてね。転んだら下まで落ちるから」
 それは確かに、最悪だ。
 ビルからビルへと梯子しながら二人は無事地上に降り立ち、そこからは潮降町のメインストリートを歩いた。どの店も頑丈そうなシャッターで店先を閉ざしているのは、単に時間が遅いせいなのかも知れないが、来るべき嵐に備えた臨戦態勢であるようにも見える。風が吹き荒れていた岩山の上に比べると、この辺りの天気はまだそれほど荒れ模様でも無かったが、どこからともなく地鳴りのような音が断続的に聞こえてくるのは、やはり不気味だった。
 通りを行く人はまばらで、すれ違うのは水色の防災服を着た人ばかりだった。あれは自主防災団と言って、炭鉱会社と労働組合が共同で運営している、防災組織の団員なのだと理奈が説明してくれた。元々は炭鉱内の事故に備えて組織されているのだが、こういう自然災害の際にも出動するのだった。
 地下道へと降りようとした二人は、階段の入口で、やはり防災服姿の男に制止された。顔に、妙に大きな水中ゴーグルを掛けている。
「地下通路は、通行止めです。もう波が高いから、浸水の恐れが……おや?」
 男はゴーグルを外した。
「何だ、役場の兄ちゃんじゃない」
 と理奈が笑った。
「どうしたんですか? こんな時間にお二人で」
 と克利に訊ねたのは、市役所の支所に勤める端島さんだった。
「あ、どうも。こんばんは。実は、青松荘でみんなでキジ鍋食べて、佐山さんがおうちに帰らないと行けないということで、僕が送ることになりまして」
 克利はそう説明しながら、郁代さんも一緒でしたよ、と言ったほうがいいのかどうかを迷っていた。
「ああ、いいなあ。僕もキジ鍋食べたかったな。残念ながら、防災体制発令中だから無理なんだけど」
 端島さんはうらやましそうな顔をした。
「ねえ、通ってもいいよね? もうすぐそこなんだもん、事務屋棟の登り口」
 と理奈が端島さんの顔を見上げる。
「あ、ああ、それくらいはいいでしょう。僕も一緒に行きますから」
 端島さんは生真面目な顔で、再びゴーグルを付けた。もしかするとこれは、浸水への防御のつもりだったりするのかもしれない。
 コンクリートむき出しのアーチ状の天井に、薄暗い蛍光灯が取り付けられているだけの殺風景な通路は、地下道というよりも地底トンネルという感じである。狭苦しく、ただでさえ圧迫感のあるこの通路だが、緊迫した状況のせいで余計に息苦しく感じられる。歩いた距離は短かったが、その間に土木用品を担いだ男たちと、何度もすれ違った。克利は、昔修学旅行で出かけた、黒部ダムの地下通路を思い出した。
「十一」という文字が光る出口の前で、理奈は立ち止まった。
「ありがとうございました。わたしのうち、この上なので」
「そうですか。じゃあ、お気をつけて」
 端島さんは会釈して、引き返そうとした。
「あ、君ももういいよ、ここまでで。ありがとう、送ってくれて」
 理奈はそういうと、克利に小さく手を振った。
 最後まで送らなくてもいいだろうか、と彼は少し迷った。ここからはもう階段を上がるだけなのだろうし、家のすぐ前まで来られるのも嫌かも知れない。でも、こんなあっさりとお別れというのも……。
 不意に、理奈が克利に歩み寄り、そしてぎゅっと抱きついた。端島さんは、向こうを向いていて気付いていない。
「ありがと。気を付けて戻ってね」

 どこをどう戻ったのか、良く覚えてはいなかったが、克利は無事に青松荘の玄関前に立つことができた。ここを出発した時に比べると、吹き付ける風はかなり強まっていて、寒いくらいに感じられる。しかしそれでも克利は、まだ彼女の温もりに包まれているような、そんな気分のままなのだった。

 部屋に戻ると、ミス・小西六と壮太君、それになぜか青松荘の仲居さんが一緒に、畳の上に座ってテレビを見ていた。
「あ、お帰りなさいませ」
 慌てたように立ち上がる若い仲居さんに、むしろ克利のほうが恐縮してしまった。彼女は今夜一晩、お世話係としてここへ一緒に泊まってくれるそうだった。
 京都の出身だという仲居さんの話をみんなで聞いているうちに、雨戸の向こうでごうごうと鳴る風の音が、次第に強まってきた。眺めの良い場所、ということは、つまりは風の直撃を最も強く受ける場所だとも言える。
「大丈夫ですよ。この島の建物はどれも頑丈に作ってありますし、ここは特にしっかりと建ててありますから。台風も何度か経験してますけど、いつも何ともあらへんかったですから、安心してください」
 と彼女は言った。
 四人で楽しく話をしているうちに時間はあっという間に過ぎ、いつの間にか日付が変わってしまった。さすがにもう遅いということで、男女交替でお風呂へ入り、ようやく克利が布団に入ったのは深夜も二時を過ぎた頃だった。
 風の音は相変わらずで、一人の部屋で横になっていると不安になるくらいだった。建物が揺れたりすることは全くなかったが、外見はただの木造二階建でも、なるほど頑丈な造りではあるらしい。試しにテレビをつけてみると、白黒のオードリー・ヘップバーンが映った。チャンネルを変えてみたが、特選落語会というのを流している局がもう一つあるだけで、気象情報を知ることは出来なかった。台風は、どの辺りまで近づいているのだろう。
 洋画劇場の局にチャンネルを戻し、布団の上に座り込んで、彼はぼんやりと映画を眺めた。テレビの向こう側、壁一枚を超えればそこは、何もかもを吹き飛ばしてしまうような嵐の真っただ中だろうが、ここはとりあえずは安心なはずだ。
「自然の中に攻め込んでいく最前線基地」という郁代さんの言葉を、克利はふと思い出した。小型の台風が直撃する程度のことなら、この島はきっと何ともないのだろう。理奈だって、「またかよ」くらいのことしか言っていなかったのだし。
 理奈は今頃どうしているだろう。ぐっすりと眠っているのだろうか。この堅牢な島に抱かれて。

 嵐がさらに強まり、ついに島のビル群全ての窓に、重い鋼鉄製の鎧戸が下ろされた。無数のサーチライトが分厚い雲へと向けられ、その動きを照らし出す。縦坑櫓の頂上で回転する巨大レーダーも、暴風にもびくともせずに、雲の動きを逐一伝えてくる。海中からは機動防波艇と呼ばれる潜水艦の一種が浮上、波に対しても完璧な防御態勢がとられる。ついには八幡神社本殿に内蔵されていた最終兵器、神主波動砲の巨大な煙突のような砲身が、台風の中心に向けられた。コークスの燃焼で作った超高圧蒸気で、低気圧を焼き払うのだという。そんな無茶な、と思う克利だったが、「無茶じゃないわ」と理奈は言った。
「いざとなったら、この島は空中に浮上する。そのほうが、よっぽど無茶なんだから」
 となぜか、ビキニ風の黄色いコスチュームを着た彼女は笑う。なるほど、そりゃよっぽど無茶だ。しかし、理奈のこの露出っぷりは……。
 やがて、砲身の先端が強い光を放ち始める。「カウントダウンよ」と理奈は言う。蒸気だって話なのに、なんでまた光ったりするんだろう。そしてついに、最終兵器の閃光が画面を明るく輝かせた。
 いつの間にか、テレビは朝のアニメ劇場に変わっていた。宇宙戦艦のクルーが、最終兵器のあまりの威力に唖然としている。克利もまた、唖然としていた。テレビの前に座り込んだまま、眠ってしまっていたらしい。
 とりあえず、頭をすっきりさせようと、克利は風呂に入った。本来は海が眺められるはずの展望浴場なのだが、今朝はここも雨戸が閉められていて、昨日の深夜に入ったのと何も変わりがない。風の音は、むしろ昨晩よりも静かなようだ。もしかすると、台風は遠ざかりつつあるのかもしれない。
 浴室を出たところで、彼はあの仲居さんと鉢合わせした。
「あ、おはようございます。良くお休みになれましたか?」
「え、ええ」
「もうすぐ朝食の準備ができますので、食堂のほうへお越しくださいね。お二人がお待ちですよ」
 そう言われて克利は、二階の西側にある食堂へと向かった。縁側の雨戸も締め切られていて、やはり昼だか夜だか分からない。風の音が時折、地響きのように聞こえてきて、雨戸をがたがたと揺らせた。
 ふすまを開き、食堂に入ると、途端に明るい青が目に飛び込んできた。正面にある小ぶりな窓の向こうに、海が見えている。ここだけは、雨戸を閉めていないらしかった。驚いたことに海の上には青空が広がり、太陽の光が海面で輝いていた。やはり、台風は去ったのか。
「おはようございます!」
 と元気に挨拶されて、克利は我に返った。いくつか並んだテーブルの一つに、ミス・小西六と壮太君が向かい合って座っていた。ミス・小西六は昨日と同じようなブラウスと紺スカート、ポニーテールの壮太君は寝間着らしいスウェットの上下で、男女どちらともつかない中性的な雰囲気だ。テーブルの上には、焼鮭や卵焼きなどのおかずが並んでいる。
「おはようございます。……台風、もしかしてもう通り過ぎたのかな」
「残念ね。それはまだらしいわ」
 ミス・小西六がテレビの画面を指さす。朝のニュースが、ちょうど台風情報を流しているところだった。暴風域を示す赤い円の中心は浜津市の南方、つまりはこの島の辺りだ。
「目に入ったみたいなんですよ。台風の目が、いま真上にあるんです。ほんとにあるんですね、目が」
 壮太君が嬉し気に目が目がと連呼する。
 そうか、それで太陽がと思いながら、窓際に立って外を見ると、海の彼方に雲の壁が立ちはだかっていた。青空に接した上部は明るく照らされ、下のほうは暗い灰色で、何だか禍々しさを感じさせるグラデーションだ。なるほど、これが台風の目かと克利も感心した。
「あっちのほう、潮降町の辺り、すごいことになってるみたいですよ。ここからはちょっと見えにくいですけど」
 壮太君が窓のそばに近づいてきて、克利と並んだ。
「ほら」
 窓に顔をくっつけるように、彼が指差す方向を覗き込んだ克利は、海際に並んだビル群の上空に、何かが爆発したような白い煙が吹き上がるのを目にした。いや、煙ではない、あれは波しぶきだ。護岸に、さらにビル群にぶつかった大波が、建物の高さを遥かに超える飛沫を上げているのだ。
 波は繰り返し打ち寄せ、その度に巨大な水柱のように飛沫が上がった。空中へと撒き散らされた海水は太陽の光を浴びてきらきらと輝き、時には小さな虹を作り出しながら、ビル群の手前にある通りへと降り注いでいた。それは美しく、しかし恐ろしい風景だった。潮の降る町、というのはこういうことなのである。波がビルを超えて流れ込むというのも、なるほど不思議ではない。
 手前の山側に並ぶビルの屋上では、住民たちが並んで、その情景を眺めていた。潮降町の様子が心配なのだろうか。それとも、あの人たちにとっても、これは見ものなのかも知れない。
 この様子はぜひ撮っておかないと、と克利たちが熱心にシャッターを切っていると、湯気の立つご飯とお味噌汁を乗せたお盆を持って、「お待たせしました」と仲居さんが食堂に入ってきた。
「あの、すごいことになってますね、商店街のほうが」
 彼女のほうを振り返って、壮太君が言った。
「ええ、台風が来たときはいつもこんな感じなんです。水浸しで、後が大変なんですよ。今日はなんでか陽が照ってはるので、特に変な感じしてますけど」
 お椀をテーブルに並べながら、仲居さんは微笑んだ。やはりこの程度では大したことはない、ということらしい。
 さあどうぞ、と言われて、克利も席に着いた。ごくシンプルな朝食だが、旅館で食べる焼鮭やら味付け海苔やらというのは、どうしてこんなに美味しいのだろう。炊き立てのご飯を、つい何杯もお代わりしてしまう。壮太君も負けじと、三杯目のお代わりに卵をかけている。ミス・小西六は一膳目のご飯を器用に少しずつ食べながら、おかずを全て片付けてしまった。
 ふっ、と室内が暗くなった気がして、思わず彼は窓を見た。いつの間にかあの雲の壁が、すぐ目の前にまで迫っていた。太陽はすでに上空の雲に呑み込まれて、窓の向こうは日没後のような暗さに変わっている。間もなく窓のガラスに、大きな雨粒が叩き付けられるように降り注ぎ始めた。滝の裏側を見ているようで、外の風景はほとんど見えなくなる。
「始まったわね」
 とミス・小西六がつぶやいた。
「大丈夫ですよ、この窓は強化ガラスの二枚重ねですから。この位やったら、全然心配ありません」
 と相変わらずにこやかに仲居さんは言った。
 克利たちはしばし無言で、仲居さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、風と水が支配する灰色の世界と化した窓の外を眺め、シャッターを切った。ここまでまともに台風が直撃するところを目撃する機会というのはそうはなく、安全さえ保障されているというのなら、これはちょっとしたスペクタクル・シーンだ。
 理奈はどうしてるかな、と克利はまた思った。この分だと、地下通路は水浸しだろう。外へ出かけられなくて、退屈してるんだろうな。
「映画とは迫力が違うわね、これは」
「だってそれは、こっち本物ですもん」
「これって小さい台風なんでしょ? 本物の巨大ハリケーン、みたいなのが来たらもっとすごいのよね。車が飛んで行ったりしちゃうんでしょ?」
「飛ぶんですよ、きっと。そんなすごいの来たら、ドキドキしちゃいますよね」
 と壮太君たち二人は、呑気な会話を交わしている。
 激しい風雨は一時間ほどで次第に収まり、テレビのニュースを見ても、台風は速度を上げながら遠ざかりつつあるようだった。この分なら、午前中には嵐も去るだろう。もっとも、お昼までに船の運航が再開されるとは考えにくい。
「午後の特急に乗らないと、大陸連絡に間に合わないわ。今夜のパーティはもう無理ね。最初の挨拶、誰かに代わってもらわないと」
 とミス・小西六は、すっかりあきらめ顔で、主催者らしき誰かに携帯電話を掛けていた。
「ええ、そうなの。足止めになっちゃって。撮れたわよ、猫ちゃんは。え? 文化省次官? そう、彼が来るのね。ちょうどいいわ。彼なら、私の代わりくらい勤まるでしょう。ええ。主席によろしく」
「なんだか、すごいパーティーみたいですね」
 壮太君が、小声で克利に言った。どこまでも、謎だらけの人である。

