夜明け頃には

 土屋桜子の廊下を歩く足取りは緩やかだった。初めてクラスの担任を任されることになり、長年の夢が叶った喜びで、自然と胸は弾んだ。
 それでも、緊張も多分にあった。
(私のような若輩者に、担任が務まるだろうか。子どもたちと上手くやっていけるだろうか)
 桜子が着任した学校は、都内の公立中学校。ビルが立ち並び、都会のど真ん中で、自然が少ない。校庭も狭い方で、横に幅を取れないから上に積み上げました、と言いたげな校舎は、五階建て。さらに屋上つきで、地下にも一階分のスペースを有する。
 生徒は多くない。少子化の影響で、一学年、七十人に満たない。三十人程度のクラスを二つしか作れず、つまり担任は六人しかいない。
 桜子は、その栄えある一人に抜擢されたのである。大学を卒業して間もないにもかかわらず。
「土屋先生は、あのN大学の卒業生ですから、非常に期待しております」
 桜子は、教頭先生が自分の自己紹介の後で言った言葉を思い出す。プレッシャーにしかならなかった。N大学は全国でも最難関と言われる所だが、そこに行ったからって、誰もが優秀とは限らない。机に向かった勉強ができても、先生という職業は知識だけで何とかなるものではない。
 期待される分だけ、不安を覚えた。
 しかし、先程も述べたように、教師は長年の夢だった。教師になれた喜びはひとしおで、これから始まる学校生活は楽しみでもあった。
 教室の前まで来た。中から生徒たちの話し声が聞こえる。元気な子たちだろう。笑顔で騒いでいる姿を思い浮かべ、目尻を下げた。
 深呼吸をし、よし、と呟いてから、教室のドアを開けた。昔から変わらぬ、横に開閉されるドア。
 上から黒板消しが落ちてくる、ということはなかった。ドラマや小説で見たことのある光景が浮かんだが、現実にはお目にかかれなかった。今どき、それは古いのだろうか、と桜子は思った。
 教室のざわめきは収まっていた。自分に視線が集中しているのが分かる。黒い名簿を抱えながら歩いて、教壇の前で彼らの方を向いた。何人かの生徒と目が合う。笑顔で見つめ返し、そのまま教室一帯を見回す。
 生徒の数が少ないこともあり、自分の学生時代に比べると、スペースに余裕があるように感じた。窓から降り注ぐ日差しも心地よい。
「起立」
 声が上擦らないように、号令をかけた。
「気を付け」
 真面目にすぐ応じる人も、だるそうにやる人もいて、その速度はばらつきがあったが、それが微笑ましかった。
「礼」
「おはようございます」
 さすがに三十人ともなれば、その挨拶は感動的だった。「おはようございます」と少し遅らして言いながら、桜子はその感動に浸った。
「着席」
 がたがたとイスを動かしながら、それぞれが席に着く。学生時代、席に着く瞬間に、イスを引いて、しりもちをつかせる悪戯をする男子がいた。座る生徒たちを眺めて、それを思い出した。
「はじめまして」
 緊張はあるが、生徒たちを前にして気分は高揚した。言葉も、すらすらと出てくる。
「このクラスの担任を務めることになりました、土屋桜子です」
 と言って、黒板の方を向いた。白いチョークを一つ手に取り、縦書きで「土屋桜子」と書く。書き終えて、前を向いた。
「みなさん、三年生ということで、受験生ですが、受験勉強のサポートをしていきたいと思うので、気軽に、何でも相談に来てください」
 教壇の上に置いた名簿を手に取る。「それでは、出席を取りますね」と言って、名簿を開いた。三十人の名前が上から順に並んでいる。
 そこで桜子は、しまった、と心の中で叫んだ。ふりがなを確認していなかった。読み間違えたらどうしよう、と不安になる。
「浅井将太君」
「はい」
「大越光希君」
「はい」
「柿沼奏多君」
「はい」
 思ったより、大丈夫そうだ。桜子は胸をなでおろす。
「片桐陸翔君」
「はい」
 その後も順調に進み、男子も終盤に差し掛かった。
「長潟真一君」
「はーい」
 間延びした返事が返ってきた。面倒くさそうに、イスに深く腰掛けている。
「ちゃんと返事しなさいよ」
 どこからか女子の咎める声が聞こえた。その方と思われる方に目をやると、黒髪のショートカットの女の子が目に入った。かわいらしい顔付きで、体型は華奢で小柄だが、その発言と表情から真面目さが窺える。
 男子が終わって、女子に入る。ここまで、順調に来ている。
「井上月子さん」
「はい」
「金山節子さん」
「はい」
 次の名前を呼ぶ前に、さっきの女の子が目に入った。次は、彼女か。言い訳をするわけではないけど、彼女自身に集中を何割か持って行かれてしまったため、読み間違えてしまった。
「川島セイメイさん」
 教室に笑い声が起こった。すぐに、間違えたのだと気付く。名簿に目を落とし、名前をよく見直す。「川島世明」と記されていた。
 間違えたのは分かったが、じゃあ何て読むのか、思いつかなかった。
 すると、その彼女は毅然とした態度で、「ヨアケです」と言った。そうか、世明でヨアケと読むのか。何となく、いい響きだと感じた。
「ごめんなさい、世明さんね。もう覚えました」
 それが、世明と桜子の初めて会った日のことだった。

 桜子がいなくなった後の教室は、再びざわめきを取り戻した。あちこちに数人ずつの塊ができていた。
「何か、楽そうだね。今度の担任」
 塊の一つにいる竹花梨沙子が言った。顔には化粧が施されていて、髪も茶色く染まっている。いかにも、最近の若者を体現した感じだ。
「だね。若いし」
 近くで、足を組んで座っている沼津亮子が同調した。自分で短くしているスカートから白い足が露わになっているが、気にする様子はない。
「しかも、国語の先生らしいよ。睡眠時間で決まりだね」
 井上月子が笑顔とともにそう言った。本来の形状が分からなくなるぐらい、目にアイシャドーを塗っている。
「マジ? よかったー。国語、眠すぎるんだよね。去年、さんざん怒られたし」
「ああ、やばかったよね、ムラタ。いかつい顔して、耳元で怒鳴ってさ。耳がいかれるっつの」
「あの授業、どう頑張っても寝るんだけど。読んでるだけとか、マジ無理」
「ね。……それよりさ、昨日のドラマ見た?」
 三人の話は笑い声を挟みながら、様々な方向に進行した。周りの人に聞こえるぐらいの声で、抑える気がさらさらない。教室の騒がしさの要因の大部分が、彼女らによって、と言っても過言ではない。

 全くうるさいなあ。
 彼女らのうるささに辟易しているのは、川島世明。先程、桜子に名前を読み間違えられた少女だ。参考書とノートを机の上に出して、受験勉強にいそしんでいる。彼女は学年で三本指に入る学力の持ち主だ。
 それにしても、と世明は思う。あの、私をセイメイさんとか言った担任は――まあ、私が名前を間違えられるのは初めてじゃないからいいけど、みんな揃って「セイメイ」って、安倍晴明じゃないんだから――大丈夫かしら。早速、舐められてるけど。亮子の言うとおり、あんなに若いのに担任って、そんなに優秀なのかな。
 土屋――桜子か。世明は前方の黒板に残っている名前を見て、確認する。大きさも丁度よくて、字はきれいだ。
 その日は授業がなく、午前中で下校となった。帰りの挨拶をするとき、梨沙子たちがぺちゃくちゃと喋っていたけど、早くも学級崩壊の兆しだわ、と世明は嘆いた。
 私が何とかしなくちゃ。

 翌日は一年向けのオリエンテーションが行われた。簡単な委員会紹介と、部活紹介。進行役は生徒会で、その中には世明の姿もあった。世明は、生徒会副会長を務めている。
 委員会は昨年度までの委員長が話したが、今年度で代わるから、そんなに熱は入っていない。そもそも、委員会に全力を注いでいる人は少数だ。
 一年生は時折、笑うことはあっても、基本的に大人しく耳を傾けていた。最初は健気なものだ。この前まで小学生だったから、中学校の雰囲気に圧倒されているのだろう。でも、かわいく見えるのも今のうち。そのうち、慣れてくると、かわいげのないやつが増えてくる。
 全ての委員会と部活が紹介し終えると、生徒会が一年の前で一列に並んだ。三年生四人、二年生二人の計六人。もうすぐ、役割が終わる。世明は、胸に寂しさを覚えつつも、笑顔で一礼をして、オリエンテーションを終えた。

 不思議な造りだなあ、校内を歩きながら、桜子は思う。五階建てにしたのはいいけど、一階ごとの面積はそんなに広くないから、結局、普通の公立中学校と同じぐらいしかキャパはない。
 第一、体育館が三階をほぼ占領しているのは奇妙だ。エレベーターを取り付けてないから、下級生は毎日、体育館の横を通る。一年生が五階で、二年生が四階だ。子供たちは元気があるからいいけど、先生方は一苦労だ。まあ、運動になると言えばなるけど。
 地下には技術室と理科室がある。どちらも、日当たりがないけど、何となくイメージと合っているから(決して、技術や理科が暗いというわけではなく)、この配置は適格だったと勝手に思う。
 三年生は二階に教室がある。先輩だから、一番楽できるというわけだ。職員室は一階にある。
 プールは見晴らしのいい屋上にある。厳重なフェンスで囲まれているため、危険はないが、学校をフルに使っているなあ、という窮屈感を覚えないでもない。
 桜子は、自分の教室の戸締まりをしてから、隣の図書室を覗いてみた。学生時代、勉強に図書館を活用してきた桜子にとって、図書館は馴染み深い場所だった。もちろん、この学校の図書館とは初対面もいい所だが、その雰囲気を好んでいた。
 中には、一人しかいなかった。机に参考書を並べて、ノートにかじりつくようにして、シャープペンシルを持っている手を動かしている少女がいた。世明だった。桜子は、その姿がかつての自分と重なり、一瞬で好印象を抱いた。
「川島さん」
 邪魔しちゃ悪いと思ったが、声をかけずにいられなかった。
 すると、世明は笑顔で迎えてくれた。「あ、先生。今、一段落ついた所なんですよ。話し相手になってくれませんか」窓から注ぐ日差しと重なって、余計にその笑顔が眩しく見えた。出会ってから初めて見る笑顔だったが、陽だまりみたいな明るさだった。
 桜子は向かいの席に腰掛けて、「受験勉強?」と聞いた。
「はい」
「偉いですね、早めのスタートで」
「そんなことないですよ」世明は表情を変えずにそう言った。「どうせ、家でやってるんですよ、みんな。私は家が狭いし、汚いからここでやってるけど、だからってみんなよりやってるわけじゃないんです」謙遜ではなく、本気でそう思っているようだった。
 飽くなき向上心の持ち主なのだなあ、と桜子は感心する。中学生なのに、立派なものだ。
「私も学生の頃は、図書館で勉強してましたよ」
「そうなんですか」
 世明は興味なさそうに呟く。
「他にこれといった趣味もなくてね、暇があると、じゃあ勉強しようってなって、本当に勉強ばっかりしてました」
「先生、大学はどちらでした?」
「N大学だけど」
 世明は、あっと一言漏らして、「私、そこに行きたいと思ってるんです」と続けた。
「本当? 中学生で大学のこと考えてるの」
 実を言うと、桜子も同じタイミングで考えていた。明確な目標があると、やる気も違うだろうと思っていた。
「川島さんなら行けますよ。こんなに頑張ってるんだもの」
 と桜子が言っても、世明は表情を明るくせず、「まあ、まだ先の話なんで、何とも言えないです」と言った。
「そうだ」
 桜子は昨日の出来事を思い出す。「ごめんね、名前、間違えて」
「いいですよ、別に」
 世明は、何だそんなことか、という顔で返す。「初めてじゃないですし」
「世明って、珍しい名前ですよね。……あ、言い訳じゃないけど」
 桜子は慌てて取り繕った。
「いえ、先生の言うとおりですよ。今まで、同じ名前の人に会ったことはおろか、テレビで見たこともありません」
 先生みたいな普通の名前がよかったです、と最後に付け加えた。あんまり褒められてないなあ、と感じずつも、桜子は笑顔で返した。

「世を明るくして欲しい、っていう親の願いが込められているんです」
 聞かぬ先から、世明が桜子に名前の由来を教えた。桜子は感心した。
「素晴らしい名前ですね。それに――」
 桜子は、今日のオリエンテーションの光景を思い出した。「現実に実行してるじゃない。生徒会なんでしょう」
「まあ、副会長でしたけど。それに、世の中よりもずっと小さい学校ですし」
 世明は相変わらず、褒めても照れなかった。満足しにくい性格らしい。褒められるのが嫌いなのかな、とも思う。
「でも、すごいことですよ」
 と言ってから、桜子は時計を見た。「あ、そろそろ帰らないと。最終下校の時刻になりますよ」
「あ、本当ですね」
 世明は立ち上がると勉強道具を鞄に入れて、「さようなら」とスタスタと歩き出した。が、ドアの前で立ち止まって、桜子の方を振り向いた。
「先生は、どうして先生になられたんですか?」
 世明は、真面目な表情でそう尋ねた。桜子は、ふふ、と小さく笑って、「それは明日にでも、ゆっくり教えてあげますよ。今日は帰りなさい」と答えた。
「そうですか」世明は納得し、改めて「さようなら」と言った。
「さようなら」
 桜子はそれを見送った。微笑を表情に残していた。
 ああ、やっぱり、学校とはいい場所だなあ。心が満たされるのを感じながら、桜子も図書室を後にした。

 はあ。世明は、歩きながらため息をついた。結局、一番聞きたいことを聞けなかったなあ。忠告もできなかったし。まあ、明日でいいか。
 人通りの多い街中を抜けていき、世明は家路をひた歩く。

 翌日の二時間目、桜子の初授業は、自分のクラスだった。忘れ物がないか何度も確認して、少し早めに職員室を出た。昔から、時間をきっちりと守らないと気が済まない性分だった。
 チャイムが鳴るまで廊下で待機し、通り過ぎていく生徒たちを眺めていた。水族館みたいで、見ていて飽きなかった。通りがかる度に、おはようございます、とちゃんと挨拶していく人もいれば、こっちが言ってから、っす、とだけ言う男子がいたりして、様々だった。
 チャイムと同時に教室に入ると、生徒たちが、波が引いていくように席についた。
「号令」
 と言うと、日直の大越光希が「起立」と声を出す。合わせて、生徒たちが立ち上がり、礼をし、また座る。
「今日は」教壇の横に出て、ゆっくり歩きながら今日の予定を告げる。「みなさんのことをよく知りたいので、順番に自己紹介してもらいます」
 あちこちから、色んな感情の声が上がる。そのほとんどが歓声。男子の中では、誰か時間稼げよ、とでも言っているのであろう。
「出席番号順に、名前と部活、あとは出身校でも、血液型でも、誕生日でも、何でもいいから、教えてください」
 左の方に顔を向け、「では、浅井君から」と指名する。浅井は大儀そうに立ち上がって、自己紹介を始める。
「浅井将太です。部活は……」
 自己紹介は、たまに起こる笑いが教室の雰囲気を作って、進んでいく。和やかだ、と桜子は感じた。時折、質問や感想を挟みつつも、なるべく彼らの自主性に任せた。彼らの中の面白さは、彼らにしか演出できないものがある。
 ところが、長潟の順番になって、その雰囲気が少し落ち着いた。見えないけど、それは感じられた。
「長潟真一です」
 それだけをぶっきらぼうに言って、すぐに座ってしまった。笑いが起こるかと思ったが、教室はしんとしている。
「あれ、それだけ?」
 桜子が尋ねると、「何でもいいって、言ったじゃないっすか」と無愛想な返事。
「先生、あいつ放っといていいです。いつも、あんなんですから」
 世明が呆れたように言った。そういえば、初日も長潟を叱っていた。
「は、何様? お前なんかに気安く、あいつ、とか言われたくねえから」
 長潟が言い返した。ポケットに両手を入れて、首を後ろに反らしながら。
「私も、お前なんか、って言われたくないけど。何で、そんなにツンツンしてんの? かっこいいと思ってんの?」
 世明も負けていない。
「うるせえ、ごみ。耳障りかつ目障りだから、消えてくれる?」
「長潟君」
 ここで桜子が割って入った。腕組みをして、長潟を真っ直ぐに見据えている。
「言葉遣いに気を付けましょう」
 長潟は何も言わずに、不機嫌そうに下を向いた。

