醤油煎餅を買う女

「醤油煎餅を買う女」


A子は海外で暮らす50代女性である。
今回は一年ぶりの帰国。たった今都内のビジネスホテルの一室で荷を解いたばかりだ。たまの一時帰国は実家での用事などに時間を取られ、なかなか自由な時間が持てない。今回も5日の滞在期間でいろいろな用事を片付けなければならず大忙しだ。
そんなときA子の帰国を知った旧友B男から○月×日に会えないかとの連絡が入る。
煎餅好きのA子の好みを知り尽くしているB男、滅多に手に入らない横浜の老舗の醤油煎餅を買いに行こうという。激しく悩むA子。その日はかつての恋人C男と会える可能性のある唯一の日なのだ。今はお互いに家庭があり、いわゆる人目を忍ぶ関係と言うやつではあるがA子にとってC男は永遠に純愛の相手である。ただしC男がA子とのことをどう思っているかは定かではなく、連絡は滞りがちだし、今回も問題の日に会えるかどうかの返事をなかなかくれないのだった。

意を決して電話をするA子。
「C男さん、今着いたわ。まだお返事いただいてなかったけど、もし私が○月×日会えないかもって言ったらどうする?」
「どうして? 用事が出来たの?」
「えっと、醤油煎餅・・・・・」
「えっ?なんだって?」
「友達が横浜へ醤油煎餅を買いに行こうって。その日しかないって言うの。あなた忙しくて会えるかどうわからないって言ってたでしょ。私その日お煎餅買いに横浜へ行くかも。どっちみち私たちちゃんと約束していなかったじゃない」
「なんとか都合つけようと思ってたさ。そうか。じゃそっちへ行ったらいい。僕より横浜の醤油煎餅を選ぶならそうしろよ。僕はかまわない」
「あっ待って」
ガチャリと電話は切れた。
涙がこぼれそうになったときにいつもそうするようにA子は口の両端をぎゅっと引き結ぶ。大きく息をして電話を手に取り、再びダイヤルする。
「B男君、○月×日お会いするわ。醤油煎餅、連れて行ってくださる?」
「よし決まりだな。じゃ車で横浜駅まで迎えに行くよ。予約しておいて焼き立てをすぐ受け取れるようにしよう」
「ありがとう、いつも手際がいいのね。じゃ当日ね。楽しみだわ」

しばらくしてC男から電話。
「醤油煎餅は僕が買う。○月×日は横浜へは行くな。銀座の△△屋のを買うから。一緒に銀座へ行こう」
「えっ△△屋!! すっごく高いのよ。あそこは新潟のお米と最高のお醤油使ってるから味も香りも抜群なの。嬉しい!」
「だろう?じゃちゃんとあっちはキャンセルしておくように」
「わかったわ」
A子、B男に再び電話。
「ごめん。ちょっと実家に急な用事があって○月×日はやはり無理そうなの」
「なんだって?そんな話ありかよ。そうか、A子お前あいつに会うんだな。前に言ってた昔の男とか何とか。あれほどやめろって言ったのにまだ切れてなかったのか」
「違うわ。彼とは会わない。ほんとに実家に・・・」
「言っただろう、手焼きの店だぞ。創業百年ずっと変わらない味なんだぞ。他に支店も何もない。熟練の職人が一枚一枚手で焼いているんだ。ここの煎餅がどんなに貴重かわかってるのか」
「わかってるわ。幻の名店よ。だから悩んでるんじゃない」
「大体こっちが先だろ。後からのほうを優先するなんて失礼だぞ。それに僕はさっきもう店に予約してしまったんだ。煎餅好きの君のために手焼き煎餅百枚無理言って引き受けてもらったんだ。お土産として君にあげるつもりだった。これだけあれば日本を離れても当分楽しめるはずだ」
「まあ!そこまで考えてくださったの。ありがとう。ごめんなさい。私勝手だったわ」

「C男さん? 私やっぱり横浜の友人に失礼なこと出来ないわ。先に約束していたし、お煎餅百枚私のために予約してくれたって言うんですもの。受け取りに行かなきゃ。それに○月×日のこと、私ずっと待ってたのにあなた全然返事してくれなかった。いつもそうよ。昔の女だからって何をしてもいいと思っているんでしょう。私そんな都合のいいだけの女になんかなりたくない。○月×日は横浜のお煎餅屋さんに行きます」
「ちょっと待てよ。こっちは銀座本店だぞ。天皇陛下だって召し上がる高級品だ。銀座が横浜に負けるなんてありえない。相変わらずバカだな。どこの誰ともわからない年寄りが焼いてる田舎くさい煎餅なんかほっとけ。皇室御用達とどっちが価値があるか考えればわかるだろう。いますぐあっちをキャンセルしろよ。あそこのザラメのついた煎餅はあまじょっぱくて最高なんだぞ」

その途端A子は自分の心がスーッと冷めていくのを感じた。いや覚めたというほうが正しかったのかもしれない。
黙ってそのまま静かに受話器を置く。

前回の逢瀬のことを思い返してみる。
あの時はA子の住んでいる都市がトランジット地になると言うことで数時間暇ができると言う海外出張中のC男と空港で落ち合い街中のレストランで食事をしたのだった。
「はいこれ。お煎餅党の君へのお土産」
そういって渡されたのは南部煎餅だった。
『こ、こんなのお煎餅とは言わない!私が好きなのは醤油煎餅よ!真のお煎餅党を名乗る人間は南部煎餅は食べないのよ!ああ、割れてても濡れててもいい、醤油の香りが嗅ぎたかった』
心でそう叫んだが、顔ではにっこり、「嬉しいわ。ありがとう」といって受け取ったのだった。