 さすがにまだ出かけるわけにも行かないし、このままここでお昼をお願いしようか、と三人が話し合っていた時だった。静まりかけていた風の音が、急にまた高まり始めた。それも先ほどまでの、ごうごうと低く鳴り響いていたような音とは様子が違う。例えるならば、ジェット機が離陸する時のような、金属的な高音だ。再び激しさを増した雨は、丸っきり真横に流れて、これでもかという勢いでガラスにぶつかってくる。間もなく、窓のどこかがピーッと笛のような音を立て始め、室内を風が流れ出した。空気が、ものすごい勢いで吸い出されていた。これは何だかまずいんじゃないか、と克利は仲居さんの顔を見た。彼女の表情も、強張っている。ミス・小西六と壮太君は、ただ不思議そうな顔をしている。
「あの、大丈夫やと思いますけど……こんなん今までなかったので、ちょっと変な感じやし、念のために下に避難しましょうか」
 と彼女は緊張気味の声で言った。
「一階に?」
 と壮太君が訊く。
「それでもええんですけど、大丈夫やと思うけど地下にも部屋があるんです。そこが一番安全なので」
 四人は廊下を急ぎ足に歩いて、エレベーターの前に立った。階数表示には「1F」の下に「BF」「GF」とあり、これは克利にも見覚えがあった。
 食堂のドアの向こうで何かが砕け散るような音がしたのは、エレベーターが到着したその瞬間だった。まるで空気の塊が押し寄せてくるように、廊下を風が走った。
「乗って!」
 仲居さんがそう叫んで、克利たちをエレベーターの中へ押し込み、自分も倒れこむようにケージに乗り込んだ。ドアが苦し気に閉まっていくその隙間から、廊下を吹き飛ばされていくタオルやシーツなどの布切れが見える。これが現実の光景だとは、克利にはとても思えなかった。
 ガタガタと振動しながら、エレベーターのケージは1Fへ、そしてBFへと降下して行った。四人は真っ青な顔をしたまま、一言も言葉を発しない。このまま途中で止まってしまったら……。
 幸い、「BF」のランプが灯ったところでエレベーターは停止し、ドアが開いた。そして半分ほど開いたところで、照明が落ちた。廊下の非常灯が点灯して、真っ暗闇にはならずに済んだものの、もはやエレベーターはうんともすんとも言わない。
「降りて!」
 と、今度は仲居さんがそう叫んだ。
 三人は慌てて、ドアの隙間から廊下へと出た。あの暴風が嘘のように、そこは静まり返っていた。空気が吸い出されるヒューヒューという音だけが背後のエレベーターの隙間から聞こえて、ひどく不気味だ。
「地下、ということは、あの岩山の中にいるんですか、僕らは」
「そうです。元々ここは岩盤をくり抜いて作った部屋で、海底炭坑の坑道と同じくらい頑丈な鉄枠が入れてあるそうです」
 と仲居さんは言った。空爆にさえ耐えられるくらいだということで、何のためにそこまでの強度にしたのかは知らないが、とにかくここなら安全そうだ。
 窓が無いので普段あまり使っていない、という客室に入り、四人は非常灯の頼りない光の下、体を寄せ合うようにして電気が回復するのを待った。
「さっきのあれ、びっくりしたわ。窓が割れて、色んなものが飛んで。昨日の映画でもそういう場面があったけど、こっちのは本当に目の前を飛んでいくんだもの」
「廊下を布団が飛んでましたよね。あんなの、初めて見ました。僕も飛ばされちゃうんじゃないかな、あんな風じゃ……」
「島は大丈夫なのかしら。外に出たら、全滅なんてことないわよね」
 ミス・小西六たちが不安そうに話すのを聞きながら、理奈は、そして郁代さんたちは大丈夫だろうかと、克利は思った。何とか、二人と連絡を取らなければ――
 ベルが鳴った。廊下の突き当たりにある事務室に、電話がかかって来たようだった。回線は、ちゃんと生きているらしい。仲居さんがさっと立ち上がり、足下に気を付けながら、薄暗い廊下を事務室へと向かった。
「はい、青松荘でございます。あ、はい。これはどうも。ええ、やられました。でも皆様は。はい、ご無事です。はい。それじゃ、堅上さまに。わかりました」
 誰かと電話で話していた仲居さんが、廊下を部屋へと戻ってきた。
「堅上さま、真田郁代さまからお電話が入っております。このお部屋の電話機で、お話ができますので」
 そう言って仲居さんは、テレビの近くに置かれた電話機の受話器を取ると、どうぞと克利に渡ししてくれた。
「大丈夫ですか! みなさん、お怪我などありませんか?」
 彼がもしもし、と言うなり、郁代さんの切迫した声が聞こえて来た。
「あ、うん、何とか。みんな無事だよ、安心して」
「良かったです。ごめんなさい、せっかく島に来てくれたのに、大変な目に遭わせてしまって」
「いや、そんな。でも、びっくりしたよ。すごいんだな、台風って。もう収まりかけだと思ったのにな」
「それが……単なる台風の被害、というのとはちょっと違うみたいなんです」
 彼女の話では、台風はやはり遠ざかりつつあったらしい。ところが、その影響で発生したらしい突風――恐らく、竜巻とみられる――が島の南側をまともに直撃するという予想外の事態が発生したのだった。雲の底から地上へと延びる白い柱のような物体が、ビル群にぶつかりながら島を横断していく様子を、多くの住民が目撃していた。
「理奈も見たらしくて、すごかったって。わたしの家も少し巻き込まれたのですけど、竜巻の端っこのほうだったみたいで、父の盆栽がひっくり返るくらいで済みました」
 そうか、理奈は無事だったかと克利はほっとした。あれが竜巻だったのなら、過ぎ去った今はもう危険はないだろう。地下に閉じこもっている必要も、もはやなさそうだった。
 電話の終わりに郁代さんは、後でそちらの様子を見に行きます、と言った。「危険かも知れないから無理しないで」と克利は止めたのだが、大丈夫ですから、と彼女は繰り返した。島で起こった全てのことについて、きちっと知っておく必要があるのだと、郁代さんはそう考えているようだった。
「と言うわけなので」
 と克利は三人に状況を説明した。
「もう、ここから出ても大丈夫そうだよ。上がどうなってるのか、気になるけど」
「あああ、惜しいことをしたわ!」
 とミス・小西六が突然叫んだ。克利たちは、びっくりして彼女の顔を見る。
「映画じゃない、本物の竜巻よ。それも、この不思議の島を横切る竜巻なんて、これほどドラマチックな場面はなかったのに! それを撮らずに、何を撮るというの!」
 彼女の言う通りではあった。しかし、あの状況ではとてもじゃないが、そんなの無理である。
 停電はまだ続いていたので、四人は階段で、まずは二階の自分たちの部屋へと向かった。
 建物自体は無事だった。しかし廊下には、布団だの襖の一部だったらしい紙だのが散乱していて、足の踏み場もないほどだった。ガラス片もあちこちに落ちていたが、中には壁に突き刺さっているものまであって、下手にこんな場所にいたら、全身を切り刻まれることになりかねなかっただろう。釘が飛び出た木片なども転がっていて、スリッパを履いては来たが、足元に気を付けないと危険だった。
 ミス・小西六と壮太君が泊まっていた南向きの角部屋、眺めが良かったあの広縁の窓は、全くの素通しになっていた。窓ガラスが雨戸ごと、綺麗さっぱり無くなってしまっていたのだった。
 貴重品を入れてあった、作り付けの金庫は無事だった。着替えなどの荷物が入っていたバッグも、窓に近い床の上でひっくり返ってはいたが、中身は大丈夫そうだった。しかし、押入れの襖はすっかり吹き飛ばされてしまっていて、中に吊ってあった二人の服が部屋中に散乱していた。せっかくの制服が竜巻に持って行かれてしまったのではないか、と壮太君は心配したが、みんなで探し回った結果、セーラー服の上下は幸いにも室内から発見された。何がどうなったのかスカートなどは、カーテンレールにぐるぐる巻きに巻き付いていて、これは発見するのに苦労した。学ランのズボンだけは見つからなかったが、それはまあいいですと壮太君は平気なようだった。
 克利の部屋は、雨戸が外れかけてはいたもののそれ以上の被害はなく、結局みんなの荷物はどうにか全て無事だったようだ。とにかく、この状況を記録しておこうと、三人は室内の様子を何枚も写真に撮った。いや、記録というのは半ば言い訳であって、このすさまじい破壊ぶりは、実に絵になった。真剣な顔でファインダーをのぞき込み、ガラス片に映る空にピントを合わせるミス・小西六の姿というのも珍しくて、壮太君などはその彼女へとデジタル・スチルカメラのレンズを向けていた。
 ふと気づくと、呆れ顔をした郁代さんが、部屋の入口に立って彼らの姿を見ていた。
「……大丈夫みたいですね、みなさん」
「いやこれは、被害状況の記録を」
「ちゃんと記録を残しておかなければいけないのよ、こういうことは」
「記録写真なんです、これは」
 一斉に言い訳する三人に、彼女は思わず噴き出した。ガラスのない窓から射した陽の光が、めちゃくちゃになった室内を明るく照らしていた