 昨日と同じく、教室の戸締まりをしてから、桜子は図書室に顔を出した。約束していたわけではなかったが、期待していた。そして期待通り、世明は勉強していた。
「川島さん」
 世明は桜子を認めると、ふう、と息を吐いた。
「先生、長潟は一年の頃からああなんですよ。何言っても無駄なんで、放っておけば無害です」
 桜子は向かいのイスに座りながら、苦笑した。「そんなこと言わないの。クラスメイトなんですから」
「そうですけど、向こうに協調性の欠片もないもんだから、こっちも接する気が失せます」
 世明は心底、呆れている様子だった。どうやら、これまで彼が性格を直してくれるようにと、努めていたようだ。
「誰に対してもそうなの?」
「ええ」世明は頷いた。「彼、男子女子分け隔てなく無愛想に接するんです。リーダー格の、大柄な男子にも、かわいい女子にも、生徒会副会長の私にも」
「まあ、そうなの」
 桜子は心配になった。彼には、友達がいるのだろうか、と。
「おかげで、友達いませんけどね」
 桜子の疑問を読み取ったように、世明が言った。
 何か、理由があるのかしら。桜子は考えた。子どもは周りの環境に左右されやすいから、彼には何らかの事情があるのかもしれない。今度、少し調べてみるかな。
「あ、それより」世明が思い出した。「先生になった理由、教えてくださいよ」
「ああ」
 そう呟いて、桜子は笑顔を浮かべた。――先生になった理由、思い出すのは、高校時代の授業風景。
「憧れの先生がいたんです。高校時代、現代文の先生で、とても賢くて、面白い先生がいたんですよ。分かりやすくて、なおかつ退屈させない。その先生の授業は、私の楽しみな時間でした」
「へえ」
「私もこんな先生になりたい、と思うようになって、それで先生になったわけです」
「どうして高校じゃなかったんですか?」
 世明が尋ねると、「それは、子どもが好きだったから」と答えた。
「子どもって、すごく輝きに満ちている、というか、何よりかわいいじゃない」
 世明は黙って聞いていた。その目には、微かに否定の色が浮かんでいたが、桜子は気付かなかった。
「でも、勉強の面白さを伝えたいと思ったから、小学生より、中学生がいいかな、と思いまして」
「なるほど」
 世明は、机の上で組んだ手を見つめながら、呟いた。
「そういうわけなんです」
「よく分かりました。先生が、どうして先生になったのか」
 でも、と世明は言葉を継いだ。
「でも、先生は危ないですよ」
「危ない?」
 予想外の単語に、桜子は驚いた。私が、危ない?
「学校は、全然、理想にかなった場所じゃないし、子どもたちは、思うよりもかわいくないですよ」
 自分がその一例だ、と世明は思っていた。自分ほどかわいげのない中学生はいないだろう、と認識していた。
「だから、真摯に取り組むだけじゃ、上手くクラスを切り盛りできないですよ。一歩引いて、後ろから見守るのがベストです」
 桜子は驚きを重ねた。まさか、教え子の一人からアドバイスを受け賜るとは。こんな幼い瞳の持ち主に。そう思って、世明の瞳を見つめた。澄んでいるが、落ち着きすぎている。
「そんなことありませんよ。確かに、学校は完璧な空間ではない。だけど、素敵な空間よ。――川島さん、あなたも幸せを見つけられますよ」
「幸せ?」
 世明は声に出して笑った。そして、予想外、と漏らした。
「予想外?」
「だって、私みたいな年下に言われたことに対して、真面目に返すなんて。考えてなかった」
 ふふ、と重ねて笑った。「先生、面白い」
「面白い?」
 桜子は、さっきから主導権を握られっぱなしだなあ、と思いつつも、目の前の少女の話に耳を傾けた。自然と引き込まれた。私にないものを、この若さで持っている。
「私が助けてあげるよ。学級委員になって、先生のサポート役になってあげる」
「まあ」
 桜子はそれしか出てこなかった。そんなものいらない、とも、嬉しいありがとう、とも思わなかった。違和感のない、用意された設定のように感じた。
「今度は、クラスを明るくするために、頑張ってみようかな」

 土曜日の三時間目。委員会決めの時間が設けられた。
「では、まず学級委員を男子一人、女子一人、決めてから、その後の委員決めは、その二人に任せたいと思います」
 学級委員は、決まったらすぐ初仕事として、その他の委員決めの進行役をする。
(委員会って、面倒くさい、って言う人が多かったけど、私は楽しかったなあ)
桜子は学生時代を思い出しながら考えた。桜子は図書委員が多く、当番を進んで人より多く引き受けた。ちなみに、学級委員は一度もやったことがない。
「では、立候補したい人は手を挙げてください」
 すると、宣言どおり世明が手をサッと上げた。周りの目も、納得の視線を送っているようだった。
「川島さんの他にはいませんか? 男子も立候補しませんか?」
 世明の他に手を上げている人はいない。桜子はしばらく様子を見ていたが、上がりそうな気配はない。
「いないのなら、女子は川島さんで決定になります。よろしいですか?」
 容認を示すための拍手が鳴り響いた。世明は小さく頭を下げて応えた。
「男子はどうですか? いない場合は、推薦になりますが」
 推薦、と言うと、教室は少しざわついた。お前やれよ、嫌だよ、お前こそやれよ、あいつでよくね。はっきり聞こえなくても、そんなやりとりが想像される。
「先生」
 見ると、晴れて学級委員に決まったばかりの世明が、再び手を上げていた。
「はい、川島さん」
「推薦していいですか?」
 教室の音が一気に消える。誰もが、誰が指名されるのかと思いを巡らす。
「どうぞ」
「中園君がいいと思います」
 ああ、と納得の声が上がり、続けて一部の男子から冷やかしの声が湧いた。世明が指名したのを、好きだからだと――本当にそう思っていないにしても、からかい半分で――受け取ったようだ。
 しかし、世明がそれをぴしゃりとやりこめた。
「別に、他にふさわしい人がいなかったから、推薦しただけです。つまり、それ以外を消去法で消した結果ですから」
 キビシー、と冷やかした男子から声が出たが、さっきよりボリュームが落ちていた。
 桜子は世明の凄さを思い知る。彼女は、精神面で周りを飛び抜けている。でも、それは寂しい事実でもある。
 ハッとして、中園の方を見る。もう決まったような気になっていたが、中園本人の希望を聞いていない。
「中園君、どうですか? 嫌なら大丈夫ですよ。強制するつもりはありません」
 眉毛に届かない短髪で、メガネをかけている彼は、いかにも真面目そうに見えた。世明が推薦するぐらいなのだから、そうなのだろう。
「いいですよ。引き受けます」
 思ったより小さいが、きっぱりと爽やかな口調で、中園が答えた。
「ありがとうございます。それでは、中園君と川島さんを学級委員に任命します。前に来て、それ以外の委員会決めを仕切ってください」
 応じて、二人が立ち上がり、教壇の前に出る。桜子は入れ違いで席の間を抜け、教室の後ろに立つ。普段と景色が変わり、新鮮だった。生徒たちの後ろ姿を眺め、桜子はちょっと顔をほころばせる。

「よろしく、中園」
 世明は、笑いかけた。
「こちらこそ」と中園が応じる。
「勝手に推薦しておいて悪いんだけど、私が進行するから、黒板、お願いできる?」
 世明は初めからそうしようと決めていた。
「いいよ」
 そして、中園がそう答えるだろうと予測していた。中園は、勉強は学年でずっと一位で、世明も負けているが、性格は大人しい方で、本当は人前に出るのが苦手だ。世明は、それでいいと思っていた。クラスを明るくするのは、自分一人でいい。だから、男子に余計なことをしてもらいたくなかった。
 世明は正面に向き直ると、早速、委員会決めを始めた。
「じゃあ、黒板に書いてある順番で決めていきます」
 黒板には、紙を見ながら中園が書いたチョークの字があった。あんまりきれいじゃない。でも、チョークで上手く書くのは難しいことだ。実際、中園はノートの字は達筆だ。
 最初に書かれているのは、生活環境委員だった。
「生活環境委員、男子女子それぞれ一人ずつです。やりたい人」
 
 ひとまず全ての希望を聞いて、人数が丁度いい委員は決定にした。すると、人数が合わない。手を上げてない人が三、四人いた。
「誰か上げてない――ってか、長潟でしょ、一人は」
 世明が指摘すると、「人に指差すな、カス女」と答えが返ってきた。
「カスでも、何でもいいけど、早く決めてくれる?この時間が面倒くさいんなら、早く終わらせるように協力しなさいよ」
 ちっ、と舌打ちをして、長潟は体を起こし、机に腕を置いて、黒板を眺めた。
「あ、保健委員が楽そう」
「もう埋まってるから。希望とおしたいんなら、最初から言ってくれる?」
「はあ? じゃあ、やりたいのねえよ」
「長潟君」
 後ろで静観していた桜子が口を開いた。
「図書委員になりません? 楽しいと思いますよ。私が担当です」
 長潟は一瞥しただけで、聞き流す態を取った。無視したのかと思ったが、「じゃあ、それで。何でもいいし」と言った。
「はい、長潟は図書委員ね」
 と言ってから、世明は教室を見渡した。あとは、誰だろう。
「はいはい、私たち、まだ上げてない」
 すると、竹花梨沙子の声がした。合わせて、沼津亮子と井上月子も手を上げていた。
「私たち、別にやりたいのないから、適当に決めちゃっていいよ」
 竹花が代表して言った。今日は髪をシュシュで束ねている。
「そうはいきません。せめて、残ってるのから選んでください」
「えー、じゃあ、一番左ので」
 一番左は体育委員だった。体育委員は六人も枠があって、五つ埋まっていた。
「分かった。亮子と月子は?」

 春の日差しが、二人の話を聞きに来るように、毎日、光を窓の形に合わせて遊びに訪れていた。桜子と世明は、今日も図書室で話していた。今日は、桜子が多少、勉強を教えた後で。
「先生、国語以外も教えられるんですね」
 世明はいつにないくらい興奮を浮かべていた。
「まあ、中学の内容くらいでしたら。文系でしたけど、数学は好きでしたし」
 桜子は久々の内容に、楽しんでいるふしが窺えた。
「しかも、教え方上手いんですね。失礼ですけど、意外です」
「失礼ですね」
 二人は笑った。桜子は嬉しかった。憧れの先生のように、分かりやすい教え方ができていることに、満足していた。
「何ていうか、引き出しが豊富で……本当に、ずっと勉強してきたんですね」
「上から目線ですね」
 桜子は苦笑した。でも、やはり嬉しい。
「委員会、ちゃんと決まりましたね」
 世明の学級委員としての初仕事、委員会決めは滞りなく進み、全ての委員が埋まった。
「委員会決めぐらい、私じゃなくてもできますよ。問題は、これからです」
 世明は満足そうな素振りをまるで見せず、そう言った。
「これから?」
「はい。クラスを良くするためには、何か目標を決めて、全員でそれを目指すのがシンプルでいいと思います」
「なるほど」
 桜子は感心してしまった。
「三年生って、受験があるから、それに対する意識の違いで――例えば中園や私のような人と、長潟とか梨沙子たちの違い――それが絶対にあって、そしてそれがクラスのまとまりをなくすんです」
「そうね」
 桜子も学生時代、受験期はクラスが明るくなかった印象を覚えている。ただ、本人はそれをあまり気にしていなかった。
「勉強を頑張ってる人は、ストレスを溜め込む。志望校が漠然としてる人は、去年までと違うクラスの雰囲気がつまらない。目に見えない溝が自然とできて、それはひとまたぎで越えられなくなるほどに大きくなるんです」
 世明は予測の域を越えて、断定していた。
「川島さん、まるで経験してきたように言いますね」
 桜子のように、教師なら言えるかもしれない台詞を、世明は強い自信とともに口にする。それが、驚きだった。
「…………」
 世明はそれに対して、何も答えなかった。そんなの、どうでもいい、という顔をして口を結んでいる。
「中園君は、頭いいんですか?」
 桜子は話題を変えた。彼女の頭には、世明が中園を堂々と推薦した光景が残っていた。
「とても。私、彼には一回も勝ったことないんです」
「まあ、すごいですね」
「学年でも一位で、たぶん、二年間ずっと」
「へえ……それでパートナーに選んだわけね」
 世明は「いえ」と首を横に振った。「本当は、誰でもよかったんです。ただ、余計なことされても困るので、話が分かる人がいいかな、と思っただけです」
 中学生らしくない、現実的な意見だった。
 桜子には、彼女の言わんとすることは分かった。確かに、中園は世明と同じぐらい賢い。だが、性格は控えめ。世明が主導権を握るのも容易いだろう。
「恋愛感情は、全くないの?」
 桜子は尋ねた。それこそ、中学生らしさの表れだ。
「恋愛感情?」
 世明は、初めて知った単語のように、無機質に「恋愛感情」と口にした。「ありませんよ。あったとしたら、あんなにあからさまなことしませんよ。バレバレじゃないですか」
「まあ、そうね」
 桜子は苦笑した。予想した答えだったが、まだ幼い少女を前にすると、違う答えが返ってくるのではないかと期待してしまう。
「恋愛、したことないんですよね。いまいち、どんなものか分からなくて」
 世明は首を傾げて、目で桜子を捉えた。「先生、恋愛したことあります?」
 直球な質問だった。桜子は、はぐらかそうかと考えた。もう二十歳を越えて、恋愛をしたことない、ことはない。ただ、たいした恋愛もしてない。他人から言わしめたら、そういうものだよね、という程度のものだけだ。
「それは、これだけ生きてますから。大学で色々ありましたよ」
 結局、笑顔に混ぜて、目に見えなくなる具材のようにした。
「ははーん」
 しかし、世明は悪戯っぽく笑っていた。
「今の言葉、裏を返せば、高校までは未経験、ということですね」
 未経験、と聞いて、あれのことかと思ったが、恋愛のことか、と思い直した。
「まあ、そういうことです」
「じゃあ、私もいいかな。大学生になるまで、このままでも」
「でも、川島さんはかわいいから、男子が放っておかないと思いますよ」
「自分の幸せを見つけろ、ってことですか?」
 世明はこの間の桜子の言葉を引き合いに出した。「少なくとも、今の私にとって、恋愛は幸せとイコールで結びつきません」恋愛どころか、具体的に幸せと結びつくものなんてないけど、と世明は心の中で呟いた。

*          *

 マンションと古びた一軒家に挟まれた道を、桜子は歩いていた。じっと、前を見据えながら。何も見逃さないぞ、という意志を表すかのように。
 前ばっかり見ていて、横に対して不注意だった。一軒家の中にいた犬に吠えられて、必要以上に飛び退いてしまった。恥ずかしさに頬が赤くなり、マンションの住人に見られなかったかと気になった。気になったからといって、そっちを見て誰かと目が合うのも恥ずかしかった。何事もなかったかのように、また前を見据えて歩き出した。
 曲がり角にいたって、桜子は迷った。右か左か。
 左から人の声がした。目をやると、老人男性が警察官に道を尋ねているようだった。脇にはパトカーが止めてあり、老人は巡回中のパトカーをわざわざ止めたのか、と思った。老人の話は要領を得ず、警察官は少し困り気味だった。
 彼らの横を通るのは何となく嫌だと思い、右に行き先を取った。
 また前を見据えて歩を進めていくと、向かいから桜子が求めていた顔があった。俯きがちに歩いていたが、ふと顔を上げ、桜子と目が合った。桜子は笑顔で手を振り、向こうは顔をしかめた。長潟だった。桜子は長潟に近付いた。
「こんにちは、長潟君。偶然ですね」
「絶対、偶然じゃねえだろ」
 長潟は桜子に背を向けて、来た方を歩き出したが、桜子はその横に並んだ。
「お出かけですか?」
 桜子が尋ねると、「そうだよ」と不機嫌そうに頷いた。
「どちらに?」
「どこでもいいっしょ。休みの日まで絡まないでくださいよ」
「つれないですね。あんまり急ぎの用事じゃなさそうですし、どこかでお茶しません? おごりますよ」
 断るかと思ったが、長潟は「いいっすよ」と承諾した。
「え、いいの?」
「先生が誘ったんじゃん。――ってか、おごるって、飲み物一杯だけじゃないっすよね? 好きなだけ、おごってくれますよね?」
「え、それは――」
 桜子は答えに詰まった。財布の中には充分あるが、先のことを考えると余裕はない。
 仕方ない。桜子は腹をくくった。
「もちろん、好きなだけ」

 坂を下りた途中、写真館の隣に小じゃれた喫茶店がある。人はいつも少なく、経営が上手くいっているのか気にかかる。この日も主婦らしき女性が二人しか客がいなかった。
「こうやって、生徒と先生が会ったりしていいわけ?」
 長潟は笑いながら言った。
「大丈夫」
 大丈夫な根拠は何もないが、とりあえずそう言っておいた。
 桜子が注文したコーヒーと、長潟が注文したサンドウィッチ、クロワッサン、ケーキ、紅茶がきた。数は多いが、値段はそんなに高くなかった。
「で、何か話でもあんの?」
 サンドウィッチにかぶりつきながら、長潟が聞いた。
「まあ、面談みたいなものです」
 桜子は笑った。警戒させてはいけない、本音を引き出さねば。
「面談? おれが問題児だから、こうやって休みの日に捕まえられたとか?」
「いえ、気になっていることがありまして」
「何?」
「どうして――長潟君は、みんなに対して無愛想に振舞うのですか?」
 長潟は無表情になって、言葉を発することをやめた。持て余した口を満足させるように、サンドウィッチの残りを食べた。
「他の先生に聞かれたこと、ありました?」
「いや、なかった」
「なかった?」
 桜子は意外に思った。
「あんたが初めて。他の先生は、おれのこと構わないから」
 長潟は自嘲気味に笑った。「おれが他人に冷たいのは、色々あるよ。メンドクサイから、つまんないから、疲れるから、だるいから、むかつくから。そんだけ」
 それは本音ではない。桜子は思っていた。本音を引き出すのが、今日の目的だ。彼の心の内を。
「そっか、人付き合いって、大変だものね。私も学生時代、色々あったから」
「へえ」
 長潟は心底、興味なさそうに呟いた。
 桜子は、話を違う方向に展開せざるをえなかった。
「長潟君、兄弟はいるの?」
「いませんよ」
「じゃあ、ご両親と三人家族?」
「親もいない」
「え……」
「なんちゃって」長潟は大げさに笑った。「先生、そんなに話すことないんすか?」
「ええ」桜子は正直に認めた。「さっきのことだけ。あと、顔を見ておきたくて」
 それから、二人はしばらく会話が途切れた。長潟は不機嫌そうに手と口を動かしていた。そんな姿を、桜子は笑顔で見つめていた。
「何、ニヤニヤして。気持ち悪いっすよ」
 やっと言葉を発した。
「いえ、いい食べっぷりですね。育ち盛りなんですね」
「知らねえ。何か、いつも腹が減るんだよね」
「それが育ち盛りですよ。長潟君、これから身長が一気に伸びそうですね」
 長潟は、クラスの中ですでに背の高い方だ。女の中でも背の高い桜子より少し大きい。数年後には、この差はもっと大きくなるだろう。
 全て食べ終わって、長潟は立ち上がった。
「ごっそうさん。もう、いいでしょ。おれ、行くから」
「はい、ありがとう。また明日」
 長潟は微かに頷いて、去っていった。桜子はその後ろ姿を眺めながら、真剣な表情で考え事をした。

