ラッキーちゃん

 ラッキーちゃん、という名前の猫の頭を撫でると、ラッキーちゃんは、にゃにゃあ、と鳴いて、兄さんがいればなと思うのだけれど、兄さんはいなくて、ラッキーちゃんの飼い主である八十一歳のおじいちゃんは、ぼくの顔を見ながら、はて、どこかで会ったかの、なんて言って、あ、たぶん、それ、ぼくの兄さんかもしれないです、と答えはするけれども、その兄さんがいないものだから、なんか、ほんとうに、兄さんっていたのかな、とか考えてしまう。じゅうにがつ、さんじゅういちにち。
 そういえば、きょうで、今年がおわるので、だから街が、妙にそわそわしているのかと、思った。
 そわそわしていて、ざわざわしている。ふだんは、まるで静かで、住んでいるんだか、いないんだか不明だった家に、人がいて、雨戸の拭き掃除なんかしている。おじいさん、おばあさんが、いつもよりたくさん、外に出ている気がする。街全体が、活気づいているのだけれど、でも、なんだか落ち着かない感じで、浮き足立っている様子で、首筋に刃物を突きつけられているような、ものすごい高いところで綱渡りをしているような、そんなあやうさがあって、でもみんな、そのあやうさに気づいていないというか、つまり、透明なナイフを首に突きつけられながら掃除をし、見えない綱の上を渡りながら買い物をしている、という感じ。おじいちゃんは、ラッキーちゃんという猫を抱えて散歩をしていた、これといって顔見知りというわけでもないおじいちゃんで、家族がいるのか、ひとりなのか、わからないけれど、おじいちゃんはにこにこしていて、ぼくも、つられてにこにこ笑って、そんな、ぼく、年の瀬にふつうに笑っていられるような一年を、過ごした覚えはないのだけれど、まあいいかと思って、ラッキーちゃんの頭をしばらく撫でていた。
 人間よりも猫が好きな、兄さんだった。
 兄さん、という人は、今はいないけれど、まちがいなく存在した。ぼくは、今年も、いろいろ、しょうもない空想ばかりを繰り広げていた。小説を書いた。詩を綴った。学校に行って、友だちと遊んで、彼女はできなかったけれど、好きかもと想える女の子はできた。
 おとうさんが夜のアルバイトをやめた。(夜のアルバイトといっても、いかがわしいものではない)
 おかあさんがドーナツをうまく焼けるようになった。(揚げたドーナツはからだによくないからと、焼いたドーナツしかたべない)
 姉さんがデパートに就職した。ラッピングがむずかしいのよと、家に包装紙を持ち帰って練習していた。家の中にある、ありとあらゆる四角いものを、包装紙に包んだ。(ぼくの部屋に飾ってあるフィギュアの箱がちょうどいいと、勝手に練習につかわれた)
 おとうさんのおかあさん(つまり、おばあちゃん)が、おかしなことを言うようになった。おとうさんが帰ってこないんだよと、おとうさんにまいにち電話をかけてくるようになったのだ。おばあちゃんのいう「おとうさん」は、おとうさんのおとうさん(つまり、ぼくのおじいちゃんで、おばあちゃんのだんなさん)のことなのだけど、おじいちゃんは、五年前に死んだのだった。でも、おばあちゃんはごはんをつくって、おじいちゃんの帰りを待っている。大みそかのきょうも、きっと、元旦のあしたも。
 今年も、いろいろあったなァ。
 ぼくがつぶやくと、ラッキーちゃんが、にゃあんと鳴いて、おじいちゃんが、いろいろあるってことは、生きてるっちゅうことだ、と言った。
 来年もいろいろあると思うけれど、でも、やっぱりぼくはときどき、兄さんのことを思い出して、兄さんがいないことを思い知らされながら、一年を過ごすのだろう。ぼくだけの、兄さん。来年もよろしく。

ラッキーちゃん

ラッキーちゃん

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-31

CC BY-NC-ND
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