    *     *     * 

 郁代さんの話では、島で最も大きな被害を受けたのが、この青松荘らしいということだった。竜巻の通り道に建っていた他のビルでも、やはり窓ガラスが割れたりといった被害はあったものの、岩山南端の頂上という、遮るものがまるでない場所に建つ青松荘が、一番まともに風の直撃をくらったようだった。
「まだ波が高いので、船は夕方までは出ないと思います」
 と郁代さんは言った。
「みなさん、お昼もまだということなので、良かったら私の家に来てくださいませんか? 簡単なものですけど、お食事も用意しますので」
 そんなの悪いですよ、と克利と壮太君は口々に言ったが、内心ではそれはありがたいなと思っていたから、郁代さんの「そうおっしゃらず、ぜひ」という言葉に、じゃあそうしますとあっさりうなずいた。朝あんなに食べたのだが、その後に大冒険した気分なので、すでに腹ペコ状態になっていた。
 どうにか荷物をまとめた克利たちは、お世話になった仲居さんにお礼を言って、青松荘を出た。外から見ると、屋根の瓦が半分近く飛ばされてしまっていたりと、青松荘はかなり痛々しい姿になっていた。営業再開までには時間がかかりそうだ。
 稜線の道の両側に並んでいた樹木は、倒れたりまではしていなかったが、葉がほとんどが飛ばされてしまって枯れ木のようになっていた。こちらも痛々しい、まるで冬の並木道のような通りを抜けると、そこからは島では貴重な住宅地となる。郁代さんの家は、その住宅地の中にある一戸建てだった。特別立派な家というわけではなかったが、この島で一戸建ての住宅に住んでいるという人は、他にはほとんどいないはずだ。塀の一部が壊れているのは、例の竜巻のせいなのだろうか。
 郁代さんが玄関の引き戸を開けて「ただいま」というと、「お帰りなさいませ、郁代お嬢様」と言いながら、割烹着姿の老婆が奥から出てきた。おおこれは、と克利と壮太君は色めき立った。これは噂に聞く「女中さん」という奴ではないのか。
「聞きました? 『お嬢様』って」
 と壮太君がささやくように言う。
「聞いた、聞いた。すごいね、日本文学みたいだ」
 克利がうなずく。
「うちの家事を取り仕切って下さっている、(きよ)といいます」
 と郁代さんがそのお婆さんを紹介してくれた。
「お世話になるわね、清」
 ミス・小西六が清さんを呼び捨てにして微笑んだのに、克利たちはまた驚いた。しかも、違和感が全くない。
「みなさま、ご災難なことでございました。急のことで、大したおもてなしもできませんが、お食事の準備ができておりますから、どうぞおあがり下さいませ」
 清さんが、そう言って丁寧に頭を下げた。克利と壮太君はそれを上回る角度で頭を下げ、ぎこちなく靴を脱いで、玄関に上がった。
「こんなことなら、ちゃんと制服を着て来られれば良かったな」
 とスウェット姿の壮太君はぶつぶつ言ったが、この制服というのはセーラー服のほうだろう。ミス・小西六のほうは予備で持っていたらしい紅いワンピースで、一応それらしい格好になっていた。
 和室の客間に用意されていたのはおでんの鍋で、生姜醤油で食べるというのが珍しく、島のおでんの特徴なのかと思ったら、これはどういうわけだか姫路風なのだということだった。青のりも出てきて、静岡おでんの黒はんぺんはこちらを付けてどうぞ、こちらの蟹面は金沢風ですと清さんは説明してくれたが、なんでまた全国おでん地図みたいなことになっているのか、その辺は良く分からない。
「おじゃましまーす。郁代、来たよ」
 玄関で、元気な声がした。理奈だ。克利は思わず立ち上がって、部屋の入口を振り返る。やがて、山水画の描かれた糸入りの襖が、勢いよく開いた。
「あ、清さんのおでんだね。おいしそう」
 そう言いながら、今日はTシャツにショートパンツ姿の理奈が部屋に入ってきた。
「みなさんも、こんにちは。大変だったみたいね。……何で堅上君、直立不動?」
「い、いや、何でもない」
 彼はあわてて座り、鍋に向かった。
 あれ、今日はセーラー服じゃないのね、と言いながら理奈は壮太君の隣に座り、さっそくおでんに箸を伸ばした。
「びっくりしたよ、台風なんかいつものことだけど、あの竜巻? ねじりパンのお化けみたいなやつ。なんかバシバシ建物にぶつかって窓とか割れてるみたいだし、ほら、山の一番上って青松荘じゃない? あたし、あんまり驚いたから郁代に電話しちゃった。どうも堅上君たちが、吹っ飛んじゃうっぽいよって。あれ案外丈夫なのね、ボロく見えるのに」
 しゃべり続ける理奈の頬は幾分赤らんで、上気しているようだった。随分なハイテンションなのだが、おでん鍋をじっと見たままで、顔を上げようとはしない。
「本当は必死だったんですよ、理奈。堅上君を助けて! って半泣きみたいで」
 郁代さんがにこやかに放った言葉に、理奈は途端に真っ赤になった。
「嘘だね。半泣きは嘘だよ」
「隠すこともないじゃない。みんな無事だったってわかって、青松荘は丈夫だから偉い、修理代を寄付してあげるんだ、ってあんなに喜んでいたのに」
「余計なこと言うな、バカ。あんた後でどうなるか分かってる?」
「ふふふふ」
 二人のやりとりを聞いている克利もまた、赤くなっていた。壮太君が、瞳を輝かせている。はいはい若いって良いわよね、とミス・小西六は肩をすくめる。