「え、先生、長潟に会ったんですか?」
 放課後、図書室で世明は驚いた声を上げた。その日は、いつもより早い時間に桜子は訪れた。
「はい」
 桜子は自信ありげに言った。
「はい、じゃないですよ。何してるんですか」
 世明は呆れたようだったが、内心、微笑んでいた。やっぱり、この先生は面白い。他の先生とは違う。良くも悪くも。
「……それで、何か掴めたんですか?」
「えっと」桜子は答えに詰まった。「メンドクサイとか、だるいとか……」
「それ、他人とつるまない理由ですか?」
「はい。でも、そう言っていただけで、それが全てじゃないと思うんです」
「全てじゃないと思ったんなら、」世明は言葉を切った。「本当の理由は分かったんですか?」
「いえ、分かりませんでした」
「ふーん」桜子は呆れられるかと思ったが、世明はそう呟いて、顎に手を当てた。何か考えている。
「他には?」
「あ、あと――家族構成を」
「それ、学校の何か調べたら分かるんじゃないですか?」
 つくづく世明は鋭かった。桜子は慌てて弁明した。
「でも、それに対して、彼がどんな風に口にするのか確かめたくもあったんです」
「じゃあ、何が確かめられましたか?」
「彼は、最初、両親がいない、と言ってました」
「……ああ」世明は心得顔で頷いた。「そういえば、長潟の両親、すごく忙しくて、あんまり家にいないんですよね」
「そうなのですか?」
「――そういうの聞き出そうとしたんじゃないんですか……?」
「まあ」
 桜子は照れくさそうに笑った。
「あれ、」世明は突然、声を上げた。「何か、変。何か引っ掛かってる」
 頭を抱えて、唸りだした。桜子はわけが分からない、という顔で見守った。
「あ、分かった」
 世明は嬉しそうに桜子を見上げた。
「何がです?」
「あいつ、誰に対しても冷たいですよね」
「ええ、そうですね」
 そんな基本事項をどうして今さら、という気がしないでもなかった。
「なのに、先生には割りと普通に接してません?」
「ああ、そうですかね」
 でも昨日は、おごりだったからじゃないかな、と胸の内で思った。
「そういうことか、もう分かりました。私、帰ります」
 急に荷物をまとめて、鞄に詰め込み始めた。
 桜子は鞄に収められていく参考書類を見つめながら、「川島さん、宿題はいつやってるんですか?」と尋ねた。
「それは、休み時間とか」世明は悪戯っぽく微笑んだ。「授業中とか。時間の有効活用です」

(おれに両親はいない)
 長潟は寄り道して、街に出た。家に帰りたくない。でも、帰る場所は家しかない。
(他に居場所なんて、おれにはないんだ)
 父も母も忙しい、忙しいばっかりで、家にほとんどいない。まるでおれに興味がないようで、学校の話を聞いてこない。
 思えば、ずっとそうだった気がする。昔から、家に一人でいることが多くて、話し相手もなく、鬱々と過ごした。忙しいくせに、暮らしは向上していない。ということは、これからも変わらないんだろう、きっと。
 愛され方が分からない。愛されたことがないから、誰かに愛されたいと思っていても、上手く行かない。おかげで、友達が一人もできない。このまま、孤独に生きていくのだろうか。いつまで耐えられるだろうか。
「長潟」
 ハッと気付いて、前を見た。世明が立っていた。風が吹く度に、前髪が揺れる。
「川島?」
 長潟は、何してんの、こんな所で、と問いたげな顔で彼女を見つめた。
 世明は気付いていた。しつこいくらいに――まあ、本人の性格だろうが――、桜子が長潟に接して、長潟はそれを突っぱねなかった。きっと、長潟は桜子を気に入っているのだろう。そうじゃなくとも、その温かさを嬉しく思っていたのだろう。表に出して、伝えられないだけだ。その嬉しさを表現できないだけだ。
「あなた、本当は愛されたくてしょうがないんでしょ。でも、分かんないんでしょ。愛され方も、愛そのものも」
 だから、と世明は言葉を切った。長潟は黙って聞いている。このときばかりは、憎まれ口を憚った。
「だから、他の人があなたをどう思おうと、まず私と――土屋先生は、あなたを愛してあげる」
 変な意味じゃなくね、と付け加えた。
 ――先生、家族にまで踏み込んじゃダメですよ。
 世明は桜子とのやりとりを思い出していた。
 ――どうしてです?
 ――私たちにできることは、彼に手を差し伸べるまでです。あとは、彼がどうするかです。つまり、彼しだいです。
「あとは、あなたしだいよ」
 世明は返事を聞く前に、背中を向けて立ち去った。
 その背中をじっと見つめながら、長潟は、ありがとう、と呟いた。

*          *

「竹花さん、起きてください」
 桜子に起こされて、竹花梨沙子は机から身を離し、髪をかき上げる。それを見ながら、井上と沼津がクスクス笑う。
「井上さん、開いてるページが違いますよ。沼津さんも、板書してくださいね」
 言われて、二人も慌てて正面に向き直る。三人の勉強不熱心ぶりは、クラス内で抜きん出ていた。桜子はそれを強く叱らず、毎回、優しく注意する。
 気持ちよく寝ている所を中断された竹花は、鬱憤の晴らし場所を探すように、真後ろを向いた。真後ろの席は、金山節子だった。性格は大人しく、髪型はワカメちゃんカット。みんなからは、せっちゃん、と呼ばれている。
「あ、せっちゃん。似顔絵描いてあげるよ」
 竹花は板書中のノートをひったくって、ノートいっぱいに下手くそな絵を書き始めた。
「え、返してよ。写してる途中なんだから」
 弱々しい声で金山はそう言ったが、竹花は臆する気配もない。
「遠慮しないでいいよ。私、絵には自信あるから。……よし、できた」
 と言って、ノートを返すと、そこには幼稚園児が描いたような女の顔があった。ボールみたいに丸くて、黒髪が顔の半分を占めていた。
「ハハ、傑作」
 竹花はご機嫌に笑って、前を向いた。金山は文句の一つも言えず、描かれた絵を自ら消した。

 女子の体育は、ドッジボールだった。
 最後の一人となった金山は、自陣内の真ん中で身動きが取れず、固まっていた。それに向かって、外野の井上と沼津、内野の竹花が速いボールを投げつける。しかし、わざと外して、怖がる金山を見て楽しんでいた。
「せっちゃん、動かないとつまんないじゃん。動いてよ」
 三人は笑いながら、それを繰り返す。
 はあ、全く。
 世明はため息をついて前に出て、竹花に渡そうと井上が投じたボールを捕って、金山に山なりのボールを投げた。金山は動かないでそれに当たった。
「世明、かわいそうじゃん」
 竹花は、楽しみを中断されたことに対する不平を、別の言葉で投げかける。
「わざと当てないで楽しむ方が、かわいそうよ」
 世明は冷たく言い返し、金山の方へ歩いて行く。
「せっちゃんも、ドッチボールでそんな怖がることないよ。怪我するとしても、突き指ぐらいだし、他のスポーツよか、安全だから」
 慰めの言葉をかけられると思っていなかったのか、金山は一瞬、驚き、その後にこくこくと頷いた。

「前から気になってたんだよね。せっちゃん、大人しすぎるから、いじめの対象になりやすくて」
 図書室のイスに腰掛けながら、桜子に向かって世明が言う。手に持ったシャープペンシルを器用に回す。
「確かに、金山さんは自己主張しませんね。根はいい子ですが」
 回るペンを見つめながら、桜子が答える。桜子はペン回しができない。
「いいからこそ、梨沙子たちがまたつけ上がるんだよね」
 世明はペンを置いて、両手を頭の後ろにやる。
「まあ、竹花さんたちも悪い子ではありませんよ」
 桜子はペンを名残惜しそうに一瞥してから、世明を正面から見る。
「授業中、あんだけ寝られて、よく、そう言えますね。――先生の授業、かなり分かりやすいのに、あいつらちゃんと聞かないから。これでテストできなくて、教え方が悪いとか言うんですよ」
「今、褒めてくれましたね」
 桜子は子どものように目を輝かせていた。
「うん。私が人のこと褒めるの、めったにないよ。貴重だね」
「はい、嬉しいですね。川島さんに言われると嬉しいです」
 世明はその言葉を受け取ってから、しばらく、顎に手を当てて考えた。そして、桜子の顔を見つめながら、「先生、学生時代、いじめられてた?」と問い掛けた。
「いえ、全くありませんでしたよ」桜子はかぶりを振って、否定する。
「本当ですか?」世明は訝った。
「本当に」
「へえ、意外」
「え、意外?」桜子はきょとんとした。
「あ、口が滑った。いや、何か先生、周りとずれてそうだから、何となくそう思いまして」
「ずれてませんよ」
 桜子はさも心外、というように唇を突き出した。「さっきは褒めてくれたのに、掌返しますねえ」
「いやあ、性格が正直すぎて」
「――じゃあ、ペン回しを見せてくれたら許しますよ」
「え」世明はさっとペンを取って、また回しだした。「これでいいんですか? あ、もしかして先生、できないんですか?」
「できませんよ。ジェネレーションギャップですね」

「いじめって、いじめる方がもちろん悪いんですけど、いじめられる方にも理由があるんですよね」
 話をいじめに戻して、世明が言った。桜子も首肯する。
「そうですね。怨恨の類だけで説明できるものは、今時、少ないですからね」
「せっちゃんたちの場合も、むかつくとか、うざいとか、そういうのは全然なくて、せっちゃんがはっきり嫌だって言わないから、ずるずると長引いてるんです。だから、終止符を打つには、せっちゃんを変えさせるべきです。梨沙子たちじゃなく」
「ピリオドね……」
 桜子は何故か終止符を英語に言い換えた。「では、川島さんが諭すんですか?」
 世明は首を捻った。「それは、どうしようかと思っていて……私が実行してもいいんですけど、上手くいく自信がなくて……」
 桜子は目を丸くした。「あら、珍しいですね。川島さんが自信ないだなんて」
「私だって、まだ中学生ですよ。自信ないことは、両手で抱えきれないほどあります」
 二人の間に、束の間の沈黙が下りた。お互いに、最善の策を思案している。
 窓に目をやると、春の暖かい日差しは衣装替えし、夏の接近を感じさせる、じりじりとした日差しに変わっていた。季節の変わり目は非常に曖昧で、気がついたときには次の季節に移っている。まるで、時間を共有しすぎて、その成長に気付きにくい同級生のように。
「私が行きましょうか」
 桜子が呟いた。世明はその目をじっと捉えた。
「先生が……」
「はい」
 世明は少し迷っているようだった。彼女の中では、担任の先生に諭されて、自分が悪いことをしているみたいに誤解してしまう金山の姿が浮かんでいた。
「大丈夫ですか?」
 世明はもっと他に言いようがあっただろうが、この言葉しか出てこなかった。
 桜子はそれらを理解しているかのように、笑った。
「大丈夫です。ストレートに話すつもりはありません。彼女に気付いてもらえるように、物語をしてくるだけです」

「金山さん」
 鞄を背負って、さあ帰ろう、と思っていた金山を、桜子が引き止めた。金山はきょとんと桜子の目を見返した。
「はい?」
「ちょっと、お話があるので、いいですか?」
 金山は少しの間を置いてから、こくりと首を縦に動かした。
 桜子は、金山を連れて廊下の奥にある小部屋に向かった。セミナー室と呼ばれ、授業で使われることはないが、生徒たちの自習スペース、あるいは面談などで利用されている。
 室内に入って、手前のイスを金山にすすめた。金山はそれに座って、正面に座った桜子に話しかけた。
「あの、話って」
「いえ、なんてことありません。最近、何人かの生徒とお話しする機会を設けているんです。世間話に過ぎませんから、リラックスして、答えてくれればいいです」
 何人かの生徒、と桜子は言ったが、こんな感じで話したのは長潟だけだ。ただ、いつも図書室で話している世明を入れれば、複数人数になる。だから、何人かと、と言っても、嘘にはならない、と桜子は頭の中で考えた。
「じゃあ、まず」桜子は手元のメモ帳を見ながら切り出した。そこには何も書かれていない。「家族構成を教えてくれますか?」
「はい」金山はまだ表情が硬かった。「父と母と、兄が一人、それから祖母がいます」
「お兄さんは、何歳上ですか?」
「三つです」
「じゃあ、受験生ですね。二人も受験生がいて、大変そうですね」
「まあ――でも、親はあんまり勉強に介入してこないので、そんなでもないです」
「なるほど……ところで、部活は何部ですか?」
「私ですか?」
「ええ」
「テニス部です。あんまり得意じゃないですけど」
「中学に入ってから始めたんですか?」
「そうです。小学校時代は、運動が嫌いだったんで、何もしてませんでした」
 桜子は、だいぶ金山の舌が滑らかになってきた、と判断して、本題に入ろうと試みた。
「金山さんは、学校生活、楽しめてますか?」
「まあ、それなりに」金山は少し言いよどんだ。
「悩み事とかありませんか? 些細なことでもいいので、後学のために聞かせて下さい」
 金山は俯いた。いかにも、いじめについて言おうかと迷っているようだった。だが、桜子はそれには気付いていない振りをして、また話し出した。
「学生時代、私のクラスはみんな仲が良くて、いじめとか対立とかなかったんです。おかげで、私も気ままに過ごせてました。
 でも、仲が良すぎて、相手の気持ちを考える作業が疎かになっていたようです。楽しさを追求するあまり、踏み込んではいけない領域に踏み込んでいたり、知らずに誰かを傷付けていたり――」
 金山は顔を上げて、静かに聞き耳を立てていた。
「そして、ついに問題に発展したんです。一人の生徒がいじめられている、と先生に訴えて、そのいじめていたとされる生徒を公然と叱りつけたんです。相手の心を傷付けるのは、体に傷を負わせるよりもひどいことだぞ、って。今思えば、私は完全に理解していなかった。
 叱られた生徒たちの言い分はこうでした。だって、やめてって強く言わなかったし、楽しそうに笑ってるように見えたから、いじめとは思わなかった
 この場合、難しいのはその境目を見出すことです。でも、本心を明かさなかったら、相手に気づいてもらえません。いじめている側は当然、悪いですが、いじめられる側にも原因があります。やめてと強く言っていれば、相手も自分の言動を見直していたでしょう。言わなかったから、仲の良かった友達を訴えるまでに至ったのです……」
 金山の目には、何かが宿っていた。桜子はそれに気付いて、胸をなでおろした。
「ごめんなさい、懐かしくて、滔々と語ってしまいましたね」
「いえ、そんな」
「まあ、関係付けるんだとすれば、人間関係は難しいということです。金山さんは、学校生活を楽しめてるみたいですから、良好なようですが、これから何が起こるか分かりません。でも、そのときに、自分の意志をしっかりと伝えることが大事だと思います」
 そう言ってから、桜子は腕時計に目を落とした。「あ、もうこんな時間ですね。では、今日はこんな所で終わりにしましょう。またいつか、イレギュラーにお話しする機会を設けます」
「はい、楽しみにしてます」
 金山の表情はすっきりとしていた。吹っ切れたような。明るさが差し込んだような。

 昼食の時間、竹花が隣の席の金山の弁当箱に箸を伸ばしていた。
「これ、おいしそう。もらっていい?」
 すると、通りかかった井上と沼津も尻馬に乗った。金山は断りたがっていたが、ひきつった笑顔が顔に張り付いていた。
 世明はちらっと視線をやって、不安そうにその光景を眺めていた。頑張れ、せっちゃん、と心の中で祈っていた。
「い、嫌だ」
 金山が小さく呟いた。三人は、え、と戸惑った表情を浮かべている。
「嫌だ、あげない」
 もう一度、でも今度ははっきりとそう言った。小学生みたいな文章だったが、彼女にとって大いなる進歩だった。
 世明は席を立って、金山の後ろに立った。
「嫌だってさ」
 冗談にして紛らわすように、笑顔で言った。
「何だ、それじゃしょうがないね」
 井上と沼津は笑って、自分の席に戻った。
「よっぽどおいしいんだね。私、見る目あるかも」
 竹花も笑顔を金山と世明に振りまいた。見る目あるのは、先生だ。彼女たちは、悪い子じゃない。むしろ、お調子者の、すこぶるいい子だ。
「調子いいんだから」
 世明は笑い声を上げて、その場を離れた。金山は、竹花と一緒に笑っていた。本物の、心の底から湧き上がってくる笑顔。
 先生、やるじゃん。せっちゃんは少しだけど、変わったよ。
 世明は一人で微笑んだ。

*          *

 クラスをまとめるための一つの目標。受験は目標がバラバラで、それぞれがライバルになりかねないから、亀裂の発端になりうる。では、何でまとめるのか。分かりやすいのは、行事だ。優勝トロフィーなり、表彰状なりを目指すことで、連帯感が生まれる。自然とクラスの雰囲気は良くなる。
 世明たち三年生にとって、中学生活最後の体育祭が迫っていた。春先から受験勉強をスタートさせた人も、そうじゃない人も、まずは心の準備から始める。
 世明はこの行事を心待ちにしていた。団結することで、クラスがまとまる。厭戦気分を少しなりとも漂わせなくするのが、彼女の仕事だ。
 競技決めが学級委員の進行のもと行われ、個人競技は全て決まった。団体競技も色々あるが、全員参加だから考える必要はない。ただ一つ、例外は「クラス全員リレー」だ。「クラス全員リレー」は走順を考えなければならない。
 話し合いの末、学級委員と陸上部員たちに一任されることになった。
「じゃあ、今日中に決めると思うけど、文句は一切、聞かないからね。決定に従ってよ」
 世明がそう宣告し、競技決めは幕を下ろした。
 世明と男子学級委員の中園のもとに、このクラスの陸上部員、片桐陸翔と永瀬静香が集まった。
「あれ、陸部、二人だけだっけ?」
「ああ、ほとんど隣のクラスだから」片桐が答えた。
「だから、厳しい戦いになると思う」永瀬が付け足した。
「そっか……」
 世明は重く受け止めるように、頷いた。「あ、話し合いは、放課後――」どこでやるか考えた。浮かんできたのは、いつもの和み場。
「図書室で」
「うん」
「はーい」
「ああ」
 三人が三様に了解して、席に着いた。これから、ホームルームが始まる。