「ザラメですって。いつもそうよあなたは」
鳴らない電話を見つめてA子はつぶやく。私がザラメ煎餅というものをどのくらい嫌いかあなたは結局覚えててくれなかったのね。
煎餅なら何でも同じと思って瓦煎餅をくれたこともあったわ。
付き合っている頃からそうだった。私がお煎餅と言ったらそれは醤油以外ありえないのにあなたは絶対覚えてくれようとしなかった。煎餅食おうぜといって出てきたのがかっぱえびせんだったりピーセンだったり。軽薄そのものといった感じの薄いサラダ煎餅のこともあったわね。そのたびに私がどんなに心つぶれる思いをしたかあなたは知らないでしょう。最後のデート覚えてる?「はいお煎餅」といってあなたが持ってきたのが歌舞伎揚げよ。あれが決定的になったわ。醤油煎餅じゃないものを平気な顔で煎餅と言う人とはもう一緒にいられないと思ったの。
そんなとき夫に出会ったの。夫は私に柿の種とバタピーが混ざったのをくれて、私がピーナツは嫌いなのといったらひとつひとつピーナツを除けてくれた。僕はピーナツが大好きだからちょうどいいねって鼻血が出ているのにも気付かず必死にピーナツを口に放り込んでいた。ピーナツを取り除いた柿の種はちゃんと醤油の味がしておいしかった。ぴりりと辛い柿の種をかじりながら私はあなたとの別れを決心してこっそり泣いたわ。

別れの本当の理由をこれからも言うつもりもないけど、あなたって本当にそういう人。私の本当の心の中を知ろうともしない。

ああ醤油煎餅・・・A子は理想の醤油煎餅像を心に思い浮かべる。
出来ればあられみたいにちゃらちゃらしていないのがいい。おかきも悪くないけど、ぽいっと口の中に放り込めるような安易さがいまひとつ気に入らない。お煎餅はやはり手にしたときに存在感のあるシンプルで実直な丸い形状がいい。これからこれを征服していくのだという予感に身が引き締まる。手にとってバリッと歯に当てる。歯ざわりはさわやかでも噛み締めるとしっかり応えてくれるほどよい硬さがあるのがベスト。やはり米の産地、選別も大切になるだろう。醤油ももちろん厳選しなければならない。化学調味料の味がするようなものは言語道断。上質の煎餅は齧った途端わかるものだ。米と醤油の香りが鼻腔をくすぐる。健康な歯が、自分の仕事を喜ぶように小気味いい音を立てて咀嚼していく。内耳に響く音。そして隣にいる者にも煎餅を咀嚼する音は心地よく響くはずだ。米と醤油が織り成す日本の最高傑作。こんなきっぱりとした潔いおやつが他にあるだろうか。視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚。全てを総動員させて味わうこれこそ日本精神の結晶。
A子はうっとりと目を閉じる。

小さい頃から楽しいとき嬉しいときはもちろん、辛いとき悲しいときもあなたはいつも傍にいて私を励ましてくれた。長い外国暮らしもあなたがいなければここまで頑張れなかったかもしれない。ありがとうほんとうに。私はこれからも醤油煎餅の精神を忘れることなく生きていく。
改めて醤油煎餅への愛を確認しA子はいつの間にか滲んできた涙をそっと拭った。

どのくらいそうしていただろう。気がつくとあたりはすっかり薄暗くなっていた。
B男からの電話ではっと我に帰る。
「あっち断ったか?」
「B男君、私間違ってた」。
「そうだろ?昔の男なんかと付き合ったってろくなことないよ」
「そうじゃないわ。私分かったの。お煎餅は自分で買います。最初からそうすればよかったのよ。どうしてこんな簡単なことがわからなかったのかしら。
私は自分の働いたお金でいつでも自分の好きなときに醤油煎餅を買う女でいたいと思う。誰かにお煎餅を買ってもらうとか、連絡を待つとか、私今までなにやってたんだろう。大切なことに気がつかせてくれてありがとう。私はもう誰からもお煎餅を買ってもらうつもりはないわ。せっかくだけどあの店はキャンセルしてね。ごめんなさい。さようなら」

「A子? 何言ってるんだ?言ってる意味がわからないよ。横浜の醤油煎餅百枚どうするんだよ。要らないっていうのか?A子?」



B男の問いに答えずA子は静かに電話を切った。
男に買ってもらわなくたって埼玉にも千葉にもどこにでもおいしい醤油煎餅はあるのだ。地元の商店街にだって思いがけない煎餅との出会いはあるはず。醤油煎餅が醤油煎餅である限りそれは決して煎餅好きの女を裏切ったりしない。今後B男やC男と会うとしたら、それは煎餅を自分の金で買える者同士の対等な関係でということになるだろう。自分で買う煎餅に貴賎なし。昔の男がどんな煎餅をくれたかなんでもうどうでもいいのだ。
A子は財布を握りしめて力強く立ち上がる。
窓を開けるとすっかり暮れたと思っていた西の空には今まさに沈まんとする丸い太陽がまるで焼きたての醤油煎餅のように赤銅色に輝いていた。

醤油煎餅を買う女

醤油煎餅を買う女

醤油煎餅を愛してやまない女の物語。シリーズ第一作です

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-27

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