 波も次第に穏やかになってきたらしく、浜津への船は夕方には運航再開になりそうだということだった。今朝から足止めになっていた人たちで混むのは間違いなく、早めに桟橋に行って並んでおかなければ、下手をすると乗船できなくなるかも知れない。しかしここで、郁代さんが切り札を切った。大阪出張中だという真田炭鉱長に電話をかけて、船の座席を三人分、炭鉱会社枠として押さえてもらったのである。
「ほら、やっぱり便利でしょ、この人がいると」
 と理奈が得意げに言った。郁代さんは、ちょっと困ったような顔をしただけで、何も言わなかった。
 帰る前にもう一度だけ撮影に行こうということになり、一行は真田邸を出発して、再び島内を歩き始めた。壮太君はまたセーラー服姿に着替えている。清さんがアイロンをかけてくれて、プリーツのしわもすっかり綺麗になっていた。
 青松荘の下側斜面に建っている建物では、やはりあちこち窓が割れたり、屋根のトタン板がめくれあがったりしていた。しかし、竜巻の直撃を受けたそれらの建物以外には、特に被災した形跡らしいものは見当たらなかった。台風自体による被害は、やはり大したことがなかったらしい。
 潮降町の商店街は、さすがにまだ引き続き休業中のようで、頑丈なシャッターを下ろしたままの店も多かった。ただ、かなりの海水を被ったと思われる通りは、すっかり水も引いていて、商店街の人たちがゴミを片付けていた。
 ゴミに混じって小魚も散らばっていたりして、それを目当てにした猫たちがやたらと集まって来ていた。なぜだか壮太君も小魚並に猫たちに人気で、茶トラやらキジ猫やらが群がって来る。スカートの足元を肉球で盛んに攻撃されて「くすぐったい」と笑う彼女に、ミス・小西六はここぞとばかりにレンズを向けていた。
 地下道の入口はやはり閉鎖されていて、防災服を着た人たちが復旧作業を行っているようだった。何本もの太いホースや電源ケーブルが付近の地上を這っているのは、恐らく地下道内に流れ込んだ海水をポンプで汲み出しているのだろう。
 これはさすがに迂回するしかないね、と克利たちが話していると、防災服姿の一人が「おや」と言って振り返った。大きな水中ゴーグルを付けているところを見ると、あの人に違いなかった。
「端島さん、こんにちは。お疲れ様です」
 と克利は挨拶した。
「まさか、あれから一晩中ここに?」
「いや、さすがに一度、昨日から泊まり込みで島に来てる消防局の人と交代してもらって、宿泊所で仮眠してました。あの人たちのほうが本業ですからね、僕は事務職だから。いや、疲れる、疲れる」
 と端島さんは大きく伸びをする。
「お疲れ様です」
 今度は郁代さんがそう言って、お辞儀した。
「地下通路は、どれくらいで復旧しそうですか?」
「排水は、もうほとんど完了してますから、あと一時間くらいで通れるようになるでしょう。船が出るのには間に合わせますよ。地下街のお店のほうは、まだしばらく駄目でしょうけど」
「意外と、被害少なかったんですね、地下通路。あんなに水をかぶってたのに」
 ビルを超えた波しぶきが降り注いでいた、今朝の光景を思い出しながら、克利が言った。
「防水扉を閉め切ってあったから、地下への海水の流れ込みはかなり抑えられたはずです。まあ、その辺りの対策は、この島しっかりしてますからね。あれくらいの台風なら、大きな被害にはなりません。あの竜巻さえなければ、ほとんど無傷で終わったんでしょうが……あ、そうか」
 端島さんが、改めて克利たちの姿を見た。
「みなさんこそ、大丈夫でしたか。かなりやられたようですが、青松荘」
「地下に逃げて、何とか切り抜けました」
 と壮太君がなぜか嬉し気に答えた。
「それは幸いでした」
 端島さんはうなずく。
「そう言えば、君は確かあの時の――あの写真の君ですね、縦坑櫓の」
「……はい」
 はにかんだように俯いて、壮太君は自分のスカートの裾を引っ張った。そうですかなるほど、と端島さんは感心したようにうなずいている。その様子に110カメラのレンズを向け、ファインダーをのぞきながら前へ出ようとした克利は、何かに足を取られてひっくり返りそうになった。どうにか踏みとどまって足元に目を遣ると、右足が太い電源コードに引っかかっている。やれやれ危なかったな、と彼がカメラをバッグにしまおうとした、その時。
「おい、誰だ動力線ひっこ抜きゃがったのは!」
 突如、背後から罵声が飛んだ。克利が驚いて振り返ると、防災服を着た男が鋭い目つきでこちらをにらみつけていた。背は低いが肩幅が異様に広く、筋肉が盛り上がっている様子がずぶ濡れの服の上からでも見て取れる。男の背後には、同じように人相の良くない男たちが数人集まっていた。以前に島を訪れた時、竪坑櫓の辺りで見かけたことがある人たちだった。
「こんなところで何きゃあきゃあ騒いでやがるてめえら。蹴り倒すぞ、このガキゃ」
「ごめんなさい」
 克利は青くなって、頭を下げた。大変なことをしてしまった。
「申し訳ないです、書記次長」
 端島さんが、隣で頭を下げた。どうやら、相手は労働組合の幹部らしい。
「役所てめえか、このガキども引率してるのは。てめえは作業の手伝いに来てるのか、邪魔してやがるのか、どっちだ、言ってみろ!」
「ごめんなさい、五条次長。私たちの不注意でした」
 と今度は郁代さんが深々と頭を下げた。書記次長は唇をゆがませて、そんな彼女に向かって嫌味を投げつけようとする。
「おや、これはご令嬢まで。では一つ、ここはあなたが……」
「また会いましたな! 写真家ご一行さん」
 背後の地下通路の中から響く野太い声が、次長の言葉を封じた。LLサイズと思われる防災服を窮屈に着込んだ巨体が、階段を上がって来る。青炭労組の団委員長だ。
「おう、役所も一緒か。お勤めご苦労、ご苦労」
 委員長は端島さんに向かってそう言うと、書記次長たちの顔を見た。
「なんだ五条、お前らもいるのか。何やってんだ」
「それがだ、委員長。こいつらがだな、動力線をひっかけて抜いちまったもんだから、ポンプが」
「抜けたもんならすぐ挿せや」
 委員長が、一喝した。
「たった一台ポンプ停まって、お前らそんなもん、油売ってる理由にならんぞ。持ち場に戻れ」
 ぶつぶつ言いながら、五条次長たちは地下通路に戻って行った。安堵のあまり、克利はその場に座り込みそうになる。逆に、何故か片膝をついて地面にしゃがんでいたミス・小西六が、紅いワンピースの裾の辺りに当てていた右手を離して、ゆっくりと立ち上がった。
 次長たちの背中に向かって「馬鹿どもが」とつぶやく団委員長に、端島さんと郁代さんが「ありがとうございました」と声をそろえて頭を下げた。克利も慌てて、深々とお辞儀する。
「いやいや、お気になさらず。おかしなのに捕まって難儀でしたな」
 団委員長は豪快に笑った。
「しかし、すでに団委員長ともお知り合いでしたか、みなさんは」
 端島さんが、感心したように克利たちの顔を見る。
「実はこの前撮影に来られた際にな、みなさんを縦坑のエレベーター乗り場に案内して差し上げたんだ」
「なるほど、そうでしたか。それにしても、島の重要人物みんなとすっかり知り合いになってますね、フォトサークルのみなさんは」
「誰が重要人物だ。重量人物の間違いだろう、わしは」
 委員長は再び高らかに笑った。
「……そうだ、重要人物で思い出した。あとでちょっとつき合え、役所」
「いいですよ。いい肴でも入りましたか」
「飛び切りのがな」
 そう言ってから、委員長は克利たちの方に向き直った。
「いや、内輪の話で失礼。みなさんはこれから?」
「船が出るまでの間、どこかにご案内しようと思っているのですけど」
 郁代さんが、硬い表情でそう答えた。
「そうか、櫓はこの前見てもらったし、わしが連れていけるのはあそこぐらいだなあ」
 団委員長が、あごひげをいじりながら考え込む。
「ここで時間つぶし、ということでも私は構わないけれど。猫ちゃんたちもいることだから」
 とミス・小西六が言った。その彼女を見上げながら、白黒のぶちねこが足下をゆっくり歩いていく。
「でも、こんな通りでみなさん立ちっぱなしというのでは……」
「よしそうか、なら任せておけ」
 大きな声でそう言うと、委員長は傍らのビルの中に入っていった。何を任せておけというのかとみんなが思っていると、委員長は銀色に光る円形のテーブルを二つ担いで持ってきて、ビル前の路上に置いた。それから今度は、白いプラスチック製のチェアーを十個ほど、両腕にぶら下げて戻ってくると、それをテーブルの周囲に並べる。最後に、トリコロールのパラソルをテーブルの真ん中に立てると、即席のオープンカフェ風スペースが完成した。商店街も地下道も復旧前で、人通りはまだ全くないから、迷惑にはならない。
「さあどうぞ、みなさん座ってください。ここは組合ビルの前だから、遠慮してもらわんでも大丈夫」
 と団委員長は胸を張った。
「すごい!」
「へえ、何かおしゃれね」
 と壮太君と理奈は感心し、ミス・小西六からも、
「ありがとう、委員長。素敵だわ」
 とお褒めの言葉があった。
 女性陣からの好評ぶりに気を良くした団委員長は、組合事務局の冷蔵庫にあった紙パック入りのアイスコーヒーも出して来てくれて、これでいよいよカフェである。まだ勤務中のはずの端島さんも、まあいいじゃないとみんなに言われて、コーヒータイムに付き合うことになった。
 台風一過の青空の下、ビルの間を抜けてくる涼しい潮風を浴びながら、足下の猫と戯れつつオープンカフェで過ごすひとときというのは、なかなかに優雅なものだった。空はビルの間に狭く見えているだけだし、通りはまだあちこち水たまりだらけ、時には魚の匂いも漂ってくる、というマイナス点はあったにしても。
「この真上から、海水が降り注いだんですよね。信じられない気がするけど」
 克利が、長細い青空を見上げた。
「まあ、ここの名物と言うべきでしょうな。『潮降町』は、伊達じゃあありません」
 委員長がうなずく。
「でもおかげで、潮の香りの中でオープンカフェが楽しめるわけよね、こうして」
 パラソルの下のミス・小西六が微笑む。
「素敵な商店街、素敵な島だわ」
 その言葉を聞いた理奈が、嬉しそうな顔になって、隣の克利に思い切りもたれかかった。慌てて足を踏ん張りつつ、彼も照れ笑いを抑えきれていない。
「島のオープンカフェ、いいですね。新スポットになるかも知れません」
 端島さんが、仕事のような顔をして郁代さんに言った。
「でも本格的にやるとなると、この通りではちょっと狭い気がします。場所を考えないといけませんね」
 彼と向かい合った郁代さんも、同じような真面目くさった顔をしている。
「そうとも言えないわ。ギリシャのミコノスで、もっと狭い路地にオープンカフェがあるのを見たことがあるもの」
 ミス・小西六が立ち上がり、周囲をくるりと見回した。
「次に来るときには、もっと本格的なカフェができているわね、きっと。楽しみだわ」
 出航予定時刻の二十分前になって地下通路の復旧作業は完了し、一行は桟橋へと向かうことにした。船に乗る前に、日常モードに戻らないといけないということで、壮太君はスウェットを履いた上からスカートを脱いで、器用に着替えを済ませてしまった。陽光の下での早変わり、あっけらかんとしたものなのだが、何となく見てはいけないような気がして、克利はあさっての方向を向いていた。
 団委員長や端島さんにお礼を言って、克利たちは歩き始める。地下通路をぞろぞろと歩く人の多くはどうも乗船客らしく、運航再開を待っていた人たちがやはり他にもたくさんいたようだった。
 連絡橋を渡った向こう、円形の狭い桟橋は、旅客船の出航を待つ人たちでごった返していた。台風が去ったとは言え波はまだ高めのようで、しぶきが時折桟橋の上に集まった人々に降りかかったが、みな身じろぎもしない。郁代さんが席を押さえておいてくれていなかったら、乗船するのは一苦労だっただろう。
 その人の群をかき分けて、船員らしいおじさんが、克利たちに近づいてきた。おじさんは郁代さんに挨拶すると「それでは、みなさんには先に乗船していただきます」と言った。
 船員に先導されて、他の一般乗船客を押し退けて船へと向かう彼らの様子は、まるっきりVIP待遇だった。しかし、そんなのは当たり前という顔をしてしゃなりしゃなりと歩く紅いワンピース姿のミス・小西六に、不満げな視線を向ける者は誰一人いなかった。オーラが一般平民とは違うのだ。もっとも、その後ろをついて行く平民丸出しの克利は、肩身の狭い思いだったのだが。郁代さんは丁寧に周囲に頭を下げながら歩き、壮太君と理奈は何だかはしゃいでいる。
「真田さん、それに佐山さん。どうもお世話になりました。私たちは、またここへ参ります。その時までしばらく、さようなら」
 乗降口の前に立ったミス・小西六が三人を代表して挨拶し、「はい、お待ちしていますね」と郁代さんがお辞儀すると、なぜか無関係な周囲の乗船客たちまでが、つられて頭を下げた。
「じゃ、また、学校でね」
 理奈が左手を差し出し、その手を克利が柔らかく握った。彼女には、またすぐに会える。
 三人の席は、船室内の一番前方ではあったが、格別の座席というわけではなかった。本当は、見送ってくれる郁代さんたちへと、またデッキに立って手を振り返したいところだったが、通路までふさがる大混雑ぶりでは、それどころではない。海水で曇った窓ガラス越しに、手を振るしかなかった。
 予定から十分遅れで、船はようやく出発した。名残を惜しむでもなく、ごく事務的な出港ぶりで、あっという間に速度を上げた船の後方に、郁代さんたちと青松島はたちまちに遠ざかって行った。

 やはり海はまだ荒れ模様のようで、船はよく揺れた。席から立つのは危険そうだったが、どのみち混みあった船内に行き場はない。目の前のテレビをおとなしく見ているくらいしか、することもなかった。ミス・小西六は船が出て間もなく眠ってしまったし、壮太君は、ボストンバッグからデジタル・スチルカメラを出してきて、島で撮った写真を確認したりしている。
 ドラマの再放送が終わり、ニュース番組が始まった。トップニュースは例の台風第二十二号で、今は関東地方を縦断しているところらしかった。東京駅前の様子などが映し出されるが、青松島の被害については一切触れられない。続いてはどこかの知事選挙やら工場火災について、そして「続いて、経済関連です」というアナウンサーの声と同時に表示されたテロップの文字に、克利はおや? と思った。「鍋島炭鉱」の文字があったのだ。
「国内炭鉱業最大手で、帝国鍋島グループ傘下の鍋島炭鉱が、事業の大幅な再編を計画していることが、本日付のイギリス、ファイナンシャル・レポート紙にて報じられました」
 とアナウンサーは言った。
「同紙によると、鍋島炭鉱が浜津市に保有する海底炭鉱・青松島炭鉱を、アイルランドに本拠地を置く世界第二位の炭鉱会社、フィツジェラルド社へと売却することが決定したとのことです。今後鍋島炭鉱は、石炭を初めとするエネルギー商品の国際トレーディング業務を中心に事業展開を行うことになると、同紙は報じています」
 思わず克利は、島の方向を振り返る。視界に入るのは、ごった返した船室の様子だけだったが、そこにいる乗船客の多くが不安げな顔をしてテレビの画面を凝視していた。
 これって、と克利は思った。青松島にとって、大変なことが起きようとしているのではないのだろうか。隣席に目を遣ったが、ミス・小西六は相変わらずぐっすり眠っているようだし、壮太君もニュースの内容には気付いていなかったようで、窓の向こうをぼーっと見ている。
「この記事の内容について鍋島炭鉱は、『当社が発表したものではなく、そのような事実もない』とコメントしているとのことです。では、次のニュースです」
 炭鉱会社が否定している、というアナウンサーの言葉にも、船室内の緊迫感が緩む気配はまるでなかった。何の根拠もなしに、こうしてニュースが流れることなどあり得ない。この内容に信憑性があるのだということは、島の人たちが一番強く感じているようだった。
 強大な台風にさえ立ち向かう、堅牢な島の土台が、思いもよらないような形で崩れ去ろうとしているのかも知れない。これから島に降りかかろうとしているのは、どんな運命なのだろうか。
 真田炭鉱長なら、本当のことを知っているだろう。郁代さんは、知っているのだろうか。理奈は。きっとまだ知らないだろう。これから彼女たちが、そして島がどうなって行くのかということを。

 予定の時刻を十分ほどオーバーして、船は浜津港旅客船ターミナルに到着した。接岸した船は満杯の乗客を吐き出し、そのほぼ最後に克利たちも桟橋に降り立った。台風が今朝方通過して行ったとは信じられないくらいに空は穏やかな秋晴れだったが、海はやはり若干荒れ模様で、吹き渡る海風も強かった。
「何だか、がっかりしちゃいます、こっちに戻ってくると」
 と上下ねずみ色のスウェット姿の壮太君が、桟橋を歩きながら溜め息をついた。
「また行けばいいわ、島に」
 ミス・小西六はそう言ったが、しかし克利には先ほどのニュースがどうしても気になっていた。果たして青松島は、あの青松島のままで存在し続けられるのだろうか。
「服装くらい、みんな自由に好きなものを着られればいいのにね」
 克利は言った。第一あれだけ似合うのだから、なおさらじゃないだろうか。とやかく言う方がどうかしているような気がする。
「僕も、そう思います」
 でもダメなんです、と壮太君はそう言いたげだった。しかし、彼のその自由の地は、もしかしたら存亡の危機を迎えているのかも知れない。克利は、桟橋の彼方を振り返る。そこにはただ青い海が、時折白波を立てながら、どこまでも広がっているばかりだった。