 桜子はリレーのことが気になって、いつもより速めに図書室に足を運んだ。顔を出すと、大きなテーブルを四人が囲んでいた。机の上には、それぞれの鞄と一冊のノート。ノートに走順が書かれているのだろう。
「どう、順調?」
 桜子が覗き込むと、あらかたの順番は決まっていた。
「はい、あと少しです」ストレートの黒髪を揺らして、永瀬が答える。
「どういう作戦なんですか?」
「終盤に重きを置く並びです」説明を請け負ったのは、世明。「速いランナーを後半に固めて、最後に逆転を狙います。序盤は厳しいかもしれないけど、追いかける方がスピードも出るんで」
「そうなんですか?」
「はい」片桐が代わって、答える。「言い換えれば、追われてるときは走者の心理として、安心しやすいもんなんです。切羽詰ってる方が、力入りますし」
「なるほどね――さすが陸上部」桜子は感嘆した。
 桜子は改めてノートを見た。空いているのは、アンカー前と中盤あたり。このリレーは女子スタートで、男女交互に走る。そのため、アンカー前は女子、さらに空いている中盤の空白も女子だった。つまり、女子二人が残って、どっちをどっちに入れようか考えているらしい。
「あと、誰が決まってないんです」
 桜子が問うと、世明と永瀬が手を上げた。
「私は、速い人を続けざまに置くのは、いくら終盤に勝負を懸けるにしても、危ないと思って、アンカー前は世明がいいと思ったんです」
 と、永瀬。
「私は、アンカー前なんて走れないって、断ったんです」
 とは、世明。
「川島さん、足には自信がないんですか?」
 そう言いながら、桜子は世明の足を見つめた。つられて、他の三人も見つめる。
 足を無遠慮に見られていることに後ずさりしつつ、「クラスでは、割りと速い方ですけど」と答えた。
「というか、私の次に速いんですよ」永瀬が力説する。
「女子の中でな」片桐が無用なツッコミをする。
「じゃあ、いいじゃないですか。川島さんがアンカー前を走れば」
 桜子に言われると、渋々といった形で、世明は承諾した。これで全ての走順が決まった。
「ちなみに、中園君はいつ走るんです?」
 口数の少ない中園に水を向けると、「二番目です」とはにかみながら答えた。
「え、そんなに早くに? 男子で一番、最初じゃないですか」
「それは、男子で一番、足が遅いからですよ」
 中園は自嘲気味だ。暗い影が見えそうなほど。
「そんなことないよ」
 そんな中園の手を、世明が握った。「たとえそうだとしても、全員リレーは全員で勝ちにいくものだから。より多くの人が全力を出し切った方が、最後に笑うんだよ。だから、私は期待してるよ。中園が全力で走り切ってくれることを」
「う、うん」中園が俯き気味に呟いた。頬には、赤みが射している。
 もしかしたら、中園は世明のことが好きなのかもしれない。世明の方は以前、否定していたが、本当にそうなのだろうか。と、桜子は思った。

「明日の体育祭、勝てるといいですね」
 体育祭を翌日に控えた金曜日の放課後。
 三学年を真二つに分け、縦割りで紅組と白組となっている。世明たちのクラスは白組だ。個人種目や団体種目の勝敗で得点が入り、当然、多かった方が優勝である。
「別に、勝てなくてもいいんですよ」
 世明はさらっと言った。桜子は目を見張った。
「え、学級委員がそんなこと言っていいんですか?」
「大っぴらに言うつもりはありませんよ。でも、勝てなくてもいい、というのが本音です。そりゃ、勝てればいいですけど」
「でも、クラスをまとめるのが――」
「それですよ」世明は言葉を遮った。「クラスが優勝に向かってまとまってくれればいいんです、要は。勝敗は二の次です。終わった後に、ああ、私たち頑張ったなあ、と思えればいいんです」
 相変わらず、世明の意見は現実的だった。中学生らしくなかった。大人でも、そう割り切っている人は少ない。
「かといって、私が手を抜くとかはしませんよ。ちゃんと、全力で汗流してきます」
 桜子はきょとんとした顔で一方的に聞いていたが、ふっと笑みを顔に広げた。
「分かりました。それが、川島さんの持論なわけですね」
「そういうことです」
 そういえば、と世明は話題を転換させた。「先生は、何かしないんですか?」
「私がですか?」
「はい。体育祭で何かしないのかと思いまして」
「しますよ。走るんですよ、全員リレー。一年生、女子の人数が合わないから、私が組み込まれちゃったんです。若いから、駆り出されたんですね」
「ああ、先生、抜きん出て若いですからね。でも、速くなさそうですね」
 世明は笑った。
「ご明察。私は運動嫌いのガリ勉少女でしたから。足を引っ張ってしまいそうで、不安です」
「リレーって、体育の先生は出ちゃいけないもんなんですか?」
 桜子は頷いた。
「はい、結果を大きく左右してしまいますから」
「でも、金子先生、そんなに速くなさそうだけどなあ」
 この中学校唯一の女性体育教師である金子瑞希は、小柄で、歳は四十前後に差し掛かっている。普段もベテランらしく、自信のこもった指導を展開するが、自らが動くことはあまりない。世明がそう思うのも無理はない。
「まったく、若いからって、走れると思うのは偏見ですよ。私みたいなノロマにとって、困ります」
「それは偏見じゃなくて、一般論だと思う。スピード云々は抜きにして、若い方が腰痛めるだとか、筋肉痛で使い物にならなくなる心配がないんですよ」
「そうですけど……」
「練習してないんですか?」
「してますよ、毎朝。みなさんが登校してくる前に、校庭で黙々と走りこんでますよ。――まあ、すぐに疲れちゃうんですけどね」
 ふう、と笑みの混じったため息をつくと、「川島さんは、すごいですね。勉強もできて、運動もこなせるなんて」と言った。おまけに、かわいくて、と心の中で付け足した。
「それはどうも」
 世明はさらっと受け流す。褒められても、めったに喜ばない性格なのだ。「所詮、学校内に過ぎませんよ。コツさえ掴めば、人並み以上にできるようになるのは、わけないですし。全国大会に出られるようだったら、本当にすごいと思いますけど」
 羨ましいなあ、と桜子は純粋に思った。学生時代、体育行事では足を引っ張りがちだった自らを引き合いに出し、自分が目の前の世明みたいに、頼られる存在だったら、と想像した。
「それにしても、」桜子が何を考えているのか知らない世明は、窓の外を見ながら呟いた。「明日、晴れるといいですね」
 外は曇り空だった。

 翌朝、引き続き曇天。雨は降っていないが、天気予報では雨が降るかもしれないので、傘を持って出かけた方がいい、と言っていた。時期的に、夏とも言えるし、梅雨とも言える。というか、どちらでもあると言える。夏で、梅雨。何とも蒸し暑い響きだ。
 ジメジメしていて、不快指数が急上昇かと思えば、世明たちのクラスは体育祭を前にして高揚感に浸っていた。どのクラスも、きっとそうだろう。体育祭前の湧き上がってくる感情は、爽やかで、清々しい。梅雨空が吹き飛んでしまうくらい。
 世明たちは、円陣を組んだ。担任の桜子も中に入った。
「誰が声かけんの?」
 一人の男子が呟いて、周囲を見た。竹花が世明を見つけて、「世明でいいじゃん。学級委員だし」と提案。何人かの人が同調した。
「私? こういうのって、男子がやるもんじゃないの?」
 と世明が言うと、中園に視線が集まった。
 世明は自分で言っておきながら、少し後悔した。大人しい中園では、あんまり気合が入らなさそうだ。
「想大、やるしかねえよ」片桐が言った。
「男上げろ!」隣で肩を組んでいる、サッカー部の大越も言った。
 世明は不安そうに、申し訳なさそうに中園の横顔を見つめた。すると、中園が口を開いた。
「分かった、おれがやろう」
 と請け負うと、息を吸い込んで、「絶対、優勝するぞー!」と普段の彼からは想像できないぐらい、大きくて、勇ましい声が響いた。
「おおー!」
 クラスの気合は、期待以上に高まった。
 中園は周りの男子に肩を叩かれながら、頼もしい笑顔で応えていた。
 桜子は、この間の世明が中園の手を握った瞬間を思い出した。これは、予想以上に効き目があったようだ。

「応援しなさいよ」
 日陰でお高くとまっている長潟に、しびれを切らした世明が注意した。
「おれ、そういうキャラじゃないじゃん。スポ根とか、青春とか、だるいんだよね」
 口はだいぶ、柔らかくなってきたが、性格は相変わらずだった。
「あのねえ、応援されたかったら、応援するものよ」
「別に応援されたくねえし。こんなくだらねえ行事、早く終われって話」
 世明は呆れたように、大げさにため息をついた。クラスでまとまるには、この協調性のない一員も同じ志を抱かせなければならない。何とも、難儀なことだ。放置してもいいのだが、桜子だったらそうはしないだろう、と思い直した。
「せめて、前に出て来て。突っ立って、見てるだけでもいいから。声は出さなくてもいいから。――お願い」
 世明の思い詰めたような声に、長潟はぎょっとした。
「何だよ、そんなに重い話? おれがここにいるだけで?」
 世明は上目遣いに長潟を見て、小さく頷いた。このとき長潟は、世明を初めてかわいいと思った。が、そんなことを考えている自分が嫌になり、すぐに打ち消した。
「中学校ももうすぐ終わるし、高校もあっという間に終わっちゃうよ、きっと。そんな中で、クラスが同じになる、っていうのは、奇跡みたいな確率なんだよ。運命だよ。何でもいいから、その繋がりを確認できる作業をしないと、中身のない学校生活になるよ。――だから、分かって」
 運命、か。長潟は口の中で言葉を噛み締めた。次いで、中身のない、も。
 世明の言っていることは分かっていた。自分を思っての言葉だということも。自然を生き抜く術を知らない小鹿に、優しく諭す大鹿のように。
「大げさだなあ」
 長潟は鼻で笑った。いつもの調子を保つように。「突っ立ってりゃ、いいんだろ?」そう言って、立ち上がった。
「声援を送ってくれたら、なおいい」
 世明は明るく笑った。喜ぶように。安心するように。
「はいはい」
 長潟は応援のために一列に並んでいる前線の端に加わって、腕組みをして見ることから始めた。
 徒競走を走る片桐が、近付いてきた。競っていて、歯を食いしばって頑張っている。
「陸翔、負けんなよ。そんなゴミみたいなやつに」
 長潟の声が響いた。ちゃんと、応援した。
「その調子」
 世明が隣に立って、肩を叩いた。「でも、言葉に気をつけなさいよ。相手をけなすような言葉は、スポーツマンシップに反するわ」
「今のは、癖みたいなもんで」
 長潟は照れくさそうに鼻をかいた。注意したが、世明には分かっている。誰かを応援することがないから、いきなりで気恥ずかしかったのだろう。それを紛らわすために、付け加えたのだ。
「いいわよ。ちゃんと声、出してくれれば」
 それにしても、と世明は重ねて言った。「あなた、ボキャブラリーが少ないね」

 午前の競技は、苦戦していた。個人種目が中心で、予定的に言えば順調に進んでいたが、世明たちのクラスは劣勢、と言えた。
 昼休み前に中間発表がされ、得点は大差をつけられて負けていた。
 しかし、午後の競技は得点の高い競技が並んでいて、毎年、午後で逆転することも珍しくなかった。世明たちは、諦めることはなかった。
 昼食を終えると、再びグラウンドに出てきた。この狭いグラウンドに、観客として保護者たちが押し掛けていた。開放された校舎に入って、窓から見守る人もいた。毎年のことだが、危ないなあ、と世明は思っていた。いつか、転落事故でもあったら、このシステム
は禁止されて、保護者は地上で見るしかなくなるだろう。
 午後の一発目で、クラス全員リレーが行われる。一年生から順に行くため、三年生は最後だ。
 空はからっと晴れていた。本当に、梅雨空は吹き飛んで行ってしまった。ただ、ちょっと暑すぎるきらいがある。それでも、雨が降るよりはいい。どうせ汗をかくのだから、思い切りかく方がいい。
 一年生がすでにリレーをスタートさせていた。グラウンドを半周でバトンパスする。
 いつ見ても、面白い。誰がこんな競技を考えたのだろう。走るのが得意な人も、苦手な人も、必死こいて走る。バトンを繋ぐ。期待は等しくないかもしれないけど、応援は等しくそそがれる。
 世明は後輩たちの走る姿を見つめながら、胸の中が快い感情で満たされていくのを感じた。

 桜子は感嘆した。このリレーは、壮観だ。遠目で見れば、繋げられていくバトンは壮観だった。サーカスを見ているような。オーケストラを見ているような。
 一方で、一人ひとりに目を注ぐと、また違う感想が浮かんだ。彼らは、誰一人として疎かにすることなく、全力を出している。自分のためだけじゃなく、仲間のために、クラスのために。
 嬉しい、と思った。微笑ましい、と感じた。
 桜子の学校には、全員リレーはなかった。あったら、自分も鈍足なりに、努力したことだろう。見ていると、自然とそう思えた。

 二年生が終わり、三年生の登場となった。世明たちは走順に並んで、トラックの内側で腰を下ろした。緊張感が高まってくる。
 世明はなるべく多くの人に声をかけ、笑顔を交し合った。浮ついている人は、気を引き締めなおすように促した。そうやっていることで、自分の緊張が紛らわせた。
 世明は昨年、一昨年と、中盤あたりを走った。アンカー前、女子の中ではアンカーを走るのは、初めてだった。自分がそんな大役を果たせるのか、そもそも、どういう状況で回ってくるのか、世明は不安だった。
 両クラスが並び終え、一走目がスタートラインに立った。二クラスしかないから、接触も少なく、差も一目瞭然。分かりやすくて、恐ろしかった。
 スタートラインにたったのは、金山節子。後半に勝負をかけるため、前半は我慢が強いられる。金山は遅い方だが、自分の仕事は分かっていた。とにかく、全力を出し切る。差を少しでも小さくすることが、後半に繋がる。
 号砲が鳴った。声援が飛び交う中、金山が走り出した。相手は俊足で、どんとんと引き離していった。だが、世明は焦りを感じなかった。ここで焦っても、しょうがない。
 二人目に渡った。男子トップバッターは、中園。世明に発破をかけられて気合充分だったが、実力差はどうしようもなく、差はさらに広がった。
 世明は相手の並びに目をやった。相手は、前半に速い人が多い。中盤と後半に一番速い人を残しているが、先行逃げ切り型と判断していい。世明たちと真逆だ。最後まで、目が離せなくなりそうだ。元より、目を離すつもりはないが。
 前半最後のランナー、柿沼奏多が走り出した。彼も遅い方で、およそ逆転を望むことはできなかった。
 だが、次は永瀬静香だ。相手はそんなに速い人じゃない。ここで逆転があるかもしれない。
 柿沼から、永瀬に渡った。陸上部で固めた、きれいなフォームで風を切る。結わった黒髪が揺れる。速い。差は、確実に縮まった。向こうも必死だった。
 しかし、思ったより差が大きすぎて、逆転できなかった。永瀬から長潟に渡る。
 長潟は普通だった。運動神経は悪くないのだが、素人目に見ても、フォームがバラバラだった。それでも、前を行く走者を目指して、ひたすら腕を振る。彼も彼なりに、全力を尽くしていた。
「頑張れ、真一」
 片桐の声が飛んだ。続けて、他の男子の声援も飛ぶ。女子のものもかぶさった。
「長潟―!」
 世明もその名を呼んだ。ゴミなんでしょ、と小さく呟いた。
 長潟の所でも逆転はかなわず、勝負は終盤へ。バトンは、大越光希に渡っていた。サッカー部員で、片桐の次に速い。彼の次が、世明だった。
 世明は、自分の前で逆転があるかもしれない、と踏んでいた。それだけに、不安だった。自分が抜かし返されたら、そのせいで負けてしまうかもしれないから。
 だが、大越は差を一気に縮めたが、抜かせはしなかった。相手も割りと速い人だった。わずかな差で、世明にバトンが渡る。
「世明―! 抜かせー!」
「川島―!」
 応援がちゃんと聞こえる。走ることに集中して、前の走者しか見えないけど、声は聞き取れた。梨沙子の声だ。長潟の声だ。
 気がつけば、横に並んでいた。もう追いついたのか。少し安心が生まれた所で、差をつけられた。慌てて、自らを叱咤する。抜かさなければ、勝たなければ、と。
 そして、抜かした。芝生に足が取られて、もつれそうになったが、グッとこらえた。顎が上がりそうになったが、歯を食いしばって耐えた。真っ直ぐ、ゴールを目指した。
 片桐の姿を捉えた。もう終わりだ。バトンを持ち替えて、緩やかに走り出す片桐に渡した。みんなの思いがこもったバトンを。
「逃げて!」
 世明は最後の力を振り絞って、そう叫ぶと、脇によけて倒れこんだ。倒れこんだ瞬間、横で相手のバトンパスがなされた。思った以上に、差をつけていた。
 世明は膝を地面についたまま、芝生と睨めっこして、息を整えた。すると、周りの人たちが一人、また一人と立ち上がって、ついには全員が立ち上がった。世明は顔だけ上げると、片桐が逃げ切って、両手を掲げながらゴールテープを切っていた。彼の元に、みんなが駆けつけていく。
 世明は安堵して、その場で横になった。

