かなしい蛹

遠い頭の奥から津波が迫ってくるような感覚に、記憶にないはずの胎内へ思いを馳せていた。きっと外では雨が降っているのだろう。
僕と兄さんは30年後の未来へ向けて、眠らされるところだった。一部の神経や呼吸器を残して、他は全てどろどろに溶かされ、薄い膜の中で目覚めの時を待たされるのだ。
「僕は怖いよ、兄さん」
僕は隣にいるはずの兄さんに、ぽつぽつと零した。
「僕たち、こないだまで普通に過ごしてきたじゃないか。こんなこと、ひとつも知らされてなかった。やっぱり父さんも母さんも、きちがいなんだ。僕らの小さい頃からずっと研究室にこもって、ろくに相手もしてくれなかったし、僕らに関心があるとすればそれは、『しくみ』についてだけだったじゃないか。」
兄さんは何も喋らない。
「うちの家が普通だったことなんて、ないんだよ…」
情けない自分の声が蛹に響いて涙が出た。秒針の音が、雨よりも近くで聞こえる。兄さんの部屋は本だらけで、ベッドを置く場所もないほどだったから、きっといつものように僕と一緒に転がっているのだろう。
「兄さんは、本当にこれでいいの?僕の健全な高校生活はどうなるんだ?兄さんだって、来年から大学生じゃないか。僕らが目覚めた時、僕らの通っていた高校がなくなってたらどうするのさ。」
じきに溶け始めるであろう自身の身体に、僕はすっかり焦っていた。
「兄さん」
返事はない。
兄さんは、いつもそうだった。どこへ行っても人気者で、こんな僕のことを誰よりも気にかけてくれて、そのくせ自分の事は何ひとつ話そうとしない。何を聞いたところで全部はぐらかされて、真意はさっぱり読めやしない。うちの両親は僕らに対して無関心だったように思うけど、それでも兄さんは僕よりは可愛がられていたとも思う。誰だって優秀な人間が好きなのだ。僕は自分の身の程を知って、それが当然のことだと思っていた。
ふと、自分の手がぬめりを帯びていることに気が付いた。身体のふちが、ぬるま湯に浸かったようにじんわりと熱くなっている。自分の身体が意識から乖離していくような感覚に、僕はすっかり狼狽えた。
「兄さん、兄さん、もう溶け始めてるよ!兄さん、どうして何も喋らないの?なんで平気でいられるの?怖いよ。こんなのやだよ!おかしいよ…出して、ここから出してよ、父さん、母さん…」
泣きじゃくる自分の頬に伝うものが涙なのかすら疑わしくて、死にたいような気持ちになった。そもそもなんで僕は蛹になんてならないといけないんだ。なんで僕を普通に成長させてはくれないんだ。兄さんが僕の歳の頃は、普通にしてたじゃないか。どうして僕だけが………、ぼくだけ?
「あ、ああ……そうか、僕は、僕は…ああ、兄さんは蛹にならなくてもよかったんだ、僕は、僕だけがこの家で、僕だけが…」
蛹の傍でごそりと兄さんの気配がして、たまらず僕は声を上げた。
「ッ兄さん、!」


「…ごめんな、マユ」

居間の方から、兄さんを食卓へ誘う優しい声が聞こえた。

かなしい蛹

かなしい蛹

ぞっとしてください。

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-29

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