       *     *     *

「……そうか。先方は、そのように。いや、わからん。一体、どのルートからこの話が。FR紙には抗議したが……効果はあるまい。こうなった以上、HD上部は私を切りにかかるだろうが……まだだ、このままでは終わらせん。まだ、打てる手はある。そうだ。いや、勝算はある。与党筋が……。うん。構わんよ、私など。もう十分だ、どうなろうともな。ああ、頼む。では」
 真田炭鉱長は、穏やかな表情のまま電話を切った。一号棟最上階、静まりかえった、午後の鉱長室。窓の向こうには、見慣れた海が広がる。
 フィナンシャル・レポート紙の記事は、タイミングが悪すぎた。フィツ社内部でも、まだ駆け引きが続いていた案件だ。あのフライング記事で、話は潰えた。独断で交渉を行っていた真田博士の動向を察知しつつ、譲渡でまとまるならそれも良いとそのまま泳がせていた上層部も、破談が公になった以上はいよいよ島の処分について決断せざるを得ない。引き取り手が居なくなった以上、もはや閉山以外の選択肢は出てこないはずだ。しかしそれでは、ここに暮らす人々はどうなるのだ。
 炭鉱長は、もう一度受話器を取った。島を守るには、ビジネスとは別次元の力学が必要だった。勝ち目は薄かろう。しかし、やってみるしかない。

第五章 漂流、青松島

 青松島を襲った後、浜津市の上空にもやって来た台風第二十二号だったが、こちらでは特に被害を出すことなく、そのまま立ち去って行った。台風一過をきっかけにしたかのように、季節は一気に冬へと加速を始めていた。紺屋町の銀杏並木も色付き始め、空の濃い青に良く映えた。
「すごいね、こんなに黄色なんだ」
 と、澄まし顔の理奈は言った。
「ほんとだね。綺麗だな」
 横を歩く克利がうなずく。
「綺麗?」
 理奈が小首を傾げる。今日の彼女はまた、ちょっとだけよそ行きっぽい、黒地に白の水玉ワンピースを着ていた。
「ああ、あの、銀杏がね。綺麗ってのは」
 克利は慌てて言った。
「あのねえ、君、そういう時はもうちょっと何かうまい返し方あるんじゃないの?」
 と、途端によそ行きモードから脱線した理奈が、克利をにらみつけた。
「いや、その……ああ、そうだ」
 彼はごまかすようにカメラを構えて、50ミリ中望遠レンズを理奈に向けた。並木をバックに佇む彼女は、しょうがないなあと言いたげに、それでもほほ笑んでくれた。
 ほとんど、デートなのである。しかし一応の名目は、彼女が携帯電話を買いに行くのにアドバイザーとしてついていくのだと、そういうことになっている。例の縦坑櫓の上に立っているアンテナのおかげで島内の全域に電波が入るようになり、浜津市内でも使えるようになってきたということで、思い切って買ってみることにしたのだという。彼が付き添うことになったのは、わざわざ法文学部の教室までやって来た理奈による、「君、機械に詳しいから今度の週末一緒に来て」という一方的な指示によるものだった。カメラなら多少分かるが、携帯電話のことなんてさっぱりだったのだが、彼女は一向に意に介さなかった。
「ほら、炭鉱長が使ってたでしょ、携電。あれ見て、便利そうだし格好いいなって」
 何でまた携帯電話なんか、と訊ねた克利に、彼女はそう言った。
「だけど、まだ高いんじゃないの?」
「うん、でも新電電って言うやつ? あっちならまだ料金安いのよ。それに、なんか社員割引が効くらしいの、うちの場合」
 ああそうか、と彼は思った。最近新規参入した事業者のうち一社は、帝国グループ系のはずだった。
 紺屋町の一等地に店を構えた携帯電話ショップのおじさんは、どう見ても未成年の女の子が契約をしに来たことに少し驚いた様子だったが、理奈が父親から預かってきた書類を見て、納得したような顔になった。青松島の住民は、得意客なのだ。
 そうは言っても決して安くはない金額を支払って、理奈は携帯電話を手に入れた。ジョグダイヤルが便利そうだという克利のアドバイスを一応は聞き入れて機種を選定したのだが、事務機器のような真っ黒けのおじさん向けデザインには不満のようだった。色の選択肢がほとんどないのだから仕方ない。基本的に、おじさんたちがビジネスに使う道具なのだ。
「さあ、どんどん掛けてきてよね」
「うん。いや、こっちが掛けるの?」
「そりゃそうよ。携電から掛けたら高いのよ、通話料」
 そうか、一般電話から掛けるほうが安いのかと克利は納得した。しかし後になって、その通話料の高さに目を剥くことになる。
 アドバイスのお礼ということで克利は、紺屋町近くの川沿いにできたオープンカフェへと連れて行かれた。ひと昔までは、ドブ川同然に汚い水が流れていたというその川は、近年の下水道整備で「都市の親水空間」なるお洒落スポットに姿を変えていた。
「ちゃちなもんよね。こんなちょろちょろ水が流れてるだけの川なんて」
 と、お目当てだったらしい宇治抹茶パフェを前に、ご満悦の顔をした理奈は言った。
「水に親しむっていうんなら、やっぱり荒波に身を投じるくらいのことしないと。……ま、うちの島でそれやったら死ぬけどね」
 いや、それは何だかちょっと違うんじゃないかと克利は思ったが、黙ってコーヒーゼリーを口に運ぶ。なるほど、妙にうまい。
「でも、いいな、都会は。こんなお洒落なお店いっぱいあって」
「島のオープンカフェっていうのはどうなったの?」
「うん、何かミコノス風とかで、壁白く塗って、ドアとか窓とか青ペンキで、やるみたい。あの謎の美女的な人が言ってた通りに」
「いいじゃない」
「そうね、それはそう思う。どうせなら、いっそ島中みんな白塗りにしたらエーゲ海の真珠ていうか、世界遺産っぽく見えないかな」
「さすがにやりすぎじゃないかな、それは」
「そう? だって殺風景じゃない、灰色のコンクリートばかりじゃ」
 と理奈は抹茶パフェに長いスプーンを突き立てる。
「炭鉱が無くなっちゃったら、代わりに何か見つけなきゃいけないわけでしょ。観光で食べて行く、ってのも考えなきゃ」
 克利は一瞬、言葉を失った。
「でも、無くなるってわけじゃないんだよね? どこか外資が買い取るとかって」
「ああ、あれ駄目みたいよ」
 投げやりな調子で言って、彼女はパフェの底にあるコーンフレークをザクザクやった。
「会社の人はみんな、うちの親も何にも言わないけどね、でも駄目そう」
 すくい上げたコーンフレークを、彼女はじっと見つめた。
 あのニュースが島の人々に与えたショックは大きかった。「この島だけは大丈夫」という神話が、ついに崩壊したのだ。島民ほぼ全員が鍋島炭坑の関係者である以上、表向きは「当社が発表したものではなく、そのような事実もない」という公式発表を信じておとなしくしているしかなかったが、水面下では様々な噂が飛び交っているようだった。
「閉山しちゃったらもう住めないって言うんだけど、あそこには七千人も住んでるのよ。七千人てすごい数よ。全員がよそに出ていくなんて、その後みんなどこに住むのよ、大体」
「そんなことにはならないんじゃないかと思う、僕も」
 と克利はうなずいた。
「郁代さんのお父さん、あの人がなんとかしてくれるんじゃないかな」
「そう、島の切り札ね、炭鉱長」
 彼女がそう言って、再びパフェの底をスプーンで採掘しようとした時、テーブル上のコップに入った水に、波紋が走った。
 辺りが、ゆっくりと揺れ始める。理奈は抹茶パフェのグラスをぎゅっと握り締めた。
「隠れて、この下に」
 頭上に目を遣りながら克利は立ち上がり、理奈の後ろに回って椅子を引くと、抹茶パフェを両手で大事に持ったままの彼女を抱きかかえるようにしながら、テーブルの下に入った。海浜都市の展望台で大きな地震に遭遇して以来、一人で何度も繰り返した避難訓練の成果で、流れるようにスムーズな動きだった。
 しかし、揺れはすぐに収まった。テーブルの下に避難したのは、彼ら二人だけのようだった。暗い場所で至近距離に顔を見合わせて、克利は赤くなりながら「こういう時は念のために避難行動が重要で」と、もぞもぞと言いかけた。
「うん、ほんとね。ありがとう」
 そう言って溶けかけた抹茶アイスをスプーンですくい、克利の口に押し込むと、理奈は「お礼」と微笑んだ。
 今日はもう島に帰って、携帯電話を試してみると言うので、克利は理奈を港まで送って行くことにした。二人分のカフェ代を払おうとする理奈に、克利はあわてて「僕が払うよ」と言ったのだが、「それじゃお礼にならないから」と彼女は頑として受け付けなかった。
「それに、もうすぐわたし誕生日だから」
 という理奈の言葉に「そうなんだね」とあいまいにうなずきながら、これは相当豪華なお祝いをしないとまずいかな、と彼は思った。このカフェ代は、実はものすごく高くつくのかも知れない。
 地下鉄で浜津駅に出て、旅客船ターミナル行きバスの一番後ろのシートに、二人並んで座る。走り続けるうちに、埋め立て地の向こうに広がる海が見えてきて、ちょうどその真ん中に夕陽が沈もうとしていた。窓側に座った理奈の横顔が赤く染まるのを見ていると、克利は幸せな気持ちになった。そしてまた同時に、何か正体不明の不安が湧き上がってくるのを感じていた。あまりに出来すぎのように思えるこんな輝かしい日々が、いつまでも続くものなのだろうか?
 バスが到着し、乗客たちが旅客船に乗り換えると、出航の時刻になった。別れを惜しむ時間はあまりないが、理奈にはまたいつでも学校で会えるし、携帯電話もある。
「今日はありがとう。また後で、きっと電話してね」
 そう言って、デッキから軽く手を振る理奈に、克利もうなずきながら手を振り返す。間もなく船は港を離れ、沖に向かってたちまちに小さくなった。陽は既に沈み、残照を映して海面が弱々しく光る。その様子は早くも、冬を思わせるものだった。海に向かって一枚だけシャッターを切り、冷たくなり始めた風を背に、彼は再びバスの車内へと戻った。