*          *

 ――何で分かってくれないんだ。
 本当に分からなかった。疎いとか、経験が浅いとか、そういうことじゃない。恋愛に関する意識の度合いが、他の人と比べて、著しく欠如していた。
 ――いい気分でいられるわけないだろ。お前を想ってるからこそ、こうやって怒ってんだ。
 どうすればいいのか、判断がつかなかった。勉強なら、答えをすぐ導き出せるのに。
 想っていないわけじゃなかった。形だけで付き合えるほど、器用じゃない。
 ――これ以上は、もう無理だと思う。……別れよう。
 何度思い出しても、彼の最後の言葉は心を重くする。
 桜子は廊下を歩いていた。学期末の面談を行うため、セミナー教室に向かっている。
 どうして今、こんなことを思い出すのだろう。この間、世明と恋愛の話が出てきたときでも思い出さなかったのに。
 セミナー室に着くと、中ですでに中園が待っていた。桜子を認めると、すっくと立ち上がって、きちんと挨拶した。
「こんにちは。よろしくお願いします」
 芯まで真面目なのだと、再認識した。長潟なら、座ったままで、「お願いします」もないだろう。
「よろしく。じゃあ、座って」
「はい」
 中園が座り直した所で、桜子は話を切り出した。三年生の夏休み前となれば、話は受験に集中する。
「中園君は、志望校はA高校、ということでいいのかな?」
 いくつか質問を並べた後、そう聞いた。A高校は、私立の進学校で、日本トップレベルの学校と謳われている。中園は、進路希望調査でそこを第一志望に記載していた。
「はい、そのつもりです……」
 認めたが、その語尾に元気がないことを桜子は感じ取った。「何か、不安があるの?」
「はい、少し」
 桜子は意外に思った。中園は、校内はおろか、全国でもトップレベルの学力の持ち主だ。A高校といえども、これからの頑張り次第で合格圏内に充分入ってくる。むしろ、彼が入れなかったら、誰が入るのだ、というくらい。
「もしかして、男子校だから、女子がいないのが不安、とか?」
 桜子は表情を和らげようと思ってそう言ったが、中園は笑わなかった。
「僕の家」中園は思い詰めた顔を上げた。「あまり、裕福な方じゃないんです。A高校も、私立だから学費はそれなりに高いけど、行けたら出すって、言ってくれてるんです。――でも、塾に行くお金は要求できない、というか、無理だと思うので、行ってないんです。ですけど、周りは塾に通って、受験対策の勉強をしてる――僕は、一人で学校の勉強を完璧にすることに徹している。そう考えると、不安になるんです。いくら勉強しても、本番になったら勝てないんじゃないかって」
 中園の言いたいことは、理解できた。お金の問題だ。塾の問題だ。いまどき、塾に通わずに難関校に挑もうとする人は、少数だ。
 中園はもっと自信を持っていいと思うが、確かに各校の対策授業をしている塾を考えると、不安にもなるだろう。
「なるほど、分かりました」
 桜子はペンを顎に当てて、考えを巡らしているような姿勢になった。結論はもう出ているが、いきなり提示するのは親身ではない。一緒に考えている姿勢が、大事だからだ。憧れの先生に教わったものだが。
「では」思いついたようにして、こう切り出した。「こういうのは、いかかです。塾に行けない中園君のために、私が特設の塾を提供する、というのは」
「特設の、塾?」
「つまり、私の塾です。私がお教えしましょう。もちろん、無料ですよ」
 中園は少し間を置いた。
「いいんですか?」
「ええ、全然。構いませんよ。――やるからには、授業の枠に留まらない、受験対策のレクチャーを設けましょう」
 それに、と桜子は言葉を切った。
「それに、中園君は、私の初めての教え子ですし。本人の満足する形で卒業して欲しいですから」

「では、これから面談を始めましょう」
 にやつきながら桜子が入ってきたと思ったら、ここで面談をやるのか。世明は図書室を見回してからそう思った。
「あれ、もしかして、ここでやるのか、って呆れてます? でも、川島さんとは日頃から話してますし、改めて面談をするのもどうかと思いまして」
 そう言って、定位置とも言える世明の正面に座る。世明も、いつも同じ席を使っている。願掛け、というわけではなく、ただ何となく、が積み重なって、習慣と化したのだ。
「まあ、そうですよね。言いたいことがあったら、とっくに言ってますし」
 ねえ、と同調するように、桜子は微笑みを返した。
「川島さんの志望校は、W高校でいいんですね?」
 こちらも、進路希望調査で世明が第一志望に記載していた所だ。A高校に匹敵する私立の進学校で、こちらは共学。
「さっき、中園君と面談していたんですが、彼はA高校を目指すそうですよ」
「知ってますよ。クラスで受験の話するの、彼くらいしかいませんし。中園なら行けるんじゃないですか?」
「そうですね。私もそう思います」
 塾に行けなくて悩んでいる話はしなかった。一応、解決のめどは立ったから。
「あそこ、男子校ですよね。中園、内気だから、いじめられないかな」
 笑いながらではあったが、世明は本気で心配しているようだった。
 桜子は思った。世明はいざ知らず、中園は世明と同じ高校に行きたい、と考えなかったのだろうか。でも、色恋に自分の進路を委ねるほど、彼は愚かじゃないか。やりたいことが、きっとあるのだろうし。
 だいたい、中園が世明のことを好き、というのも仮定の域を出ない。
「――川島さんは、みなさんとはお別れになりそうですね」
「まだ決まってませんよ。――でも、私は一人でもやっていけますよ。最初は、学級委員面しないで、大人しく過ごしてます」
 世明は笑った。たくましいもので、心配は本当に無用なようだ。
 うっすらと、桜子の脳裏にあの光景がよぎった。――色恋は、今後、世明でも必ず経験する。いい恋をして欲しい。人それぞれ、その定義は違うけれど。いい人と出会って欲しい。いい人と、いい恋ができるとは限らないけれど。
 自分で自分に苦笑した。後者は、自分のことじゃないか。
「先生?」
 世明が心配そうに見つめていた。「どうしたの? ボーっとしちゃって。珍しいですね」
 桜子は首を振った。「いえ、何でもありませんよ」
 ――川島さんは、素敵な恋をしてくださいね。
 危うくそう言いそうになったが、喉元でストップさせた。

 桜子が初めて担任として過ごした一学期が終わった。
 終業式の後、通知表を配ることになった。かつては、それを受け取って、友達と一喜一憂していた桜子であったが、渡す側になって、いい気分だった。どんな反応をするのか、目に浮かぶ。これから何度も渡すことになるだろうが、最初の気持ちは違ってくるはずだ。
 教室は、何故かしら、いつもより騒がしくない。しかし、どの表情もそわそわしていて、落ち着きがない。そうか、と思い直す。いつも世明を見ているから誤解してしまうが、彼らはまだ中学生なのだ。大人ぶっても、まだまだ子ども。緊張もするだろう。
「――では、通知表を配ります。それぞれ、私が一言添えてますので、成績と合わせて読んで下さい。ちゃんと保護者の所見と、印鑑を押してもらって、二学期の初日に持ってきて下さい」
 一学期を振り返っての感想を短く述べた後、通知表の配布にかかった。これは、適当に配ってはいけない。一人ひとり、その顔を見て渡さなければ。
「浅井将太君」
 浅井が立って、桜子のもとに向かう。あまり緊張を感じさせない涼しい顔で、受け取る。軽く一礼する。

「長潟真一君」
 おもむろに立ち上がって、すたすたと歩く。パッと受け取って、すぐに踵を返しそうだ。世明は一瞬で予想した。
 予想通り、片手で受け取ると、礼もせずに去ろうとした。世明は何か言ってやろうかと思った。
 しかし、その必要はなかった。桜子も予想していたようで、受け取った方の腕を掴んで、「ちゃんと目を見て、お礼を言って受け取りましょう」と微笑みかけた。
 長潟は、「何だよ、放せよ」と反抗するが、俯いていて、桜子に照れているように見えた。
「真一、先生と目合わすの恥ずかしいのかよ!」
 同じように見えたのか、片桐の冷やかしが飛んだ。周りは湧いた。
「んなわけねえだろ。意味不明なんだけど」
 なおも長潟は強がるが、相変わらず桜子と目を合わせない。子どもか、と世明は突っ込みたくなったが、笑って見ているだけにした。
 長潟は腕を振って、桜子から逃れ、面倒そうに頭を下げた。桜子はそれで容赦してあげて、次の名前を呼んだ。長潟は片桐の近くに行くと、彼の頭を叩いて、何か言った。片桐はなおも攻撃を加えようとする魔の手から守ろうと、頭を両手で覆っていたが、笑い続けていた。楽しそうだ。大越も寄っていって、笑いながら何か言った。その大越にも、長潟は制裁を施したが、彼もどこか楽しそうだった。
 やはり、変わった。不器用ではあるけど、少しずつ、周りと溶け込んでいこうと、彼なりに努力している。

「川島世明さん」
 はいはい、と返事を重ねて、立ち上がった。桜子の方へ小走りで行って、通知表は両手で丁寧に受け取った。微笑みかけてくる桜子に合わせて笑顔を作り、「ありがとうございます」と言って、深々と礼をする。
 席に戻って、他の人がしているように、周りに見られないように体の近くで通知表を開いて、覗き込むように見た。別に公開してもいいのだが、見せつけるのは好まれる行為ではない。
 成績は流し読みで、自分の予想とそう変わらないことを確認し、桜子の一言とやらを呼んだ。
「一学期間、学級委員の仕事、お疲れさまでした。クラスを一つにまとめ上げ、持ち前のリーダーシップを発揮していたと思います。体育祭では、全員リレーで鮮やかな逆転、見事でした。結果は敗れてしまいましたが、終わった後の川島さんの言葉、とても印象的でした。あの気持ちを大事にして、二学期も頑張っていきましょう」
 心の中で読み上げてから、ふうん、と声を漏らす。体育祭か、思い出しただけで汗が噴き出てきそうだ。今の時期の方が暑いけど。
 結局、全員リレーで勝つのが精一杯で、他の団体種目は勝てず、総合得点は発表されるまでもなく、負けたことが分かった。しかし、クラスのみんなは負けが宣告された瞬間、本当に悔しそうな声を上げ、今にも泣きそうな表情で、優勝トロフィーが授与されるのを見ていた。ここまで悔しさを滲ませるぐらい、全力を尽くせた証拠だった。
 世明も例外ではなかった。終わってから、桜子と二人で話す機会があったときのこと。
 ――勝てなくてもいい、って言いましたけど、でも、やっぱり、全力だした後だと、負けると悔しいし、全員リレーは勝って嬉しかったです。この上なく。……終わってから気付くなんて、私もまだまだですね。
 まだまだ、だと感じた。全て分かっているような気になっていたが、全くの自惚れだ。勝負に勝つことは難しい。本番は、思い通りに行かないことが多々ある。それでも、物事に全力で取り組む姿勢は、何よりも尊い。全力の度合いに比例して、喜びも大きくなる。
 世明は認識を新たにしたのだった。

*          *

 暑い――。
 家で寝転がりながら、長潟は叫んだ。叫んだせいで、また体温が上がった気がした。冷気を求めて、近くの扇風機に手をかざすが、根本的な解決にはほど遠い。
 冷房はあるが、壊れている。今年の殺人的な暑さに堪えかね、長潟はパンツ一丁にまでなっているが、扇風機も調子が悪くて、涼しくならない。
 すっくと起き上がった。冷房のある所に行こう。といって、デパートやコンビニに行く気はない。もっと気軽に、かつ、お金のかからない、そして涼しい場所はないだろうか。思案した結果、図書館、という結論に至った。あそこならいい避暑地になるし、無料でマンガが読める。
 思い立ったが吉日。長潟はすぐに着替えて、家を出た。

 図書館の中は人が多い。会社や学校が休みなのもそうだろうが、暑いことも人が多い理由だろう。ほとんどの人が純粋な理由で図書館を訪れていると思うけど、一割ぐらいは暑さを逃れるために来ている、と言っても過言ではない。
 自分は純粋な理由だ、と自らを省みて中園は思う。机の上に並べられた問題集たち。いかにも受験勉強しています、という感じの構えだ。そして、現にしている。
 夏休みは受験生にとって、無駄にできない期間だ。この期間の過ごし方が、大きな差を生む。中園は年明け以降だが、二学期中に受験のある人も少なからずいる。
 ペンを動かして、問題を解き、答えを確認し、解説にも目を通し、次へ進む。これを繰り返し、毎日が過ぎていく。中学の受験勉強は人生で一番、勉強する時期でなければならない、と先生の誰かが言っていたが、普段とあまり変わらない。これ以上、勉強する時間を捻出できないと思うが、人生で一番にするには、寝食もままならないほどにしろ、ということだろうか。そこまでする必要があるのか、理解に苦しむ。
 正面の席に、灰色のひげを繁らせたおじさんが座った。野球帽をかぶっていて、ジャイアンツのマークが入っている。真っ黒のショルダーバッグを持っていて、席につくやいなや、その中から電子機器を出した。そこから女性の声が聞こえてくる。
 ラジオだ――。
 中園はそう理解した。
 机の中央に置いてある、注意事項の書かれた立て札に目をやる。今さら目をやるまでもなく、書かれてあることは知っている。飲食禁止とか、禁煙とかだが、それから音の出る電子機器の使用が禁止されている。遠慮して下さい、と結ばれているけど、図書館のマナーをプラスアルファで考慮すれば、禁止されているも同然だ。
 しかし、おじさんは素知らぬ顔で流すことをやめない。せめてイヤホンでもしてくれればいいのに、机の上にどかっと置いて音を流す。音楽番組のようで、曲の紹介に続いて、その曲が流れる。内容はどうであれ、中園は不愉快に感じた。
 注意してやろうかと思った。周りも迷惑そうな視線を投げかけてくるが、動こうとする人はいなさそうだ。巡回の司書さんが来てくれればいいのに、と思ったが、こういうときに限って現れない。
 言ってやる言葉は頭の中ですぐに思いついたが、中園は中々、勇気が出なかった。頭の中では、毅然とした態度で叱りつける自分の姿が思い浮かぶ。でも、現実になると自信がなくなる。語尾が弱くなって、笑って聞き流されるようにしか思えない。
 おじさんは、不愉快な音を発生させ、眠りそうな顔でそれを聴いていた。
「おい、うるせえよ。場所考えろ、場所を。ひげ、ぶち抜くぞ」
 鋭い口調でそう言ったのは、中園ではなく、ちょうど今来た長潟だった。今にも掴みかからん格好で、おじさんの横に立った。こうやって見ると、威圧感がある。おじさんは、少し怯んだが、黙っていた。
「あんたは言葉を選びなさい。どっちが悪いんだか、分からないでしょ」
 そこに颯爽と現れたのは、世明だった。長潟を引き離して、代わっておじさんと対峙した。
「ここは公共の場です。音の出る機器の使用は控えて下さい。周りの人に迷惑です。どうしても聴きたければ、場所を改めて下さい」
 滑らかに、一語一語つないでいった。曇りのない声は、聞く者を圧倒した。
 おじさんはむすっと黙り込んでいたが、世明の剣幕に耐えかね、ラジオを消して、立ち上がった。のろのろと歩いて、図書館を後にした。
 それを見送ってから、世明はその正面に座っている人物にようやく気付いた。
「あら、中園。奇遇ね」
「ん、お前いたのか」
 長潟も今、気付いたようだ。
「ありがとう、助かったよ」
 二人に向けてお礼を言った。
「何だよ、自分で言えばよかったじゃねえか。ビビりだな」
 長潟はせせら笑った。
「そういうこと言わないのよ。人との確執を避けるのは、危険をもたらさない、いい生き方よ」
 と、世明はフォローらしいことを言う。「長潟は危なっかしいわ。その内、人の恨み買って、殺されかねない」
 中園は心の中で頷いた。大いに、あり得る。本人に失礼だが。
「ったく、これだから優等生は。夏休みまで勉強かよ」
「って、あんた、勉強してないの? 受験でしょう?」世明は驚いた。
「まだまだ先じゃん。せっかく宿題もないし、夏休みくらい遊ばせろって」
「何のために宿題がないと思ってんのよ。受験勉強に専念させるためじゃない。……信じられないわ」
 世明は呆れたように両手を広げた。
「いいね、それくらい堂々としてられたら。長潟は、違うね」と、
中園。皮肉ではなく、本心からの言葉。
「まあな。将来、大物になるぜ」長潟は調子に乗る。
「大物って、指名手配犯とかにはならないでよね。インタビュー受けたくないからね」
「インタビュー?」
「ああ、中学時代の同級生、みたいなやつ?」中園が理解を示す。
「そうそう。――昔から、やってもおかしくないと思っていました――って、答えるしかないかな」世明は朗らかに笑う。つられて中園も笑う。
「何でだよ。そこはいいやつだったとか、言っとけよ」
「あんまり、悪く言う人、見たことないね」中園はまだ笑っている。
「確かに、ね。――でも、本当に気をつけなさいよ。逆恨みされても知らないよ。さっきのおじさんが激昂したかもしれない」
「あんなやつに殺されるかよ。――にしても、何でここにラジオを聴きにきたんかね」長潟は疑問を呈する。
「大方、家に居場所がないんでしょ」世明はあっさりと答えを出す。
「居場所?」中園は身を乗り出す。
「そ。家族に厄介者扱いされてて、ここくらいしか来る所がないのよ。わざと音を外に漏らしたのは、誰かに構って欲しかったんじゃない? 証拠に、私に注意されてすぐ帰ったし」
 世明はつくづく賢い、と中園は感じた。勉強だったら彼女に勝てる。でも、彼女は勉強以外も秀でている。人の言動から裏を読み、より良い方法を導き出して、上手に世渡りしていく。中学生離れしている。自分なんて、学級委員として、何の手助けもできていない。
「館内での私語は慎んで下さい」
 司書さんが通りかかって、注意を促した。
「あ、ごめんなさい」
 世明は謝って、中園の向かいの空いている席に座る。長潟は無言で立ち去り、別の場所に座る。
「怒られちゃった」
 世明は苦笑いで、中園に小声でそう言った。その笑顔は、中学生特有の、大人らしい艶やかさと幼さを含んだ笑顔だった。
 
