やさしいひと

 やさしいひとだと思っていたひとが、実は「ひと」ではなかったことに対しては、べつに、ひとでないのならばなんなのだって話だけれど、いまさらそのひとが何者かはどうでもよくって、それよりもやさしいひとが、黒いひとをいじめていたことが、ぼくはとてもかなしかった。
 黒いひとは、頭のてっぺんから、足の先まで、黒かった。
 髪が黒いとか、肌が黒いとか、着ている洋服が黒いとかではなく、とにかく全身が黒かった。
 髪と、顔と、首と、洋服との境目が、まるでわからなかった。二本足で立っていた。おそらくこの黒いひとは、生まれたままの姿なのだと思った。(そもそも「ひと」でもないのだけれど、他に形容する生き物が思い浮かばないので、黒い「ひと」とする)
 あれは雨の日だった。
 やさしいひとと、黒いひとと、ぼくは、お魚屋さんが一階の、海鮮料理屋さんが二階の、なにをやっているのか不明な会社らしき団体が入っている三階の、空いているんだか誰か借りているんだか謎な四階と五階の上の、屋上にいた。外観からは気づかなかったが、建物は正方形をしていた。
 しかし、まあ、ぼくと、やさしいひとと、黒いひとは、雨が降っている屋上でいったいぜんたい、なにをしていたのかといえば、なにをしていたのだったか、その日に行われる予定だった花火大会を見に行ったのだったか、それともただの気まぐれで上ったのだったか、そもそも誰から誘い出したのか、すっかり忘れてしまうほど昔のことではないはずなのに、一向に思い出せないのは、なぜだろうか。
 覚えていることといえば、花火大会は結局、雨で中止になったことと、それから黒いひとが、ぼくたちとは異なる言語を操るひとであったことくらいだ。
 黒いひとの言葉は、呪文のようだった。
 どこの国の言葉かたずねると、どうやらこの世界に存在しない国の言葉らしかった。
 存在しない国の言葉を黒いひとが、どうして知っているのか。だいたい、この世界に存在しない国って、存在しない国ならば、そんな言葉も存在しないじゃないか。ぼくがそう言うと、やさしいひとは、
「キミはなにも知らないのか、だがそこが良い」
と言わんばかりに微笑んだ。実際に言われたわけではないが、そういう感じの口元の上げ方をしたので、なんだかちょっと腹が立った。
 やさしいひとは、ぼくにも、大学の学生にも、お店の人にも、そのへんを歩いているおじいさんおばあさんや、小さな子どもにも分け隔てなくやさしいひとだったが、ときどき、一瞬、やさしくないひとになるときがあった。一瞬なので、すぐ、いつもの、やさしいひとに戻るのだけれど。
 やさしいひと曰く、黒いひとは、この世界ではない、ちがう世界からやってきた人で、道ばたで偶然知り合ったやさしいひとと意気投合して、しばらくこちらの世界に滞在することに決めたのだと。黒いひとの世界は、ぼくたち世界ほど栄えていないそうで、むしろ、近い将来になくなりそうなほど衰退しているそうで、できることならばこの世界の文化や技術を学んで、自分の国に持ち帰り活かしたいと熱意にあふれているのだと、やさしいひとはまるで我が身のことのように語った。やさしいひとが話しているあいだも黒いひとは、うんともすんともいわず、微動だにしなかった。黒いひとは、なんせ、顔も真っ黒く、目と、鼻と、口があるのかないのかもまったくわからないものだから、なにを考えているのかも一ミリとて読めなかった。
 うん、あれはけっこう、嫌な空気だった。
 なんかこう、ごわごわして、肌ざわりのよくないものが、まとわりついてくるような、そんな感じだった。あの雨の日の夜は。
 結局、あの正方形の建物になにをしに行ったのだったか、やさしいひとが一瞬、やさしくないひとになって、黒いひとはだんまりのままで、ぼくはやさしいひとの話に耳を傾けるだけで、黒いひととは打ち解けられずに、ただ意味もわからず不快な思いをしただけという。
 それから、すぐだったかな。やさしいひとが、黒いひとをいじめている現場を目撃したのは。
 あれは、でも、いじめているという表現が適当かどうかといえば、人によっては単なる性癖の合致、と思うような行為でもあった。
 黒いひとが、やさしいひとの靴をなめていた。やさしいひとはいつも、革の靴を履いていた。
 やさしいひとが、黒いひとの腹の上に乗っかっていた。黒いひとはなんせからだが真っ黒いのだが、仰向けに寝ているのか、うつ伏せに寝ているのかの判断はできた。やさしいひとが、黒いひとの顔を何度も、何度も叩いていたけれど、あの打撃が黒いひとにどれだけの痛みを与えているのかは、なぞだった。黒いひとはやはり、うめき声のひとつも上げていなかった。
 やさしいひとが黒いひとをいたぶるだけかと思いきや、やさしいひとが、悲鳴らしき声を上げるときもあった。けれども黒いひとが、やさしいひとになにかをしている様子はなく、やさしいひとだけがからだを動かしているようだった。部屋が暗くて、はっきりとは確認できなかったが、とにもかくにも、やさしいひとと、黒いひとが、ただならぬ関係であることだけは、わかった。
 黒いひとが住んでいるところを、ぼくは知らないし、黒いひとがなんという種類の生き物で、生まれてから何年経っていて、雄なのか、雌なのか、自分の世界に家族はいるのか、いないのか、それよりも目と、鼻と、口はちゃんとあるのか、いつも洋服を着ているのか、着ていないのか。きいてみたいことはたくさんあったが、黒いひとの言葉はこの世界に存在しない言葉なものだから勉強のしようがなくて、やさしいひとが翻訳してくれるのだけれど、でも、やさしいひとの手をわずらわせるのもなと思ったし、というかやさしいひとは、なんで黒いひとの言葉がわかるのだろうと首を傾げもしたけれど、どうやらやさしいひとも、ぼくのような「ひと」ではないようだし、なんかこう、「ひと」ではない生き物同士のなにかがあるのかな、なんて思った。
 それよりも、ぼくはね、やさしいひとが、黒いひとの顔を叩いていたことが、ほんとうに、ほんとうにかなしかった。
 黒いひとが、かわいそうだった。
 やさしいひとは、やさしいひとの皮をかぶった、やさしくないひとだったのだ。
 信じていた神様に裏切られた気分で、ぼくは、コンビニエンスストアで、ひとつ三百円くらいするアイスクリームを買って、たべた。黒いひとにもぜひ、たべさせてあげたいなと思った。 

やさしいひと

やさしいひと

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-23

CC BY-NC-ND
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