 真っ直ぐに一人の部屋に帰るのも寒々しい気がして、バスを降りた後「ロイヤル・シャロン」に行ってみたが、今日は郁代さんはシフトに入っていないようだった。一人で夕食をとるだけのことになったが、臓物(はらわた)抜きのノーマルなオムライスはなかなか美味しくて、克利は納得したような気持になって帰宅した。
 しばらくテレビを眺めていると、理奈が契約したばかりの、新電電系携帯会社電話のCMが流れた。そろそろ一度電話してみようか、と克利は電話番号の書かれたメモを上着のポケットから取り出す。もう船は、島に着いたはずだ。しかし何度かけてみても、「おかけになった電話は、電波が届かないところにあるか、電源が入っていないため、かかりません」という、聴き慣れないアナウンスが流れるだけで、結局通話はできなかった。やっぱりまだ不安定なもんなんだなと思いながら、彼は受話器を置いた。
 風呂から上がってベッドに入り、最終列車の警笛を合図に眠りに落ちようとしていたその時、電話の呼び出し音が鳴り出した。普段なら、もう寝てるよと電話には出ないところだが、もしかしたら理奈かも知れないと思った彼はベッドから出て明かりを点け、受話器を取った。
「……もしもし」
 何だかざらざらした聞き取りにくい音質で、さらに聞き取りにくい小声でそう言ったのは、やはり理奈だった。
「こんばんは」
 と克利は独りの部屋で笑顔になる。
「こっちからも何度もかけたんだけど、うまくつながらないみたいだった」
「ごめんなさい、色々あってさっきやっと箱から出したの、携帯電話」
 低い小さな声で、理奈は早口に言った。
「帰ってきたら島中が大騒ぎで、さっきまで防災団と警備の人が何人も」
「何があったの? 事件?」
 彼は驚いて訊ねる。
「何起きてるかちゃんとはわかんない、ただ」
 理奈は、深く息を吐いた。
「夕方に『世紀座』、ほらあの古い映画館、集会場にもなるの。あそこで炭坑会社と組合の人たちで集まりがあって、そこで何かあったみたいなの。炭坑会社の偉い人が殴られたとか、駐在さんが間に入って大けがしたらしいとか。ほんとかわかんないけど、医療船が来てるのは見えた、この部屋からも」
 あの古びた「世紀座」の中で起こったという騒動を、彼はモノクロの映像としてしか思い浮かべることができなかった。
「郁代さんには聞いてみた?」
「電話してみたけど、つかまらない。もしかしたら、どこかに避難してるのかも、清さんと」
「二人がどうして避難なんか」
 と言いかけて、郁代さんたちがまさに炭鉱会社側の人間であることを、克利は改めて思い出した。
 以前に学校の図書館で読んだ炭鉱関連の本には、炭鉱労働者の組合と経営者側の壮絶な労働争議の歴史についても、説明があった。大昔には、経営側が用心棒として雇った暴力団組員にストライキの参加者が殺害される、という信じがたいような事件もあったらしい。
 もちろん、あの真田炭鉱長がそんな非道な手段を使うなどということはあり得ないだろう。それにしても、経営側の一人であることには間違いない。その家族である郁代さんたちが争いに巻き込まれる恐れも、無いとは言い切れないのだった。
「でもとりあえず、暴れた人たちは捕まって騒ぎはおさまったみたい。郁代たちも、すぐ戻ってくると思う。そうしたら、また聞いてみるよ」
「そうだね。それがいいよ」
 明るい声でそう言ってうなずきながらも、克利は内心の不安を完全に消し去ることはできなかった。おやすみ、と電話を切って再びベッドに潜り込みながら、明日にでも島の様子を見に行ってみようと彼は思った。幸い日曜で学校はないし、特に用事も入っていない。

 翌朝、さっそく浜津駅のバス乗り場へと向かった彼は、出発時間ぎりぎりに飛び乗った浜津港行き始発バスの車内で、意外な人に出会うことになった。
「郁代さん!」
 彼は驚いて声を掛ける。がら空きの車内で、彼女は一番後ろのシートに小さくなって座っていた。今日は就職活動生のような、紺のスーツ姿だ。
「あ、堅上さん。おはようございます」
 郁代さんも、同じように目を丸くしている。
「どうされたのですか? こんな早くから」
「どうされたというか……郁代さんこそ、どうして?」
 そう言いながら、克利は彼女の隣に座る。
「帰れなかったんです、昨日の夜。バイトが遅くなってしまって、最後の船に間に合わなくて。時々あるんです、そういう時が」
「あれ? そうなんだ」
 と克利は首を傾げた。
「父の会社の宿泊所があるので、そこを利用させてもらうのですけど……でも本当は、何としてでも島に帰るべきでした、昨日こそは」
 郁代さんはそう言って瞳を閉じ、俯いた。
「実は昨日の夜、島で大きな騒動があったみたいなんです。宿泊所の方に聞いて、初めて知りました。父もその騒ぎに――」
「聞いてる、佐山さんから」
 彼はうなずいた。
「労働組合の人たちと、会社側がもめたって。大けがした人もいるって言ってたけど」
「暴力を振るったりしたのは、ごく一部の人たちのようです。団委員長が取り押さえたって聞いてます」
 あの巨体の委員長が、不逞の輩の首根っこを掴んで振り回す様子が、克利の目に浮かぶ。
「組合のみなさんの間でも、色々あるみたいなのです。以前から、そもそも団委員長に反感を持っていたグループもあるみたいで。委員長のやり方は生ぬるい、もっと会社と対決すべきだ、って」
「ああ……なるほど」
 台風のあくる日、足元のケーブルを引っかけた克利を怒鳴りつけた、目つきの鋭い男の姿を彼は思い出していた。委員長と険悪な雰囲気だったあの男は、確か書記次長だとか言っていた。
「ただ、」
 と郁代さんは苦しそうな顔をした。
「閉山に反対という点では、組合員の全員が一致しています。昨日の集会で、会社を代表して閉山を通告する役目を負わされたのは父だったようですが、父だってもちろん反対なのです、私だって」
 やはり、と克利は思った。青松島炭鉱の閉山は、正式に決定されたのだ。
「島のみなさんは分かって下さっているから、騒動でも暴力を振るわれたのは本社の人でした。だから良かったというわけでも、それで何か変わるというわけでもないけど」
 窓の向こうに、いつもと変わらずきらめく海が見えてきた。黙り込んだ二人を乗せたまま、バスは走り続けた。
 島へと向かう朝の第一便に乗り込む人は少なく、船は定刻ちょうどに出港した。空席だらけの船室で、克利と郁代さんは二人で一列分の席を独占するように、ゆったりと並んで座ることができた。
「この航路でこんなのんびりと船旅ができるの、初めてだなあ」
 と明るい顔をしてわざとらしく手足を伸ばして見せる克利に、郁代さんは「良かったですね」と微笑みかける。スーツ姿のせいか、それとも憂いを含んだ表情のせいか、それとも今日の彼女は彼よりもいくらかお姉さんであるかのように見えた。
 今日は波も穏やかなようで、外海に出ても揺れはほとんど感じられなかった。ぼんやりと窓の向こうを眺めていた克利はふと、何隻もの見慣れない船が、この旅客船と並走するように島の方向を目指していることに気付いた。「COAST GUARD」の大きな文字が書かれたその白い船は、沿岸警備庁の警備艇らしい。
 あれって、と郁代さんのほうを振り向くと、彼女も真剣な顔でその船団のほうを見つめていた。
 突然、旅客船が減速しはじめた。警備艇群だけが、そのまま前進して遠ざかっていく。
「えー、乗船中のお客様に、お詫びと、お知らせがございます」
 と、天井のスピーカーからアナウンスが流れた。
「ただいま入った報せによりますと、青松島港の桟橋が、何らかの事情によってただ今閉鎖中となっておる、再開の目途は今のところ立っていない、そのようなことらしいと、そういう報せが入っております。従いまして、誠に申し訳なく、ご迷惑をおかけするところですが、当船は浜津港へ引き返します。料金はターミナル窓口で返金いたします。えー以上です」
「そんな――」
 郁代さんが、天を仰ぐようにスピーカーを見上げる。
「どういうこと? 何があったの?」
「わかりません、私にも……」
 彼女はそう言って、海の向こうを見つめた。青松島はまだ、デコボコした小さなシルエットとして、彼方に浮かんでいるに過ぎない。
 旅客船はゆっくりと転針すると、浜津港を目指して速度を上げた。再び黙り込んだ二人を乗せた船は、さらに何隻かの警備艇とすれ違いながら、前方に横たわる本土に向かって進んで行く。
 一体、島では何が起きているのだろうか。昨夜の騒動というのと、桟橋の閉鎖には関係があるのだろうか。そして理奈は、どうしているだろう。
 郁代さんに、もっと色々聞いてみたかった。彼女にはある程度、状況の推測がついているのではないか。しかし、打ちのめされた様子でうつむいている彼女に、克利は何も言うことができなかった。港に帰り着いたら、とにかく理奈に電話してみよう。
 間もなく到着した浜津港旅客船ターミナルの待合室には、戸惑った顔をした人たちが大勢たむろしていた。「青松島航路時刻表」のパネルの上には、「欠航中・再開未定」とマジックで殴り書きされた紙が貼りつけられている。「申し訳ありませんが、島のほうの状況が全くわからないんです」と説明するターミナル職員の声に、みんなじっと耳を傾けているようだった。
 切符売り場の横に赤電話を見つけた克利は、「佐山さんに電話してみます」と郁代さんに告げて、足早に電話機の前に向かった。投入口に十円玉を落とし込み、ダイヤルを回す。数回の呼び出し音の後、ブザーの音と共に「もしもし」と理奈の声が聞こえた。
「あ、もしもし。堅上だけど」
「堅上君? おはよう」
「おはよう。実は今、浜津港にいる。さっき船で、そちらへ行こうとしたんだけど」
「ほんとに? こんな朝から?」
「うん。でも、残念だけど桟橋が……」
 突然、通話が途切れた。克利は一瞬、呆然とした。まさか、電話まで通じなくなってしまったか。
 しかし彼はすぐに気付いた。携帯電話の通話料というのはとてつもなく高いらしい。たった十円ではほんのわずかな時間しか話すことができないのだ。
 慌てて財布を取り出そうとした彼に、
「これ、使ってください」
 と郁代さんが、右手に一掴み分の十円玉を差し出した。
「乗船料の返金、十円玉で返してもらってきました」
 ありがとう、と克利は郁代さんの手から、小銭を直接受け取った。わずかに触れた彼女の細い指は、冷え切っているようだった。
 電話機の上にコインを積み上げて、彼は再びダイヤルを回した。途端にブザーが鳴り、理奈が電話に出る。
「もしもし!」
「あ、もしもし。ごめん切れちゃった」
「ううん。ごめん、駄目だったでしょ、船。桟橋使えないから」
「何が起きてるの? 大丈夫?」
 そう言いながら彼は、次の十円を投入する。
「本当かどうか分かんないけど……」
 理奈の声が低くなる。
「組合で仲間割れがあって、昨日暴れた人たちの仲間が島を乗っ取ったって。炭鉱長も、団委員長たちも、どっちも捕まってるんだって。今朝から防災団の人たちが家から出るなって言って巡回してるの。信じられないよ、そんなこと」
「まさか」
 大事件じゃないか。しかし――と、克利はコインを投入しながら、つい先ほど船上で目にした情景を思い出す。島を目指す、何隻もの警備艇群。あれは、そういうことか。
「実は今、隣に郁代さんがいるんだ」
 郁代さんに目配せして、彼は言った。
「ちょっと代わるね」
「郁代が? 何でそんなところにいるのよ」
「細かい事情は後で。代わるよ」
 彼はそう言って、郁代さんに受話器を渡す。
「もしもし理奈? 大丈夫?」
 深刻そうな表情で、彼女は電話の向こうにいる理奈と話し始めた。
「うん。ええ。いえ、それは……。それ、違うよ。別に堅上さんとは、何にも。そんなことないって、さっきバスで偶然。取らないわよ。分かってるわよ、そんなつもり全然ないって」
 次第に、郁代さんが呆れ顔に変わっていく。二人が一体どういう会話をしているのか、気にはなったが、ともかく克利はコインの補給に努める。
「ねえ、そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ? そちらは今どうなって……。ええ、そう。そうなのね、やはり……」
 急に深刻な表情に戻った郁代さんは、目を伏せて、しばらくじっと理奈の話を聞いているようだった。
「でも、大丈夫。最後は父が、私たちが……。ええ、あなたは。ともかく、家でおとなしくしていて。大丈夫、わたしは何とかして島に。また連絡するわ。ええ、じゃあ代わるわね」
 彼女はそう言うと、再び克利に受話器を渡した。
「もしもし」
「あのさ」
 と理奈は小声で言った。
「郁代、何も言わないと思うけど、きっと大変な思いをしてるんだと思う。助けてあげて。ただ、堅上君のことは全然タイプじゃないって言ってるし、役場の兄ちゃんいるし、その辺は期待しないようにね」
 さっきの会話は、そういうことか。
「あ、ああ、分かった。そんなつもりないけど……というか、ほんとに気を付けて。また連絡するけど」
「うん、ありがとう。じゃあね」
 理奈がそう言うと同時にコインが尽きて、電話は切れた。
「ええ、と」
 と、克利は咳払いした。
「郁代さんは、これからどうするの?」
「ともかく、島に帰らなければなりません。浜津市内に炭坑会社の支社があるので、まずはそこを当たってみるしか……」
 しかし炭坑会社に頼んでみたって、今の島の状況では渡航が可能になるとは思えなかった。そもそも、炭鉱長の娘というのは、今や相当に微妙な立場なのではないか。真田炭鉱長がどこかに捕らえられているらしいというのだから。
「そうだ」
 と克利は声を上げた。待合室の何人かが、反射的に彼の顔を見る。
「うちの会長、神代教授に相談してみよう。お父さんの友達だし、教授なら色んな伝手もあると思うから」
「そう、ですね」
 郁代さんの表情が、少しだけ明るくなった。
 津州大のキャンパスへと向かうために、二人はさっそくバスへと乗り込む。島へ渡ることを諦めた人たちを満載したバスは、間もなく浜津駅へ向かって走り出した。しかし克利たち二人だけは、まだ諦めてなどいない。必ず手段を見つけて、またこの海に戻ってくるつもりなのだった。