 閉館十五分前のアナウンスが流れて、中園は我に返る。すっかり勉強に没頭してしまっていた。目の前に世明がいることを忘れるほどに。
 世明も同じようにアナウンスでぱっと顔を上げた。中園と目が合うと、また笑った。すっかり集中してたね、私たち、という言葉が裏にある気がした。推測だが、当たらずも遠からず、といった所か。
 アナウンスで、周りの人たちが帰り支度を始めた。人はいつの間にか少なくなっていて、『おじさん事件』のときの半分以下になっていた。
 長潟はまだいた。ずっとマンガを読んでいたようだ。両手を上に伸ばして、豪快な欠伸を披露した。
「帰る?」
 世明が中園にそう言った。中園は断る理由も無いので、頷いた。帰り支度をして席を立ち、先に行こうとした。
「待って、長潟も」
 彼の方を指差して、世明はそう言った。中園は従う形で立ち止まり、長潟が来るのを待った。

 この三人で並んで歩くのは初めてだった。妙な組み合わせだ、と中園は思う。が、同時に悪くない、とも思う。
「あなた、ずっとマンガ読んでたの?」
「いいだろ、別に。マンガは悪いもんじゃねえぞ。感性が研ぎ澄まされる、っていうか」
「別にマンガを悪く言ってないわよ。悪いのはあなた。この時期にマンガに没頭できるなんて、羨ましいくらいよ」
「じゃあ、読めばいいじゃん。羨ましいんだろ」
「はあ……。中園、何か言ってやってよ」
 振られて、中園はすぐには答えられない。少し間を置く。
「でも、長潟が勉強に励んだら、らしさがなくなっちゃうし、おれはそのキャラでいいと思うけど」
「ほら」
「ほら、じゃない。褒めてないから」世明は重ねてため息をつく。
 でも、楽しそうだ、と中園は思う。長潟と相対しているときの世明は、顔や声には出ていないが、とても楽しそうだ。
 お似合いな二人だと思っている。恋愛感情を抱いているのか分からないが(どちらも)、二人はいずれ結ばれる気がする。そういう運命なのだ。なんて、達観したようなことを言う。
 だからといって、自分の気持ちに嘘をつきたくない、と中園は合わせて思っている。川島世明を愛してしまった、という事実から、目を背けたくないと思っている。報われなくてもいいから、思い続けようと決めている。
 学級委員の相方に推薦してくれて、嬉しかった。手を握って、期待している、と言ってくれたのには励まされた。こうして一緒に歩いているのも、何よりも至福のひとときだ。
「だって、かったりぃじゃん」
「信じられない。ねえ、中園」
 うんざりしたように笑っている。素敵な笑顔だと思う。自分がつり合わない、と認めざるをえないほど、眩しくて、美しい。
「うん、全くだね」
 聞いていなかったため、適当に合わせておく。
 彼女の笑顔を、ずっと傍で見ていたいと思う。偶然に頼らないで、恋人同士として。叶わない夢だと分かっている。だけど、捨てられない夢だ。
 遠くに霞む夕焼け空が綺麗だった。でも、夜明け(、、、)空の方が綺麗だろう、なんて、愚にも付かない冗談を思いついてみる。

*          *

 夏休みの終盤。夏期講習で、三年生を中心に、生徒がちらほらと姿を現していた。桜子は、それらを眺めて、夏休みがあっという間だったなあ、と時間の儚さを嘆いた。同時に、子どもたちに会える喜びも偽りなく立ち昇ってくる。
 夏期講習で桜子の講習を受けに来る生徒の中には、中園や永瀬静香、片桐、大越などがいたが、世明は意外にもいなかった。長潟や竹花たちは、当然のようにいなかった。
 二クラスの生徒が混じり合って、それでも教室は空席がある中、いつもと違う光景で桜子はいつも通りの授業を展開した。講習では居眠りする生徒は皆無で、誰もが真剣に桜子の一挙手一投足を目で追っていた。あるいは問題を解いているときも、彼らは真剣に取り組む自分に酔っているようだった。
 酔いは、受験が終わるまで醒めないだろう。醒めそうになっても、醒めないように自制するはずだから。悪酔いしないことを切に願う。
 講習が終わって外に出ると、世明が待っていた。制服に身を包んで、少し伸びた髪を結わっている。
「あら、川島さん。どうして、こんな所に?」
 世明は下を向いて、くすりと笑いを漏らした。悪戯っぽさを含んだ、何かを企んでいるときのような笑み。
「お話があって」
 桜子は、いい予感も悪い予感もしなかった。ただ、彼女の話そうとすることに興味を持った。

「恋の相談?」
 世明からそんな話題が持ちかけられるとは思っていなかったから、桜子の驚きはここ最近で一番だった。
「はい。他に聞く人が見当たらなくて、でも、誰かに話さないといけない気がして」
 誰かに恋をして、その想いが成就するか気を揉んでいるようだった。桜子には、そう見えた。
 だが、違った。
「長潟に、好きだ、みたいなことを伝えられたんです。付き合ってくれ、という趣旨の話で」
 これもまた意外だった。長潟が世明に一方ならぬ想いを抱いているだろうことは容易く予想できたが、それを実際に伝えるとは思えなかった。本人は、誰かの温かさを求めているふしは窺えた。でも、恋愛には興味がなさそう、というか、何も知らなさそうだった。
「それで、返事はどうしたんです?」
 世明は俯いたが、あまり恥じらいをその表情に浮かべていなかった。何となく、それで分かってしまった。
「あなたの想いには応えられない、って」
「断ったんですか?」
「はい」
「どうしてです? もったいないじゃないですか。恋は素敵なものですよ。それとも、彼はそういう対象じゃなかった?」
 桜子の脳裏に、あの頃の、あの男の影がよぎった。違う、今は関係ない、と桜子は慌てて打ち消した。その脳内作業のせいで、言わずもがななことが口をついて出た。
「いえ、何というか……」
 世明は答えに窮してしまった。「長潟が嫌い、とかは全然なくて、どちらかと言えば好きなんでしょうけど――恋とか、愛とか、分からないんです。形状の見えない食べ物を口に入れるみたいで、怖いんです。――匂いは、悪くないんですけど」
 桜子は話を理解する中で、後半の表現に納得した。その通りかもしれない。付け加えるなら、伝聞でその食べ物は魅力的だと知っているのだ。
「――それで、恋について教えて欲しい、という相談ですか?」
「いえ、そうじゃなくて――」
 世明は首を振って、否定した。「そうしたら、今度は中園にも……」
 最後を言いにくそうにしたので、「想いを打ち明けられたんですか?」と促した。世明はゆっくりと頷いた。
 つまり、二人に好かれてしまったのだ。相談事は、これだったのか。
「ということは、中園君にも、お断りします、と?」
「言いました」
 ふいに、目の前の少女がかつての自分と重なった気がした。本当は状況がまるで違うし、似ているとも言えないが、どうしようもない、という彼女の表情が似ていた。そして、それは無意識の罪を生んでいた。誰にも裁くことのできない、この世で最も美しい罪。
「先生、私はどうすればよかったんでしょう?」
 世明がこんなに困りきった顔をしているのは、初めてのことだった。何でも冷静にこなす少女。背もたれに寄り掛からないで、多くの期待に応えてきた少女。
 でも、今回の期待には添えないだろう。どちらかに報いたとしても、どちらかを傷心させてしまう。
 恋なんて、そういうものじゃないか、と人は言うだろう。でも、目の前の少女には経験のないことなのだ。どんなに賢くても、所詮、中学生。何より、恋は学校で教えてもらえない。自分で学んでいくしかないのだ。
「川島さん――」
 桜子は、何一つ気の利いたことを言ってやれなかった。

*          *

 二学期の一大イベントは、文化祭である。
 世明たちのクラスは、夏休み前にカレー屋をやることに決めており、その準備が夏休み中も行われていた。責任者の世明は、その全てに顔を出していて、料理のときは大人である桜子の監督の下、進められた。
 受験勉強を優先しない姿勢は、体育祭の悔しさを晴らし、優勝するためだった。おかげで、準備は他クラスより順調に来ていた。
 世明はクラスを大きく二つに分け、調理班、接客班とそれぞれ名付けた。調理班はその名の通り、当日まで試行錯誤し、当日も裏で作っている。接客班は、当日は接客、つまり表に出て、準備期間は装飾や簡単なPRビデオを作成する。
 調理班のメンバーは、中園、長潟、永瀬、金山節子、柿沼奏多など。特に柿沼は、密かな特技であった調理の技で頭角を現し、自然と彼が中心となった。
 一方の接客班は、竹花、沼津、井上、片桐、大越など。
 世明はどちらにも属し、気になる方に顔を出し、その他、他クラスとの調整にも奔走した。特に一年生などは、先生の介入が大きく、要求も建設的だった。
 世明も柿沼同様、料理が得意で、柿沼と話し合いを重ねて、よりおいしいものを目指していった。
 彼女は相変わらずのリーダーシップで、普段と何ら変わった所はなかった。しかし、内面は複雑だった。

(私はいつまで、こんなにぐずぐずと考えているの?)
 世明は帰り道、ここ最近の考え事のほとんどであることをまた考えた。ただ疑問を自分に突き付けるだけで、答えを出せない考え事。自分を客観的に捉えすぎているせいで、解決法が出てこないもどかしさがこみ上げる。
 簡単なことのように見えて、どうすることもできない。
 もう終わったことだと、きれいさっぱり忘れて、以前のようにすればいいじゃないか。それとも、未練があるのか?
 未練――。あるとしたら、どちらに? どっちも? そんなの存在しない? いずれとも言い切れない。
 まただ。また、同じ結論に行き着きそうだ――。
「川島?」
 世明の顔を覗き込む顔があった。考え事の渦中にいる一人、中園だった。

「何か、最近、ボーっとしてるときあるね」
 公園に寄った。子どもの姿はなく、老人と若いカップルだけだった。ベンチが占領されていて、仕方なくブランコに行った。世明は座り、隣のブランコに中園は立ち乗りになった。ギシギシと音を立てて、前後に動く。
「そう? 勉強で疲れてんのかな」
 当然、はぐらかす。正直に言ったら、あなたのせい、なんて言うようなものだ。
「ごめんね」
 中園は謝った。「おれのせいでしょ」
 世明は考えを見透かされたようだった。「え、どうしてよ。そんなわけないじゃん」とごまかしたが、声に張りがなかった。認めたようなものだった。大事なときに、声は使えないやつだ。
「なんかさ、我慢できなくて。今思えば、自分でも思い切ったことしたと思ってんだ。後悔もした。でも、してよかったと思ってる」
 彼の話は矛盾しているようで、そうでもないように感じた。というより、どっちでもいい気がした。
「ごめんね」
 今度は世明が謝った。「私、よく分かんなくてさ」
「川島って、意外とそういうことは疎いね」
 中園は笑った。笑い声が、空に溶け込んでいくようだった。
「やっぱり、おれのせいじゃん。悩ませちゃって。こういうときは、川島は振ったんだから、悩む必要ないよ。それに、申し訳ないとか思ってるんなら、全く気にすることないし。おれ、伝えられただけで満足してるから、悩まれたら、逆にこっちが申し訳ないよ」
 中園はいつになく喋った。こんなに饒舌な彼を見るのは、初めてだった。でも、どの言葉にも本心が見え隠れして、中身のないものではなかった。
「それに、川島と前みたいな関係すら築けないのは、ちょっと辛いし」
 世明はハッとして中園の方を向いた。彼はいつの間にか座っていた。
 以前のような関係。それは、ただの友達。それがいいのだと言う。いや、いいとは言ってない。友達にすらなれない今が嫌なのだ。
 そしてその状況を作ってしまったのは世明で、それを打開できるのも世明なのだ。
「中園」
 世明は立ち上がった。
「帰る?」
 中園も立ち上がろうとした。それを制止させて、座っている彼の正面に立った。
 そして、世明は首を少し傾けて、キスをした。柔らかい感触が口中に広がった。すっと口を離すと、世明は自分の頬が赤くなっているのを感じた。涼しい顔で言おうと思っていたのに。
 目の前の中園も赤くなっていた。驚きで目を見開いて、世明を真っ直ぐ見つめていた。
「ごめんね」
 世明はまた謝った。
「私、あなたの想いには応えられない。――だけど、友達としてなら、もちろん、喜んでなれる」
「じゃあ……この意味は?」
 世明は自分でもそれに対する明確な答えを提示できなかった。
「まあ、お詫びのしるし」
「お詫び?」
 中園がこれで納得するとは思えなかったが、彼はそれ以上、追及しなかった。
「想いを伝えてくれて、嬉しかったよ。ありがとう」
 人間関係を良好に保つための二つの言葉――ごめんねとありがとう。身をもって、その真実味を知った一日だった。

「なにサボってんの?」
 世明は、三階の体育館の奥にある倉庫の中に、長潟を発見した。調理班に赴いてみたら、長潟がいないことに気付き、探してくると告げて数分が経っていた。意外と早く見付かったが、まさかこんな所にいるとは思わなかった。薄暗くて、かび臭い。
 長潟はマットに横になっていた。眠ってはいなかったようで、世明に呼び掛けられると、上半身を起こした。
「休憩だよ。ずっと立ってると、疲れるから」
「ここで休むことないでしょ」
 世明は叱りながら、ちょうどいい機会だ、と思っていた。
「そうだ、話があるんだけど」
「おれと付き合う気になってくれた?」
 長潟は笑って、そう言った。
「そう、そのこと。ちゃんと決着つけたいと思って」
「決着? 言っとくけど、別にどっちでもいいから。イエスでもノーでも、はいそうですか、で終われるから。ってか、ノーなんでしょ、どうせ」
 世明はしゃがんで、長潟と同じ高さになった。真っ直ぐに、彼を捉えた。
「ごまかさないで。そんな軽い気持ちで伝えたんじゃないでしょ。あなたがそういうことができない人だって、分かってるから」
 愛を知らなかった少年。初めて誰かを好きになった少年。透明な、見た人が赤面すること請け合いの純粋な想い。
「で、だとしたら何なの?」
「ごめんねとありがとうを伝えたくて」
「はあ」
「前も言ったけど、あなたの想いには応えられない。だから、ごめんなさい」
「すでに聞いたね」
「それと、これは言えてなかったけど、正直に打ち明けてくれて、嬉しかった。ありがとう、長潟」
「……そうか」
 長潟は少し照れたようになった。
「だけど、まだある」
「――今度は何?」
「その」世明は言おうと決めたものの、やはり実際、迷ってしまう。少しのためらいの後、「実は、中園にも告白されて」と言った。
「え、そうなの?」
 長潟の表情に動揺が走った。「じゃあ、もしかして――」
「違うの」世明は慌てて否定した。「でも、中園もお断りした」
「……そうなんだ」
 長潟の声のトーンは、明らかに落ちた。
「したんだけど、」
「まだあんの?」
「うん。――言いにくいんだけど、中園と――キスしちゃって」
「え」長潟は目を剥いた。「もう一回、言って」
「嫌よ。聞こえたでしょ」
「……本当に? っていうか、何で?」
「その、成り行きで」
 全くそういう成り行きではなかった。だが、きちんと説明するのも億劫だった。
「どんな成り行きだよ」
「いかがわしいことじゃないことは、言える」
 世明はまた迷いそうになった。この先に行くのは、さらなる困難が待ち受ける。
「だから、不公平じゃない?」
「へ?」
「片方だけしたら、もう片方に悪いじゃない。だから、あなたともしないと良心の呵責が……」
「どんな良心だよ。何でそこまで、生真面目なの? たかが恋愛じゃん。たかがキスじゃん。そこまでする必要ない――」
 話の途中の長潟の口を、世明の口が塞いだ。長潟は抵抗しなかった。
「いいの。自己満足だから」
 口を離すと、世明は笑った。
「これからもよろしくね」
 そう言って背を向け、走り去っていった。

*          *

 桜子は家庭科室に来ていた。家庭科室は四階にあり、本番もここで販売する。
 室内は飾りつけが同時進行しており、かわいい雰囲気を醸し出していた。ただ、少し子どもっぽいきらいもあるが、桜子は口出ししない。優勝を本気で狙う彼らの熱意に、全てを委ねた。それに料理があまり得意でない。
 調理班の一員である長潟と中園が並んで作業をしていた。マスク越しにも笑い声が聞こえ、和気藹々としていた。以前よりも、ずいぶんと仲良くなっている。
 世明の姿を探したが、今は不在だった。教室で接客班と作業しているのだろう。彼らの様子を見る限り、どうやら彼女は何らかの答えを出したようだ。
 それが後に罪になるかもしれないが。
 変な考えが浮かんだ。罪を犯したのは、他の誰でもない、自分じゃないか。罪の意識がなかったとしても、常識的に許されるものではない。感覚としては分かっているつもりだが、すとんと胸の中にきれいにはまるわけでもなかった。
 もう、何年経っただろうか。遥か遠い昔のような気もするが、つい昨日のことのようにも思える。家に帰ると、彼がベッドに寝そべって煙草をふかしている、そんな光景が広がっていたとしても、違和感なく受け入れられそうだ。
「先生」
 誰かに呼ばれて声の方を向くと、永瀬が小皿を持って、桜子の方を向いていた。小皿にはカレーがのっていて、子ども用のミニカレーのようになっていた。
「味見していただけませんか? 少し辛さを増したんです」
 スプーンとともに受け取ると、ほのかな匂いが鼻に心地良く訪れた。これはおいしそうだ。
 永瀬以外にも、調理班の面々が桜子に注目していた。どんな感想を漏らすか、緊張しながら視線を向けている。桜子は一口、食べてみた。
 まず、熱かった。しかし、それは口には出さず、ふうふうと息をかけ、冷ましてから一口、また一口と口に運んだ。
「おいしい」
 偽りのない、正直な感想であった。
「すごい、おいしいです。辛味もよくきいていて、これならどこに出しても恥ずかしくないでしょう」
「やった」
 永瀬が嬉しさを表に出すと、周りに歓喜の輪が広がった。
「ありがとうございます」
「永瀬さん、子どもも食べられる甘口も用意してるんですよね?」
「はい。そっちも食べてみます?」
 頷くと、すでに用意されていたのか、甘口のミニカレーもすぐに出てきた。同じように、口に運ぶ。
「うん。――これもおいしいですね。まあ、辛いもの好きには物足りないでしょうが」
「そうですね。辛口が売り切れになったとき――まあ、その逆でも、違う方を出したら、期待に添えないこともあるでしょうね。その辺が難しいです。今の所、同じ数を用意するつもりですが」
 桜子は感心した。準備が早かっただけあって、ちゃんと考えている。放任しても、心配いらなかったようだ。
「でも、ここまでおいしくなったのは、やっぱり柿沼君のおかげですよ。もちろん、世明も。――彼、料理のときは何だか輝いて見えます。頼りになります」
 桜子は柿沼奏多の後ろ姿を捉えた。鍋をかき回して、熱心に働いていた。本人には失礼だが、それまではイマイチ、パッとしなかった彼だが、料理という特技があったことで、一躍、文化祭の中心人物に躍り出た。彼も期待に応えようと、よりいっそう張り切っていた。
 柿沼も永瀬も、他の子たちも、色々な特技がある。すでに開花しているものもあるが、これから花開く可能性は大いにある。まだ、人生は長い。
 桜子はその言葉を自分にかけたいと思った。諦めるのには、自分は若すぎる。自分の幸せを、まだ見つけられる機会はいくらでもある。分かっているだろう、土屋桜子、と。
 でも、それもすとんとはまってくれない。

 文化祭当日の朝。天候は、すこぶる良好。これなら来場者も多くを望めるだろう。
 世明たちは、いつも通りの時間に学校へ来て、教室ではなく、家庭科室に集合した。今日の主戦場は、ここになるから。それに、教室は生徒たちの夏休みの課題であった詩や短歌が掲載されていて、入ることができなくなっている。
 チャイムが鳴った。遅刻はいなかった。元々、遅刻する生徒の少ないクラスである。
 桜子は、教壇代わりのキッチンの前に立った。
「日直さん、号令」
「起立」
 今日の日直は、大越だった。
「気を付け。礼」
「おはようございます!」
 いつもより、声に元気が漲っている。誰もが、気分を高揚させているようだ。
 若いとは、いいものだ。桜子はそう思っていると、自分が老けたように感じられる。自分もこの文化祭を楽しみにしていたというのに、彼らと本当の所まで気持ちを同じにできていないことは否めない。なまじっか、社会経験とやらを積んでしまったものだから、物事の捉え方に相違を生じさせる。
「今日は、待ちに待った文化祭です。みなさんの今日に懸ける思いは、きっと報われるはずです。調理班は、今まで作ってきたもの以上のものを、今日、提供できるようにしましょう。接客班は、誠心誠意の接客を心がけて下さい。緊張で至らない部分もあるでしょうが、心がけは伝わります」
 言い終えると、世明と中園を順に見ていった。「中園君、川島さん、何か言っておくことはありますか?」
「いえ、ありません」
 世明が即答した。「その代わり、円陣を組みましょう。その後、すぐにそれぞれの班に分かれて、準備に取り掛かりましょう」
「分かりました」
 桜子は頷いた。
「先生、お話はおしまいですか?」
「ええ。じゃあ、円陣をやりましょうか」
 と言うと、ぞろぞろと生徒たちが立ち上がって、近くの人と肩を組んでいった。組み終わるまでの間、あちこちから陽気な声が上がった。この瞬間を楽しんでいる声。青春を謳歌している声。
 桜子も輪の中に入った。若さと身長からして、違和感はなかった。それを長潟が口に出して言うと、笑いが起こった。桜子は、怒ることでもなく、むしろ若さを讃えられたと受け取ることもできるので、笑って過ごした。
「じゃあ、頼むぜ、想大」
 片桐の言葉で、ざわめきが消え、視線が中園に集まった。その視線には、体育祭のときのように気合を入れてくれるだろう、という期待が乗っかっている。
 中園は、それを苦笑いで受けた。
「おれがやる流れだね、これは。じゃあ、ご要望にお応えして――絶対、優勝するぞー!」
「おおー!」
 見事に応えた。そして、気合も入った。中途半端な気持ちで臨む者は、見当たらない。
 彼らにとって、中学校生活最後の行事が幕を開けた。

 前日までは、調理班と接客班の両方に顔を出していた世明だったが、この日は調理班を柿沼に一任して、接客班の中心になっていた。
 内装の方は前日までに終わっていて、机とイスの配置も万全、いつ客を迎えてもいい具合だった。
 カレーも数百人分を用意し、客の来訪に備えていた。
「梨沙子、月子、亮子」
 世明が竹花、井上、沼津を手招きした。
「何よ、世明」
「一応、念を押しておくけど、言葉遣いに気をつけてね。緊張で硬くなることは心配いらなさそうだけど、普段の調子で接客したら、失礼に当たるから」
 先生に平気でタメ口を使う彼女らである。世明の心配はもっともだった。
 とはいえ、長潟ほどではないが。世明は、彼が裏方でよかった、と密かに思っていた。
「大丈夫だって。子どもじゃないんだから」
「私たちだって、それくらいわきまえてるよ」
「優勝するため、でしょ?」
 そうだ。体育祭で、全力で臨んで負ける悔しさを再認識した。今度は、勝つ喜びを味わいたい。そのために、早い段階から準備し、万全の形で今日を迎えたのだ。
「そうよ」
 世明は厳しい顔を解いて、笑顔になった。
「あとは、笑顔を絶やさずね」

「長潟君、手が止まってるよ」
 誰かに忠告されて、長潟は我に返った。誰だろうと見れば、金山だった。以前は大人しすぎて影が薄いほどだったが、最近、明るくなった気がする。
「おう、金山か。いや、ちょっと考え事」
「そろそろ、お客様が来るよ」
「ああ、今から超スピードでやっから」
 金山は笑って、その場から離れた。
 はあ、と長潟はため息をついた。そのため息には、嫌な感情は混じっていなかった。むしろ、いい方だ。
 あれから――世明とキスしてしまってから、長潟は表面上、何でもないように振る舞っているが、それは衝撃的なこととして、彼の心を掴んで放さなかった。まさか、本当にまさかの極みだった。
 自分から想いを告げたくらいだから、付き合えばそういうこともするだろう、と長潟は漠然と考えていた。ところが、向こうから、しかもあんな形で――。
 世明の性格からして、もう二度とないだろう、と思うと、なおさら心が苦しめられた。一度口にして病み付きになってしまうように、内心、穏やかではなかった。といって、当然、彼女に求められるものではない。
 世明の話では、中園ともしたそうだ。成り行き、と言っていたが、どのような形でしたのだろうか。そして、中園は今現在、どう思っているのだろうか。
 長潟は悶々としてしまい、手が止まることがしばしばあった。
「真一、手伝おうか?」
 中園が手を伸ばしてきた。また、いつの間にか手が止まっていた。
「いや、大丈夫。一人でできっから、他の人、手伝ってこいよ」
「いや、っていうか、他はもう終わってて、お前待ちなんだけど」
「あ、そうなのか。悪いな」
 長潟は慌てて作業を再開させた。中園は一度断られたが、再び手を伸ばして、無言で手伝った。
「らしくないな」
 手元に目をやったまま、中園が呟いた。「最近、上の空のことが多いじゃないか。何かあったのか?」
 長潟は中園の表情を盗み見た。その表情と今の問いを合わせて考えて、彼は自分と世明もキスしたことを知らない、という結論を導き出した。
 確かに、先にしたのは中園で、世明はその後、長潟として義理を果たしたが、それを中園に言う必要はない。言おうとしても、恥ずかしくて言えないだろう。
 ということはと、長潟は思った。つまり、結果的に二人とも敗れたわけだが、自分と世明は秘密を共有したことになる。
 しかし、それで優越を感じるのは中園に申し訳ない心持ちがした。といって、打ち明ける必要にも迫られなかった。当面は、この状態で様子見しておこう。
「いいこと? あるとすれば、この文化祭が終わる頃だな」
「何だそれ。優勝の喜びに、前もって浸ってるわけ?」
「まあ、そんな所」
「へえ――実現するといいな」
「ああ」
 長潟は頷いた。

「すごいね。予想以上の客の入りだよ」
 初めは他クラスの生徒や先生が来るだけで、仕事は楽だった。時間帯的にも昼には早く、冷やかし程度に来る者や、数人で分け合って食べる者たちもいた。世明たちは慣れ親しんだ相手でも、練習と位置づけて、丁寧な接客で応じた。
 しかし、一般人への公開が始まると、怒涛の勢いでそんなに広くないカレー屋に人々が押しかけた。飲食、ということもあるが、三年生ということで、期待も抜きん出て大きかった。
「ああ、これはいい出だしだろ」
 永瀬の感嘆に、柿沼は澄まして答えた。二人は裏方にいる。注文に応じてカレーを用意し、その合間に皿を洗い、また、次の蓄えを作っていた。
「よかったね、柿沼君」
 永瀬は、柿沼の横顔をじっと見つめて、言った。
「何が?」
 柿沼はその視線に応えない。
「柿沼君が作ったカレー、こんなに大勢の人が食べてるよ」
「おれが一人で作ったわけじゃない」
 相変わらず、柿沼は澄ましていた。鬱陶しがっているのではなく、少し照れていた。「みんなで作ったもんだ」
「そうだね」
 永瀬は否定しなかった。
「柿沼君」
 そこに金山が通り掛かった。食べ終わった皿やらを運んでいた。
「カレー、評判いいよ。お客さんたち、口を揃えて、おいしい、って言ってたよ」
「それはよかった。――けど、ここにいる全員の手柄だから、みんなに伝えてあげなよ」
「うん、もちろん。でも、まずは柿沼君に、と思って」
「あ、金山、運ぶの手伝おうか?」
 今度は中園が通り掛かった。
「ありがとう」と言って、金山は半分を中園に渡し、そのまま一緒に流しの方へ続いた。作業しながら、二人が言葉を交わしていた。話の内容は聞き取れないが、さっきと重なる嬉しそうな金山の表情から、評判がいいことを教えているのが分かる。
「柿沼君、謙虚だね」
 柿沼は、それをお世辞と受け取った。「別に、事実じゃん」
「でも、私だったら、そこまで周りを立てようとできないと思う」
「おれは一人で功績というか、名誉というのを受けるのが怖いだけ。ただ単に、小心者ってわけ」
 永瀬はこれに対して、何の相槌も打たなかった。澄ましすぎて、気を悪くさせたかと思って、永瀬の顔を見ると、案外にも微笑んでいた。
「そういえば」
 永瀬は笑みを解くと、周囲を見回した。「長潟君がいないね。シフト的に、いる時間帯なのに」
 柿沼はそこで初めて笑った。「どうせ、またサボってんだろ。――終わってから、川島に怒ってもらわないと」
「そうね」
 永瀬も合わせて笑った。

「承りました。すぐお持ちします」
 手に持ってる紙に書き付けながら、竹花はそう言って去ろうとした。
「梨沙子、お辞儀」
 世明が後ろから囁いた。客の動静だけでなく、彼女らにも気を配っていた。
 竹花は慌てて、深々と礼をした。
「ごめん、注文を聞くのに必死で」
「分かってる。次、次」世明は陽気だった。
「はーい。次はちゃんとやります」
 二人でカウンターの奥に入った。ちょうど、井上がカレーを運びに行こうとする所だった。
「月子、笑顔でね」
 世明は、そう声をかけた。井上は笑顔で頷いた。
 井上は客の元まで足早に歩いていって、席に達すると、笑顔でカレーをテーブルの上に置いた。
「お待たせしました」
 声もしっかり出し、お辞儀もきちんとした。
 カウンターに戻るとき、向こうから世明と竹花がこっちを覗いていることに気づいた。心配して、見守っていたようだ。井上は親指を立てて、上手くいったことを示した。二人も親指を立てて、それに応えた。

 長潟は家庭科室に駆け込んだ。入ってすぐに金山を捕まえた。
「金山、おれって、今の時間入ってたか?」
「ああ、そうだよ。みんな探してたよ」
「やっぱりか……。悪い、勘違いしてた」
 長潟は片手で頭を抑えた。
「これは、『世明行き』かな」
 金山は半ば嬉しそうに笑った。
「それはマジ勘弁。今から働くから」
 そこに中園も来た。
「いいんじゃない、それで。でも、ちゃんと働かないと、『世明行き』とやらにするよ」
 その口調はどこか楽しんでいるふしがあった。
「おし、任せとけ。まずは皿洗いからだな」
 長潟は腕まくりして、中へずいずいと入っていった。その姿を見て、中園と金山は顔を見合わせて笑った。
 すると、タイミングよく世明が現れた。
「様子見に来たよ。二人とも交代じゃない?」
 世明を見ると、二人はまた笑った。「噂をすれば」「タイミングいいね」
「何? どうしたの?」
 世明は不思議がった。
「長潟君が時間を勘違いして、すっぽかしてたんだよ」
「川島から何か言ってやってよ」
 世明は頷いた。「分かった。叱っとく」
「せっちゃん、遊びに行こう」
 中から永瀬が出てきた。後ろから柿沼も出てきた。
「いいよ。行こう」
 金山と永瀬は仲良く出かけていった。
「川島、おれも少し抜けさせてもらうよ」と言ったのは柿沼。
「うん。私が入るから、いいよ」
「たのんます。……じゃあ想大、どっか行ってみるか?」
 中園は快諾した。「そうだね、行こうか」二人も続けて出かけていった。

 桜子は一人であちこちを回っていた。一階から五階まで、何らかの催しで埋め尽くされた学校は華やかで、新鮮だった。来場者が多いことにも驚かされた。さらに、催しものの完成度の高さに感心した。中学生が設けたと思えないほど、意匠を凝らしていた。
 人ごみの中を歩き回りすぎて、桜子は眩暈を覚えた。どこかでゆっくり休もうと思って、自分のクラスを思いついた。イスに座って、温かいカレーを食べよう。
 四階の家庭科室に足を踏み入れた。お昼どきを過ぎたこともあり、席はすいていた。
「いらっしゃいませ――あ、先生」
 案内に立ったのは、沼津だった。
「あら、沼津さん。おつかれさま」
「私は代わったばかりですけどね。――先生、お一人様ですか?」
「はい、一人です」桜子は人差し指を立てた。
「こちらにどうぞ」
 沼津の先導で、窓際の席に着いた。二人用の小さなテーブルで、日差しがその上を照らしていた。見渡すと全くの一人用の席はなく、また一人で食べに来ている人は、桜子以外にいなかった。
「辛口と甘口がありますが、どちらになさいますか?」
 桜子は沼津がきちんと敬語を使っていることに気が付いた。世明の教育だろうと思った。
「では、辛口で」
「サラダもお付けいたしますか?」
 桜子は少し考えてから、「はい、お願いします」と答えた。
「お飲み物はいかがですか?」
「あ、水でいいです」
「承りました。すぐお持ちします」
 お辞儀もしっかりとできていた。以前も思ったが、放任していても、何とかしてくれるものだ。
 桜子は、これは彼女らにとって、とても貴重な経験になるのではないかと思った。
 また、優勝も現実味を帯びてきたのではないかと考えた。

 世明は長潟の横に立った。
「ちゃんと働いてる?」
「ああ」
 長潟は世明の登場に少し戸惑った。
「何か、サボってたとかいう噂を耳にしたけど」
「いやいや、時間を勘違いしてただけ。――全く、誰だよ、その噴飯もんは」
 世明はちょっと違和感を覚えた。噴飯、という響きが聞き慣れなかった。だが、意味は知っていた。
「まあ、今から挽回してくれればいいから。頑張ってね」
 長潟は軽く頷いただけだった。
 世明は背中を向けて、他の様子を窺いに行こうとした。が、足を止めて、再び長潟の方を向いた。
「長潟」
 世明の呼びかけに、長潟はゆっくりと振り向いた。流れっぱなしの水の音が二人の呼吸の音を遮る。水は皿の上に落ちて、はねて、不規則な音を生んだ。
「もしかして」
 長潟は唾を飲み込む。ごくり、と。その音もむろん、聞こえない。咽の動きにも、世明は気付いていない風だ。
 絶えず、水は流れ続ける。間が、とてつもなく長く思えたが、後から思えば、ほんのわずかの間であった。
「気にしてた?」
「何を?」
 長潟は、そう言いながら、体育館倉庫の中でのことを思い出した。重なった唇。互いの心臓のリズム。去り際の笑顔。美化することなく、風化することなく、ありのままの過去として思い浮かべられた。下手したら、一生、忘れないのではないかと疑ってしまうような、嘘くささのない記憶。
 長潟は世明の唇の動きに注意した。次に、何を言おうとしているのか。どんな言葉を紡ぎ出そうとしているのか。
「ほら、前言ったじゃない」
 唇が、そう告げた。「ボキャブラリーが少ないね、って。あれ、気にしてた?」