               *         *         *          

 最寄りの駅で地下鉄を降り、いつものキャンパスにたどり着いた克利たちだったが、残念ながら理工学部の情報科学棟にある教授の研究室は無人で、入り口には鍵が掛かっていた。
 克利は次に、正門前の「喫茶・ボン」に向かった。「ここがフォトサークルの例会をやる場所なんだ。教授に連絡がつくかも知れない」と郁代さんに説明して、店に入る。
 カランコロンカラン、とベルを鳴らしながら重い木製のドアを開くと、白いシャツに黒いベストのマスターが、いつものように「いらっしゃい」と迎えてくれた。ちょうどモーニングの時間が終わった後で、店内はガラガラだ。
「お、堅上君。こんにちは」
「どうも、こんにちは。……ああ、入って」
 彼に続いて店に入ってきた郁代さんに、マスターが再び「いらっしゃい」と声を掛けた。ただ、二度目の方が明らかに、声のトーンが嬉しげだ。
「久しぶりだね、真田郁代さん……だったっけ」
「お久しぶりです」
 郁代さんは丁寧に頭を下げた。
 ええとカメラは、などと言いながらカウンターの下をごそごそやっているマスターに、
「マスター、写真は後でいいから、聞きたいことがあるんですけど」
 と克利が話しかける。
「神代教授に、緊急に連絡が取りたいんです。連絡先を、ご存じありませんか?」
「ああ、会長の? 携帯分かるよ。掛けてみようか」
 取り出した例のライカを手に、マスターは言った。
 すみません、お願いしますと克利が頼むと、マスターはカウンターの上に置かれた白いプッシュホンの受話器を取って、カチャカチャと番号を押した。
「ああ、もしもし。桜井です。今、どちらに? ああ、なんだ。今ここに、堅上君と島のお嬢さん、真田さん。ええ、会長を捜してるって。それじゃ、ちょうど良かった」
 ベルの音がして、ドアが開いた。外の光と共に店に入ってきたのは、神代会長とご隠居・鮒村副会長の二人だった。
「やあ、こんにちは」
 ご隠居がにこやかに言った。克利と郁代さんも、こんにちはとお辞儀する。
「私に用事だと聞きましたが」
 神代教授がそう言って、郁代さんを見た。
「もしかすると、お父さんの?」
「はい」
 郁代さんが、硬い表情でうなずく。
「大変なことになりましたね。えー、ともかくみんな座りましょうか。マスター、すみませんが、みなさんにコーヒーをお願いできますか」
 克利と郁代さんは、昨晩からの出来事を神代教授たちに説明した。コーヒーの香りが漂う、この静かな店内にいると、こんな状況下でも少し気持ちが落ち着いてくるようだった。
「実は、私のほうでも色々聞いています。炭鉱長の行方が分からないというのも確かなようです。組合側に拘束されているのかどうかまでは分かりませんが」
 教授は、冷静な口調でゆっくりと話した。マスターがコーヒーのカップを運んできて、四人が座るテーブルに並べる。
「政府の側では、労働省と公安、それに沿岸警備庁が対応に追われているという話です。この状況で島に戻るというのは、あまりに危険で賛成できないのですが……それでもあなたは戻りたいでしょうね」
 郁代さんは、黙ってうなずいた。
「実は、手段がないわけではありません。上陸できると言い切ることまではできませんが、少なくとも島に接近することは可能なはずです。当たってみましょう」
 携帯電話を手に、教授が立ち上がる。
「ここは一つ、あの人に」
 とご隠居が口を開いた。
「ミス・小西六に一緒に行ってもらってはどうでしょう。本当なら私が行きたいところだが、寄る年波でね」
「私もそう思っていました。そもそも、彼女が動いてくれなければ、この話は動かないのですよ」
 神代教授は少しだけ微笑むと、店を出ていった。