 桜子は外の景色を眺めながら、じっくりとカレーを味わった。本当においしかった。サラダもおいしかった。
 四階からの眺めもよかった。いつもは、教室にしても図書室にしても、二階からの眺めで、木々がじゃまになって外は見えづらかった。見えても、空が魅力的なだけだった。だが、四階は整然とした街並みがそれなりに見渡せる。これならプールのある屋上は、もっといい眺めなのではないか。まだ一度も行ったことがないため、暇なときに足を運んでみようと考えた。
 食べ終わって、席を立った。即座に沼津が皿を下げにきた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます。――先生、そろそろ終わりだよね?」
 接客モードを解いて、いつもの沼津の顔に戻った。桜子もいつもの調子に合わせた。
「ええ、そうですね。早いもんですね」
「はい、あっという間。何か、寂しいなあ」
 楽しい時間にも、終わりは来る。そして、楽しかった分だけ、その後の寂しさも大きい。桜子も学生時代、何度も経験してきた繰り返し。
「最後まで気を抜かないで、頑張って下さい」
「はい。頑張ります」
 桜子は家庭科室を後にした。
 特に、他に行きたい所もなかったから、屋上に行こうとした。屋上は何の催し物もないから、人はいないはずだ。
 階段で五階に上がって、そのまま屋上へと続く階段を進もうとした。ところが、ビニールテープで封鎖されていた。貼られた大きな紙には、「立ち入り禁止」の文字。
 そうだ、入れなくなっているのだった。事前に伝えられていたのに、すっかり忘れていた。だが、と思い直した。こういうものは、関係者は許されるのではないだろうか。
 そうは思ってみたが、確証はないので、元来の真面目な性格も手伝って、入ることは断念した。
 また、次の機会に。

 遊び終わった永瀬や金山、柿沼、中園らが家庭科室に戻ってきた。文化祭終了の放送が入り、彼らは片付けを始めた。接客班はほうきで掃除。調理班は大量の皿を洗う。出しっ放しの食材をしまう作業もなされた。
 いつもなら面倒くさがる行動も、文化祭ということで、まだ終わって欲しくないという願望が、面倒な側面を失わせる。終わるのは寂しいものだ。興奮の火を急に消化させることは、難しいものだ。
 世明は最後に調理側にいたため、皿洗いに従事していた。隣の長潟と連係で進めていた。
 長潟にとって、時間を勘違いしたおかげで、期せずして世明と長らく隣り合うことになった。全く、期せずして。
 しかし、中園にはそう思えなかった。中園は振られたわけだが、その理由を詳しく聞かされなかった。また、彼も聞こうとしなかった。
 だから、推測するしかなかった。本気でしたわけじゃないが、何となく頭の片隅で無意識に想像していた。しかし、それはどれもこれも陳腐なもので、自分の恋愛経験不足を改めて思い知らされるものに過ぎなかった。
 だが、世明と長潟が並んでいる姿を目にしたとき、思い浮かんだのはリアルな想像だった。中園が振られたのは、世明に想いを寄せる人がいるからではないか。そして、それは長潟ではないのか――と。
(そういうことだったのか)
 そう考えると、ますますそうとしか思えなくなる。二人が恋仲だとしても、不思議じゃない。
 中園はしばらく突っ立ったまま、二人の後ろ姿を見つめていた。
 前にも考えたことだった。ゆくゆく、世明と長潟が結ばれるような気がした。だから、その前にと、行動を起こした、というのも理由としてある。
 だったら、諦めるしかない。二人の前途を祝福してあげなくてはいけない。素直な気持ちで受け入れるべきだ。そして、別段、何の苦もなくできそうだ。
 中園は賢い。賢いが故に、周りがよく見えて、自分を客観的に見ることに長けている。だから、諦めることには慣れている。手放すことに躊躇いを感じない。できることは分かっている。手に入れられるものは把握している。
 そんな自分がつまらないなあ、というか、活力不足の人間だなあ、と捉えることもある。でも、猪突猛進の挙句、窮地に立たされるのはもっと嫌だ。

 閉会式が体育館で執り行われた。桜子は先生側に立っていた。結果は、まだ分からない。ほとんどの先生が発表待ちである。知っているのは、文化祭の委員と、その顧問の先生方だけ。
 世明たちはひそひそと囁き合っていた。果たして優勝はどのクラスのものになるのか、興奮で目は見開き、体が小刻みに震えた。世明でさえも心臓の高鳴りを感じていた。本気で取り組んできたからこそ、結果はこの瞬間、何よりも気になることだった。
 体育館は、秋になったとはいえ、蒸し暑かった。風通しはそこまで悪くないが、いかんせん、入っている人数が多すぎる。室内の温度は、興奮の熱気と相まって、自然と上昇した。
 桜子は腕組みしている手に力が入っていることに気付いた。気付いて、苦笑した。自分もまだまだ幼いな、と。でも、それは、生徒たちと思いを同じにしているという証拠ではないかしら。そうだ。桜子は、他のどの先生よりも、世明たちがこの文化祭に懸けているか知っている。
 文化祭委員会の委員が、マイクを持って全校生徒の正面に立った。
「静かにして下さい」
 体育館内は、すぐに静まり返る。
「これから閉会式を始めます」
 委員長の挨拶、校長の話と続いた後、結果発表となった。いよいよだ。桜子はごくりと咽を鳴らす。
 世明は周りの人たちを真似て、目を閉じて、額の前で両手を握る。神に祈るように。貪欲でありながら、健気に結果を待つようだ。
「まずは、ユニークな催しを評価する特別賞を発表します」
 特別賞と言うが、実質、最高賞に準ずるもので、投票数が次点のクラスが表彰される。だったら、もう準優勝とかでいいではないか、と桜子は思ったが、昔からそうだから、と一蹴された。どうやら、誰もちゃんとしたことは把握していないらしい。
「特別賞は、二年――」
 該当するクラスの生徒たちが、大きな声で喜びを露わにした。拳を突き上げて、ハイタッチして、笑顔で頷き合って。世明はその光景をぼんやりと眺めた。――次に喜ぶのは、私たちだ。
「最高賞は」
 委員会の人が、間を置いた。さらっと発表しては興ざめだが、このときは早くして欲しかった。焦らすな、ためるな。
「三年――」
 世明たちのクラスだった。世明の周りで歓声が上がる。
「え……」
 世明は喜ぶと決めていたのに、現実のものとなると信じられなかった。実感がなかった。
「世明、優勝だよ!」
 竹花にそう言われて、ようやく雲のように漂っていた実感を捕らえ、己が掌中のものとした。世明も一緒になって喜んだ。子どもみたいに、無邪気に、じゃれ合った。
 桜子は感涙にむせびそうだった。自分のことのように嬉しかった。いや、自分のこととしていいのかもしれない。だって、桜子の受け持ったクラスだから。
「代表者、前に来て下さい」
 表彰状と小さなトロフィーを受け取るため、世明と中園が立ち上がった。中園の表情が冴えない気がしたが、光の当たり具合のせいだとも思えた。
 校長先生の手から、まず表彰状が世明に渡された。拍手が起こる。続いて、中園にトロフィーが。中園は黙って受け取り、頭を深く下げた。また、さっきよりも大きな拍手が鳴る。
 世明はクラスの仲間たちに向けて、表彰状を高く掲げた。中園も真似て、トロフィーを高く示した。

 長潟が先頭に立って、図書室に入った。続くのは、世明と中園。学校内は、興奮がいまだ冷めやらぬ。あちこちから声が聞こえる。喜びと悔しさとそれ以外が色々と混ざって、悪くない。むしろ、いい。
 だが、三人にはそれは関係ないようだった。
 閉会式が終わってから、長潟は世明と中園を図書室に誘った。彼も、きちんと決着をつけようと思っていた。まだ、決着は付いていないと思っていた。
 席には座らず、入口近くで立った。正三角形を作って、数学用語で言うところの内心で視線が何度か交錯した。世明と中園は困惑の色を浮かべていた。
 特に、中園は。
「なあ、真一、話って何だよ? 何で川島も一緒なわけ?」
 長潟は表情を変えずに中園を真っ直ぐに見た。
「決着だ」
「決着?」
 中園の困惑は解けない。世明はそれだけで分かってしまった。
「不公平になったらいけないから、公平にしよう」
「何のことだよ?……もしかして」
 中園は少し分かりかけてきた。
「お前、川島に告白しただろ」
 中園は目を剥いた。「何でお前が……」
「待て、落ち着け。勘違いすんな。――その後、おれもしたんだ。川島に」
「え……」
 中園は世明に目をやった。世明は俯いて黙っていた。長潟のなすがままに任せていた。
「さらに、お前、その――しただろ」
 長潟は言いにくそうに口をもごもごさせた。中園は少し考えてから、その意味を理解し、ゆっくりと首を縦に動かした。何で知ってんだ、とは思ったが、説明があるだろうと思い、黙っていた。
「それで、おれもしたんだ。実は」
 長潟は言葉を続けた。「川島が、両方とも振っといて、片方だけしたんじゃ不公平だからって言ってな。――でも、それじゃあ、想大はおれと川島の間にあったことを知らないままになる。だから、不公平はまだ解消されていない。想大に事実を伝えないと、公平にならない。――というのが、おれの話」
 中園は言葉を聞き終わると、世明の方を向いた。世明は頷いて、その言葉が事実であることを認めた。
 世明も伝えるべきかどうか迷っていた。
「なるほど、お互いに究極の公平を求めたわけか」
 と言うと、中園は急に笑い出した。いつになく、高い声で。
「真一、ありがとう」
 と、笑いの狭間でそう告げた。
 長潟もそれを受けて、笑い始めた。笑いながら、中園の肩を叩いた。応じて中園も叩き返した。二人は、ばかみたいに叩き合った。
 世明は涙目になって、笑った。どうして涙がこぼれそうなのか、不思議でならなかった。でも、何ででもいいや、と振り払った。涙目になるくらい、笑えた。
「教室、行こう」
 世明の呼び掛けで、笑い声は収まった。でも、笑顔は消えない。

 ホームルームで桜子の話が終わった後、桜子は世明と中園に言いたいことはあるか、と問い掛けた。
 世明は、「じゃあ、一言だけ」と言って立ち上がった。
「みんな、ありがとう」
 教室内に拍手の音が響いた。「ありがとう」の声も響いた。たくさんの「ありがとう」が、色んな人に向けられた。世明に、中園に、柿沼に、桜子に、他の全員に向かって。

*          *

 桜子は早歩きで図書室を目指した。廊下に靴音を響かせながら。窓の外からする雨の音、そこここから聞こえる活動している音、たまに轟く雷の音。それらが相まって、オーケストラの様相を呈している。
 季節は秋を過ぎ、冬に突入した。凍えるような寒さの日々が続き、防寒具を身につける生徒たちの姿が目立つようになった。乾燥も進んでいて、あかぎれに悩む人もいるようだ。また、しばらくしたら、花粉症に苦しむ人も出てくるだろう。桜子自身、毎年のように花粉症とお付き合いを余儀なくされている。中々、縁が切れないものだ、と、嘆いている。
 ドアを勢いよく開けた。
「川島さん」
 世明はやはり、机に向かって受験勉強をしていた。もう、追い込みの時期に入っている。
 桜子に気付くと、大きな目を向けて、小さく微笑んだ。何も言わず、桜子を見つめている。
「面談、やりますよ」 
 桜子はそう告げた。
 世明は苦笑を浮かべた。「だろうと思いました。いつもと調子が違うから」
「分かりましたか。さすが川島さんですね」
 世明は苦笑を続けた。だが、どこか楽しそうに。
「まあ、進路は今さら確かめるつもりはないですし、そうなると、聞くことはなくなってしまうので――」
「それ、面談やる必要あります? とりあえず、真面目に話そうというだけじゃないですか」
「ええ」桜子は否定しなかった。にこやかに受ける。「なので、一つだけ伺いことがあります」
「伺いたいこと?」
 世明は笑いを噛み殺した。生徒に対して丁寧すぎる彼女の口調は、うっかりすると笑いを漏らしてしまう。でも、噛み殺したのは、桜子の表情がこの上ないくらい真剣そのものだったからだ。
「はい」
 桜子は頷いた。「一学期に話しましたが、幸せについてです」
「幸せ?」
 世明は疑問符で聞き返したが、その話をしたときを覚えていた。
「川島さん、あなた自身の幸せを見つけられましたか? 四月から、今日までにかけて」
 世明は考えに沈んでみた。幸せと呼べる一年弱だっただろうか。そもそも、幸せって何? 定義がよく分からない。誰もが自分を幸、不幸に判別することはできるだろうが、それが正しいのか確かめることは不可能だ。
 とりあえず、幸せっぽいものを、この一年弱にあったことを思い返してみた。体育祭があった。クラス全員リレー、大逆転で勝つことができた。文化祭があった。優勝できた。クラスで協力して、喜びを分かち合えた。学級委員になって、クラスをそれなりにまとめられた。中園と長潟に、好きだ、って言ってもらえた。――これは世間一般に言う幸せの一例ではないだろうか。そうかもしれない。他人からしたら、恵まれていると思われるかもしれない。でも、世明はそれを幸せだと断定することはできなかった。それが、幸せの対極にあるわけでは決してない。むしろ、すぐ近くにある。
 だけど、幸せはきっと、それだけじゃない。それも一つだ。
 色んな人と心を通わした。笑顔を交し合った友達。みんな、世明を頼りにしていた。そして、その期待に応えることは苦ではなかった。楽しいくらいだった。そして――桜子。
「先生、私はまだ――幸せとやらがよく分からないのです」
 桜子は頷いて、先を促した。
「でも、この一年弱は、先生と出会ってからは、幸せと呼んでも差し支えないかもしれません」
 桜子は嬉しさで、目を細めた。世明は照れくさがりもせず、こう続けた。
「先生に出会えてよかったです」
 外の雨の音は、小さいが、絶え間なく聞こえる。葉っぱの衣を脱いだ木々は、不気味に揺れる。冬の寂しさと愛おしさを、誰のためにでもなく表現している。
 こんな素敵な瞬間に、気持ちのいいくらい晴れ渡っていれば、と桜子は思った。その方が、似合っていた。梅雨の時期ほど嫌な雨ではないが、間が悪いと叱りたくなる。
 桜子は手の甲の上に一滴、水が落ちていることに気が付いた。なるほど、感動しているのかと、自分のことなのに他人事のように捉えた。泣くほどのことではない、と苦笑したかった。でも一方で、この場面で泣かずして、いつ泣くのかと思った。
「私も、川島さんに出会えてよかったです」
 きっと、雨模様の空もすっかり晴れ渡っているだろう。夜明け頃には。

 電灯だけが頼りなく照らす道を、桜子は一人、歩いた。日によるが、学校から帰宅するときはいつも暗くなっている。冬になってからは、明るい時間帯に帰れたことがない。生徒たちより早く来て、生徒たちより遅く帰る。先生の宿命だ。でも、嫌だとか、つらいと思ったことはない。なりたくてなったのだから。
 線路沿いの通りに出た。左側には線路、右側には高級そうな料亭がある。料亭の先には、いかがわしそうな店が一軒あり、通学路として利用する生徒もいるのに、いいのだろうかといつも思う。
 通りを抜けると、駅前のにぎやかな広場に出た。大勢の人がひっきりなしに通る。桜子もその内の一部と化す。自転車が一台、桜子の横を通り過ぎた。
 これからも、ずっと通うことになるだろう帰り道。見慣れたとか、飽きたとかは思わない。その代わり、いい感情を抱いているわけではない。ただ、何となくの認識で受け入れているにすぎない。
 駅に入って、改札を抜け、階段を下る。プラットホームに立って、電車を待つ。以前、目の不自由な人の転落事故をきっかけに、プラットホームの危険性を声高に叫ぶ世論の動きに押され、ゲートが取り付けられた。桜子自身、以前のプラットホームはフェンスのない高層ビルの屋上に立つようなものだと思っていたので、ゲートが取り付けられたのは、よかったと思っている。
 電車が来て、降りる人を待ってから、乗り込んだ。ドアの近くの手すりを掴んで、立った。大概、この位置だ。イスには座らない。電車の中で、特別、何かをすることはない。本も音楽もゲームもない。ただ、立って、外の風景を見るともなしに見ている。ぼんやりと、考え事を添えて。
 今、思い出しているのは、文化祭の日のことだ。
 閉会式の後、図書室に向かう世明、長潟、中園の姿を見つけて、こっそり付いていった。ドアの近くで話す彼らの会話を、耳を澄まして聞いていた。
 そして、心を打たれた。こんな、理想的な決着方法があるだろうか。三人ともに全てを打ち明け合って、それぞれが納得できる形で終止符を打つとは。
 桜子は、自分も全てを、本当の気持ちをさらけ出していれば、あの頃、あの人と分かり合えたかもしれない、という考えを導き出した。実際、充分に可能だったろう。
 でも、もう遅い。過ぎ去った、過去の話だ。
 電車に揺られながら、桜子は通り過ぎていく町の灯りを見た。時間は、電車よりも早く、儚く過ぎていく。そして、途中の駅はない。終着駅まで、一定速度で進む。
 世明や長潟たちは、まだ若い。彼らは、これからも約束されていると疑わない明日を生きていく。
 どうして自分が学校の先生になったのか、世明に聞かれたことがきっかけで、きちんと考えてみたことがある。でも、どの方向から攻めても、「子どもが好きだから」という結論に落ち着いた。
 一方で、子どもが好きじゃない人が先生になれるのだろうか、と考えた。桜子は、不可能だと思っている。なっても、いい先生には絶対になれない。
 大学時代の友達で、子どもを毛嫌いする人がいた。はしゃいでいる子どもを見かけると、憎しみのこもった眼差しを向ける。小さく、「うるさい」と呟く。
 でも、彼女は、自分の子どもなら愛せると言った。愛する男との間で、しかもお腹を痛めて産むのだから、きっと愛せると言った。
 桜子は、それも不可能ではないかと思った。断定はできない。産みの苦しみを知らないし。ただ、その根拠は、あやふやだとは言える。
 世明たちは、未来に向かって生きていく。子ども嫌いが、自分の子どもなら愛せる、という根拠と同じくらい確証がなくて、曖昧な未来へと向かって、生きていく。

夜明け頃には

夜明け頃には

子ども嫌いが、自分の子どもなら愛せる、という根拠と同じくらい確証がなくて、曖昧な未来へと向かって、生きていく。――これは、夜を明るくしてほしい、名前にそんな思いが込められている一人の少女、川島世明と、新米教師の物語。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-12

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