 会長が手配してくれた手段が果たしてうまく動き出すかどうか、克利と郁代さんはご隠居と一緒にコーヒーを飲みながら、その結果を待った。そんな郁代さんに、マスター桜井が時折ライカのレンズを向ける。彼女は困惑気味だったが、「気にしないでそのまま、自然に、自然に」とマスターは嬉しげだった。
 お昼に出してもらったサンドイッチを食べ終えてさらに待つうちに、店の前に一台の車が停まった。車のドアが開き、閉じる音がして、それからベルの音と共に今度は店のドアが開いた。
「おまたせしました。行けそうです」
 そう言って入ってきた神代教授の後ろには、なぜか白衣姿のミス・小西六と、これまたなぜか薄ピンク色がかった白衣姿で大きなマスクまで着けた壮太君の姿があった。美人女医とその助手、と言った趣である。
「話は聞いたわ」
 とミス・小西六はうなずいた。
「行きましょう、島へ。放ってはおけないわ」
 その後ろで、壮太君がうんうんとうなずいでいる。
「ありがとうございます。でも、その……」
 郁代さんはお辞儀した後、何か言いたげに二人の顔を見た。このコスプレは一体どういうことなのだろうか、と疑問に思っているのだった。
「医療船、急病人を運ぶ船、あったでしょう? 緊急事態に備えて、あの船が島のそばで待機することになってるらしいの。そこに便乗させてもらうのよ、私たち」
「可能なんですか? 医療関係者でもないのに、そんなこと」
 克利が驚いて訊き返す。
「極限状況下専門の心理カウンセラーだってことでね、わたしが。大学付属病院から派遣されるお医者さんたちに、心理班て名目でちょっと追加してくれたのよ、会長がね」
「カウンセラーの資格もあるんですか?」
「半分は本当、半分嘘ね。内戦下のカスバ、あの地の果ての町で兵士たちの悩みを聞く仕事をしていたことがあるから」
 ほんとかよ、と克利は思ったが、まあこの際そこはどうでもいい。
「で、助手ってことで、あなたと真田郁代さん、それに壮太君とね」
 まだ中学生の壮太君までそんなややこしい状況の場所へ連れて行くのはどうなのかという気もしたが、見るからにやる気満々で張り切っている彼の様子を見ていると、やめておけと言える感じではなかった。神代教授も黙ってうなずいている。
 克利と郁代さんの分の白衣もちゃんと用意されていて、二人は服の上からそれを羽織った。タイトスカートの郁代さんはいかにもまともな医療職という感じになったが、ジーンズ姿の克利は研究をさぼっている理系の学生にしか見えない。
 理奈にも連絡しておこうと、克利はマスターにプッシュホンを借りて、彼女に電話をかけてみた。しかし理奈は電話に出ず、ただ留守番電話サービスの応答メッセージが流れるばかりだった。カウンセラーに扮したミス・小西六たちと、今から医療船に便乗して島に向かう、郁代さんも一緒だと、短い伝言を残して彼は電話を切った。
 さあいよいよ出発、と言うことで店の外に出ると、そこには「浜津市」と書かれたグレーのライトバンが停まっていた。
「やあ」
 運転席から手を振ったのは、あの端島さんだった。この人も、一枚かんでいるらしい。
 後席には女性系グループ三人が乗り込み、克利は助手席に座る。
「それでは、行ってきます。みなさん、本当にありがとうございました」
 と店の前に並んで立っている神代教授たち三人組に郁代さんが頭を下げると、おじさんたちは一様に笑顔になって「気を付けて」と手を振った。車が走り出した後も、おじさんたちはずっとその行方を見送っていた。
「騒ぎには巻き込まれずに済んだのですか?」
 隣でハンドルを握る端島さんに、克利が訊ねた。
「昨日はちょうど午後から、本庁で計理担当者の研修があったんですよ。支所長と、臨時任用アルバイトの女性職員さんが残っていたのですが、支所長は騒動が本格化する前のぎりぎりで本土へ戻る船に乗れたようです。アルバイトさんは島の人なので、今は彼女から時々入ってくる連絡が、重要な情報源になっています」
「やはり、反委員長の人たちが?」
「その辺りの事情は複雑なようです。また、おいおいご説明しましょう」
 わずかに厳しい表情になった端島さんがそう答えたその時、カーラジオから流れていたクラシック音楽が、ふいに途切れた。
「ここで、臨時ニュースをお伝えします」
 アナウンサーの硬い声に、車内に緊張が走る。青松島関連のニュースだろうか。
「つい先ほど、午後二時過ぎ、労農新党の横山総理大臣が、緊急の記者会見において辞意を表明しました。これにより、横山内閣は総辞職となる見通しです。十二党連立政権内における対立が激化していることから、次の総理大臣に誰が指名されるかは不透明で、政局は当面混乱を続ける見通しです」
「何だ、おどかさないでよ」
 壮太君がほっとして、笑顔を浮かべた。しかし、端島さんは厳しい表情を崩さない。ミス・小西六も微妙な顔をしている。
「何か、関係があるんですか? 今のニュースが」
 おずおずと克利は、前後の席に座る二人に訊ねる。
「政権が変わると、物事が大きく動きます。こういうニュースは僕らには重要です」
 端島さんが、分かったような分からないような返事を返した。
「私は――お友達がちょっと、ね。総辞職なんて、大変そう」
 と、ミス・小西六は謎のセリフと共に微笑んでみせる。
 医療船はいつもの旅客船ターミナルではなく、浜津南港にある沿岸警備庁の基地から出航するということだった。何メートルもの高さがある、有刺鉄線のフェンスに囲まれた基地の入口で、端島さんの運転する公用車は紺色の制服を着た警備隊員に厳重な車内チェックを受けた。爆発物などおかしな物品等を積んでいないかということなのだろうが、実は一番怪しい積み荷というのは乗車している克利たち五人そのものだろう。しかし、艶然と「ご苦労様」と挨拶して見せるミス・小西六と、その横で礼儀正しく頭を下げる郁代さんに、警備隊員は直立不動で敬礼して見せるのだった。
 指定された駐車個所に公用車を停めて、基地内を歩き、タラップを渡って医療船に乗り込むに至るまで、ミス・小西六はあちこちで「みなさんお疲れ様」「ご苦労様ね」とにこやかに手を振ってみせ、その平気さっぷりには克利も壮太君も改めて感心させられた。郁代さんも全く動じることなく、真面目な顔をして丁寧なお辞儀を繰り返している。例の巨大な登山リュックを背負った壮太君が、まるで両先生方の荷物を預かる付き人のようだ。
 医療船の左右には、軍艦のような大型の銃器を搭載した警備艇が何隻も並んでいて、実に物々しかった。そのうちの一隻でヘリコプターの発着が可能な、特に大型の船に手術室などの装備があるということで、これが医療船に同行するらしい。それが、ここからの出航となった理由のようだった。
 病院の廊下を思わせる、診察室が並んだ船内通路の片隅が、彼らに割り当てられた待機場所だった。壮太君がリュックの中から取り出したキャンプ用簡易エアマットを床に敷いて、彼ら五人はその上に並んで座る。ちょうど多目的検査室の真向かいで、基本的にはこの場所から動かないように、というのが警備庁からの指示だった。さっき言っていた情報収集ということなのだろうか、端島さんはラジオをスーツの胸ポケットから取り出して、片耳にイヤホンをつけた。
 船内には、白衣を着た男たちがむやみにたくさん乗り込んでいた。いかにも医療関係者というインテリ風もいないわけではなかったが、白衣軍団メンバーの多くはあまりにガタイが良く、マッチョに過ぎた。これはどう見ても、公安関係者の偽装である。中には、ショルダーホルスターでも装備しているのか、白衣の左胸辺りが妙に盛り上がっている、物騒な先生もいた。みんなやたらと聴診器を首にひっかけていて、それもまたインチキ臭い。
「ひどいものね」
 ミス・小西六が小声で言った。
「ニセ医者だらけだわ、この船」
「ほんとですね」
 壮太君が、顔をしかめてうなずく。
 いやそれはあなた方も同じじゃ、と思わず言いかけて、克利は言葉を飲み込んだ。自分だって、インチキ団の一員なのである。
「彼らは特殊部隊、海上警備庁の精鋭です」
 と、端島さんがささやくような声で言った。
「医療班に混じって、島に乗り込むつもりでしょう」
 あまりの現実感の無さに、克利は呆然とした。ニセカウンセラーのニセ助手に扮して、特殊部隊に囲まれながら、争議中の島へと向かっている。見た目は病院そのものなのに、波でゆっくりと大きく左右に揺れるこの不思議な船内も、非現実感に拍車をかけているようだった。下手をしたら船酔いしてしまいそうだ。支給された、ボトル入りの冷たい水を彼はこまめに飲んだ。船には慣れているはずの端島さんも少し顔色が悪いようで、度々トイレの中へと姿を消した。
 一時間ほどで、船は速度を落とした。トイレに入った克利が、円いガラス窓から外をのぞくと、すぐ目の前に青松島の姿が見えた。閉鎖されたと理奈が言っていた、浮桟橋のそばをちょうど通過するところだったが、閉鎖というかそもそも桟橋への連絡橋が見当たらない。どうやらあの橋は跳ね上げ式になっているらしくて、島の側に引き上げられてしまっているようだった。こうなると島に上陸するためには、その周囲を固める城壁のような護岸をよじ登るしかなく、当たり前だが簡単なことではない。
 こうして外から見る島は、いつもと変わらず平穏なようだった。しかし目を凝らすと、あの岩山の向こうに並んだいくつかの住宅棟屋上に、大きな赤い旗がはためいているのが見える。あれと同じものを、団委員長が即席オープンカフェを用意してくれた組合本部ビルの中で彼は目にしていた。組合旗、という奴なのだろう。やはり島は、闘争中なのだ。
 でも、どう考えても反委員長派に勝ち目など無いように彼には思えた。いくら要塞戦のごとく立てこもって見せたって、それで会社が方針を変更することなどあり得ないのではないか。操業をやめたがっているのだったら、ストなんかやったらむしろ相手方の思うつぼなのじゃないだろうか。
 そんなことを思いながら、目の前の島をぼんやりと眺めていた克利は、背後からのノックで我に返り、青い顔をした婦人警官と入れ替わりにトイレを出た。
「島の近くに到着したみたいです」
 と、みんなのところに戻った彼は、窓から見えた状況を説明した。
「これからしばらくの間この船は、島を周回するコースで航行することになるはずです」
 と端島さんは言った。ここまで一緒にやって来た警備艇は少し離れたところで停船し、この医療船だけが島の状況を観察しながら航行を続けるらしい。要するには、偵察行動である。
「もう、まどろっこしいなあ、早く上陸しちゃえばいいのに」
 壮太君が顔をしかめる。
「それが駄目なんだよ。桟橋に渡る橋が引き上げられちゃっててさ」
「だから船を直接、護岸のそばまで近づければいいんですよ。後は要するに登ればいいんだから、あの壁」
 と壮太君は平気な顔で言った。
「それは難しいと思います。あまりに危険で……」
 郁代さんが口を挟む。
「大したことないですよ、ちゃんと鉄製のラダーが付いてる場所ありましたし、あれなら普通の子供でも登れます。伊豆諸島の孀婦岩みたいに、海面からいきなり百メートルの高さまで岩壁をよじ登るとかだと大変だけど」
 そんな極端な例えを出されても、何が何だか分からない。
 南回りのコースで島を半周した船は、島の南端で北へと向きを変えて、集合住宅が密集する島の西側を進んだ。克利が再びトイレの窓から外をのぞいてみると、建ち並ぶビル群の屋上で、やはりいくつもの組合旗が翻っていた。あの中の一つが理奈の住む「事務屋棟」だ。もしかしたら彼女は今、この船を窓から見ているかも知れない。
 そんなことを思いながら、克利が無数の窓の一つ一つを目で追っていたその時、足下から急に突き上げるような衝撃が走り、窓の向こうの風景が激しくぶれた。何事かと、彼はあわててトイレを出る。船内では、白衣軍団がみんな驚いた顔で腰を浮かせ、白いイヤホンを耳に当てていた。ラジオのイヤホンをつけたままの端島さんも、厳しい顔つきで宙をにらんでいる。
 衝撃は、一度きりでは終わらなかった。二回、三回と続き、その度に船は激しく振動した。まるで魚雷攻撃のようだが、いくら戦艦に似た島だとは言っても、そんな装備はないだろう。
「座礁、でしょうか?」
 と壮太君が言った。
「いや、違いますね」
 端島さんがかぶりを振った。
「海底地震のようです。まだ詳細は分かりませんが、恐らくかなり大きい。浜津市内のスタジオでも相当の揺れがあったと、JOEK浜津支局が言ってます。そうなると」
「十年前の、あの時と」
 郁代さんが、硬い表情で端島さんの顔を見る。
「ええ、あの時と同じです。津波が、来るかも知れません」
 克利は良く知らなかったし、壮太君もかすかな記憶しかないようだったが、かつて浜津沖地震という大きな地震があり、高さ二メートルの津波が浜津港を襲ったのだということだった。逃げ遅れた釣り人など、十名以上の死者を出した、浜津の歴史上でも有数の大災害だったという。
「幸い、島は津波には耐えて、亡くなられた方もいませんでした。でも、怪我をされた方がたくさん出たのです」
 郁代さんは、悲し気な目をして言った。
「初期の鉄筋コンクリート校舎などの古い建物で、壁が崩れるなどしたようなのです。修復の痕跡が今もあちこちに残っています」
 と、端島さんが説明してくれた。
 衝撃の連続が収まったタイミングで、船は急激に速力を上げ、克利たちは床にひっくり返りそうになった。姿を現した若い船員が、「危険なので、心理士班のみなさんはこの中へ」と言って多目的検査室のドアを開けてくれたので、五人はふらつきながらその室内に移動した。
「やはり、津波が来ますか?」
 と、その船員に端島さんが訊ねる。
「ええ、発生が観測されました。恐らく――」
 船員は、腕時計を見た。
「あと、数分で遭遇します。我々も、操船には万全を期すつもりですが、安全と言い切ることはできません、残念ながら」
 大きな波に接近した際には警笛を鳴らすので、床に固定されているベッドやデスクなどの足に掴まるようにしてください、と言い残して船員は去った。
 窓から外を見ると、島の北端近くを通過した船は、再び針路反転して両舷前進全速で南へ向かおうとしているようだった。震源は島の南方らしく、そちらからやってくる津波を正面から乗り越えようということなのだった。それが最も安全な、津波への対処法なのである。周辺の船も同じく一斉に回頭して、南方へ船首を向けつつあるようだった。
「この前は竜巻で、今度は津波って」
 ミス・小西六がため息をついた。
「まるっきり、パニック映画の登場人物じゃない、わたしたち」
「事実は小説より奇なり、って本当なんですねえ」
 壮太君が、感心したようにうなずく。いや、そんなことないだろ、普通こんなこと起こらんぞと克利は言いたかったが、実際起きているんだから仕方がない。
「この医療船は、災害時の活動も想定して設計してあるはずです。凌波性もかなり高いだろうし、まず大丈夫でしょう」
 端島さんが落ち着いた声で言ったその時、短い汽笛が五回、連続して鳴り響いた。
「来ました! つかまって」
 克利たちはうずくまって、ベッドの下に半ば潜り込むようにしながら、その足にしがみついた。途端に、船室が後方へと大きく傾いた。文房具など、固定されていない備品類が、ガチャガチャと音を立てながら転げ回る。ディーゼル機関の音が一気に高まると、ふいに重力が弱まったかのように、体が宙に浮き上った。そして次の瞬間、船は進路前方へと、まるでジェットコースターのように海面を滑降した。
「よし、乗り切ったぞ」
 端島さんが声を上げた。
 島は、と克利は思った。青松島はどうなったのか。今の波を、直撃で受けたはずだ。彼は顔を上げて、窓の向こうを凝視した。
 一瞬、我が目を疑った。そこには、艦首に白波を蹴立てて前進する島の姿があった。そのシルエットはまさに、よみがえった巨艦そのものだった。七千人の住民を乗せた島は南に針路を取って、津波に立ち向かおうとしていた。
 いや、違う。島が動いているわけではない。島の南端を固める岸壁に津波の激しい水流がぶつかって、白波が立っているのだ。水位の上昇で、喫水線も護岸の上端近くにまで上がってきてはいたが、どうにか大きな浸水は免れたようだった。この程度の波では、強固な護岸に守られた島はダメージを受けないのだろう。
 再び汽笛が鳴り、克利たちはあわててうずくまった。ベッドの足につかまりながら、克利が心配していたのは島内の状況だった。被害はどうなっているだろう。理奈は、そして炭鉱長や委員長たちは。携帯電話があれば、状況を聞くことができるかも知れないのに。
 やがて襲来した第二波も船は無事に乗り越えて見せたが、先ほどの第一波に比べると揺れの大きさは弱まったようだった。しばらくはこの繰り返しなのだろうか。
 また顔を上げると、窓の向こうの島は相変わらず、白波を立てながら海上を前進しているように見えた。
 マストのような竪坑櫓に目を遣った彼は、おやと首を傾げた。例の「帝国ルームエアコン」の赤いネオンが、また何度も点いたり消えたりしている。
「S・O・S フシヨウシヤ タスウ サレド スト ツヅク」
 背後のミス・小西六が低い声で言った。
「あれは……やっぱりモールスですか?」
「ええ、そう。『負傷者多数、されどスト続く』。被害が出ているというのに、反委員長派は立てこもり続けるつもりね」
「強行上陸、しかありません。こうなったら」
 深刻な表情で、端島さんがネオンをにらみつけた。隣で郁代さんも、島を見つめている。
――あのモールス信号によるメッセージを発しているのは、一体誰なのだろうか。理奈の話では、団委員長も反委員長派側に拘束されているはずなのだが。
 克利がそんなことを考えていると、短い警笛と共に、船が大きく傾いた。第三波か、と彼はあわててうずくまろうとしたが、あの大きな揺れは来なかった。どうやら、船が急に進路を変えたらしかった。外を見ると、周辺の警備船も島の方向へと一斉に転針をかけている。警備庁側も、あのメッセージに気付いたのだろう。端島さんの言う通り、やはり強行上陸をかけるつもりなのかも知れない。
 左舷すぐ後方を進んでくる警備艇に搭載された大型放水砲の砲塔が、島の方向へとゆっくりと向きを変えてゆく。その不吉な眺めを、克利たちは声もなく、ただ見守ることしかできなかった。

『潮の降る町』

他サイト様で連載途中だった長編小説です。

『潮の降る町』 天野橋立 作

浜津市の沖に浮かぶ海底炭鉱の島「青松島」を舞台に展開する、平成の初めごろを想定した青春ファンタジー小説。 (2017.4.27 第五章「漂流、青松島」を掲載)

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-01-01
Copyrighted

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。